ねこ
北村兼子
新秋の氣もちいゝ風が簾を透して吹く、それが呼吸氣管に吸ひ込まれて、酸素が血になり、動脈が調子よく搏つ………その氣が味はへない。
澄んだ空の月を寢ながら眺める、人いきれから逃れた郊外の樂みは、こゝに止めを刺す……それが觀られない。
空氣も流通しないほど、ピシヤリと障子を建てゝ蒸されてゐる、息がつまる。
それは猫のため、兒猫のため、五寸にたらぬ小さな猫一匹で、五尺に近い體を持てあます。苦しい。
また來た、かあゆい聲。
もう勘忍してくれ、お前のために苦しみぬいてゐる、その鳴き聲は殺人的だ。
寢轉んで讀書してゐる枕頭にお行儀よくおちんをしてゐる、叱つても逃げない、庭へつまみ出す、また這入つてくる、汚物をたれ流す、下女が怒る。
小さな飼主のない猫、まだ純眞な態度で人を怖れないのみか、人なつかしい調子で鳴き寄つてくる。
獰惡な野良猫、お隣りの鷄を全滅させた惡いヤツ、家の鯛をさらつた盜癖のある畜生、それが産んだ兒は、このやさしい美しいニヤン公である。
親に似ない兒だが、成長したらアノ通りの獰惡振りを相續するに違ひない、環境の罪だいつそ家に飼つてやらうかと思つて、また躊躇した。
以前猫を飼つて、不潔なものを吐かれて困つたばかりか、臺所を荒らしたといふので近所から抗議を申し込まれて、ために面倒な外交關係を起したことがあつてから、猫を飼ふことは不道徳だと觀念してゐる、だからこの愛らしい純情なお前を飼つてやるわけには行かない。
もう去つてくれ、無邪氣ないたづらをして、その邊をかき亂すのは辛抱するが、不潔なことをする虞がある、追つても去らない、そのまゝ默認してゐるうちに、床の間に、またたれた。
つまみ出して障子を締めた、殘暑といふものは惡る惡う暑い、空氣が通はないから尚ほ更らである、曇つてゐるから頭痛がする、たまらぬ。
猫の姿が見えないので障子を開けた、海からくる風が庭の木立で篩はれて爽味をもつてくる。原稿を書く、氣もちよく筆が運ぶので夢中になつた、その夢中を覺ました聲は猫である、あら座蒲團に座つて、すましてゐる。
もう忍耐が出來ない、萬年ペンをとつて振りあげた、その恐ろしい笞の下で憐みを乞ふかのように鳴いてゐる、それが毆けるか。
よう/\塀の外へ追ひ出した。
そこへお友だちが來てお話しをしてゐると、どこから這入つて來たものか、また椽側へ來た、私は遽てゝ障子を締切つた。
「どうしたんですか、この暑いのに」
「猫が來ました」
「猫はお嫌いですか」
「嫌いぢやありません、好きですから恐れてゐるのです、毆くに忍びません、そして飼うことは懲々してゐるんです」
「お困りですね」
「暑くても我慢してください」
二人は汗をふきながら有馬猫の話などして別れた。
その晩、暑さを拂ふ凉雨が來た、昨夜猫のために十分に寢られなかつた入れ合せに今夜は熟睡しようと思つた。
夜中に怪猫が現はれて私の胸を押へた。
驚いて眼が覺めたが、たしかに猫の聲がする、夢か怪か、はね起きて見たら枕もとには例の兒猫が座つてゐた、どこから忍んで來たのやら。
底本:「戀の潜航」改善社
1926(大正15)年10月10日発行
※国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※「………」と「……」の混在は、底本通りです。
※「小さな」に対するルビの「ちい」と「ちひ」の混在は、底本通りです。
※「江」をくずした形の「変体仮名え」は、仮名にあらためました。
入力:かな とよみ
校正:The Creative CAT
2021年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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