四人

芥川多加志




 突然、すこしおそろしい音がした。それから、どたんばたんといろ/\の物音が矢つぎ早にしたかと思ふと、しいんとなつた。
 はじめにした声は、俊一がその弟を叱りつけたのである。何か気に障つたことがあつたのだらう。弟と向ひ合つてゐて、俊一は突然怒鳴つた。そして、ちよつと仁王様に似たやうな顔付になつたが、その自分の怒つた顔に自信がないために、どこか抜けたところがありはしないかといふ怖れに駆られた、といつた様子でつと立上り、ばり/\と襖を押し開けて奥の間の自分の室へ行かうとした。何か重大な国際会議の席上から脱退する悲壮な日本代表のやうな調子であつた。ばりつと風を巻いて室から出ようとする時、壁に吊してあつた瓢箪が落ちた。勿論、俊一は、あつといふ間にその瓢箪を片足あげてふんづけた。気が立つてゐる時は、かういふ品物を一気に粉みぢんにするのは気持のいいものだ。が、あれほど俊一が力を籠めたにも拘らず、瓢箪は潰れなかつた。のみならずつるりと外れて俊一の足をすくつたから、彼はよろよろとして、危くひつくりかへるところであつた。怒り心頭に発した彼は、勿論電光石火の敏速さを以て瓢箪を潰さんともう一度試みるべきであつたし、又試みようとしたのだが、具合の悪いことに瓢箪は彼の足からすこし離れたところに在つた。それで、不覚にも彼は躊躇してしまつたのである。ちよつとの間、彼は足を出したものかやめたものかとぴく/\させてゐた。彼は、はたから見てゐて、それがどのくらゐ哀れな可笑しさを唆るものであるかといふことに忽ち気がついた。その上、尚悪いことには、すこしも騒がず坐つたまゝであつた弟の方をちらりと見てしまつたのである。弟は、意地悪さうな目付をしてにやりと笑ひかけてゐた。
 俊一は、それからどしん/\と足音をさせて暴君のやうに廊下を通過して自分の室に入ると、机の前に出来るだけ力をつけてどかりと坐つた。同時に両手で頭を抱へた。今のみつともない手ちがひが、彼の頭の中をあつさりと掻き掻き廻したのである。時々、ウウと低い唸り声を発した。自分が怒つたそも/\の原因は、もう忘れてしまつた。それより自分のみじめさと滑稽さが自分に分つたといふことが重大であつた。今、それが嵐のやうに草木を薙いでゐる。彼は閻魔大王の前にでも居るやうに平伏し、やたらに頭を下げ、夢中になり、なんだかボーフラや蚤の子や蜘蛛の子なぞがうじや/\してゐるんぢやないかと思はれるやうな暗くてべた/\したところを手足をめちやくちやに振り廻し、前後左右も知らず駈け廻つてゐた。これは、精神錯乱といふものかも知れない。しかし彼は、昨晩のうちに胃の腑へ収めた莫大な量の落花生と、同じく莫大な量の煙にした煙草と、これらが往々にして人間の頭に重大な影響を及ぼすといふことはもう、忘れた。
 窓から、平凡な景色が見えた。瓦があつて、青い木が生えてゐる。それから瓦、青い木、瓦、青い木、遠くに昔風の火見櫓がある。今日は、雲が低くて、みんな、雀まで息苦しくつて耐らないといふ風にだまつてゐた。こんな日は、平凡である。
 俊一は、すこししてから急に顔を上げた。そして、しばらく、ぼんやりと何かを見つめてゐた。自分の眼球の表面を見てゐるやうだつた。それから、顔は動かさずに、あまり大きくない眼の玉を精一ぱい下に向けて机の上の置時計を見た。止つてゐた。そして、今度はぐるり/\とその眼玉を二、三回廻して見た。ついでに壁にかゝつてゐるセザンヌの絵を見た。どうやら彼は、この運動に興味を持つたやうである。今度はゆつくりと、ぐるうり、ぐるうりと廻し始めた。視線の軌跡の中に、汚れた壁に走つた罅と、黒い小さい虫と、帽子掛と、舶来煙草の箱と、買溜めして積上げた原稿用紙と、罪と罰第一巻と、「独文法講義」と、模型の小さなされかうべと、風邪薬「一効散」があつた。眼の廻転を止めると、はじめて頸の筋肉を軟かにして手を伸ばし、本棚から本を一冊とり、ふわつと開いて机の上へ置いた。それから巻煙草を一本出して、火をつけて、口にくはへた。忽ち機関車の如く夥しい煙が吐き出された。蜘蛛が驚いて逃げた。それから本を、眉を寄せて読み始めた。書名は、ラ・ロシュフウコオ箴言集。いつまで経つても、頁は繰られなかつた。同じところを読んでゐるのである。
 そのうちに、俊一は、又突然頭を抱へた。ウウといふ唸り声が又洩れた。それから、決然とした様子で顔を上げて、「馬鹿!」と言つた。すると、悲しさうなだらしのない表情がその顔を掩つた。その実に見つともない顔付がかなり長くつゞいた。かういふちよつと形容出来ぬ顔付を時々するのがこの男の癖である。やがてもう一度、「馬鹿な」と呟くと、矢庭にぶるぶるぶるんと顔を左右に猛烈に振つた。そのためにあの表情は振り落されてしまつたらしく、今度は哲学者のやうな、詩人のやうな、ちよつと気取つて眉をしかめて、さつき開いた本の活字を睨み出した。が、すぐぱちんと閉ぢて、そろりとその本をもとあつたところへ収めた。そして渋い顔をしながら、「ええと、要するに……」と独り言を言つた。要するに、今見た本はおれにはちつとも分らなかつたのだ、と云はうとしたらしい。
 さて、それから独り言は続く。独り言の趣味である。自分で自分の言葉を無意識に飴の如くしやぶりながら独り言を云つてゐる。
「ふうん…………ふうん…………いや、愚劣なことだ…………愚劣!…………まあ騒ぐなよ、騒いでもしやうがないぢやないか…………ああ…………ためいき出るね…………ほう?…………ためいき出るね…………ためいきの分類か、冗談ぢやないよ…………いまは分類がはやるからなあ…………」
 ここまで来ると、彼は急に突拍子もない声を出した。
「おや、お、ぼうぼう火が燃える…………カチカチ山か、ちよつと懐しいな…………いや、懐かしくもない…………それで思ひ出したんだけれど…………何を…………忘れてしまつた…………おれはよつぽど馬鹿な男と見える…………そりやさうだらう…………何がさうなのだ…………あああ、と云はざるを得ないね…………デカダンスの秋…………気取つたことを云ふなよ…………僕はそんなことがあるなんて信じられません、か…………名せりふ…………何云つてやがる…………月を見るのだ、月を…………われら忽ち寒さの闇に陥らん…………やがて冬…………冬はさむいな、いやだな…………狐も冬ごもり…………」
 俊一は突然その独り言をやめた。しめた、といふ顔付で机の引出しを開けた。奥の方にノートがある。それを出して机の上に開いた。ありきたりのノートで、ヴァリエテと表紙に書いてある。これは、彼の感想録である。何やら文句が、二、三行づつあけて、あまり上手でない字で書かれてある。みな、つまらぬ。彼自身もそれを自認してゐる。が、棄てる気になれない。何か勿体ないやうな気がするのである。けれどそのつまらない文句を保存しておく理由を発見するため、彼は日夜何か素晴らしい文句はないかと頭を悩ましてゐる。それを見つけられなかつたらこのノートを後生大事に保存しておく理由はなくなる。存在理由のないものは、無駄だ。それは棄てられねばならぬ。が、このノートは棄てられぬ。矛盾。おお駄目だと時々考へるけれど、このノートは棄てられない。そこで彼は殆んど必死にうまい文句を考へつかうと努力する。時々、ちよつと気が利いてゐると思へる文句を見つけるけれど、二、三日するといかにも平凡なつまらない文句と化する。そこで彼は永遠に常にうまい文句を探求せねばならない羽目に陥つた。すこし、馬鹿といつた感じがする。阿呆である、と彼自身も思つてゐる。
 さて、彼は、しめたといふ顔付で、そのノママトを開いた。そしてぱら/\と頁を繰つて、ペンをインキに浸し、「狡猾にして悪辣、だが、狐ほどのスマアトさはない。」と書いた。書いたと思ふと、さつと吸取紙で紙の上を掠め去り、さつと勢よく閉ぢてさつと引出しの中へ滑り込ませた。そして、すこし笑つた。けれど、ぢきにそは/\し出して、ものの一分と経たない内に我慢が出来なくなつたやうに引出しを開けてノートを引つぱり出して今書いたところを開き、じつと自分の字を見つめた。そして急に思ひ当つたやうに、なんだ、これはおれのことぢやないか、と独り言を云つた。
 このあたりで、彼は少し朗らかになつてもいい筈であつた。実際、だん/\気が晴れて来たやうであつた。
 と思つたのは間違ひであつた。なるほど、太陽は朝からの雲を突き破つて、てらてらと輝き、そこら一面ふわあつと蒸発するやうに明るくなつて、俊一のみじめな暗い顔は、その光の反射を受けてすこし違つた風になつたけれど、ほんとはやはり元のまゝだつた。そして両手で頭を抱へ込んで、いはゆる、穴あらば入りたしといつたやうな格ママになつた。若しそこに何か穴があつたら、そのまゝもぞ/\と潜り込んでしまふであらうと思はれた。
 ところで、話は別だが、俊一は、弟と女中と三人で暮してゐる。主に、兄貴の方が働く。職場は、新聞社、雑誌社、自宅。このごろは、自宅が多い。ものを、書くのである。それから、親父から相当の援助をしてもらふ。この方が重大である。まあ、大体そんな生活。これ以上書くのは不必要だ。今度の事件のそもそもの原因は、弟の不行跡にある。ありきたりの不行跡である。だから、そんな、金をすこしたくさん使つてしまつたなどといふ平凡な過失に対して腹を立てるのは大人げないな、と俊一はすこしの間考へてゐた。けれど、もう怒つてしまつた。怒つた以上はこちらの権威を示さねばならぬ。権威を示さうとして、瓢箪をふんづけて、ひよろ/\した。瓢箪は健在であつた。だから甚だ不充分である。その上、まづいことをして後を振り向いたら、弟の奴、笑ひやがつた。……かういふことをくど/\と不本意にも思ひ出してゐる内に、動きのとれなくなつた自嘲の波の中で、彼はウオーと叫んで、手足をやたらに振り廻したくなつた。やつて見よう。ウオー。それから勢をつけて立上つて、ちよつと悲壮な気持になつたけれど、手足を振り廻すことは止めた。自分で自分の馬鹿さ加減に気がついたのである。
 怒は、そのうちにだん/\と増して行つて、どうしても弟に対してもうすこし兄貴の権威を示さねばならぬと考へた。弟め、今ごろはおれの阿呆さを笑つてゐるだらう。いや、恐らく……おれなんか無視してゐるのかも知れない。平気で、おれのことなんか気に留めずに、好きな本でも読んでゐるのだ。……無視! この言葉を口にすると、俊一は、頭が傘のやうにつぼまつて、天辺から細い粉になつて空中へ四散して行くやうな感じのする程の憤怒をどうしやうもなかつた。
 その時、彼は、ふとママ軒の菓子のことを思ひ出した。近所の荻軒と[#「荻軒と」はママ]いふ菓子屋兼喫茶店の菓子はなか/\うまい。週に二、三回、いまごろ売出される。今日はその日だ。しめた。彼は、非常に得をしたと思つた。
 菓子のことを思ひついたからと云つて、怒ることは忘れなかつた。それほど正直ではないのである。――先づ、怒る。襖を荒々しく開けて、弟と向き合つて、怒る。おまへは何て男なのだ。それでいいと思ふのか。考へたら分るだらう。もういくつになるのだ。おまへの親は……とにかくうんときめつけてやらなければ。なるたけ長くかけて、十分じゆつぷん以上、云ふ必要がある。ぎゆつと押へつけて、それから、すこし優しい調子で、かう云へばいい。おれはちよつと外出して来るから、その間に、自分のしたことをじつくり考へて、悪かつたところを捉へるのだ。家のなかに一人で静かに考へてごらん。自分の悪かつたところをしつかり捉へるのだよ。さうして、いつも、それと格闘する気でゐたら、いいのだ。いままでのおまへは、すこし反省といふことが足りなかつた気がする。静かに、真剣に考へたら、いままで逃してゐたものが、ぢきに分るだらう。さうだよ、きつとぢきに分るよ。……ぢや、ちよつと外へ出るから。……
 ばりつと襖が鳴つた。壊れかゝつてゐるのだからしやうがない。開けるときはばりつといつて、閉めるときはぎゆうといふ。速く閉めるときひいつ、とおそろしい音を上げる。俊一は、襖を押し開けて、廊下を歩いて行き、その間に顔の筋肉を適当に動かして厳めしい顔を作り、ちよつと心構へして、茶の間の襖を力一ぱい押し開けた。誰も居なかつた。ちよつと拍子抜けがした。厳しく作つた顔が卑屈な用心深さでだん/\とほぐれて行つた。それから、他の二、三の室を、そのたびに顔を作つて、のぞいて廻つた。便所の前にも立止つて見た。どこにも居なかつた。もう、おそろしい顔付をする必要はなくなつた。女中は、今日遊びにやらしてある。俊一は、弟が外出したと思はざるを得なかつた。そして、一人で怒り出した。何か感歎詞を発したくらゐである。おれには一言も断らないで外出した。けしからん。俊一は、弟が自分を無視したといふことに腹を立てゝゐたのだが、それ以上の無視である。と彼は思つた。けしからん。どろぼうに入られたらどうする。どろぼうが、開放した玄関から忍び込んで、金や、机や、釜や、時計や、そんなものを盗んだらどうする。おれは、莫大な損害を受けるのだ。金と引換ならまだしも、無償ただで、おれが金をかけて買つたものを取られてしまふのだ。彼は、いきふさがりかけたと感じた。そして、すこし、あわてたと思つた。それから急にはたと手を拍つて、門のところへ飛出した。鍵がかかつてゐた。彼は、今度はほんたうに息が塞つたと思つた。そして、戸の格子につかまつて、オランウータンの如く二、三度がた/\と揺つて見た。自分でも何故だか分らなかつた。何か、絶海の孤島へ一人だけおいてきぼりを食つたことを想像するときの、死ぬやうな、頭の皮が四散するやうな、食道が裏がへるやうな絶望感を感じた。それから一度冷たくなると、改めて、ウームと云つた。きつと萩軒の菓子を目的に出て行つたに違ひない。なんと、兄貴を家の中へ閉ぢ込めて行つた。……
 俊一は茶の間へふらりと入つて、どかりと腰を下した。そして、壁の割目を見てゐた。時々、溜息をした。やゝ情ない表情であつた。さつきの厳然たる態度は消えてしまつた。さうして、すこしぼんやりしてゐた。
 日の光が窓から射し込んで、ふわん/\鳴つてゐた。近頃にないいい天気らしい。日光と空気は実に適当で、あらゆる生物が満足し切つて一言の不平もなくだまりこんでこの陽気を楽しんでゐるやうだつた。それを見ながらすこしぼんやりしてゐるうちに、やがて俊一は、気を取り直した。立上つてのこ/\と庭へ出て行つた。前からやつて見たいと思つて居たことを試す気になつたのである。狭い庭の端の方へ行つて、手をのばして垣根につかまつた。ちよつと、丈夫かどうか試して見た。そして、用心深く足に力を入れて、伸び上つた。首だけ、垣根の上ににゆつと出た。往来には誰も居なかつた。すこし様子を見てゐたが、誰も来さうになかつたので、そうつと垣根の上によぢ登つた。そのとき、誰かが向ふの横丁からやつて来る気配がすると思つたので、急いで往来へ飛び降りた。足を、すりむいた。誰も来なかつた。あわてた、と小さな後悔を感じた。それから、やゝ得意になつて、大通りの方へ歩いて行つた。風が、この三十近い男の髪の毛をもてあそんだ。
 雲がいつの間にか吹き払はれて、実にいい天気だつた。やつぱり、春はいいな。俊一はさう思つた。しばらく、他のことは何も考へなかつた。この男が、珍らしいことである。それほど、いい天気だつたのだ。気持のいいこと。鉄道線路づたひの草ばうばうの道へ出ると、木がたくさんあるために、若葉の匂ひがずゐぶんした。アスファルト以外のところは、草がぎつしり生えてゐた。アスファルトがぼろぼろに綻びてゐるから、道は田舎道のやうに草に埋もれてゐる。日光が、きれいだつた。木の葉を通して、大きくなつたり小さくなつたりするいろんな斑紋を地面や草むらに描くと、日光は一そう美しかつた。空は、板のやうにつる/\してゐるやうでもあり、逆に限りなく深いもののやうでもあつた。けれど、その蒼さが、素晴らしかつた。その青と木々の緑とは、双生児のやうに同じなのぢやないかと思はれた。東京にこんな気分のところがあるのは、ちよつと信じられなかつた。他の人はともかく、俊一は、ここでこんな気分に浸ることはめつたになかつた。それで、嬉しくなつて、どん/\歩いて行つた。
 やがて道は下り坂になつて、大通りへ出た。ガアドをくぐり、淡々荘アパアトの前を通り、誰とか邸の門前を過ぎると、少々くたびれて来た。例の萩軒はもうぢきである。
 萩軒のことを考へたので、俊一は弟との喧嘩のことを思ひ出してしまつた。けれど、ごくあつさりとであつた。ざつと概略が頭の中を通過し、すこし憂鬱と憤りを流してすうつと消え去つた。俊一はそんなに気に留めなかつた。さつき彼を朗らかにした日光が、その功徳を顕はして、忌はしい影を追ひ払つたか、又は、彼の頭をやゝ痴呆状態に陥れたのだ。ともかく彼はそんなことにはあまり患はされずに歩いて行つた。
 やがて十字路がある。人が雑踏してゐて、彼はすこし不快になつた。第一、電線がこのあたりでめちや/\に空間をつてゐるので、こんなきれいな空のときはよけいにいやであつた。店も、このへんは下品である。なんとなく下品である。このへんは、感じが悪いのだ。俊一はいつも避けて通ることにしてゐるが、今日はどうしたのか来てしまつた。下品か。それは問題だな。と彼は考へた。この人々から見ると、おれなんか上品過ぎるのか。第一この人々は、そんな品のことなぞ考へてやしないんだ。考へてゐないといふことは、別の規準から云つて品がない、といふことになるかな。又はそんなものを超えてるつてことになるかしら。
 あまりいい天気過ぎるので、俊一はすこしぼうつとなつたに違ひない。彼は、面倒くさい、と云つて考へることを止めてしまつた。けれど、不快だけは残つた。
 十字路をちよつと過ぎると、どうしたわけか、彼は向ふからやつて来る弟とばたりと顔を合はせた。あつ、と彼は驚いた。弟の方でも大分驚いたらしい。ほんのちよつとの間、二人は大きな目をして見つめ合つてゐた。それから突然、弟は兄の方へ進んで来た。と思ふと、すつと横をすり抜けて十字路の方へ行かうとした。すり抜ける時、俊一は思はず弟の腕をつかんだ。弟は構はず歩いて行つた。俊一は格別強く握つてゐたわけではないので、手は引き放されてぶらんと下つた。弟はどん/\人混みの中を縫つて、消えてしまつた。俊一はぼんやり見てゐた。こんなところでは、喧嘩も出来ないではないか。彼はそのまゝ萩軒へ入つた。
 中へ入つても、ぼうつとしてゐた。何が何だか分らなくなりさうだつた。といふのは、そんなに深刻な意味でない。何だか、考へるのが面倒くさくなつたのだ。おれは家を出るとき、ひどく怒つてゐたな。それから、歩いてゐるうちに、少しへんになつた。頭の中から何か一部分を持つて行かれた見たいだ。或は、阿呆になつたのかも知れん。数々の事件をつなぎ合はすことが出来なくなつてしまつたのかな。さうしたら、へんなことになるぞ。今大喧嘩したやつのことを忽ち忘れて、そいつに普通の調子で話し出す。相手は、こいつ狂つたなと思ふ。おれは、狂つたのかな。いや、そんなことはない。たゞ日の光にあんまり照されたから、すこしいい気持になつただけなんだ。だが、弟のやつを、うんとやつつけてやらなければ。兄貴に対して、実にひどいことをしたものだ。(さうでもないのかな。そんなに、腹に一物あつてやつたわけぢやないんだ。ふざけ半分てとこだらうな。あいつは、そんなに悪……)いや、何しろけしからん。うんと云つてやらなければ駄目だ。家へ帰つたら……。
 しかし、おれが垣根を越えたつてことに、さつきばつたり会つた時、気が付いた筈だ。そのことで、おれを軽蔑するかも知れん。あんなに深刻に「ちやんとした人」ぶつた兄貴が……とか何とか考へてるだらう。だが、いいや。口実はいくらでもある。例へば、おまへが急に居なくなつて心配だつたから、探しに出たのだ、とか。ところがあいつ、のんびりと菓子を食ひに出たんだ。……畜生。おれはたしかに抜けてゐるな。……何しろもう一度あいつをこらしめてやらなくちや。
 俊一は、考へるのを止めてしまつた。完全に面倒くさくなつたのである。けれど、弟を是非こらしめることを忘れないやうにしよう、と思つた。
 彼は菓子とのみものを註文して、ぐるりと室内を見廻した。あまりきれいな室でない。古ぼけた額が三枚ある。風景画二つに肖像画。約十五のテーブルの半分くらゐ塞つてゐる。その人々を一通り見廻して行くと、同様に周囲を見廻してゐた一人の男と眼が合つた。これは、友人の坂谷明であつた。
 やあ、と両方で云つて、坂谷の方が立つて、こつちへやつて来た。彼は小さな雑誌社へ勤めてゐる。そして大体俊一と同じやうなことをやつてゐる。この前から四、五日旅行に行つてゐたのだ。
「憂鬱さうだね。」と坂谷。
「うん。」
「元気がないね。」
「うん。」
「いつもそんなに黙つてゐるのか。」
「うん。」
「何とか云へよ。」
 俊一は突然奇妙な調子で云ひ出した。
「この萩軒は古くからある店である。この室では、絵が壁と共に古びてゐる。テーブルは落ちついた光沢を持ち、数世紀以来の人の世の変転が、実にこの光沢の中に知らない間に捉へられてゐる。見よ。まなこを大にして。その光沢を見つめよ。そして数世紀来の人間歴史の苦悶の叫びを感ぜよ。卒然として来り我等を茫ママのうちに残すもの、ああ……咏歎の星河、燦々の星河、極みなき……。」
「それから?」
「それから……何だ。」
「知らんよ、そんなこと。」
「どうかしてやしないか。」
「誰が。」
「ぼくが。」
「してるかも知れん。今の様子だと。」
「今日はすこしへんなのだ。」
「気候に対する順応性に欠けてるのだよ、君は。天気が変るとへんになる。」
「うん、さうかも知れんな。……君は旅をして来たんだらう。どうだつた。」
「別に云ふことはない。すこし、くたびれた。」
「それだけか。」
「それだけだ。」
「今日はいい天気だね。」
「気がついたか。僕は前から気がついてるんだぜ。風が吹いてね、いやな雲をさあつと吹き払つちやつたんだ。ほら、あの優しくつて力の強い風の神様が乗つてゐたんだよ、きつと。さうするとね、蒼空がすつかり拡がつて、もうそりやきれいの何のつて、僕思はず見とれちやつたくらゐさ。おてんとさまがその真中できらり/\と……これはすこしをかしいね? ぴかり/\と……これはもつとをかしいや……きら/\と……ぎら/\と……ぎろ/\と……ぎよ/\と……だめだ、何て云つていいんだかわかんないや……とにかくとても明るく輝いてゐるんだ。ぼかあ、その時、いい天気だなつて思つてゐたんだよ。その時、すぐと気がついたんだよ。君なんかやつと今、気がついたんだね。」
「何を云つてゐるのだい。あほらしい。」
「君のさつきのテーブルの光沢の方がよつぽどあほらしい。」
「僕はどうかしてるんだよ。君はどうもしてやしない。ママ才はもう止めよう。」
「何しろ、君もたまには旅行したまへ。」
「旅行はいいな。」
「君は人生にむづかしい理屈をつけすぎる。」
「怒るな。」
「怒つてやしない。」
「さうか。」
「何だい。」
「何が。」
「君の云ひつぷりが。」
「さうか。すこしぼうつとしてゐる[#「してゐる」はママ]
「人生論なんか考へるからだよ。」
「別に考へてやしない。」
「考へたがつてゐる。」
「うゝむ。」
「むづかしいことさ。」
「何が。」
「いろんなことが。」
「これぢや話になりやしない。」
へんな会話だね。」
「うん。」
「とにかく旅行して見たまへ。槍ヶ岳のてつぺんで天と地を見較べると面白い。」
「こはいだらう。」
「すこしこはい。」
「何故。」
「自分が小さ過ぎるからだよ。又は自然が大き過ぎるのさ。だん/\こはくなる。恐らく自分が汚な過ぎるんだ。その場から逃げ出したくなる。」
「逃げ出したか。」
「逃げ出した。」
「だけど……平凡だね。自分が汚な過ぎるつてこと。」
「平凡だね。僕は非凡なことを感じる力はない。自分に関する事は、僕には凡だか非凡だか分らない。……もう止さう、こんな話。」
「うん。」
「ちよつと、用事を思ひ出した。そのうち、君の家へ行かう。」
 坂谷は立上つて、自分の伝票と一しよに俊一のをもつかんで飛び出して行つた。俊一もついて行つた。
 出口のところで坂谷は、「こんどはおごつてもらふぜ。」と云つて風の如く去つてしまつた。
 俊一は、すこし朗らかになつた気がした。奴さん、相変らずだな。と呟いて、坂谷に何か礼を云ふ気になつた。が、やつぱり根は直らなかつた。殊更に自分をみじめに見まいとしたので、却つてよけいにみじめに見えて来たのである。どうもやりきれない、と思つた。おれもひとつ槍の頂上へ行つて寝そべつて見ようかな。なるほど、気持がいいに違ひない。空気も日光も上等だ。人生もへちまもあるまい。それにしても、弟のやつをもう一度叱りつけてからの話だ。……
 風がさつきより出てゐた。街から外れて、住宅地帯へ入つて、両側に大きな邸宅の並んでゐるだら/\坂を下り出した。並木は桜で、その並木に沿つて行くと小さな公園へ入つてしまふ。何公園といふのか、名は知らない。それを抜けると、間もなく橋。それを過ぎると再び中産階級の住宅地帯である。それからもつと行くと踏切で、或る私設電鉄が走つてゐる。この踏切近くは、なか/\景色がいい。割合ときれいな川がぢやぼ/\と流れてゐる。この辺の人は公衆道徳をよく守ると見えて、川辺には何も穢らしいものは捨てゝないから気持がいい。それから社がある。小さな社だが境内は広い。社殿の後ろの方の境内の一部は荒れはてて、そこから先は低い崖になつて下には人家が連つてゐる。この崖に臨むあたりは、樹木が適当に生え、草も適当に生ひ茂つてゐる。若し傍を通る電車がなかつたら、逢引にはいいところだな、と俊一はここまで来て考へた。神様もゆるして下さるだらう……。
 この時突然、「あら、俊一さん。」といふ声がした。俊一は仰天した。見ると、従妹の良子である。彼は戦慄した。無言で良子の手をとると、ぐい/\社殿の方へ引つぱつて行つた。逢引にいい場所だと考へてゐたので、何か無意識的に狼狽して急いでその場から逃れようとしたのである。社殿の前まで来ると、俊一はほつと息をついた。同時に、自分の馬鹿な動作しぐさに気がついた。良子はわけが分らずあつけにとられてゐた。そして「へんな人ね。」と云つた。俊一は絶体絶命であつた。どうにも言訳の口実が見つからなかつたのである。最後に、苦しまぎれに、かう云つた。「どうもこのごろはすこしどうかして……。神経衰弱ぢやないかと思ふんだ。」良子は何か云はないではならないといつた調子で、「あんまり勉強なさるからよ。」と云つた。それからすぐそんなことは忘れた、といふやうに朗らかになつた。もともとこの女は朗らかな性質たちである。
「今、お使ひに行く途中なのよ。あなたはお散歩でせう。」
 僕は散歩、と云はうとして相手に先に云はれてしまつたので、俊一は仕方なく「うん」と云つた。
「ちよつと休みに寄つたの。通りへ出ませう。おくれちやふわ。あなたお疲れ? そんなら構ひませんけど。」
「いや、僕は充分休んだ。」
「嘘つき。」
「え?」
「あなた、今いらしたばかりぢやないの。」
「あ、さうか。」
「へんな方ね。……これからお休みになるんでせう。」
「いや、もういいんです。」
「だつて。」
「いいんですよ。」
「あなた、今日、すこしどうかしてらつしやるわ。」
「さうですか。」
「さうですわよ。」
「あなたにはとてもかなはない。」
「何が敵はないんですの?」
「わあ、とても敵はない。……いや、そのね、会話の才に於て敵はないんですよ。」
「さうぢやないわ。あなたが今日すこしどうかしていらつしやるからよ。」
 俊一は面目ない、と云つた風な顔付をした。それから、やゝ平静をとり戻して云つた。
「とにかく、歩きませう。時間が無駄です。僕は休みに来たんではないからちつともかまはない。」
「ええ。」
 歩きながら俊一は、だん/\平静になつて行つた。突然、かういふ目に遭ふと、しどろもどろになつてしまふのである。彼はすこし横目を使つて良子の顔を見た。可愛いいな、と思つた。彼女は今年廿歳。彼とは大分年の差がある。けれど、かなり親しくしてゐる。恋愛関係は、ない。
「あなた、今日弘(俊一の弟)さんと喧嘩なさつたでせう。」すこしいぢわるな調子だ。
「……しました。」
「さつき弘さんにお会ひしたのよ。」
「ああ、さうですか。」
「なんだか話してて張合がないやうですわね。」
「同感です。」
「あら、未だなほらないわ。どうしませう。」
「何がです。僕のこと? とぼけてゐるつてことですか。」
「ええ。」
「そんなら心配はない。もうぢきなほります。このまゝずつと続くことは決してない。大丈夫です。」
「まあ。」
 俊一が確信をこめた真面目な強い調子で云つたので、良子はあつけにとられてしまつた。俊一もそれに気がついて、どうしたらいいのか弱つてしまつた。良子が詰問するやうな調子で、
「勉強のやり過ぎは毒ね。」と云つた。
「いや、僕の今の状態は、ほんの一時的なものですよ。もつとも一時的でなかつたら、かうしちや居られないけれど。」
「勉強のやり過ぎが毒でないといふ証明にはなりませんわ。」
「勉強のやり過ぎだけぢやないんですよ。」
「喧嘩なさつたからでせう?」
「ええ……まあ。……おやつ、そのこと、どうして知つてるんです。」
「さつき云つたぢやありませんか……ほんとにどうなさつたの?」
「どうも忘れつぽくていかん。とにかく、あれがあなたに云つたんですね。」
「ええ。今兄貴と喧嘩してゐる、つて。」
「ちえつ、よけいなことを……。」
「あら、何だか御自分がお悪いやうですわね。」
「いや、悪いのは弟です。」
「何故弘さんにお怒りになつたの。」
「然るべき理由があつたからです。女の関はる問題ではない。」
「ひどいこと。」
「ひどくないです、ちつとも。僕と弟との喧嘩に、他の人が関はる必要はありません。」
「関つてますわ。」
「どうして。」
「弘さんがすつかりお話しになつてよ。」
「すつかり?」
「僕もたしかに金を使ひ過ぎたんだけど、兄貴が考へてるほどぢやないんだ、ですつて。」
「それは嘘だ。」
「それでね、若し今兄貴が思つてゐる程、金を使つたんなら、あんなに怒るのも当然だらうが、そんなに僕は使やしなくて、兄貴が何か思ひ違ひをしてるんだ。……」
「ちよ、ちよつと……」
「まあ、お待ちになつて。それから……兄貴は一度怒ると理性を失つちやつて、いや、理性はあり過ぎる程あるんだけれど、それを統御する力を失つちやつて……とかむづかしいことをおつしやつてたわ……とにかく、前後の見境がなくなつて、いくらほんとのことを云つてもてんで分らないから、逆にうんと怒らせといて、こつちは知らん顔をしてゐる、そのうちにその或るポイントを捕へて話し合ひをやる。すると、分つて呉れる。不思議なもので、こつちの云ふことがとてもよくわかつてもらへる。――けれどその『或るポイント』つてやつを押へるのがむづかしいので、なか/\技術の要ることなんだ。ですつて。」
「ほう。ほう。或ひはさうかも知れない。」
「感心していらつしやるわね。」
「感心した。」
「あら。……一体弘さんはあなたがお思ひになつていらつしやる程お金をお使ひになつたんですの?」
「知らない。」
「だつて、そのことで怒つてらつしやるんでせう?」
「さうです。」
「さうでせう?」
「さうですよ。だから僕が間違つてゐたのかも知れない、といふことです。」
「いやにおとなしくおなりですこと。」
「笑つちやいけません。実際、あなたを経て話を聞くと、みんな尤もらしく思へる。僕には。」
「それぢや、弘さんのおつしやつたこと本当?」
「本当でせう。」
「それなら、お怒りになつて、ぼうつとなさつてらつしやる必要もありませんわね。」
「誰が。」
「あなたが。」
「僕は別に怒る必要はない、つてことになりますな。」
「それぢやもう弘さんを赦しておあげになつてもいいですわね。」
「変ですなあ。僕は弟のやつをもうすこし叱つてやらなければならん、と思つてゐたんですがね。」
「さつき怒る原因はない、とお認めになつたぢやありませんか。」
「認めました。」
「ぢやあもういいですわね。」

(一枚抜ケテヰル 作者)

よくなりましたからね。」
「相変らずぢやありませんこと。」
「よくなりましたよ。不思議に。さつき……あなたの涙を見たとき。」
 俊一はさう云つてはつとした。良子は何も云はなかつた。細かい感動がちよつと顔に、特に唇に表はれて、すぐ消えた。それから無言で、二人は公園の端まで歩いて行つた。
「ほんとに、僕帰りますよ。」
「ええ、わたしも帰りますわ。何だか一降り来さうですわね。」
「降りますね。今日はいい天気過ぎたかな。ぢやあ……さよなら。」
「さやうなら。弘さんによろしくね。」
「ええ。」
 俊一はやつと一人になつた。もう何を考へるのもいやになつて、すた/\歩いて行つた。案の定、空気が気味の悪い動揺を始めて来た。太陽は、相変らず空に頑張つてゐる。俊一はすた/\と歩きつゞけて、家の門についた。弟のやつ……と又怒りが出さうになつた。とにかく、中へ入らう。戸に鍵がかゝつてゐるかな。すこし決心みたいなものを持つて、俊一は戸の把手に手をかけた。するすると開いた。それから玄関の格子戸もするすると開けて、中へ入つた。
 弟が居た。新聞を読んでゐた。俊一を見ると、顔を上げて、「おかへりなさい」と云つた。俊一は黙つて腰を下した。不思議と、初めに、疲れたといふ感じが出た。力士すまふが土俵で呼吸をはかるやうに、彼は何だか計つてゐるやうであつた。それから、「おい弘。」と云つた。弟は顔を上げた。頭から怒鳴られるだらうと思つてゐた彼はちよつと意外に思つてゐた。
「おまへ、ひどいことをしたな。戸に鍵をかけて、一人で外出したりして。」
「わるかつた。あやまります。」
「おれはもう怒らん。実は良子さんに会つたんだ。あのひとは、おまへに会つたと云つてゐた。」
「ええ、会ひました。」
「そして、おまへがあのひとに云つたことを、みんな聞いて来た。」
「彼女は正直ですからね。」
「なんだか、おれがおまへを誤解してるつて話だつたが。」
「ええ、兄さんは僕を誤解してます。」
 俊一は、自分がどうしてかう落ちついて話が出来るのか分らなかつた。別に怒る必要もないぢやないか、といふ考へが奇妙に存在して、その考へは否定するどころではなく、寧ろ肯定すべきものだと俊一には思へるやうだつた。俊一としては珍らしいことである。
「誤解してるならそれでいい。改めよう。たゞし、何処で何故誤解したか、そんなことは面倒くさいから考へない。実際今日は疲れたよ。そのくせ、あんまり不快にもならなかつた。坂谷と、良子さんに会つたからかも知れない。」
「兄さんとしては珍らしいな。」
「うん。珍らしいね。」
「良子さん、何か他のこと云つてましたか。」
「いいや。……」
 それから俊一は何か考へ込む風だつた。沈黙がつづいた。その間、雲が蒼空を次第に侵して行き、太陽に迫つて行つた。太陽は逃げ場がなくてうろ/\してゐるやうだつた。そして、とうとう黒いむつくりした触手の中へ捉へられてしまつた。
「暗くなつたな。」
 二人は空を見上げた。それから俊一は、「飯の仕度にかゝらうか。」と云つて腰を上げた。女中は今日遊びにやらせたのである。
「おれが、副食物おかずを買つて来る。」俊一はやゝ疲れてゐるにも拘らず副食物を買ひに出る気になつた。益々珍らしいことである。
 茶の間を出ようとするとき、ふと立止つて弟の方を見た。それから、引返して、弟の傍へ坐つた。
「おまへ、良子さん好きかい。」
 弟は、うなづいた。すこしあわてた。それから、仕方がない、といふ顔付をした。
「別に何でもない。」独り言のやうに云つて、俊一は立上り、外へ出た。拡げた傘へ、最初の雨滴がぽつんと当つた。
「しばらくあいつ一人だけにして置いてやるんだ。仕方がない。」
 間もなく、物凄い雨が来た。俊一は構はず傘を楯にして歩いて行つた。
 今日といふ日は、珍らしい日だつた。俊一自身もさう思つてゐた。けれど、明日は、どうなるか分らない。又もとの、頑固な、利己的な、陰険な、彼自身も限りない嫌悪を抱いてゐる卑怯な暮し方を取り戻すかも知れない。恐らく、さうなるだらう。が、しかし今日だけは、今日一日だけは異つてゐた。今、雨の中を歩いて行く姿。不思議に今日だけ異つた姿。
 雨は烈しい。夏のやうな雨。土砂降りだ。土砂がはね上つて、雨と共に落ちて来る。俊一は、懸命に傘を握つて一人歩いて行つた。雨のため、すぐ近くのものも見えない。ほら、もうその姿は幻のやうになつた。そして、忽ち、水幕の中へ消え失せてしまつた。あとに、雨水が滝のやうにざあつと流れた。一面水であつた。
(了)





底本:「新潮 第百四巻第七号」新潮社
   2007(平成19)年7月1日
※本文末の編集部注は省略しました。
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
入力:フクポー
校正:The Creative CAT
2020年10月28日作成
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