美術学校時代の岡倉先生

板谷波山




先生の講義


 私は明治二十二年九月に美術学校に入りまして、年は十八歳でした。その時分は入学の月がいまとちがいまして、九月でした。卒業は二十七年になります。
 入学したときは、岡倉先生はまだ校長ではなく、大学総長の浜尾新先生が兼ねておりまして、岡倉先生は幹事でした。しかし、学校の実権は岡倉先生がふりまわしておりました。若かったですよ。先生より年上の生徒が幾人かおりました。こどもが二人いるなんてね。
 私の時分は、岡倉先生のいちばん若いおもしろいときでしたから、のんびりしたものでした。
 横山大観君は、第一期に入学しましたが、ふつう五年で卒業するのを、四年半で卒業しているんです。第一期に入りました生徒は、大学にいるのをやめてきたり、そういう連中がいるものですから、不揃いで教えにくくて、それで試験して横山君ら十人ばかりが半年とばして卒業しました。それが第一期の卒業でした。その次に残された下村観山君だの溝口禎次郎君などが第二期になります。私どもは二年目に入ったけれども第三期になるわけです。
 岡倉先生が校長になったのは二十九歳のときでした。講義は日本美術史と西洋美術史をもっておりました。先生原稿を持たないものですから、ときどきでたらめに脱線しちゃう。ところが、その脱線がおもしろくてよかったですね。むしろ先生の講義の美術史なんぞよりよかったですね。
 生徒に向って、君らは文化・文政あたりの画家のいろいろ名前を知っているかとか、その時分の画家は本にいっぱい載っているが、大きい字で書かれているのは谷文晁ひとりだ。このたくさんの生徒のなかでだれが文晁になれるか。小さい字になっちゃっても仕方がないから、でかい文晁飛び出しなさい、ということを、美術史の講義のなかで脱線して始終やるんです。
 先生が常に言っておったのは、美術というものは模倣はいかんということです。じぶんの創意でやったものでなければ、ほんとうのじぶんが出ていなければ、芸術じゃない、というんです。独創がなければいかん、ということを始終いいました。
 私などの組はそのとき先生を非常に尊敬していたものですから、すっかりその気持になりまして、卒業生はじぶんで修めたもので世を渡ったものはあんまりありません。私がこんなで、白浜徴は図画教育を、その他印刷局に入ってお金の型を彫るとか、それから天賞堂へ入って時計の後に彫刻するとか、学校で修めたものをやらないで、じぶんのそういう苦心して工夫したものをやっていました。なかにはこどもの雑誌をやって成功したひともあります。みんなじぶんの持ち分を発揮したわけです。やはり先生が模倣はいかん、といったことが原因になっていると思うんです。
 それからシナの旅行の話を美術史の時間にするんです。いたるところ名所へいって、その話をするのですが、どうしても唐や宋あたりの詩を読むような感じになっちゃう。碑文など覚えてきて話のなかへまぜるのが、函谷関を通るときの話だの、揚子江を通った話だの、そういう話です。美術史のなかでおもしろい話をずいぶんしました。

卒業制作のとき


 絵のひとにたいへんよかったと思うのは、遂初会という会のあったことです。それは先生がポケットマネーを出して景品を買って、生徒に題を出すんです。その題が、たとえば「明月」という題でも、月を描いてはいけないわけです。そこにあるものを、感じを出さないといかん。そういうような式の会でした。「笛声」という題を出して、ある若い公家さんが広い野原で笛を吹いていたんじゃいけないんです。そんなものをやらんで、笛を吹いていないで笛の感じを出せ、と。……それはずいぶんみんな一所懸命やりまして、下村観山なんぞうまかったですよ。いつもいい賞に入っていました。
 それから学校で方々の図案の依頼を受けるんです。それを生徒の課題にして、どんな科でもかまわない。図案科ばかりでなくて、各科にやらせる。学校へ規定を貼り出しまして、賞が出るんです。私もなん度か賞をとったことがあります。それが私ども工芸家になるのに、たいへん役に立っております。石川県へいったり、高等工業で図案の時間を受持って話をすることができたのは、それが働きました。そうしてその答案についてあとで先生が批評するんです。それは非常にためになりました。そんなことを学校でやらせました。
 図案のときは、先生も評を聞いていましたが、図案科の主任だった今泉先生がおもに批評しました。
 卒業制作についてほかのひとはちょっとやらんことでよかったと思うのは、卒業制作でどういうものを作るかということを岡倉先生のところへ申出て、それについて先生が教えたり批評したりしたことです。私が元禄美人を作るというと、なんでお前はそれを作るのか。私の答えが、元禄時代は江戸の方へ中心の政治勢力が移って、庶民が発達してきた、江戸の文化がおこってきたとか、そういうことに非常に興味をもったからだというと、よかろう、それについてはどんな本を読んだかという。文庫にいって西鶴ものや風俗などに関係あるものを読みました、とかいうでしょう。そうすると、まだこういうものを読め、こういうものを読めと、たとえば「雅遊漫録」を読め、とか教えてくれるんです。それを読みますと非常に役に立ちました。
 日本武尊を作る生徒は、東夷征伐のこととか、日本武尊のものに関したことを調べて作るとか、新納が達磨を作るときはいろいろ調べて作ったとか、そういうふうに生徒に対して制作するものと、それについての意図をいろいろ先生が聞き、それについて私どもの気づかんところを指導していく。非常にいいやり方でした。絵の方もみんなそのようでした。

学校の一面


 おもしろかったのは、悪い生徒をやっつける、私なんかもきかんもんだからやりましたが――それには理由がある。ある生徒が卒業前に、岡倉先生は能が好きだから、謡を稽古して置こう、と二人で相談している。それを聞いていて、あいつ等は卑劣の徒だからのしちゃおうと、美術協会になにか会のあった晩でした。清水堂の下でめちゃくちゃに殴りつけて、やつ学校へ出られない。それでおじさんが学校の先生なんで、校長のところへ訴えたんですが、たくさんの生徒にぶたれるやつは、なんか悪いことをしているんだろう、ほっておけ、というわけで、そういうおもしろいところがあるんです。
 学校では祭日にはかならずお酒を飲ませた。先生と生徒といっしょになってやるんです。祭日にかならずやるんだから。ことに正月には一抱えもある大盃で、それをみんなが飲むんです。年長者から飲みはじめましてずっと廻る。盃に何年何月飲みはじめ誰と書いて、加納さんが最年長者で飲みはじめました。何升か入るんでしょう。一人で持てんから給仕が介添えして飲む。先生は一口ぐらいずつ飲みまして、口をふいて次の先生に譲っていく。生徒は豪傑が総代で出て、頂戴しますといって最初に白井雨山が飲んで、天岡均一が飲んで、天草神来が飲み――あれはうまくなる男でしたが早く死んじゃった。しまいにはやけになって酒を飲んだようで、身体をこわして惜しいことをしました。熊本の男で、快活なおもしろい男だったんですが、生きていたらうまかったでしょう。菱田春草と仲がよかった。それから西郷孤月なんかうまかったですよ。
 先生は馬に乗って学校へ来たんです。その馬なるものが後三年絵巻の武者が乗ったあの馬みたいに、漢方の医者の家にあったものをもらってきたといっていましたが、尻尾と胸のところに紫の房が下がっていて、鞍は日本の鞍です。鐙は、日本の鐙がいいけれども、大きくて邪魔でやりにくいと、弟の由三郎さんが朝鮮にいたものだから、朝鮮鐙の半分のやつを取寄せてつけているんです。なにしろふしぎないでたちで、聖徳太子のような制服を着て、夏は大きな麦稈帽子をかぶり、暑くないようにまわりにきれを下げて馬に乗ってくる。口の悪い生徒は、どうも下手な絵描きの描いた馬上の鍾馗だといっていました。太ってね……
 先生は背もそうとう高かったです。太っていましたから、二十何貫といっていました。それは立派でしたよ。鳳眼といいますか、目のずっと切れた……。先生は唐服が好きで時々着用したようで、また非常に似合いまして、唐宋時代の文人墨客を髣髴させます。下村観山筆の肖像のとおりです。
 先生があるとき、顔全体漆にかぶれてきた。その理由がおもしろいんです。先生、乗馬の鞭を持っているが、凝り屋だからふつうの鞭じゃおもしろくない。それで後三年合戦絵巻にあるような鞭をつくって、学校で漆をぬって、それがかわかないうちに鞭を持ったからかぶれたというんですが、そうじゃないんですよ。その当時は、いまのように厳格に組がなっていませんで、どの科へでも自由にいって遊べたんです。それでいやなやつが参観に来たとふれがまわると、すぐにいっていたずらしたもんです。ところがそのとき、某外国人でなにか非常に傲漫なやつが来て、岡倉先生通訳しながらくるんですが、先生を踏みつけたような態度で生意気だというので、生徒の猛者が教室で漆を焼いたんです。あれを焼くとすぐかぶれちゃいますから、西洋人はかぶれたかどうか知らないけれども、先生がかぶれちゃって、それで鞭のせいだといって、みんなそうでしょうといっていたんですけれども、大笑いだったです。
 岡倉先生の乗っていた馬は、楠公の像のモデルにした馬です。その時分後藤貞行が元騎兵の曹長かなんかで、馬に精しいので馬を南部に探しにいったんです。ところがほとんど西洋種になっていて、あの馬がわずかに日本の種が残っているらしいというので、それを買ってきたんです。楠公の像を作りあげてモデルがあいたものだから、おれがもらうというのでもらってきた。
 その前は馬に乗っていなかったのですが、はじめは下手でしたよ。危なそうに乗ってくる。しかしだんだんうまくなってきた。それであるとき、私らの若い時分、吉原へ遊びにいった帰りに、明日は日曜日だから、すぐに帰るのはやぼだから、向島の朝桜をみていこうじゃないかというので、千住の方をずっと廻って荒川を下ってきた。そうすると向うから馬に乗ってへんなのがくる。校長だ校長だというんです。どうしよう、うしろへ帰るのも卑怯だし、先生おはようございますといおうじゃないかと、「おはようございます。どちらへいらっしゃいますか」といったら、「うん、花をみるついでに鳥を射ようと思ってきた」と、半弓を持っているんです。馬に乗って射ようというんです。「先生に射たれる鳥がいますか」といったら「あははは」と笑っていっちゃいました。そんなこともありました。なにしろ変っている。馬に乗って鳥を射るというんだから。

慰労会や遠足


 学校では、なにか騒ぎがあっていろいろ忙しいようなあと、慰労会があるんです。たとえば学校の記念日なんかのあと、慰労会をかならずやった。その慰労会は、先生の趣向でなかなかこっていました。慰労会の尤なるものは向島の八洲園の大きな庭で園遊会をやった。舞台ができていて、みんなそこで踊ったり騒いだりしたんです。
 その趣向が凝っているんです。橋本雅邦の「狂女」、文庫にいまでもあるでしょう。こどもを抱いて石段をあがるところ、岡部覚弥の役で、そいつが狂女になって着物を着て、絵のすがたのとおり、はじめはネンネコヤネンネコヤとやっていて、終りに気狂いになるところをやる。私の「元禄美人」が踊りだして、三味線をつれてきて蔭で弾かせる。それが元禄の頭を結って春雨を踊る。新納の「達磨」それがアホダラ経をやりました。毛布をかぶって達磨さんになってやる。そういうふうな趣向をやるんです。それから学校の腰掛、四角になっている椅子を逆さまにして、行灯にして、四本の脚の回りへ紙を貼って絵を描くんです。その絵がふるっていました。神楽の絵なんです。それを大きな幕で隠してお神楽隠そう(岡倉覚三)。橋本先生は、足もとに烏がいて、先生の似顔が描いてある。福地復一先生は、顔が曲がって股が一の字になってあぐらをかいているんです。(ふぐちまたいち)。川崎千虎なんか、虎が朱で描いてある。牙が竹の葉で(歯は竹朱虎)。みんな生徒が描いたもんですが、下村なんかよく描いたはずです。
 それから岡倉先生らしいのは、友だちをいろいろ呼んで、本田種竹だの其他の文墨関係の人がたくさん来ましたし、曲水の宴をやった。食べた弁当のから箱におちょこをのせて、なにか書いて庭の小川に流す。川のふちに寄せて、歌を書くひとも、俳句を書くひともありました。しゃれたことをやりました。
 遠足なんかにいっても、なにか趣向をしなければおもしろくないくせがあるんです。猫実の遠足なんかおもしろかった。猫実は行徳の先、隅田川をいけば行徳のならびです。四、五里ありましょう。隅田川の川ふちをずっと伝わって、鵜縄を曳いてボラの小さい時分のイナをとったんです。両方の舟で縄をひいて水の上をひっぱっていくと、鵜がきたと思って魚が逃げるんです。浅いところに網をはっておくと、魚がにげていっていきどころがないんで、飛上って上にはってある網のなかへ入っちゃう。とれるとれる。其夜は土地のお寺に泊り獲物の魚を焼いてたべる。
 行くときがよかったですよ。ちょうど朝四時ですから、周囲にまだ朝もやがあって、あんまり趣向がいいのでびっくりしました。舟が五十隻で、二十五隻づつ分けたんです。片方は赤い旗をたてて、片方は白い旗。長い源平の旗みたいなので、両方掛声をかけて舟歌を歌って分乗して朝もやのなかをいくと、そのうちに旭がさしてひらめいている旗しかみえない。源平合戦のような感じがしました。先生そんな趣向をやるんです。
 先生が頭をぶたれた話があります。卒業生などが集って校友会という会があって、いろいろの催しをやりました。校友会の名義で学校でお茶だのお花だのの稽古ができたんです。それに撃剣が入っていました。先生ふつうの一刀流じゃ満足しないんです。信州の飯田の撃剣の指南番をしていたひとをつれてきてやったんです。その先生の撃剣がおもしろい。みんなで間抜流といったんですが、受け太刀の人は短い扇をさしたり、小さな木剣を持ったりしているんです。打つ方は長い木剣で、それで頭を打ちにいく。そうすると、ひょいと扇を出す。それでひどいやつは後ろに倒れますよ。いわゆる気合みたいなものでしょう。
 それを先生稽古するんです。その指南番は校長に説明して、棒の撃剣じゃない、心の撃剣、心胆を練る撃剣だと。しかし生徒はあきちゃっておもしろくもなんともない。中心を打ちにくると、短いのを目と目の間へひょっとつき出す。向うは倒れちゃう。倒れなくても、木剣をふりあげたままどうにもならない。胸を突けば死んじゃうでしょうね。何流とかいっていましたよ。息子が学校の小使なんです。そのお父さんが来て、腰がまがって、もう七十くらいのおじいさんでしたよ。それで岡倉先生うまくなったというんで、打ってみろというと、体操の先生が、わざわざやったわけでもないけれども、正面を木剣でぶって、岡倉先生泣いちゃった。そんなことがありましたよ。
 先生根岸に住んでいまして、根岸会というのがありました。饗庭篁村だの、高橋健三だの、みんなおもしろいひとが入っていまして、幹事が廻り持ちで趣向しまして、そのときお酒をやたらに飲んだらしいんです。友人ですすめたのでしょう、それで禁酒をするという、そのときの手紙を私持っていたんですが、戦災で焼いたのか、どうしたかわからなくなってしまいました。その便※(「竹かんむり/銭のつくり」、第4水準2-83-40)がしゃれていましたよ。すみの方に師宣の美人画が、二人ばかり座っているのが印刷してありました。
 先生が旅行するときはしじゅう寺内銀治郎がついていた。みんな銀、銀といっているうちに、どんどんうまくなって、たいへんなものになったけれども、それが滑稽なやつで、先生のとりまきで京都へいったんです。それで京都のどこかの風呂へ入ったんでしょう。熱いものだから東京流に羽目を叩いたんです。京都は羽目をはたかんです。はたいちゃいかん、とおこっている。先生も銀も裸で、銀が江戸っ子のどうとかいって風呂のふたを振りあげたもんだから、びっくりして逃げちゃった。銀は後ろを向いて先生此勢はどうですと再三繰返して大笑いだったという。そんな話がありました。しかし銀はそういう江戸前のおもしろい男でしたが、一流の経師屋の親方になって、橋本さんにお世話になったといって、橋本さんの等身大の木像を作って美術院に寄贈した。米原雲海が作ったと思います。よくできておりました。
先生が谷中の初音町にいったのは、学校をやめて美術院のなかに家をもったからです。塩田力蔵君に聞いた話だったか、書斎の前の撞木へふくろうをとまらせて、それを雀がいじめにくるのをにやにや笑ってみていたが、それはじぶんの境遇にひきくらべていたんじゃないか、といっていました。
 あるとき先生が塩田氏を夜訪問したことがあるそうです。岡倉先生じゃなければしないな、といっていましたけれども、それは月の晩だったそうです。塩田さんがいなかったものだから、落ちた柿の葉へ、――先生はいつも矢立をもっていましたが――それで「訪君不遇」と書いて、門のところにはさんで帰ったそうです。それで塩田氏は次の日に「反明月為至憾」と書いておいてきた、といっていました。

学校の制服


 私が美術学校の制服をはじめてみたのは、美術学校へ第一期に入った連中が、宮城の前で錦の旗を立てて行列したときです。ほんとうの錦です。織紋がついて、縫いとりで東京美術学校と書いてある。長い竿で、宮さん宮さんのあの旗です。あれをたてていったもんだから、神主の学校だとみんないっていた。私もはじめそう思っていたんです。皇典研究所、いまの国学院大学、あれだと思っていた。服はよくみなかったんですけれども、変なものだと思っていた。
 私なんか入ったとき、制服をこしらえるからみんな食堂に集って寸法をとれ、というもんですから、どんな制服ができるだろうとみんな楽しんでいった。ところが、外神田の大時計の隣にある大きな葬儀屋の番頭がきて寸法を取っていった。出来てきて着てみてみんながびっくりし、あまり異様なのでおこっちゃった。それを学校の生徒係などがいろいろとなだめ説明するんです。これは例の聖徳太子像、あれによって黒川博士が考案した結構なものだという。なかにはおこって学校を退学する、というものもあった。
 あの服を着ていると、目立っておかしくって、そば屋ひとつ入れませんよ。私なんぞ本郷三丁目から通っていたんですが、本郷本富士町の警察の前に大きな牛飯食堂がありました。ちょうど四時ごろ学校の帰りに腹がへっているので入ろうと思うのだけれども、あれを着ているからとびこむこともできない。どうかして食ってやろうじゃないかと、友人と二人で制服をぬぎ、懐へかくして、それで食べたことがありました。みんな大道易者だとか、いろんなことをいった。私なんかが卒業してからあとで、紐にふさのついているようなものを、右から左へかけたのです。七宝焼で丸に美の字の徽章を袵元へ付けました。稲結びの紐は、生徒が縹色で、先生は黒でした。それはちょうど岡倉先生が学校をやめる少し前だったでしょう。
 制服の色も、生徒は縹色で、先生は黒でした。岡倉先生なんか、夏は紗の黒の透し紋のある制服を着て、海豹の天平靴をはいて、それで先生は時計に細い金鎖をつけて、首からかけていました。





底本:「板谷波山傳」茨城県
   1967(昭和42)年3月26日発行
初出:「國華 第八三五號」國華社
   1961(昭和36)年10月発行
※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
入力:きりんの手紙
校正:木下聡
2019年9月27日作成
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