「トンネル」に就いて

成瀬無極




 曾て日本に遊んで『日本散策』(本全集の『日本印象記』)『さつさ、よやさ』などを書いたベルンハルト・ケッラアマンは、一八七九年の生れだから、日本流に云つて今年五十二歳になる筈だ。トウマス・マンとヤアコブ・ワッサァマンに次ぐ現代獨逸小説界の巨星である。一九〇六年作の『インゲボルグ』は抒情味の勝つたものであつたが、同九年の『白痴』以後は寫實的心理描寫を試みてゐる。同二十三年に出た『シュウェーデンクレエの經驗』に至つては既に渾然たる圓熟味を出してゐる。ドン・ホワン型のブルジョアが昔の戀人の忘れ形見に愛を感じ、この若い清い魂に依つて復活しようとするが結局寂しい諦めに終るといふ「四十歳の男」の經驗である。主人公の相手役である零落した肺病の歌劇役者はトオマス・マン作中の人物を思はせる。
 ケッラアマンの出世作は『トンネル』(千九百十三年)であつて翌年には既に百十版を重ねてゐる。筋は人も知る如く歐米間を繋ぐ大トンネルの開鑿が計畫せられ、絶大の努力と犧牲とが拂はれたのち終に成功するといふので、一種のユートピヤ物に屬するが、その作風は詩人の他の作とは全然趣を異にして、寧ろ今日の新即物主義の精神に近いものがある。何よりも先づ紐育の眼まぐるしい大都會生活が息苦しいやうな壓力を以て逼つて來る。光、色、音、摩天樓、大群集、自動車、飛行機、ラヂオあらゆる現代的發明發見は茲に先取せられてゐる。約二十年前に於て今日の、或は未來の大都會生活を描出したことは驚嘆に値する。しかも、大トンネルの開鑿といふやうなユートピア的題材を取扱ひつつ、飽迄實證的に數字を擧げて或程度まで讀者を信憑させてゐるのは並々ならぬ苦心の存するところであらう。我々の興味も亦一にこの現代的大冒險と、之を敢行する現代のドンキ・ホーテとでも稱すべき純米國式英雄なる主人公の性格とに懸つてゐる。從來の個人的心理描寫の圈内を脱出して、世界的の大舞臺に乘り出し、世界各種族の代表者を捻出して、水平線下何千米尺の底に活躍させる作者の廣大な視野と、鞏靱な氣力とには驚かざるを得ない。殊にトンネル内に於ける大爆發の慘澹たる光景の描寫は眞に迫り、膚に粟を生ぜしめる。この災禍とその結果である勞働者の暴動とが一篇のクライマックスを成してゐる。茲を境目として作者の興味は會計主任であるカメレオン的人物の經歴と活躍と失脚とに移り、トンネルそのものは稍々閑却せられた觀があり末段は略筆法に依つて急速に竣工の結果を報告してゐる。若しトオマス・マンの如き作者であつたら、更に何百頁を費して最後まで同樣の歩調で語り續けたであらうと思はれる。然し、これはあながち作者の氣息が短かい爲めではなく、むしろ、當初からのプランに從つた結果と、見られる。
 兎も角も、この小説が歐洲讀書界に一大センセエションを捲き起したのは、數世紀前から歐洲人の中にはぐくまれてゐた「米國熱」を煽り立てたからであらう。絶大の金力と強い樂天的冒險心との持主である米國人は彼等にとつて脅威でもあり、また憧憬の對象でもあるにちがひない。そして、この小説の主人公アランは、質實剛健の性格と乾坤一擲的の氣魄と冷靜精緻なる頭腦とを具備した眞に理想的の米國式英雄であつて、あまりに缺點がない英雄であるために稍々吾人の同情を離れる傾きがある。
 これに對して、米國人の小兒的樂天性の持主で、云はゞチヤップリン式の人氣者とも云ふべきホッビイは、かの坑内の大慘事に依つて忽ち白髮の老人と化し、半狂人となつて餘生を送る悲喜劇的人物として描かれてゐる。アランとホッビイとは米國的性格の兩極を示してゐると云つてよからう。そして、會計主任S・ウルフは猶太系種族の代表者と見られる。
 また、アランに配せられた二人の女性モオドと、エセエルとは、米國に於ける二種の女性を代表してゐる。作者が、之を彼女等特有の音聲で端的に區別してゐるのは頗る穿つたやり方と云はねばならない。「亞米利加には女の聲が二種類ある。その一つは柔かい聲で、咽喉のずつと奧から響くので、モオドの話す時がさうだつた、もう一つは鋭い少し鼻にかかつた聲で大膽に押付けがましいやうに聞えるものである。エセエルの聲はそれである。」
 モオドは、むしろ獨逸的、又は日耳曼的女性の型に屬するやうに思はれる。彼女とその愛兒との悲慘な最後はイプセンの『ブランド』に於けるアグネスのそれを思はせる。彼女は、トンネルが生んだ最も貴重なる最も痛ましい犧牲である。エセエルにはヤンキイ女の持つプライドとコケッテリイとパッションと、そして子供らしさとがある。かくして、アランの大事業は月と太陽とに比較せらるべき二人の女性の獻身的愛に依つて完成せられたのである。最後に我々の微笑を呼ぶものは「黄色い猿」と形容せられる日本人であるが、幸にしてこの小説では堅忍不拔な強い責任感を懷く人物として立派な最後を遂げてゐる。そこにケッラアマンの日本人觀が覗はれる。
 要するにこの小説は作者ケッラアマンの「世界散策」の收穫であつて、今や彼はこの散策から再び内界の凝視へと歸つて來たものと思はれる。





底本:「世界文學月報 第二期六號」新潮社
   1930(昭和5)年11月1日発行
初出:「世界文學月報 第二期六號」新潮社
   1930(昭和5)年11月1日発行
※「ユートピヤ」と「ユートピア」の混在は、底本通りです。
入力:sogo
校正:植松健伍
2020年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード