吸血鬼

ジョン・ポリドリ

佐藤春夫訳




 時正に倫敦ロンドンに於ては冬期の宴会騒ぎが今を盛りの真最中、いつもながら当代流行の魁を行かうといふ連中が先きに立つて彼方此方でさまざまな宴会を催してゐる折から偶その中へ一人の貴族が現れた。貴族とは云へ、彼はそんな身分よりも寧ろ一風変り者だといふ点で人目を惹いてゐた。面白可笑しい周囲の歓楽の中に雑りながら自分だけはそんな仲間に加はることは出来ないと云つたやうな様子をなしてただ四下あたりのさざめきにじつと見惚れてゐるのであつた。彼のこんな様子が、思慮分別などはさらりと棄ててただもうたわいもない歓楽に酔ひ痴れた人達の胸に怖気おぞけを与へたことは云ふまでもない。女達などは彼に一と目ぢろりと見られると鳴りをひそめてしまふ程であつたがその実彼が陽気な女の笑声などに気を配つてゐるこの態度には、見たところ傍にそんな思ひをさせたいと努めてしてゐるやうなところもないではなかつた。しかしこんな畏怖に打たれた人達も、それが果して彼のどんな点から来るものかそれをはつきり説明することは出来なかつた。或者はそれは死人のやうな灰色の彼の眼――相手の顔をしげしげ打まもる時の、それはしかし別段骨身に応えるほどの眼付でもなかつたし、またたつた一目で相手の腹の底を見破るといふ程のものとも思はれなかつたが、しかし何となく肌に重たく圧しかかる鉛色の光を放つて頬に浴せかけられるあの眼のせゐだと云つたものもあつた。とにかく一風変りものであるがために、彼は方々の家へ招かれて行つた。人々は皆彼を見たがり、又強烈な刺戟に慣れて今では退屈の重さに耐へかねてゐる人達は、現前に注意を惹くに足るものの出来たのを喜んだ。その死人のやうな濁つた彼の顔色は曾て羞恥の心からも心頭に発した激情のためにも血の気ひとつ上つたことはあるまいと思はれる色合はしてゐたけれど、しかし目鼻立ちや輪郭はさすがに美しかつたので許多の浮気女どもはその道に名うてな誰れ彼れに倣つてひとつ彼の気を引いて見てやろう、せめては情のそぶりぐらゐでもいいから彼からせしめてくれようと企てた。マーサー夫人――結婚以来客間に現はれてこの奇異な人物の愚弄の的になつてゐた例のマーサー夫人ごときも大分それに肩を入れてひとつ香具師やしの衣裳を着て彼の気を引いて見ようとした。……が御苦労千万……と云ふのは彼女はそれを身につけて彼の前に立つた時彼の目は明らかに彼女の目と見合したものであつたのに、それでも彼は彼女を認めぬ体であつた。……さすがに物怖ぢしない図々し屋もこれには角を折つて降参してしまつた。勿論普通ざらにある男たらしの女などは彼を見向かせることさへ出来なかつたのは云ふまでもない。しかし、さらば彼は女といふものに対してまるで無関心であつたかと云ふに決してさに非ず。貞淑な人妻やまだ何も知らぬうぶな生娘などに対すると非常に慎重なとりなしで話をしてゐた。ただ彼はさう云ふ女たちに対しても、自分からは話しかけなかつた。けれども喋らせてみればその弁舌はどうしてなかなか人を惹きつけるものがあるとの評判であつた。それは弁舌が特異な彼の怖ろしい性格を抑制したがためか、或は悪徳を忌む彼の著しい嫌悪感が聞くものをして感動せしむるの故か。何れにしても彼は、女の家庭生活を悪徳を以て汚す男達の中にも交はつてゐたと同時に、家庭的な淑徳を身の誇りとしてゐる婦人達の仲間にも加はつてゐたのである。
 これと時を同じくして、恰もこの頃同じく倫敦へオーブレイといふ少年の紳士がやつて来た。彼はたつた一人の妹と早くに親に死に別れた身なし児で、子供の時分に世を去つた両親が遺して置いてくれた巨額の財産を持つてゐる人物であつた。その財産を何くれとなく世話することを主人に対する唯一の忠義立と心得てゐる後見人がいまだに彼には幾人もついてゐて、その後見人たちに彼は金動で働く家の子たちの世話責任を一切まかせてゐるうちに、次でに彼は分別を養ふことより、どちらかと云ふと、あの婦人帽子屋の見習職人には禁物だといふ廉恥と公明との信念に富む浪漫的精神を養ふやうになつて行つた。彼は万人を救ふものは徳望だと信じてゐた。世の中の悪徳などゝいふものは、あれは小説によくあるが如く、神がこの世の色どりにもと下し置かれたものだと考へてゐた。われ/\人間の住んでゐるいぶせき小屋のみじめさは着物で云へば胴着のやうなもので、暖を取りさへすれば事足れりとすべきもの。しかもその皺だらけな襞や色とりどりな継ぎ当ては画匠の見界によつて都合よく美化されてゐるのだと彼は考へてゐた。要するに彼は、詩人の夢が人生の現実であると考へてゐたのである。彼は男振りよく、竹を割つたやうな気立、その上に金はあると来た。こんなわけ合ひだから、彼が陽気な空気のなかへ入つて行つたりすると、方々の母親たちが彼を取囲んで、うちの娘は物憂れたげな落着いた娘だことの、うちのは少しお転婆だことのと、あることないこと搗き交ぜて喋り出す。娘達の方はまた冴え冴えとした顔つきで彼に近づき、彼が口を開きでもすると、瞳を耀かせて彼の才幹美質とは見当外れた見界へ引込んでしまふのであつた。もと孤独を好み孤独の時の空想を愛する彼ではあつたけれど、このやうな次第でこのごろやうやく牛脂や蜜蝋の蝋燭の灯のまたたき――それとて別に幽霊が出るからといふ訳でもなく、たかゞ芯を切らなかつたからまたゝくのであるがこの揺曳する灯影の間にゐるのが精々でこの世の中には、日頃自分が勉強した書物の中の記述や面白いと思つた画などいかほど積み重ねてみても現実世界に於ては何等の根拠もなかつたことに気づいてはたと愕いてしまつた。しかし彼は己れの増長するに任せた自尊心のうちにその補ひを求めて儚い夢の一切を断念しようとした。その矢先に、彼の出世の道で出会つたのがこの物語の初めに於て述べたあの不可思議な一人物である。
 彼はあの人物をまじ/\と打眺めてみたが、体のうちにすべて吸収し尽してゐるものか外部には殆どしるしらしいものを現はしてゐないこの人物の性格に対して彼は観念らしい観念を捉へることが出来なかつた。この事実は双方暗黙の間に認め合ふと云ふより、寧ろ双方の接触を避けしめると云つた意味合ひを含んでゐた。そこで彼は例の如き傾向の想像を馳せて好んで途方もない考へをいろいろ描いてゐるうちに、やがて彼は相手を一個のロオマンスの中の主人公に仕立てゝさて自分の目の前のこの人をといふよりも寧ろ自分の空想の栄え行く果を見究めようと決心をした。彼は次第にその人と近づきになり、さうしてその間、おこたりなき注意をこの人に払つて彼の知遇を得るために努めたので、相手の態度だけはいつも見逃さないだけになつた。そのうちに彼は相手のルスヴン卿がどうやらこつちを煙たがつてゐるらしい様子にぼつぼつ気がついて来た。やがて或る日――街で支度の覚え書きを見たことから、その人が旅に出掛けようとしてゐるのを知つた。そこで彼は今まではほんの自分の好奇心を煽つてゐたに過ぎないこの不可解な人物に関して何か知識を得るよすがになると喜び勇んで早速後見人の許へ自分は今度旅に出かけることになつたからと、事に託して暗に通告をしてやつた――無論この頃は若者たちをして年寄連と対等にならせるには悪い事も大駆け足で体験させるために、さうして醜悪な密通事件の際に、示された手際の程度如何に従つて冗談や賞讃の主題として話される場合に、いつも彼等若者をして恰も空から落ちて来たかのやうに振舞ふことなからしめんがために旅行は必要なものとして数代の間考へられてゐたので後見人たちは直ぐに承知した。そこでオーブレイは早速ルスヴン卿にその意嚮を述べた。ところが驚いたことには、卿の方から是非とも彼に同行して欲しいとの申出があつたのである。明らかに誰が見ても常人とは同一視出来ぬ卿の如き人物から見込まれたのだから彼はすつかり喜んでそれを受諾し、さて日ならずして彼等は逆巻く潮路へ出で向つた。
 今までオーブレイはおち/\とルスヴン卿の性格を研究する機会とてはなかつたのであつたが今度といふ今度彼は初めて分つた。いろ/\な行状が彼の目の前に曝露された。彼の行為の動機はその結果からこれを見ると、大分違つた結論を与へられてゐた。この同行者の磊落虚坦な点である。それは実に大雑把であつた。……怠堕無頼の徒や浮浪の輩は、己れの当座の饑餓を満たすに充分以上のものを彼の手から獲ることは出来た。けれどもこれは徳義心から出たものではなささうであつた。言ふまでもなく打続く不幸の為めに徳に厚い人の身にも赤貧の見舞ふ例はいくらでもあることなのに、然しオーブレイは彼が施物を与へるのは徳にさへも附き纏ふ不幸のために貧窮に陥つた有徳者に対してではないのだと考へざるを得なかつた。それらの施物は圧へ切れる侮蔑の窓口から投げ与へられたのであつたと考へざるを得なかつた。がそれに反して道楽者などが困窮から逃れんがためではなく道楽に耽つたりまたは益々邪道に深入したりせんがためにならば、この人は非常に金目な施与物を持たされて帰つた。それを彼は一般に有徳な貧者の内気な羞恥よりは道楽者の厚かましさの方が力強いからだと做していた。只こゝに一つルスヴン卿の慈悲についてオーブレイが心に深く感銘した事柄があつた。それはこの人から慈悲をかけられたものにとつてはその慈悲が一つのわざわいになるだらう事を必然に認めねばならなかつた。なぜかといふに彼等はやがては断頭台に導かれて行くか最も低い最も浅間しい不幸に沈むかの就れかであるからである。つぎつぎにオーブレイの驚いたことには、ブラッセルやそのほか行く先き先きの町へ着くと、先づ第一にルスヴン卿がその土地で目下流行してゐる[#「ゐる」は底本では「いる」]道楽といふ道楽を悉く鵜の目鷹の目になつて漁り歩くことであつた。彼は faro[#「faro」は底本では「folo」]一種のカルタ賭博、我国で「ギンカウ」と称するものに相当するものなるべし)の本場へ行つてはその卓に坐つた。彼は賭けた。さうして土地で名高いすばしこい奴が[#「奴が」は底本では「女が」]相手に廻つてゐなければ[#「ゐなければ」は底本では「いなければ」]彼はいつも勝つた。しかしさう云ふ奴が[#「奴が」は底本では「女が」]敵に廻つてゐるときつと儲けた[#「儲けた」は底本では「敗けた。」]金以上のものをスツテしまふのがきまりであつた。だが彼はどんな場合でも顔色だけは、あのいつも社交界を睨め廻してゐた顔色だけは決して崩さなかつた。ところが年の若い無分別な新参者だとか大勢の家族を背負つてゐながら勝負運に恵まれない一家の主人などに出逢ふと、その顔つきはがらりと打つて変つて、彼の願ひは[#「願ひは」は底本では「願いは」]望み次第、まるで運命の掟でも見るかのやうに百発百中、逸れることゝてなかつた。……この虚心な心の状態がむと、彼の両眼は半死半生の鼠を嬲る猫の眼よりも烈しく、炎となつて燃え耀いて来るのであつた。彼は行くさき/″\の市々でもとは金まはりのよかつた青年をその幅を利かしてゐられる仲間から引き放して、淋しく牢獄のなかへ追ひやつて、この悪魔の手の届く縄張りへ自分を陥れた運命を呪はせ、また一家の主人達には、今まではふんだんにあつた財産を手離させて子供達のねだるものぐらゐは充分その中から間に会つたものを今はびた一文無くしてしまつたのでたゞ不機嫌に黙り込んで饑じさを顔に物言はせてゐる子供たちの中に交つて狂乱したやうに坐つてゐなければならないやうな目に合はせて引上げるのであつた。然しさればと云つて彼自身は賭博机の上からは一銭の金だつて懐に入れる訳ではなかつた。得るものは直ぐ右から左へ大勢の蹂躪者たちに任せて失つてしまふのであつた。何も知らぬうぶな青年達が必死になつて掴まうとしてゐる中から彼が引つたくつたばかりの最後の貨片までも。こんな事ぐらゐなら或る程度の心得さへあれば出来もしようが、しかし心得ぐらゐでは何と云つたつて海千山千の豪の者の狡猾手段を向うへ廻して戦ふことは出来ない。オーブレイは屡々ルスヴン卿にこのことを陳情したいと思つた。自分の利益になる訳でもないのに、それどころか結局多数の人々に破産の憂き目を見させるやうなこの種の慈善と愉快なら断念して貰ひたいものだと思つたのである。……けれども彼はそれをつい一寸延ばしに延ばしてしまつてゐた。……なぜかといふに彼はルスヴン卿が今日は打明けて話してくれるか、明日は打明けて話してくれるかと、その時の来るのを心待ちに待つてゐたのである。だが、そんなおりは一向来なかつた。馬車に乗つてゐる時などでも、荒々しい自然の豊かな風景を眺めてゐる時などでも、彼はいつでも同じであつた。眼はその口と同じく何事をも語らなかつた。こんな訳でオーブレイは、自分の好奇心の種たる人物の直ぐそばに居りながらも秘密を発いてやらうといふ空な望みに絶えず心をわくつかせてゐる以上には、何一つの満足をも得ることが出来ずにゐた。しかしかうして絶えず相手の秘密に熾烈な想像を寄せてゐるとどうやらこの男には何か超自然な力があるやうに思はれて来るのであつた。
 やがて程なく彼等は羅馬ローマに着いた。するとオーブレイはしばらくの間道伴れの姿を見失つてしまつた。ルスヴン卿はこの頃は毎朝或る伊太利の伯爵夫人の朝の集りへ通つてゐたのである。そこでオーブレイはこの附近の今では廃都となつてゐる市の旧蹟などを訪ねに出掛けた。さうかうしてゐるうちに彼は故郷の英国から手紙を受取つた。彼は取る手遅しと急いでその封を切つてみると一通は妹から来たもので、これには愛情のほかには何も書かれてはゐなかつたが、残りの手紙は後見人たちから来たものでこれを読んで見て彼は仰天した。中に書いてあつた事は、彼がもし自分の伴れの男には悪魔の力が宿つてゐると想つてみてゐないまへだつたなら、恐らく悉く信じてしまふに充分な理由を彼に与へたに違ひなかつた。後見人たちの主張するところによれば、何はともあれ、直ぐその伴れから離れてしまへ、あの男は性根は大変な道楽者である。なぜかといふに、あの男は不可抗的な誘惑力を持つてゐる。あの男の淫蕩な性癖は社交界を危険に瀕せしめてゐるといふのである。彼がいつぞや例の男たらしの女に侮蔑を与へたのも、実はあの女を彼が嫌つてゐたのではなくて、却つて自分の慾望を濃くするために、自分の生贄――つまり共犯者――を清浄無垢な貞節の絶頂から汚名と堕落のドン底へ真逆さまに墜さしめるがためであつたので、彼が漁りまはつてゐた女といふ女が、彼の出発後一人残らず今まで被つてゐた仮面を捨てて、自分たちの悪徳のあらゆる疾病を社会に向つて敢えて曝露したといふのであつた。
 オーブレイは、またしみじみとこれと云つては意義のある点を相手の性格から捉へることは出来ずにはゐたものの、とにかく一旦伴れから離れることにほぞを決めた。それには何か体のいい口実を考へなくてはならないと思つたから、しばらくの間今よりも一層相手の素行を仔細に注意して、どんなに些細な出来事でも見遁さないやうに気をつけてゐることにした。そこで彼はルスヴン卿の出入りしてゐる集会へ足を入れた。すると間もなくして、この頃ルスヴン卿が或る夫人の家へ通ひ詰めてゐてその夫人にはまだ極くうぶな娘が一人ある。それを彼がものにしようといろいろ企んでゐるといふことが判つた。いつたい伊太利では未婚の婦人は社交界へは滅多に出ないものなのである。だから彼は余儀なく計画を秘密裡に運んだものと見える。オーブレイが錯雑した彼の経路を怠なく探索してゐるうちに、やがてふたりのあひだに媾曳あひびきの約束が取り交されたことが判つて来た。事がここまで来てゐれば、それは既に無邪気なしかも無思慮な一人の少女の身の破滅である。そこで彼は今は一刻も猶予せずルスヴン卿の住つてゐるアパートに乗り込んで行つて、唐突にその婦人に対する彼の意嚮を尋ねた。同時に、あなたが今夜その婦人に逢はうとしてゐられることをも自分は承知してゐるといつた。ルスヴン卿は、自分の意嚮はかういふ場合恐らく万人が持つであらう意嚮と同一であると答へた。それではその娘さんとあなたは結婚する意志がおありですかと問ひ詰めて行くと、彼は只笑つてゐた。オーブレイは退出した。さうして、取敢えず、自分は今日より以来閣下と計画の旅行の残りを随行することは謝絶するといふ意味のことを紙片に認め、下僕をして早速他の貸部屋を求めさせた。それから彼はその娘なる人の母親を訪ねて、娘に関する一事はもとより、ルスヴン卿の性格に関することなどまで、およそ自分が知つてゐる限りは一切これをぶちまけた。勿論二人の媾曳には水が差された。その翌日ルスヴン卿は下僕を使者に立てて、御申越の別離の儀は確と承知したとだけ云つて寄越したが、オーブレイの邪魔立てのために自分の計画の水泡に帰してしまつた件に就いては別段何ら邪推しているらしいけぶりさへ見せなかつた。
 さて羅馬をあとにして発つたオーブレイは、希臘ギリシアへ足を向けた。ペニンスラ(イベリヤ半島)を渡ると、やがて程なく身はアゼンスの町にあつた。アゼンスで彼は或る希臘人の家を仮寓と定めた。間もなく彼はその辺にあまたある記念碑の――打見たところは公民たるものの所行の記録を奴隷どもの前に示すのを恥づるかの如くにも土の下や色さまざまな苔や下草などの内等にかくれてゐるあまたの記念碑の面に、ありし日の栄誉の名残色褪せゆく記録を漁り歩くことに専念しはじめた。彼の住んだその家の一つ屋根の下には、一人の美しくたをやかな少女がゐた。マホメット天国に於ける信者たちの将来の希望を画布に描かんとする画匠がモデルにするのはこんな女であらうかと思はれる程美しい。尤も彼女の眼は霊なき人々のものとなるにしてはあまりに多く精神的なものを語り過ぎてはゐたけれども。彼女が野原を踊りまはる時、さては山腹のあたりを足も軽げに歩く時、人々は彼女の美を劣等にしたものが羚羊かもしかだと思つたであらうと思ふ。何故かといふに彼女の精彩ある眼を見るものは、それをあの好色漢の趣味にのみかなふ媚を帯びたどんよりとした羚羊の眼に代へたらなどと思ふ筈もあるまいからである。イヤンテのこんな軽い足どりは屡々古蹟めぐりに出掛けるオーブレイのあとに随いて行つた。さうしてこの自分の美しさを悟らぬ少女がカシミア蝶を追ふとて風に乗つて漂ふ彼女が姿艶のあらゆる美しさを悉く現はしたのをオーブレイはさながら空中の妖精もかくやとばかり、我を忘れてうつとりしながら消えかかつた石碑の文字のやうやう意味の汲みとれたその意味をさへ忘れて、ただしげしげと打戍るのであつた。今まではポアザニアの論戦を如何に正解すべきなどを懸命の問題としてゐたオーブレイも、近頃ではそんな問題もいつとはなく心に怠りがちになつた。このやうなオーブレイの好古家としての粗忽をも恕すに余りあるばかりに、飜々と空を舞ひめぐる時、彼女の髪は縺れほつれて、日の光に妙に映え輝き、また忽然としてうつろひ消え去るのであつた。しかし万人が見てこれを感じはしても、何人も能く味解し得べくもないこれらの魅力をここに縷説して果して何の益があらうか……。とにかくそれは人々の群れ集る客間の中や息詰るやうな舞踏会などへ出ても、些も濁るところのない無垢さと若さと美しさであつた。彼女は古碑の文句を後日の覚え書きにとつて置くために筆写してゐる彼の側近くに佇んでみたり、或ひは彼女の生れた国の風景を絵にうつし出してゆく彼の筆の巧みさに見惚れてゐたりするのであつた。彼女はこの野原で輪舞の催される時のことや、幼いころに見たのを思ひ出す盛大な結婚式のことなどをすべて若々しい記憶の生々しい色彩で話して聞かせるのであつたが、さて話題が一転しては彼女の心に深い印象を与へてゐるらしい彼女の乳母の超自然的な物語りなどをも語り出したものであつた。それを語る時の彼女の熱心さと、その話を信じ込んでゐるらしいその様子とは、オーブレイの興味を湧き立たせずには置かなかつた。さうして彼女は屡々生きてゐる吸血鬼の物語を彼に語るのであつた。その吸血鬼はこの年ごろの友達の最も親しみ深い結縁者たちのところにあらはれて、可愛い女性の生き血を吸つては己れの命を幾月かつないでゐるのだといふ。その話を聞いて彼はぞつと寒気を感じたが、暇つぶしな人怖らせの空想として強ひて一笑に附し去らんとするのであつた。しかしイヤンテは、現在その子供や親戚の人たちがその吸血鬼の餌食となつた確たる証拠を握つて、この世のなかに生き長らへてゐる吸血鬼を探索し出した老人の名前などを挙げて云ふのであつた。それでもまだ腑に落ちない顔をしてゐると、オーブレイを見て彼女は、彼に彼女の言つたことを信じて貰ひたいと願ふのであつた。何故かといふと、吸血鬼なぞ世の中にあるものではないと思つてゐる人はきつとそれが在るといふ証拠を見せられて、そこで始めて吸血鬼といふものが実際にあるものだと知つた時には、もう嘆いたつて気を落したつて追付かないものだからであつた。彼女はその怪物の伝統的な相貌をも詳しく彼に語つた。その話を聞いて彼は愕然として色を失つた。ルスヴン卿に寸分違わぬ話を聞かされたからであつた。それでもまだ彼は、君の可怕こわがり方にはどうも本当らしさが見えないなどと云つて、彼女の話を覆さうといろいろ説いて見た。しかしさう云つて説きながらも、彼はどうやらルスヴン卿の超自然的な力が本当に信じられるやうな種々の符合点のある心のうちに怪しんでゐた。
 オーブレイは次第にイヤンテに心を惹かれはじめてゐた。ロマンティックな幻想を追ひ求めてゐた今までの女達の気取つた淑やかさとは大に異つて、イヤンテの無邪気な点が彼の心を惹いたのである。英国風俗の中に生ひ育つた一人の青年が教育もない希臘の娘と結婚するのかなどと笑ひのめしながらも彼はますます目の前にゐる[#「ゐる」は底本では「いる」]彼女の殆ど仙女に近い姿に心惹かれて行くわが身に気づいて来てゐた。彼は時々自分を彼女から引離してしまはうと[#「しまはうと」は底本では「しまおうと」]考へることがあつた。それには何か考古学上の研究でも計画して旅にでも発ち、目的を果すまでは帰らないことにしようと決心した。だが、それも無論自分の心のうちに思ふに適はしい幻影の絶えず附き纏つてゐる間は、到底昔の廃墟などに専心することの出来ないのは分り切つてゐた。イヤンテの方ではこんな彼の恋ごころにも気がつかず、いつもはじめて相見た時分と少しも変らぬ打ちとけた初々しい様子をしてゐた。彼と別れてゐるのを何となく気が進まぬげであつた。が、それはただ自分の好きな幽霊の話をする相手がゐなくなるからであるらしい。それに引き換へ、オーブレイの方は相変らず時代の破壊の手からわづかに免れて残つてゐる遺蹟の断片などを見取図にしたり発掘したりするのに余念もなかつた。到頭彼女は吸血鬼の問題を両親に訴へて見た。両親は折からそこに居合せた二三人の人達と一緒に吸血鬼の名を聞いて真つ蒼になりながら、吸血鬼は必ず居るものだと断言した。オーブレイがいよいよ計画実行の決心をしたのはそれから間もなくであつた。旅と云つてもほんの五六時間のものであつたが、その行く先きを彼等に話すと、彼等は口を揃へて、彼処に行くのであつたなら夜帰つて来てはくれるな、彼処は途中どうしても通らなければならない森があるが、あの森は日の暮れすぎは希臘人ならどんな事情があつても決してぐづぐづしてはゐない場所だといふ。人々の言葉によるとこの森は夜の酒盛に吸血鬼どもの集る場所だとかで、そこを無理にも押し切つて通る者には一番重い災難が降りかかるのだとのことであつた。オーブレイは彼等の申し立を軽んじて、そんな考へを持つてゐる彼等を笑殺してやらうとしたが、しかし、その時、人間には到底歯の立たない名前を聞くだけでもぞつとするやうな悪魔の力を嘲つたといふので人々が体をふるはせ出したのを見て、彼も口をつぐんだ。
 翌朝オーブレイは従者をも連れず出かけた。宿の主のひどく鬱ぎ込んでゐるのが彼には驚かれるばかりであつた。が、昨夜彼が例の恐ろしい悪魔の存在を信じてゐる彼等を嘲笑した彼の言葉が彼等にそんなに恐怖を与へたのであつた。いよいよ出立する間際にイヤンテが彼の馬側へやつて来て、いやなものなどが力を揮う日の暮れにならないうちに帰つて来ることをくれぐれも哀願するのであつた。彼はそれを請合つた。しかし彼は研究にあまり身が入りすぎて、日の没し去るのに間もないのにもう地平線には一点の黒雲が現はれて、それは気温の高い土地柄として忽ち凄い勢で空一杯に拡がつて、やがてこの呪はれた土地一帯にわたつて篠突くばかりの猛雨を降らせようといふものだといふのも気がつかないでゐた。それでも遂に彼は馬に跨がつた。遅刻を取りかへさうと意気組んで馬足を急がせた。しかしもうあまりに遅かつた。ここらの南方の国々では黄昏時といふものは殆どあるか無いかで日が没したかと思ふと直ぐ夜になつてゐた。さうして彼が大して遠くも進まぬ間に嵐の威力は彼の頭上にあつた。――轟々たる雷鳴は小休みなく轟き渡つて大粒な密雨はちやうど天蓋になつてゐた頭上の樹々の茂みを降り貫き、蒼白いさす叉形の稲妻は今にもわが足許に落ちて来て放電しようとするかと見えた。突然馬が驚いて跳ねた。馬は彼を乗せたまま恐ろしい速力で枝の入り組んだ森の中を駈け抜けた。たうとう馬は疲れて止つた。折柄閃く稲妻に見廻すと彼は朽葉のなかに埋れんばかりになつて粗朶に蔽はれてゐる一軒の小屋近くに来てゐるのであつた。彼は馬を降りて、進み寄つた。誰か人里へ行く道を教へてくれる人でもあればいい、せめては嵐の襲撃をしばらく避難する場所でもほしいものだと思ひながら。彼が進み寄つた時、雷はふと一瞬間鳴を鎮めて彼の耳に聞かせたのは息の詰るやうな叫び声の嘲り声と混つた女の笑ひ声と、つづいてもう一つ今度は邪魔の混らぬ女の叫び声であつた。彼はぎよつとした。しかし再び頭上で鳴り出した雷鳴に気をとり直した。彼は勇気を奮ひ起して、いきなり小屋の戸を開けた。見ると中は真つ暗であつた。しかし物音の方へ彼は近寄つて行つた。誰何して見たが、物音は依然として止まなかつた。彼の這入つて来たのなどは気にも留めぬ様子であつた。そのうち彼は誰かに触つた。彼はいきなりそれを引捉へた。すると「や! また仕損じたか!」と呶鳴る声がして、その後から高らかな笑ひ声がつづいたと思ふと、彼は何か人間業とは思はれぬひどい力のあるものに引捉へられたのを感じた。安々と身を捨ててなるものかと決心して、彼は格闘した。だがその甲斐もなかつた。彼はいきなり足を持ち上げられたかと思ふと、凄まじい力で地べたへ叩きつけられてしまつた。――相手は直ぐさま飛びかかつて彼の上に馬乗りになり、喉首へ両手を当てがはうとした。折よくちやうどその時、夥しい松明の光りが小屋の節穴から射し込んで来て、あたりを昼のやうに明るくした。敵はそのためにひるんだ。さうして忽ち躍り上ると、餌食はそこへ置き去りにしたまま戸口から表へすり抜けた。森を突き抜ける時の木の枝の裂け砕ける音も、もう聞えなくなつた。嵐も今は鎮まつた。身動きもならずじつとそこに打倒れてゐたオーブレイはやがて戸の外へ来た大勢の人達に聞きつけられた。彼等は中へ這入つて来た。松明の光は泥壁とひどくすすけた藁屋根の上に照り映えた。オーブレイの願ひで人々は先刻叫び声で彼を驚かした女を探しに出かけた。彼はもう一度闇の中に残された。松明の光が再び現れてあたりを照し出した時、彼の美しい案内女が既に事切れた屍となつて運び込まれた時の彼の驚愕は如何ばかりであつたらうか。彼は目を瞑ぢた、自分の錯倒した夢の中に浮んだ単なる幻であつてくれればいいがと望みながら。しかし彼が目を開いて見ると、やはり外ならぬ同じ姿の彼の女であつた。頬には血の気も失せ唇にさへ色はなかつたけれど、しかしその顔には生きてゐた時と変らぬ魅力のある静けさが漾ふてゐる。……さうして胸と首とには血汐の迹が滴つてゐて、咽喉にはカプリと血管に食入つた歯の迹がまざまざと残つてゐた。その疵を指さして人々は一斉に驚きながら「おお吸血鬼! 吸血鬼!」と叫ぶのであつた。やがて手早く担架がしつらはれて[#「しつらはれて」は底本では「しつらわれて」]、オーブレイと彼女とはその上に並んで[#「並んで」は底本では「竝んで」]横へられた。嗟今までは彼にとつてさまざまの輝かしい天女の幻影の対象となつてゐた彼女、その幻影も今は彼女の花のごとき命とともに屍のうちに亡びてしまつてゐた。……彼はわれながら何を考へてゐるのやらさつぱり判らなかつた。心は痺れ果てて物を考へるのを避け、今はただ虚空に休らはんとするかのやうに。――いつとも知れず手に握り持つてゐた抜身の匕首を見たが、それはあの小屋のなかで見つけたもので珍らしい恰形の匕首であつた。やがて彼等が路を行くほどに、また別に一団の人々に行き逢つた。聞けばこの人達はどこやらの母親の行衛知れずになつたのを探し尋ねあぐねてゐるのであつた。大勢の人々の愁嘆する諸声は、市に近づくに従つて怖ろしい変事を人の親たちに警告するのであつた。――その親たちの悲嘆は筆紙には到底尽し難い。彼等はわが子の死因を初めて知つた時、一斉に先づオーブレイの顔を凝視してから、さて娘の死体を指さした。彼等にとつては諦め切れない事であつた。両親とも涙に暮れて死んだ。
 床に寝かされたオーブレイは猛烈な悪熱に侵された。時々その熱に浮かされてうわ言を口走つた。その合間にはルスヴン卿とイヤンテとを求めるのであらう――得体の知れぬ錯雑から彼は旧友に自分の愛人を渡してくれと頼んでゐる模様であつた。さうかと思へばまた時には、彼の頭のなか一杯をあらゆる呪咀で満たして、彼女を殺した下手人は彼だと呪つてゐる時もあつた。恰度この時ルスヴン卿は偶然アゼンスの町へやつて来た。さうして、どういふ拍子からか、彼はオーブレイが重態の噂を聞込んで、早速同じ家へ泊り込んだ、さうして附切りの附添人となつた。オーブレイは夢現の境から覚めると、自分が今まで吸血鬼の形と結びつけて考へてゐたその人の姿が目の前にあるのでぎよつとした。しかしルスヴン卿は親切な言葉で、彼等が物別れにならなければならなくなつた過失を殆ど後悔した口振りで一層彼をもてなしたり心配や世話を焼くので、オーブレイも自然、面と向つては次第に心が打ち解けて来た。卿も以前とは大分様子が変つた。あの頃オーブレイを驚嘆せしめたやうな冷淡なところは今では微塵も見られなかつたが、しかし日一日とオーブレイの病がずんずん恢復しだして行くのに従つて、相手の気持もだんだんと後戻りして行つた。[#「行つた。」は底本では「行つた」]今ではただ口角に意地悪げな勝誇らしげな微笑をにやりと涵へて顔を見据ゑられる時に驚く以外には、以前の卿と何等変つたところもなかつた。その笑ひ顔が故も知れず彼の心に憑き纏ふのであつた。病人がそろそろ恢復期になつた終り頃には、ルスヴン卿はひたすらに潮の差し引きもない海原に涼しい微風によつてうねり返してゐる波の穂やさては静止してゐる太陽の周囲を運行してゐる遊星などを眺め飽かしてゐるふりをしてゐた。――実際彼は皆の目から避けたがつてゐる様子であつた。
 オーブレイの心は今度の震蕩によつて大分沮喪を来たした。嘗てはあれほどこの男を目立たてさせてゐたあの柔軟性に富んだ精神も遂に永久に失はれてしまつたかと思はれたくらゐである。今では彼もルスヴン卿と同じく孤独と沈黙とを愛するやうになつた。――しかしその孤独はアゼンスの近くに見出すことは出来なかつた。以前彼が屡々訪れた廃墟にそれを求めんとすれば、イヤンテの影が彼の傍に立つてゐた。森の中にそれを探ね行けば、軽い彼女の足どりが床しい香ひの菫の花を手折りにと木の下路を歩いて来る。忽ち振り返るその顔を見れば唇のあたりには和やかな笑を涵へたその顔は色蒼ざめて、咽喉にはあの深い傷の痕がありありと残つてゐる。ああいつそのことこんな土地は離れてしまはう、心に苦い連想を与へるこの地勢から逃れ去らうと彼は決心をした。彼は病中にやさしい看護を心がけてくれたルスヴン卿に対してどこか希臘のうちの二人ともまだ見ぬ土地へ行くことの相談を持ちかけた。やがて彼等はいろいろの方面へ旅をした。さうして思ひ出に残るやうな土地を尋ねて歩いた。けれどもかうして旅から旅へと慌しく歩きながらも、見てゐるものをさへもおち/\と心にとめて居られぬ有様であつた。彼等は賊の噂を多く聞かせられた。しかしその噂もしまひには耳に馴れて、どうせそんなものは度胸があつて本気にしないものを騙かすのが面白さに誰かがひねり出す悪戯だらうぐらゐに看做して二人は馬鹿にしてゐた。二人が土地の人の云ふのをあまり気にも懸けないでゐたので、或る時たうとう僅か二三人の警護者――といふよりも案内者といふ役柄であつたが――を連れて旅に立つた。ところが或る狭い谷間路にさしかかつた時、ここは眼下に早瀬の滾ち流れる河床があつて、近くの崖から崩れ落ちた大きな岩が彼方此方にもごろごろ転つてゐるやうな場所であつたが、二人はここまで来て初めて自分達の迂闊を後悔する理由を持つたのであつた。といふのは一行がその細い径へさしかゝつた時、いきなり鉄砲の弾丸が頭上をひゆうつと掠め、つづいて数挺の鉄砲が発砲された。それを見るなり警護者たちは二人をそこに置き去りにしたまま直ぐさまそれぞれに岩蔭に身をかくし、銃声の聞えた方角へ発砲しはじめた。ルスヴン卿とオーブレイとは直ちに彼等の供に倣つて、谷道の曲り角へ身をひそめた。ところが敵は一人も姿を現はさないで、ただ侮辱的に叫び声を上げて立ち合へと命じてゐるきりであつた。出て来ないものを待ち構へたり手向ひもして来ない人殺しに身を曝してゐるのも間の抜けた話だ。たとひ賊が登つて来たにしても背後からこれを捕へることも出来ようといふので彼等は進んで敵を探しに出ようと決意した。すると彼等が岩蔭から出も終らぬうちにルスヴン卿が敵の弾丸を肩に受けて為めに地上に倒れた。オーブレイは急いで彼を助けに行つた。無論最早争闘や身の危険などに構つてゐられる場合ではない。忽ち彼は賊の面々に包囲されてしまつた。手負つたルスヴン卿にかかつてゐた警護のものどもも早速武器を取上げられて降参してしまつた。
 代償はたつぷり取らせるといふ約定で、オーブレイは早速賊どもをして手負いになつた友達を近所の小屋へ搬ばせた。金高も折合つたので、もう山賊共に妨害されることもなくなつた。彼等はオーブレイが吩咐いいつけてやつた金を仲間が持つて来るまで快く入口で見張をしてゐた。ルスヴン卿は見る見る衰弱して行つた。二日のうちつづいて脱疽に罹つた。かくて彼は急ぎ足で進み寄るやうに見えた。しかし彼の挙動や様子は毫も変らなかつた。オーブレイを対象としたと同じやうに痛みに対して無意識でゐるらしかつた。しかし臨終の夕が迫つたころには彼の心も不安になつたらしかつた。彼の目は凝乎とオーブレイを見入つては普段より以上に心を籠めて命乞ひを努めてゐた――「助けてくれ。君ならばわしを助けられる。それ以上のことだつて出来さうだ。わしのいふのはわしの生命のことではないよ。わしの肉体の死ぬことなどは自分の過去の日が去る位にしか意に介してはゐないのだ。その代りに君、わしの名誉だけは、君の友人たるわしの名誉だけは救つてくれ給へ」――「名誉を救ふつて? どうすればいいのです。それを仰言つて下さい。僕はどんな事でもする気ですから」オーブレイが答へた。「ちよつとしたことさ。わしの命はもう引き汐の勢だ。残らずは言へぬが、要するに――君が知つてゐるわしといふものを隠蔽して置いてくれればわしの名誉は人の口に汚されずに済むのだ。――わしの死がしばらくの間英国に知れずにさへ済めばねえ、――わしは、わしは――ただ生涯を、それが人に知られたく無いものだ。誓つてくれ」瀕死の人は激しい力で身を擡げながらかう叫んだ。「君の尊重する者に賭けて誓つてくれ、天性として君を畏怖させるものに賭けて誓つてくれ。年内と一日の間、その間は決してどんな事があらうとも、どんな目に遭つても、君の知つてゐるわしの罪状と死とはどこの誰にもきつと洩さないと誓つてくれ」――かういふ彼の両眼は眼の凹から今にも飛び出すかと思はれた。「きつと誓ひます」オーブレイが言つた。すると彼は枕の上へ笑ひ転げて息は絶えてゐた。
 オーブレイは一休みするために彼の側を離れたが眠ることは出来なかつた。どういふわけかは知らないがこの男と抑々知合つた頃からの、その時折のさまざまな場面が心頭に浮んだ。さうして今誓つた誓約を思ひ出すと、それが何か自分を待ち受けてゐる凶事の表示ででもあるかのやうに彼には思はれて、氷のやうな冷たい身震ひが全身を流れるのであつた。翌朝彼は未明に起き死骸を安置して置いた小屋へ這入らうとすると、入口で賊の一人とぺつたりと行合つた。その男の云ふには、死骸はもう小屋の中にはない、オーブレイの退出の後自分が仲間のものとともに、死んだら直ぐさま月の昇り次第に死体はその冷たい光にあててくれといふあの方との約束に従つて近くの山の頂上に運んだとの事であつた。
 オーブレイは吃驚した。そこで彼は数人の者を従へてその死体の埋められたといふ場所へ直ぐと行つて見ることにした。けれども山の頂上に行つて見ると、賊どもが確かにそこに置いたと示した岩の上には死骸も着てゐた衣類も迹かたはなかつた。彼は暫くは当惑に暮れたが、やうやう思い当つて賊どもが卿の死骸を埋めたのはきつと衣類を剥ぎ取るためだつたのだらうと考へてやつと戻つて来た。
 かくの如き怖るべき不幸に遭つたことはこの土地に倦きまたその心に取り憑く迷信的な憂鬱をますます募らされるので、彼はこの土地を離れることに心を決めて、間もなくスミルナに着き、オトラントかナポリかへ[#「オトラントかナポリかへ」は底本では「オトラントカナポリガへ」]行く便船を待つ間、彼はルスヴン卿と一緒にゐた[#「ゐた」は底本では「いた」]間に彼から得たさまざまな結果に就てしみじみと考へて見た。許多ある彼の遺品の中に五六種の凶器の入つた箱が一つあつた。いづれもその品は被害者の死を保証するに好適な恰形をしたもので普通の短剣が二三挺とアタガン刀(土耳古人の用ゐる[#「用ゐる」は底本では「用いる」])が幾振かあつた。それを手に取り上げて珍らしいその形を眺めてゐるうちに、思はずも彼ははつと驚いたといふのはその中の一振の鞘飾りがいつぞやあの森の中の小屋で拾つた匕首と同じ型をしてゐたからである。――彼は体が震へた。――そしてもつと証拠はないかと急いでかの匕首を探して見ると、幸ひそれが出て来た。その時の彼の戦慄がどんなものであつたかは想像するに余りある。特殊な形を具へたかの匕首が今手に持つた鞘とぴつたりと嵌るのであつた。もうこの上は何の証拠の必要もない――彼の目は結びつけられたやうに凝乎とその短剣に見入つてゐた。しかしそれでもまだ彼は真逆まさかに信じたくはなかつた。だが二つとも一様に特殊な型をしてゐるし、※(「木+霸」、第3水準1-86-28)つかと鞘とに同じく施された雑多な配色の華麗な点も似てゐるのであつた。且つ疑う余地もなく、両方ともに血痕が滴つてゐるのであつた。
 スミルナを発つた彼は故郷への途中で羅馬に立寄つた。そこで先づ彼が心に問ふたのは、いつぞや自分がルスヴン卿の誘惑の手から奪ひ取ろうと企てたかの婦人のことであつた。彼女の両親は難渋してゐた。運勢が滅茶苦茶になつてしまつてゐた。彼女に関しては卿と別れてより後は杳として知るところもなかつた。オーブレイの心はかくまでも積りに積る恐怖のために狂せんばかりであつた。この婦人も亦イヤンテを破滅させた奴の犠牲になつたのではないかと危まれるのであつた。彼は無愛想に無口になつた。さうしてその愛する者の命を救ひに行かうかとでもしてゐるかのやうに、ただ一気に四頭立の馬車を急き立てて行くのであつた。カレーに着いた。和風はさながら彼の意を体したかの如くに彼を英国の岸辺へ吹き送つた。彼は父親の邸へ急いだ。さうして妹の温い抱擁と愛撫とに逢つてしばらくの間は来し方のあらゆる思ひ出も消え失せたかのやうに見えた。以前ならばあどけない仕打によつて兄の愛情を得たであらう彼女も、はや一人前の婦人の如くなつてゐて今は友達として以前に優る兄の愛着するところとなつた。オーブレイ嬢はいつたいが、あちらこちらの招客の席などへ集つて来る人々の注目や賞讃を得るやうな愛敬に富む優しみを帯びた娘ではなかつた。あの種の大勢の人に賑ふ[#「賑ふ」は底本では「賑う」]部屋のなかの火照の間に特有な軽やかな輝きのある娘ではなかつた。彼女の水色の眼は心に蔵された気軽さで輝くやうな眼ではなかつた。それはいかにも悒鬱な魅力を帯びた眼で、しかしその悒鬱は決して不幸から来たものではなくして、内に深く感じたところがあるといふ、つまりもつと明るい国を意識してゐる魂を語つてゐると云つた眼付であつた。足どりなども蝶や色彩などに心を引かれて迷ひ出て行くやうな軽々しいものではなかつた。落ちついた物悲しげな足どりであつた。彼女の前にゐる時にのみあの心のみだれた悲しみを忘れることの出来るままにその兄が愛情の息吹きを吹き込む時の外はひとりでゐる時などその顔が歓びで頬笑み輝くことなどはなかつた。誰が彼女のこの笑ひを淫らなものと取換へたいと望むものがあらうか。実際兄と妹との相対する時、彼等の眼が、彼等の顔もその時には生れたばかりの天真な光りの中で戯れ合ふのであつた。彼女は年やうやく十八歳、世間にも触れてゐなかつた。彼女の後見人たちは兄の帰朝するまではさういふ事は見合せて置かうとの配慮から出たものであつた。兄が帰れば彼女のお守り役にもならうからといふのであつたから、従つてちやうど時は今、折からさし迫つて接見の儀が催されやうとしてゐるのを幸ひ、それをひとつ彼女の社交界への初見参にしようといふことになつた。オーブレイはどちらかといふと自分は父親の邸に居残つてゐて、堪え難い[#「堪え難い」はママ]憂鬱をひとり貪つてゐたい下心であつた。現に証拠を目に見た事件で心も千々にみだれてゐるこの際、今日を晴れと着飾つた見も知らぬ人達のたわいもない振舞などには些の興味もなかつたのであるが、ただ妹を庇護してやりたさに、彼は自分の楽しみを犠牲にすることにした。程なく彼等は市に着いた。さうしてかねて接見の日と披露されてゐる明日の支度にとりかかつた。
 接見の儀は大分久しく催されないでゐた折のこととて参集する人々は大分多かつた。いづれも御機嫌すぐれた御竜顔を拝せんものと馳せ参じた。オーブレイも妹ともども参じた。接見の間の片隅に彼はひとりぽつねんと佇みながら、あたりには構ひなく、彼がルスヴン卿と外でもない現在のこの部屋で初めて会つた時のことを思ひ出してゐた。不意に彼は誰かに腕を掴まれたやうな気がした。同時に聞き覚えのある声を耳にした。――「誓約を忘れまいぞ」彼は咄嗟に振向いて見る勇気も出なかつた。自分を葬り去るに違いないあの怪物を見るのが怖ろしさのあまり。するとその時彼は、初めての時もやはりやや遠いその入口から這入つて来たその姿に心を惹かれたその同じ姿を見た。体の重みに堪えかねる[#「堪えかねる」はママ]やうなその跛足姿をじつと彼が見送つてゐると、かの男は余儀なく一人の友人の腕を借りながら群衆を押し分けて、馬車の中へ身をおどらせた。さて帰つて行つた。オーブレイは部屋の中を大股に歩いた。さうして自分の恐ろしい考へが頭脳を打壊しはしないかと気遣ふやうに、両手でしつかりと頭を抱へてゐた。――ルスヴン卿が再現したのだ。しかも恐ろしい形勢で現はれ出たのだ。――短剣誓約。彼は我に返つた。
 彼はどうしてもそれを信じられなかつた。死んだ者が生き返る! ――彼は今し方の幻想をかねがね自分の心にこびりついてゐる映像を今彼の想像が目のあたりに呼び出さしめたものと思つた。それが本当であるなんてあり得べからざる事だ。そこで彼はもう一度皆の集つてゐる処へ行つて見ることにした。皆にルスヴン卿のことを尋ねてみようと思つたのである。けれどもその名前が危く唇に出さうにしたが、彼はどうしてもそれを口から外に出すことは出来なかつた。それから二三日経つてから、或晩彼は妹同伴で近しい親戚の会合へ出掛けた。その晩彼は妹を乳母に預けて置いて壁の凹に退いて、自分はひとりこの間からの物思ひに耽つてゐた。やや経つてから彼はまだ大勢の人達が帰らずにゐたのを思ひ出して別の部屋へ行つて見ると、そこに妹が五六人の人達に囲まれて頻りと何か話してゐるのに会つた。で彼はそこを通り抜けて妹の側へ寄つて行かうとして、そこに居合せた人に退いて貰はうと思つたところが、ふとその男がくるりと此方に振向いた顔を思はず見ると、――その男こそ彼が日頃怖ぢ気を振つてゐるあの形相を現はしたではないか。彼は思はずそこを飛び出して、妹の腕を掴むが早いか、大急ぎで彼女を無理やりに表へ引張り出した。入口のところで主人たちを待つてゐた一とかたまりの下男どもに妨げられたけれど、それを振切つて外へ行かうと努めてゐる時、またしても彼は耳許で囁く例の声を聞きつけた。――「誓約を忘れまいぞ」――彼はそれを振返つても見ずに、ともあれ妹を急き立て急き立てしてやつとのことで家に帰つた。
 さてその後のオーブレイは殆ど狂気せんばかりであつた。以前ならば一事に凝り出すと完全にそれに夢中になる彼であつたが、この頃ではあの怪物がまだ確に生きてゐるといふ考へが彼の心の上に重くのしかかつてゐるのであつた。彼は妹の看護をも顧ず、妹が彼のだし抜けな振舞ひの理由を彼に打明けさせようと骨折つてみても無駄であつた。いつもほんの二言三言。それが妹の心を脅かした。考へれば考へるほど彼は益々不可解になつて行つた。誓約を思ひ出してはぞつとした。――あれを誓つた時、息の根にも破滅を齎す怪物を、愛しく思ふ人達の間にさまよふに任せて捨て置いてそれの進路を遮り止めないつもりであつたらうか。あの最愛の妹が彼奴の毒牙にかかるかも知れないのである。しかしたとひ自分が誓約を破つて、さうしてこの疑惑を明かしてみたところで誰が自分の云ふことを本気にするだらうか。そこで彼はこの後とも一切、自分の手にかけてこんな痴れ者をこの世からおさらばにしてくれてやらうとも思つた。しかし思ひ出して見れば死が既にお笑ひ草にされてゐるのではないか。――かういふ状態で幾日かは過ぎた。その間彼は自分の部屋に閉ぢ籠つたきりで誰とも顔を合はさず食べものも妹が来た時の外には摂らなかつた。その妹は目に涙を流して、彼女のために養生して欲しいと彼に懇願するのであつた。しかし到頭、こんな静寂と孤独とにも堪へられなくなつて、彼は家を脱れて彼に憑き纏はるあのまぼろしの浮ぶのが怖ろしさに町から町をほつつき歩きはじめた。着物もみだれて彼は昼は日に曝され夜は夜露に濡れるのであつた。初めのうちはそれでも夜になると家に帰つて来たけれどしまひには疲れて来れば処構はずそこらへごろりと横になる。もう誰が見てもオーブレイとは分らなくなつてしまつた。妹は兄の身の上を気遣つて人をやつてあとを尾行させたが、そのまた足の速いこと、憑き物から――あの思ひ出から脱れようとして逃げ走る彼の足早には誰も追付けるものもなかつた。けれども、そのうちに、彼の態度が俄かにあらたまつた。この頃彼が居ないために大勢の友達を置き去りにして置いたことさうしてかの敵はその友達の中に交つてゐるのだが彼等はそんなことに気がつかないでゐると云ふことにふと気がついたのである、そこで彼はもう一度世間へ顔を出してやらうと決心した。ひとつ敵の真近にゐて見張つてゐてやらう、ああ云つて誓約はしたもののルスヴン卿がなれなれしげに近づいて行くやうな人達に警告してやらなければならない。さう思つて彼が或る部屋へ這入つて行くと疲れ衰へた胡乱なその姿があまりに甚しく心のおののきがあまりに外にあらはに見えてゐるので、妹などもしまひには、彼女のためにそんなに気を苛立たせる人中へは立交らないで欲しいものだと歎願するのであつた。けれどもいかほど諫めて見ても効がなかつたので、後見人たちは世話を焼くには今が潮時だと思つた。といふのは彼が物狂ほしくなつて来てゐるのを心配して彼等が今こそオーブレイの父親が末々までと見込んで頼んでくれた信任を一層鞏固にする時だと思つたのである。
 そこで彼等は、毎日諸処をほつつき歩くオーブレイに怪我や難儀のないやうにまた一つには物狂ひのその姿を世間の目に曝させぬやうにと、医者をひとり邸内へ雇入れてそれに彼の世話をさせた。オーブレイの方ではこの頃ではもう全くあの戦慄すべき問題に何物をも忘れてひたすら没頭してゐたから、そんな事には一向気のつかぬ様子であつた。そのうちにも彼の心は次第に烈しくなつて来て到頭彼は一室に監禁されることになつた。その部屋のなかで彼は起きることもならずに幾日も絶えず臥通してゐることも度々であつた。衰へ呆けた。ますますひどくなり、眼は硝子のやうな光沢を帯びて来た、残んの愛情と追想との唯一のしるしは、妹が部屋に入つて来る時だけに見られた。その時に不意に立つて自分の方から進んで、彼女の心を痛ましめるやうな可恐しい眼付をして彼女の手を[#「手を」は底本では「心を」]握つて彼に(自分にといふ意味と例の男にといふ意味とを二重に含めてゐる。次の言葉の兄さんも同様である。オーブレイの狂想と妹の考との交錯を表現する一手法と知るべし。訳語及ばざるに就き一言註に及ぶこと然り。――訳者)触つてくれるなと彼女に哀願して「ああ、どうぞ兄さんには触らないでゐて下さいよ。あなたが私を愛するなら、どうか彼の側へは近寄らないでね」といふのであつた。しかし彼女が誰のことを言つてゐるのかと問ふと兄はただ「本当だ、本当だ」とばかりで、またしても彼女の手でさへも[#「さへも」は底本では「さえも」]起せることの出来ないやうな状態に沈んでしまふのであつた。こんな状態で幾月かつづいた。しかし月日の経つうちに彼の乱心も薄らいで来て、陰気な気持も次第次第に除れて来た。一方、後見人たちはこの頃彼が昼間など時折り自分の指を折り数へて何か勘定しては、ひとりで北叟笑んでゐる姿を幾度となく見かけたものであつた。
 誓約の時も経つて、大晦日になつた日後見人の一人が彼の部屋へやつて来て、医者と妹御の御婚儀も明日にまで迫つたといふのに兄上の御容態の重いのがまことに気ぶつせな次第だ明日に迫つた妹御の御婚儀といふのにと話し合つてゐるのであつた。オーブレイはいきなり聞耳を立てて、誰との婚儀だと心配げに尋ねた。後見人たちは既に失はれたものと思つてゐた、彼の智力が再び蘇つたのに喜んでマアヅン伯爵の[#「マアヅン伯爵の」は底本では「アマヅン伯爵の」]名を指したものであつた。この名は彼も社交界で逢つたことのある若い伯爵であると思ひ、オーブレイはその時心から晴れやかな面持であつたが、式場へ列席したいといふ意嚮と妹に逢ひたいとの希望を言ひ出して、一同は二度吃驚した。彼等は返事はしなかつたがそこへ間もなく妹が兄の側へ来合せた。妹の愛らしいほほ笑みのおかげで彼はどうやらもう一度感動させられることも出来た。自分の胸に彼女をしかと押し抱いて、兄の正気になつたうれしさに流れた涙で濡れた頬を彼は接吻した。さうして彼はいつもの[#「いつもの」は底本では「いつも」]やさしさのかぎりを籠めて語りはじめた。その家柄と云ひ才芸と云ひふたつながら人に秀れた人のところへ嫁ぎ行く彼女の結婚をことほぐのであつた。その時彼はふと妹の胸に懸つてゐる写真入ロケットに目をつけた。さうして開けて、己れの生涯にこれほど久しい影響を与へた怪物の姿を見た時の彼の驚愕は如何ばかりであつたらう。憤怒の発作でその肖像を引掴み、それを足で踏みにぢつた。彼女の未来の夫の肖像を何故こんなに壊したかといふ妹の問ひに対しては、彼はまるで意味を解しないかのやうな様子であつた。さうして彼の妹の手を握りしめて乱心の心を面に現はしながらじつと彼女の顔を見詰め彼は彼女にこんな化物とは結婚しないと誓へと命じた。言ひかけて彼はこれ以上を云ふことが出来なかつた。例の声がその時も亦、彼に誓約を思ひ出させるものと見える。――彼は身近くに現はれたルスヴン卿を見ようとして、いきなり振り向いて見たが、そこには誰の姿もなかつた。やがて事の次第を聞きつけた後見人と医者とは、彼の頭脳の調子がまた狂ひ出したかと思つて、部屋へ来た。無理やりに彼をオーブレイ嬢から引離し、彼の傍から放れるやうにと妹に云つた。すると彼はいきなり彼等のまへに膝をついて、結婚はもう一日だけ延ばして貰ひたいと哀願するのであつた。彼等はその様子を見て、これも憑き者で気の狂つたせゐだらうと思つて、出来るだけ気を鎮めさせてその場を引取つた。
 ルスヴン卿は接見の賀の日の翌朝訪問をしたけれど、諸人と同じくこの訪問は応じられなかつた。彼はオーブレイが大分容態が悪いと聞いた時、自分だけにはその原因も思ひ当つてゐたが、そのオーブレイがこの頃、気が狂つたらしいと伝へ聞いた時、彼の得意と歓喜とはその報を持つて来た人達の中にゐながらも殆ど匿し切れない程であつた。早速彼は旧友の家へ出掛けて行つた。さうして絶えず妹の側へつききりになつて、彼が兄に対する愛情とその不可思議な運命とに関心を持つてゐるものだといつわ[#ルビの「いつわ」はママ]つて、そくそく彼女に言ふことを聞かせた。もとより彼の力を拒むことの出来る者があらう筈はない。
 彼の舌はいろいろと脅かしたりすかしたりしなければならなかつた。――彼はこんな風に語り出した。自分はこの広い世界に誰も同情してやらうと思ふものは一人もない。尤も自分がかうして今話しかけてゐる[#「ゐる」は底本では「いる」]彼の女だけは別であるが。――彼は彼女を知つて以来初めて生甲斐を感じた。物静かな彼女の声を聞いてゐるばかりでつくづく長生きがしたいと思つたとか――つまり彼は蛇生の術を巧みに操る術を会得してゐたのである。さうしてそれが宿命の意志であつたのであらう。彼は到頭彼女の愛を獲た。本家にあつた称号が遂に彼のものとなり、彼は重大な使命を帯ぶに及んでそれが結婚を急がせるの口実となつて(兄の乱心中にも不拘かかはらず)いよいよ彼が大陸へ旅立つといふその前日に式が挙行される運びになつた。
 オーブレイは、あの時後見人と医者とが部屋を出て行つてから、召使ひどもを買収しようと思つた。が、事実はそれが失敗に終つたのであつた。彼はペンと紙とを持つて来てくれと頼んだ。妹に宛てて一通の手紙を認めた。――妹よわれはおん身に切願す。おん身がおん身の幸福または名本と嘗て汝を家の宝とし給ひし先考の名誉とを思ふならば、何卒今度の結婚は必ず凶事を誘導すべしと予が言へる今度の結婚は願はくば数時間の猶予せられん事を云々。この手紙を召使ひは彼女に届けると約束したがそれを医者の手に渡した。医者はそれを読んでこんな狂者の譫言などでオーブレイ嬢の心を擾さぬ方がよいと考へたのである。でその晩家人が支度に忙殺されて[#「家人が支度に忙殺されて」は底本では「忙殺されて」]休む間もないうちに夜は更けた。その忙しい支度の物音をじつと聞いてゐたオーブレイの戦慄は筆で誌すよりは想像するに容易であらう。朝になつた。やがて幾台かの馬車の響が彼の耳を破つた。オーブレイは半ば狂乱の状態に陥つた。召使ひどもは物珍らしさに監視のことなどを打忘れて体の利かない婆やを一人彼の監視につけて置いて、皆こつそりと出て行つた。機を見て彼はひと飛びに部屋を脱出した。さうして瞬く間に、大方はもう集る人も集り尽した部屋へあらはれてゐた。最初に彼を見つけたのはルスヴン卿であつた。彼は怒りでものも言はずに忽ちに進み寄つて手荒に彼の腕を掴むと、部屋から彼を逐ひ立てた。階段の上まで来るとルスヴン卿は彼の耳に囁いた。「――誓約は忘れまいぞ。考へて見給へ。今日わしの花嫁にならなければ、妹は辱を受けるわけだ。女は脆いものだからな」かう言ひながら彼はオーブレイを婆やに促されて主人を探しに来てゐた従者どもの方へ押し退けた。オーブレイは最早身を支へることも出来なかつた。烈しい怒は捌け口を見出すことが出来ずに、遂に彼の血管を破つた。彼は臥床に運ばれた。この椿事は妹には知られなかつた。彼女は兄が来た時には折からその部屋には居合せなかつたものだから。医者は彼女の心を擾すことを惧れてさう取計らつたのである。結婚式は挙げられた。さうして新郎と新婦とは倫敦を発つた。
 オーブレイの衰弱は募つた。脳溢血は[#「脳溢血は」は底本では「脳溢者は」]既に死も遠くない徴候を示しはじめてゐた。彼は頻りと妹の後見人どもを呼んで貰ひたがつた。さうしてその夜の十二時が打つた時、読者がここまで親しく見て来られた一切の物語を泰然として語つたのであつた。――語り終つて間もなく彼は落命した。
 後見人どもはオーブレイ嬢の身を守護するために急行したが、彼等が着いた時には既に遅かつた。そこには最早ルスヴン卿の姿は見えず、オーブレイの妹は吸血鬼の渇を飽かしめてゐたのであつた。





底本:「ドラキュラ ドラキュラ」河出文庫、河出書房新社
   1986(昭和61)年1月10日初版発行
底本の親本:「ドラキュラ ドラキュラ」大和書房
   1979(昭和54)年
初出:「犯罪公論 第二巻第一号〜第三号」
   1932(昭和7)年1月1日〜3月1日
※字句の繰り返しに対する踊り字の使用、不使用の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、「定本 佐藤春夫全集 第29巻」臨川書店、1999(平成11)年2月10日発行の表記にそって、あらためました。
入力:大久保ゆう
校正:朱
2022年9月26日作成
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