いったい私は日記をつけないし、記憶力の方はというと自分でもあきれるほど悪いのだが、ただ昭和二十年の、つまり終戦の年の十二月二十三日という日付は、私の頭に非常にはっきりと刻みつけられて、いまもって忘れることが出来ない。
十二月二十三日はちょうど日曜にあたっていた。それは、本題からはちょっとはなれた事柄にあたるわけだが、かねて私の恩師の新渡戸稲造先生の銅像が多磨墓地にあったのが、戦争中金属回収で撤去せられていた。これが、戦争が済んだため、幸いまだ鋳潰されていなかったため返却され、それを再び先生の墓の傍に従前通りに復元が出来たので、われわれ弟子どもや縁故者関係者などが銅像を中心に集まって、焼き芋をかじりながら追憶の会を開こうという催しが企てられていた。それが二十三日であって、私なぞも当時多忙な仕事のなかにも、その日の来るのをたのしみにして待っていたわけであった。
いよいよその日に、朝家を出かけようとしたところが、総理官邸から電話があって、幣原総理大臣が至急私に会いたいから官邸に来きくれないか[#「来きくれないか」はママ]という話。そこで家族だけをさきに会に差し向けて私は早速総理官邸に行ってみると、森閑とした日曜日の官邸内の居室に幣原さんはひとりで坐っておられた。
そこで総理は早速ポケットから西洋の書簡紙、二、三枚ぐらいのものに英語で何かしたためてある書面を私に差し示して、
「実はこのあいだうちから、学習院の英語の先生のブライスという人が、しきりに忠告してくれるのだが、こういう際に、天皇陛下がご自身で、いままでよく一般に言われておるような、天皇は神であるという説に対してこれを否定せられ、天皇は別に神ではないのだ。むしろ一人の人格として、敬愛関係によって国民と結びつけられておるのであるということをご自身で宣言せられてはどうであろう。それはいま内外にわだかまっている幾多の疑惑を解いて、今後日本の進路を開いていくのに非常に具合がいいと思うんだが、ちょうど新年に差しかかっておるときだし、いわばお年玉に陛下がそういうことをおっしゃって頂くわけにいかんだろうか、ということをブライス氏がしきりに言う。それはこういう意味なんです」
と言って、いまの書簡紙に書いた文章を私に示された。それは手で書いたもので、非常に筆跡の見事なもので、英語で書いてある。
それが幣原さんの筆跡だか、それ以外の、ブライスという人の筆跡だか、幣原さんの筆跡を知らない私には知る由もないが、とにかく、きわめてなんというか、オフィシャルでない形式で書簡紙に認めたものであった。
私はまずいちおうこれを拝見したが、そこで幣原さんいわく、「あなたも文部大臣としてこういう趣旨にご賛成ならば、なにかこういうことを骨子にして陛下が新年のお言葉をたまわるというようなことを、ひとつ立案してみてくれないか」という話だった。
私は答えて、
「たいへんけっこうなことだと思います。ことにいま、終戦直後、全国民がみんな虚脱状態に陥っておって、今後日本がどうなるかということについて、みんな迷っておるときでありますから、天皇がみずからそういう態度をとられて、神秘的な雲霧を排し、みずから一個の人格として人民とともに進もうと言われることは非常にいいことだと思います。さらにこの機会にひとつ、なにか新しく日本人として行くべき道を、この際陛下のお言葉として積極的に付け加えられたなら、いっそうよかろうと思います。ご趣旨にはしごく賛成ですから、ひとつよく研究しましょう」
と言ったところが、
「それではひとつ頼む。しかし、どうかこれは極秘のうちに事を進めたいと思うから、ほかの閣僚には今のところいっさい秘密にしてもらいたい。またあなたが草案を作られる場合にも、あなた自身が起草に当ることにして、相談する範囲を広げてもらっては困る」
こういうように釘をさされた。これには実は私は少し当惑した。いったい、私はこういう事柄には極めて不得手の方で、すでに最初、文部大臣を引き受けるときも、思想方面の事柄については十分の自信がない事を自認しておって、そのつっかい棒になってもらうために、私よりもむしろすぐれている人材を自分の補佐役にしたわけで、たとえば学校教育局長には、東大から田中耕太郎氏に来て頂き、社会教育局長には朝日新聞の論説委員の故関口泰氏、科学教育局長には、東大の山崎匡輔氏といったような方がたを煩わして、陣容を整えたものである。で、せっかくかような大切な時に、身近の補佐役に協力を頼めなかったのは、心細い限りであった。
ただこの場合、一つだけ幣原さんの諒解を得て、草案を書く場合に、唯一の相談相手として国務大臣内閣書記官長の故次田大三郎君、練達堪能の士として定評のある人だが、この人に万事を打ち明けて事を進める手順がとれた。
なにぶん、もうあと一週間しかない。それまでにまとめて仕舞わなければならないので、力は足りず、心は
「然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ」
詔書全部はつまりこの節にある文句を言いたいために出来たのだということが出来る。
私は草案を書く資料として例の書簡紙を暫時お借りしたが、不用意にも写しも取って置かず、用が済んだらすぐお返ししたので、いま手許にその内容をはっきり示す材料がないが、この第五節の文句はほとんど、原文通りといってよいほどだと記憶する。さらに原文には戦禍を受けたわが国の現況が悲惨な事を述べ、しかし、国民の奮発によって、必ずや立派に再建ができ、やがて世界人類の福祉に貢献なし得る時が来るであろうという意味があったと思うが、それが詔書の第二節目である。それから第三節目にある国家を愛する心がひいては人類愛にまで発展するという点も、表現方法は違うが、その意味はやはりあのメモのなかにあったと思う。
これが大体、幣原さんから頂いたメモと詔書草案との関係であるが、さきに述べた通り、この際、さらに進んで今後国民が向うべき方途として詔書が示すところは第六節目であって、これはメモとは全然関係なく起草せられたものということが出来る。
この第六節で重点を置いている箇所は、
「公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相
これに関連して、一つ私の経験話をしてみたい。私が文部大臣に任命されたのは八月十八日であったが、九月ごろにGHQ(マッカーサー司令部)から呼び出しがあって、教育方針について主任者に話をしてもらいたいという要求があった。ところが、その当時はまだ司令部のほうも陣容が十分整っておらないで、教育の事柄は、マッカーサー元帥の高級副官のフェラース代将が、高級副官のかたわら責任を持っていたらしい。
この人は、軍人だけれども非常にものやわらかな紳士的な態度の人で、開口一番、私に問うには、あなたはいま文部大臣として、今後どういう方針でやっていこうとしておられるか、それを聞きたいという質問であった。私は言下に答えて、
「今後の教育の方針は、日本にはまだシビックスというものが打ち立てられていない。この精神を樹立するのが教育の要務と考える」
と言ったら、彼はにっこり笑って、
「それで結構です。そういう方針でおやりなさい」
問答はそれでお仕舞いであった。シビックスという言葉にしっくり合った日本語はどうも見当らぬように思うので、あるいは公民科とか社会科教育とかいっても、どうもその精神が現わされておらない。人民がひとりひとりの力を合わせて、盛り上げた公共生活、そういうものが欠けているところに、民主政治が育たなかった原因があったと思う。今後はその事を中心に教育を進めていきたい、それが責任者としての私の悲願であった。
それで、起草当時、私の頭に去来した思想はやはりこの公共生活への日本人の開眼ということであった。せっかく、陛下からありがたい人間宣言のお言葉が発せられる時に、この点に触れて頂いたらという考えがあったことは否めないのである。ただこの意味を詔書中に現わさんとする場合に、表現方法が幼稚で用語が不十分であったことを幾重にも恐縮している次第である。
こんな具合で、起案に際して、表現の方法、辞句の選択排列等につき、ああでもない、こうでもないと、しきりに次田君といろいろ相談した揚句、いちおう素案が出来たので、これを陛下のご覧に入れなければならない段取りになったが、困ったことには、幣原さんが急性肺炎になって床につかれたため、ご自身が宮中に行くわけにいかなくなった。
やむを得ず、私が代りに陛下のところに伺って、案文をご覧に入れたのであったが、その時私が深く感じたのは、陛下は極めて平然たる御態度でこれをお受け取りになり、むしろこれを待ちもうけておられたというような積極的なご様子で、早速案文をご点検になり、ある部分は低い御声で発声して朗読されたように私はいま記憶しておる。
その時、天皇が神でないということについて陛下はこういうお話をしてくださった。
「後水尾上皇がまだ天皇の位におられたときに水疱瘡を患われた。ところが水疱瘡を治すには、おきゅうがいいということであったのだが、現人神たる玉体におきゅうをすえるということは許されないという異議が出たために、ついに譲位をなさって、おきゅうの治療を受けられた。まことに不自由な話である」
それにつけて想い出されるのは、これより先き、たしか十二月の初め頃であったと思う。臨時国会の予算委員会で、ある議員から私に質問があった。文部大臣に尋ねるが、いったい天皇は神であるか、神でないか、それを返事しろと激しい口調の質問であった。
そのとき私は、いまのご質問に対しては私はこう言いたい。天皇はカミであり、またカミでない。なぜならば、神という日本の言葉と、ゴッドという意味を持った神との間には非常なちがいがある。私は無学でよくわからんが、日本の神というのは、キリスト教でいうような全智全能の神とか、造物主とかいうような意味でなく、至上至高の地位におられる方という意味ではないか。そこでご質問が、天皇はゴッドのような神だと考えるかと、こうおっしゃるならば、それは神ではないと答えるほかはない。ところが日本の古来からの観念で、現世において最上位にいらっしゃる方であるというような意味ならば、やはりそれは神であると答えなければならんので、神という言葉の意味によって返答がちがうんだ、というように答えて問答はうやむやに終ったことがあった。
さて話を本題にもどすと、草案をご覧になった陛下は一応ご満足になったご様子であったが、静かな口調で仰せられたのには、
「これは結構だが、詔書として今後国の進路としてかように進歩的な方向を指し示す場合に、その事柄がなにも突然に湧き上がったというわけでなく、わが国としてはすでにかような傾向が、明治大帝以来示されておるのであり、決して付け焼き刃ではないという事をも明らかにしたい。そのなによりの例は、明治の最初のときに、明治天皇が示された五箇条の御誓文であって、民意を大いに暢達させるとか、旧来の陋習を破り、天地の公道に基くとかいう思想は、これから大いに万機公論に決していこう。築き上げる新日本の伏線となるものである。だから、なにかそういうような意味も詔書のなかに含ませてもらえないだろうか」ということをおっしゃった。
内容的の事柄について、天皇が発言せられたのはそれだけであったが、それはたいへん重大なポイントであった。
そこで早速再考の旨を言上して退出、次田書記官長ともいろいろ相談した。最初は陛下のおっしゃった五箇条御誓文の内容の一部を詔書の文句のなかに取り入れる方法がないものだろうかと、工夫してみたが、うまくいかない。しまいには連絡役の木下道雄侍従次長、この方は私も青年時代からよく知っている立派な人であるが、この人を交えて種々相談のあげく、結局、五箇条の原文そのものを冒頭に引用した方が、陛下のご趣旨に添うのではなかろうかとの結論に到達して、あのような形になったのであった。それがすなわち詔書の第一節目である。
かような経過で、書き直した草案を再び陛下の御眼にかけて、ご承認を得たのであるが、さて問題は文体である。これまで詔書というものは、非常にむずかしい漢語が使用せられ、難解を極めたものであったが、しかしまた王者の威厳というものが感ぜられなかったわけではない。今や新しい世に入る国民に対する呼び掛けともいうべきこの詔書において、それにふさわしい文体はいかなるものであるべきか。まだ言文一致とまではこの時は踏み切れない。
それにその内容はなんといっても、例のメモが骨子になっているだけに、いかにも英文和訳の臭味から脱し切れない。いくたびか、書き直してみても、なかなかうまくいかない。
その上に、いま言うた点とは少し矛盾するわけだが、いかに新しいといっても詔書には一定のスタイルが保存されてしかるべしと思われるが、われわれ素人にはその辺のコツが一向わからない。字句の詮索など、到底力の及ぶ所ではない。
当初私の考えでは、宮内省や内閣には特別の文章家が嘱託されている。われわれはただ意味を書きつらねさえすれば、あとの彫琢は専門家がやってくれると思っており、次田書記官長もそのつもりでいたが、出来上がった作文をそういう人に渡してみたら、先方はお手上げで、かようなものは今まで全然手掛けた事がないから、直す事が出来ぬと言われて、大いに閉口、そのうちにだんだん日がせまってくる。どうにもしようがないので、とうとう拙劣な文句のまま、お許しを願って世に公けにされる事になった。せっかく歴史的な「人間宣言」を発せられることであるから、文章も難易の別はさておいて、字句において相当推敲を加えたものであることを必要とされるが、それが出来なかったので、自分達の無力と何分焦眉の期日切迫のため、心ならずも、あのような次第となり、実はあの詔書を見るごとに、何か面伏せの感じを禁じ得ないのが私の実感である。
その後時勢の急進とともに、詔書類の文章もすべて平易に口語体という事になったが、あの当時もし専門家の参加があったとしたら、さらにむずかしい漢語が用いられていたかも知れないが、文章は見事なものになっていたであろう。
そういうようなことで、字句のことやらなにやらで、天手古舞いをした結果、漸く元日に発布されたが、楽屋話をすると、前日の三十一日まで、この字句は適当でない、これは間違っているということを話し合って、木下侍従次長に陛下のところに正誤のお許しをお願いして頂いたというようなこともあったように覚えている。
閣議の方はもう前日に付議されて通ったわけで、恐らくこの案は、最後に閣議にかかるまでは、外務大臣(吉田茂氏)のほかは他の閣僚は知られなかったのではないかと思うが、閣議に案がかかったときに、閣僚の銘々は、心中にはいろいろ感想があったろうと思うけれども、なんら別に質問とか意見とかなしに、そのまま通ったわけで、一日に発表になったわけであった。
以上がありのままの、私の知ってる限りの真相である。しかしそれは私の知ってる限りの真相であるから、それ以外にこの事件として背後にどういうことがあったかどうか、それは私の知るところではない。世上にはあの人間宣言はマッカーサー司令部の命令で行われたものとの説が流布されているが、私の知る限りではさような事は少なくとも直接にはなかったということが断言できる。幣原さんの私に言われたところでは、私人たるブライス氏の忠告がもとになっているわけであるが、ある週刊誌の記事によると、ブライス氏がこの事を幣原さんに持ち込む前に、山梨学習院長(山梨勝之進元海軍大将)にこれを説いて、山梨さんの活躍を促したという事になっている。
私はその記事で初めてこれを知ったので、真偽はもとより知らないが、それにつけて想い出すのはブライス氏の山梨氏に対する傾倒ぶりである。詔書問題のずっとあと、私も公職を追放せられてだいぶ時が経過してからであったが、宮内庁長官の田島道治君のもとに夕食に招ばれ、席上初めてブライス氏にお目にかかった。
この方は非常におもしろい人柄で、日本の俳句のまじめな研究者で、東大から文学博士号を得ており、徹底した菜食論者である。そのときのブライスさんの話に、自分は日本でいちばん尊敬する人間が二人いる。その一人は山梨さんで、いま一人は鈴木大拙さんである。もし日本が、山梨さんを総理大臣にして、鈴木大拙さんが大僧正になるような国になったら、日本はけだし理想的な国になるであろうと、まじめな顔して言われたことを記憶する。本問題とは関係のない枝話だが、何かの参考になるであろう。
一月一日にこの詔書が公布されてからの反響はどうであったか。これは海外には大きな反響を呼び、今まで伝説の雲にとざされていた神国日本の天皇が、みずから神性をかなぐり捨てたという事は、日本の民主化につき明るい見通しを与えたようであり、国内にも同様の印象を与えた事であろう。
当初予想したのは右翼方面の反撥であったが、それもたいした事はなく、私のところにもただ一人だけ、老人の方が反対の意味を持って面談に来られたが、ただそれだけであった。
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