人間本性論(人性論)

A Treatise of Human Nature

実験的研究方法を精神上の主題に導入する一つの企て

デイビッド・ヒューム David Hume

井上基志訳




凡例


「」:斜字体や大文字の強調は、「」でくくった。
[]:原注・脚注は、[]でくくって本文に入れた。
():訳者の補足を、()でくくって挿入した。
付録は、指示されている挿入個所の本文に入れた。巻末の付録には、それ以外を訳出した。

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第一巻 知性について



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第一編・第二編についての緒言



 この著作の目的・計画は、序論で十分に明らかにされている。読者はしかし、計画した全ての主題がこの第一編・第二編だけでは扱われていないことに注意する必要がある。知性と感情についての主題は、それ自体完結した一連の論証を成している。そこでこの自然の区分を利用して、公の評価を受けるために、この第一編・第二編を先に出版することになった。もし幸運にも高評価を得られれば、次の道徳論・政治論・文芸批評に検討を進め、この『人間本性論』は完成するだろう。公の承認こそ私の著作に対する最高の報酬だと思う。しかし私は、どのような評価であれ無上の教訓とみなすことを決めた。
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序論


 哲学と科学において何か新しいことを発見したと自称する者らにとって、それ以前に唱道された体系の全てを公然と非難することで自らの体系を遠回しに賞賛することは、まさしく自然で一般的なことである。そしてまったく彼らが、人知の裁くべき最も重要な問題にある未解明の無知を嘆くことだけで満足していたとすれば、諸学に心得がある人々のなかでは、彼らにすぐに賛成しないものは、ほとんどいないだろう。見識と学識のある人には、既に絶大な名声を得た、正確で深遠な証明とまで最大限に誇称する体系ですら、その基礎が脆弱なことに気づくことはたやすいことだ。信用だけに基づく原理、その原理からぎこちなく推論された結論、部分では首尾一貫性の欠如、全体では根拠の欠如、これらは最も著名な哲学者の体系においてすら、いたる所に見受けられる点であり、またそれらが哲学自身の今日の不面目をもたらしたと思われる。
 否、諸学の不完全な現状を見出すには、それほど深い知識を要しない。戸外の野次馬さえ、耳にする物音や喚き声から内部の大混乱が判るだろう。およそ討論の主題でないものはなく、学者のあいだに反対説のないものはない。いかに些細な問題も論争を免れなく、いかに重大な問題も確実な解決は少しも得られない。まるであらゆるものが不確かであるように論争は増加しているが、あたかもあらゆるものが確実であるかのようにそれぞれの論争は熱烈に行われる。こうした争乱の渦中にあっては、公の賞をもたらすのは理知ではなく雄弁である。聴衆のお好みの色で表現する雄弁術を心得た者は、どんなとっぴな仮説にも帰依者を得ることに決して絶望することはない。勝利は刀槍を執る武士の力に依ってではなく、喇叭手・鼓手・軍楽隊に依って得られるのである。
 したがって私の考えでは、あらゆる種類の形而上学的論究に対して普通に見受ける偏見が、学者とみずから名乗る人々、また他の人文学では正しい評価をする人々のあいだにすら起るのである。こうした人々の理解する形而上学的論究とは、ある特定の分科的学に関する論究ではなく、あらゆる種類の何かしら難解で多少とも注意せねば了解できない議論を指して言うのである。我々は今までこの種の探求に余りに多く徒労を重ねてきたので、普通ためらいなしにそれらを拒絶する。そしてまたもし我々が永久に錯誤と迷妄との餌食であることを免れないとすれば、せめてはこの錯誤と迷妄とを自然なかつ愉快なものにしたいと決意している。はっきり言えば徹底しきった懐疑論だけが、極度の怠惰とともに、形而上学に対する嫌悪を正当化できる。というのは、真実がともかく人間の能力の圏内であるならば、非常に深くて難解なところにあることは確かであり、最も偉大な天才たちさえ最高の苦心も空しく失敗してきたのに、我々が苦心せずに達したいと希望することは、十分にうぬぼれが強くて厚かましいとせざるを得ないからである。私がこれから展開する哲学にはこうした利点があると言うつもりはなく、もし私の哲学が非常に易しくて理解しやすいならば、おそらく真実に到達してはいないであろう。
 すべての学は多かれ少なかれ人間本性に関係があり、外見はいかに遠く離れているように見えても、いずれかの経路を通って人間本性へ帰ってくるのは明らかだ。数学・自然学・自然宗教すらある程度まで『人間』学に依存する。そのわけは、これらの学が人間の認識の下にあって、人間の能力と機能によって真偽を判定されるからである。もし我々が人間知性の広さと力とをくまなく識り、推論にあたって用いる観念やその際営む作用の本性を解明しえたとすれば、いかほどこれらの学が変化し進歩するか、これを語ることは到底できない。これらの進歩は自然宗教において特に有望なはずである。なぜなら、自然宗教は神の本性を教えるに甘んぜず、考察の視線を更に進めて、我々に対する神の思し召し並びに神に対する我々の義務にまで及ぼすのであり、従って、我々自身は論究者であるのみならず、論究される対象の一つでもあるからである。
 このように『数学』『自然学』『自然宗教』が人間に関する知識にかくも深く依存するとすれば、人間本性と更に緊密・密接に結合する他の諸般の学においては、どんな期待を抱き得るだろうか。まず、論理学の唯一の目的は、我々人間に具わる推論機能の諸原理・諸作用と我々の有する諸観念の本性との解明にある。また、道徳学と文芸批評とは我々の嗜好および感情に関与する。更に政治学は、社会を結成し相互に依存する人間を考察する。これら、論理学・道徳学・文芸批評・政治学の4つの学は、とにかく我々の識らずに過せぬもの、あるいは人間の心の進歩に資するかまたは心を飾る助けとなるもの、をほとんど残らず包括している。
 まさにそれなら、哲学的探求に用いて成功を希望できる唯一の方策がある。即ち、これまで従ってきた冗長・冗漫な方法を捨て、右顧左眄して辺城僻村の攻略をする代わりに、これら諸学の首都・中心地即ち人間本性そのものへ端的に進軍することである。ここさえひとたび我が手に落ちれば、我々は他のいかなる場所であれ、容易な勝利を希望できるだろう。我々はこの地点を根城として征服の手をまず、人間本性と比較的密接に関係する学の上へ及ぼし、しかるのち閑をみて、好奇心のみが対象とする学の更に十分な究明へ進むことができるだろう。いかなる重要な問題も、その解決が人間学のうちに含まれないものはなく、人間学に精通する前に、多少なりとも確たる解決を与え得る問題は何一つないのである。人間本性の諸原理を明らかにしようとするとき、我々は実質的に諸学の完全な体系を目論んでいる。それは、ほとんど全く新しい基盤、諸学が安全に成り立つ唯一の基盤(明らかにされた人間本性の諸原理)の上に築かれる。
 そして人間学が諸学にとって唯一の堅固な基盤であるように、この人間学そのものに与え得る唯一の堅固な基盤は、経験と観察に置かなければならない。実験本位の哲学の人文科学への適用が、自然科学に適用されるより一世紀以上遅れている点は、考慮を要するような驚くべき反省ではない。何故なら実際に我々が見出すように、物と心との二つの学の起源のあいだには、おおよそ同じ合間があるのである。即ち『タレス』から『ソクラテス』までを数えれば、そのあいだの年月は、『ベーコン卿』から人間学を新しい立場の上に初めて置き世人の注意を呼び好奇心を喚起した近年のイギリス哲学者たち「ロック氏、シャフツベリ卿、マンドヴィル博士、ハチンスン氏、バトラ博士、その他」に至るまでの年月とほぼ等しいのである。これを見てもまことに、詩において他の国が我が国に匹敵し、その他娯楽的な文芸において我々に卓越したとしても、理知と哲学の進歩は、我が国のような自由と寛容の国土があってこそ可能なのである。
 また我々は、人間学のこうした進歩が自然学の進歩に比べて祖国の名誉ではないと考えてはならない。むしろかえって、更に栄誉であると思うべきである。何故なら、人間学は自然学より重要であり、またこうした改革を是非とも必要としたからである。私には明白に思えるのであるが、心の本質は外物の本質と等しく我々に未知であり、細心かつ正確な実験に依らない限り、即ち心の様々な事情および状況から起る個々の結果の観察に依らない限り、心の能力および性質に関する何らかの認識を造ることは、外物の場合と等しく不可能であるに違いない。ただし、あくまで実験を行ってすべての結果を極めて単純かつ少数の原因から解明して、全原理をできるだけ普遍的になるように努めなければならないとはいえ、しかもなおかつ経験の範囲を超えることは不可能である。従って、いかなる仮説も、人間本性の究極・根源の性質を見出したと称するものは、初めから僭越・虚妄として斥けるべきである。
 私の考えでは、経験を超えてまで熱心に精神の究極原理を解明しようと専心する哲学者があるとすれば、(全く不可能なことを可能にしようと無駄なことをしているのであり、)その人は自ずから、彼が解明しようとする人間本性学そのものの大家とは見えないのである。換言すれば、人間の心を自然に満足させるものについて精通しているとは見えないのである。というのは、希望の喪失も成就も心に及ぼす結果はだいたい同じであり、どんな欲望も満たし得ないと知ると瞬く間に欲望そのものが消えてしまうということは、確実なことだからである。我々は人知の極限に達したと知るとき、そこに甘んじて止まるが、ただしこの場合、我々は自己の無知を完全に得心している。また最も一般的で純粋な原理に対して我々の与え得る理由は、その現実性を経験すること以外にないと理解しているのである。そしてこの経験こそ、学に対して全く門外漢である俗衆の挙げる理由であり、またいかに特殊・異常な現象についても初めから研鑽を要さずに見出されてしまうものなのである。上に述べたようにもはや一歩も進行し得ないときは、これによって読者は得心する。が筆者もまた、自己の無知を偽らずに告白した点と、我流の推測や仮説を確実無比な原理と世間に強いるような先人の陥りがちであった過誤を用心深く避けた点と、この二つから読者以上に微妙な得心を得よう。こうして、説く者も学ぶ者も互いに満悦し得心すれば、もはやこれ以上に我々人間の哲学に求めるところがあり得るとは思われない。
 とはいえ、もしこのような究極原理解明の不可能を人間学の一短所と見なす者があるとすれば、私はあえて断言しよう。この短所は、我々人間の携わり得る全ての学問・技芸が共通に有する短所なのである。それは哲学者の学院で研究されると市井の職人の仕事場で用いられるとを問わず、全ての学問・技芸に共通する。それらの学問・技芸も一つとして経験を超え得ず、経験という典拠を根底としない、いかなる原理も立て得ないのである。もっとも実を言えば人文科学には、自然科学にはない特有の不利がある。即ち、実験を収集するときに、あらかじめ考えて故意に、起こりえる個々の難点の一切について得心するように行うことができないのである。例えば、私がある状況における一物体の他物体に対して及ぼす結果を知るに当惑するときは、その二物体を問題の位置に置いてそれから起る結果を観察しさえすれば良い。しかし、同じ方法で人文科学の何らかの疑問を晴らそうとして、私の心を考察すべき精神状態に等しく置けば、このように内省しあらかじめ考えたため、心の自然な原理の作用は明かに阻害され、現象から正しい結論を造り難くなってしまうに違いない。ゆえに、人文科学においては人間本性を慎重に観察して実験を収集しなければならない。そして、交際・業務・娯楽における人間のふるまいに基づいて、人間本性がこの世界のうちに共通に現れるように、実験を行わなければならない。この種の実験を賢明に収集して比較する場合に初めて、我々はこれらの実験を土台として、一つの学を樹立する希望を抱き得るのであろう。その学は、人間の理解の及ぶ他のいかなる学に比べて、確実な点で劣らず、また有益な点で遥かに優るであろう。
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第一編 知性について



第一部 観念、その起源、構成、結合、抽象などについて



第一節 観念の起源について


 人間の心に現れる全ての知覚は二つの別個な種類に分けられ、本書ではそれらを「印象」と「観念」と名付ける。二つの違いは、それぞれが心に湧き出て思考や意識へ入り込むときの勢いと生気の程度にある。極めて勢いよく烈しく入ってくる知覚を、印象と名付ける。この印象という名称の下に、初めて心に出現した感覚・情緒・情感の全てを包括できる。また観念という名称によって、思考や推論におけるこれら(感覚・情緒・情感)の淡い映像を意味する。例えば、本論考によってかき立てられた全ての知覚のようなものである。ただし、単に見ること触ることから生じたものを除いて。あと直接の快不快があればそれも除く。印象と観念のこのような区別を説明するために多言を費やす必要は多くないだろう。誰でも各自自身で、感じると考えるとの相違を直ちに理解するだろう。普通の程度であれば、この二つは容易に区別できる。ただし特殊な場合には、印象と観念とが極めて近づき合うこともあり得なくはない。例えば、睡眠・高熱・狂気のとき、あるいは精神が何らかの激烈な情感の内にあるときには観念が印象に近づくこともある。また一方では、印象が観念と区別できないほど淡く微弱なことも時折は起る。しかし、これら少数の近い類似の例があるにもかかわらず、一般的には印象と観念とは大いに異なる。従って、誰でもためらいなく両者を別個に位置づけ、違いを明示する固有の名称をそれぞれに割り当てる。
[原注:本書では「印象」と「観念」という用語を、日常的な意味と異なった意味で用いているが、私はこの自由を許されることを望む。かつてロック氏は「観念」という単語を悪用して一切の知覚を意味させたが、それに比べれば、おそらく、ある程度は元の意味に近いだろう。「印象」という用語によって、生気ある知覚が心の中に産み出される様式を表現すると理解せずに、ただ知覚そのものを表現すると理解したい。というのは、知覚そのものを表す特別な名称は、私の知る限り英語にもその他の外国語にも見当たらないからである。]
 知覚にはもう一つの区分があり、この区分は観察するのに便利で、かつ、印象と観念の両方に当てはまる。その区分とは即ち「単純」と「複雑」である。単純知覚=「単純印象」と「単純観念」は、区別または分離の余地を少しも与えないようなものである。複雑知覚(「複雑印象」と「複雑観念」)はその反対で、部分に区別できるのである。(リンゴを例にすると、)個々の色・味・香りは全てリンゴのうちに合一された性質であるけれども、それぞれは同じものではないし、少なくとも互いに区別できることが容易に認められる。
 これらの区分によって、本論考の対象である知覚を整理整頓できた。そこで今こそ、知覚の諸性質と諸関係の更に精密な考察に専心できる。目を引く第一の事実は、勢いと活気の程度を除く他のすべての点に見られる、印象と観念の大きな類似である。観念は印象の、ある意味で映像と思われ、そのため心に現れる全ての知覚は二重であり、印象としても観念としても現れる。例えば私が眼を閉じて居室を考えるとき、私の造る観念は私が感じた印象の正確な再現であり、どのような状況も、一方にあって他方に見出せないものはない。その他の知覚をざっと調べても、私はやはり、同じ類似と再現とを見出す。観念と印象はいつも互いに対応して現れる。私にはこの事実が注目すべきことに思われ、なおしばらく注意を引きつける。
 さらに精密な調査により、私は初めの見掛けによってかなり影響されていたことに気づく。全ての観念と印象は類似するという先ほどの一般的結論を、単純知覚と複雑知覚の区別を用いて制限する必要があるということだ。我々の考える多くの複雑観念は対応する印象が過去に全然なく、我々の感じる多くの複雑印象は観念に決して正確には複写されない、と観察される。例えば、私は黄金の舗道と紅玉の城壁の「新エルサレム」のような都市を心の中で想像できるが、このような都市は過去に決して見たことがない。また私はパリを見物したことがあるが、その全ての街路および家並みを現実と正確な比率で完全に再現するようなパリ市の観念を造れる、と断言するだろうか?
 従って、複雑な印象と観念には一般的に大きな類似があるとはいえ、互いに正確な複写であるとする規則は普遍的には正しくないとわかる。次に、単純知覚の場合を考察しよう。私の能う限り精密に調査した結果、思い切って断言するが、単純知覚の場合には、先ほどの規則が少しの例外なく適用される。即ち、あらゆる単純観念には類似する単純印象があり、あらゆる単純印象には対応する単純観念がある、と言える。例えば、暗闇の中で造る赤の観念と、晴れた日に眼に映る赤の印象とは、ただ程度の差があるだけで本性上の違いはない。この事例はすべての単純印象と単純観念について等しいが、個々に枚挙して証明することは不可能である。誰でも好きなだけ再調査すれば、この点を得心できるだろう。もし誰かがこの普遍的類似を否定するならば、私は、対応観念のない単純印象や対応印象のない単純観念を明示せよと望む以外に納得させる方法を知らない。この明示の要望に答えられなかったならば、答えられないのは確かなので、反対者の沈黙と上述の観察から、我々の結論を確立できるだろう。
 こうして、すべての単純観念と単純印象は互いに類似することがわかる。そして、複雑観念と複雑印象は単純観念と単純印象から形造られるので、一般的には、観念と印象は正確に対応すると断言できるだろう。これ以上の検討を要さないこの関係を発見したので、印象と観念について何か別の性質を見出したいものである。ここにおいて我々は、印象と観念の存在についてどのような関係にあるか、どちらが原因でどちらが結果なのか、その点を考察しよう。
 この問いの十分な調査・検討こそは本論文の主題であり、したがってここでは、一つの一般的命題を樹立するのに留めよう。「初めて出現する全ての単純観念は、対応してその観念に正確に再現される単純印象から由来する。」
 この命題を証明する現象を探すと、ただ次の二種類を見出す。がしかし、いずれの種類の現象も明白・多数・決定的である。まず最初に「全ての単純印象には対応観念が伴い、全ての単純観念には対応印象が伴う」という既出の主張を、新たに再考して確かめる。すると、類似する知覚のこのような恒常的連接から、対応する印象と観念との間には大きな関連があり、いずれか一方の存在は他方の存在に重く影響を及ぼす、と直ちに推断できる。数えきれないほど多くの事例に現れるこのような恒常的連接は偶然に起こり得ず、印象が観念に依存するか観念が印象に依存するかのいずれかを明瞭に証明する。次にこの依存関係がどちら側なのかを知るため、それらの最初の現れの順序を考えると、いつも一定の経験によって、単純印象が対応観念に常に先行し反対の順序では決して現れないことを見出す。例えば、深紅またはオレンジ色の観念や、甘味または苦味の観念を幼児に与えるため、私は実物を示す。言い換えると、幼児にこれらの色や味の印象を伝える。逆に、観念を喚起することによって印象を産み出そうと努めるような不合理なやり方はしない。我々の観念の出現は対応印象を産まない。単に考えるだけではいかなる色も知覚せず、いかなる感覚も感じない。一方我々は、心や物どちらに関するどんな印象でも、自己に類似しかつ勢いと生気の程度においてのみ異なる観念が絶えず伴うことを見出す。互いに類似する単純印象とその対応観念の恒常的連接は、両者のいずれか一方が他方の原因である有力な証拠であり、この印象が先立つ点は、印象こそ観念の原因であって観念が印象の原因ではない有力な証拠である。
 これを確証するため、もう一つの明白で説得力のある現象を考察する。それは例えば、生まれながらの盲人聾者のように、ある印象を起こす機能が偶然にその作用を阻害されている場合は常に、その印象が欠けているのみならず対応観念も欠け、従って両方とも、かすかな跡すら心に出現しないのである。これは、感覚器官が全く破壊されているときだけでなく、感覚器官を特定の印象を産むように活動させたことが一度もないときもまた同様である。例えば、実際に味わわなければ、パイナップルの味の正しい観念を心に造ることは不可能である。
 しかしながら、観念が対応印象に先行することが絶対に不可能ではないことを証明できる、一つの矛盾する現象がある。(その証明の前提として)以下の点はすぐに許容されると思われる。いくつかの別個な色の観念や音の観念は、それぞれ同時にかつ類似して視覚あるいは聴覚により伝えられるけれども、実際は各々互いに異なっている。もしこれが異なる色について真であるとすれば、同じ色の異なる色度(色の濃淡)についても同様であるに違いないから、それぞれの色度は他の色度と独立に別個な観念を産むはずである。なぜならこれを否定すれば、ある色の濃淡を少しずつ連続的に変えることによって、その色を気づかぬうちに最も隔たった色度にすることができ、また中間色度の相違を少しも許容しないとすれば、論理的矛盾なしには両極端の色度が同じであることを否定できないからである。この前提の上で、ある人が三十年のあいだ視覚を享受して、すべての種類の色を完全に熟知するようになったが、例えば青色のある一つの特定の色度だけは、それまでの人生で一度も経験していないと仮定する。その人の前にこのただ一つの色度を除いた他のすべての色度の青色を、最も濃いものから最も淡いものまで降順に漸次に並べたとすると、その人はその色度が欠けている個所の空白に気づき、隣接する色度間において、ここに他のどこよりも大きな距離がある、と感じることは明白だ。さて、その人は自身の想像力からこの空白を満たし、感覚によって伝えられたことが未だかつてなかったにもかかわらず、その特定の色度の観念を自身で呼び起こすことは可能であろうか? おそらく「可能だ」という意見を持たない者はいないと思われる。これで単純観念が常にその対応印象から由来するとは限らないことが証明された。しかしながら、この例証は非常に特殊かつ希有であるため注目する価値に乏しく、これだけのために前記の一般原則を手直しする必要はないであろう。
 しかしこの例外のほかにも、この項目について言及してもおかしくないことがある。それは、印象が観念に先立つとする原理は、もう一つの制限とともに理解しなければならないということである。その制限とは、観念が印象の影像であるように、一次的観念の影像である二次的観念も造ることができるということである。これは、これまでの印象と観念に関する推論そのものから自ずと現れてくることなのである。これはしかし、正確に言えば「規則の例外」と言うよりもむしろ「規則の説明」である。というのは、観念は新しい観念に自身の影像を産み出すことができるが、最初の観念は印象から由来すると推測されるので、すべての単純観念が直接もしくは間接に対応印象から生ずるという規則は、依然として真のままであるからである。
 従って以上のことは、人間本性学において私の樹立する第一原理である。この原理の外観が単純だからといって軽視すべきではない。というのは注目すべきことには、印象と観念のどちらが先行するかについての本問題は、かつて「生得観念」が存在するかどうか、あるいは、すべての観念は感覚と内省に由来するかどうか議論されたとき、他の用語で大激論を巻き起こした問題と同じ問題なのである。延長や色の観念が生得ではないことを証明するためには、それらが感覚によって伝えられることを哲学者たちが示すだけであると言えよう。情熱や欲望の観念が生得ではないことを証明するためには、哲学者たちは我々にはこれらの感情の先行経験があると言う。さて、これらの議論を注意深く吟味すれば、哲学者たちが証明するのは「観念はより生気ある他の知覚に先行され、その知覚から由来し、その知覚を再現する」ということに他ならないと判るであろう。私は、本問題を以上のように明白に記述したことが、それに関する全ての(無駄な)論争を取り除き、そして我々の論究において、この原理がこれまで思われていたよりももっと役立つようにすることを期待する。


第二節 主題の区分


 単純印象は対応観念に先立っていて例外は極めて稀れであることから、観念を考察する前に印象を調査することが必要な順序だと一見思われる。印象の様式は「感覚の印象」と「内省の印象」の二種類に区分できる。第一の種類「感覚の印象」は、未知の原因から最初に心の中に起こる。第二の種類「内省の印象」は、大部分観念に由来し、しかも次のような順序である。最初に印象が五感を刺激して、様々な種類の寒暑や飢渇や快苦その他を知覚させる。この印象は心によって複写されて、印象が止んだ後にも残る。これが観念である。この快苦等の観念が心によみがえってくるとき、欲望や嫌悪、希望や恐怖などの新しい印象を産み出す。この新しい印象は内省に由来するので、内省の印象と呼ぶのが適切であろう。この内省の印象は、記憶や想像によって再び複写されてまた観念となる。その観念はおそらくまた立場をかえて原因となり、他の印象や観念を引き起すであろう。それゆえ「内省の印象」は、ただ対応観念に先立つだけであり、「感覚の印象」より後に、それから由来するのである。「感覚」の調査・吟味は、人文科学者よりも自然科学者や解剖学者の研究対象に属する。従って、当面はこれに立入らないことにする。そして「内省の印象」すなわち情緒や欲望や感情は主として注意に値するのだけれども、たいていは観念から生じる。だから一見最も自然に見える印象から観念への研究の順序を逆にする必要があるだろう。つまり人の心の本性と諸原理を明らかにするためには、印象の前に観念を詳細に明らかにする必要があるだろう。この理由で、私は観念から始めることにしたのである。


第三節 記憶と想像の観念について


 経験によって、どんな印象も心に出現した後でそれが再現するときは、観念として現れることに気づく。その現れ方は二通りあり、一つは、現れるときに最初の印象のときの活気を相当程度再現して、印象と観念の中間と多少はいえる場合と、もう一つは、最初の活気を全く失って完全な観念である場合である。このように印象を再現する機能の前者を「記憶」と呼び、後者を「想像」と呼ぶ。一見して明らかだが、記憶観念は想像観念よりかなり生気が多く強い。そして、想像機能がどんなに働いても、記憶機能のほうが対象をよりはっきりした外観で描写する。過去のある出来事を思い出すとき、この出来事の観念は心に強力に説得力をもって流れ込む。これに対し、想像では知覚はぼんやりして弱くて活気がなく、これを心が相当時間安定に一定して保持することは困難である。このように、記憶観念と想像観念の間にはかなりの違いがある。しかし、これについては後[第三部 第五節]で詳論する。
 記憶観念と想像観念の間には、同様に明らかな違いがもう一つある。それは、両者とも対応印象が先に進んで道を用意しない限り心に現れることはできないが、想像のほうは、最初の印象と同じ順序・形式に制限されることはない。これに対して記憶は、順序・形式を変更する能力が無く、最初の印象に拘束される。
 明らかに、記憶は対象が過去に現れたときの原形を保持し、何かを思い出すときに原形から逸脱する場合は記憶機能の欠陥や不完全から生じる。ことによると歴史家はより都合よく叙述を推し進めるために、後の事実を先に物語ることがあるかもしれない。しかし、厳密な態度で叙述に望めば、こうした混乱に注意して観念を正当な位置に置き直すであろう。我々が以前に知っていた場所や人物を思い出すときも同じ事例である。記憶の第一の働きは、単純観念の保持ではなく、それらの順序および位置の保持である。要するに、このような多くの共通かつ日常の現象によって、記憶の原理は立証される。従って、これ以上この点について主張する労を惜しんでもよいであろう。
 同じ根拠で「想像は自由に観念を置き換えかつ変える」という第二原理も立証される。詩や物語にある作り話を読めば、それは全く問題外に明らかだ。そこでは自然が全く混同され、翼を持つ馬や火焔を吐く龍や雲を突く巨人のようなものばかりが登場する。以下のことを考慮すれば、このような空想の自由も奇妙には見えないだろう。一つは、全ての観念は印象から複写されるということ。もう一つは、どんな複雑印象も完全に二分割できるということ。言うまでもなく、このことは観念を単純と複雑とに区分した明白な結果である。想像は観念間の相違に気づくときはいつも、(複雑観念を)容易に分割することができるのである。


第四節 観念の結合や連合について


 想像は全ての単純観念相互を分離できるし、好む形に再び結合することもできる。そのため、いつでもどこでも普遍的原理が想像機能を導いて多少とも一定の規則に従うようでなければ、想像機能の作用ほど説明できないものはないであろう。また、観念相互が全く自由で少しも関連が無いのであれば、観念間の結合は運まかせだけとなるであろう。そして、単純観念間を結合する何らかの絆、言い換えると連合性質、これにより一観念が自然に他観念をもたらす、この連合性質が無ければ、同じ単純観念相互が規則正しく一般的に複雑観念に成ることは不可能なのである。この観念相互の結合原理は、分離できない結合と考えてはならない。何故ならそれは既に想像から排除されているからである。またこの原理がなければ心は二観念を連結できないと断定してもいけない。何故なら想像機能ほど自由なものはないからである。そうではなく単に、この原理は共通に広く一般に存在するゆるやかな力とみなすべきであり、とりわけ他でもない、諸言語が互いに密接に対応する原因となっている。ある意味自然が全ての人に、複雑観念に結合される最も適当な諸言語の単純観念を指し示しているのである。この観念の連合を生じさせ、このように心を一つの観念から他の観念へ伝える性質には三種類あり、即ち「類似」、時間的・空間的「近接」、「原因と結果」である。
 これらの三つの性質が観念間に連合を産むこと、そして、一つの観念の出現によって自然に他の観念をもたらすことは、特に証明するまでもないであろう。(類似)思考の過程において、観念の不断の運動において、想像は容易に一つの観念から類似する他の観念へ進み、この性質だけでも空想にとって充分な絆と連合であることは明白である。(近接)感覚は対象を変える際に規則的に変える必要があって、互いに「近接」する対象を取らざるを得ないが、想像も多年の習慣によって同じ思考方法を獲得し、対象を想うとき空間および時間の部分に沿って進むに違いないのである。これもまた、類似と同様に明白である。(原因と結果)因果関係が作る結合については、後(第三部)で徹底的に検討する機会があろう。従って今は言及しないことにする。さしあたり、空想において強い結合を産んで一観念から他の観念を即座に思い出させる点では諸観念の対象間の因果関係に勝る関係はない、と言えば充分である。
 これら三つの関係の最大の範囲を理解するためには、想像により二つの事物が互いに結合される際、次の点を考察しなければならない。それは、一方が他方と直接に、類似、近接、または、因果の関係にあるときだけでなく、その関係を両者に伝える第三の事物が間にあるときもまた(間接に)結合されるのである。この間接結合は大きな適用範囲をもたらすだろう。だが同時に、両者間の距離が相当にその関係を弱めるとも言えるだろう。例えば四親等の従兄弟どうしは、因果性という用語の使用が許されれば、因果関係によって結合されていると言える。しかし兄弟ほど密接ではなく、まして親子関係にはとうてい及ばない。一般的に、全ての血縁関係は原因と結果に依存し、両者間にある結合原因の数によって密接さが決まると言ってよいであろう。
 上述の三つの関係のうち、この因果関係は最も広範囲に及ぶ。二つの事物の一方が他方の存在の原因であるときと同様に、活動や運動の原因であるときもまた因果関係にあると考えてよい。というわけは、事物があらゆる違った状況においても同一であり続けるのと同様に、確かな見方で熟考すると、活動や運動は事物そのものに他ならないからである。従って、想像において二つの事物の一方から他方へのこうした影響が、いかに相互に結合させるかは容易に想像できる。
 この点を更に進めると、二つの事物が因果関係によって結合されるには、一方が他方に活動や運動を産むときだけでなく、活動や運動を産む能力を持つ(未実行の)ときもまた結合されることに気づく。そして後者こそ、社会において人々を相互に影響させ合いかつ支配と従属の絆に置くことにより、利害と義務の全ての関係の根源と言えるであろう。例えば主人とは、力ずくや合意によって得た地位によって、召使と呼ばれる者の行動をある程度詳細に指図する能力を持つような人である。また裁判官とは、全ての係争事件において、社会の成員間のあらゆる物件の占有権や所有権を自己の所信によって確定できる人である。人が何らかの能力を持っているとき、その能力を行動に移すために必要なものは、意志の発揮だけである。そして意志の発揮は全ての場合に可能であり、また多くの場合に実際に発揮されると考えられる。特に下位の者の服従が上位の者の快楽と利益である、権力の場合は発揮されずにはいないだろう。
 こうして以上の諸関係は単純観念間の結合・凝集原理であり、記憶における分離不可な観念結合に対して、想像においては自由に結合する。ここには一種の「引力」があり、それは精神的な世界において自然界におけると同じく顕著な影響をもたらし、多くの様々な形として現れる。この引力の影響はあらゆる所で目につくが、その原因に関してはほとんど知られず、もはや解明しようとは思えない人間本性の根原的性質に帰さなければならない。真の哲学者にとって、いたずらに原因を探し求める節度なき欲望を抑制すること、十分な数の実験によって学説を樹立した後、これ以上の調査が不明瞭で不確実な推測に導くと判れば、その学説に満足して止まることこそ、何物にも勝って必要なことである。こうした場合、原理の原因より原理の結果を探求するほうが断然よいだろう。
 この観念結合・観念連合の結果のうち最も注目すべきものは、思考と推論の共通主題であり、一般に単純観念間の結合原理から生じる複雑観念である。このような複雑観念は、関係、様相、実体に区分できる。本書の哲学の基本と考えることのできる当面の主題を終える前に、これら三つの複雑観念を簡潔に順を追って検討し、一般観念と特殊観念に関する二三の考察を追加しよう。


第五節 関係について


「関係」という言葉は一般的に、互いにかなり違う二つの意味で用いられている。その一つは、前節で明らかにしたように、想像において二つの観念が互いに結合される性質、一方の観念から自然に他方へと導かれる性質を意味する。もう一つは、空想において二つの観念を恣意的に結合させる時ですら、両観念を比較するのに適していると考えられるような特定の状況を意味する。日常の用語では、関係という言葉は常に前者の意味で使用されている。哲学の用語としてだけ、結合原理なしで任意の特定の比較の主題を意味するように拡張している。例えば距離の観念は、対象を比較することによって得られるので、哲学者たちは距離を真の関係だと認めるであろう。しかし、一般的には「互いにこれほど離れているものは無い、これほど関係の少ないものは無い」と言われ、まるで距離と関係は両立しない相容れないもののようだ。
 この対象の比較を許容する性質、哲学的関係の諸観念を産む性質の全てを列挙することは、おそらく到底終りのない仕事と思われるかもしれない。しかし念入りに熟考すれば、それらは全ての哲学的関係の根源と考えられる、以下の7つの一般的項目に分類できると容易にわかるだろう。
 (1)第一は「類似」である。この関係無しには、哲学的関係は存在できない。というのは諸事物は、ある程度の類似が無いことには比較の余地がないからである。しかし、たとえ類似が全ての哲学的関係に必要であるとしても、類似が常に観念間の結合や連合を産み出すとは限らない。ある性質が非常に一般的になって、数多くの個々の物に共通であるとき、その性質は心を数ある個物のいずれか一つへ一直線に導くことはなく、同時に非常に多くの選択の機会を与えることになり、それによって想像力がいずれか一つの対象を決定するのを妨げるのである。
 (2)哲学的関係の第二種は「同一性」だと考えられる。ここでは同一性を、その最も厳密な意味において、一定で変わらない事物に適用するときの同一関係と考える。人格の同一性の本性と根拠を吟味するのは範囲外であり、後で行うだろう(第四部 第六節)。全ての哲学的関係の中で最も普遍的な関係はこの同一性であり、持続して存在するあらゆる存在に共通である。
 (3)同一性の次に普遍的で広範囲にわたる哲学的関係は、「空間関係」と「時間関係」である。両者は、隔たり、近接、上に、下に、前に、後に、等、無数の比較の源泉である。
 (4)「量」や「数」を許容する全ての事物は、その関係で比較できる。これもまた、哲学的関係の豊富な源泉である。
 (5)二つの事物が共通に同じ「性質」を持つとき、その持つ「程度」は哲学的関係の第五種である。例えば、二つの重い物がある場合、一方は他方より重量が大きいか小さいかどちらかである。同種の二つの色は、色度の違いがあり、この点で比較される。
 (6)(第六の哲学的関係である)反対関係・矛盾関係は一見、「ある程度の類似なしには、どんな種類の関係もありえない」という規則の例外だと考えられるかもしれない。しかし熟考してみると、存在と非存在の観念以外は、どんな二つの反対観念もそれら自身には反対ではない(例えば、矛と盾は共に武器)。(さらに熟考すると、)存在と非存在の観念も、両者とも必然的に事物の観念を伴うので、明らかに類似している。非存在の方は、事物が存在しないとされる全ての時間と場所から事物を除外するとはいえ、やはりその観念は含まれている。
 (7)他の全ての事物、例えば、火と水、熱さと寒さなどは、経験から、つまり事物の原因または結果が反対なことから、反対と知られるだけである。原因と結果の反対関係は、自然的関係であると同時に、第七の哲学的関係でもある。この関係に含まれる類似は、後で明らかにされるだろう(第三部 第六節)。
 以上の関係に「相違」を加えるべき、と当然期待されるかもしれない。しかし相違は、何か実質的または積極的な関係ではなく、むしろ関係の否定と考えられる。相違には二種あり、一つは同一性との対比で考えられる「数」の相違であり、もう一つは類似との対比で考えられる「種類」の相違である。


第六節 様相と実体について


 哲学者たち、その論究の根拠の多くを実体と偶然性の区別におき、我々は明確な実体観念と様相観念を持つと推測する哲学者たちに問いたい。いったい実体観念は、感覚の印象に由来するのだろうか、あるいは、内省の印象に由来するのだろうか? もし感覚が伝えるとすれば、どの感覚がどのように伝えるのだろうか? もし目によって知覚されるならば色であり、耳によって知覚されるならば音であり、口蓋によってならば味であり、その他の感覚も同様である。しかし、実体が色や音や味(その他の知覚されたもの)であると主張する者はいないであろう。だから、もし実体観念が存在するならば、内省の印象に由来するはずである。しかし内省の印象は、結局は情緒や感情に変容するが、そのどちらも実体を表すことはとてもできない。したがって、我々は実体観念を持ち得ず、我々が言及や論究できるのは個々の性質の集合の観念としてだけである。
 実体観念も様相観念も単純観念の集合に他ならず、それらは想像によって結合されて特定の名称を付与され、我々はその名称によって、その集合を自他に想起させることができる。実体観念と様相観念の違いは以下である。実体観念の方は、それを構成する個々の性質は一般に未知のあるものに属し、その固有の性質と想定される。あるいはこのような仮説を立てなくても、少なくとも近接と因果性の関係によって、密接かつ不可分の結合だと想定される。このように実体観念を検討した結果、どんな新しい単純性質も、既存の性質と同じ結合をできることがわかる。たとえその新しい単純性質が、その実体の最初の概念の要素では無かったとしても、我々はただちにその新しい単純性質を既存の性質に含むのである。例えば、金の最初の観念は、黄色い色、重さ、可鍛性、可融性、であろう。しかし、王水の中での溶解性の発見によって、我々はその新しい性質を既存の諸性質に追加する。まるで溶解性の観念が始めから金の複合観念の一部だったかのように、溶解性は金の実体観念に属すると考えられる。この結合の原理は実体の複合観念の主要な部分だと考えられ、後に見出された性質がどんなものであれ結合が許され、最初に結合された他の性質のように、結合原理によって実体の複合観念に同様に等しく含まれる。
 様相の観念にはこの結合原理は生じえないことは、様相の本性をを考察すれば明白である。様相を構成する単純観念が表す性質は、近接と因果性によって結合されずに様々な主題に拡散される場合か、もしくは、互いに全て結合されてはいるが結合原理がその複雑観念の根拠とは考えられない場合のどちらかである。舞踏の観念は前者の実例であり、美の観念は後者の実例である。このような様相の複雑観念が、それを区別する名称を変えない限り、新しい観念を受け入れ得ない理由は明白である。


第七節 抽象観念について


「抽象」あるいは「一般」観念について、一つのとても重要な疑問が提起された。それは「心の中の抽象観念の概念において、抽象観念は一般的であるか特殊的・個別的であるか」という疑問である。偉大な哲学者バークリー博士は、この問題で一般に受け入れられ標準とされている意見に反論し、全ての一般観念は特殊・個別観念にほかならず、その個別観念に、ある一定の名辞(概念)が付加されることにより、それらの観念により広い意味を与えて、それらの観念と類似した他の個別観念を機会に応じて想起させるのである、と主張した。この主張は、学界において近年なされた最も偉大で最も価値のある発見の一つだと思われる。そのためここでは、一切の疑いと論争の余地が無くなるように、いくつかの論証によって、この発見を確証するように努めよう。
 全部ではないが大多数の一般観念を構成する際に、例外なく個々の量と質の程度は抽象されて取り除かれることは明らかだ。また、事物の延長・持続・その他の特性におけるあらゆる小さな変化のために、どんな特定の属する種に属さなくなることはないことは明らかだ。この二つの明らかな事に従って、ここには明白な両刀論法(ジレンマ)があると考えられる。そのジレンマは、哲学者たちにとてもたくさんの思索の種を与えてきた抽象観念の本性について決着をつけると考えられる。例えば、人間の抽象観念は、あらゆる大きさ・性質の人々を象徴している。その象徴が成り立つには、同時にあらゆる可能な大きさ・性質を表示するか、個々の大きさ・性質は全く表示しないか、どちらかでなければならないと推断される。前者の命題は心の無限能力を必然的に意味するので、支持するのは不合理だと今まで思われてきた。そのため一般的に、後者への支持が推断されてきた。そこで、抽象観念は量と質いずれの個々の程度も、全く表さないと思われてきた。しかし、この推断は間違っている。以下この誤りを明らかにしようと試みる。第一に、量や質の程度の正確な概念を構成することなしには、どんな量や質も考えることは全く不可能であることを証明する。第二に、心の能力は無限ではないけれども、不完全ではあるが、少なくとも内省と会話の全ての目的にかなうように、量や質の程度の可能な限りの概念を同時に構成することはできることを証明する。
 まず第一の命題「量や質の程度の正確な概念を構成することなしには、どんな量や質の概念も心は構成できない(量・質の概念には、必ずその程度の正確な概念が伴う)」から始める。この命題は、以下のように三通りの論法によって証明できる。第一。前述(第三節末)のように、思考や想像によって、異なる事物は全て区別することができ、区別することができる事物は全て分離できる。ここで、これらの命題の逆も等しく真実だと言える。即ち、分離できる事物は全て区別することができ、区別することができる事物は全て異なっている。なぜなら、いかにして区別できないものを分離できようか? いかにして異ならないものを区別できるだろうか? 従って、抽象が分離を必ず伴うかどうかを知るためには、この見方で考察するだけなのである。即ち、一般観念において分離された全ての付帯状況が、区別可能かどうか、あるいは、一般観念の主要部分を保持するものと異なったものかどうか、検討すれば良いのである。しかし検討するまでもなく一見して、線の正確な長さは線自体と異ならないし、区別することもできないことは明らかだ。また、線のどんな質の正確な程度はその質自体と異ならないし、区別することもできないことも明らかだ。だから、それらの観念(線とその長さ、線の質とその程度)は区別と相違を許さないのと同じく、分離も許容しない。従って、それらの観念は概念において互いに結合されている(分離不可)。即ち、線の一般観念は、どれほど抽象し純化したとしても、心において量や質の正確な程度を伴って現れる。また、どれほど異なった量・質の程度を持つ他の種々の線を象徴させているときも同様である。
 第二。量と質の両方の程度が決定されることなしには、いかなる事物も感覚に現れることはできず、いかなる印象も心に現れることはできない、と認められる。ときどき印象に伴う混乱は、ただ印象の弱さと不安定さに起因するのであり、個別の程度や割合なしで現実の存在のどんな印象でも受け取るような心の能力に少しも因らない。そんな能力は名辞(概念)の矛盾であり、まさに全ての矛盾の中で最も露骨な矛盾を意味している。即ちそれは、同じ事物が在ると同時に在らぬことを可能にすることだ。
 そもそも全ての観念は印象から由来し、印象の複写と再現に他ならないのだから、一方について真であることは全て、他方についても真であると認められるはずである。印象と観念はその強さと活気だけが異なる。前段の結論は、どんな個別の活気の程度にも依拠していない。従って、その個別のどんな変化によっても影響されることはない。観念は弱い印象であり、強い印象は必然的に量と質を決定するはずなので、その複写や再現(観念)でも同じく量と質を決定するはずである。
 第三。哲学で一般的に受け入れられている「自然界の万物は個別的ある」という原理がある。だから、辺と角の正確な割合を持たない三角形が実在すると考えることは、まったくの不合理である。従って、事実と実在において個別的でないものが不合理であるならば、同様に観念においても不合理であるはずである。明晰判明な一つの観念を形成できることは、不合理でも不可能でもないのだから。ある事物の観念を造ることと、ある観念を単に造ることは同じことである。つまり、ある事物への観念の関係は外的に付与・命名した名称であり、それ自体に何ら特徴や性質を持たない。さて、ある事物が量と質を持ちながらそれらの正確な程度を持たない観念を形成することは不可能なので、それら量と質の両方で限定や制限されない観念を形成することも等しく不可能である。従って、抽象観念がいかに代表することにおいて一般的になったとしても、それ自身は個別的なのである。心の中の心象はただ個別的な事物の心象に過ぎない。推論においてのみ、あたかも普遍的と同様に適用されるのである。
 観念のその本性を超える適用は、生活の目的に役立つほどの不完全な仕方で、観念の量と質の程度を可能な限り集めることから生じる。そしてこれは、明らかにしようと計画していた、第二の命題である。我々は、多くの場合に心に浮かぶ、いくつかの事物の間に類似[原注/付録]を発見したとき、どんなにそれらの量と質の程度に違いがあるのに気づいても、そして、どんなにそれらの間に他の違いが現れても、それら全てに同じ名前を適用する。この種類の習慣を身につけた後では、その名前を聞くと、それらの事物の中の一つについての観念がよみがえり、その観念の全ての個別の事情と程度とともにその観念を想像しないではいられない(思わず想像してしまう)。しかし、同じ言葉(名称)が、直接に心に浮かんでいる観念と多くの点で異なる他の個物へ度々適用されてきたと考えられるのだが、その言葉は、それらの個物全ての観念をよみがえらせることはできず、例えて言えば、ただ心に触れるだけである。そしてただ、それらの個物全てを概観することによって身につけた習慣を、よみがえらすのである。それらの個物全てが確かに実際に心に浮かぶのではなく、ただ(可能な限り)心に浮かべる能力を持つにすぎない。つまり、それらの個物全てを想像力で明瞭に描き出すのではなく、ただ当面の目的や必要によって促されるとき、それらの個物を即座に概観する用意が常に保たれているのである。言葉(名称)は個別観念を生起し、それとともに特定の習慣を生起する。そして、その習慣は機会に応じて他の個別観念を産む。しかし、その名称が適用される全ての観念を産むことはとうてい不可能ではあるが、我々は、より部分的な考慮によって全ての観念を産むことを要約する。そして、その要約によっては推論において、ほんの少ししか不便は生じないことがわかる。
[原注/付録:たとえ異なる単純観念の間でも、相互に相似や類似がありえることは明白である。主眼点つまり類似の状況は、相互に異なる部分から区別や分離すべきであることは必須ではない。例えば、「青」と「緑」は異なる単純観念である。しかし、「青」と「深紅」に比べれば類似していると言える。しかしながら、観念の完全な単純さは、分離や区別のあらゆる可能性を全く許さない。個別の音や味や匂いの場合も同様である。これらは、どんな共通の状況も同じくすることなしに、一般的な現れと比較においては、無限の類似を許す。そして、まさに「単純観念」という抽象用語からでさえ、我々はこのことを確かめられる。この抽象用語は、その下に全ての単純観念を包括している。全ての単純観念は、自らの単純性において相互に類似している。それにもかかわらず、全ての合成を許さない単純観念の性質そのものより、相互に類似するこの単純性という状況は、単純性以外の状況から区別や分離できないのである。全ての質の程度も同様である。質の程度は全て類似するが、それにもかかわらず、質自体はどんな質も程度から区別されない。]
 ほんの少ししか不便は生じないというのは、これは本節の問題の中で最も驚くべき事実の一つだが、心が個別観念を産んだ後、我々が推論する際、偶然に一般・抽象名辞に合致しない推論を構成した場合は、一般・抽象名辞によってよみがえらせた付随的習慣が、他の個別観念をすぐに容易に連想させるからである。例えば「三角形」という言葉が話題になったとして、対応する特定の正三角形の観念を構成し、その後「三角形の三つの角は互いに等しい」と主張したとする。すると、最初は見落としていた二等辺三角形や不等辺三角形の個別観念が、直ちに心に浮かんで来る。その結果、最初に構成した正三角形の観念に関しては正しかったにもかかわらず、その他の種類の三角形の観念によって、この命題(三角形の三つの角は互いに等しい)の誤りが理解できる。もし時によって、心がその他の個別観念を連想させないならば、それは心の機能の若干の欠陥に起因する。そしてこの欠陥は、しばしば誤った推論と詭弁の源泉であるようだ。しかし、この欠陥が現れるのは、主として難解で複雑な観念の場合だけである。その他の場合は、この習慣はより完全であり、このような誤りに直面することはめったにない。
 いやむしろ、この習慣は実に完全である。というのは、全く同じ観念が、いくつかの異なる言葉に付け加えられ、誤る危険なしに異なる推論に使用することができるからだ。例えば、高さ一インチの正三角形の観念は、当の正三角形だけでなく、三角形、正多角形、直線形、図形について話すのに役立つ。従ってこの場合、これら全ての名辞は、同じ(正三角形の)観念を伴っている。これらの名辞は、より小さい範囲やより大きい範囲で適用されるのが常ではあるが、通常これらの名辞に含まれている観念に反する結論を構成しないように、個別の習慣を引き起こすことによって、心をして進んで気づくようにしておく。
 それらの習慣が全く完璧になる前でも、おそらく、心はただ一つの個物の観念を形成することだけで満足しないであろう。その観念固有の意味を理解するために、即ち、一般名辞によって表現しようとした意味の収集の範囲を理解するために、いくつかの個物を再吟味するであろう。例えば「図形」という言葉の意味を確定しようとして、異なる大きさと割合の、三角形、平行四辺形、正方形、円形などを心の中で思い巡らせて、一つの心像や観念には止まらないであろう。しかしどんなにこうした傾向があろうとも、以下のことは確かである。「我々は一般名辞を用いるときでも、あくまでも個物の観念を構成する。これらの個物の全てを完全に網羅することは到底できない。心に残る個物はただ、目下の機会が一般名辞を要求するときはいつでも想起される、特定の習慣を用いることによって心に描かれるだけなのである。」従って以上のことは、抽象観念と一般名辞の本性である。この方法の後では、前述の逆説はこう説明できる。即ち、「観念の本性は個別的だが、他を代表するときは一般的である。」(繰り返すと)個別観念は一般名辞が付加されることにより一般的になる。これは、習慣的結合からもたらされる名辞(概念)は、多くの他の個別観念と関係して、想像において即座にそれらの個別観念を思い出させる、ということなのだ。
 この主題に関する残る唯一の困難は、その「習慣」、一般に付加した言葉や音声によって引き起こされ、機会に応じて可能な限りの個別観念を即座に思い出させる、習慣に関してに違いない。私の考えでは、心のこの活動(習慣)を十分に解明する最も適した方法は、これに類似した他の実例と、この働きを促進する他の原理を提示することであろう。(というのは)我々の心の活動の究極原因を説明することは不可能であり、経験と類推から納得のゆく説明ができるならば、それで十分なのである。
 第一。例えば「千」のような、ある大きい数について言及するとき、心は一般に(その数分の)十分な観念を持たず、その数を含む十進法の十分な観念によって、ただ一つの観念を産み出す能力を持つだけである。しかしながら、大きい数の観念のこの不十分さは、推論においては決して感じられない。このことは、普遍観念と似た例(全部は網羅できないが、代表することはできる)だと思われる。
 第二。習慣がたった一つの言葉によってよみがえるような実例がある。例えば、講演の美文やたくさんの詩句を機械的に丸暗記した人が、ど忘れして思い出すのに困っているとき、初めの一つの言葉や言い回しによって、全部の記憶が思い出されることがある。
 第三。誰でも推論において心の状況を調査すれば同意すると思われるが、推論において使用する全ての名辞に対して明瞭で完全な観念を付加してはいない。例えば「政府」「教会」「交渉」「征服」などについて話すとき、これらの複雑観念を構成する単純観念の全てを、心の中に展開することはめったにない。けれども、この不完全にもかかわらず、これらの主題において意味をなさないことを話さないようにできるし、まるでこれらを完全に理解しているのと同様に、観念間のどんな矛盾にも気づくことができると、観察できる。例えば「戦争では、より弱い者は常に交渉に頼る」と言う代わりに「弱者は常に征服に頼る」と言うならば、観念間の決まった関係から身に付けた習慣が、常にその言葉に続いて、直ちにその命題の不合理に気づかせる。これは、一つの個別観念がその他の観念に関する推論において、それぞれの状況がどんなに違っていたとしても、役立つことができるという点で同様である。
 第四。個物は互いに類似関係を有するように共に収集され一般名辞のもとに配置されるので、この類似関係は、個物の想像への登場を促進し、機会に応じて直ちに連想させる。そしてまことに、内省や会話における思考の共通の進行を考察すると、この事について得心すべき重大な理由がわかるだろう。(確かに)想像がその観念を連想させ、必要や有用になった瞬間にその観念を与える早さ以上に見事なものはない。空想は任意の主題に属する諸観念を、言わば宇宙の端から端にまで及んで収集する。ある人は、観念の全き知的な世界は我々の見方によって直ちに支配されて、最も目的に適した観念を選び出すにほかならないと考えるだろう。しかしながら、心の中の一種の不思議な機能によって上述のように収集された観念を除いては、どんな観念も与えられない。この不思議な機能は、最も偉大な天才においてはほとんど完璧で、この機能こそ天才と呼ばれるものではあるが、それにもかかわらず、人間の理解の最大の努力によっても説明がつかない。
 おそらく以上の四つの内省は、抽象観念について先に提案した仮説、今まで広く一般に普及している哲学の仮説とは反対の仮説に対する全ての困難を取り除く助けになるであろう。しかし実を言うと私は、一般観念を説明する共通の方法によって、一般観念の不可能性について証明した先の記述に主要な信頼を置く。我々はこの論点について、新しい体系を確かに捜さなければならないが、私が提案したもの以外には無いことは明白である。もし観念が本性上、個別的でかつ同時に有限の数ならば、ただ習慣によってのみ、観念はその代表において一般的になることができ、また、代表の下でその他の無限の観念を含むことができるのである。
 この主題を終える前に、学院において話題になっている割には理解されていない「理性的区別」を、同じ原理で説明しよう。この種の思考上の区別は、例えば、形状と形状を有する物体との区別、運動と運動する物体との区別である。この区別を説明する困難は「全ての異なる観念は分離できる」という既出の原理から生じる。というのは、その原理に従うと、もし形状と物体が異なるならば、それらの観念は区別できるとともに分離もできるが、もし形状と物体が異ならないならば、それらの観念は区別も分離もできないからである。それなら、理性的区別によって意味されることは、必然的に相違も分離も(区別も)意味しないことになる。
 この困難を取り除くために、我々は前述の抽象観念の説明に頼らなければならない。(理性的区別は)実際は、区別・相違・分離できないことなので、心がこの単一性にさえ多くの様々な類似と関係が含まれていることに気づかなかったならば、形状を有する物体から形状を区別しようとは決して夢想しなかったであろうことは確かである。例えば、白い大理石の球を見せられたとき、我々は一定の形に配置されている白い色についての印象だけを受けるが、形から色を区別・分離はできない。しかしその後、大理石の黒い球や白い立方体を見て前の白い球と比較してみると、以前は完全に分離できないと思われていた、また実際に分離できないものの中に、形と色の二つの別個の類似を発見する。もう少しこのような練習をすると、我々は「理性的区別」によって色と形を区別し始める。それはつまり、我々が色と形を一緒に考えるのは事実上それらが同じで区別できないからだが、しかしそれにもかかわらず区別し始めるのは、類似を許す違う側面から見るからだ。白い大理石の球の形だけを考えるとき、我々は実際は色と形の両方の観念を構成するが、暗黙のうちに自らの視覚を黒い大理石の球との形の類似へ持って行く。そして同様に、白い大理石の球の色だけを考えるとき、自らの視覚を白い大理石の立方体との色の類似へ向けさせる。このように我々は、大部分感知できないような類いの内省を習慣によって観念に付け加える。白い大理石の球の色について考えないで形だけを考えようと欲する者は不可能を欲する者だが、その意義は、我々は色と形を一緒に考えるはずだが、しかしそれにもかかわらず自らの視覚を、黒い大理石の球その他のどんな色・材料の球との、形の類似へ引き留めるのである。
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第二部 時空観念について



第一節 時空観念の無限分割性について


 哲学者たちの学説が、いかに逆説めいて人類のまず最も先入観のない認識に反していても、通俗的考えから隔絶した自説を見出すことができる自らの学問の優越性を示すので、数多くの哲学者たちによって貪欲に受け入れられてきた。一方、我々に驚きと感心をもたらす謎はどんなものでも、各自の好みに合う感激に身を任せるような満足を与え、その満足には全く根拠がないと説得することは決してできないだろう。これらの哲学者たちとその信奉者たちの性分から、哲学者たちが不思議な説明できない多量の自説を供給し信奉者たちが喜んでそれらを信じている間、相互に親密で満足を与え合うようになる。この相互に親密で満足を与え合う点について、無限分割性学説ほど明白な実例はない。よって、時空観念についての本主題を、この無限分割性学説を検討することから始める。
 心の能力は有限であり、決して十分かつ詳細な無限の概念に到達できないことは一般的に認められている。また、たとえ認められてないとしても、経験や最も平易な観察から十分に明白であろう。さらに「無限」に分けられることができるものは何でも、無数の部分から構成されなければならないし、分割において限界を同時に設けることなしには、有限数の部分を決定できないことが明らかである。したがって、以下のことは何ら帰納の必要なく結論される。即ち、有限の性質を形作る「観念」は無限に分割できないし、適切な区別と分離によって、完全に単純で分割できない最小の観念に達することができる、ということである。我々は、心の無限の能力が否定される限り、観念の分割には限界が有ると推定する。そして、この結論の明証を避けることができるいかなる手段もない。
 以上より確かなことは、想像は「極小」に達してそれ自身ある観念を呼び起こす。その観念は更なる再分割を想像できないし、完全に消滅しないでは縮小できない。例えば、極微量の砂粒の千分の一と万分の一の部分について話すとき、これらの数(千・万)とそれらの異なる大きさの明瞭な観念を持つことはできるが、しかし、それらの部分自体を表すように心に造るイメージは、互いに何も異なることはないし、それらの部分よりもはるかに大きく巨大だと思われる、元の砂粒が表すイメージとも異ならない。部分から構成されるものは部分に区別でき、そして、区別できることは分離できる。しかし、我々がいかに想像しようとも、極微量の砂粒の観念は区別できないので、二十にも分離できないし、まして千や万、無限の数の異なる観念には分離できない。
 感覚の印象についても、想像の観念と同じである。(例えば)紙にインクのしみを付けて、そのしみに注目しながらだんだん離れて、最後に見えなくなるまで距離をとったとすると、そのしみが消える前の瞬間には、その印象やイメージは完全にこれ以上分割できないことが明らかである。遠く離れている物体の微小の部分が感じうる印象を少しも伝えないのは、我々の目に当たっている光線の不足のためではなく、「極小」に縮小された印象の地点、これ以上印象が縮小できない地点を越えて、さらに離れたからである。見えない距離のものを見えるようにする顕微鏡や望遠鏡は、新たな光線を生じさせるのではなく、見えない距離のものからも常に流れ出ている光線を広げるだけである。そして顕微鏡と望遠鏡は光線を広げることによって、肉眼に対して単純・非複合的に生じる印象に部分を与え、以前は感知できなかった「極小」へ前進させる。
 以上のことから(顕微鏡や望遠鏡によって前進できるので)、「心の能力は極大と極小の両側で制限されていて、巨大や微小の一定の程度を越えて、想像が十分な観念を構成することは不可能である」という一般の意見の誤りが分かる。空想の中で構成される観念や感覚に現れるイメージより微小なものはない。というのは観念とイメージは、完全に単純で分割できないからだ。我々の感覚の唯一の欠陥は、巨大で膨大な数の部分から成るものを微小で単純であるように思い描き、事物の不均衡なイメージをもたらすことである。この間違いに我々は気づかず、感覚に現れる微小な対象の印象を、対象と等しいかほとんど等しいと思い、理性によって他の非常に微小な対象を発見すると、どんな感覚の印象や想像の観念よりも下位だと性急に推断する。しかしながら(膨大な数の部分から成る複合的なものの例として「虫」を考えると)、以下のことは確かである。我々は、ダニの千分の一の大きさの虫の動物精気の最小原子よりも小さい観念を構成することはできる。むしろ困難は、概念を拡大するときにあると結論しなければならない。つまり、最小原子を基準にしたとき、ダニの千分の一の大きさの虫やダニの正確な概念を構成するときである。というのは、これらの虫の正確な概念を構成するためには、(膨大な数の部分から成る)虫の全ての部分を表す明瞭な観念をもっていなければならない。そしてこれは、これらの部分の膨大な数と多様性のため、無限分割の体系によれば完全に不可能であり、分割できない部分や原子の体系によっても非常に困難であるからである。


第二節 時空の無限分割性について


 観念が対象の十分な再現である場合は常に、その観念の一致・矛盾・関係は全て対象にも適用できる。このことは一般に、人間の全ての普遍的な知識の根拠であると認められる。そして、観念が延長の最も微小な部分の十分な再現であるとき、いかに分割に分割を重ねてそれらの極小にたどり着いたのだとしても、対象が我々の構成する観念より下位になることは決してできない。この明白な結論は、十分な再現である観念の比較において矛盾や不可能と「見える」ものはすべて、「現実に」矛盾や不可能に違いなく、この点に関してはいかなる弁明や逃げ口上もないのである。
 無限に分割できる全てのものは、無限数の部分を含んでいる。さもなければ、分割は直ちに不可分な部分に達して、無限分割までには至らないだろう。だから、もしある有限延長が無限に分割できるとすれば、この有限延長は無限数の部分を含むと仮定しても矛盾ではあり得ない。「反対に」、有限延長は無限数の部分を含むと仮定して矛盾に陥るとすれば、いかなる有限延長も無限に分割できない。そして、この後者の無限数の部分を含むという仮定の不合理を、以下の明晰な観念の考察によって私は疑いなく確信している。第一に、延長の一部分の構成可能な最小の観念を取り上げ、この観念より微小なものがないことを確信する。そして、この観念の方法で発見するものは何でも、延長の本当の性質に違いないと結論する。次に、この観念を一度、二度、三度、……と繰り返すと、この反復から生じる延長の複合観念が常に拡大して二倍、三倍、四倍、……となり、同じ観念を反復する度数の多少に比例して大なり小なり大きさが変化し、ついには相当な大きさに膨れ上がることを見い出す。部分の付加を中止するとき、延長観念は拡大しなくなる。そして、もし「無限に」付加を続けるならば、延長観念もまた無限になるに違いないということを明瞭に理解する。概して、全ての無限数の部分の観念は無限延長の観念とそれぞれ同じ観念であり、また、いかなる有限延長も無限数の部分を含めないし、従って、いかなる有限延長も無限に分割できないのである、と結論する。
[原注:以下の反対論がある。「無限分割性は『比例的(例、2対1)』部分の無限数だけを仮定し『等分からなる』部分の無限数を仮定せず、比例的部分の無限数は無限延長を構成しない。」しかし、この区別は全く浅はかで取るに足らないものである。(何故ならば)分割部分が『等分的』にせよ『比例的』にせよ、どちらであっても、我々が想像する微小部分より下位になることはできない(からだ)。従って、分割部分の(無限)連結によって、(無限延長)より小さい延長を構成することはできない(無限数は無限延長を構成する)。]
 私は、有名な著者[マルジウ氏]によって提案された強力で見事な別の論拠を付け加えよう。以下のことは明白である。「存在は本質的に個体・個物にのみあるべきであり、決して集団には適用できない。ただ構成単位(個物)があるために集団は成り立つのである。」(集団の例として)二十人が存在していると言われるかもしれない。しかしどう見てもそれは、一人、二人、三人、四人、……が存在するからであり、後者の存在(構成単位)を否定すれば、もちろん前者の存在(集団)も失うのである。従って、集団が存在すると仮定しながら構成単位の存在を否定することは全く不合理である。それなのに(無限分割を主張する)形而上学者の共通な意見に由れば、延長は常に集団であって、決して何らかの構成単位や不可分量に帰することはない、と。すると当然、延長の存在は全く不可能であるという結果になる。これに対して、延長のある一定限量が一単位であり、ただしその構成単位は無限数の分割を許容し無尽蔵に再分割される、と反論しても無駄である。何故なら、この同じ規則によって上例の二十人を「一単位と考えることができる」。また大きくは、地球の全世界を、いや全宇宙を「一単位と考えることもできる」。つまり、この場合の単位という用語は単に架空の呼称であり、この呼称を心は一緒に収集するどんな量の対象にも適用できる。この様な単位の実際は本質的に集団であるので、集団と同様に単独には存在できない。真の構成単位は、単独に存在でき、全ての集団が存在するために欠くことのできない存在である別の種類であり、完全に不可分で更に小さい単位に帰することができないものでなければならないのである。
 以上の論証の全ては時間に関しても行われる。そして今一つ注目するのが適切な追加の議論がある。それは時間に不可分な、いわばその本質を構成する特性についてであり、即ち、時間の各部分の各々は他に続いて起こり、どれだけ各部分が隣接していようとも決して同時に存在することはできない、ということである。例えば一七三七年が今年一七三八年と同時に起こり得ないと同じ理由で、各瞬間は互いに別個であり、先行するか後になるかいずれかでなければならない。それでは、時間は存在する限り、不可分の瞬間から構成されなければならないことは確かである。何故なら、もし時間を分割するとき分割の最後に到達不可能だとすると、そしてもし各瞬間は継起するにもかかわらず完全に単純不可分ではないとすれば、無限数の瞬間や時間部分が同時に存在することになるだろう。これが全くの矛盾であるという結論が、許容されると私は確信する。
 運動の本質から明白であるように、空間の無限分割性は時間の無限分割性を含む。従って、もし後者が不可能であれば前者も等しく不可能でなければならない。
 無限分割学説の最も頑固な擁護者によっては、以上の議論が困難・難問で、完全に明白かつ納得できる解答は全く不可能だということを、直ちに快く許容するであろう、ということを私は疑わない。しかしながら我々はこの点で言うことができる。ある難問(無限分割学説)を論証であるふりをすることとみなし、そうすることによって論証自身の力と名証性を避けようと努めること、このような習慣ほど不合理はありえない。数々の難問が起こり得て、議論が互いに相殺し合ってその権威を減少させるということは、蓋然的な知識でこそ見られるが、論証にはないことである。論証は、もし正しければ対立する難問を少しも許さないし、もし正しくなければ単なる詭弁であり、従って難問であることは決してできない。論証は、圧倒的に全く反論の余地がないか、全然無力であるか、どちらかである。ゆえに、この節のような問題において、反論や応戦や複数の議論の均衡をとること等を論ずることは、人間の理性・推論は言葉の戯れに過ぎないか、または、その論ずる人自身のこの主題への無能力か、どちらかを認めることである。論証は、その主題の抽象性のために理解するのが困難ではあるが、ひとたび理解されれば、論証の権威を弱めるような難問は決して存在できないのである。
 確かに、数学者たちは、この問題の反対側にも等しく有力な数々の議論があり、不可分点の学説もまた答えられない反対論を免れない、と常々言う。これらの数々の議論や反対論を詳細に吟味する前に、まずここではそれらをひとまとめにして、簡潔で明確な道理によって、それらが正しい根拠を持つことは全く不可能だということを、一挙に証明するように努めよう。
 形而上学で確立された格言に「心が明晰に想像するものは全て、可能な存在の観念を含む」別の言葉では「我々が想像するものは全て、絶対不可能ではない」というものがある。例えば、我々は黄金の山の観念を構成できる。そしてこのことから、黄金の山は現実に在りうると結論する。しかし、谷のない山の観念は構成できない。ゆえに、谷のない山は在りえないとみなされる。
 ところで、我々は延長観念を確かに持っている。というのは、もしそうでなければ、なぜ延長について語ったり論じたりするのであろうか? また同様に確かに、想像できる限りの延長観念は、部分すなわち下位観念に分割できるとはいえ、無限に分割可能ではなく、無限数の部分から構成されてはいない。というのは、無限は我々の有限な能力・理解力を超えているからである。それゆえ従って、ここに完全に不可分な部分すなわち下位観念から構成された延長観念がある。従って、この観念は矛盾を意味しない。従って、延長はこの観念に適合して実際に存在できる。従って、数学的点の可能性に反対する全ての議論は、単なる学者ぶった屁理屈であり注意に値しない。
 以上の帰結を一歩進めて、延長の無限可分性を証明したと称する全ての論証は等しく詭弁であると結論できよう。何故なら確かに、これらの論証は数字的点の不可能を証明しない限り正当ではあり得ないが、数字的点の不可能を証明できると自認することは明白な不合理であるからである。


第三節 時空観念の他の諸性質について


 観念についての一切の論争を解決するために最も適切な発見は、上述(第一部第一節)の発見、印象が常に観念に先行すること、想像に具備された全ての観念は最初に対応印象として出現するということであろう。さらに、印象の知覚は全て明瞭かつ明白で反論の余地が無いのに対して、観念の多くは不明瞭・あいまいで、観念を構成する心ですらその観念の性質と構成を正確に述べることはほとんど不可能である。この節の主題である時空観念の性質を更に発見するために、この原理を適用していこう。
 まず、眼を閉じた状態から開けて周囲の事物を見回すと、視覚によって見える多くの物体を知覚する。次に再び眼を閉じて、知覚された物体間の距離を考察すると、延長観念を得る。全ての観念は正確に相似する印象から由来するので、この延長観念に相似する印象は、視覚から由来するある感覚か、または、これらの感覚から起こるある内的印象か、どちらかに違いない。
 我々の内的印象は情緒、感情、欲望、嫌悪などである。がしかし、その中のどれ一つとして、そこから空間観念が由来する原型であると主張する者は決していないであろう。従って、空間観念の原印象を伝えることができる印象は、視覚から由来する感覚より以外に無いといえる。さて、この感覚はこの点でどんな印象を伝えるだろうか? これこそ主要な問題であり、これを解くことは空間観念の性質について言わば上訴不要の判決、結論を下すことである。
 次に知覚された物体の例として、テーブルが私の前にあるとすると、延長観念はテーブルを見ることのみによって十分に与えられる。それならこの延長観念は、この瞬間に感覚に現れるある印象から取り入れられ、かつ、その印象を再現する。しかし私の感覚は、一定のやり方で配置された色のついた点についての印象だけを伝える。もし何か更に知覚できるならば、指摘していただきたい。だが一定のやり方で配置された色のついた点についての印象以外に何も指摘できないのならば、我々は確かに、延長観念はこれらの色のついた点とその出現の仕方の複写に他ならないと結論できよう。
 延長観念を最初に受け取った元の延長物体、つまり色のついた点の構成された状態において、点の色は紫色であると仮定してみよう。すると当然、延長観念を反復するごとに、我々は点どうしを互いに関連して同じ順序で配置するだけでなく、ただ一つの既知の正確な紫色を点に与えることになる。しかしその後、その他の菫、緑、赤、白、黒などの色とその全ての違った構成された状態を経験すると、構成されている色のついた点の配置に類似を見出し、我々はできるだけ色の特殊性を省いて、単に点の配置つまり点の一致する出現の仕方に基づいて一つの抽象観念をつくる。というよりもむしろ、類似が一つの感覚の対象以上に及ぶときですら、即ち点の部分の配置において触覚印象が視覚印象と類似していると判るときですら、それらの類似があるために、抽象観念が二つの違う種類の感覚印象の両方を代表することを妨げない。信頼できる確実な見地で考察すると、全ての抽象観念は実際は個別観念に過ぎない(第一部第七節)。しかし一般名辞を付加することによって、個別観念は膨大な種類を代表することができる。つまりある点で似てはいるが、その他の点で相互に非常にかけ離れた事物をも意味・包含することができる。
 時間観念の方は、あらゆる種類の知覚の継起から由来する。印象の継起と同様に観念の継起からも由来し、感覚印象の継起と同様に内省印象の継起からも由来する。よって時間観念は、空間観念よりも更に多くの種類を包含する抽象観念の実例をもたらすであろう。けれども時間観念は、空想においては限定された量と質の個別特定観念によって代表される。
 我々は、可視的または可蝕的事物の配置から空間観念を受け取るように、印象または観念の継起から時間観念を構成する。そして、時間が単独で出現すること、即ち何らかの知覚の継起なしに心が時間に注意を払うことは、絶対に不可能である。例えば、熟睡中の人や一つの思索に熱心に専念する人は時間に気づかない。そしてまた、知覚が継起する速さに応じて、同じ時間も想像には異なる長さで現れる。知覚の継起が速ければ時間は長く感じられ、知覚の継起が遅ければ短く感じられる。ある偉大な哲学者[ロック氏]によって言及されていることだが、我々の知覚には継起する速さに関して一定の限界がある。その限界は心の原初的な性質と構造によって決められていて、限界を超えると外的事物の感覚への影響は想像を早めたり遅らせたりできなくなる。例えば、燃えている石炭を速く回転させれば、火の輪のイメージを感覚に生じさせ、その回転のあいだに時間の間隔が少しもあるとは思われない。その理由は単に、外的事物が伝達する運動の速さと同じ速さで継起することが、我々の知覚にはできないからである。継起する知覚が無い場合は常に、たとえ実際は事物に継起があったとしても、時間の観念は無いのである。これらの現象と同様の多くの現象から、時間は心に単独で出現することや不動不変の事物に伴って出現することはできず、必ず可変的事物の何らかの「知覚できる」継起によって発見される、と結論できよう。
 このことを確証するために、以下の完全に明確で説得力があると思われる論証を加えよう。時間や持続は種々の部分から構成されることは明らかだ。もしそうでなければ、我々はより長いまたはより短い持続(様々な長さの時間)を想像できないからである。持続の部分の各々が共存しないこともまた明らかだ。なぜならば、部分の共存という性質は延長に属していて、延長を持続から区別するものだからである。即ち、共存しない種々の部分から構成されるのが時間である以上、不変的事物は共存する印象を産むだけであるので、不変的事物は時間観念を与え得る何物をも産まないのである。従って、時間観念は可変的事物の継起から由来するに違いなく、時間の最初の出現は可変的事物の継起とは決して切り離すことはできないのである。
 以上より、時間の心への最初の出現は可変的事物の継起と常に結合されているということ、もしそうでなければ我々は決して時間に気づかないということが判った。次に、事物の継起を少しも想像することなしに、我々は時間だけを「想像」できるかどうか、換言すれば、我々の想像において別個の時間観念を単独に構成できるかどうかを吟味しなければならない。
 印象において結合されているどんな事物も、観念において分離できるかどうかを知るためには、各々互いに異なるかどうかを考察するだけでよい。もし異なるときは、明らかに別々に想像できる。上述(第一部第七節)の原則によると、異なるものは全て区別できるし、区別できるものは全て分離できる。もし逆に、異ならないときは区別できないし、区別できなければ分離はできない。しかしこれはまさに、我々の継起する知覚と比較したときの時間について当てはまるのである。その時間観念は、他の印象と混じりあって明らかに区別できる個別印象からは由来しない。全く時間観念は、複数の印象が心に現れる様式に起因し、印象の一つを構成することはない。例えば、フルートの奏でる五つの音は、我々に時間印象と時間観念を与える。しかしながら時間は、聴覚や他の感覚に現れる五つの音の印象に続いた六番目の印象ではない。また、内省によって心に現れる六番目の印象でもない。これらの五つの音、この特定の様式で現れる五つの印象は、心に感情をかき立てないし、新しい観念を生じさせられることによって気づかされるような、どんな種類の影響も引き起こさない。というのは、「それ(感情)」は新しい内省の観念を産み出すために必須だからである。心がたとえ感覚の観念を千回以上思い巡らし熟考したとしても、そのような熟考から生じる新しい独自の印象を感じる心の機能が自然に組み込まれていない限り、感覚の観念からは新しい独自の観念を取り出すことは決してできないのである。しかし上の例において、心は五つの音の出現「様式」に気づくだけである。しかもその後、心はこれらの特定の音を考えることなしに(様式だけを)考えることができ、その様式を他のあらゆる事物と結合できる。心は確かに事物の観念を持たなければ、時間観念に決して達することはできない。しかし時間観念は、それ自身に起源をもつ別個の印象としては出現しない。明らかに時間観念は、互いに継起するという特定の様式に配置された、種々の事物や印象や観念より以外のものではあり得ないのである。
 私は、持続観念が本来の意味で、完全に不変である事物に適用できると装う者がいることを知っている。しかもこの事は、俗衆だけでなく哲学者の一般的な意見にもなっていると思われる。しかし、その虚偽を確信するには、前出の結論を、即ち、持続観念は常に可変的事物の継起から由来し、不動不変ないかなるものによっても、決して心に伝えられることはできないということを省察するだけでよい。というのは、この結論に従って必然的に、持続観念はそのような不変的事物からは由来できないので、不変的事物に持続観念を適用すると妥当性や的確性を失うことになり、いかなる不変的事物も持続性があるとは決して言うことができなくなるのである。観念は常に観念が由来した元の事物や印象の再現であり、虚構を除いて他のいかなるものも決して再現や適用できない。どんな虚構によって、我々は不変的事物にさえ時間観念を適用するのか、持続を運動の尺度だけでなく静止の尺度と一般的に思うのか、この点については後[原注:第五節]で考察する。
 時空観念に関する本節の学説を確立する、もう一つの非常に決定的な論証がある。その論証は「時空観念は複数の不可分な部分から構成される」という単純な原理だけを根拠にしている。この論証は検討に値しよう。
 区別できる全ての観念は、分離もまたできるのであった。そこで、「延長」の複合観念を構成している、複数の単純不可分な観念から一つを選び、他のすべての観念から分離して個別に考察し、その本性および諸性質について判断を下そう。
 この単純不可分な観念は、明らかに延長観念ではない。というのは、延長観念は複数の部分から構成されるが、この観念は、仮定により、完全に単純で不可分であるからである。すると延長でないのならば、存在しない物・無だろうか? 絶対に無であることはできない。何故なら、実在する延長の複合観念は、このような単純不可分な観念から構成されるからである。非実在がいくらたくさん集まったとしても、非実在から現実の存在が構成されることは不合理である。従ってここでは「我々の単純不可分な点の観念は何であるか?」と問わなければならないのである。この問いに対する答えが、いくらか目新しく見えるとしても不思議ではない。その問い自体、未だかつて問われたことがほとんどなかったからである。我々は数学的点の性質について論争するを常とするが、数学的点の観念の性質を問うことはまれである。
 一般に空間観念は、視覚と触覚の二つの感覚によって心に伝えられる。即ち、可視的でも可触的でもないものは決して、延長として現れることはない。延長を表すその複合印象は、視覚や触覚にとって不可分な、より小さい幾つかの印象から構成される。それは、色と固体性を賦与された、多数の原子や微粒子の複合印象と呼ぶことができよう。しかし、以上で全てであるというわけではない。これらの原子が我々の感覚に現れるために有色や可触なことが必要不可欠であるだけでなく、それらの原子が我々の想像に理解されるために色や可触性の観念を保つこともまた必要不可欠であるのである。他でもない原子の色や可触性の観念こそが、原子を心によって想像し、考えられるようにすることができるのである。この二つの可感的性質を除去すると、原子は想像や思考に対して全く消滅してしまうのである。
 さて、部分がこうなら、全体もそうである。もし、部分である単純不可分な点が有色や可触と考えられないのならば、その観念も我々に伝わることはできない。従って、全体である延長観念も、これらの点の観念から構成されるのだから、いかにしても存在できないのである。逆に、延長観念が我々の意識しているように実際に存在できるのならば、部分である単純不可分な点もまた存在しなければならないし、そのためには有色や可触と考えられなければならない。結論として、視覚や触覚の対象と見なされる以外には、我々には空間観念すなわち延長観念は無いのである。
 同様の推論によって、時間の不可分な瞬間は、実際の事物や存在で満たされなければならないこと、その継起が持続を構成して、時間を心によって想像し考えられるようにすること、が証明されるであろう。


第四節 反対論への答え


 時空に関する我々の体系は、相互に密接に関連する二つの部分から成り立つ。一つは、以下の一連の推論に依存している。即ち、心の能力は無限ではない。従って延長や持続の観念は、無限数の部分・下位観念から構成されず、有限数の単純不可分な部分・下位観念から構成される。その結果、この単純不可分な延長や持続の観念に適合して時空が存在することは可能である。そして可能であるならば、必ず時空は実際にその観念に適合して存在するだろう。何故なら、時空の無限分割性は全く不可能かつ矛盾しているからである。
 もう一つは、体系の最初の部分の帰結である。即ち、時空観念が帰着するところの分割部分は、分割の最後には不可分となる。そして、それ自身では無(非延長・非持続)であるこれらの不可分な部分は、ある現実に実在する何かで満たされない場合、考え想像することはできない。従って時空観念は、独立した別個の観念ではなく、事物が存在する様式や順序の観念に他ならない。言い換えると、真空つまり物質のない延長、あるいは、現実の存在に少しも継起や変化のない時間を、考え想うことは不可能である。以上の時空に関する体系の二つの部分間の密接な関連性は、両者に対して強く主張されてきた数々の反対論を、以下に一括して検討する理由である。まず、延長の有限可分性に対する反対論から始める。
 一 最初の留意すべき反対論は、時空体系部分のいずれかを打破するに適するというより、むしろ両者の関連性と依存性を証明するのに適する。それは学院で数々主張し続けられてきた反対論で、数学的点の体系は不合理であるので、延長は「無限に」分割できなければならないというものである。そして、数学的点の体系はなぜ不合理であるかといえば、一個の数学的点は実在する物ではないので、従って他の点と連結して実際の延長を構成することが決してできないからである。もし物質の無限可分性と数学的点の非実有性との間に、いかなる中間の道もないとすれば、この反対論は完全に決定的であろう。しかしながら、中間の道は明らかにあるのである。即ち、数学的点に色や固体性を付与することである。そして両極端の不合理は、この中間の道の真実性と現実性の論証となる。もう一つの「物理的」点の体系という中間の道があるが、これは余りに不合理であって論駁する必要はない。物理的点は実際の延長と仮定されていて、相互に異なる部分を持たないでは決して存在できない。そして異なる部分は、想像において区別でき、分離できるのである(よって、不可分点ではありえない)。
 二 第二の反対論は、もし延長が数学的点から構成されるとすれば、必然的に起きるであろう「透入」から由来する。即ち、単純不可分な原子が他の同様な原子に触れると、必然的に他の原子中に透入しなければならない。何故なら、まさに一切の部分を排除する原子の完全な単純性という仮定から、原子相互が外側の部分で触れ合うことは不可能である。その結果二つの原子は、密接にその全本質について「自己自身で、全体として、全的に」、触れ合わなければならない。これはまさに、透入の定義そのものである。しかし、透入は不可能であり、従って、数学的点も等しく不可能である。
 透入の観念を、より正しいものに取り替えることによって、この反対論に答えよう。まず二つの物体を仮定し、それらの外周の範囲内に少しも空所を含まないとする。相互に接近して、そして、合体した結果の物体が元の物体のいずれよりも広い延長を持たないように合一したとする。これが、透入について語るときの意味でなければならない。しかしこの透入は、二物体の一方が消滅し他方が保存され、どちらが消滅しどちらが保存されたか個々に区別できないことに他ならないことが明らかである。接近する前には二物体の観念がある。その後ただ一つの観念となる。心が同時に同じ場所の中に存在している同じ性質の二物体の間に、相違のどんな概念も保存することは不可能である。
 従って、透入をこの意味、即ち一物体が他物体に接近して消滅することと解して、以下に尋ねる。一つの有色・可触点が、もう一つの有色・可触点に接近したすぐあとに、消滅しなければならない必然性があるだろうか? そうではなく、二つの点の合体の結果の一つの事物は、複合的・可分的であって二つの部分に区別でき、互いの接触にもかかわらず、各々の部分は別個の分離した存在を保存する、と明白に認められないであろうか? ここで、二つの点が異なる色であると想像することによって想像力を助け、それらの合体と混同を防ぐ良い方に助力させよう。例えば、青い点と赤い点は確かに、少しも透入つまり消滅せずに、接触状態にあることができる。何故なら、もしできないとすれば、青と赤の二つの点からいったい何ができるであろうか? 青と赤のどちらを消滅させるのであろうか? あるいは、もし二つの色が合一して一つの色になるとすれば、その合体によってどんな新しい色が産み出されるのであろうか?
 これらの反対論を主に引き起こす原因、同時にその反対論に満足な答えを与え難くさせる原因は、このような単純不可分という微小な事物を対象とするときに、我々の感覚と想像の両方にある自然的な欠陥と不安定である。例えば、一滴のインクを紙に落として、インクの斑点が全く見えなくなる距離まで後退したとする。その後、引き返して徐々にインクの斑点に近づいてみると、最初のうちは短い合間を置いて見えるようになることが判るだろう。次には、常に見えるようになる。次には、大きさが増大せずに着色のみ新しい力を得て濃くなる。そして次には、実際に延長を有する程度にまで大きさが増してくる。しかしその時でもまだ、想像がこの斑点をその構成要素に分割することは困難である。何故なら、たった一つの点のような非常に微小な事物を想うことは想像にとって容易ではないからである。この我々の本性上の欠陥は、目下の主題の論究の大部分に影響を及ぼす。そして、それに関して起こる多くの質問に、適切な表現で、理解しやすい明瞭な仕方で答えることを、ほとんど不可能にするのである。
 三 これまで「数学」から、延長部分の不可分性に対する多くの反対論が引き起こされている。しかし一見したところでは、数学はむしろ不可分性の学説に有利であるように思われるのである。そして、数学の「論証」が反対であるにせよ、その「定義」は完全に適合している。従って、ここでの務めは、定義を擁護して論証を反駁することでなければならない。
 数学では、面は深さのない長さと幅、線は幅も深さもない長さ、点は長さも幅も深さも持たないもの、と「定義」されている。これらの三つの定義は全て、不可分点つまり原子による延長の構成を想定するのでなければ、完全に不可解であることが明らかだ。この想定の他に、いかなるものも、長さなし、幅なし、深さなし、に存在することができるであろうか?
 この主張に対して、二つの異なる答えが今までに為されてきたと見られるが、どちらも満足できるようなものではない。一つは以下である。幾何学の対象、即ち幾何学によって割合と位置を検討される面・線・点は、ただの心の中の観念にすぎず、いまだかつて存在しなかったし、決して存在し得ないのである。いまだかつて存在しなかったというのは、誰もその定義に完全に適合する線を引き面を作ろうとは、あえてしないだろうからである。決して存在し得ないというのは、他ならぬそれらの図形の観念そのものから、それらが在り得ないことを証明する論証が作成できるからである。
 しかし、この推論より不合理で矛盾したことを想像できるであろうか? 明晰判明な観念によって考え想うことができるものは何でも、必然的に存在の可能性を必ず伴う。それなのに、明晰な観念に由来する論証によって、明晰に考え想うことができるものの存在の不可能性を証明したと称する者は、実際には、明晰な観念を持っているにもかかわらず、観念の対象についての明晰な観念を持たないと主張する者である。どんなものも心が判明に考え想うものに、矛盾を探し求めることは無駄である。もし、矛盾を含むとすれば、考え想うこと自体が不可能なのである。
 従って、不可分点の可能性だけは少なくとも許すか、不可分点の観念を全く否定するか、この両者の間に中間の道はないのである。そして、前述の議論に対する二つ目の答えは、この後者の原理(不可分点の観念の否定)を根拠とする。かつて以下のような説[原注:『思考術』(ポール・ロワイアル派の代表的な論理学書)]があった。即ち、幅が無い長さを考え想うことが不可能であるとしても、分離を含まない抽象化によって、我々は幅を度外視して長さを考察することができる。例えば、二つの町の間の道の長さを幅を度外視して考えられるのと同様である。長さは、自然においても心においても幅から分離できない、がしかし、先(第一部第七節末)に明らかにしたような「理性的区別」という部分的考察を排除しないのである。
 この二つ目の答えを論破するに当って、既に充分に明らかにした議論を再説しない。それは、もし心が観念において「極小」に達することが不可能であるとすれば、延長観念の構成要素である無限数の部分を理解するためには、心の能力は無限でなければならないということであった。ここでは、この不可分点の観念を否定する推論に関して、新しい不合理な点をいくつか見出だすように努めよう。
 点は線の、線は面の、面は立体の、の末端をなす。しかし、もし点・線・面の「観念」が不可分でないとすれば、これらの末端を考え想うことは決してできない、と断言する。何故なら、点・線・面の観念を無限に分割できると仮定し、想像を末端の点・線・面の観念に向けるように努めたとすると、この末端の観念は部分に分割されることに直ちに気づく。そして、分割された部分の末端を捕えると同時に新たに分割されて把握を失い、これを「無限」に繰り返して、末端の観念に達する可能性は全くないのである。いくら分割しても、最初に構成した観念に比べて少しも末端に近づかない。まるで水銀をつかもうとするときのように、あらゆる小片は新たな分割によって把握を受けつけない。けれども実際の全ての有限量の観念には、その末端をなす限界を与えるものがなければならず、そして、この限界を与える観念それ自身は、部分すなわち下位観念から構成されることはできないのである。もしそうでなければ、限界を与える観念の最後の部分が末端をなすことになり、さらにその下位観念へと際限がないであろう。以上は、明白な証明である。故に、点・線・面の観念は、点はあらゆる次元において、線は幅と深さにおいて、面は深さにおいて、一切の分割を許容しない。
「学院の人々」はこの論証の力に充分に気付いていたので、学院のある者は、物体に末端を与えるために、自然は「無限」に分割できる物質の粒子の間に、相当数の数学的点を混ぜている、と主張した。また他の者は、多数の理解しにくいあら捜しや分け隔てによって、この推論の力を回避した。これらの反対者は両者とも、同様に勝利を手放す。(というのも)逃げ隠れる者は、負けを認めて正々堂々と武器を明け渡す者と同じく、敵の優越を明らかに認める(からである)。
 以上のように明らかに、数学の定義は、数学の論証と称されるものを論破する。即ち、もし我々が定義に適合する不可分な点・線・面の観念を持つならば、それらの存在は確かに可能である。がしかし、定義に適合する観念を持たないならば、いかなる図形の限界も決して考え想うことはできず、限界の観念なしには、いかなる幾何学の論証も在り得ないのである。
 しかし私はさらに考察を進めて、いかなる幾何学の論証も無限可分性のような原理を確立する充分な重味を持つことができない、と主張する。何故なら幾何学の論証は、このような微小対象に関しては、正確ではない観念や真実ではない原則の上に築かれ、正当な論証とは言えないからである。幾何学が量の割合に関して何かを決定するとき、我々は極限の「精度」と正確さを期待すべきではない。幾何学の証明のどれも、この程度までは及ばないのである。幾何学は、正しく図形の寸法と割合を捕らえる。がしかし、それは概略であり、若干の自由が利く。その誤差は決して重要ではなく、絶対的な完璧を目指さないのならば、全然誤ることはないであろう。
 さて、第一に優先して数学者たちに問うが、一つの線や面を他の線や面と比べて「等しい/大きい/小さい」と言うとき、どういう事を意味しているのであろうか? 不可分点による延長の構成を主張する者でも「無限」分割可能量による延長の構成を主張する者でも、その属する派を問わずに答えを迫ると、この質問はいずれの派の数学者たちをも困惑させるであろう。
 不可分点の仮説を支持する数学者は、ほとんど全くいないのであるが、それにもかかわらず、目下の質問に最も正しく即座に答えうるのは不可分点の仮説を支持する者である。即ち、二つの線や面の各々の不可分点の数が等しいとき両者は等しく、不可分点の数が異なるとき両者の大きさは同様に異なる、と返答しさえすればよいのである。しかしながら、この答えは明白であるだけでなく「正しく」もあるが、それにもかかわらず、この等しさの基準が全く「無用」であって、このような比較から事物相互について等不等を決定するのでは決してない、と断言できる。というのは、線や面の構成要素となる不可分点は、視覚あるいは触覚いずれによって知覚されるにせよ、極めて微小であり互いに区別し難く、心が不可分点の数を算定することは全く不可能であるからだ。よって、このような算定方法では、大きさを判定できる基準を決して与えないであろう。誰も不可分点の正確な計数によって、一インチのほうが一フィート(十二インチ)より少ないとか、一フィートのほうが一エル(三十七インチ/四十五インチ)より少ないとかなど、決して決定することはできないので、等不等の基準として不可分点の数を検討することはまずないのである。
 延長は「無限」に分割できると想像する人々の方は、前段の答え(不可分点の数)を利用できるはずもない。言い換えると、延長の構成要素の計数によって、線や面の等しさを確認できるはずはない。何故なら、無限分割仮説によると、最小の図形も最大の図形と同様に無限数の部分を含んでいるため、無限数相互について正確に言えば等不等はあり得ないので、空間の部分の等不等は、部分の数の多少に依存することは決してできないからである。しかし、一エルと一ヤードの不等は、フィートに換算すればフィートの異なる数にあると言えるし、一フィートと一ヤードの不等は、そのインチ換算数にあると言えよう。しかしながら換算する際に、一方の一インチ量と他方の一インチ量が等しいと仮定されている(解明対象が前提されている)のである。また、さらに下位の量との関係を「無限に」進めることによっても、単位量どうしの等しさを見つけ出すことは不可能である。結局は、部分の枚挙(前段の答え)と異なる等しさの基準を決めなければならないことは明白である。
 等しさは「合同」によって最も良く定義される、つまり、二つの図形を重ねて全ての部分が一致し相互に接するときこの二図形は等しい、と称する者がある[原注:バロウ博士『数学講義』参照]。この定義について判断するために、次のことを考えよう。即ち、等しさとは一つの関係であるので、厳密に言って、図形自体の特性ではなくて、単に心が図形どうしを比較することから生じるのである。従ってもし等しさが、この想像上の適用(二つの図形を重ねて全ての部分が一致)と部分の相互接触にあるとするならば、我々は少なくとも、これらの部分の明瞭な観念を持って、相互接触を考えなければならない。さて、上記の構想の下に、我々は考えられる限りの最も微小な部分に至るまで、一致を追求するであろうことは明らかだ。というのは、大きい部分の接触では、決して図形に等しさを与えないだろうからである。しかし、考えられる最も微小な部分は数学的点に他ならない。従って、この等しさの基準は、不可分点の数の等しさから由来する基準と同じということになる。そしてこの基準は既に、正しいが実用にならない基準と決定済みである。従って、目下の難問の解決のためには、他の方角に目を向けなければならないのである。
[付録]等しさのどんな基準をも設けることを拒否する多くの哲学者たちがいる。それらの哲学者たちは、等しさの割合の正しい概念を与えるためには、等しい二つの事物を示せば十分である、と主張する。曰く、等しい二つの事物の知覚なしには、全ての等しさの定義は不毛であり、逆に、等しい二つの事物に気づく場合には、もはや等しさの定義の必要性は少しも無いのである。この推論の結果に、私は全面的に同意する。つまり、等不等の唯一の有用な概念は、個々の(具体的な)事物の比較と、統一された外観全体に由来することを主張する。[ここまで]
 明らかに言えるのは、目は、より適切に言えば心は、多くの場合一目で物体の大きさを決定できる。そして、二つの物体の微小部分の数を比較検討することなしに、互いに等しいか、大きいか小さいかを判断することができる。そのような判断は、ありふれた普通の判断であるだけでなく、多くの場合に確実で誤らない。例えば、一ヤードの物差しと一フィートの物差しが差し出されるとき、心は前者が後者より長いことを、もはや疑うことができない。それは、最も明晰で自明な原理を、心が疑い得ないのと同じである。
 従って、心はその対象の一般的な外観において三つの大きさの関係を区別し、「等・大・小」という名称で呼ぶのである。しかしながら、これらの大きさに関する心の決定は、時に誤りないとはいえ常に誤りないとはいえないし、我々のこの種の判断は、その他の主題に関する判断より、疑いと誤りを免れているわけでもない。我々は再考と熟慮によって、初めの見解を頻繁に訂正する。そして、初めは等しくないと見なした事物を等しいと判断し、前に一方より大きく見えた事物を小さいとみなす。更に、我々の感覚のこれらの判断が受ける訂正はこれだけではなく、事物の並置によっても誤りを頻繁に発見する。また並置できない所では、共通かつ一定の尺度を使用して各々に順次適用し、事物の個々の大きさを知ることができる。しかもこの訂正すら、物体を測定する計器の特質や比較する際の留意によって、新たな訂正を許す。つまり、正確さの異なる段階を許すのである。
 従って、心がこれらの判断とその訂正に慣れていて、二つの図形を「等しさ」と呼ぶ外観で念頭に置き、相互にそして比較する共通の尺度で一致して、同じ大きさだとわかるとき、我々は、比較的杜撰な方法から厳密な比較方法までに由来する、等しさの混合観念を構成するのである。しかし、我々はこれに満足しない。というのは、適切な理性が感覚に現れる物体より「非常に」微小な物体の存在を納得させるように、適切でない理性は「無限に」微小な物体の存在を納得させるであろうから、我々は、一切の誤りや不確実さと無縁な、いかなる測定具や測定術も持っていないことを、明らかに認めるのである。我々は、これらの理性上の微小部分の一個の付加や除去は、外観上も測定上も識別できないことがわかる。また我々は、前は等しかった二つの図形が、この微小部分一個の付加や除去の後では等しくはないであろうと考える。従って我々は、等しさの想像上の基準を仮定して、外観や測定を正確に訂正し図形を全く等しく変形するのである。明らかに、この基準は想像上のものである。というのは、まさに等しさの観念は、並置や共通尺度によって訂正された詳細な外観の観念であり、いかなる訂正の観念も、我々が使用できる測定具や測定術を越える場合は、単に心の虚想に過ぎず、不可解なだけでなく実用にはならないからである。しかしながら、この基準は単に想像上のもので全くの虚想であるとしても、まさに自然で当然な基準であり、そのため、最初に活動を始めようと決定した理由が終わった後でさえ同じ活動を続けることは、心にとって最も日常的・習慣的なことである(測定具や測定術を越えて虚想に至っても、等しさの想像上の基準は適用され続ける)。これは、時間に関して非常に目立って現れる。我々は時間において、部分の大きさを測定する正確な方法がなく、まさに延長における測定ほどには正確でないことは明らかではあるが、それにもかかわらず、我々の測定の様々な訂正とその正確さの異なる段階は、完璧で完全な等しさの観念を、不明瞭かつ暗黙に与えてしまうのである。多くの他の主題にも、同じ実例が見られる。例えば、注意と反省により自己の音感を矯正して、日々に耳がより鋭敏になってきている音楽家は、主旋律を欠くときでも心の同じ活動を続行して、どこから基準を得ているかは彼自身は説明できないのだが、完全な「三度音程」や「八度音程」の観念を心に抱く。また、画家は色彩に関して、機械工は運動に関して、同様の虚想を造る。前者は色彩の「明暗」について、後者は運動の「遅速」について、感覚の判断を越えて正確な比較と等しさが可能であると想像する。
 我々は「曲線」と「直線」について、同様の推論を適用できるだろう。感覚にとっては、曲線と直線の区別ほど明らかなものはなく、この二つの対象の観念ほど我々が容易に構成する観念はない。しかし、どんなに容易に曲直観念を構成できるにせよ、曲線と直線の間に正確な境界を確定する、いかなる定義も作成することはできないのである。我々が紙すなわち任意の連続面に線を引くとき、ある一定の順序で一つの点からもう一つの点へ線を引いていき、その複数の連続した線が、曲線や直線の総体印象を産むのである。しかし、この順序は完全に未知であり、連結された外観だけが観察されるのである。このように、不可分点の体系に基づいてさえ、曲線と直線に関するある未知な基準のかすかな観念を造り得るに過ぎない。ましてや無限可分性の体系に基づけば、この程度にさえ至ることはできない。我々が線を曲線か直線か決定する規則としては、単に一般的な外観だけしかないのである。しかしながら我々は、曲線と直線の完全な定義を与えられないし、曲線と直線を区別するいかなる正確な方法をも生み出せないが、それにもかかわらずこのことは、より正確な考察によって、つまり、より大きい確信をもたらす反復試行からの正しさの規則との比較によって、我々が最初の外観を訂正することを妨げない。そしてこうした訂正から、すなわち、その理由のなくなったときですら心の同じ活動を続けることによって、我々は、理解や説明することはできないのに、曲線と直線の完全な基準について厳密ではない観念を構成するのである。
 数学者たちが「直線とは二点間の最短路である」として直線の正確な定義を与えると称していることは本当である。しかし第一に私は言うが、これは直線の正しい定義というよりも、直線の一つの特性の発見というほうが適切である。何故なら私は誰にも尋ねるが、直線について言及するとき、直接にはこのような特殊な外観を考えないし、偶然でもない限りは、この最短という特性を考慮に入れないのではないだろうか? 直線というものは単独に理解できるが、しかしこの定義は他のより延びている線との比較なしには理解できないのである。日常生活では、最直路は常に最短であるということが原則として確立されているのだが、もし直線の観念が二点間の最短路の観念と異ならないのならば、この原則は、最短路は常に最短であるということと同様に不合理なものとなろう。
 第二に、既に確立済みのことを繰り返すが、直線や曲線の正確な観念がないのと同様に、等不等や長短の正確な観念もない。その結果、これらの正確ではない観念の内の一つが、他の観念に完全な基準を与えることは絶対に不可能である。正確な観念は、このような未確定の厳密ではない観念の上には、決して築くことができないのである。
「平面」の観念も直線の観念と同様に、正確な基準をまず許さない。つまり我々は、その一般的な外観より以外には、平面を他の面から識別するいかなる手段も持たないのである。数学者たちは平面を、直線の流れによって延長されたものとして表現するが、それは無駄であり、直ちに次のように反論される。まず、平面の観念はこの造面方法に依存せず独立である。それは、円錐の全ての母線と交わる切断平面が楕円であるが、楕円の観念は円錐の観念に依存せず独立であるのと同様である。次に、直線の観念は平面の観念と同じく正確ではない。更に、直線は不規則に流れてもよく、その方法によって平面とは全く異なる図形を造ることもできる。従って直線は、同じ平面上の互いに平行する二直線に沿って流れる、と限定しなければならず、これは、ある物事をそれ自身によって説明する記述であり、循環論法に帰するのである。
 以上より明らかに、幾何学にとって最も本質的な諸観念、すなわち等不等や直線や平面の観念は、我々がそれらの観念を考える一般的方法に従えば、正確で議論の余地のないことから程遠い。どんなときに個々の図形どうしが等しいのか、どんなときに線が直線なのか、面が平面なのか、ある程度疑わしい場合に限って、これらを語り得ないだけではない。我々はそもそも、大きさや図形についての確実で不変な観念を、全く構成できないのである。我々の訴えるところは、それでもやはり、弱くて誤りやすいながらも、事物の外観から造られ、コンパスなどの共通測定器によって訂正される、判断なのである。そして、さらに進んだ訂正の仮定を付け加えるとしても、この仮定は無用か、想像上のものかどちらかのようなものである。たとえ、周知の主題に頼り神の仮定を使用して、神の全能は完全な幾何学的図形を造ることが可能で、少しの曲がりや湾曲の無い直線を描くことが可能である、としてみても無駄である。何故なら、幾何学的図形の究極の基準が由来するのは、感覚と想像より他にはないからである。この二つの能力が判断することができるものを越えて、どんな完全についてでも語ることは不合理である。いかなるものでもその真の完全さは、その基準との一致にあるからである。
 さて、これらの幾何学的図形の諸観念がこのように厳密ではなく不確かであるので、私は数学者に、専門の比較的複雑で難解な命題についてだけでなく、最も初歩的で理解し易い原理についてさえ、どんな確実な保証があるのか、と問いたい。例えば、二直線が共通線分を持ち得ないことを、いかにして数学者は証明できるだろうか? また、任意の二点間に一直線より以上を引き得ないことを、いかにして証明できるだろうか? もし、二直線が共通線分を持ち、任意の二点間に一直線より以上を引き得るとするならば、明らかに不合理であり明晰な観念に背く、と数学者が言うのなら、私は答えよう。二直線がはっきり知覚できるほどの角度で交差する場合は、私も二直線が共通線分を有すると想像する不合理を否定しない。しかし、二直線が二十リーグ(一リーグは約三マイル)に一インチの割合で接近するとすれば、私は二直線が共通線分を持ち得ると主張しても、全く不合理を認めない。何故なら、二直線が一致すると思われる線(共通線分)が、非常に小さい角度で交差するその二直線と同一直線を成し得ない、と数学者が主張するとき、いかなる規則や基準によって判断するのであろうか? 私は数学者に答を懇願する。このとき確かに数学者は、同一ではないある直線の観念を持たなければならない。従って数学者は、その直線が直線に特有で本質的であるような同じ順序や規則による点を取らない、と言うのだろうか? もしそうならば、私は告げなければならない。このように点の順序や規則に関して判断するときは、おそらく数学者の意図を越えて、不可分点による延長の構成を許容することになるのである。その他に、さらに私は告げなければならない。点の順序や規則は、我々が直線の観念を構成する基準ではない。仮に基準であるとしても、我々の感覚や想像には、点の順序や規則が保たれているか破られているかを決定するような確実さは少しもないのである。直線の根原的基準は実際には、ある一般的な外観にほかならない。そして、この基準はあらゆる実用上と想像上の方法によって訂正されるにもかかわらず、それでもこの基準に調和して、二直線が共通線分を持ち得ることは明らかである。
[付録]数学者たちがどちらの側に立つにせよ、両刀論法は避けられない。もし、等しさやその他の大きさの比較について、正確かつ精密な基準によって、即ち、微小な不可分点の枚挙によって判断するとすれば、実際には無用である基準を用いることになるし、また、論破しようと努めている延長の不可分性を意に反して確立することになる。もしくは、日常的に普通な、事物の一般的な外観の比較に由来し、測定と並置によって訂正された、不正確で精密でない基準を用いるとすれば、数学者の第一原理は確実で誤りがないとはいえ、粗雑に過ぎて、その第一原理から通例引き出すような繊細な推論を与えられない。第一原理は、感覚と想像に根拠を置くのである。従って結論は、感覚と想像の機能を決して越えられず、まして、矛盾することはできない。[ここまで]
 この事は我々の眼を多少は開いて観察力をもたらすであろう。その結果、延長の無限可分性に対するいかなる幾何学的論証も、このような壮大な主張によって支持される全ての論証に帰属すると当然に考えられるほどの効力を、決して持ち得ないことを理解するであろう。同時に我々は、無限可分性以外の全ての幾何学の推論が我々に最大限の同意と賛同を命じるのに対して、一方、延長の無限可分性についてだけは、なぜ証明の根拠を失うのかという理由を突きとめるであろう。そして確かに、無限可分性についての全ての数学的議論を全くの詭弁とみなし、実際にこうした例外を作らなければならないことを示すよりも、この例外の理由をもたらすことの方が必要に思われる。何故なら以下の事は明白だからである。即ち、いかなる量の観念も無限に分割できないので、量自体が無限に分割できると証明しようと努めること、しかも、無限分割に全く反対である観念の方法によって証明すること、これより歴然とした不合理は想像できないからである。そして、無限分割の不合理がそれ自体まさに歴然としているように、無限分割に根拠を置いた論証が、新しい不合理を伴わず、また、明白な矛盾を含まないことは一切ありえない。
「接点」から派生する無限可分性についての論証を、その実例として挙げられよう。しかし、紙に描かれた図によって判断されることを拒否しない数学者はいないであろう。何故なら数学者が述べるように、紙に描かれた図は厳密ではない下図であり、主に、我々の全ての推論の真の根拠である若干の諸観念を、いとも簡便に伝達するのに限って役立つからである。数学者のこの説明に納得し、推論の真の根拠である諸観念だけに基づいて議論を進めよう。そのため数学者には、円と直線の観念をできる限り正確に構成するように願う。そして、円と直線の接触の観念を考えるとき、数学者は一つの数学的点で円と直線が接すると考えられるか、あるいは、ある空間にわたって一致すると必然的に想像しなければならないか、どちらであるかと尋ねる。数学者がどちらを選んだとしても、等しく困難に直面してしまうのである。もし想像においてこれらの図形を描くとき、一点においてだけ接すると想像できると主張するならば、数学的点の観念の可能性を許容し、その結果、数学的点の存在の可能性を許容することになるのである。一方、円と直線の二線の接触の観念において、二線が一致すると主張するならば、それによって数学者は、ある程度を越えた微小なものについて、幾何学的論証の虚偽を認めることになる。というのは、円と直線の共点性に反するような幾何学的論証を、数学者がすることは確かだからである。言い換えれば、接触する円と直線の二つの観念が「分離できない」ことを認めるにもかかわらず、同時に、一つの観念、即ち共点性の観念が、二つの別の観念、即ち円と直線の観念と「両立できない」ことを証明できるからである。


第五節 同一主題の続き


 体系の二番目の部分「空間つまり延長の観念は、ある道理に従って分布している可視的ないし可触的点の観念に他ならない」が真であるならば、当然の結果として我々は、真空の観念、つまり、可視的ないし可触的な何物もない空間の観念を構成できないことになる。このことは三つの反対論を引き起こすが、その三つを合わせて検討しよう。というのは一つの反対論に対する答えが、他の反対論について用いる答えの帰結だからである。
(反対論)第一に以下のように言えよう。人々は幾時代にもわたって、真空と非真空、空虚な空間と物質が充満した空間に関して、問題を最終的な解決に至らせることができないまま論争してきた。今日でさえ哲学者たちは、自らの空想が導くままに、どちら側に参加するのも哲学者なら自由であると考えている。しかし事物そのものに関する論争にいかなる根拠があるとしても(事物そのものは不可知だとしても)、まさにこの論争こそ、真空観念に関して決定的であると言えよう。つまり、人々が反駁や弁護するところの真空観念が無ければ、真空について幾時代にもわたって、反駁や弁護し論じ続けることは不可能であると言えよう。(ロック『人間知性論』第二巻第四章第二節)
(反対論)第二に、もし第一の論証が(納得をもたらさずに)論争されるとしても、以下の推論によって、真空「観念」の実在性、少なくともその可能性は証明できる。(大前提)可能な観念の必然的かつ誤りない帰結である観念は(元の観念と同じく)全て可能である。(前提)世界が非真空、物質が充満した空間であることを現時点では許容するにせよ、我々は運動が奪われた(静止した)世界を容易に考えることができる。従って、この(静止)観念は確かに可能であると許容されよう。同様に、物質の任意の一部が神の全能によって消滅し、同時にその他の部分は静止したままであると考えることも可能であると許容されよう。何故なら、全ての区別できる観念は想像によって分離でき、また全ての想像によって分離できる観念は分離して存在すると考えることができるからである。明らかに、一物体中の正方形があらゆる物体中の正方形を含まないのと同様に、物質の一粒子の存在は他の物質の粒子の存在を含まないからである。以上の前提が成り立つとして、二つの可能な「静止」と「消滅」の観念の同時発生から何が結果として生じるであろうか? 例えば、部屋の四つの壁が少しの運動や変化もなく同じ状態のまま静止していると仮定して、部屋の中の全ての空気および希薄な物質が消滅するとき、続いていかなることが起きると考えるべきだろうか?形而上学者たちが答えるに、物質と延長は同じであるので、物質の消滅は延長の消滅を必然的に意味する。従ってただちに、部屋の四つの壁の間の距離が無くなって互いに接触する。今まさに私が書いている紙に私の手が触れているのと同様に。しかし、この答えは非常に一般的ではあるが、私はこれらの形而上学者たちにこの問題を自らの仮説に従って想像することを迫る。即ち、部屋の二組の両側の壁とともに床と天井が、静止し続けて同じ位置を保ちながら互いに接触する、と想像できるであろうか。東西に面した一組の壁の両端と接触しながら、南北に面した一組の壁がいかにして互いに接触できるであろうか? また、二組の両側の壁に隔てられながら、床と天井がいったいどうやって接触できるであろうか? もし壁の位置を変えるならば、運動を仮定することになる。もし壁の間に何物かを想像するならば、新たな創造を仮定することになる。しかし、「静止」と「消滅」の二つの観念を厳密に保持すれば、その二つの観念から結果として生じる観念は、部分の接触の観念ではなく何か他の観念であることは明白である。そしてそれは真空観念であると結論される。
 第三の反対論は、問題を更に進めて、真空観念が実在し可能であると主張するだけでなく、必然かつ不可避であると主張する。この主張は、我々が観察する物体の運動に基づいている。即ち運動は、一つの物体が他の物体の動く道を開くために動いて入るべき真空のない限り、不可能かつ想像もできないのである。私はこの反対論を詳述しない。何故なら、この反対論は主に自然学に属し、自然学は目下の領域外だからである。
 以上の反対論に答えるためには、我々はこの問題をかなり深く把握しなければならない。そして、論争の主題を完全に理解しないまま論争しないように、若干の観念の本性と起源を考察しなければならない。まず明らかに、暗黒の観念は積極的な観念ではなく、単に光の否定である。更に適切に言えば、有色かつ可視的な事物の否定である。光が全く奪われて無くなっているときは、視覚を享受する人が周囲を見回して受ける知覚は、生来の盲人と共通であるものの他にはなく、そして、このような状況の人は、光の観念も暗黒の観念も持たないことは確かである。このことの帰結は、以下である。可視的対象の単なる除去によって、我々は物質のない延長の印象を受けるのでない。従って、全くの暗黒の観念は、真空観念と決して同じことではありえないのである。
 更にまた、空中に支えられている人が、ある不可視の力によって静かに運ばれると仮定しよう。明らかにその人は何も知覚することはなく、そしてこの一定の運動からは、延長観念も、実際はいかなる観念も決して受けない。また、たとえその人が手足をあちこちへ動かすと仮定しても、これによって延長観念が伝えられることはできない。この場合その人は、部分が互いに継起する若干の感覚つまり印象を感じて、時間観念は伝えられることができよう。しかし、空間観念や延長観念を伝えるのに必要であるようには、これらの印象部分は確かに配置されていないのである。
 従って明らかに、可視的または可触的な一切の物を全く除去した暗黒または運動は、我々に物質のない延長観念つまり真空観念を決して与えることができない。次の問題は、可視的または可触的な物を除去した暗黒または運動が、可視的または可触的なある物と混じるときに、真空観念を伝えることができるかどうかである。
 一般的に哲学者たちに許容されることであるが、視覚に現れる全ての物体は、まるで一平面上に描かれているかのように見え、我々と個々の物体の間の距離の異なる度合いは、感覚よりも理性によって発見されることが多い。例えば(晴天の屋外で)前方に手を上げて指を広げるとき、指と指の間は天空の青い色によって明確に分けられる。それは、指と指の間に何等かの目に見える物体を置いた場合と同様なのである。従って、視覚が真空の印象と観念を伝えることができるかどうかを知るためには、我々は、完全な暗黒の中に複数の発光体が現れ、その光が周囲の物体の印象を一切与えることなく発光体自身だけが現れる、と仮定しなければならない。
 触覚の対象に関しても、視覚と平行する仮定を構成しなければならない。まず、全ての可触的な事物の完全な除去を仮定することは適切ではない。我々は、触覚によって知覚される何かある物を許容しなければならない。(真空の境界を確定するためには、)何かある物に触れて以降、空間の間隔とその中を動く手その他の感覚器官の運動を仮定し、ある区間を移動した後に別のある物に触れ、またそこを離れて(違う角度で引き返し)また別のある物に触れるまで移動する。これを任意の回数繰り返し行う(思考実験)。問題は、これらの触感の間隔が、我々に物体の無い延長観念(真空観念)をもたらすかどうかということである。
 第一の場合(視覚)から始める。眼の前に二つの発光体のみが現れるとき我々は、その二つが連結しているか分離しているか、分離の距離は小さいか大きいか、これらの点を明らかに知覚できる。もしこの距離が変化すれば、発光体の運動とともに距離の増減を明らかに知覚できる。しかしこの場合の距離は、有色ないし可視的なものでは一切ない。この距離こそ、心に理解し易いだけでなく感覚にも十分に明らかな純粋延長であり、即ち真空があると考えられる。
 この推論は、当然かつ最も普通の考え方ではあるが、少し反省・熟考すれば修正されるであろう。完全な暗黒であった場所に二つの物体が現れるとき、発見できる唯一の変化は、これらの二物体の外観に関してであり、残りの全ては引き続き以前と同様である。即ち、完全な光の否定、全ての有色ないし可視的事物の否定である、と言うことができる。これは、これらの二物体から離れたところにあるものについて真であるだけでなく、まさに二物体間の距離について真である。「その距離」は暗黒つまり光の否定に他ならない。部分なく、構成なく、一定で、分割できない。ところでこの距離は、盲人の視覚あるいは光の全く無い闇夜における視覚と異なる知覚を少しも生じさせないので、同じ特性を帯びていなければならない。即ち、盲目も暗黒も我々に延長観念を少しも与えないので、二物体間の暗くて区別できない距離も、決して延長観念を産むことができないのである。
 前述のように、絶対の暗黒と、二つ以上の可視の発光体の外観との間の唯一の違いは、発光体自身と、その発光が我々の感覚に影響を及ぼす仕方にのみ存するのである。複数の発光体から流れ出てくる光線が相互に構成する角度、一つの発光体から他の発光体へ視線を移動するときに必要な眼球の運動、複数の発光体によって影響を受ける視覚器官の異なった部分、これらが複数の知覚を産み、それらの知覚によってのみ、我々は距離について判断することができる。しかし、それらの知覚は各々、単純不可分であるので、我々に延長観念を決して与えることができないのである。
 我々はこのことを触覚の感覚(第二の場合)を考察することによっても例証できる。即ち、可触的ないし固形的な物体の間にある、想像上の距離や間隔を考察することによってである。例えば二つの場合、即ち、空中に支えられていて手足をあちこちへ動かしているが可触的な何物にも接触しない人の場合と、可触的な何かある物に触ってからそれを離れ、自覚できている運動の後で、別の可触的事物に触れる人の場合と、二つの場合を仮定する。その次に尋ねるに、この二つの場合の相違はどの点に存するであろうか? 誰しも少しのためらいもなく、相違は後者の可触的事物の(前後二回の)触感だけに存し、運動から起こる感覚は両者とも同じである、と断言しよう。そして、この運動から起こる感覚は、ある他の知覚が伴わない限り、延長観念を伝えることができないので、可触的事物の印象と混合するときでもまた、我々に延長観念を与えることはできないのである。何故なら、その混合は、運動の感覚に少しも変更を産まないからである。
 運動と暗黒は、単独であろうと可触的・可視的事物が伴おうとも、真空つまり物質のない延長の観念を少しも伝えない。けれども運動と暗黒は、物質のない延長の観念を構成することができる、と我々が誤って想像する原因なのである。というのは、運動と暗黒と、実際の延長つまり可触的・可視的事物の構成との間には、密接な関係があるからである。
(密接な関係の)第一は以下のように言える。全くの暗黒中に二つの可視的事物が現れるとき、まるでそれらの合間に実際の延長観念を与える可視的事物があるように、同じ仕方で視覚に影響を及ぼす。即ち、両端の可視的事物から流れ出て眼に入る光線は同じ角度である。運動の感覚も同様に、二物体間に可触的な何物も無い場合と、複数の部分からなる物体の異なる部分が互いに向こう側にある場合と同じである。
(密接な関係の)第二は、我々は経験によって以下の事がわかる。(第一の関係と同じく)二つの物体が、合間に可視的事物の一定の広がりを持つ別の二つの物体と、同じ仕方で視覚に影響を及ぼすように置かれている場合、知覚できる衝撃や透入が少しもなく、視覚に現れる両端の光線の角度に少しも変更なく、前者も後者と同じ広がりを合間に入れることができるのである。同様に、(可触的な)ある事物があり、合間なしには別の事物に触れることができなくて、手その他の感覚器官に運動する状態の感覚を知覚する場合、経験が我々に示すのは、同じ運動の感覚と伴に、合間に沿って固形的可触的事物の印象が伴ったとしても、終端の同じ事物に触ることができるということである。以上を換言すれば、不可視・不可触の距離は、その距離を隔てた両端の事物に少しの変化も及ぼさずに、可視的・可触的な距離に交換することができるのである。
(密接な関係の)第三は以上の二種類の距離の別の関係として、以下のように言える。二種類の距離が全ての自然現象にもたらす影響は、ほとんど同じである。何故なら、熱さ・冷たさ・明るさ・引力などの全ての性質は、距離に反比例して小さくなるが、その距離を隔てた両端の事物が感覚に影響を及ぼす仕方によってのみ距離が知られる場合でも、複合的・可感的な事物(延長)によって距離が識別される場合でも、観測される相違はほとんどないからである。
 以上より、延長観念を伝える距離と、有色/固形の事物で満たされていない距離との間には、密接な三つの関係がある。(一)どちらの種類の距離で隔てられているかどうかにかかわらず、両端の事物は同じ仕方で感覚に影響を及ぼす。(二)満たされていない距離は、合間に延長を入れることができる。(三)両方とも等しく、あらゆる性質の力を減少させる。
 以上の二種類の距離の間の三つの関係は、一方の距離が他方の距離と頻繁に誤解されてきた理由を、また、視覚と触覚の対象の観念をどちらも欠いた延長観念があると我々が想像する理由を、容易にもたらすであろう。何故なら、我々は本書の人間本性学の一般原則として、以下のことを確立できるからである。「二つの観念の間に密接な関係がある場合はどんな場合でも、心は非常に容易に両者を取り違えて、あらゆる言説と推論において一方を他方に利用しがちである。」この現象は非常に多くの機会に起こり、その原因を調査するために少し止まらざるを得ないほど重大である。ただ私は前提して置くが、この現象自体とその特定される原因の間は、正確に区別しなければならず、原因のいかなる不確実性からも、現象もまた不確実であると想像してはならない。たとえ私の解明が非現実的であるとしても、この現象は実際に存在できよう。一方の虚偽は他方の虚偽の帰結ではない。しかしながら、同時に次のように言えよう。原因の虚偽から現象の虚偽を帰結してしまうことは、我々にとって極めて自然であり、そしてそれはまさに私が解明しようと努める、原理そのものの一つの明白な実例なのである。
 観念間の結合原理としてそれらの根拠を調査せずに、「類似」「近接」「因果」の関係を容認したとき(第一章第四節)、その根拠を表示できる、もっともらしく妥当と思われるものが無かったためというよりは、我々は最終的には経験から得られるものに満足して止まらざるを得ないという私の第一原則を実行したためというほうが適切である。例えば脳を想像上で解剖して、我々がある観念を心にいだくとき、動物精気が全ての隣接している軌跡に流れて、関連する他の観念を呼び起こす理由を明示するのは容易であったのである。しかし、観念の諸関係を解明する際に、この話題から得られるどんな有利な点も無視してきたけれども、観念間の関係から生じる間違いを説明するためには、この点でこの話題に頼らざるを得ないようである。従って、不本意だが言う事にする。心は望むままにどんな観念をも起こさせる力能を持つので、心が観念の置かれている脳の領域へ精気を急送するときはいつでも、それらの精気は、ふさわしい軌跡に正確に流れて、その観念の属する細胞を捜し出せば、常にその観念を起こさせるのである。しかし、それらの精気の動きはほとんど直進的ではなく、自然に少しどちらかに曲がってしまうので、この理由のため、動物精気は隣接する軌跡に注ぎ込み、最初に心が調査しようとした観念の代わりに、関連する他の観念を与えるのである。我々はこの(精気の動きにより他の観念が与えられる)変化にいつも気付くとは限らないが、それは、依然として同じ思考過程を続けて、与えられた関連する他の観念が利用されて、まるでその観念が我々が最初に要求した観念と同じであるかのように、我々の推論において使用されるからである。これこそ、哲学における多くの錯誤と詭弁の原因である。この点は、当然のことながら想像されるとおりであり、また機会があれば容易に明示されるとおりである。
 上記の三つの関係のうち、類似関係は最も多く錯誤を生む源泉である。また実際、推論における間違いのほとんど全部は主にこの起原から来るのである。類似する観念は相互に関連があるだけでなく、類似する観念を考察する際に使用する心の働きは実にほとんど異ならず、従って我々は区別できないのである。この事実はたいへん重大であり、一般的に、任意の二つの観念を構成する際の心の働きが同一または類似する場合は常に、我々は二つの観念を非常に容易に混同し一方を他方に利用しがちである、と言えるのである。これについては、本論文の進行中に数多くの実例を見いだすことになろう。この様に類似は、観念間の錯誤を最も容易に引き起こす関係であるけれども、その他の因果関係と近接関係もまた、この点で同じ影響を同様に及ぼすことができる。この十分な証拠として我々は、詩人と雄弁家の比喩的表現を取り出すことができるが、しかし形而上学の諸主題においては、比喩的表現から論証を引き出すことは、通例ではないし理にかなってもいない。比喩的表現を用いることで、形而上学者たちに彼らの体面にかかわり論証にふさわしくないと思われないように、彼ら自身の言説の大部分に関してなされる観察から証拠を借用することにする。即ち、日常的に観念の代わりに言葉を用い、習慣的に推論において考える代わりに話す、ということが観察される。我々が観念の代わりに言葉を用いるのは、一般的に両者が非常に密接に結合していて、そのため心が容易に両者を間違えるからである。そしてこのことは同じく、ある道理に従って配置された可視的ないし可触的な点の構成に他ならない延長である部屋の代わりに、可視的とも可触的とも考えられない距離の観念を用いる理由なのである。この間違いを引き起こす際に、「因果」関係と「類似」関係が両方とも同時に起きている。第一種の距離(満たされていない距離)が第二種の距離(延長観念を伝える距離)に変換できると認められるので、この点で前者は一種の原因であり、また、両種の距離が感覚に影響を及ぼす仕方と、あらゆる性質を減少させる様子が相似する点は、類似関係を構成するのである。
 以上の推論の連鎖と本書の原理の詳細な説明によって、本節の冒頭で示されていた全ての反対論に、「形而上学」から来るものにせよ「力学」から来るものにせよ由来は問わず、答える用意ができた。(一、)真空つまり物質のない延長に関する頻発する論争は、論争の中心である観念の実在性を証明しない。何故なら、この事(真空観念)について人々の陥っている誤解ほど、最もよく起こりありふれた誤解は無いからである。特に何か密接な関係によって、誤解の原因となり得る別の観念が心にあるときは、ごく普通に見かける誤解なのである。
(二、)静止と消滅の観念の同時発生に由来する第二の反対論に対しても、ほとんど同じく答えられる。部屋の中の全ての物質が消滅して四つの壁が動かないままである場合と、現在のように部屋を満たす空気が感覚の対象でないときと、ほとんど同様に部屋は想像されるに違いない。全ての物質が消滅したとしても、「眼」に架空の距離を残す。その距離は、影響を受ける視覚器官の異なった部分によって、また、明暗の程度の差によって発見される。そして、「触感」にも架空の距離、手や他の体の部分の運動感覚中に存在する距離を残す。我々は、これ以上の答えを探し求めても無駄なのである。この主題についてどちら側を向いたとしても、消滅を仮定した後で対象が引き起こすことができる印象は、この二つだけだということがわかるだろう。そして既述のように、印象は自己に類似する観念より以外の観念を引き起すことができないのである。
(三、)二つの物体の間に置かれた一つの物体は、両側の二物体にどんな変化も生じさせずに消滅すると仮定できるので、消滅した物体がどのようにして新たに創造され得るか、しかもほとんど少しも変更を生じさせない創造を想像するのは容易である。以上の仮定と推論より、物体の運動は物体の創造と同様に、同じ結果をもたらす。つまり両側の二物体は、間に新たに物体が創造される場合も、他の場所から移動してくる場合も、同様に影響されないのである。このことは、想像を十分に満足させて、両側に影響のない運動に矛盾が全くないことを証明する。その後、経験が作用して、上述のように位置する二物体は、間に物体を受け入れる当該の能力を実際に持ち、不可視・不可触の距離は可視・可触の距離に転換するのに全く障害はないことを、我々に確信させる。この転換がどんなに自然に思えようとも、我々が経験する前では、実行できると確信できないのである。
 以上をもって、本節冒頭の三つの反対論に答えたと思われる。だが同時に分かっているが、これらの答えに満足する者はほとんどなく、新しい反対論と難問がすぐに提案されるであろう。おそらく、以上の推論は真空問題を全く掌握することなく、単に事物が感覚に影響を及ぼす仕方を解明するに止まって、事物の真の性質と諸作用の説明に努めていない、と言われるであろう。(しかし再説すると、)二物体間に可視的ないし可触的な何物もない場合でも、「経験上」見出されるように、まるで二物体が可視的ないし可触的な物によって隔てられているように、視覚に関して同様の影響をもたらし、触覚が一方から他方へ移動する運動も同様なのである。この不可視・不可触の距離は、物体を受け入れる能力、つまり可視・可触の距離になる能力を含むこともまた、「経験上」見出される。ここに私の体系の全体がある。従って、二物体をこのように分離する原因、衝撃や透入なしに他の物体を間に受け入れる能力を与える原因については、体系のいかなる部分においても解明に努めなかったのである。
 私はこの新たな反対論に対して、有罪を認める答弁をすることによって答える。即ち、私の意図は決して事物の性質の理解や事物の諸作用の神秘的な諸原因の解明にはなかったことを告白することによって答える。なぜなら、私の意図以外の事物の理解や解明は、本書の目的に属さないだけでなく、こうした企ては人間知性の到達範囲外ではないか、即ち、感覚に現出する外的特性によって知る以外には物体を知ろうとしても絶対に不可能ではないか、と恐れるからである。感覚に現出する外的特性より以上に進もうと企てる者については、成功した実例を少なくとも一つ見るまでは、その企てを是認できない。それに対して今のところ、事物が感覚に影響を及ぼす仕方や事物相互の関係を、経験の告げる限りにおいて完全に知れば、私は満足する。人生の指導のためには、これで十分である。そして、我々の知覚の、即ち印象と観念の、本性と諸原因を解明しようとするに過ぎない私の哲学のためにもまた、これで十分なのである。
[付録]我々が、感覚に現れた事物の「外観」だけに推論の範囲を限定して、事物の真の性質と諸作用についての論考に立ち入らない限り、我々はあらゆる難問から免れていて、いかなる疑問も我々を困惑させることはできない。従ってもし、二つの事物の間の不可視・不可触の距離は有であるか無であるか、と質問されたとする。その問に答えるのは容易で、その距離は「有」である。即ちそれは、既述のような特定の仕方で「感覚」に影響を及ぼす、二つの事物の一つの特性なのである。またもし、こうした不可視・不可触の距離を間にもつ二つの事物は、接触するのか接触しないのか、と質問されたとする。その点は「接触する」という言葉の定義に依存する、と答えられる。二つの事物の間に「可感的」な何物も存在しないときに事物は接触すると定義されるのならば、接触すると答えられる。二つの事物の「映像」が眼の隣接部分に感じられるときや、手が二つの事物の間で運動の余地なく連続して両方に「触れる」ときに事物は接触すると定義されるのならば、接触しないと答えられる。このように、感覚に現れた事物の「外観」には全く矛盾がなく、従って、我々の使用する用語の不明瞭さから生じる以外に、いかなる難問も決して起こることはできないのである。
 もし我々が、感覚に現れた事物の外観を越えて探究を進めるならば、大部分の結論は懐疑と不確実で満たされるだろう、と私は恐れる。従ってもし、不可視・不可触の距離は常に「物体」によって満たされているのか満たされていないのか、言い換えると、我々の器官の進歩によって可視・可触となりえる物によって満たされているのか満たされていないのか、と質問されたとする。私は、通俗的な一般人の通念にとって、より都合がよいという理由で、反対説(満たされていない)に傾くにもかかわらず、賛否のどちら側にも、さほど決定的な論拠を見つけ出せないことを、認めなければならないのである。もし「ニュートン」自然哲学が正しく理解されるならば、これ以上の意味は見つけ出せないであろう。真空があると主張することは正に、二つの物体が、その間に他の物体を衝撃や透入なしに受け入れられるように置かれている、ということである。二つの物体のこうした位置の真の性質は未知である。我々はただ、こうした位置が感覚に及ぼす影響と物体を受け入れる能力に精通しているだけなのである。このような自然哲学に最もふさわしいものは、ある程度までに限定された謙虚な懐疑と、人間の最高の能力をも超える主題についての無知の正当な告白である。[ここまで]
 私は延長についての以上の論題を、上述の推論から簡単に説明される一つの逆説で締めくくろう。その逆説とは、もし、不可視・不可触な距離に、あるいは、可視・可触な距離になり得る能力に、真空という名称を与えるならば、延長と物質とは同一で、それにもかかわらず真空は存在する、ということである。もし、真空という名称を与えないとしても、非真空、物質が充満した空間の中で、運動は可能なのである。「無限に」衝撃を受けることなく、円環になって戻ることなく、透入することもなく、運動は可能なのである。しかし我々は、どの様な名称を与えようとも、可感的事物で満たされないような、部分が可視・可触と想像されないような、いかなる延長観念も持たないことを、常に認めなければならないのである。
(第三節で予告した、不変的事物に時間観念を適用する虚構についての考察。)時間は実際の事物が存在する様式に他ならないという学説に関しては、延長に関する類似した学説と同じ反対論を受けそうだといえる。もし、我々が真空について論争し推論することを理由に、我々が真空観念を持つ十分な証拠であると論ずるならば、同じ理由によって、よく起こるありふれた論争の主題だからという理由によって、我々は可変的存在の少しもない時間観念を持つべきことになる。しかし、我々がこのような可変的存在の少しもない時間観念を、実際には持たないことは確かである。というのは、いったいどこからその観念がもたらされるのであろうか? 感覚や内省の印象から生じるのであろうか? その観念の本性と緒性質を知るために、明確に指摘されたい。だがもし、「その観念の元となる印象」を指摘できないのならば、「元となる印象が無いその観念」があると想像するとき、必ず間違っていることは避けられないであろう。
 しかし、可変的存在を欠いた時間観念が由来する印象を明示することは不可能であるにしても、それにもかかわらず我々は、こうした観念があると我々に空想させる現象を容易に指摘できる。というのは、我々の心のうちには知覚の連続的継起がある、と我々は気づけるからである。その気づきのおかげで、いつも絶えず時間観念が我々の心のうちにあるのである。例えば、一つの固定された事物を五時に注意深く見て、六時に同じ事物を再び注目したとすると、まるで全ての瞬間が事物の異なる位置または変更によって区別されている場合と同様に、我々は時間観念を固定された事物に適用しがちである。事物の一回目と二回目の現象は、我々の知覚継起と比較されることで、まるで事物が実際に変更された場合と同じく、時間的に隔たっているように思われるのである。さらに我々は、経験が明示するもう二つの関係を加えることができよう。一つは、固定された事物は二回の現象の間に、瞬間ごとの多数の変更を受け入れることが可能であったこと。もう一つは、不変的というより架空的持続は、延長や短縮することによって、感覚に明らかな継起と同じ影響を全性質に及ぼすこと。これらの三つの関係から、我々は自らの観念を混同しやすく、変化や継起の全くない時間観念・持続観念を構成できると想像しがちなのである。


第六節 存在観念と外的存在観念について


 時空観念についての主題を離れる前に、時空観念と同様に数々の難問がある、「存在」の観念と「外的存在」の観念を解明することは適切であろう。存在の観念を解明して、我々の推論の構成要素である個々の観念を全て完全に理解するとき、我々は(第三部の主題である)普遍的知識と蓋然的知識の吟味のための準備を、さらに良くすることになるであろう。
 どんな種類の印象や観念も、我々の意識や記憶にあるものは、存在として想像されないものはない。そして明らかにこの意識から、「存在」の最も完全な観念と確信が由来する。したがって我々は、想像できる限りの最も明白で決定的な両刀論法を作ることができる。どんな印象や観念も存在すると考えないことには、我々は決して記憶にとどめないので、即ち、次の※(丸1、1-13-1)※(丸2、1-13-2)の命題が対立する(第一部第七節「抽象観念は一般的であるか個別的であるか」参照)。
 ※(丸1、1-13-1)存在観念は、全ての知覚や思考の対象が連結された(存在印象ともいうべき)個々の印象とは全く別な印象から由来するはずである。
 ※(丸2、1-13-2)存在観念は、知覚や対象の(個々の)観念と正に同一のはずである。
 この両刀論法は、(人間本性学第一原理)全ての観念は相似する印象から起こる、という原理の明白な帰結であり、それと同様に、両刀論法の二つの命題間の対立の解決も明白であり、疑いを抱くことはない。というのは、全印象と全観念の結果として生じる、全く別な印象など決してないからであり、ただ二つでも別個の印象が、分離不可に連結されることは考えられないからである。若干の感覚が同時に合体することがあるにもかかわらず、我々はそれらがすぐに分離を許容し別々になることが分かる。従って、全印象と記憶上の全観念は存在すると考えられるが、存在観念は何か特殊な印象から由来することはないのである。
 それでは存在観念は、存在すると想像されるものの観念と正に同一ということである。何物かを単に省察することと、その物を存在するとして省察することは、少しも異なることではない。存在観念は、ある対象の観念に連結されたときでも、その観念に何も付加することはない。想像されるもののすべては、我々は存在すると想像する。我々の好んで作るどんな観念も存在の観念であり、存在の観念こそは、我々の好んで作る全ての観念である。
 このことに反論する者は誰でも、存在の観念の由来する全く別な印象を必ず指摘しなければならない。そしてこの印象が、存在すると信じられる全ての知覚から分離できないことを証明しなければならない。我々は躊躇なく、これは不可能であると結論できるのである。
 先述の論究[第一部第七節]、実際の「違い」が全くない状況での観念間の「区別」(理性的区別)についての論究は、ここでは少しも役立たないであろう。その種類の区別は、同一単純観念にありえる、数個の異なる観念との異なる類似を根拠とする。しかし全ての事物は、特にその存在に関しては、ある事物と類似して現れ、かつ、他の事物と異なって現れることはできない。何故なら、心へ現れる全ての事物は必然的に、存在するものでなければならないからである。
「外的存在」の観念も、同様の推論によって説明されるであろう。哲学者たちが一般的に許容し、加えて相当に自明なことだが、他でもない、実際に心に現れるものは、心の知覚つまり印象と観念より以外にはなく、外的事物は、その外的事物が心に引き起こす知覚によってのみ我々に知られるようになる、と言えよう。憎む、愛す、考える、触る、見る、これら全ては知覚することに他ならない。
 心に現れるものは知覚以外にはなく、全ての観念は先行して心に現れるあるもの(印象)に由来するので、当然、観念と印象と明確に異なる何物かの観念(知覚以外の観念)を、想像や構成することは我々には不可能だということになる。我々の注意を、できる限り我々自身から外へ向けよう。我々の想像を、天空や宇宙の最果てまで駆けめぐらそう。しかし我々は決して、実際には我々自身を越えて一歩も前進しないし、心の狭い範囲に現れた知覚以外には、どんな種類の存在も想像することはできないのである。心こそは想像の宇宙であり、そこで生み出されたもの以外は、我々はどんな観念も持つことはない。
 外的事物の観念を知覚と「明確に」異なるものと仮定するとき、我々の考えられる極限は、外的事物の相対観念を構成し、関連事物を含むようには見せかけないことである。一般的に言えば、我々は外的事物を明確に異なると仮定することはなく、ただ、種々の関係・結合・持続がそれらの事物に起因すると考えるだけである。だがこの点は、このあと[第四部第二節]で更に十分に検討する。
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第三部 普遍的知識と蓋然的知識について



第一節 普遍的知識について


 哲学的関係は七種類あり[第一部第五節]、即ち「類似、同一、時間と場所の関係、量や数の比率、質の程度、反対、因果性」である。これらの七つの関係を、さらに二つの種類に分類することができる。一つは、互いに比較される諸観念に完全に依存する関係であり、もう一つは、諸観念に変化がないにもかかわらず変化できる関係である。例えば三角形の観念から、その三角の和は二直角に等しいという関係が発見される。そしてこの関係は、観念が同じままである(変化しない)限り不変である。
 これに反して二つの事物の「接近」または「距離」の関係は、事物自身または事物の観念に変化がないにもかかわらず、単に事物の場所の変更によって変化できる。そして事物の場所は、心の予知できない多数の様々な偶然に左右されるのである。「同一」及び「因果性」の場合も同様である。二つの事物が互いに完全に類似していて同一の場所に出現するとしても、出現する時が違えば数量的には異なるといえる。また一つの事物が他の事物を産む能力(因果)は、単に事物の観念からだけでは決して発見できない。明らかに「原因と結果」は経験から情報を受ける関係であり、抽象的推論や省察から情報を受けることはない。最も単純な現象でさえ、心に現れた事物の性質から説明できる現象、言い換えると、記憶と経験の助けなしに予知できる現象は、ただの一つもないのである。
 従って明らかに、七種類の哲学的関係のうち、全く観念に依存して確実な普遍的知識の対象となり得る関係は、四種類だけである。それらは「類似、反対、質の程度、量や数の比率」である。その前から三種類「類似、反対、質の程度」は一見して発見できるので、論証よりも直感の分野に入れるのがより適切である。どんな事物でも互いに類似していれば、その「類似」は最初に目というよりは心に飛び込むであろう。そして、めったに再度の吟味を必要としない。「反対」と「質の程度」の関係も同様である。誰も、存在と非存在が互いに全滅し合い、完全に反対で両立できないことを少しも疑うことはできない。そして、色・味・熱・冷のような質の程度は、違いのとても少ないときは正確に判定できないけれども、程度の違いが少なくないときは、どちらが上か下かを決定することは容易である。しかも、我々は何等の調査や論究なしに、この決定を常に一見して下すのである。
 特に違いが非常に大きく顕著なときには、「量や数の比率」を確定する場合でもどうにか同様に行って、図形や数どうしの大小や多少を一目で観察できるかもしれない。けれども、等しさや正確な比率については、ただ一回の考慮からは単に推測できるだけである。ただし、非常に小さな数や延長の極めて限られた部分については別で、この場合は一瞬のうちに十分に把握されて、そのとき我々は著しい誤りを犯さないことを認める。他の全ての場合では、我々はいくらか恣意的に比率を確定してしまう。つまり正確には、直感よりも「人為的」な方法で比率を確定しなければならないのである。
 既に述べたように(第二部第四節)、幾何学即ち諸図形の割合を確定する「技術」は、普遍性と正確性の両方において感覚と想像の厳密でない判断より大いに優るとはいえ、それでも完全な精密性と正確性には決して到達しないのである。幾何学の最高の諸原理は、いまだに対象の一般的な外観から引き出される。そして対象の外観は、自然が可能とする桁外れの微小を検討するときは、どんな保証も決してできないのである。例えば我々の観念は、二直線が共通線分を持ち得ないことに完全な確信を与えるように思われる。しかし、これらの観念を考察すれば判るように、これらの観念は二直線の見分けがつく傾きを常に仮定している。そして、二直線が交差する角度が極めて小さいときは、この命題の真実性を確信させるほど精密な直線の基準を、我々は全く持っていない。この点(極小について)は、大部分の数学の最初の決定も、同じ実情である(精密な基準がない)。
 従って、完全な正確性と確実性を依然として保存しつつ推論の連鎖をどんな複雑さの程度にまで進行することができる学としては、算数学と代数学のみが残るだけである。我々は、数の等しさと割合を判断できる精密な基準を備えていて、数がその基準と一致するか否かに従って誤ることなく数の関係を決定する。例えば、二つの数の各々の構成単位が、全て必ず一つ一つ対応するように互いに組み合わされるとき、我々は二つの数が等しいと宣言する。しかし、延長はこのような等しさの基準を欠いているために、幾何学は完全で絶対間違いのない学とみなすことがほとんどできないのである。
 しかしここで、私の主張から生じるであろう難点を除去することは不都合ではないだろう。その主張とは、幾何学は算数学と代数学に特有の精密性と確実性には達しないけれども、感覚と想像の不完全な判断よりは優るということだった。私が幾何学に何か欠陥を帰する理由は、幾何学の最初の基本的な諸原理が単に外観だけに由来するからである。この欠陥は常に幾何学に伴うに違いなく、対象や観念の比較において、視覚や想像が単独で到達し得る以上の正確さには、幾何学はいまだかつて到達していないことがおそらく推量される。この欠陥が幾何学に伴うことこそが、いまだかつて完全な確実性へ切望させない難点だということを私は認める。しかし逆に、幾何学の基本的な諸原理は、最も平易で人を誤らせることが最も少ない外観に依存するので、それらの外観は、諸原理の帰結が単独では為し得ない正確さを、少しではあるが帰結に与えるのである。例えば、千角形の内角の和が一千九百九十六直角に等しいと決定することも、この角度に近い推測をすることも視覚では不可能である。しかし視覚が、二直線は重ならないとか与えられた二点間に一直線以上を引けないとか決定するとき、その誤りは、諸原理の帰結からでは決してあり得ない。そしてこの点は、幾何学の本性かつ能力であり、単純であるために重大な誤りには導き得ないような外観に遡るのである。
 私はこの機会に、数学の同じ主題によって連想される論証的推論に関して、もう一つの所見を提示しよう。数学者が日ごろ自負することだが、数学者の対象とする諸観念は、非常に純化され厳密かつ超俗的な種類であるので、その諸観念は空想の全く想像もつかない分野であり、ただ精神の上位機能だけが可能である純粋かつ知的な考え方によって理解されなければならないのである。哲学の大部分にも同じ観念が満ちていて、主に抽象観念を説明するために利用されている。例えば、三角形の観念をどのようにして構成できるのかを説明するために利用されている。それは、二等辺三角形でも不等辺三角形でもなく、どんな個別の辺の長さや比率にも制限されるべきではない(一般抽象的な)三角形の観念なのである。哲学者たちが、かなり超俗的で純化された認知による一般抽象観念に、そんなにも愛着を抱く理由を理解するのは容易である。何故ならこの手段によって彼らは自らの不合理の多くを隠す、即ち、一般抽象観念のような不明瞭で不確実な観念を要請することによって、明晰な個別観念による解決に服従することを拒否できるからである。けれども、この巧妙な手段を論破するには、「全ての観念は、印象から複写される」という本書で度々強調されてきた原理を再考するだけで良いのである。というのは、この原理から直ちに以下のように結論できるからである。即ち、全ての印象は明晰かつ正確であるので、印象から複写される観念も同じ性質でなければならず、従って、我々の誤りによる以外は、不明瞭で難解な何物も決して含むことはできないからである。観念はまさにその本性により、元の印象に比べれば弱くぼんやりしている。しかしその他の点では、ことごとく同じであり、極めて大きい謎を含むことはできないのである。もし観念の弱さが観念を不明瞭にするのならば、できるだけ観念を安定かつ正確に保つことによって、その弱点を除去することこそ我々の務めであり、その務めをやり遂げるまでは、哲学や推論を誇称して(謎をいたずらにもてあそんで)も無駄である。


第二節 蓋然的知識と原因と結果の観念について


 前節で、普遍的知識の根拠である四種の哲学的関係について、必須だと思われる全てに言及した。しかし残る三種の哲学的関係、観念に依存しない、言い換えると、観念が少しも変化しなくても消えたり現れたりしうる関係については、本節で、より詳細に明らかにしよう。それらの三種の関係は「同一、時間と空間の位置、因果」であった。
 推論の全種類は、他ならぬ比較、言い換えると、二つ又はそれ以上の事物が互いにもつ不変的あるいは可変的な関係の発見にある。我々が行えるこの比較は、両者が感覚に現れている場合、両者とも感覚に現れていない場合、一方だけが感覚に現れている場合がある。対象の両者が関係とともに感覚に現れている場合は、我々は、推論というよりもむしろ知覚と呼ぶ。この場合、思考の行使や働きは少しもなく、正確に言えば、単に知覚器官を通じた印象の受動的受け入れがあるだけである。この考え方に従えば、我々が行える「同一」や「時間と場所の関係」についてのどんな観察も、推論として受け取るべきではない。何故なら、どちらも我々の心は、感覚に直ちに現れることを超えて、真実在や事物の関係を発見することはできないからである。よって「因果」だけが、ある事物の存在や活動から我々に確信をもたらすような関連を生み出し、その他の事物の存在や活動によって先行(原因)または後行(結果)した関係なのである。因果以外の二種の関係は、因果関係に影響を及ぼすか逆に影響を受けるか以外では、推論には決して使用されない。例えば時空関係では、複数の事物が常に「遠隔」あるいは常に「隣接」していると、我々を確信させる事物はない。つまり、経験と観察によって時空関係が不変であることを発見するときは、分離や結合する何等かの謎の「原因」を我々は常に推断するのである。同様の推論は「同一」関係にも適用される。我々は、ある対象が感覚に幾度となく消えたり現れたりしているにもかかわらず、個別に同一を持続できると容易に考える。つまり、知覚の中断にもかかわらず、対象の同一性の確信を持ち、あたかも視覚や触覚が常に対象に対して保たれていて、不変・不断の知覚が伝えられていたかのように、いつでも我々は推断するのである。けれども、我々の感覚から成る印象を超えたこの同一性の推断は、ただ「原因と結果」の結合だけに基づき得る。そしてまた我々は、新たに感覚に現れた対象が、以前に感覚に現れていた対象とどれほど大いに類似していようとも、我々にとって対象が変わらないこと(同一性の確信)は、因果関係と別の方法では少しも保証できない。我々は、このような完全な類似を発見するときはいつでも、この完全な類似がこの種の対象に一般的かどうか、可能的または蓋然的にどのような原因が変化や類似を生み出すことができるかどうか、と考える。そして我々は、これらの原因と結果についての決定に従って、対象の同一性に関する判断を構成するのである。
 従ってここで明らかになったことは、観念だけに依存しない三種の哲学的関係のうち、唯一、我々の感覚を超えて発見し、我々に視覚や触覚に現れない実在や事物について知らせることができる関係は、「因果」だけである。だからこの関係を、知性を主題とするこの第三部において、完全に明らかにするように努めよう。
 徹底して始めるためには、まず「因果」の観念を考察し、それがどんな起源に由来するのかを理解しなければならない。というのは、我々が推論する観念について完全に理解することなしには、正確に推論することは不可能であるし、その起源まで遡って調べて観念が生じる元である最初の印象を吟味することなしには、どんな観念も理解することは完全に不可能だからである。印象の吟味は観念に明晰をもたらし、そして、観念の吟味は同じく全ての推論に明晰をもたらす。
 それでは、我々が原因と結果と呼ぶ二つの対象に注目し、因果観念のような驚くべき重大な観念を引き起こす元の印象を見つけ出すために、全ての面をくまなく調べよう。まず一見して、どんな事物の個別的な「性質」にも、その印象を探し求めるべきではないことに気付く。というのは、個別の性質のどれを選び出しても、その性質を持たないにもかかわらず原因や結果の名称に分類される、その他の事物を見い出すからである。実際に、原因や結果として考えられないような存在は、外的にも内的にもありえない。にもかかわらず、全ての存在に普遍的に属し、かつ、原因や結果の名称を与える唯一の性質は存在しないことが明らかである。
 以上より因果の観念は、事物間の何らかの「関係」から由来するに違いない。よって我々は、その関係を発見するように努めなければならない。すると最初に、原因や結果として考えられる事物は何でも、「接近」していることを発見する。言い換えると、何物もその存在する時空から、わずかでも離れた時空では、影響を及ぼすことはできないことを見い出す。時に、離れた事物どうしが互いに影響を生じる関係にあるように見えるときがあるけれども、たいてい調べてみると、互いに接近している原因の離れた事物の一方から他方までの連鎖によって、結合されていることがわかる。たとえ何らかの特殊な実例において、この結合を発見できないときでも、それでも我々は結合が存在していると推定する。従って「接近」関係は、因果関係には必須だと考えられる。少なくとも当面、事物の近位と連結の可能性を吟味することによってこの問題を解く、より適切な機会[第四部第五節]を見い出せるまでは、一般の説に従って想定できるのである。
 原因と結果に必須だと認めるべき第二の関係は、普遍的に承認されていないだけでなく、論争の的でもある。それは、原因が結果に「先立つ」こと、原因が時間的に結果の前であるという関係である。ある者は、原因がその結果より先に起こることは絶対に必須なことではなく、どんな事物や活動も、その存在の正に最初の瞬間において、その生産的な性質を働かせて、それ自身で完全に同時に他の事物や活動を引き起こすことができる、と称する。しかし、それ以外のたくさんの実例における経験は、この意見に矛盾するように見えるし、ある種の推論や論拠によって、この原因が結果に先立つ関係を確立できよう。自然学と精神学の両方で確立された原則が一つある。即ち、ある事物αが任意の時間の間(瞬間でも)、その十分な完全の中で、もう一つの事物βを引き起こすことなく存在する場合、αはβの唯一の原因ではありえず、αはその不活発な状態から、他の原理によって力を与えられ突き動かされば、αが秘かに持っていた活動力を働かせ始めるのである、と。さて、もし任意の原因がその結果と完全に同時だとすると、この原則によって確かに、全ての原因は結果と同時でなければならない。何故なら、ある一つの原因がその作用を一瞬間でも遅らせたら、作用できたであろうその正に一瞬間において影響を及ぼさなかったのであり、従って厳密な原因ではないからである。この帰結は、この世で観察される原因の継起の破壊だけに留まらず、それどころか時間の完全な絶滅を意味する。というのは、もし一つの原因がその結果と同時だとすると、その結果がさらに「次の」結果を同時にもたらし、以下同様に同時になるからである。明らかに、継起は無くなり、全ての事物は同時に存在することになる。
 この論拠が納得できると見えれば、それで良いのである。もし納得できないとしても、先に接近関係の場合に用いたと同じく、そのように想定する自由を、読者には許容していただきたい。というのは、この論点はさして重大ではないことが、次に示されるからである。
 こうして、原因と結果に必須の「接近」と「継起」の二つの関係を発見ないし想定したとき、私は不意に停止させられていることに気づく。即ち、原因と結果の実例のどの一つを考察しても、これ以上は前進できないことに気づくのである。例えば一物体の運動は、物理的な衝撃によって、もう一つの物体の運動の原因だとみなされる。この二つの物体を細心の注意を払って検討したとしても、我々は単に一物体が他物体に接近して、かつ、一物体の運動が他物体の運動に先行していることがわかるに過ぎない。知覚できる時空間隔以外には何もないのである。この主題について「これ以上」思考と内省を無理強いしても無駄である。我々は原因と結果の実例を考察するとき、「これ以上」進むことはできないのである。
 もし原因と結果の実例から離れて(抽象的に)、原因とは別のものを産出する或るものである、と言うことによって原因を定義すると称するのならば、それは明白に、何も言ってはいない。というのは、「産出」という語によって何を意味するというのであろうか? 因果性と同じでないような何等かの定義を与えることができるのであろうか? もしできるのならば、その定義を提出していただきたい。できないのならば、それは循環論法であり、定義の代わりに同義の語を与えているだけである。
 それでは、完全な因果観念を与える関係として、接近と継起の二つの関係に満足して止まるべきであろうか? 否、決してそうではない。ある事物が原因として考えられなくても、他に接近したり先行できるのである。「必然的結合」こそ考察するべきであり、この関係は、接近と継起の二つの関係よりも非常に重要で重大である。
 ここで再び事物の全ての面をくまなく調べて、この必然的結合の本性を発見し、その観念を引き起こす元の一つまたは数個の印象を見つけ出そうとする。事物の「既知の諸性質」に注目するとき、因果関係は「それらの諸性質」には少しも依存しないことを直ちに発見する。事物の「諸関係」を考察するとき、接近と継起の関係以外は見つけ出せず、その二関係は既に不完全かつ不十分だとみなした。成功をあきらめて、どんな相似の印象も先行しないような観念を、例外的に持つと主張してもよいだろうか? このような主張こそは、軽率と移り気の非常に有力な証拠であろう。何故なら反対原理(印象→観念)が、これ以上疑いの余地がないほど堅固に既に確立されているからである。少なくとも、この当面の難問をもっと十分に吟味し尽くすまでは、軽率と移り気の非難は免れないであろう(それまでは、例外は認められないであろう)。
 従って我々は、探求の対象が隠されていて、予期していたところには発見できなくて、その周辺を当てもなく捜し回って、確かな見通しや計画などなしに、幸運が最後には目的に到達させてくれることを期待している、そんな者のように進まなければならない。我々は、因果観念の構成要素である「必然的結合」の本性については、この問題の直接的な調査をやめることが必要なのである。そして、いくつかの別の問題を見つけるように努めることが必要である。別の問題とは、調査することが間接的に目下の困難を解決するのに役立つかもしれない手がかりを、ことによるともたらすであろう問題である。そういう問題を二つ提起し調査を始める。即ち、
 第一。始まりがある存在は全て、原因もまたあるべきである、と我々が「必然的に」宣言する理由は何か。
 第二。なぜ我々は、特にこのような原因には特にこのような結果が「必然的に」あるはずだ、と断定するのであろうか? そして、我々が原因から結果を引き出す、この断定の本性とはどういったものであろうか? また、我々が依存する「確信」の本性とはどういったものであろうか?
 なお、次節に進む前に言っておくが、因果観念は感覚の印象から由来するのと同様に内省の印象からも由来する。けれども簡潔のために、因果観念の起原としては、感覚の印象だけを一般的に言及することにする。にもかかわらず、感覚の印象について述べることは全て、内省の印象にも拡張されるように要望する。情緒は、外物が相互に結合するのと同じく、その対象と結合して相互に結合する。従って、一方に属する因果関係と同じ関係が、双方の全てに共通でなければならないのである。


第三節 なぜ原因は常に必然的なのか


 まず最初に、原因の必然性についての第一の問題である。哲学には、「存在し始めるものは全て、存在の原因がなければならない」という一般的原則がある。これは一般的に、何も証明を与えられなくても、また、証明を要求をされずに、全ての推論において当然のことと思われている。これは直観に基づいていると思われ、そして、口では否定するかもしれないが、心中では実際に疑い得ない原則だと思われている。しかしこの原則を、第一節で明らかにした普遍的知識の観念によって検討すると、そのような何かの直感的確実性の兆しは何も発見されない。それどころか、その種の確信とは全く関係のない、ある本性から成ることがわかる。
 全ての確実性は、観念の比較から生じる。言い換えると、観念が同一であり続ける限り変更され得ないような関係の発見から生じる。それらの関係は、「類似、量や数の比率、質の程度、反対」(第一節)である。目下の命題、「始まりがあるものには全て、存在の原因もまたある」には、どの関係も含まれていない。その命題は従って、直感的確実ではない。もし直感的確実であると主張するのならば、少なくとも、上記の四つの関係だけが絶対確実な関係であることを否定し、この命題に含まれる何か他の、その種の(観念の比較から生じる)関係を発見しなければならない。今のところそのような関係は発見されておらず、発見されるまでは検討する必要はないのである。
 しかしここに、上記の命題が直感的にも論証的にも確実ではないことを、直ちに証明する論拠がある。即ち、ある生産的原理なしでは、何物も存在し始めることは決して不可能である、ということを同時に明示することなしには、我々は、全ての新しい存在または存在の新しい変更の原因の必然性は決して論証できない、という論拠である。この生産的原理の必要性命題を証明できないのならば、問題の命題を常に証明できることを諦めるべきである。さて、生産的原理の必要性命題が論証的証明の余地が全くないということは、「全ての別個な観念は相互に分離できる」ということを考察することによって納得できる。つまり、因果観念は明らかに別個(原因と結果)であり、別個の原因観念つまり生産的原理の結合なくしても、任意の事物がこの瞬間に非存在で次の瞬間に存在であると思うことは、我々には容易である。従って、存在の始まりの観念から原因の観念を分離することは、明らかに想像においては可能であり、従って、原因と結果を実際に分離することは、矛盾や不合理を一切含まないほどに可能である。従って、単に観念だけを用いるいかなる推論によっても、分離可能を論破することは不可能であり、分離可能を論破することなしには、原因の必然性を論証することは不可能である。
 以上より、これまで提出された原因の必然性についての全ての論証を検討すると、残らず誤りと詭弁であることがわかるだろう。例えば、ある哲学者たち[ホッブズ氏]が言うには、任意の事物が存在し始めると想定できる時空の全ての点は相等しい(特異点はない)。だから、ある時のある所に対しては何らかの特異な原因があって、その原因によって存在を決定し固定するのでない限り、存在は永遠に未決定の状態のままでなければならない。だから、原因が必然でないならば、事物の始まりを決定する何かが不足しているために、事物は決して存在し始めることができない、と言う。しかし、存在が原因なしで決定されると想定することより、事物の時と所が原因なしに決定されると想定することのほうが、より困難であろうか? この主題について生じる第一の疑問は常に、事物は存在するのかしないのか「どちらなのか」ということである。第二の疑問は、「いつ」そして「どこで」存在し始めるかということである。もし第一の疑問に対して、原因の除去が直感的に不合理であるならば、第二の疑問に対してもそうであるはずである。もし第一の疑問に対して、原因除去の不合理が証明なしには明らかではないならば、第二の疑問に対しても証明が同じく必要であろう。従って、一方の想定の不合理は、決してもう一方の想定の不合理の証明ではありえない。何故なら、上記の想定は両方とも同じ根拠に基づいていて、両者は同じ推論によって、共に成立するか共に成立しないかだからである。(両者は共に証明が必要な命題であり、一方の想定がもう一方の証明にはならない。)
 この論点(原因の必然性の論証)で用いられるのを見い出す第二の論法[クラーク博士、他]も、同等の困難に悩む。その論法が言うには、全てのものごとには原因がなければならない。何故なら、もし原因を欠くとすれば、「ものごと」は「ものごと自身」を生み出すことになり、即ち、ものごとが存在する前に存在することになる。それは不可能だからである、と。しかしこの推論は、明らかに何も確定的ではない。何故なら、原因を否定しておいて、その否定したものを依然として認めることを、即ち、原因の存在を前提しているからである。その結果、原因はものごと自身だとみなされている。「それ」は確かに明白な矛盾である。原因なしにものごとが生み出されると言うこと、より適切に述べれば、原因なしに存在するようになると言うことは、ものごとがそれ自体それ自身の原因であることを肯定することではない。それどころか、全ての外部の原因を排除することは、生み出されるものごと自身を「なおさら」原因であることから排除する。なんら原因なしに無条件に存在する事物は、疑いなくそれ自身の原因ではない。ある事物が他の事物に伴って起こると主張するとき、まさに問題の論点(原因)が想定されていて、原因なしにはいかなる事物も存在し始めることは全く不可能であることが当然のことと思われている。即ち、一つの生産的原理を排除すると同時に、依然としてもう一つの生産的原理に頼らなければならないことが前提とされているのである。
 原因の必然性を論証するために用いられた第三の論法[ロック氏]も、まさに同様の実状である。その論法が言うには、原因なしに生み出される事物は何でも、「無」によって生み出されることになる。言い換えると、無をその原因の代わりにする。しかし、無が決して原因ではありえないことは、無が有でありえないこと、または、無が二直角と等しくないことと同じである。我々は、無が二直角と等しくないこと、または、無が有でありえないことがわかる直感と同じ直感によって、無が決して原因ではありえないことがわかる。従って我々は、全ての事物にその存在の真の原因があることがわかるであろう、と。
 前の二つの論法に言及した後では、この論法の欠陥を示すために多言を費やす必要はないであろう。三つの論法は全て同じ誤りに基づいていて、思考の同じ考え方に由来する。全ての原因を排除するとき、我々はまさに全原因と共に、無や事物自身を存在の原因として想定することをも排除することを、ただ述べるだけで足りる。従って、原因の排除の不合理を証明しようとしても、不合理なこれらの想定からは、いかなる論拠も引き出すことはできないのである。もし逆に、全ての事物には必ず原因があるのならば、即ち、その他の原因を排除する際には、無や事物自身を原因として許容しなければならなくなる。しかし、全ての事物に原因があるかないか如何は、まさに問題の論点そのものであり、従って、できる限り正しい推論によれば、決して前提してはならないのである。
 結果の観念そのものにはまさに原因が含まれているので、全ての結果には必ず原因があるという(第四の)論法は、なおさら取るに足らない。全ての結果は必然的に原因を先に想定する。結果とは原因が相関語である相対名辞なのである。しかしこのことは、全ての存在に原因が先行することを証明しない。例えて言えば、全ての夫には妻がいるのであるから、従って、全ての男は結婚しているに違いないと言うのと同じになる。問題の本来の様相は、全ての事物が存在し始める際に、その存在が原因に負うているかどうかである。これは直感的にも論証的にも確実ではないと結論できる。これまでの論証によって、十分に証明されたことであろう。
 以上より、普遍的な知識や科学的推論から、全ての新しい産出に対して原因の必然性の考えを引き出せないので、原因の必然性の考えは観察と経験から必然的に生じるに違いない。それでは次の問題は当然、「どのようにして経験がそのような原理を引き起こすか」ということでなければならないであろうか? しかしこの問題を、次の第二の問題の中に含ませる方が、より都合が良いであろうことを見い出すのである。即ち、「なぜ我々は、特にこのような原因には特にこのような結果が必然的にあるはずだ、と断定するのであろうか? なぜ我々は、原因から結果への断定を構成するのであろうか?」よって、第二の問題を今後の探求の主題とする。おそらく、同じ答えが両方の問題の解決の役に立つことが結局は分かるであろう。


第四節 原因と結果に関する推論の構成要素について


 心はその推論において原因や結果から、心が見たり思い出したりする因果の対象を越えて、推論の及ぶ範囲を拡大するのであるが、決して因果の対象を完全に見失うことはあり得ず、即ち、印象や少なくとも印象と同等の記憶の観念の混合なしに、単に観念だけにより因果を推論することはないのである。我々が原因から結果を推論するとき、必ず原因の存在を確立する。原因の存在の確立は、ただ二通りの様式だけであり、一つは感覚や記憶の直接的な知覚により、もう一つは他の原因からの推論による。そして他の原因は同様の様式で確立され、即ち、一つは目下の印象より、もう一つは違う他の原因による。以下同様に続き、最後には、見たり思い出したりする対象へ至るのである。我々は「無限に」因果の推論を続行することは不可能である。推論の行き止まりの唯一の事物は感覚や記憶の印象であり、それを超えてさらに疑いや探究の余地は無いのである。
 この実例を与えるには、歴史の任意の点を選び、どんな理由で我々が歴史上の出来事を信じるか或は退けるのかを考えれば良い。例えば、『カエサル』は「三月十五日」に元老院で殺されたと信じられている。なぜならこの事実は、その出来事にこの精密な時と場所を特定することに同意する、歴史家たちの全員一致の証言に確証されているからである。この点では我々の感覚や記憶に、ある文字や活字が浮かんでいて、その文字はまた、ある観念の標示として用いられてきたことを我々は忘れない。その観念は、その行為(暗殺)に直接居合わせた人の心の中に、即ちその存在から直接に観念を受け取ったか、それとも、他の人の証言から由来し、その証言はさらにまた別の証言から由来して、はっきりした漸次的移行により、その出来事の目撃者たちに至るであろう。明らかに、全ての論拠のこの連鎖つまり因果の結合は、最初は見たり思い出したりした文字や活字に基づいている。しかも、この感覚や記憶のよりどころ無くしては、我々の全推論は非現実的で根拠を持たないであろう。ただし、感覚や記憶のよりどころが無い場合でも、論拠の連鎖の環は一つ残らずつながることはできるだろう。けれども、全推論を支えることができる、推論の限界点に固定された何物もなく、従ってそこには、確信も根拠も無いであろう。そしてこれは実際に全ての「仮言的」論法、つまり仮定に基づく推論の実状なのである。仮定に基づく推論には、今起こっている印象は少しも無いし、実際の存在の確信もまた無いのである。
 最初に生じた印象に頼ることなしに、過去に確立された結論や原理に基づいて推論し得ることは、本節の学説に対する正当な反論にはならないことは言及するまでもない。というのは、たとえ記憶から、最初に生じた印象が全く消え去ったと仮定しても、印象が生んだ確信は、依然として残っているからである。これは、因果についての全ての推論が、根源的にある印象から生じることと同等である。同じ意味で、論証の保証が常に観念の比較から生じ、観念の比較が忘れられた後でも保証が持続するのと同様である。


第五節 感覚と記憶の印象について


 前節の結果によると、因果の推論において我々は、雑多な異なる成分からなる性質の諸要素を、結合されていても依然として基本的には相互に異なる諸要素を用いている。(大きく分けると)原因と結果についての全ての我々の論拠は二種の要素からなり、一つは、感覚や記憶の印象であり、もう一つは、印象の対象を生む存在(原因)の観念、または、対象によって生まれた存在(結果)の観念である。従ってここに解明すべき三つの事がある。即ち、「第一」最初の印象。「第二」印象と結合された原因観念や結果観念への移行。「第三」原因観念や結果観念の本性と諸性質。
 第一の、感覚から生じる最初の印象については、その究極の原因は、私の考えでは、人間の理性によっては完全に説明することはできない。最初の印象が対象から直接に生じるか、心の創造力によって生じるか、あるいは、我々の存在の創造主から生じるか、確信をもって決定することは永久に不可能であろう。しかし、このような究極の問いは、いずれにしても、我々の目下の目的に必須の問いではない。知覚が正しいか間違っているか、知覚が自然を正しく表すか全く感覚の思い違いに過ぎないかは、知覚の一貫性から推論して導き出せるのである。
(第一部の第三節で記憶観念について概説したが、)「記憶」を想像から区別する特徴を探し求めるとき、記憶が心に現出させる単純観念の中には、その特徴は見いだされ得ないことを我々は必ず直ちに理解する。なぜなら、記憶と想像の機能は両方とも、印象から各々の単純観念を取り入れるので、両機能は最初の知覚(印象)を決して越え得ないからである。また、両機能は、各々の複雑観念の配置によっても、互いにほとんど区別されない。というのは、記憶の特有の性質にその観念の元の順序や位置を保つことがあるのに対して、想像の方は好むままに観念の順序や位置を入れ替え変更するのであるが、とは言えそれにもかかわらず、この違いは両者の作用において両者を区別し一方から他方を識別するのに十分ではない。それは、過去の印象を思い出すときに、心に現れている記憶観念と元の印象を比較して、複雑観念の配置が元の印象の配置と正確に類似しているかどうかを確かめることは不可能だからである。従って、記憶は、その「複雑」観念の順序によっても、その「単純」観念の本性によっても見分けられない。以上より、記憶と想像との違いは、記憶が想像より勢いと活気に勝ることにあるという結果になる。例えば、空想にふけって任意の冒険の思い出を捏造するとき、もし想像の観念の方がより弱くて不明瞭なのでないならば、同種の記憶からこの空想を区別する可能性はないのである。
[付録]たびたび起こることだが、二人のひとが活動のある場面に共に携わったとき、一方が他方よりかなり良く記憶していて、他方が思い出すために全力で努めることがある。いつ、どこで、誰が、何を言い、何を行ったか、あらゆる面に言及し、いくつかの事実を挙げるが無駄に終わる。しかしついに、全てを思い出し、全ての出来事の完全な記憶をよみがえらせるような、ある幸運な事実に当たったとする。この際、忘れていた人は最初のうちは、出来事の全ての観念を、覚えている人の話から時や場所の同じ事実として受け取るが、それらの諸観念は、単に想像の虚構としてしかみなされない。しかし、思い出すきっかけとなる事実が示されるとすぐに、記憶に達し、まさに同じ観念が今や新しい見方で現れて、ある意味で以前とは違う感じになる。違う感じがする以外は何も変更が無いのに、想像観念は直ちに記憶観念となり、事実だと同意される。
 従って、想像は記憶が提供できるのと同じ対象を残らず再現することができて、両者の機能はただ、各々が現す観念の「感じ」の違いによってのみ区別されるのである。よって、その感じの本性はいかなるものかと問い、考察するのが適切であろう。そしてこの問いに対する、記憶観念は空想観念よりもより「強く」て「活発」である、という私の答えに誰しも快く同意されるであろうと思う。[ここまで]
 ある種の情熱や感動を再現しようとする画家は、同様の感動に駆り立てられた人の姿を覚えるように努めるであろう。それは画家の観念を活気づけるためであり、単に想像上の虚構に過ぎない観念に見い出されるものを上回る勢いと活気を観念に与えるためである。この記憶がより新しいほど、観念はより明確である。もし、長い休止期間の後で画業に戻るときは、完全に記憶を失っていないとしても、その観念はかなり衰えていることを常に見い出す。我々は、記憶観念が非常に弱く微かになっているときは度々、記憶観念について疑う場合がある。つまり我々は、ある心象がその記憶能力を識別するような鮮明な色で描かれないときは、その心象が空想か記憶かどちらに起因するかを決定できなくなるのである。私はそのような事を覚えていると誰しも言うが、確実ではない。長い時の経過は出来事の記憶をほとんどすり減らして、記憶なのか純粋に空想から生じたものなのか確信を持てなくするのである。
 記憶観念は勢いと活気を失うことによって、想像観念と取り違えられるような程度にまで低下することがある。逆に、想像観念が記憶のような勢いと活気を取得し、記憶観念と受け取られて信念と判断に与えるその効果を偽造することがある。これは嘘つき(虚言癖者)の場合に特筆され、たびたび嘘を繰り返しつくことによって、ついには嘘を真と信じ込み記憶するにまで至る。この場合も他の多くの場合と同様に、社会の慣習・風習や個人の習慣・習癖が自然の摂理と同じ影響を心に及ぼし、同等の勢いと活気とで観念を心に覚え込ませるのである。
 以上より明らかに、記憶と感覚全般に常に伴う「確信」や「同意」は、感覚と記憶がもたらす知覚の活気に他ならず、この知覚の活気だけが感覚と記憶を想像から区別するのである。この場合、確信していることは、感覚の直接的な印象を感じること、または、記憶中のその印象の繰り返しを感じることである。ただ知覚の勢いと活気だけが、判断の最初の行為を構成し、推論の根拠を置き、我々はその上に推論を形成し、そして、原因と結果の関係を発見するのである。


第六節 印象から観念への推論について


 容易に気づくことだが、我々が因果関係を発見するとき、原因から結果へ推論された結論は、単にこれらの個々の対象(原因の対象・結果の対象)の調査だけからは由来しない。つまり、一方から他方への依存関係を発見できるような、それらの根本的性質の洞察からは由来しないのである。これらの個々の対象自体をいくら考察・検討しても、我々が構成する個々の対象の観念を越えて見ないならば、他の対象の存在を必然的に伴うような対象は全く無い。そのような必然的な推論は(蓋然的知識ではなく)普遍的知識に帰するであろう。従って、何物も別個と考えることが絶対的な矛盾と不可能性を意味するであろう。しかし、全ての別個な観念は分離可能であるので、明らかに(原因と結果は別個なので)その種類の不可能性は有り得ない。目下の印象から任意の対象の観念へ推移するとき、おそらく我々は印象から観念を区別していて、任意の他の観念に取って代わる余地がある。
 従ってただ「経験」によってのみ我々は、ある対象の存在から別の対象の存在を推論できるのである。経験の性質は以下である。我々は、ある種の対象の存在の実例をたびたび経験したことを記憶している。そしてまた、その実例に常に伴って別の種類の対象の個物も記憶し、両者に関して近接と継起の規則的な順序の関係にあったことも覚えている。例えば我々は、「炎」という種の対象を見たことを覚えていて、「熱さ」という種の感覚を感じたことも覚えている。そのうえ我々は、過去の全ての実例において、両者の恒常的連接を心に思い出す。するといきなり我々は、炎を「原因」とし熱さを「結果」と考えて、一方の存在から他方の存在を推論するのである。個々の原因と結果の連接を我々に教える全ての過去の実例において、原因と結果の両者は感覚によって知覚され記憶されている。しかし我々が両者について推論する全ての場合においては、ただ一方の知覚や記憶だけがあり、他方は過去の経験に従って与えられるのである。
 このように探求が進捗するとき、我々は原因と結果の間の新しい関係を気づかぬうちに発見していた。それは思いがけないときに、もっぱら別の主題に携わっていたときに発見された。その関係とは、原因と結果の「恒常的連接」である。近接と継起だけでは、二つの対象が因果関係にあると断定するのに十分ではない。いくつかの実例において二つの対象の関係が維持されることを認知して始めて、因果関係を断定できるのである。因果関係に欠くことのできない主要な要素を成す「必然的結合」の本性を発見するために、その直接的調査を止めることの利点を今になって我々は理解できよう。この間接的方法によって我々は、計画した目的に最終的に到達できる希望があるのだが、しかしながら実を言えば、この新しく発見された恒常的連接の関係は、ほんの僅かしか前進させないように見える。というのはこの関係は、類似の対象が近接と継起の類似の関係に常に置かれていたということ以上を意味しないからである。そして、少なくとも一見したところでは、この方法によっては新しい観念を決して少しも発見できないこと、つまり、実例を増やすことだけはできるが、心の対象を拡張することはできないことが明白なようである。一つの対象から習得されないことは、全て同種かつ各事実において完全に類似した対象を百回繰り返して実例を増やしても、決して習得できないと考えられよう。我々の感覚には、一つの実例につき二つの物や運動や性質が、近接と継起の特定の関係において現れるのと同様に、我々の記憶には、ただ多くの実例が現れ、そこには常に類似の物や運動や性質が類似の関係において現れるのである。ただ過去の印象の繰り返しからは、たとえ無限に繰り返したとしても、必然的結合のような新たな初発のどんな観念も決して生じないであろう。そしてこの場合どんなに印象の数を増やしても、ただ一回の印象に制限したときと同様の効果であろう。しかし、以上の推論は正しくて明らかなように思われるが、それでも、早すぎる絶望は愚かな行為であろうから、この論述の筋道を継続しよう。我々は(多くの実例の)あらゆる対象の恒常的連接の発見の後に、常に一つの対象からもう一つの対象へ結論することを見い出したのだから、今やその推論の本性、つまり印象から観念への移行の本性を検討しよう。おそらく最終的には、印象から観念への推論が必然的結合に依存しているのではなく、必然的結合の方が推論に依存することが明らかになるであろう。
 感覚や記憶に現れた印象から原因や結果という事物の観念への移行は、過去の「経験」、言い換えると事物の「恒常的連接」の記憶に基づいていることが明らかなので、次の問題は、経験が因果観念を生み出すのは、知性によってなのか、あるいは、想像によってなのか。また、この移行をすることを決めるのは、理性によってなのか、あるいは、知覚のある連想と関連によってなのか。である。もし理性が決めるのならば、以下の原理から生じるであろう。それは、「今まで経験したことがない実例も経験したことがある実例に似ているはずであり、自然の進行は常に同じ法則に従うように持続する」という原理である。従って、理性によるかどうかを明らかにするために、そのような命題の根拠と思われ得る全ての論拠を検討しよう。そして、それらの論拠は普遍的知識か蓋然的知識のいずれかに由来するはずなので、各々の根拠の度合いに注目し、この本性の正当な結論をもたらすかどうかを調べよう。
「今まで経験したことがない実例も今までに経験した実例に似ている」という命題を証明する「論証的」な論拠は有り得ないということは、これまでの本書の推論方法が容易に納得させるであろう。即ち、自然の進行において我々は、ある変動を少なくとも想像することができる。このことは、そのような変動が絶対不可能ではないことを十分に証明する。ある物の明晰な観念を構成することは、その物の可能性の否定できない論拠であり、その物の可能性に反対すると称するどんな論証も単独で反証されるのである。
 蓋然的知識は、普遍的知識のように論証的に考えられた諸観念間の関係を発見するのではなく、ただ(経験的に)諸々の対象・事物の間の関係だけを発見するので、ある点では、感覚や記憶の印象に基づき、ある点では、観念に基づくに違いない。もし、蓋然的推論に少しも印象が混ざっていないのならば、蓋然的結論は全く非現実的であろう。もし、蓋然的推論に少しも観念が混ざっていないのならば、対象間の関係を観察する心の活動は、適切に言って、推論ではなく感覚であろう。従って必然的に、あらゆる蓋然的推論には、見られるか記憶されている何かあるもの(印象)が心に現れていて、その何かあるものから我々は、それと連結した見られないし記憶もされていない何かあるもの(観念)を推論するのである。
 我々の感覚と記憶の直接的な印象を越えて導くことができる諸対象間の唯一の連結・関係は、因果関係だけである。しかも、因果関係こそ、我々がある対象から別の対象への適正な推論の根拠となり得る唯一の関係なのである。因果観念は「経験」から由来する。経験は、全ての過去の実例において相互に恒常的連接の関係にある特定の対象を告げ知らせる。そして、過去の実例の一つと類似するある一つの対象は、その印象において直接的に即座に心に現れると思われるので、我々はそのため、その対象に通常付随するものと類似する一つの存在を推定するのである。以上の事物(対象)に関する記述に従うと、その記述は思うに、全ての点で疑う余地はなく、蓋然的知識は、今までに経験した諸対象と経験したことがない諸対象の間の類似についての推定に基づいている。従って、この推定の方は、蓋然的知識から生じ得ることは不可能である。同じ原理は、別の原理の原因と結果の両方ではあり得ない(からである)。このこと(理性によって因果観念を生み出し得ないこと)はおそらく、因果関係についての直感的にも論証的にも確かな唯一の命題である。
 誰かが以上の論拠を回避しようとするかもしれない。即ち、この主題についての推論が、論証的知識か蓋然的知識かいずれかに由来するのかを決定することなしに、原因や結果からの全ての結論は、確実な推論に基づいていると称して。それに対してできることは、我々の検討を受けさせるために、その推論を提示されることを求めるのみである。もしかすると、特定の事物の恒常的連接の経験の後で、我々は以下のように推論すると言われるかもしれない。即ち、そのような関係にある事物が他の事物を生み出すことは、常に見い出されている。もし、事物が産出の能力を備えてなかったならば、この結果を得ることは不可能である。能力は、必然的に結果を伴うのであり、従って、ある事物の存在からその事物に通常付随するものへの推断を導く正当な根拠があるのである。過去の産出は能力を必ず伴い、能力は必然的に新しい産出を意味する。つまり、新しい産出は、能力と過去の産出から推論されるものである。と。
 以上の推論の弱点を示すことは容易である。もし、既に(第二節で)述べた、「産出」観念は「因果」観念と同一であり、つまり、他のいかなる事物に能力があると確実かつ論証的に意味するものは何もない、という所見を用いようとすれば。あるいは、我々が構成する「能力」と「効果」の観念に関する後述(第十四節)の所見を先取りしてもよいのならば。しかし、成り行きの方法は、体系の一つの部分を他の部分に基づかせることによって弱めるか、推論において混乱を引き起こすかもしれないので、他の部分の援用なくして目下の主張を続行するように努めよう。
 そのため少しの間、何か一つの実例における別の事物による一つの事物の産出は能力を含み、この能力は結果と連結することを許容しよう。けれども、既に(第一節で)証明されていたのだが、原因の知覚できる性質に産出能力はない。しかもそれでいて、我々の心に現れるのは、ただ知覚できる性質のみがあるだけなのである。私は尋ねるが、単に知覚できる性質の現れだけに基づいて、何故その他の実例においても同じ能力が存在すると推定するのであろうか? 過去の経験に訴えても、現在の事例については何も解決されない。たかだか、何か他の事物を産出する正にその事物が、正にその時にそのような産出能力を与えられていたことだけを証明できるに過ぎない。しかし、同様の事物、つまり知覚できる性質の収集物において、同様の能力を継続するはずだということは、決して証明できない。まして、同様の能力が常に同様の知覚できる性質に結合されているのではないのである。もし、同じ能力は同じ事物に結合し続けて、かつ、類似の事物には類似の能力が与えられているという経験が、我々にはあると言われるのならば、私は同じ質問を繰り返す。「なぜ、今までに経験していた過去の実例を越えて、この経験から我々は何か結論を構成するのであろうか」もし、この質問にこれまでと同様に答えるのならば、その答えは依然として同種の新たな質問にきっかけを与え、正に「永遠に」堂々巡りとなる。このことは明らかに、問題の推論には正当な根拠は無いことを証明するのである。
 以上のように、理性は原因と結果の「決定的な結合」の発見に失敗するだけでなく、経験が原因と結果の「恒常的連接」を告げ知らせた後で、なぜ我々は観察される個々の実例を越えてその経験を拡張するのかという疑問を、理性によって納得させることさえ不可能なのである。我々は、今までに経験した事物と未発見の事物の間には、類似があるはずだと仮定するが、決して証明はできないのである。
 我々は既に、一つの事物からもう一つの事物へ進ませる確かな関係に気づいていた。その移行を決定する理由は無いのだが。そしてこのことから、一般的規則を確立できる。理由なくして心が絶えず一様に移行を為すとき、心は確かな関係に影響を及ぼされている。これこそ、正に目下の事例である。経験、即ち、過去の全ての実例における事物の恒常的連接の助けによっても、理性は決して一つの事物からもう一つの事物への結合を示すことはできないのである。従って、心が一つの事物の印象や観念からもう一つの事物の確信や観念へ進むとき、理性によっては決定されず、それらの事物の観念を相互に結合させる、即ち、想像において連合させる、ある確かな原理によって決定される。もし、想像においても知性のように事物の観念の連合が無いのならば、原因から結果へのどんな推論も決して不可能だし、どんな事実も信頼できないであろう。従って、因果推論は観念の連合にもっぱら依存しているのである。
 観念間の連合原理については、既に三つの一般的原理に分類した(第一部第四節)。そして、どんな事物の印象や観念も、類似や近接や因果結合する他の事物の観念を自然にもたらす、と主張した。これらの三つの原理は、「決して誤らない」とは言えないし、観念間の連合の「唯一の」原因でもない、と認める。これらの三つの原理は、決して誤らない原因ではないのである。というのは、人は遠くを見ることなくして、ある時間どんな事物にでも注意を固定できるからである。また、これらの三つの原理は、唯一の原因でもないのである。というのは、思考はその対象に沿って巡る際、明らかに極めて不規則な動きを為し、何ら確かな方策や順序なくして、いわば天から地へ、世界の端から端まで躍動できるからである。しかしながら、これらの三つの関係に弱点を、そして想像に不規則性を認めるけれども、観念を連合する「一般的」原理はただ、類似、近接、因果性の三つだけだと私は主張する。
 実を言えば一見したところ、三つの一般的原理のいずれとも異なるように見える、観念間の連合原理(恒常的連接)があるのだが、その原理も根本は同じ起源に依存していることがわかるであろう。ある種類の事物の全個物が他の種類の事物の個物と恒常的に結合されていると経験によって気づくとき、どちらか一方の種類の新しい個物の現れは、その個物に通常付随するものへの思考を自然にもたらす。例えば、ある特定の観念には、ある特定の単語が一般的に付与されているので、その単語を聞くだけで、その対応する観念が引き起こされる。最大限に努力しても、その移行を防ぐことはほとんどできないであろう。この場合、その単語の発音を聞いたときに、我々は過去の経験を振り返ってその音に通常結合されていた観念を考察する必要は全然ない。想像自体がこの反省の場を与え、単語から観念への移行の間に少しの遅滞もないほどに、習慣になっているのである。
 以上の(恒常的連接)原理を、本当の観念間の連合原理であると認めるけれども、私は、それは因果観念の原理と正に同じであり、因果関係による全ての推論に不可欠な部分であると主張する。我々には、互いに「常に結合され」ていた、つまり全ての過去の実例において分離不可であった事物の観念以外に、因果観念はない。我々は、恒常的連接の根拠を理解することはできない。ただ事物を観察して、恒常的連接から想像において事物の連合に常に気づくだけである。ある事物の印象が現れるとき、その印象に通常付随する観念を我々は直ちに構成する。従って我々は、所信や確信の定義の一部として次のことを確立できる。即ち、「所信や確信は、目下の印象に関連つまり連合した観念である」
 以上のように、因果性は近接・継起・恒常的連接を含む「哲学的」関係であるけれども、それにもかかわらず、ただ「自然的」関係に関するかぎり、即ち、観念間の連合を引き起こすかぎりだけ、我々は、因果について推論し、因果から結論を導き出すことができるのである。


第七節 観念や信念・確信の本性について


 事物の観念は、事物の確信に不可欠であるが、全てではない。我々は、信じていない事も多分に考える。それでは、信念・確信の本性、つまり我々が同意・承認する観念の諸性質を、より完全に見い出すために以下の諸考察を検討しよう。
 明らかに、因果からの全ての推論は、事実についての結論に終結する。換言すれば、事物の存在や事物の諸性質の存在についての結論に終結する。また明らかに、存在の観念は事物の観念と異ならず、そして何かの単純概念を存在として考えた後でも、我々は最初の観念に実際に何も追加や変更を加えることはない。例えば、神が存在すると断言するとき、我々は神が象徴するような存在の観念を素朴に構成するのであって、神に属する存在の観念、存在以外の性質の観念を結合した特殊な観念により想われ、諸性質と再び分離や区別できる観念ではない。また更に進んで、どんな事物の存在の概念も、その単純概念に何も付け加えないと主張するだけでなく、同様に存在の確信も、事物の観念を構成する観念に何も新しい観念を結合しないと主張する。例えば、単に神を考えるとき、存在として神を考えるとき、神が存在すると信じるとき、神の観念は増えも減りもしない。しかし確かに、ある事物の存在の単純概念と存在の確信の間には大きな相違がある。この相違は、我々が心にいだく観念の部分や構成にはないので、当然、我々が心にいだく観念の「様式」にあるに違いない。
「カエサルはベッドで亡くなったとか、銀は鉛より熔け易いとか、水銀は金より重いとか」同意されない命題を提出する人がいると仮定しよう。すると明らかに、その命題の不信認にもかかわらず、命題の意味すること(偽の内容)は明確に理解され、彼の構成する観念と全て同じ観念を私は構成する。私の想像力は彼の想像力と同じ能力を与えられている。私が想うことができない観念は、彼も想うことはできないし、私が結合できない観念は、彼も結合できないのである。従って私は尋ねるが、命題の信認と不信認の間には、どの点に違いがあるのであろうか? 直感や論証によって証明される命題については、その答えは容易である。その場合は、同意する人は命題に従って観念を想うだけでなく、直感や論証という特別な仕方で、直ちに、または、他の観念の介在によって、観念を想うことを必然的に決定されるのである。(直感や論証においては)不合理なことは何でも理解不能であり、論証と矛盾することは何でも、想像は想うことはできない。しかし、因果性による推論、つまり事実について推論するときは、この絶対的必然性は生じ得ないし、想像は命題の肯定と否定のどちらも想うことは自由である。肯定と否定のどちらの場合も、観念を心に想うことは等しく可能かつ不可欠であるので、私は再び尋ねる。「信認と不信認の間には、どの点に違いがあるのであろうか?」
 つぎの答えでは満足できないであろう。即ち、提出された命題に同意しない人は、提出者と同じ仕方で命題の事物を想った後、直ちに違う仕方でその事物を想って、異なる観念を持つに至るのだ、と。この答えでは不十分なのである。なぜなら、その答えは誤ってはいないけれども、十全な真実を発見してはいないからである。我々は命題に不同意な場合でも全て、命題の肯定と否定の両側を想う、と認められる。しかし、我々が信じられるのは一方だけなので、明らかに、信念・確信は、同意と不同意の間の心に想うことに何らかの違いを生じさせるはずである。我々は観念を、多数の違った仕方で、混ぜたり、結合させたり、分離させたり、混同したり、変更したりできる。しかし、様々な状況の一つを確定させる何らかの原理が現れるまでは、実際に何も所信を持たないのである。そしてこの原理は、先行する観念に明らかに何も追加しないので、観念を想う「様式」を変更できるだけなのである。
 心の知覚の全ては、印象と観念の二種類であり、両者の違いはただ、勢いと活気の程度の違いだけである。我々の観念は印象から複写され、印象のあらゆる部分を再現する。ある特定の事物の(印象由来の)観念を、いかように変更しようとするときでも、ただその勢いと活気を増大や減少できるだけである。もしそれ以外を変更すると、その観念は、違う事物や印象を再現することになる。これは色彩と比喩的に同じである。ある色の色合いは、明度や彩度を変更しても同じ色相を保つが、その他の変更を生じさせれば、同じ色相ではなくなる。信念・確信は、我々が事物を想うときの様式の変化に他ならないので、観念にはただ勢いと活気の追加のみを与えられるのである。従って、所信つまり信念・確信は、「目下の印象に関連や連合する、強い観念である」と、最も正確に定義されるであろう。
[原注:この機会に、これまでに学院において繰り返し教え込まれていた、一つの顕著な錯誤について述べよう。その錯誤は、既にある種の確立された原則となっていて、全論理学者によって例外なく受け入れられている。この錯誤は、知性の働きの世俗的区分「概念」「判断」「推論」と、この三つの区分に与える定義に存する。概念は、一つまたはそれ以上の観念の簡潔な概観と定義されている。判断は、様々な観念を分離や結合することと定義されている。推論は、観念相互を結ぶ関係を示す諸観念の介在によって、様々な観念を分離や結合することと定義されている。しかし、これらの区別と定義は、とても重要な条項において欠陥があるのである。「第一に」我々の構成する全ての判断においては、二つの異なる観念を結合するということは、少しも真実ではないのである。というのは、「神は存在する」という命題、それどころか存在を考える全ての命題において、存在の観念は決して別個な観念ではなく、事物の観念と結合したり、その結合によって複雑観念を構成することはできないのである。「第二に」従って我々はただ一つの観念だけを含む命題を構成できるので、同様に、二つより多い観念を使用しないで、二つの観念間の媒介役としての第三の観念に頼らないで、我々の理性を用いることができるのである。例えば我々は、原因をその結果から直接に推論する。そしてこの推論は、適正な種類の推論であるだけでなく、最も強力な推論であり、両極端の二観念を結合する第三の観念を介在させるときよりも説得力があるのである。これらの三つの知性の働きについて、一般的に我々は断言できる。即ち、適切に理解すると、三つの働きは第一の働き(概念)に帰し、事物を想う特定な仕方に過ぎない、と言える。一つの対象を考えても、数個の対象を考えるにしても、また同じ対象をいつまでも考えても、他の対象に変えても、またいかなる構成や順序で対象を概観するにせよ、いずれにしても心の働きは、純然たる概念を超えないのである。この場合において起こる唯一の顕著な違いは、概念に確信を結合するとき、つまり、我々が想うことの真実が確信されるときだけなのである。この心の働きは、どんな哲学者によっても未だに解明されてはいない。従って、この働きについての仮説を提案するに当たっては自由であり、私の仮説は、信念・確信とは、ある観念の強い安定した概念に過ぎず、直接に印象に多少とも近づくような心の働きなのである。]
 ここに、この結論に我々を導く複数の論拠の要点がある。一つの事物の存在を他の事物の存在から推論するとき、推論の根拠であるための事物が、常に感覚や記憶に現れている必要がある。何故なら、心は「無限に」推論を進めることはできないからである。理性は、ある一つの事物の存在が他の事物の存在を含むことを、決して得心させることはできない。そのため、一つの事物の印象から他の事物の観念や確信が生じるとき、理性ではなく習慣や連合原理によって決定するのである。しかし信念・確信は、単純な観念より以上のものであり、即ち、観念を構成する特殊な様式である。そして同一の観念は、ただ勢いと活気の程度の変化によってのみ、同一性を保ちながら変化できるので、以上をまとめると前述の定義のように、信念・確信は、目下の印象との関連によって産み出された、強い観念であると言える。
[付録]ある事実の確信を構成するこの心の働きは、これまで、哲学の最も重要な謎の一つであると思われてきた。けれども、誰もそれを解明する困難に気づいてはいなかった。私としては認めなければならないが、確信を解明する相当な困難に気づき、この主題を完全に理解していると思うときでさえ、私の理解する意味を表す用語に窮している。私には非常に明白に思われる推論の誘導によって、所信や確信は虚想とは違う観念ではあるが、その違いは性質や部分の順序には無く、その存在が想われる「様式」に違いがあるに過ぎない、と結論する。しかしこの「様式」を解明しようとするとき、この実情を完全に言い表すどんな用語も不十分にしか見い出せない。この心の働きの完全な概念をもたらすためには、各人の感じに頼らざるを得ないのである。同意された観念は、空想が単独で表す架空の観念とは、「感じ」が違う。この違う感じを、より強い「勢い/活気/堅固/確固/安定」などと呼ぶことによって、私は説明しようと努める。この用語の多様は、とても非哲学的に見えるかもしれないが、この心の活動(確信)を言葉で表現することだけを目的としている。確信は我々に空想よりも多く現実性を与え、思考において現実性をより重要にさせて、現実性に情緒と想像に及ぼすより強い影響を与える。もし我々がこのことについて合意に達するならば、用語について論争することは不必要である。想像には全ての観念を統御する力があり、可能な限りの全ての仕方で、観念を結合・混合・変更することができる。想像は空間と時間の全ての状況で、事物を心に描くことができる。言わば、まるで事物が存在していたように、眼前に実際どおりの姿で事物を想うことができるのである。しかし想像の機能は、それだけでは確信に到達することは決してできないので、明らかに確信は、観念の性質や順序には存せず、観念を想う様式、つまり心の中の観念の感じに存するのである。私は、この感じや想う様式を完全に解明することは不可能だと認める。我々は、この感じや想う様式に近いあるものを表す用語を利用できよう。しかし、その本当の適切な名称は「確信」であり、確信は誰しも日常生活で十分に理解している用語である。そして哲学においても、確信は心によって「感じる」あるものであり、想像の空想から判断の観念を区別するものであると主張する以上のことはできない。確信は、観念により多くの勢いと影響力を与え、より大きい重要性を現して、観念を心にしみ込ませる。そして観念を、我々の全ての活動を統御する原理にするのである。[ここまで]
 この定義はまた、全ての人々の感覚や経験に全く適合していることに気づくであろう。我々が同意する確信の観念は、空想家の無規律な夢想よりも、より強く確固として鮮明であることは、全くもって根拠があり明白なことである。もし、ある人がある本を小説として読み、別の人がその本を正確な歴史として読んだとすると、両者は明らかに同じ観念を同じ順序で受け取る。記述内容を、前者は信じず後者は信じることは、その著作物より、まさに同じ観念を受けることを妨げない。作品の文章は、同じ観念を両者に生じさせる。けれども、事実に関する記述は、違う影響を両者に及ぼす。後者は前者よりも全ての出来事について、より強い想念を持つ。後者は登場人物の事件により深く共感し、彼らの行動・性格・交友・対立を想像する。後者は彼らの顔つき・風貌・容姿の感じを形作るまで、さらに進む。そして一方、作品の事実に関する記述を信用しない前者は、後者の作る詳細な想念に比べて、より弱くて活気のない想念を持ち、(私は)小説の文体と文章構成の工夫を除いては、空想からはほとんど興味を受けることはできない。


第八節 信念・確信の諸原因について


 前節で信念・確信の本性を明らかにし、確信は目下の印象に関連する、強い観念に存することを示した。本節では、確信が由来する諸原理、つまり観念に活気を与えるものごと、を吟味することにしよう。
 人間本性の科学における一般的原則として私は進んで確立したいのだが、即ち「どんな印象も心に存在するようになるときには、印象に関連するような諸観念へ心を運ぶだけでなく、さらに加えて、印象の勢いと活気の分け前をも諸観念に伝えるのである」。心の全ての活動は、心が活動を行うとき、その性質・傾向に大いに依存する。気分が高められる際の高低や、注意が引きつけられる際の強弱に対応して、心の活動には勢いと活気の強弱が常にあるだろう。従って、心の活動を高め活気づける対象が現れているとき、心が専念する全ての活動は、その傾向が継続する限り、より強く生き生きとしているであろう。今や明らかであるが、この傾向の継続は、心が従事する対象に全く依存するのである。つまり、新しい対象が気分に新しい動向を自然に与え、心の傾向を変える。反対に、心が同じ対象に絶えず引きつけられているとき、あるいは、関連する複数の対象に沿って円滑に少しずつ心が進むときは、心の傾向はずっと長く持続される。ゆえに、心がひとたび、目下の印象によって活気づけられたとき、その対象から別の対象への傾向の自然な移行によって、関連する対象のより強い観念を、心が構成し続けることが起こるのである。対象の変化が円滑であるほど、心はその変化に気付かないが、目下の印象から獲得する全ての勢いと活気とともに、関連する観念を想うことに心は専念するのである。
 もし、関連の性質、即ち、関連に欠かすことのできない移行の機能を考察することによって、この現象の真実性について得心できれば良いのであるが、不可欠な原理を証明するためには、経験に主に頼ることを認めなければならない。それゆえ経験に頼って、我々の目下の目的への第一の試みとして述べよう。即ち、欠席している友人の肖像画を見るとき、友人の観念は肖像画の「類似」によって、明らかに活気づけられる。しかも、友人の観念が引き起こすあらゆる感情は、悲喜を問わず、新しい勢いと活気を獲得する。この類似の結果を引き起こす際に、目下の絵の印象と、肖像と本人の関連の両方は協同している。その肖像画が友人に少しも似ていない場合、または、とにかく友人の絵ではないと思っていた場合は(印象はあるが関連はなく)、決してその絵から友人を思いつくことさえない。また、肖像画を以前に見たが今そこにはない場合(関連はあるが感覚からの印象がない場合)、心は記憶にある肖像画から友人へ思いを進めることはできるけれども、肖像の記憶から友人への関連する移行によって、心は観念が強められるよりも、むしろ弱められると感じる。我々は、友人の肖像画が目の前にあるときは、好んでそれを観て友人を思うが、しかし、肖像画が目の前にないときは、記憶が明瞭か不明瞭かを問わず、間接的な画像の回想によるよりもむしろ、直接に友人を思うことを選択する。
「ローマカトリック」教の諸儀式は、同様の性質の試みとして考察できよう。その奇妙な迷信の熱狂的信者たちは、ばかげた見せかけだと非難される諸儀式に対する弁明を、通例以下のように主張する。即ち、儀式の参加者は、形式的な所作やポーズや演技の敬虔な効果を感じ、信仰心と宗教的熱情を活気づけられる。もしそうでなければ、もし霊的な無形の非物質的な縁遠い対象へもっぱら案内するならば、信心は衰え消えてしまうであろう。彼らは信心の対象を、知覚できる類型とイメージで投影し、単に理知的な見方や瞑想によるよりも、知覚できる類型の直接的な影響力によって、信心の対象をより心に存在させることができる。知覚できる対象は、常に他の何よりも空想に多大な影響を与え、さらにこの影響を、関連しかつ類似する対象の観念に直ちに伝える。これらの実践と推論から、観念を活気づける際の類似の効果は、まさに共通で一般的であること、これだけを私は推測するであろう。そして、あらゆる事例において、類似と目下の印象とは必ず協同するので、前述の原理の真実性を証明するのに充分な試みを、我々は与えられているのである。
「類似」の効果だけでなく「近接」の効果を考察することで、我々は異なる種類の試みによって、類似の試みを強化できる。距離・隔たりは、あらゆる観念の勢いを減少させることは確かである。しかも逆に、ある対象に接近する際、対象がまだ感覚に現れていなくとも、直接の印象を模造する影響力によって、対象は心に影響を及ぼすのである。ある事物を考えることは、直ちに近接するものごとへ心を運び移す。しかし、ある事物の現在の感覚に現れる存在だけが、優勢な活気とともに心を運び移すのである。例えば、家から数マイルほどの距離にあるとき、家と関連するものごとは何であれ、家から二百リーグ(六百マイル)の距離にあるときよりも、より密接に影響する。たとえ二百リーグも離れていても、家族や友人たちの付近のものごとを回想すれば、自然にそれらの観念が産み出されはするが。しかし遠距離の場合は、心の対象は因果両方とも観念であり、やはり原因から結果への移行は容易ではあるが、観念間の移行は直接の印象を欠くために、それだけではどちらの観念にも優勢な活気を与えることはできないのである。
[付録](あるいは原注:)キケロ『善と悪の究極について』第五巻より引用
そのときピーソーがこう言った。「私たちは、記憶すべき著名な人々がよく訪れたと聞かされてきた場所を見るときの方が、彼らの行いについて聞いたり、彼らの書いたものを何か読んだりする場合よりも、大きな興奮を覚えるが、これは、私たちの本性によることと言うべきなのか、それとも、何かの錯覚によることと言うべきなのか。いまの私はちょうどそのような興奮を感じている。なぜなら、私たちの聞くところでは、この場所で議論を行うことを最初に習慣づけたというプラトーンのことを、私は思い起こしているからだ。ここから近いあの教えの庭も、彼のことを思い出させるばかりでなく、彼の姿を眼前に現すかのように思われる。ここにはスペウシッポスが、またクセノクラテースがいたのだし、そしてその弟子のポレモーンもそうであり、私たちの見ているまさにあの座席が彼の使ったものなのだ。私の場合、わが国の元老院議事堂――ホスティーリウス議事堂のことを言っているのであって、拡張されて以来、むしろ私には小さくなったように見える新しい建物のことではない――を眺めるときでも、スキーピオーやカトーやラエリウス、そして、とりわけ私の祖父のことをいつも思ったものである。それほどに場所には想起させる力があるのだ。したがって、場所を用いた記憶の訓練法が生み出されたというのもうなずける。」[ここまで]
(岩波書店キケロー選集10哲学III『善と悪の究極について』永田康昭,兼利琢也,岩崎務 訳,2000年刊より翻訳を引用)
 因果関係には、類似と近接の二つの関係と同じ影響があることを誰も疑うことができない。例えば、迷信深い人々は、聖人や聖職者の聖遺物に愛着を抱く。その理由は彼らが類型やイメージを求める理由と同じであり、信心を活気づけるため、より親密に心の底から、見習いたい道徳的手本とすべき生涯の強い想念を得るためなのである。今や明らかだが、信者が入手できる最高の聖遺物の一つは、聖者の手作り品であろう。もし聖人の衣服や家具が、ともかく最高の聖遺物の一つとみなされるとすれば、それはかつて聖人が自由に使用して動かしたり影響を及ぼしたりしたためであろう。この点で、衣服や家具は不完全な効果であり、聖人の存在の真実性を知るどんなものよりも短絡的な帰結によって結合されていると見なされるべきである。この現象は明らかに証明する。因果関係を伴う目下の印象は、観念を活気づけ、その結果として、先行する印象の限定に従って、確信や同意を産み出すのである。
 さて、我々は他の論証を探し求める必要・理由があるだろうか? 目下の印象は、想像の関連や移行を伴って観念を活気づけることができると証明するために、まさにこの因果関係からの推論の実例が、単独で十分であるにもかかわらず。我々は、我々が確信する全ての事実の観念を持つことは、確かである。その観念は、目下の印象に対する関係だけから生じることは、確かである。確信は、観念には特に何も加えず、ただ観念を想う様式を変えるだけであり、即ち、観念をより強く活発にすることは、確かである。関連の影響についての本節の結論は、これら全ての関連の歩みの直接の帰結であり、そして関連の一歩一歩は、私には確かで誤りがないように見える。目下の印象、強い観念、印象と観念の間の想像の関連や連合、これら以外には心の確信の働きはあり得ず、それゆえ、誤りの疑いはあり得ないのである。
 本節で為すべきことの全体を白日の下に晒すために、この問題を自然学の問題として考察しよう。自然学においては、我々は経験と観察によって決定する必要がある。まず目下の対象を一つ仮定する。私はその対象から推断して、同意や確信と言われる観念を構成すると仮定する。ここに明らかなことがある。それは、たとえ私の感覚に現れているその対象と、私が理性によって推論した存在である他の対象とが、他の対象の力能や性質によって相互に影響を及ぼすと考えられるにせよ、目下に吟味する確信の現象は、単に心の内部の現象に過ぎないので、それらの力能や性質は心の内部では不可知であり、確信を生む際に影響を与え得ないのである。目下の印象こそ、観念と観念に伴う確信の真実かつ実際の原因として考えられるのである。従って我々は、驚くべき結果(確信)を生み出し得る特定の性質を、実験によって発見するように努めなければならない。
 第一の観察。目下の印象は、その固有の力能や効能によっては、即ち、目下の瞬間に限定された一つの知覚として単独に考える場合は、この結果(確信)は生じない。印象の最初の現れからは、何も推断を引き出し得ないのだが、その日常的な数多な帰結の経験をした後では、印象は確信の基礎になり得ることに気づく。どんな場合でも我々は、過去の実例に同じ印象を観察し、ある他の印象と恒常的連接の関係にあることを見出すに違いない。このことは、おびただしい数の実験によって確かめられ、いささかも疑いの余地は無いのである。
 第二の観察。目下の印象に伴う確信は、多くの過去の印象と連接によって生じると私は結論する。この確信は、理性や想像のどんな新しい働きもなしに、直接に直ちに生じると私は主張する。このことについて私は確信できる。何故なら、この主題(確信の原因)において、どんな理性や想像の働きも決して自覚していないし、その働きが基づき得る何ものも見い出せないからである。ところで我々は、何も新しい推論や推断なしに、過去の繰り返しから由来する全てのことを「習慣」と呼ぶので、どんな目下の印象でもその後に生じる全ての確信は、単に習慣という起源から由来するということを、確かな真実として確立できよう。我々は、二つの印象が相互に結合されているのを見慣れたとき、一方の現れや観念によって、直ちに他方の観念へ導かれる。
 この論点について完全に得心しているけれども、第三の実験一式を試みる。その目的は、確信の現象の産出にとって、習慣的な移行のほかに、どんなことが不可欠かどうかを知るためである。それゆえ、最初の印象を観念に変えてみると、相関的な観念への習慣的な移行は依然として残るけれども、実際には確信や得心は無いことを観察する。従って、目下の印象は、確信の働きの全体にとって、絶対的に不可欠である。そして、初発の印象の不可欠性を観察した後で、印象と観念とを比較すると、両者の唯一の違いは、勢いと活気の程度の違いにあることに改めて気づく。このとき、概して結論すると、確信は観念のより鮮明で強烈な想念であり、目下の印象との関連に(必ず)起因している。
 このように、全ての蓋然的推論は、一種の感じ・気持ちに他ならないのである。我々は、詩や音楽だけでなく哲学においてもまた、趣味と感情に従うに違いないのである。ある(蓋然的)原理を確信しているとき、それは単に一つの観念が、より強く印象を与えているに過ぎない。ある(蓋然的)論証を採用して他の論証を棄却するとき、ただ各々の影響力の優位に関する感じによって決定するだけなのである。事物には、発見可能な相互の(因果的)関連性はない。そして、我々が一つの現れから他の存在へ推論を導き出せるのは、他のどんな原理でもなく、想像に作用する習慣だけなのである。
 我々の因果に関する全ての判断が依存する過去の経験は、決して気づかれないような感じることのできない仕方で心に影響を及ぼし、即ち、我々にはある程度すら知ることができないということ、この際これは観察する価値があろう。例えば、ある人が旅の途中で行く手を遮る川に遭遇し立ち止まって、今後の成り行きの何通りかの帰結を見通しているとする。これらの諸帰結の蓋然的知識は、過去の経験によって伝えられ、過去の経験は、原因と結果の知識を伝えるような確かな連結を告げ知らせる。しかし我々はこの場合、動物が川を渡るときの危険を知るために、あらゆる過去の経験を思い起こして、見たり聞いたりした記憶の実例を喚起する、と思えるだろうか? 否、まさかそうは思えない。これは急場の蓋然的推論を続ける方法ではない。沈没するという観念は、川を渡るときの観念に極めて密接に結びついている。さらに、沈没する観念には窒息するという観念が結びついている。そのため、心は記憶の援助なしで移行を為すのである。習慣は、熟考する前に影響を及ぼす。蓋然的推論の諸対象は、一方から他方へ移行する際に少しの遅延も介在させないほどに、分離不可に結合しているように見える。しかし、この移行は経験から生じ、観念に起源をもつ観念間の結合からは生じないので、経験は、一度も思考されずに或る秘密の働きによって、確信つまり原因と結果の判断を生じ得る、と必然的に認めなければならない。このことは、全ての言い訳を残らず取り除く。それは、もし未だに何か残っているとして、「経験のない実例は、経験のある実例に必然的に類似するはずである」という原理を推論によって心は納得する、と主張することの言い訳である。というのは先述のように、知性や想像は、過去の経験を思い起こすことなしに、過去の経験から推論を導き出し得るからである。まして、過去の経験に関するどんな原理も作ることはないし、その原理について推論することもないのである。
 一般的に、重力、衝撃、固性、等のように、最も確立された原因と結果の一様な結合においては全て、心は決してその視界を、わざわざ過去の経験の考察へ至らせることはない、と言える。しかしながら他の、稀にしか起こらない珍しい対象の連合においては、過去の経験を思い起こすことによって、心は観念の移行と習慣を助長できよう。否、ある場合には、過去の経験を思い起こすことが、習慣なくして確信を生じることを見い出す。より適切に言えば、過去の経験を思い起こすことが、「間接的」かつ「人為的」な仕方で、習慣を生じることを見い出すのである。以下に詳説する。確かなことだが、哲学においてだけでなく、たとえ普通の生活においてさえ、もし見識を持って、即ち、全ての異質かつ余分な周囲の事情を注意深く除去した後でならば、我々はただ一つの実験のみによって、特定の原因の蓋然的知識に到達できる。今やこの種の一つの実験の後で心は、その原因や結果の現れにおいて、相関する相手である結果や原因の存在に関する推論を導き出し得る。従ってこの場合、習慣はただ一つの実例によっては決して獲得され得ないので、この場合の確信は、習慣の結果とみなすことはできない、と思われる。しかしこの困難は、一掃されるであろう。何故なら、もしこの場合、ただ一つの実験の特定の結果のみを持ったと思われる、と我々が考えるならば、それにもかかわらず、「類似の状況下の類似の事物は常に類似の結果を生じる」という原理を納得するためには、実は数百万の実験があり、つまり、この原理は十分な習慣によって確立されたので、この原理が適用できるどんな所信においても根拠と確実性を与えるのだ、と考えられるからである。観念の結合は、一つの実験の後だけでは習慣にはならない。しかしこの結合は、習慣となった別の原理の下でよく理解される。このことは、我々の仮説(確信は習慣から由来する)へ我々を戻す。全ての場合において我々は、経験を経験の無い事実へ、「直接」または「間接」、「明白」または「暗黙」に、移し換えるのである。
 心の諸活動について完全な正しさと厳密さで語ることの非常な困難について言及しないまま、この主題を終えるべきではない。日常の言葉は、めったに心の諸活動の間をとても良くは区別しないので、活動相互がほぼ類似するときは全て、たいてい同じ用語で呼ばれることになる。そしてこのことは、著作者においては、不明瞭と混乱のほとんど避けられない原因であるので、読者においては、もしそうでなければ決して夢想だにしなかった、疑念と異論をたびたび引き起こすことがある。例えば、「所信や確信は、関連する目下の印象から由来する強く活発な観念に他ならない」という私の概括的な見解は、「強く活発な」という用語に少しあいまいさがあるという理由によって、もしかすると次に述べる異論を免れないかもしれない。即ち、目下の印象だけが因果的推論を引き起こし得るだけでなく、観念もまた同じ影響力を持ち得る。特に「全ての観念は対応する印象から由来する」という先行原理に基づけば明らかである。というのは、対応する印象を忘れて観念を目下に構成すると仮定すると、この観念から、対応する印象がかつて存在したことを推断することができるからである。そして、この推断は確信を伴うので、この確信を構成する勢いと活気の性質はどこから由来するのか? と尋ねられよう。従って、この疑問に即座に答える。「目下の観念から由来する」と。というのは、この際この観念は、不在の事物の再現として考えられているのではなく、心が密接に意識している実際の知覚として考えられている。従ってこの観念は、関連するどんな事物にも、「堅固」「固性」「勢い」「活気」と呼ばれるような、心が反省して現在の存在を確信している観念の性質と、同じ性質を与えることができるに違いない。この場合、この観念は印象の役割を代理し、現在の目的に関するかぎりでは、全く印象と同じなのである。
 同じ原理に基づいて、観念の記憶のことを聞いても驚くには及ばない。即ち記憶は、観念の観念であり、想像の無規律な想念を上回る勢いと活気を持つ。過去の思考を再び考えるとき、我々は、かつて考えていた対象の輪郭を描くだけでなく、過去の熟考の際の心の活動もまた心にいだく。その活動は、どんな定義や説明も与えることができないが、誰しも十分に理解している、ある「言葉では言い表せない何か」である。記憶がこの何かの観念を提供して過去として再現するとき、記憶を伴わない過去の思考を考えるときよりも、より勢いと確実さを持つことができる観念であると容易に考えられる。
 以上より、我々がどのように印象や観念の観念を構成できるのか、そして、我々がどのように印象や観念の存在を確信できるのか、誰でも理解するであろう。


第九節 その他の関係と習慣の効果について


 前節の論証が、どれほど説得力があると思われようとも我々は、既出の論証に甘んじて止まるべきではないし、このような驚くべき重要な原理を確証や例証できる新しい視点を見い出すために、この主題のあらゆる面を調査すべきである。新しい仮説を受け入れる際の慎重なためらいは、哲学者の実に賞賛すべき気質であり、真実の吟味には欠かすことができない。ゆえに、この気質は従うに値するので、哲学者の得心に役立ち得る全ての論証を提出するように、また、哲学者の推論を中断し得る全ての難点を除去するように、要請される。
 これまでに度々言及してきたが、因果関係以外には、類似と近接の二関係が、思考の連合原理として、即ち、一つの観念から別の観念へ想像を伝達できるものとして、考えられるべきである。また、類似か近接かどちらかの関係によって相互に結合されている二つの事物のうちの一つが、直接に感覚や記憶に現れるとき、その連合原理を用いて、心は関連する他方へ伝達されるだけでなく、目下の印象と連合原理の連合作用によって、勢いと活気を付加されて他方を心にいだくのである。これらの言及は全て、類推によって、因果関係に関する判断の解明を確証することが目的である。しかし、まさにこれらの論証が、ことによると反転して、仮説を確証するどころか逆に、仮説の反対理由になるかもしれない。というのは、もし、仮説の全ての部分が真実であるならば、つまり、これらの三種の関係(因果・類似・近接)が同じ原理から由来するのならば、観念に活気を与え勢いをつける効果は同じであり、確信は観念のより強力で鮮明な想念に他ならないので、当然、心のその確信する活動は、因果関係に由来するだけでなく、類似や近接の関係にも由来することになってしまうからである。しかし我々は経験によって、確信は因果関係だけから生じることを見い出し、因果関係によって結合されていなければ、一つの対象から他の対象へ推論を導き出すことはできないのであるから、三種の関係を同等に確信の根源とするような難点に導く推論には何らかの誤りがある、と結論できよう。
 この難点に対する解決策を考察しよう。明らかに、直接の印象に似た活気とともに心を打つ記憶にある事物は全て、心の全ての活動において相当に重要な事物になるはずであり、単なる想像の空想を上回って確かに識別されるはずである。この記憶の諸々の印象や観念について我々は一種の体系を構成し、その体系は感覚や内的知覚いずれかに現れていたと記憶している全ての事物を含んでいる。その体系のあらゆる個々の項目は、目下の印象と結合されて、「現実」と好んで呼ばれるのである。しかし、心はここまでに止まらない。心はこの知覚の体系とともに、習慣によって、換言すれば、因果関係によって結合された別の体系があることを見い出し、その体系の諸観念の考察へ進む。心はそれらの個々の諸観念を見ることを、必然的な仕方で決定されるのを感じるので、即ち、習慣や因果関係によって決定され、少しも変更の余地がないと感じるので、心はそれらの観念から別の体系を構成し、そして心はその体系によって、「現実」の表題にさらに威厳を与えるのである。二つの体系の第一は感覚と記憶の対象であり、第二は判断の対象である。
 第二の体系の原理は、世界を満たし、時間と空間における隔たりによって感覚と記憶の及ぶ範囲を越えて広がっている諸々の存在を、我々に告げ知らせ心に浮かばせる。その原理を適用して想像の内に宇宙を描き、好むままにそのどの部分にも注意を向けるのである。例えば私は、見ることもなく記憶にもない「ローマ(古代〜現代)」の観念を構成する。その観念は、旅行者や歴史家の会話や著作から受け記憶している印象と結合されている。この「ローマ」の観念は、地球と呼ぶ事物の観念上の、ある位置を占めている。私は「ローマ」の観念に、特有の政府や宗教や風習の想念を結合する。私は歴史を振り返り、その最初の建国を考察する。そして、数々の大変革や栄枯盛衰を考察する。これらの全て及び他の確信する全ては、諸々の観念(世界像)に他ならないのである。しかしながら、習慣と因果関係から生じる観念の勢いと確固たる秩序によって、単に想像だけの所産である他の観念から、自ずと区別されるのである。
 今や近接と類似の影響について、次のように言えるであろう。もし、近接している対象・類似する対象が、この現実の体系に含まれるならば、近接・類似の二関係は因果関係を補助し、関連する観念をより強く想像に固定する、ということは疑いない。このことを間もなく本節で詳述しよう。その前に観察をさらに一歩進め、たとえ関連する対象が単に想像上だけの場合でも、近接関係・類似関係は観念を活気づけ、その影響を増大させる補助になる、と主張しよう。例えば詩人は、確かに、美しい草原や庭園の眺望によって想像を引き起こし、「エリュシオンの園(ギリシャ神話の、祝福された人々が死後に住む楽園)」の感動的な描写をより良く詩作できるであろう。また別な時には、想像上の近接によって想像を活気づけて、空想によって神話の世界の中に自らを置くこともできよう。
 この様に空想における作用から、類似と近接の関係を完全に除外することはできないけれども、単独では、類似と近接の影響は、非常に弱くて不確かであることが観察できる。我々にとって、因果関係が実際の存在を確信させるのに不可欠であるように、この確信こそ、類似と近接の関係に勢いを与えるために不可欠なのである。というのは、我々がそっくりに対象を捏造するだけでなく恣意的に捏造した印象の現れ、即ち、単に我々の満足できる願望と好みが印象に与える個々の関連の現れの場合、心に対して、ただほんの小さい影響だけを与えることができるからである。そして、同じ印象が再び現れた場合でも、その印象に同じ関連で同じ対象を置くと決定すべき理由は全くないのである。心にとっては、類似対象・近接対象を捏造する、どのような必然性も無い。もし心が類似対象・近接対象を捏造するとしても、少しも相違や変化なしに、常に同じに限定する必然性はほとんど無い。確かにそのような想像上のものは、なんらの理由にも基づかないで、単なる「気まぐれ」だけが造るように決定し得るのである。そして気まぐれな原理は、動揺し不確実であり、勢いと安定性の程度で少なからぬ影響を及ぼすことは決してなく、不可能なのである。心は、想像の変化を予測し予期する。まさに最初の瞬間からさえ、心の活動の無規律さと対象に対する弱い影響力を感じるのである。そしてこの不完全は、全ての個々の実例において大いに意識されているので、経験と観察によって不完全性は更に著しくなる。そして、思い起こす各々の実例を比較し、想像上の類似と近接から生じる精神の輝きを(あくまでも)瞬間的に垣間見ることに信をおくことに逆らって、「一般的な規則」を造ろうとするとき、不完全性が更に著しくなるのである。
 これに対して、因果関係は、全ての点で優位がある。因果関係の対象は、安定かつ変更できない。記憶印象は、どんな少なからぬ程度においても、決して変わらない。即ち、各々の記憶印象は、印象とともに正確な観念を取り出し、記憶観念は、確実で本物かつ疑いの余地なく変わらない何かあるものとして、想像の中にしかるべき位置を占める。少しもえり好みやためらいなく、思考は常に印象から観念へ、特定の印象から特定の観念へ、移行を決定するのである。
 この難点の除去に甘んじることなく、そこから本節の学説の証明を引き出すように努めよう。近接と類似は、因果性よりずっと劣る効果しかない。けれどもやはり多少の効果はあり、いくらか所信の確信と想念の活気を増大させるのである。もし、このことを、既に観察した実例の他に、いくつかの新しい実例で証明できるのならば、確信は目下の印象に関連する強い観念に他ならない、という重要な論証が許容されるだろう。
 まず、近接から始めよう。「イスラム教徒」や「キリスト教徒」の間で今まで認められてきたことだが、「メッカ」や「聖地」を訪れたことがある「巡礼者たち」は、訪れたことがない人たちに比べて、巡礼の後常に、より信心深く熱心な信者となっている。「紅海や沙漠やエルサレムやガリラヤ」などの強烈なイメージを伴った記憶がある人は、「モーゼや福音書記者たち」が物語るどんな奇跡も決して疑い得ない。特別な場所の強烈な観念は、近接によって関連すると思われる事実への容易な移行によって生じ、想念の活気を増大させることによって、確信を増大させる。特別な現地の記憶は、新発見の論拠と同様の影響を一般大衆に与える。しかも同様の理由からである。
「類似」に関しても、同様の観察を構成できる。我々が目下の事物から姿を見せていない原因や結果を引き出す推断は、決して何ほども性質には基づいていない、と既に述べた。その性質は、その事物に観察され、それ自体で考察される性質である。または、言い換えると、経験による以外には、ある現象から何が生じるのか、何が先行していたのか、決定することは不可能である(第六節)。このことは、それ自体とても明白なので、少しの証明も必要でないように思われるが、それにもかかわらず、一部の哲学者たちは、運動の伝達について明らかな原因があると推量していた。即ち、どんな過去の観察にも頼ることなく、理性をもった人間は、一つの物体の運動が他の物体の衝撃から直ちに推論できる、と考えていたのである。この考えが誤っているということは、容易に証明の余地があるだろう。というのは、もしそのような推論が、単に物体・運動・衝撃の観念からのみ引き出され得るならば、この推論は論証に達するはずであり、あらゆる反対の想定の絶対不可能性を意味するはずである。それならば、運動の伝達以外の全ての結果は、形式的矛盾を意味することになり、存在不可能であるだけでなく、想像することもできなくなってしまう。しかし我々は、正反対であることを、訳なく得心できるのである。それは、明白で矛盾のない観念を構成することによってである。例えば、一物体が他の物体へと進んで接触するとき、直ちに停止する場合、または、跳ね返って元来た道を戻る場合、または、消滅する場合、あるいは、円や楕円運動に移行する場合。要するに、(運動の伝達以外の)無数の他の変化を我々は想定できるのである。これらの例示した想定は、全て矛盾がなく自然である。対して、それらの想定だけでなく他のどんな自然な結果よりも、運動の伝達こそ最も矛盾がなく自然であると想像される理由は、原因と結果の「類似」関係に基づいて成り立っているからなのである。このことは既に経験と結びついていて、原因事物と結果事物が互いに最も類似かつ密接に、絶対に分離不可であると想像させるほどに縛られているのである。従って、類似は、経験と同一または相似する影響があるといえる。経験の唯一無二の直接的な効果は、観念相互を連合することであるので、当然、全ての確信は諸観念の連合から生じることになる。これは、私の仮説と一致する。
 光学の著者たちによって例外なく認められていることだが、眼は常に等しい数の物理的点を見ているのであって、山頂に立つ人であっても、最も狭い袋小路や部屋に閉じ込められているときより、大きい像が視覚に現れているわけではない。ただ経験によって、視覚に現れている像の並はずれた特徴的な性質から、対象の広大さを推断するのである。つまり、その他の場合にも一般的であるように、経験による推断の結果と感覚とを混同するのである。さて明らかに、経験による推断の結果は、通常の推論に見られる結果に比べて、この点で非常に強烈である。即ち別例では、単に波立つ海の鳴り響く音を聞くことに比べて、岬の高い崖の頂上に立って眼に受ける像からの方が、人は広大な海のより鮮明な想念を持つことが、明らかである。その雄大な像から、かなりの強烈な喜びを感じる。このことは、強烈な観念の証左である。そして、経験による推断の結果と感覚とを混同するのである。このことは、強烈な観念のもう一つの証左である。しかし、音だけを聞く場合と視覚像がある場合とで、推断の結果は等しく確実で直接的であるので、視覚像がある場合の方が想念の優勢な活気を生じ得るのは、習慣的結合と比べると、視覚から引き出される推断の結果は、前の例と同様に、視覚像と推断対象との間に類似があるからに他ならない。類似は関係を強め、容易で自然な動きで、印象から関連する観念へと活気を伝えるのである。
「軽信(軽々しく信じること)」と一般に言われることよりも、普遍的で顕著な人間本性の弱点はない。つまり、他者の証言を、容易に信頼し過ぎることである。そしてこの弱点も同様に、類似の影響からとても自然に説明される。我々は他者の証言におけるある事実を受け入れるとき、その信頼は、原因から結果への推断、または、結果から原因への推断と、正に同様の起原から生じる。即ち、我々人間に真実性の確信を与え得るものは、人間本性の決定的原理である、「経験」に他ならないのである。しかし経験は、このことと同様の他の全ての判断の、真実の基準であるけれども、我々は完全に経験によって自己を統制することは、めったにない。我々には、どんなに日常の経験と観察に反しているとしても、幽霊、魔法、神童(などの超常現象)についてでさえ、伝え聞いたことは何でも信じる、顕著な性向・性癖があるのである。他者の言葉や言説は、聞く者たちの心の中のある観念と親密に結合し、その観念は同様に、伝聞が再現する事実や事物と結合する。後の結合は、通常とても過大に評価されて、経験が正当化しようとすることを越えて同意するように命じる。このことは、観念と事実の間の類似以外からは生じ得ないのである。伝聞以外の結果は、ただ遠回しの仕方でその原因を指し示すだけであるが、他者の証言は、原因を直接に指し示し、端的に結果と同様の表象としてみなされている。従って我々は、他者の証言から推断を引き出すのに性急に過ぎ、他のいかなる主題における判断よりも、他者の証言に関する判断は、経験によって導かれないということは、全く不思議ではない。
 類似は因果関係と結合するときは、推論を強化するのであるが、非常に大きい程度で類似が欠如しているときは、ほとんど全く推論を無効にすることができる。このことについて、顕著な実例がある。それは来世に関する万人共通のいい加減さと愚かさであり、他の機会における盲目的な軽信と同様の執拗さで、人は来世に不信を示す。実際、誰にとっても近づいている状態である死についての、人類の大半の無頓着さを観察することよりも、学究を驚嘆させ、信心屋を落胆させる、十分な問題はない。そして、多くの著名な神学者たちが、一般大衆には不信心の本式な原理は無いけれども、実際には心の中では不信心者であり、霊魂の永遠不滅の信念と呼び得るような何物も持っていない、と断言することをためらわなかったということは、もっともである。というのは、一方では、聖職者たちが、永遠の重要性について途方もない雄弁をもって誇示してきたことを考慮に入れ、そして同時に、修辞に関しては我々は説明をいくらか誇張するのが当然であるけれども、この場合に限っては、最も迫力のある比喩といえども、この来世という主題に比べると遥かに劣ることを認めなければならない、ということを熟考しよう。これらを踏まえて、他方では、この来世という主題における人々の驚異的な油断を注意して見よう。私は尋ねるが、人々は実際のところ、聖職者たちに教え込まれたこと、肯定を装っている霊魂の永遠不滅について信じているのだろうか? 即ち、答えは明らかに否である。信念は習慣より生じる心の活動であるので、類似の欠如が習慣が確立したものをくつがえせば、習慣の原理が増大させた観念の勢いを減少させて全く無くしても、不思議ではないのである。来世は、我々の理解力を遥かに超えていて、身体の消滅の後に存在する方式の観念は非常に不明瞭である。即ち、我々が捏造できる全ての理由は、どんなに熱心に捏造し、また、教育によって助長されたとしても、遅鈍な想像力では、この障害を克服することは決してできないし、十分なよりどころと勢いをその観念に与えることもできない。来世について我々が構成する弱い観念が不信を招くことは、遠い将来だからということよりも、現世との類似の欠如から由来するのであるという方を選ぶ。その理由は、どこでも人々は、現世に関連するという条件で、死後に起こりうることについて心配すると観察されるからであり、即ち、名声・家族・友人・祖国について、どんなときも全く無関心であるという人はほとんどいないからである。
 実際この場合の類似の欠如は、完全に信念を破壊する。従って、この主題の重要性を冷静に反省し、繰り返し熟考することによって来世の論証を心に銘記させ注意してきた、ごく少数の例外者を除いては、旅行者や歴史家の証言から由来するような真実かつ確立された判断で、霊魂の不滅を信じている者はほとんどいないのである。現世と来世の、喜びと苦痛、報酬と刑罰を人々が比較する機会があるときは常に、このことは著しく現れる。たとえ(死が間近に迫って)、現世のことが心配なくなり、判断を妨げる激しい愛着が無い場合でも、そうなのである。例えば「ローマカトリック教徒」は、全キリスト教徒の中でも確かに最も熱心な宗派である。また、「火薬陰謀事件」や「聖バーソロミューの虐殺」を、残酷で野蛮だとして非難しない良識あるカトリック教徒はほとんどいない。それにもかかわらず、正に事件の計画や実行された対象である他宗派の人々(国教徒や清教徒やユグノー)に対して、彼らカトリック教徒(過激派・穏健派)は、ためらい無く永遠かつ無限の神罰を宣告するのである。この矛盾した行為の言い訳として我々が言い得る全ては、最も熱心な宗派であるカトリック教徒といえども、来世について正しいと主張することを、実際には信じていないということである。即ち、正にこの矛盾こそ、来世を実際には信じていない最適な証拠なのである。
 一言を追加しよう。即ち、こと宗教に関しては、人々は怖がってぞっとすることが逆に楽しいのである。従って説教師は、最も気味の悪い陰鬱な感情をかき立てるほど、人気があり評判が良いのである。現世の一般的状態において、問題の実質性が骨身にしみて感じられることの中で、恐れと恐怖ほど不愉快なことはない。つまり、ただ演劇の演技と宗教の講話だけが、仮象の恐怖を常に楽しみとして与えるのである。仮象の恐怖の場合は、想像力は与えられた観念に怠惰に休息し、感情は主題における信の欠如によって弱められ、注意を引きつけて心を活気づける快い効力だけしかないのである。
 目下の仮説は、もし、以上の因果関係以外の類似と近接の二関係の影響に加えて、習慣の他の種類の影響を吟味するならば、更なる確証を受けるであろう。このことを理解するために、全ての確信と推断の元である習慣は、観念を活気づける際に、二つの異なる方式に従って心に作用できることを考察する必要がある。というのは、もし、全ての過去の経験において、二つの事物が常に相互に結合されていたのを見い出すならば、ある印象の中に片方の事物が現れるとき、我々は習慣により、もう片方の事物の観念へ容易に移行されるに違いないことは明らかである。つまり、目下の印象と容易な移行の方式によって、我々は空想の無規律に変動する心象よりも強くて活気のある仕方で、関連する観念を心にいだくに違いないことは明らかなのである。そして第二の方式だが、もし、単に一つの観念が単独で、この知りたがりの人為に近い準備(恒常的連接)は一切なしに、頻繁に心の中に現れたとするならば、この観念は次第に、ある能力と説得力を獲得するに違いない。その観念は、平易な前置きと確かな影響力の両方によって、新しい一般的ではない観念から、自ずと区別される。この(他の観念から自ずと区別される)点は、唯一無二の特色であり、これら習慣の二種の異なる方式が一致する点である。もし、両者の判断への影響が、類似していて釣り合っているように見えるならば、我々はその能力の前述の説明に納得する、と確かに結論できよう。そして「教育」の性質と影響を考察するとき、両者の判断への影響の一致を疑うことができるであろうか?
 我々が幼少のころより習慣づけられてきた、ものごとに対する全ての所信と信念は、理性と経験の全力によっても根絶できないほど、深い根を張っている。この幼少時からの習慣は、原因と結果の恒常的不可分な連接から生じる影響力に匹敵するだけでなく、多くの場合に、勝ることさえあるのである。この点では、観念の鮮明さが確信を産む、と言うことだけで満足してはならないのであり、我々は、両者は各々同じ程度であることを主張しなければならない。どんな観念でも頻繁に繰り返すと、想像の中に植えつけられる。しかし、もし心のその活動が、我々の本性の本来の性質によって、単に推論と観念の比較だけに付与されたならば、それ自身で確信を産むことは決してできないのである。習慣は、時には間違った観念の比較へ我々を導くことがある(蓋然性・可誤性)。これは、我々が習慣について理解できる最大の影響である。逆に習慣は、観念の比較のふさわしい場所を決して与えられない。言い換えると、観念の比較の原理に当然に属する、どんな心の活動も産むことはできないことは確かである。
(習慣の第二方式の様々な例)切断されて腕や脚を失った人は、失くした後もしばらくの間、失った部分を使おうとする。ある人が亡くなった後、その人の家族全員の、とりわけ使用人たちの感想だが、主人が死んだとなかなか信じられなくて、居室やかつて主人がよく見かけられた場所に、今まで通りにいらっしゃると想われている。談話において度々聞くことだが、何かの点で有名なある人について話した後で、参加者の一人は全くその人と面識がないがこう言うだろう。「私は未だに噂の当人に会ったことは無いが、度々彼についての話を聞いてきたので、ほとんど彼を想像できる」これらの全ては、習慣の第二方式の類例である。
 もし我々が以上の論証を、適切に「教育」から考察するならば、とても説得力のあるように思われるだろう。その論証は、どこででも遭遇する最も一般的な現象の一つに基づいているのだから、なおさらである。私は確信している。調べてみると、人類の間で信じられている所信の半分以上は、教育に起因していることを見い出すであろうことを。私は確信している。教育のような暗黙のうちに受け入れられた信条は、抽象的な推論や経験に起因する信条に勝るということを。嘘つき(虚言癖者)が、たびたび嘘を繰り返しつくことによって、ついには嘘を真と信じ込み記憶するにまで至るように、判断も、というより、想像も、繰り返すことによって、観念をとても堅固に心に刻み込み、完全に想像することができる。そのためそれらの観念は、感覚や記憶や理性に現れる観念と同様に、心に作用できるのである。しかし、教育は人為的であり自然の原因ではないので、また教育の原則はしばしば理性に反し、時代や地域が違えば全く逆転する場合もあるので、そのため哲学者たちは決して正当だと認めない。しかしながら実際には、教育は因果関係からの推論とほとんど同様の、繰り返しと習慣の根拠に基づいて構築されているのである。
[原注:一般的に、全ての蓋然的推論への我々の同意は、観念の活気に基づいているので、想像の所産であるという不面目な特性のもとに拒絶されている、気まぐれや偏見などと同類のものだとも言えよう。この一文によって明らかに、「想像」という言葉は、一般的に二つの異なった意味で用いられている。この不正確さということよりも哲学と相いれないことは無いのであるが、それにもかかわらず、以下の推論において、この二つの異なった意味を用いることを余儀なくさせられた。想像を記憶と対比させるときは、より不明瞭な観念を構成する機能を意味する。想像を理性と対比させるときは、論証的推論と蓋然的推論だけを除いて、同じ機能を意味する。想像を特に対比させないときは、広義か狭義かは、どちらでもかまわない。つまり、正確に言えば、文脈が意味を十分に明らかにするであろう。]


第十節 信念・確信の影響力について


 たとえ教育が、所信への同意の誤った根拠として哲学によって否認されるとしても、それでもやはり教育は世界中に普及していて、全ての学説の最初期において、新しく珍しいとして拒絶されやすいことの原因である。これはおそらく、本書の「信念・確信」についての進んだ学説の宿命であろう。つまり、本書の論証は完全に確実だと見えるけれども、本書の学説に多くの賛同者を得ることは期待されないのである。人々は納得することはほとんどないであろう。本書の帰結の効果が、見た限りでは取るに足りない原理から発し得ることを。つまり、我々の行動や感情に対する推論のほとんど全てが、ただ習慣や習癖だけから由来し得るということを。この難点を除去するために、本節では少し先取りして、より適切には後の考察に分類される、感情や美的感覚を論ずるに至るときの考察を述べよう。
 人間の心に快苦の知覚は、全ての行動の主要な初期動機となる原理として植えつけられている。そして快苦は、心に現れ出る仕方に二通りあり、一方の効果は他方の効果と非常に異なっている。一方は印象において現実の感覚として現れ、他方は快苦について目下言及しているように、単に観念においてのみ現れる。明らかに、我々の行動における各々の影響力は、等しくはない。印象は常に心に行動を起こさせる。しかも、最高度に。しかし、全ての観念に同様の効果があるわけではないのである。この場合、自然の摂理は用心し続け、注意深く不都合な両極端を避けているようだ。(その両極端とは、)もし印象だけが意志に影響するのならば、人生のあらゆる契機が最も大きい災難にさらされることになる。何故なら、災難の接近を予見したとしても、災難を避けるようにかり立てる行動のいかなる(観念における)原理も本質的に備えていないことになるからである。他方では、もし全ての観念が余すところなく行動に影響するのならば、我々の状態は全く改善されない。というのは、思考は非常に不安定な活動なので、全てのものごとの心象、特に善悪の心象は、常に心の中に思案されている。この種のあらゆる根拠のない想念によって、心が絶えず動揺させられるならば、一瞬たりとも平和と落ち着きに恵まれることはないだろうからである。
 従って、自然の摂理は中間を選んで、善悪の全ての観念には意志に行動を起こさせる能力を与えないけれども、この影響力から観念を全く除外することもないのである。根拠のない虚想には何も効果はないけれども、しかし経験上、存在するか存在するであろうと我々が確信する事物についての観念は、感覚や知覚に直接に現れる印象と同様の効果を、より少ない程度ではあるが、産み出すことを見い出す。それならば、確信の効果は、単純な観念を印象と同等まで高めることであり、感情と類似する影響力を観念に与えることである。この効果は、勢いと活気において観念を印象に近づけさせることによってのみ、可能なのである。というのは、勢いと活気の程度の違いこそ、印象と観念の間の本来の違いの全てをもたらすので、これらの知覚(印象と観念)の効果の全ての違いの源泉に他ならないからである。従って、勢いと活気の程度の違いの全部または一部を除去することが、印象と観念の類似する原因に他ならないのである。勢いと活気において観念を印象に近づかせられる場合は常に、心への影響において、観念は印象を同様に模倣する。逆の場合も同じであり、目下の場合のように、心への影響において観念が印象を模倣するときは、勢いと活気における観念の印象への近似から生じるに違いない。従って確信は、観念が印象の心への影響を模倣する原因となるので、勢いと活気の性質において観念を印象に類似させるに違いない。つまり信念・確信は、「観念のより鮮明で強烈な想念」に他ならないのである。それならば、以上のことは、本書の学説のための補足的な論拠として利用できるとともに、我々の因果的推論が意志と感情に影響を及ぼし得る仕方について、一つの理解を与えよう。
 確信が感情の喚起にほぼ絶対的に必須であると同時に、感情の喚起は確信に非常に都合が良い。そして、快い感情を伝えるような事実だけでなく、とても多くの場合に苦痛を与える事実も、感情の喚起には違いないので、より容易に確信と所信の対象となるのである。例えば、恐れが容易に喚起される臆病者は、遭遇する危険のあらゆる風説に容易に同意する。同様に、悲嘆に暮れた憂鬱気質の人は、その優勢な感情を強めるあらゆるものごとをとても信じやすい。心を打つものごとが現れるとき、それは不安を与え、その特有の感情の度合いを直ちに喚起する。その感情の傾向が生来ある人は、特にそうである。この感情は、想像への容易な移行によって生じる。そして、心を打つものごとの観念が行き渡ることは、より大きい勢いと活気でその観念を構成させ、先の学説によれば、その結果としてその観念に同意させる。感嘆と驚きにも他の感情と同様の効果がある。従って、一般大衆の間では、はったり屋や予想屋が彼らの途方もない見せかけによって、中庸の範囲内で抑えるよりも、より容易に信用を受けると言えよう。彼らの奇跡のような物語に自然に伴う最初の驚きは、心の全体に広がって、経験から導き出される推断に似ている観念を鮮明にし活気づける。これは一つの神秘であり、既に少し知られてはいるが、もっと後の機会に、この論文の進行中に解明せられるべきであろう。
 感情に対する確信の影響力についての以上の記述の後では、想像に対する確信の効果がいかに途方もなく現れるとしても、説明するのに困難が少ないことがわかるであろう。判断が空想に現れる想像に少しも同意を与えない場合は、我々はいかなる談話も楽しむことができないことは確かである。例えば、嘘つきの習癖を身につけた者の座談は、少しも重要でない事であっても、決して満足感を与えない。というのは、虚言癖者が述べる観念は確信を伴わず、心に少しも印象を生じさせないからである。詩人たちは職業上の嘘つきではあるが、常に自らの虚構に真実の雰囲気を与えようと努力している。その努力を怠った場合は、いかに虚構が巧妙であっても、彼らの作品は決して多くの満足を与えることはできないであろう。要するに、たとえ観念が意志と感情に対する影響が無いときでも、観念が想像を楽しませるには、真実と迫真性がやはり必須であると言えよう。
 だがもし、この論点(美的感覚)について発生する全ての現象を総じて比較すると、真実は、全ての天才的な作品にはどれほど必須であるように見えるとしても、観念にとっては容易な受容をもたらすことよりも他には効果は無い。つまり、満足して、より正確には、抵抗なく、心を観念に同意させることこそが、その効果だとわかるであろう。だがこの効果こそ、本書の学説によれば、因果性より導き出される推論によって確立された観念に伴う、実質性と勢いから生じると容易に想定できる。このことから当然、確信が空想に及ぼす全影響は、本学説より解明できるということになるのである。従って、真実や迫真性以外のその他の原理から生じる確信の影響力があれば何であれ、それは成り代わって想像に同等の興味を与える、と言えよう。例えば、詩人たちは古より、風物の詩趣に富む体系とも言うようなものごとを形作っていた。それは、詩人たち自身にも読者たちにも、存在を信じられてはいなかったにもかかわらず、一般的に空想にとって十分な根拠だとみなされた。我々は「軍神マーズ」「主神ジュピター」「美神ヴィーナス」などの神話上の神々の名に、昔からとても慣れ親しんできた。そのため、どんな所信も覚え込ませる教育のような同じ仕方で、神々の観念の恒常的な反復は、容易に心の中に観念を入り込ませ、事実の判断に影響することなしに、空想だけを説き伏せるのである。同様に悲劇作者たちは常に、歴史上のある著名な一節から、伝説を、または少なくとも、主要な登場人物の名前を借りる。それは、観客をだますためではない。というのは彼らは、悲劇の真実は観察された不可侵の事実にはないことを率直に認めるだろうから。上演する途方もない驚くべき悲劇のために、想像に、より容易な受容をもたらすことこそが目的なのである。しかしこの対策は、喜劇詩人たちには必要がない。喜劇の登場人物と挿話は、おなじみの親しい類いのものであり、たとえ一見して、作り話、つまり、純然たる空想の所産だと知られていても、容易に想念に入り込んで堅苦しい儀式抜きに受容されるのである。
 悲劇詩人たちの伝説中の真実と虚言の混合は、絶対的確信や保証なしに想像が満足させられ得ることを示すことによって、本節の目的に役立つだけでなく、別の観点において、本学説の非常に強力な確証だとみなし得る。明らかに悲劇詩人たちは、より容易な作品全体の受容をもたらし、より深い印象を空想と感情にもたらすために、歴史から登場人物の名前と作品の主要な出来事を借りるという巧みな策略を使用している。作品のいくつかの挿話は、一つの劇詩か上演に統一されることによって、ある種の関連を獲得する。そしてもし、これらの挿話のいずれかが確信の対象となるならば、その確信は関連する他の挿話にも勢いと活気を与えるのである。最初の想念の活気は、その関連を伝って満ちわたり、最初の観念と連絡する全ての観念に、まるでとても多くの導管や運河によって伝わるように伝達される。実際は、完全な確信には決して達っし得ない。ある意味、その観念間の結合は偶発的であるからである。しかしそれでも、確信の影響力の点では、両者(空想の確信と事実の確信)はとても近くに、まるで、両者が同じ起源に由来すると、我々を納得させるかもしれないように接近している。(たとえ真実に基づかなくとも)確信は確信に伴う勢いと活気を用いて、想像を満足させるに違いない。というのは、勢いと活気がある全ての観念は、想像の機能に好都合であるとわかるからである。
 以上のことを確認するために、我々は以下のことを観察できる。即ち、判断(確信)と感情が相互に強め合うのと同様に、判断(確信)と空想も相互に強め合うということである。そして確信が想像に活気を与えるだけでなく、活気のある強力な想像は、確信と権威をもたらすために、数ある才能の中で最適なのである。例えば、雄弁の一分の隙もない潤色に塗りつぶされた説得に、同意を差し控えることは難しい。また多くの場合、空想によって引き起こされた活気は、習慣や経験に起因する活気より好まれる。我々は、愛好する作者の活発な創作や、同好の友の快活な空想によってせきたてられる。また多くの場合、作者自身や友人自身でさえ、自らの天才や情熱の虜となっているのである。
 また以下のように言うことも不適当ではないだろう。即ち、強い想像は往々にして、狂気や愚考へ堕落し、その作用において非常な類似を示す。それらは皆同様に判断に影響を及ぼし、正に同じ原理から確信を生み出すのである、と。想像が激情と熱情の異常な興奮から、全能力と全機能に異常を起こさせるような活気を獲得する場合は、決して真実と虚偽を見分けることはできない。必ずあらゆる不正確な虚想や観念も、記憶の印象や判断の帰結と同様の影響力を持つようになり、同じ資格で容認されて、同じ強さで感情に作用する。今やこうなると、目下の印象や習慣的移行は、もはや観念を活気づけるのに必須ではなくなる。脳内のあらゆる妄想は、鮮明かつ強烈となるのである。その程度は、事実に関する推断という称号で以前は呼んだ全ての推断と同等であり、時として、感覚の目下の印象と同等にもなるのである。
 より小さい程度ではあるが、詩について同じ効果を観察できる。ただし、最小の省察でも詩の幻想を消し去り、適切に事物のありのままを観察できる、という違いがある。しかしながら確かに、詩的熱狂の軽い興奮の中で、詩人は見せかけの確信と事物の一種の幻想すら抱いている。そしてもし、この見せかけの確信を支持する微かな理由があるとすれば、詩的印象と心像の強い輝き以外にはない。それは読者と同様に詩人自身にも、効果があるのである。
[付録](前段の置き換え)
より小さい程度ではあるが、詩について同じ効果を観察できる。詩と狂気の両者の共通点は、両者が諸観念に与える活気が、それら諸観念の諸対象の個別の諸々の状況や結合からは由来せず、人間の目下の気分や性癖から由来するという点である。しかし、この活気が増大する程度がどんなに大きくとも、明らかに詩における活気は、推論するときに心に生じる活気と決して同じ「感じ」ではない。たとえ蓋然的知識の最弱の種類の推論であっても、同じ感じではないのである。心は容易に、詩と推論の活気の感じの違いを区別できる。どんなに強い感情を詩的熱狂が心に与え得るとしても、それは依然として、確信や信念の単なる幻影に過ぎない。このことは、詩が生じさせる感情と同様に、観念についても同じである。詩・歌心から生じ得る感情は人間の心の感情を網羅している。けれども同時に感情の「感じ」は、詩的虚構によって喚起されたときと、確信や迫真性から喚起されたときでは、非常に異なっているのである。現実の生活においては不愉快な感情でも、悲劇や叙事詩においては最高の興味を与え得る。悲劇や叙事詩においては、不快な感情もその重圧を重荷にさせない。その感情は現実上よりも確固さが少ないからであり、そのため、心を刺激し注意力を目覚めさせるという、他ならぬ快い効果がある。感情における違いは、その感情が由来する観念における同様の違いの明らかな証拠である。活気が目下の印象とともに習慣的結合から生じる場合、見たところ想像があまり働いていないにもかかわらず、詩や雄弁の熱情におけるよりも、前者の活気の働きにおける方が、常に何か、より説得力があり現実的であるのである。前者の場合の心の働きの説得力は、その他の場合と同じく、外見上の心の興奮によっては判断されるべきではない。一方、詩的描写は、史的叙述よりも、空想に対してより著しい効果がある。詩的描写は、完全なイメージや心象を構成するために、こまごまとした状況を寄せ集める。詩的描写は、より鮮やかな色彩で眼前に事物を据えるように見える。しかし依然として、詩的描写が表す諸観念は、記憶や判断から生じる諸観念とは異なった「感じ」がする。詩の虚構に伴う全ての熱烈に見える思いや感情の中には、何か弱さや不完全さがあるのである。
詩的熱狂と本気の確信との間の、類似と相違の両方について、後で言及する機会があるだろう。それまでは、両者の感じにおける大きな相違が、ある程度は省察と「一般的規則」から生じると述べることを、控えることができない。従って我々は、詩や雄弁から受け取る虚構の想念の活気は、あらゆる観念が等しく受け入れることのできる、単に偶然的で付随的な事柄に過ぎず、即ち、そのような虚構は、現実的な何ものとも関係が無いのである、と言及する。この言及は我々にとって、虚構に対して、言わば最も適している。即ち虚構の観念は、記憶や習慣に基づく絶え間なく確立された確信とは、非常に違う感じがする理由があるのである。両者は多少は同種である。がしかし、原因と結果の両方において、一方は他方より遥かに劣っているのである。
「一般的規則」についての同様の省察は、観念の勢いと活気が増大するごとに、確信を増大させるのを妨げる。所信に疑いの余地が無い場合、つまり、反対の蓋然性が無い場合は、たとえ類似や近接の欠如が、その影響力を他の所信のそれより下位にし得るとしても、我々は全き確信を、その所信に帰するのである。例えば、知性は、感覚上の現れを訂正する、ということが挙げられる。即ち知性は、二十フィート離れた所の物体が、十フィート離れた所の同じ寸法の物体と、(感覚上は遠くにある方が小さく見えるのだが、)眼で見ても同じ大きさらしいと想像させるのである。
[ここまで]


第十一節 偶然による蓋然的知識について


 さらに、本書の学説に完全な説得力と確証を与えるために、本節と次節と次々節では、体系の考察からその諸帰結の考察へ眼を転じ、同じ起源から由来する二三の他の種類の推論を、同じ諸原理によって解明しなければならない。
 哲学者たち、人間の理性・思考力を「普遍的知識と蓋然的知識」に分け、普遍的知識を「諸観念の比較から生じる確証」によって定義する哲学者たちは、原因や結果からの全ての論証を、蓋然的知識という一般用語の下に理解することを余儀なくさせる。とは言うものの、あらゆる人々には自身の望む意味で用語を用いる自由があるべきである。それゆえ、本論文の先行する部分においては、この哲学者たちの表現方式に従ってきたが、それにもかかわらず、一般の談話においては我々は、蓋然的知識を越える因果性からの多くの論証を、即ち、より上位の種類の確証として受け取られ得る多くの論証を、容易に肯定することは確かである。例えば、太陽が明日も昇ることや全ての人が必ず死ぬことは、単に蓋然的であるに過ぎないと言う人がいたとすると、これらの事実については、経験が与える確証より以上の保証はないことは明白であるけれども、おかしな人に見えるだろう。以上の理由から、一般の談話の意義を保つとともに、蓋然的確証の程度を示すために、人間の理性・思考力の元を三種に分けるのがおそらくより便利であろう。即ち、「普遍的知識・立証的知識・蓋然的知識」である。普遍的知識という用語によって、諸観念の比較から生じる確信を表す。立証的知識という用語によって、因果関係から由来する論証の中で、全く疑いや不確実性が無いものを表す。蓋然的知識という用語によって、因果関係から由来する論証の中で、その確証に、依然として不確実性が伴うものを表す。最後の種類の蓋然的知識の推論こそ、以降の考察の対象なのである。
 蓋然的知識つまり推測に基づく推論は、二つの種類に分けられる。即ち、「偶然」に基づくものと、「複数原因」から生じるものとである。以降、順に一つづつ(前者は本節で、後者は次節で)考察しよう。
 因果観念は経験から由来する。そしてそれは、互いに恒常的に結合した、ある一定の事物間において現れ、因果関係の内にそれらの事物を概観する非常に根深い習癖・傾向を産む。ゆえに因果関係以外の他のいかなる関係においては、著しい歪曲なしには、それらの事物を概観することはできないのである。他方では、偶然は本質的には実質的なものではないので、正確に言えば、偶然は単に原因の否定であるので、偶然の心への影響は因果性と反対である。換言すれば、偶然にとって本質的な点は、偶発的であると考えられる事物の存在か非存在かを考察するときに、想像を完全に無関心・中立なままにすることである。原因は、思考の道筋を発見しつつたどり、言わば特定の事物たちを特定の関係の内に概観するように強いる。これに対して、偶然は、思考のこの決定を単に破壊できるのみで、心を無関心・中立の自然な状態のままにしておく。この自然な状態は、原因の不在によって、即座に回復される。
 従って、完全な無関心・中立は、偶然に本質的であるので、どの偶然も、他の偶然より決して上位ではあり得ない。上位であり得るのは、一つ一つは等価である偶然が、より多くの上位の数が集まるときだけである。というのは、もし、ある偶然を、数の大小以外のやり方で、他の偶然より上位であると主張すると、同時に我々は、ある偶然に上位をもたらし、その偶然を他の偶然より選び取る、事象を決定する何かがある、と主張せざるを得ない。つまり、言い換えると、我々は原因を認めざるを得ないということであり、即ち、先に確立しておいた偶然の仮定を破壊せざるを得ないのである。完全かつ全体的な無関心・中立こそ偶然にとって本質的である。そして全体的な中立は、決してそれ自体、他より上位や下位はあり得ないのである。以上の真相は、本学説に特有ではなく、偶然に関する計算を作る誰しも認めるところである。
 ここで、注目すべきことがある。それは、偶然と因果性は直接には反対であるけれども、それにもかかわらず、ある偶然を他の偶然より上位にするために必要な、上述の複数の偶然の集合を考えるためには、複数の偶然と原因の混合を想定すること、つまり、全体的な中立において特定のものに必然性の結合を想定すること、これ無しには不可能である(統計的有意を考えるためには、因果性なしにはできない)ということである。偶然に何も限界を設けない場合、最も度を越した空想が作り得る全ての想念と、同等の地位であることになる。即ち、どんな偶然も、ある偶然を他の偶然より優位に置くことはあり得ないということになる。例えば、サイコロの目の場合、サイコロを転がす何らかの原因があり、転がる途中も形状を保ち、ある目を上にして止まる、ということを許容しない限り、偶然の法則に関して計算をすることはできない。けれども、これらの原因の働きを仮定し、残りの全ての中立と偶然による決定を同様に仮定すれば、複数の偶然のより多い集合の概念に到達することは容易である。サイコロの六面のうちの四面に特定の数の点を印し、残りの二面に別の数の点を印せば、複数の偶然のより多い集合の、明白で平易な実例を我々に与える。この場合の心は、原因によって明確な点の数と事象の性質に限定されるが、同時に、事象の選択においては、特定の事象に決定されてはいないのである。
 それでは、以上の推論の進行によって、三段階前進したことになる。一、偶然は原因の単に否定に過ぎず、心に全体的な無関心・中立を産む。二、原因の否定と全体的な中立によって、ある偶然は他の偶然に対して決して上位や下位ではあり得ない。三、偶然が何か(確立論的推論や統計学的推論など)の推論の基盤となるには、何らかの原因の混合が常に必要である。次に、偶然のより多い集合が心に及ぼし得る影響について、またそれが判断と所信に影響を及ぼす仕方について考察しよう。ここにおいて我々は、原因から生じる確信についての吟味に用いた、あらゆる同様の論拠を繰り返すことができよう。そして同様に、偶然のより多い集合は、「論証」や「蓋然的知識」によっては、同意を産まないことを証明できよう。まったく明白なことだが、単なる観念間の比較によっては、この問題で結論となり得る何かの発見を、決してすることはできない。そして、どんな事象も偶然のより多い集合のある側に起きると、確実に証明することは不可能であることも明白である。この場合、確実性を仮定することは、偶然間の対比について確立したこと、即ち、偶然の完全な同等性と中立を、くつがえすことになるのである。
 次に、以下のように言われるとする。即ち、偶然間の対照において事象がどちら側で起きるかを「確実」に決定することは不可能であるけれども、それにもかかわらず、より多い偶然の集合の方が、より少ない方よりも、事象が起きるであろうことは、よりありそうで確からしいと断言できる。このように言うのならば、「ありそうで確からしい」という言葉によって、いったい何を意味するのか? と尋ねよう。ありそうで確からしい偶然、偶然の可能性と蓋然性とは、同等の偶然の、より多い集合のことである。従って、より少ない方ではなく、より多い方が事象が起こりやすい、と言うとき、より多い偶然の集合がある場合は、より多く実際にあり、より少ない集合がある場合は、より少なくある、と断言しているに過ぎない。このことは同一の命題であり、何ら推論の帰結ではないのである。問題は、どんな方法で、同等の偶然のより多い集合が心に作用するのか、確信や同意を産むのか、ということである。なぜなら、以上のように明らかに、論証や蓋然的知識に由来する論拠には依らないからである。
 この難題を片付けるために、先ほどのように、サイコロの四つの面に同じ数字つまり同じ数の点を印し、他の二つの面に別の数の点を印す。そして、サイコロを振るためにサイコロ筒に入れたと仮定しよう。明らかに、四つの面に印した数字の方が、二つの面に印した数字よりも、より目が出る蓋然性が高いと誰しも断定し、四つの面に印した数字の方を選択するに違いない。二つの面に印した数字の方が出る偶然の数に比例して、躊躇と疑いが依然として伴うけれども、誰しも四つの面に印した数字に賭ける方が最上であろうと、ある意味信じている。逆の目の偶然の数が減少して、優勢な目の数が増大するにつれて、信じることは安定と確信の追加の度合いを獲得する。この信じること(信じざるを得ないこと)・確信は、眼前にある単純で限定された対象における心の作用から生じる。従って、その本性は、思ったよりも容易に発見され解明されるであろう。知性の最も不思議な作用の一つ(確信)を理解するために熟考すべきことは、ただ眼前の一個のサイコロだけなのである。
 問題のサイコロは、注意に値する三つの事情を含んでいる。一、特定の諸原因、即ち、重力、固性、立方体形状、等々。これらの諸原因が、落下、落下中の形態の保持、一つの面を上に向けて止まることを決定する。二、各面の出る数が一定で、中立・偏っていないと前提されていること。三、各面に印されている一定の数字。以上の三つの事情は、目下の目的に関する限りでは、サイコロの全本性を構成する。従って、サイコロ振りの結果についての判断を構成する際に、心によって注目される最適の事情である。それ故、これらの事情の思考と想像への影響は、どんな必然的影響なのかを、徐々に慎重に考察しよう。
 第一に、既に言及したことだが、心は習慣によって、ある原因からその結果へ進むように決定される。しかも、原因の現れにおいて、結果の観念を造らないことは、ほとんど不可能である。過去の実例中の因果の恒常的連接は、心にこのような習癖を産み、心は常に思考の中に因果を結合し、原因に通常付随するものとして結果を推論する。(本例に適用すると、)サイコロ筒から振り出されたサイコロは、意図的に曲解することなしには、空中に留まるとは考えられない。当然のことながら、サイコロは机の上に落ち、一つの面を上に向けて止まる、と考えられる。このことは、複数の原因が混合された結果であり、偶然に関する計算をするために不可欠なことである。
 第二に、サイコロが落下して一つの面を上に向けて止まることが必然的に決定されているとはいえ、六つの面の内のどの面が上になるかを決めるものは無く、全くの偶然によって決定されると考えられる。偶然の真の本性・本質は、原因の否定であり、偶発的と考えられる数々の事象(サイコロの出る目)の間に、完全な中立状態で心を置くことである。従って、思考が諸原因によって、サイコロが落下して一つの面を上に向けて止まると考えられると決定されるとき、偶然は、サイコロの六つの面を同等に出現させ、各々の面が試行の度ごとに同様の蓋然性と可能性で現れると考えさせる。想像は、原因から即ちサイコロを振ることから、結果へ即ち六つの面の一つを上に向けて止まることへ進む。そして、この進行の途中で止まることや、これ以外の観念を造ることの両方に、一種の不可能を感じる。しかし、サイコロの六つの面は各々両立せず、一度に一つより多くの面を上に出すことはできないので、この原則は、一度に六つの面が真上に来ると考えないことを指示する。即ち、我々は不可能だと考える。この原則は、全力で特定の面を指示することもない。というのは、特定の面を指示する場合、その面が確実で必然的だと考えられてしまうからである。この原則は、六つの面の全てに対して、言わば各々の面に同等の力を分割するように指示する。概して、サイコロを振れば、ある一つの面が出るに違いないのだが、心の中では、各々の面が出る全ての場面が浮かんでいる。思考の決定力は、全ての場面で共通である。たまたまある面が出たときの決定力も、残りの面の数と比べて適切な割合(等分)と同じである。この様にして、心の根原的衝動、つまり必然的に諸原因から生じる思考の活気は、混合した偶然によって分割され部分に分けられている。
 我々は十分に、サイコロの最初の二つの性質、即ち、物理的「諸原因」と各面の「出る数が一定で中立であること」の影響を調べてきた。そして、どのように思考に衝動を与えるか、即ち、サイコロの面の数と同じ数の部分に衝動を分割するか、を突きとめてきた。今や、三つ目の性質、即ち、各面に印された「数字」の影響を考察しなければならない。明らかに、いくつかの面に同じ数字が印されている場合、心への影響の点で各々の面は結びつき一致協同するはずである。即ち、同じ数字が印されている面に拡散されていた、分割された衝動の全てを、一つの心象つまり一つの数字の観念に統一するはずである。もし、単にどの面が上に向くかという問いだけならば、全て完全に同等であり、どの面も他の面より決して優位になり得ない。しかし問題は、数字についてであり、同じ数字が一つより多くの面に印されているので、明らかに、同じ数字が印されている面に属する衝動は、その一つの数字に再統一するはずであり、融合によって、より強く効果的になるはずである。目下の場合、四つの面に同じ数字が印されていて、二つの面に別の数字が印されている、と仮定している。従って、四つの面に印されている数字の衝動の方が、二つの面に印されている数字の衝動よりも、上位である。両者の事象は相いれず、両方の数字が同時に上に向くのは不可能であるので、両者の衝動も同様に相いれず、下位の衝動の強さが続く限り、下位の衝動は上位の衝動を減殺する。観念の活気は、常に衝動の程度、つまり、観念へ推移する傾向の程度に比例している。そして確信も、本書の先行する学説によれば、観念の活気と同じく衝動の程度に比例するのである。


第十二節 複数の原因による蓋然的知識について


 前節の偶然による蓋然的知識について述べたことは、他でもなく、本節の複数原因による蓋然的知識を解明する際に助けとなること、この目的にこそ役立ち得る。というのは、哲学者たちによって一般的に認められていることだが、一般大衆が偶然と呼ぶことは(原因の否定ではなく)、秘密の隠された原因に他ならないからである。従って、複数原因による蓋然的知識こそ、主に考察しなければならない。
 複数原因による蓋然的知識は、数種類に分類される。しかしそれらは全て、同じ起源から由来する。即ち、「目下の印象への観念の連合」からである。観念の連合を産む習癖は、複数の事物の度重なる連結から生じるので、(一気にではなく)徐々に習癖は完全に達するに違いなく、各実例が観察されることによって、さらに勢いを獲得するに違いない。最初の実例には、ほとんど全く勢いは無い。二度目には、幾分か勢いが付加される。三度目になると、さらに多くの知覚できるほどの勢いが付加される。つまり、じっくりと段階を踏んでいくことで、判断は完全な確信に達するのである。しかし、この完全の極みに到達する前では、いくらか下位の程度を経過して、その下位の程度では全て、単に推定や蓋然的知識とだけみなされるべきである。だから、蓋然的知識から立証的知識への漸次的移行は、多くの場合に気づかれない。つまり、蓋然的知識と立証的知識の根拠の違いは、程度が近接しているときよりも離れているときのほうが、より容易に認められるのである。
 この機会に注目に値することだが、ここまで解明された蓋然的知識の種類は、最初にふさわしい、即ち、完全な立証的知識が存在し得る前に当然に生じるべきものだが、それにもかかわらず、成年に達した者は誰しも、この種類の蓋然的知識には、もはや精通してはいない(意識されていない)。最も一般的なことであり、かつ、最も先進の知識を持つ人にも当てはまることだが、多くの個別の諸事象については、ただ不完全な経験だけに到達するに過ぎないのであり、当然それは、ただ不完全な習癖と移行だけを産むに過ぎないのである。しかし一方では、心は原因と結果の結合についての観察に基づく別個の所見を構成済みであり、その所見によって推論に勢いを付加することを、考慮に入れるべきである。即ち、因果関係についての所見(仮説)を用いて、適切に準備かつ検査された場合、ただ一回の実験結果の上に論証を築き得るのである。我々は、ある事物から因果関係の結果として生じたと一度見い出されたことは、永久にその事物から因果関係によって起こるであろうと結論する。そして、たとえこの原則が、常に確実なこととして構築されるべきではないとしても、それは実験の回数が不足しているからではなく、反対の実例にしばしば遭遇するからなのである。このことは、二番目の種類の、経験と観察における「相反する事実」がある場合の蓋然的知識の考察へ我々を導く。
 もし、同じ諸事物が常に相互に連接しているのならば、人間にとって、生活と行動の管理において、とても幸運なことだろう。そして、自然の不確実性を懸念する動機を持つことなく、ただ自らの判断の間違いを恐れるだけで良いであろう。しかし、ある観察が他の観察と相容れず、諸原因と諸結果が、これまで経験してきたと同じ順序では起こらないことが、度々見い出されるので、我々は、この不確実性のために、推論を変更することを余儀なくされ、複数の事象の相反する事実を考察することを受け入れる。よって、この論点に生じる最初の問いは、相反する事実の本性と諸原因についてである。
 一般大衆は、事物の最初の現れに従って事物を受け取り、諸事象の不確実性を諸原因における不確実性のせいにする。諸原因はその作用において少しも障害や妨げに直面しないにもかかわらず、諸原因の通常の影響が多くの場合に及ばないとするほどである。しかし哲学者たちは、自然のほとんど全ての部分には、微小や疎遠のために隠されている、莫大な種類の原因と法則が含まれている、と観察する。そして、複数の事象の相反する事実が、原因の偶然性から生ぜずに、相反する諸原因の秘密の作用から生じ得る、可能性が少なくともあることを見い出す。この可能性は、さらに進んだ観察によって、的確な吟味・精密な調査によって、相反する複数の結果は常に相反する複数の原因を示し、諸原因相互の妨害と対立から起きることを、哲学者たちが気づくとき、必然性に転換する。例えば無学者は、機械式の時計や懐中時計が止まったとき、「正常に動かなくなった」と普通に言うより他に、停止した理由を与え得ない。しかし時計職人は、ぜんまいや振り子の変わらない力が、常に同じ影響を歯車に与えていることを難なく見分けると、いつもの結果を達成できない原因は、おそらく、全体の動作を止めている、ほんのわずかなほこりのためであろうと気づく。いくつかの類似する実例の観察から、哲学者たちは原則を造る。即ち、全ての諸原因と諸結果の間の結合は等しく必然的であり、ある実例中の外見上の不確実性は、相反する諸原因の隠れた対立から起きる、と。
 けれども、いかに哲学者たちと一般大衆とが、諸事象の相反する事実の解釈に関して異なっていようとも、その不一致からの両者の結論は、常に同種かつ同じ原理に基づいている。過去の諸事象の相反する事実は、以下の二種類の仕方で、未来へある種のためらう不完全な確信をもたらす。第一、不完全な習癖、つまり、目下の印象から関連する観念への不完全な推移を産むことによってである。完全に恒常的であることなしに、ある二つの事物の連接が度々あるとき、心はその一つの事物からもう一つの事物へ推移するように限定されはする。けれども、連接が途切れないで、我々が常に遭遇する全ての実例が一様かつ同質であるときほどは、完全な習癖には至らない。我々は通常の経験から、推論と同じく行動においても、人生行路上の恒常的な忍耐が、未来へと継続する強い傾向と性向を引き起こすことがわかる。だけれども、勢いの程度が低い劣った(不完全な)習癖があり、我々の行為における堅実さと一貫性の程度の低下に比例するのである。
 この不完全な習癖の原理も時には働き、相反する諸事象から我々が引き出す推論を生み出すことは、疑いが無い。けれども、更に調べてみれば、この種の相反する諸事象に関する推論において、最も一般的に影響力がある原理ではないことに、我々は気づくと確信する。心の常習的な決定だけに従うとき、我々は何の反省も無くして観念の移行を為す。つまり、一つの事物を見ることと、それに伴うと多くの場合に気づく事物の確信との間に、瞬間の遅れも介在させないのである。習慣は少しも熟考には依存しないので、反省に少しも時間を割くことなく直ちに作用する。しかし、この直ちに作用する方式は、複数原因の蓋然的推論においては、ほんの少しの実例しかない。つまり、諸事物の途切れない連接から由来する蓋然的推論においてと比べて、いっそう実例が少ないのである。複数の相反する原因がある場合の蓋然的推論においては、我々は一般的に抜け目なく、過去の諸事象の相反する事実を考慮に入れる。我々は相反する事実の異なる側面を比較して、各側面における実験を慎重に比較検討する。そのため、我々は結論できよう。(第二、)この種の推論は、習癖から「直接に」ではなく、「間接的で遠回しの」仕方によって生じるのである。次に、これを解明するように努める。
 ある事物が相反する複数の結果を伴うとき、我々はただ過去の経験によって判断するしかないことは明らかである。即ち我々は、観察された結果は、過去の経験から導き出すことが可能だと常に考えているのである。そして過去の経験は、相反する複数の結果の可能性に関する判断を統制するように、蓋然性に関する判断も同じく統制する。つまり、最も一般的であった結果を、我々は常に、最も起こりそうだと考えるのである。それでは、ここに二つの考察すべきことがある。即ち、過去を未来に対する規準と為すと決定する「理由」と、過去の複数の事象の相反する事実から、単一の判断を抽出する「仕方」とである。
 第一に言えることは、「未来は過去に類似する」という仮定は、どんな種類の論証にも基づかず、全く習癖に由来するということ。これによって、我々が慣れている諸事物の一連の同じ結果を、未来にも期待することを我々は決定する。この習癖、つまり、過去から未来への移行を決定する力は、十分かつ完全である。従って、想像力の最初の衝動は、複数原因の蓋然的推論においても、同様の性質を与えられているのである。
 しかし第二に、過去の複数の実験において相反する特質の実験に気づくとき、この決定力は、それ自身では十分かつ完全であっても、定まった対象を我々に与えず、いくつかの一致しない心象を、ある順序と割合で与えるだけである。従って、最初の衝動は、いくつかの部分に分割され、一致しない心象の全ての上に拡散し、各々の心象は、最初の衝動に由来する勢いと活気の等しい分け前を共にする。これらの過去の相反する諸事象は、いずれも再び起こり得る。即ち我々は、過去と同じ割合で混合して起きるであろうと判断するのである。
 従って、もし我々の意図が、大量の実例中の相反する諸事象の割合を考察することであるならば、過去の経験によって与えられる複数の心象は、「最初の様式」を残し、かつ、最初の割合を保つはずである(ベルヌーイの大数の法則)。例えば、長期の観察(大量の実例)によって、二十隻の帆船が航海に赴くとき、十九隻が戻り一隻は遭難する割合だということに気づいたとする。この場合、目下に二十隻の帆船が出航するのを見たとすると、過去の経験を未来に転じて、十九隻は無事に還り一隻は遭難する、であろうと想像する。このことについては、少しも困難はあり得ない。しかし我々は、ある単一の事象についての判断を下すために、過去の諸事象の相反する不確実な諸観念を、しばしば見直す。ゆえにこの考察は、我々の諸観念の「最初の様式」を変え、経験によって与えられた分割された心象を結びつけるはずである。なぜなら、我々が判断を下す単一の事象の決定を委ねるのは、「経験」に他ならないからである。分割された心象の多くは一致すると想定される。つまり、多数例が一方に結びつくと想定される。これらの一致する心象は一緒に結びついて、単に想像の虚想と比べてだけでなく、実験の少数例によって支持されるどんな観念よりも、多数例の観念をより強く活発にする。どの追加の実験も、鉛筆画の加筆に例えて言えば、元の形を増やしたり大きくしたりしないで、色彩に活気を追加するだけである。この心の作用は、偶然による蓋然的知識について論じた前節において、既に十分に解明されたので、ここで再説する必要はない。というのは、あらゆる過去の実験は、一種の偶然として考察できるのである。即ち事物が、ある実験か、あるいは、別の実験か、どちらの実験結果に適合して存在するかどうかは、我々には不確実なのである。そのため、偶然と複数原因、どちらか一つの主題について言及された全てのことは、両方に適用できるのである。
 このように概して、相反する複数の実験は不完全な確信を産む。それは二種類の仕方で、一つは、習癖を弱めることによって不完全な確信を産む仕方。もう一つは、「完全な」習癖を、即ち、経験のない実例も経験のある実例に必然的に類似するに違いないと、我々に一般的に推断させる習癖を、分割した後に異なった部分に結合することによって不完全な確信を産む仕方である。
 第二の種類の蓋然的知識、即ち、過去の複数の実験の相反する事実から、知識と反省を使って推論する蓋然的知識についての以上の説明を、さらに進んで正当化するために、以下の考察を提案しよう。その際、考察に伴う緻密さの外見によって読者の感情を害することは懸念しない。おそらく正しい推論は、いかに捉え難いといえども、その力を依然として持ち続けるべきなのである。例えて言えば、物体の固体性が、より大きい、つまり知覚できる形式においてと同じく、空気中、火の中、動物精気の中においても(一見ないようだが)固体性が保持されているのと同様なのである。
 第一に、反対の可能性を許さないほど強い蓋然性は無いと言えよう。なぜなら、反対の可能性を許さないならば、それは蓋然性ではなくなり、必然性になるからである。複数原因による蓋然的知識は、最も対象範囲が広く、我々が目下に検討している、複数の実験の相反する事実に依存する。そして明らかに、過去の一つの実験(の事実)は、少なくとも未来に対する可能性を証明する。
 第二に、この可能性と蓋然性の構成部分は、同じ本質であり、両者は質が違うのではなく、数が違うだけなのである。既に言及したが、あらゆる単一の偶然は、全く等価であり、ある偶然の事象に他の事象を上回る優位を与え得る唯一の事情は、より多い数だけである。同様に、複数原因の不確実性は、相反する複数の事象の見方を我々に与える経験によって発見されるので、明らかに、過去の経験を未来へ転じる、既知を未知へ転じる際、あらゆる過去の実験は、同じ重みを持つ。また明らかに、いずれかの側に平衡を崩し(蓋然性となり)得るのは、より多い実験の数だけなのである。従って、複数原因の蓋然的知識のあらゆる推論の中の可能性は、相互に同じ本質である複数の部分、(別により多く集まると)反対の蓋然性とも成る部分から成るのである。
 第三に、自然現象と同じくあらゆる精神現象においても、確かな原則として確立できることだが、ある原因が複数の部分から成り、その数の変動に従って、結果が増減する場合は常に、適切に言えば、複数の結果は、一つの結果の合成であり、原因の各部分から生じるいくつかの結果の結合に起因する。例えば(自然現象において)、物体の部分の増減によって、その物体の重さは増減するので、各部分がその性質(重さ)を含み、全体の重さの一因となっていると推断される。原因の一部分の有無は、その結果の比例した部分の有無を生じさせる。この結合関係、即ち、恒常的連接は、一方の部分が他方の部分の原因であることを十分に証明する。(精神現象においても、)ある事象についての我々の確信は、偶然の数、即ち、過去の実験の数に従って増減するので、偶然つまり実験の数に比例して起因する各部分の結果の複合から成る、と考えるべきなのである。
 さて、これらの三つの注意深い考察を結合し、どんな結論を導き出せるのかを調べよう。あらゆる蓋然性には、反対の可能性がある。この可能性は、蓋然性の部分と全く同じ本質である部分から成る。従って、心と知性に同様の影響を及ぼす。蓋然性に伴う確信は、複合した結果であり、蓋然性の各部分から生じる、いくつかの結果の一致によって構成される。従って、蓋然性の各部分は、確信の産出に貢献するので、可能性の各部分も反対側にて同様の影響があるに違いない。相互の部分の本質は、全く同じだからである。蓋然性が特定の対象の見方を含むのと同様に、可能性に伴う相反する確信は、それと反対の見方を含む。この点では、両者の確信の程度は似ている。それでは、一方(蓋然性)における類似した構成部分のより多い数が、その影響を及ぼし得て、他方(可能性)における構成部分のより少ない数を、優勢に上回り得る唯一の仕方は、その対象について、より強く活気のある見方を産むことによってだけなのである。蓋然性の各部分は特定の見方を与える。そして、全ての特定の見方が相互に結合すると、一つの一般的な見方を産む。その一般的な見方は、その由来する諸原因や諸原理の、より多い数によって、より十分に明確になる。
 蓋然性と可能性の構成部分が、その本質において似ていることは、類似する結果を産むに違いない。そして、結果の類似する点は、各部分が特定の対象についての見方を与えることに存する。しかしながら、部分が本質において似ているとはいえ、量と数においては非常に異なっている。そしてこの違いは、部分の類似する点と同様に、結果に出現するに違いない。さて、蓋然性と可能性の両方の場合において、両者が与える見方は十分かつ完全であり、その各部分の全てにおいて対象を含むので、この点においては、どんな違いも有り得ることは不可能である(違いは有り得ない)。だから、両者の結果を区別できるのは、より多い数の見方の一致より生じる、蓋然性におけるより大きい活気に他ならない。
 以下に、違う見地における、ほとんど同じ議論がある。複数原因の蓋然的知識についての全ての推論は、過去(の経験)を未来へ転じることに基づく。過去の実験を未来に転じることは、対象の見方を我々に与えるのに十分である。この点は、実験が単独であっても、同じ種類の他の諸実験と複合していても同じである。また、実験が完全であっても、相反する種類の他の諸実験によって対抗されていても同じである。それでは、もし実験が、複合と対抗の両方の性質を取得したと仮定しよう。それでも、その実験は、対象の見方を与える以前の能力を、そのために失うことはなく、ただ、複合しても一致し、同様の影響力を持つ他の諸実験に対抗させるだけなのである。従って問題は、一致と対抗の両者の、仕方について生じよう。「一致」の仕方については、ただ二つの仮説のいずれかを選ぶだけである。「一、」過去の各実験の(未来への)転移によって生じる対象の見方は、完全に各自を保持し、ただ見方の数だけが増える仕方。「二、」対象の見方は、他の同種かつ合致する複数の見方に合流し、勢いと活気のより多い程度を総体に与える仕方。しかし、一つ目の仮説は間違っている。これは経験から明らかであり、経験は、我々に次のように告げ知らせる。どんな推論に伴う確信も、一つの推断に存し、心を分散させなければ、多数の同様の推断には存しない。即ち、多くの場合、心の有限の理解力によっては、区別して明瞭に理解されるには、多過ぎるのである。従って、唯一の理にかなっている考えとして、多数の同種の見方が相互に合流して勢いを合体させる、という二つ目の仮説が残る。つまり、ある一つの単独で生じる見方よりも、より強く明らかな見方を産むために、勢いを合体させるのである。これこそ、過去の複数の実験が未来の事象に転移される際に、一致する仕方なのである。「対抗」の仕方については、明らかに、相反する見方は相互に両立しないし、対象は同時に両方の見方に適合して存在し得ることは不可能である。よって、両者の影響は互いに相殺して、多い方から少ない方を減じた後に残る勢いだけによって、心は決定されるのである。
 承知の上だが、まさにこのような推論は、大多数の読者にとって難解に見えるに違いない。心の知的な能力についての、こうした深遠な省察には慣れていない大多数の読者は、一般的に受容されている考えや哲学の最も平易で理解しやすい原理ではないと感じさせることは何であれ、荒唐無稽なこととして拒絶しがちであろう。そして確かに、これらの議論に加わるためには、若干の苦労や骨おりが必要である。しかしながら、この主題についてのあらゆる通俗的な仮説の欠陥と、このような途方もなく不思議な考察において哲学がまだ与え得る知識の小ささを理解するためには、おそらくほとんど苦労は必要ではない。もし以下の二つの原理を、人々に一度でも完全に納得させれば、即ち、「一、いかなる事物においても、それ自体を考察して、自身を越えた推断を導く理由を我々に与え得るものは一切ない。二、事物の度重なる恒常的な連接を観察した後でさえ、我々が既に経験した事物を越えた、いかなる事物に関する推論をも導く理由は一切ない。」もし以上の二つの原理を、人々に一度でも完全に納得させれば、人々はこれまでの全ての一般的学説から開放されて、最も驚くべきと思われ得る学説を受容する困難は無くなるであろう。以上の二つの原理は、因果性による最も確かな推論に関してでさえ、十分に説得力があると既にわかっている。しかし、これらの確定的でない蓋然的推論に関して、さらに確証の新たな段階を獲得すると、あえて断言しよう。
 第一に、明らかに、この種の蓋然的推論において、事物それ自体を考察して、その他の事物や事象に関する推断を導く理由を我々に与える事物はない。というのは、事物から推断される事物は不確実だと思われ、その不確実さは、最初の事物における隠された相反する複数の原因から由来するのだから、万が一、いかなる複数の原因も最初の事物の既知の性質に配置できるのならば、もはや複数の原因は隠されてはいず、推断は不確実ではなくなるであろう。
 第二に、同様に明らかに、この種の蓋然的推論において、もし過去から未来への転移が単に知性の推断だけに基づくのならば、決して少しも信念や確信を引き起こすことはできない。相反する複数の実験を未来へ転移させるとき、我々はただこれらの相反する複数の実験を、個々の割合に比例して反復できるだけである。つまり、我々が論理的に推断することによっては、どの単一の事象に対しても確信を産むことはできないのである。想像が、一致する複数の実験の全ての心象を相互に融解させて、単一の観念や心象を抽出しない限り、確信を産むことはできない。そしてそれは、それが由来する実験の数、つまり、対抗する実験を上回る優位に比例して、強く活気があるのである。過去の経験は決定された事物を一切与えない。しかし確信は、どんなに弱くとも、決定された事物に自身を固定させる。明らかに確信は、ただ過去の未来への転移から生じるのではなく、「想像」の結合させる作用から生じるのである。このことは、想像の機能が、全ての蓋然的推論に寄与する仕方を、我々に考えるように導くであろう。
 本節の主題を、注目に値する二つの省察で締めよう。一つ目は、以下のように説明できよう。単に蓋然的な事実に関して推論するとき、心はその視線を過去の経験へと後方に向け、経験を未来へ転移させる。心はその際、その対象のとても多くの相反する見方を与えられ、それらの見方は同種のものどうし相互に結合し、そして心の一つの作用へ合流して、それを強化し活気づけるのに役だつ。しかしもし、対象の見方または瞥見のこの数の多さが、経験から発するのではなく、想像の意図的な作用から生じると仮定すると、この強化し活気づける効果は起こらないし、少なくとも同じ程度には起こらない。というのは、習慣と教育は、経験に由来しない単なる反復によっても、確信を産むけれども、習慣と教育は、とても多くの「故意でない」反復と一緒の長い期間を必要とするからである。一般的に表明できることだが、一回だけの過去の経験によって支持されているにもかかわらず、ある観念を心に「意図的に」反復した人は、対象の一回だけの経験に甘んじるよりも、観念の対象の存在を(意図的に反復したとしても)さらに信じたいとは思わないのである。故意の効力の近くには、心の各作用は分離独立していて、別個の影響力を持ち、その効力を故意の効力とは結合しない。両者を産む共通の対象によっても結合することはなく、両者は相互に関係がない。従って、両者は効力の推移や結合を生じさせないのである。この現象については、後でより良く了解するであろう。
 二つ目の省察は、心が判断できる大きさの複数の蓋然的知識と、それらの二者間に観察できる微小な差異とに基づく。例えば、偶然や実験の数が、一方は一万回で他方は一万一回であるとき、心の判断は、一回上回るゆえに後者を選択する。しかしながらそのとき明らかに、一万回の個々の見方を、ことごとく見渡すことは心には不可能であり、この様に差異がわずかな場合は、生じる心象の活気の優位を見分けることは不可能である。同様の実例は、感情においても見られる。明らかに上記の原理に従って、ある対象が感情を産むときの感情は、その対象の量に従って変動する。また明らかに感情は、正確に言って単純ではなく、複雑なものであり、対象の各部分の見方から得られる、極めて多くの弱い感情から成っている。というのは、さもなければ、対象の部分が増すことによって、感情が増すべきことが不可能となるからである。例えば、千ポンド(一千万〜一億円)を欲している人は、千以上の欲望を実際に持っているが、互いに結合して、ただ一つの感情(金欲)を持っているように見える。もっとも、欲望の合成は明らかに、ただ一単位だけ上回っていても多い方を選択することに従って、対象のどんな変化によっても本性を現すのだが。けれども、確かなことだが、それほど小さい差異は、感情において見分けることはできないので、差異の前後の感情相互を見分けられるようにすることはできないのである。従って、より多い数を選択する行為の差異は、感情には依存せず、習慣と「一般規則」に依存するのである。多数の実例において見い出されたことだが、金額の数の増大は、数が正確で差異が感じられる場合に、感情を増大させる。例えば、三ギニー(約三ポンド)は二ギニーよりも大きい感情を産むことは、心の直接的な感覚から気づくことができる。「このこと」を類似によって、心はより大きい数へ転移させる。そして、(感情には依らずに)一般規則によって、千ギニーのほうに九百九十九ギニーよりも強い感情を割り当てるのである。この一般規則については、まもなく(第十五節で)解明しよう。
 以上の二種の蓋然的知識、「不完全な」経験に由来するものと、「相反する」複数の原因に由来するものとの他に、三つ目の「類推」から生じる蓋然的知識があり、ある重要な事情に関して前二者と異なる。先に解明した仮説に従って、全ての種類の因果的推論は、二つの点に基づく。即ち、全ての過去の経験における二つの事物の恒常的連接と、それらのいずれかの事物と目下の事物との類似である。これらの二つの点の効果は、目下の事物を活性化させ、想像を活気づける。そして、恒常的結合といっしょの類似は、この勢いと活気を関連する観念へ伝える。その結果、我々は確信や同意に至ったと言われる。もし、結合か類似かどちらかを弱めれば、推移の原理を弱め、その結果、原理に起因する確信を弱めることになる。最初の印象の活気は、事物間の連接が恒常的でない場合、あるいは、目下の印象が観察されてきた結合事物のいずれかと申し分ない類似がない場合は、関連する観念へ十分に伝達することはできないのである。上記の偶然と複数原因の二種の蓋然的知識においては、結合の恒常性が減少させられる。三つ目の類推から生じる蓋然的知識においては、類似だけが影響を受ける。結合と同様に、ある程度の類似が無ければ、いかなる蓋然的推論も在り得ることは不可能である。しかし、この類似ということは、数々の差異の程度の余地があるので、蓋然的推論も類似の程度に比例して、確固さと確実さを増減するのである。実験は、全く類似していない実例に転移されるとき、その力を失う。けれども明らかに、類似が少しでも残っている限り、蓋然的知識の根拠となり得る程度の力は、依然として保持できるのである。


第十三節 非哲学的な蓋然的知識について


 前節までの種類の蓋然的知識は、哲学者たちに受け入れられていて、確信と所信の正当な根拠として許容されている。しかし、同じ原理から由来するけれども、これまで同じ承認を得る幸運を持たなかった、その他の蓋然的知識がある。「第一」のこの種の蓋然的知識は、以下のように説明できる。結合の減少と類似の減少は、前節の終わりで解明したように、推移の能力を少なくし、その結果、確証を弱める。更に言及できるが、印象の減少からも、即ち、感覚や記憶に現れる色彩の陰りからも、同じく確証の減少は、結果として起こるだろう。記憶している事実に基づく論証は、事実が最近のことか昔のことかによって、確信を増減させる(忘却)。そうはいうものの、これらの(忘却による)確証の度合いにおける差異は、哲学によっては、確実で正当とは受容されない。何故ならば、その場合の論証は、一ヶ月後に持つ力とは異なる力を、今日持っていなければならないからである。それでも、哲学の反対にもかかわらず、確かに、この要因は知性にとって、無視できない重要な影響があり、事実に基づく論証が提出された異なる時期に従って、同じ論証の影響力を秘かに変更させるのである。印象におけるより大きい勢いと活気は、当然のことながら、より大きい勢いと活気を関連する観念に伝える。そして、本書の学説に従えば、勢いと活気の程度にこそ、確信は依存するのである。
「第二」の種類の、信念と確信の程度において度々観察できて、哲学者たちによっては否認されるが必ず生じる(時期的)差異がある。記憶において最近かつ新鮮な実験は、ある程度薄まった記憶よりも多く影響を及ぼす。そして、感情と同様に判断についても上回る影響力がある。生き生きとした印象は、弱々しい印象よりも、より大きい確信を産む。何故なら、生き生きとした印象は、より根原的な力を関連する観念に伝え、それによって観念は、より大きい勢いと活気を獲得するからである。最近の観察には、生き生きとした印象と同様の効果がある。何故なら、最近の観察においては、習慣と推移が(年月を経たときと比べて)より損なわれてはいない、即ち、観念に伝える際の根原的な力を、より一層保持するからである。例えば、深酒三昧のせいで飲み仲間が亡くなったのを経験した大酒飲みは、しばらくの間その実例に影響されて、自身の同様の死を恐れる。しかし、その新鮮な記憶が次第に衰えるにつれて、以前の安心感が戻り、死の危険が少なくなったように確実に思えるのである。
「第三」の種類の実例を次に付言する。即ち、立証的知識による推論と蓋然的知識による推論には、互いに相当な差異があるにもかかわらず、連結された論拠の数の多さ(間接性)だけによって、立証的推論といえども蓋然的推論にまで、多くの場合に気づかないうちに衰える。確かに、推論が対象から直接導き出されて、少しも中間的因果を挿まないときの方が、連結された論拠の長い系列を通って想像が導かれるときよりも、その確信はより力強く、説得力もより強烈なのである。いかに系列の各結合が全然誤りが無いと考えられるとしても、そうなのである。根原的印象こそ、想像による習慣的な推移によって、そこから全ての観念の活気が由来する元である。そして明らかに、この活気は系列の距離に比例して徐々に衰える、即ち、各推移において活気を多少とも失うに違いないのである。時には推論の導出距離の影響の方が、前節の相反する実験の影響よりも一層大きい場合もある。即ち、より強い確信をもたらすのは、推論と対象が近い直接的な蓋然的推論の方であり、たとえ各実験が正しく確実だとしても、推論の帰結の長い系列の方ではないのである。いやむしろ間接的な推論は、ほとんど少しも確信を産むことはない。即ち、想像がとても多くの段階を通過する場合に、確証を最後まで保持するためには、非常に強く堅固な想像がなければならないからである。
 しかしここで、目下の第三の種類の主題がきっかけとなる、とても奇妙な現象に言及するのは不適当ではないだろう。明らかに、古代の歴史の論点において、何らかの確信を持ち得るには、多くの数百万もの因果関係を通って、ほとんど測り知れない長さの論拠の系列を通る以外にない。事実の知識が最初の歴史家に届く前には、多くの伝聞を通って伝達されたはずである。そして、歴史家によって書き留められた後も、各写本はその原本との関係が単に経験と観察によってのみ知られる、新たな対象なのである。従って、おそらく、第三の種類の推論から結論できることだが、あらゆる古代の歴史の確証は、現在では失われるに違いない。あるいは少なくとも、因果の系列が増加して長大になるので、ゆくゆくは失われていくであろう。しかし、もし学界と印刷技術が現在と同じ水準に引き続き留まるとしても、後世の人々が、たとえ千世代後でさえ、『ユリウス・カエサル』のような人物がかつて実在したかどうかを、そもそも疑い得ると考えることは、常識に反すると思われる。この矛盾は、本書の学説に対する難点だと考えられよう。即ち、もし確信が、根原的印象から伝えられた活気にのみ存するのならば、推移の長さによって確信は衰え、ついには全く消滅するはずである。逆に、もし確信が、場合によっては、このような消滅の余地がないならば、活気とは違う何かでなければならないはずである。
 この難点を解決する前に認めるべきだが、この難点の論題を借りた「キリスト教」に反対する非常に有名な議論があった。しかしその議論では、他者の証言の系列の各結合は、蓋然性を越える確実さは想定されず、ある程度の疑いと不確実さの余地があるとする違いがあった。確かに認められるべきだが、この主題のその議論のような考察方法では、決して適正な方法とはいえないが、歴史と伝説は、全ての力と確証を最後には失うべきもの以外にはないのである。新しい蓋然性が追加されるごとに、根原的確信は減少させられる。つまり、どんなに確信が大きいと想定できても、このような繰り返される減少のもとでは存続し得るのは不可能である。このことは、一般的に当てはまる。けれども後[第四部第一節]に見るが、一つのとても記憶すべき例外があり、その例外は、知性についての目下の主題において非常に重大である。
 一方、前段の難点を解決するために、歴史的確証は最初は完全な立証的知識に等しい、と仮定して考察しよう。確信の根拠である、根原的事実と目下の印象とを結合する系列・連鎖は、無数にあるにもかかわらず、その連鎖は全て同じ種類であり、複製者たちや印刷者たちの正確さに依存している。第一版が第二版に受け継がれ、そして第三版へと以下同様に続き、ついには我々が現在読む本に達する。(複写が正確ならば、)各段階には少しも変動はなく、一つの版を知れば、全てを知る。即ち、第一版を製作した後、第二版以降の版を心配する必要はないのである。以上の次第は単独で歴史の確証を保持し、現世の記憶を最終の後世まで永続させるであろう。もし、過去の事象を歴史の本に連結する、因果関係の長い連鎖のことごとくが、相互に異なる部分から構成され、心にとって個別に考慮する必要があるのならば、どんな確信や確証も、後世まで保持することは不可能である。しかし、連鎖の立証のほとんどが完全に類似しているので、心は容易に連鎖に沿って走り、一つの部分から他の部分へ容易に跳躍して、ただ各連鎖の区別がつかない大まかな概念を造るだけなのである。これによって、論拠の長い連鎖が、根原的活気を減少させる効果はほとんどないのである。その程度は、連鎖の部分が相互に異なり、各連鎖を個別に考察する必要があるとしても問題にならないくらい、はるかに短い連鎖と同様なのである。
 第四の種類の非哲学的な蓋然的知識は「一般規則」に由来する。その一般規則は、我々が軽々しく身につけてしまう、適切には「偏見・先入観」と呼ぶことの源となっている。例えば、アイルランド人は機転がきかない、とか、フランス人は堅実ではない、とかである。このため実例において、アイルランド人の会話が明らかにとても感じが良かったり、フランス人の会話がとても賢明であったりするのだけれども、我々は実例に逆らってでも、偏見を抱きがちである。つまり、分別と良識の実例にもかかわらず、愚鈍や軽薄に違いないとする。人間本性は、この種の誤りにとても陥りやすい。そしておそらく、我が国も他の国と同様なのである。
 なぜ人は一般規則を造り、目下の観察と経験に反してさえ、判断に影響させるのを許容するのか、と問うのならば答えよう。私の考えでは、因果関係に関する全ての判断が依存する原理と、まったく同じ原理に起因するのである。因果関係に関する我々の判断は、経験と習慣に由来する。つまり、一つの事物がもう一つの事物に結合するのを見慣れていたとき、省察に先行し省察によっては防ぐことができない自然な推移によって、我々の想像は最初の事物から次の事物へ推移するのである。さて、習慣の本性は、それまでに慣れていた事物とまさに同じ事物が現れたときに、十分な勢いで作用するばかりではなく、類似する事物を発見したときでも、下回る程度ではあるが同じく作用する。即ち習慣は、あらゆる差異によって、ある程度その勢いを失うにもかかわらず、少なからぬ相当な要因は依然として同じままであり、全く無効になるわけではない。例えば、桃や洋梨を食して果物を食べる習慣を身につけた人は、食べ慣れた果物が無いときでも、メロンで食欲を満たすであろう。また、赤ワインを愛飲して大酒飲みになった人は、白ワインを飲んだときでも、ほとんど同じく耽溺するであろう。以上の原理から、既に前節の終わりで、類推に由来する種類の蓋然的知識を説明した。その蓋然的知識は、過去の実例中の経験を類似する事物へ転移するが、その事物は、我々が経験した事物と必ずしも同じではない。類似が衰えるのに比例して、蓋然性は減少する。しかし、類似の痕跡が少しでも残る限り、依然としてある程度の力はあるのである。
 この観察を、さらに進めることができる。習慣は全ての判断の根拠であるにもかかわらず、時には判断に反対となる想像に影響を及ぼして、同じ対象に関する意見において矛盾を産む、と認められる。詳しく説明する。諸原因のほとんど全ての種類においては、複雑な諸事情が混在している。その諸事情の内、一部のものは必須・不可欠だが、その他の不必要な余分なものもある。即ち、一部の事情は結果の産出に絶対に不可欠であるが、その他の事情は単に偶然に結びついただけなのである。さて、次のように言い得る。後者の不必要で余分な諸事情は多数あり、注目すべきことだが、前者の不可欠な事情と常習的に結合すると、想像に対しては顕著な影響を与えるのである。その影響たるや、不可欠な事情が欠けた場合でさえ、通常の結果の観念に進めて、その上、空想の単なる虚構を上回る勢いと活気を観念に与えるのである。我々は、不必要で余分な諸事情の本質の省察によって、この性向・性癖の誤りを指摘できよう。だが、依然として確かなことは、習慣が働き始めると、想像に先入観を与えるということである。
 このことをありふれた実例によって説明するために、高い塔から外へ吊り下げられた鉄の籠の中の人の場合を考察しよう。その人は、眼下の高さを見下ろすとき、身震いするのを抑えられない。もちろん、支える鉄の籠の堅固さの経験によって、落下の危険は全くないと知ってはいるし、落下と墜落の観念、即ち、死と痛みの観念は、もっぱら習慣と経験だけに由来するのだけれども、高い所は恐ろしい。実例から由来する習慣も、実例と全く調和する習慣も、同じく実例の範囲を超える。即ち習慣は、いくつかの点で類似するようだが、正確に同じ通則に従うわけではない、諸事物の諸観念にまで影響を及ぼすのである。高さと墜落の事態は人の心を非常に強く打つので、その影響は、完全な安全を当然与える堅固な支えの正反対の事態によっても無効にされ得ない。その人の想像は、その対象によって自制心を失わせ、それに比例して激情を起こさせる。その激情は想像に帰還して、観念を活気づける。そして活発な観念は激情に新たな影響を及ぼし、その番になって(相乗効果で)その勢いと激しさを増大させる(正帰還増幅)。即ち、想像と感情は、このように相互に互いを支えて、全体として非常に大きい影響を与える原因となるのである。
(非)哲学的な蓋然的知識についての目下の主題が、非常に明白な実例を提示しているとき、他の実例を探す必要があるだろうか? その実例は、習慣の諸結果から生じる判断と想像の間の対立中にあった。(しかし、)本書の学説によれば、全ての蓋然的推論は、習慣の結果に他ならない。そして習慣は、想像を活気づけ、対象の強い想念を与えることだけによって影響を及ぼす。従って、どちらも習慣に基づくので、判断と想像は決して相反し得ないし、習慣は、判断にとって正反対になるような仕方では、想像の機能を操作できない、と推論され得よう。この難点は、他でもない、一般規則の影響力を想定することによって解決できる。我々は後[第十五節]で、因果関係に関する判断を統制すべき、いくつかの一般規則に注意を払うであろう。これらの一般規則は、我々の知性の本性に基づいて、つまり、我々が諸事物に関して造る判断における知性作用の経験に基づいて造られる。これらの一般規則によって、有効な諸原因から、偶然的な事情を区別することを、我々は身につける。即ち我々は、ある結果が、ある特定の事情の同時発生なしに、産出され得ることに気づくとき、たとえその事情が度々結合されていたとしても、その事情は有効な原因の一部ではない、と結論する。しかし、この度重なる結合は必然的に、想像に対して、ある効果をもたらすので、一般規則からの結論に正反対にもかかわらず、これらの二つの原理の対立は、我々の思考中に相反する点を産み、一方の推論を判断に、他方の推論を想像へと、我々に帰せしめる。一般規則は、より広範囲かつ不変であるように、推論を我々の判断に帰せしめる。一般規則(に正反対)の例外は、より気まぐれかつ不確実であるように、推論を我々の想像に帰せしめる。
 このように複数の一般規則は、ある意味では相互に対立する。ある事物が非常に重要な状況において、ある原因に類似するように現れるとき、その事物が(実際は)その原因と最も重要かつ有効な事情において相違するにもかかわらず、想像は当然に、その通常の結果の鮮やかな想念へ我々を導くのである。ここに一般規則の第一の(想像への)影響がある。けれども、この心の活動を反省し、より一般的かつ確実な知性の活動と比較するとき、我々の想像活動が例外な性質であり、推論の最も確立された全原理を否定する性質であるとわかる。このことが、例外からの想像活動を退ける原因である。これが一般規則の第二の影響であり、第一の影響の不適の宣告を意味する。あるときは一方が支配し、またあるときは他方が支配する。そのときの人の性格と気持ちに依存している。通例、一般大衆は第一の影響によって、賢者は第二の影響によって支配されがちである。一方、懐疑論者たちは、ここで我々の理性における顕著かつ新奇な矛盾を観察する喜びを持ち得る。即ち、全哲学が人間本性の原理によって破壊されようとして、さらにまた正に同じ原理の新たな傾向によって救出され得ることを知る喜びである。一般規則に従うことは、正に非哲学的な種類の蓋然的知識であるが、それにもかかわらず、一般規則に従うことによってのみ、これだけでなく全ての非哲学的な蓋然的知識を訂正することができるのである。
 一般規則が想像において判断に正反対としてさえ作用する実例があるので、判断の機能と結合するときでも、一般規則の効果が増加すると分かったとしても、言い換えると、我々の心に現れる観念に、判断に伴う他のものを上回る勢いを、一般規則が与えることを観察しても、驚く必要はない。例えば、周知のことだが、賞賛や非難を遠回しに言う間接的な仕方があり、それは、あけすけなお世辞や非難よりも、誰にとっても、はるかに精神的衝撃は少ない。賞賛や非難は秘かな仄めかしによっても感情に伝わって、あけすけな露見と同じ確実さで知らしめるとは言え、その影響力は、同じ強さではなく弱いことは確かである。皮肉の隠された精神的打撃で非難する人は、愚か者で気どり屋だと無条件に決めつける人よりも、非難の意味は同様に伝わるけれども、与える憤りの程度は弱い。この違いは、一般規則の影響に起因すると考えられるべきなのである。
 誰かが公然と侮辱するにせよ陰険に軽蔑をほのめかすにせよ、いずれの場合も直接的に(テレパシーのように)その人の感情や意見を知覚するのではなく、ただ(言葉などの)記号によって、即ち、記号の効果によってのみ、知覚できるようになるのである。それならば、これらの二つの場合の間の唯一の違いは記号に存し、公然とした感情の発露においては、一般的で万人共通な記号を使用し、秘かな仄めかしにおいては、より珍しく一般的でないような記号を使用する。この事情の効果は、即ち、目下の現存する印象から未だ現存していない観念へと動いている想像力は、関連性が一般的で万人共通な方が、より珍しく一般的でない方よりも、いとも簡単に推移を為し、その結果として、より大きい勢いで対象(の観念)を心の中に作り出すのである。それゆえに、感情の率直な告白が仮面を脱ぎ捨てることと呼ばれ、意見の秘かな暗示がベールで覆い隠すことと言われる、と観察できる。一般的な関連性によって産み出される観念と、一般的でない関連性から生じる観念との相違は、印象と観念の間の違いにも例えられよう。想像におけるこの違いは、感情に適している効果があり、しかも、この効果は別の要因によっても増大される。怒りや軽蔑の秘かな仄めかしは、相手に対してまだ配慮が有り、直接に罵倒することを避ける、ということを示している。このことは、隠された皮肉の不愉快さを減じる。しかし依然としてこのことは、同じ原理(観念の強度)に依存している。何故なら、もし観念が、単に暗示されただけのときに、明示されたときより弱くないのならば(強度の差が無いならば)、それは決して、他の明示方式の記号よりもこの暗示方式の記号の方が、相手に対してより多くの配慮を続けるとは思われないのである。
 時には、口汚い言葉のほうが、微妙な皮肉よりも、不快感を与えることが少ない場合がある。なぜならば、我々を害した当人(が発した言葉)が、非難と軽蔑の正当な理由を我々に与えることによって、侮辱を犯した正にそのときに、ある意味で既に報いられているからである。しかし、この現象も同様に、同じ原理(観念の強度)に依存している。というのは、なぜ我々は、粗野で侮辱的な全ての言葉を非難するのだろうか? 他でもない、良い礼儀作法や人間性に反すると、通常思われているからではないだろうか? それでは、なぜ反すると思われるのだろうか? 他でもなく、微妙な皮肉よりも精神的衝撃が強いからではないだろうか? 良い礼儀作法の規則は、人前で迷惑をかけることや、会話に参加する者たちに著しい心痛と困惑を与えることなら何でも非難する。このことが一度確立された後では、口汚い言葉は例外なく非難される。即ち、口汚い言葉の下品さと無作法のせいで、その言葉を口にする人を卑しむべき人に貶め、被る心痛は少なくなるのである。最初は単に非常に不愉快であったゆえに、不愉快さが軽減されることになる。そして、最初の非常な不愉快さは、明白かつ否定できない一般・通常規則によって(強い)推論が与えられるゆえなのである。
 お世辞や風刺が、公然と為された場合と、隠れて為された場合の影響の相違についての以上の解明に、これと類似する別の現象についての考察を追加しよう。男女間の名誉にかかわる詳細が多くあり、冒涜が公然と公言される場合、世間は決して許さない。しかし、見かけが保たれて、冒涜が秘かに隠される場合は、より見のがされやすい。どちらの場合でも、誤ちが犯されたことを等しく確実に知る者たちでも、証拠が直接的で否定できない場合よりも、いくぶん遠回しで間接的な、はっきりしないと思われる場合のほうが、より簡単に容赦する。どちらの場合でも、同じ内容の観念が与えられている。適切に言えば、どちらの観念も、判断によって等しく同意されている。しかしながら、観念が与えられる異なる仕方(公然か秘密裏にか)のゆえに、その影響は異なるのである。
 さて、これらの二つの場合、名誉の法を「公然と」違反する場合と「隠れて」違反する場合を比較すると、両者の違いは次の点にあることが分かる。公然と違反する場合は、非難されるべき行動を推論する元の記号は単一であり、単独で推論と判断の基礎に十分である。これに対して隠れて違反する場合は、推論の元の記号は(微小かつ)多数であり、単独、つまり、ほとんど気づかれないほど微小な諸事情を多数伴わないときは、ほとんどあるいは全く何も決定しない。然るに、以下のことは確かに真実である。即ち、どんな推論も絶えずもっと納得させようとして、(記号を)選び出して結びつけるように見える。しかし、推論の働きが逆により少ない方が、想像に委ねて、推論の全ての要素を集めて、そこから推論の結論を造る相関的な観念へと向かわせる。思考の労働は、感情の通常の進行を妨げるのである。このことは、まもなく言及されよう[第四部第一節]。思考が労働するときの観念は活気が無く、その結果、感情や想像に影響力が無いのである。
 同じ原理(観念の強度)から、『ドゥ・レース枢機卿』の観察記録「この世の人々には、だまされることを望む多くの事態がある。例えば、職業と地位の礼儀作法に相容れない言動に対して、言葉は許されないが、行動は容易に許されるのである」も説明できる。礼儀作法の違反は、行動よりも言葉のほうが、一般的に、より公然として紛れがない。不作法な行いのほうは、多くの弁解の余地が許され、当人の意図や見解についてそれほど明確に結論を下さないのである。
 以上、おおむね考察されたと思われる。即ち、普遍的知識に達しないあらゆる種類の判断や所信は、全く知覚の勢いと活気に由来し、そして知覚の勢いと活気は、あらゆる事物の存在の「確信」と呼ぶことを心中に構成するのである。この(観念の)勢いと活気は、記憶において最も顕著である。従って、記憶機能の真実性の確信は、想像できる限りの最も大きいものであり、論証の確信と多くの点で対等でさえある。勢いと活気の記憶に次ぐ度合いがあるのは、因果関係に由来する勢いと活気である。この勢いと活気も非常に大きく、特に、因果の結合が経験によって完全に恒常的だと認められるときや、目下の対象が過去に経験した対象と正確に類似するときは、なおさら大きい。この確証の度合いを下回ることは他に多く有り、諸観念に伝達する勢いと活気の度合いに比例して、想像と諸感情に影響を及ぼす。習慣によって、我々は原因から結果への移行を為し、そして、目下の印象から、我々は活気を取り入れて、相関的な観念へ伝達するのである。一方、強い習慣を産むために十分な数の実例を観察していない場合や、複数の実例が相互に相反する場合や、類似が正確でない場合や、目下の印象が弱く不明瞭な場合や、経験が記憶から多少とも消された(忘れかけている)場合や、結合が諸対象の長い連鎖に依存する場合や、推論が一般規則に由来するにもかかわらず一般規則に一致しない場合がある。これらの全ての場合において、確証が減少するのは、観念の勢いと活気の減少によるのである。従って以上が、蓋然的知識と判断の本性なのである。
 以上の学説に主として拠り所を与えることは、学説の各部分が基づく疑う余地のない各論拠の他には、学説の各部分どうしの調和、つまり、一つの部分が他の部分を説明するという必然性がある。我々の記憶に伴う確信は、我々の諸判断が由来する確信と同様の性質である。原因と結果の恒常的かつ一定不変の結合に由来する判断と、中断された不確かな結合に依存する判断との間には、何ら(質的な)違いはない。(どちらも確信に基づいている。)実際にも明らかなことだが、相反する実験から心が決定する全ての決心においては、決心は最初に自ずと分割されていて、我々が見たり記憶したりした複数の実験の数に比例して、どちら側にも傾く傾向がある。結局、相反する実験間の争いは、より多い数が観察される実験の側の有利が決定される。だが依然として、反対側の実験もその数に比例した確証において、判断の勢いを減少させる。蓋然性が構成される要素である各々の実験の可能性は、独立して想像に作用する。つまり、可能性をより多く収集した側が結局は勝るのだが、(反対側の勢いを減殺した)その上回る数に比例した勢いだけを持つのである。これらの全ての現象は、先行する学説を一直線に導く。他のいかなる原理によっても、これらの現象について十分かつ矛盾のない解明を与えることは、決して不可能であろう。これらの諸判断を、想像に与える習慣の影響として考察することなしには、我々は絶え間ない矛盾と不合理に陥り、途方に暮れることになるであろう。


第十四節 必然的結合の観念について


 以上のように、「目下の印象を超えて推論し、ある特定の原因はある特定の結果に至ると推断する」仕方を解明してきたのである。今や、第二節で生じたが保留しておいた問題の吟味へ、考察の歩みを戻すべきである。その問題とは即ち、「二つの事物が相互に必然的に結合していると我々が言うときの、必然の観念とは何であるか」ということである。この問題について、度々言及する機会があることを繰り返すと、印象に由来しない観念はあり得ない。よって、もし必然の観念があると主張するのならば、必然の観念が由来する元の印象を見い出さねばならないのである。必然の観念の元の印象を見い出すために、必然性はどういう事物に存すると一般的に思われているかを考察する。そしてまた、それが常に原因と結果に帰することを見い出し、因果関係にあると思われている二つの事物に目を向けて、その二事物を因果関係にあり得る全ての状況において吟味する。すぐに気づくことだが、それらは時間と空間において「近接」している。そして原因と呼ぶ事物は、結果と呼ぶ事物に「先行」している。一つの実例においては、これ以上は進み得ない。つまり、二つの事物間の因果関係に、三つ目の関連を発見することは不可能である。従って、一つだけではなく、いくつかの実例にまで考察の範囲を拡張する。複数の実例においては、類似した事物は常に、近接と継起の類似した関係にある。一見すると、このことは考察にあまり役立たないように思える。それぞれの実例についての省察は、ただ同様の事物を繰り返していて、ゆえに新しい考えを決してもたらし得ない。しかし探求をさらに進めていくと、その繰り返しは全ての点で同じではなく、ある新しい印象、つまり、目下吟味中の観念の元の印象を産み出すことに気づく。というのは、度重なる繰り返しの後では、その複数の事物に属する一事物が現れるとき、心は習慣によって、その事物に通常伴う事物を考えるように「決定」されている、即ち、原因となる事物に一番最初の関連にあるために、結果となる事物をより強い見方で考えるように「決定」されている、ということを見い出すからである。それでは、この印象こそ、換言すれば、この「決定」こそ、必然の観念を与えるものなのである。
 以上の諸帰結は、一見して困難なしに受容されるであろうことは確かだろう。なぜなら、既に確立済み、かつ、これまでの推論で度々用いてきた諸原理より、明らかに演繹的に結論されるからである。一級の諸原理と演繹的結論の双方における明証性は、注意や警告なしに、その帰結に導き得る。つまり、驚くほどのことや好奇心に値することは、何もないと我々に思わせる。しかしながら、このような注意深くなくなる過程は、この推論の受容を容易にできるが、一方、より容易に気がつかないようにもさせるであろう。このため、以下の警告をすることは適切だと思われる。即ち、全ての学問に広汎に関係し、とても多くの好奇心を抱かせると思われる、「諸原因の能力と効果に関する論点」、哲学の最も卓越した論点中の一つを、正に目下吟味しているのだと強調しよう。以上の警告は当然に、読者の注意を喚起し、本学説と本学説が基づく論拠の余すところない説明を求めさせるであろう。この要求はもっともなことであるので、この要求に応えることを拒み得ない。特に、これらの諸原理は、より吟味されればされるほど、さらに力と確証を得るであろうと期待されるので、吟味を続行しよう。
 諸原因の効果、換言すると、諸結果が後に続くことによって決まる諸原因の性質に関する論点ほど、その重要さと困難さのために、古今の哲学者たちの間で論争の原因となってきた論点はない。しかし哲学者たちはその論争に入る前に、論争の主題である諸原因の効果について我々が持つ観念について、先に吟味するのが適当ではなかったかと思われる。これこそ論争の数々の推論に第一に欠けていることだと見い出したので、以下の考察で満たすように努めよう。
 用語についての言及から始める。「効果、働き、能力、力、勢力、必然性、結合、産出的性質」等の用語は、全てほとんど同義であり、同じことを表している。従って、これらの用語のいずれかを使用して、残りの用語を定義することは、不合理なのである。この言及によって我々は、これまで哲学者たちが能力や効果に対して与えてきた低級な定義の数々を、全て一度に却下する。即ち、同義反復の定義の中に鍵となる観念を探し求めるのではなく、能力や効果の観念が根源的に由来する印象の中に探し求めなければならないのである。もしその観念が複合観念ならば、複合印象から生じるに違いない。あるいは単純観念ならば、単純印象から生じるに違いないのである。
 この問題の最も一般的で通俗的な解明は、次のようなものであろう[ロック氏『人間知性論』第二篇第二十一章「能力」を参照]。物体の運動(落下・波・風・天体)や物質の変化(気化・液化・凝固・融解)のように、自然界においていくつかの新たな産出があることを経験から発見して、それらを産出することができる何らかの能力が、どこかにあるに違いないと推断して、ついには、この推論によって、我々は(諸原因の)能力と効果の観念に至る、と。このような解明が、哲学的というよりも通俗的であることを納得させるには、既出の非常に明白な二つの原理を熟考するだけで良い。一つは、理性単独では、どんな初発の観念も生じさせることは決してできないという原理。二つ目は、経験から区別された理性は、原因や産出的性質が、存在の全ての始原に絶対的に必要だと推断させることは決してできないという原理。これらの原理の理由は両方とも、既に十分に説明されてきた。従って、それ以上ここでは再説しない。
 ただ、次のことは結論しよう。即ち、理性は効果の観念を生じさせることは決してできないので、効果の観念は、経験から、つまり、効果のいくつかの個別の実例から生じるに違いないのである。そして経験がもたらす効果の観念は、感覚や省察の共通の経路を通ることによって、心へと至るのである。観念は、常に対象つまり印象を再現する。逆に言えば、全ての観念が生じるためには、必ず元の対象(つまり印象)が必須である。従ってもし、正しい効果の観念が当然にあると称するのならば、効果が明らかに心に発見でき得るような、つまり、効果の作用が意識や感覚に明らかであるような、ある実例を提示しなければならないのである。このことを拒否すると、効果の観念は、不可能つまり架空の観念であると認めることになるのである。なぜなら、単独でこのジレンマから救い出し得る生得観念の原理は、既に論破されており、今や学界においては、ほとんど例外なく否認されているからである。それでは我々の目下やるべきことは、不明瞭や間違いの危険なしに、原因の効果や作用が、心によって明らかに考えかつ理解できる、ある自然的な産出を見い出すことに違いない。
 諸原因の秘密の力や勢力を説明すると僭称してきた哲学者たちの数々の意見に見られる種々雑多な多様性からは、この探求において、触発されて励みになることは、ほとんど全くない[マルブランシュ神父『真理の探求』第六巻第二部第三章(機会原因論)と、その「解説」を参照]。例えば、諸物体は自身の実体的形相によって作用すると主張する者がいる。いや、諸物体の偶有性つまり諸性質によって作用するという者もいる。あるいは、形相と質量によってという者、形相と偶有性によってという者、いや、以上の全部と異なる、ある効力や機能によって作用するという者もいる。これらの諸々の意見の全ては、幾度も千もの異なる方法で、混合されたり改変されたりしている。すると、哲学者たちの意見は一つとして、どんな堅固さや確証も無く、物質のいかなる既知の諸性質中の効果の推定も全く根拠が無い、という強い推定を形成するのである。これらの、実体的形相、偶有性、機能などの諸原理が、物体の既知の属性のいずれにも実際に存せず、全く理解不能、かつ、説明できないことを考慮に入れるとき、この推定は著しく強まるに違いない。なぜなら明らかに、哲学者たちは今まで決して、このような不明瞭かつ不確かな諸原理に頼っては、明白かつ理解できるような、特に、諸感覚の対象でないとしても、最も単純な知性の対象であるはずのことについて、十分な結果を味わうことは、少しもなかったからである。概ね、次のように結論できよう。即ち、原因の力と働きを認める原理は、一つとして実例を示すことは不可能であり、最上級から最下級までの知性は全て等しく、この点について、途方に暮れているのだ、と。もし、この断定を論破しようと思うならば、長い推論を作り出す骨折りをする必要は少しもない。ただすぐに原因の実例を示すだけで、能力や作用の原理を発見するということだけで良いのである。我々が度々使用せざるを得ない、この挑戦的な言明は、哲学における否定命題を証明する、ほとんど唯一の手段としてある。
 この能力を確定する全ての試みにおいて、今までほとんど成功しなかったことは、ついには哲学者たちに以下のように結論せざるを得なくさせた。即ち、自然界の根本的な力や効果は我々には全く不明・非知であり、物質の既知の全ての性質の中にそれを探し求めても無駄である、と。以上の見解に、哲学者たちはほとんど全員一致している。ただ、その見解より導き出す推論においてのみ、意見のいくらかの相違を見い出すだけである。というのは、いく人かの哲学者たち、特に「デカルト学派」は、物質の本質に完全に精通することを原理として、それを確立している。彼らは非常に当然に、物質には効果は何も無く、物質それ自体は運動を伝達することや物質に原因ありとするその他の効果を産むことは不可能だと推論する。デカルト学派は、物質の本質は延長に存し、延長は実際の運動を含まず単に可動性だけを含む、ということを原理とするので、運動を産む勢力は延長にはあり得ない、と推断するのである。
 この推断は、デカルト学派が全く不可避だと考える、もう一つの推断へ自ずと導く。デカルト学派曰く、物質は本質的に全く不活発であり、運動の伝達や持続や産出ができる少しの能力も与えられていない。けれども、これらの効果は感覚には明らかであるので、これらを産む能力はどこかに在るはずであるから、「神」が在るはずであり、即ち、全ての卓越と完全を本性に含む神が存在するということになる。従って、神こそ宇宙の根本的主動者であり、物質を最初に創造し、かつ、その根源的推進力を与えただけでなく、さらに加えて、全能の継続的な行使によって物質の存在を支持し、授けられた運動と形状と諸性質の全てを引き続いて与えるのである。
 このデカルト学派の考えは、非常に好奇心をそそり、注意する価値がある。がしかし、もし注意する際に我々の目下の目的を少しの間でも振り返れば、ここで検討することは明らかに不必要であろう。我々は一つの原理を確立していた。即ち、全ての観念は、印象つまり何らかの先行する「知覚」から由来するので、この能力が働くことが「知覚される」ある実例が産み出され得ない限り、我々はどんな能力や効果の観念も持つことは不可能なのである、と。さて、このような実例は、物体には決して見い出され得ない。そのため「デカルト学派」は、自らの生得観念の原理を推し進めて、最高の超自然的存在つまり神に頼ってきたのであった。デカルト学派は、宇宙の中の唯一の活動的存在として、また、物質におけるあらゆる変更の直接的原因として、神を考える。けれども、生得観念の原理は、誤りであることが認められている。生得観念が誤りならば、神の推定は、我々の感覚に現れたり心の中で内的に意識したりする全ての事物の中に探し求めて無駄であった、働き・作用の観念の説明において代理を勤め得ないことになる。というのは、あらゆる観念が印象に由来すべきならば、神の観念も同じ起源(印象)に起因することになる。つまり、感覚印象も内省印象も、力や効果を少しも含まないならば、神(の観念)にも力や効果のような活動的原理を見い出すことや想像することでさえ、等しく不可能である。従って、デカルト学派が、物質中に活動的原理を発見不可能がゆえに物質には活動的原理は有り得ないと結論する限り、同じ推論の進行は、最高存在(神)からも活動的原理を除外することを決定させるであろう。デカルト学派が、この見解を不合理かつ不敬虔だと思い実際にそうだとみなすならば、この見解を回避する方法を告げよう。その方法とは、一番最初に戻って、物体にも精霊にも優れた性質にも劣った性質にも、ただ一つの実例も発見できないゆえに、我々には、あらゆる事物においては能力や効果の十分な観念は無い、と結論することである。
 同じ結論は、第二原因の効果を主張する者、つまり、二次的だが真の能力や勢力が物質に属すると考える者の仮説にも避けられない。というのは、この勢力も物質の既知の性質のいずれにも無いことが認められているので、依然として勢力の観念の起源に関して困難が残るからである。我々が実際に能力の観念を持つならば、ある非知の性質に能力は属し得ると言える。けれども、能力の観念は非知の性質からは生じ得ないし、能力の観念を産み得る既知の性質も無いので、一般的な理解の仕方で、この種の観念が我々に備わっていると想像するとき、自分に都合よく誤解していることになるのである。全ての観念は印象に由来し、印象を再現する。我々は能力や効果を含むいかなる印象も決して持たない。従って、いかなる能力の観念も決して持たないのである。
[付録]
 ある者らは、我々は自身の心の中に勢力や能力を感じていて、感じることによって能力の観念を獲得し、能力を直接には見い出し得ない物質に、能力の性質を転移させるのである、と主張した。彼ら曰く、我々の体の動作や思考や感情は、意志に従う。そして(意志の能力を感じて能力の観念を持てば)、力や能力の正しい観念を獲得するために、それ以上は捜し求めない、と。けれども、この推論がいかに不合理であるかを納得させるためには、いかなる物質的原因もその固有の結果を持たないのと同様に、ここで原因としてみなされている意志にも、その結果との結合が全く見い出し得ないことを、考察するだけで良いのである。意志の活動と体の動作との間には結合が知覚されないどころか、意志の結果ほど物質と思考の本質と能力から説明できない不可解なことはない、と認められているのである。言い換えると、心全体を覆う意志の支配ほど、理解不能なことはないのである。心の中でも、結果は原因から区別可能かつ分離可能であり、因果の恒常的連接の経験なしには、結果は原因より予知され得ない。我々は、ある程度は心全体を支配しているけれども、その程度を超えると、心全体の支配を全て失うことになるのである。つまり我々は、経験を考慮に入れない場合は、意志の影響力の正確な境界を確定することは、明らかに不可能なのである。要するに、心の諸活動は、この(経験に頼る)点で、物質の諸活動と同様ということである。我々は単に諸活動の恒常的連接だけを理解し、それを超えては決して推論できないのである。内的な印象も、外的な事物と同じく、明白な勢力を何ら持たない。従って、物質は非知の力によって作用するのだと、哲学者たちによって認められている限り、我々は、自身の心に尋ねることによって、力の観念に到達することを望んでも無駄であろう。
[原注:同様の不完全さは、「神」の観念にも伴っている。しかし、このことは宗教にも道徳にも何ら影響を及ぼし得ない。宇宙の秩序は、全能の心が真実であることを示す。全能の心とは、その意志が、全ての被造物と存在の服従を「絶えず伴っている」心である。これ以上何も、宗教の全ての信仰箇条に基盤を与えるためには必要ではない。つまり、最高存在(神)の力と勢力の明瞭な観念を、造らなければならない必要性はないのである。]
[付録ここまで]
 確かな原理として確立された(第一部第七節)ことだが、一般観念あるいは抽象観念は、確かな見方で理解すれば、個別観念に他ならない。しかも、どんな事物を省察するときでも、事物の本質から量や質の程度を除外できないのと同じく、我々の思考の全ての細目からも量や質の程度を除外することは不可能なのである。従って、もし我々が一般的に能力の観念を身に付けているならば、能力の観念の個別の詳細な種類も同じく考えることができるはずである。そして、能力は単独で存在し得ず、常にある存在の一つの属性としてあると考えられる。よって我々は、この能力を、ある個別の存在に位置づけ得るはずであり、その個別の存在は、能力の作用から必然的に起因する特定の結果をもたらす、実際の力や勢力を与えられると考えられるに違いない。即ち、我々は、原因と結果の間の結合を、明確かつ個別に考えられるに違いなく、因果の一方を単に見るだけで、結果が後に伴うか、原因が先行するかを、必然的に断言できるに違いない。以上が、個別の物体中の個別の能力を考える厳密な仕方である。そして、一般観念は個別観念なしには存在し得ない。言い換えると、個別観念が不可能な場合、一般観念は決して存在し得ないことは確かである。さて、以上より明らかになったわけだが、人間の心は、二つの事物間に何らかの結合が考えられる観念、つまり、二つの事物を結合する能力や効果を明確に含む観念を、造ることはできないのである。そのような結合があるのならば、論証に達することになり、論証に達すれば、ある事物から他の事物が結果として生じないか、あるいは、生じないと考えられるか(蓋然性)は、絶対に不可能だということを意味することになる。このような種類の結合は、既に(第三節で)全ての場合において、否認されていたのであった。もし、誰かが反対の意見を持ち、ある特定の事物に能力の観念が獲得されたと考えるのならば、その事物を指摘するように望む。そのような事物に遭遇するまでは、遭遇することに絶望しているのだが、次のように結論せざるを得ない。我々は、ある特定の能力が特定の事物にどうにかして存し得る方法を、明確に考えることが決してできない限り、どんな能力の一般観念を造り得ると想像しても、思い違いに過ぎないのである。
 従って、概して我々は結論できよう。即ち、優れた本質であれ劣った本質であれ、どんな存在についてでも、ある結果を割り当てる能力や力を与えられているとして言及するとき、あるいはまた、事物間の必然的結合について、どちらかの事物に与えられている、効果や勢力に事物間の結合が依存することの想定に言及するとき、こうした言及の全てにおいて「文字通りに適用すれば」、実際には何も明確な意味は無く、単に言い古された言辞を弄しているだけで、少しも明白かつ明確な観念は無いのである。けれども、ここに見込みがあることがある。それは、これらの言及は決して少しも意味が無いとすることよりも、言葉の「間違った適用によって」、これらの言及はここではその適正な意味を失っているとすることである。従って、この主題について、別の考察を与えることが適当であろう。それは、これらの言及に付与する明確な観念の起源と本質を、見い出し得るかどうかを知るための考察である。
 まず、二つの事物が現れていると仮定し、一方が原因で他方が結果とする。すると明らかに、一方や両方の事物についての簡単な考察から、我々は事物間の結合を決して知覚しないであろう。言い換えると、事物間の結合が在ることを断言することは、確かにできないであろう。従って、どんな一つの実例からも、因果の観念や、必然的結合の観念、能力・力・勢力・効果・等の観念に、到達することはないのである。もし我々が、相互に全く異なる事物間の特殊な結合以外の全ての結合を、決して知らないならば、我々は決して、上記のような観念を造ることはできないであろう。
 しかし一方、同じ事物間が常に互いに結合している、いくつかの実例を観察していると仮定すると、我々は直ちに、事物間の結合を考え、一方から他方への推定を結論し始めるのである。従って、類似する複数の実例のこの多数性こそ、正に能力や結合の本質を構成し、能力や結合の観念が生じる源なのである。それでは、能力の観念を理解するためには、その多数性を検討しなければならない。そして、我々をとても長く困らせてきた、その(能力の観念を理解する)困難を解決するために、これ以上はもう尋ねない。というのは、以下のように推論し、結論するからである。即ち、完全に類似する実例の繰り返しは、決して「単独では」、ある特定の実例に見い出されるような水準の観念とは異なった、根源的観念を生じ得ない。観察の結果としても、基本的原理の「全ての観念は印象の複写である」からの明白な帰結としても、結論される。従って、能力の観念は新しい根源的観念であって、どんな一つの実例中にも見い出されるべくもない、にもかかわらず、いくつかの実例の繰り返しから生じている。ということはつまり、繰り返しは「単独では」その効果はないが、能力の観念の源である新しい何かを、「見い出す」か「産み出す」に違いない、という結論になる。もし繰り返しが、何も新しいものを見い出さないし産み出さないのならば、我々の観念は繰り返しによって多数化されるけれども、単一の実例から観察される観念を超えて拡大されることはないであろう。従って、能力や結合の観念のような、類似した複数の実例の多数性から生じる観念の拡大は全て、多数性の(ある新しい印象と言うべき)ある効果の複写であり、この効果を理解することによって完全に理解されるであろう。我々は、繰り返しによって見い出されるか産み出されるべき、新しい何かを発見する場合は全て、決して何か他の事物の中に探し求めるべきではなく、当の繰り返しの多数性の中に能力の観念を位置づけるべきなのである。
 けれども、次のことは明らかである。まず第一に、接近と継起の類似の関係における類似の諸事物の繰り返しは、それらの事物のどの一つにおいても新しいものは何も見い出さない。何故なら、我々は繰り返しからは何も推論できないからである。言い換えれば、既に[第六節で]証明したように、論証的推論でも蓋然的推論でも、繰り返しを推論の主題にはできないからである。いや、推論できると仮定しても、この場合は全く重大ではないであろう。何故なら、どんな種類の推論も、能力の観念のような新しい観念を生じ得ないからであり、推論を行う場合は常に、我々は先行して、推論の対象となる明晰な観念を持っていなければならないからである。心にいだくことは常に、理解することに先行している。観念が不明瞭な場合は、理解は不確実であり、観念が欠けている場合は、理解もまた達成できないに違いない。
 第二に、確かなことだが、類似の状況における類似した複数の事物の繰り返しは、これらの事物においても、どんな外部の事物においても、新しい何ものも「産み出さ」ない。というのは、容易に認められることだが、類似している因果の結合についての複数の実例は、それ自身において全く独立している。例えば、今見ている、二つのビリヤード球の激突から起こる運動の伝達は、十二ヶ月前に見た、同様の激突から起こる運動の伝達と(同じ軌道であっても)全く別々の現象である。これらの激突は、相互に全く影響はない。二つの激突現象は、時間や空間によって完全に分けられている。たとえ一方が決して存在しなかったとしても、他方は存在して運動を伝達し得るのである。
 そういうわけで、どんな事物においても、それらの恒常的連接によっては、言い換えると、接近と継起の関係の連続した類似によっては、新しい何ものも見い出されないし産み出されない。けれども、この類似こそ、必然性や能力や効果の観念が由来する元なのである。従って、これらの観念は、恒常的に連接している複数の事物に所属する又は所属し得る、何ものも再現しないのである。この論拠こそ、検討し得る全ての視点において吟味しても、完全に反論できないことがわかるであろう。類似する複数の実例は、依然として能力や必然性の観念の最初の源であるが、同時に、類似によっては、類似する事物相互においても、外部の事物においても、何も影響を及ぼさないのである。従って我々は、能力や必然性の観念の起源を探すために、別の方面に注意を向けなければならないのである。
 能力の観念を生じさせる、いくつかの類似している実例は、相互に何の影響もなく、「事物の中に」能力の観念の原型となり得る、ある新しい性質を決して産み出すことはできないのだけれども、それにもかかわらず、この類似の「観察」は、「心の中に」能力の観念の実際の原型である、新しい印象を産み出すのである。なぜかというと、十分な数の実例において類似を観察した後では、我々は直ちに、心の決定を感じるからである。この決定は、一方の事物(原因)から、その通常伴う事物(結果)へと前進させ、類似関係のために、より強い見方で因果を考えさせる。この心の決定(確信)こそ、類似の唯一の効果なのである。従って、類似に由来する観念の元の、能力や効果と同じことに違いない。類似している結合のいくつかの実例は、能力や必然性の観念へ我々を導く。これらの実例は、それ自体においては、相互に全く別個であり何も結合はない。けれども、心の中においては、複数の類似の実例を観察し、実例の複数の観念を集めて、結合されるのである。それゆえ、必然性とは、この観察の効果であり、心の内的印象に他ならない。言い換えると、一方の事物からもう一方の事物へ、我々の思考を進める心の決定(確信)に他ならないのである。この見方で必然性を考察する以外に、我々は決して必然性の観念、最も遠い観念に到達し得ない。言い換えると、我々は決して必然性を、内的にも外的にも、事物には帰属させ得ない。精神にも肉体にも、原因事物にも結果事物にも帰属させ得ないのである。
 原因と結果の間の必然的結合は、一方から他方への我々の推論の基礎である。我々の推論の基礎は、習慣的結合から生じる移行である。従って、これらは同じことなのである。
 必然性の観念は、ある印象から生じる。しかし、感覚によって伝えられる印象には、必然性の観念を生じ得るものは全くない。従って、必然性の観念は、ある内的印象、つまり、内省の印象に由来するに違いない。目下探求すべきことに関連する内的印象は、習慣が産む、ある対象からその通常伴うものの観念へ前進させる、性向・性癖以外にはない。従って、このこと(習慣が産む性向・性癖)こそ、必然性の本質なのである。概して、必然性は、心の中に在ることであり、事物の中には存しない。物体中の性質として考えられた必然性の観念は、最も遠い観念であり、我々には、決して造ることができない観念なのである。事物の中には、我々は全く必然性の観念を持たない。一方、心の中では、必然性とは、因果の経験された結合(習慣)に従って、原因から結果へ逆に結果から原因へと前進させる、思考の決定に他ならないのである。
 このように、二かける二は四、とか、三角形の内角の和は二直角に等しい、とかをつくる必然性、つまり、観念を考察したり比較したりする、知性の活動の中だけに在る必然性と同様に、原因と結果を結合する能力や必然性も、一方から他方へ前進させる、心の決定の中だけに存する。原因の勢力や効果は、原因それ自身の中にも、神の中にも、これらの二原理の同時作用の中にもないのであり、あらゆる過去の実例中の二つまたは二つより多くの事物間の結合を考える、心にこそもっぱら属するのである。ここ(心の中)に、原因の実際の能力が、原因と結果の結合と必然性とともに、位置づけられた。
 承知の上だが、本論考の過程における、既出か、この後に提出する全ての逆説の中で、目下の逆説が最も極端な逆説であり、ただ堅固な証明と推論によってのみ、人類の根深い偏見に打ち勝ち、受け入れられるであろうと、ともかくも望み得るのだ。この学説を人類が認める前に、いったい幾度、我々は同じことを繰り返し説かなければならないであろうか? 即ち、一、どんな関係であっても、二つの事物や作用についての単純な見方では、能力の観念や二つの事物間の結合の観念を決して与え得ないこと。二、二つの事物間の結合の観念は、二つの事物の結合の繰り返しから生じること。三、繰り返しは事物の中に何ものも見い出さないし引き起こしもしないけれども、繰り返しが産む習慣的移行によって、心においてのみ影響を及ぼすこと。四、従って習慣的移行は、能力や必然性と同じことであり、また従って能力や必然性は、知覚の性質であり事物の性質ではなく、内面的に心によって感じられたことであり、外面的に物体中に知覚されたものではないこと。さて、あらゆる異常なことには、通常、驚きが伴う。そしてこの驚きは、その対象を我々が是認するか否認するかによって、最高度の尊重、あるいは、軽視に、即座に変ずるのである。大なる懸念は、これまでの推論が想像できる限りの最短かつ最も明白な推論だと思われるにもかかわらず、大多数の読者の心の先入観が、目下の学説に対して偏見を読者に与えて、圧倒してしまうことである。
 目下の学説に反対する先入観は、容易に説明される。通常、観察されることだが、心には顕著な性向・性癖があり、外部の対象に自らを広げて、どんな内的印象も外部の対象に結びつけてしまう。その内的印象は外部の対象が引き起こし、常に外部の対象が感覚に現れると同時に、内的印象も現れるのである。例えば、ある音や臭いが、ある目に見える事物に伴うことを常に見い出すとき、音や臭いといった性質は、何ら事物と結合する余地がないような性質であり、実際にはどこにも存在しないにもかかわらず、我々は当然に、その事物と音や臭いの間に、全く適当な結合を想像するのである。しかしこのことについては、後[第四部第五節]にもっと十分に説明されるであろう。一方、目下のところは、次のように言及するだけで十分である。即ち、同様の性向・性癖こそ我々に、必然性と能力は、考察する対象の中に在って、対象を考察する心の中には存しない、と想定させる理由なのである、と。我々の先入観にはそれなりに理由があるにもかかわらず、ある事物の観念からそれに通常伴う事物の観念へと前進させることを、心の決定と考えない限り、最も遠い観念である、必然性や能力の観念を造ることは不可能なのである。
 以上の学説こそ、必然性について我々が与え得る唯一の筋の通った説明であるのだけれども、この学説と正反対の意見も、上述の先入観の原理によって固定観念化されているので、本学説が多くの人々によって、とっぴでばかげた意見として扱われるだろうことを疑わない。「何だって! 原因の効果は、心の決定に在るのだと! まるで原因は、心から完全に独立しては作用せず、原因を熟考つまり原因について推論する心が存在しなかったならば、原因の作用は継続しないとでも言うかのようだ。思考こそその活動をもたらすために十分に原因に依存できるが、原因は思考に依存できない。原因をして思考に依存するとすることは、自然の順序を逆にすること、つまり、実際に初発のものを二次的なものにすることである。あらゆる活動・作用には適合する能力があり、この能力は作用する物体上にあるはずである。もし、ある原因から能力を取り除いたとしても、その能力を別の原因にありとするはずである。しかし、全ての原因から能力を取り除き、知覚することによる以外には原因や結果に関連する仕方が何もない心に能力を与えることは、はなはだしい不合理であり、人間理性の最も確かな諸原理と相容れないことである。」
 全てのこの類いの議論に対しては、以下のように答え得るだけである。即ちこの場合は、ここに言う例え、目の見えない人が、深紅の色とトランペットの音とは同じではない、とか、光と固体性は同じではない、とか推定する際に、はなはだしい不合理を見い出すと主張すること(別種のものであると知覚できない故に、同種のものであると混同すること)とほとんど同じことなのである。もし我々が実際に、いかなる事物における能力や効果の観念、つまり、原因と結果の間のいかなる実際の結合の観念も持たないとすれば、全ての作用において効果が必要だと証明することは、ほとんど無意味であろう。そのように述べる際に我々は、自身の言葉の意味を理解していないのであり、知らずに、相互に全く異なる観念を混同しているのである。物質的対象にも非物質的対象にも、我々が全く知らない未知のいくつかの性質があるであろうことは、実際に許容できるであろう。そしてもし我々が未知の諸性質を、「能力」や「効果」と呼ぶことを望んだとしても、この世界にとってあまり重要ではないであろう。しかし、これらの未知の諸性質を意味しないで、能力や効果の用語を、我々が明白な観念を持つあるもの、かつ、その観念を適用する対象と両立しないあるものを意味するように使用するとき、そのときこそ、不明瞭と考え違いが起こり始めて、誤った哲学によって、我々は道に迷ってしまう。この誤った場合こそ、思考の決定を外部の対象に転移させ、外的対象の間に実際の明瞭な結合を想定する場合なのである。能力とか効果とかの性質は、ただ対象を考察する心にのみ属し得る性質であるからである。
 誤解のないように補足すると、自然の作用は、我々の思考や推論から独立していることを認める。それに応じて、複数の事物が相互に接近と継起の関係にあること、類似する事物が、いくつかの実例において類似の関係にあることが観察されること、即ち、全てこのことは、知性の活動から独立かつ先行していることを、前提として言及しておいたのである。しかし、この前提以上に進んで、これらの事物に能力や必然的結合があるとしても、このことは、我々が決して事物の内には観察できないことなのであり、我々は、事物を熟考する際に内的に感じることから、能力や必然的結合の観念を導くに違いないのである。そしてこのことを更に進めて、理解するのが難しくはない巧妙さによって、目下の推論を、その実例に転換させる準備はできている。
 いかなる事物も心に現れる際には、その事物に伴うことが通常見い出される事物の強い観念を直ちに心に伝える。そしてこの心の決定が、これらの事物の必然的結合を造るのである。しかし視点を変えて、事物から知覚・認識へと着目点を変えてみる。その(巧妙さを交えた)場合、(事物ではなく)印象が原因として考えられ、強い観念が結果として考えられる。そして、原因結果間の必然的結合は、一方の(印象・)観念から他方の観念へと前進すると我々が感じる、未知の心の決定ということなのである。内的知覚の間の結合原理は、外的事物の間の結合原理と同じく、全く理解不能であり、経験による以外の方法では、我々は知り得ないからである。今や、経験の性質と効果は、既に十分に吟味されて解明されてきた。経験は、心の内的構造や、事物の作用する原理への、いかなる洞察も決して与えない。けれども、ただ経験は、一方から他方へと前進するように、心を習慣づけるのである。(経験によって、理論の根拠(確信)を実際に確かめることができる)
 今こそ、これまでの推論の種々の部分を全て集めて、総合し統合することによって、目下の探求の主題をなす、原因と結果の関係の正確な定義を構成するときである。これまでの探求の順序、因果関係自体を解明する前に、因果関係からの推論を最初に考察したことは、本来の順序で探求を進めることも可能であったならば、許されることではなかったであろう。けれども、因果関係の本質は、因果関係からの推論の本質に、とても多く依存しているので、この表面上は前後が逆の一見不合理な手順で進めることを余儀なくされたのであり、因果関係の用語を定義すること、つまり、それらの意味を確定することが、正確に可能になる前に、因果関係の用語を使用することを余儀なくされたのであった。今こそ、原因と結果の正確な定義を与えることによって、この(表面上の)欠陥を訂正しよう。
 因果関係には二通りの定義を与えることができよう。それらの違いはただ、同じ対象を違う見方で見たときの現れ方の違い、即ち、因果関係を「哲学的関係」として捉えるか「自然的関係」として捉えるかの違い、言い換えると、二つの観念の比較として考えるか連合として考えるかの違いに過ぎない。一、哲学的定義「原因とは、ある事物が別の事物に先行かつ近接していて、前者に類似する全ての事物が後者に類似する全ての事物に対して、先行かつ近接の同様の関係にある場合である」。もしこの定義が、原因と性質を異にする事物から導き出されているので、不完全だとみなされるならば、次の定義に置き換えることができる。二、自然的定義「原因とは、ある事物が別の事物に先行かつ近接し、かつ、非常に強く連合しているために、前者の観念が後者の観念を造ること、即ち、前者の印象が後者のより強い観念を造ることを心に決定させる場合である」。この定義もまた、同じ理由で否認するのならば、否認する者自身がより正しい定義に置き換えるより他に、救済の見込みは無い。この定義を与えた側としては、これ以上の定義を与えることはできないと認める他はないのである。一般的に原因と結果と呼ばれている諸事物を、最大の正確さで吟味するときでも、ある事物が別の事物に先行かつ近接している一つの実例を考察してから、数個の実例の考察に視野を拡大する際に、単に、同様の事物は継起と近接の同様の関係に恒常的にあることがわかるだけなのである。更に、この恒常的連接の影響を考察するとき、そのような関係は決して推論の対象ではありえず、また、ある事物の観念からそれに通常伴う事物の観念へ、即ち、ある事物の印象から別の事物のより強い観念へと移行をなす想像を決定するのは、習慣の媒介による以外では心に決して影響を及ぼし得ないことに気づくのである。これらの意見がどんなに異常に見えようとも、この主題について、これ以上の探求や推論を重ねて悩むことは無益なことだと思われる。よって、これらの意見をもって確立された原則として、探求を終息させよう。
 この主題を去る前に、主題より若干の帰結を、哲学に非常に多く蔓延している偏見と通俗的誤りを取り除くことができる帰結を、導き出すことは全く好ましいことであろう。第一に、本学説より、全ての原因は同じ種類である、ということが知り得る。即ち、特に原因を区別する根拠はないのであり、例えば、作用因と必要因との間の区別、作用因と形相因と質量因と模型因と目的因との間の区別の根拠はないのである。というのは、能力の観念は二つの事物の恒常的連接に由来するので、恒常的連接が観察される場合は常に原因は作用因であり、恒常的連接が観察されない場合は、どんな種類の原因も決してあり得ないからである。同じ理由で、「原因」と「機会因」との間の区別も、相互に何か本質的な差異を意味することを想定するならば、否認しなければならない。もし、機会因と呼ぶものに恒常的連接が含まれるならば、それは実際は原因なのであり、含まれないのならば、全く因果関係ではなく、何らの理由や推論を生じ得ないのである。
 第二に、同様の推論の筋道は、以下のように結論するであろう。即ち、原因がただ一種類のみであるのと同じく、「必然性」もただ一種類のみであり、「物質的・物理的」必然性と「精神的・道徳的」必然性との間の常識的な区別には、本質的な根拠は何もない。このことは、先述の必然性の解明より、明らかに現れるのである。即ち、事物間の恒常的連接こそ、心の決定とともに、物質的必然性を構成するのであり、恒常的連接と心の決定の除去は、「偶然」と同じことになるのである。事物は恒常的に連接するかしないかどちらかであり、心は一事物から別事物へ進むことを決定されるかされないかのどちらかであるので、偶然と絶対的必然性との間には、何らかの中間物を許容することはできないのである。この連接や決定を弱めたとしても、必然性の本質は変更されない。なぜなら物体の作用においてでさえ、必然性の関係の異なる種類を産むことなしに、恒常性と勢いの異なる程度があるからである。
「能力」と能力の「行使」との間に、我々が多くの場合に造る区別にも、同様に根拠はない。
 第三に、先述の推論(第三節)で証明しようと努めた、存在の全ての始原への原因の必然性は直感的にも論証的にもいかなる論拠にも基づかない、ということに対して常識的には抱くことが無理のない全ての反感に、打ち勝つことが今や完全に可能になっている。前述の原因の定義の後では、常識を否定するような意見でも、奇妙に見えないであろう。哲学的定義「原因とは、ある事物が別の事物に先行かつ近接していて、前者に類似する全ての事物が後者に類似する全ての事物に対して、先行かつ近接の同様の関係にある場合である」を、もし認めるのならば、存在の全ての始原がこの定義の中のような事物を伴わなければならない絶対的または形而上学的必然性は、少しも無いことが容易に考えられる。自然的定義「原因とは、ある事物が別の事物に先行かつ近接し、かつ、想像において非常に強く連合しているために、前者の観念が後者の観念を造ること、即ち、前者の印象が後者のより強い観念を造ることを心に決定させる場合である」を、もし認めるのならば、この意見に同意することに対する困難は、いっそう少なくなるであろう。心に対するそのような影響は、それ自体では完全に驚くべきことであり理解しがたいことである。即ち、経験と観察に基づく以外では、我々はその実在性について確信し得ないのである。
 第四に、必然の結果として、観念を造り得ない事物はどんな事物でも、その存在を確信する理由を決して持ち得ない、ということを付言しよう。というのは、存在に関する全ての推論は因果性に由来し、そして、因果性に関する全ての推論は事物の経験によって得た(恒常的)連接に由来し、いかなる推論や省察にも由来しないからであり、同様の経験は諸事物の観念を与え、我々の推断から一切の神秘・謎を除去するに違いないからである。このことはとても明白であるので、もしこのことが、「物質」と「実体」に関する後述(第四部第二節・第三節)の推論に対して生じ得る種類の、いくつかの避けられない反論を除去しないのならば、我々の注意を引くことはまれであろう。言うまでもないことだが、事物の完全な知識は必要ではなく、ただ我々が存在すると確信する事物の諸性質の知識だけが必要なのである。(経験から事物の観念が与えられれば、事物の存在を確信できる)


第十五節 原因と結果を判定する規則について


 前節の学説に従えば、経験を考慮に入れることなしに単に見渡すだけで、他の事物の原因として決定し得る事物は一つとして無く、同様にして、他の事物の原因ではないと確かに決定し得る事物も一つとして無いのである。(経験に依存することから言えることは、)どんなものもいかなるものであれ産み得る(可能性は否定できない)のである。創造、消滅、運動、理性、意志、これらの全ては、相互に生じ得る。即ち、我々が想像し得るどんな事物でも、相互に生じ得る(可能性は否定できない)のである。そしてまたこのことは、既に解明した二つの原理を比較してみれば、奇妙には思えないであろう。即ち、「事物間の恒常的連接が、事物間の因果性を決定する」と[第一部第五節の]「適切に言えば、存在と非存在を除いて、相互に反対する事物は何もない」の、二原理を比較してみれば納得できよう。事物相互が反対でない場合、因果関係が全的に依存する恒常的連接を持つことを、妨げるものは何もないのである。
 従って、全ての事物は相互に原因や結果になることが可能であるので、実際に事物が原因や結果になるときを我々が知り得る、いくつかの一般的規則を確定することは適切であろう。
 一、原因と結果は時間と空間において、近接していなければならない。
 二、原因は結果に先行していなければならない。
 三、原因と結果との間には、恒常的連接がなければならない。この恒常的連接こそ主に、因果関係を構成する性質である。
 四、同様の原因は常に同様の結果を産み、同様の結果は決して同様の原因以外からは生じない。この原理は経験から由来し、我々の哲学的推論の大部分の源泉である。というのは、ある明白な実験によって何かある現象の原因や結果を発見したとき、我々は直ちに観察の結果を、同様の種類の全ての現象にまで拡張し、因果関係の最初の観念が由来する恒常的な反復を待たないからなのである。
 五、前項に関連するもう一つの原理がある。即ち、いくつかの異なる事物が同様の結果を産む場合、それらの事物間に共通にあると我々が見い出す、ある性質によって産むのでなければならない。というのは、同様の結果は同様の原因を必ず伴うので、我々は常に因果性を、類似が見い出される事実に帰するはずだからである。
 六、本項の原理も前項と同様の理由に基づいている。二つの類似する事物の結果における差異は、両者の相異なる部分より由来するのでなければならない。というのは、同様の原因は常に同様の結果を産むので、ある実例において同様の結果を産むという期待が外れたことが分かったとき、我々は、この不規則なことは原因における何らかの差異から由来する、と推断するはずだからである。
 七、ある事物が、その原因の増大または減少に伴って増大または減少するとき、その事物は、原因のいくつかの別個の部分から生じる、いくつかの別個の結果の結合から由来する、複合した結果だと考えられるべきなのである。この場合の原因の一部分の有無は、その結果の比例した部分の有無を常に伴うべきだと、ここでは想定されている。この(部分的)恒常的連接は、一方の部分が他方の部分の原因だということを、十分に証明するのである。しかしながら我々は、少しの実験からは、この種の推断を導き出さないように気をつけなければならない。例えば、ある程度の熱は、快を与える。もし、この熱を減少させた場合、快も減少する。しかし、もし、ある程度を超えて熱を増大させた場合は、同様に快も増大するであろう、ということにはならない。というのは、ある程度を超えると、快は苦痛へと悪化する、ということが分かるからである。
 八、注意すべき最後の八番目の規則は、(原因)事物が少しの時間でも結果を伴わずに十分な完全さにおいて存在する場合は、その結果の単独の原因ではないのであり、その作用と影響を促進し得る他の原理によって援助されることが必要なのである、という規則である。というのは、同様の結果は必然的に同様の原因から生じ、時間と空間において近接しているので、少しの間であっても原因と結果の分離は、その原因が不完全な原因であることを示すからである。
 以上が推論において使うのに適すると思われる「論理」の全てである。そしておそらく、たとえこの論理(を明示すること)があまり必要ではないとしても、この論理は、我々の知性の自然の諸原理によって、既に与えられていたといえよう。学者ぶった頭脳たち即ち論理学者たちは、彼らの理性と才能において、単なる一般大衆を上回る優越は示さない。哲学における判断を指示する規則と指針の長大な体系を述べている論理学者たちを、手本にする傾向を与えるような優越は示さない。この自然の全規則は、(与えられているので)案出することは非常に容易だが、応用することは極めて困難である。たとえ哲学の中で最も自然かつ単純だと思われる実験(自然)哲学でさえ、人間の判断の最大限の努力を要するのである。自然における(実際の)現象は、とても多くの様々な要因によって、複合かつ変更させられている現象以外なく、決定的に明白な地点まで到着するためには、余計なことは何でも注意深く分離しなければならず、また、最初の実験のことごとくの個別の要因が現象に本質的かどうかを、追加の実験によって調査しなければならない。これらの追加の実験もまた、最初の実験と同種の検討の余地がある。そのため、最大限の安定性が、たゆまずに研究し続けるために必要なのであり、最大限の賢明さが、非常に多くの当面の実験結果の中から正しい道を選ぶために必要なのである。自然哲学においてでさえこの実情だとすれば、精神哲学においてはどんなに多くの問題があるだろうか? 精神には、はるかにより多くの要因の複雑な状態があり、心の活動にとって不可欠である精神の意見や感情は非常に暗黙的かつ不明瞭である。そのため意見や感情は度々最も厳しい注意をも免れてしまい、その原因について説明できないだけでなく、その存在についてでさえ不明でありさえするのである(無意識)。本探求において達成した小さな成功が、以上の観察をして、成功を誇るよりもむしろ弁解する様子を広めることになりはしないかと危惧する。
 もし上記の点について安心を与え得るものがあるとすれば、それは出来るだけ実験の範囲を拡大することであろう。このため、本部の最後である次節で、人間の推論機能に加えて、動物の推論機能を検討することは適切であろう。


第十六節 動物の理性について


 明白な真実を否定することの次に嘲笑すべきことは、明白な真実を、ことさら正しいと主張することに大いに苦労することである。そして、動物が人間と同じく思考と理性を与えられていることより、明白だと思われる真実はないのである。この場合の論証はとても明らかで見てすぐわかるので、この真実を否定する者は最大の愚かさと無知を決して免れない。
 我々は我々自身、手段を目的に適合させる際に、理性と意図によって導かれていることに気づいている。つまり、自己保存、快を得ること、苦を避けること、に役立つ活動を行う際に、知らずに何気なく行わないことに気づいている。従って、他の生物が、多数の実例において、同様の活動を行い、その活動を目的に向けるのを見るとき、我々の理性と蓋然性の全原理は、有無を言わせぬ力でもって、動物に人間と同様の原因の存在を確信させるのである。この論証を詳細な列挙によって例証することは、不必要であろう。ほとんど注意なくして、論証に必要なものより以上が満たされるだろうからである。人間の活動と動物の活動との間の類似は、この点でとても完全なので、好むままに選んだ最初の動物の正に最初の活動が、本学説のための否定できない明白な論拠を与えるであろう。
 本学説は明白であるとともに役に立つ。即ち、この種の哲学の全ての学説を試し得る、一種の試金石を我々に与えてくれるのである。それは、動物の外的活動と我々自身が行う活動との類似から、我々は動物の内的活動と人間の内的活動も類似すると判断する。つまり、推論の同様の原理を一段階進ませることになり、我々人間の内的活動と動物のそれとが相互に類似する限り、活動が由来する原因もまた類似するはずである、と推断させるであろう。従って、人間と動物に共通する心の作用を説明するために、何らかの仮説を提出するときには、両者に同じ原理を適用しなければならないのである。そして、正しい仮説は全て、この試験に耐えるであろうから、誤った仮説はこの試験に決して耐え得ないであろうと、思い切って断言しよう。哲学者たちが心の活動について説明するために用いてきた旧来の学説の共通の欠陥は、単に動物の能力を上回るだけでなく人間の子どもや一般人の能力でさえ上回るような、思考についての非常に細かい区別や微細な点を仮定する、ということなのである。この仮定にもかかわらず、動物や子どもや一般の人は、最も完成した才能と知性を持つ人々と同じ感情と愛情を感じることができるのである。いかなる学説についても、非常に煩瑣な区別は、真実の単純さと対極であるので、虚偽の大事な証拠なのである。
 それ故、知性の本性に関する本書の学説を、この決定的な試験にかけて、人類の推論と同じく動物の推論も等しく説明するかどうかを見よう。
 ここでは、動物の日常の性質の活動つまり普通の能力の水準だと見える活動と、動物自身の維持とその種の繁殖のために時に見い出す非常に驚くべき賢明さの実例中の活動との間に、区別を設けるべきである。例えば、犬が火や絶壁を避けたり、見知らぬ人に寄り付かずに主人になつくことは、一番目の種類の実例を与える。次に、鳥が巣の場所と材料を注意深くかつ正確に選ぶこと、そして、化学者が最も細心の注意を要する計画において可能な事前のあらゆる用心でもって、適した季節に十分な時間をかけて卵を暖めることは、二番目の種類の生き生きとした実例を与えるのである。
 一番目の活動については、人間本性において現れる推論と、本来異ならない、即ち、異なる原理には基づかない推論から生ずる、と断言しよう。そこで第一に必要なことは、一番目の活動の判断の基礎となるべき、感覚や記憶に直接現れる印象が存在することである。例えば犬は、飼い主の怒りを口調から推測し、下される処罰を予感する。また、ある感覚が嗅覚に作用することにより、獲物が遠くないところに居ると判断するのである。
 第二に不可欠なことは、目下の印象から導く推論が経験に基づくこと、つまり、過去の実例における諸対象の結合の観察に基づくことである。飼い主が与える経験を変えるのに従って、犬は推論を変えるのである。例えば、しばらくの間、ある合図や動作に続いて犬をたたくことを続けた後に、同じことを別の合図に変えて行ったとする。すると、直近の経験(合図の変化)に応じて、犬は異なる推断を連続的にするであろう。
 さて、あらゆる哲学者に試験を受けさせよう。「確信」という心の活動を説明するように努めさせよう。想像における習慣の影響に頼らない確信が、由来する原理を説明させよう。そしてその仮説を、ヒトに適用するように動物にも等しく適用してみよう。もし、この試験を無事終えたならば、その見解を受け入れると約束しよう。しかし同時に、もし本書の学説がこれらの条件の全てに答え得る唯一無二の学説であるのならば、完全に納得のゆく説得力のある学説として受け入れられることを、公正な状態として要求しよう。然るに、唯一の学説ということは、ほとんど推論なしでも明白なのである。動物は確かに、諸対象の間に少しも実質的な結合を、決して知覚はしない。従って、経験によってこそ、動物は、ある対象から別の対象へと推論する。動物は、未だ経験がなかった対象が経験がある対象に類似する、という一般的な推論の結果を、決して論証によっては、いかなる論証によっても、造り得ないのである。従って、ただ習慣によってのみ、経験は動物に作用するのである。以上のことは全て、人間については、十分に明白であった。動物についても、間違いの疑念は少しも有り得ないのである。このことは本書の学説の、強力な証拠、より適切に言えば、有無を言わせぬ証明、であると認めなければならない。
(最後に、二番目の活動について考察しよう。)我々を現象に甘んじさせる習慣の力を、これほど如実に示すことは無いのであるが、即ち、人は自身の理性の働きにことさら驚きはしないけれども、同時に、動物の「本能」には感嘆する。そして、それを説明することに困難を見い出すが、その理由は、単に動物の本能を人間の理性と全く同じ原理に還元し得ないために過ぎない。適切にこの問題を考察すると、理性は人間の心における驚嘆すべき説明できない本能に他ならないのである。人間の本能である理性は、観念の特定の順序に沿って思考を進めて、観念の特定の状況と関係に従って、特定の性質を観念に与えるのである。この本能は、正に過去の観察と経験から生じるのであるが、なぜ過去の経験と観察がこのような効果を産むのか? という疑問に対しては、ただ自然だけが産み得たという以外に、誰も究極の理由を与え得ないのである。自然は確かに、習慣より生じ得ることは何でも産み得る。否、習慣は自然の原理の一つにしか過ぎず、その起源である自然より全ての力は由来するのである。
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第四部 懐疑的哲学とその他の哲学について



第一節 理性に関する懐疑論について


 全ての論証的学問においては、規則は確実で誤りない。しかし、それらの諸規則を実際に適用・応用する際に、我々の可誤的かつ不確実な諸機能は、往々にして規則の確実性より外れがちで、ともすれば誤りに陥ってしまうことになる。従って我々は、あらゆる推論において、最初の判断や確信についての検査や統制として、追加の判断を形成しなければならない。即ち、(確実性に到達するには、)我々の知性が思い違いをさせた実例と、知性の言明が正しく真実であった実例とを比較して、全ての実例の一種の発達史を理解するように、視野を拡大しなければならないのである。我々の論証的理性は、一種の原因として、真実が当然の結果であるような原因として考えられるはずである。しかし、理性を実際に適用する際には、理性以外の原因の乱入と我々の精神の能力の変わりやすさによって、当然の確実性は、頻繁に妨げられるに違いないのである。このように実際のところは、全ての論証的知識は蓋然的知識に、確実性の点で退歩するのである。そして、我々の知性の正確性や可誤性の経験に従って、また当の問題の単純さや複雑さに従って、蓋然的知識の確実性は、高くもなり低くもなるのである。
 どんな優れた代数学者や数学者といえども、彼らの専門の学問上の発見について、直ちに真実の完全な確信を与えるほど熟練しているわけではない。つまり、最初はどんな発見も、単に蓋然的知識として考えられるのである。繰り返し証明を確認するにつれても確信は増していくが、他の専門学者たちの賛成によって、よりいっそう確信は増すのである。そして、学界の普遍的な同意と賞賛によって、最高度の完全な確信に至るのである。さて、明らかに、この確信の漸進的な増加は、新たな蓋然性の付加に他ならず、従って、過去の経験と観察に応じて、原因と結果の恒常的連接に由来することは明白なのである。
 商人たちは、金銭の相当に長いまたは重要な計算においては、保証のために、計算の全く誤ることのない確実性をめったに信用しない。けれども、会計の人工的な体系(複式簿記)によって、計算する人の技量や技能に由来する蓋然性を、上回る蓋然性を生み出すのである。というのは、計算は明らかに、それ自体が蓋然性の程度であり、計算する人の技能と計算の長さの程度に応じて変動し不確実だからである。さて、長い計算における確信が蓋然性を上回るとは、誰も主張しないであろうから、完全な保証を持ち得る、計算に関する命題は稀である、と問題なく主張できよう。というのは、計算の長さを段階的に縮小させることによって、最も長い加算の連鎖も、二つの単独の数の加算から構成し得る、最も単純な問題に換算することは、容易に可能だからである。そしてこの想定において、論証的知識と蓋然的知識の正確な境界を示すこと、つまり、一方が終わり他方が始まる境界である詳細な数を見い出すことは、実行不可能だとわかるであろう。しかし、論証的知識と蓋然的知識は相反する一致しない性質であり、感じないままに互いに混ざり合い得ない。つまり、両者が区別されないということは、どちらかが完全に現れ他方が全く現れない、ということに違いない。さらにもし、二つの単独の数の加算が確実であるならば、全ての加算は確実であり、従って、全体がその部分の全てと異なり得ない限り、全体や合計和も確実である(実際の計算は、そうではない)。算数学は確実である、と既に述べた(第三部第一節)。しかし前言を再考し、実際の計算に適用する際には、その他の推論と同様に(人間の機能の不完全さによって)、確実性を縮小すべきであり、即ち、論証的知識から蓋然的知識に、確実性の点で退歩するのである。
 従って、全ての論証的知識は(適用する際に)蓋然的知識に帰着し、最終的には日常生活で使用する確証と同じ本質になるので、以下では、蓋然的推論を吟味し、その成り立つ根拠を確かめなければならない。
 蓋然的知識について造り得る全ての判断においては、論証的知識と同様に、我々は常に対象の本質に由来する最初の判断を、知性の本質に由来する別の判断によって訂正するのが当然である。もちろん、長い経験に裏付けられた堅固な判断能力を持った達人は、無知な者や学習できない者に比べて、大きい信頼がその所信にあるべきであり、また通例あるが、同じく我々の所感にも、自らの理性と経験の段階に比例して、我々自身に対してでさえ、権威の異なる段階があるのである。最長の経験を経てきた最良の判断能力を持った人でも、この権威は決して完全ではない。なぜなら、いかに優れた人であっても、過去には多くの試行錯誤を経ているに違いなく、未来においても依然として同様の試行錯誤を免れてはいないからである。それではここに、最初の蓋然的知識を訂正かつ統制し、その正しい基準と割合を確定するために、新しい種類の蓋然的知識が生じる。論証的知識が実際には蓋然的知識の統制を条件とするのと同様に、蓋然的知識も、心の内省的活動によって、新たな訂正を免れない。心の中では、知性の本質、つまり、(対象の本質に由来する)最初の蓋然的知識に基づく推論が、更に知性の対象となるのである。
 このように、あらゆる蓋然的知識において、蓋然的知識に固有の根源的不確実性の他にも、判断機能の弱点に由来する新たな不確実性が見い出された。そして、これら二つの不確実性を共に調整してきた際、我々の理性によって、我々の諸機能の真実性と正確性を考える判断における誤りの可能性に由来する、新たな(三番目の)疑いを我々は加えざるを得ないのである。この疑いは直ちに発生し、もし我々の理性を厳密に追求するならば、判断の決定をする際に避け得ない。この決定は、蓋然的知識にのみ基づく先行する判断にとっては一見好都合であるだろうけれども、しかしながら、最初の蓋然的知識の確証もまた、さらに一層弱められるに違いないのであり、三番目の判断も同様の種類の四番目の疑いによって弱められるに違いなく、以下「無限に」続くのである。つまり、たとえ最初の蓋然的知識がどれほど大きくとも、そして各段で追加される不確実さによる蓋然性の減少がどれほど小さくとも、最後には、根源的な蓋然的知識は何も残らないことになるのである。いかなる有限の対象も、「無限に」繰り返す減少の下では存続し得ず、たとえ人間が想像し得る限りの膨大な量であっても、無限に繰り返す減少の下では無へ切り詰められるに違いない。最初の確信がどれほど強くとも、その勢いと活気を多少とも減少させる非常に多くの新たな検査を経ることによって、必ず消滅するに違いないのである。判断につきものの可誤性を省察するとき、単に推論の対象を考察するときよりも(判断を重ねたときの方が)、自らの所信に信頼を置けないことになる。さらに一層進めて、精密な検査を加えていくとき、諸機能を使った継続的な判断の各々に対して、論理の全規則は、継続的な減少を、つまり最後には、確信と確証の完全な消滅を命ずることになるのである。
 もしここで、繰り返し教え込むように努めて述べた上記の議論に心底から同意しているのかどうか、即ち、全ては不確かであり、我々の判断は「どんな」ものごとにも「何ら」真偽の基準を備えてはいないと考える懐疑論者に組するのかどうかと尋ねるのならば、その質問は全く不必要であり、誰も決して心底から常にその意見に同意したことはなかった、と答えるであろう。自然は、絶対的かつ制御できない必然性によって、呼吸や感じることと同様に、判断することを我々に決定させてきた。我々は目覚めている限り、考えることを妨げ得ないのと同様に、あるいは、白昼に周囲の諸物体に目を向けるときに見ることを妨げ得ないのと同様に、目下の印象を伴った、ある諸事物の習慣的な結合によって、その諸事物をより強く十分な見方で見ることを控え得ないのである。上記の「絶対的な」懐疑主義の揚げ足取りに過ぎないことを論破するために苦労したことがある者は皆、実のところ対立する相手がいないのに論争したことになり、自然が先行して心に刻み込んで不可避にした機能を、議論によって確立しようと努めたことになるのである。
 それならば、懐疑主義の非現実的な学派の議論を、非常に入念に示したことの意図は、ひとえに、読者が本書の仮説の真実に感づくようにさせるためであった。即ち、「原因と結果に関する全ての推論は、習慣だけに由来する。そして、確信は、正確には、我々の諸性質の思考する部分の活動よりも、まず、知覚する部分の活動なのである。」ここに証明したことは、まさにこの仮説と同じ原理であり、その原理は、どんな主題に対しても決定を構成させ、我々の才能と能力の、つまり、主題を調査したときの我々の心の状況の考察によって、その決定を訂正させる。あえて言えば、これらの同様の原理は、極端に進めれば、つまり、あらゆる新たな内省的判断に適用すれば、根源的確証の継続的減少によって、最後には無に切り詰められ、全ての確信と所信の完全な破滅が必然だと証明したのである。従って、もし確信が、少しも想念の特有な様式なしに、つまり、勢いと活気の増加なしに、単に思考の活動だとするのならば、それ自身確実に破滅するに違いなく、全ての場合において、判断の完全な停止に終わるに違いないのである。しかし、経験は、試す価値があると考える者は誰でも、十分に納得させるであろうから、前述の議論には論理的な誤りは少しも無いにもかかわらず、人は依然として、確信し、思考し、いつものとおりに推論し続ける。そして、推論と確信とは、ある感じ・気持ち、つまり、想念の特有な様式である、と問題なく結論でき、即ちそれは、単なる観念や内省では破滅させることは不可能なのである。
 しかしここで、おそらく、本書の仮説に基づいてさえ、どのようにして上述の議論が判断の完全な停止を引き起こさないのか? 即ち、いったいどのようにして心は何かの主題において確信の程度を持ち続けるのか? と尋ねられるかもしれない。というのは、新たな蓋然性を繰り返すことによって根源的確証を不断に減少させることは、思考の原理にせよ感じ・気持ちの原理にせよ、まさに同じ原理に基づいているので、どちらの場合でも最初の判断を同様に破滅させるべきことが不可避のようであるから、対立するものによって、思考に対立するものでも感じ・気持ちに対立するものでも、心を完全な不確実性に陥らせるからである。(更に詳説すると、)ある問題が提出されたとして、(その問題に関する)感覚と記憶の数々の印象を思い巡らして、それらの印象から、それらの印象に通常結合されている事物へ思考を移した後、この事物について他の事物よりも、より強くより説得力のある想念を感じる、と仮定する。この強い想念は、最初の決定を造る。更に、判断それ自身を検討し、その判断が時に正しく時に誤っていることを経験により観察した後では、あるときは真実へ導き、またあるときは錯誤へ導く、相反する原理や原因によって統制されるように判断を考察し、これらの相反する原因を比較する、と仮定すると、新たな蓋然性によって、最初の決定の確信を減少させることになるのである。この新たな蓋然性は、前述のように同様の繰り返す減少を免れず、以下「無限に」続くのである。従って、やはり尋ねられる。「哲学においても日常生活においても、どちらの目的にとっても十分な確信の程度は、いったいどのようにして、とにかく保持されるのであろうか。」
 解答は、最初の決定に続く即ち二番目の決定に関してである。二番目の決定では、心の活動は不自然かつ人為的になり、その観念はぼんやりとしてはっきりしないので、判断の原理、つまり、相反する原因の比較は、まさに最初においては同一であるにもかかわらず、(二番目以降の)想像における相反する原因の影響、つまり、思考に基づく活気の増減は、決して等しくはないのである。心がその対象に容易に手早く届かない場合、同じ原理といえども、観念のより自然な想念におけるようには、同じ影響を持たない。つまり想像は、心の通常の判断と所信に由来する程度の感じ・気持ちでは、感じはしないのである。(二番目以降では、)心の注意は緊張し、その状態は不安になる。つまり気分は、自然の進路を逸脱し、通常の通路を流動するときのようには、少なくとも同じ程度では、同じ法則によっても動作を決定されないのである。
 もし我々が同様の実例を欲するのならば、見つけることはそれほど困難ではないであろう。例えば、形而上学の目下の主題が十分に実例を与えるであろう。形而上学において、歴史や政治(などの実学)に関する推論においては説得力があると思われていたのと同じ論拠であっても、たとえその論拠が完璧に理解されていたとしても、形而上学の難解な主題においては、ほとんどあるいは全く影響が無いのである。しかもその理由は、理解するためには、思考の努力と骨折りが必要であり、この思考の奮闘こそ、確信が依存する感情の働きを妨げるからなのである。この実例は、その他の数々の主題においても同様である。想像の緊張・重圧は常に、感情・気持ちの通常の流動を妨げるのである。例えば、悲劇詩人が悲劇の主人公を、非常に利口で災難に合っても機知に富んでいるように描写すると、悲劇的情感を決して起させないであろう。魂の感情は、どんな巧みな推論や省察をも妨げるのと同様に、心の理知的活動は、等しく感情の発露を妨げ白けさせてしまう。心は体と同様に、勢いと活気の明確に決まった範囲を与えられていると考えられ、全ての勢いと活気を残さず費やさないことには、一つの活動に決して専念できない。このことは、同時に行う活動どうしが全く異なる性質の場合、より明らかに当てはまる。なぜならその場合、心の勢いは(自然の進路を)逸脱するだけでなく、その性質さえも変更されるからであり、そのため、一つの活動から別種の活動へ急に推移することを、さらに同時に両方の活動を行うことを、不可能にするのである。従って当然だが、微細な推論に由来する確信は、想像がその推論に入り込んで隅々まで想う奮闘に比例して、減少するのである。確信とは生き生きとした強い想念であるが、自然かつ平易なものごとに基づかない場合は、決して完全では在り得ないのである。
 以上が、疑問に対する真実の様相だと考える。従って、懐疑論者たちの論点の全てを、全く調査や吟味しないで直ちに否認するために、迅速に頭から無視するような流儀には賛成できないのである。懐疑論を無視する者たち曰く、もし懐疑的な推論が有力ならば、理性に力と権威がありえることの証明であるし、もし無力ならば、知性の全推論を無効にすることは決してできない、と。この論証は、正しくない。なぜなら、懐疑的推論が存在し得るならば、その巧妙さによって論破されないならば、心の継続する傾向に従って、有力にも無力にもなって継続するからである。理性は最初は、王位を所持し、法則を規定し、絶対的な支配力と権威で原則を強いるように見える。従って、理性の敵対者は、理性の保護の下に避難することを余儀なくされ、理性の誤りと愚行を証明するために合理的な議論を利用することによって、例えて言えば、理性の飾りと印章を用いて、免許状を造るのである。この免許状は、最初はその由来する元の理性の当面の直接的な権威に比例した権威を持つ。けれども、次第に理性と相いれないと思われるようになり、理性の支配力の勢いと免許状自身の力の勢いを同時に徐々に減らしていく。そして、規則的かつ正当な勢いの減少によって、ついに最後には、両方とも無へと消滅し去るのである。懐疑的理性も独断的理性も、作用と性向においては正反対ではあるが、同種の理性でもある。そのため、独断的理性が有力な場合、交戦する懐疑的理性も同等の勢いで敵対するのである。そして、両者の勢いが最初は等しく、両者が存在する限り依然として拮抗するならば、敵対者が同程度の勢いを失うことなしには、一方が論争において勢いを失うことはないのである。従って、自然が時に懐疑的な全議論の勢いを圧倒して、知性に対して相当な影響を持たないように保つことは、適切なことである。なぜなら、もし我々が、懐疑論の自滅を一途に当てにするのならば、懐疑論が先に全確信を破滅させ、人間の理性を全て論破するまでは、決して自滅はあり得ないからである。


第二節 感覚に関する懐疑論について


 このように懐疑論者は、たとえ理性によっては理性を正しいと主張し得ないと断言するにもかかわらず、依然として推論し確信し続ける。同様の決まりに従って、物体の存在に関する原理の真実性を主張する哲学の論証を称し得ないにもかかわらず、その原理に同意するに違いない。自然はこのことについて選択することを許さず、疑いもなく、あまりにも重要・重大なことなので、我々の不確かな推論や推測には任せられないことだとみなすのである。「物体の存在を確信させるように導く原因は何であるか?」と尋ねることは申し分なくできよう。しかし、「物体は在るのか無いのか? 存在するのか存在しないのか?」と尋ねても無駄である。物体の存在は、全ての推論において当然のことと思わなければならない点なのである。
 それでは本節の探求の主題は、物体の存在を確信させるように導く「原因」についてである。この主題について推論するにあたり、ある区別、最初は余計なことと見えるだろうが、以下の論考の完全な理解に、とても多く寄与するであろう区別から始めよう。その区別とは、通常は混合して区別されていない以下の二つの論点の区別であり、我々は別々に吟味しなければならない。即ち、一、なぜ我々は、感覚に現れていないときでさえ、事物が「継続的に」存在しているとするのか。二、なぜ我々は、心や知覚から「別個に」事物が存在すると想定するのか。二番目の論点のもとでは、位置と関係の両方を含む。つまり、「外的」位置と存在や作用の「独立した」関係を含む。これらの二つの論点、物体の継続的存在の論点と別個な存在の論点は、緊密に結合して区別されない。というのは、もし感覚の対象が、たとえ知覚されていないときでさえも存在し続けるのであれば、それらの存在は、当然に知覚から独立かつ別個のものであるからである。「逆に、」もしそれらの存在が、知覚から独立かつ別個なものであるべきだとすれば、たとえ知覚されていないときであっても、存在し続けるはずだからである。しかしこのように、一方の論点の解決が他方の論点を解決するにもかかわらず、解決をもたらす元であるところの人間の本質の諸原理を、より容易に見い出し得るために、我々は一致してこの論点の区別を進めよう。そして、物体の「継続的」存在の所信、あるいは、「別個な」存在の所信を産むのは、「感覚」なのか「理性」なのか「想像」なのか考察しよう。これこそ、目下の主題についての明瞭な最良の論点に他ならないのである。というのは、外的存在の観念については、我々の知覚と異なる特別な何かとされた場合[第二部第六節]、その不合理は既に示したからである。
「感覚」から始めよう。対象が感覚にもはや現れなくなった後では、明らかに感覚の機能は、対象の「継続的」存在の観念を起こすことはできない。というのは、それは明確に矛盾であり、感覚が一切の作用の挙動をやめた後でさえ、感覚が作用し続けることを想定するからである。従って、感覚の機能が、もし目下の場合において何らかの影響を持つとすれば、継続的な存在の所信ではなく、別個の存在の所信を産むに違いない。そしてそのためには、感覚の印象は、(対象の)心象や再現として現れるか、印象自身が正に別個かつ外部の存在として現れなければならない。
 しかし、我々の感覚が、その印象を、何か「別個」つまり「独立」し、かつ、「外部の」ものの心象としては現さない、ということは明白である。なぜなら、感覚は我々に、単独の知覚を伝えるだけであり、決して知覚を超えたものを暗示するものを少しも与えないからである。単独の知覚は、理性あるいは想像の何らかの推論によらないでは、決して二重(知覚と対象)の存在の観念を産み得ない。心に直接に現れるもの以上を心が見るとき、その推断は決して感覚を理由にし得ない。心が単独の知覚から(理性あるいは想像によって)二重の存在を推論するとき、即ち、知覚と対象の間に類似関係や因果関係を想定するとき、心は直接に現れるもの以上を確かに見るのである。
 従って、もし我々の感覚が何らかの別個の存在の観念を暗示するとするならば、我々の感覚は、誤信や幻覚のようなものによって、まさに別個の存在であるような印象を伝えるに違いない。この点については、全ての感覚は心によって、実際に存在するものとして感じられる、と観察できる。そのため、それ自身別個の対象として現れるのか、単に印象として現れるのか、という疑問を抱くとき、その困難は、感覚の本質についてではなく、感覚の関係や位置に関してのことだと、言えよう。それでは、もし感覚が、外部、かつ、それ自身独立したものとして印象に現れるのならば、対象と我々自身の両者とも、我々の感覚に明白であるに違いなく、さもなければ、感覚の機能によって両者を比較することはできない。それなら問題は、「我々自身」が、どの程度まで我々の感覚の対象であるのかである。
 確かに、自我同一性、つまり、人格を構成する結合原理の性質に関する問題ほど難解な問題は、哲学においてない。我々の感覚だけによって、この難問を解決することは決してできない。この難問に十分な解答を与えるには、最も難解な形而上学に頼らなければならない(第六節)。日常生活において、自己と人格の観念は、決してあまり整理されてないし確定的でもないことは明白である。従って、感覚が我々自身と外部の対象とを常に区別し得る、と想うことは不合理なことなのである。
 これに加えて、あらゆる印象――外部および内部、感情、愛情、感覚、快苦――などの印象は、元々は同じ基盤の上にあるのである。つまり、我々は諸々の印象の間に他との差異を観察できるけれども、それらの全ては、実のところは、印象すなわち知覚として現れるのである。実際に、もし我々が問題を正しく考えるならば、この問題は異なる在り方ではあり得ない。即ち、我々の感覚は、印象の本質について思い違いをし得ないのと同様に、位置や関係についても思い違いをし得ない、と考えられる。というのは、全ての心の活動と感覚は、意識によって我々に知られるので、必然的に、全ての心の活動と感覚は、徹頭徹尾、意識に在るように現れ、かつ、意識に現れるように在るに違いないからである。心に浮かぶ全ての事物は「実際は」知覚であり、あらゆる事物は、知覚に「感じること」と異なるように現れることは不可能である(知覚の不可疑性)。知覚を疑うのならば、最も根本的な意識の場面でさえ、思い違いが在り得ることになってしまうのである。
 これ以上、我々の感覚が思い違いをし得るかどうか、我々自身と異なるような知覚、我々の「外部」かつ「独立した」知覚が現れるかどうか検討することに時間を浪費しないために、我々の感覚・知覚が、実際にそうなのかどうか、この誤りが直接に感覚から由来するのか、あるいは何か他の原因から由来するのかどうかを考察しよう。
「外部」存在に関する問題から始めよう。おそらく、以下のように言われるであろう。即ち、思考する実体(精神)の同一性の形而上学的問題はさておき、我々自身の体は、明らかに我々に属している。そして、いくつかの印象は、体より外側にあるように現れるので、我々は我々自身より外側に印象があるように想定するのである、と。例えば、目下著述しているこの紙は、私の手の外側にある。机は紙の外側にある。部屋の壁は机の外側にある。そして、窓に視線を向ければ、窓外に広がる景色と部屋の外側の建物を知覚する。以上の例から言えば、体の外部の存在を考えるために、感覚以外に他の機能は必要ではない、と推論されよう。けれども、この推論を妨げるためには、ただ次の三つの考察をするだけで十分なのである。「第一」適切に言えば、我々は自分の手足や体の一部を注視するとき、体を知覚するのではなく、感覚によって心に浮かぶ一定の印象を知覚するのである。そのため、それらの印象、言い換えると、印象の対象に、実際に身体的な存在を帰することは、目下検討している心の作用と同じく、説明し難い心の作用なのである。「第二」音、味、匂い、は通常は、心によって連続し独立した性質だと思われているけれども、延長における存在が少しもあるようには見えず、従って、体の外部に位置されるような感覚には見得ない。これらの感覚に場所を帰する理由は、後[第五節]で考察されよう。「第三」最も合理的な哲学者たちによって認められているように、視覚でさえ、言わば直接には、即ち、ある程度の推論や経験なしには、我々に距離や外部性を知らせないのである。
 我々自身に関する知覚の「独立性」については、感覚の対象には決してなり得ない。それについて我々が造るどんな見解も、経験や観察に由来するに違いないのである。そして後に見るように、経験に基づく結論は、知覚の独立性の学説に少しも賛成しないのである。一方、以下のことが言えよう。即ち、実際の別個の存在に言及する際、我々は通常、空間における外的位置よりも対象の独立性に注目していて、我々が我々自身において意識している絶え間ない激変から独立して、その「存在」が中断されないとき、我々は対象には十分な実在性がある、と考える。
 このように感覚について言及してきたことをまとめよう。感覚は継続した存在の想念を少しも与えない。なぜなら感覚は、感覚が実際に作用する範囲を超えて作用することはできないからである。感覚は別個の存在の所信を少しも産まない。なぜなら感覚は、別個の存在を再現されたものとしても原物としても心に提供し得ないからである。別個の存在を再現されたものとして提供するためには、感覚は対象と心象の両方とも提供しなければならない(不可能)。別個の存在を原物として提供するためには、感覚は虚偽を伝えなければならない。そしてこの虚偽は関係と位置にあるに違いない。そのためには、感覚は対象と我々自身を比較できなければならない(不可能)。仮にもし比較できる場合でも、感覚は我々をあざむかないし、あざむき得ない。従って、我々は確かに、継続存在の所信と別個存在の所信は、決して感覚に由来しない、と結論できよう。
 以上を確証するために、感覚によって伝えられる以下の三つの異なる種類の印象がある、と言えよう。第一に、物体の形状、容積、運動、固性といった印象がある。第二に、色、味、匂い、音、冷熱といった印象がある。第三に、快苦の印象があり、これは身体への対象の適用に由来する。例えば、刀で肉体を切ることなどのような場合である。哲学者たちも一般大衆も、第一の印象に別個の継続した存在があると想定する(本書は想定しない)。一般大衆だけは、第二の印象にも同様の地位があると考える。再び両者とも一致して、第三の印象は単に知覚であり、従って、中断される独立していない存在だと考える。
 さて、明らかに、哲学者たちの見解がどうであれ、色、音、冷熱、は感覚に現れる限り、運動や固性と同じ様式で存在する。第一と第二の印象を区別する違いは、この点で知覚のみに由来しない(知覚だけでは区別できない)。一般の人々の、第二の印象の諸性質に別個の継続した存在を帰する先入観は非常に強力なので、近代哲学者たちによって正反対の見解が提出されたとき、人々は感じと経験に基づいて、その見解をほとんど論破できると想い、まさしく人々の感覚は第一と第二の印象を区別するこの哲学に異議を唱えるのである。更に、明らかに、色、音、等々は、刀で切られることに由来する苦しみや、たき火で暖をとる快さと根元的に同様の地位にある。第二と第三の印象の間の違いは、明らかに知覚や理性には基づかず、想像に基づいているのである。というのは、両者とも物体の部分の特定の形状や運動に由来する知覚に他ならない、と認められるからであり、いったい両者の違いは、どの点にどのようにして存し得るのであろうか?(両者には違いが認められない。)それでは大筋において、感覚が判定者である限り、全ての知覚は、知覚の存在様式において同様である、と結論できよう。
 音や色のこの実例に関して、さらに以下のように言えよう。即ち、我々は全く「理性」を行使することなしに、つまり、何らかの哲学的原理によって我々の所信を検討することなしに、別個の継続した存在が対象に属すると考えることができる。そして実際、哲学者たちが心から独立した対象の確信を確立するために、どんなに納得させる論証をも提示し得ると空想できるにせよ、明らかにその論証はほとんど全く知られていないし、その論証によって、子供や農民つまり人類の大多数が、(心に依存しない)対象を何らかの印象に帰したり、他の印象には帰せなかったり、と誘導することはないのである。従って我々は、この点について一般大衆が造る全結論は、哲学によって確証された結論と全く正反対であることを、見い出す。というのは哲学は、心に現れる全てのものは知覚に他ならず、中断し、心に依存する、ということを我々に知らせるのである。これに反して一般大衆は、知覚と対象とを混同し、別個の継続した存在を、正に触れたり見たりするものに帰するのである。これに以下の点を加えよう。即ち、知覚と対象を混同する限り、一方の存在から他方の存在を決して推論できない。つまり、因果関係に基づいて、いかなる論証をも造り得ないのである。しかし因果関係こそは、事実を我々に保証し得る唯一のことなのである。また一方、対象から知覚を区別した後でさえ、まもなく本節中で明らかになるように、一方の存在から他方の存在を推論することは、やはり不可能なのである。だから大筋において我々の理性は、いかなる仮定においても、物体の継続した別個の存在の確信を与えないし、与えることは不可能である。その所信は、もっぱら「想像」に帰せられるに違いない。今や想像を、我々の探求の主題にすべきである。
 全ての印象は内的かつ消滅する存在であり、印象内の別個かつ継続した存在の想念は印象の諸性質と想像の諸性質の同時作用に由来するべく現れるので、また、この想念は諸性質の全てまでは拡張しないので、その想念は、印象に特有のある一定の諸性質に由来するに違いないのである。従って、その特有の諸性質は、我々が別個かつ継続した存在を帰する印象と、内的かつ消滅する存在だと考える印象とを比較することによって、見い出すことは容易であろう。
 その場合には、以下のように言えよう。即ち、現実性や継続した存在が印象に起因すると我々が考えることは、通常想定されるような、特定の印象の不随意性が理由でもないし、特定の印象の優勢な勢いと激しさが理由でもない。そのことは、随意な印象や弱々しい印象をも理由として拒絶しないのである。というのは、明らかに、快苦や情熱や感情は、知覚を超えていかなる存在もあるようには決して想定しないが、著しい激しさで作用し、等しく不随意である。これは、永続する存在を想定する、形状や延長や色や音の印象と同様なのである。例えば、炎の暖かさは、適度なときに炎の中に存在すると想定される。しかし、炎に近づき過ぎたことによる苦痛は、(不随意かつ激しいが、)知覚以外に何らの存在も与えないのである。
 そういうわけで、通常想定される見解は否認されたので、我々は別の仮説を探求しなければならない。別個かつ継続した存在を印象に帰するようにさせる、印象における特有の性質を見い出し得る仮説を探求しなければならない。
 少し考察すると分かるように、我々が継続した存在を帰する対象は全て、知覚に依存した存在の印象から区別される特有の「恒常性」を有している。例えば、現在目の前にある山々や家々や木々は、常に同一の秩序で現れている。つまり、目を閉じたり頭を横に向けたりして視界からその光景をなくしたときでも、目を開けたり頭を向き直したりすると、少しも変更ない光景がすみやかに視界に戻ることを見い出す。また、寝台や机や本や書類も、同一の一定の様式で現れていて、見ることや知覚することの中断によっては変更されない。このことは、外的存在があると想定される対象を支持する全ての印象に当てはまる。その他の印象には、勢いの強弱や、随意不随意にかかわらず、当てはまらないのである。
 しかしながら、この恒常性は、とても重要な例外を認めないほど完璧ではない。物体は、その位置や性質をしばしば変化して、知覚を少し欠いたり中断したりすると、知りうるのは困難になる場合がある。しかしこの場合も言い得るのだが、たとえ変化しても物体はある「一貫性」を保持し、相互に規則的な依存関係がある。この一貫性は、因果性に基づくある種の推論の基盤であり、物体の継続した存在の所信を産む。例えば、一時間ほど留守にした後に部屋に戻ったとき、暖炉の薪の炎は一時間前と同じ状態にはない。しかし一方では、在不在、遠近にかかわらず、同様の時間に同様の変化の発生を知ることを、他の実例中にも見慣れている。従って、この変化における一貫性は、恒常性と同じく、外的対象の特性の一つなのである。
 以上、物体の継続した存在の所信が、特定の印象の「恒常性」と「一貫性」に依存していることを見い出してきた。今や、これらの性質が、非常に顕著な所信を引き起こす様式について考察を進めよう。まず、一貫性から始めよう。内的印象は、儚く過ぎ去り消滅するものだと考えられるけれども、その現れにおいては、ある一貫性や規則性もまたある。しかしながら、その一貫性や規則性は、物体について見い出すものとは多少とも異なる性質である、と言えよう。経験によって、(内的印象である)諸感情は相互に結合し相互に依存関係にあることが見い出される。しかし、過去に経験したと同じ結合や依存関係を保持するために、諸感情が知覚されてないときでも、存在かつ作用していると、想定することが必須である場合はない。外的対象の関係については、この場合は、同様ではないのである。外的対象は継続した存在を必要とし、さもなければ、その作用の規則性を大いに失うのである。例えば、今ここに私は部屋の中に着席し暖炉の炎に面している。私の感覚を刺激する全対象は、私の周りの数ヤードの中に含まれている。もっとも、記憶は多くの対象の存在を、私に告げ知らせる。しかし一方、記憶の情報は、対象の過去存在を超えて広がることはない。つまり、感覚も記憶も、対象の存在の継続への証拠を少しも与えないのである。従って、このように私は着席し、これらの思考を巡らしているとき、例えば突然、ドアが開くときの蝶番がきしむ音が聞こえて、少し遅れて門番が私の前に進んで来るのを見るとする。このことは、多くの新たな内省と推論の機会を与える。第一に、私は今までに決して、この物音がドアの開閉以外から生じ得たことを観察したことはなかった。従って、目下の現象は、部屋の反対側にあったと記憶しているドアが依然として存在するのでなければ、過去の全記憶と矛盾する、と推断する。更に、人体が重力という空気中に上昇するのを妨げる性質を所有していることに私は常に気づいていて、私が記憶している階段が私の不在によって消滅しないのでなければ(消滅すると)、門番は部屋に到着するために空気中を上昇しなければならなくなる(ゆえに階段は存在すると推断する)。しかし、これで全てではない。例えば、私は手紙を受け取り開封すると、筆跡と署名によって、二百リーグ(六百マイル)離れているという友人から来たとわかる。私の心の中に、友人との間の全ての海洋と大陸を広げること、即ち、私の観察と記憶によって、複数の連絡船や郵便局の継続した存在と影響を想定することなしには、他の実例中の経験に適合して、この現象を説明することは決してできないことが明らかである。これらの門番と手紙の現象を確かな見方で熟考すると、両者は日常の経験と矛盾している。即ち、我々が因果関係について造る原則に、反対していると考えられるのである。日常生活では、そのような音を聞くと同時に、そのように動く事物を見るのに慣れている。これらの聞くことと見ることの両方の知覚を、特に上記の実例中では受けてはいなかった。ドアが依然として存続すると想定しなければ、知覚することなしにドアが開かれたことを想定しなければ、日常生活の観察と上記の観察は、相反するのである。そしてこの想定は、最初は全く恣意的かつ仮想的であったが、上記の矛盾を調停し得る唯一の想定であることによって、勢いと確証を得るのである。同類の実例を提供しないこと、即ち、事物の継続した存在を想定する誘因が無いことは、今までの人生の機会にはほとんどない。事物の過去と現在の現れを結合し、過去と現在を相互に結合させる手段として、事物の特定の性質と状況に適合する経験によって、上記の想定を獲得してきたのである。そういうわけで当然に、この世界を実在する永続性のあるものとして、つまり、感覚にもはや現れていないときでさえ存在を保持するものとして、みなすように導かれてきたのである。
 現れの一貫性に基づくこの推断は、習慣に由来し、過去の経験によって調整されるので、因果に関する推論と同じ性質であると見えるかもしれない。けれども、調べてみればわかるように、両者は互いに根本的に相当に異なり、一貫性に基づく推論の方は知性から生じ、習慣から生じるのは間接的かつ二次的な仕方においてなのである。というのは、心に備わる知覚以外には、決して何ものも実際に心に現れることはないので、どんな習慣も知覚の規則的な継続によるのでなければ、決して身につくことは不可能であるばかりでなく、知覚の規則的な調和・秩序の度合いを超えることも不可能である、と容易に認められるだろうからである。従って、知覚における規則性のどんな度合いでも、知覚されない事物における規則性の、より大きい度合いを推論するための根拠には決してなり得ないのである。なぜならば、矛盾、即ち、心に決して現れなかった事物によって獲得された習慣を、前提にしているからである。けれども、対象の一貫性つまり対象の結合の頻発に基づいて感覚対象の継続した存在を推論するときはいつでも、単に知覚だけにおいて観察される規則性よりも、より大きい規則性を対象に与える手段であることは明白である。我々は、対象の感覚への過去の現れにおいて、二種の対象間に結合を認めるが、この結合は完全に恒常的であるとは観察できない。なぜなら、目を閉じたり頭を横に向けたりして、感覚への現れを中断できるからである。従って、この場合に我々が想定することは、その外見上の中断にもかかわらず、対象が依然として日ごろの結合を継続すること、つまり、不連続な現れが、感知できないあるものによって結合されていること、ではないか? しかし、事実に関する推論の全ては習慣だけから生じ、習慣は繰り返された知覚の結果だけに在り得るので、習慣の拡張つまり知覚を超える推論は、決して恒常的な繰り返しと結合の直接かつ当然の結果では在り得ない。つまり、何か他の諸原理の協調から生じるに違いないのである。
 数学の根拠の検討において既に言及した[第二部第四節]ことだが、想像は思考の過程に向けられたとき、その対象を欠くときでさえ継続しがちであり、オールによって始動させるガレー船のように、追加の推進力が無くとも航路を進み続けるのである。このことを、何故、等しさの厳密でない数個の基準を考察して相互に訂正した後でも、最小の誤りや変動の余地もないような、等しさの非常に正確かつ厳密な基準を想像し続けるのか、の理由としたのであった。これと同様の原理が、物体の継続した存在の所信をも、確かに我々の心に抱かせるのである。諸対象は、まさに我々の感覚に現れるとき、一定の一貫性を持つが、この一貫性は、諸対象が継続した存在を持つと想定するならば、はるかに強く一定性を増す。そして、心がひとたび諸対象間に一貫性を観察する過程にあるとき、心は自然に継続し、ついには一貫性を可能な限り完全にするのである。諸対象の継続した存在の簡潔な想定は、この目的にとって十分であり、我々が感覚より以上に注意を向けないときに諸対象が持つものよりも、はるかに強い規則性の想念を諸対象間に与えるのである。
 けれども、我々がいかに説得力を以上の原理にありとしようとも、全ての外的物体の継続した存在の体系のような、非常に膨大な体系を単独で支持するには、弱いのではないかと危惧する。しかも、その所信を十分に説明するためには、「一貫性」に外的物体の現れの「恒常性」を加えなければならないであろう。このことの解明は、非常に意味深い推論の相当に広い範囲へ導くであろう。従って、混乱を避けるために、本書の体系の短い概略や要約を与えて、その後で完全な範囲における全ての部分を導き出すことが、適切だと思われる。知覚の恒常性に基づくこの推論は、知覚の一貫性に基づく前出の推論と同様に、物体の「継続した」存在の所信を産む。この所信は、物体の「別個な」存在の所信に先立つ。即ち、前者が後者の原理を産むのである。
 我々が特定の印象において恒常性を観察することに慣れているとき、例えば、太陽や大海の知覚が、いったん欠如や消滅した後で、その最初の現れのときのように、同様の部分かつ同様の秩序の内に知覚が戻ることに気づくとき、これらの中断された前後の知覚が[実際は異なるのだが]異ならないと思いがちであり、それどころか反対に、その類似のために、それぞれ同じ知覚として考えられがちである。けれども、この前後の知覚の存在の中断は、前後の知覚の完全な同一性に反するので、つまり、最初の印象が消滅し、二番目の印象が新たに創られたと考えさせられるので、我々は少々当惑していることに気づいて、一種の自己矛盾に没頭しているのである。この困難から脱出するために、我々は可能な限りこの中断を、知覚できない実在する存在によって中断された前後の知覚が結合されることを想定することによって覆い隠す。いや、もっと正確にいえば、完全に中断を除去するのである。この想定、即ち、継続した存在の観念は、中断された前後の印象の記憶から、つまり、前後の印象が与える前後の印象を同一だと想定させる性質から、勢いと活気を獲得するのである。前出(第三部第七節)の推論によれば、正に確信の本質は、想念の勢いと活気に存するのである。
 この体系(要約)を正当化するためには、四つの事が不可欠である。第一、「個体化の原理」、即ち、同一性の原理を解明すること。第二、中断された前後の知覚の類似が、前後の知覚に同一性が属すると考えるようにさせる理由を与えること。第三、継続した存在によって中断した現れを結合する幻想が与える性質を説明すること。第四、上記の性質から生じる想念の勢いと活気を解明すること。
 第一に、個体化の原理についてである。我々は、どんな単一の対象の観察も同一性の観念をもたらすには十分ではない、と言えよう。というのは、「ある対象がそれ自身と同一である」という命題において、もし「対象」という言葉によって表現される観念が、「それ自身」という言葉によって意味する観念と、少しも区別されないのならば、実際のところ何も意味してはいない。即ち、この「対象はそれ自身と同一」という確言には主語と述語が含まれているとは言うものの、(実は同義語反復であり、)この命題には、主語と述語は含まれていないからである。ある唯一の対象は、単一性の観念を伝えるが、(持続する)同一性の観念は伝えないのである。
 一方、対象の多数性は、どんなにそれぞれが類似していると想定され得るとしても、決して同一性の観念は伝え得ない。心は常に、ある一つの対象は他の対象ではないと言明し、二つ、三つ、あるいはある明確な数の対象に構成されると考える。それぞれの対象の存在は、全く別個かつ独立しているのである。
 従って、単一性と多数性は両方とも同一性の関係と調和せず、同一性はどちらでもない別のものに起源することになるのである。けれども事実を言えば、一見してこれは全く不可能に見える。単一性と多数性の間には、中間はあり得ない。それは、存在と非存在の中間物があり得ないのと同じである。我々には、次の二つの場合しかあり得ない。一つの対象が存在すると想定した後で、別の対象も存在すると想定すると、この場合は多数性の観念を持つ。さもなければ、他に何も存在しないと想定すると、この場合は、最初の対象が単一性を保ち続けるのである。
 この困難を除去するために、時間つまり持続の観念に頼ることにしよう。既に言及したことだが[第二部第五節]、時間は厳密な意味で、継起を必然的に含む。そして、時間の観念を不変の対象に適用するときは、ただ想像の虚想によってである。即ち、不変の対象が、同時に存在する対象の変化の性質を共有していて、特に、知覚の変化を共有している、と想定することによってなのである。この想像の虚想は、ほとんど例外なく生じる。そしてこの想像の虚想によって、我々の前に位置する唯一の対象は、どんな中断や変化も対象中に見い出すことなくして、いつでも概観され、同一性の観念を我々に与え得るのである。というのは、時間の任意の二点を考えるとき、異なる見方で両者を並べることができるからである。即ち、一方では我々は、正に同一の瞬間において両者を概観できる。この場合に両者は、時間の二点によっても各々の対象によっても、複数の観念を与える。これらの二つの異なる時間の点において存在するように同時に考察されるためには、複数化されなければならない。そして、他方では我々は、観念の等しい継起によって、時間の継起をたどることができるのである。つまり、最初にある瞬間を考え、そのときに存在する対象とともに、対象には少しも「変化」や「中断」なくして、時間の経過を後に想像できるのである。この場合に対象は、我々に単一性の観念を与えるのである。従ってここに、単一性と多数性の間の中間である観念がある。より適切に言えば、我々が受け入れる見方に従って単一性と多数性の両者である観念、即ちこの観念を、我々は同一性の観念と呼ぶのである。いかなる適切な言説においても、ある時に存在する対象が、別の時に存在するそれ自身と同一である、ということを意味するのでなければ、対象がそれ自身と同一とは言い得ない。この手段によって、「対象」という言葉によって意味する観念と、「それ自身」という言葉によって意味する観念との間に、我々は差異を生じさせる(同義語反復でなくする)。多数性にまでは至ることなくして、しかも、同時に厳密かつ絶対的な単一性であることを制限することなく、両立している。
 以上のように個体化の原理は、時間の想定された変動を通した、対象の「不変性(変動に対して抵抗する性質)」と「継続性(中断に対して抵抗する性質)」に他ならず、これによって心は、少しも見方の中断なしに、即ち、多数性や複数の観念を造ることを強いることなしに、対象の存在の異なる時期においても対象をたどり得るのである。
 次に本体系の「第二の」部分の解明に進もう。即ち、前後の知覚の現れの間に非常に長い中断があって、しかも知覚には、同一性の絶対必要な一つの性質、「即ち、不変性」だけがあるにもかかわらず、前後の知覚の恒常性が、完全な数的同一性を知覚にありとさせる理由を示そう。この項目についての全ての混乱と曖昧さを回避するために、ここでは、物体の存在に関する一般大衆の所信や確信を説明する。従って、一般の人々の思考の様式や自己を表現する様式に、完全に従わなければならない、と言明しておく。さて、既に本節で言及したことだが、いかに哲学者たちが対象と感覚の知覚との間を区別することができて、両者の存在と類似を想定しようとも、それにもかかわらずそれは、人類の大多数に理解されない区別である。人類の大多数は、ただ単一の存在を知覚するので、哲学者たちの二重存在説や表象説に決して同意できない。まさしく目や耳によって感じられる視覚や聴覚などの知覚は、大多数の人々にとって、実際の対象に他ならない。人々は直接に知覚するこのペンや紙を、知覚とは異なるが類似している別のものを表象しているのだ、とは容易に思えないのである。従って、人々の想念に適応させるためには、まず次のように想定しよう。即ち、ただ単一の存在があり、それを「知覚」と呼んでも、あるいは、「対象」と呼んでも、どちらで呼んでも問題ではなく、そのときの目的に最も良く適すると思われる方に準じて呼ぶ。例えば、帽子や靴や石、その他、感覚によって伝えられる印象が通常意味する事物は全て、知覚と対象の両方の言葉によって、理解されているのである。(以下において、一般の人々の思考・表現様式から離れて、)より哲学的な思考と言説の方式に戻る際には、必ず予告をする。
 それでは、知覚の中断にもかかわらず、類似している前後の知覚に同一性が属すると考える際、その同一性に存する錯誤と偽装の原因に関する問題を調べるために、既に解明かつ証明した[第二部第五節]経験的知識を、ここで思い出さなければならない。即ち、何にも増して一つの観念を別の観念と間違えるようにさせがちなことは、両者の間のある関係であり、その関係は想像において両者を共に連合させて、一方から他方へと容易に想像を進ませる。全ての関係の中で類似関係こそ、この点で最も効果的な関係である。なぜなら、類似は諸観念の連合を引き起こすだけでなく、諸性質の連合も引き起こすからであり、一方から他方へ観念を連合させる際に、類似している心の作用や活動によって、類似する観念を思わせるようにさせるからである。この事情は、とても重要なことだと言及しておいた(第二部第五節)。このことを一般的な規則として確立できよう。即ち、どんな心にある観念も、同じ性質あるいは類似する性質である場合は、非常に混同されがちなのである。類似関係においては、心は容易に一方から他方へと進み、厳密な注意なくしては変化を知覚できず、また一般的に言って、厳密な注意は全く不可能なのである。
 この一般的な原則をここで適用するためには、最初に、完全な同一性を保持する対象を見る際の心の性質を調査し、次に、類似している性質を引き起こすことによって、同一対象と混同される他の対象を見い出さなければならない。我々は、対象に思考をじっと向けて、しばらくの間その対象が、同一であり続けていることを想定しているときは、明らかに我々は、変化は時間にのみ存すると想定し、決してその対象の新しい心象や観念を産もうと努めはしない。(その対象に対して、)心の諸機能はある意味で休み、変化の前に持っていた観念を、即ち、変化や中断なしに存続する観念を、継続するのに必要な働き以上には働かない。ある瞬間から別の瞬間への推移は、ほとんど感じられない。つまり、推移を認識するための、心の異なる傾向を必要とする、異なる知覚や観念によっては、区別されないのである。
 では、同一の対象を除いて、どんな他の対象が、心を同じ性質の内に置き得るのだろうか? 心がその対象を思うときに、一方から他方への想像の同様かつ連続した推移を、何が引き起こし得るのだろうか? この問いは、最も重要である。というのは、もし、そのような対象を見つけることができるならば、前出の原理に基づいて、まさに当然に同一対象と混同されて、我々の推論の大部分において同一対象とみなされる、と確かに結論できるからである。このようにこの問いは重要であるが、けれどもとても理解しにくくて解き難い問いではない。というのは、関連した諸対象の継起は、その性質の内に心を置いて、同様かつ不変の対象の見方を伴って、同様の円滑かつ連続した想像の進行で考えられる、と直ちに返答されるからである。まさに関連の自然つまり本質は、諸観念を相互に結合することに他ならず、つまり、ある一つの観念の現れに関して、その相関する観念への移行を促進することなのである。従って、関連した諸観念の間の推移は、とても円滑かつ容易なので、その推移は心にほとんど変化を産まずに、同じ活動の継続と同様に思えるのである。そして、同じ活動の継続は、同じ対象の継続した見方の結果であるので、これこそ、関連した諸対象のあらゆる継起に、同一性を帰する理由なのである。思考は、まるでただ一つの対象を考えるように、等しい容易さで諸対象の継起に沿って滑るように進む。その結果、諸対象の継起と同一性を混同するのである。
 我々は後(第六節)で、「異なる」対象に「同一性」を帰するようにさせる関連のこの傾向の多くの実例を見るであろう。しかしここでは、目下の主題に限定しよう。経験によって我々は、ほとんど全ての感覚の印象には、大なる「恒常性」があることに気づく。そのため感覚印象の中断は、感覚印象について少しも変化を産むことはなく、その最初の存在のとき(中断の前)のような、現れと状態における同様の感覚印象に復帰することを妨げないのである。例えば、部屋の家具を見て、眼を閉じ、後に眼を開けたとする。すると、眼を閉じる前に見ていた知覚と、完全に類似する新たな知覚を見い出す。この知覚の類似は日常の実例において観察され、最も強い関連によって、この中断された前後の知覚の各々の観念を、当然のごとく相互に結合し、心を一方から他方への容易な推移でもって、当然に伝えるのである。異なる中断した前後の知覚の各々の観念に沿った想像の容易な推移や進行は、ある不変かつ連続した知覚を考える際の心の性質とほとんど同じなのである。従って、一方を他方と間違えることは、我々にとって正に自然で無理のないことなのである。
[原注:以上の推論は、いくぶん深遠で理解されるには難しいことだと、認められるに違いない。だが注目すべきことに、まさにこの難しさが以上の推論の証明に転換され得るのである。というのは、そこには一つではなく二つの関係があることが観察できるからで、両方とも類似関係であり、中断した前後の知覚の継起を、同一の対象と間違えることに、双方とも寄与している。その一つは知覚の類似であり、もう一つは、類似している前後の対象の継起を見る際に心の活動が持つ、同一の対象を見る際の心の活動との類似である。この二つの類似関係を、我々は互いに混同しがちである。即ち、まさにこの難解な推論に従って、混同することは、当然なことなのである。しかし、この二つの類似関係を明瞭に保てば、前の議論を考える際に、少しも困難ではないであろう。]
 以上の類似している知覚の同一性に関する意見を受け入れる者たちは、哲学的に考えることをしない一般の人々であり、つまり、古今東西の人々である。従って、知覚こそ唯一の対象であるべきと想定するような人々であり、決して、内部と外部の二重存在や、表象するものと表象されるものの二重存在を考えないような人々なのである。正に感覚に現れる心象こそは、実際の物体に他ならない。即ち、この中断された前後の心象に、我々は完全な同一性を帰するのである。しかし一方、現れの中断は同一性に反するとも思われる。つまり、現れの中断は、当然に中断の前後の類似している知覚を、異なる前後の知覚だとみなすように導くので、我々はこの観点では、いかにしてそんな対立する意見を調停するべきか、途方に暮れている我々自身を見い出す。(しかし前出の、)類似している前後の知覚の観念に沿った想像の円滑な推移は、完全な同一性を前後の観念に帰するようにさせるのである。現れの中断した仕方・様子は、中断の前後が非常に類似していると考えさせるけれども、依然として前のものは一定の中断の後に現れるものと別のものとも考えさせるのである。以上の矛盾から生じる困惑は、継続した存在の虚想によって、中断した現れを結合する傾向を産む。このことは、解明することを提案していた仮説の「第三」の部分である。(これより第三部分の解明を始める。)
 経験に基づく何よりも確かなことは、感情や所感に反対することはどんなことでも著しい不安・不快を与える、ということである。それは、心の内から生じるか外から生じるかを問わない。心の内的原理間の闘争から生じるか外的対象間の対立から生じるかを問わないのである。反対に、自然の傾向とともに感じさせることは全て、つまり、自然の傾向の動きに内的に一致することや、自然の傾向の充足を外的に促進することは全て、著しい満足・喜びを与えることは確かである。さて、ここでは、類似している知覚の同一性の想念と、知覚の現れの中断との間に対立があり、心はこの対立状況に不安・不快であるに違いない。即ち心は、自然にこの不安・不快の除去を求めるであろう。この不安・不快は、二つの相反する原理の対立から生じるので、一方の原理が他方の原理を犠牲にすることによって、除去を求めるに違いない。(二つの原理の対立に困惑していたのだ)けれども、(自然の傾向である)類似している知覚に沿った思考の円滑な推移は、類似知覚に同一性を帰するようにさせるので、我々は決して進んで自ら、この意見を放棄することはあり得ない。従って我々は、他方に眼を向け、知覚がもはや中断されずに、不変の存在と同様に継続を保ち、その意味で完全に同一だと想定するに違いないのである。しかしこの場合、知覚の現れにおける中断は、とても頻繁かつ長い。そのため、中断を見過ごすことも、不可能なのである。心の中の知覚の「現れ」と知覚の「存在」は、一見したところ完全に同一だと思われるので、非常にあらわな矛盾に常に同意できるかどうか、つまり、知覚が心に現れることなしに知覚が存在することを想定できるかどうか、疑われるであろう。この問題を解決するために、つまり、いかにして知覚の現れの中断が知覚の存在の中断を必ずしも意味しないかを学ぶために、次に述べるいくつかの原理に触れることは適切であろう。しかし、この原理は後[第六節]でもっと十分に解明する機会があるだろう。
 始めに言及しておくが、目下の場合の困難は、事実に関することではない。言い換えると、心が知覚の継続した存在に関する推断を、造るのかどうかということではない。そうではなく、造られる推断の様式に関することであり、推断が由来する原理に関することなのである。確かに、人類のほとんど全て、哲学者たち自身でさえ、人生の大部分において、自らの知覚を唯一の対象とみなし、正に心に密接に現れるものを、実際の物体つまり物質的存在と想定する。また確かに、この他ならぬ知覚つまり対象には、継続した中断されない存在がある、と想定されている。即ち、我々の不在によって消滅せず、我々の存在によって存在を生じさせるわけではない、と想定されるのである。我々が不在のとき、我々は、見ることも感じることもないが、知覚つまり対象は依然として存在する、と言う。我々が存在するとき、我々は、知覚つまり対象を、見るあるいは感じる、と言う。それならここで、二つの問いが生じる。一つ目は、知覚が消滅することなくして、知覚が心に不在だと想定することにおいて、我々はいかにして納得できるのか。二つ目は、中断の後で、知覚や心象の新たな創造なしに、どのようにして我々は心に現れるようになる対象を考えるのか。そして、「見ること」「感じること」「知覚すること」とは、何を意味するのか。
 一つ目の問いに関して、以下のように言えよう。即ち、我々が心と呼ぶものは、異なる複数の知覚の集まった塊に他ならず、ある諸関係によって互いに結合したものであり、あくまでも(虚想による)偽りではあるが、完全な単一性と同一性が与えられているものであると想定される。では、あらゆる知覚は他から区別でき、別々に存在すると考えられるので、明らかに、心から任意の個別の知覚を分離する際に、少しも不合理はないということになる。このことは、考える存在を構成する知覚の塊を結合する諸関係から、あらゆる心の関係の部分を取り除く際に当てはまるのである。
 同様の推論は、二つ目の問いにも答えを与える。もし「知覚」と名付けられたものが、心からの知覚の分離を不合理や矛盾としないのならば、正に知覚と同じものを表す、「対象」と名付けられたものが、分離されたもの同士(心と対象)の結合を不可能とすることは決してできないのである。外的対象は、見られたり、感じられたりして心に現存するようになる。このことは、外的対象が結合された知覚の塊(心)への関係を獲得することである。その関係は、目下の感情と内省による対象の数の増大の際に、そして、観念を記憶に蓄える際に、非常にかなりの影響がある。従って、(知覚の中断の前後の)同様の継続かつ連続した存在は、存在自身に少しも実質的・本質的変更なしに、あるときは心に現れ、またあるときは心に不在になり得るのである。中断した感覚への現れは、存在の中断を必ずしも意味しない。感じられる対象つまり知覚の継続した存在の想定は、少しも矛盾を含まない。我々はこの想定への傾向のままに容易に委ねることができる。知覚の正確な類似が知覚に同一性を帰するようにさせるとき、我々は継続した存在を装うことによって、中断を表面上取り除くことができる。装われた継続存在は、その中断を満たし、我々の知覚に完全かつ連続した同一性を保持し得るのである。
 しかし我々はこの場合、この継続した存在を「装う」だけでなく「確信」してもいるので、次の問いは「この確信は、どこから生じるのか」である。この問いは、本体系の「第四」の部分へ導く。既に証明されたように、確信は通常、観念の活気に存するに他ならない。そして観念は、目下の印象への観念の関係によって、この活気を獲得できる。印象は、当然のことながら、最も活気がある心の知覚である。そしてこの性質は、あらゆる関連した観念への関係によって、ある程度が伝えられる。その関係は、印象から観念への円滑な移行を引き起こし、なおかつ、その移行への傾向さえももたらす。心は、一つの知覚から他の知覚へ容易に無理なく進むので、ほとんど変更を知覚せず、しかも、始めの活気の相当な分け前を、次の活気へ引き継ぐのである。まとめると、心は、生き生きとした印象によって、活気が引き起こされる。この活気は、想像の円滑な推移と傾向によって、移行における大きな減少なくして、関連する観念へ伝えられるのである。
 一方この傾向は、関係の原理以外に、その他の原理からも生じることが考えられる。明らかに由来する原理に係わり無く、想像の傾向には同様の影響力があり、即ち印象から観念へ活気を伝えるのである。ところで、これは正しく目下の場合に他ならない。我々の記憶は、互いに完全に類似している知覚の、膨大な数の実例を提供する。即ち、時間の異なる隔たりにおいて、つまり、相当な中断の後でも、知覚はよみがえるのである。この知覚の類似は、中断された前後の知覚を、同じだと考える傾向を我々に与える。そしてまた、この同一性を正当化するために、継続した存在によって前後の知覚を結合する傾向も与え、なおかつ、前後の知覚の中断した現れが必然的に含むであろう矛盾を、回避する傾向も与えるのである。従ってここに、全ての知覚できる対象の継続した存在を、装う傾向がある。この傾向は、記憶の生き生きした印象から生じるので、継続した存在の虚想に活気を与える。言い換えると、物体の継続した存在を、我々に確信させるのである。我々は時に、完全に新しい対象、つまり、恒常性と一貫性の経験が無い対象に、継続した存在を帰する場合もある。その理由は、我々の感覚に現れる様子が、恒常的かつ一貫的な対象の様子と類似しているからである。この類似は、推論と類推の源泉であり、類似する対象に同じ性質が属すると考えるように我々を導くのである。
 賢明な読者は、以上の体系を十分に明確に理解するには至らなくとも、同意することは容易だと分かるだろう。そして、少しの省察の後、体系の全ての部分が各部分と一緒に、自身の証明を支持することを許容するだろう。実際に明らかなことだが、一般大衆は自らの知覚こそ唯一の対象であると「想定」し、同時に物質の継続した存在を「確信」しているので、我々はこの想定上の確信の起源を説明しなければならない。だが、この想定によれば、我々の対象つまり知覚は、中断の後でも全く同一であるという所信は、誤った所信である。従って、この同一性の所信は、決して理性から生じ得るのではなく、想像から生じるに違いないのである。想像が、そのような誤った所信を生じさせるようになるのは、ひとえに中断の前後の知覚の類似によってである。なぜなら、我々が同一だと想定する傾向を持つのは、ただ知覚が類似している場合だけだと見い出すからである。この類似している知覚に同一性を与える傾向は、継続した存在の虚想を産む。なぜなら、あらゆる哲学者たちによって承認されているように、その虚想はもちろん同一性も実際には誤りであり、知覚の同一性に反する唯一の事実である知覚の中断を取り繕うことこそが、その虚想の効果に他ならないからである。最後に、この傾向は、目下現れている記憶印象によって、確信を引き起こす。なぜなら、中断の前の感覚の類似なくしては、明らかに我々は、継続した物体の存在の、いかなる確信も決して有しないからである。このように全ての部分の調査において、我々は各部分が最強の証明によって、支持されることを見い出す。そして、全ての部分が共に、完全に信頼できる首尾一貫した体系を構成していることを見い出すのである。強い傾向や性向は単独で、目下の印象が無くとも、時には確信や所信を引き起こすことができる。いわんや、目下の印象が有るときは、どうであろう?(確信を引き起こさないわけにはいかない。)
 このようにして、想像の自然の傾向によって、我々は中断した現れの前後に類似を見い出し、感じられる対象つまり知覚に、継続した存在を帰するように導かれるのである。けれども、それにもかかわらず、ごく僅かの哲学や内省でも、この所信の論理上の誤りを認めさせるのに十分なのである。既に言及したことだが、「継続した」存在と「別個つまり独立した」存在の二つの原理の間には密接な関係があり、必然的な帰結として、一方の原理を確立すれば、もう一方の原理も確立されるのである。継続した存在の所信の方こそが最初に起こり、心がその最も自然かつ第一の傾向に従う場合は常に、たいした検討や内省なしに、最初の所信に加えて、他方の別個かつ独立した存在の所信も引き起こされる。しかし、諸実験を比較し、少し論理的に考えてみれば、感じられる知覚の独立した存在の学説は、最も簡明な経験にも反しているということを、我々はすぐに認めるのである。このことは、知覚に継続した存在を帰することにおける誤りを認める方へと我々の歩みを後ろ向きに導く。さらにこのことは、多くのとても奇妙な見解の源である。それらの見解を、次に解明するように努めよう。
 最初に、いくつかの諸実験に言及することが適切であろう。それらは、我々の知覚が、いかなる独立した存在も持たないことを確信させる。例えば、片方の目を指で押せば、全ての事物が二重になるように直ちに知覚する。そして二重になっている内の一方は、通常かつ自然な位置から、ずれて見える。我々は、これらの二重の知覚の両者に、継続した存在を帰することはないので、そしてまた、二重の知覚の両者とも同様の性質であるので、我々の全知覚は、感覚器官と、神経と動物精気の性質に依存していることを、明らかに認めるのである。この見解は、対象の距離に従って、対象が外見上増大や縮小するように見えることによって確証される。また、対象の外観の形状の明らかな変化によっても確証される。さらに、感覚器官や神経の様々な病気に基づく、対象の色や他の性質の変化によって、同様の種類の無限の数の実験によっても、確証されるのである。これらの全てに基づき、我々の感じられる知覚は、いかなる別個つまり独立した存在も持たないことを知るのである。
 以上の推論の自然な帰結は、我々の知覚は継続した存在も持たないし同じく独立した存在も持たない、ということでなければならない。そして実際のところ哲学者たちは、非常にこの見解に悩まされたので、自身の体系を変えて、知覚と対象の間を区別することになった。以降、我々も同様に(哲学的な思考と言説の方式に則って)区別することにする。即ち、知覚は、中断され、いったん消滅し、中断後に戻ったとしてもその度ごとに異なるものだと想定され、一方、対象は、中断せず、継続した存在と同一性を保持するものだと想定される。しかしこの新しい体系が、どんなに哲学的な体系だと考えられるにせよ、単に対症療法的な、問題を根本から解決しない一時しのぎの救済策に過ぎず、一般的な体系の難点を全て含むとともに、新しい体系に特有の他の難点も含んでいる、と断言する。この知覚と対象の二重存在の見解を信奉するように直接に導くような原理は、知性の原理であれ虚想の原理であれ存在しない。つまり、中断した前後の知覚の継続と同一性の一般的な仮説を認める以外には、この二重存在の見解にも達し得ないのである。もし最初に、知覚が唯一の対象であり、感覚にもはや現れなくなったときでさえ存在し続けることを、確信しないのであれば、我々は決して、知覚と対象が異なること、そして、対象が単独で継続した存在を保持することを、考えようとはしないだろう。「知覚と対象の二重存在の仮説は、理性にとっても想像にとっても、根本的な推奨が無い。想像への影響が無いわけではないが、その影響の全ては、知覚と対象が同じだとする仮説に基づいて獲得しているのである。」この命題は、二つの部分を含む。このような難しい主題が許す限り明晰判明に、この命題を証明するように努めよう。
 命題の第一の部分、即ち「哲学的な二重存在の仮説は、理性にとっても想像にとっても、根本的な推奨が無い。」については、次に述べる省察によって、「理性」に関しては直ちに納得できよう。我々が確信する唯一の存在は、知覚である。知覚は意識によって我々に直接に現れるものであり、最強の同意を命じ、我々の全推断の第一の基盤である。一つの事物の存在から他の事物の存在へと、我々が引き出し得る唯一の推断は、因果関係による推断である。ということはつまり、事物間に結合があり、一方の存在は他方の存在に依存している、という関係である。因果関係の観念は、過去の経験に由来する。経験によって我々は、二つの事物が相互に恒常的に結合されていること、常に心に同時に現れることを見い出す。知覚以外は心に現れる存在は決して無いのだから、異なる知覚の間には、結合つまり因果関係を観察できるけれども、知覚と対象の間には決して観察できない、ということになる。従って、知覚の存在や他の性質から、対象の存在に関するいかなる推断も決して造り得ない。即ち、この点で理性を納得させることは、決してできないのである。
 同様に、哲学的な二重存在の体系は「想像」にとっても根本的な推奨が無い、ということは確かである。即ち、想像の機能は、ひとりでに、その根本的な傾向によって、このような二重存在の原理に至ることは、今まで決してなかったであろう。しかし、このことを読者が十分に納得するように証明することは、いくぶん難しいであろうと認める。なぜなら、その証明は否定的陳述を含んでいるからであり、それは多くの場合、積極的証明の余地が無いものだからである。もし誰かが、この問題を検討する労を執って、想像に基づいた二重存在の見解の直接的起源を説明する体系を考案したとする。その場合だけ、その体系の吟味によって、目下の主題における確実な判断を下すことができるであろう。そのためには、知覚が中絶かつ中断され、その前後がどれほど類似しているにせよ、やはり相互に異なる、とみなそう。そして、誰しもこの仮定に基づいて、空想が直接かつ直ちに、性質が知覚に類似しているが反対に、継続かつ中断せず同一である、別の存在の確信をする理由を明示させよう。このことを納得がいくように実行したとすれば、本書の目下の見解を断念することを約束する。しかし、それが実行されるまでは、最初の仮定の正に抽象性と難しさより、空想が働きかけるには適さない仮定だと、結論せざるを得ないのである。物体の継続かつ別個の存在についての「一般的な」所信の起源を解明しようとする者は誰しも、心を「一般的な」状態にしておかなければならない。即ち、知覚が唯一の対象であり、知覚されていないときでさえ存在し続ける、という想定をしなければならないのである。この一般的な所信は、論理的には誤りであるけれども、最も自然な所信であり、空想にとって根本的な推奨がある唯一の所信なのである。
 命題の第二の部分、即ち「哲学的な二重存在の体系は、想像への影響の全てを、知覚と対象が同じだとする一般的な体系に基づいて獲得している。」については、命題の第一の部分、即ち「二重存在の体系は、理性にとっても想像にとっても、根本的な推奨が無い。」に対する上述の結論の、当然かつ不可避の帰結である、と言える。というのは、哲学的な二重存在の体系は(理性の根本的な推奨が無いのだから)、多くの人の心を捉える経験によって、特に、この主題についてこれまでほとんど考えたことがない全ての人の心をも捉える、経験によって見い出されたので、その拠り所の全てを、一般的な体系から引き出しているに違いないからである。なぜならば、二重存在の体系には、固有の根源的な拠り所が無いからである。この二つの体系の様式は、真逆であるけれども、次に解明されるように、互いに関連があるのである。
 想像は、次のような思考に続いて自然に進行する。即ち、知覚は唯一の対象である。類似している知覚は、その現れにおいて、どんなに中絶しても連続しても同じである。(しかし、)この現れている中断は、同一性とは相反している。(しかし、)この中断は、結果として、現れを超えて影響を広げないので、知覚つまり対象は、我々に欠けているときでさえ、実際には存在し続ける。従って、感じられる知覚には、継続した中断しない存在がある。(以上が想像の自然な進行である。)けれども少し内省すれば、知覚には継続した存在がある、というこの結論は、知覚には従属した知覚があることを明示することによって、論破されるので、感覚にもはや現れないときでさえ保持される継続した存在として実在するものがある、という見解を完全に否認しなければならない、と当然に推測されるのである。それにもかかわらず、実情は異なっているのである。哲学者たちは、感じられる知覚の継続と独立の見解を否認することには従いながら、継続した存在の見解を否認することは決してしないのである。哲学者たちの全学派は、知覚の継続と独立を否認する見解には同意するけれども、ある意味、その必然的帰結である継続した存在の否認の方はと言えば、少数の度を越した懐疑論者たちに特有なだけであった。その懐疑論者たちも、結局のところ、継続した存在を否認するのは単に言葉上だけであり、そのことを心から信じる気には、決してなり得なかったのである。
 落ち着いた深い省察の後に造るような見解と、心にとって適切かつ適合するために、本能つまり自然の衝動によって取り入れるような見解との間には、大きな違いがあるものである。もし双方の見解が相反するようになるときは、両者の内どちらに強みがあるかを予期することは難しくない。我々の注意が主題に向けられている限り、哲学的かつ熟慮された原理は優勢であり得る。しかし、思考の緊張を解いた途端に、自然が優勢になり、以前の見解に我々を引き戻す。否、自然にはときどき大きな影響力があって、最も深い省察の最中でさえ思考の進行を止め得るし、また、いかなる哲学的見解の帰結でも全ての進行を引き留め得るほど、強力なのである。こうして我々は、いったん知覚の従属と中断を明確に認めるけれども、(自然の影響により、)思考の途中で急に立ち止まってしまい、そのために決して、独立かつ継続した存在の想念を否認しないのである。継続した存在の見解は、想像の内にこのような深い根を持っているので、決してそれを根絶することはできない。即ち、知覚の従属についての、いかなる緊張した形而上学的信念も、継続した存在の見解を根絶するのに十分ではないのである。
 明白な自然の原理は、ここでは熟慮された省察に勝るけれども、この場合には確かに、ある闘争と対立があるに違いない。少なくとも省察が、いくらか勢いと活気を保持する限りは。この点の対立を解くために、我々は理性の原理と想像の原理の両方を含むように思われる、一つの新しい仮説を考案する。この仮説こそは、哲学的な、知覚と対象の二重存在の仮説である。それは、従属した知覚は中断されて前後で異なることを認めることで、理性を満足させる。そして同時に、継続した存在を、知覚以外の「対象」と呼ばれる何か他のものに帰することで、想像にも喜んで同意する。従って、この哲学的な体系は、理性と想像の二原理の奇怪な所産なのである。両者は互いに相反し、しかも同時に心に取り入れられても、互いに全滅させることは相互に不可能なのである。想像は、告げる。類似している知覚は、継続した中断されない存在を持ち、知覚が欠けることによっても消滅されない、と。省察は、告げる。類似している知覚は、存在において中断され、中断の前後相互で異なっている、と。双方の見解の間の矛盾を、我々は新たな虚想によって回避する。その虚想は、上記の相反する性質を別々の存在に帰することによって、「中断」を知覚に「継続」を対象に帰することによって、想像の仮説にも省察の仮説にも、共に適合する。自然は頑強であり、どんなに理性によって強く攻撃されても、撤退しようとはしない。そして同時に、理性も、この点でとても明晰なので、自然の事実を偽る可能性はない。敵対する両者を和解させることは不可能であるが、各々が要請することを引き続き聞き入れることによって、即ち、二重存在を偽造することによって、各々が要請する全ての条件を持つことを見い出し得る限り、我々は出来るだけ対立を解くように努めるのである。もし我々が、類似している知覚は継続し、同一かつ独立していることを十分に確信するのならば、我々は決して、この二重存在の見解に陥らないであろう。なぜなら、我々は最初の想定に満足を見い出し、その想定を超えて見ようとはしないからである。逆に、もし我々が、知覚は従属し、中断してその前後で異なっていることを十分に確信するのならば、我々は、二重存在の見解を受け入れたいとは、ほとんど思わないであろう。なぜなら、この場合我々は、最初の想定の誤りを明白に認めて、それ以上その想定に注意を払おうとは決してしないからである。従って、心の中間の状況に基づいて、この二重存在の見解は生じる。即ち、理性の原理と想像の原理の両者の受け入れを正当化する口実を見い出させるような、二つの相反する原理の固守に基づいて、二重存在の見解は生じるのである。こうして幸いにも結果として、二重存在の体系の内に口実が見い出されるのである。
 この哲学的体系のもう一つの利点は、一般的体系への相似性である。この相似性によって、理性が心配で手に負えなくなっているときでも、我々は束の間、理性をなだめすかすことができる。理性の最小の怠慢や不注意によってだけでも、一般的かつ自然な想念へと容易に帰還できるのである。そのために、哲学者たちは、この利点を見過ごさない。書斎を離れるやいなや、知覚こそが唯一の対象であり、知覚の中断した現れの全てにおいても、同一性を継続し絶え間なく同じであるという、哲学者たちが論破した一般的見解において、哲学者以外の一般的な人々と交際することを、我々は見い出すのである。
 この哲学的体系について、とても目立った仕方での体系の空想への依存に気づき得る、その他の複数の事項がある。その中の二つについて、以下に述べよう。一つ目は、我々は外的事物が内的知覚に類似する、と想定する点である。既に示したが、因果関係は、知覚の存在や性質から継続した外的事物の存在への正しい推断を、決して与え得ない。そして、このことに加えて、たとえもし、そのような推断を与え得るとしても、外的事物が内的知覚に類似すると推断する理由は、決して少しも無いのである。従って、事物が知覚に類似するという見解は、前述の「空想はその全観念を、先行する知覚から取り入れる」という空想の性質に由来するに違いないのである。我々は知覚以外は決して心にいだき得ない。従って、全てのものごとを知覚に似せざるを得ないのである。
 二つ目は、我々は、一般的に対象が知覚に類似すると想定するのと同様に、あらゆる個別の対象も対象をもたらす知覚に類似する、ということを当然のことだと思う点である。因果関係は、類似の点において他のものごとを結合するように決定させる。つまり、知覚と対象の存在の観念は、因果関係によって、想像の内に、既に相互に結合されていて、我々は自然に、その結合を仕上げるために、類似関係をも加えるのである。我々には、観念間に前もって観察された関係に新しい関係を加えることによって、あらゆる結合を仕上げようとする強い傾向がある。このことについては、やがて言及する機会があるであろう[第五節]。
 以上このように、外的存在に関する一般的体系と哲学的体系の両方の全てについて解明してきたが、両体系を反省する際に生じる、ある感情を吐露することを禁じ得ない。私はこの主題を、感覚に絶対の信頼があるべきだし、感覚への信頼こそ本推論の全体から導き出すべき結論である、と前提して開始した。しかし率直に言えば、全く相反する所感を、目下のところ感じている。即ち、感覚に絶対の信頼を置くよりむしろ、感覚、適切に言えば、想像には、全く信頼を置かない傾向にあるのである。(感覚すなわち)想像の日常ありふれた性質などが、合理的かつ堅実な体系を常に導き得る、という誤った想定によって本論考を導くことは考え得ない。知覚の一貫性と恒常性こそは、知覚の継続した存在の所信を産む。けれども、知覚のそれらの性質には、継続した存在との関連を、少しも認めることはできないのである。知覚の恒常性には、最も顕著な効果がある。にもかかわらず、最も大きな難点をも伴っているのである。類似している知覚が数的に同じであると想定することは、はなはだしい幻想である。この幻想こそ、知覚が感覚に現れていないときでさえ、知覚は中断せずに依然として存在する、という見解に導くものなのである。以上は、一般的体系の場合である。そして、哲学的体系についても、同様の難点を免れえない。さらに加えて、哲学的体系は一般的想定を否認すると同時に確立もする、という不合理をもたらすのである。哲学者たちは、類似している知覚が一致して同じであり中断しない、という一般的想定を否認する。にもかかわらず、哲学者たちには、これらの同一かつ連続という性質が属すると考える、新たな知覚一式(対象)を恣意的に発明するように信じる、非常に大きな傾向があるのである。(哲学者たちの対象を)新たな知覚一式と言う理由は、対象の性質がどんなものであれ、正確に知覚と同じであり、対象を知覚から区別して考えることは不可能だと、一般的に申し分なく想定できるからである。そういう事情ならば我々は、この根拠の無い混同(一般的体系)と風変わりな見解(哲学的体系)から、誤信と偽り以外に何を見い出し得るであろうか? そして、いかにして我々は、いずれかの体系を信頼するという確信を正当化できるであろうか?
 以上の理性と感覚の両者に関する懐疑的な疑いは、決して徹底的には解決できない悪癖であり、いかに追い払うことができて時に完全に解放されたように見えても、絶えず再発するに違いないのである。(この疑いから)我々の知性か感覚を擁護し支持することは、どんな体系にも不可能である。体系のような仕方で知性や感覚を正当化しようと努めるとき、我々は知性や感覚に対する疑いをさらに露呈するほかないのである。この懐疑的な疑いは、上述の主題に対する深遠かつ熱心な省察から自然に生じるので、疑いに対立するにせよ従うにせよ、省察を進めていくほど、疑いは常に増すのである。無頓着と不注意だけが、逆に我々にあらゆる救済を与え得る。この理由で、無頓着と不注意に、私はもっぱら頼っている。そして今現在、読者の見解がどんなものであったとしても、一時間後には、読者は内的世界と外的世界の両方が存在することを確信している、ということを私は当然のことだと思うのである。そして次節以降、この想定に基づいて考察を進める。まず、古代と近代の両方の概括的体系を考察することを企図し、その両方が完了した後で、我々の印象に関する、より詳細な探求を進める。おそらくこのことは、最終的には、目下の目的と無関係ではないことがわかるであろう。


第三節 古代哲学(スコラ哲学)について


 いく人かの実践家たちは、我々の本心を知ることができる、また、我々の徳の発達を知ることができる、優れた方法として、朝目覚めたときに夢を思い出すことを、そして、最も真剣かつ慎重な行動と同じ厳格さで夢を吟味することを推奨してきた。実践家たちが言うには、我々の性格は夢の中でも終始同じであり、夢の中では、策略、恐れ、深慮の余地はなく、また、自分に対しても他人に対しても偽善者ではあり得ないので、最も適切に性格が現れる、ということである。夢の中では、我々の気性の、寛大や卑劣、柔和さや残酷さ、勇気や臆病は、最も抑制されずに自由に想像の虚構に影響し、そして、最も歴然とした本性を自ずと暴露する、とのことである。同様に、「実体、実体的形相、偶有性、秘密性質」に関する古代哲学(スコラ哲学)の虚構についての批判から、いくつかの役に立つ発見がなされるであろうと確信する。その虚構が、どんなに不合理かつ気まぐれであろうとも、人間本性の原理と非常に密接な関連があるからである。
 最も賢明な哲学者たちによって認められていることだが、我々の物体の観念は、事物を構成する、そして、相互に恒常的連接があることを見い出す、いくつかの個別の感じられる性質の諸々の観念の、心によって造られた集積に他ならない。観念の元の諸性質が、それ自身では全く別個であるにもかかわらず、我々は一般的に、諸性質が構成する合成物(である物体の観念)を、「一つの」ものとして、非常に激しい変化の下でも「同一」を継続しているものとして、みなしていることは確かである。一般に認められている合成物は、この想定された「単一性」と明らかに相反し、そして、合成物の変動は「同一性」に相反している。従って、合成物を単一物とみなすような明らかな矛盾に、ほとんど例外なく陥るようにさせる「原因」に加えて、その矛盾を隠そうと努める「手段」をも考察することは、(スコラ哲学の虚構を批判するために)価値があるに違いない。
 明らかに、事物のいくつかの個別の「継起する」性質についての観念は、非常に緊密な関連によって相互に結合されるので、心は、継起に沿って見るとき、一つの部分から他の部分へ容易な推移によって導かれるに違いなく、まるで同一の不変の対象を観察するのと同様に、その変化を感じない。この容易な推移は、緊密な関連の結果、というよりは、特質である。結合された観念の心に与える影響が類似する場合、想像は容易に一つの観念を他の観念と思うので、従って、緊密に関連された諸性質の継起は、一つの継続した何ら変化なく存在する事物として容易に考えられるようになる。思考(想像)の円滑で連続した進行は、諸性質の継起も継続した一事物も両方とも同様なのであり、容易に心をだまして、結合された諸性質の変化する継起に、同一性を帰するようにさせるのである。
 しかし、この継起を考える方式を変えるとき、即ち、時間の継起する点を通って徐々に追跡する代わりに、時間の持続する期間の任意の二つの別個の時期を同時に概観し、継起する諸性質の異なる状態を比較する。その場合、徐々に発生したときは感じられなかった変化は、今や大きな結果として現れて、完全に同一性を破壊するように見える。このように、対象を概観する視点を代えることによって、即ち、互いに比較する時間の時点を近接から遠隔に代えることによって、思考の方式において、一種の相反する事実が生じるのである。対象の継起する変化において、対象を徐々に追跡するときは、思考(想像)の円滑な進行は、同一性を継起に帰するようにさせる。なぜなら、心の類似する活動によって、我々は不変の事物とみなすからである。一方、相当な変化の後の状況で比較するとき、思考(想像)の進行が中断され、その結果として、多様性の観念が生じるのである。この矛盾を調和させるために、想像は、あらゆる変化の下でも同じであり続けると想定される、非知、かつ、非視の何かを、捏造する傾向がある。即ち、このはっきりとは理解・表現されないものを、「実体、または、根源的第一質料」と呼ぶのである。
 我々は、実体の「単純性」に関して、同様の想念を同様の原因から抱く。例えば、ある対象が完全に単純かつ不可分に現れていて、加えてもう一つの対象があり、二つの対象の「同時に存在する」部分が、強い関連によって相互に結合されている、と仮定する。明らかに、これらの二つの対象を考える際の心の活動は、たいして異ならない。想像は、すぐに単純な対象を心にいだく。容易に、思考のただ一つの努力によって、変化や変動なくして。複数の部分からなる対象における各部分の結合には、ほとんど同じ影響があり、想像は、心の中で対象を結合するので、一つの部分から他の部分へ移る際に変化を感じない。よって、色、味、形状、固性、その他の諸性質は、例えば、一個の桃やメロンにおいて結合され、「一つの」物を構成するように想像される。その理由は、諸性質の緊密な関連が、まるで完全に複合されていない単純なものと同様に、諸性質を思考(想像)に作用させるためなのである。しかし、心はここに留まらない。心が別の見方で対象を見るときはいつでも、これらの全ての諸性質は相互に、異なり、区別でき、分離可能だということを見い出す。この物の見方は、その最初の(単純な)想念、つまり、より自然な想念を破壊し、これらの諸性質の間の連合や結合の原理として、即ち、物の多様性と合成された状態にもかかわらず、合成物に一つの物とみなされる称号を与え得る原理として、未知の何か、言い換えて、「根源的」実体や質料を捏造することを想像に余儀なくさせるのである。
 ペリパトス派の哲学は、全ての物質において「根源的」質料が完全に同質であると断言し、地水火風の四大元素も、漸進的に循環して相互に成り変わるので、正に同じ実体から成る、と考える。同時にペリパトス派は、事物の種類の各々に個別の「実体的形相」を割り当て、実体的形相を、事物が保持する全ての異なる諸性質の源であり、また、各個別の種類にとって、単純性と同一性の新たな基盤である、と想定するのである。全ては、事物を見る我々の仕方に依存している(と考える)のである。物体の感じられない変化に沿って見るときは、我々は物体の全てを同じ実体や本質から成ると想定する。物体の感じられる違いを考えるときは、我々は物体の各々に、実体的かつ本質的違いが属すると考える。そして、物体を考える際のこの二つの仕方の両方において自らを満足させるために、我々は、全ての物体には実体と実体的形相が同時にある、と想定するのである。
「偶有性」の概念は、実体と実体的形相に関する、以上の思考方式の避け難い帰結である。我々は、物体の、色、音、味、形状、その他の諸特性を、別々には存続できない存在、自らを支持かつ持続するために内属する実体を必要とする存在、として見ることを控え得ない。というのは、上述の理由で、実体が存在することを同様に想像しない場合は、これらの感じられる諸性質は、決して発見されないからである。原因と結果の間の結合を我々に推論させるのと同じ習慣が、ここでも、全ての性質が未知の実体に依存する、と我々に推論させるのである。依存を想像する習慣は、依存を観察する習慣が持つであろう影響と同じ影響を持つ。しかしながら、この偶有性の妄想は、前述の妄想(実体)と同じく合理的ではない。他のものから異なるものである一切の性質は、別々に存在していると考えられ、あらゆる性質は、他の性質から離れて存在し得るだけでなく、はっきりとは理解・表現されない妄想である実体からも離れて存在し得るのである。
 ペリパトス派の哲学者たちは、彼らの虚構を、「秘密性質」についての彼らの意見においてまでなおさら進んで及ぼし、秘密性質を支持している実体という不可解なものを想定するとともに、秘密性質に支持されている偶有性という欠陥観念として持つものをも想定する。従って、その全体系は、全く理解不能であり、既述の諸原理と同じく、依然として、自然の諸原理に由来するのである。
 この主題を考察する際に、我々は三つの見解の段階を観察できよう。その三段階は、それらの見解を造る者たちが、理性と知識の新たな階梯を身につけるのに応じて上昇する。その三段階とは、一般大衆の見解、誤った哲学の見解、正しい哲学の見解である。探求において見い出すところでは、正しい哲学は、誤った哲学の意見よりも、一般大衆の意見の方に、より近づいている。一般大衆の共通で有りのままの考え方では、恒常的に相互に連接されていることが見い出される事物間に、結合を知覚すると想像することが自然である。そして習慣は、(事物間の)諸観念を分離することを困難にしていたので、事物間の分離を、それ自体、不可能かつ不合理であると想像しがちである。しかし哲学者たちは、習慣の影響を取り除き、事物間の諸観念を比較して、一般大衆の意見の誤りに直ちに気づき、事物間には既知の結合は存在しないことを見い出す。一切の異なる事物は、哲学者たちには、全く別個かつ分離している、と見える。哲学者たちは、自然の見方つまり事物の諸性質に基づいて、我々は一つのものから他のものへ推論するのではなく、いくつかの実例において、今までに恒常的連接が観察されてきたときだけ推論するのである、ということに気づく。けれどもこの哲学者たちは、この観察から正しい推論を導くことはなく、即ち、我々には、心から切り離して原因に属する、能力や作用の観念は全くない、と推断することはない。まことに、この推断を導くことなく、哲学者たちは度々、この作用が存する性質を探し求め、この推断を解明するために理性が示唆する一切の体系を好まない。哲学者たちは、いくつかの感じられる性質と物質の活動との間に自然的かつ知覚できる結合がある、という一般大衆の誤りから脱出するための精神的能力は十分に持っている。しかし、物質や原因の内にこの結合を決して探し求めないでおく精神的能力は十分ではない。哲学者たちは、正しい推断を目の当たりにしたとしても、一般大衆の立場に差し戻されてしまい、事物間の結合を否定する論考の全てを、怠惰と無関心をもって眺めるのである。この時点における哲学者たちは、非常に嘆かわしい状態にあるようである。それは例えば、詩人たちが、シーシュポスやタンタロスの罰の描写において与えてきた気が遠くなる想念のようである。というのは、永遠に飛び去るものを熱心に得ようとすることほど、つまり、決して存在し得ないところに探し求めることほど、人をひどく苦しめることを想像できるであろうか?
 けれども自然は、あらゆるものごとにおいて、ある種の公平や代償を遵守しているように見えるので、哲学者たちを、創造の残余の恵みより除外することなく、全ての失望と悩みの種の真っ只中に慰めを残しておいている。この慰めは主として、「能力」や「秘密性質」という言葉の創作に存する。というのは、日常的に経験することだが、実際に重要かつ明瞭な言葉を度々使用した後では、この言葉によって表現されていた観念が省略され、随意に観念を思い出す習慣だけが保持される。だから、当然起こることだが、全く重要ではなく不明瞭な言葉を度々使用した後でも、重要な言葉の場合と同じく、省察によって発見されるかもしれない秘密の意味がある、と我々は想像するのである。両者の見かけの類似は、日常的に心をだまして、徹底的な類似と適合を想像させるのである。こうして哲学者たちは安心し、一般大衆が愚かさによって、誠実な哲学者たちが適度の懐疑によって、到達するのと同じ平常心に、思い違いによって、やっと到達するのである。必要なことは、どんな頭を悩ます現象も、能力や秘密性質から生じる、と言うことだけであり、すると、問題についての全ての議論と探求は終わるのである。
 ペリパトス派が示してきた全実例の中で、彼らは、想像に属するありふれたことごとくの傾向によって導かれてきたが、彼らの「物質間の共感」「物質間の反感」「真空の嫌悪」より、注目すべき実例は他にない。そこには(擬人化という)人間本性における非常に注目すべき傾向があり、心が自らに観察するのと同じ感情を外的事物に与え、心に最も多く現れる観念を、至る所に見い出すのである。この傾向は、少しの省察によって止められるので、子どもたちや、詩人たちや、旧式の哲学者たちに生じるだけである。子どもたちにおいては、自らを傷つけた石を、殴ろうとする欲望に現れている。詩人たちにおいては、あらゆるものごとを即座に擬人化することに現れている。そして旧式の哲学者たちにおいては、物質間の共感や反感の虚構に現れている。我々は、子どもたちを未だ幼い故に、詩人たちを自らの想像の提案に無条件に従うと公言する故に、大目に見る必要がある。しかし、非常に注目すべき欠陥状態にある、旧式の哲学者たちを正当化するために、どんな言い訳が見い出せるであろうか?


第四節 近代哲学(経験論哲学)について


 しかし、ここにおいて反論があり得る。即ち、想像は、本書の認めるところによれば、哲学の全体系の根本的・最終的な判断者・決定者であるので、旧式の哲学者たちが想像の機能を使用して、自らの推論において想像により全く導かれるままに任せている、故に批難するのは不当ではないか、という反論である。旧式の哲学者たちへの批難を正当化するためには、想像における二つの原理を、明確に区別しなければならない。一つ目の原理は、永久的、圧倒的、普遍的な原理であり、原因から結果へ、また、結果から原因への習慣的な移行が基づく原理である。二つ目の原理は、変わりやすく、弱い、不規則な原理であり、今まさに注目している旧式の哲学者たちの虚構が基づく原理である。一つ目の原理は、我々の思考と活動の全ての基盤であり、そのため、この原理を除去すれば、人間本性は直ちに消滅し滅亡するに違いない。二つ目の原理は、人類にとって不可避でも不可欠でもなく、処世において役に立つわけでもない。それどころか、弱い心に生じるのみだと観察されていて、習慣と推論についての一つ目の原理に対立するので、相当の対照となるものや対抗するものによって容易に破壊され得る。この理由のために、一つ目の原理は哲学に容認され、二つ目の原理は否認される。例えば、暗闇の中で明確に発音された声を聞いたとき、誰かが近くにいると推断する者は、自然当然に推論・判断している。もっとも、その推断は習慣に由来するに他ならず、その習慣が、日ごろの連結のために、目下の印象がきっかけとなって、人間が創造した観念を、銘記させ活気づけるのである。一方、暗闇の中で幽霊を恐れて、訳も無く苦しみ怯えている者も、おそらく、自然に推断していると言われるかもしれない。けれども、その場合は、病気が、人間の最も快い最も自然な状態である健康と相反するにもかかわらず、自然の原因から生じるという理由で、病気は自然なことだと言われる際と同じ意味に違いないのである。
 旧式の哲学者たちの見解、実体と偶有性の虚構、実体的形相と秘密性質に関する推論もまた、暗闇の中の幽霊と同様であり、一般的な原理とはいえ、人間本性において普遍的でも不可避でもない原理に由来する。「近代の(経験論)哲学」は、この欠陥から完全に脱していると称し、想像の堅実で永久的かつ首尾一貫した原理にのみ由来すると自任する。この自任が、いったいどんな根拠に基づくのか、ということが本節の主題なのである。
 近代の(経験論)哲学の基本的原理は、色、音、味、匂い、熱い、冷たい、など(の知覚)についての見解である。その見解は、知覚は外的事物の作用に由来し、事物の諸性質には何ら類似しない、心の中の印象に他ならない、と主張する。調べてみると、この見解のために一般的に提示された理由の内、得心がいく理由はたった一つだけだということが分かった。その理由は即ち、たとえ外的事物が全ての現れにおいて同一を継続するときでも、知覚が心の中の印象の変化に由来するということである。印象の変化は、以下のいくつかの事情に依存する。一、健康の異なる状態に依存する。例えば、病中の人が、健康なときに最も好んでいた食物の味を不味いと感じる。二、各人各様の気質や体質に依存する。例えば、他の人には甘いものが、ある人には苦く思われる。三、人間の外的な状態や位置の違いに依存する。例えば、雲から反射する色は雲との距離に応じて、つまり、雲が眼と発光体と成す角度に応じて変化する。炎もまた、ある距離では快い感覚を伝えるが、他の距離では苦痛の感覚を伝える。この種の実例は、非常に数多くあり、度々経験される。
 これらの実例から引き出される結論も、同様に、想像し得る限りの得心がいく。即ち、同じ感覚について異なる印象が事物から生じるとき、異なる印象のことごとくは、事物における実在する類似性質を持たないことは確かである。というのは、同じ事物は、同時に、同じ感覚について異なる性質を与えられ得ないので、また、同じ性質は、全く異なる複数の印象に類似し得ないので、明らかに当然の結果として、印象の多くは、外的な手本や原型を一切持たないのである。さて、同様の結果からは同様の原因が推定されるものである。色や音などの印象の多くは、内的な存在に他ならず、決して事物と類似しない原因から生じると認められる。この内的な印象は、現れにおいて、色や音などの他の(感覚)印象と全く違いは無い。従って、印象の全ては、同様の起源から生じる、と結論される。
 この原理がいったん認められれば、経験論哲学の他の全ての学説も、容易な帰結によって理解できるように思える。というのは、継続した独立存在の地位からの、音、色、熱い、冷たい、その他の感じられる性質の除去によって、我々は、第一性質と呼ばれるものだけを、十分な想念を持つ唯一「実在する」ものとして余儀なくさせるからである。第一性質とは、延長と固性、とともにそれらのいろいろな混合と変容である、形状、運動、重力、凝集力である。動物や植物の、発生・産出、増殖、衰退、腐敗は、形状や運動の変化に他ならない。全物体の相互作用や、地水火風光の作用、つまり、自然の全元素と全能力の作用もまた同様である。一つの形状と運動は、もう一つの形状と運動を産む。物質的宇宙には、この形状と運動の変化より他に原理は無く、能動的にも受動的にも、他に最もかすかな観念でさえ造り得ない。
 以上の体系に対して、多くの反論が可能であろう。しかし目下のところは、私の見解では非常に決定的である一つの反論に限定しよう。即ち、この体系の方法に従えば、外的事物の作用を解明するどころか、全く外的事物の全てを無に帰して、外的事物に関する最も途方もない懐疑主義の見解を、余儀なくさせられるのである。もし、色、音、味、匂い、が単に知覚に過ぎないのならば、我々が思うことができる何ものも、実在する継続した独立の存在を持たない。第一性質であるとたいてい主張されている、運動、延長、固性でさえ、例外ではないのである。
 第一性質の内、まず運動の検討から始める。明らかに運動は、単独では、つまり、何か他の事物との関係がない場合では、全然想像できない性質である。運動の観念は必然的に、物体の移動の観念を想定するのである。さて、逆に移動する物体の観念というものは、運動の観念なしに理解できないものであろうか? 移動する物体の観念は、延長や固性の観念に分解されるに違いないのである。そして、その結果、運動の実在性は、延長や固性の性質の実在性に依存する。
 運動に関して普遍的に認められている以上の見解は、延長に関しても正しいことを既に証明した(第二部第三節)。即ち、色や固性を与えられた部分の複合として考える以外に、延長を考えることは不可能であることを既に示した。延長の観念は、複合観念である。けれどもそれは、部分や下位観念の無限数の複合ではないので、分割の最後には、完全に単純かつ分割できないような部分に分解されるはずである。この単純かつ分割できない部分は、延長の観念でありえず、色や固性として考えない限り実在し得ない。(第二性質の)色は、実際の存在から除外されている。従って、延長の観念の実在性は、固性の観念の実在性に依存していて、固性の観念が空想的である限り、延長の観念は十分根拠のある正当なものではあり得ない。それでは、固性の観念の検討に注意を向けよう。
 固性の観念は、二つの事物の観念が、最大の力によって押しつけられても相互に透入し得ず、依然として別々かつ別個の存在を維持することである。従って固性は、単独では、つまり、固性があるいくつかの物体の概念がなくしては、別々かつ別個の存在の維持なくしては、全く理解できない性質である。さて、これらの複数の物体について、いったいどんな観念を我々は持つだろうか? 色、音、その他の第二性質の観念は、除外されている。運動の観念は延長の観念に依存し、延長の観念は固性の観念に依存している。従って、固性の観念は、これらのいずれの観念にも、依存し得ないのである。というのは、循環に陥ってしまうからであり、つまり、甲観念を乙観念に依存させると同時に、乙観念を甲観念に依存させることになるからである。従って、近代の経験論哲学は、正しい、あるいは、十分な固性の観念を残さない。即ち、その結果、十分な物質の観念も与えないことになるのである。
 以上の議論は、これを理解する全ての人にとっては、全く決定的だと思われるだろう。しかし、読者の大多数にとっては、難関かつ複雑に見えるであろうから、言い回しを変えることによって、より理解し易くするように努めること(繰り返しの議論)を容赦願いたい。固性の観念を造るためには、少しも透入なくして、相互に圧し合う二つの物体を考えなければならない。つまり、他の物体を一切考えないで、一つの物体に限るときは、固性の観念に至ることは不可能である。二つの存在が無ければ、今ある場所から相互に排除し合うことはできない。なぜなら、非存在は決して少しも場所を持たないし、少しも性質を与えられ得ないからである。ここで尋ねるが、固性が属すると我々が想定する物体や事物について、我々はいったいどんな観念を造るのだろうか? 単に、固体として考えられるもの、と言うことは、「無限循環」に陥ることである。延長したものとして想い描くもの、と主張することも、全てを偽の観念に帰すか、あるいは、循環論に陥ることである。というのは延長は、色か固性かどちらかとして必然的に考えられなければならないが、色は(事物の観念としては)偽の観念であり、固性は元の問題に戻ることになるからである。(他の第一性質の)運動や形状に関しても、我々は同様の見解を適用できよう。全体的に結論すると、外的存在の地位から、色、音、熱い、冷たい、など(の第二性質)を除外してしまうと、物体の正当かつ構成要素となる観念を与え得るものは、何も(第一性質でさえ)残らないことになるのである。
 以上に加えて適切に言えば、固性つまり不可透入性とは、既に[第二部第四節で]言及したように、消滅の不可能性に他ならない。この理由のために、その消滅が不可能だと想定する事物の、いくつかの別個の観念を造ることが、我々にはより不可欠なのである。消滅の不可能性だけでは存在し得ない。言い換えると、消滅の不可能性自身によっては存在することを決して想い得ない。つまり、必然的に、消滅の不可能性が属し得る、ある事物や実際の存在が不可欠なのである。目下のところ、感じられる第二性質に頼ることなしでは、この事物や存在の観念を、いったいどのようにして造るのか、という困難が依然として残るのである。
 目下の場合でも、観念が由来する印象を考察することによって観念を吟味する、という本書のいつもの方法を怠るべきではない。見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうことによって浮かぶ印象は、少しも類似する対象がないことは、近代の経験論哲学によって肯定されている。その結果、実在すると想定される固性の観念は、これらの感覚のいずれからも決して由来し得ない。従って、固性の観念の起源である印象を伝え得る唯一の感覚として、触感が残るだけである。そして実際に我々は、物体の固性に触れるし、固性を感じるためには対象に接触する以外ない、と自然に想う。けれども、この思考方法は、一般的ではあるが哲学的ではない。その理由は、次の二つの考察によって明らかになるであろう。
 第一に、容易に言えることだが、物体はその固性によって触れられるにもかかわらず、そもそも、触感は固性とは全く違うものであり、相互に少しも類似点は無いのである。例えば、片方の手が麻痺した人が、触感が無い方の手を机についていることを観るときも、触感が有る方の手を机についていることを感じるときと同様に、不可透入性の観念を完全に持つのである。体のどの部位でも圧する事物は、抵抗に当たる。そしてその抵抗は、神経や動物精気に与える運動によって、心に或る感覚を伝える。しかし、感覚、運動、抵抗は、どんな方式でも類似することにはならないのである。
 第二に、接触の印象は単純印象である。ここでは、目下の目的には関係がないので、接触の印象の延長に関する考察は除外する。この単純性に基づけば、接触の印象は固性を意味することはなく、また、いかなる実際の事物をも表すことはない。というのは、例えば、二つの場合を挙げよう。即ち、一つは、手で石つまり固体の物体を押す人の場合、もう一つは、二つの石が相互に押し合っている場合である。この二つの場合は、全ての点において同様ではなく、人が石に触れる場合は、固性と触感つまり感覚は結合されているが、石どうしが触れる場合は感覚の現れが一切ない、ということが直ちに認められるだろう。従って、この二つの場合を同様にするためには、手つまり感覚器官によって人が感じる印象の、ある部分を除去する必要がある。しかし、単純印象においては部分の除去は不可能なので、触感の印象の全てを除去することを余儀なくさせられる。即ち、触感の全印象には外的事物の原型や手本は無いということが証明されるのである。これに加えて、固性は必然的に、近接と衝撃とともに二つの物体を想定する、ということが挙げられる。これらは複合対象であるので、単純印象によって決して表し得ないのである。また、言うまでもなく、固性は常に変わりなく同じであり続けるけれども、接触の印象は瞬間ごとに変化する。このことは、接触の印象は、固性の対応物ではないことの明白な証拠である。
 このように、我々の理性と感覚との間には、直接的かつ全的な対立がある。より適切に言えば、因果関係に基づいて造られる推断と、物体の継続かつ独立した存在を確信させるものとの間には、相容れない対立があるのである。因果関係に基づいて推論する場合は、色、音、味、匂いなどには、継続かつ独立した存在は無い、と推断される。即ち、これらの感じられる性質を除外する場合は、継続かつ独立した存在を有するものは、人間の宇宙には一切残らないのである。


第五節 精神の非物質性について


 外的事物についての全ての体系において、また、我々が明白かつ明確に想う物質の観念において、以上のような矛盾や難点を見い出してきたので、内的知覚についての全ての仮説において、また、我々が物質よりいっそう不明瞭かつ不明確だと想いがちな心の性質において、当然、さらに重大な矛盾や難点を予期するであろう。けれども心の性質について、我々は思い違いをしているはずである。精神の世界は、無限の不明箇所を伴うにもかかわらず、物質の世界に見い出されるような矛盾には、少しも困らせられることはないのである。心の性質について知られることは、心自身と一致する。そして、不明のことは、不明のままにしておく以外にない。
 なるほど、とある哲学者たちが、我々の心の不明を減ずることを約束しているのを聞くであろう。だがしかし、残念ながらその約束は、主題である精神世界が自然に免除されている矛盾に、陥る危険にさらされることなのである。このとある哲学者たちは、知覚が内属する実体を仮定して、その実体は物質的か非物質的かと問う奇妙な議論をする者たちである。知覚が内属する実体は物質的か非物質的かという終わりのない不毛な議論を停止させるためには、次の短い質問をするのが一番良い。即ち、「そもそも実体や内属という言葉によって、いったい何を意味するというのか?」この質問に完全に答えた後ならば、そのとき初めて、議論は筋の通った議論になるであろう。それまでは、まともな議論になることはない。
 この質問は、物質と物体に関して答えることは不可能であることが既にわかっている(第三節)。心に関してもなおまた同様の困難の全てに悩み、さらに心の主題に特有のいくつかの追加の困難にも悩むことになるのである。あらゆる観念は先行する印象に由来するので、我々が心の実体の観念を持つのならば、心の実体の印象も持つのでなければならない。心の実体の印象を持つことは、不可能ではないと思うとしても、それは非常に困難なことである。というのは、印象が実体に類似すること以外に、印象が実体を表し得る方法はあるであろうか? 言い換えると、印象が実体に類似し得る方法はあるであろうか? なぜなら、実体という言葉を用いる哲学によれば、印象は実体ではなく、また、印象は実体の特有の性質つまり特質を一切持たないからである。
 しかし、「実際にはどうなのか」という質問のために、「可能なのか不可能なのか」という質問をやめて、心の実体の観念を持つと称する哲学者たちに、心の実体の観念を産む印象を指摘することを、また、その印象がどのように作用し、どんな対象から由来するか、明確に告げてもらいたい。その印象は、感覚の印象か、あるいは内省の印象か? その印象は、心に快いか、苦しいか、あるいは中立か? その印象は、常に伴うのか、あるいは間欠的に戻るのみか? 間欠的だとすると、主にどんな時に戻るのか? 戻る際の産み出される原因は何か?
 もし、これらの質問に答える代わりに、ある者が次のように言うことによって、この困難を避けるならば、即ち、実体の定義は「それ自身によって存在できるもの」であり、この定義で十分満足すべきである、と。このように言われるのならば、対して次のように言うことができる。即ち、この定義は、考えることができるものなら何でも、一切のものに符合する。つまり、実体を偶有性から、また、精神をその知覚から、区別するのに決して役立たないであろう。というのは、次のように推論されるからである。即ち、明晰に想われるものは何でも、存在し得る。言い換えると、どんな様式であれ、明晰に想われるものは何でも、同じ様式で存在し得るのである。この推論は、既に(第一部第七節で)認められた一つの原理である。そのうえ、想像によって、異なるものは全て区別できるし、区別できるものは全て分離できる。この推論も、既に(第一部第七節で)認められたもう一つの原理である。この二つの原理に基づく推断は以下である。即ち、全ての知覚は相互に異なっているし、宇宙の中の他の一切のものとも異なっているので、全知覚は、また別個でありかつ分離できる。つまり、分離した存在として想われ得るので分離して存在できる。即ち、全知覚は、その存在を支持するために、どんなものをも必要とはしないのである。従って、上記の定義が実体を説明する限り、全知覚も実体になってしまうのである(ゆえに、この定義は無意味である)。
 このように、観念の最初の起源を考えることによっても、定義を用いることによっても、実体のどんな納得できる想念にも到達し得ないのである。このことは、精神の物質性と非物質性に関する議論を、完全に捨て去ることに、十分な理由だと思える。つまり、精神が内属する実体は物質的か非物質的かと問う質問自体でさえも、完全に不適当なことだと判断させるのである。我々は知覚についての観念以外には、少しも完全な観念を持たない。実体は知覚とは全く異なるものとされている。従って、我々は実体の観念を少しも持たないのである。何かに内属することは、知覚の存在を支持するために必須である、と仮定されていた。しかし、知覚の存在を支持するために必須であるものは、何も無いと思われる。従って、我々は内属の観念を持たない。「知覚が内属するのは物質的実体なのか非物質的実体なのか」と問う質問の意味を、理解することさえしていないのに、その質問に答えることは、いかにして可能であろうか?
(以上とは別に)精神の非物質性のために一般的に用いられている一つの論拠があり、そのことは特筆すべきことだと思われる。即ち、延長のあるものは全て、部分から成る。そして、部分から成るものは全て、実際には分割されなくとも、少なくとも想像においては分割できる。そして、分割できるものは全て、全く分離不能かつ分割不能(非延長的)である思考や知覚とは、「結合」することは不可能である。というのは、そのような結合を仮定すると(不合理な帰結となるからである。即ち)、分割不能な思考が、延長のある分割可能な物体の左右どちら側に存在するのであろうか? 表面に在るのか内部に在るのか? 裏側に在るのか表側に在るのか? もし思考が延長と結合するのならば、思考は延長の広がりの内のどこかに存在するはずである。そして、もし思考が延長の広がりの内に存在するのならば、ある特定の部分に存在するか、全ての部分に存在するか、いずれかに違いない。特定の部分に存在するのならば、その部分は分割不能であり、知覚はその分割不能部分とだけ結合し、延長とは結合しない。全ての部分に存在するのならば、思考は物体と同様に延長を持ち、分離可能かつ分割可能に違いない。しかしこれらは、全く不合理かつ両立しない。というのは、一ヤード長、一フィート幅、一インチ厚さの感情を、誰か想い得るだろうか? 従って、思考と延長とは、完全に両立しない性質であり、一つの主体の中に決して結合し得ないのである。
 この精神の非物質性の論拠は、精神の「実体」に関する問題には影響を及ぼさず、ただ、精神と物質との「局所的結合」に関する問題にのみ影響を及ぼす。従って、局所的結合が、どんな事物に可能か、あるいは、不可能かを、一般的に考察することは不適切ではないだろう。これは好奇心をそそる問題であるし、また、二三の考察に値する重要な発見に導くであろう。
 空間と延長の最初の想念は、ただ単に視覚と触覚から由来する。つまり、有色や可触的なもの以外は、空間観念を伝えるように配置された部分を持つものは無いのである。(他の知覚を検討すると、)風味が増減する場合は、可視的な対象の増減と同じ様式ではない。二三の(離れた音源の)音を続けて聞く場合は、(聴覚は空間に対して本源的ではなく、)ただ習慣と内省だけが、音から由来する物体の距離と近接の程度の観念を、造るようにさせるのである。(次に内的印象を検討すると、)存在の場所を示すものは全て、延長であるか、あるいは部分や成分のない数学的点であるか、いずれかに違いない。延長であれば、四角形や円形や三角形などの特定の形状があるはずだが、どんな形状も、欲望(などの内的印象)には適合しないであろう。いや実際のところ形状は、上述の視覚と触覚の二つ以外は、どんな印象や観念にも適合しないであろう。また、欲望(などの内的印象)を、同様に分割不能だが、数学的点として考えるべきでもない。というのは、数学的点として考えると、その他の欲望を加えることによって、二つの欲望、三つの欲望、四つの欲望、と成すことができるであろうし、ある明確な長さ・幅・厚さがあるように、それらを配置かつ位置させることができるからである。これは、明らかに不合理である。
 空間観念を本源的に伝えるものは視覚と触覚だけであることが納得できれば、いく人かの形而上学者たちに批難され、また、人間理性の最も確かな原理に反すると思われる、一つの原則を提案したとしても驚くことはないであろう。その原則とは、即ち、「どこにもない(視触に捉えられない)にもかかわらず、事物は存在し得る」。断言するが、このことは可能であるだけでなく、存在物の大部分が視覚や触覚には捉えられないように存在しているに違いないのである。ある事物がどこにもないと言われるのは、その各部分が部分相互について、形状や量を造るようには、少しも位置させられないとき、あるいは事物全体が、他の物体について、近接や距離の想念を答えるようには、位置させられないときである。では、このことは明らかに、視覚と触覚以外の、全ての知覚と対象の場合なのである。精神的内省は、感情の右側にも左側にも位置し得ないし、匂いや音は、円形や四角形のいずれでもあり得ない。これらの対象や知覚は、決して少しも特定の場所を必要としない、それどころか、絶対的に特定の場所と両立しないし、想像でさえも、場所が、それらの対象や知覚に属するとは、考えられ得ないのである。そして、それらの対象や知覚はどこにもない、と想定することを不合理だとすることはどうかと言えば、もし、感情や情緒が、特定の場所があるように知覚に現れるとすれば、延長観念が視覚や触覚に由来するのと同様に、感情や情緒に由来することになる、と考えられる。しかしこれは、既に確立したことに相反している(第二部第三節)。もし、感情や情緒が特定の場所がないように「現れる」のならば、特定の場所がないような仕方できっと「存在」し得る。なぜなら、想うことは全て、在り得るからである。
 今や証明する必要はないことであるが、単純かつどこにもない知覚は、延長があり分割可能な物質や物体と、場所において少しも結合することはできない。なぜなら、ある共通の性質に基づかない限り、関係を築くことは不可能だからである。むしろ、より注意に値することは、事物の局所的結合という問題が、精神の性質に関する形而上学的議論において発生するだけでなく、日常生活においてでさえ、我々はあらゆる機会に局所的結合を検討する機会がある、ということである。例えば、机の一方の端にイチジクの実があり、もう一方の端にオリーブの実がある、と考えると仮定すると、明らかに、二つの物質の複合観念を造ることにおいて、最も明白な観念の一つは、二つの異なる食味の観念である。また同様に明らかに、我々は、この食味の性質と有色や可触的であるような性質とを合体・結合させる。一つのものの苦味と、もう一つのものの甘味は、まさに可視的物体に存すると想定され、二つの果実は、机の端から端までの長さによって互いに分離されている、と想定される。このことは、非常に著しく自然な幻想であるので、その幻想が由来する原理を考察することは適切であろう。
 延長がある事物と場所や延長なしに存在する事物とを、場所において結合することは不可能であるにもかかわらず、両者は多くの関連が可能である。例えば、果実の味や匂いは、色や感触についての果実の他の性質と分離できない。そして、どちらが原因か結果かに関わらず、確かに両者は常に共に存在している。否、一般的に共に存在しているだけでなく、心の内の両者の現れは、共に同時である。つまり、我々の感覚に延長した物体が適用されると、その特定の味や匂いが感じられるのである。それでは、この「因果」関係、つまり、延長がある事物と特定の場所なしに存在する性質との間の「両者の現れの時間的接近」は、心に著しい影響を及ぼすに違いないので、一方が現れると直ちに他方の観念へと、心は思考を向けるであろう。さらにこれだけではない。我々は両者の関係のために一方から他方へと思考を向けるだけでなく、そのうえ、新たな関係を両者に与えるように努める。即ち、「場所における結合」の関係であり、これによって、より容易かつ自然に観念の移行を為すためである。というのはそれは、人間本性において度々気づく機会があるであろう一つの性質、その性質は適切な個所でより十分に説明されるであろうが、複数の対象が或る関係によって結合されているとき、我々は、その結合を完全にするために或る新たな関係を加える強い傾向がある、という性質だからである。我々が複数の物体を配置する際、類似しているものを互いに接近させて配置しない、ということは決してない。あるいは、少なくとも、視界の対応する点に配置させる。なぜだろうか? なぜなら我々は、近接関係を類似関係に加える際に、言い換えると、位置の類似を性質の類似に加える際に、満足を感じるに他ならないからである。この傾向の効果は、特定の印象とその外的原因との間に、我々が非常にたやすく想定する類似において既に言及した[第二節末の前]。しかし、この傾向の最も明白な効果を見い出すのは、目下の実例以外にはないだろう。それは、二つの事物間の因果関係と時間的近接関係から、両者の結合を強めるために、さらに加えて、場所における結合の関係を捏造する場合である。
 例えば、イチジクの実のような延長した物体とその特定の風味との間に、我々が場所における結合についての、どんなに混乱した想念を造り得るとしても、内省してみれば、この結合は全く理解できない矛盾したものだと言わざるを得ないことは確かである。というのは、一つの明白な質問を自問するはずだからである。その質問とは、即ち、そもそも、物体の状況において含まれると考えられる風味は、物体の全部に在るのか、あるいは、一部にのみ在るのか、と問う質問である。すると我々は即座に困ることに気づく。つまり、この質問に十分な答えを与えることは決してできない、ということに気づくに違いないのである。風味は一部にのみ在る、という答えには頼り得ない。というのは、経験は、全ての部分に同様の風味があることを確信させるからである。同様に、風味は全部に在る、と答えることもできない。というのは、全部に在るとすると、風味は形状と延長があると想定しなければならず、それは、不合理かつ理解不能だからである。それではこの点で、我々は互いに全く矛盾する二つの原理によって影響されているのである。即ち、風味と延長ある事物とを合体するようにさせる想像の「傾向」の原理と、風味と延長ある事物との結合の不可能を証明する「理性」の原理である。我々は、どちらの原理も断念しないで、対立する原理の間に分裂させられるけれども、この主題は非常な混乱と不明瞭の内に影響されて、我々は対立をもはや認めなくなる。我々は、風味が物体の状況の内に存在すると想定するけれども、それは、風味が延長なくして全体に満ち、分離なくして全ての部分に全部が存在する、という(矛盾した)仕方でである。要するに我々は、「全体に全部があり、あらゆる部分にも全部がある」というスコラ哲学の原理を、前提なしにいきなり提示されれば非常にひどい原理だと思われるが、最も身近な思考方式の中で用いるのである。このことは、どこにもないにもかかわらず、事物は或る場所に在る、と言うことと大同小異である。
 以上の不合理の全ては、全く場所の不可能であるものに、場所を与えようと試みることから生ずる。そしてその試みはさらに、事物に場所における結合があると考えることによって、因果性と時間的近接に基づく結合を、完全にしようとする傾向から生ずる。理性が先入観に打ち勝つ十分な力を持つことは稀だとしても、確かに、目下の場合こそ理性が打ち勝つに違いない。というのは、選択肢は三つだけだからである。即ち、想定一、存在するものは、場所なくして存在する。想定二、存在するものは、形状と延長がある。想定三、存在するものが延長ある事物と合体するとき、全体は全体の内にあり、全ての部分にも全体がある。想定二と想定三の不合理は、想定一の真実性を(消去法により)十分に証明する。第四の見解は無い。というのは、例えば、数学的点の方式での存在の想定はどうかといえば、それは、想定二に帰着する。つまり、いくつかの感情が、円形に配置され得ると想定したり、或る数の匂いが或る数の音と結合されて、十二インチ辺の立方体を造り得る、と想定したりすることになる。これは、述べただけでも明らかに、ばかげたことだ。
 以上のものの見方によれば、全ての思考を延長と結合する、唯物論者たちを批難することは拒み得ない。それにもかかわらず、少し省察すれば、全ての思考を単純かつ分割不能な実体と結合する、唯物論の敵対者たちを批難するための理由も、等しく示すことであろう。最も身近な哲学(経験論哲学)は、外的事物がそれ自身で直接に、つまり、想像や知覚の仲介なしに、心に知られるようにはなり得ないことを告げる。例えば、今まさに現れている机は、ただ知覚であり、机の性質の全ては知覚に属する性質である。机の性質の全ての中で最も明白なのは、延長である。知覚は各部分から構成される。知覚の各部分は、距離と近接の想念を与えるように位置される。即ち、長さ、幅、厚さの想念である。この三次元の帰結は、形状と呼ばれる。この形状は、移動可能、分離可能、分割可能である。移動可能性と分離可能性は、延長のある事物の際立った特質である。つまり、全ての(唯物論と唯心論の不毛な)論争を短縮させるのは、延長の観念は正に印象の複写に他ならず、その結果、延長の観念は完全に印象と一致する、ということである。延長の観念が何ものかと一致すると言うことは、それは延長の性質がある、と言うことと等しい。(知覚・印象・観念は一致するゆえに、性質は一気通貫で妥当する)
 今や宗教上の自由思想家が時機到来し、勝ち誇り得る。つまり、実際に延長がある印象と観念とを見い出して、敵対者(神学者)たちに尋ねることができる。いったいどのようにして、単純かつ不可分な主体と、延長ある知覚とを合体することができるのか? 「(精神の物質性を主張する唯物論を攻撃する)神学者」たちの全ての論拠は、ここでは逆転して自身の論拠により攻撃されよう。不可分な主体、即ち、非物質的実体は、延長ある知覚の左右どちら側に在るというのか? 特定の部分に在るというのか、あるいは別の場所か? 延長なくして全ての部分に在るというのか? つまり、特定の部分以外も見捨てないで、どんな部分にも全部が在るというのか? これらの質問に答えることは、不可能である。無理に答えれば、答え自体が不合理であるとともに、不可分な知覚と延長ある実体との結合(精神の物質性)を、説明することになるであろう。
 以上のことは、精神の実体に関する問題を、新たに考察する機会を与える。実体に関する問題は全く理解し難い、とここまで批難してきたにもかかわらず、これに関して、より深い省察を企てることを禁じ得ない。思考する実体の非物質性、単純性、不可分性の学説は純粋な無神論であり、世界的に非常に悪名の高いスピノザに対する、(無神論だとする)意見の全てを正当化するのに役立つに違いない。この論題から、少なくとも一つの利益を受けることを期待する。その利益とは、敵対者たちが自身の長広舌により、非常に容易にしっぺ返しを食らうことを思い知るとき、本節の学説を不愉快にする口実を、少しも与えないことである。
 スピノザの無神論の基本的原理は、宇宙の単一性、つまり、思考と物質が共に内在すると想定する、実体の単一性の学説である。曰く、世界には唯一の実体があり、その実体は完全に単一かつ不可分であり、局所的な現れなしに、どこにでも存在する。感覚によって外的に見い出される全てのもの、内省によって内的に感じられる全てのこと、これらの全ては、唯一、単純、かつ、必然的に存在するものの変容に他ならず、少しも分離した個別の存在を持たないのである。心のあらゆる感情も、物質のあらゆる形状も、どんなに異なって多様であるとしても、同一の実体に内在している。しかも、それらの多様な個別の性質は、内在している唯一の主体に伝えられることなしに、各々自身に保持されている。言わば同一の「土台」が、それ自身少しも変化なくして、最も異なる変容を支持している。つまり、少しも変化なくして、それらに変化を与えているのである。時間も場所も自然の多様性の全ては、土台の完全な単一性と同一性の内では、少しも合成や変化を産むことはできないのである。
 あの有名な無神論者(スピノザ)の原理についての以上の簡潔な説明は、目下の目的には十分であろう。しかも、この陰気で理解し難い領域にこれ以上立ち入らなくとも、この不快な仮説は、今日とても一般的になっている精神の非物質性の仮説とほとんど同じだということを、明示することができるであろう。このことを明らかにするために、以前[第二部第六節]に述べたことを思い起こそう。即ち、あらゆる観念は先行する知覚に由来するので、知覚の観念と事物つまり外的存在の観念とは、相互に特に異なって現れることは決してできない。両者の観念の間にどれほど違いを仮定しようとも、それは依然として理解不能である。つまり、外的事物を単に関係するものを欠く関係(虚想)として想うか、または、外的事物を知覚や印象と正に同じだとするか、どちらかを余儀なくされるのである。
 このことから導き出そうとする帰結は、一見したところ、単に詭弁だと思われよう。しかし少しでも検討すれば、詭弁ではなく、堅固かつ納得できるとわかるであろう。その帰結とは即ち、我々は、事物と印象との間に特定の違いを仮定はできるけれども決して想い得ないゆえに、我々が印象間の正関係と反関係に関して造るどんな推断も、事物に適用できるかどうかは、確かに知られないであろう。けれども一方では、事物に関して造るこの種の推断はどんなものでも、最も確実に印象に適用できるであろう。その理由は難しくはない。ある事物が印象と異なると仮定されたとして、我々が印象について推論を造る場合、我々の推論が基づく事実が、(事物と印象の)両方とも共通かどうかを確かめることは、できないからである。この場合、事物が印象と異なり得ることは、依然として可能である。けれども、我々が最初に事物に関して推論を造るとき、同じ推論が印象にまで及ぶに違いないことは、疑い得ない。しかも、議論が基づく事物の性質は、とにかく心によって想われていなければならないのだから、その性質が印象と共通でなければ、想われることはできない。なぜなら我々は、その起源に由来する以外には観念を持たないのだから。従って我々は、以上を確かな原則として確立できよう。即ち、経験に基づく推論は、どんな原理によっても、不規則な種類の[例えば、第二節の知覚の一貫性に基づく]原理によらない限りは、事物間の正関係や反関係が、印象にまで及ぶことがない関係は、決して見い出し得ない。しかし、この逆の命題は、即ち、印象について見い出される全ての関係は事物と共通である、という命題は、同等の真実の命題では在り得ないのである。(非対称・不可逆)
 この原則を、目下の場合に適用する。(原則によると、)現前する存在の二つの異なる(非対称な)体系があり、(目下の場合の、)実体つまり内属の根拠・土台を、両体系に当てはめる必要がある、と仮定する。第一の体系は、事物や物体の宇宙である。太陽、月、星々、大地、海洋、植物、動物、人間、船舶、家屋、その他の自然や人工の産出物を観る。ここにスピノザが現れ、これらは単に変容に過ぎない、と告げる。しかも、これらが内属する主体は、単一で、複合されてなく、分割不能である、と。次に、存在の第二の体系を考察する。即ち、思考の宇宙、つまり、印象と観念の体系である。そこに観るのは、もう一つの太陽、月、星々、大地、海洋、生い茂る植物、生息する動物、街区、家屋、山々、河川である。要するに、第一の体系の内に見い出し得て想い得る、全てのものである。第二の体系について探求していると、神学者たちが現れて告げるには、これら諸観念もまた変容であり、つまり、単一で、複合されてなく、分割不能な実体(非物質的精神)の変容なのである、と。すると直ちに、聞こえなくなるほどに数多の発言の騒音が起こって、嫌悪と軽蔑で第一のスピノザの仮説を遇し、拍手と尊敬で第二の神学者たちの仮説を遇する。この二つの仮説に対して、非常に大きい不公平な評判が起こる理由は何か、を知るために注意を向ける。すると、両仮説をできる限り理解しても、同様の理解し難い欠陥があることに気づく。両仮説は非常に似ているので、双方に共通ではない不合理を、少しも一方に見い出すことはできない。我々は、事物の性質と一致しない観念を持たないし、一致しない印象の性質は観念に再現できない。その理由は、全ての観念は印象に由来するからである。従って、(第一仮説)変容としての延長ある事物と、実体としての単一非複合の本体との間には、(第二仮説)延長ある事物の知覚つまり印象と、第一と同様の非複合の本体(非物質的精神)との間に、第一と等しい反関係が無い限り、決して少しも反関係を見い出し得ないのである(第一仮説と第二仮説は同様)。事物の性質についての全ての観念は、印象を通過する。従って、正関係や反関係を問わず、全ての「知覚できる」関係は、事物と印象の双方に(元々)共通しているに違いない。
 以上の論拠は、一般的に考察すると、一切の疑いや矛盾の及ばないほど明白に思えるけれども、さらに議論を明白かつ賢明にするために、詳細に調査しよう。そして、スピノザの体系に見い出される全ての不合理が、神学者たちの体系にも同様に見い出されるかどうかを見よう。[ベールの辞書のスピノザの項目を参照]
 一、スピノザに対して、スコラ哲学の考え方というよりも言い方で、今まで異議がとなえられてきた。即ち、様相は存在と別個や分離して存在せずに、実体と正に同一でなければならない。すると、スピノザ説では、宇宙の延長は宇宙が内属すると想定される、単一・非複合の本体と言わば同一視しなければならない。しかしこのことは、偽りであり、不可分の実体が膨張・拡大して延長に相当するようになるか、あるいは、延長が収縮・縮小して不可分の実体に一致するようになるか、いずれかでない限り、全く不可能で想像もできないのである。以上の論拠は、理解できる限りでは正しいと思われる。しかるに、同じ論拠を、延長ある知覚と精神の単一(で非物質的)な本体に適用するためには、用語を取り替える以外には、何も必要ではないことは明らかである。事物の観念と知覚とは、あらゆる点で同じであり、相違の推定を伴ったとしても、その相違は知られず理解不能である。
 二、物質に適用できない実体の観念はない、と今までとなえられてきた。つまり、物質の全ての個別の部分に適用できない実体観念はない(全ての個別の実体観念は物質に適用できる)、ととなえられてきた。従って、物質は様相ではなく実体であり、物質の各部分は個別の様相ではなく個別の実体である。我々には実体の完全な観念はない、ということは既に(本節で)証明した。「それ自身で存在し得るもの」と、思うのならば、明らかに全ての知覚が実体であり、知覚の全ての個別の部分も個別の実体である、ということになってしまうことも立証した。つまり、実体観念の欠陥によって、スピノザの仮説も神学者たちの仮説も、同様の難点に悩むのである。
 三、宇宙の単一実体の体系(スピノザ説)に対して、この実体は全てのものを支持する「土台」であるのに、まさに同一の瞬間に、相反する両立できない形態にも変容されなければならない、と今まで反論されてきた。例えば、円形と四角形とは、同時に同一の実体の内では両立できない。いかにして同一の実体が、同時に円形の机と四角形の机とに変容され得るであろうか? 円形の机と四角形の机の、印象に関して同じ質問を尋ねるならば、スピノザの仮説と同じく、神学者たちの仮説も十分な答えはないことがわかる。
 それでは、スピノザ説も精神非物質説も同様の難点が伴い、危険で取り返しのつかない無神論への道を準備することなしには、精神の単一性と非物質性を確立する方へ一歩も踏み出し得ないように思われる。もし、思考を精神の変容と呼ぶ代わりに、「作用」という古くもあり新しくもある名称で呼ぶとしても同じことである。作用という名称によって我々は、抽象的様相と一般的に呼ばれるものとほとんど同じものを意味する。それは適切に言えば、その実体から区別も分離もできないもの、即ち、理性的区別あるいは抽象によってのみ、想われるものである。けれども、変容という用語を作用という用語に取り替えても、何ら得るものはないのである。つまり、作用という用語を用いても、ただ一つの難点からも免れないのである。次の二つの省察によって、明らかにされよう。
 一、上述の説明によれば、作用という言葉は、心つまり思考する実体に由来するとして、何らかの知覚に正当に適用されることは決してできない、ということに気づく。我々の知覚は全て、相互に、また、想像できる他の全てのものと、実際に異なり、分離可能、区別可能である。従って、いかにしても知覚は、実体の作用つまり抽象的様相であり得る、と想うことはできないのである。一般的に、知覚が作用として実体に依存する様子を明示するために用いられる実例は運動であるが、この実例は、教えるよりもむしろ困惑させる類いの実例である。どう見ても運動は、物体に実質的・本質的変化を何も引き起こさない。ただ、物体の他の事物に対する関係を変えるだけである。例えば、午前に気の合う仲間と公園を散歩していた人と、午後に地下牢に閉じ込められて恐怖と絶望と無念に満ちている人との間には、身体の状況の変化(歩いている/歩いていない)によって産み出される差異と、全く違った種類の、極端な差異があるように思われる。我々は外的対象の観念の区別性と分離性から、外的対象には相互に分離した個別の存在がある、と推断する。そのため、外的対象の観念自身を対象とするとき、先行する推論に従って、「観念自身」に関しても同様の推断を引き出すに違いない。少なくとも、次のことは認めなければならない。即ち、精神の実体の観念に関して、(実体は同一不変とされているので、)先の例のような差異を、少しも根本的な変化なくして知覚の相反する点でさえも、いかにして許容し得るかを言うことは不可能である。従って、知覚が精神の実体の作用であるとは、いかなる意味かを言うことは決してできないのである。その結果、少しも意味のない「作用」という言葉を、変容の代わりに用いても、知識に何も付加されず、精神の非物質性説に少しも利益はないのである。
 二、もし作用という言葉が、精神の非物質性説に何か利益をもたらすならば、無神論の説にも等しく利益をもたらすはずである。というのは、神学者たちは「作用」という言葉を、あつかましくも独占するつもりなのだろうか? 無神論者たちが同様に作用という言葉を共有して、植物や動物や人間その他は、盲目的絶対的必然性によって働く単一の普遍的実体の個別の作用に他ならない、と主張してもよいのではないだろうか? この主張は、全く不合理だと言われるであろうし、不可解だと認めよう。けれども同時に、これまで解明してきた原理によって、その不合理が、印象と観念に関する(精神の非物質性の)同様の仮説にも適用できないならば、自然の変化に富んだ事物の全ては単一の実体の作用だとする(無神論の)仮説にも、少しも不合理を見い出し得ないと主張する。
 知覚の「実体」に関する仮説と「局所的結合」に関する仮説から、前者より理解しやすく後者より重要な別の仮説の検討へ移ろう。それは即ち、知覚の「原因」に関する仮説である。学院で一般的に言われていることだが、物質と運動は、いかに変化したとしても、依然として物質と運動であり、ただ事物の位置と状況の内に差異を産み出すだけである、と。物体は、どれほど細かく分割しても、依然として物体である。物体を、どんな形状に置いても、形状つまり部分の関係以外は、決して何も結果として生じない。物体を、どのように動かしても、やはり運動つまり関係の変化だけを見い出す。例えば、円運動は単に円運動に他ならないが、一方、楕円運動のような他の運動は、さらに感情や内省でもある、とか。あるいは、二つの球状粒子の衝突は、苦の感覚をもたらす、とか。あるいは、二つの三角形状粒子の遭遇は、快を与える、とか。これらの例のように想像することは不可能である。それでは、これらの様々な衝突や変動や混合だけが、物質が受け入れられる変化に過ぎない。即ち、これらの変化は、少しも知覚の観念や思考の観念を決して与えない。そのため、思考は決して物質には起因し得ない、と結論される。(精神非物質説の論拠の一つである学院の定説)
 以上の学院の議論のもっともらしい論拠に、今までほとんど誰も抵抗することはできなかった。しかしながら実際には、この論拠ほど容易に拒否できることはないのである。我々はただ、本書で詳細に証明されてきたことを省みるだけでよいのである。即ち我々は、原因と結果の間にどんな結合も決して知覚できず、ただ原因と結果の間の恒常的連接の経験によってのみ、因果関係の知識に到達し得るのである。また、互いに相反しない全ての事物は恒常的連接を許容できるし、実際の事物は互いに相反することはない[第三部第十五節]。そのため、これらの諸原理より次のことを推論した。即ち、「先験的に」経験なくして理論のみで物質を考察しても、あらゆるものはあらゆるものを産み得るし、原因と結果の間の類似の大小にかかわらず、ある事物が他の事物の原因となり得る理由も、なり得ない理由も決して見い出せないであろう。このことは明らかに、知覚や思考の原因に関する前述の推論(学院の定説)を論破する。というのは、運動と思考の間の結合の仕方は明らかではないけれども、そのことは他の全ての原因と結果にも同様に当てはまるからである。例えば、一ポンドの重さの物体を、梃子の一方の端に置き、もう一方の端に同じ重さの物体を置くとする。二つの物体の内には、両者の中心からの距離に依存する運動の原理は、知覚と思考の原理と同様に、決して見い出されないであろう。従って、もし、「先験的に」経験なくして理論のみで、梃子を望む向きに回すのは二物体の位置に他ならないことを理由として、二物体の位置は決して思考を引き起こし得ない、と証明すると称するのならば、同様の推論の過程によって、二物体の位置は決して運動を産み出し得ない、と推断しなければならないことになる。なぜなら、前の場合も後の場合も、(先験的には)明白な結合は少しもないからである。しかし、後の場合の推断は、明らかに経験に反しているので、また、心の作用の内でも、類似の経験を持ち得るので、(経験によって、)運動と思考の恒常的連接に気づき得るのである。単に諸観念の考察だけに基づくとき、運動が思考を決して産み出し得ない、つまり、部分の異なる位置が異なる感情や内省を引き起こし得ない、と推断することは、軽率にし過ぎた結論なのである。否、運動が思考を産み出す経験は、あり得るだけではなく、確かにあるのである。なぜなら、誰しも各自の身体の異なる性質が、感情や思考を変えることに気づき得るからである。もし、このことは精神と身体の結合に依存するのだ、と言われるのならば、次のように答えよう。まず、精神の思考の原因に関する問題から、精神の実体に関する問題を分離しなければならない。そして、精神の思考の原因に関する問題だけに限定する。運動と思考の観念を比較することによって、両者は相互に異なることを見い出し、経験によって、両者は恒常的に連接されることを見い出す。このことは、物質の諸作用に適用されるとき、原因と結果の観念の構成要素となる全ての事情である。即ち、運動は知覚と思考の原因であり得るし、実際に原因である、と確かに結論できるのである。
 目下の場合に残っているのは、次の両刀論法だけのようである。即ち、心が諸対象の観念の内に結合を気づき得る場合以外には、何ものも他の原因になり得ないと主張するか、あるいは、恒常的連接が見い出される全ての諸対象は、恒常的連接のゆえに原因と結果としてみなされると主張するか、いずれかである。もし、この両刀論法の前者を選択するならば、次の二つの帰結となる。一、実は主張とは違って、原因つまり産出的原理のようなものは、神自身でさえも、この宇宙には何も存在しない、と断言することになる。なぜなら、神・至高の存在の観念は、特殊な印象から由来するが、少しも効能を含まないからであり、即ち、「いかなる」他の存在との「いかなる」結合もないと思われるからである。無限の能力を持つ存在の観念と、その存在が意志する効果の観念との間の結合は、必然的かつ不可避だ、と言われるのはどうかと言えば、無限の能力を持つ存在の観念どころか、我々は少しも能力を持つ存在の観念を持たない、と反論される。もし、表現を変えるならば、我々は結合によってのみ能力を定義できるのである。この定義に応じて、無限の能力を持つ存在の観念とは、その存在が意志する全ての効果の観念と結合されたものと言うとすると、実のところは、全ての効果と結合されている存在の意志は、全ての効果と結合されている、と断言するのと同じことなのである。これは同一の命題であり、能力や結合の性質を洞察することには少しもならない。二、神は全原因の欠乏を満たす偉大で有効な原理であると仮定したとしても、最も甚大な不信心と不合理に導くことになる。というのは、自然の作用において神に頼ることと、物質はそれ自身で運動を伝え得ないし思考も産み得ないと主張することとは、同じ理由に基づくからである。即ち、物質や運動や思考の間に明白な結合が無い、という理由に基づいているのである。さらに言うと、神は全知覚と全意志(錯誤や悪も含む)の造物主であると認めなければならないことと、正に同じ理由だからである。なぜなら、全知覚と全意志は、相互にも、想定されるが未知である精神の実体とも、明白な結合は無いからなのである。この神・至高の存在の作用は、数名の哲学者たち[マルブランシュ神父やデカルト学派など]によって、意志を除く、というよりは意志の重要ではない部分を除く、心の作用の全てに関して主張されてきたことが知られている。けれども容易に気づくことだが、この除外は単に言い訳に過ぎず、この学説の危険な帰結は避けられない。もし、明白な能力を持つもの(神)以外には何ものも能動でありえないならば、思考も物質と同様に能動ではありえない。そしてもし、この思考の非能動性が、我々を神に頼らせるに違いないならば、神・至高の存在は、我々の全ての作用の、善のみならず悪も、徳のみならず悪徳も、由来する真正の原因となるのである。
 このように我々は必然的に、先の両刀論法の後者を選択せざるをえない。即ち、恒常的連接が見い出される全ての事物は、恒常的連接のゆえに結局は原因と結果としてみなされる。ところで、互いに相反しない全ての事物は恒常的連接を許容し、実際の事物は互いに相反することはない。その結果、我々は単に観念によってのみ決定し得るだけでなく、あらゆるものがあらゆるものの原因や結果になり得るのが当然なのである。このことは明らかに、唯物論者たちに彼らの敵対者(唯心論者)たちを上回る優位を与える。
 それでは、概括して最終結論を述べよう。一、精神の実体に関する疑問は、絶対に理解できない。二、我々の全知覚が、延長のあるものや延長のないものとの、局所的結合を許容するわけではない。延長のある種類の知覚もあるし、延長のない種類の知覚もあるからである。三、事物の恒常的連接は、原因と結果の正に最も重要な不可欠の性質を構成するので、我々が因果関係の観念を持つ限り、物質や運動も多くの場合に思考の原因とみなされ得るのである。
(備考)哲学の至上の権威は至る所で認められるのが当然なのに、あらゆる場合に自身の結論の正当性を主張することを余儀なくされ、哲学に対して腹を立てている個別の科学や技術のことごとくに弁明することを余儀なくされるのは、確かに一種の威厳の失墜である。このことはまるで、君主が家来に対する反逆罪の認否を問われることを、思い起こさせる。けれども、弁明することが当然であり名誉でさえあると、哲学が思うであろう唯一の場合がある。それは、宗教が少なくとも感情を害すると思われる場合である。というのは、宗教の権利は哲学の権利と同じく大切であり、実際に同一であるからである。従って、もし誰かが、前述の議論は宗教にとって、とにかく危険であると想うならば、以下の弁明がその恐れを解消するであろう。
 人間の精神が観念を造り得るいかなる事物の作用や持続に関して、「先験的に」経験なくして理論のみで、推断する根拠は全くない。どんな事物も、完全に非能動になることや、瞬時に消滅することを想い得る。つまり、明白な原理がある。「想像できるものは全て、存在可能である。」この原理は、物質に限らず精神にも当てはまる。即ち、延長のある複合物体に限らず、単純で延長のないものにも妥当するのである。(唯物論と唯心論)どちらの場合も、霊魂不滅の形而上学的議論は、等しく結論に達しない。また、霊魂不滅の道徳的論証も自然の類推に由来する論証も、どちらの場合も、説得力は等しい強さで結論は出ないのである。従って、もし本書の哲学が、宗教の議論に何も増加させないとしても、ともかく、何も取り去ることなく、全ては正確に以前と同じままであることを信じて満足するのである。


第六節 人格の同一性について


 我々は「自我」と呼ばれるものを、あらゆる瞬間にも心の底から自覚している、と想像する幾人かの哲学者たちがいる。我々は自我の存在つまり存在における自我の継続を感じ、自我の完全な同一性と単一性の両方を、論証の証拠を超えて確信している、としている。彼ら曰く、最も強い感覚や最も激しい感情も、この見方から引き離すどころか、かえってより強く自我を明確にし、快苦によっても感覚や感情は「自我」に及ぼす影響を考えさせるのである、と。さらに、これ以上の立証を試みることは、逆にその確証を弱めることになる。なぜなら、自我を心の底から自覚している事実に由来する証拠に勝ることはないからであり、つまり、もし疑ったとしても、確かめる何ものもないからである、と。
 あいにく、この自信ある断言の全ては、それを弁護するはずの実際の経験に相反している。つまり、ここに説明された仕方では、「自我」の観念は少しもないのである。というのは、自我の観念は、いかなる印象から由来するのであろうか? という質問に、明らかな矛盾や不合理なしには、答えることは不可能であるからである。自我の観念を明晰かつ理解できるものとして通用させるためには、やはりこの質問にどうしても答えなければならない。あらゆる実際の観念を引き起こすには、何か一つの印象がなければならない。けれども自我や人格は、少しも一つの印象ではなくて、いくつかの印象や観念との関係があると想定されるものである。もし何らかの印象が、自我の観念を引き起こすならば、その印象は我々の人生の全生涯を通じて同一不変を継続するに違いない。なぜなら、自我はその様に同一を継続して存在する、と想定されるからである。しかし、恒常不変の印象は存在しない。苦痛と快楽、悲しみと喜び、諸感情と諸感覚は相互に継起して、決して全てが同時に存在することはない。従って、これらのどんな印象からも、また他のどんな印象からも、自我の観念は由来できない。即ち、その結果、自我の観念は存在しないのである。
 自我の観念の想定に基づいて、さらに考察しよう。我々の個別の諸知覚はどうならなければならないであろうか? 全ての知覚は、相互に異なり、区別可能かつ分離可能であり、別々に考えられ得るし、別々に存在可能なので、知覚の存在を支持するために、何ものも必要ではない。従って、知覚はどの様な仕方で自我に属し、いかにして両者は結合するのであろうか? 私のことを言えば、「私自身」と呼ぶものに最も心の底から没入するとき、常に、暑さや寒さ、明るさや暗さ、愛情や憎しみ、苦痛や快楽、その他の個別の知覚に、偶然出くわすのである。私は常に、知覚なしでは「私自身」を決して捉え得ないし、知覚以外には何ものも決して観察し得ないのである。熟睡によって、知覚が除かれているときはいつでも、「私自身」を感じることはなく、私自身は存在しないと正に言い得る。そして、死によって全ての知覚が除かれれば、つまり、身体の死滅の後で、考えること、感じること、見ること、愛すること、憎むこと、などができなくなったとすれば、私は完全に消滅したことになり、即ち、私を完全な非存在にするために、これ以上必要なことは何も考えられない。もし誰かが、真剣に先入観を持たずに内省して、「自分自身」の異なる(死によって消滅しない)想念を持つと考えるのならば、もはや、その人を説得することはできない、と認めざるを得ない。私が与え得る全ては、私と同様にその人にも道理があり得るが、両者の自我についての見解は本質的に異なっている、と認めることである。おそらくその人は、「自分自身」と呼ぶ単純かつ継続した何かに気づき得るのだ。けれども私には、そのような原理は一切ないことを確信している。
 しかし、自我の存在を主張する幾人かの形而上学者たちを別にして、私はそれ以外の大多数の人々に思い切って断言しよう。人間は、様々な知覚の束あるいは集合に他ならず、その知覚は、思いもよらない速さで相互に継起して、果てしない流動と運動の内にあるのだ、と。例えば、眼が眼窩の中で動けば、必ず知覚は変化する(全く不変ではない)。思考は、視覚よりいっそう変化しやすい。我々の他の全ての諸感覚や諸機能もこの変化の原因となり、おそらく一瞬たりとも、変化せず同一であり続ける精神の能力は、ただの一つもない。心は、異なる諸知覚が引き続いて現れる、一種の劇場である。心の中で知覚は、通り過ぎ、再び戻り、いつの間にか過ぎていき、姿態と状態の無限の変化・多様の内に参加している。いかに、心の単純性と同一性を想像する自然の傾向が我々にあるとはいえ、厳密には、一時点における「単純性」も異なる時点における「同一性」も、心にはないのである。劇場の比喩を誤解してはならない。心を構成するのは、ただ継起する諸知覚だけであり、劇の場面が演じられる場所の想念や、場所を構成する物質の想念は、全くないのである。
 それでは、この継起する諸知覚に同一性を帰し、人生の全生涯を通じて不変かつ連続した存在の所持(自我)を想定させる、非常に大きい傾向を我々に与えるものは何であろうか? この疑問に答えるためには、人格の同一性を、思考や想像に関する場合と、感情つまり自分自身に対する気づかいに関する場合とに区別する必要がある。思考や想像に関する人格の同一性が、当面の主題である。これを完全に解明するには、この主題をかなり深く理解して、動物や植物に属すると考えられる同一性を説明する必要がある。動植物の同一性と、自我や人格の同一性との間には、重要な共通点が存在するのである。
 我々には、想定された時間の変動を通じて、不変かつ連続して存在し続ける事物の判明な観念があり、その観念を、「同一性」あるいは「同一」の観念と呼ぶ。また我々には、継起して存在しつつ相互に緊密な関連によって結合された、いくつかの異なる事物の判明な観念もあり、この観念を精密な見方で考察すれば、まるで事物間に何ら関連が存在しないような、完全な「多様性」の観念を与える。しかしこの二つ、同一性の観念と、関連する事物の継起は、相互に完全に異なり、相反しさえする。けれども、我々の通常の思考方法では、両者は一般的に、互いに混同されることが確かなのである。我々が、連続した不変の事物を考える場合の想像の働きと、関連する事物の継起を省察する場合の想像の働きは、ほとんど同じ感じなのである。つまり、前者と同様に後者にも、思考の努力は、ほとんど必要とされないのである。その関連は、ある事物から別の事物への心の推移を容易にし、まるで一つの継続する事物を考え、予想するように、心の推移を円滑にする。この類似こそ、混乱と思い違いの原因であり、関連する事物の観念の代わりに、同一性の観念を用いるようにさせるのである。たとえ一瞬では我々は、関連した継起を変化や中断として考え得るにせよ、確かに次の瞬間には、関連した継起に完全な同一性を帰し、不変かつ連続とみなすのである。この思い違いをする傾向は、上記の類似によって非常に大きいので、我々は気づく前に陥っている。しかも我々は、省察によって絶え間なく思い違いを訂正し、より正確な思考の方法に復帰するけれども、長い間にわたって探求を持続させられないので、想像からこの傾向を取り去ることはできないのである。最後の頼みは、この傾向に従うことである。つまり、いかに中断して変化があるにせよ、これらの異なる関連した事物は実際には同じであると、大胆に主張することだけである。この不合理を正当化するために、我々は度々、事物相互を結合し事物間の中断や変化を予防する、いくつかの新奇な理解不能の原理を捏造する。こうして我々は、中断を除去するために、感覚の知覚の継続した存在を捏造し、変化を隠すために、「精神」や「自我」や「実体」の観念にまで至るのである。このような捏造した虚構を引き起こさない場合でも、さらに観察できることだが、関連と同一性を混同する傾向は非常に大きいので、部分間の関連に加えて部分間を結合する未知の神秘的な何かを、我々は想像しがちである[原注]。これこそ、植物や野菜に帰する同一性に関する場合だと思われる。さらに、この想像が働かないときでさえも、依然として我々は、関連する事物の観念と同一性の観念を混同する傾向を感じる。もっとも、想像が働かないときは、我々は完全に得心することはできないのであるが。つまり、想像なくしては、同一性の観念を正当化する、不変かつ連続した何ものも見い出せないのである。
[原注:もし読者が、どんなに偉大な天才でも一般大衆と同じく、この見たところ平凡な想像の原理によって影響される例を見たいならば、シャフツベリ卿の宇宙の統一原理と動植物の同一性に関する論考『道徳家、別名、哲学断想』を読むと良い。]
 このように、同一性に関する論争は、単に言葉の論争だけではない。というのは、我々が同一性を、語の意味において不適当な、変化したり中断したりする事物に帰するとき、我々の思い違いは表現に限られず、一般的に、虚構を伴う。それは、不変かつ連続したものの虚構であるか、神秘的で不可解なものの虚構であるか、または、このような虚構への傾向は、少なくとも伴うのである。この(虚構の随伴)仮説を、全ての公正な探求者が納得するように証明するために十分なことは、日々の経験と観察から明示されることである。即ち、変化したり中断したりする事物、それにもかかわらず同一を継続すると想定される事物は、類似や近接や因果性によって相互に結合された諸部分の継起から、もっぱら構成されるのである。というのは、諸部分の継起は、明らかに多様性の観念と合致するので、ただ思い違いによってのみ、継起に同一性を帰し得るからである。そしてまた、我々をこの思い違いに導く諸部分の関連は、実際に観念の連合を産む性質、つまり、一つの観念から他の観念への、想像の容易な移行を産む性質に他ならないので、思い違いが生じ得るのは、この観念連合の心の活動と、継続する事物を熟考する心の活動との、類似からだけなのである。それでは、次の主な課題は、不変性と継続性を観察することなくして我々が同一性を帰す全ての事物は、関連する事物の継起から構成されるということ、を証明することに違いない。
 これを証明するために、ある物質の固まりを仮定しよう。その各部分は近接して結合されていて、我々の前に置かれているとする。明らかに、いかに運動つまり場所の変化を、全体において、もしくは、任意の各部分において、観察し得るとしても、全ての部分が連続的かつ不変的に同一を継続しているならば、我々は完全な同一性を、この固まりに帰すに違いない。次に、非常に「小さい」つまり「重要ではない」部分を加えるか、または、取り去るかする、と仮定する。このことは、厳密に言えば、全体の同一性を絶対的に破壊するけれども、めったにそれほど精密には考えないので、我々は、取るに足らない変化を見い出した場合、物質の固まりが同一だと、言明することをためらわない。変化の前の事物から変化の後の事物への思考の推移は非常に円滑で容易なので、我々は推移に気づくことは稀であり、同一の事物の継続した概観に他ならない、と想像しがちなのである。
 この思考実験には、とても注目すべき事態が付随する。それは、物質の固まりにおいて、少なからぬ無視できない部分の変化は、全体の同一性を破壊するけれども、それでも我々は、変更部分の重要度を、絶対的にではなく、その部分の全体に対する「割合」によって判断するに違いない、ということである。例えば、惑星においては、一つの山を加えたり減らしたりしたとしても、多様性を産む(違う惑星だとする)には十分ではないであろう。しかしながら、たった数インチの変更であっても、ものによっては(全体に対する変更割合が大きければ)同一性を破壊できよう。このことは、事物が心に作用して、心の活動の連続性を中断するのは、事物の実質の(絶対的な)重要度によるのではなく、事物相互の割合によることを省察する以外には、説明できないであろう。従って、この心の活動の中断は、事物を同一と見えなくさせるので、不完全な(割合によって同一であったり同一でなかったりする)同一性を構成するのは、思考の連続する進行に違いないのである。
 このことは、次の現象によっても確認できる。物体の少なからぬ無視できない部分の変化は、その物体の同一性を破壊する。しかし注目すべきことだが、変化が「漸次に」「気づかれずに」生じる場合、我々は、物体には、すぐに変化が生じる場合と同じ影響を帰さないことが多いのである。その理由は明らかに他でもなく、心は、(長期間にわたって少しずつ)物体の変化が連続して引き続いて起きる際、ある瞬間にその状態を概観してから、次の瞬間に状態を眺めるまで、容易な推移を感じ、特定の時点で、心の活動において、少しも中断に気づかないからである。この継続した知覚によって、心は、継続した存在つまり同一性を事物に帰するのである。
 しかし、いかに慎重に変化を徐々に導入するとしても、そして、各変化の全体に対する割合を大き過ぎないようにしても、最終的に変化が、最初に比べて無視できないほどになったと観察されれば、我々は同一性を、変化の最初と最後で異なる事物に帰するのをためらうことは確かである。しかしながら、(同一性をもたらす)次の階梯へ進む想像を引き起こし得る、もう一つの工夫がある。それは即ち、部分相互の関連を産み出すことによって、つまり、ある「共通の目的」や用途を組み合わせた結合を産み出すことによってである。例えば、船の少なからぬ部分が、度々の修理によって変更されたとしても、依然として同一の船だと考えられる。つまり、材料の違いは、同一性を船に帰することを妨げないのである。各部分が相寄る共通の目的は、あらゆる部分の変化の下でも同一であり、物体の或る状態から別の状態への、想像の容易な推移を与えるのである。
 そしてこのことが、より一層注目すべきなのは、各部分の「共通の目的」に部分間の「共感」を加える場合であり、つまり、各部分が、各部分の活動と作用の全てにおいて、相互的な因果関係を互いにもつ場合である(相互関係の網の目)。これは、全ての動植物の場合であり、生物では、様々な部分が或る全般的な目的に関連するだけでなく、相互に依存し合い、また、相互に結合し合う。生物内の関係の影響は非常に強力なので、動植物は短期間に「全的な」変化にさらされることを、誰しも認めざるを得ないにもかかわらず、その形態、大きさ、構成物質が完全に変化しているとしても、我々は依然として同一性を生物に帰するのである。例えば、楢や樫の木は、小さい苗から大木にまで育つが、依然として同じ木である。とは言え、木を構成する物質の分子や各部分の形状は、一つとして同じではないのである。幼児は成人になり、ときには太ったり痩せたりするが、その人の同一性には何も変化はない。
 さらに、この種の(同一性をもたらす)注目すべき、次の二つの現象を考察できよう。一つ目の現象は、我々は通常、数的同一性と種的同一性とを、かなり正確に区別できるけれども、それにもかかわらず、ときに両者を混同し、思考と推論において一方を他方に用いることが起きる、という現象である。例えば、たびたび中断されたり再開されたりする騒音を聞いた人が、騒音は依然として同じ状態だ、と言う場合である。けれども明らかに、その騒音には、種的同一性つまり類似があるだけであり、騒音を産む原因以外には、数的な同一性は全くないのである。同様な例として、言葉遣いの妥当性に違反せずに言い得ることだが、以前にレンガ造りであった教会が廃墟となり、その教区民たちが、近代的建築術によって、石造りの同じ教会を再建した場合がある。この場合、材料は同じではないし、以前の教会と現存する教会とは、共通する部分は何もない。けれども、教区民たちにとっては、両者の関係は共通であり、このことだけで両者を同じ教会と称するようにさせるのに十分なのである。しかし一方では、この場合、現存する教会が存在するようになる前に、以前の教会は言わば消滅していることに言及しなければならない。しかしこのことによっても、我々には決して、どの時点においても、相違の観念や多様性の観念は提供されず、このために我々は、現存する教会と以前の教会を同じ教会と呼ぶことに、やぶさかではないのである。
 二つ目の現象は、注目すべきことに、関連する諸事物の継起において、同一性を保持するためには、各部分の変化は急であったり全的であったりしてはならない、ということが言わば必須であるにもかかわらず、その本質において、容易に変化して恒常的ではない事物の場合は、他の場合に同一関係とは矛盾しないとされる変化より急激な変化であっても、許容されるのである。例えば、河川の本質は各部分の運動と変化に存する。二十四時間経たないうちにも、河川の各部分は全的に変化するにもかかわらず、河川が、幾世代にもわたって同じであり続けることを妨げないのである。どんなものにとっても自然なことであり本質的で不可欠なことは、言わば、予期される。そして、予期されることは、普通ではない風変わりなことよりも、印象が薄くなり、重要性が少なく思われる。予期されることは、少なからぬ変化であっても、普通ではないことの最も些細な変化よりも、想像にとっては実質的に少ないと思われるのである。つまり、思考の継続性をより少なく中断することによって、同一性を破壊することにおいて、より少ない影響に止まるのである。
 今や「人格の同一性」の本質の解明に進もう。人格の同一性は、哲学において非常に大きい問題になっていて、特に近年の「イギリス」において、全ての難解な諸学問によって、特有の熱心と没頭とともに研究されている。ここでも明らかに、これまで用いられてきたのと同じ推論の方法が、継続されるに違いない。その推論方法は、動植物や船や家屋などの、全ての人工や自然の複合された変化し易い産出物の同一性を、非常にうまく解明してきたのであった。我々が人間の心に帰す同一性は、単に想像上の同一性に過ぎず、即ち、動植物に帰す同一性と、同様の種類の同一性なのである。従って、人格の同一性は動植物の同一性と異なる起源は持ち得ず、類似の対象上の想像の類似作用から生じるに違いないのである。
 この論証は、思うに完全に決定的であるけれども、読者を納得させない場合を考えて、もっと綿密で、より直接的な、以下の推論を考察しよう。明らかに、我々が人間の心に帰す同一性は、いかに完全にその存在を想像できるとはいっても、異なるいくつかの知覚を一つに統合することはできないのであり、つまり、各知覚に不可欠な区別と相違の諸性質を、知覚に失わせることはできないのである。さらに明らかに、心の構造の構成要素である、あらゆる個別の知覚は、別個の存在であり、同時でも継起でも、他のあらゆる知覚から、異なり、区別でき、分離できるのである。しかし、この区別や分離可能性にもかかわらず、我々は、知覚の全ての連なりが同一性によって一体化されると想定するので、この同一性の関係について一つの疑問が当然に生じる。即ち、同一性の関係は、実際にいくつかの知覚を相互に結合するものなのか、あるいは、単に想像において諸知覚の諸観念を関連づけるだけのものなのか。言い換えると、ある人の同一性に関して判断を下す際に、その人の諸知覚の間に実際の結合が観察されるのか、あるいは、単に諸知覚について造る諸観念の間の結合を感じるだけであるのか、という疑問である。この二択の疑問は、既に(第三部第二節、他で)詳細に証明されてきたことを思い出せば、容易にどちらか決定できよう。即ち、知性は、諸事物の間にいかなる実際の結合も決して観察しないし、原因と結果の結合でさえ、厳密に吟味されれば、諸観念の習慣的連合に帰着するのである。というのは、そこから明らかに当然の結果として、同一性は、各々異なる諸知覚には少しも実際に属していず、知覚相互を結合しない。そうではなく、諸知覚を省察する際に、想像において諸知覚の諸観念を結合するために、我々が諸知覚に帰属させる単なる性質に過ぎない、ということになるからである。さて、想像において諸観念に結合を与え得る最適な性質は、既述の三つの関係(類似・近接・因果性)なのである。観念の世界には結合原理があり、この原理なくしては、あらゆる別個の対象は心によって分離可能、つまり分離して考察可能であり、最も大きい、相違と遠隔によって分離されているのと同様に、他のどんな対象とも、いかなる結合も持たないように現れるのである。従って、類似、近接、因果性の三つの関係のいずれかに、人格の同一性は依存しているのである。そして、これらの関係の正に本質は、諸観念の容易な推移を産むことに存するので、当然の結果として、人格の同一性の観念は、既に解明された諸原理に従って、結合された諸観念の一連の連なりに沿った思考の円滑で中断しない進行より、完全に生じるということになるのである。
 従って、残る唯一の疑問は、心つまり考える人格の継起する存在を考察する際に、何の関係によって、思考の連続する進行が産み出されるのか、という疑問である。ここでは明らかに、類似と因果性の考察に限定して、目下の場合に、ほとんどまたは全く影響のない近接は除外しよう。
 まず「類似」から始める。前提として、明瞭に他人の心情を見通すことができて、その人の心つまり考える原理を構成する諸知覚の継起を観察できて、その人は過去の諸知覚の少なからぬ部分の記憶を常に保持している。と仮定する。すると明らかに、記憶こそ諸知覚の継起の全変化の真っ只中で、継起に関連を与えることに、最も役に立ち得るものである。というのは、記憶とは、過去の諸知覚の心象を喚起する機能に他ならないからではないか? また、心象は必然的に対象に類似するので、思考の連なりにおいて、類似する諸知覚を度々思い出す必要はなく、想像は次から次へと容易に伝わり、全体を一つの対象の連続のようにみなすからではないか? それではこの点で、記憶は同一性を見い出すだけでなく、諸知覚の間に類似の関係を産み出すことによって、同一性の産出に役立つのである。このことは、他人の心情でも自分自身の心でも同様に考察される。
 次に「因果性」について。人間の心の適正な観念とは、因果関係によって相互に結合され、相互に産み、破壊し、影響し、変容し、変容される、様々な知覚つまり様々な存在の体系として、心を考察することであると言えよう。諸々の印象は、対応する観念を引き起こす。そして、引き起こされた観念は、次に引き起こす番になって他の印象を産む。一つの思考はもう一つの思考を追いかけ、次に追いかけられる番になって、三番目の思考を引き寄せる。この点で、心を例えるのに、共和国や連邦国家ほど適切な例えは挙げ得ない。共和国では、様々な国民が、政治支配体制と従属関係の交互的な繋がりによって団結されていて、共和国の各部分の絶え間ない変化において、同様の共和国を次世代に伝える、将来の人々をもたらす。さらに、個々の同じ共和国は、その成員を変化させ得るだけでなく、その法律や憲法も変化させ得る。同様にして、同じ個人は、心の同一性を失うことなく印象と観念を変化させ得るだけでなく、性格や気質も変化させ得る。いかに変化を被ろうとも、心の様々な各部分は、依然として因果関係によって結合されている。この見方においては、我々の感情についての同一性は、時間的に遠く離れた諸知覚を相互に影響させることによって、つまり、過去や未来の苦痛や喜びに対する現在の関心・気遣いを我々に与えることによって、想像についての同一性を強めるのに役立つのである。
 記憶だけが、諸知覚の継起の時間的な継続と広がりを告げ知らせるので、そのために主として記憶は、人格の同一性の源泉として考えられている。もし記憶が無いとすると、我々は決して、因果性の観念を持たないであろうし、その結果、自我や人格を構成する、原因と結果の一連の連なりの観念も持たないであろう。そして、記憶から因果性の観念をひとたび獲得すれば、我々は諸原因の同様の連なりを拡張でき、その結果、記憶の範囲を超えて人格の同一性を拡張できる。即ち、完全に忘却したが一般的に存在していたと想定される、時間や状況や行為の範囲を含み得るのである。というのは、我々が記憶している過去の行為は、いったいどれほどあるであろうか? 例えば、十八世紀前半を生きている人の中で、一七一五年元旦や、一七一九年三月十一日や、一七三三年八月三日における自分の思考や行為を、誰か説明できるであろうか? さもなければ、過去の出来事を完全に忘却したがゆえに、現在の自我は過去の自我と同じ人格ではないと、そしてこのために、人格の同一性のいったん確立された観念を、かえって否定すると、誰か断言しようとするであろうか? 従ってこの見方では、記憶は、様々な異なる知覚の間に因果関係を示すことによって、人格の同一性を、「産む」というよりもむしろ、「見い出す」のである。これに対して、記憶は、人格の同一性を、完全に産むと断言する者は、上述のように記憶の範囲を超えて同一性を拡張できる理由を、与える義務があるだろう。
 本節の全学説は、目下の解明すべきことにおいて、非常に重要な結論に導く。即ち、人格の同一性に関する全ての難しい微妙な諸問題は、どう転んでも決して解決できない。それらの諸問題は、哲学的な難問というよりもむしろ、文法的な難問とみなすべきである。同一性は、諸観念の関連に依存する。これらの関連は、関連が引き起こす容易な推移によって、同一性を産む。けれども、その関連と推移の容易さは、極めて徐々にだが減少し得るので、同一性の名称に対する権利を、獲得したり失ったりする時についての論争を解決し得る、正確な基準はないのである。本節で既に言及してきたように、各部分の関連が引き起こす、虚構つまり結合の想像的原理に関する議論を除いては、結合された事物の同一性に関する全ての論争は、単に言葉の上だけである。
 同一性の観念の最初の起源と不確実性についてここまで述べてきたことは、人間の心に適用されてきたのと同様に、我々の「単純性」の観念に、ほとんどまたは全く変更なく広げ得る。緊密な関係によって様々な共存在する部分が相互に結合された一つの事物は、完全に単純かつ不可分な一つのもののような、大同小異の仕方で想像に作用し、一つの事物の概念のために思考の大きい伸張を必要としない。この想像作用の類似性に基づいて、我々は単純性を複合物に帰す。言い換えると、事物の様々な部分と性質の全ての中心である単純性の土台として、結合の原理を捏造するのである。
 このように我々は、知的世界と自然的世界の両方の、様々な哲学体系の吟味をやり終えた。そしてまた論究の多方面の道程において、我々は様々な論題に導いてきた。以上は、本論考の既述部分を例証し確証するであろう。あるいは、これから述べる見解への道を準備するであろう。我々人間の知性と判断の本性を十分に解明し終えた今や、本書の主題の、より綿密な吟味へ回帰し、人間本性の精密な解剖に進む時である。


第七節 第一編の結論


 けれども、私の前に待ち受けている人間本性の哲学の計り知れない深さの探求に乗り出す前に、しばし目下の場所に立ち止まって、着手した探検を熟考したいと思っていることに私は気づく。その探検は疑いもなく、的を射た結論に至るためには、最高度の技術と努力を必要としている。航海に例えれば、多くの浅瀬に乗り上げ、狭い入り江を通過する際に難破を間一髪で避けつつ、それにもかかわらず、以前と同じ風雨にさらされた中古船で、海洋に乗り出す無謀さを持って、この不利な状況でも、地球一周を思い描くまで、大望を抱く人のようにさえ思われるのである。過去の間違いと混乱の記憶は、私を未来に対して気おくれさせ、自信をなくさせる。おそまつな事情、弱さ、諸機能の不調などを、私は探求において用いざるを得ず、不安は増す。これらの諸機能を修正したり訂正したりすることの不可能性は、私をほとんど絶望に陥らせる。そして、計り知れないほど広がっている広大な大海へ冒険に乗り出すよりはむしろ、現在停泊している不毛な岩の上で死ぬことを、私に決心させるのである。航路の危険についてのこの思いがけない見方は、私に強い印象を与え憂鬱にさせる。この憂鬱という感情はたいてい、他のどんな感情よりも没頭させるので、目下の主題が多量に供給する落胆させる全ての内省とともに、絶望をいや増すことを私は禁じ得ないのである。
 私は、自らの哲学に身を置いて、荒涼とした孤独のために最初に恐れ困惑する。次に、自らを或る奇妙な変わった怪物だと空想する。その怪物は、社会に参加できないし協調できない。人間の交流の全てから追い出され、完全に置き去りにされ絶望的な状態にされた。私は、避難と暖かみのために進んで群衆の中に入るだろう。しかし、怪物の醜さで交際することを自らに説き伏せることはできない。社会とは別に仲間をつくろうとして参加を呼びかけても、誰一人として耳を傾けようとはしない。全ての人は私に対して距離を保ち、四方八方から私を打つ暴風雨を恐れる。全ての形而上学者たち、論理学者たち、数学者たち、そして神学者たちでさえも。彼らの敵意という暴風雨に私は自らを曝してきた。そして、彼らの敵意に基づく侮辱的言動を、私が我慢しなければならないのは当然のことである。というのは、彼らの各々の体系について、私は否認を宣言してきたからである。だからこそ、彼らが私の体系と私の人格に憎悪を示すことは、至極当然なのである。外を見るとき、私は四方八方に、論争、矛盾、怒り、悪口、非難を予見する。内に眼を向けるとき、私は疑いと無知以外は見い出さない。全世界は、私に反対し否認するために協力し合う。もっとも、それは私の弱点である。即ち、他の人の是認によって支持されていないとき、私は自分の見解の全てが崩れて倒れるような気がする。私の一歩一歩は躊躇を免れず、新たな省察を加える度に、推論における間違いと不合理を心配させる。
 というのは、いかなる自信をもって、私はそのような大胆な企てに乗り出し得るというのだろうか? 私自身に特有の無数の欠点の数々のほかにも、人間本性に共通である非常に多くの欠点を私は見い出しているにもかかわらず。確立された見解の全てを捨てて、私は真実を追い求める。たとえもし幸運が、ついに真実の足跡に私を案内したとしても、いかなる基準によって真実の足跡を判別するべきか? 確かめる術はない。最も精密かつ正確な推論の後で、その推論に同意するべき理由を、私は一つも与え得ないのである。即ち、事物が私に現れる条件のもとで、その見方の内に事物を「強く」考えることの「強い」傾向以外には、私は何も感知し得ない。経験とは、過去の諸々の事物の様々な結合の数々を私に教える原理である。習慣とは、未来に同じことを期待することを私に限定する別の原理である。経験と習慣の両者は、想像に影響を及ぼすように同時に生じ、同じ利点を伴わない他の観念よりも、より強烈で生き生きした仕方で観念を造るようにさせるのである。心が或る観念を他の観念より以上に活気づける性質、見たところ非常に平凡かつ理性に基づかない性質ではあるが、この性質なくしては、我々は決して、いかなる論証にも同意できないし、我々の感覚に現れる事物よりほかに考えを拡張し得ない。否、感覚に現れる事物でさえも、我々は感覚に依存する存在以外には、少しも存在を帰することは決してできない。つまり我々は、我々の自我や人格を構成する、諸々の知覚の継起の内に、事物を完全に理解するに違いない。否、さらに進んで、諸々の知覚の継起に関してさえも、我々は単に、我々の意識に直接に現れる知覚だけを許容し得て、記憶が生じさせる生き生きした心象によっては、過去の知覚の本来の心像を決して許容し得ないのである。従って、知性、感覚、記憶は、その全てが想像つまり観念の活気に基づいているのである。
 想像の全変化において実のところ無条件に従う際、非常に変わりやすくて人を惑わせる原理が我々を間違いに導くのも不思議ではない。例えば、因果関係に基づいて推論する原理がそうである。また、同様に、感じられないときでも外的事物の継続存在を確信させる原理もそうである。けれども、この二つの作用は、人間の心において等しく自然的かつ必然的にもかかわらず、いくつかの事情において、両者は真逆[第四節]である。つまり、因果関係に基づいて妥当かつ適当に推論することと同時に、物質の継続存在を確信することは不可能なのである。それでは、いったいどのようにして我々は、両原理を互いに調整しているのであろうか? どちらか一方を選んでいるのであろうか? あるいはこの場合どちらも選ばずに、両者を引き続いて同意するのであろうか? 哲学者たちの間ではよくあることだが、はっきりした矛盾をこのように承知の上で受け入れる際に、引き続いた同意という素晴らしく矛盾した称号を、いかなる自信で、その後に奪い得るであろうか?
 この矛盾[第三部第十四節]は、推論の他の部分において、ある程度の堅実と納得によって埋め合わせるならば、より許容されるであろう。しかしこの場合は、全く反対なのである。我々が人間の知性を、その最初の原理にまで遡って調べるとき、我々の過去の苦心や努力の全てが嘲笑に変わるような、未来の探求のやる気を失わせるような感情に、我々を導くことに気づく。あらゆる現象についての原因ほど、人間の心によって興味深く尋ねられることはなく、我々は、当面の原因を知ることに止めないで、根源的かつ究極の原理に到達するまで、探求を推し進める。我々は、原因が結果に作用する際の原因内の勢力、つまり、原因と結果を相互に結合する関係、その関係が依存する有効な性質を、熟知する前に自ら探求を止めないであろう。これこそ、我々の探求と省察の全ての目的である。しかるに、この原因と結果の結合、関係、勢力は、我々自身の内だけに存する、習慣によって獲得された心の決定に他ならず、ある対象からその通常伴うものへと、つまり、ある対象の印象から他のものの生き生きした観念へと我々を推移させることだと知るとき、きっと我々は失望するに違いない。このような発見は、(外的原因についての)得心を努力していつか獲得する希望の全てを絶つだけでなく、まさに我々の(探求への)願望でさえも妨げる。なぜなら明らかに、外的事物に存するあるものとして、究極かつ有効な原理を知ることを望むと言うとき、我々は、自分自身に矛盾するか、あるいは、無意味なことを言うか、どちらかであるからなのである。
 我々の観念におけるこの欠陥は、だがしかし、日常生活では気付かれない。原因と結果の最も通常の連接においても、最も稀で異常な結合におけるのと同じく、原因と結果を相互に結合する究極の原理について無知であることを感じることはない。けれどもこのことは、単に想像の幻想から生じるに過ぎない。つまり問題は、どれだけこの幻想に従うべきか、ということである。この問題は非常に難しく、どのように答えようとも、非常に危険な板ばさみに陥らせる。というのは、もし我々が空想の些細な思いつきのことごとくに同意するならば、この思いつきの数々が互いにたびたび相反することを除外しても、甚だしい間違い、不合理、不明瞭の数々に導き、その結果、最後には、思いつきを軽々しく信じたことを恥じることになるに違いないからである。想像をたくましくすることほど理性にとって危険なことはなく、つまり、哲学者たちの間で最も間違いのもとになっているのである。空想ばかりに秀でた人たちは、この点で、聖書にて翼で両目を覆うように表現されている、天使たちに例えられる。このことは既に、非常に多くの実例において現れているので、これ以上詳しく述べる骨折りや労を惜しんでも差し支えはない。
 けれども一方で、もし、これらの空想による理性の間違いの実例の数々の考察が、空想の些細な思いつきの全てを否認して、知性に、即ち、想像の一般的で、より確立された特質に、固執する決意を我々にさせるならば、この決意でさえも、もし、絶え間なく行われたならば、危険であり、最も致命的な帰結を伴うであろう。というのは、既に示したように[第一節]、知性は、単独で働くとき、また、その最も一般的な原理に従うとき完全に自滅する。即ち、哲学においても日常生活においても、いかなる命題においても、最も低い程度の確証も残さないからである。この全的懐疑より免れるには、ただ空想の非凡なしかし外見上平凡で些細な特質によるだけである。その空想の特質によって、我々はかろうじて諸事物の間接的な見方を理解する。より容易で自然である見方を理解するような、非常に感じうる印象を諸事物に付け加えることはできないけれども。それでは、我々は、知性による厳密で精巧な推論は決して容認されないことを、一般的原則として確立するであろうか? この原理の帰結を、十分に考察しよう。この原理によると、全ての学問および哲学との関係を、完全に断ち切ることになる。我々は、想像の或る非凡な性質から発し、類推によって、帰結の全てを受け入れなければならない。明白に自己矛盾に陥っている。なぜなら、この原則は、十分に厳密かつ形而上学的であると認められる、先行する推論に基礎を置くに違いないからである。それでは、我々は、この難点の中で、どちら側を選ぶのであろうか? もし我々が、この原則を受け入れて、全ての厳密な推論を批難するのならば、最も明白な不合理に陥る。もし我々が、厳密な推論の方を支持して、原則を受け入れないのならば、人間の知性を完全に破滅させる。従って、我々には、間違った理性と全くの無知性との間に、極論を除いて選択肢が無いことになる。私としては目下の場合に、為すべきことを知らない。私はただ、一般的に為されていることを観察できるだけである。即ち、この困難は、めったに、または、決して想像もされないし、たとえ心に一度現れたとしても、速やかに忘却され、小さい印象以外は残さない。まさに厳密な省察も、ほとんど、あるいは、全く我々に影響を及ぼさない。つまり、規則として確立しなくとも、また、確立できなくとも、それにもかかわらず、少しも影響はあるべくもなく、一般的に、明白な矛盾を、当然に含むことを観察できるのである。
 けれども、まさに厳密かつ形而上学的な省察が、ほとんど、あるいは、全く我々に影響を及ぼさないとは、この際なんということを私は言ってしまったのか? この見解を、私はほとんど撤回せざるを得ない。つまり、目下の感じと経験に基づいて批難せざるを得ないのである。人間の理性における、これらの様々な矛盾と欠陥の数々の「強烈な」見解は、非常に私に作用し私の脳を興奮させた。そのため、私は全ての確信と推論を正に否認しようとし、他の所信より確かな、より確実らしい所信としてさえ、考え得ないようになった。私の居る場所はどこか? そもそも私とは何か? 私の存在が由来する原因は何か? 死後はどんな状況になるのか? 誰の支持を求めようというのか? 誰の怒りを恐れなければならないのか? 私を取り囲む者は誰か? 私が影響を与える者は、または、私に影響を与える者は誰か? これらの全ての疑問に、私は困惑する。そして私自身を、想像し得る限りの最もひどい状況の内に、最も深い暗闇に包囲されて、一切の器官と機能の使用を全く奪われている、と妄想し始めるのである。
 しかし非常に幸運にも、理性がこれらの暗雲を晴らし得ないとき、自然自身がその目的を満たすのである。心の緊張した傾向を和らげることによって、または、趣味つまり全ての妄想を取り除く感覚の生き生きした印象によって、自然は、私の哲学的憂鬱と精神錯乱を治すのである。私は食事をし、バックギャモンゲームを遊び、友達と語り合い笑い楽しむ。そして、娯楽を三・四時間した後、以前の思索に戻ろうとする。するとその思索は、非常に冷たく、緊張し、途方もない努力を要するように思われ、そのため私は、これ以上その思索に取り組む気にはなれなくなるのである。
 それではこの点で私は、日常生活の仕事において他の人々と同様に、生き、話し、活動するように、絶対的かつ必然的に限定されるようになるのである。私の自然の傾向、つまり、私の動物精気と諸感情の行程は、世界の一般的原則において、私をこの怠惰な確信に限定させる。けれども、それにもかかわらず、私は依然として以前の厳密な傾向の残りが、とても大きいことを感じる。そのため私は、私の本や論文の全てを炎の中に投げ入れそうになる。つまり、厳密な推論や哲学のために、人生の楽しみを決してこれ以上、断念しないように決意しそうになるのである。というのは、不機嫌な気分の感情こそ、目下のところ私を支配しているからなのである。私は、私の感覚と知性を甘受することにおいて、自然の傾向に従い得る。否、従うに違いない。つまり、この盲目的甘受において、私は最も申し分なく、懐疑的な傾向と原則を示すのである。即ち、怠惰と楽しみへ導く自然の傾向に逆らって、私は努力しなければならないことになる、のであろうか。また、とても快適な人々の交流や社会から、ある程度は背を向けなければならないことになる、のであろうか。さらに、とても困難な骨の折れる専念の合理性について得心が得られない正にそのとき、つまり、没頭することによって真実と確実性に達する我慢できる期待が少しもないとき、微妙な点と詭弁で自分の頭を悩まし苦しめなければならないことになる、のであろうか。いかなる義務の下に、私は、時間のそのような悪用を為さねばならないのであろうか? 人類への貢献のためか、私自身の個人的な関心のためか、どんな目的のためにそれは役立ち得るのであろうか? 否。もし私が、どんなものも「確実に」存在すると推論し確信する人々のような愚者であるに違いないのならば、私の愚かさは、少なくとも、必ず自然で快適となる。私の厳密な傾向に逆らって戦う場合、私の抵抗には正当な理由があるであろう。つまり、これまで私が遭遇してきた荒れた行程と、非常に荒涼とした孤独の内を、これ以上放浪する気にはなれないだろう。
 以上が、私の不機嫌かつ怠惰な気持ちである。実際、私は認めなければならない。即ち、哲学はこの気持ちに対抗できないし、理性と信念の力に基づくよりも、真剣な上機嫌の傾向の利益に基づく方が、より勝利を期待できるのである。人生の全ての出来事において、我々は依然として懐疑主義を保持するべきなのである。もし我々が、炎は暖め、水は元気づける、と(自然の傾向に従って)信じるのならば、それはただ、別のやり方で考えることが、はるかに大きい努力を要するというだけの理由なのである。いや、もし我々が哲学者であったとしても、懐疑的原理にのみ基づくべきである。つまり、哲学者たるように従事するように思う(真剣な上機嫌の)傾向のみに基づくべきなのである。理性が生き生きとしている場合、つまり、ある(自然の)傾向と理性自身とが混合している場合は、同意されるはずである。そうではない場合は、我々に影響を及ぼす資格を、決して持ち得ないのである。
 従って、私は、娯楽や交際に飽きてしまって、部屋の中で、あるいは、川岸を一人で散歩中に「物思い」に耽っているとき、心の中で全く落ち着きを感じ、そして、読書や会話の過程において非常に多くの論争に遭遇したことに関する全ての主題に、自分の見方を当てはめようとする「気持ちになる」自然の「傾向」があるのである。私は、道徳的な善悪の原則や、政治の本質と基盤や、私を動機づけ支配する感情や傾向の原因などを、知りたいという好奇心を抑えることができない。私は、考えるまでは落ち着かない。私は、あるものごとを認め、別のものごとを認めない。あるものごとを美しいと呼び、別のものごとを醜いと呼ぶ。私は、真実と虚偽、理性と愚かさについて結論を下す。どんな原理に基づくかも知らずに進み続ける。私は、これらの全ての点において、非常に悲しむべき無知の下にある学術界の事情を心配する。私は、人類の教育に貢献することと、自分の発明と発見によって名声を獲得することの、内に生じる野心を感じる。これらの感情は、私の目下の傾向において、自然に出現するのである。つまり私は、他の仕事や娯楽に参加することによって、これらの感情を心から払いのけようと努めるならば、喜びを失ってしまうと「感じる」。即ち、この喜びが、私の哲学の起源なのである。
 たとえ仮に、この好奇心と野心は、私を日常生活の範囲外の考察へと思いを馳せさせることはないとするにせよ、必然的に、正に私の弱点から、私は上記の探求に導かれざるを得ないことが生じるのである。確かに、(弱点である)迷信は哲学よりも、その体系と仮説において、はるかに大胆である。つまり、哲学は、可視的世界において現れる現象に、新たな原因や原理を割り当てることで満足するのに対して、迷信は、独自の世界を切り開いて、完全に新たな対象、存在、光景を生じさせるのである。ゆえに従って、人間の心にとって、静かにじっとしていることは、ほとんど不可能なのである。動物の諸対象にも類似している、日常の会話や活動の主題である諸対象の狭い範囲の内には。我々は、ただ自身の指導原理の選択に関して慎重に考慮することだけが必要なのであり、最も安全かつ快適な指導原理を選ぶべきなのである。即ち、この点で私は、あえて哲学を推奨し、全ての種類や呼称の迷信より、哲学を選ぶことをためらわないであろう。というのは、迷信は、人類の通俗的な所信から、自然かつ容易に生じるので、迷信は、より強く心をつかみ、たびたび、生活と活動の実施を混乱させ得るからである。哲学は迷信とは反対に、正しい場合は、温厚かつ節度のある感情だけをもたらす。そして、もし間違っていて途方もない場合でも、その見解は単に冷静かつ一般的な考察の対象に過ぎず、我々の自然の傾向の過程を中断させるようなことは、めったにないのである。(ギリシア哲学の)「キュニコス派」は哲学者に属する極端な実例である。キュニコス派は、純粋に哲学的な推論に基づいて、世界でこれまでに存在した「キリスト教の修道士」や「イスラム教の苦行者」よりも、さらに突飛な行為に及んだのであった。しかし一般的に言えば、錯誤は、宗教においては危険であるが、哲学においては単に馬鹿馬鹿しいだけで済むのである。
 私は気づいているが、上記の心の強み(好奇心・野心)と弱み(迷信)の二つの場合は、全ての人類を含んではいないだろう。特に「イギリス」では、常に家庭の仕事に従事している、または、平凡な気晴らしで退屈をしのいでいる、多くの実直な紳士たちは、日々に感じている対象を超えて、思考を巡らすことはほとんどない。まったく、このような人々から、私は、哲学者を作ろうとはしない。そして、哲学の研究において協同することや、哲学の発見の聞き役となることも期待しない。一般の人々は、現在の状態を保ち続けることがふさわしい。一般の人々を哲学者へと磨きをかける代わりに、哲学者の方が、一般人の洗練されていない混合物の総体の貢献を、構成要素として、哲学体系の創設者たちに、伝達し得ることを私は願う。そのことを、哲学者たちは一般的に多く必要としていて、哲学体系を構成する熱烈な要素を、静めるために役立つであろう。熱烈な想像が哲学の構成要素となることを認められる限り、仮説が単に見かけ倒しの愛想のよい存在のために信奉される限り、我々は決して確固とした原理を持ち得ず、日常の習慣と経験に適合する意見をも持ち得ない。けれども、この(迷信的)仮説がひとたび除かれれば、我々は、一つの体系、つまり、一組の見解を確立する望みを持ち得る。その体系は、おそらく真であることを望むのは難しいが、もし真ではないとしても、少なくとも人間の心にとって納得し得るであろうし、最も重大な吟味の試験にも立ち向かい得るであろう。つまり、我々は体系を確立する目的を達成することを諦めるべきではないだろう。多くの非現実的で荒唐無稽な体系が、人々の間で今まで引き続いて生じたり消え去ったりしたからといって。我々は、哲学の諸問題が探求と推論の主題であった期間の、短さを考慮に入れる。二千年の非常に長きに亘る中断のために、つまり、非常に長期間の禁止のゆえに、諸学問が悪くない程度に成熟するにも時間が短い。つまり、おそらく我々は、諸学問が成熟した後世の吟味に耐える諸原理を発見するには、いまだ早すぎる時代の世界にいるのである。私としては、唯一の希望は、哲学者たちの推論に或る点で異なる考え方を与えることによって、つまり、哲学者たちが確信や信念を専ら期待し得る主題を、より明瞭に指摘することによって、知識の進歩に少しでも貢献できることである。「人間本性」は、人間についての最良の学問である。それにもかかわらず、今まで最も軽視されてきたのであった。もし、この学問を少しでも多く流行させ得るならば、私にとって十分であろう。この希望は、あの不機嫌な気分を和らげ、また、時に私を支配する怠惰な気分を活気づけるために役立つのである。もし読者が、(知識の進歩に対して)同様の寛大な傾向にあるならば、引き続いて本書の考察を読んでいただきたい。もし、そうではない傾向にあるのならば、無理に傾向に逆らわずに、上機嫌と専心の復帰を待っていただきたい。このありのままの自然な傾向に逆らわない仕方で哲学を探求する者の行為は、哲学への傾向を感じるにもかかわらず哲学を全的に否認するほど疑いとためらいに打ちひしがれている者の行為よりも、より正しく懐疑的なのである。正しい懐疑論者は、自らの哲学的信念と同じく哲学的不信をも信用しないであろう。即ち、正しい懐疑論者は、信念と不信の両極端のために、自然に現れる無垢な得心を、決して拒絶しないであろう。
 また我々は、最も複雑な哲学的探究において、自らの傾向に全面的に身を任せるだけではなく、自身の懐疑的原理にもかかわらず、「個々の実例」において調査する見地に従って、「個々の点」において明白かつ確実であると思う傾向にも身を任せるべきである。この自然の傾向において自身を抑制することに比べれば、むしろ全ての調査と研究を、差し控えることの方が容易である。即ち、対象の的確かつ十分な調査から常に生じる、(自然な)確信に抵抗して自身を抑制することの方が困難なのである。このような自然な確信が生じる際、我々は自らの懐疑主義だけでなく、節度でさえも忘れてしまいがちである。そして、「明らかに」「確かに」「紛れもなく」、といった表現を使いがちである。このような断定的な言い方は、(煽動され易い)一般大衆に対する正当な敬意があれば、おそらく予防するべきである。本書でも御多分に洩れず、この表現を使ってはいる。しかし私はこの際、この点で提議され得る反対論に「差し止め」を申請する。即ち、このような断定的な表現は、対象についての目下の見方によって余儀なくされたのであり、独断的な精神、つまり、自身の判断についての独断的な考えを、少しも含まないことを明言する。私は気づいているが、独断論は、誰にも適し得ない意見である。だから、懐疑論者には他の誰よりもなおさら適し得ないのである。
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付録


 最も自ら進んで得たいものは、自身の誤りを認める適切な機会である。誤りを認めて真実や正気に復帰するほうが、全く誤りのない判断よりも、私は尊敬に値すると思う。というのは、全く誤りのない者は、自身の知性の正しさに基づく以外に、称賛を要求し得ない。けれども、誤りを訂正する者は、自身の知性の正しさと同時に、自身の気性の誠実と率直を示すからである。私は今までのところ不運にも、一つの項目を除いて、第一巻で述べた推論において、非常に重要な誤りを見い出さなかった。しかし、経験によって見い出されたことだが、いくつかの表現が、読者の誤解を全く防止するようには、十分ではなかった。主にこの欠陥(一つの重要な項目といくつかの表現)を改善するために、以下の付録を追加した。

(まず重要な項目から。)我々は決して、原因、または、結果が現れていなければ、少しも事実を確信し得ない。しかし、因果関係から生じる確信の本質がいかなるものかを、今までほとんど誰も、探求しようとはしなかった。私の見解では、確信の本質は、次の二者択一が論理的に必然である。一、確信は、事物の単純観念に加えられた「実在」や「存在」の観念のような、ある新しい観念である。二、確信は、単に、特有の「感じ」あるいは「感情」に過ぎない。単純観念に加えられた新しい観念ではないことは、次の二つの論拠より明示される。第一、我々は、個別の事物の観念から区別可能かつ分離可能な存在の抽象観念を持たない。従って、存在の抽象観念を、ある事物の観念に加え得ない。つまり、存在の抽象観念は、単純観念と確信との間に違いを造ることは不可能である。第二、心は、その観念の全てを支配する。つまり、心の望むままに全観念を、分離し、結合し、混合し、変更し得る。そのため、もし確信が、単純観念に加えられた新しい観念に、単に存するのならば、人は望むままに信じる能力を持つことになってしまう。従って我々は、確信は単に、ある感じや感情に存する、と結論できる。言い換えると、意志に依存しない、あるものに存する。つまり、我々が支配できない、ある(非知の)決定的な原因や原理から生じるに違いないのである。我々は事実を確信するとき、想像の単なる「幻想」に伴うものとは異なる、ある感じを伴って、そのことを思っているに他ならない。つまり、我々が事実に関して疑いを表すときは、その事実の論拠が、確信の本質である、感じを産んでいないことを意味している。もし、確信が単なる観念と異なる、ある感情に存しないとすれば、最も非現実的で極端な想像によって現れたいかなる対象でも、経験や歴史に基づく最も確立された真実と、対等の地位であることになってしまうのである。虚想と確信を区別するものは、(強度ではなく、)感じや感情に他ならないのである。
 従って、このことは、紛れもない真実と考えられるに違いない。即ち、「確信は、単純観念とは異なる、特有の感じに他ならない」。次の疑問は、自然に生じてくる。即ち、「この確信の本質である感じや感情は、いったいどんな性質なのか? 人間の心の他の感情との類似はあるのだろうか?」この疑問は、重要である。というのは、もし他の感情との類似がないのならば、我々は、その原因を解明することを諦めなければならない。つまり、人間の心の根源的原理として考える他はない。もし、他の感情との類似があるのならば、我々は、その原因を類推によって解明することを望み得る。つまり、より一般的な原理にまで辿り上げることを望み得るのである。さて、確信や信念の対象である観念における堅固さや堅実さは、空想にふける者の節度のない怠惰な幻想におけるよりも、より大きいということは、誰でも即座に認めるであろう。それら(確信の対象観念)は、より強い力で我々を打つ。それらは、より多く我々に現れる。心は、より堅くそれらの支配を受け、それらによって、より多く心は動かせられて行動させられる。心は、それらに同意する。ある意味、それらに依存し固着する。要するに、それらは、我々に直接に現れる、印象により近く似ている。従って、それらは、心の他の多くの作用に類似しているのである。
 私の見解では、上記の結論を回避する可能性は少しもないのだが、確信は単純観念とは別の、観念とは区別できる、ある印象や感じに存する、と主張することはできる。それは観念を変更しないし、より強く現しもしない。それはただ、善と快の個別の観念に加えられた意志や欲望と同様に、観念に加えられる。しかし、以下の考察は、この仮説を除去するのに十分であろう。第一に、この仮説は、経験、つまり、直接的意識に極端に相反している。あらゆる人が、推論とは、単に思考つまり観念の作用に過ぎない、と常に認めてきた。そして、いかにその観念が、様々な感じに変化し得るとしても、観念や微かな想念の他は何も、我々の「推断」には決して入り込まない。例えば、既に面識のある人の声が今ほど聞こえて、その声は隣の部屋から聞こえてくるとする。私の聴覚のこの印象は、直ちに私の思考を、全ての周囲の事物と知人(の諸観念)に伝える。すると私は、以前に知っていた事物や知人の持つ性質や関係と同様に、目下存在するように、それらの観念を心に描くのである。これらの観念は、魔法の城の観念よりも、しっかりと私の心を捉える。これらの観念は、感じの点で異なるけれども、少しも別個な印象や分離した印象を伴わない。同様の例として、旅のいくつかの出来事や、任意の歴史の事件を思い出すときが挙げられる。あらゆる別個の事実は、その点で確信の対象である。確信の対象の観念は、空想にふける者の節度のない幻想とは異なって変容される。けれども、別個の印象は、事実についての全ての個別の観念や想念には、少しも伴わない。このことは、明白な経験の対象である。もし、この明白な経験が、或るとき論争の対象となり得るとすれば、それは、心が疑いや難問に動揺させられているときである。そしてその後で、心が新たな見方・観点で対象を受け取る場合、つまり、新たな論拠が提供されて、ある一つの安定した推断や確信に、心が依存し固着する場合である。(確信の新たな変容)この場合は、確信や想念と別個かつ分離した感じが存在する。疑いや動揺から平穏や平静へ移る過程が、心に喜びや満足・納得を伝えるのである。けれども、これ以外の場合はそうではない。例えば私が、動いている人の腿や脚を見ていて、その人の体の残りの部分は、遮蔽物が隠して見えないと仮定しよう。この場合確かに、想像は(隠れている部分を補って)全体像まで広がる。心はその人の、頭や肩や胸や首の像を補う。これらの体の見えない部分が備わっていると、私は想い確信するのである。最も明らかなことだが、以上の全作用は、ただ思考や想像によってのみ行われる。移行は直接であり、観念は直ちに心に浮かぶ。目下の印象に伴う観念の習慣的結合は、言わば、観念を変更し変容するけれども、この想念の特性から区別される、心の活動は少しも産まない。誰でも自身の心で試してみれば、このことが真実であることを、明らかに見い出すであろう。
 第二に、この別個な印象に関して、真相がいかなることであっても、以下のことは、認められるはずである。即ち、心は、事実についての想念(確信)を、虚想よりも、よりしっかりと安定して保持する。このことが認められるはずなので、これ以上調べる理由、つまり、必要性なくして仮説を重ねる理由はあるだろうか?
 第三に、我々は、しっかりした想念の「原因」を説明し得るけれども、分離した(別個の)印象の原因は説明できない。そしてその上、しっかりした想念の原因は、対象全体を使い尽くして、これ以外の結果を産むために何ものも残さない。事実に関する推論は、目下の印象と度々結合され関連づけられた、対象についての観念に他ならない。これが(確信を産む)推論の全てである。あらゆる部分は、類推によって、よりしっかりと安定した想念を説明するために不可欠である。即ち、別個の印象を産むことができる余地は、何も残らないのである。
 第四に、想像や感情に影響を及ぼす確信の「効果」は、しっかりした想念から全て説明可能である。つまり、これ以外の原理に頼る理由は何もないのである。以上の四つの論拠は、第一巻において挙げられた他の多くの論拠とともに、確信が観念や想念を専ら変容させること、即ち、確信が、別個の印象を産むことなしに、観念や想念に異なる感じを与えることを、十分に証明するのである。
 このように、この主題の全体図においては、二つの重要な問いが在るように思われる。我々は、この二つの問いを、哲学者たちに考察するように思い切って勧めよう。「一、確信を単純想念から区別するものは、感じや感情のほかに、何か在るであろうか?」「二、(確信の本質である)この感じは、我々が対象から受け取る、より堅固な想念、つまり、よりしっかりと捉えられた想念のほかに、何か在るであろうか?」(両方とも無い)
 もし、偏見のない探求の結果、本書の結論と同じ結論が哲学者たちに同意されるならば、次の仕事は、確信と心の他の活動との間にある類似を調査すること、即ち、想念の堅固さと強さの原因を見い出すことである。そして、このことを私は、困難な仕事とは思わない。目下の印象からの推移は、常に(推移後の)任意の観念を活気づけ増強する。任意の対象が現れるとき、その通常伴う観念は、直ちに何か実質かつ堅固なことを感じさせる。その観念は、想われるというよりも「感じられる」。つまり、その強さと影響において、観念が由来する印象に、むしろ近い。このことは、既に詳細に証明しておいたので、新たな議論はもう加え得ない。

(人格同一性について)
 我々の知的世界の理論が、どれほど不完全であるとしても、その理論は、人間理性が物質世界に与え得る、全ての解明に伴うように思われる、矛盾や不合理を免れているであろう、という希望を、私は抱いていた。けれども、「人格同一性」に関する部分を、より厳密に再調査してみると、私は非常に複雑な関係に巻き込まれていることに気づく。即ち、私の以前の見解を訂正する方法や、首尾一貫した見解にする方法を、知らないことを認めなければならないのである。もしこのことが、懐疑主義にとって望ましい「一般的な」理由ではないとしても、既に十分豊富に理由が与えられてはいないとしても、少なくとも私にとっては、私の決定の全てにおいて、謙虚や自信のなさを心に抱くには、十分なのである。私は、両側で(矛盾した)論拠を提供しよう。自我つまり思考する存在の厳密かつ正確な単一性や同一性を、否定するように説得する論拠から始めよう。
 一、我々が「自我」や「実体」について話すとき、我々は、これらの用語に或る観念を付加しているに違いない。さもなければ、これらの用語は全然理解できない。あらゆる観念は、先行する印象に由来する。そして我々には、ある単純かつ個別なこととしての、自我や実体の印象は何も無い。従って我々には、その意味で(根源的な)自我や実体の観念は何も無い。
 二、別個なものは全て区別可能であり、区別可能なものは全て、思考や想像によって分離可能である。知覚は全て別個である。従って知覚は、区別可能かつ分離可能であり、何らの矛盾や不合理なしに、分離して存在するように想われ得るし、(実際に)分離して存在し得る。
 三、私がこの机とあの煙突を見ているとき、私には個々の知覚以外には何も現れない。これらの知覚は、全ての他の知覚と同様の性質である。このことは、哲学者たちの見解である。けれども(知覚ではなく)、私に現れている、この机とあの煙突は、分離して存在し得るし存在している。こちらは一般大衆の見解であるが、何も矛盾はない。従って、全ての知覚に同じ見解を拡張する際にも、(両見解には)何も矛盾はないのである。
 四、一般的に、次の推論は納得がいくように思われる。即ち、全ての観念は、先行する知覚から取り入れられている。従って、事物の観念も先行する知覚に由来する。結果として必然的に、知覚に関して理解できない矛盾した命題は、必ず事物に関しても理解不能で矛盾している。反対に、理解可能かつ矛盾なく言えることだが、事物は、少しも共通な「単一」実体や内属する主体なくして、別個かつ独立して存在している。従って、この命題は、知覚に関しても決して不合理であり得ないのである。
 五、私が自らの省察を「私自身」に向けるとき、私は、ある一つ以上の知覚なしに、この「自我」を決して認めることはできない。つまり、私は、知覚以外には決して何も認識できないのである。従って、諸々の知覚の構成こそ、自我を形造り構成するのである。
 六、思考する存在(自我)には、多くの知覚や少ない知覚がある、と想像できる。例えば、心が退化して、牡蠣の生活以下にさえなって、心は、渇きや飢えのような、単一の知覚のみを持っている、と仮定しよう。その状態における心を考えてみよう。単なる飢渇の知覚以外に、何かを想像するだろうか? 心に何かいだくだろうか? 「自我」や「実体」のいかなる想念があるだろうか? もし無いならば、他の知覚を逆に加えていっても、自我の想念は決して与え得ない。
 七、(魂の不死を信じない)一部の人々が、死に引き続いて生じると想定する消滅、つまり、この自我の完全な破壊である消滅は、全ての個別の知覚の消滅に他ならない。愛と憎しみ、苦しみと喜び、思考と感覚、などの完全な消滅である。従って、全ての個別の知覚は、自我と同一であるに違いない。なぜなら、両方とも同時に消滅し、一方が残り得ないからである。
 八、「自我」は「実体」と同一であろうか? もし、同一であるならば、実体の変化の下で、自我の生存に関する疑問は、いかにして起こり得るであろうか? もし、別物であるならば、両者の違いは何であろうか? 私の見解では、個別の知覚から区別して想われるときは、両者の想念は全くない。
 九、哲学者たちは、「我々には、個別の諸々の性質の観念と区別される、外的実体の観念はない。」という原理を甘受し始めた。このことは、「我々には、個別の知覚と区別される、心の想念はない。」という心に関する同様の原理に向かう道を開くに違いない。
 ここまでの論拠には、十分な確証が伴っているように思われる。けれども、このような全ての個別の知覚の(分離した)ゆるまりにおいて、知覚相互を結びつけて、諸知覚に実質的な単一性と同一性を帰属させる、結合の原理を解明しようとする際に、本書の第四部第六節の説明は、非常に不完全であることに私は気づいている。しかも、ただ先行する推論の表面上の確証のみが、受容するようにさせ得ていただけだったのだ。もし、諸知覚が個別の存在であるならば、相互に結合されることによってのみ、全体は造られる。けれども、個別の存在間の結合は、人間の知性によっては、決して何も見い出し得ないのである。我々はただ、結合、つまり、ある対象から別の対象への、思考の決定を感じるだけなのである。従って、その結果、思考だけが、過去の知覚の連なりを省みるとき、人格の同一性を見い出し、思考だけが、心を構成して、諸知覚の観念が相互に結合されて、自然に知覚相互を導くように、感じられることになるのである。この結論が、どんなに異常に思われようとも、驚くまでもない。ほとんどの哲学者たちは、人格の同一性は、意識から「生じる」と考える傾向にあると思われる。そして、意識は、省みられた知覚や思考に他ならないからである。従って、目下の哲学には、今までのところ、有望な様相がある。けれども、我々の思考や意識における継続する知覚を、結合する原理を解明しようとすると、全ての希望は消え失せる。私は、この点について得心する説を、少しも見い出し得ないのである。
 要するに、二つの原理が在り、私は両原理の矛盾を解消し得ないし、私の能力では両者の一方を捨て去ることもできない。即ち、「全ての個別の知覚は、別個に存在している。」と「心は別個の存在間の実質的結合を、決して少しも知覚しない。」の二原理である。もし、諸知覚が何か単一かつ特有のものに内属するか、あるいは、心が別個の存在間の実質的結合を知覚するか、どちらかならば一方の原理が消えるので困難は無いであろう。私としては、懐疑論者の権利を行使して、この困難は私の知性には手に負えない、と認めよう。しかしながら、この困難は絶対に克服できない、と言明することは要求しない。おそらく、他の誰かまたは私自身が、より賢明な省察によって、この矛盾を解きほぐすであろう仮説を、見い出すかもしれない。
 私はまたこの機会に、あまり重要ではない他の二つの誤りを認めよう。それらは、より賢明な省察が見い出したものである。一つ目は、第二部第五節に見い出し得る。二物体間の距離は、各物体から流れ出る光線が相互に作る角度によって知ることができる、としていた。しかし確かに、その角度は心に知られず、その結果、決して距離は見い出し得ない。二つ目の誤りは、第三部第七節に見い出し得る。同じ事物の二つの観念は、ただ両観念の勢いと活気の異なる程度によってのみ異なり得る、としていた。私は、勢いと活気の言葉の下では適切に理解し得ない、二つの観念間の他の異なりが在る、と確信する。もし、同じ事物の二つの観念は、ただ両観念の異なる「感じ」によってのみ異なり得る、としていたならば、より真実に近かったであろう。

(挿入個所が指定されている付録は、本文に組み込んだため、ここでは省略した)





翻訳底本:A TREATISE OF HUMAN NATURE BY DAVID HUME
(Dover Philosophical Classics, 2003 is a slightly altered republication of the work published by Oxford at the Clarendon Press, London, 1888; itself a reprint of the original edition in three volumes published in London, 1739-1740. The Dover edition omits the marginalia and index of the Oxford edition.)
原作者:David Hume (1711-1776)
翻訳者:井上基志
   2018(平成30)年3月25日翻訳
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)の下で公開されています。
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2018年10月20日作成
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