黒岩山を探る

沼井鐵太郎




 これは岩代國南會津郡の檜枝岐村から實川みかはの溪谷を遡り、岩野上三國の國境なる黒岩山(二一六三米)を越えて、鬼怒川上流の一支流ヨイチ澤(コダ池澤)を下つた時の旅日記である。

一、日光より檜枝岐へ


 黒岩山は鬼怒川峽谷の川俣温泉を根據地として黒澤を遡れば達せられるだらうといふ事は、當然誰にも豫想されるし、又時間の上から云つても最も便利な順路に違ひないが、實川みかはの谷から取付くといふ事が數年來の私の希望であつた。其れには檜枝岐村を發足地とするの他はないが、其の奧深き里までは日光―川俣温泉―引馬ひきば峠―と結び付けるのが捷徑である。
 大正九年の十月二十八日午後十一時といふに、上野から北行の列車に乘り込む。豪く混むので一睡も出來ず、此頃はいつも連になる岩永良三君、名越徹君と退屈をカードにまぎらす。宇都宮で下車、曉の六時迄四時間といふものは時ならぬ無料宿泊である。
 漸く日光へ、其れから電車を利用して馬返へ來ると、其の邊の紅葉が眞盛なので、山奧へ行つて林間酒を暖めるていの風流はあきらめる。不動坂は通過する毎に氣樂になつて、氣さくな遊客の愚問にも別に苦しまない。劒が峰、五郎兵茶屋などで手間を取つたので、中宮祠で鱒の天丼を平らげたのは午後一時の頃であつた。天幕、毛布、防寒具の類を、三つのルックザックに分けて負うたのだが、かなりの重さで中々こたへる。晴れてゐた白根が曇る頃ほひ、龍頭瀧りゆうづのたきで休んで赤沼ッ原へ、そして三本松から例のいやな砂ぼこ道を光徳沼に向ふ。午後三時を二十分も過ぎて山王峠に差しかゝると、むら/\と面倒臭さがこみあげて、電信柱の切開を一直線にひた登りに登つた。峠の上の草原で名越君がウヰスキーを煽ると私達も相伴して、暮近き男體、太郎、大眞名子おゝまなこ山王帽子さんわうぼうしの山々をゆくりなくも見渡す。其れから西澤金山迄はと思つて出掛けた足は鉛を結びつけられた如く、最早闇の道を鐵索の邊りから大※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りに下りて行く。以前此處に來た時は宿屋めいたものが出來てゐたが、不景氣故か姿は失せて、路傍に佇んだ女は一飯一粒をさへ旅人へ分ける事が難しいといふ。事務所の規定として人口一人當りの食糧を制限してあるのださうだが、其れでもその内儀さんは深切を盡して私達を家に導き、汁を暖めたりして呉れた。私達は腹も出來たので禮を述べて午後八時近く此の家を出る。十八夜の月は皎々と照り輝いて山腹の大道を辿る三人の姿を夢の樣に浮べ出す。太郎山の怪異な半面も其の時は聖者の如く尊まれるのであつた。斯くて川俣温泉に着いたのは十時を過ぐる事五分の後であつた。遲い夜食は、前日捕れたといふ牝鹿の汁、てうまの燒肉で美味おいしく味ひ、午前零時十五分に就寢。
 三十日。一夜の安眠は慣れぬ疲勞をも悉く癒して呉れた。其れでも出發は矢張り遲れて午前九時になる。草鞋の紐を結ぶと宿から盤梯餅を馳走されて、其の日の午後から一泊の豫定で鬼怒沼探勝に出掛けられる筈の大町桂月先生とお別れする。温泉の東隣なる三軒家には新しい官舍が一つ建てられた。其れから澤を一つ渡つて峽谷の道と別れかゝると、下には温泉宿と冷い流があり、西の空には鬼怒沼の平附近が望まれる。も少し上つて茅戸のひらに出るとしりへに女貌によほう帝釋たいしやく大眞名子おゝまなこ、太郎の山々がずらりと列ぶ。殊に女貌の美しさは表から見た比ではない。椈、楢の闊葉はとくに落ちて、血潮の樣に赤いのこんの楓のみがちらほら眼に付く。夏ならば暑い登りだが秋の旅には別れの水も呑まうとはせず、笹の間から、左にナギの見える山添ひの道を登つて、平五郎山を過ぎると早や身は針葉樹林に沒し、高低も餘り目立たなくなる。正午近く鳥屋場とやばの小屋着。此れは平五郎山から十町許り進んだ所の鞍部で、雪が積んだら錆澤を來る方が早いといふ。小屋の持主の老婆、手傳ひに來た中年の女と其の娘が火を燃しては私達に馳走するとて小鳥を燒いて呉れる。見晴らしは女貌から男體迄の主なる部分と、温泉ゆぜんたけの附近が見える。女貌の布引ぬのびき瀑も白く光つて見える。最近此の附近には雨が降つたさうで、今晩も雪らしいと女達は告げた。
 午後一時十分出發して一つ坂を上ると、向ふから丁髷の爺さんが來る。之もホーロクたひら(一八九二米の一帶を云ふ)の先の鳥屋場とやばを持つてゐる者で隣の鳥屋場へ遊びに行く所だといふ。私達が女達は川俣へ歸る所だといふと、きびすをめぐらして三人の先に立つ。そしていゝといふのに名越君の荷を持つてすたすたと進んだ。ホーロク平の下りから北方を望むと臺倉高山(檜枝岐ではダイグラとのみ云ふ)の黒い頂が二つ見えた。老人の小屋は無砂むさ谷の水源の澤から黒澤へ乘越す樣な處にある。此處なら前の小屋程水に不自由する事は無いらしい。小屋から向ふの鳥屋場へ出て見ると、其處の高みから引馬峠第一の眺望が得られる。日光諸山を屏風の如くめぐらし、其れから燕巣、物見山、鬼怒沼山を經て黒岩山に續く山脈やまなみもあらかた黒裝束の一組である。黒岩の頂は惜しくも雲に隱されたが、其の尨大ばうだいな山容と、見下ろす黒澤の谷はひし/\と身に迫る樣な深い趣があつた。私は三度目にこの峠にやつて來たが、夏はいつでも雨に崇られて此處の眺望を見逃した。山を見てゐると無砂谷からばら/\ッと飛んで來た※(「束+鳥」、第3水準1-94-61)つぐみの一群は苦もなく鳥網に引懸つてしまふ。老人はそれを一々首をねぢつて歩くのだが、少し可哀さうであつた。
 凡そ一時間も遊んでゐると冷い霧雨が颯と降つて來る。そこで出發したのが二時四十分。雨は直きに上がる。最早大した上りはなく、道の跡もよく分つて、十五分の後には引馬峠の頂上に着く。此れ迄全く長い上りだ。そして來て見ると箆棒に廣い頂上だ。其處に最近出來たものと見えて、左へ行く道があつて、「左は宮川歩道、右は檜枝岐道」と立木を削つて記してある。然し其の外に之と反對の意外に取れるまぎらはしいものもあつて一寸困るが、要するに右すれば峠道、左すれば宮川歩道(實川みかは歩道の誤?)で、後者は孫兵衞山を通過して實川上流の硫黄澤赤倉澤落合の附近迄下りてゐる事を後に知つた。峠道を少し行つた處に新しい小屋掛けの跡もある。以前あつた高山植物採集禁制札も影を失つた。既に三時過で到底日のある内に村迄下れない。けれども一二〇七米と記された馬坂澤まさかさはの合流點迄は行かれる事と信じて下つて行くと、四時十五分に漸く谷の最奧の橋を渡る。其れから數町進んで又川を渡る。畑小屋へ出る迄其の邊ともう二三箇所迷ひさうな所があつた。一番困つたのは燒澤の落合に近い所で、右手の本流には名のありさうな瀑が懸つてゐる。其の縁の岩の上を渡つて行くのだが、暗くなつてしまつたので道が上にありさうな氣がしたりして大分手間取つた。殘飯を平らげて提灯を頼りに進んで行くと、今宵も星はぴか/\輝き、軈て畑小屋を通過してしまふと、前面に駒が岳の明月に照らさるゝを仰いで、もう檜枝岐に程近いと友に知らせる。檜枝岐の丸屋旅舍に入つたのは午後八時四十分であつた。

二、實川を遡る


 檜枝岐へ着いた晩は、年に一度の山祭といふ事で、夜遲く迄鄙びた三味の音に流行唄などが騷々しく唄はれてゐた。其れも一因であつたらうが、前以て頼んで置いたにも拘らず、案内者も人夫も皆目見當らぬといふ。理由は村の下の道路普請で役場で人夫が要るといふのが最大であるが、其れでなくても誰は山を拂下げしてもらつて木を伐つてゐる、其の期限が切れる迄は半日も休めないといふ理由のあつたのもある。一昨年連れて歩いた平野徳三郎を頼みにやると、冬籠りの仕度で忙がしいなどといふ。結局次の一日は待つて/\待ち損した。其處で止むなく宿の息子で此の間迄役場の書記をしてゐたといふ人を口説き落して、兎に角實川みかは道の極、硫黄澤赤倉澤の落合附近迄荷を持つてもらふ事にする。其れから先は私達がかつぐの他はない。どうも此れ程の案内人夫難にあつた事は嘗てないので聊か弱つた。
 十一月一日午前八時十五分出發。宿の息子は一足先へやつて、實川の谷奧に小屋掛して曲物まげものを作つてゐる平野重太郎といふ老人と連れ立つ。老人は米をしよひ石油罐をぶらさげて、此れから又暫く山に入つてゐるのだと云ふ。連日の快晴も今日は少しく怪しい空模樣であるが一日うぢ/\してゐた私達には、歩くと云ふ事が此の上なく喜ばしい。老人は問に應じて色々面白い話をして呉れる。麒麟手を過ぎ橋を渡つて十町許り行くと左手から上夜泣子かみよなご澤が落ちて來る。此の附近が燧岳を望むに最もよい處で、擡げた二つの頭から偃松根曲竹の緑柔く黒木の密林に入る所、尾瀬沼からは見えぬ高い瀑の懸つてゐるのも見える。又暫くして谷の左岸に渡り硫黄澤を越えてから、私は左へ小道を下つて行く、實川林道は此の可成り上から沼田街道と別れて道行澤みちぎざは落合の少しく上に下るのであるが、今は山崩れで通れぬといふ。小道の右はテウヨンバタと云ふ處で其の次が赤法華平あかぼつけだひらである。老人は二三軒の家に寄つておうと聲をかけたが多くは留守なので、別に休みもせず河原へ下りて行く。道行澤の落合は大した徒渉でも無かつたが、其れから直ちに實川の岸に移つて又數町進むと左岸に渡る。川の景には何の奇もない。南會津の山奧には野州上州の如き絢爛な秋を見ないで、黒木の多い谷には只水の音と人のしはぶきのみが聞える。
 ダイジョー澤といふのが谷の右岸から落ちて來る。其のかみには大ジョー田代たしろといふ尾瀬平の兄弟分があると、老人が教へて呉れた。其れから間もなく矢櫃平やびつだひらにかゝる所で、流は急に細まつてほんの僅かの距離ではあるが、兩岸二三間の高さに直立する所がある。之を出戸でとヒヨドリと云ふ。林道は其の右を這ひ登つて、だら/\と下りかけると、前面には面積三十六町歩と稱する矢櫃平やびつだひらが展開した。右寄りの山脚は急に反つて、此の山あひの盆地を覗きこみ、其の膚には六月の新緑を想像するに餘りある美しい闊葉樹林がおほふてゐる。そして川は左に人は右に分れて進めば、道は平の略中央を通つて、身を包む灌木のしげみには、點々と珊瑚の玉を散じた樣なアキグミがなつてゐる。ぐみの多い事はこの平の特徴で、私がもしも實川の少將若しくはその家來に成り變つてゐたら、恐らくぐみ平とでも名付けた事であらう。かくして私共が野趣滿々たる味覺を唆られて平の中程に腰を下ろしたのは十時五十分であつた。
 意外な木の實に飽滿して、十一時に又歩き出す。一水を渡ると紅珊瑚の實は椈の木に變つて下草には笹が眼立つて來る。其の邊に辨財天の祠があつたといふ話であつたが今はないといふので、私達は好事の心を押し鎭めて先へ進んだ。道ばたに兎を捕るとて笹の葉をまげて細工した陷穴が二つばかりあつた。平はつひに盡きて大江山からのびた山足を踏み越えると、電光形に下りてクロタケ澤の落合に着いた。正午にも餘す所廿分であるから持參の辨當箱を擴げる。
 谷川は少しく落差を増して赤法華の附近とは違ひ、灰がかつた色の岩石からざざと落ちる事もある。然し實川は其の上下とも多少の難所はあると見ても先づ内氣なさまを示してゐた。
 午後零時半出發。丸屋の息子はから負梯子しよひこを擔つて、對岸から戻つて來る。私達は其れに別れて丸木橋を渡り、右岸の林道を進む事になる。中食の際バロメーターは氣温十一度半、氣壓六百五十四粍を示してゐたが、どうも朝から天候險惡になりさうであつた。私達の氣持も狹い谷の内に欝々として何がな珍らしいものと願ふ心がないではなかつた。
 さういふ時に現れて來たのが入りヒヨドリの奇觀である。其れは丁度高八卦山の眞下に當つて、堅い岩層の割れ目を白馬の尾を飜へす樣に數段に連る瀑布の連續である。林道からは最下の瀑布と其の上の一部分しか見えないが、少しヤブを下つて見ると、ジグザグに左右に振れて落ちる數段の水條が分明に分る。下の河原はその餘勢に所々タルをなして下手の林の影にかくれてしまふ。名越君と私はあちこち歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて其の全景をスクーリンに[#「スクーリンに」はママ]入れるべく苦心したが、どうも立木がはだかつてゐるし、さうでなくても瀑布が眞直まつすぐに連つてゐないので思ふ樣に撮れなかつた。瀑布の高さは總計百尺未滿位と思はれた。
 かうして三十分許り遊んで、再び右岸の道を溯つてゆくと間もなく赤安澤の落合に下りる。其の澤は本流に劣らない位水量が豐富である。深く/\山の懷に喰ひ入つてゐる樣な其の姿は快く思はれた。其れで之から又右岸の道は次第に登つて針葉樹の數も増して來る。どの邊だか今は忘れてしまつたが、林道の傍の椈の大木の幹には山稼ぎの人夫の仕業と思はれて、自分の姓名や等身大のリンガなど刻みつけてあつた。
 午後二時、谷の左岸は急になつて流は右から左へ屈曲する處、ザル瀑の傍に來る。瀑は丸く段になつた岩の上をさら/\と落ちるもので、ザルをふせた形に似てゐるからさういふのだといふ。谷の左岸一帶の山は根名草ねなぐさクラといつて、ザル瀑に面してその側には電のやうな細い瀑が高くかゝつてゐる。林道は之から左岸に渡るので、岩角から垂らした藤蔓をたよりに川床に下りて、ザル瀑の上の一枚岩を徒渉する。水深は足を沒する位のものであつた。其れから左岸凡そ百米も登つて段になつた林の間を數町歩んで行くと、再び左方が開けて谷は一まはりして來た事を知る。豫期してゐた雨は其の前からしぐれて、濡れた山道に滑り乍ら左に下つて、老人の小屋に着いたのは午後三時過であつた。
 重太郎老人の小屋は硫黄澤赤倉澤落合の下約一町許の處、左岸の水面から二間許りあがつた一寸した段に建てゝある。老人は長らく此の谷に入つてゐたが、曲物製造を始めたのは最近の事で、其の曲物の原料はタウヒである處から、其れがなくなつたら又奧へ入るのだといふ。小屋の前には削つたコッパが流れの縁まで散亂してゐた。雨は益々烈しくなるし、人夫は無いしするので、少し早い乍ら此の小屋に泊る事にした。其して老人が焚木を伐りに行つた間、私達は雨具に身をくるんで岩をへつり、木を渡つてしもに下つて見た。小屋の直下から谷は磧を失つて兩岸は岸壁聳え、落ち來る澤には皆落口に瀑を形作つてゐる。本流は殆ど瀑布の連續であるが小屋から一二町は比較的容易に下る事が出來る。其れが終に一段高い瀑布の落口に到つて最早河岸を傳ふ事が出來なくなつた。瀑布は二段目から左へ反撥して崖の後にかくれてしまふ。恐らくザル瀑の少し上から此處まではかうした深い釜と瀑を珠數つなぎにしてゐるのであらう。
 後で聞くと此の下は實川みかはの少將の臣猫彦五郎(宛字)といふ者が墜落したといふ手無てなし淵に相當する。私達は林道の有難さを思つて一時間足らず遊んだ後に雨の中を再び小屋に歸つた。
 午後四時食事の支度に取りかゝると雨は少し小降りになつた、ウヰスキーを馳走してやると、老人は珍しがつて焚木を盛にくべながら、色々と昔話を話して呉れる。尾瀬大納言やその臣の實川少將の行末などが私達の眼の前に展開して來る。山人の物語も、かうした宿りにはなくてはならない景物の一つであつた。

三、硫黄澤を經て黒岩山登山


 二日の朝は曇つてゐたが、大丈夫晴れるといふ老人の言に安んじて、八時四十五分に出發した。荷はなか/\重い。右岸に渡つて磧を歩む。左手の山に引馬峠行の歩道が登つて行くのを望み、段々右に折れて間もなく磧の石のがら/\した硫黄澤に入る。左から來るものは赤倉澤で、此れは黒木の生えた山懷深く喰ひ入つて趣のありさうな谷である。硫黄澤は大分惡い澤で、徒渉はわけはないが積み重なる岩石や、流水が可成りに大きくて馬鹿には出來ない。口元から三四町にして左に澤が※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りこむと幾らか平らとなつた。此處まで老人は送つて呉れて行先の無事を祈つて呉れた。其れからしばらくして河床に硫黄の出た所がある。其れで硫黄澤といふんだなと合點して更に進むと右から澤が落ちて來る。又進むと澤が落ち合ふ。かうして二つ三つの可成り大きい澤の落合を通つたが、私達は左へ/\と撰んで凡そ一時間も歩いた。
 さうしてゐる内に澤は段々せばまつてやがて一つの瀑に出あつた。左手は其の邊一面に黄色い土の斜面で、右手には岩壁が立つてゐる。流は五六十尺の上から左にどつと落ちて瀑壺からざあ/\と流れ、又一つのタルとなつて私達の足許を流れてゐる。此れが老人から聞いた唯一の難所であつたが、其の稍手前にあつた瀑に比べると稍著しいので、私は假りに奧のヒヨドリと命名した。荷を置いて偵察をした後で、タルは左手の岩の隙間を機械體操式に肘上りして、流を越え、右岸岩壁の中程から少し上の凹んだ處を身を縮めて猿の如く手足を張つて攀ぢ登つた。可成り危險なので、先頭の私が綱を岩頭から下げると最後の名越君は其れをつかんで漸く這ひ登つた。此處は海拔凡そ千七百米許りの所である。
 實川の谷は總じて平凡ながら、往々にしてかゝる陷穽がある。奧のヒヨドリから上はずんと傾斜が増して、瀑は屡々身に迫つたが、いづれも水は少く傾斜も急ではないので容易に進む事が出來た。凡そ千八百米の所で岩に倚り乍ら初めて谷の空が開け會津駒の美しい山脈を眺める。四邊には早や椈の若木も姿が失せて悉く黒い針葉樹林である。間もなく澤は細くうね/\と山を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて重力に對する抵抗力を餘り感じなくなつた。此れが檜枝岐の人のいふ黒岩ダンで私達は其の穩かな流の水の今にも盡きようとする處で中食の箸を取つた。其處はバロメーターによると千八百五十米を示してゐたが、實際はも少し高所にあつたらしい。時刻は午前十一時二十五分であつた。
 私は此の黒岩ダンの奧深い趣を忘れる事は出來ない。瀑のある澤が何時の間にか、優しく平らになつたかと思ふと、山脚は右に左に應接の暇なく現れて、其の度に流はさゝやかなうぶ聲を擧げ乍ら、小踊りして私の足を洗つた。四邊あたりは程よく森々と繁つた黒木の際涯はてしない林續きで、其の下草には雪にひしがれたノブキやメタカラカウや、鉢植にして置いた樣な灌木がちよんぼりと配置され、登山にはいつも苦手の笹などは藥にしたくもない程である。そして其の小流が倒木に遮られたり、餘りに狹く曲り過ぎてゐたりする時には山脚に靜かに上つて、し方行末を眺めて見る。けれど山の頂は樹々の梢並にかくされて、何處いづことも分らず、谷の末は元より意識にあるばかりで、私達の歩いてゐる處は、水の音によつてうかゞひ、立木のたけを見、いこひの息の冷えてゆくさまによつて知るの他はない。自分が登りつゝある事のみ明かであつた。
 黒岩ダンは面積にしての位あるか一寸分らないが、時間にして凡そ一時間も歩いたであらう。五萬分一地圖では此の小さな山の皺としなやかな水の脈とを探し求める事は出來ない。然し乍ら、愈々涸澤からさはの窪から傾斜の増した林の中へ移つて、暗中摸索のていで頂上を目懸けた。其の最後の上りが高距凡そ百米もあつたであらうか。兎に角私達は上岩の國境には出ないで、其れよりは一二町北の斜面をひた登りに登つたのであつた。午後零時四十分、峰の上に立つて見ると、其處は可成りに廣いひらで、未だ灌木帶の區域にも達せず、大樹がすく/\と立ち列んで、いづれが最高のだんか見透しする事も出來ない。一先づ目前の小高い所に攀ぢ登つて小手を翳すと、北にあたつて一塊の岩峰がちらと眼に入つた。更に私が手を脂だらけにして二三間も高く樹に上つて見ると、其の岩峰は西面が恐しけな[#「恐しけな」はママ]斷崖となつて、眺望も好かりさうなので、其れを頂上だと思ひこんでしまつて歡聲を擧げる。で、三人は又重い荷を肩にして國境を北に向つた。山の上は確かに人の手になつたと思はれる形跡が少からずあつたが、切開は屡々といふより寧ろ頻繁に杜絶してすぐ迷つてしまふ。けれど藪も大した事はないし、危い所も無いので其の儘ずつと岩峰に近づく。此の間が凡そ二町許。岩峰は平かな山上に砦の如く殘つたもので、大體三つの大岩塊(高さ三四間に過ぎないが)が東西の方向にもたれかゝつた樣になつてゐる。私達が登つたのは其の西端のガンケ(崖)の小峰と中央のものとの鞍部で、窓の樣になつた所であつた。それから邪魔になる木を鉈でたゝき切つてガンケの頭に出たのは午後一時十分であつた。
 來て見ると、此の黒い岩の頭には、僅かながら偃松がある。ガンカウラン、コケモモ等がある。眺望は素敵にいい。今迄光線のよく通らない際涯のない森林を通つて來て急に闊然と眼界が開けたので、私達は眼の舞ふ程に喜んだ。けれど此處には三角點の標石がない。しやと思つて隣の頭に這ひ上つたり、更に一町許り北の小高い所に走つて行つたりしたが矢張り無かつた。よく注意して來た方に振り返ると、可成り離れて端然とした一高峰が眼に入つた。其れが實は最高點であつたが、私達は折角來た所だし、又ガンゲの[#「ガンゲの」はママ]頭で景色は頗る付だし、とう/\一時間の餘も腰を据へてしまふ。
 其の間私達はガンカウランの實を舌の先でつぶしながら周圍を取りまく山を眺めた。先づこのガンケの下の谷から少しく北へ移ると、其處には美しい針葉樹林に包まれた濕原が枯草の色を見せてゐる。此れは重太郎老人の話から判斷して七兵衞田代といふものに相當するが、老人は其の他にも無名の田代が孫兵衞山まごびようやまの附近にあるといつてゐたから、どれがどれだか一寸曖昧である。地形圖に此の田代の標示がないのはちと首肯しがたい。實川みかはの谷は森の内に深く隱れて見えなかつたが、矢櫃平は手に取る樣に見えた。山は何といつても燧を中心とする其の美しい双耳の右に越後國の中の岳、駒が岳、荒澤岳などや、近く大杉岳と地形圖に記された峰、又會津駒の震ひ付きたいやうな優婉な山容が、晴れ渡つて見える。それからなほ北に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、長須が玉山(重太郎老人は此の名を知らなかつた)と其の山腹の田代の一部(大ジョー田代)が無恰好な鞍の樣な孫兵衞山の續きに見え、孫兵衞山からは引馬峠ひきばたうげの低所を越えて、臺倉だいぐら(二〇六七米)の二尖峰が高聳する。其の左に重つて稍々遠く僅か尖つて見えるのは帝釋山たいしやくさんで、其の脈は臺倉に一時隱されて、再び現れると廣濶な頭の田代山たしろさんとなつてゐる。田代山の遙か彼方には遠く美しい山脈が二つ三つ見えたが、飯豐山いひでさんは恐らく其の内の最も雄大な山續きであらう。其の手前にプラトー状の一山脈があつたが、其の方面の智識のあはれな私には分らなかつた。燧から左には農岩のういわ(景鶴山)が見え、其の脈は一曲りして至佛山に續いてゐるが、其の間の低所を越して遠く見えた利根水源、西方の三つばかりの山塊は小澤岳附近と牛が岳の邊でないかと思ふが、此れも私の領分以外の山である。名越君がコダックを持つてゐたので、其れに安んじてスケッチも碌々して置かなかつたが、歸つて見ると其の寫眞も失敗であつた。至佛山から形の目立つ笠、それから近くに菖蒲平あやめだひら、皿伏山、荷鞍山などがあり、なほ南へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて武尊山ほだかさんは雲の中にあつた。燧岳と黒岩山との間には高石山、赤安山の二千米程度の山があるが、其れ等は近いせいか餘りに平凡である。黒岩山から鬼怒沼へ續く山脈は最高點の峰に隱されて殆ど見えず、僅かに鬼怒沼山の一部と思はれるものが現れてゐるに過ぎない。日光の方面は惜しい哉此の日はすつかり曇つてしまつた。
 午後二時三十五分、ガンケの峰から南に歸る。其の時氣温は攝氏の九度を示して、風も吹かないので大分暖かであつた。前に木に登つて頂を探した所から僅か南に移ると、稍々急な上りになる。さうなると、山上の平も盡きて漸く尾根の形を現はす。切開きはかすかに分明で、木の根を踏み、石楠を押し分けて登る氣持がもの珍しい。凡そ三時の頃三角點の標石を踏む。此の峰は矢張り西方に崖があるが、其の上には木も生えてゐて、北のガンケの頭程感じのいゝ所ではない。眺望も大同小異であるが、此處で始めて鬼怒沼山方面を探る事が出來る。頂から南にかけて偃松も可成りある。豫定では此處へ正午前に登つて其れから國境傳ひに鬼怒沼に向ふ筈であつたが、時刻も遲いし檜枝岐の人から藪のひどい話でおどかされてゐたので、止むなくヨイチ澤(コダイケ澤)へ下りる事に決めた。そして私の考へでは再びヨイチ澤の一支流を遡つて鬼怒沼山に出で、それより鬼怒沼を見物して栗山村に下るつもりであつた。この第二の計畫も色々の理由から中止した事情は次の如くである。

四、ヨイチ澤(コダ池澤)の下り


 名殘惜しくも僅か一服で黒岩山の頂を離れた私達は其れから南に尾根の偃松を分けて下つた。國境の切開きは可成り新しい標木を連ねて餘り損する事もない。途中から國境の南西に屈曲して行く黒い森林を眺める。上州側の中の岐澤の上流は深く隱れてはゐるが、其のあたりは黒岩ダンの樣に物靜かな仙境を成してゐるであらう。けれども水源の黒岩山に接する所は森の内に急に聳えて、奧底も知られない。偃松は二千米位の所で別れて、見るから寒冷な針葉樹林の間を縫ふて行く。稍々右に曲ると傾斜の一寸急な下りがあつて、其の邊から林班の標木は凡そ十間毎に明かに數へて行く事が出來る。笹もない綺麗なひらが、もう私達の足下となる。けれども時々痛い小灌木に見舞はれていやな氣持がしないでもない。かうして終に私達は全くたるんだ、黒木の直立した山の上に來てしまつた。さゝやかな小流が何處どこともなく流れてゐたりする。之から少し上りになる樣子であつたが、暫く偵察をして、愈々豫定の下り場所に違ひないと見極めた。午後四時の事である。
 たるみから下りると野州側はすぐと澤の窪に水が湧いて出た。よし此れなら泊は安心と、澤の右の山べりを傳ひがさ/\と笹の間を下りると、其處は澤の水が潺湲と流れて、水際の砂の上は平らに恰かも平土間の樣に出來た、恰好な野營地であつた。そして又私は此の澤の平が餘りに好過ぎる、山の水の急轉する前兆ではあるまいかと恐れる。さう思つて進むと、僅か一町にして私達は高い瀑の上に立つたのである。瀑は總計十二段若しくは其れ以上も階をなして、兀々たる岩の上を飛んでゆく。其の下の流は猶さん/\と水沫を擧げて、左から來る小澤と合し、直きに山蔭に隱れてしまふのであつた。『どうしやう? 四時二十分過だけれど、此の平で泊らうか、それとも下りてしまはうか』と私は下流には幾らか平らしい所も見えるので内心二人の氣を引いて見る。『うん下りて見よう』。其處で私は先頭になつて瀑の頭から崖頭にむらがる木の間を左に辛くも切り拔けて、左の小澤との間を下つて行く、傾斜は隨分急であつたが、しなやかな木の枝から枝へと傳ひ、笹の莖を握つて、轉落を防ぐ事が出來る。左の小澤の水は殆ど無いが矢張り段々を刻んでうつかり寄りつけない。大きな白樺の根元から少し左寄りに移つて、漸く左の小澤の岩の上に駈け下りた。落合は足下である。十二階の瀑を見上げると、又しても苦行を谷に求めに來た旅人の心を自ら憐んだ。日も暮に近い。豫想した平は一向見當らないので、一行はなほも岩から岩へと跳び下りねばならなかつた。水は少いから瀑布と云ふべきものも無くて幸ひであつたが、岩と水の階段は其れから其れへと連つて現れる。遂に空の白色がうすれて左右の森の奧が分らなくなつた時、やう/\一箇所の平地を見附けた。其處は一つの瀑の下で、岩の上が三坪ばかり稍々平らになつてゐる。岩の縁には清冽な水の流があり、左側には森林が程近く墜石の恐れも先づ無い所であつた。時刻は午後五時、早速天幕を張る。そして午後十時就床の時は氣温は七度半、氣壓は六百十九粍、バロメーターの標高千七百十米を示してゐた。きらめく星に對して名越君自慢の葛湯をすゝつて、私達は寢に就いた。
 明くれば十一月三日、午前四時半に起きて火を焚き付ける。澤の旅も幸にして好天氣である。三合しか炊けない小鍋一つで飯も汁もこしらへるので手間を取つて、出發したのは九時十五分過であつた。氣温十五度、氣壓は昨夜と同じであつた。野營地の下は尚ほ瀑が續いて、爪先の痛い程急な岩の面を注意して下らねばならない。谷の末にはだかる山は鬼怒川本流の右岸と覺えたが、其れ迄は可成り遠いと感ずる。九時五十五分、地形圖に水源を示した澤に合した。其れは鬼怒沼山の北方から東を指して流れ來るものである。十二三分休んで出懸けると、空の雲は南から動く。澤は最早や神經質的な瀑の連續を示さないで、先づ助かつたなと思ふ。次にコダ池澤のコの字の邊に休んで來た方を仰ぐと、私達の下つた國境のたるみの左の山が立派に見えた。其の下には崖が高くむき出して、附近には又高い瀑がかゝつて見えた。十時四十五分發。其の手前だつたかさきだつたか忘れたが一寸美事な瀑がある。谷一杯に流れ落ちて、私達は稍々危い思ひで左岸をへづつて下つた。二十分許りして左岸に釣師か何かの小屋がある。聲をかけても誰一人居ないので其儘進むと、磧は漸く廣くなつて來る。磧の内に枯木が二本にゆつと立つてゐる所は最も廣い。其處に大きな四角の岩が轉つてゐたので、私達は上に攀ぢ上つて休んだ。十一時二十分過である。(此處は恐らく鬼怒沼山の東方から流れて來る支流の下で、地形圖で示すとコダ池澤の池の邊であつたらうと思ふ。なほ此の澤には今擧げた瀑の外に二つばかり著しいものがあつた)
 再び出かけるともう磧は廣くて瀑は藥にしたくもない。日もうらゝかに照つて、私達は本流に觸れる喜びを豫感して雀躍りする。然し凡そ三、四十分の後に其の廣い磧は一縮みに縮まつて、流れは左寄りに忍びやかに隱れてゆく。はてなと其の後を追つて稍々深い徒渉をして行くと、其處は又豪壯な一瀑布の頭であつた。けれどもかうなると本流落口の瀑であるに違ひない事は總ての事情から明かである。試みに元へ戻つて右岸に渡り、瀑の頭まで腕の如く伸びた小山を上つて見ると、眼前には廣やかな鬼怒川本流がコダ池澤の流を合して、谷の音樂を奏するのであつた。其して私達の足下からは小徑が下りてゐるので、思はずも三人は歡聲を擧げる。終に一散に駈け下りて、鬼怒川左岸の沙上に腰をおろす。正に午後零時十分。コダ池澤落合の瀑布は高さ五六間で、其の勢は流石日光裏山の水の權威を示してゐる。岩蔭からどつとおめいて姿態もかまはず止む時もなく落ちる水のさまは、ヨイチ澤(コダ池澤)最後の傑作であり、且、其れが全部の象徴でもあつた。

五、後記


 私達が漸く晝飯を滿腹して、川俣温泉に向つて下り始めたのは午後三時過であつた。しかも鬼怒川峽谷の昔の林道はどうつけてあるか、全く不案内であつた。其れに同行の名越君がどうしたものかいつもの勇猛に似ずすつかり神經をこはしてしまつて、徒渉や岩壁のへづりとなると一足も出ない。一箇所綱を使つた事もある。それやこれやで手白澤の手前で既に一時間も費して、黒澤の落合に着いたのは四時五十五分であつた。もう足下は暗い。軈て提灯をともして夜中の徒渉を幾囘となくやる。水深は股間に達する事はないが、流は中々強かつた。眞暗闇の中を湯澤の落合を越すと、もう全く人の足跡は分らなくなつて、私達は深い淵の上に立つた。左岸の山を越えようと試みたが、どちらへ行つても崖が恐しかつた。止むなく元へ戻つて、野營と定める。食糧は十分あるので命に別條はない。けれども寢たのは十二時頃であつた。
 十一月四日。朝水邊に顏洗ひに行くと砂地に澤山羚羊の足跡がついてゐる。昨夜か今朝早く水を飮みに下りて來たものらしい。例によつて破れ鍋の爲に午前十時頃まで茫然と暮してしまふ。右岸に徒渉して水面から五六十米の所をへづつて、笹の多いたるみを東へ下る。錆澤さびさはの下で谷に下りて、間もなく川俣温泉の宿に着いた。午後一時頃であつたが、氣疲れの餘りについ滯在ときめる。宿の主人は吾々の無茶な歩き振りに感心する。食事は相變らず鹿の肉と小鳥、湯にひたつて流れを見乍ら、盡きぬ山物語をかはす。折も折とて、其の半日の樂しさも忘れられないものであつた。
 十一月五日。もう少しでも荷をかつぐのはいやなので、山口幸次郎といふ山に詳しい老人に荷をしよはして、金山へ登つて行く。午前六時道を上りきつて眺望のよい所から、丁度信州横手山を望むやうないかつい黒岩山を望んだ。其れから長い金山道を上つて、金山上のコマツみねの鐵索の側に立つて、黒岩、鬼怒、臺倉だいぐら帝釋たいしやく、田代、鹽原の山、女貌等を泌々と眺めた。殊に私達が目の當りに黒岩山を見ると、斯程かほどに幾日も其の山の爲にかなければならなかつた事が不思議に思へた。
 深山の氣分が漸く分る樣に覺えるのが黒岩山であると思つた。





底本:「〈復刻版〉尾瀬と檜枝岐」木耳社
   1978(昭和53)年11月15日第1刷発行
   1981(昭和56)年2月15日第2刷発行
底本の親本:「尾瀬と檜枝岐」那珂書店
   1943(昭和18)年2月11日初版発行
初出:「山岳 第十六年第三號」日本山岳會
   1923(大正12)年5月31日発行
入力:富田晶子
校正:雪森
2021年6月28日作成
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