真劇シリーズ

REAL DRAMAS

第三話 請求書外

NO. 3: NOT IN THE BILL

フレッド・M・ホワイト Fred M. White

奥増夫訳




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 今は亡き俳優手配師の備忘録より

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 御曹子おんぞうしが成人になったとき、慶事を祝ってお祭りがあった所はストランドフォード荘園、一族の邸宅があるロームシャイア地区だ。
 御承知のように、同家はとても由緒ゆいしょある名家で、ちょっと純朴で保守的、決して当世風とは言えない。
 実を言えば、チュートン出自しゅつじの現代資本家に匹敵する。家風としてストランドフォード荘園には、めったに人を入れない。ただし、月曜と金曜の絵画見学日は別だ。
 だから、同家のチャレンジャー夫人は、ずいぶん思い切って演劇をもよおしたものである。素人しろうと芸という考えは毛頭なく、はなから玄人くろうと劇団を呼んで、同家のルーベンス館で上演したかった。
 夫のチャレンジャー卿は出費が高額でなければと、反対しなかった。もちろん演劇界の花形は呼べない。演劇の招致が難しいことは言うまでもない。
 令夫人は、ほとほと困り果てて、演劇界の第一人者だいいちにんしゃに手紙を書いた。すると事は簡単に運び、返事が来た。ストランド一一九四番地のブランク芝居しばい代行業者に手紙で希望を知らせるだけでよいとのことで、そのようにした。
 たぶんお望みの演劇が選べるだろう。それにストランドフォード荘園は鉄道幹線上にあるので、団員全員が下り急行に乗車できるし、ロンドンへは深夜一時半頃までに戻れる。ストランドフォード荘園駅には全列車が信号で止まる。あとは、必要な小切手に署名するだけとなった。
 実に小気味よいほど簡単だった。ブランク芝居しばい代行業者は喜んで適任の俳優を手配し、チャレンジャー夫人用に喜劇をいくつか提案した。同社はそれなりの手数料で、劇を仕立て、舞台を造り、進行も管理するという。
 純朴な淑女にありがちなことだが、人生の大半を田舎で暮らすチャレンジャー夫人は人情に厚い。演劇にも熱い情感が欲しい。最終的にウイルキー・コリンズの小説を元にしたのを選んだ。
 つまりしいたげられた女が冤罪えんざいに苦しむ役だ。それは本当にむごい話であり、令夫人も無実の女エスター・ウォルターズ囚人の悲哀に涙した。
 令夫人は女囚じょしゅうに興味があり、実際、気質も知っていた。オールドチェスター女囚じょしゅう刑務所はわずか六キロしか離れてないし、訪問したことがある。演劇を選ぶ際、これが影響したことは否めない。

 ブランク社の社員が時刻通りに現れ、同家のルーベンス館に小舞台を設営し、招待状を出し、プログラムを印刷した。長い一日のお祭りの中で、演劇が一番の出し物だ。
 荘園内ではクリケット対戦相手のフリーフォレスターズを迎えて試合があり、正午に庭師の食事会があり、午後には子供たちのお祭りがあった。邸宅は人々で一杯になった。
 午後四時、俳優たちが到着し、直ちに食事がふるまわれた。チャレンジャー夫人が喜んで顔を出した。
「トレナーさん、いい劇団だといいのですが」
 と令夫人。
 舞台監督のバノン・トレナー氏がほほ笑んで、
「おまかせください、チャレンジャー奥様。事実上のロンドン劇団です。みなプロの俳優ですよ。ほとんど大物興行主と契約しています。特別協定で駆けつけました」
 その言葉にチャレンジャー夫人が喜んだ。すべて順調に進んでいる。俳優陣はとても素敵に見え、演技も実にうまそう。こんなに大勢見事な俳優が今晩、舞台に出るとは何たる驚きか。
 でも令夫人はちょっと失望した。とりわけエスター・ウォルターズ役に声をかけたかったが、この主演女優がまだ到着していない。
 舞台監督のトレナーがいいわけして、
「一緒に来られませんでした。危篤きとくの親族の最後を見取る為です。衣装は持ってきましたから、午後七時四十六分の列車で来る予定です。荘園へはほんの数分歩くだけと分っています。奥さまを失望させて申し訳ございません」
 チャレンジャー夫人がほほ笑んで、
「わたくし本物の囚人を知っています。オールドチェスター刑務所によく行きました。とても興味深い所です。根っからの悪人じゃなく、出来心に負けた哀れな人達ですね」
「ゆうべオールドチェスター刑務所で事故があったのじゃないですか」
 とトレナー氏がいた。
「ええ、トレナーさん、とてもひどかったかもしれません。ガスが漏れて爆発したため、建物が一部壊れました。幸い死者はいませんでしたが、何人か重症です。悲惨な混乱状態とか」
 チャレンジャー夫人が席を外し、俳優たちに邸宅を自由に使わせた。嬉しかったのは俳優陣が個性的で魅力的なこと。
 若者はこの機会に本物の男優や女優と語らい、喜んでいる。俳優たちは素敵な古式庭園に散らばり、庭木にわきを鑑賞し、目の肥えた観客らに経験を語った。

 上演時間が近づくにつれ、舞台監督のトレナー氏が不安になり始めた。予定時刻を少し過ぎたが、エスター・ウォルターズ役を演ずるヒルハウス嬢が到着していない。列車に乗り損ねたら、舞台に穴があく。幸い、第一幕の中盤まで出番はないので、幕を上げた。
 やがて、間一髪のところで、息せき切って到着して、おびの雨あられだ。曰く、列車が遅れた為、暗闇くらやみで道に迷い、イバラに足を取られて転んだ、ズブズブの沼地に迷い込み、泥まみれになったとか。
 全身を覆う長い外套が泥だらけだ。
 トレナー氏がじろじろ見て、口をあんぐり。
「なんということだ。あなたはヒルハウス嬢じゃない。さては……」
 と口ごもった。
 女があえぎながら、
「説明が遅れました。ヒルハウス嬢は土壇場で来られなくなりました。引き留められたのです。そこでブランク社に電話したら、すぐ私が代役に呼ばれました。幸い、配役をつい最近演じましたので代役はご心配に及びません。ブランク社長が直々に指示され、全速で駆けつけました。わたくしはヒルと申します」
「ヒルハウスに似た名前ですね。前にお目にかかったことはありませんが」
 とトレナー氏がほほ笑んだ。
「私はオーストラリア人です。アメリカやアフリカで公演してきました。ロンドンにはほんの一週間前に到着しました。配役の衣装や扮装ならお手の物ですよ。ここにあると思います。すぐ楽屋に案内してください。それからサンドイッチとシャンパンを少し持ってきてくださいませんか。今日は食べてなくて、夜遅く食事しようと思っていたので、何も口にせず駆けつけなければなりませんでした」
 トレナー氏は、ただただ望外の喜びだ。いまや不安は吹き飛び、すべて順調。ヒル嬢はサンドイッチとシャンパンをガツガツ食した。
 トレナー氏がメークを確認し、承認した。ヒルハウス嬢の囚人服があつらえたようにぴったりだ。ヒル嬢の演技は気力と言い、迫力と言い、どちらも申し分なかった。
 かつてヒルハウス嬢は役をやや大げさな程に上品ぶって、淑女らしく演じていた。今回、観客はそれも感じとったが、ヒロインの悪行三昧ざんまいに度肝を抜かれた。
 第一幕が下りると、前列の特別席や、後列の農夫・小作人どもから、やんやの拍手喝さいがあった。
 チャレンジャー夫人が気を利かし、楽屋へいそいそ現われ、お辞儀して、ヒル嬢と近づきになった。
「わたくし、魅惑され、感激しました。本当に引き込まれました。聞けばギリギリで来られたとか。昼から何も食べておられず、粗末なサンドイッチとワイン一杯だけとか。いま時間がありますか」
「三十分もありません。でも衣装変えの必要はありません」
 とヒル嬢が説明。
「うれしい、十分食事する時間はありますね。家中多少混乱していますから、申し訳ないですがわたくしの化粧室で食べてください。そこに準備しました。ご案内しましょう。連絡係を付けますので、欲しいものは直接申しつけてください。どうかわたくしがいなくても気になさらないで。いろいろ細かい用事がありますので」
 とチャレンジャー夫人。
 ヒル嬢はあまりの親切に恐縮しているようだった。実際、期待以上のもてなしだ。だって、報酬に見合う演技をしているだけなのに。
 オーストラリアや南アフリカの内外では辛酸をなめた。だからこそ、歓待に甘えた。旺盛な食欲のため、サンドイッチの補給が追いつかない。
 一つだけ誓ったのは、チャレンジャー夫人の親切を邪魔しないこと。令夫人がどんなに忙しいかよく分かっている。
「どうか私のことは気になさらないでください。既に迷惑をかけ通しですので。奥さまがお客様の所へ戻られるまで、わたし落ち着きません。出番が来たら呼び出されますから。どうか、お待ちにならないでください」
 チャレンジャー夫人は言葉通りにとった。舞台は順調に進み、遂に幕が降りて、悪徳には鉄槌が下るという必然の勝利で終わった。
 そのあとヒル嬢は急いで二階へ上がり、そこで食事を終えて、誰もいなくなってから、楽屋へ降りた。時間をかけて化粧を落とし、いつもの素顔になった。その間、着付師をていねいに断った。
「しばらく拘束しませんから。私はすぐに行かねばなりません。あなたは皆の所へ行ってお食事なさい。トレナー氏には半時間で出ると言ってください。きれいな靴があればいいけど……」
 この頃になると、劇団員たちは招待客と一緒に食堂で歓談していた。チャレンジャー夫人がヒル嬢のことを気にし始めた。

 そのとき、でっぷりふとった威厳のある老執事が、トレナー氏にあわてた様子で近づき、何事かささやいた。とんでもないことのようだ。
「あり得ない。冗談だろ、誰かのいたずらだ」
「そうかもしれません、はい。ですが、いらして、若い女性をご自分でお確かめくださいませんか。とても頑固なのでございます、はい」
 トレナー氏が居間に急いだ。そこにいたのは浮浪者風の若い女、涙目が怒りでメラメラ。衣装はボロボロだ。
「ヒルハウスさん、どういうことですか」
 とトレナー氏が息をのんだ。
 ヒルハウス嬢が弱々しく、
「聞いてちょうだい。今夜荘園を歩いて来る途中、女に会いました。止まって話しかけたら、いきなり倒されました。ナイフを手に、大声を出せば殺すと脅すのです。ハンカチを口に詰め込まれ、縄でたちまち縛り上げられました。縄はどこかで拾ったのでしょう。半死状態で横たわっていると、男たちが私を見つけ、ここへ運んでくれました。たぶん密漁者でしょう。逃げましたから。ベルを鳴らし、執事に会い、ええ、このざまです」
 トレナー氏が瞬時に考えをめぐらした。なによりすぐヒル嬢に会いたかった。
 妙なことにヒル嬢がいない。さよならも言わず去り、チャレンジャー夫人の持ち物を、肌着から靴から衣装まで、盗んでトンずらだ。
 ちょっと時間がかかって、令夫人がことの真相を知った。やがて分かり始めたのは、召使いから痛ましいひどいことを聞かされたあとだった。
 ヒル嬢や衣装が見つからないばかりか、高価な宝石も見つからない。無くなっている。
「でも、どうやって。どうやって知ったの。どうやって……」
 と令夫人がうろたえていた。
 トレナー氏がおもむろに言った。
「よろしいですか。こうじゃありませんか。可能性としてオールドチェスター刑務所で、爆発のドサクサに、囚人が何人か逃亡したんですよ。事実はすぐ判るでしょう。チャレンジャー卿が刑務所へ電話されたら、推測が正しいか分かるかもしれません。明らかに逃亡囚は女優です。おそらく今日隠れていて、全てを聞いていたのでしょう。たまたま話を聞いてひらめいたのです。囚人服を着替え、うまい食事が欲しかったのです。実行には相当危険がありますが、リスクを取る価値があります。エスター・ウォルターズ役は人気劇団を渡り歩いた演技派女優ならお馴染みです。実に、簡単ですよ」
 やがてチャレンジャー卿が浮かぬ顔で書斎に戻ってきて、
「トレナー氏が正しいよ。刑務所長に電話で聞いた。女囚二人が行方不明だそうだ。一人はルイザ・レイナーズというオーストラリア人で、舞台の大ベテランだ。話を聞いてから衣装部屋を探したところ、どんぴしゃり。ずうずうしい詐欺師が着ていた本物の囚人服があった。ヒルハウス嬢の上着を引っかけて、囚人服のまま実際にここへ来ている。だが遠くへは行かれまい」
 トレナー氏が答えて、
「いまごろ高跳びしていますよ。その筋の女なら一癖も二癖もあります。ここには少なくとも招待客の車が四十台あります。レイナーズ嬢は自分で運転するか、運転手に頼んで、そうですね、バーハムジャンクションまで行ったでしょう。あそこなら市内へ列車で簡単に行けます。市内へ行けば、確実に友人がかくまってくれます。なにしろ宝石を持っており、換金できますから。どうか、旦那さま、この事件で私たちを責めないでください」
 チャレンジャー卿は高潔な人物だから、それはない。
 一台の行方不明の車が一時間半後に戻り、話によればまさにトレナー氏が言った通り。
 チャレンジャー夫人は悲しげに聞いていた。女優も宝石も見つかる望みはない。こんな馬鹿なことは予想もしなかった。
 夫にポツリ、
「とにかく、大成功でしたね。でもまた芝居をやろうと思わない。ちょっと刺激的すぎました」





底本:REAL DRAMAS. No. 3: Not In The Bill. The Penny Illustrated Paper and Illustrated Times, 14 August, 1909.
原著者:Fred M. White
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翻訳:奥増夫
2021年2月17日作成
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