芭蕉は寛永二一年(一六四四)伊賀上野赤坂町に、松尾與左衞門の二男として生まれた。松尾家は與左衞門の代に柘植から上野に移り、手習師匠を家職としていたという。芭蕉の幼名は金作、長じて甚七郎、別に忠右衞門とも稱した。十歳の頃、藤堂家の侍大將藤堂良精に召されて、その嗣子良忠に近侍した。良忠は芭蕉と同年輩で、俳諧を北村季吟に學び俳號を蝉吟と稱したが、芭蕉も主君とともに俳諧をたしなむようになった。彼が季吟の門人として出發し俳諧を生涯の計とするに至った機縁はこの少年時代の出仕にあったわけである。
今日知られている芭蕉の最古の發句は、松江重頼撰『佐夜中山集』(寛文四刊)に、主君蝉吟とともに、松尾宗房の名で入集しているつぎの二句である。
姥櫻咲くや老後の思ひ出
月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿
芭蕉二一歳の作である。以後、風虎撰『夜の錦』(寛文六刊)、季吟撰『續山井』(寛文七刊)、正盛撰『耳無草』(寛文七刊)、安靜撰『如意寶珠』(寛文九成・延寶二刊)、正辰撰『大和順禮』(寛文一〇刊)、春流撰『藪香物』(寛文一一刊)、維舟撰『時世粧』(寛文一二成)、梅盛撰『山下水』(寛文一二刊)等の諸集に伊賀上野宗房、または松尾宗房として入集しているが、いずれも古風で類想的な域を脱しないいわゆる貞門の作風である。月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿
寛文一二年一月二五日、彼は伊賀上野の天滿宮に三〇番の發句合、すなわち『貝おほひ』を自撰して判詞を加え、奉納した。これが彼の處女撰集であるが、當時の小歌の詞章や奴言葉などを豐富に採り入れた判詞や序跋は後年の才氣をうかがわしめるものがある。これよりさき、寛文六年四月二五日主君蝉吟は死去し(享年二五歳)、六月中旬彼は使してその位牌を高野山報恩院に納めたという。その後の經歴には不明な點が多いが『貝おほひ』奉納の頃まで引きつづいて伊賀に在住したものと思われる。一般に芭蕉が主君の沒後致仕し(あるいは致仕を乞うたが許されず出奔し)上洛して學問修業につとめたという説が行われているが確證はない。
『貝おほひ』奉納の後、彼は江戸に下り同じ季吟門の小澤卜尺(仙風とも)宅に身を寄せ、その後本郷・濱町・本所高橋等を轉々とし、卜尺や杉山杉風の援助を得ていたと傳えられる。また醫に携わって素宣と號したり、小石川關口水道工事の小吏となったりしたともいう。「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむ」(幻住庵記)として摸索をつづけたのもこの時期であるが、やがて彼は、江戸の俳壇に頭角を顯わし、當時流行した談林の新風の先端を行くようになった。延寶三年五月、當時東下中の西山宗因指導の百韻に、幽山・似春・信章(後に素堂)等とともに桃青の號で一座したのをはじめとして、翌延寶四年春、信章との兩吟集『江戸兩吟集』、延寶五―六年にかけて成った信章・信徳との三吟集『江戸三吟』等によってその俳人としての地位は確立していった。
當時、『江戸通り町』『江戸新道』『江戸廣小路』『江戸蛇之鮓』等、江戸という文字を冠した俳書が多く上梓された。これらは新興都市江戸の俳壇が上方俳壇に對抗しようという意欲を示したもので、かつ新風を大膽に開拓して行く活氣に滿ちていたが、芭蕉もその間にあって、つねにそれらの俳書に名を連ね、颯爽の作風を示していた。
延寶八年四月、杉風・嵐亭(後に嵐雪)・螺舍(後に其角)など門人二〇名の獨吟歌仙集『桃青門弟獨吟二十歌仙』を刊行したが、當年の彼の聲望と俳人としての確乎たる地位をうかがうに足るものがある。同じ年の九月其角・杉風それぞれの二五番の自句合「田舍句合」「常盤屋句合」に判詞を加え、『俳諧合』として上梓もした。その冬、杉風の下屋敷のあった深川六間堀に居を移した。幕府御用の魚問屋杉風の生簀にある番小屋を改造したものといわれる。その庭に植えられた芭蕉は草庵の名となり、やがて彼の俳號とされた。
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
深川庵住以後の作風には、右の二句のように(言水撰『東日記』延寶九刊所收)當時の俳壇の新傾向を反映して形式内容ともに漢詩調を中心とし、滑稽機智を中心とした古俳諧を止揚してやがて蕉風俳諧を開拓して行く芽生えを認めることができる。四〇歳に近づいた彼はこの時期にはすでに俳諧に生涯をささげるべく意を決していた。延寶九年(天和元年)七月、其角・才磨・楊水と四人で行った『俳諧次韻』をはじめとして初期蕉風が成立したのもこの時期である。又、佛頂禪師に參禪したのもこの頃のことであった。芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
天和二年冬、駒込大圓寺から出火した大火のため芭蕉庵が類燒し、芭蕉は笘をかぶり潮にひたって難をのがれたという。後年、其角は『枯尾花』に芭蕉がこのとき猶如火宅の變をさとり無所住の心を發したと記している。難後芭蕉は高山麋塒に伴われて甲斐の國谷村に赴き、その次男六祖五平(五兵衞)の許に身を寄せ、翌天和三年夏まで滯在した。甲斐より江戸に歸着して間もなく、門人其角の撰になる『虚栗』が成った。「芭蕉洞桃青鼓舞書」と署名した彼の跋文は俳風刷新の意氣ごみと自信を示している。『虚栗』の調子は、
鬢風を吹いて暮秋嘆ずるは誰が子ぞ
夜着は重し呉天に雪を見るあらん
のように、漢詩の書き下しのような堅い表現と古風からまったく離脱して幾分衒學的な伊達好みのものであるが、當時の俳壇の先端を行く清新さを示している。この年の九月には親友山口素堂等の協力によって芭蕉庵は再興され、彼は再び草庵の生活に入った。夜着は重し呉天に雪を見るあらん
庵住して約半年、貞享元年(天和四年)の八月、芭蕉は門人千里を同伴して『野ざらし紀行』の旅へ上った。「野ざらしを心に風のしむ身かな」の吟を殘して東海道から伊勢路を經て九月はじめ故郷へ歸り、さらに大和吉野に秋をさぐり、山城・近江・美濃を巡遊して初冬の頃に熱田に入った。七部集の第一の集『冬の日』はこのとき荷兮・野水・重五・杜國など名古屋の門人達と行った五歌仙である。『冬の日』により蕉風は確立されたともいわれるが、この旅行の間に作られた句文はまったく舊來のものと面目を一新したものであった。年の暮には再び伊賀へ歸り翌年二月中旬まで滯在、奈良・京・近江・尾張を經て木曾・甲斐を通り九ヵ月ぶりに江戸に歸着した。
山路きて何やらゆかし菫草
辛崎の松は花より朧にて
など、名吟として今日まで人々に口ずさまれる句の幾つかはこの旅行の間にできたものである。彼の文學に重要な役割を果した旅行はこの後何度か行われたが、この『野ざらし紀行』の成果はその中でももっとも意義深いものがある。辛崎の松は花より朧にて
貞享三年春、芭蕉庵で催された『蛙合』には「古池や蛙飛びこむ水のおと」の句が生まれた。また、八月には尾張の門人達の撰になる『春の日』が出版された。後年、七部集の第二集とされたものである。翌四年八月には宗波・曾良を伴って鹿島へ赴いた。名月を觀るためであったが、鹿島では佛頂禪師を訪れ、神宮參詣の上八月末江戸へ歸った。この折の紀行文を『鹿島紀行』或は『鹿島詣』という。落ちつく暇もなく芭蕉は旅行の準備にかかり、やがて十月の末には江戸を發って歸郷の途についた。いわゆる『笈の小文』の旅であるが、「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の繪に於ける、利休の茶に於ける、其の貫道する物は一なり」という言葉はこの『笈の小文』に書かれている。俳諧に生涯を託する彼は俳諧も古人の風雅に連なる藝術性をもつものであるとの強い自覺と信念を持つようになっていた。「旅人と我が名よばれん初しぐれ」にはじまって、この旅中の吟の多くは藝術的彫琢を經たすぐれたものである。故郷に新年を迎えて、貞享五年(元祿元年)春杜國とともに吉野に遊び、須磨・明石まで足を延ばし四月末に京に入ったが江戸出立からこの入京までの紀行が『笈の小文』である。發句のみならず紀行文としても舊套を脱するために心をくだいたものであったが、『おくのほそ道』に比べるとまだ見劣りのする點が少なくない。
約四〇日間京・湖南の地に滯在した芭蕉は、六月上旬東下の途につき、八月中旬まで尾張にとどまり、信州更科の名月を觀るため越人を從えて旅立った。『更科紀行』の旅である。そして八月の末には江戸へ到着したが、「去年の秋江上の破屋に云々」の『おくのほそ道』冒頭の語句はこれにあたる。
久しぶりの芭蕉庵の生活と江戸の門人達との交歡の間に日を過した芭蕉は、さらに陸奧の旅へと心を奪われるようになった。明けて元祿二年、この旅行は三月の末に實行に移された。本書に詳しく見られるように約半年にわたる行程六百里の大旅行は彼の生涯で最大の旅である。以後沒する年まで推敲が加えられて成ったのが『おくのほそ道』の一卷である。
『おくのほそ道』の旅を終えた芭蕉は、伊勢參宮をすませて九月末に郷里へ歸り二ヵ月ほど滯在し、年末には上京して湖南の膳所で越年した。それより元祿四年秋東下するまで足かけ三年、芭蕉は上方の諸地方を巡遊し、門人の指導育成にあたったが、蕉風はこの間に完成流布した。元祿三年春には『曠野』、八月には『ひさご』が出版された。七部集の第三・第四の集にあたる重要なものであるが、その年彼は四月から八月まで近江石山の奧國分山にある幻住庵に入庵していた。『幻住庵記』に見える彼の生活と思想は俳人として圓熟老成した境地をよく示している。元祿四年には四月一八日から五月四日まで洛西嵯峨にある去來の別墅落柿舍で過した。この時の日記が『嵯峨日記』である。また、この間に去來・凡兆を助けて七部集第五の『猿蓑』を撰ばせた。『猿蓑』は蕉風俳諧の最高の境地を示すものであり、古來俳諧の古今集といわれている。かくして京畿に蕉門の確乎たる地盤ができ上ったことは忘れてはならない事實である。
元祿四年一一月一日、芭蕉は支考・桃隣をつれて江戸へ久しぶりにもどった。橘町の彦右衞門の店をしばらくの宿として越年、翌五年の五月に杉風等の世話で三度芭蕉庵が建てられ、俳人としての多忙な日日がつづくようになった。八月には許六が入門、九月には膳所の珍碩が芭蕉庵の食客となったが、これらの俳人達とたびたび俳筵が設けられた。
元祿六年晩春、芭蕉庵に病氣を養っていた甥の桃印が逝去した。芭蕉の深い落膽のほどは當時の書簡ににじみ出ている。初秋の頃「閉關の記」を草して對客を辭したのもこの前後の彼の人間的な苦惱を物語るものである。だが、これも一月足らずで破れて、門人の出入も俳諧も從前通りに盛んに行なわれるようになった。翌七年にかけて『炭俵』の歌仙が卷かれた。『炭俵』は七部集第六の集で、芭蕉晩年の俳風「輕み」を代表するものである。
元祿七年五月一一日、芭蕉は最後の旅に出立した。次郎兵衞を同行、同二八日に伊賀上野着。「麥の穗を便につかむ別かな」という留別吟は何となく心細く、彼の心身の疲れはかなり甚だしいものがあった。六月はじめに江戸より壽貞の死が傳えられた。壽貞は芭蕉の若い頃交渉があった女性と思われ、最後の旅への出立にあたって芭蕉庵に移ったようである。旅に伴なった次郎兵衞は、他のまさ・おふうの二人とともに壽貞の子であるが、芭蕉との間に生まれたとは考えられない。
九月はじめ支考を相手に『續猿蓑』の編集が終った。七部集第七の書で元祿一一年刊行された。その八日、支考・惟然・次郎兵衞等とともに奈良を經て大坂へ向ったが、大坂到着の日から病氣がちであった。二七日園女亭の俳席が最後であったが、この頃作られた、
此の道や行く人なしに秋の暮
此の秋は何で年よる雲に鳥
の句は、寂しさと身の弱りを歎ずる彼のため息が感じられるようであるが、二九日夜に激しい泄痢を催し、日増しに容態は惡化して行った。一〇月五日、病床を花屋仁左衞門の裏座敷に移し、急を聞いて諸方から馳せ參じた門弟達の手あつい看護をうけつつ、その努力と祈りも甲斐なく一〇月一二日永眠した。享年五一歳、辭世の句は「旅に病んで夢は枯野をかけ此の秋は何で年よる雲に鳥

遺骸は一三日膳所の義仲寺に運ばれ、遺言により一四日その境内に葬られた。
本書の底本とした素龍清書本『おくのほそ道』は、芭蕉の自筆稿本を素龍が清書したもので、縱五寸五分、横四寸七分のいわゆる桝形本、墨附五十三丁の首尾に白紙各一丁を加え、紫の綴絲でかがり、緑色の行成模樣の表紙の中央に白地に金の眞砂を散らした題簽をはり、これに芭蕉の自筆で「おくのほそ道」と記してある。『おくのほそ道』はおそらく元祿七年まで長期間にわたって推敲が重ねられたものと思われるが、成稿は素龍の手により淨書され芭蕉の身近に置かれていた。この『おくのほそ道』を携えて芭蕉は元祿七年五月、彼の最後の旅である西上の途についた。そして同月二八日伊賀上野へ歸着、兄半左衞門に久々で會い「慰にとて」ふるさとに殘し置いた(去來本奧書)。その年の一〇月一二日芭蕉は大坂で不歸の客となったが、遺言により、『おくのほそ道』は向井去來に讓られることとなり、伊賀の半左衞門の許から去來の手へ移った。去來は半左衞門のためにその求めに應じて一本を書寫して、この間の事情を詳しく記した奧書を添えて伊賀へ送った。元祿八年九月のことである。これがいわゆる去來本『おくのほそ道』で、今日數種の傳本が存している。そのうち村治圓次郎氏藏の一本が昭和八年勝峯晋風氏により岩波書店から複製刊行され、その後、菊本直次郎氏藏にかかる一本を「芭蕉研究・一」に、また戸川

去來の有に歸した素龍清書本は、去來の沒後その母方の叔父久米升顯に傳わり、さらに升顯の娘が若狹小濱の吹田几遊に嫁したとき引出物として几遊の家へ贈られた。以後、几遊の沒後その未亡人より錦溪舍琴路に讓られ、琴路の沒後その親戚のゆかりから越前國愛發村新道野の西村野鶴に讓られ、今日に至るまで西村家に傳えられている。この素龍本の所在は昭和八年新聞に報道され、同地方では紹介もされたが、昭和一八年潁原退藏博士によってはじめて廣く學界に報告され、同二三年九月同博士によってコロタイプ版で複製が刊行されて今日に至っている。
これらの筆寫本に對して、江戸時代以來もっとも多く流布したものは右の素龍清書本を透寫して版下とした書肆井筒屋庄兵衞刊行のいわゆる井筒屋本である。初刻は大體元祿一五年と推定される。素龍清書本に比べて六ヵ所の異同がある外、書體字配りはまったく一致しているが、素龍の跋は省かれ別に奧書が加えられている。ただし寛政元年の再版には蝶夢の發見した右の素龍跋と去來の奧書をさらに加えている。この井筒屋本は筆者が昭和二四年校註を加え凸版複刻して武藏野書院より刊行した。
去來に傳えられた素龍清書本の外に素龍の手になる寫本が杉風の許にもあったらしい(厚爲宛杉風書簡)が、その傳來については、今日まったく知ることができない。
底本とした素龍清書本をめぐる諸本は右に略説した通りだが、別に芭蕉自筆本系統の本につき二三觸れておきたい。前記の井筒屋本の奧書に芭蕉眞蹟の本が野坡の許に存する旨の記事があるが、それが野坡門の梅從に讓られ延享元年の芭蕉五十囘忌まで存していたことが記録によって判明する。ただ、その後の行方はまったく知られない。また須賀川の晋流に傳わったという其角所藏の芭蕉自筆本も同樣に傳存していない。また『曾良隨行日記』とともに曾良の遺品中にあった芭蕉自筆稿本も雲州母里の松平志摩守の手に移ったという記録があるだけで、これまた今日消息不明となっている。ただし、『曾良隨行日記』と一緒に筆者の架藏に歸した本は、『おくのほそ道』成稿前の草稿から書寫したもので、今日知られる唯一の異本ということができる。その異同については、かつて雜誌「語文」第二輯に詳細に報告しておいたので參照されたい。本文庫ではこれを曾良本として本書理解に必要と思われる個所のみを脚註に加えるにとどめた。
その外、其角が元祿一〇年筆寫したといわれる一本が其角堂永機によって明治一八年刊行されたものと、土芳の門人土田梨風の文庫に存したといわれる記録があるものだが、後者は傳存せず前者は本文に異同はない。
本書に飜刻した『曾良隨行日記』は筆者所藏の曾良自筆本によった。縱一一糎、横一六・六糎、厚さ二糎。藍色の元表紙で題簽はない。中にはさまれていた古い紙片に「紙數都合百枚。内白紙四枚、(半紙壹枚、但シ文字有リ。[#改行]表紙裏二枚、但シ文字有リ。)外鰭紙拾壹枚」と墨書してあるが、そのうち元祿二年九月一〇日以降の分と弓道に關する覺書など細道に關係の少ないもの以外は全文を飜刻した。表題ならびに中扉等に用いた「隨行日記」「俳諧書留」等の名稱はもちろん原本にはなく、本書をかつて飜刻された山本六丁子氏の名づけられたものを踏襲したものである。
内容體裁について少し詳しくいうと、卷頭から一二丁裏の前半までに延喜式神名帳抄録、すぐ引きつづいて十二丁裏の後半からは名勝備忘録が一九丁裏まである。以上は曾良が旅立前に調査し摘記しておいたもので、備忘録の方には實際に歩いてからの補訂記入が多く、鰭紙一一枚もすべてこのために使われているものである。つぎに二〇丁表から隨行日記がはじまり五二丁表五行までつづいている。そのうち本文庫で省略した部分は九月一〇日以降すなわち四九丁表末尾の四行以下五二丁表までの分である。つぎに、隨行日記にすぐつづけて近畿巡遊日記が七四丁裏まであり、餘白がなくなったため九四丁表に一四行書き足してある。この近畿巡遊日記も本文庫では全部省略した。七五丁表から九一丁表まで俳諧書留、以下九二・九三の二丁は白紙、九四丁も前出の表一四行以外は空白、九五・九六の二丁も白紙、九七丁裏から九八丁表四行目まで弓道についての覺書(本文庫では省略)、九八丁表の後半には山中温泉の泉屋久米之助方で聞いた貞室の逸話(本文庫一九七頁)、九八丁裏から裏表紙見返しにかけての見開きに種々の覺書(本文庫一九八頁所收)、その外、表表紙見返しに仙臺の略圖が書いてあり(本文庫一〇〇頁所收)、七五丁表に高泉の白鷺、丈山の楓林見月の漢詩が二首六行にわたって書いてある(本文庫では省略)。以上が『隨行日記』の全貌であるが、つぎに本書の傳來について少し述べておきたい。
本書の存在が世間に紹介されたのは管見の限りでは文化七年刊の『句安奇禹度』(芦陰舍竹齋撰)である。その中で信州上諏訪の久保島氏がこれを所持しているとして、原本にある表紙見返しの仙臺略圖と九八丁表の「元祿二年七月廿日書之」の一行とを透寫している。ついで文化一一年頃刊の『青蔭集』(雨考撰)には日記の四月二一日から五月九日までの分を抄出している。雨考がどういう機會に日記を見たかは判然しない(なお、この『青蔭集』掲載の部分は、荻原井泉水氏によって『奧の細道評論』『芭蕉風景』中に紹介されている)。板本で『隨行日記』について見えるものは今のところこの二書だけであるが、遠藤曰人の稿本『芭門諸生全傳』と天堂一叟の稿本『芭蕉翁桃青御正傳記』には、前者は日記の所有者を久保島若人であると明記し、後者は五月一七日の分までを引用している。その外に日記の一部分を書寫したものが二種ほどあるが、いずれにせよ山本六丁子氏の飜刻が現われるまでは一般の目にふれること少なく、專門家の間でもあまり重視されていなかった。昭和一八年七月右の飜刻が現われるに至って『おくのほそ道』の研究が飛躍的に深まりを示したことは周知の事實であるのでここには省略する。なお、原本は久保島若人の手から助宜へ、さらに松平志摩守へと轉々とし、齋藤幾太氏が日清戰爭前に大坂で桑原深造氏より入手、齋藤浩介氏に傳えられたものであった。詳細については拙稿「『奧の細道』の一資料をめぐりて」(文學、昭和二五年六月)、「曾良の『奧の細道隨行日記』解説」(解釋と鑑賞、昭和二六年一一月)、「曾良の『奧の細道隨行日記』をめぐりて」(連歌俳諧研究、一の一)、「『奧の細道』の解釋と鑑賞・三」(解釋と鑑賞、昭和三一年九月)等を參照せられたい。
抑、道の日記といふものは、紀氏・長明・阿佛の尼の文をふるひ、情を盡してより、餘は皆俤似かよひて、其糟粕を改る事あたはず。まして淺智短才の筆に及ぶべくもあらず。其日は雨降、晝より晴て、そこに松有、かしこに何と云川流れたりなどいふ事、たれ/\もいふべく覺侍れども、黄奇蘇新のたぐひにあらずば、云事なかれ。
『笈の小文』に見える有名な一節であるが、芭蕉の紀行文に對していだいた見解と抱負をわれわれはこの中に讀みとることができる。新しい紀行文を創始しようとする芭蕉にとって古典の重壓は非常に大きかった。古人の糟粕を嘗めることなくということは、貞門談林時代から次第に古典的世界へとみずからの文學(俳諧)を近づけて來た芭蕉にとっては容易なことではなかった。『おくのほそ道』の冒頭で古人を思慕する情を吐露したほどの彼は、そういう自己を顧みつつも新しみを開拓しなければやまないという矛盾に苦慮したにちがいない。そして、ともかくも推敲に推敲を重ねたあげく、元祿七年素龍に成稿の清書を依頼するまでに、この紀行文を作り上げた。今、ここでその制作心理や制作過程を追體驗することは不可能であるが、完成した作品とその背景である古典との交渉、もっとも散文的事務的に書かれた曾良の日記との比較、それらを通して實現された芭蕉の抱負をうかがうことにしたい。芭蕉の言葉にある通り、この旅の眼目は松島・象潟をはじめ奧州路の歌枕をたどることであった。そして古人の俤を思慕すること、いわば元祿時代の文學散歩を彼は志したのである。中でも彼のもっとも敬愛した西行の跡をたどることが彼の最大の憧れでもあった。『おくのほそ道』全卷に西行の遺跡をたどる記事や、西行の作品の影響をうけた表現が認められることは先學の多く註するところである。これを主軸として古典的な雰圍氣を全篇にただよわせることに彼は腐心している。後半に多い源氏物語の模倣、全體の構成にたえず參照したと思われる東關紀行、あるいは謠曲で彼の記憶に入ったと思われる古典的素材をとり入れること、紀行文の骨組はこういうもので組み立てられた。『おくのほそ道』を讀み進んでいて、はたしてこれが元祿時代の人の旅行なのかと疑われるほど芭蕉は古典の影響を強くうけている。だが、それだけなら「俤似かよひて、古人の糟粕を改る事あたはず」にちがいない。彼はそういう世界と照應させるために新しい素材を用意していた。
俳諧は俗文學である。和歌連歌に對して卑俗な素材と表現を用いるものとして發達流行した文學であった。だが、そういう古風な俳諧に對して芭蕉等の志したものは卑俗なものと雅なるものとを調和させることであったといわれている。蕉風の俳諧は卑俗なものの中に美を見出し、これを和歌連歌の世界にもたらした。芭蕉の後半生はそういう努力の連續であったが、紀行文の場合に彼は同樣な試みを行っている。旅の途次で彼は俗なるものの中に美しさを見出そうと努め、それを古典的な世界と對比させ調和させようとしたのである。いわゆる俳諧的手法がこれで、『おくのほそ道』の中で、隨所に歌枕とは無縁な俗なるものが認められるのはそのためである。日光の佛五左衞門、那須野の少女かさねをはじめとしてこれらは全篇を一貫して要所々々にちりばめられている。さらに、田植歌の中に奧州の風流を見つけた芭蕉は、仙臺の加右衞門、大石田の俳人達との交情の中に風流を見出している。あたかも「ふり積雪の下に埋て」しかも「春を忘れぬ遲ざくらの花」にも似た鄙の風流を。『おくのほそ道』が擬古文に墮さず新しみを持っているのはこういう半面を芭蕉が意識してとりあげうち出そうと努めたからであろう。
俳諧的手法はそれだけではない。前後の文との對比調和にあたってもたえず芭蕉は配慮している。『おくのほそ道』全體を俳諧の歌仙形式にあてはめて説明することはいささか理におちることであるけれども、神祇・釋教・戀・無常・羈旅・述懷の句を適當に配置する俳諧の手法は『おくのほそ道』に起伏變化の多い調子を與えることに應用されている。曾良の日記が一般に流布するようになってから、虚構ということがしばしば問題とされるが、事實と相違する記事が『おくのほそ道』に多く認められるのは、おそらく右に述べたような制作意識がしからしめたのではあるまいか。黄奇蘇新という言葉は素材の新奇をいうのではなく、表現の新奇にある。虚構の多くは單なる記憶ちがいを除けば右のような芭蕉の制作意識に支えられているようである。
芭蕉の創始した紀行文は、古人の糟粕を改めることにまったく成功した。新しい古典として俳諧史の上のみならず、我が國の文學史に輝きを添えるものとして、數多くの讀者をもった。これからも持つことであろう。その批評や評價は多くの讀者によって行われるべきであり、鑑賞は作品がもっともよく教えてくれるものと思うので、ここにはそのいっさいを省略する。讀者諸賢の理解のたすけに拙稿がいささかなりとも寄與することがあれば幸である。
附記 本文庫の原稿作成の途次、筆者の健康状態がすぐれず、校正の段階ではほとんど讀み書きもできなくなったため、仕事の大部分を板坂元・中西啓兩君の御協力によって進めることとなった。本文を板坂君、隨行日記を中西君に分擔していただいたが、兩君の御盡力に深謝する次第である。