パスカルの言葉

パスカル

島崎藤村訳




(ある人のために、パスカルの言葉を抄録する)

 些細なことが私達を慰める。何故なぜといふに些細なことが私達を悲ませるから。

 ソロモンとヨブとは、奈何いかなる人よりも人間の悲みを知つて居たし、又、語りもした。前者は人として最も幸福であつた。後者は最も不幸であつた。前者は快樂の空しいことを、後者は不幸の實際を、いづれも經驗によつて知つて居た。

 私達は毎日食ひ且つ眠ることに疲れない。何故なら、毎日饑と眠氣とが新しくされるから。精神的な事物に對してもそれと同じやうに、饑がなかつたら疲れてしまふ。

 智慧は私達を子供にかへす。

 意義はそれをあらはす言葉に隨つて變ずる。意義は言葉に威嚴を添へるのでなくて、言葉から威嚴が添へられるのだ。

 道理は主人公よりもつと命令的だ。といふのは、主人公に服從しなければ私達は不幸なだけだが、道理に服從しなかつたら私達は馬鹿だ。

 皆が同じやうに動いたら、何も動かないやうに見える――あたかもボートの中のやうに。皆が混亂の状態に傾いたら、何も混亂しないやうに見える。靜かに立つて居るものがあつて、そこからはじめて他の位置が分明になつて來る。

 時は悲みと爭ひとをいやす。それは私達が變化するからだ。私達は最早同じ人ではなくなるのだ。傷けたものも、傷けられたものも、最早以前の同じ人々ではなくなるのだ。

 隱されたる良い行ひは最も尊い。歴史の中にでも何かさういふものを見つけた時は、ひどく嬉しい。でもさういふことが知れて居る以上は、既に全く隱されたではない。假令それが出來るだけ隱されたにしても、顯れたといふだけで一切をぶちこはしてしまふ。何故といふに、それらの行ひの最もうるはしいところは、その行ひを隱さうと欲するところにあるからだ。

 多くの煩ひから私達を慰めて呉れる唯一のものは氣晴しといふことだ。それでありながら氣晴しほど煩はしいものも無い。

 似た顏が二つある。一つ/\を見れば可笑をかしくも何でもない。もしそれを並べて見ると、似て居るといふので可笑しくなる。

 好奇心は虚榮に過ぎない。私達は何かの話が出來るといふだけのことで、ある一つの事を知らうと思ふことが、よく有る。

 智識には、一致する兩極端がある。第一はすべての人の生れながらなる純自然の無智だ。第二はすべての人智をあさりつくした後で、結局出發點と同じ無智なることを見出した多くの高き精神が到達した境だ。しかしこの第二のものは自己を知る無智だ、學べる無智だ。

 私達は必要な場合には奈何いかに疑ふべきかを知らねばならない。又、必要な場合には奈何に確むべきか、奈何に從ふべきかを知らねば成らない。

 世には解釋といふものをよく知らないで、何でも解釋の出來るやうに肯定する人がある。從ふべき場合をよく知らないで何でも疑ふ人がある。判斷力を用ふべき場合をよく知らないで何にでも從ふ人がある。

 まことの雄辯は雄辯を笑ふ。まことの道徳は道徳を笑ふ。

 私達が憐みの心をもつのに二つの場合がある。慈愛から生じて來る憐みの心が一つ。侮蔑から生じて來る憐みの心が一つ。

 矛盾は眞實の惡しき表象である。多くのまことなるものが矛盾して居る。そして多くの僞りなるものが矛盾なしとせられてゐる。矛盾は虚僞の表象ではない。又、矛盾の缺乏が眞實の表象でもない。

 私達は鬪ふことのみを悦んで、勝利を悦ばない。私達は鬪つて居る動物を注視することは好むが勝つた方のものが負けた方のものの上にのしかゝるのを好まない。もし勝利の終局でないとすると、私達の見たいと思ふのは何だらう。その終局が來るやいなや、私達はもう飽きてしまふ。勝負事がそれだ。眞理の追求が矢張それだ。

 誤れること二つ――第一は何事をも文字通りにいてしまふこと、第二は何事をも意味ありげに釋いてしまふこと。

 もし私達があまりに速讀するか、あるひはあまりに遲讀するかしたら、何も解るまい。

 人の性は何時いつまでも前の方にばかりは進めない。ひき潮があり、さし潮がある。熱病にすら寒と熱とがある。その寒さは熱さと殆んど變ることのない熱病の強さを示して居る。世紀より世紀に動く人の創造もその通りだ。一般世間の好惡とても矢張その通りだ。

 私達は若過ぎても好い判斷がつかないし、年をとり過ぎてもいけない。私達がある事を思考するのに、過ぎてもいけず、及ばなくてもまたいけない。もし仕事の濟んだ直ぐ後でそれを考へて見るとまだ私達はそれに就いて正しい判斷が下せない。さうかと言つて、あまり長い後になつては、それに觸れようとしても及ばない。繪畫でもさうだ。離れ過ぎて見ていけず、近過ぎていけない。かく眞の見地なるものには唯一つの點があつて、それをはづれたものは、あるひは近過ぎ、あるひは遠過ぎ、あるひは高過ぎ、あるひは低過ぎる。繪畫の藝術にあつては、この點はパアスペクチウイヴによつて定めることが出來る。けれども、眞理や道徳の上で誰がそれを定むべきだらう。

 人は一つの葦に過ぎない。その性質に於て最も弱い葦だ。しかし彼は考へる葦だ。

 あまりに自由であることは好くない。一切の必要なものを具へてしまふことは好くない。

 心胸には道理に知れない道理がある。わたしたちは千百の事物に於いてその道理以外の道理を知る。

 人は多くの要求に滿ちたるものである。彼は唯それらの要求のすべてを充たし能ふもののみを愛する。

 事物には種々な性質がある。そして魂には種々な傾向がある。その故は、一切を魂の前に示すほど單純な事物といふものも無いし、又、如何なる事物にも自己の姿をそんなに單純に示すやうな魂も無い。そこから私達が同じ事を泣いたり笑つたりするやうなことが起つて來る。

 法は自然を破らずして導く。美は法を破らずして滿たす。

 情熱に導かれてある事を成す場合には、私達は義務といふやうなことを忘れる。

 眞理を費してまでも平和を維持しようとするのは仇な情である。慈愛を傷つけてまでも眞理を維持しようとするのは仇な熱心である。

 兩極端――道理をヌキにすることと、道理以外に何物をも容れぬことと。

 假令人々が彼等自身の言ふことに何の興味をもたないからとて、だから彼等が嘘はつかないと定められるものではない。世には嘘のために嘘をつく人達がある。

 言葉も竝べやうでは違つた意味になる。意味も竝べやうでは違つた結果になる。

 直覺によつて判斷するに慣らされた人々は理性よりする何物をも解しない。何故といふに、それらの人々は最初の一瞥によつて事物に徹することを欲するから、そして法則を見出すことに不得手であるから。これに反して、法則から推理することに慣らされた人々は直覺よりする何物をも解しないで、そこに法則を求める。そして一瞥して達するといふことが出來ない。

 人間といふものの大きいところを知らずに置いて、獸に等しいことをあまりにしば/\知らせるのは危險だ。それと同じやうに、卑しいところをヌキにして大きいところばかりをあまりにしば/\知らせるのも危險だ。

 のべつ幕無しの雄辯は疲れる。

 かぎの『開く』力と、かぎの『引く』力と。
(こゝに言ふ鍵とは、樂器なぞの蓋をあける時によく用ふるやうな眞直な形状のものを指す。鉤は、普通の穴なぞへ差入れて引くことの出來るやうな彎曲した形状の附いたものを言ふ。)





底本:「飯倉だより」岩波文庫、岩波書店
   1943(昭和18)年5月5日第1刷発行
※国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※「傷け」と「傷つけ」、「並べ」と「竝べ」の混在は、底本通りです。
入力:かな とよみ
校正:フクポー
2022年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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