ゴオガンに宛てたフアン ゴツホの手紙(一八八八年)

フインセント フアン ゴツホ Vincent Van Gogh

高村光太郎訳




 ゴオガン兄
 お手紙ありがたう。殊に二十日には來るといふ兄の約束に感謝する。たしかに、兄の言ふ理由(ゴオガンの痢病)は、愉快な汽車旅行をさせないに違ひない。厭な思をせずに旅行の出來るまで兄の旅行を延ばすとしても無理ではない。しかし、其を別にすれば、私はこの秋のすばらしい色々違つた自然の諸國の土地々々を通りすがりに兄に見せる旅行が殆ど羨ましい。此冬パリからアアルへ來た途中で受けた感動を私はいつでも今だに自分の記憶の中に持つてゐる。まるで既に日本にでも來たやうに見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した事だつた。兒戲のやうだが。
 そこで、此間私の視力が變に疲れた事を書きましたね。ところで、私は二日半休息して、それから又仕事にかかつた。だがまだ野天へ出る事は敢てしない。私は、いつも例の裝飾の爲だが、兄の知つてゐる白木の家具のある私の寢室を三十號の畫布にかいた。
 さて、此のスユウラ式に單純な、何も無い室内畫をかくのが馬鹿に面白かつた。平たい色調で、しかし繪具をたつぷり使つて、荒つぽい筆で畫いた。壁は薄いリラゆかはこなれた薄つぽい赤。椅子と寢臺とはジヨオン ド クロオム(クロオム黄)。枕と敷布とはずつと薄いシトロン ※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)(緑黄)。かけ蒲團は血色の赤。化粧卓は橙黄。金盥は青。窓は緑。私はこの非常に違つた色のすべての調子で絶對な休息を表現しようと思つた。見たまへ、それで黒縁の鏡が與へる小さなものよりほか其處に白は無い。(此はそこへ補色の第四番目の一組を置く爲だ)
 兎に角、兄は其を外のものと一緒に見てくれるだらう。そして其に就て二人で話をしよう。私は殆ど夢遊病のやうになつて仕事してゐるので、時々自分の爲てゐる事が分らないのだ。
 時候は寒くなりだした。殊に惡風ミストラルの日は。
 冬になつても明るい燈火のあるやうに畫室へ瓦斯を取りつけた。
 事によると兄が惡風の吹く時に來たら、アアルが厭になりはせぬかと思ふ。だが待ちたまへ……………此所の詩が本當に分かるには長くかかるのだ。
 兄は此家がまだそんなに氣持よくはないと思ふだらうが、其は少しづつ二人でしてゆかう。隨分金がかかるからね。一息にはゆかない。兎に角、一度此所へ來れば、惡風の休みの時、兄は私と同じく此秋の效果を畫きたくてたまらなくなるだらう。そして私が兄の來る事をこんなに主張する所以が分るだらう。少し好い日のつづく時は。
 それでは又。一切兄の フインセント





底本:「回想のゴツホ」叢文閣
   1921(大正10)年4月22日発行
※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※表題は底本では、「ゴオガンに宛てたフアン ゴツホの手紙(一八八八年)」となっています。
入力:かな とよみ
校正:The Creative CAT
2024年2月22日作成
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