最愛の君

H・ビーム・パイパー H. Beam Piper

The Creative CAT 訳




 アシュレー・ハンプトン大佐(*1)は葉巻を噛んで己をリラックスさせようと努めた。その視線は徐々に部屋の中を横切っていき、高い書棚に並んだ本の背のモザイク模様の上でしばらく揺蕩い、カーペットの色褪せたパステルに散る陽の光を捉え、フランス窓の外に広がる秋の風景の柔和な色彩から、壁を飾るインディアンやフィリピン人やドイツ人の武器の戦利品へと移った。ここ「グレイロック」の図書室の中でなら、リラックスした風を装うのは容易かった。少なくともこれら馴染みの静物だけを見て、同じ部屋に屯している五人を無視できるのならば。何故かというと、そいつらが一人残らず敵だったからだ。
 甥のスティーヴン・ハンプトンは暖炉の前だ。こめかみに白いものが混ざっているものの、スポーツウェアを若々しく着て、若干未熟かもしれないが、ウィスキー・ソーダを手にいかにも経営者然としてふんぞり返っていた。こっちはマイラ。スティーヴンの抜け目ない、ソフィスティケートされた外見のブロンド妻だ。机の横の椅子に凭れていた。大佐はこの二人を不倶戴天の敵として憎んでいた。他のものどもはそこまで憎悪の対象ではなかった。恐らくより危険な敵ではあるのだろうが、どのみちスティーヴンとマイラの道具に過ぎない。例えばT・バーンウェル・パウエル。上品ぶった自信家で、椅子に浅く腰掛け、膝の上のブリーブケースを掴んでいた。それがまるでせかせかと逃亡を画策するペットでもあるかのように。法律家としては正直な男なのだが、苦痛なほど堅物だった。自分のクライアントはこの上なく公明正大な動機から行動していると信じ込んでいるに違いない。お次は医師のアレクシス・ヴァーナー。ヴァン・ダイク髭とウィーン訛が、ソ連の管理選挙めいて嘘くさかった。こいつはハンプトン大佐の机の前の椅子を占拠していた。苛つく古強者の椅子を、しかしヴァーナー医師は使いたかったのだろう、この状況下で指揮権を持つのが自分であると見せたいがために。そして、ハンプトン大佐は最早「グレイロック」の主ではないと思っているのだろう。五人目は白ジャケットのネアンデルタール人で、ヴァーナー医師お付きのボディーガードだ。この男のことは無視してよろしい。徴兵された新兵のように、上官命令にホイホイ従っているようなものだからだ。
「しかし貴方は非協力的ですねえ、ハンプトン大佐」精神病医は文句を言った。「協力していただけなければ手助けのしようもありませんよ。」
 ハンプトン大佐は葉巻を口から出した。習慣的な喫煙のためうっすら黄染した白い口ひげが怒りに捻れた。
「ほう、あれが手助けだと?」と吐き捨てた。
「そうでなければ、なぜ私がここにいるのでしょう?」医師は受け流した。
「あんたがここにいるのは、我が愛する甥とその麗しき令夫人が、儂が当家代々之墓に入るのを待ちかねておるからだ。このご両人は儂を生きながらあんたの個人癲狂院に埋葬したいのだ。」とハンプトン大佐。
「ほらね!」マイラ・ハンプトンは精神病医に向き直った。「私たちは伯父さんを迫害しているんですって! みんなで妬んでいるんですって! 伯父さんに対する陰謀を巡らしているんですって!」
「もちろん、このような不機嫌で懐疑的な緘黙は、偏執狂では一般的な徴候です。老人性痴呆症の症例でも見られます。」とヴァーナー医師は同意した。

 ハンプトン大佐は不平らしく鼻を鳴らした。老人性痴呆症! まあいい、儂は老いて痴呆になっちまったに違いない。こんな蛇の番いを自宅に入れるなんて。死んだ兄の思い出のせいで義理を感じたからなのだが。「グレイロック」もカネもなにもかも、スティーヴンに相続させるという遺言だって書いた。儂が死ぬのを待ちきれないでいるのはマイラだけだ。あいつは女マクベスぶりを発揮して夫を誑かし、こんな狂人査問会を開かせやがった。
「……しかしですね、完全に納得するまで強制入院の許可証にサインすることはできないのです。」医師は続けていた。「とにかく、高齢の患者ですから。正確を期せば七十八歳です。」
 七十八歳、ほとんど八十。ハンプトン大佐は自分がそんなに長く生きてきたことをどうにも理解することができなかった。兵隊ごっこの好きな少年だった。青年になった彼は、ハーヴァードに入学するという一家の伝統を破って陸軍士官学校ウェスト・ポイントに進むことをまんまと認めさせた。インディアン戦争の残り火が消え行く頃、ワイオミングの小さな駐屯地の新任中尉だった。彼は大尉だった。兵士を軍人へと鍛え上げる傍ら、スペイン人が撤退する前にキューバに派遣されることを望んでいた(*2)。大尉として中隊を率いた彼は、ミンダナオのジャングルでモロ族と戦い、中隊ともども手酷くやられた。二十世紀の最初の年月を通じて、また父親が亡くなった後も、彼はアメリカ陸軍の rara avis稀人 だった。真に貴重な職業軍人だったのだ。彼は水球に親しみ、駐在武官としてパリ大使館に赴任したこともあった。一九一八年にはフランスで一個連隊を指揮し、戦後(*3)は黒人連隊(*4)の指揮官として退役、「グレイロック」に引っ込んだ。第二次世界大戦の間は、実際の軍務にも、ペンタゴン勤務にすら高齢すぎるため、4F(*5)の者と少年と太鼓腹の中年男たちからなる国防市民軍中隊の練兵にあたった。そして彼は一人ぼっちで座り陽の光を浴びる老人になった……そこにあの素晴らしい出来事が起きたのだ。
「伯父に見えない遊び友達のことを話させればいい」スティーヴンが提案した。「それでも先生が満足しないようなら、どうしようもないな。」

 始まりは去年の六月だった。彼は東の芝生のベンチに座って、歩道の上の丸められた紙切れに子猫がじゃれついているのを見守っていた。それが生きた獲物でもあるかのように、子猫は周囲を油断なく回り、注意深く接近し、その紙のボールに片手でパンチを浴びせ、狂ったように後を追った。この雌の子猫は「スモークボール」という名前で、彼の友達だった。すぐに狩りごっこに疲れて、撫でて貰おうと彼の横に飛び上がってくるのだろう。
 すると突然、直ぐ側で少女の声がした気がした:
「まあ、なんて愛らしい子猫でしょう! この子のお名前は?」
「スモークボール」彼は何も考えずに答えた。「この子の名前は手榴弾が爆発するときの色から……」言葉を止めて見回した。目に見えるものは一人もなく、声がしたのは耳というより自分の頭の中からだと理解した。
「なんてことだ」自問した。「儂はイカれちまうのか?」
 自分の内部から小さく幸せな笑い声が聞こえてきた。シャンペングラスの中で泡が浮き上がるように。
「ううん、わたしは本当にいるの」声がした。耳ではなく心が聞いている、そう彼は確信した。「あなたにはわたしが見えないし、触ることもできないし、耳でわたしの声を聞くこともできない。でもね、わたしは今あなたが想像しているようなものじゃないわ。わたしは本当に実在するの……そこのスモークボールみたく。別の種類の実在なだけ。見てて。」
 声は止み、側にいたらしい何者かが彼の許を去った。その瞬間、子猫は丸めた紙でじゃれるのをやめて首を一方に傾げた。上の方にある何かに目を凝らして。これまでも猫達がこんな風にするのを見たことがあった――目をまん丸に開け恍惚の表情を浮かべて、何か人の目には隠された素晴らしいものを見つめるように。なお上の方を見回しながら、スモークボールはトコトコ駆け寄ると膝の上に飛び乗った。だが彼に撫でられる間ですら彼の背後にいる不可視の何かを見ていた。それと共に、側にハッピーで愛情深い存在がいるような、温かく愉快な感じがした。
「違う」ゆっくり裁判官然として言った。「儂の想像だけではない。だが、お前は誰――あるいは何――なのかね?」
「わたしは…… おぉ、どうすればあなたに理解してもらえるかわからないわ。」頭の中の声は戸惑っているらしかった。ホッテントットに原子力を教えようとする物理学者のように。「わたしは物質ではないの。脳がなくても思考できる精神というのを想像できるのなら…… おぉ、今は説明できない! でもね、こんなふうに、わたしがあなたに語りかける時、わたしは本当にあなたの脳の中で考えているの、あなた自身の精神と並行して。全然音がしなくても、それがあなたに聞こえるわけ。あなたがこういったことを表現する言葉を知らないだけなの。」
 とにかく、彼は心霊主義について大して考えたことがなかった。少年だった頃、幽霊譚だの亡霊譚だのを語りかけてくる年寄りたちがいた。そんな年寄りは自分らの話が絶対真実だと思い込んでいた。また昔フィリピンで率いた中隊のアイルランド兵は、駐屯地を警邏していると死んだ戦友の幽霊が一緒に歩くのだ、と誓言していた。
 彼は訊いた「お前は霊なのか? つまり、かつては儂と同じような肉体の中に生きていたのか?」
「うーん、違う」頭の中の声は覚束なげだった。「そうね、わたしはそう思わないわ。霊のことは知ってるわよ。そこらじゅうどこにでもいるもの。でもわたしはその一人だとは思わないの。少なくとも、覚えている限り、わたしはずーっとこうだった。ほとんどの霊はわたしを感じ取ることができないみたいよ。ほとんどの生きた人間たちも同じね。わたしに対して心を閉ざしてるの。そうでなければ触れてみたくもないようなえげつない心の持ち主か。子供たちはわたしに対してオープンなんだけど、親にわたしのことなんか言っちゃうと、笑われたり『嘘をつくんじゃありません』と叱られたり。それでわたしを締め出しちゃうのよ。長い間やってきて、わたしの声が届いた大人はあなたが初めて。」
「多分、儂は第二の子供時代に入ったのだろう」ハンプトン大佐はぶつくさ言った。
「おぉ、でも恥ずかしがらなくてもいいのよ!」不可視の存在は語った。「それって真の智慧の始まりだから――子供に還るってのが。昔むかし、あなたがたの宗教の先生の一人が似たようなことを言ってたわ。でね、もっと昔には、一人の中国人がいて、人々はその人を『歳をとった子供』って呼んだのね。なぜかというと、その人の智慧が子供みたいな単純さに立ち戻ったからなの。」
「そりゃ老子だ」ハンプトン大佐は少し驚いた。「そんなに長くここらにいたとは言わないでくれよ。」
「おぉ、でもそうなの! もっと前からいたの、ずっと前から。」なのにその声は若い娘のように聞こえたのだ。「おしゃべりしに来ても迷惑じゃないわよね?」声は続けた:「孤独なの、むちゃくちゃ孤独なの、わかって。」
「ふむ! わかった」ハンプトン大佐は了解した。「儂はどうやらキの字になりかかっているんだろうが、それがどうした。こいつはキの字になるには気の利いたやり方だ…… お前が何者でも、ここいらにいればいい。知り合いになろう。なんだかお前が気に入った。」
 あったかい感じがじんわりと広がった。若くてハッピーで愛してくれる誰かにハグされたかのように。
「まあ、嬉しい。わたしもあなたが好きよ、とってもいい方!」
「ええ、無論」ヴァーナー医師は賢げに頷いた。「それは精神分裂病の傾向ですね。想像上の生物が住まう夢の国への現実逃避です。このような症例では精神疾患の混合が見られるのが常なのです。始まりは単なる老人性痴呆症だったのだと言えますね――加齢による脳の器質的な変性です。そこに偏執狂的兆候が現れ、陰謀を企む嫉妬深い敵に包囲されているとの妄想をいだいています。患者は次に自閉するようになり、自ら望んだ隔離状態のなかで想像上のお相手イマジナリー・コンパニオンを喚び起こしたわけです。疑う余地は……」
 はじめ彼は、この見えざる訪問客のことを、孤独な己の想像の産物に他ならないのではないかと疑っていたが、日が経つにつれ、疑いは晴れていった。この存在がなんであれ、彼の意識的なあるいは無意識的な自我とは完全に独立していたのだ。
 最初の頃、彼女――彼は早いうちからこの存在を女性だと考えるようになっていた――はおずおずとした様子で、精神の中に自分が侵入するのが迷惑だったらどうしようと恐れているようだった。いつでも歓迎だとわかってもらうには少しく時間が必要だった。時と共に、彼女に対する彼の印象もまた補強され、具体的になっていった。記憶の中のものや信念をもって想像したものを可視化することができるように、彼女を可視化することができるのに気づいた――細身の美少女で、何かゆったりしたフィルム状の衣をまとい、蜂蜜色の髪には花飾りがあり、目は透明な青、小生意気で陽気な顔、大きめの口は微笑み、ツンとすまして反り返った鼻。彼にはこれが、一種の寓意表現に過ぎないことがわかっていた。五感によっては決して描き出せない存在から自分勝手に抽象化した産物だと。
 彼が彼女を「最愛の君ディアレスト」と呼び始めたのはこの頃だった。彼女は自分で名乗ることはなく、その呼び方に満足しきっているようだった。
「ずっと考えてたの」と彼女。「あなたの名前もいるわね、って。『かわい子ちゃんポプシー』って呼ばれるの嫌?」
「へっ?」これには度肝を抜かれた。ディアレストが己とは独立した存在だということを示す更なる証拠が必要なら、まさにこれがそれだった。無意識界をどれほど深く掘り進んでも、自分自身をポプシーと呼ぶなんて絶対にあり得なかった。「陸軍で儂がなんと呼ばれたか知ってるか?」彼は訊いた。「屠殺場スローターハウスハンプトン。儂が通った後は血染めになり、それを隠すのにトラック一杯のおがくずが必要なんだと。」クスクス笑った。「儂をポプシーと呼ぼうなんて考えるのは、お前だけだよ。」
 ディアレストにお仲間でいてもらうには代償を支払う必要があることに彼は気づいた――果てのない警護という代償だ。いつの間にか彼は、ドアを開けると用もないのに傍に立つ癖がついてしまった。彼女を先に通すためだ。また、自分に向けられた思考はすべて読めるので、声に出して話しかける必要はないのだと彼女が主張しているのに、かすかな囁きでも言葉を実際に発話しないではいられなかった。ウェスト・ポイントの一年坊主の間に、唇を動かさずに話す技を身につけておいてよかったと思った。
「グレイロック」には彼自身と子猫スモークボールの他にもう一人、ほんのかすかにだが、ディアレストの存在を意識している者がいた。老いたるウィリアムスン軍曹、大佐のニグロの召使で、退役前は大佐が最後に指揮した連隊の曹長だった。老ニグロは時々仕事の手を休めて、あまりに微かで感じ取れない何かを見極めようとしている様子になり、やがてわけがわからないとばかりに頭を振るのだった。その頻度が次第に増してきた。
 とある十月の午後――約一年前――彼は西のヴェランダで椅子にもたれながら葉巻を吹かし、お友達のために、九十年代半ばにワイオミングで見たインディアンのキャンプの情景を心の中で再現しようとしていた。そこにウィリアムスン軍曹が一双の軍長靴と磨き道具一式を持って家から出てきた。大佐がいるのに気づかないまま、軍曹は荷物を降ろして床に座り、鼻歌交じりに軍靴を磨きだした。彼はやがて大佐の葉巻の微香を嗅いだのに違いない。頭を上げて大佐を見、軍靴と磨き道具を持ち上げようとした。
「おぉ、かまわないぞ、軍曹」大佐は言った。「そのまま続けてくれ。ここには二人分のスペースならたっぷりある。」
「イェッサー、ありがとうごぜえます。」老退役軍曹は柔らかな鼻歌を再開し、リズムに乗ってブラシを動かした。
「ねぇ、ポプシー、あの人わたしがここにいるのがわかってると思うな。」ディアレストは言った。「もちろん、はっきりとじゃないけど。自分には見えない何かがいるのを感じてるだけ。」
「そうかもな。儂もそんな感じがしていた。面白いな、とにかくあいつは気にしていないようだ。有色人種は大概がお化けだの霊だのを怖がるものなんだが…… 聞いてみるか。」彼は声を高くした。「軍曹、なんだかここにおかしなものでもいるのか?」
 二つの音程を行き来していた旋律が途中で止まった。軍隊あがりの召使は顔を上げて大佐と目を合わせた。眉を潜ませた。伝える言葉のない思いを表現しようとしているらしかった。
「おわかりで? サー」と答えて「なんと、さようで、大佐。正確にはどう言やぁいいだかわかんねえけど、ここにゃなんかおりますぜ。なんてゆうだか、その、なんてゆうか『祝福された感じ』みてえなもんで。」とクスクス笑った。「そうゆうもんです、大佐。祝福感ですわ。自分は抹香くさくなっちまうんですかね?」

「なるほど、中々に興味深いですな。実にそうです、先生、」T・バーンネル・パウエルが喋っていた。ティッシュでメガネを拭き、片肘でブリーフケースを突きながら。「ですが、それでは話が進みませんよ。言っているでしょう、この許可証には先生のサインが要るんです。さあ、先生のお見立てではこの人物の精神が不健全である、ということになるんですか、ならないんですか。」
「まあ、焦らないで、パウエルさん」精神科医は宥めた。「この紳士が会話を拒んでいる限り、診察したとは言えないのだ、ということを認めていただかないと。」
「話そうとしないって、何をです?」スティーヴン・ハンプトンがぶちまけた。「伯父の振る舞いについてはお話ししてあるでしょう。何時間も座ったまま、一緒にいると思い込んでいる想像上の人物にぶつぶつ話しかけるだの、ドアを開ける時はいつも脇によって居もしない誰かを先に入らせるだの、おまけに…… クソ、無駄無駄。伯父にまともな精神があるなら、自分から喋って立証すればいいでしょう? 何か言いたいことはないかい? マイラ。」
 マイラは黙っており、ハンプトン大佐は自分が彼女を興味深く見ているのに気づいた。彼女は口をしかめ、椅子の肘掛を指の関節が白くなるまで強く握っていた。何か激しい苦痛に襲われているらしい。ハンプトン大佐は、そうであれと思った。できるならちょっとばかり致命的なやつがいい。
 自分が宗教に走るのではないかというウィリアムスン軍曹の心配は束の間現実になった。その冬のこと、ある「秘蹟」の後のことだ。
 一月半ばの荒れた日だった。野を渡る風が雪を巻き上げていたが、数日間の蟄居に飽いたハンプトン大佐は肺いっぱいにいい空気を吸いこもうと外出することに決めた。暖かく着込み、山査子の杖を振り振り、ディアレストを伴って家を出た。「グレイロック」から約五キロの村までガシガシ雪原を渡るのだ。老人と不可視のお友達は連れ立って荒涼たる雪風の中を楽しく歩いた。ある事故が起こるまで。
 雪で覆われた下にガラスのような薄氷が潜んでいたのである。その上に歩を進めた時、両足で踏み抜いてしまった。杖は手を離れ、彼は沈んでいった。抜け出そうとしたが、不可能なことがわかった。ディアレストはもう気が狂ったようになった。
「おぉ、ポプシー、上がってこなきゃダメ!」彼女は叫んだ。「そうしないと凍りついちゃう。ほら、ポプシー、もう一度!」
 やってみた。無駄だった。老いた身体は意志の指揮に従おうとしなかった。
「駄目だよ、ディアレスト。儂にはできない。これでいいんだろう」と彼。「凍死は楽な死に方だ。お前がいうには、人は死んだら霊になるんだな。そうしたらずっと一緒にいられるな。」
「わたしにはわからないの。あなたにまだ死んでほしくない、ポプシー。霊に話が通じたことはこれまでなかった。だからもしかすると…… 待って! すこし這って進める? この若い松の下のところまで?」
「できると思う」左脚はしびれていて、彼はそれが折れていると信じていた。「やってみるよ。」
 彼は苦労して仰向けになり、松の若木が生い茂る方に頭を向けた。両手と右の踵を使うと、雪の中をゆっくり進むことができ、一番ひどい風を受ける場所から抜け出した。
「いいわ、じゃあ自分の体を覆ってみて」ディアレストのアドヴァイス。「両手をコートのポケットに。じゃ、ここで待っててね。助けを呼んでみます。」
 そう言って彼女は去った。だいぶ長い時間に感じた。彼は松の若木にわずかに守られながらじっと酷い思いをしていた。眠気が襲ってきた。何が起こっているのか理解するや否や、彼は怖気に震え、恐怖のため再び覚醒した。すぐまた眠くなってきた。体を動かして、折れた脚からの痛みを利用してもう一度目を覚ました。次は死にそうな眠気が舞い戻った。

 今度は鋭い声に目が覚めた。声に混ざってガタガタいう機械音が聞こえ、アルゴンヌ(*6)での砲声を夢に見ているのではないかと思った。
「あすこ、見ろあすこだ!」わかった、これはウィリアムスン軍曹の声だ。「陰の方は柔らかいぞ、あっ、貴様は木偶の坊のカス野郎か?」
 顔を向けると「グレイロック」にあったオンボロジープが見え、運転手は馬丁兼庭師のアーサー、その隣にウィリアムスン軍曹が乗っていた。年上のニグロはジープから飛び降り、彼の方に駆け出した。同時に、ディアレストが帰ってきているのを感じた。
「やったの! ポプシー! わたしたちはやってのけたのよ!」大喜びだった。「あの人にわかってもらえなかったらどうしようと心配してたけど、できたの。それであの人がもう一人の男の人にジープを運転させた時の強引さっていったら、見てほしかったわ。大丈夫? ポプシー。」
「大丈夫ですかい、大佐?」ウィリアムスン軍曹が質問していた。
「脚が折れたと思うが、それ以外は大丈夫だ」二人に向かって答えた。「どうして儂を見つけることになったんだね、軍曹?」
 老黒人兵は目玉を上にむけた。「大佐、秘蹟の祝福が自分の上に来たんで!」重おもしく答えた。「主の天使が一人、自分の前に降臨なさったので。」軍曹は頭をゆっくり振りながら「自分は罪深えもんですから、大佐、まさか天使と顔を合わせるなんてありえねえ。だけんど天使の御光が自分の眼の前に現れ、お導きになったのであります。」
 大佐の杖と折り取った枝とで添え木を作り、馬用ムシロを担架代わりにして「グレイロック」まで担ぎ込みベッドに寝かせた。心配そうにすがりつくディアレストと共に。折れた脚の骨はなかなかくっつかなかったが、医師は、患者の年齢に見合わぬ回復の早さにたまげ、陽気さを失わないことにも驚いた。無論、医師は患者に不可視の看護婦が付き添っていることを知らなかったのだ。とはいえ、ハンプトン大佐が病床を離れ、杖をつきながら家の周りを歩けるようになったのは、「グレイロック」を取り巻くオークの木が再び青葉を茂らせてからだった。
 結果として、ジープを運転していた若い方のニグロであるアーサーは、村の反対側にある小さなアフリカン・メソジスト監督教会の最もコアな信者になった。ウィリアムスン軍曹もまたひとしきり教会に足を運んだが、やめてしまった。定義も綴りも、発音すら知らなかったが、ウィリアムスン軍曹は骨の髄まで現実主義者プラグマティストだった。父祖が暗黒大陸から奴隷船で連れ去られてから五世代を隔てても、ほとんどのアフリカ人はそうなのだ。そしてウィリアムスン軍曹は教会では祝福感を見出せなかった。むしろ、それが見つかる範囲は、現雇い主にして元連隊長たる人物がいる部屋を中心にしていた。彼は思った。こいつは実にまっとうなことだ。もし主の御使が地上に留まられるとしたら、天上界の存在としては当然に合衆国陸軍退役大佐をめぐる人々を好まれるはずであり、古臭いボロ教会に群がるクソったれな木偶の坊どもの間ではあり得ない。かくあれかし、さすれば自分は常に祝福感をハンプトン大佐の部屋で見出し得る。大佐が就寝なさっている間、その祝福感は自分と共に部屋を出て、ひと時を共にしてくれることだってあり得るのだ。

 ハンプトン大佐は心配していた。ディアレストはいまどこに? 甥が法律家と精神科医を家に入れた時から、彼女の存在を感じ取れないでいた。もしかして、儂が彼女に対して何かのサインを見せたら、この強欲女ハルピュイアどもがしめしめとそれを利用して儂の狂気を立証してしまう、そんな事態を恐れたために彼女は儂から離れていったのではないだろうか。すっかり立ち去ってしまったとは信じられなかった、彼女を最も必要としているこんな時に……
「そうですか。じゃあどうしろと?」ヴァーナー医師は文句をいった。「あなたは私をここに往診のため連れてきた。そして患者はそこに座ったきりで一言も話さない…… チオペンタール注射に対する合意をいただけますかね?」
「そんな、急にはなんとも」T・バーンウェル・パウエルは逆らった。「聞くところでは、その薬品は――いわゆる『自白剤』の一つじゃありませんか。そのような薬品の影響下で得られた供述書は、法廷では認められない可能性が……」
「ここは法廷ではありません、パウエルさん」医師は根気強く説明した。「なにも供述をとろうとしているわけではなく、診断を下そうとしているのです。チオペンタールは診断用薬物として認められていますよ。」
「やってくれ」とスティーヴン・ハンプトン。「なんでもいい、ケリをつけられるなら…… 構わないだろう? マイラ。」
 マイラは口を開かなかった。ただ座って、目を見開き、何かおぞましい深淵に落ち込むのを防ごうとするかのように、椅子の肘掛をきつく握りしめていた。一度、低いうめき声が漏れた。
「このようにつらい会合に出席したせいで妻が疲れきるのは当然だ」とスティーヴン。「紳士の皆さんはお許しいただけるでしょう…… 他の部屋で横になった方がいいんじゃないか? マイラ。」
 彼女は頭を荒々しく振り、またしてもうめき声を上げた。医師と弁護士の二人ともが彼女を不審げに見ていた。
「いや、儂は薬漬けにされることに抗議する」ハンプトン大佐は立ち上がって言った。「何であろうとこれ以上の薬はまっぴらだ。」
「アルバート!」ヴァーナー医師は大佐を顎で示しながら鋭く言った。白いジャケットを着たピテカントロプスもどきの看護人が飛び出し、大佐の両腕を背中で押さえると、ずるずると椅子に腰掛けさせた。老人はしばらく抵抗を試みたが、もがいても無駄で惨めなだけだと気づいて静かになった。精神科医はポケットからレザーケースをとりだし、皮下注射用の針を選んでいるところだった。
 その時、マイラ・ハンプトンが椅子から転げ落ちた。顔貌がひどく歪んでいた。
「だめ! やめて! やめて!」彼女は叫んだ。
 誰もが驚いて彼女を見た。ハンプトン大佐も負けず劣らず驚いていた。スティーヴン・ハンプトンが妻の名前を鋭く呼んだ。
「だめ! そんなこと私にさせるものですか! させないわよ! 私を拷問するのね! この悪魔ども!」彼女は金切り声をあげた。「悪魔! 悪魔!」
「マイラ!」夫が大声をあげて近づいた。
 彼女は一ひねりでそれを躱し、机の引き出しに飛びついた。ちょっと中をかき回したかと思うと、次の瞬間彼女の手の中にあったのはハンプトン大佐の四五口径オートマチックだった。彼女はスライドを引き下げ、元に戻し、弾を装填した。
 ヴァーナー医師は注射器を手にしたまま振り向いた。スティーヴン・ハンプトンはグラスを捨てて駆け出した。突顎の看護人アルバートはハンプトン大佐を解放すると、拳銃を手にした女に向かって飛びかかった。ご主人様の危険に際して飼い犬が見せる無思慮な行動の早さである。
 一番近くにいたのはスティーヴン・ハンプトンで、彼女が最初に撃ったのも彼だった。胸を目掛けて盲撃ちだ。彼は大口径拳銃弾にはじき返され、小テーブルにぶち当たるとそのまま一緒に倒れた。彼が倒れる間に、女は振り向き銃口を少し下げて再び撃った。ヴァーナー医師は脚を砕かれ床に沈み、手から飛び出した注射器がハンプトン大佐の足元に落ちた。ちょうどその時アルバート看護人は彼女にのしかかるばかりだった。重いコルトをさっと反転させ、銃口を自分の心臓に向けて押し付け、三発目を発射した。
 T・バーンウェル・パウエルはブリーフケースを床にとり落とした。だらしなく顎を弛ませ、顔前に展開された血の惨劇に目を見張っていた。マイラのところにたどり着いた看護人は阿呆面で彼女を見下ろしていた。やがて身をかがめ、再び起きなおった。
「死んでる!」信じられないという風で言った。
 ハンプトン大佐は立ち上がり、注射器の上にかかとを下ろして踏みにじった。
「死んでいて当然だ」吠え立てた。「貴様は何か救命法の訓練を受けているか? なら、他の者の世話を頼む。ヴァーナー医師が先だ。もう一人は意識がない。そちらは後だ。」
「いや、もう一人を先に」ヴァーナー医師が言った。
 アルバートは二人の間であたふたしていた。
「ちくしょう、言うことを聞け!」ハンプトン大佐は咆哮した。今や彼はスローターハウス・ハンプトンとして話していた。インディアン戦争で早くも勲章を手にした男、命令が実行されない事態など一時も想像したことのない軍人である。「そいつの脚に止血帯を巻くんだ、貴様!」そこで少し語気を緩めてヴァーナーに話した。「あんたは医者じゃない、患者だ。今はな。言った通りにするんだ。四五口径で脚を撃たれると無意味に失血死することがある。知らないか?」
「大佐どののおっしゃるとおりにせい、神様が全ての願いを叶えてくださる」部屋に入りしなウィリアムスン軍曹が言った。「早くしろ。」

 軍曹は戸口のすぐ内側に立ち、玄関脇のスタンドから取ってきた銀巻のマラッカ杖を握っていた。彼は銀の巻線の下のところで左手に杖を持ち、曲がり部分を外に向けて、あたかも鞘の中の剣であるかの如く脇に佩いていた。まあ、その杖はもともと本物の剣だったのだが。アルバートは彼を見、振り返ってハンプトン大佐を見た。そしてネクタイを外すとヴァーナー医師の横に膝を落として巧みに即席の止血帯に仕立て、五十センチ定規できつく縛った。この定規はハンプトン大佐が机から取り上げて渡したものだ。
「救急キット、軍曹」大佐は言った。「急げ。スティーヴン氏も撃たれた。」
「イェッサー!」無意識に敬礼を返したウィリアムスン軍曹は回れ右を決めて部屋から駆け出した。大佐は机の上の電話を取った。
 郡立病院は「グレイロック」から五キロ、州警察の分署までは九キロあまり。大佐は先に州警察に架電した。
「マラード警部かね? 『グレイロック』のハンプトン大佐だ。ちょっと面倒が起きた。甥の嫁が儂の拳銃の一つを使ってフラメンタード(*7)になりおった。夫ともう一人に発砲して怪我を負わせた挙句自殺だ…… ああ、そうだ、警部。可能な限り早く警官をよこして現場をおさえて欲しい。おぉ、あんたが? そいつはありがたい。いや、もう終わった。逮捕しなければならない奴はいない。形式的なものだ…… わかった、ありがとう、警部。」
 部屋に再び現れた老黒人騎兵隊員は、今度は剣―杖を持っておらず、代わりに重い革製の箱を肩から掛けていた。彼はこれを床の上で開け、スティーヴン・ハンプトンの脇に跪いた。大佐は病院を呼び出していた。
「……銃創だ」と大佐「男が一人胸を撃たれ、もう一人の男が脚を。どちらも四五口径拳銃。死体検案書が書ける医者を一人派遣したほうがいいな。女が一人死んでいる…… ああ、そうだ。警察には連絡した。」
「こいつはそんなにヤバかぁありません、大佐」ウィリアムスン軍曹が頭を上げた。「もっとひどく撃たれてひと月以内に復隊した奴を何人も見ましたわ、サー。」
 ハンプトン大佐は頷いた。「よし。できるだけしっかり処置しろ。救急車は呼んである。そこのテーブルにウィスキーとコップがある。ヴァーナー医師に一杯飲ませるといいだろう。」虐殺のショックで椅子で凍りついているT・バーンウェル・パウエルを見た。「パウエル氏にも飲ませろ。必要なようだ。」
 確かにそうだった。ハンプトン大佐だって飲んでもよかったのだ。図書室はインディアン保護事務所のビーフ・デイのような有様だった。だが彼は尚スローターハウス・ハンプトンなのであって、それゆえ不安感などはしまっておかねばならぬ。
 その時だった、会合開始以来はじめてディアレストの存在を感じた。
「おぉ、ポプシー、大丈夫?」頭の中で声が尋ねていた。「これで終わったわ。もうなんにも心配しなくていいわよ。でも、うまくできないんじゃないかと心配だった!」
「なんと、ディアレスト!」ほとんど大声を出していた。「お前があの女に仕向けたのか?」
「ポプシー!」心の中の少女の声は悲しみに打ちひしがれていた。「あなた…… あなたはわたしが怖いのね! 決してディアレストのことを怖がらないで、ポプシー! このことで憎まないで。できることはこれだけだったの。あの注射を使えば、あの人はあなたにわたしたちのことを洗いざらい白状させられるの。そしたらあなたのことをキチガイって確信しちゃって、ここから連れ出しちゃう。あの人のところじゃ患者さんたちがとってもひどい目にあっているの。あっという間にあなたは本物のキチガイになっちゃうわ。そしてあなたの心はわたしに対して閉じてしまうから、もうあなたの心に入ることはできなくなる。永遠に。わたしがしたのは、わたしにできるただ一つのことだったのよ。」
「憎んだりしないさ、ディアレスト」心の中で返した。「叱りもしない。だが、ちょっとばかり狼狽したんだよ、お前の能力の大きさを発見して…… どのようにしたのかね?」

「覚えてるでしょ、あなたが雪の中で倒れたとき軍曹さんに天使を見せたの。」ハンプトン大佐は頷いた。「よかった。わたしはあの女の人に見せたの…… 天使じゃないのを。」ディアレストは続けた。「あの人を崩壊寸前まで追い込んどいて、そうすると心の中に入ってあの人をコントロールすることができるようになったのね。」ハンプトン大佐は己の中で何かが慄くのを感じた。「それが恐ろしくって。あの人の心は下水みたいだった。わたしはまだ汚れている気がするくらい! でもわたしはあの人にピストルを持たせて――あなたがどこにしまってるか知ってた――もしあの人が知らなくても、わたしは使い方を知ってた。思い出せる? わたしたちが川べりでジャコウネズミを撃ったときのこと。」
「うう、アクションを解除して薬室に弾を送り込む方法までどうしてあの女が知っていたのか不思議だったんだ。」振り返って他の人々の顔を見た。
 ヴァーナー医師は床に座り、負傷した方の脚を前にまっすぐ伸ばしたまま、さっきまでハンプトン大佐が座っていた椅子に背を凭れていた。アルバートはその上にかがみこんで母鶏のように世話を焼いていた。T・バーンウェル・パウエルはウィスキーを飲み干すと、いつもの平静さをいくぶん取り戻していた。
「さあ、これで紳士諸君には実際に狂っていたのは誰だったかお判りだと思う。」ハンプトン大佐は噛み付くような口調で演説した。「あの女性は少なくともここにいる間じゅう、狂気の世界に危険なほど近づいていたわけだ。思うに、我が貴重なる甥は儂に対するこの馬鹿げた精神鑑定を起こすことで、儂の財産を己の自由にすると共に、自分の妻の精神状態に対して儂が提出するかもしれない供述を無効にしようと狙ったんだろう。今日の午後ここで耐えてきた緊張の度合いは彼女には荷が重すぎて、陰謀はブーメランのように発案者を襲うことになった。興味ある勧善懲悪ものの詩的正義案件だったのだが、先生、あなたまでそれに巻き込むことになったのは面目ない。」
「すごいわ、ポプシー!」ディアレストの賛嘆だ。「さあ、あの人たちを追い払うの。態勢を立て直すチャンスを与えないで。パットン将軍がいつも言ってたのを知ってるわ――奴らの鼻面を摘んでズボンを蹴り飛ばしてやれ、って。」
 ハンプトン大佐は葉巻に火を点け直した。「パットンは『パンツ』としか言わなかったな。ブン屋さんの前では。」sotto voce小声 で彼女に話しかけた。そこでまだ署名されていない許可証が机に乗っているのに気づいた。彼はそれを摘み、丸めて暖炉に投げ込んだ。
「これは無用だと思うがね」と大佐。「ああ、我が愛する甥が儂の正気に対する懸念を表明したのはこれが初めてではないのだ。」机の椅子に腰を下ろし、手つきで召使に酒を持ってくるよう告げた。「それに軍曹、他の紳士のグラスの分も頼む」と指示して。「一九二九年にまで遡るが、スティーヴンは儂が発狂したと思った。含み損が出る覚悟で証券を全て売却したからだ。それが九月の頭だった。十月二十四日以降(*8)に、売却価格の二十パーセントで買い戻した。その時奴は無一文だ。」こういう話がT・バーンウェル・パウエルに対して有効なのを知っていた。「一九四四年十二月、儂はただのバカだったね。軍需関連株を全部売ってベビーフード製造会社に投資したのだ。スティーヴンは考えていた。アルデンヌ大攻勢(*9)によって、終戦があと一年半遅くなるだろうと!」
「ベビーフードとは、え?」ヴァーナー医師はクスクス笑った。
 ハンプトン大佐はウィスキーをゆっくりすすり、葉巻に吹きかけた。「いや、この二人は手練れの嘘つきだったのだ」と返した。「腕の達者な嘘つきは決してゼロからストーリーを組み立てることをしない。真実の糸を状況に合わせて都合良く織り上げるのだ。」険しく微笑んだ。これこそが目下進行中の作戦の正確な描写だったからだ。「これをカミングアウトしたくはなかったのだが、先生、仕方がない。なんと、儂は心霊主義にかぶれてしまってね。これも妄想的信念ということになりますかな? 先生。」
「そうですね……」ヴァーナー医師は口をすぼめた。「私は死後の生という考えを拒否しますが、その手の理論を信じる人々は単に根拠とすべきものの評価を誤っているのです。それだけをもって精神異常の徴候とすることは決してありません。」

「ありがとう、先生」大佐は葉巻を弄んだ。「さあ、儂は認めることにする。儂が何か目に見えない、あるいは想像上の存在と会話しているらしいという件だ。それは事実だ。儂は一人の霊と直接やり取りをしていると信じておるのだ。それは百七十五年ほど前にこの地域でインディアンの手にかかって命を落とした少女の霊だ。初めは自動筆記で、後には直接やりとりができるようになった。ああ、儂のような立場の者は霊媒などというレッテルを嫌うものなのだ。この単語には不快な連想がまとわりついておるからな。だがそれはあるのだよ。お二人の紳士はそれぞれの職業倫理を思い出して、この件を内密にしてくれると信じているよ。」
「おぉ、兄弟!」大喜びのディアレストは彼にかじりついた。「より大きくてより良い嘘を聞かされると、それを告げ口しちゃうものよね、ポプシー?」
「その通り。そうじゃないと証明してみるか」ハンプトン大佐は葉巻に向けてこう返した。そしてジェットのように煙を噴出すると、目の前の者たちに話した。
「甥の入院費とその妻の葬式代は儂がもとう」と彼。「二人の身の回りのものを全て梱包して、甥が退院し次第、どこでもお望みの場所に送ってやる。だが、この家の敷居は二度とまたがせないぞ。儂はきっぱり縁を切る。」
 T・バーンウェル・パウエルはお高く頷いた。「私は貴方を一切非難致しませんよ。大佐」と彼。「忌まわしい扱いを受けてきたのですな。そして貴方の態度は極めて寛大だ」何かをさらに続けようとしたところに、ドアベルが鳴り、ウィリアムスン軍曹が玄関に向かった。「困った、あれは警察だと思いますな」と法律家は言った。歯医者の椅子に座る小さな子供のように顰め面をしていた。
 ハンプトン大佐はディアレストがしばし自分の許を去ったのを感じた。すぐに彼女は戻ってきた。
「救急車。」彼は彼女の中に悪戯心が弾けるのを感じた。「ちょっとからかってやりましょう、ポプシー! お医者さんは若い男の人で、茶色の髪と口ひげ、縁が角張った眼鏡、青いタイに小麦色の革の鞄。救急隊員の一人は赤毛、もう一人は左袖に赤チンのシミがある。霊のお導きだといって教えてあげなさいよ。」
 老軍人のヤニに染まった口ひげが愉快そうに歪んだ。
「いや、諸君、あれは救急車だ」と訂正した。「儂の霊が告げるには……」彼はディアレストの描写を彼らに中継した。
 T・バーンウェル・パウエルは目を瞬かせた。精神科医の目には疑惑の色が浮かんだ。きっと例の許可証が焼き捨てられなければよかったのにと思っているのだろう。
 そこに救急医が駆け込んできた。茶色の口ひげ、青いタイ、眼鏡、小麦色の鞄。後ろに二人の救急隊員が続き、一人はぼさぼさの赤毛、もう一人はジャケットの袖にマーキュロクロームの染み。
 一瞬の間、それを目にした法律家と精神科医は呆然と口を開けた。ついでT・バーンウェル・パウエルは片手で口を押さえ、訳のわからないことを小声で口走り、ヴァーナー医師はかすかにギャっと言った。そして二人同時に一本のウィスキーボトルを握りしめた。
 ハンプトン大佐の陽気な高笑いの中をディアレストの耳に聞こえぬ笑いがさざめいていった。

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翻訳について

 底本は Project Gutenberg Canada の Dearest BY H. BEAM PIPER(http://gutenberg.ca/ebooks/piperhb-dearest/piperhb-dearest-00-h.html)です。原文はヤードポンド法で書かれていますが、断りなく単位を換算してあります。
 この訳文は他の拙訳同様 Creative Commons CC-BY 3.0 の下で公開します。なし崩し的に著作権保護期間の延長が決定した現状で、ほとんど自由に使える訳文を投げることには多少の意味があるでしょう。
 登場する固有名詞:Colonel Ashley Hampton、Greyrock、Stephen Hampton、Myra、T. Barnwell Powell、Doctor Alexis Vehrner、Smokeball、Dearest、Popsy、Sergeant Williamson、Arthur、Sergeant Mallard。

(*1) 底本では「ハミルトン」Hamilton。
(*2) 米西戦争。
(*3) 第一次大戦後。
(*4) 合衆国第十騎兵連隊。
(*5) 軍務不適格者。
(*6) ベルギー国境に近いフランスの森林地帯。第一次大戦では連合国の防衛拠点であり、第二次大戦では激戦地となった。
(*7) 狂信的な無差別殺人者。返り討ちにあう前提で犯行に及ぶ。
(*8) 世界大恐慌が起きた日。
(*9) バルジの戦い。





This is a Japanese translation of "Dearest" by H. Beam Piper.
   2018(平成30)年8月26日初訳
   2018(平成30)年9月27日最終更新
※以上は、 "Dearest" by H. Beam Piper の全訳です。この作品には差別に関わる今日では社会的に受け入れられない表現がありますが、時代背景に鑑みそのまま訳出しましたのでご了承ください。
※この翻訳は、「クリエイティブ・コモンズ 表示 3.0 非移植 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja)によって公開されています。
Creative Commons License
※元のファイルは、http://www.asahi-net.or.jp/~YZ8H-TD/misc/DearestJ.html にあります。
翻訳:The Creative CAT
2019年3月12日作成
青空文庫収録ファイル:
このファイルは、著作権者自らの意思により、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)に収録されています。




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