悪の帝王

THE MASTER CRIMINAL

第六話 薔薇十字

VI. THE ROSY CROSS

フレッド・M・ホワイト Fred M. White

奥増夫訳




第一章


 ジョブ・ポッターという名前はどんなに想像を膨らませても語呂ごろがいいと言えないが、億万長者なら些細ささいなことだ。億万長者ポッターと、伊達男だておとこホン・オーガスタス・ヴァンシターとの間には大きな隔たりがある。しかし様々な理由で両者は友達になった。
 普通の小柄な男が億万長者のポッター、狡猾こうかつだ。伊達男ヴァンシターからは実入みいりなんて得られない。ただはるか英国にいるポッター夫人が社会的な名声を欲しがっており、ヴァンシターが使えるかもしれなかった。
 ヴァンシターも手ぐすね引いて待っていた。億万長者ポッターが提供したシカゴ・ロイヤル・バナーホテルの夕食はそれなりに優雅だ。
 その晩、二人で食事中、億万長者ポッターがこう言った。
「アメリカ巡業はこれが最後だ。二か月以上だから帰国して腰を据えるよ」
 伊達男のヴァンシターが応じた。
「私もです。親戚に会うのは子供のころ以来かな。アメリカへ移住したんです。財産が入りましてね。ここに来たおかげです。いやあ、また高級服が着られる身分ですよ。でも司教には世話がやけます」
「誰だい、司教とは」
 とポッターが興味津津だ。
「クロイドン閣下ですよ。遠い親戚でね。療養に来たんです。ここで会う段取りをつけて、一緒に帰国します。あした到着です。顔が分からないかもなあ。でもエラ令嬢がよくお世話しているから」
「また誰だい、令嬢って」
 ポッターがことさら令嬢を強調した。
「姪っこですよ、ポッターさん。並の器量で、活発な子です。大丈夫、あなたのご親切はちゃんと伝えますから。もしよければ到着次第、司教とエラを呼んで一緒に食事しましょう」
 億万長者ポッターの顔が輝いた。ここでカードを切れば、英国経団連へ入会するきっかけが出来る。ポッター夫人が切望している団体だ。他の何にも勝る印象を与えようと薔薇ばら十字ダイヤモンドを購入済みだった。
 億万長者のポッターが言った。
「願ったりだ。エラ令嬢に薔薇十字を見せよう。女性はダイヤが好きだ。新聞でダイヤ購入を読んだと思うが」
 ヴァンシターがあくびをして、物憂げにこう返事した。
「ええ、億万長者なら地球すら買い占めますよ」
 ポッターがさえぎって言った。
「すごい石だぞ。見たいか」
 ヴァンシターはうなずいたものの、気が乗らない。薔薇十字という有名な宝石は当代一の関心事なのに。
 石というより宝石の塊で、蛇のように長くねじれており、カリフォルニアで発見されたとされるが、鑑定家によればブラジルから盗まれて、さる場所へ持ち込まれ埋められて、再び掘り返され、現地発掘という作り話をでっちあげたとか。
 価値はざっと十万ポンド、実際はその二倍でも売れる。
 ポッターが隣の寝室から珍品を持ってきた。内輪うちわ夕食のゆえだ。ヴァンシターに渡し、悦に入っていた。
「すごいと思わないかね」
 伊達男ヴァンシターが急に興奮した。もしポッターがころりと騙されて、あっという間に宝を盗まれると知ったなら、喜んではいられなかったろう。
 伊達男ヴァンシター、別名フィリックス・グライドがもう一本煙草に火をつける様子は、人生を達観したかのよう。
 ヴァンシターが言った。
「お宝はしまいなさい。私は寝ますから。疲れて死にそうです。司教とエラ令嬢が来たら知らせますよ」
     *
 三日後、億万長者ポッターが興奮して喜んだのは、クロイドン司教閣下がエラ令嬢と到着して、金曜日に食事しないかと誘われたからだ。東部行き列車は月曜の朝に出発するので、そう時間はない。
 ポッターが喜んだのなんの。ホテル支配人に面談し、自由に使ってよいという了解を取り付けて、費用に糸目をつけず、全てを徹底的に改造すると約束した。
 すぐに、続き部屋を歓迎用に改装した。エラ令嬢の寝室や、司教の更衣室を特別装備するのは言うまでもない、客間もだ。
 ここで、琥珀色のワインが泡立たなくなったころ、令嬢が美貌で男どもを魅了し、コーヒーを勧め、優しい笑みを振りまくはず。
 億万長者ポッターが息巻いた
「金にかまうな。待望の名士だ。貴人に土産みやげ話を提供しなくちゃ。おお、女房のマリアがこれを聞いたら喜ぶぞ」
 約束の時刻に、エラ令嬢と司教が到着した。優雅でとても如才ない。その夜のうちにポッターが感じたのは、エラ令嬢がこの世に無比ということ。こんなに美しく魅惑的な女性にお目にかかったことはない。
 とらえどころがなく、夢のような令嬢の魅力はニノン並だ。ポッターの才能の一つが本物を嗅ぎ分ける力であり、高級宝石の鑑定も生まれつきで伊達じゃないし、エラ令嬢もほんものと見た。
 エラ令嬢のことは全く知らないが、にせものは直ちに見分け、決して見過ごさない。
 エラ令嬢は優雅で友好的だった。ポッターを上流階級と見なしたようだが、同時に甘い言葉で、大きな違いのあることも意識的に伝えた。
 億万長者ポッターとエラ令嬢は他の二人と離れて座った。司教はヴァンシターと話しこんでいる。
 エラ令嬢が打ち解けてきた。じきに妻のマリアのことが話題になり、優しくこう言った。
「ポッターさん、ボルトン・ガーデンのどこかで奥さんにお会いしましたかね。これから公爵夫人とお呼びしなくては」
 思わせぶりだが、やはり嬉しい。何の公爵夫人か知りたかったが、ポッターは尋ねなかった。
「イギリスへ帰れてうれしいでしょうな、エラ令嬢」
「少しはそうね。でもアメリカは大好きよ。司教のお世話が大変ですけど。神経衰弱なの」
 ポッターが司教をちらと見て、同情した。司教は端整な顔、威厳のある態度だが、全然元気に見えない。
 ポッターが言った。
「航海に出ればよくなりますよ」
 エラ令嬢がつぶやいた。
「心配なことは長旅列車の騒音や雑踏を叔父が怖がることです。定期的に休憩と安静を取らなきゃいけないのです。失敗でした、乗換えや騒音が良くないというのに。とても心苦しいのは、王子のご招待を断りながら、王子の蒸気船で大西洋を渡ることです。もし特別列車でここからニューヨークまで行けたら、とても楽なのですが……。わたくしの宝石を質に入れてでもそうしたい気分ですが、それもできないし……」
「すっかり覚悟されたようですが」
「あ、いや、わたくしのことなら御心配に及びません、それに列車の乗り継ぎは楽しみですわ。でも司教は相席を望みません、特別列車は高いですし……。もしアメリカ大富豪の専用列車を借りられたら……。あとの旅は言うことないのですが。たわごとね」
 ポッターがほほ笑んだ。今度こそにせ公爵夫人という事態に決着をつけられる。そしてボルトン・ガーデンに招待される。億万長者たるもの、絶好の機会は見逃さず、確実にチャンスをつかむ。
「良いお店へいらっしゃいました。つまりご要望のものが手に入りますよ。プルマンカーのことをお聞きと思います。アレクセイ大公がアメリカ旅行で造らせた豪華客車です」
 エラ令嬢も聞いたことがあった。ロシア大公がアメリカでお遊びする為に造らせてほどなく、今度はモナコが好都合な散財場所になったとか。
「夢のような客車だそうね。大公が自殺した後、億万長者が買い取ったとか。ポッターさん、ご存知?」
「もちろんです。私が買いましたから。いつもあちこち出かける時、専用プルマンカーは大助かりです。最近三回の旅行で客間にしました。でも向う数カ月は使う予定がありませんから、よろしければニューヨークへ静かな旅を司教へさし上げますよ、ぜひ」
挿絵1
 エラ令嬢が親切な申し出にいたく感動した。ヴァンシターの入れ知恵などおくびにも出さない。最初堅く辞退した。
 次第に自尊心と、司教のお世話との板挟みになった。果たして叔父の邪魔をしていいのだろうか、大方の見るところ次の大司教になろうかというのに。
「叔父が決めますが、ともかくポッターさん、こんな大恩にはお返しができません。叔父さん、ポッターさんの申し出をどう思い?」
 司教は反対した。思いもよらないことだと言った。青白い両手を令嬢に向けた。よせと、無言で苦しみ、不安と解決の狭間はざまにあらがったことだろう。一切そんな申し出など聞く耳は持たない。
 それから五分間は、バイロン詩集の中の一番はかない一節のようだった。

 誓って、賛成すまじ、させまじ

 ポッターが司教の変化に気づいた。司教は末恐ろしい旅行と必死に戦っている。慈悲深い顔が満面の笑みになり、オペラの一節をぐっとこらえている。
 億万長者ポッターは申し出がうまくいったことを知ってにんまり。もしかして、ある大司教が来て、ボルトン・ガーデンで夕食かも。
 司教が言った。
「全くお恥ずかしいですが、もう我がままは言いません。何かお礼できますか。こんな大恩にはできないような気がしますが……。ポッターさん、おかげで救われました」
 億万長者ポッターが喜んだ。夢見始めたのは、ポッター卿とマリア令夫人がボルトン・ガーデン社交会を先導し……。
「司教さん、もうひどいことになりませんよ。旅の景色を心ゆくまで眺めてください。薔薇十字を銀行員からプルマンカーに届けさせます」
 エラ令嬢は興味津津だ。
 そして、夕まぐれ、あの素晴らしい宝石をしみじみ眺め、驚嘆した。ぞくぞくすると白状した。
 エラ令嬢がこう言った。
「老婆心ながら、失くしちゃいけませんよ。おやすみなさい、ポッターさん」
     *
 次の一日半、伊達男だておとこヴァンシターは必要上、親戚たちをシカゴで好きなようにさせた。もしヴァンシターの行動を見たら、面白がるとともに不審に思っただろう。
 翌晩、郵便特急列車で七百キロ進んだ。そこで荷物を持って降りて、用意した荷馬車に乗せた。それから一人で寂しい田舎を走った。やがて突き当たった場所は深い所から低木が生え、線路の端にかかっているところだった。
 二時間ほどかかって、やっと仕事を終えた。完了したとき、二十メートルにわたり強力な弾力あみがかけられ、軽業師かるわざしが大砲から人を飛ばす時に使うような変なおおいがあった。ヴァンシターが満足げに眺めた。顔に汗がしたたり落ちた。
 でもまだ終わっていなかった。シカゴ方向へ二十キロ行くと、同じく寂しい場所に高い木々があり、その一本にヴァンシターが登り始め、手には何か大きな真鍮しんちゅうの器具を抱えている。強力な油ランプにほかならなかった。それを取りつけて、明かりをともした。
挿絵2
 ヴァンシターが自己満足してつぶやいた。
「やったぜ。ランプは五十六時間燃える。ここには誰も来ないし、邪魔もない。もし壊されたら、ポッターに不利になるだけだ。予定通りここでやっつければ、怪我はしない。そのあとは、司教とエラ令嬢が大喜びさ」
 ヴァンシターは馬の所へ戻り、降りた駅に引き返した。西行き列車はちょっと待ち時間があったが、やっと来て、シカゴがにぎわうずっと前に、帰り着いた。
 朝食の時間、ヴァンシターがクロイドン司教の個室に疲れ切った様子でぶらりと入ってきた。
 エラ令嬢が笑った。
「ふふふ、重労働したみたいね」
 物憂げな返事があった。
「そりゃもう。ああ、腹ペコだ」

第二章


 ニューヨーク行き急行プルマンカーが発車して半時間、男が息を切らしノックもせず、億万長者ポッターの事務所に駆け込んできた。
「俺はバーンズというニューヨークの探偵だ。悪党共が嗅ぎつける前にここへ来るべきだったが、二日間監禁された。奴らは俺が数日逃げる心配ないと思っとる」
「いったい何の話ですか」
 と億万長者ポッターが尋ねた。
「薔薇十字のことだ。それに司教とエラ令嬢と例のヴァンシターもだ。やつら大がかりな陰謀をたくらみ、あなたの大きなダイヤをだまし取ろうとしている」
 そして誘拐された生々しい話をバーンズ探偵がしゃべり続けた。また大ダイヤを金庫から奪い返す計画も話した。
 億万長者のポッターが言った。
「電報を打たなくては。全員、私の専用プルマンカーに乗っていますから……」
 バーンズ探偵がさえぎった。
「線が切られとる。奴ら二時間で列車から降りる。たぶん最初の停車駅フォート・アンソンだ。いいか、俺がすっかり段取りしたから、冷静なら、言われた通りにしてくれ。奴らはこの格好の俺が分からないから、じきに捕まえてやる。あなたは中央駅へ行って、特別列車を半時間以内に準備してくれ」
「一体全体、何のためですか」
「あなたと俺とで泥棒を追っかけるためだ。俺の計算では一時間以内に出発すればウィンチェスターで急行プルマンカーに追いつく。そのころ暗くなるので、気づかれずプルマンカーに乗り込める。いいか、我々は他人同士だ。さあ、事務所へ行って、会社の了解を取り付けてくれ、盗人から金庫の宝石を取り戻すためだ」
地図1
「なんてバカなことを言うんですか」
 と億万長者ポッター。
 バーンズ探偵は自信たっぷりだ。
「問答無用だ、あなたの金があれば何でもできるぞ。キミ、宝石をただでくれてやるのか、アホ……」
 ポッターはそんなたまじゃない。正確に五十七分以内に、特別エンジン仕様の列車をシカゴから引き出し、さらに鉄道会社の運行を金で買った。
 もうボルトン・ガーデンどころではない。費用のことを考えると頭が痛かった。それにエラ令嬢のことも……。
 バーンズ探偵が憂鬱な妄想をさえぎった。
「計画を話しておこう。追跡方法はたいした問題じゃない。いずれにしろ捕まえるし、奴らの手管てくだは知れてる。探偵仲間の常識だが、手柄を一人占めしたいから、ここへ最初に来なかった。でも準備万端だ、もう待機の急行列車に寝台を確保し大量の荷物を乗せた。奴らは俺をうまく監禁していると思ってるから、当分安心しきっている。さて、計画はこうだ。あなたはじかにプルマンカーに乗り移り、お宝を回収し、社交部屋へ行き、自然に顔を出しなさい。変なごまかしはするな。そうだな、当日ニューヨークに行くため急行を捕まえる必要があったとか言いな。俺のことは何も気にするな。心配ない。だが何があろうとお宝は回収しろ。回収したらヤンキードードルを口ずみながら歩け。それが俺への合図だ。そのあとの計画はおいおい話す」
 ポッターは細心に指示を聞いた。次の一、二時間は室内をそわそわ、極度の不安におののく犠牲者だった。
 もしプルマンカーに乗り移れなかったら、結果は悲惨なことになる。ウィンチェスター駅以降、千三百キロは止まらない。
 一方のバーンズ探偵は自信満々だった。
「出発する前に慎重に計算した。八分の余裕があるはずだ。もうすぐ悪党どもを追い詰めてやる」
 予言は完璧に当たった。臨時の仕立列車がウィンチェスター駅に着くころすっかり暗くなり、ポッターの眼前にくだんのプルマンカーの尾灯が見え、嬉しい光景があった。
 バーンズ探偵がささやいた。
「いいか、忘れるなよ。まず宝石の回収だぞ。無理やりでもあなたが回収するまで、俺は何もできない。さて寝るか。時機が来たら、実行してくれ。それまで何もできん」
 バーンズ探偵が寝台へ直行する様は、行動を知りつくした男そのものだった。
 再び男が明かりに姿を現わした時、奇妙なことに、バーンズ探偵がすっかり消え、その代わり伊達男ヴァンシターがいた。そしてプルマンカーへ飛び乗った。
 そっと忍び込むと、エラ令嬢が叫び声を上げた。
「まあ、あなたって、なんて人なの。心配していたのよ。ずっと列車に乗っていらしたんだ」
「きみを懲らしめるためだ。昨夜はとても無礼だったね」
「それは誰のせいですか」
「もちろんきみのせいだ。でも許すよ。実は間一髪で列車に乗ったんだ。この素晴らしい豪華列車を楽しんでくれ」
 こうヴァンシターが冷静に応じた。
 司教が気取って言った。
「わたしも大変ありがたい。今の精神状態では騒動やおしゃべりのないことが一番です」
 エラ令嬢が割り込んだ。
「メイフェア公爵夫人がお乗りですよ」
 伊達男ヴァンシターが眉をひそめたけど、承知の上だ。だが司教は困った。というのもメイフェア公爵夫人の玉にきずは慈悲深さであり、博愛の為には司教も餌食えじきにする。
 この時だれか廊下を通り、口笛でヤンキードードルを吹いた。
 ヴァンシターの目が一瞬輝いた。やがて三人は眠たそうな表情になった。そのとき扉が開き、青ざめた苦虫にがむし顔が見えた。
 エラ令嬢が叫んだ。
「まあポッターさん、魔術師なの」
「人間だ、ただの人間だよ、驚きなさんな。実は、あなた方が出発なさった直後、電報を受け取って、ニューヨークへ直ちにおもむく用事が出来たのです。特別列車を仕立て追いついたので、ここに来ました」
 エラ令嬢が喜んだ。もし令嬢と司教が演技しているとしたら、とても上手だ。ぎこちない素振りなど微塵もない。
 億万長者のポッターがちょっと安心し始めた。令嬢と司教の態度が伝わって、どうやら疑念は生じなかった。四人はそこに座って、二時間ほど歓談した。
 そのとき伊達男ヴァンシターが立ち上がり、煙草を吸いたいと嘘をついた。数分して戻ってきた。
「話を中座して申し訳ない。メイフェア公爵夫人が司教に会いたがっておられます。連れて来てもいいですか」
 クロイドン司教が立ちあがり、とてもつらそうに言った。
「いや、いや、二つ災難があれば、メイフェア公爵夫人の方を遠ざけますよ。うっかり神聖な領域に侵入されたら、平穏な残り旅がめちゃめちゃにされます。善良で最高に敬虔けいけんなご婦人なのですがポッターさん、声と言ったら……。エラ、私を連れ出しておくれ。よければすぐ退却する」
 エラ令嬢がすっと立ち上がり、にっこりほほ笑んで言った。
「かしこまりました。仰せの通りに致します。できるだけ早く戻りますから、ポッターさん」
 扉が背後で閉まった。億万長者ポッターが伊達男ヴァンシターをじろじろ見た。ポケットに薔薇十字を持っている為、ちょっとピリピリしている。その上、向かい側の若いヴァンシターとつかみ合いのけんかになったら。でもバーンズ探偵が近くにいる。
 伊達男ヴァンシターが扉を引いて、連結部に足を踏み入れて言った。
「今晩の客車は特に暑いですね」
 億万長者のポッターを誘わなかったが、たぶん来るだろうと思ったからだ。
 急行列車はものすごい速度で走っている。連結部の低い手すりは喧嘩の際、防御壁にならないだろう。
 しばらくしてポッターが尋ねた。
「線路の向うのあの光は何かな」
 ヴァンシターが無造作に言った。
「さあ、十キロ先ですね。丘でランタンが燃えているように見えますが」
「何かの信号かな、でも私には……」
 ポッターはそれ以上言わなかった。
 びよーんと、ヴァンシターが猫のようにポッターに飛びかかった。
 驚いた億万長者ポッターは声を出す暇もなかった。万力のような馬鹿ぢからで連結部にがっちり固定され、ツンと臭う液が染みたハンカチを口に押し込まれた。
挿絵3
 数秒が夢のように過ぎた。ポッターは朦朧もうろうとなり、ポケットをまさぐられ、狂喜する薄笑いを聞き、気が付くと、猿ぐつわを噛まされていた。
 よろよろ立ち上がったら、子供のように持ち上げられ、手すりの上から放り投げられた。着地場所はヴァンシターが狙った所にドンピシャだった。落下の衝撃は灌木かんぼくとコケと水分で緩和された。
 完敗した億万長者は、あざが出来、めまいがするものの、無傷で立ち上がってみれば、プルマンカー急行の尾灯が夜のとばりにだんだん消えて行く。
 フィリックス・グライドは争いで、はあはあと息を切らし、手すりに寄りかかった。後ろの扉を閉めた。真暗闇まっくらやみに立ちつくした。列車の両側には、まばゆい光が流れている。
 グライドが一人にんまり。薔薇十字がポケットにあり、忠実な探照灯が前方に輝いている。周到に計画したことは一つとしてたがえない。
 社交室の扉が開く音が聞こえた。エラ令嬢が呼んでいる。
「いま行くよ。ポッターさんと打ち合わせ中だ。扉を開けるな、ここはほこりだらけだ」
 とグライド。
 やおらグライドが手すりの上に登って、しっかりバランスを取った。列車が探照灯の下を通過してから、ゆっくり一〇まで数えはじめた。
「一か八だ。行くぞ」
 反動をつけて夜のやみに身を投げた。次の数秒間は無限に感じた。
 何かに当たり、はね返され、はずんで、何度も網の上で転がった。かすり傷一つもなく脱出できた。
 そのあとは子供のお遊びだ。グライドは後始末あとしまつせずに立ち去るような男じゃない。現在地や次の行動も計算済みだ。
 白み始める頃、ランタンや網や高級服も、ため池に深く沈め、夜明け前、典型的な牛飼いがすたすた歩く草原の向うには、繁栄するバーミングハムの町があった。
挿絵4
     *
 数日後、ニューヨーク・セントラルホテルで誰よりも悲嘆にくれ、怒り心頭に発した億万長者が不愉快そうに事情を聞かれていた。相手は警察署長。クロイドン司教とエラ令嬢もいる。
 署長がおだやかに言った。
「保証しますがポッターさん、この二人はあなた同様無実です。二人の証言が本当だと、本官の立場から確かに証明します」
 司教が証言した。
「完全にだまされました。悪党と分かった男は我々と無関係です。私の本当のおいはここへ来る途中ですから、電報を受け取るまで予定は知りません。おいに会って、家族の話を聞き出し、素性を隠しおおせたのでしょう」
「それに紳士に見えましたな」
 とポッターがうめいた。
 署長が言った。
「横領犯の多くは高学歴ですよ。実際、この種の詐欺は知性の高いものが計画、実行します。おそらく情報として、ダイヤモンド関連や、司教とエラ令嬢がシカゴへ来ることを知っています。新聞で情報を集めて、ピンと来たんでしょう。こんな男がチャンスを金に変えるのです」
 ポッターがまたうめいた。
 エラ令嬢が優しく同情した。
「変装が上手だったに違いありませんわ」
「まさにその通りだ。驚いたなあ、二人は別人のように見えた。全く気付かなかった。奴は捕まえられないだろうなあ」
 とポッターが嘆いた。
 署長が苦笑い。逮捕は署長の仕事だが、個人的な意見はポッターの言う通りだ。そのあと、むっつり沈黙した。
 エラ令嬢がいつもの華やかな口調で助け舟を出した。
「あの、ポッターさん、どんなことがあってもご親切は決して忘れません。国へ帰ったら、何はさておきボルトン・ガーデンへ招待しますわ。どうかごめん遊ばせ」
 差し出された手をポッターがしっかり握って言った。
「一つ確実なのは私が許さなくても、妻は許すでしょうな」





底本:VI. THE ROSY CROSS. First published in The Ludgate, London, Nov 1897, illustrated by PAUL HARDY (1862-1942)
原著者:Fred M. White
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)の下で公開されています。
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翻訳:奥増夫
2021年10月15日作成
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●図書カード