同居人荷風

小西茂也




 荷風先生をわが陋屋の同居人(?)として迎える光栄を有したのは昭和廿二年一月七日から翌年十二月廿八日までの約二ヶ年の間であった。年少より秘かに敬愛していた先生に昼夜親炙しんしゃすることを得たのは、僕の生涯の喜びであり、つぶさにその間、僕は先生を観察し、その言行を毎日微細にノートしてきた。大判のノートで四冊にも及ぶその「荷風先生言行録」は、僕にとって古い恋文の如くであり、貴重な文献でもあるが、過去の日記や恋文を焼くという感傷癖のある僕は、秋晴の今日、庭の落葉と共にこの「言行録」も焼却することにした。灰燼にそれが帰する前、ここにその一端を書き留めておきたいと願うのも、果して僕の未練であろうか。荷風先生は大いに迷惑とせられるであろうが、くれぐれも御海容を乞いたい。

 昭和二十二年八月一日。読売新聞に蔵書を少女に売られた荷風老のゴシップ記事でる。(もと同宿しておりしO家にのこせる書籍や原稿を、市川の古本屋に売払われたるため、先生は警察に訴え出でたるなり。)もっと詳しく這般の事情を素破抜いてくれたらよいにと先生甚だ残念がる。先方にては先生が発狂せりと訪客に語りおるためなり。明日は露伴氏の葬式なるも、会葬に行くと新聞記者がついてくるゆえ行かぬといい、それに第一、着て行く礼服がないと申さる。同じ菅野に住むも先生は露伴先生にかつて会いしことなし。夜半、先生雨戸をあけ縁側より立小便す。
 八月二日。中央公論小瀧氏らと共に近くの露伴の葬式の模様を揃って見に行く。先生例の下駄ばきに買物籠を下げてなり。炎暑焼くが如し。遠くから葬式を見、さすがに露伴は老人ゆえ女の会葬者尠しと申さる。その足で八幡の闇市に行く。戻ってから例によって雑談。その二三を左に録せん。
 一、自分は原稿を頼まれるのと、人の原稿の売込み方を頼まれるのが大嫌いにて、それ以外の雑談客なら、さほどいやでもないと申さる。
 一、日本に進駐している黒人や洋人を描いてみたきよし。
 一、死後三十年たてば自分の日記を全文公刊してもよろし。それ以前だとおのが関係せる女二十人あまりに迷惑がかかる。また俳優(左団次、猿之助、長十郎等)や俳優の細君の噂話があるから先方は困るだろうし、文壇人(生田葵山、菊池寛、小山内薫、Y・Y、M・K、M・K等)の悪口もあるから気の毒といい、日記に売女の値段とお米の相場は書き洩らすなと佐久間象山は語れりという。話は柳北、一葉、紅葉、小波の日記の方に移る。
 一、のぞき趣味を小説家は大いに有せざるべからずと云い、舟橋田村高見など若い連中は、のぞきや女道楽にあまり金を使わぬから秀れた情痴小説が書けぬので、自分は富士見町に待合を歌女に出させた折り、素人客の連れ込みが来ると、隣室からのぞき見せりとその苦心談ありたり。
 八月三日。先生いう、海神に地所附十万円のバラックの売物あるも、女中をおかねばならず、おけば必ず物資を盗まれると思わねばならぬし、それに間もなく死ぬ身ゆえ、家を持っても詰らぬと相変らずの愚痴話あり。
 八月六日。先生ここ二三日便秘し脚気気味なりと。今日遂に病院に行く。夜、縁側で雑談、上田敏と厨川白村の訳詩の話が出、先生白村を軽侮して「詩がわかるのか」といえり。僕、敏のマラルメ訳詩は感服できずといえば先生無言。G・Iが遊びに来なくなりしゆえ小岩のパレスにも行く気がせぬと先生申さる。アナトール・フランスの「わが友の書」の一部、飜訳したく思いしことありと。
 八月八日。朝、先生、菜切庖丁紛失せりと大騒ぎの末、朝飯もくわずに八幡へ庖丁を買いに出でらる。今日は烈暑なり。先生一日汗だくにして、死ぬ前は暑くて堪らなくなるものだといえり。先生の徴兵検査の折りの話を聞く。一年志願兵たらんとしたが止めて、普通の兵隊なみに受けたため助かりしと申さる。
 八月九日。先生終日在宅。「週刊朝日」に「近頃の荷風先生」という記事ありと告げたるところ、言下に佐藤春夫氏の書きしものなるべしと言えり。先生、潤一郎氏の「細雪」上巻を繙読中なり。
 八月十日。先生いたって不用心にして雨戸を開けし儘就寝に及び、井戸端に庖丁を置去りにすること屡々なり。注意すれば却って行う先生の気性ゆえ、黙って始末しおりたるところ、本払暁ついに先生の出しっ放しの庖丁を持ち、先生の開けおかれし雨戸より泥棒が侵入、先生の隣室の箪笥より余の衣類数点窃取せられたるも、先生の部屋には被害なし。先生大いに喜び安堵の態なり。かねて先生曰く隣家のラジオ午前六時に始まるのが気になり、ために夜もおちおち眠りしことなし。されば終夜不寝番を一人かかえおるも同然ゆえ泥棒は絶対に大丈夫なりと。されど今暁は熟睡に陥りおりたるものの如し。探査のため来りし刑事に対し、O家に於ける本泥棒の吟味を急ぐよう、先生督促せらる。
 八月十三日。岩波編輯員来りて「文学」の露伴特輯号に執筆を乞いしが先生断る。そう簡単には書けぬ。全部読まねばならぬからと云えり。谷口喜作氏来る。先生谷口氏に曰く露伴が文化勲章を貰ったり博士になったりしたのは一代の不覚、M・Kのような人なら箔がつくかも知れぬが露伴にはかえって勿体なし。露伴の父は江戸城のお茶坊主、あまり立派な家系にてはなきも、ぱっと花が咲くように幸田家兄妹も一時によくなりしと申せり。露伴を書くのに谷崎氏ではと余が問えば、あの人には俳句が解らぬからと云われたり。O家の次男は先生の養子なるが離籍したしと谷口氏に語れり。谷口氏はO家と親交あり。
 八月十五日。小瀧君来る。先生との会話に「細雪」の批評が出て、あの筆致はスタンダールを摸したものならんと先生いえり。O家の三代にわたる家族史を小説に書きたきも、自分は一日に三枚しか書けぬ。材料を人にやって書かせたしと申さる。近頃はモーパッサンのような短篇を書きたくて堪らぬとも云わる。
 八月十六日。先生夕方安倍弁護士の許へ行けり。養子離縁の訴訟を起さんとてなり。養子の妹が不都合ありし廉による。
 八月十七日。扶桑書房清水氏来る。先生曰く短篇集「勲章」のなかでは「靴」に一番自信あり。自分は二十代にはモーパッサンをエロ小説家と思いおりしが、彼の本領は「靴」的な虐げられし人間の描写にあると近頃は思いおれり。また曰く中村光夫氏より長生きせよとの手紙ありたりと苦笑す。
 八月二十日。養子廃嫡の件につき千葉裁判所より召喚状ありたり。巡査三名来って本泥棒の犯人を明日取調べる旨を言い置く。先生欣ぶ。
 八月廿二日。新潮社より先生の諸作を新潮文庫に入れたき旨の便りあり。先生曰く新潮社は明治の昔、新声社と号せしころ「夢の女」の紙型を他の書店に売られて迷惑せしことあり。且つ「新潮」は鴎外先生死去の際、悪口を書きし雑誌なり。先年山内義雄氏来ってクローデルへの献呈本オマージュを編むための原稿を自分に求めたるも、発行所新潮社なるゆえ断りたりと。
 八月廿三日。今の夫婦喧嘩を先生聞けるにや、曰く自分は女を撲ったことなし。撲る前にこっちが寄りつかなくせしゆえ、撲る世話はなかりしと。妾はともかく女房は撲らねば教育出来なかるべし。鴎外先生も奥さんには手を焼き、役所に行かぬ日はぽかんとしておったる様子なれど、女房と終日顔つき合わせるのは誰にしても欝陶しきことなり。また曰く紅葉夫人はなお存命中にて、紅葉の孫は闇屋になっておれりと。
 八月廿四日。先生十五円にて九星暦を買えり。巳寅申の年の男女は仲悪き話、小山内薫の家庭を例にして述べたり。大賀計理士来り養子離籍につきO家にては十万円要求しおれりという。先生早速安倍弁護士の許に行く。
 八月廿五日。午後安倍弁護士来り訴訟取下げと決す。先生の廃嫡理由は薄弱にして勝訴の見込みなきためなり。O家に対する先生の復讐欲いよいよ内攻す。藤村の「家」の原稿二万円にて売りたしという人あり。先生紅葉山人の毛筆原稿の立派さを説き、藤村の「家」などせいぜい五千円の値打といえり。先生の「問はず語り」の原稿例の盗難にあい、三千五百円で市川の古本屋より谷口氏買い求めたりと。先生曰く「藤村の方が僕より偉いとすれば話は別だがね」と、「問はず語り」と「家」との値段の開きが大きすぎると、頗る不服の面持なりき。
 八月廿九日。縁側の下の先生の配給馬鈴薯、猫か犬が食うかしていやに減ったと先生いう。女房曰く「こおろぎ」が食うのでしょう。一貫目足らずの腐れ馬鈴薯、誰が盗むものあらんや。夜、月がいいからとて先生散歩に出掛けたり。
 八月三十日。先生蒲団三つ組を一万五千円にて買う。病院に入って死ぬ時の用意だといえり。従来のぼろ蒲団を屑屋に千円で売り、あの蒲団は明石に疎開中八百円にて買いしもの、差引二百円儲かりしと先生ほくほく欣びおれり。インフレの進展を忘れおるものの如し。
 今朝、荊妻先生の部屋があまりに乱雑なるゆえお部屋を掃除す。洗顔中なりし先生、慌てて部屋に戻り金を蔵いありし所へ行きて、掃除中の女房の前にて金勘定を始めたりと。
 八月三十一日。自炊の支度中先生曰く扶桑の清水も大賀君も僕をけちと思っている。殊に食べ物のことで。しかし彼等は自炊の面倒さ億劫さを知らぬのだ。うるさいからつい粗食しておるのに。養子離縁の件で谷口氏来る。
 九月一日。朝、近くのラジオで少年の謡曲聞え、少年の声清くて甚だよろし。余これを褒めしにラジオ嫌いの先生も賛同せられ、歌舞伎子役のあの声のいやらしさがなくてよしと申さる。
 九月二日。河盛好蔵氏を先生に紹介、半日閑談。今日、先生に交番の巡査が敬礼したと、先生にこにこ顔で申さる。警察や弁護士というものに対し、明治生れの老人は我々と観念を異にしおるものの如し。(鏡花の場合もしかり)
 九月三日。霞ヶ関書房より天皇への公開状執筆依頼あり。先生苦笑、余適当に断わる。先生は「天子さま」と天皇のことを常に云う。これも明治生れのためならん。夕方、先生座敷の中に七輪を持込み、障子を締切って火を熾す。障子煙※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)となる。あまりに危険ゆえ五歳の長女をして「先生、火事ですか」といわしめたるところ、「ハイ、ハイ、火事ですよ」と平気で雑誌類を燃やしつづけおりたり。
 九月六日。先生近頃泥棒恐怖症にて外出していても何か盗まれはせぬかと、急いで戻ってくるよし、隣室の者語れり。谷崎氏より書面にて巷間先生の神経衰弱の噂高しとて心配し、一度先生の上洛を促し、あわせて「細雪」の書評を頼み来りたりと。
 九月七日。市川署刑事来り本泥棒の件につき先生と対談。先生O家を正式に訴え出でたるなり。
 九月八日。先生朝八時市川警察署に行き、十一時半帰宅。刑事のなかに先生の名前が読めず「ニフウ」さんと云いし者ありと。中央公論の社員のストライキを先生大いに憂慮し、島中氏が引込むと社はつぶれ、毎月一万円中央公論社から来ていたお手当がなくなり、自分は路頭に迷うやも知れずと、本気になって心配しおりたり。
 九月九日。近頃チブスの注射証明書を携えねば電車に乗れず。但し六十歳以上の者は差支えなしとあり。七十一の先生曰く「わしは六十にも見えないくらい若いからどうしよう。市役所へ行って証明書でも貰ってくるかな……」
 九月十日。X・Y氏は会った感じが水平社の人のようで愉快でない。しかし菊池の弟子にしてはましの方かな、と先生の毒舌例の如し。
 九月十一日。先生昨夜半、テノールで歌を歌いおりしと女房ども失笑しおれり。寂しくて眠れなくて歌でも歌いしものならん、余暗然とす。鼻唄でないところに先生の面目あり。先生下痢のため終日臥床。枕許にて雑談、三田派の連中を評してH・Sの荷風論(展望所載)は彼の転向を示すプロパガンダとして用いられたるものといい、井汲清治氏はむかし荷風の小説は下らぬと書きしゆえ、今度の荷風全集月報にそれを再録したしと申さる。其他後藤末雄氏の話、S・Dがポーランドの女と同棲しておりし話など。
 九月十六日。大根値上げになったゆえと称し、先生部屋代を五十円あげ百五十円出さる。当方辞退す。それではと帰りかけしもまた無理に金をおいてゆきたり。一二月頃五十円の部屋代いつしか三倍となる。
 九月廿日。利根川決壊のため江戸川区洪水。先生珍らしく朝早く起き、ビール瓶のなかに米をいれて搗きおれり。先生ピアノを昔稽古したるよし。ジャズは力強くてよろしといい、わが国の歌では「勝って来るぞと勇ましく」が亡国調ありて、軍歌のなかでは一番によしと申さる。
 九月廿一日。先生わざわざ小岩まで洪水見物に赴かる。小説家は弥次馬根性を出し何でも見なければならぬと申され、明治四十三年向島大洪水の話を聞く。
 九月廿四日。先生、朝、市川警察署に行き、盗まれし本の一部を持ち帰る。重かりしと見え、唐草の大風呂敷に本十数冊を包んで背負って帰って来られし恰好、何ともいえず滑稽なりき。O家では警察の呼出しにも拘らず出頭せずと。
 九月廿五日。洪水のため東京と連絡切れたり。従って郵便もなく来客もなし。先生せいせいすると言いながらも、話相手なくちと淋しそうなり。曰く近頃の女は妙にぶくぶく肥っている。昔の女は五体を露出せぬゆえなかなか品があった。着やせといって裸かにしてみると肥っているのが女はよく、近頃の女は一緒に寝ても味がなかろう。僕は風呂屋へ行くと必ず女湯の方をのぞいてくる。老人だから怪しまれぬ。これも年寄りの一徳、近頃の女の風呂場での大胆なポーズには驚くと申されたり。
 九月廿七日。先生O家へ速達を出し、市川警察の呼出しになぜ応ぜぬかと詰問せらる。その件にてO家細君来りて先生と口論。先生の口喧嘩は辛辣にして執拗、ねちねちと女性的にして長屋の女房の言いあいの如く、男性的な壮快さはなし。午後扶桑書房、闇米を自転車に積み、中野より遠く迂回して来る。その労苦感謝すべし。
 九月廿八日。先生の伝記を書く適任者は誰かと問いしに皆無なり。みな余と傾向を異にするゆえ現存の人にてはなし。佐藤春夫氏が日記を材料にして書くことならんといえり。
 九月廿九日。今宵中秋の明月、先生お月見に呼ばれて海神の友人の許へ行き九時頃戻る。
 ジャン・モレアスとは何人かと問合せ来りたる中学国語教師あり。
 九月卅日。先生ちょっと曇ると必ず洋傘を携え、買物籠には革の鼻緒立て二本を入れおきたり。以てその用心の程を知るべし。先代羽左衛門の実母(混血児)のことを小説に書いてみたしと申さる。
 十月二日。朝先生警察へ行き本をまた持ち帰る。犯人は十六歳以下のため矯正院へ送るわけにも行かず、事件は有耶無耶になりたりと残念がらる。警察より戻りし本のなかに、先生の蔵書に非ざる小杉天外の「藤娘」と泉鏡花の「薄紅梅」あり。先生一読して小杉のは実に下手にして明治三十年より進歩なく勉強足りぬと申され、鏡花のも詰らぬ、硯友社系の連中はみな古しと云われたり。
 十月三日。先生専用の奥の便所をくみとりし老爺曰く「お宅の先生はなかなかの人と聞いていましたが、落し紙だけはいい吉野紙を使っていますね」同じく家の女中曰く「あまり汚ないので見兼ねて先生のお部屋を掃除すると、あとで先生がたぴしと机をあけたてして、紛失物なきかと探し廻りおれり」と。
 十月七日。読売新聞市川支局長来り、先生国府台精神病院に入院せりとの報、本社より問合せ来るも事実なりやと。先生曰く恐らくこれO家より出たるデマなるべし、虚報甚しきを以て明日新聞記者に面会し、本泥棒の詳細を発表せんと慍らる。
 十月八日。読売記者先生にインタヴィユーす。先生の新聞記者に逢うは戦後はもとより、数十年振りのことなるべし。養子離籍の件、本泥棒の件、悉く先生の思い通りに運ばざるため、社会の公器をもちいてO家に復讐せんというにあり。後で先生曰く僕が昔から新聞記者嫌いなのは夏目漱石でさえ書いておれりと。余、漱石全集を調べたるに書簡集のなかにその言葉を発見せり。
 十月九日。先生島崎藤村の老獪なりしことを語り、平田禿木あたりも褒めず、籾山書店を貸倒せりと。まだしも花袋の方が善人なりしよし。
 十月十日。先生焼酎四合の配給を渋々顔にて受取り、一口飲んで強くて駄目だと申され、ことさら余の見ておる前にて流しにざっとこぼし捨てたり。余の酒好きなるを先生はよく知りおれり。
 十月十二日。読売の記事はまだ出ぬかと、先生連日余に訊ねらる。先生米五升を海神の知己に届けると称し、十分間担げるかどうか時計を見つつ耐力試験を行わんと、座敷内に米袋を背負って時計と睨めっこしおりたり。大賀計理士来り、養子離籍をO家にては拒めりという。
 十月十三日。先生米五升背負いて、いよいよ海神に赴かる。余背負い行かんと申出でしが先生答えず。頼むとは言いしことなき荷風かな。
 十月廿日。読売新聞三面欄トップに先生の記事と写真出る。先生の下駄ばきと買物籠、これより天下に有名となる。されど先生の予期に反し、本泥棒の件は出でず、ただ近頃の荷風の変人ぶりとその奇行の紹介をのみ。先生大いに失望し、だから新聞記者は嫌いだと申さる。新聞を利用せんとしてあべこべに利用せられしためなり。読売の記事中先生酒二合を闇市に売りに行くという話は、記者の創作ならんも面白し。夜、扶桑書房来る。先生の話はすべて金と女に落つ。
 十月廿一日。先生曰く女はその背景を失うと、必ず見すぼらしくなる。芸者を落籍して妾にしてもきまって失望するのはそのため、まして女の着物の世話まで焼くのではこっちはかなわぬ。一家を構えても女中をおけば物を盗まれるし、配給米や薪炭をとりに行くのが面倒、それに税金がかさんでくる云々……先生の最も怖れおる相手は税務署なるべし。
 十月廿二日。改造社長山本実彦氏来る。先生不在。余の妻二月ぶりに退院して帰宅、先生開口一番、病気見舞どころか「看護婦に美人はいますか?」と荊妻にきけり。
 十月卅一日。筑摩書房より「来訪者」再版検印紙送り来る。先生ひとりこつこつと捺印しおれり。「苦楽」より絵物語に「うでくらべ」を使いたしという。先生は大佛次郎氏が学生時代アンリ・ド・レニエの飜訳を持って訪ね来りたる話をす。
 十一月一日。松沢病院患者より先生に養子にしてほしき旨の来信あり。読売紙に養子問題の記事のれればなり。読売の記事以来とみに旧知よりの来信多し。「日かげの花」の主人公O夫婦も訪ね来りたるよし。余、不在のため見はぐりて残念なりき。
 十一月十日。後二時半谷崎潤一郎氏来りたるも先生不在、小生もまた不在。
 十一月十一日。市川掬水にて谷崎氏辰野氏及び先生を加えての座談会ありたり。辰野先生とは初対面なりしよし。
 十一月十三日。先生久し振りに平田の床屋に行く。帰りて曰く何処ときまった床屋はなく、混んでいない所にどこでも入って行くよし。「八幡の床屋は二十円だが、素姓を知られたから三十円仕方なく出している。」先生夜戻りたるに生憎と門締りおりたり。先生声をあげて家人を呼ぶことをせず、コツコツとおとなしく三十分ほど門を叩きおりたりと。
 十一月十五日。西鶴学会の吉田氏、先生に面会を求む。先生留守なりき。帰りし後先生に西鶴と近松、何れを好むやと問えば言下に近松と答う。
 停留場より余の家に来る途中、道低きため膝まで没する水溜りできたり。行人すこぶる難渋す。外出より戻りたる先生に、道が悪くて大変ですねと荊妻いえば、先生曰く「僕はいつもあそこで下駄を洗ってくることにしています」と。人の同情を絶対忌避せる先生の本領この一句にあり。
 十一月十七日。愚妻曰く先生のように静かでおとなしい寄宿人は尠きも、ただ夏は開放しで寝るので時節柄物騒なのと、(一家殺し頻々の御時世なり)冬は部屋のなかで火を熾すので火事の心配を常にせねばならぬのが玉に疵なりと。
(昭和二十七年十二月)





底本:「現代日本文學大系 24 永井荷風(二)」筑摩書房
   1971(昭和46)年12月15日初版第1刷発行
初出:「新潮 第四十九卷 第十二號」
   1952(昭和27)年12月1日発行
入力:きりんの手紙
校正:noriko saito
2019年12月27日作成
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