野球界奇怪事 早慶紛爭囘顧録

吉岡信敬




▲咄!早慶野球戦は永久に復活する能はざるか
▲何故に早慶野球戦は中止せられしか???
▲余は天下に告白す其中止の顛末は斯くの如し
▲之れ偽らざる告白なり赤裸々の真相なり

とつとつ!学生界の大恨事


 日本野球界は勿論、学生界に取つて最大不祥事件の一なる、早慶両大学野球戦中止の事あつてから、恰度ちやうど満六年になる。其間幾度か復活の事は議せられ、或は先輩の声となり、或は選手の希望となり、名士の斡旋となり、輿論の調停と迄でなつたが、此の乱れに乱れし感情の糸は容易に解くに由もなかつた。然るに昨四十四年秋に至つて、周囲及び当事者間の試合復活の熱望は極点に達し、早大から数回目の挑戦に接して、漸く慶軍運動各部委員会は復活の前提として、さきに学祖福沢先生の墳墓に誓つた。誓言、即ち以後断じて早大とは競技せずてふ決議を取消して了つた。残るものは即ち復活其物である。
 天下は驚喜して悦んだが、夫れも束の間の夢、所謂慶大理事会なるものは、一議の下に復活案を否定して仕舞つた。こゝに至つて両校の間に繋つた一縷の連鎖すらも、全然切断せられて了つたのである。黙して何事をも語らざる慶大に対しては早大選手は爾後じご仮令たとへ箇人的にも、断じて慶大選手と語を交へずと迄で痛烈なる決議を為したと云ふ噂もある。嗚呼、かる有様では、最早永久に早慶試合の復活は絶望と見るの他はあるまい。嘆又嘆たんまたゝん!学生界の為に此様こん不埒千万ふらちせんばんな事はない。

▲何故の拒絶ぞ


 一体慶応が早大と試合をせぬ真意なるものは、常識を以ては如何しても僕等には解らない。全く怪物スフヰンクスだ。過日も友人と話したんだが、今度と云ふ今度こそは幾ら慶応でも理由なしには拒まれない。今日の野球界を識つて居るものなら、真逆に黴の生えた弥次問題を今更担ぎ出す訳にも行くまいし、其の理由が見物だと思つて居ると、何うだ、又例の筆法で、瓢箪鯰へうたんなまずの瞹昧千万な返事だ。人を馬鹿にするにも程がある。早大では彼程までに謂つて、七重の腰を八重に折つて迄で頼んでも、夫んな不道理な事を通すのなら、最う放つて置くが宜い。何うで駄目なんだ。千万遍繰返して申込んだ所で、要するに蛙の面へ水を掛ける様なもので、ればる程癪に触るばかりだ。其所で僕は宜しく早大は勿論、学生一般が如斯かくのごとき不道理な、又斯くの如く暴慢なる者に対して、相当の制裁を加へるが至当だと思ふ。今日と云ふ今日迄は、万一にも復活したらと云ふ希望を抱いて居たから、蟲を殺して黙つて居たが、駄目と定つたら最う誰に遠慮は無い。僕は両大学がそもそほこを交ゆるに至つた最所からの径路と、紛糾の真相とを詳細にかたりたいと思ふ。僕等は何人も知る如く当年の弥次だ。紛糾の根本は即ち僕等に発したのであるから、此際直接の当事者たる僕等が、偽らざる当時の事実を満天下に告白するのは、野球界の為めは勿論、社会に対する義務である。僕は一点の誇張も仕なければ、一語の誹謗も仕ない。只当時の赤裸々たる事実を語つて、一方には後年この大不祥事件の顛末を知らんとする者の為めに一切を説明し、他は即ち正邪曲直何れにある乎を輿論に問ふ迄である。一対校競技すらも為し得ざる学校!僕は実に気の毒で堪らぬ。昨夜も偶然書庫の隅から三田評論の学生大会記念号を探して、拾読ひろいよみに読んで居ると、実に感慨胸に充ちて堪らなくなつて仕舞つた。想起おもいおこすと夫が既に過去の事とは思はれ無い。先あ聞き給へ、其真相と云ふのは実にうなんだ。

▲野球界の鬼武者


 そもそも早慶両大学が戟を交ゆるに至つた径路を語るには、第一にその径路と、当時両校を囲繞した四辺の空気を説明しなければならぬ。過渡期の野球界が、如何にして両校の提携を誘致するに至つたかと云ふ一事は、一面に於て日本野球界の最も華々しい、活気ある歴史の焦点なのだ。
 早稲田大学に初めて野球部なるものゝ存在を見たのは、忘れもせぬ三十四年の十一月で、寒風肌を刺す戸山原頭とやまげんとうに、発会試合マツチを挙げた其日の寒さは、今思ひ出しても襟元がぞく々する位だ。当時一高は例の守山時代で、何と云つても日本一だ。之に次では横浜アメチユア倶楽部、慶応、学習院と云ふ順序で、駈出しの早大が、如何に踏張つて見た所で、迚も傍へは寄附けまいとは一般の下馬評であつた。早大の重鎮としては、当年青山学院の主将であつた橋戸、郁文館の大投手押川、何れも其以前一度づゝ物の見事に一高を粉砕して中学野球界の鬼と呼ばれたものであるが、野球知識の幼稚な当時には、よしや此の二人が居た処で、何程の事が出来るものかと、頭から見縊みくびつて居た。案の定早大は丗五年の春、先づ第一に学習院と農科大学に腕試しの試合を申込んで物の見事に大敗して帰つた。僕等は口惜しくツて堪らなかつた。
 是ではならぬと丗五年の夏は宇都宮中学のグラウンドを借りて、猛烈な練習を積んだ結果、やつと学習院に復讐をしたが、未だ/\威張る事は世間が許さない。然れども新興の意気は実に凄じいもので、期年ならずして天下の覇権を握ると各自堅く信じて疑はなかつたのだ。此の溌溂たる意気が即ち今日野球部の繁栄を来し、早大をして日本野球界一方の大関たらしめたのであらう。

洋人団やうじんだんを破つて大得意


 折から将星は期せずして集つた。早大野球部は忽ち其の顔振れを一変し、三十六年の夏浜松中学の運動場を借りて練習して来てから技倆は見違ふ計りに上達した。各選手は尽く衝天の意気を以て、帰るや否や競技を横浜アメチユア倶楽部に申込んだ。敵は直ちに承諾した。元来同倶楽部は、今でこそ中学にも敗られる位衰へて居るが、当時は中々大したもので、天下の覇者と称した一高の目指す対手は此の倶楽部を除いては軍艦ばかりだつた位である。如何なる野球団チームでも、此の倶楽部と試合をして初めて其の真価を認められる。謂はゞ試金石だ。早大が新興の凄じい意気と自信とを以て打突つたのであるから、好球児は多少注意をした様であるが、勿論大した事はない。世人の多くは早大如何に踏張つても何程の事が出来るものかと、見縊り切つて居たのである。
 結果は意外にも七対九で早大の勝利、選手は雀躍して喜んだ。安部先生さへも、彼の時の悦しさは忘れられぬと云つて居る。当日のメンバーは河野泉谷のバツテリーに遊撃橋戸、一塁森本二塁押川三塁小原に、外野は猪瀬久野鈴木の三人であつた。彼等は大得意、最う天下の三分の一は丸呑みにした様な気で、矢継早に慶応へ申込んだ。是が抑も慶応と戟を交へた最初で、恰も三十六年の秋であつた。
 当時慶応の勢ひは実に素晴しいもので、好敵手と云へば、先づ一高に指を屈し次でアメチユアを数へる位なもの、早大などはてんで眼中に無い。随つて高を括つて直に申込を承諾した。所が強敵慶応に対して早大の攻撃は中々猛烈であつたから、驚いたのは慶応よりも世間であつた。結果は九対十一で慶応の勝とはなつたけれども、此の新興野球団の技倆は決して馬鹿にならぬ。期年ならずして偉いものになるに相違ないと、天下は尽く早大の将来に矚目しよくもくする様になつた。当時慶応の運動部長は村尾次郎氏であつたが、此の一戦を機会に爾後毎年競技を仕やうでは無いかと云ふ議が安部先生との間に協定された。勿論両軍選手の間も至極親密で、夫れから五年も経たぬ間に、試合中止などゝ云ふ飛でも無い争議が持上らうとは、神ならぬ身の何人も思設けぬ所であつた。

▲一高の鉄塁を砕く


 早大は此の敗北に依て発奮し、慶応は此の勝利に依て褌を緊めた。爾来早慶両大学は非常なる熱心を以て練習した。戸塚名物の一たる現早大グラウンドは見紛みまがふ計りに改造せられた。選手は暇あればグラウンドに出て、星を戴くまで打棒バツトをビユー/\振つて居た。
『何うしても米国に往つて来なければ駄目だ』とは、安部先生の宿論で、此の意見は何時しか選手の上に洩らされた。一高、アメチユア、慶応、学習院を撫で斬りにして、事実上日本の覇者たるを得たなら、必ず米国遠征の議を成功させると云つて選手を激励した。選手は衝天の意気を以て丗七年春の対慶応戦を待ち、天下は来る可き早慶のエキサイチング試合マツチを期待した。
 斯くして丗七年春の運動季となる。所は前回と同じく慶応のグラウンドで、審判は学習院の新庄であつた。彼は審判を嘱せられたのを以て非常なる光栄とし、万一の誤審を慮つて、前夜は実に徹宵てつせうしてルールを研究した而已ならず、学習院の各運動部選手も亦同院から審判を出したのを名誉とし、一人も洩れなく凡て見物に来た。早大の野球も漸く天下の視線を買ふ丈の力を持つて来た。奮戦の結果、遂に早大は多年の宿志を達して、強敵慶応を粉砕して了つた。
 斯くて同年の秋十月三十日第三回戦は戸塚校庭に挙行せられる事となつた。茲に一層天下の視線をいたのは、早大軍は鼓叟して一高軍の堅塁に迫り、打つて打つて打捲つた結果、見事に之を仆すと一日措いて慶応も亦小気味よく一高を粉砕したことである。
 当時早慶の威名は漸く高きを加へて来たが、最初は何人も未だ/\一高には及ぶまい。一高が早慶を小児同様に見て居る事は勿論として、天下もしかく信じ、当の早慶選手すらも『一高には』と二の足を踏んで居た。夫が揃ひも揃つて打破つたのであるから、世間も驚けば一高自身も大に憤慨した。早大が打勝つた其日其時有名な一高の小林赤鬼君が早大軍の押川清君に向つて、
『一週間以内に是非とも復讐試合をするから、う思つて呉れ給へ』
 と怒気満面に溢れて云つたのは有名な話だ。其僻そのくせこの両人は非常の親友であつたのだ。之れを見ても如何に一高が其気象として憤慨したかゞ分る。
『一週間以内は困る。モ少し後にして呉れないか、必ず遣るから』
 と云ふが頑として応ぜず、校友会雑誌などは猛烈に憤慨して、余喘とばつちりを八方にくらはしたものである。斯う云ふ騒ぎの時であるから、丗七年春の早慶試合は空前の人気を喚起した。所が結果は大接戦の後、十二対八を以て又しても早大は凱歌を挙げ、事実上に於て天下を取る様になつた。即ち多年の宿志たる米国行は最早夢ではなく、突如事実となつて決定せられた。天下は球界空前の盛事として、大喝采を以て其行を壮にした。

▲野球戦国時代


 丗八年の春愈ゝ早軍は渡米の途に上ると云ふので、野球界の空気は異常なる活気を帯びた。爾来凡ての点に於て早大と鼎立し来つた慶応選手は、内心甚だ平かでない。早大と同じく天下を統一したならば渡米せんとの議もあつた。然るに後進の早軍に先鞭を付けらるゝの止む無きに至つては、多少憤慨せざるを得ない。茲に於て彼等は早軍が渡米の途に上らんとする前九日、丗八年三月廿七日を以て得意満面の早軍を自校々庭にむかへ撃ち、一対零を以て撃破して仕舞つた。此試合は得点に於てこそ接戦クロースゲームであるが、両軍共に当らず、極めて単調なるダルゲームであつた。茲に両校は初めて毎年秋季を期し三回競技の約を結んだのである。
 慶応は今や渡米せんとする早軍を撃破して溜飲を下げた。天下も亦意外の感を抱いた。敗れたる早軍が渡米すると云ふのは頗る不思議であると云つて、世間には多少批難の声もあつたが、既に議は決して居る事であり、出発も十日後と迫つて居るので、早軍はお構ひなく渡米した。四月五日!横浜埠頭を遠ざかり行くコリヤ号を臨んで、五千の健児は声を限りに絶叫し、親愛なる選手の前途を祝福した。
 米国内地に於ける前後四十余合の壮烈なる戦闘に於て、早軍は如何に其の入神の技を磨練し来つた事であらう。いやしくも野球趣味を解する者は尽く刮目して、帰来慶応に対し、如何に巧妙なる策戦を為すであらうと、丗八年秋を期して決行せらる可き、三回競技の一日も早からん事を待ち望んだ。此頃に至つては向陵の健児は如何に頑張つても、最早覇権は其手から奪はれて仕舞つた。野球界は宛ら戦国の如き乱麻時代となつた。其内にあつて嶄然ざんぜん頭角を擢んずるものは早慶である。技倆に於ても勢力に於ても、最早一高、アメチユア、学習院の敵では無かつた。此の事実は愈よ明かとなり、世間は逸早く承認すると共に、新聞記事なども社会の大なる出来事の一として、野球競技を遇する様になつた。
 其間に早軍は意気揚々として帰朝する。慶応は其夏一杯の猛烈なる練習に依て得た秘術を以て之に相対した。忘れもせぬ三十八年の秋、霜葉雨を得て漸く紅なる十月廿八日は実に其の第一回競技の当日である。両軍は死力を尽して奮闘した。而も稍ともすれば慶軍は早軍を圧し、遂に一対五なる近年の発達せる野球界には稀れなる相違を以て、早大軍は無残なる敗北をして仕舞つた。早軍選手も亦其の意外なるに驚いた。早軍の主将橋戸押川等は徹宵して対慶応の策戦を凝議した。三回競技は二回勝つ事に依つて定められる。勝たざる可からざる早慶選手の意気は衝天しようてんがいを示した。斯て十一月九日第二回は三田グラウンドに挙行された。早軍の策戦は着々図に当り、投手河野の鉄腕愈ゝ辛辣を加へて、第一回の当日慶応の放つた安全球六箇の半数を一人で占めた強打手桜井君の如きさへ、当日は遂に唯一をも得られなかつた。結果は一対零、茲に勝敗の数は平均し、両軍は来る可き第三回戦を期待した。

▲見物人の糞攻め


 十一月十一日は即ち第三回戦の当日である。都下の学生にして苟くも野球の趣味を解する者は、尽くまなじりを決して戸塚グラウンドに急いだ。早大附近の有ゆる道路は小刻みに走る観衆織るが如く、定刻にさきだつ一時間、既に早くグラウンドの周囲は逆捲く人浪を以て囲繞ゐねうせられて了つた。当時は今日の如く外柵も何も無かつたので、観衆は運動場外の麦畑に続々入込んで来る。飛んだ災害を蒙つたのは附近の百姓で、幾ら怒鳴つても喚いても退くものでは無い。畑は荒される。作物は※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)ふみにぢられる。真赤に怒つた百姓連は楠公の古智を学んだ訳でもあるまいが、矢庭に人糞を担いで来て無暗に振撒き初めた。是には流石に頑強な観衆も鼻を掩ふて逃出したが、臭気紛々近よる可からざるものがあつた。
 斯様な騒を惹起した位であるから、グラウンド内は夫れこそ爪も立たぬ程の混雑である。秋空一碧此頃に類なき小春の日影を浴びて、一万六千余の人影は華かに動揺めく、競技はやがて開始せられた。かつ々として響く鉄棍の音、碧落を縫ふ真白なボール、忽ち場の一隅から突如として異様なる応援の声が起つた。競技に酔つた観衆は驚いて眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた。
 夫は即ち我邦には今迄で例の無かつた応援である。是より先き在米の校友から早軍渡米当時に用ゐた物の余りとして、海老茶に白くWUと抜いた応援旗を二百本余り送つて来た。其所で僕は選手に就て実際米国内地に行はれて居る応援法を色々と聞き、寄宿舎を中心として約二百名計りの応援隊を組織し、之に例の応援旗を分ち与へて、当日突如として応援の声を挙げたのだ。斯くの如く組織的な、団体的な応援は日本に於ては最初のものであつたから、何も知らぬ観衆は先づ驚き、次で急霰の如き拍手を以て迎へた。是が即ち後に至つて早慶仕合中止の種を蒔いたのである。
 試合は九回に至る迄両軍一点をも得ず遂に勝敗の決する迄で続行する事となつた。其の戦闘の猛烈にして而も巧妙であつた事は、当日の観衆であつた人々の永久に忘れ得ざる所であつたらう。而して遂に早軍の勝に帰した。早軍の泉谷君二ストライクの後、憤然カツと飛ばした熱球砂を噛んで外野に飛び、遂に貴重なる一点を獲得し、茲に早軍は見事三回競技に勝利の栄冠を得たのである。
 試合の興味は極点に達した。好球児は息を呑んで翌年の試合を期待した。今や即ち早慶試合は一対校競技に止まらずして、東京年中行事の重大なる一項とはなつたのである。
『武侠世界』四十四年十二月二十三日号





底本:「※(始め二重山括弧、1-1-52)復録※(終わり二重山括弧、1-1-53)日本大雑誌 明治篇」流動出版
   1979(昭和54)年12月10日改装初版発行
初出:「武侠世界」
   1911(明治44)年12月23日号
入力:sogo
校正:フクポー
2021年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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