利根水源探検紀行

渡邊千吉郎




目的


利根とね水源すゐげん確定かくていし、越後えちごおよ岩代いわしろ上野かうずけの国境をさだむるを主たる目的もくてきとなせども、かたは地質ちしつ如何いかん調査てうさし、将来しやうらい開拓かいたくすべき原野げんやなきやいなや良山林りやうさんりんありやいなや、従来藤原村ふじはらむら三十六万町歩即凡そ十三里四方ありとごうする者はたしてしんなりやいなや動植物どうしよくぶつおよび鉱物の新奇しんきなるものありや否等をきはむるにり、又藤原村民の言に曰く、従来此深山にりて人命をうしなひしものすでに十余名、到底とうてい深入しんにふすることをいにしへより山中におそろしき鬼婆をにばばありて人をころして之をくらふ、しからざるも人一たひを此深山にるれは、山霊さんれいたたりにやあらんたちまち暴風雨をおこしてすすむを得ざらしむ、ただ口碑こうひの伝ふる所にれは、百二十年以前に於て利根水源とねすゐげんたる文珠もんじゆ菩薩の乳頭にうたうより混々こん/\として出できたり、其傍に光輝こうき燦爛さんらんたるものあるをしものありと、此等の迷霧めいむはらさしめんとのこころざしは一行の胸中に勃然ぼつぜんたり、此挙このきよや数年前より県庁内けんちやうないに於ておこなはんとのありしもつね其機そのきを得ず、しかるに今や之を决行けつこうする事とはなりぬ。一行の姓名は左の如し
 技師       小西文之進
 県属第二課地理掛 森下鑛吉
 同        深井仙八
△利根郡長     櫻井小太郎
 利根郡書記    遠藤正太郎
 沼田尋常高等小学校長
          石田勝太郎
△沼田警察署長   吉田忠棟
△沼田巡査部長   坂本武雄
 同 巡査     鹽原甚藏
 沼田収税署長   榎本嘉助
 沼田小林区署長  土屋榮太郎
 同森林監守    長松榮之進
△同        高野峯之進
 利根郡水上村長  木村政治郎
 同 前村長    大塚直吉
△同大字藤原村区長
        中島甚五左衞門
および余をあはせて総計十七名、中途ちうとかへりし者をのぞけば十二名とす、右の三角印は中途ちうとかへりしものとす、此他人夫十九名同道者どう/\しや三人、合計ごうけい三十九名とす、ただし人夫中四人及道者三人は中途にかへりたるを以て、探検たんけん目的もくてきたつせし人員は合計二十七名となす。
因に云ふ、右一行中小西技師は躰量たいりやう二十三貫の大躯たいくなれ共つねに県下巡回じゆんくわいめ山野の跋渉ばつせうれ、余のごときはと山間のさんにしてくわふるに博物採集はくぶつさいしうめ深山幽谷を跋渉はつせう[#ルビの「はつせう」はママ]するの経験けいけんみ、森下深井両君のごときは地理掛としてもつとも其道に専門の人と云ふべきなり、林区署の諸君またしかり、大塚君は前年名佐技師にしたがふて利根山間をさぐりし経験けいけんあり、長髯口辺をひ背に熊皮くまかわよこたへ、意気いき凛然りんぜんたる一行中尤いちじるし、木村君ははじめ一行にむかつて大言放語たいげんはうご、利根の険難けんなん人力のおよぶ所にあらざるを談じ、一行の元気を沮喪そさうせしめんとしたる人なれ共、と水上村の産にして体脚たいきやく強健きやふけん棒押ばうをしに於ては村内の人民あへて之につものなしと云ふ、一夕小西君と棒押ばうをしを試みしも到底とうてい対手あひてに非ざるなり、此他の諸君も皆健脚けんきやくの人のみ、人夫中にては中島善作なるものはりやうの為めつねゆきんで深山しんざんけ入るもの、主として一行の教導けうどうをなす、一行方向にまよふことあればただちにたくみに高樹のいただきのぼりて遠望ゑんぼうし、前途を見究みきはめて進行しんかうせしむ、善作一たび方向をさだめてすすむ時は、その誤らざる事磁石にるよりもまされりと云ふべし、しんに一行中屈竟くつけう好漢こうかんたり、中島鹿吉なるものは躯幹偉大ゐだいに三斗のこめふて難路をあゆむも、つねに平然たることあたか空手くうしゆ坦途たんとを歩むが如し、しんに一行中の大力者なり、林喜作なるものすこしく病身なりしもうをるにたくみなり、皆各其人をたりと云つべし、ことに人夫は皆藤原村及小日向村中血気けつき旺盛わうせいの者にして、予等一行と辛苦しんくを共にし、古来こらい未曾有みそういう発見はつけんをなさんと欲するの念慮ねんりよある者のみをえらびたるなり、じつに一行が首尾しゆび探検たんけん目的もくてきを達するを得たるは、忠実ちうじつ勇壮ゆうさうなる人夫の力大にあづかつてちからありとす。

九月十九日

此日一行は沼田ぬまたより湯檜會に[#「湯檜會に」はママ]着し、夜大に会議をひらきて進路しんろす、議二派にわかる、一は国境論こくけうろんにして一は水源論すゐげんろんなり、国境論とは上越の国界なる清水越しみづごへより山脈の頂上をつね進行しんこうせんとするものにして、つひに頂上より水源をみとめなば水流をふて漸次くだらんとするなり、水源論とははじめより水流をさかのぼりて水源にいたり、山の頂上に出で其後そのご国境こくけうとする所をみてかへらんとするを云ふなり、二派各其困難こんなんの度を比較して利害得失りがいとくしつべ、甲論乙駁容易ようゐけつせず、数時間をつひに水源論多数たすうめ之れに一决す、其議論のはげしきつひに小西技師をして、国境論者こくけうろんしやは別隊をひきゐてべつ探検たんけんすべしとの語をはつせしむるにいたりたる程なりき、もし糧食れうしよくそなへ充分にして廿日以上の日子をつひやすの覚悟なりせば、右両説のいづれをるも同じと雖も、奈何いかんせん十日間の食糧を以て探検たんけん目的もくてきを果さんとの心算なれば、途中如何なる故障こしやうおこるありて一行餓死がしうれへあるやも計られず、為にはやく人家ある所にいづるの方針ほうしんらざるべからざるを以て、く議論の沸騰ふつたうしたるなり。
食糧しよくれうは米一石餅三斗、之れ十七人の分にして皆人夫をしてはしむ、人夫は此他に各自の食糧しよくれうを各準備じゆんびしたり、其他草鞋わらじ二百足、馬桐油うまとうゆ三枚、鰹節かつをぶし数十本及かまなべ味噌みそ醤油しようゆ食塩しよくゑん等を用意したり、又護身の用として余は三尺の秋水しふすゐよこたへ、小西、森下、深井、石田の四君は各「ピストル」を携帯けいたいし、人夫は猟銃れうじう二挺を準備じゆんびしたり。

九月廿日

昨夜来さくやらいしきりにり来る雨は朝に至りて未だれず、はるかに利根山奥をのぞむに雲烟うんえん濛々もう/\前途漠焉ばくえんたり、藤原村民の言の如く山霊さんれい果して一行の探検たんけんを拒むかとおもはしむ、或るものはあめれてち出立すべしと言ひしも、予等の予定よていは最初より風雨に暴露ぼうろせらるる十日間にわたるもあへいとはざるの决心なるを以て、断然だんぜんあめおかして進行しんかうすることとはなれり、しかるにはからざりき、藤原村にすすむにしたがつて雨漸次に霽れきたり、全く晴朗せいらうとなる、けだし天我一行を歓迎くわんげいするの意乎、探検一行無事の吉兆きつてうすでに此の発程にのぞみてあらはれたり、衆皆踊躍とうやくして藤原村をぎ、須原峠を小屋こやいたり泊す、温泉塲をんせんば一ヶ所あり、其宿の主人は夫婦共にたま/\他業たぎやうしてらず、唯浴客数人あるのみ、浴客一行の為めにこめかししる且つ寝衣をも貸与たいよす、其質朴しつぼくあいするに堪へたり、余炉辺にし一客にふて曰く、是より山奥にいたらば栗樹くりありや否、余等一行探検たんけん中途ちうとにして飢餓きがおちゐることあらん乎、栗等の果実くわじつりて餓死がしのがれんとすと、客答へて曰く、栗樹は人家ちかき所にるのみ、是より深山にらば一樹をもあたはざるべしと、余又くりを食する能はざるをたんじ、炉辺ろへんくりあぶり石田君もともに大に之をくらふ宿は、利根とね支流しりうたるの小屋河にのぞみ、河をくだる事二町にし玄道、大龍、小龍の三大瀑布ばくふありてじつに壮観をきはむ、衆相かへりみて曰く、這回の探検たんけんたる此等の如き険所けんしよ数多を経過けいくわせざるべからざるかと、一行皆なゆうして壮快さうくわいさけぶ。
に入れば当宿の主人かへきたる、主人は当地の深山しんざん跋渉ばつしやう経験けいけんありとの故を以て、んで一行と共にせんことをだんず、主人答へて曰く、水源を溯源さくげんして利根岳にのぼり、之より国境を通過つうくわして清水越しみづごえいたらんには、少くとも十数日の日子をえうし、又利根岳より尾瀬沼即ち岩代と上野の国境にでんにも亦十余日をえうすべし、一行が準備じゆんびせらるる十日間の食糧しよくれう到底とうてい其目的そのもくてきを達せず、ことに五升ばかりの米をふをめいぜられて此深山しんざん険崖けんがい攀躋はんさいする如きは、拙者のあたはざる所なりと、だんじて随行をこばむ、衆相かへりみて愕然がくぜんたり、余の如きは胸中大に其無礼ぶれい憤懣ふんまんす、然れ共之れれい放言大語はうげんたいご容易やういしんずべからざるをる、何となれば元と藤原地方の人民はみなつねに這般の言語げんごき、深山にけ入るを禁物きんもつとなす者なればなり、小西君一かつ衆をはげまして曰く、彼は一杯をかたむきたりて酔狂すいきやうせるものなりと。

九月二十一日

あさ須原峠のけんのぼる、偶々たま/\行者三人のきたるにふ、身には幾日か風雨ふううさらされてけがれたる白衣をちやくし、かたにはなが珠数じゆづ懸垂けんすゐし、三個の鈴声れいせいに従ふてひびきたる、之れ予等一行にしたがふて利根水源すゐげんたる世人未知の文珠もんじゆ菩薩をはいせんとする為めなり、各蕎麦粉三升をふ、之をへば曰く即ち食糧しよくれうにして、毎日三合づつ之をに入れてみ以てうへしのぐを得、あへて一行をわづらはすことなけん、つつしんで随行の許可きよかを得んことをふと、衆其熱心ねつしんかんよろこんで之をゆるす、内二人は上牧村の[#「上牧村の」は底本では「上枚村の」]者にして他一人は藤原村字くぼの者とす、信州御岳参みたけまゐり七回の経験けいけんあるをき衆皆之をさうとす、此峠をぐれば字上ヶ原の大平野あり、広袤こうばう凡一万町歩、みづあり良草りやうさうあり以て牧塲ぼくじやうとなすにてきす、今之を不毛にるは遺憾いかんと云ふべし、し此地に移住いじゆうし来るものあらんか、湯の小屋の温泉おんせんまたあらはれて繁栄はんえいおもむくや必せり。
すすんで大蘆村にいたれば櫻井郡長之より帰途きとかる、村をぐればいよいよ無人のけうとなり、利根河岸の絶壁ぜつぺきに横はれる細逕さいけいに入る、すすむこと凡二里にしてみちまつたき、猟夫の通路つうろ又見るをず、途中とちう大なる蝮蛇まむしの路傍に蜿蜒えん/\たるあり、之をへば忽ち叢中さうちうかくる、警察署の小使某ひとり叢中にり、生擒せいきんして右手にひつさきたる、衆其たくふくす、此に於て河岸に出でて火をき蝮のかわぎ、味噌みそりて蒲焼かばやきつくる。衆あらそふて之をしよくす、探検たんけん勇気ゆうき此に於てさうさうきたる、相謂て曰く前途ぜんと千百の蝮蛇まむし応に皆此の如くなるべしと。
いよ/\利根の水源すゐげん沿ふてさかのぼる、かへりみれば両岸は懸崖絶壁けんがいぜつぺき、加ふるに樹木じゆもく鬱蒼うつさうたり、たとひからふじて之をぐるを得るもみだりに時日をついやすのおそれあり、故にたとひ寒冷かんれいあしこふらすとも、水流をわたるのまされるに如かず、され共渉水亦困難こんなんにして水中石礫せきれき累々るゐ/\之をめば滑落せざることほとんどまれなり、衆皆石間せきかんあしき入れてあゆむ、河は山角を沿ふてはなはだしく蜿蜒えん/\屈曲くつきよくし、所々に少許すこし磧礫さいれきを存するを以て、るべく磧上をすすむの方針をる、忽ちにして水中忽ちにして磧上、其変化へんくわ幾回なるをらず、足水に入るごとに冷気はだついて悚然たり、すすむこと一里半にしてきふ暖気だんきかんず、俯視ふしすれば磧礫間温泉おんせんありて数ヶ所にづ、衆皆くわいぶ、此処はあざはな或は清水沢しみづさはと称し、先年名佐なさ技師ぎし地質調査ちしつてうさの為め探検たんけんして之よりかへられし処とす、衆露宿ろしゆくを此にる、人夫十数人拮据勉励きつきよべんれい、大石をのぞきて磧中をり温泉塲二ヶしよつくる、泉石幾年のこけ汚穢をくわい甚しきを以て、先づ饅頭笠にて汚水をいだし、さら新鮮しんせんなる温泉をたたゆ、温たかき為め冷水を調合てうごうするに又かさもちゆ、笠為にいたむものおほし、抑此日や探検たんけんの初日にして、ながく水流中に在りし冷気れいき露営ろえい寒気かんきあはせ来るにひ、此好温泉塲をはじめて蘇生そせいするのおもひあり、一行の内終夜温泉に浴してねむりし者多し、しんに山中の楽園らくえんと謂ふべし、露営ろえいの塲所亦少しく平坦へいたんにして充分あしばして睡眠すいみんするを得、且つ水にちか炊煎かんせんに便なり、六回の露営ろえいじつに此夜を以て上乗ぜう/\となす、前水上村長大塚直吉君口吟こうぎんして曰く
里遠き利根の河原に宿しめて湯あみしてけり石かきわけて
夜半やはん眼覚め、防寒ばうかんの為炉中にたきぎとうぜんとすれば、月光清輝幽谷中にわたり、両岸の森中しんちうには高調凄音群猿のさけぶをく、して水源未知の利根をれば、水流すゐりう混々こん/\、河幅猶ほひろく水量甚おほし、或はいわれて澎湃ばうはい白沫をばし、或は瀾となり沈静ちんせい深緑しんりよくあらはす、沼田をはつして今日にいたり河幅水量ともはなはだしく※縮げんしゆく[#「冫+咸」、U+51CF、139-1]せるをおぼえず、果して尚幾多の長程と幾多いくたの険所とをいうする、いはんや明日よりはまつたく人跡いたらざるの地をさぐるに於てをや、嗚呼ああ予等一行はたして何れの時かよく此目的をたつするを得べき、想ふて前途のこといたれば感慨かんがい胸にせまり、ほとんどいぬる能はざらしむ、され共東天やうやく白く夜光全くり、清冷の水は俗界のちりを去り黛緑たいりよくの山はえみふくんて迎ふるを見れば、勇気いうき勃然ぼつぜん為めに過去の辛苦しんくを一そうせしむ。

九月二十二日

早朝さうてう出立、又昨日の如く水中をさかのぼる、進むこと一里余にして一小板屋いたや荊棘中けいきよくちうつあり、古くして半ば破壊にかたむけり、衆皆不思議にへす、余たちまち刀をきて席にてつくれるとびらおとし、入り見ればせみがら同様人を見ず、され共古びたる箱類許多あまたあり、ふたひらき見れば皆空虚くうきよなり、人夫等曰く多分猟師小屋れうしこやならんと、はからず天井をあほぎ見れば蜿蜒えん/\として数尺の大蛇よこたはり、将に我頭をにらむ、一小蛇ありて之にはる、よつただちに杖を取りて打落うちをとし、一げきのうくだけば忽ち死す、其妙機めうきあたかせる蛇をおとしたるが如くなりし、小なる者はあはれにも之を生かしけり、其のおんかんぜしにや以後又蛇をざりき、蛇は「山かがし」となすなほすすむこと凡そ一里にして三長沢と利根本流とのひに出づ、時猶十時なりしももちあぶりて[#「あぶりて」は底本では「あぶりて」]昼食ちうしよくし、議論大に衆中にく、一は曰く飽迄あくまで従前の如く水中をさかのぼらん、一は曰く山にのぼり山脈を通過つうくわして水源の上にでん、ことに人夫中冬猟の経験けいけんありて雪中せつちう此辺にきたりしもの、皆曰く是より前途はけんさらに嶮にしていう更に幽、数日の食糧をたづさへてるも中途に餓死がしせんのみ、ふ今夜此地に露宿ろしゆくし、明朝出立二日間位の食糧をたづさへて水源探究たんきうおもむき、而してふたたび当地に帰らんのみと、人夫等異口同音かたく此説をる、遠藤君大塚君等大に人夫等をさとせどもつひに長く决せず、吉田警察署長大喝たいかついかりて曰く、余等県知事のめいを奉じて水源探究たんきうに来れるなり、水流をさかのぼり水源をきはめざればすとも帰らず、ただ冒進ぼうしんの一事あるのみと、ひとり身をぬきんで水流をさかのぼり衆をてて又顧みず、余等つゐで是にしたがふ、人夫等之を見て皆曰く、あに坐視ざしして以ていたづらに吉田署長以下のたんやと、一行はじめて団結だんけつ猛然もうぜん奮進にけつす又足を水中にとうずれば水勢ます/\きうとなり、両岸の岩壁いよ/\けんとなり、之に従つて河幅はすこぶちぢまり、困難のじつに水量と反比例をなしきたすすむこと一里にして両岸の岩壁屏風びやうぶごとく、河はげきして瀑布ばくふとなり、其下そのしたくぼみて深淵しんえんをなす、衆佇立相盻あひかへりみて愕然がくぜん一歩もすすむを得ず、是より水上にいたらば猶斯の如き所おほきやひつせり、此に於て往路をりてかへり、三長沢口にはくし徐計をなすべしと云ひ、あるひただちに此嶮崖けんがいぢて山にのぼり、山脈をつたふて水源にいたらんと云ひ、相議するやひさし、余奮つて曰く、水をふて此嶮所けんしよを溯る何かあらん、未だ生命を抛つの危険きけんあるをずと、しふあへて余をさんするものなし、余此に於てやむを得ずかたく後説をる、人夫等岩崖をおほい[#ルビの「おほい」はママ]で唯まゆひそむるあるのみ、心は即ち帰途にくにあればなり、此に於て余等数人奮発ふんぱつ一番、先づ嶮崖けんがい攀登はんとうして其のぼるを得べき事をしめす、人夫等なほがへんぜず、鹽原巡査人夫の荷物にもつわかち取り自ら之をふてのぼる、他の者亦之に同じくす、人夫等つひに巳を得ず之にしたがふ、此に於て相互救護きうごさくを取り、一行三十余名れつただして千仭の崖上がいじやう匍匐ほふくして相登る、山勢さんせいほとんど直立、くわふるに突兀とつこつたる危岩きがん路によこたはるに非れば、佶倔きつくつたる石南樹のたいさへぎるあり、し一たびあしあやまらんか、一てん忽ち深谷しんこくつるを以て、一行の両眼はつねそそぎて頭上の山頂さんてうにあり、あへて往路を俯瞰ふかんするものなし、荊棘けいきよくの中黄蜂の巣窟すうくつあり、先鋒あやまつて之をみだす、後にぐもの其襲撃しうげきを被ふるもあへて之をくるのみちなし、顔面ためれし者おうし、相憐あひあはれんで曰く泣面なきづらはちとは其れ之をふ乎と、午後五時井戸沢山脈中の一峯にのぼ露宿ろしゆくる、高四千五百尺、かへりみれば前方の山脈其中腹ちうふく凹所わうしよに白雪を堆くし、皚々眼を射る、恐らくは万古不融ばんこふゆうの雪にして混々こん/\として利根水量をおうからしむるの大原因たるべし、当夜の寒気かんきおもふに堪へたり、宿所をらんとするも長一丈余の熊笹くまささ繁密せるを以て、皆之を押臥わうぐわし其上に木葉或はむしろきて臥床となす、炉をかんとするに枯木かれきほとんどなし、立木を伐倒きりたをして之をくすふ、火容易やうゐうつらず、寒気かんき空腹くうふくしのぶの困難亦甚しと云ふべし、山巓さんてんてきみづる能はざるを以て、もちあぶりて[#「あぶりて」は底本では「あぶりて」]之をくらふ、餅は今回の旅行りよこうに就てはじつに重宝なりき、此日や喜作なるものおくれていたり、「いわな」魚[#「「いわな」魚」は底本では「「いわな魚」]二十三尾をり来る、皆尺余なり、され共喜作は食糧しよくれうの不足をうれふるにもかかはらず、己がふ所の一斗五升の米をきたれり、心に其不埒ふらちいきどると雖も、溌剌はつらつたる良魚の眼前がんぜんに在るあるを以て衆唯其風流ふうりうわらふのみ、既に此好下物あり、五罎の「ぶらんでー」は忽ちび出さる、二びんたちまたをる人数多き為め毎人唯一小杯をかたむけしのみ、一夜一罎をたほすとすればのこる所は三日分のみなるを以て、巳を得ずあいく、慰労の小宴ここおはれば、鹽原君大得意の能弁のうべんを以て落語二席をはなす、そのたくみなる人のおとがへき、く当日の疲労ひろう寒気かんきとをわすれしむ、其中にもつねに山間に生活せいくわつする人夫輩に至りては、都会に出でたるのかんおこし、大に愉快ゆくわいの色をあらはし、つ未だみみにだもせざる「ぶらんでー」の醇良じゆんりやうを味ふを得、勇気いうきとみに百倍したり、じつに其愉快ゆくわいなる人をして雪点せつてんちかき山上にありて露宿ろしゆくするなるかをわすれしむ。
けうに乗じて横臥わうぐわすれば、時々笹蝨ささむしたいして眼をますあり、痛痒つうしやう頗るはなはだし、之れささを臥床となすを以て、之に寄生せるむしひ来れるなり、夜中吉田署長きうに病み、脉搏みやくはく迅速にして発熱はつねつ甚し、為めに頭をやさんとするもかなしいかな水なきを如何せん、鹽原君ぶる所の劔をきて其顔面にて、以て多少之をひやすをたり、朝にいたりてすこしく快方にむかひ来る。

九月二十三日

朝又もちあぶりて[#「あぶりて」は底本では「あぶりて」]食し、荊棘いばらひらきて山背をのぼる、昨日来もちのみをきつし未だ一滴の水だもざるを以て、一行かつする事実にはなはだし、梅干をふくむと雖も唾液つばつゐに出できたらず、此に於て竹葉上に点々てん/\したたれる所のつゐめ、以て漸くかつす、吉田署長病再発さいはつあゆむにへず、つゐに他の三名と共に帰途きとかる、行者まゐり三人も亦こころさびしくやなりけん、名を食糧しよくれうの不足にたくして又衆とわかる、明日は天我一行をして文珠岩もんじゆいわを発見せしむるあるをらざるなり、其矇眛もうまいなる心中やあは[#ルビの「あは」はママ]むにへたり、のこる所の二十七名は之よりすすむのみにしてかへるを得ざるもの、じつすすりて决死けつしちかひをなししと云ふてなり、すでにして日やうやたかく露亦やうやへ、かつ益渇をくわへ、加ふるに石南しやくなん蟠屈ばんくつ黄楊つけ繁茂はんもとを以てし、難いよ/\難を増す、俯視ふしして水をもとめんとすれば、両側断崖絶壁だんがいぜつぺき、水流ははるかに数百尺のふもとるのみ、いうしてはやく山頂にいたらんか、危岩突兀とつこつまさに頭上にちんとす、進退たに[#ルビの「たに」はママ]まりあへて良策をあんするものなく、一行叢中に踞坐こざして又一語なし、余等口をひらきて曰く、すすむもかた退しりぞくも亦かたし、難は一なりむしすすんでくるしまんのみと、つなおろして岩角を攀登はんとし、千辛万苦つゐに井戸沢山脈の頂上てうじやういたる、頂上に一小窪あり、涓滴けんてきの水あつまりてながれをなす、衆はじめて蘇生そせいの想をなし、めし[#「めしを」は底本では「めしを」]かしぐを得たり、はからざりき雲霧漸次にきたり、四面の峻岳しゆんがく皆頭をあらはし、昨来わたきたれる利根の水流は蜿蜒えん/\として幽谷間に白練をけり、白練の尽くる所は乃ち大利根岳となり突兀とつとつ[#ルビの「とつとつ」はママ]天にてうす、其壮絶ほとんど言語につくすべからず、水源探検たんけん目的もくてき亦殆どここおはれり。
そも/\此日や秋季皇霊祭にして満天まんてん晴朗せいらう、世人はさだめて大白をげて征清軍しんぐん大勝利だいしやうりしゆくするならん、余等一行も亦此日水源すいげん確定かくていするを得、帝国万歳のこえは深山にひびわたれり、水源の出処すであきらかなれば、したがつて越後と上野の国界とすべき所もさだまり、利根とね山奥の広袤こうばう概算がいさんするを得たり、此上は上越二国の間によこたはれる利根とねの山脈に攀登はんとうし、国界をさだめて之を通過つうくわし、尾瀬おせが原を戸倉とくらかへるべしと、たちまち一决す、之によりて戸倉にいたるを得べき日数もあらかじ想像さう/″\することを得、衆心はじめて安んじ、犠牲ぎせいに供したる生命せいめいからうじてたもつを得べからしめたり、しかりと雖も前途ぜんとけんます/\けんにして、人跡なほ未到のはたして予定にちがはざるなきや、之をおもへば一喜一憂交々こも/\いたる、万艱をはいして前進ぜんしんし野猪のゆうを之れたつとぶのみと、一行又熊笹くまささ叢中さうちうに頭をぼつして、嶮崖けんがいくだり渓流をもとめてはくせんとす、れてつゐに渓流にいたるを得ず、水声ちかく足下にあれども峻嶮しゆんけん一歩もせせ[#ルビの「せせ」はママ]むを得ず、嵯乎ああ日のるるを二十分ばかりはやかりし為め、つゐに飯をかしぐの水を得ず、又餅をあぶりて[#「あぶりて」は底本では「あぶりて」]くらふ、もちほとんど尽きて毎人唯二小片あるのみ、到底とうていうゑするにらざるを以て、衆談話の勇気いうきもなく、天をあほいただちにづ、其状恰も愁然しうぜん天にうつとふるにたり、あまつさへ細雨をそそぎ来りしが、はなはだしきに至らずして[#「み」はママ]、為めにすこしく休暇きうかすることを得たり。
山の斜面しやめんに露宿をりしことなればすこしも平坦へいたんの地を得す、為めに横臥わうぐわする能はず、或は蹲踞するあり或はるあり、或は樹株にあしささへてするあり、し一歩をあやまらんか深谷中に滑落こつらくせんのみ、其危険きけんふべからず、あだかも四足獣の住所にことらずと云ふべし。

九月廿四日

くるをまつて人夫はなべこめとをたづさへ、渓流けいりゆうくだり飯を炊※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)してのぼきたる、一行はじめてはらたし、勢にじやうじて山をくだり、三長沢支流をさかのぼる、此河は利根の本源とほとんど長をひとしくし、同じく大刀根岳よりはつするものたり、数間ことかなら瀑布ばくふあり、而して両岸をかへりみれば一面の岩壁屏風びやうぶの如くなるを以て如何なるあやうき瀑布といへども之をぐるのほかみちなきなり、其危険きけん云ふべからず、瀑布をのぼ俯視ふしすれば毛髪悚然もうはつそくぜんあしめに戦慄せんりつす、之を以て衆あへて来路を顧みるなし、然りと雖も先日来幾多の辛酸しんさん幾多いくたの労苦とをめたる為め、此険流けんりうを溯るもみな甚労とせず、進程亦従て速なり、あだか四肢ししを以て匍匐ほうふく[#ルビの「ほうふく」はママ]する所の四足獣にくわりたるのおもひなし、悠然いうぜん坦途たんとあゆむが如く、行々山水の絶佳ぜつくわしやうし、或は耶馬渓やまけいおよばざるの佳境かけうぎ、或は妙義山めうぎざんも三舎をくるの険所けんしよみ、只管ひたすら写真機械をたづさへ来らざりしをうらむのみ、いよ/\溯ればいよ/\奇にして山石皆凡ならず、右側の奇峰きばうへて俯視ふしすれば、豈図あにはからんや渓間けいかんの一丘上文珠もんじゆ菩薩の危坐きざせるあり、百二十年以前いぜんたるところの人ありとつとところの文珠岩は即ち之れなり、しゆみな拍手喝釆かつさいして探検者たんけんしや一行の大発見をよろこただちに丘下にいたりてあほぎ見れば、丘のたかさ百尺、天然の奇岩きがんこつとして其頂上にち、一見人工をくわへたる文珠菩薩に髣髴はうふつせり、かたはらに一大古松あり、うつとして此文珠いわへり、丘を攀登ばんとして岩下にちかづかんとするも嶮崖けんがい頗甚し、小西君および余の二人奮発ふんぱつ一番衆に先つてのぼる、他の者つゐいたる、岩に近づけば菩薩ぼさつ乳頭にうとうおぼしき所に、一穴あり、頭上にも亦穴をひらけり、古人の所謂いわゆる利根水源は文珠菩薩のちちよりづとは、即ち積雪上をみ来りしさいゆきけて水となり此の乳頭にうとうより滴下せるをたるをふなるべし、され共水源を以て此処に在りとなすは非なり、水上村長木村政治郎大によろこんで曰く、以後年々此日を以て発見はつけん紀念きねんとなし、村民をあつめて文珠菩薩の祭礼さいれいおこなひ、あはせて此一行をも招待せうたいすべし、而して漸次道路を開通がいつうここたつし、世人をして参詣さんけいするを得せしめんと、人夫中の一人喜作なるもの両三日前より屡々しば/\病の為めにくるしみ、一行も大に憂慮いうりよせしが、文珠岩を発見はつけんするやいなただちに再拝してめし一椀、鰹節一本とを捧呈ほうていし、祈祷きとうときうつおはりてかたじけく其飯をきつす、病漸次にきたり以後つね強健けうけんなりき、人夫等皆之をとし恐喜ところを知らざるが如し、昨朝帰途きときし三人の行者まゐりをしてらしめば、其よろこび果して如何いかなりしか、おもへばいたりなり、かたはらに直下数丈の瀑布ばくふありてはばすこぶひろし其地のいうにして其景のなる、真に好仙境こうせんきようと謂つべし、ちなみに云ふ此文珠岩はみな花崗岩みがけいわよりりて、雨水のくは水蝕すゐいつしたるなり、左に面白おもしろき二首を録す
万世のまどひ開けつ文珠岩
木村君
ももとせも知れぬ仏を見出すは
      文珠の智恵に勝る諸人
鹽原君
是より一行又かはさかのぼり、れて河岸かはぎし露泊ろはくす、此日や白樺の樹皮をぎ来りて之を数本の竹上にはさみ、火をてんずれば其明ながら電気灯でんきとうの如し、鹽原君其下そのしたに在りて、得意とくいべんふるひ落語二席を話す。衆皆労をわすれてす。

九月二十五日

未明みめい食事をおはりて出立し又水流すいりうさかのぼる、無数の瀑布を経過けいくわして五千五百呎のたかきに至れば水流まつたき、源泉は岩罅かんこより混々こん/\として出できたる、衆呼で曰く涓滴けんてきの水だも其四方より相集まるやつゐに利根の大河をなすかと、従前の辛苦しんく追想つゐそうして感懐がんぐわい已む能はず、各飲むで腹にたす、之より山をのぼるを数十間にして又一小流あり、岩穴に入りておわる、衆初めて其伏流ふくりうなるをり之をとす、山霊はだして尚一行をあざむくの意乎、将又たはむれに利根水源の深奥はかるべからざるをよさふの意乎、此日の午後尾瀬がはらいたるの途中、亦長凡一里の伏流ふくりう発見はつけんしたり、そのなる一は一行の疲労ひらうするにり、一は大に学術上のたすけあたへたり、つゐに六千呎の高きにいたりて水まつたく尽き、点々一きくの水となれり、此辺の嶮峻けんしゆん其極度にたつし、百じんの崖上わづかに一条のささたのみてぢし所あり、或は左右両岸の大岩すであしみ、前面の危石まさに頭上にきたらんとする所あり、一行おおむね多少の負傷をかうむらざるはなし。
水源きて進行しんこう漸やく容易やうゐとなる、六千四百呎の高にたつすれば前日来経過けいくわし来れる所、歴々れき/\眼眸がんばうり、利根河の流域りうえきに属する藤原村の深山幽谷、まるで地図中の物となり、其山の広袤こうばう水の長程、はじめて瞭乎りやうこたり、てんじて北方を俯視ふしすれば、越後の大部岩代の一部脚下にあつまり、陸地のくる所青煙せいえん一抹、とほく日本海をながむ、たたうらむ[#ルビの「うらむ」はママ]むらくは佐渡の孤島ことう雲煙をふて躰をあらはさざりしを、岩代の燧岳ひうちたけ、越後のこまたけ、八海山等皆巍然ぎぜんとして天にてうし、利根水源たる大刀根岳は之と相拮抗きつこうして其高きをあらさふ、越後岩代の地方に於てはけつしてゆきを見ざるに、利根源泉の上部にいたりては白雲皚々がい/\たり、之れ地勢上及気象上のしからしむる所なりと雖ども、利根の深奥しんおくなる亦おもひ見るべし、しかれ共眼を北方越後にそそぐに一望山脈連亘れんたんし其深奥なる又利根にゆづらざるなり、之を以てはじめてる、上越の国境不明にぞくせしは両国の山谷各深くして、人跡いまだ何れよりもいたる能はざりしにれり、而るに今や利根水源を確定かくていして、加ふるに上越の国界をあきらかにするを得、衆皆絶叫ぜつけうくわいぶ、其勢上越の深山もくづるるが如し、深井君ただちに鋭刀をふるふて白檜の大樹皮をり、探検一行二十七名上越国界を定むしよす、しばらく休憩きうけいをなして或は測量そくりやうし或は地図ちづゑがき、各幽微いうび闡明せんめいにす、且つ風光の壮絶さうぜつなるに眩惑げんわくせられ、左右顧盻こめんるにしのびず、ことに燧山下尾瀬沼なるものありて、岩代上野の県道其沼辺をつうじ、ただちに戸倉に出るを得るの概算予定するをて、帰路にすでちかきにあればなり、され共人智の※(「言+剪」、第4水準2-88-73)せんれつ先見せんけんめいなき、つゐに将来大障碍をのこ[#ルビの「のこ」はママ]さしめたり、障碍しやうげとは何ぞ、一行は巍然ぎぜんたる燧岳眼前にあるを以て、そのふもとの尾瀬沼にいたらんには半日にしてれり、今夜其処にたつするをべしとかんがへしに、明晩からふじて目的の地にいたるを得、其間の辛苦しんくじつに甚しかりしものあればなり。
之れより上越の国界こくかいなる山脈の[#「山脈の」は底本では「山脉の」]頂上を経過けいくわす、みやくくる所太平原たいへいげんあり、はらきて一山脈あり、之れをすぐれば又大平野あり、之れ即ちしん尾瀬おせが原にして、笠科山かさしなやまと燧山の間につらなり、東西一里南北二里余、一望些少の凹凸おうとつなく、低湿ていしうにして一面湿草しうさうを生じ、所々に凹所ありて水をたたゆ、草あるところは草根によりて以てあし支持しじすれども、草なき所は湿泥しうでいあしぼつす、其危険きけん云ふべからず、茫漠ぼうばくたる原野げんやのことなれば、如何に歩調をすすむるも容易やういに之をよこぎるをず、日亦暮れしを以てつゐに側の森林中しんりんちうりて露泊す、此夜途中とちう探集さいしふせし「まひたけ」汁をつくる、露宿をなして以来此汁をすすること二回、其味そのあじはなはだなり、くわふるにかつほ※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)出しを以てす、偶々たま/\汁をつくることあるも常に味噌みそを入るるのみなれば、当夜の如き良菌りやうきんを得たるときは、之をきつする其何椀なんわんなるをらざるなり、而して此を食ふを得るはまつたく人夫中の好漢こうかん喜作きさくちからにして、能く害菌と食菌とを区別くべつし、余等をして安全之をくらふを得せしむ、めに一人も中毒ちうどくひしものなし、此他めしの如き如何なる下等米といへども如何なる塵芥じんかいこんずると雖も、其味のなる山海の珍味ちんみも及ばざるなり、余の小食家もつねに一回凡そ四合をしよくしたり、大食の習慣しふかん今日にいたりても未だ全くきうふくせざるなり、食事おはればれいにより鹽原巡査の落語らくごあり、衆拍手して之をく、為めにらうなぐさめて横臥わうぐわすれば一天すみの如く、雨滴うてき点々てん/\木葉を乱打らんだし来る、くわふるに寒風かんきを以てし天地まさに大にれんとす、嗟呼ああ昨日迄は唯一回の細雨さいうありしのみにして、ほとん晴朗せいろうなりし為め終夜熟睡じゆくすゐ、以て一日の辛労しんらうかろんずるを得たるに、天未だ我一行をあはれまざるにや、まさに大雨を下さんとす、明夜尚一回露宿ろしゆくをなさざれば人家ある所にいたるをず、あます所の二日間尚如何なる艱楚かんそめざるべからざるや、ほとん予測よそくするを得ず、し九仭のこうを一に欠くあらば大遺憾だいいかんの至りなり、ねがわくは此一夜星辰をいただきて安眠あんみんするを得せしめよと、たれありてか天にいのりしなるべし、天果して之を感ぜしか、靉靆あいたいたる怪雲くわいうん漸次に消散し風雨しばらくにしてみぬ。

九月二十六日

早朝さうてう出立、尾瀬おせの大原野を経過けいくわし燧山麓にいたる、目的とする所の尾瀬沼は眼眸がんばうり来らず、燧山麓一帯の山脈よこたはれるを以て、之を経過けいくわすれば沼にいたるをるならんとさつし、又険山を攀登ばんとうす、沼猶えず、又次の高山にのぼなほえず、くしてつゐ最高さいこうの山にのぼる、欝樹猶眼界をさへぎる、衆大にくるし魑魅りみまどはす所となりしかを疑ふ、喜作ただちに高樹のいただきのぼり驚て曰く、眼下がんか茫々ばう/\たる大湖ありと、衆忽ち拍手はくしゆして帰途の方針ほうしんさだむるを得たるをよろこび、帰郷のちかきをしゆくす、すでに中して腹中ふくちうしきりに飢をうつたふ、されども一てきの水を得る能はず、いわんや飯をかしくにおいてをや、此に於て熬米いりごめみ以て一時のうへしのび、一走駆さうくしてただちに沿岸にいたり飯を※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)んとけつす、此に於て山をくだり方向をさだめて沼辺にいたらんとし、山をくだれば前方の山又山、之をゆること数回におよぶも沼なほえず、むを得ず渓流けいりうを汲んで昼飯をきつす、時に午後三時なり、はらちて勇をし、又山をゆる数回にしてはじめて尾瀬沼岸にたつするをたり、そも/\燧山は岩代国にぞく巍峩ぎがとして天にひいで、其麓凹陥おうかんして尾瀬沼をなし、沼の三方は低き山脈を以て囲繞ゐげうせり、翻々たる鳧鴨ふわう捕猟ほりやうの至るなき為め悠々いう/\として水上に飛しやうし、一面の琉球りうきう藺は伐採ばつさいを受けざる為め茸々しやう/\として沼岸に繁茂はんもし、沼辺の森林しんりん欝乎うつことして水中にえいじ、翠緑すゐりよくしたたる如く、燧岳の中腹は一帯の雲烟うんえんとざされ夕陽之に反照はんせうす、其景の絶佳ぜつかなる、あたかも彼七本やりを以て有名なるしづたけ山下余吾湖をるにたり、陶然とうぜんとしては故山の旧盧きうろにあるが如く、こうとして他郷の深山麋熊の林中にあるをわする、前日来の艱酸かんさん辛労しんろうとは茫乎としてうたゆめの如し、一行皆沼岸にしておもむろに風光を賞嘆しやうたんしてまず、とほく対岸を見渡みわたせば無人の一小板屋たちまち双眼鏡裡にえいじ来る、其距離きより凡そ二里、かつく沼岸には岩代上野の県道即ち会津あいづ街道かいどうありて、かたはらに一小屋あり、会津檜枝岐村と利根とね戸倉村とくらむらとの交易品を蔵する所にして、檜枝岐村より会津の名酒を此処にはこけば、戸倉村よりは他の物品を此処にち来り以て之を交易こうえきし、其間あへて人の之を媒介ばいかいするものなく、只正直と約束やくそくとをまもりて貿易ばうえきするのみと、此に於て前日来より「あるこーる」にかつしたる一行は、ゆうして皆曰く、たとひるるとも其小屋に到達とうたつし、酒樽しあらば之を傾け尽し、戸倉村にかへりて其代価をはらはんのみと、議たちまち一决して沼岸をわたふかももぼつ泥濘でいねいすねうづむ、くわふるに寒肌あはを生じ沼気沸々ふつ/\鼻をく、さいはひに前日来身躰しんたい鍛錬たんれんせしが為め瘧疫ぎやくえきかかるものなかりき、沼岸の屈曲くつきよく出入はじつに犬牙の如く、之に沿うてわたることなれば進退しんたい容易やうゐ捗取はかどらず、日暮れてつひに一歩もすすむを得ず、むなしくはるかに彼小屋こやのぞんで沼岸に露営ろえいりたり。
晩餐をわりてみんく、少焉しばらくありて眼覚めさむれば何ぞはからん、全身あめうるをうて水中におぼれしが如し、しうすでに早くむ、皆わらつて曰く君の熟睡うらやむにへたりと、之より雨益はなはだしく炉辺ろへんながれて河をなし、こしをだにくる所もなく、唯両脚を以てたいささへて蹲踞そんきよするのみ、躰上に毛氈もうせんと油紙とをかふれども何等なんらこうもなし、人夫にいたりては饅頭笠まんじうがさすでに初日の温泉塲をんせんばに於てやぶれ、其後荊棘けいきよくの為めにこと/″\破壊はくわいせられ、躰をふべきものさらに無く、全身こぞりて覆盆ふくぼんの雨に暴露ばうろせらる、其状そのじやう誠にあはれむにへたり、衆相対してひらくも※(「門<貝」、第4水準2-91-57)げきとしてこゑなく、あほぎて天の無情をたんす、而れどもして熟考すれば之れ最終さいしう露宿ろしゆくにして、前日来の露宿中はあめほとんどなく、熟睡じゆくすい以て白日のらうせし為め、探検たんけん目的もくてきぐるを得せしめしは、じつに天恩無量と云つべし、あにこの最終さいしうの一夜にのぞんでうらみをぶべけんや、し此探検中あめふことおほかりせば尚二倍の日子をようすべく、病人も生ずべく、めに半途帰路にくか或は冒進ぼうしんして餓死におちゐるか、いづれか此両策の一をりしなるべし、而るに後に聞く処にれば、沼田近傍はあめつねおうかりしに、利根山中日々晴朗せいろうの天気なりしは不可思議ふかしぎと云ふの外なし、ひそかに人夫等の相談さうだんするを聞けば皆感歎かんたんし曰く、之れ文珠もんじゆ菩薩の恩恵にして、世人未知の菩薩が探検一行によりて、世にあらはれ出でんと欲するのこころざしは、一行をして日々晴天にはしめ、以て無事目的を達してかへるを得せしむるなり云々と、朝来雨やうやれ来れば一行笑顔えがほを開き、一して戸倉に至るをす、此夜森下君の発案により、鍋伏なべふせを行ふてうをるをたり、即ち鍋上にあな穿うがてる布片きれひ、内にれて之を沼中にとうじたるなり、「どろくき」としやうする魚十余尾をたり、形どぜうに非ず「くき」にも非ず、一種の奇魚きぎよなり、衆争うて之をあぶしよくすれど、不幸にも前述ぜんじゆつの如く大雨なりしを以て、唯一回の引上げをなししのみ。

九月二十七日

終夜しうやあめ湿うるほひし為め、水中をあゆむもべつに意となさず、二十七名の一隊粛々しゆく/\としてぬまわたり、蕭疎しようそたる藺草いくさの間をぎ、悠々いう/\たる鳧鴨ふわうの群をおどろかす、ときとしては柳条にりて深処にぼつするをふせぎしことあれども、すすむに従うて浅砂せんさきしとなり、つひに沼岸一帯の白砂はくさげんじ来る、砂土人馬の足跡そくせき斑々はん/\として破鞋と馬糞ばふんは所々に散見さんけんす、一行驚喜けうきして曰く之れ即ち会津街道なりと、人影を見ざるもすでに村里にるのおもひをなせり、歓呼くわんこして一行の無事ぶじしゆくす、昨暮遠望えんばうしたる一小板屋は尚之より岩代の方角にむかつて一里余のとほきに在り、屋内酒樽さけだるのあるあらばきはめてめうなれども、若し之なくんば草臥くたびぞんなりと、つひに帰路をりて戸倉にいたるにけつす、一帯の白砂はくさおはれば路は戸倉峠につらなる、峠のたかさ凡そ六千呎、路幅みちはばわづかに一尺、やうやく両足をるるにふ、之れこそ利根の戸倉と会津の檜枝岐とのあひだに在る県道なれば、其嶮岨けんそ云ふべからずと雖も、跋渉ばつせうれたる余等の一行は、あたかたんたる大道をあゆむ如き心地をなし、五里の嶮坂けんばん瞬時にくだつくし、戸倉村にいたりて区長松浦方にはくす、戸倉村と云へば世人は之を深山幽谷の人民じんみんとして、ほとんど別天地の如くに見做みなせども、凡そ十日間人影だもざる余等一行は、此処にちやくしてはじめて社会にでたるの心地ここちせられ、其愉快ゆくわいじつに言ふべからず。

九月二十八日

戸倉とくらを出立して七里の山路やまじぎ、花咲峠はなさきとうげの険をえて川塲湯原村にきたはくす、此地に於て生死を共にし寝食しんしよくを同じくしたる人夫等十五名と相別あひわかるることとなり、衆皆其忠実ちうじつ冒険ぼうけん、能く一行を輔助ほじよせしことをしやし、年々新発見にかかる文珠菩薩もんじゆぼさつの祭日には相会してきうかたらんことをやくし、たもとわかつこととはなりぬ。

九月二十九日

川塲をはつして沼田にかへれば、郡役所、警察署、収税署等の諸員及有志者等、一行の安着を歓迎くわんげいし、たたちに三好屋に於てさかんなる慰労会ゐらうくわいもよふされたり。
翌日一行の諸氏と相分あひわかれ、余は小西君と共にくるまりて前橋にかへりたり。
探検たんけんつひて得たる利益の大要をすれば左の如し。
(第一)地図ちづ改正かいせい。県属地理掛森下、深井の二君は精密せいみつなる地図をせいせられたり、利根河上流の模様もやうは将来すこぶる改正をえうするなり、上越国界にいたりても同じく改正を要すれども、なほ精確せいかくを得んには向後尚一国上越及岩代の三ヶ国より、各人を派して国界をさだめし後にありとす。
(第二)殖産事業しよくさんじげう。従来藤原村三十六万町歩即ち凡そ十三里四方の山林ありと称せしも、およそ其半なるをたしかめたり、利根山奥は嶮岨けんそひとの入る能はざりしめ、みだりに其大を想像さう/″\せしも、一行の探検に拠れば存外ぞんぐわいにも其せまきをりたればなり、楢沢の平野は良樹りやうじゆ蓊欝おううつとして森林事業にのぞみあり、須原峠字上ヶ原の原野は牧畜ぼくちくよろしく尾瀬の大高原は開墾かいこんするを得べし、此他漸次道路を開通かいつうせば無数の良材木をはこび出す事をべし。
(第三)植物しよくぶつ。利根山奥のひくところは山毛欅帯にぞくし、たかきは白檜帯に属す、最高なる所は偃松帯にぞくすれども甚だせましとす、之を以て山奥の入口は山の頂上に深緑色の五葉松繁茂はんもし、其他は凡て淡緑色の山毛欅樹繁茂す、山奥のふかところいたれば黒緑色の白檜山半以上にしげり、其以下は猶山毛欅樹多し、故に山々常に劃然くわくぜんとして二分せられ、上は深緑、下は淡緑、其景じつえがくが如きなり、此他石南樹、「ななかまど」「さはふたぎ」、白樺、楢類等多しとす、草類に於ては「わうれん」、「ごぜんたちばな」、「いはべんけいさう」、「まひづるさう」、「まんねんすき」、「ひかげのかづら」、毛氈苔、苔桃、「いはかがみ」、「ぎんらんさう」、等多し、菌類に於ては「みの茸」、まひ茸、黒ほざ茸、す茸、「こぼりもだし茸」、等食すべきものじつに多し。
(第四)[#「(第四)」は底本では「第四」]鉱物くわうぶつ動物どうぶつべつ貴重きちやうの金石を発見はつけんせず、唯黄鉄鉱の厚層こうさうひろ連亘れんたんせし所あり、岩石は花崗岩みかげいし尤も多く輝石安山岩之にげり、共に水蝕のいちじるしき岩石なるを以て、いたる処に奇景きけいを現出せり、文珠岩の如きはじつに奇中のたるものなり、要するに人跡未到のなるを以て、動植物及鉱物共におほいに得る所あらんとするをせしなれ共、右の如く別に珍奇ちんきなる者を発見はつけんせざりき、されどもすこぶる種々の有益なる材料ざいれうを得来りしは余の大に満足まんぞくとする所なり、動物にては鹿しかくまおほくして山中に跋扈ばつこし、猿、兎亦多し、蜘蛛類、蝨類のめづらしき種類あり、鳥類てうるゐにて耳目に触れしは「かけす」、四十雀、ふくろありしのみ。
おはりにのぞくまに就て一言すべし、熊の巣穴は山中に無数あるにもかかはらず、藤原村に於て年々得る所のくまは数頭のみ、之れ猟師の勇気いうき胆力たんりよくと甚少きを以てなり、即ち陥穽かんせいもうけて熊をりやうするあり、或は遠方より熊を銃殺じゆうさつする位なり、し命中あやまりてくまのがるれば之を追捕するのいうなきなり、而るに秋田若くは越後の猟人年々此山奥に入り来りてりやうするを見れば、其冒険ぼうけんなること上州人のく及ぶ所に非ずと云ふ、其方法に依ればくま銃撃じゆうげきして命中あやまり、熊逃走とうさうする時之を追駆つゐくすれば熊つひいかりて直立し、まさに一てうひとつかまんとす、此に於て短剱たんけんを以て之をつらぬき、直ちにくまいたきて相角しつひに之をころすなり、熊人をのがれんとするときも亦然すと云ふ、此回の探検中たんけんちうくまひし事なし、之れ夏間は人家ちかやまに出でてしよくり、冬にいたりて帰蟄きちつする者なればなり、つ一行二十七名の多勢なれば、如何なる動物どうぶつと雖も皆遁逃とんとうしてただちにかげしつし、あへがいくわふるものなかりき、折角せつかく携帯けいたいせる三尺の秋水しうすゐむなしく伐木刀とへんじ、「ピストル」猟銃も亦あめ湿うるうてさびを生ぜる贅物ぜいぶつとなり、唯帰途の一行無事ぶじ祝砲しゆくはうはりしのみ。





利根水源探検紀行





底本:「臺灣生蕃探檢記」博文館
   1897(明治30)年2月25日発行
初出:「上野教育會雜誌」
   1894(明治27)年10月〜12月
※国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
※変体仮名と仮名の繰り返し記号は、通常の仮名にあらためました。
※「予等」と「余等」、「険崖」と「嶮崖」、「いよいよ」と「いよ/\」、「上る」と「登る」、「溯」と「遡」、「言ふ」と「云ふ」の混在は、底本通りです。
※「恰も」に対するルビの「あたか」と「あだか」、「攀登」に対するルビの「はんとう」と「ばんとう」と「はんと」と「ばんと」、「温泉」に対するルビの「をんせん」と「おんせん」、「花崗岩」に対するルビの「みがけいわ」と「みかげいし」の混在は、底本通りです。
入力:富田晶子
校正:雪森
2021年9月4日作成
2022年4月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。





●表記について

「冫+咸」、U+51CF    139-1


●図書カード