ラクダイ
横町という、へんなあだ名の
横町が、
大学の
近くにあった。きっさ
店や、カフェーや、マージャンクラブなどがのきなみにならんでいて、
少年は、その中のオリオン
軒というミルクホールに
働いていた。
少年の名は、いのきちといった。
いのきちは、山で
生まれた。
湖の上を
流れるきりをおっぱいとしてのみ、谷をわたるカッコウの声を、
子もり
歌にきいて、大きくなった。
駅までいくのに、二
時間もあるかねばならなかったし、その
駅から
汽車にのって、
日本海にでるのに三
時間、また、南にむかって、
太平洋を見ようとすれば、たっぷり一日がかりというような山おくであった。ちょうど、いのきちの
生まれた
朝、おじいさんが、うらの谷で大きなイノシシをうちとめたので、その
記念に、いのきちという名をつけられたのだという。そんな山の中でそだったのだから、五年生の春の
遠足で、はじめて
日本海を見たときに、いのきちたちは、どんなにおどろいたことだろう。
「これが、海だよ。」
と、先生がいわれた。
「この海が、ずっと、むこうのロシアにつづいている。」
こういいながら、
波うちぎわに
立って、
遠い、はい色の空を
指さしておられた先生のすがただけを、はっきりおぼえている。先生のうすいオーバーのすそが、風にまくれてうらがえり、先生のぼうしが、とびそうで、とびそうで……。けれども、そのときに、先生がどんな
話をされたのか、ほとんど、おぼえていなかった。そしてただ、
黒い
海面を、あとから、あとから、走ってくる白い
波と、いつやむともわからない
強い風とが、いのきちたちの心をひきさらっていた。
いのきちや、いのきちの友だちは、
波うちぎわに、ごろごろころがっている、大きなにぎりめしほどある石が、
波にあらわれて、すっかり、たまごのようにまるくなっているのにおどろいて、それを一つずつもって
帰った。
「石におどろけ――ということばがあるが……。」
と、山の村へ
帰ってから、先生が
話をされた。
「これは、ロダンという
彫刻家のいったことばなのだ。そのへんにころがっている石の、一つ一つがもっている
形と色、その一つ一つに、おどろきの心を
失ってはいけないということなのだ。――ところが、きみたちは、ほんとうに、
日本海の石におどろいたらしいね。」
先生は、こういって、わらわれた。そして、いのきちは、そのときのまるいたまごのような石を、だいじに、つくえのひきだしにしまっていたが、それを見るたびに、心が
強く海にひかれるのだった。
山の
湖にも、風がさわぐと、大きな
波がたった。けれども、海にくらべると、まるで、おとなと子どものような、ちがいであった。
そして、その子どものような
湖のまわりにも、おさないころのいのきちには、いろいろのおどろきはあったのだが、その中で、いまでもまだよくおぼえているのは、いのきちが五つの年のことであった。
なんでも、しものおりた
朝のことだから、秋のおわりのことであったろう。
そのとき、いのきちは、みよこという
湖のほとりの
旅館の女の子とあそんでいた。かけっこをしていたのか、おにごっこをしていたのか、わすれてしまったが、とにかく、いのきちは走っていたのである。うしろから、みよこが、どんどん
追っかけてくる。いのきちがにげる。そして、とうとう
追いつめられて、みよこの家の
横の、ボートが
岸にあげられてあるところまで走ってきた。そのむこうは、もう
湖水で、ゆきどまり――。いのきちは、はあはあと、
息をはずませながら、そのボートのまわりを、ぐるぐるまわった。みよこも、まわった。が、そのうちに、だんだんくるしくなって、いのきちは、とうとう、ボートのふちにおよぎつくようにつかまって、とまってしまった。
と、そのときである。
「はあーっ。」
と、思わず、いのきちのあらい
息が、ボートのふちにかかったとき、
「あれっ。」
いのきちは、おどろいて声をたてた。
「ほら、みよちゃん、見てみろよ。」
いのきちは、せなかにとびついてきたみよこにも、こういって、そのおどろきをわけてみせた。それは、いのきちが、はあーっと大きく
息をするたびに、ボートのふちの、まっ白くおりたしもが、すうっ、すうっと、きえていくおどろきだったのである。
「おもしろいねえ。」
いのきちが、こういうと、
「へんねえ。」
みよこも、ふしぎでたまらないというような
顔をした。そして、ふたりは、それまで
追っかけたり、にげたりしていたのもわすれて、ボートのふちのしもが、すっかりなくなってしまうまで、はあーっ、はあーっと、
息をかけづつけていた
[#「かけづつけていた」はママ]。
絵のない
絵本。
文字のない
教科書。
まだ、一さつの本さえ見たことのなかったいのきちやみよこたちにとって、この、しもが
息できえるということは、どんなに大きなおどろきであったろう。
それからまいにち、いのきちは、しもを見つけるとかならず、はあはあ
息をかけて、けすことをたのしんだ。
――おもしろいな。
――ふしぎだな。
――なぜだろう。
これが、いのきちがおぼえている、
第一
番めのおどろきであった。つづいて、
日本海の石におどろいたのが
第二
番め―。そして、
第三
番めは、それからずっとあとになって、いまのミルクホールに
働くようになってから、また
新しいおどろきが、いのきちをおどろかせたのであった。――というのは、あの日、はじめて海を見たときから、いのきちの心はもう、山をはなれていた。うごかない山。空のむこうに、空の見えない山。そして、六年生をおわると、とうとう、がまんがしきれなくなって、町にでたいと、せがんだのであった。
「おじいさんや、そのまた、おじいさんのむかしから、ずっと、この村に
住んできたのに、どうして、おまえは、ここがいやなのだ。」
父は、こういって、なげいたし、
「町にでても、だれひとり、しった人もないのに……。」
母は、しんぱいでたまらない、というふうであった。
「ほんとうに、いのきちは、かわりものになったのう。」
近所の人もみんな、こういった。けれども、ただ、みよこのうちのおじさんだけが、いのきちの
考えにさんせいしてくれた。そして、まいねん、
夏休みに、みよこの家へ
書きものをしにくる
東京の
大学の先生で、いのきちもよくしっているやまもと先生に、
手紙をだしてくれたのだった。すると、先生からすぐに、
「ちょうど、わたしがよくいくミルクホールで、
少年がほしいといっているから……。」
という
返事が
送られてきた。
それは、まだ
寒い春のはじめで、一
番の
汽車にのるために、
夜あけ
近く、山をおりていくいのきちたちの
頭の上には、
星がきらきらかがやいていた。父と母とのほかに、みよことみよこのうちのおじさんが、わざわざ
駅まで
送ってきてくれたのであった。
「からだを、だいじにな。」
「がんばれやなあ。」
父や母や、みよこのおじさんたちも、あるきながら、いろいろと、ことばをかけてくれた。
「
東京へついたらね……。」
みよこが、なんだか、小さい声で、ぼそぼそといった。そのことばを、いのきちは、まるでゆめのようにきいていた。が、いよいよ、さいごの山をおりるとき、むこうに見えはじめた
汽車の
駅のま上に、
三つ
星が三つ、ものさしではかったように、きちんと一
列にならんで、かがやいていたのを、いのきちは、ふしぎに、はっきりおぼえている。
そして、
東京のやまもと先生の家をたずねていき、先生が、さっそく、ここへつれてきてくださったのだったが、
「ここは、ラクダイ
横町というんだがね。」
そのとき、先生がこういわれたので、いのきちは、まず、そのへんな名まえにおどろいてしまったのである。
「カフェーや、きっさ
店や、いろんな
店がならんでいるだろう。だから、
大学の学生で、この
横町へあそびにくるくせがついたものは、みんな、らくだいしてしまうのだ。」
先生は、こういって、わらわれた。
「でも、このミルクホールは、けっして、ふまじめなところではないのだよ。ぼくも、たいてい、まいにちくるし、ここへくる学生たちを、にいさんのように思って
話をしてみたまえ。」
先生がいわれたとおり、いのきちが
働くようになったミルクホールには、
大学の先生や学生たちが、大ぜいやってきた。
むずかしい
議論がはじまったり、ときには、
大学の
教室をそのまま、先生が学生をつれてこられて、そこで
講義がつづけられることがあって、ほんとうに、きもちのいい
働きばしょだった。
けれども、
夜になると、となりや、むかいのカフェーからきこえてくる、はやりうたのレコードがうるさくて、
(なるほど、ここは、ラクダイ横町だ。)
と、いのきちは
考えるのであった。
よっぱらいの学生が、むかいのカフェーをでてきたと思うと、またその足で、よろよろと、こちらのきっさ
店へはいっていく――というようなことがまいばんで、
(大学へまでいって、どうして、あんなにお酒ばかりのんでいるのだろう。)
と、いのきちは、おどろいた。それから、また、
(カフェーでお酒をのむって、ずいぶんお金がいるのに、あの人たちは、どうしてあんなにお金をもっているのだろうか。)
いのきちは、ふしぎでしかたがなかったが、そのような学生にくらべると、いのきちの
店にくる学生たちは、みんな、びんぼうなのだろうか、お
酒をのんでくるようなことは、いちどもなかったし、それだけにまた、らくだい学生もいないらしいのが、うれしかった。
「ほほう、きれいな石だね。」
ある日、いのきちが、あの、
日本海でひろってきた石を、
店にもちだしてながめていたとき、こういって
話しかけたのが、よしむらさんだった。
「どうしたんだ。きみが、みがいたのかい。」
そのとき、よしむらさんが、こういったので、
「まさか。」
「ばかだねえ、よしむらは。」
ほかの学生たちが、どっとわらった。
「いえ、これは、
日本海でひろったのです。
日本海の
波にあらわれて、こんなにまるくなったのです。」
いのきちが、こういうと、
「そりゃそうだろう、
波の
作品だよ。」
「こんな石をけずるなんて、
人間にできるものか。いくらよしむらのように
気が
長くても。」
ほかの学生たちは、こういって、わらったのであった。
「なあに、できないことがあるものか。
波の力でできるのに、
人間にできないってことがあるものか。ようするに、
時間の
問題さ。」
よしむらさんは、こういった。が、すこしおかしいと思ったのか、いいおわると、ぺろりと、
舌をだした。そして、そのときの、
舌のだしかたが、とても、ちゃめけがあって、いのきちは、よしむらさんのことを、よくおぼえてしまったのである。
「ああ、よしむらくんか。よしむらくんは、おもしろい、いい
青年だよ。」
ちょうど、よしむらさんたちの
講義をもっておられた、やまもと先生も、こういわれた。
「
法科なんだけれど、まるで
文学部の学生のように、
詩人だよ。
天文学が、とても、すきらしいんだ。いつか、
星の
話でもきいてみたまえ。いろいろ、おもしろい
話をしてくれるよ。」
と、やまもと先生は、よしむらさんのことをほめていた。
ところが、そのよしむらさんは、
星の
話をなかなかしてくれなかった。いや、してくれなかったのではない、してくれという
機会がなかったのである。というのは、いのきちが、よしむらさんに
星の
話をせがむより、いつも、よしむらさんがいのきちに、山の
話や、
湖の
話をさきにききだした。そして、いのきちはいつも、きき手よりも、しゃべり手にまわされて、こんどこそ、こんどこそ――と思っていたのだったが、そのうちにとうとう、
大学も学年のおわりに
近づいた、三月のある
夜のことであった。
もう、そろそろ
店をしまう
時間なので、
入り
口の白いのれんをとりはずしているところへ、めずらしく、お
酒をのんでいるらしいよしむらさんがはいってきた。
「まあ、よしむらさん、きょうは、どうしたのですか。」
いのきちは、おどろいて、きいたのだった。
「そんなに、お
酒をのんでいると、らくだいしちゃいますよ。」
いのきちが、わらいながら、こういうと、
「なあに、そのらくだいを、もう、しちゃったんだ。」
よしむらさんも、こういって、はっはっは……と、わらいだしたのである。
「ほら、いつも、いってるように、ぼくは
働いているんだ。
働きながら
学校へいってるんだ。ところが、そのために、
学校へ
出席する
日数がたりなくて、ことしは、
試験をうける
資格を、とうとうなくしちゃったんさ。」
「へへえっ。」
と、はじめはおどろいたが、そのうちに、いのきちはだんだん、はらがたってきた。むかいや、となりのカフェーで、まいばんのようによっぱらっている学生と、このよしむらさんが、どちらもおなじにらくだいとは……。こう思うと、いのきちは、きゅうに、むらむらと、いかりのきもちがもえてきて、
「そ、それで、どうするんですか。」
いのきちは、せきこんで、きいたのだった。ところが、よしむらさんは、かえっておちついていて、
「なあに、らくだいはらくだい。もう一年やりなおし。のんびりやるさ。」
こういって、わらっているのである。そして、いのきちが、おこったりあきれたりしていると、
「ねえ、いのきちくん。」
よしむらさんは、きゅうに、くるりとうしろをふりむいて、
「いのきちくんは、あれをしってるかい。」
と、むかいのカフェーの上の空を
指さした。
「あれって、あの
星ですか。」
いのきちが、あきれながら、こういうと、
「うん、あれだ、あの
三つ
星。」
「
知っていますよ。あれは、ぼくが、山をおりて
駅へきたとき、ちょうど、
駅のま上に光っていた
星ですもの。」
「あれは、なんという
星なのか、いってみろ。」
「いや、名はしりません。」
いのきちが、こういうと、
「なんだ、しらないって? あきれたねえ。」
よしむらさんは、ほんとうにあきれたように、わらいだした。
「あれが、オリオンじゃないか。オリオン
軒のいのきちが、オリオンをしらなくって、どうするのだ。あの
三つ
星は、五百
光年――つまり、あの
星の光が、あそこから、ここまでとどくのに、五百年もかかっているんだ。そいつを思えば、なあに、一年や、二年のらくだいなんか、なんだっていうんだ。なあ、いの
公。」
よしむらさんは、そういいながら、こんどは、ほんとうのよっぱらいのように、いのきちのかたを、ドスンとたたいて、よろよろと、
店の
前をはなれていった。
「いいか。おぼえておくんだぞ。あれが、オリオン――、五百
光年……。」
よしむらさんは、二、三どふりかえって、こういうと、きゅうに、どら
声をはりあげて、
歌をうたいだした。
カンランさいて 海青き
アテネの町の 春の色
七丘の森 秋ふけて
ローマの古都に 月高し
歴史はふれど オリオンの
三つ星いまだ 光あり……。
きっと、よしむらさんが
卒業した
高等学校の
歌なんだろう。ゆっくり、ゆっくりうたう、その
歌が、ラクダイ
横町のせまい道はばを、いっぱいにふるわせていくのを、いのきちは、じっと、いつまでも、きいていた。
オリオンという、はじめてその名をしった
三つ
星を見あげると、みよこの
顔が、ぽうーっと、うかんできた。五百
光年、アテネ・ローマの
古都――。そんなことばが、
三つ
星のあいだにきらきらして、山で見た、しものおどろきや、
日本海のまるい石よりも、なお
新しいおどろきの心を、かきたてたのだった。