やせ細った褐色の手はぼろきれのようにしおれ、その手でドレントン・デンが飲んだキニーネは普通の人なら発狂する。
デンが歯を食いしばりながら、
「マダガスカルへ誘い込んだ男に破滅を。従軍記者で連れてきたくせに、ろくな戦争もなければ、記事を送る機器すらない。熱病にかかったら、平然と海岸へ送り返せだと」
レバ大尉が案じてぶるった。ドレントン・デンをパリから誘い、タマタブで生々しいことが起こると、まことしやかに口約束した張本人だ。
レバ大尉がおずおず、
「百六十キロメートルぽっちだよ」
ドレントンがうめいて、
「百六十キロだと。熱病が治ってもこの先、何もすることがない。来た道は戻れん。カナカ族の小僧どもがどうやってタラへ連れて行くか、さっぱりわからん」
「でも、デンさんはここに居られない」
「ああその通り。一番いいのは海岸へ戻ることだ。しかも敵対部族を突っ切る。噂ではハマ族の酋長は女で、パリ製のガウン服を着て、専用シャンペンを取り寄せるってのは本当か」
レバ大尉が歯を見せ、目の覚めるような笑顔で、
「そのようですよ。覚えておられるかな、あのハマ族のすごい女を。サビナとかいったが、二年前ムーラン・ルージュで蛇と鳥の超魔術を見せた女だよ」
デンがうなずいた。はっきりあの女の衝撃的な魔術を思い出した。りりしい女がデンとの間にもたらしたものは何と言うか、純粋な精神的友情だった。
思い出してちょっと赤面した。浅黒いハマ族の
「この近くにいると思うか」
とデンが
「確かですよ。サビナがもめごとを起こしてすぐパリを離れてから自分の部族のここへ戻っているはず。タラへの脱出を手助けしてくれるんじゃないかな」
翌朝デンは危険な旅に
四日目の終わり、デンもあきらめ始めた。十キロ以上進んでない。魚の干物と米が少なくなり、水袋にしわが寄り、たるんできた。
危険だ、とても危険、こんな原始林の中では飢餓と渇きが死を招く。カナカ族だけはバカげた経験則のたぐいで本能と忠告に頼ることができよう。
デンは厳しい顔で、夕食の米粒をふるい果たすのを見ていた。
デンがブツブツ、
「あした食糧が尽きる。サビナの噂を信じた俺はなんて馬鹿だ」
だが翌日、事態は良くなった。森の
小川が盆地沿いに流れ、斜面というか、向かい側の空き地に、竹と草で作った小屋が多数あった。
先導するカナカ族の小僧が小声で、
「ハマ族だ。友好的であってくれればいいが……」
でも、ことデンに関する限り、もしもは、ない。デンが担架から転び出で、浅い流れを横切った。地面がリボンのようにゆらゆら動いているかのよう。病気の為、吐き気がひどかった。
一番大きな小屋から女が一人出てきて突っ立ち、シカのような黒い眼で侵入者をじっと見つめている。デンが文字通りよろめいて女を見上げると、女が妙におびえた。
「あらまあ、デン様だ。逃げて、すぐに。酋長に見つからないうちに」
と金切り声。
フランス風でも奇妙の極致、女の服装は長いリネンローブ、腰に金の帯を巻いただけ。髪の毛を高く巻き上げ、銀のヘヤピンで串留めしている。
デンがブツブツ、
「頭がふらふらだ。キニーネを飲み過ぎて頭がおかしい。なに、おまえは、ほんとにザラか」
女はそうだと言って、笑顔の裏で身震い。
デンがこの女を最後に見たのはパリ、サビナの使用人の服装だった。
女がうめき声で、
「なぜここへ来たの? 昔お世話になりましたから、お助けしたいです。逃げなさい、手遅れにならないうちに。女酋長が……」
「サビナのことか」
「はい。酋長はあなた様が裏切ったと根に持っています。酋長があなたを好きになったのを知らないの? ハマ族の愛は……」
ザラが両手をあげ、言外に情熱というか嫉妬を表わした。だが、両目は恐怖に満ちている。
デンが独り言、
「嬉しいがちょっと厄介だなあ。基地に引き返すには遅すぎるし」
まさにそうだった。十人ばかりハマ族が二人のまわりに集まって来た。武装して、様子見だ。概して平和主義のデンには感じ悪い。
騒ぎを聞いて、一番大きな小屋から女が出てきた。壮麗な雰囲気、背が高く、しなやかで、権力をひけらかし、
両眼をかっと見開いているため、真っ赤な唇が
だが女の表情は、焼け
そのとき、不意に女酋長サビナの態度が変わり、近寄って来た。デンのしなびた手の平を取って、自分の唇に触れた。
「戻ってくると思ってたよ」
とささやいた。
サビナがまた満面に笑みを浮かべた。決して二年前パリの
「奇遇だわね」
デンは冷静に応じて、
「そうかな。フランス兵とタマタブへ行く途中だ、兵たちが送ってくれる。この道を通って海岸へ行く予定だ。案内してくれないか」
「ああ、了解。生死にかかわらず、海岸へ行ける。そうよ、生きてようが死んでようが……海岸へね」
デンが礼をむにゃむにゃ。この言葉がちっとも気にならなかったのは、早々にぶっ倒れると思ったからだ。
苦しかったのでサビナ専用の小屋へ入れてもらい、食欲がどうあれ、ヤギの
「一行が後ろにいるはずだが……」
とデンが
「森へ逃げたよ。私の不徳の致すところで、ここらでは評判が悪い。だが皆わかっちゃいない、私には文明という強みがある。ところで、お前さん、
またしてもデンは背骨にひどい痛みが走るのを感じた。
「
「まだ、まだよ、お前さん。もうすぐ分かる。今晩思ったこともないものを見せよう。鳥と蛇のかって? ばーか」
ドレントン・デンは座って、現地の太い葉巻をふかし、角ばった鋭い顔で何ができるか夢想した。デンは美男じゃなかったから、この時ほどそうあればなあと願った。
隣に座ったサビナの気まぐれな心を、むかし射止めたデン。女酋長サビナの楽しみは時に官能的になり、時に尊大になることだ。
デンは食事をたっぷりとったが、中身の記憶はない。キニーネで体から発熱と湿疹が消え、再び頭がすっきりし、警戒し、働くようになった。
デンが
丸太小屋の中にはぶすっとしたカナカ族の囚人が六人収容されていた。
ある種の刑罰があると、全員覚悟しているようだ。
ほとんどの場合、カナカ族は死を全く恐れないが、デンは敵の特徴をよく知っており、尋常でない
「何をするつもりだ?」
サビナが笑った。大衆の楽しみに付きものといった笑いじゃない。
「すぐわかるよ。お前はよくパリで私の魔術を称賛してくれたものだ。あれ以上血が凍るような芸は想像できないと言った。だが間違いだよ。それをこれから自分の目で見るんだ」
サビナが両手を叩くと、一人のハマ族戦士が丸太小屋の方へ駆け寄った。手に長い柄のほうきを持っている。これを
一見単純な作戦行動、その効果はぞっとするものだった。囚人たちが胸を引き裂くような叫び声をあげて飛び跳ねた。何か見えざる恐怖に狂い、頭やら胸を木柱に打ち付けている。
恐怖で痛みの感覚がないようだ。肉体のぶつかる音や、骨の折れる音が聞こえる。哀れ、ひざを骨折した囚人が痛みを忘れ文字通り乱舞している。何かの致命的な毒で精神に異常を来たしたに違いない。
デンが思わず吐き気を催し、
「どういうことだ」
「ハハハ、だろうよ。でもやつらは知ってる。そのうち充分すぎるほどわかるよ、さあ、よく見ろ」
そんなことを言う必要はなかった。ドレントン・デンが分かりすぎるほど分かったのは、いま目撃しているのが予行演習、得も言われぬ恐怖がやがて自分に降りかかる。
やがてカナカ族は静かになった。幾人かは絶望して無言で倒れた。鉛色の顔をした者には戦闘意欲があった。だが、皆、皆、視線をじっと上に向けている。
「何が見える?」
とサビナがデンに
余りにもぞっとして答えそびれた。見たのは白い
だが一つ二つ、小さな赤い斑点が五十センチ降下し、
やがて何百匹という蜘蛛が毒針をキラキラさせながら空中に留まった。
そのとき、にわかにハチドリの大群で外が騒がしくなった。小屋のまわりで羽根を動かしていることから、太った赤蜘蛛を奇襲しようとすることは明らかだ。捕われたカナカ族は長い網で囲われているので、ハチドリは侵入できない。
すでに何百匹もの蜘蛛が
「いったい、どういうことだ?」
とデン。
またもやサビナがニヤリ。両目は電気火花のよう。顔は復讐の鬼だ。
「いずれ……」
とサビナがささやいた。
ほどなく深紅の
間もなく一人の囚人がほかよりひときわ大きな声を上げて、床に倒れた。
床にしばらく横たわり、手の甲を見つめ、悲しげにうめいた。それからカナカ族独特のあきらめか、籠の隅っこにうずくまり、運命のなすがまま。
五分以内で、一人を除き全員が床に倒れた。最後の男はほかより
だが蜘蛛攻撃を避け切る者はいない。最後の男も倒れて気を失った。
そして、痛ましいほど静かになった。
しばらく静寂が続いた。すると最初に倒れた男が自力で立ち上がった。妙にぎくしゃく笑い、踊り始めて、急に浮かれ騒ぐ有り様は、最初の恐怖時のように激しくおぞましい。五分も経たないうちに皆が狂ったように踊っている。
ドレントン・デンは不意に冷や水を浴びせられたようだった。突然の変わりように、さしもの強靭な神経も参ってしまった。
デンが叫んだ。
「ここから出してくれ。俺はタフな方だが、ここに居たらおかしくなる」
「あなたから来たんでしょ。昔のことを話しましょうよ。私を愛した日々のことを。これから二時間、あっちの最終場面を見ましょうよ」
「まさか、あの小さな悪魔蜘蛛があんな恐怖と狂気を引き起こすというのか。あれは究極の悪魔だ。あのとんでもない昆虫の名前は何だ?」
小屋が落ち着くまで返事はなかった。いったん内側のバカ騒ぎが静まった。
「知りたいだろう」
「当然だ。俺にあれをやるんだろ」
女は三回もコックリうなずいた。
白ガウンのサビナは怒りでぶるぶる震え、しゃべれない。やっと口を開いたとき、全力で遠くから走って来たかのようだった。
「お前は嫌いだ。ああ、お前は気づいちゃいない。私を愛してると思っていたが間違いだった。笑いものにしていた」
「全然そんなことはない」
「ああ、だが影で笑ってた。私の憎しみは分かるまい。絶望してパリを去らねばならなかった。夜お前を思うと、肉体をかきむしった、見ろ」
ゆったりしたローブをまくり、褐色の腕を見せると、引っ掻き傷は、まるでひどいやけどだ。目が泳いでいる。
「いま神がお前を召された。神が
「なら、そうしろ。すぐ終わりにしろ」
サビナがニヤリ。概してデンは、サビナの情熱が好きだ。
「あ、いや、それじゃ、面白くないし、マズすぎる。
そしてサビナは部屋から出て行った。デンは逃げようとしなかった。完璧に見張られていたからだ。小一時間座って脱出方法を考えた。一時間後、サビナが戻ってきた。
「ついておいで」
とそっけない。
デンは黙って従った。サビナが連れてきたこの
ところがどっこい。地面に一群の人影が虫けらのようにごろごろ
ものさえ言えぬ苦痛とは、ぞっとする。いまや哀れな男たちの苦痛は極限に達し、声すら出せない。究極の苦痛だ。
デンは症状を見て打ちのめされた。よく見ると、蜘蛛に噛まれた箇所の皮膚がうっすらと青くなり、黄色く大きくはれあがっている。
デンに怒りがめらめら、女に向き直った。この美しい雌トラの首を絞め殺しても罪はないとさえ考えた。
「悪魔め。こんなむごい苦しみをよくも見ていられるもんだ……」
デンが腕をシュッと突き出すと、サビナがサッとよけた。デンは丸腰だが、サビナはナイフを持っていた。とてもしなやかな強さと、勇気を兼ね備えたサビナは、なかなかの強敵だ。
デンは自分が丸腰だということを考えなかった。もしナイフを取り上げたら、まだ勝ち目があるかもしれない。当然、自分は哀れなやつらと同じ運命になる。その苦悩と言ったら、勇敢な男を本当に骨抜きにするほどだ。
デンがサビナの手首をつかみ、狂ったようにナイフを狙った。普通の体調だったら成功したかもしれない。だが熱病の為に弱って力が出ないので、結果は予断を許さない。
「卑怯者、女に手を出して」
とサビナがハアハア。
「女性であれば、わびもしようが……」
と漏らすデン。
デンがサビナの握りこぶしを合体させた。昔タヒチで覚えた技だ。すると、ナイフが地面にポロリと落ちた。女が悲鳴を上げた。デンが
言い換えれば、ちょっと早とちり。でかいハマ族
気絶して、夢かうつつか、猿ぐつわを噛まされ、縛られ、聞こえる声は潜水時のようなブーン音、なんだか
気がつくと、仰向けに寝ており、
冷や汗がデンに噴き出したのは、かつてカナカ族が残酷な拷問に苦しんだ小屋に自分がいると分かったからだ。日没までには一時間以上ある。だって森の影が長く伸びているもの。
デンが独り言、
「一種の舞台だな。俺はこの夜だけの俳優か。ちくしょう、バカにしやがって。そのうち、あの残忍な赤い斑点が襲いかかり、得も言われぬ恐怖で死ぬのか」
デンが天井を見上げた。まだ真っ赤な丸い斑点はいない。天井の内外に紫色のハチドリの大群が出入りしている。亡霊のように
デンがまた独り言、
「あの鳥を仲間にできたら赤い斑点は怖くないんだが。きっとあの小鳥は蜘蛛を
だが居なくなった、それもすぐに。ハマ族が褐色のごつい手を
ものの一分で紫の鳥影が小屋から消え、側面すべてが、粗い布天井をのぞき、目隠しされ、デンは一人ぼっちになり、人目をさえぎられ、見えぬ恐怖に直面した。孤独という重大な事実に打ちのめされた。
最強の精神にも限界がある。デンが限界に達した。希望を失ったからじゃない。いままで数知れず絶体絶命になった。だがこのときは
でも無駄な涙じゃない。
孤立、それだけで打ちのめされる。間違いなく布の覆いは鳥を閉め出すためだし、たぶんサビナは初期段階の拷問など見る気はさらさらない。あとでランプの光で見られる。
日没までたっぷり一時間あるし、二時間以上経てば、あの悪魔女が立ち合うだろうし、すでに目隠しを下げ、ランプも置いてあるから、状況はだんだん厳しくなった。デンは頭から足まで汗びっしょり。
もし服を脱いだらどうなるか。生きるチャンスがある限り、そんな危険を冒すつもりはさらさらない。それどころか、ランプの火も消さない。
デンは自分に言い聞かせた。
「火は消さない。夕暮れの一時間、赤い恐怖が身辺に迫り、絶望で気も狂わんばかりだ。服と明かりは最後まで固守しよう。しかし、どこにいるんだ、蜘蛛は?」
真っ赤な斑点は遠くへ逃げていなかった。誰かが
近づいてじっくり検分した。姿はふたこぶエンドウ豆、色は赤く、毛深く、両目は小さく丸く、黒い糸のような足が数本ある。ちっちゃな無毒昆虫のように見えるがデンの知る限り、万死の中でも究極の恐怖を与える。髪の毛が逆立つ感じがした。
「大変だ。斑点
この蜘蛛のことは噂でブラジルや南オーストラリアに居ると知っていた。噛まれると血液細胞が壊れ、苦しむことをぼんやり知っていた。また、時をおかず頭がおかしくなることも知っていた。噛まれれば致命傷、のたうちまわる。なんと、自分がその目に会おうとは。
デンが靴先で蜘蛛に触った。ヒキガエルのようにしゃがみ、革を攻撃してきた。直後、床にいた残りの蜘蛛がピンク色の丸い塊になった。
デンが心底、身震いしてまた上を見た。床に注意を向けた刹那、二十匹ばかり向かって落ちてきた。この頃になると、天井の白い布が真っ赤に染まった。蜘蛛が怒って動き回っている。すると、白い布が赤斑点になり、白地を少し残し、真っ赤なカーテンに変わった。
デンは前に見たので、これから起こることをよく知っている。やがて多数の蜘蛛が落下し、空間がなくなる。壁際が最悪だ。つまり床に雨のように落ちる。前がそうだった。
デンはあえて考えなかった。不安のあまり、足が言うことを利かない。ひざもガクッと来た。そして常に注意して見上げたのが天井だ。最後まで戦うぞ。
そのとき、蜘蛛が落下し始め、弾力性の毒針を出しながら、何百匹とデンの頭上にぶら下がった。強い臭いがして、周囲がコマのようにぐるぐる回る気がした。ここで倒れたら一巻の終わりだ。
小屋の
大声で払いのけた。屈強な神経もたちまち絶望的になりつつあった。狂いそうだ。六匹ばかり蜘蛛が上着に這っている。
デンが大声を上げた。
そのとき、どうも誰かが忍んできた気配がある。びりびり布を引き裂く音がして、目隠し布が大きく破れた。日没の陽光が見えた。
なにか地獄の砂漠で
空気が魔法のようにきれいになった。赤蜘蛛が一匹、デンのほほに落ちてきた。すると、ねばねばと分からないうちに、青い閃光がさっとついばんだ。十秒で一匹の蜘蛛もいなくなった。
デンは茫然自失、完全に無感情、放心、もぬけ状態。だが気は失ってない。
やがて青ざめたザラに気づいた。サビナの侍女ザラが梁の間から手にナイフを持って見ている。そのほかに、貴重な拳銃一丁と薬きょう箱を持っている。道ばたに死んでいたフランス兵から奪ったものだ。時を同じくして熱帯の夜が雲のように降りた。
ザラがささやいて、
「急いで。数分で女酋長がきます。真っ直ぐ谷を下れば、カナカ族が待っています。あなたの脱出をじっと待っています」
デンに指図は二度も必要ない。手にナイフ、腰に拳銃、怖いものはない。馬鹿力で竹の
そうしているとき、一人のでかいハマ族が正面に立ち
拳銃を一発撃つと、パンと長い炎が出て、ハマ族の大男はうめき声をあげ顔面から倒れた。たちまち辺りは大騒ぎになった。
見ると、酋長のサビナが小屋の入口で明かりに照らされ、仁王立ちしている。申し分のない的だ。デンが引き金に指をかけた。
だが撃てない、何かが引き留めた。一呼吸チャンスを逃した。
谷を一目散に駆け降りながらつぶやいた。
「人類の為にやるべきだったなあ。俺の務めはあの女を生かしておかないことだったのに……」
デンは大急ぎで逃げたが、そうしなくていい。ハマ族は火器に対して手が出せないし、その種の奇術が大の苦手だった。
そしてまさしく、ザラが約束した通り、谷底でカナカ族が待っていた。やつらは連れのザラを除き、全くデンだとわからなかった。
ザラが叫んで、
「戻っちゃダメ。危険すぎます。マルチャへ連れていって。そこに知り合いがいて、お礼をいっぱいはずみます」
「でも道を知らないぞ」
とデン。
だがザラが道を知っていた。全く運が良かった。ほかのどこと比べてもマルチャほどいいところはない。
夜明け前にはサビナ酋長と、充分距離が出来た。翌日を待たずして、女酋長は召使いのザラを探すだろう。
デンは自分の顔を森の泉に写してみた。もじゃもじゃ口ひげは元の色だったが、髪の毛はアナグマの毛皮のように白い筋が入っていた。あの一時間でこうなった。
「結局、安上がりで究極の恐怖を体験したもんだ」
了