悪の帝王

THE MASTER CRIMINAL

第九話 緋紋城

IX. REDBURN CASTLE

フレッド・M・ホワイト Fred M. White

奥増夫訳




第一章


 ちょっと生々しい騒動が昨年早々起り、当時アンジェラ・ラブ事件と呼ばれた。
 ラブ令嬢は、舞台で急速に頭角を現し、たぐいまれな美貌と端麗たんれいな容姿、素敵な笑顔を振りまいていたレディである。
 むかしラブ船長という篤志家とくしかがおり、孤児のアンジェラは文無しだったので、手っ取り早い生活手段としてラブ船長の養子になった。
 本当の女優じゃないことなど、最終的に成功したからどうでもいい。あとは、おつむが軽く、わがままな小娘で、恋愛の手管てくだといったら、それこそびるような情熱の才能があり、三か月前にも、十数人がこの女の為に恋敵ののどを欠き切らんと虎視眈々こしたんたんだった。
 アンジェラ・ラブ令嬢の恋人の中で際立った人物が、若いレッドバーン公爵。二十歳までこの若い貴族は清教徒の祖母の庇護ひごのもとで育ち、住居は緋紋城ひもんじょうという弧城で、絵のように素晴らしい豪邸がヨークシャー沿岸にあった。
 古代騎士の華麗な血統がレッドバーン公爵だ。純朴な情熱家だったので、ラブ嬢と知り合うや、たちまちわなにはまってしまった。
 うわさ好きによれば、同嬢はたった一つの理由でレッドバーン公爵夫人になることをためらった。公爵にしては貧しかったからだ。かわいい令嬢は超現実家だった。
 それにもう一人、熱を入れ上げたウェリントン・ミルズという恋人もおり、この若い億万長者の財力はノース炭田に由来する。
 その間アンジェラ・ラブ令嬢はちょっと決めかねていた。保険をかけて、二人同時に婚約するという誠に都合のよい方策に打って出た。もちろん内緒だ。
 これまた当然、避けられない事態が起こる。婚約者同士が「のらくらクラブ」で激しく口論し、同嬢には乱暴しなかったが、数日後に決着をつけようとなり、トルーヴィールの砂浜で撃ち合いをした結果、レッドバーン公爵は左腕を失ってしまった。
挿絵1
 このホメロス風の試合が終わった後、決闘者それぞれにアンジェラ・ラブ令嬢から手紙が届いた。いわく、
「わたくし事態にとても悩み、激しい気性の騎士は選びかね、難題を解決するために、ドードルキン大公と結婚いたします。ちなみに同大公は欧州の大富豪ですの」
 こんにちドードルキン大公妃は社交界の有名人になっており、タタール人の夫をあがめており、夫は時々妻をぶっているよし。しょせんアンジェラはその種の男に惚れるたぐいの女だった。
 決闘相手のウェリントン・ミルズ大富豪は、今後女性をつつしむと神々に誓い、六か月後、アミリア・ボルフィンチ令嬢と結婚した。ロックランド卿の一人娘だ。
 一方、レッドバーン公爵は心に深手を負い、直ちにアメリカ西部へ狩猟旅行に出かけ、今後一年間いかなる手紙も新聞も送るなと厳命した。
 順次これらはすべて、ライア新聞とユニバース新聞に詳しく載り、七回にわたり二紙は内容を競ったが、一致した事実はただ一点、レッドバーン公爵が本当に出国したということだけだった。
     *
 こんな色ごと記事にフィリックス・グライドほど興味を持った者はいない。ニューヨーク新聞であれこれ読み、西部特急列車でレッドバーン閣下にお目見えし、安いお土産で攻略することにした。
 その時グライドは重い病気にかかっており、療養のため英国へ帰るところだった。直ちに計画を変更して、同じ列車でレッドバーン公爵一行と数日を過ごした。この行動はやがて日の目を見ることになる。
 最終的にニューヨークを去るにあたり、グライドは英国に手紙を二通送った。手元の筆跡をまねたものだが、やがて自分が苦しむことになろうとは……。
     *
 九日後帰英して、驚くと共に嬉しかったのは、コーラ・コベントリが訪ねてきた。この時期、皆が街を出る。コーラはかまう人がおらず、人恋しくなり、やっと行き場を見つけた。ここでグライドが局面をがらりと変えることになる。
「何だか具合が悪そうね」
 とコーラ。
「病気なんだ。環境をすっかり変えたい。つまり快適な田舎の大邸宅で、ちょっと狩りもできて、さわやかな海風が吹くところだ。だが今は、まきが手元にないから、金をバラまけない。でも方法がある」
「あなたならできるわよ」
 とコーラがおだててささやいた。
「古城に数カ月滞在する方法だが、うまくやれば費用はゼロだ。コーラ、きみは素晴らしい女優だし、アメリカにも二、三年いたことだし、どう?」
「いいわよ。退屈をまぎらわすためなら何でもやるわ。やばくても信用する。ポール、どんな計画なの」
 ご記憶の方もあろうが、コーラ・コベントリにとって、グライドはポール・マナーだ。
 グライドが説明を始めた。
「とても簡単だよ。さしずめ俺は金持ちのサイラス・B・コベントリというアメリカ人になる。最近米国で一財産築いたことにする。はるばる妹に会いに来た。きみには米国に無名の金持ち兄さんがいるのさ。きみは、まあそのままでいい。もし危なくなったら、簡単な解決方法を後で教える。あした兄のサイラス・コベントリが訪ねてくる。役目上正装しているから、歓待してくれ」
「すてき。なんて面白い。で、どこへ行くの」
緋紋城ひもんじょうを六か月借りるつもりだ。あした二人で不動産屋に行くぞ。すべておぜん立て済みだから、きみは見ているだけでいい。何時に準備できるかい?」
 コーラが十一時なら支度したくが終わると答えると、グライドは出て行った。
 翌朝、出向くと、コーラが目を疑った。アメリカの上流階級にそっくりだ。顔色すら変わっている。
 グライドがおもむろに言った。
「用意できたと思うが、同行してくれ。公爵代理人との契約だ。外に車を待たせている」
挿絵2
 コーラは成り行きに任せた。しばらくして、二人はチープサイドに来た。アイアンモンガー通りにメッサー・サットン社があり、英国内のほとんどの不動産を一手に扱っている。
 グライドがさりげなく無造作に差し出したこぎれいな名刺には「サイラス・B・コベントリ、ランハムホテル」という文字があった。
 ややあって、二人は二階に案内され、事務所に通された。
「用件は分かると思うが」
 とグライド。
 マーチン・サットン氏がテーブルから手紙を取り上げて、
「あ、はい、お待ちしておりましたコベントリさん。お察しの通り、公爵からうけたまわっております」
「その手紙は見た事がある」
 とグライドがこたえた。
「そうでございますか。ではお読み聞かせは致しません。公爵がおっしゃるに、ニューヨークでお知り合いになられ、英国に数カ月滞在なされたい由。条件は大きい家だそうで。どうでございましょう、緋紋城ひもんじょうがぴったりと思いますが」
「そうだな。私はビジネスマンだから、緋紋城ひもんじょうに滞在した友人から聞いたことがある。実は公爵に六か月の賃貸ちんたいを申し込み、その場で小切手を切った。さらに半年延長する場合は君に連絡して、追加の小切手を君に払うよ」
「かしこまりました。お客さま、すぐ入居なさいますか」
「そうだ。金を払ったからには、私がすべて仕切る。地下のワインやら厩舎きゅうしゃやらすべてだ。召使いは全員残し、給料に目配りして、家の維持費と、家計の不足費を払ってくれ。よいかな、サットンさん」
「よろしゅうございます、お客様。まったく問題はございません。それで、いつ入居なさいますか」
「次の月曜日だ。よければ」
「承知しました。私共のスタッフを一人緋紋城ひもんじょうへ派遣して、執事と家政婦に全て説明させます。ほかに何かございませんか」
「ない。手間を取らせたな。では」
 コーラが興奮してぞくぞくっ。スウィフト曰く、『女はすべからく本心は遊び人』であり、コーラも生まれながらの冒険好きだ。
 これからとても面白いことが起こり、様々な機会が訪れ、自分には危険が及ばないということをよく知っている。もちろんグライドは全面的に信用できる。どんな場合も助けてくれるだろう。
 両眼を踊らせながら、グライドを見つめて言った。
「すごいわね、ポール。次は何をするの」
 グライドがぶっきらぼうに言った。
「昼飯だ。運転手にベリーズ・レストランまで直行させる。これから二、三日はわなを仕込むために忙しくなるぞ」
 おいしい昼食を注文して、かき込んだ。シャンパンを飲みながらコーラはこれからの楽しみにわくわくした。
 間違いなく公爵邸が招いており、人生の中で今回だけはおお一番のレディを演じられる。
「ポール、あんたの計画にぞっこんよ。あんたって、なんて素敵な人なの」
「もっとすごいぜ」
 とグライドが真顔で言った。
「あらそう。一つ不思議だけど。お金を払わずに公爵にどうやって手紙を書かせたの」
「公爵には書かせてないよ、ハハハ」
「なら、手紙がここにあるって、どうして分かったの」
 グライドがまた笑ってグラスを満たした。ちょっと間を置いて、やおらコーラの好奇心を満たし始めた。
「やり口が分かれば簡単さ。あの手紙を知っていたのは、とても単純かつ当然の理由、つまり俺が書いたからだ。人は偽造というかもしれないが、我々は工作という」

第二章


 コーラ・コベントリの楽天的な期待が裏切られることはなかった。
 ライア新聞とユニバース新聞の記事によれば、裕福な米国人サイラス・B・コベントリが緋紋城ひもんじょうを半年借りたと報じ、例によって同氏の資産が養豚ようとんか、石油かと論争を始めた。
 両紙の論調が一致したのは同氏が大金持ちの太っ腹ということ。この報道が広まったので、ノース・ライディング・ヨークシャー地方の人々がこぞってコベントリ兄妹けいまいを訪ねて来ても、ちっとも驚かない。
 当然コーラは目いっぱい楽しむ。頭は切れるし、演技力はあるし、純金指輪をつけて堂々と出迎えた。いまだかつて緋紋城門ひもんじょうもんがこんなに開かれたことはなかったし、気前よく歓待したこともなかった。
 むかし緋紋城ひもんじょうには一人の王子がいたが、いまや実際問題、金目かねめのものは何もなかった。
 言うまでもないことだが、緋紋城ひもんじょうを借りた億万長者はロンドン商人に絶大な信用がある。緋紋城ひもんじょうのワインセラーや庭園や厩舎きゅうしゃが目当てだ。クリスマス前夜になると、コベントリ兄妹けいまい以上の有名人はヨークシャーのどこにもいなかった。
 いまヨークシャー全体が興奮している。広大な屋敷を借りたことにいろどりを添えるかのように、舞踏会の招待状を全英へばらまいた。少なくとも千人が招待され、大宴会場も相応に飾り立て、特別列車でロンドンから食事を運んだ。
 グライドはさすがに給食列車までは嫌がった。なにしろ高額だ。
 コーラが笑って言った。
「ふふふ、どうってことないでしょう。滞在中、現金で二百ポンド払うことも、ないわよ。おやまあ、周りの豪華な品々を見れば、食器や絵画もあなたの見立てじゃない」
 今度はグライドが苦笑いして、
「そうだ。とにかく、まだたっぷり時間がある。もし今晩、公爵が帰ってきたらえらいことになるけど」
 コーラが、そんな縁起でもないと抗議した。
 グライドが言った。
「逃げ道は作ってある。実際どんな事態にも対応できる。何週間も前に想定済みだ」
 緋紋城ひもんじょうで大勢の招待客が食事している。そして夜十時頃も幸運な招待客が続々到着した。由緒ある大広間は真夜中の十二時に全席が食事中だ。これ以上豪華絢爛けんらんな光景は想像できない。
 ずっと後年になるまで、ヨークシャーの人々は、緋紋城ひもんじょうで催されたコベントリ家の舞踏会を語りめることはないだろう。
 コーラは黒レースにダイヤモンドをつけた堂々たる姿で、招待客を回った。もめ事や危険など、心の片隅にもなかった。
 大ホールでざわめく一団の脇を通った時、ある言葉が聞こえ、その場に釘づけになった。一瞬ふらっと倒れそうになり、両手を握り、気を張った。危険が明らかに迫っている。
 眼前の小集団の真ん中に、日焼けした渋面じゅうめんの男が夜会服に身を包んで立っている。とりたててこわくはないが、ただ左そでが空っぽで、上着に留めてある。コーラの勘は鋭い。おのずと、この人物がレッドバーン公爵だと悟った。
「コーラ・コベントリさん、こちらへいらっしゃいませんか。驚かせることがありますよ」
 と陽気な声がした。
「あら、ご親切に。すぐ行きますわ」
 とコーラが場所柄ばしょがらあかるく返事した。
 言うが早いかコーラは廊下を喫煙室へ飛んで行った。文字通り、探していた男の両腕に倒れ込んだ。
「コーラ、いったいどうしたんだ」
 とグライドが叫んだ。
「公爵よ、いま舞踏会場にいるのよ」
 とひそひそ。
 グライドがニヤリ。筋肉はピクリともしない。何の感情も出さない。
「本当か。思いどおりにならないなあ。あすまで待ってもよさそうなものを。コーラ、本当かい」
「グライド、危ないわよ」
「コーラ、それほど危なくないよ。こんなこともあろうかと準備したと言わなかったかな。どんな場合にも想定してあるから、きみは無実の被害者でいられる。公爵の所へ戻って、愛嬌を振りまきなさい。公爵は友人が大勢いるから騒ぎ立てることはしない。実際、公爵は紳士そのものだよ。修羅場しゅらばは私に対してだろうがね。私に会いたいと言ったら、出来るだけ自然にこう伝えてくれ。用事でちょっと席をはずしており、書斎の小部屋で手紙を書いていると」
 コーラがうなずいた。グライドに対する信頼は絶対だ。
「わかったわ。暴力沙汰はないんでしょうね」
「まさか。いつも、とにかく、そんなことはしないよ。コーラ、行きなさい。時間が惜しい」
 コーラが廊下を行くや、グライドは自室に駆け込んだ。
 レッドバーン公爵が友人と立ち話の最中にコーラは戻った。ほほに赤みが差し、両眼がキラキラ輝いている。つまり、なんら恐れていない。
「このかたが誰かご存知ですか」
 と一人の招待客がコーラに尋ねた。
 コーラは白面はくめんにしわを寄せ、微笑ほほえみ返して、片手を差し伸べて言った。
「あら、公爵閣下、たいへん驚きました。こんな時間にご丁寧ていねいにいらして戴いて光栄でございます」
挿絵3
 レッドバーン公爵は驚きのあまり返事できなかった。随分ずうずうしい振る舞いじゃないか。でなきゃ、演技が超一流だ。
「失礼しました。いなかったものですから」
 とレッドバーン公爵が木で鼻をくくったように言った。
「そうでございますの。わたくしも、そうでございます。兄が会いたがっております」
「えーと、たしかコベントリさんでしたね、お互い様ですよ。お兄さんには以前あったことがあるからすぐわかります。どこへ行けば会えるかな」
「はい、ちょっとした用事がございまして、いま書斎で手紙を書いております。別に改まらなくても」
 とコーラはあくまで無邪気だ。
 レッドバーン公爵は、そういうことじゃないと答えた。コーラの屈託のない愛想のいい振る舞いに戸惑った。
 ぶつぶつ言いながら書斎に向かった。
「あの女は無関係だな。あの顔を見れば皆そう思う。たぶん悪党に騙されているんだろう。奴のいつもの手口だ。たまたまライア新聞を読んでいたからよかった」
 レッドバーン公爵が書斎扉を開けて、後ろ手で閉めた。テーブルに男が一人座って夢中で手紙を書いている。宛名書きされた封筒が脇にある。見れば、警視庁宛てだ。
 レッドバーン公爵が叫んだ。
「悪党め、遂に見つけたぞ」
 ひげ一つない青年がレッドバーン公爵に顔を上げた。
「何でしょうか、何かおっしゃいましたか」
 またしてもレッドバーン公爵は言葉が出なかった。この男はコベントリじゃない、いやさ、何者だ。
 レッドバーン公爵が口ごもった。
「も、申し訳ない。コベントリと間違えました。私は公爵……」
 青年が立ち上がり声を上げた。
「閣下、お戻りになられたのですか。だからコベントリが城からあわてて逃げたんだな。閣下を見たのでしょう」
「いったい君は何者だ」
 とレッドバーン公爵が詰問きつもん
「閣下、私はここではジェイムズ・マルコムと申しまして、コベントリの新しい秘書をやっとりますが、実は警視庁の刑事でして、同庁の指示で潜りこんでおります。ニューヨーク市警から持ちこまれた案件で、コベントリを逮捕したいからでございます。これに関しては口外できないのです。でも大悪党なことは確かです。水面下で進めなければなりません。お分かりでしょう。閣下の口は堅いと信じております」
「私は今まで何も漏らしたことはない。全く偶然知って、大急ぎで戻ってきた。悪党を現行犯で捕まえて、警察が来る前に鞭打ちするつもりだった。ところでコベントリ嬢は兄同様に冷血、悪辣あくらつなのか」
 マルコム刑事が真面目顔で答えた。
「閣下、気づかれたかもしれませんが、このペテンに関してコベントリ嬢は何も知りません。兄を億万長者と信じ切っています。兄が英国を十四年前に出てから、最近まで会っていません。とてもかわいそうな子なんです」
「それを聞いて安心した。ところで、時間を無駄にしてないか。犯人が私を見たのなら、議論している場合じゃないだろう。問題は、奴がどこにいるかだ」
「偶然分かりました。昔の密輸洞窟に隠れています。今は満潮ですから、奴は当分逃げられませんが、我々は朝まで手が出せません」
「マルコム刑事、それは我慢できん。がけの下にボートが一そうあるだろう」
「閣下のおっしゃるように一そうあります」
「じゃあ、行こう。あの野郎を捕まえるまでのんびりできん。野郎は間違いなく、ずる賢いことをたくらんでいる。マルコム刑事、私と一緒に来れば、無駄な骨折りはさせない」
 マルコム刑事がきびきびと立ち上がり言った。
「閣下のおおせの通り致します。この道を通って、招待客の噂にならないようにしましょう。さいわい今夜は暖かい。洞窟まで私が漕ぎます。コベントリは丸腰です」
 両人は庭に出て、がけを降りた。一本道しかなく、あたりに人家はない。しんと静まり返り、人一人っ子いない。ひょっとして何十件もの殺人が闇に葬られたかもしれない。
 ボートが水際にあった。潮が急激に引いている。
「コベントリは泳いで行ったに違いありません。閣下お乗りください。ボートを出しますから」
 マルコム刑事が押し出して、をこいだ。白い霧が海面を覆い、三日月みかづきが弱い光をぼうっと投げている。しばらくボートを進め、岸から百メートル以内を保った。
 やがてレッドバーン公爵が言った。
「まったくいろんな冒険をしたが、こんな妙な事件はない。なんでコベントリは密輸洞窟に隠れたんだ」
「簡単ですよ。コベントリには底知れない財力があります。きっとこんな非常事態にも備えています。やつは向う岸に蒸気船を用意しており、夜明けと同時に出港するはずです。閣下は泳げますか」
 レッドバーン公爵が空っぽの左そでを指差して笑いながら、
「腕を失ってから試したことがあるが、我ながら過信を思い知ったよ。なぜくんだ」
を落としたからです。大海に漂流しています。閣下が泳げないなら、私は……」
 公爵が驚くまいか、マルコム刑事がボートからさっと飛び込んだ。
挿絵4
 しばらくするとマルコム刑事が岩に取りついた。
「どうするつもりだ」
 と公爵が叫んだ。
 次の返事を聞いて、公爵は仰天した。
「城へ戻るさ。お休み公爵。さいわい今夜は暖かいし、海はなぎだ。きっと数時間で救助される。好きなだけ叫べ。誰も聞いちゃいないから」
 レッドバーン公爵が吠えた。
「悪党のコベントリめ。泳げさえすれば」
 グライド、別名マルコムがぶっきらぼうに返した。
「泳げなくてよかったな。もし泳げると言ったら、やむを得ず頭をぶち抜いていたぜ。あばよ」
 むなしい怒りに泡を吹く公爵を残し、グライドは悠々と城の崖に近づいた。大きな窓の下で止まった。
 頭上の一室、自分の化粧室に明かりがついていた。その窓枠から一本のロープが垂れている。それを猫のようによじ登った。
 濡れた衣服を脱いで隠すのは一瞬の技だ。信じられない程の短時間で、グライドは再び舞踏会場へ平然と戻った。
 コーラが作り笑いをして、両眼に不安を浮かべ、つかつかと来て、大声で尋ねた。
「公爵はどこなの」
「残念ですが退城されました。もういらっしゃいません。お仕事の都合で来られないでしょう。お友達によろしくとおっしゃっていました」
 コーラがグライドを隅に引っ張った。唇が真っ青だ。
「ポール、あなた、まさか……」
 とひそひそ。
「公爵は無事だよ。髪の毛一本も傷つけてない。正真正銘、安全だ。だから、この場に必要な愛想をまた振りまいてくれ」
 夜明けの一条が空に差した時、最後の招待客が退城した。その時まで、コーラとグライドは自由に話せなかった。
 やっとグライドが言った。
「よく聞いて。私は半時間以内に城を出なければならない。方法と変装は言うなよ。秘密だから。きみはここに置いておく。たぶん追求の試練に耐えるだろうからだが、本当はきみを疑惑から守るためだ。いいか、きみは悪党の兄の単なる手先だ。ころりとだまされただけだ。私の化粧台に手紙があり、私の悪事を白状し、きみの許しを請うている。きみのような素晴らしい女優なら完璧にやれる。その上、充分な練習時間もある。さあ、けりをつける時だ。レッドバーン公爵が戻って来た時、私が姿を消したことなど知らないと、とぼけることだ。さよなら」
 片手を無造作に振って、グライドは背を向けて出て行った。直後、夜明けの薄明かりにこっそり忍び出て、崖に消えた。たぶん今更言う必要もないが、サイラス・B・コベントリはいまもつかまっていない。
     *
 これもまた言う必要はないが、レッドバーン公爵は、やがて戻ってきた。コーラはにこやかに迎えた。兄はどこ? まだ寝ているの? 質問攻めにする驚き具合といい、証拠手紙を読んだ時の嘆き悲しみといい、芸術的ですらだった。
 レッドバーン公爵はもともと情に厚いたちなので、深く心を痛められた。そしてみずからを責めた。コーラのことは微塵も疑わなかった。
 その日の遅くロンドンへ向かう際、自家用馬車で駅まで送ってくれた。
「何か私にできることはありませんか」
「ございません。一人になりたいだけでございます」
 とコーラは弱々しく言った。
 一度だけ、さっと涙をぬぐった。いわくありげな笑みを浮かべ、ひとりつぶやいた。
「もう少しポールが嫌いで、どうでもよかったら、上品な公爵夫人として平凡な一生を送ったかもしれないなあ」





底本:IX. REDBURN CASTLE. First published in The Ludgate, London, Feb 1898, illustrated by PAUL HARDY (1862-1942)
原著者:Fred M. White
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)の下で公開されています。
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翻訳:奥増夫
2022年2月15日作成
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●図書カード