感覚の殻

O. H. ダンバー O. H. Dunbar

The Creative CAT 訳




 そこは耐え難いほど変わっていなかった。黒っぽくまとめられた薄暗い部屋。一つのものから別のものへと視線を向けるたびに痛みが襲った。私の地上での日々を取り巻いていた心地よく馴染み深いものども。私の本質が信じられないほど変わってしまっていても、それらは鋭く私の注意を穿った。本棚から本を抜き出した跡がそのまま。世話をしてきた羊歯の繊細な指が尚も光に向かって徒に伸びようとしている。私の物だった小さな時計は、老女の一人語りのようにチクタクと心地よい柔音を立て続けて。
 変わっていない――初めはそう見えたかも。だが、やがて些細な違いが私を責めるようになった。窓はきっちり締まり過ぎている。私は家をとても冷んやりさせていた。テリーザが暖かい部屋を好むのを知っていたのに。裁縫箱の中が乱れている。こんなにも小さな事柄に痛めつけられるなんて、ひどく不条理だ。そして、これが初めて経験した影への変容だったから、自分自身の感情が奇妙に変わっていくことに戸惑った。私を包むものからかくも乖離しているというのに、初めの内この場所には人間臭い馴染みがあるように見え、愛着ゆえに壁に頬擦りできそうな気がしていた。なのに惨めにも次の瞬間には、新たに感じるキリキリとした奇妙な鋭さを意識しないではいられなかった。どうして彼らには耐えられるのだろう――私自身ほんとうにこんなものを我慢してきたのか?――いま窓から感じる不快な影響力を。どぎつい光と色に風の形が見えなくなってしまうし、濁った喧騒のために下の庭で薔薇が花開く音が聞こえなくなってしまう。こんなものに耐えて?
 なのにテリーザは何一つ気にしているようではなかった。そう、このお嬢ちゃんは散らかっていても平気の平左なのだ。この娘はここしばらく私の机――私の机――に居座って、それがどういう風の吹き回しか、言われなくても分りきっている。こんな憂鬱な書状を書く機会は以前にはなかったはずだ。といって本気でテリーザに小言をいうつもりもなかったと思う。というのもあの娘がメモを書いている時に中身を見たことがあり、それはおそらく私のものほど投げやりではなかったから。私の目の前で最後まで書き終えると、机の上に積まれた黒枠の便箋の山にそれを乗せた。かわいそうに! だからといって、そばで何日も何日も、何年も何年も生きてきて、私の妹がこれほど深い情けを秘めていたと気づくことは一度もなかった。私たちはいつもさりげない愛情を交わすだけで、思い出してみればどんな時でも、私はテリーザが破滅的な情熱なしに気楽に生きていけるのを見て、あの娘にとってそれは本当に幸運なことだと考えていた。なにしろ私は自分の幸せを妹に明け渡したりはしなかったのだから……そして、いま初めて私は彼女の真の姿を見ていた……本当にこれがテリーザなのか、この抑制されつつ縺れ合う擾乱が? 人が一つの事柄を苛酷なまでに明瞭に理解し、初めて自分の頭がそれで一杯になった時、たやすく耐えられるものだなどとは思わないで欲しいし、内気な幻も一たび解き放たれれば古い衝立や霧を振り捨ててしまえるものだとも思わないで欲しい。
 テリーザは座ったまま頭を両手でそっと抱えていた。脳裏には私への優しい思いが満ちていた。そんな時、不意に私は外の絨毯引きの階段を踏むアランの足音を感じた。テリーザもそれに気づいた――でもどうやって? 聞こえるような音ではなかったのに。びくっとすると黒枠の封筒を見えないところに押しやり、小さな本に書き込んでいる振りをした。アランがやってくる方に気を取られたので、そこから先は見るのを忘れてしまった。彼のことを、もちろん、彼のことを私は待ち、彼のために初めてこの孤独な努力を、帰郷のための恐ろしい努力をした、取り戻すために……長い共同生活の間に、彼が不可視のものを即座に断固として否定することを知っていたから、私の存在を認める気になるなどと期待したりはしなかった。いつでも彼はとても分別のある、常識的な人だった――とても盲目な。しかし今私を包むエーテル界に対する彼の反感そのもののおかげで、より安全に、より密やかに、あの人を見つめ、あの人のそばにいられるのではないかと期待していた。いま彼は近くに――とても近くにいたが、だがどうしてテリーザが、自分の部屋でもないこの部屋に座っているこの娘が、我が物顔であの人の訪問を受け入れるのだろう? どう考えてもあの人を呼び寄せていたのは私、私こそあの人が探していたものだったのに。
 ドアは少し開いていた。アランは軽くノックして「いるかい? テリーザ?」と呼び掛けた。するとこの娘がここに、私の部屋にいると思って探していた? 私は怖気づき足を止めた。
「もうちょっとで終わりますから。」テリーザがこう答えると、アランは腰を下ろして待った。
 手の届くところにアランが座っている感じ、その鋭い痛みは身体に縛られたままの精神には決してわからない。そばにいるのだと今この瞬間にも知らせたい、抗いがたい願いが私を苦しめた。だが私は思いとどまった――おぉ、哀れな馬鹿げた人間の恐怖よ!――無防備に近づき過ぎれば彼を警戒させてしまう。私だって少し前までそんな恐れを知っていた。盲目で粗野な恐怖心を。だから少しだけ近寄って――でも触れはしなかった。あの人の方にかがんで、密やかに名前を囁いただけだ。そこまで我慢することはできなかった。生命の呪法はまだそんなにも強かった。
 でもあの人は和みも喜びもしなかった。「テリーザ!」と慄く声を上げ――そしてすぐさま最後の帳が落ちた。絶望して、とても信じられなくて、でも私は二人の間にあった帳が落ちる瞬間を目の当たりにしたのだ。
 あの娘は優しい顔で向き直った。
「悪かった。」しわがれた声で彼は言った。「急に、ひどく――説明できないような感じがしたんだ。窓が開きすぎていないか? ここは――冷える。」
「開いてる窓は一つもありません」テリーザは請けあった。「冷気が入らないよう気をつけたから。具合が悪いんですよ、アラン!」
「多分。」と認めておいて、「けれど、病気にかかってるような気はしないんだ、ただこの忌まわしい感じが――ずっと……テリーザ、教えてくれないか、ここには何か――何か変な感じが――しないか、君にも?」
「ええ、ここにはとても変わったものがいますわ。」半分すすり泣いていた「これからもずっと。」
「なんと、子供だなあ、そんな意味じゃない!」彼は立ち上がって周囲を見回した。「もちろん、君には君の信念があるのはわかるし、それを尊重するけれども、同じように僕がその手のものを信じていないこともわかってくれなきゃ! だから――不可解なものを引っ張り出さないでくれ。」
 私は触れることのない、しかし思いもよらぬ程近くに止まった。ひとりぼっちで惨めな私であっても、あの人がこんな風に自分を拒んでいる間はその場を離れるつもりにはなれなかった。
「僕が言ってるのは、」低い、あの人の声が続いた。「特別な、不吉といってもいい寒気なんだ。僕の魂に、テリーザ、」――いい淀んで――「もし僕が迷信を信じていて、もし僕が女だとしたら、何かが――存在すると思うに違いない!」
 最後の言葉は消え入るように囁かれたのだが、テリーザは震え上がった。
やめて、アラン!」娘は叫んだ。「そんなことを考えないで! お願い! なんとかして考えないようにしているのに――助けて欲しいのに。心霊になって彷徨うのは不安に乱れた人の魂だけでしょう。姉はそうじゃない。いつもとても幸せだった――いまでもそうに決まってる。」
 テリーザの甘い独善ぶりに私は固まってしまった。どれほど見通しの悪い距離からなら、こんな間違った信念を抱けるのだろう。どれほどの濃い霧があの娘を、アランを閉ざしていることか!
 アランは渋面で弁明した「文字通りにとってはだめだよ、テリーザ。」これを聞いてつい先刻まであの人に触れなんばかりだった私の中に、冷淡さと初心な哀惜とが生まれてきた。「君の言う――『心霊』の話をしているんじゃない。ずっとずっと恐ろしい何かだ。」彼は頭を胸に沈めた。「あれを傷つけるようなことは何一つしなかったと、心からそう思えなかったら、罪悪感や自責の念に襲われているのだと思い込んだだろう……テリーザ、多分君の方がわかっているね。お姉さんは満足していただろうか、いつも。僕のことを信じていただろうか。」
「あなたを信じる?――姉はあなたがとても良い人だとわかっていたし――あなたは姉をすごく慕っていたじゃない!」
「そう思っていたかい? そう話していたかい? 君の信じている通りだとしたら――一体何が僕を苦しめているのだろう? 僕の妻は当時知らなかったことを今になって知って、かわいそうに、そして気に病んで――――」
「何を、何を気に病むっていうの? アラン。」
 不公平な程の利点を持つ私にははっきり見て取れた。あの人はこんなことを話すつもりじゃなかった。初めての嫉妬に苛まれてはいても私は公平でありたい。私がにじり寄って彼を責め立てなければ、あの娘にこんなことを話したりしなかっただろう。だがその瞬間は到来し、溢れ出した。あの人はそれを口にした――興奮して、熱情を込めて。アランと私が共に暮らした年月、あの人は私を貞女という汚れなき白布で包んで大事にとっておいた。だが、苦い思いで考えた。私が知ってはいけない当の相手に向かって今まさに吐露しているその話を、何年も前に開き直ってしてくれたほうがむしろ親切だったのではないかと。世間の夫にはよくあることだ。けれども彼は良い人だったから黙っていてくれた。口を閉ざされ手足を縛られた私が一緒に聞いているこの日まで。あの人のことをとてもよく知っていたから、あの人の全てが本当に私のものだったから、その目に浮かぶ色で、その声の響きで、言葉になる前に言いたいことが分かっていた。それなのに、あの人の口から出たその言葉は私を耐え難い屈辱で打ちのめしたのだ。あの人が持ちうる愛の大きさを、妻であるこの私が知らずにいたのだから。
 一方のテリーザ、このふんわりとしたちっぽけな裏切り者も、いかにもこの娘らしく蔭で喜んでいたに違いない! この娘のどこにそんな冷徹さが潜んでいたのだろうか、傷ついた胸の中で私は嘆いた、どこにそんな鋼の意志が? 告白の瞬間から、この娘はあの人を優しく小さな花弁のような顔で見上げ、私の最後の幻影は消え失せた。堪え難かった。思い返せば次の瞬間あの娘はあの人を拒んでいたのだけれど。アランはあの娘のもの。それでもあの娘は突き放そうとしていた。私はただ二人を見つめるだけだった。
 覚えているのは怒りだけ。私は大いなる保護者にすがり始めたばかりの不慣れでぎこちない霊だった。何であれ人間が耐えられないものを私が耐える所以はなかった。だから、私はそれらを自分の中に留め置くための努力を放棄した。情け容赦のない痛みが鈍くなり、音と光が消えた。恋人たちの姿は薄れ、慈悲深くも私は再びかの暗く果てしない空間へと引き戻されていった。

   ***

 測り難い時が流れ、その間あの眩暈のするほど困難な経験から自己を解き放とうとしても一歩として進めなかった。私の「地縛された」嫉妬心は絶え間なく私を苛んだ。私が親しくしてきた二人の人間は互いにもう過ちは犯さないと誓っていたけれども、私は彼らを信用することができなかった。二人のそれは、生者の鷹揚さ以上のものを気取っているように見えた。鋭い恐怖と記憶で彼らを突き刺せる亡霊歩哨なしに、どうして二人が誓いを守ると信じられようか。自分の持つ監視能力について言うと、その気になりさえすれば実効性は確実だった。もうこの時には自分が新たな力を宿したことに大歓喜していたからだ。緻密な実験を繰り返した結果、息のひと吹きや僅かな囁き声によってアランの行動を制御できるようになっており、テリーザから遠ざけておくことができた。私は束の間の青白い思念として現れることができた。開いたばかりの葉が作る影のような僅かな光のゆらぎを作り出すことができ、それをあの人の拷問に震える意識の上に投げかけることができた。私の力が生んだこれらの非現実的知覚を、思った通り、あの人は自分の魂の中にある不可避の苦痛として解釈した。彼はこの何年ものあいだ密かに抱いていたテリーザへの慕情から邪悪をなしたのだと思い込むようになっていた。これが私の復讐。己が邪悪を信ずるがよい、何度でも突き刺し思い出させてやるから。
 私の中のこの枠組みには断絶があることは意識している。だって私は覚えてもいるのだ。アランとテリーザが安全なところまで離れて、十分惨めな時、私は彼らを今まで通りに、おそらくはそれ以上に、愛していたではないか。それに新たに解放されつつある私にとって、あの二人は、私が愚かにも思い描いていたより、もっとずっと大人物であると認めないわけにはいかなかったではないか。あの二人が何年も自分を捨てていてくれたのをほとんど気づけずにいたのはこの私ではないか。今だってそうだ。二人の無私なる心の秘密に足を踏み入れず、ひたすら尊敬するしかない。私が手前勝手に生きていた時、神のごときあの二人はとりわけ私のために生きていた。私にはなんでもくれた。自分たちは何一つ取らずに。いわれなき我が所業ゆえに、彼らの人生は自制という名の絶え間なき桎梏だった――さりとてこの桎梏を緩めるためちらりと目を交わそうとも、それすら許されない。もっと素晴らしい瞬間すらあった。そんな時、新たなる知恵を得た我が胸の奥から、彼らへの哀れみが浮かんだ――かわいそうに、いま私のもとにある無窮の慰めもなく囚われたままなのだ、彼らを閉じ込めるものこそ

こんなにも脆く、哀れにも痛みのためにしつらえられた
感覚の殻。

 そう、それでもなお、貝殻の中にはそれを遥かに超越する何かが、気を揉ませるような何かがあった。それでもなお、私の中に生まれ落ちたはにかみがちな同情心は、以前からの地上めいた情動を打ち負かすにはあまりに内気だった。これら二つが矛盾しているのはわかっていた。わかっていながら、アランとテリーザにとって「何年も」と感じられる間、私は偉大なる空間からこそこそ隠れて、彼らにつきまとい続けずにはいられないのだ。彼らがどこにいようと、苦しめ、遺恨をぶつけ、辱めて。

   ***

 生ある者たち同士の触れ合いが私のような生なき者にどう映るか、到底説明しつくせない。感覚なしに生ずるこの知覚を身につけることは、予言という名の贈り物を我がものにするような感じがしていた。だが、何度も驚嘆させられはするものの、それは最早謎めいてはいない。私たちの高感度で曇りのない目から見ると、二者の間の繋がりの強さが即座にわかり、従って両者の関係がいつまで続くか判断することができる。重い錘が細い糸で吊るしてあれば、なにも魔法を使わなくてもそれがすぐにプツンと切れると予想できるだろう。この比喩を使わせてもらえるなら、予言や予知も同じことなのだ。テリーザとアランの関係がまさにこうだった。明らかに、二人がそばにいながら他人のふりをし続けるのは――蔭に潜む私もそう信じ込みたかったのだが――もう限界で、いずれ別れざるを得なかった。最初にそう認識したのは感受性の強い妹だったろう。この頃には、四六時中二人を苦もなく観察し続けることができたから、あの娘、深く傷ついた哀れな娘が別れの支度を始めているのがわかった。気乗りのしない一挙手一投足が丸見えだった。自分の内面を探り続けて傷んだその両目を私は見た。理解できない恐怖に慄くその足音を私は聞いた。私は妹の心臓に入り込み、辛く荒んだその鼓動を聞いた。それでも私は干渉しなかった。
 というのも、この期に及んでも私自身の独善的な意思にあわせて物事を差配するのに、ほとんど悪魔的な素晴らしさを感じていたからだ。彼らが惨めであることが確かめられれば、いつだって幸せと安らぎが戻ってきた。こんなことを認めると涙が出るのだが、テリーザが自分自身の自由意志でアランの許を去ろうとしていると思っているのが依然として恐ろしく楽しかった。それを目論み、手配し、仕向けているのは私なのに……依然としてあの娘は身辺にまとわりつく私の存在を惨めなほど感じ取っていたのだ。絶対に。
 別れの日と心に決めていたその数日前、妹はアランに夕食後話があると告げた。私たちの美しくも懐かしい家は、円形のホールから伸びる作りで、ホールの両側に大きなアーチ状のドアがあった。まさにこの後ろの方のドアだった。私たちは夏になるといつも、ここから庭に出て、夕食後の散歩をした。だからその時刻になると、テリーザはいつものように庭に出た。こんな姿になった私には耐え難い昼の眩しい光も、少し和らいできた。細やかで気まぐれな黄昏の微風が、けだるい囁きを漏らす葉っぱの隙間から飄然たる踊りを見せていた。青白い綺麗な花々が夕闇の中の小さな月影のように開き、モクセイソウの吐息がそれらの上から重く垂れている。完璧な場所――本当に長い間二人のものだった場所、アランと私の二人の場所。今はそこにあの二人がいる。そのせいで私は落ち着かなくなり、少し邪悪な気分になった。
 二人は由無し事を語らいつつしばし歩いた。急にテリーザが声を上げた:
「出て行きます。アラン。やらなきゃならないことがあったからここにいたけど、今度あなたのお母さんが身の回りのことをしに見えますわ。ですから、もう出て行かないと。」
 アランは立ち竦み妹をじっと見つめた。テリーザはもうずいぶん長くここにいて、あの人の心の中ではもうここの一部になりきっていた。私ですら嫉妬するほど思い知ったのだ、ここにいるあの娘はとても美しい。可憐で、暗く、神々しい人、古いホールで、広い階段で、庭で……あの娘が決めた別れであっても、テリーザとの永遠の別離――あの人はそんなこと夢にも見なかった、急にこんな別れ話を始めるなんて、思いもよらなかったのだ。
「座って、」あの人はこう言って、ベンチに腰掛け、隣にあの娘を座らせた。「出て行くとは、どういうことか教えて欲しい。なにか僕に良くない点があった――何かまずいことをしたかい?」
 あの娘はためらった。思い切って打ち明けるだろうか。あの娘はあの人から目をそらし、外を見た。あの人はじっと待ち続けた。
 青白い星々が滑るように常座に着いた。葉擦れの囁きはもう眠たそうだ。あたりは静寂と甘美な影に満ちている。こんな素晴らしい瞬間なら、地平線が見えなくなったために、未だ闇に沈み切らない世界が無限の広がりを感じさせる瞬間なら――どんなことでも起こりうる。どんなものでも信じられる。見つめ、耳をすまし、漂う私にとって、それは恐るべき目的と恐るべき勇気の到来だ。この瞬間、私のことを感じるだけではなく見えるとなったら――果たしてテリーザはそれを告白するだろうか?
 しばしの間、恐ろしい努力が必要だった。私の持つ不定形の力は震え目一杯張り詰めた。果てしなく続くこの奮闘努力の瞬間、ある転移が自分の外部に発生するように見えた――列車に座っている乗客のように、自らは動くことなく、しかし何キロメートルもの大地が流れ去るのが見えるのだ。その時、恐ろしい閃光と共に、私は自分がやり遂げたのを知った――ついに可視性を獲得したのだ。激しく震え、実体がなく、しかし明らかな光体として私は二人の前に立っていた。可視状態を維持しながら、私はいきなりテリーザの魂に目を走らせた。
 娘は叫んだ。愚劣で残酷な衝動に堕していた私は、自分が何をやってしまったのかその時気付いた。自分が招いたのはこれまで避けたいと思ってきた当の事態だった。突然の恐怖と同情に駆られたアランはあの娘を守って両腕に抱いたのだ。二人が一体になったのはこれが初めて。それを齎したのはこの私。
 何があったのかと問うあの人の囁きに、テリーザは答えた:
「フランセーズがいた。あなたには見えなかったの? そこに、リラの下に立っていたのが。全然微笑んでなんかいなかった。」
「愛しい人、愛しい人!」アランはこれだけを繰り返した。不可視の状態で長らく二人の間にいたため、あの人が妹のいうことを信じているのがわかった。
「どういう意味かわかるでしょう?」静かに娘は聞いた。
「愛しいテリーザ、」アランはゆっくり口を開いた「僕ら二人でここを出たらこの霊的存在から逃げられるだろうか? そしたらついてきてくれるかい?」
「距離は解決にならないでしょう。」妹は断言した。そして優しく「亡くなったばかりの人がどれだけ独りぼっちで、びっくりしてばかりいるか考えたことがある? 姉を哀れに思って、アラン。私たち、体温と生命のある者たちはあの人を不憫に思わなければならないの。姉はあなたのことを今でも思っている――それが全て、ね――だから私たちは離れていなければならない、こういうことを理解して欲しいと姉は思っているの。おお、そこにいた姉の顔にありありと書いてあったわ。あなたには姉が見えなかったのね?」
「君の顔こそ僕の目に映るものだ、」アランは重おもしく告げた――私の知るアランから何と変わってしまったことか――「そしてこれから先僕が見つめ続けるただ一つの顔だよ」再びあの人はあの娘を抱き寄せた。
 娘は飛び退いた「姉をないがしろにするなんて、アラン!」と叫んで。「いけない。姉がそう願うなら、私たちを引き離しておくのは姉の権利です。姉の望みをかなえて。私は行きます。さっき話した通り。アラン、お願いだからそうするだけの勇気を、姉の求めに応じる勇気を私から取り上げないで!」
 夕闇の暗がりの中で、二人は顔を見合わせ、立ち尽くしていた。私がもたらした傷口は赤く腫れ、じくじくと彼らを責めた。「私たちはあの人を不憫に思わなければならない」テリーザはこう言った。思えばこの尋常ならざる話の間、テリーザの顔には苦悩があった。アランの顔には一層大きな苦悩があった。その時、生ある者と私の間には修復する術もない大きな裂け目が生じたのだ。私の中の生者としての最後の感情が――間違いなく粗野でいじいじした性格のものが――慈悲の炎となって燃え尽きた。私はアランを掴む氷の腕を緩めた。心の中で、地上のものではない新たなる愛が、彼への愛が花開いたのだ。
 しかしながら私は、この新しい体験のもとでは捌くのが困難な問題にぶつかっていた。二人が一緒になって欲しいと、私が付けてしまった傷を癒やして欲しいと願っていることをどうやってアランとテリーザに表明したらいい?
 悲しみ、憐れみつつ、その夜と次の日いっぱい二人のそばにいた。その日の終りに私は大きな決断を下すべき地点にいた。テリーザが決めた別れの日、アランを一人残して立ち去るその日、その前に残された短い時間のうちに、私が二人の定めを甘受するつもりなのだと信じてもらう一つの道が目の前に開けているのに気づいた。
 その夜も更け全てが寝静まった時、私はあらん限りの力を振り絞った。これほどの努力が必要となることは二度とあるまい。あの二人、アランとテリーザが私のことを考える時、今宵の私を思い出してくれますように、そして私自身の幾千もの苛立ちや利己心が萎み、彼らが寛大な心でそれらを忘れ去ってくれますように。
 それなのに、あくる朝、テリーザは予定通り旅装で食事に現れた。上の階の妹の部屋では荷造りの音がしていた。短い食事の間、二人はほとんど言葉をかわさなかった。だが、食事が済むとアランが言った:
「テリーザ、出発までにあと三十分あるね。ちょっと上に来てくれないか。僕が見た夢のことを話さなければならないから。」
「アラン!」妹はあの人を見た。戦きつつも一緒に上の階に向かった。「それはフランセーズの夢ね。」静かにこう言うと、並んで図書室に入った。
「夢だと言ったかな? だが僕は目覚めていた――完全に目覚めていたんだ。眠れないまま時計が鳴るのを二度聞いた。ベッドの上から星を見上げて、考えていた――君のことを考えていた。テリーザ――彼女が来た。僕の前に立っていた。僕の部屋で。薄っぺらい亡霊なんかじゃない。わかるだろう、フランセーズだった。文字通り妻だった。どうしてか分からないが、僕は知っていた。妻には何か僕に伝えたいことがあるのだと。僕はその顔をじっと見たまま待ったよ。少ししてそれが届いた。正確に言えば妻は口を開いたわけじゃない。音は全然聞こえなかった。それでいて伝わってくる言葉は間違いようがなかった。『テリーザを行かせないで。そばにいて大事にしなさい。』こう言ったんだ。そして消えてしまった。夢だったのだろうか?」
「話すつもりじゃなかったけど。」テリーザは熱を込めて答えた「でも今は話さなくちゃ。本当にすごいことだわ。アラン、時計が打ったのは何時だった?」
「最後に聞いたのは一時。」
「ええ、私もその時間に起きていた。姉は私のところにも来たの。目には見えなかったけれど、腕を回して頬にキスしてくれた。たしかにそう、間違いなくそう。声も聞こえた。」
「そして挨拶したんだね――君にも。」
「ええ、あなたと一緒にいなさいって、二人が話をしていると嬉しいって。」妹は微笑みながら涙を流し、コートの前を合わせ始めた。
「ならいま出ていくことはない――こうなったら!」アランは叫んだ「わかっているだろう、それはだめだと。フランセーズがそう頼んでいるんだよ。」
「だったら、私みたいにあなたも信じるの? あれは姉だったと。」テリーザは問い詰めた。
「理解できないけど、そうだと判っているよ」とアラン「では、もう行かないんだね?」

   ***

 私は解き放たれた。我が懐かしの家に再び我が姿の通うことなく我が声の伝わることもない。我が地上の自己はかそけき木魂としてさえ残らぬ。あの二人、私が娶せた二人にとって、私はもはや無用の存在だ。彼らのもとには感覚の殻に住まう者の知りうる最上の歓喜がある。我がもとには不可視の空間の超越的な歓喜が。

   ***


翻訳について

 底本は Project Gutenberg の Dorothy Scarborough (ed.) Famous Modern Ghost Stories(http://www.gutenberg.org/ebooks/15143)です。この翻訳は独自に行ったもので、先行する訳と類似する部分があっても偶然によるものです。こういう地味な佳品こそプロの手で訳してほしいものです。
 この訳文は Creative Commons CC-BY-SA 3.0 の下で公開します。だまし討ち的に著作権保護期間が延長された現状で、ほとんど自由に使える訳文を投げることには多少の意味があるでしょう。
 固有名詞:Theresa、Allan、Frances





This is a Japanese translation of 'The Shell of Sense' by Olivia Howard Dunbar.
   2019(令和元)年7月21日初訳
   2019(令和元)年10月14日最終更新
※以上は、'The Shell of Sense' by Olivia Howard Dunbar の全訳です。
※この翻訳は、「クリエイティブ・コモンズ 表示 3.0 非移植 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja)によって公開されています。
Creative Commons License
※元のファイルは、http://www.asahi-net.or.jp/~YZ8H-TD/misc/ShellOfSenseJ.html にあります。
翻訳:The Creative CAT
2019年11月14日作成
青空文庫収録ファイル:
このファイルは、著作権者自らの意思により、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)に収録されています。




●表記について


●図書カード