時正に
これと時を同じくして、恰もこの頃同じく倫敦へオーブレイといふ少年の紳士がやつて来た。彼はたつた一人の妹と早くに親に死に別れた身なし児で、子供の時分に世を去つた両親が遺して置いてくれた巨額の財産を持つてゐる人物であつた。その財産を何くれとなく世話することを主人に対する唯一の忠義立と心得てゐる後見人がいまだに彼には幾人もついてゐて、その後見人たちに彼は金動で働く家の子たちの世話責任を一切まかせてゐるうちに、次でに彼は分別を養ふことより、どちらかと云ふと、あの婦人帽子屋の見習職人には禁物だといふ廉恥と公明との信念に富む浪漫的精神を養ふやうになつて行つた。彼は万人を救ふものは徳望だと信じてゐた。世の中の悪徳などゝいふものは、あれは小説によくあるが如く、神がこの世の色どりにもと下し置かれたものだと考へてゐた。われ/\人間の住んでゐるいぶせき小屋のみじめさは着物で云へば胴着のやうなもので、暖を取りさへすれば事足れりとすべきもの。しかもその皺だらけな襞や色とりどりな継ぎ当ては画匠の見界によつて都合よく美化されてゐるのだと彼は考へてゐた。要するに彼は、詩人の夢が人生の現実であると考へてゐたのである。彼は男振りよく、竹を割つたやうな気立、その上に金はあると来た。こんなわけ合ひだから、彼が陽気な空気のなかへ入つて行つたりすると、方々の母親たちが彼を取囲んで、うちの娘は物憂れたげな落着いた娘だことの、うちのは少しお転婆だことのと、あることないこと搗き交ぜて喋り出す。娘達の方はまた冴え冴えとした顔つきで彼に近づき、彼が口を開きでもすると、瞳を耀かせて彼の才幹美質とは見当外れた見界へ引込んでしまふのであつた。もと孤独を好み孤独の時の空想を愛する彼ではあつたけれど、このやうな次第でこのごろやうやく牛脂や蜜蝋の蝋燭の灯のまたたき――それとて別に幽霊が出るからといふ訳でもなく、たかゞ芯を切らなかつたからまたゝくのであるがこの揺曳する灯影の間にゐるのが精々でこの世の中には、日頃自分が勉強した書物の中の記述や面白いと思つた画などいかほど積み重ねてみても現実世界に於ては何等の根拠もなかつたことに気づいて
彼はあの人物をまじ/\と打眺めてみたが、体のうちにすべて吸収し尽してゐるものか外部には殆どしるしらしいものを現はしてゐないこの人物の性格に対して彼は観念らしい観念を捉へることが出来なかつた。この事実は双方暗黙の間に認め合ふと云ふより、寧ろ双方の接触を避けしめると云つた意味合ひを含んでゐた。そこで彼は例の如き傾向の想像を馳せて好んで途方もない考へをいろいろ描いてゐるうちに、やがて彼は相手を一個のロオマンスの中の主人公に仕立てゝさて自分の目の前のこの人をといふよりも寧ろ自分の空想の栄え行く果を見究めようと決心をした。彼は次第にその人と近づきになり、さうしてその間、
今までオーブレイはおち/\とルスヴン卿の性格を研究する機会とてはなかつたのであつたが今度といふ今度彼は初めて分つた。いろ/\な行状が彼の目の前に曝露された。彼の行為の動機はその結果からこれを見ると、大分違つた結論を与へられてゐた。この同行者の磊落虚坦な点である。それは実に大雑把であつた。……怠堕無頼の徒や浮浪の輩は、己れの当座の饑餓を満たすに充分以上のものを彼の手から獲ることは出来た。けれどもこれは徳義心から出たものではなささうであつた。言ふまでもなく打続く不幸の為めに徳に厚い人の身にも赤貧の見舞ふ例はいくらでもあることなのに、然しオーブレイは彼が施物を与へるのは徳にさへも附き纏ふ不幸のために貧窮に陥つた有徳者に対してではないのだと考へざるを得なかつた。それらの施物は圧へ切れる侮蔑の窓口から投げ与へられたのであつたと考へざるを得なかつた。がそれに反して道楽者などが困窮から逃れんがためではなく道楽に耽つたりまたは益々邪道に深入したりせんがためにならば、この人は非常に金目な施与物を持たされて帰つた。それを彼は一般に有徳な貧者の内気な羞恥よりは道楽者の厚かましさの方が力強いからだと做していた。只こゝに一つルスヴン卿の慈悲についてオーブレイが心に深く感銘した事柄があつた。それはこの人から慈悲をかけられたものにとつてはその慈悲が一つの
やがて程なく彼等は
オーブレイは、またしみじみとこれと云つては意義のある点を相手の性格から捉へることは出来ずにはゐたものの、とにかく一旦伴れから離れることに
さて羅馬をあとにして発つたオーブレイは、
オーブレイは次第にイヤンテに心を惹かれはじめてゐた。ロマンティックな幻想を追ひ求めてゐた今までの女達の気取つた淑やかさとは大に異つて、イヤンテの無邪気な点が彼の心を惹いたのである。英国風俗の中に生ひ育つた一人の青年が教育もない希臘の娘と結婚するのかなどと笑ひのめしながらも彼はますます目の前にゐる[#「ゐる」は底本では「いる」]彼女の殆ど仙女に近い姿に心惹かれて行くわが身に気づいて来てゐた。彼は時々自分を彼女から引離してしまはうと[#「しまはうと」は底本では「しまおうと」]考へることがあつた。それには何か考古学上の研究でも計画して旅にでも発ち、目的を果すまでは帰らないことにしようと決心した。だが、それも無論自分の心のうちに思ふに適はしい幻影の絶えず附き纏つてゐる間は、到底昔の廃墟などに専心することの出来ないのは分り切つてゐた。イヤンテの方ではこんな彼の恋ごころにも気がつかず、いつもはじめて相見た時分と少しも変らぬ打ちとけた初々しい様子をしてゐた。彼と別れてゐるのを何となく気が進まぬげであつた。が、それはただ自分の好きな幽霊の話をする相手がゐなくなるからであるらしい。それに引き換へ、オーブレイの方は相変らず時代の破壊の手から
翌朝オーブレイは従者をも連れず出かけた。宿の主のひどく鬱ぎ込んでゐるのが彼には驚かれるばかりであつた。が、昨夜彼が例の恐ろしい悪魔の存在を信じてゐる彼等を嘲笑した彼の言葉が彼等にそんなに恐怖を与へたのであつた。いよいよ出立する間際にイヤンテが彼の馬側へやつて来て、いやなものなどが力を揮う日の暮れにならないうちに帰つて来ることをくれぐれも哀願するのであつた。彼はそれを請合つた。しかし彼は研究にあまり身が入りすぎて、日の没し去るのに間もないのにもう地平線には一点の黒雲が現はれて、それは気温の高い土地柄として忽ち凄い勢で空一杯に拡がつて、やがてこの呪はれた土地一帯にわたつて篠突くばかりの猛雨を降らせようといふものだといふのも気がつかないでゐた。それでも遂に彼は馬に跨がつた。遅刻を取りかへさうと意気組んで馬足を急がせた。しかしもうあまりに遅かつた。ここらの南方の国々では黄昏時といふものは殆どあるか無いかで日が没したかと思ふと直ぐ夜になつてゐた。さうして彼が大して遠くも進まぬ間に嵐の威力は彼の頭上にあつた。――轟々たる雷鳴は小休みなく轟き渡つて大粒な密雨はちやうど天蓋になつてゐた頭上の樹々の茂みを降り貫き、蒼白いさす叉形の稲妻は今にもわが足許に落ちて来て放電しようとするかと見えた。突然馬が驚いて跳ねた。馬は彼を乗せたまま恐ろしい速力で枝の入り組んだ森の中を駈け抜けた。たうとう馬は疲れて止つた。折柄閃く稲妻に見廻すと彼は朽葉のなかに埋れんばかりになつて粗朶に蔽はれてゐる一軒の小屋近くに来てゐるのであつた。彼は馬を降りて、進み寄つた。誰か人里へ行く道を教へてくれる人でもあればいい、せめては嵐の襲撃をしばらく避難する場所でもほしいものだと思ひながら。彼が進み寄つた時、雷はふと一瞬間鳴を鎮めて彼の耳に聞かせたのは息の詰るやうな叫び声の嘲り声と混つた女の笑ひ声と、つづいてもう一つ今度は邪魔の混らぬ女の叫び声であつた。彼はぎよつとした。しかし再び頭上で鳴り出した雷鳴に気をとり直した。彼は勇気を奮ひ起して、いきなり小屋の戸を開けた。見ると中は真つ暗であつた。しかし物音の方へ彼は近寄つて行つた。誰何して見たが、物音は依然として止まなかつた。彼の這入つて来たのなどは気にも留めぬ様子であつた。そのうち彼は誰かに触つた。彼はいきなりそれを引捉へた。すると「や! また仕損じたか!」と呶鳴る声がして、その後から高らかな笑ひ声がつづいたと思ふと、彼は何か人間業とは思はれぬひどい力のあるものに引捉へられたのを感じた。安々と身を捨ててなるものかと決心して、彼は格闘した。だがその甲斐もなかつた。彼はいきなり足を持ち上げられたかと思ふと、凄まじい力で地べたへ叩きつけられてしまつた。――相手は直ぐさま飛びかかつて彼の上に馬乗りになり、喉首へ両手を当てがはうとした。折よくちやうどその時、夥しい松明の光りが小屋の節穴から射し込んで来て、あたりを昼のやうに明るくした。敵はそのためにひるんだ。さうして忽ち躍り上ると、餌食はそこへ置き去りにしたまま戸口から表へすり抜けた。森を突き抜ける時の木の枝の裂け砕ける音も、もう聞えなくなつた。嵐も今は鎮まつた。身動きもならずじつとそこに打倒れてゐたオーブレイはやがて戸の外へ来た大勢の人達に聞きつけられた。彼等は中へ這入つて来た。松明の光は泥壁とひどくすすけた藁屋根の上に照り映えた。オーブレイの願ひで人々は先刻叫び声で彼を驚かした女を探しに出かけた。彼はもう一度闇の中に残された。松明の光が再び現れてあたりを照し出した時、彼の美しい案内女が既に事切れた屍となつて運び込まれた時の彼の驚愕は如何ばかりであつたらうか。彼は目を瞑ぢた、自分の錯倒した夢の中に浮んだ単なる幻であつてくれればいいがと望みながら。しかし彼が目を開いて見ると、やはり外ならぬ同じ姿の彼の女であつた。頬には血の気も失せ唇にさへ色はなかつたけれど、しかしその顔には生きてゐた時と変らぬ魅力のある静けさが漾ふてゐる。……さうして胸と首とには血汐の迹が滴つてゐて、咽喉にはカプリと血管に食入つた歯の迹がまざまざと残つてゐた。その疵を指さして人々は一斉に驚きながら「おお吸血鬼! 吸血鬼!」と叫ぶのであつた。やがて手早く担架がしつらはれて[#「しつらはれて」は底本では「しつらわれて」]、オーブレイと彼女とはその上に並んで[#「並んで」は底本では「竝んで」]横へられた。嗟今までは彼にとつてさまざまの輝かしい天女の幻影の対象となつてゐた彼女、その幻影も今は彼女の花のごとき命とともに屍のうちに亡びてしまつてゐた。……彼はわれながら何を考へてゐるのやらさつぱり判らなかつた。心は痺れ果てて物を考へるのを避け、今はただ虚空に休らはんとするかのやうに。――いつとも知れず手に握り持つてゐた抜身の匕首を見たが、それはあの小屋のなかで見つけたもので珍らしい恰形の匕首であつた。やがて彼等が路を行くほどに、また別に一団の人々に行き逢つた。聞けばこの人達はどこやらの母親の行衛知れずになつたのを探し尋ねあぐねてゐるのであつた。大勢の人々の愁嘆する諸声は、市に近づくに従つて怖ろしい変事を人の親たちに警告するのであつた。――その親たちの悲嘆は筆紙には到底尽し難い。彼等はわが子の死因を初めて知つた時、一斉に先づオーブレイの顔を凝視してから、さて娘の死体を指さした。彼等にとつては諦め切れない事であつた。両親とも涙に暮れて死んだ。
床に寝かされたオーブレイは猛烈な悪熱に侵された。時々その熱に浮かされてうわ言を口走つた。その合間にはルスヴン卿とイヤンテとを求めるのであらう――得体の知れぬ錯雑から彼は旧友に自分の愛人を渡してくれと頼んでゐる模様であつた。さうかと思へばまた時には、彼の頭のなか一杯をあらゆる呪咀で満たして、彼女を殺した下手人は彼だと呪つてゐる時もあつた。恰度この時ルスヴン卿は偶然アゼンスの町へやつて来た。さうして、どういふ拍子からか、彼はオーブレイが重態の噂を聞込んで、早速同じ家へ泊り込んだ、さうして附切りの附添人となつた。オーブレイは夢現の境から覚めると、自分が今まで吸血鬼の形と結びつけて考へてゐたその人の姿が目の前にあるのでぎよつとした。しかしルスヴン卿は親切な言葉で、彼等が物別れにならなければならなくなつた過失を殆ど後悔した口振りで一層彼をもてなしたり心配や世話を焼くので、オーブレイも自然、面と向つては次第に心が打ち解けて来た。卿も以前とは大分様子が変つた。あの頃オーブレイを驚嘆せしめたやうな冷淡なところは今では微塵も見られなかつたが、しかし日一日とオーブレイの病がずんずん恢復しだして行くのに従つて、相手の気持もだんだんと後戻りして行つた。[#「行つた。」は底本では「行つた」]今ではただ口角に意地悪げな勝誇らしげな微笑をにやりと涵へて顔を見据ゑられる時に驚く以外には、以前の卿と何等変つたところもなかつた。その笑ひ顔が故も知れず彼の心に憑き纏ふのであつた。病人がそろそろ恢復期になつた終り頃には、ルスヴン卿はひたすらに潮の差し引きもない海原に涼しい微風によつてうねり返してゐる波の穂やさては静止してゐる太陽の周囲を運行してゐる遊星などを眺め飽かしてゐるふりをしてゐた。――実際彼は皆の目から避けたがつてゐる様子であつた。
オーブレイの心は今度の震蕩によつて大分沮喪を来たした。嘗てはあれほどこの男を目立たてさせてゐたあの柔軟性に富んだ精神も遂に永久に失はれてしまつたかと思はれたくらゐである。今では彼もルスヴン卿と同じく孤独と沈黙とを愛するやうになつた。――しかしその孤独はアゼンスの近くに見出すことは出来なかつた。以前彼が屡々訪れた廃墟にそれを求めんとすれば、イヤンテの影が彼の傍に立つてゐた。森の中にそれを探ね行けば、軽い彼女の足どりが床しい香ひの菫の花を手折りにと木の下路を歩いて来る。忽ち振り返るその顔を見れば唇のあたりには和やかな笑を涵へたその顔は色蒼ざめて、咽喉にはあの深い傷の痕がありありと残つてゐる。ああいつそのことこんな土地は離れてしまはう、心に苦い連想を与へるこの地勢から逃れ去らうと彼は決心をした。彼は病中にやさしい看護を心がけてくれたルスヴン卿に対してどこか希臘のうちの二人ともまだ見ぬ土地へ行くことの相談を持ちかけた。やがて彼等はいろいろの方面へ旅をした。さうして思ひ出に残るやうな土地を尋ねて歩いた。けれどもかうして旅から旅へと慌しく歩きながらも、見てゐるものをさへもおち/\と心にとめて居られぬ有様であつた。彼等は賊の噂を多く聞かせられた。しかしその噂もしまひには耳に馴れて、どうせそんなものは度胸があつて本気にしないものを騙かすのが面白さに誰かがひねり出す悪戯だらうぐらゐに看做して二人は馬鹿にしてゐた。二人が土地の人の云ふのをあまり気にも懸けないでゐたので、或る時たうとう僅か二三人の警護者――といふよりも案内者といふ役柄であつたが――を連れて旅に立つた。ところが或る狭い谷間路にさしかかつた時、ここは眼下に早瀬の滾ち流れる河床があつて、近くの崖から崩れ落ちた大きな岩が彼方此方にもごろごろ転つてゐるやうな場所であつたが、二人はここまで来て初めて自分達の迂闊を後悔する理由を持つたのであつた。といふのは一行がその細い径へさしかゝつた時、いきなり鉄砲の弾丸が頭上をひゆうつと掠め、つづいて数挺の鉄砲が発砲された。それを見るなり警護者たちは二人をそこに置き去りにしたまま直ぐさまそれぞれに岩蔭に身をかくし、銃声の聞えた方角へ発砲しはじめた。ルスヴン卿とオーブレイとは直ちに彼等の供に倣つて、谷道の曲り角へ身をひそめた。ところが敵は一人も姿を現はさないで、ただ侮辱的に叫び声を上げて立ち合へと命じてゐるきりであつた。出て来ないものを待ち構へたり手向ひもして来ない人殺しに身を曝してゐるのも間の抜けた話だ。たとひ賊が登つて来たにしても背後からこれを捕へることも出来ようといふので彼等は進んで敵を探しに出ようと決意した。すると彼等が岩蔭から出も終らぬうちにルスヴン卿が敵の弾丸を肩に受けて為めに地上に倒れた。オーブレイは急いで彼を助けに行つた。無論最早争闘や身の危険などに構つてゐられる場合ではない。忽ち彼は賊の面々に包囲されてしまつた。手負つたルスヴン卿にかかつてゐた警護のものどもも早速武器を取上げられて降参してしまつた。
代償はたつぷり取らせるといふ約定で、オーブレイは早速賊どもをして手負いになつた友達を近所の小屋へ搬ばせた。金高も折合つたので、もう山賊共に妨害されることもなくなつた。彼等はオーブレイが
オーブレイは一休みするために彼の側を離れたが眠ることは出来なかつた。どういふわけかは知らないがこの男と抑々知合つた頃からの、その時折のさまざまな場面が心頭に浮んだ。さうして今誓つた誓約を思ひ出すと、それが何か自分を待ち受けてゐる凶事の表示ででもあるかのやうに彼には思はれて、氷のやうな冷たい身震ひが全身を流れるのであつた。翌朝彼は未明に起き死骸を安置して置いた小屋へ這入らうとすると、入口で賊の一人とぺつたりと行合つた。その男の云ふには、死骸はもう小屋の中にはない、オーブレイの退出の後自分が仲間のものとともに、死んだら直ぐさま月の昇り次第に死体はその冷たい光にあててくれといふあの方との約束に従つて近くの山の頂上に運んだとの事であつた。
オーブレイは吃驚した。そこで彼は数人の者を従へてその死体の埋められたといふ場所へ直ぐと行つて見ることにした。けれども山の頂上に行つて見ると、賊どもが確かにそこに置いたと示した岩の上には死骸も着てゐた衣類も迹かたはなかつた。彼は暫くは当惑に暮れたが、やうやう思い当つて賊どもが卿の死骸を埋めたのはきつと衣類を剥ぎ取るためだつたのだらうと考へてやつと戻つて来た。
かくの如き怖るべき不幸に遭つたことはこの土地に倦きまたその心に取り憑く迷信的な憂鬱をますます募らされるので、彼はこの土地を離れることに心を決めて、間もなくスミルナに着き、オトラントかナポリかへ[#「オトラントかナポリかへ」は底本では「オトラントカナポリガへ」]行く便船を待つ間、彼はルスヴン卿と一緒にゐた[#「ゐた」は底本では「いた」]間に彼から得たさまざまな結果に就てしみじみと考へて見た。許多ある彼の遺品の中に五六種の凶器の入つた箱が一つあつた。いづれもその品は被害者の死を保証するに好適な恰形をしたもので普通の短剣が二三挺とアタガン刀(土耳古人の用ゐる[#「用ゐる」は底本では「用いる」]剣)が幾振かあつた。それを手に取り上げて珍らしいその形を眺めてゐるうちに、思はずも彼は
スミルナを発つた彼は故郷への途中で羅馬に立寄つた。そこで先づ彼が心に問ふたのは、いつぞや自分がルスヴン卿の誘惑の手から奪ひ取ろうと企てたかの婦人のことであつた。彼女の両親は難渋してゐた。運勢が滅茶苦茶になつてしまつてゐた。彼女に関しては卿と別れてより後は杳として知るところもなかつた。オーブレイの心はかくまでも積りに積る恐怖のために狂せんばかりであつた。この婦人も亦イヤンテを破滅させた奴の犠牲になつたのではないかと危まれるのであつた。彼は無愛想に無口になつた。さうしてその愛する者の命を救ひに行かうかとでもしてゐるかのやうに、ただ一気に四頭立の馬車を急き立てて行くのであつた。カレーに着いた。和風はさながら彼の意を体したかの如くに彼を英国の岸辺へ吹き送つた。彼は父親の邸へ急いだ。さうして妹の温い抱擁と愛撫とに逢つてしばらくの間は来し方のあらゆる思ひ出も消え失せたかのやうに見えた。以前ならばあどけない仕打によつて兄の愛情を得たであらう彼女も、はや一人前の婦人の如くなつてゐて今は友達として以前に優る兄の愛着するところとなつた。オーブレイ嬢はいつたいが、あちらこちらの招客の席などへ集つて来る人々の注目や賞讃を得るやうな愛敬に富む優しみを帯びた娘ではなかつた。あの種の大勢の人に賑ふ[#「賑ふ」は底本では「賑う」]部屋のなかの火照の間に特有な軽やかな輝きのある娘ではなかつた。彼女の水色の眼は心に蔵された気軽さで輝くやうな眼ではなかつた。それはいかにも悒鬱な魅力を帯びた眼で、しかしその悒鬱は決して不幸から来たものではなくして、内に深く感じたところがあるといふ、つまりもつと明るい国を意識してゐる魂を語つてゐると云つた眼付であつた。足どりなども蝶や色彩などに心を引かれて迷ひ出て行くやうな軽々しいものではなかつた。落ちついた物悲しげな足どりであつた。彼女の前にゐる時にのみあの心のみだれた悲しみを忘れることの出来るままにその兄が愛情の息吹きを吹き込む時の外はひとりでゐる時などその顔が歓びで頬笑み輝くことなどはなかつた。誰が彼女のこの笑ひを淫らなものと取換へたいと望むものがあらうか。実際兄と妹との相対する時、彼等の眼が、彼等の顔もその時には生れたばかりの天真な光りの中で戯れ合ふのであつた。彼女は年やうやく十八歳、世間にも触れてゐなかつた。彼女の後見人たちは兄の帰朝するまではさういふ事は見合せて置かうとの配慮から出たものであつた。兄が帰れば彼女のお守り役にもならうからといふのであつたから、従つてちやうど時は今、折からさし迫つて接見の儀が催されやうとしてゐるのを幸ひ、それをひとつ彼女の社交界への初見参にしようといふことになつた。オーブレイはどちらかといふと自分は父親の邸に居残つてゐて、堪え難い[#「堪え難い」はママ]憂鬱をひとり貪つてゐたい下心であつた。現に証拠を目に見た事件で心も千々にみだれてゐるこの際、今日を晴れと着飾つた見も知らぬ人達のたわいもない振舞などには些の興味もなかつたのであるが、ただ妹を庇護してやりたさに、彼は自分の楽しみを犠牲にすることにした。程なく彼等は市に着いた。さうしてかねて接見の日と披露されてゐる明日の支度にとりかかつた。
接見の儀は大分久しく催されないでゐた折のこととて参集する人々は大分多かつた。いづれも御機嫌すぐれた御竜顔を拝せんものと馳せ参じた。オーブレイも妹ともども参じた。接見の間の片隅に彼はひとりぽつねんと佇みながら、あたりには構ひなく、彼がルスヴン卿と外でもない現在のこの部屋で初めて会つた時のことを思ひ出してゐた。不意に彼は誰かに腕を掴まれたやうな気がした。同時に聞き覚えのある声を耳にした。――「誓約を忘れまいぞ」彼は咄嗟に振向いて見る勇気も出なかつた。自分を葬り去るに違いないあの怪物を見るのが怖ろしさのあまり。するとその時彼は、初めての時もやはりやや遠いその入口から這入つて来たその姿に心を惹かれたその同じ姿を見た。体の重みに堪えかねる[#「堪えかねる」はママ]やうなその跛足姿をじつと彼が見送つてゐると、かの男は余儀なく一人の友人の腕を借りながら群衆を押し分けて、馬車の中へ身をおどらせた。さて帰つて行つた。オーブレイは部屋の中を大股に歩いた。さうして自分の恐ろしい考へが頭脳を打壊しはしないかと気遣ふやうに、両手でしつかりと頭を抱へてゐた。――ルスヴン卿が再現したのだ。しかも恐ろしい形勢で現はれ出たのだ。――短剣誓約。彼は我に返つた。
彼はどうしてもそれを信じられなかつた。死んだ者が生き返る! ――彼は今し方の幻想をかねがね自分の心にこびりついてゐる映像を今彼の想像が目のあたりに呼び出さしめたものと思つた。それが本当であるなんてあり得べからざる事だ。そこで彼はもう一度皆の集つてゐる処へ行つて見ることにした。皆にルスヴン卿のことを尋ねてみようと思つたのである。けれどもその名前が危く唇に出さうにしたが、彼はどうしてもそれを口から外に出すことは出来なかつた。それから二三日経つてから、或晩彼は妹同伴で近しい親戚の会合へ出掛けた。その晩彼は妹を乳母に預けて置いて壁の凹に退いて、自分はひとりこの間からの物思ひに耽つてゐた。やや経つてから彼はまだ大勢の人達が帰らずにゐたのを思ひ出して別の部屋へ行つて見ると、そこに妹が五六人の人達に囲まれて頻りと何か話してゐるのに会つた。で彼はそこを通り抜けて妹の側へ寄つて行かうとして、そこに居合せた人に退いて貰はうと思つたところが、ふとその男がくるりと此方に振向いた顔を思はず見ると、――その男こそ彼が日頃怖ぢ気を振つてゐるあの形相を現はしたではないか。彼は思はずそこを飛び出して、妹の腕を掴むが早いか、大急ぎで彼女を無理やりに表へ引張り出した。入口のところで主人たちを待つてゐた一とかたまりの下男どもに妨げられたけれど、それを振切つて外へ行かうと努めてゐる時、またしても彼は耳許で囁く例の声を聞きつけた。――「誓約を忘れまいぞ」――彼はそれを振返つても見ずに、ともあれ妹を急き立て急き立てしてやつとのことで家に帰つた。
さてその後のオーブレイは殆ど狂気せんばかりであつた。以前ならば一事に凝り出すと完全にそれに夢中になる彼であつたが、この頃ではあの怪物がまだ確に生きてゐるといふ考へが彼の心の上に重くのしかかつてゐるのであつた。彼は妹の看護をも顧ず、妹が彼のだし抜けな振舞ひの理由を彼に打明けさせようと骨折つてみても無駄であつた。いつもほんの二言三言。それが妹の心を脅かした。考へれば考へるほど彼は益々不可解になつて行つた。誓約を思ひ出してはぞつとした。――あれを誓つた時、息の根にも破滅を齎す怪物を、愛しく思ふ人達の間にさまよふに任せて捨て置いてそれの進路を遮り止めないつもりであつたらうか。あの最愛の妹が彼奴の毒牙にかかるかも知れないのである。しかしたとひ自分が誓約を破つて、さうしてこの疑惑を明かしてみたところで誰が自分の云ふことを本気にするだらうか。そこで彼はこの後とも一切、自分の手にかけてこんな痴れ者をこの世からおさらばにしてくれてやらうとも思つた。しかし思ひ出して見れば死が既にお笑ひ草にされてゐるのではないか。――かういふ状態で幾日かは過ぎた。その間彼は自分の部屋に閉ぢ籠つたきりで誰とも顔を合はさず食べものも妹が来た時の外には摂らなかつた。その妹は目に涙を流して、彼女のために養生して欲しいと彼に懇願するのであつた。しかし到頭、こんな静寂と孤独とにも堪へられなくなつて、彼は家を脱れて彼に憑き纏はるあのまぼろしの浮ぶのが怖ろしさに町から町をほつつき歩きはじめた。着物もみだれて彼は昼は日に曝され夜は夜露に濡れるのであつた。初めのうちはそれでも夜になると家に帰つて来たけれどしまひには疲れて来れば処構はずそこらへごろりと横になる。もう誰が見てもオーブレイとは分らなくなつてしまつた。妹は兄の身の上を気遣つて人をやつてあとを尾行させたが、そのまた足の速いこと、憑き物から――あの思ひ出から脱れようとして逃げ走る彼の足早には誰も追付けるものもなかつた。けれども、そのうちに、彼の態度が俄かに
そこで彼等は、毎日諸処をほつつき歩くオーブレイに怪我や難儀のないやうにまた一つには物狂ひのその姿を世間の目に曝させぬやうにと、医者をひとり邸内へ雇入れてそれに彼の世話をさせた。オーブレイの方ではこの頃ではもう全くあの戦慄すべき問題に何物をも忘れてひたすら没頭してゐたから、そんな事には一向気のつかぬ様子であつた。そのうちにも彼の心は次第に烈しくなつて来て到頭彼は一室に監禁されることになつた。その部屋のなかで彼は起きることもならずに幾日も絶えず臥通してゐることも度々であつた。衰へ呆けた。ますますひどくなり、眼は硝子のやうな光沢を帯びて来た、残んの愛情と追想との唯一のしるしは、妹が部屋に入つて来る時だけに見られた。その時に不意に立つて自分の方から進んで、彼女の心を痛ましめるやうな可恐しい眼付をして彼女の手を[#「手を」は底本では「心を」]握つて彼に(自分にといふ意味と例の男にといふ意味とを二重に含めてゐる。次の言葉の兄さんも同様である。オーブレイの狂想と妹の考との交錯を表現する一手法と知るべし。訳語及ばざるに就き一言註に及ぶこと然り。――訳者)触つてくれるなと彼女に哀願して「ああ、どうぞ兄さんには触らないでゐて下さいよ。あなたが私を愛するなら、どうか彼の側へは近寄らないでね」といふのであつた。しかし彼女が誰のことを言つてゐるのかと問ふと兄はただ「本当だ、本当だ」とばかりで、またしても彼女の手でさへも[#「さへも」は底本では「さえも」]起せることの出来ないやうな状態に沈んでしまふのであつた。こんな状態で幾月かつづいた。しかし月日の経つうちに彼の乱心も薄らいで来て、陰気な気持も次第次第に除れて来た。一方、後見人たちはこの頃彼が昼間など時折り自分の指を折り数へて何か勘定しては、ひとりで北叟笑んでゐる姿を幾度となく見かけたものであつた。
誓約の時も経つて、大晦日になつた日後見人の一人が彼の部屋へやつて来て、医者と妹御の御婚儀も明日にまで迫つたといふのに兄上の御容態の重いのがまことに気ぶつせな次第だ明日に迫つた妹御の御婚儀といふのにと話し合つてゐるのであつた。オーブレイはいきなり聞耳を立てて、誰との婚儀だと心配げに尋ねた。後見人たちは既に失はれたものと思つてゐた、彼の智力が再び蘇つたのに喜んでマアヅン伯爵の[#「マアヅン伯爵の」は底本では「アマヅン伯爵の」]名を指したものであつた。この名は彼も社交界で逢つたことのある若い伯爵であると思ひ、オーブレイはその時心から晴れやかな面持であつたが、式場へ列席したいといふ意嚮と妹に逢ひたいとの希望を言ひ出して、一同は二度吃驚した。彼等は返事はしなかつたがそこへ間もなく妹が兄の側へ来合せた。妹の愛らしいほほ笑みのおかげで彼はどうやらもう一度感動させられることも出来た。自分の胸に彼女をしかと押し抱いて、兄の正気になつたうれしさに流れた涙で濡れた頬を彼は接吻した。さうして彼はいつもの[#「いつもの」は底本では「いつも」]やさしさのかぎりを籠めて語りはじめた。その家柄と云ひ才芸と云ひふたつながら人に秀れた人のところへ嫁ぎ行く彼女の結婚をことほぐのであつた。その時彼はふと妹の胸に懸つてゐる
ルスヴン卿は接見の賀の日の翌朝訪問をしたけれど、諸人と同じくこの訪問は応じられなかつた。彼はオーブレイが大分容態が悪いと聞いた時、自分だけにはその原因も思ひ当つてゐたが、そのオーブレイがこの頃、気が狂つたらしいと伝へ聞いた時、彼の得意と歓喜とはその報を持つて来た人達の中にゐながらも殆ど匿し切れない程であつた。早速彼は旧友の家へ出掛けて行つた。さうして絶えず妹の側へつききりになつて、彼が兄に対する愛情とその不可思議な運命とに関心を持つてゐるものだと
彼の舌はいろいろと脅かしたりすかしたりしなければならなかつた。――彼はこんな風に語り出した。自分はこの広い世界に誰も同情してやらうと思ふものは一人もない。尤も自分がかうして今話しかけてゐる[#「ゐる」は底本では「いる」]彼の女だけは別であるが。――彼は彼女を知つて以来初めて生甲斐を感じた。物静かな彼女の声を聞いてゐるばかりでつくづく長生きがしたいと思つたとか――つまり彼は蛇生の術を巧みに操る術を会得してゐたのである。さうしてそれが宿命の意志であつたのであらう。彼は到頭彼女の愛を獲た。本家にあつた称号が遂に彼のものとなり、彼は重大な使命を帯ぶに及んでそれが結婚を急がせるの口実となつて(兄の乱心中にも
オーブレイは、あの時後見人と医者とが部屋を出て行つてから、召使ひどもを買収しようと思つた。が、事実はそれが失敗に終つたのであつた。彼はペンと紙とを持つて来てくれと頼んだ。妹に宛てて一通の手紙を認めた。――妹よわれはおん身に切願す。おん身がおん身の幸福または名本と嘗て汝を家の宝とし給ひし先考の名誉とを思ふならば、何卒今度の結婚は必ず凶事を誘導すべしと予が言へる今度の結婚は願はくば数時間の猶予せられん事を云々。この手紙を召使ひは彼女に届けると約束したがそれを医者の手に渡した。医者はそれを読んでこんな狂者の譫言などでオーブレイ嬢の心を擾さぬ方がよいと考へたのである。でその晩家人が支度に忙殺されて[#「家人が支度に忙殺されて」は底本では「忙殺されて」]休む間もないうちに夜は更けた。その忙しい支度の物音をじつと聞いてゐたオーブレイの戦慄は筆で誌すよりは想像するに容易であらう。朝になつた。やがて幾台かの馬車の響が彼の耳を破つた。オーブレイは半ば狂乱の状態に陥つた。召使ひどもは物珍らしさに監視のことなどを打忘れて体の利かない婆やを一人彼の監視につけて置いて、皆こつそりと出て行つた。機を見て彼はひと飛びに部屋を脱出した。さうして瞬く間に、大方はもう集る人も集り尽した部屋へあらはれてゐた。最初に彼を見つけたのはルスヴン卿であつた。彼は怒りでものも言はずに忽ちに進み寄つて手荒に彼の腕を掴むと、部屋から彼を逐ひ立てた。階段の上まで来るとルスヴン卿は彼の耳に囁いた。「――誓約は忘れまいぞ。考へて見給へ。今日わしの花嫁にならなければ、妹は辱を受けるわけだ。女は脆いものだからな」かう言ひながら彼はオーブレイを婆やに促されて主人を探しに来てゐた従者どもの方へ押し退けた。オーブレイは最早身を支へることも出来なかつた。烈しい怒は捌け口を見出すことが出来ずに、遂に彼の血管を破つた。彼は臥床に運ばれた。この椿事は妹には知られなかつた。彼女は兄が来た時には折からその部屋には居合せなかつたものだから。医者は彼女の心を擾すことを惧れてさう取計らつたのである。結婚式は挙げられた。さうして新郎と新婦とは倫敦を発つた。
オーブレイの衰弱は募つた。脳溢血は[#「脳溢血は」は底本では「脳溢者は」]既に死も遠くない徴候を示しはじめてゐた。彼は頻りと妹の後見人どもを呼んで貰ひたがつた。さうしてその夜の十二時が打つた時、読者がここまで親しく見て来られた一切の物語を泰然として語つたのであつた。――語り終つて間もなく彼は落命した。
後見人どもはオーブレイ嬢の身を守護するために急行したが、彼等が着いた時には既に遅かつた。そこには最早ルスヴン卿の姿は見えず、オーブレイの妹は吸血鬼の渇を飽かしめてゐたのであつた。