生けるものと死せるものと

ノワイユ夫人 Comtesse de Noailles

堀辰雄訳




なれは生けり。ながおもおほへる青空を呑みつつ、
ながまひをわれはき小麥のごときかてとす。
われは知らず、なれが心うとましくなりて、
   われをゑ死なしむるはいつの日か。

孤獨に、絶えずおびやかされつつ、さすらひゆく
われには、未來もなく、屋根ももはやあらじ。
われはひたすら恐るなり、家も、日も、年も、
   汝がためにわれの苦しみし……

われをとりめぐらせる空氣のうちに、われのなほ
汝を見、心ちよげに汝の見ゆるときすら、
汝がうちなる何物かはわれを棄ててやまず、
   そこにりながら、汝は既に去りゆく身なれば。

汝は去り、われはとどまる、ものづる犬のごと、
日にかがやける砂のうへにひたひすりよせ、
口うごかして、その影をとらへんとすれば、
   蝶は飛び立つてひらひら……

汝は去りゆく、なつかしき船よ。汝をすりつつ、
海はほこりてをらん、遙かかなたなる樂土らくどを。
されども、此の世の重きはいよいよ増さん、
   わが靜かなる廣き港に。

みじろがずにあれ。汝がせはしげなる吐息といき
汝が身ぶりは、蘆間あしまを分くる泉に似て、
わが心のそとに出づれば、ことごとれん。いましばし止まれ、
   わがいこひなる、この胸騷むなさわぎのうちに。

わがまなざしのなが目ざしとひとつになりて燃ゆるとき、
わがひとみの汝に見するは、いかなる旅か。
そはガラタのゆふべか、アルデンヌの森か、
   あるひはまた印度のはちすの花か

ああ、汝が飛躍、汝が出立に胸しつぶされ、
われの手にてはもはや汝をこの世に止め得ずなりしとき、
われは思ふ、やがては汝にも襲ひかからん
   倦怠けんたいすさまじさやいかに。

快闊にして、心り、勇氣ありしなれ
王者のごとくにすべての希望を意のままにせし汝、
汝もまた遂にはかの奴隷どれいの群れに入るか。
   默默もくもくとして、耐へてやせる……

野を、水を、時間をえて、彼處かしこに、
明瞭なる一點として、われは見る、
孤立せるピラミッドに似て、何かするがごとく、
   汝の小さき墓の立てるを。

されど、悲しいかな、その墓のかなた、
汝の最後に往きつく先はわれには見えず、
汝をし戻して、其處に歩み止まらしむるその限界げんかい
   汝をいこはしむるふしどやいかに。

汝は其處にて死してあらん、かのダビテの[#「ダビテの」はママ]やからや、
槍投げするテエベびとの死すごとく。
あるは海べの博物館にて、その灰の目方をわがはかりてみし
   希臘ぎりしやの踊り子の死すごとく。

――われはかつて、或太古の岸邊きしべに立ちて、
烈日れつじつあつさを天のあなどりのごとく耐へつつ、
石棺せきくわんの底にここだ殘れる人骨を見しことあり。
   そがひたひとおぼしきあたりの骨にもわれは手觸れつ。

そのとき、それら遺骨をうち眺むるわれとても、
すでに死者とことならず、ただわれには脈搏あるのみなるを覺えき
わがしなやかなる身の、かかる骨に化するは、
   つかのうつろひに過ぎざれば……

われはかかる恐ろしき暗き運命をもいなまじ、
われはそれらの底なき穴の穿うがたれしまなことなるもよし。
されど、わが生の悦びたりし棕梠しゆろの樹よ、
   わが孤獨の伴侶ともたりし汝よ

ナイル河のごとく、わが心のひろがれる、
神祕なる王國を汝の手にしてをさむるやう、
あたかも打ち負けし王子のおのが劍を與ふるごと
   ものいはずしてわれのゆるせし汝よ。

絶えまなくらげるうみに影をうつして、
みづからの姿を千々ちぢにうちくだく宮殿のごとく、
わが夢も、わが苦しみも、わが悦びも、すべてうちくだきつつ、
   われの向ひてゐし水の流れ、汝よ。

汝もまた、運命に引き入れられて、
かの痲痺したる灰色の群れの一人となりて、
肩に首をうづめしまま、佇みてゐるほかなきか、
   いたくおびえたる容子やうすして。

氷よりも冷たく、目も見えず、耳も聞えず、
宇宙の卵のうちに胚種はいしゆのまどろむがごとく、
汝はにがき蝋になれかし! さらば、親しげに寄りくる
   蜜蜂もすみやかに飛び立たん。

それら亡靈どもの間に無氣力に立ちまじりて
彼らとなげきを共にするのみにては、われは足らじ。
アンドロマク、あるはスパルタのヘレナにも増して、
   人びとのいさかふ目ざしを見しわれは。

わがいとしきものよ、われはわれをいとひ、
又、王女らのもてるにも似し、わがはかなき矜持ほこりさげしむ。
いたましき死より汝を隔つる障屏しやうへい
   炎とすらもなりえぬ我ならずや。

されども、生を超ゆるものはすべて過ぎゆかざれば、
われは夢む、この暮れなんとする夕空の下に、
汝のもはや其處より出づることなき
   時間と空間との永遠を。

――おお、春のごとく美しかれ。雪のごとくたのしかれ。
大いなるつぼのやすらかに閉ざされし内部に在りて、
すべての歌聲うたごゑの、よろこばしきアルペジオとなりて、
   絶えずきあがるがごとくにあれ。





底本:「繪はがき」角川書店
   1946(昭和21)年7月20日初版発行
※国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
入力:かな とよみ
校正:The Creative CAT
2020年10月31日作成
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