一人の火星人と
三人の共産主義者の
出任せ話でございます
三人の共産主義者の
出任せ話でございます
火星人は御影石の小さな断崖の上に座っていた。そよ風を楽しめるように小ぶりな樅の木の形態を取っている。尖った常緑樹の葉の間を風が気持ちよく吹いていった。
崖下に一人のアメリカ人が立っていた。火星人が目にした初めてのアメリカ人である。
アメリカ人はポケットから魅惑的なまでに巧妙な装置を取り出した。金属製の小箱で、ノズルが持ち上がると即座に炎を発した。彼は苦もなくこの神秘の装置から、至福を齎す薬草の詰まった円筒に火を移した。火星人はこれがアメリカ人たちがシガレットと呼ぶものであることを理解した。アメリカ人がシガレットに火をつけ終わった時、彼は形態を変えた。今度は身長五メートルの紅顔白髯の中国人扇動家の姿である。彼はアメリカ人に向かって英語で叫んだ。「ハロー、フレンド!」
見上げたアメリカ人の顎は今にも外れそうになった。
火星人は崖を降り、静かにアメリカ人に近寄って行った。あまり怖がらせないようにゆっくりと。
それにもかかわらず、アメリカ人は随分気に病んだようだ。というものこんな事を言ったから「お前は現実ではないな? そんなことあるもんか。それともひょっとして?」
火星人はそっとアメリカ人の心の中を覗いて、身長五メートルの中国人扇動家像はアメリカ人の日常心理において安心を齎すものではないと理解した。彼はアメリカ人の心の中で安心感のあるイメージを探した。まずそのアメリカ人の母親のイメージが見つかったので、すぐさまその姿に変態してこう答えた「現実とは何、ダーリン?」
するとアメリカ人は僅かに青ざめて片手で両目を覆った。火星人は再度アメリカ人の心に入り込み、いささか混乱したイメージを探り当てた。
アメリカ人が目を開くと、今度は火星人が若い赤十字の看護婦の姿を取って、ストリップショーを繰り広げている最中だった。歓心を誘うための手順だったにも拘らず、アメリカ人は安心しなかった。恐怖が怒りに転じ、彼は言った「お前は一体何者だ?」
火星人の親切心もここまでだった。オックスフォードあがりの中国国民党軍大将軍の姿となり、イギリス訛り丸出しでこう言った。「私はこの地に棲む若干超自然的な『モノ』として知られておる。気にしないでくれたら嬉しい。西洋科学は実に素晴らしい。よって私は貴方の手の中にある魅力的な機械を調べなければならない。少し話をする時間をいただけないだろうか。」
アメリカ人の心に混乱したイメージの断片が浮かぶのが見て取れた。何やら「禁酒法」とかいうものや、別の「
その間、火星人はライターを検めた。
アメリカ人の手に戻しても、彼は硬直したままだった。
「実によくできた魔法だ」と火星人。「このあたりの岩山ではこの種のことができぬ。私は幾分下級の悪魔でね。貴方は著名なる合衆国陸軍の大尉殿とお見受けする。自己紹介を許されたい。私は羅漢の第一三八七二二九代東方従位輪廻である。雑談する時間はおありかな?」
アメリカ人の目には国民党軍の制服が映っていた。振り返ると、中国人の荷役人夫も通訳も谷間の草地の上で束ねた雑巾のようにひっくり返っているではないか。すっかり気絶していたのだ。ようやくの事で気を取り直したアメリカ人は言った「ラカンだって?」
「羅漢は阿羅漢の一なり」と火星人。
どちらの情報もアメリカ人には受け取ってもらえず、火星人は、どうやらアメリカ軍人と知己を得るに好適な環境をもはや失してしまったと結論した。がっかりした火星人はアメリカ人の心から自分の記憶を消し、気絶した中国人たちの心にも同様の処置を施した。彼は自分の体を崖の上に植え直し、再び樅の木の形態となって、全員の目を覚ました。中国人通訳がアメリカ人に身振り手振りで示しているのを見て、通訳が「この丘には悪魔がいるんです……」と説明しているのがわかった。
アメリカ人がこの話を迷信深い中国人の戯言として腹の底から笑い飛ばすのを見て、火星人はむしろ喜んだ。
彼が見つめる中、一隊は神秘の美を湛える小さな八口河湖の向こうに立ち去っていった。
これは一九四五年のことだった。
火星人はライターを物質化しようと何時間も頭を捻ったが、出来上がったものは何をどうやっても数時間以内に原始的悪臭に戻ってしまった。
時は移って一九五五年。火星人は一人のソ連軍人がやってくると耳にした。神秘的なまでに先端的な西洋世界から来たもう一人の人物と知り合いになるのを心待ちにしていた。
****
ペーター・ファラーはヴォルガ・ドイツ人だった。
ヴォルガ・ドイツ人がロシア人である事情は、ペンシルヴァニアのオランダ人がアメリカ人であるのと似ている。
彼らは二百年以上昔からロシアに住んでいたが、ほとんどのコミュニティは恐るべき第二次世界大戦の艱難辛苦の末ずたずたになってしまったのだ。
ファラー自身は情勢をうまく凌いできた。徴兵されて赤軍の上等兵(*1)になり、数年後に少尉になった。職業学校では地理と測量を学んだ。
中華人民共和国雲南省方面のソ連軍司令部長官は彼に言った「ファラー、この出張はまさに休暇だぞ。行程に危険は一切ないが、
ファラーは生真面目に頷いた。「同志閣下、自分はあらゆるものと親交を結ばねばならないのでありますか?」
「あらゆるものとだ」長官は念を押した。
若いファラーには十字軍流の熱意が少しだけあった。「大佐殿、自分は無神論の軍人であります。坊主どもと楽しくやれと仰るのですか?」
「僧侶たちとも」と長官。「特に重要だ。」
長官はファラーに鋭い目を向けた。「君はあらゆるものと仲良くするのだ。女性を除くあらゆるものと。わかったな、同志? いざこざを起こさぬように。」
ファラーは敬礼すると自分の机に戻り、旅支度を始めた。
**
三週間後ファラーは渓流を登っていた。小さな滝をいくつも後にした。この先には
隣を党秘書の
李は背中に呼びかけた「労働英雄になりたいならそのまま登ればいいが、健全なる輜重作戦に従うならここで一息入れてお茶にすべきだよ。どのみち日暮れまでに
何を馬鹿なと公孫は振り返った。岩がちな山の斜面を埃の蛇のようにうねりながら、兵隊と荷役人夫のリボンは二百メートル後方まで迫っていた。ここからだと山道を登る兵士たちの帽子が見え、彼らが縦に構えるライフルの銃口がこちらを向いていた。解放農奴たちのタオルで巻いた頭が見え、言葉を交わすまでもなく彼らが呪いの言葉を吐いているのがわかった。それはかつて資本主義圧政者に向けたのと同じ激しい呪いだった。彼らのはるか下には金沙河の川筋が、夕暮れに佇む谷の灰緑色を縫って金糸のようにうねっていた。
彼は陸軍大尉を叱り飛ばして、「貴方の流儀に従っていたら、我々はいまだに宿舎で熱いお茶を飲んでいただろう。おまけに他の男たちは寝たままだ。」
大尉は反論しなかった。若かりし頃より数多くの党の役人たちを見てきた。新中国では大尉でいる方がずっと安全だった。大尉が知る党役人の中で重役になれたのは数人だった。内の一人は北京に行き、ビューイックをまるまる一台とパーカー51万年筆を三本我が物とさえした。共産党官僚機構の精神にとって、これは純然たる祝福と云って良いものだ。李大尉はどちらも欲しくなかった。大尉にとっては、一日二回の十分な食事と次々に現れる農村の愛国少女たち、できればぽっちゃりしたのがいい、これこそが解放中国のすべてを表している。
ファラーの中国語は酷かったが、論争の要点はわかった。下手だが通じはする北京話で半ば笑いかけた「行こう、同志諸君。夜までに湖に着くことはできないが、だからといってこの崖でビバークするのもちょっと無理だ。」彼は歯の間から
かくして、他ならぬこのファラーが最初に絶壁を登りきり火星人と顔を突き合わせることになったのだ。
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今回、火星人は準備万端整えていた。失敗に終わった例のアメリカ人との経験を覚えていたし、客人を驚かせ、出会いのもつ社交的性格を損ないたくなかった。ファラーが崖を登攀する間に、火星人は彼の心を登攀していた。オークの巨木の内側を戯れるリスのように喜々としてファラーの記憶を巡って駆け回った。ファラーの心から喜ばしい記憶の数々を引き出した火星人は、崖上に駆け戻るとたいそう物質的に見える幻影を作り上げた。
崖の縁を半分過ぎたところでファラーは自分が今なにを目にしているか理解した。ソ連の軍用トラックが二両、僅かな空き地に並んでいる。それぞれの前にテーブルが設えてある。一つは恐ろしく豪華なザクースカ(*3)(ソ連版バイキング)だった。火星人はファラーがそれらを食べる間、物質化を維持しておきたいと望んでいた。だが残念ながらファラーが飲み込むたびに、それらは消滅してしまうだろう。火星人は人類の消化過程にそれほど強いわけではなく、即席かつ怪しげな化学的模倣物を食道および胃に投じることで激しい胃痛を起こして欲しくはなかった。
一輌目のトラックには大きな赤旗が立ててあり、その上に白文字のロシア語で書いてあった「ようこそ、ブリャンスクの英雄たちの許へ。」(*4)
二輌目のトラックはもっと良かった。ファラーがたいそう女性を好むことを見て取った火星人は四人の頗る付きのソヴィエト美少女を物質化させていた。ブロンド、ブルネット、赤毛、ついでに専ら興趣を添えるべくアルビノも。四体に男を上手にそそるような女っぽいロシア語を話させる自信がなかったので、火星人はそれらを物質化させる際ラウンジチェアーを用意して、全員その上に眠らせることにした。歓迎にあたって自分自身がどんな形態を取ればいいか考えた末、毛沢東が至当であろうと決断した。
ファラーは崖を登りきらなかった。今いるところにとどまった。彼は火星人を見、火星人はやけに脂っこい声で話しかけてきた。「登って来てください、我々は貴官を待っておりました。」
「あんたは何者だ?」ファラーが吠えた。
「自分は親ソ派悪魔であり、」と毛沢東の姿をしたものが答えた「これらは共産主義者の歓待の心を物質化したものです。貴官に喜んでもらえると嬉しい。」
ここで公孫と李の二人が現れた。李はファラーの左から、公孫は右から。三人とも呆然として足を止めた。
公孫が最初に気を取り直した。毛沢東の姿を認めたのだ。公孫は共産党の上級幹部と近づきになる機会を決して見逃さなかった。緊張のあまり、か細い声で訝しげに「毛主席、まさかこのような岩山でお姿を拝見するとは夢にも思いませんでした。貴方は貴方なのですか、そうでないとしたら、貴様は誰だ?」
「私は貴殿の党の議長ではありません」と火星人。「この土地に棲む一介の悪魔に過ぎないのですが、しかし共産主義に対する揺るぎない愛着を持っており、貴殿らのような友好的な人民と出会うことを楽しみにしておるのです。」
この時点で李が失神した。そのままなら兵士たちと荷役人夫たちを薙ぎ倒しながら断崖を転げ落ちていったのだろうが、火星人が左腕を伸ばして支えた。長い大蛇の形に変態させながら、意識のない李をつまみ上げ、静かにピクニック・トラックの脇におろした。眠れるソヴィエト美女は眠ったままだ。大蛇は左腕の形に戻った。
公孫は真っ青になった。もとから象牙のような色白の顔をしていたので、とんでもない顔色になってしまった。
「このワン=パは反革命的詐欺師であると考えます。」弱々しく言った。「しかしこの者をどうすべきかは分かり兼ねます。中華人民共和国内にソ連邦の代表者がおられ、難しい党内手続きを進める上で指示を仰げることは我が喜びであります。」
ファラーはピシャリと窘めた。「仮に奴がガチョウだとして、それは中国のガチョウだ。ロシアのガチョウではない。そんな汚い名前で呼ぶものではないな。何か力を持っているようではないか。奴が李にしたことを見ろ。」
火星人は教養のあるところを披露しようと、宥めすかすようにこう言った「もし私がワン=パなら貴官はワン=ペンです(*5)。」彼はロシア語で嬉しげにこう付け加えた「つまりは忘恩ですよ。不義よりずっと悪い。この姿はお好みですか、同志ファラー。シガレット・ライターをお持ちでしょうか? 西洋の科学は実に素晴らしい。私はあまり硬いものを作れないのです。一方人民の皆さんは飛行機を、原子爆弾を、そしてこの種の気晴らしの手段をこれでもかというほど作ります。」
ファラーはポケットの中のライターを手探りした。
背後から叫び声が上がった。徴用された中国人の一人だ。男は後続の隊列の前に立ちふさがったまま、崖の縁の先で何が起きているか覗き込んでいた。トラックと毛沢東の姿を見た瞬間に金切り声を上げた「魔物だ、魔物がいるぞ!」
何世紀にもわたる経験から、火星人は現地民の中で相手になるのはほんの小さな子供か、よぼよぼの老人だけで、それ以外の場合は苦労するだけ無駄だと知っていた。彼は隊の全員に見えるように岩の縁まで進んだ。毛沢東の身長を十二メートルまで伸ばし、そこで古代中国の武神の姿に転じた。口髭、リボン、風に流れる剣の飾り房。狙い通りに全員が気を失って倒れた。崖から転落しないように彼はそれらの隊員をひとまとめにして山側に並べた。ついで彼はソ連版WAC(*6)――ちょっとばかり可愛いブロンドで、軍曹の階級章を帯びている――となり、ファラーの隣で再物質化した。
この時点で、ファラーはライターを取り出し終えていた。
ブロンド美人が話しかけた「こちらの方がいいかしら?」
ファラーは言った「信じるものか。俺は無神論者の軍人だ。生涯をかけて迷信と戦ってきた。」ファラーは二十四歳だった。
「貴官は私が少女の姿を取るのを好かぬようですね。気に触るのでしょうか?」と火星人。
「あんたは存在しないのだから、俺を患わすことはできない。だが、できれば別の姿になってもらえないか?」
火星人はふっくらした小さな仏陀の姿になった。いささか不敬かもしれないと思ったが、ファラーが安堵のため息をついたのがわかった。李さえも元気になったらしい。火星人は今度はまっとうな宗教的形態を取っている。
「聞け、不埒なる魔物よ、」公孫が鼻を鳴らした「ここは中華人民共和国だ。超自然的な姿も、反無神論運動の策謀も全く無意味なのだ。貴様自身もそこにある幻影も失せるがよい。何を望んでいる? ええ?」
「私は」火星人は穏やかにこう言った「中国共産党に入党したいのです。」
ファラーと公孫は顔を見合わせた。二人は同時に口を開いた。ファラーはロシア語で公孫は中国語で。「そいつは無理というものだよ!」
公孫は言った「もし貴様が悪魔なら、貴様は存在しない。もし貴様が存在するなら、貴様は違法だ。」
火星人は微笑んだ。「一休みして、気分を変えましょうよ。女の子はどうです?」ラウンジチェアの上でちんまりと眠たままのロシア美女の方を指差した。
だが公孫とファラーは首を振った。
ため息をひとつついて、火星人は少女たちを非物質化し、入れ替えに三頭の縞のあるシベリア虎を生み出した。虎は接近してきた。
一頭が心地よげに火星人の後ろに座った。火星人はその上に腰をおろし、明るい声でこう言った。「虎に座るのが好きでして。とても快適ですよ。虎をどうぞ。」
ファラーと公孫は口をあんぐり開けたまま、それぞれの虎を凝視した。虎は二人に向けて欠伸をし、背筋を伸ばした。
恐ろしいまでの意志の力を振り絞って、二人の若者は虎の前の地面に座った。ファラーはため息とともに「何が望みだ? どうやら一本取られたようだな……」
****
「葡萄酒を一杯やりませんか。」と火星人
彼は自分を含めた全員の前に、ワインのデカンタと陶製のコップを一つずつ物質化した。自分のコップにワインを注ぐと、細い目を通して鋭い視線を送った。「自分は西洋科学のことを全て学びたいのです。自分は火星から来た学生であり、ここに送られて羅漢の第一三八七二二九代東方従位輪廻としての修行を積んでいます。当地に棲んで二千年以上になりますが、知覚できるのは半径三十
もう公孫の肚は決まっていた。彼は共産主義者ではあっても同時に中国人――中国貴族であって、祖国の民話を詳しく身に着けていた。再び口を開いたとき、その口調はより穏やかで、紫禁城で行われた典雅な言葉遣いになっていた。「は、これは尊き悪鬼さま、共産党に入党なさりたいというあなた様の試みは無益に終わらざるを得ないのでございますよ。中国人民の前衛たる進歩的集団に加入し、我らに悪をなす米国の帝国主義者どもとの終わりなき闘争に身を投ぜんとすることは、中国悪鬼たるあなた様が愛国心を発露した結果であると、小生には甚く了解せらるのです。さりながら党の当局が納得するとは思えませぬ。新中国における我らが新たなる共産主義世界においてあなた様がなすべきことは、反革命の難民として資本主義者の縄張りに向かうこと以外にありませぬ。」
火星人は傷つき、沈んで見えた。ワインを啜りながら眉を顰めて二人を見た。彼の後ろではトラックの車輪に頭をもたれて眠る李が鼾をかき出した。
切り出す火星人の言葉には説得力があった:「なるほど、若い方、貴方は私の存在を認めつつある。なにも自分のことを認識してもらう必要はなく、私の存在をちょっとでも信じてくれればいい。貴方、公孫党秘書官が礼儀を重んじ始めたのを見るのは喜ばしい。私は中国の悪魔ではありません。というのも私は火星出身であり、調和会議小部会会員として選出されたにも拘らず、不適切な演説をなした末、羅漢の第一三八七二二九代東方従位輪廻として三十万の春秋を生きた後でなければ帰還すること叶わなくなった者だからです。長い出家の旅でありましょう。一方、自分は工学を研究したいのでして、となると見知らぬ場所に行くよりも共産党員になる方が遥かに良かろうと考えるのです。」
ファラーの頭に洞察が閃いた。火星人に向かって「考えがある。それを説明する前に、悪いがこれらの糞ったれたトラックをどけて、ザクースカをどこかにやってくれないか? 涎を垂らしそうになるが、しかし、申し訳ない、歓迎を受けるわけにはいかないんだ。」
火星人は腕の一振りでそれに応えた。トラックとテーブルが消えた。トラックに凭れていた李の頭は草の上にボトッと落ちた。眠ったまま何かをブツブツ言ったが、再び鼾をかき出した。火星人は客人に向き直った。
ファラーは思い付きの糸をまとめ上げた。「あんたが存在するか否かという件はおくとして、この点は保証できる。俺はロシア共産党を知っているし、同僚である公孫同志は中国共産党を知っている。共産党はとても素晴らしいものだ。呪われしアメリカ人に対する闘争において大衆を先導している。この革命的闘争を戦わねば、我々全員がコカ・コーラを毎日飲むハメになるのだが、あんたには理解できるか?」
「コカ・コーラとは?」悪魔が訊いた。
「さあ。」とファラー。
「ではどうして飲むのを恐れるので?」
「くだらぬことに拘るな。資本主義者は全員に飲ませると聞いた。共産党は超自然の書記官を開拓するための時間を取れないのだ。魔神的書記を採用すれば非宗教運動に水を差す結果になろう。断言するが、ロシア共産党はそれに耐えられないし、ここにいる我らの友人は中国共産党にもあんたの席がないことを告げるだろう。俺達はあんたに幸せになって欲しいんだよ。あんたはとても友好的な悪魔のようだ。どうしてここを離れない? 資本主義者たちはあんたのことを歓迎するぜ。彼らは極めて反動的かつ宗教的だ。それどころか、あんたの存在を認める者たちだっているかもしれないな。」
火星人はぼっちゃり仏陀から中国青年の姿に変わった。北京革命大学で工学を学ぶ学生のつもりである。学生形態のまま彼は続けた。「自分は存在を信じて欲しくはありません。工学の勉強がしたい、西洋科学の全てを学びたいのです。」
公孫が援護射撃を始めた。「共産主義の工学者になろうとしても無理ですので。小生が見ますところ、貴殿は心ここにあらずな悪魔のようですし、人間として押し通そうとしても度々うっかりしたり、姿が変わったりしてしまうでしょう。すると階級を問わず士気に破滅的な影響がありましょう。」
この若者は良い点をついてきたと火星人は心に思った。三十分以上一つの形態を保つのは嫌だった。痒くなるのだ。性別をころころ転換するのは好きだった。気分が晴れる感じがする。形態変化を云々した公孫に対して、痛い点を突かれたことを認めはしなかったが、代わりに愛想よく頷いて質問した。「どうしたら外国に行けますか?」
「行けばよろしいのですよ」と弱った公孫。「行くだけで。悪魔様にあらせられては、いかなることもできましょう。」
「無理です。」火星人学生は遮った。「何か連れが要ります。」
彼はファラーの方を向いた。「貴官から渡されてもうまく行きません。ロシアのものを受け取るとロシアに着いてしまうでしょう。しかし中国人民と同じく彼らも火星人共産主義者を必要としないだろうとのことでしたよね。この美しい湖を去るのは気が進まないのですが、西洋科学に出会うためならそれも詮方ないことという覚悟はあります。」
ファラーは言った「考えがあるんだ。」と、腕時計を外して火星人に渡した。
火星人はそれを矯めつ眇めつした。その腕時計は何年も前にアメリカ合衆国で製造された。一人の米兵から
火星人はこれを読んでファラーに言った。「このウォーターバリー、カーンというのはどこですか?」
「Conn. はアメリカの州の一つの省略形だ。反動的資本主義者になるなら、うってつけの場所だ。」
顔面蒼白なまま、しかし取り入るような不気味さで公孫は付け加えた。「貴殿はコカ・コーラを好きになりますよ。とても反動的だから。」
学生火星人は眉を顰めた。腕時計を手にしたままこう言った。「反動的であろうがあるまいが気にしません。とにかく極めて科学的な土地にいきたいのです。」
「ウォーターベリー、Conn. 以上に科学的な場所なんて行きたくても行けないぞ――特に Conn. ときたらアメリカ中で最も科学的な所で、間違いなく親火星人的な住民がいて、資本主義政党のどれかに入れる。奴らは気にしないさ。だが各国共産党なら一大事だろうな。」
ファラーは目を上げて微笑みかけた。「それだけじゃない、」これで王手だ「俺の時計をそのまま持っていっていいよ。いつも持ち歩けばいい。」
火星人は眉を顰めた。火星人学生は自分に言い聞かせた「中国の共産主義が崩壊するのを見るなら八年後でも、八百年後でも、八万年後でも大丈夫だ。ウォーターバリー、Conn. に行くのがいいだろう。」
二人の青年共産主義者は互いににやつきながら大きく頷いた。共に火星人に微笑んだ。
「は、これは尊き悪鬼さま、お急ぎくださいませ。と申しますのも小生は暗くならないうちに部下たちを崖下に連れおろしたいものですから。我らが祝福と共に疾く行き給え。」
火星人は変態した。仏陀の従位、仏弟子たる阿羅漢の像である。身長二メートル半、二人の頭上で後光を放っていた。顔はこの世ならぬ落ち着きに輝いて。不思議やな、腕時計には新たなバンドがつき、左腕に固く結ばれていた。
「幸くあれ、我が子達よ」彼は言った「我、ウォーターバリーに向かう也」そしてその通りになった。
****
ファラーは公孫に目を剥いた。「李に何があったんだ?」
公孫は頭をクラクラ振って「わからない。なんだか変な感じがする。」
(驚嘆すべき新天地、ウォーターバリー、Conn. に向けて旅立つとき、火星人は全ての者から自分の記憶を持ち去った。)
公孫は絶壁(*8)の縁に歩み寄った。見下ろすと男たちが寝ていた。
「なんてことだ」彼は呻いた。崖の縁に足をかけて大声を出した。「起きろ、この馬鹿者ども、ドン亀ども。もうすぐ暗くなるって時に崖の上で何を眠りこけているんだ?」
**
火星人は持てる力を振り絞った。ウォーターバリー、Conn. なる地へと。
彼は羅漢(ないしは阿羅漢)の第一三八七二二九代東方従位輪廻であり、その力は部外者から見ると印象的であるものの、やはり限られていたのである。
衝撃、振動、何かの破壊、生成寂滅の感覚、これらと共に彼は自分が平らな国に居るのに気づいた。あたりは奇妙に暗かった。これまで嗅いだことのない匂いを帯びた空気が静かに流れている。はるか遠く彼が別れを告げた世界ではファラーと李が金沙河に高く聳える断崖にしがみついていた。彼は自らの姿を置き去りにしてしまったのを思い出した。
心ここにあらずの態で彼は、旅立ちに際してどんな形態を取ったかを見ようとして自分自身を眺め下ろした。
気がつけば、到着した彼は黄色い象牙で彫られた二十センチメートル弱の仏像の姿で笑っていたのだ。
「これはしまった!」火星人はもにょもにょと独り言を言った。「現地の形態のどれかに変態しなくては……」
遠隔精神感応によって周囲の環境を探っていた彼は、そばに興味深い対象を捉えた。
「あっ、牛乳配達車。」
彼は思った。西洋科学は本当に素晴らしい。純粋に牛乳を運搬するためだけに作られた装置を想像してみよ!
早速彼は牛乳運搬車の姿になった。
闇の中、彼の感応力では運搬車を作っている金属と、塗装の色までは探知することができなかった。
人目を避けるため彼は金無垢の牛乳運搬車に変態した。そして自らのエンジンを始動し、運転手なしにとある主要国道に乗り出した。道の先にあるのはコネチカット州ウォーターバリーだ……だから、諸君がウォーターバリー、Conn. を通りかかることがあって、無人で街を走り回っている金ぴかの牛乳運搬車を見かけたなら、それは火星人なのですよ。別名を羅漢の第一三八七二二九代東方従位輪廻、そして今なお彼は西洋科学は素晴らしいと考えているのです。
完
翻訳について
底本は Project Gutenberg Canada(http://gutenberg.ca/ebooks/smithcordwainer-westernscienceissowonderful/smithcordwainer-westernscienceissowonderful-00-h.html)です。加えてiBook Storeで購入したNew Wave Classic版のCordwainer Smith: "The Instrumentality of Mankind" (1979)を参考にしました。この翻訳は後に述べる中国語関連を除き独自に行ったもので、先行する訳と類似する部分があっても偶然によるものです。原文はヤード・ポンド法で書かれていますが、ことわりなくSI単位系に換算してあります。この訳文は他の拙訳同様 Creative Commons CC-BY 3.0の下で公開します。だまし討ち的に著作権保護期間が延長された現状で、ほとんど自由に使える訳文を投げることには多少の意味があるでしょう。
金沙江虎跳峡付近の風景を Wikimedia commons(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yunnan_Terraces.jpg)でお楽しみください(以下は縮小版)。
注
(*1) Ефрейтор
(*2) ドイツの軍歌
(*3) Закуска
(*4) Брянск、独ソ戦の激戦地
(*5) wang-pa、wang-pen、これが何を意味しているか不明です。早川書房版『三惑星の探求』に含まれる「西洋科学はすばらしい」(伊藤典夫訳)では「忘八」「忘本」と訳されています。
(*6) 陸軍婦人部隊員
(*7) Куйбышев、ヴォルガ東岸の都市
(*8) 底本ではdillですが、New Wave Classic 版ではcliffです。文脈から後者が正しいと判断しました。