現代語訳 徒然草

吉田兼好

佐藤春夫訳





 鬱屈うっくつのあまり一日じゅうすずりにむかって、心のなかを浮かび過ぎるとりとめもない考えをあれこれと書きつけてみたが、変に気違いじみたものである。



 何はさて、この世に生まれ出たからには、望ましいこともたくさんあるものである。
 みかど御位みくらいはこのうえなくおそれ多い。皇室の一族の方々は末のほうのおかたでさえ、人間の種族ではあらせられないのだから尊い。第一の官位を得ている人のおんありさまは申すにおよばない。普通の人でも、舎人とねり(貴人に仕える下級の官人)を従者にたまわるほどの身分になると、たいしたものである。その子や孫ぐらいまでは、落ちぶれてしまっていても活気のあるものである。それ以下の身分になると、分相応に、時運にめぐまれて得意げなのも、当人だけはえらいつもりでいもしようが、つまらぬものである。
 法師ほうしほど、うらやましくないものはあるまい。「他人には木のはしか何かのように思われる」と清少納言せいしょうなごんの書いているのも、まことにもっともなことである。世間の評判が高ければ高いほど、えらいもののようには思えなくなる。高僧増賀ぞうがが言ったように、名誉のわずらわしさに仏の御教みおしえにもかなわぬような気がする。しんからの世捨人よすてびとならば、それはそれで、かくもありたいと思うような人がありもしよう。
 人は容貌ようぼう風采ふうさいのすぐれたのにだけは、なりたいものである。口をきいたところも聞き苦しからず、愛敬あいきょうがあって、おしゃべりでない相手ならばいつでも対座していたい。りっぱな様子の人が、話をしてみると気のきかない性根しょうねがあらわれるなどは無念なものである。
 身分や風采ふうさいなどは生まれつきのものではあろう。心ならば賢いのを一段と賢くならせることもできないではあるまい。風采や性質のよい人でも、才気がないというのは、品位も落ち、風采のいやな人にさえ無視されるようでは生きがいもない。
 得ておきたいのは真の学問、文学や音楽の技倆ぎりょう。また古い典礼てんれいに明るく、朝廷の儀式や作法さほうについて人の手本になれるようならば、たいしたりっぱなものであろう。筆跡なども見苦しからず、すらすらと文を書き、声おもしろく歌の拍子ひょうしを取ることもでき、ことわりたいような様子をしながらも酒も飲めるというようなのが、男としてはいい。



 昔の聖代せいだいの政治を念とせず、たみの困苦も国の疲労をもかえりみず、すべてに豪華をつくして得意げに、あたりを狭しとふるまっているのを見ると、腹立たしく無思慮なと感ぜられるものである。
衣冠いかんから馬、車にいたるまでみな、あり合わせのものを用いたがいい、華美かびを求めてはならない」とは、藤原師輔ふじわらのもろすけ公の遺誡ゆいかいにもある。順徳院じゅんとくいん(順徳天皇。在位一二一〇〜二一)が宮中のことをお書きあそばされた禁秘抄きんぴしょうにも「臣下から献上される品は、そまつなのをよいとしなくてはならぬ」とある。



 万事に傑出けっしゅつしていても、恋愛のおもむきを解しない男は物足りない。玉で作られたさかずきに底がないような心もちのするものである。つゆしもれながら、当所あてどもなくうろつき歩いて、親の意見も世間の非難をもはばかっているだけの余裕がないほど、あちらにもこちらにも心定まらず苦しみながら、それでいてひとり寝の時が多く、寝ても熟睡の得られるというときもないというようなのが、おもしろいのである。そうかといって、まるで恋におぼれきっているというのではなく、女にも軽蔑けいべつされているというのでないのが、理想的なところである。



 死後のことをいつも心に忘れずに、仏教の素養などがあるのが奥ゆかしい。



 不運にもうれいに沈んでいる人が髪などをって、世をつまらぬものと思いきったというのよりは、住んでいるのかいないのかと見えるように門を閉じて、世に求めることがあるでもなく日を送っている。
 というほうに自分は賛成する。
 顕基中納言あきもとのちゅうなごん(源顕基)が「罪無くて配所はいしょの月が見たい」と言った言葉の味も、なるほどと思い当たるであろう。



 わが身の富貴ふうきと、貧賤ひんせんとにはかかわらず、子というものはなくてありたい。
 さき中書王ちゅうしょおう兼明かねあきら親王醍醐だいご天皇の皇子)も、九条くじょう伊通これみち太政だじょう大臣(藤原伊通)花園はなぞの有仁ありひと左大臣(源有仁)など、みな血統のないのを希望された。染殿そめどの良房よしふさ太政大臣(藤原良房)に「子孫のなかったのはよい。末裔まつえいの振るわぬのは困ることである」と大鑑おおかがみの作者も言っている。聖徳太子が御在世中にお墓をお作らせなされたときも「ここを切り取ってしまえ、あそこも除いたほうがいい。子孫をなくしようと思うからである」とおおせられたとやら。



 あだし野のつゆが消ゆることもなく、鳥部山とりべやま(現在の京都市東山区嵯峨にあった墓地)に立つ煙が消えもせずに、人の命が常住不断のものであったならば、物のあわれというものもありそうもない。人の世は無常なのがけっこうなのである。
 生命いのちのあるものを見るのに人間ほど長いのはない。かげろうの夕べを待つばかりなのや、夏のせみの春や秋を知らないのさえもあるのである。よくよく一年を暮らしてみただけでも、このうえもなく、悠久ゆうきゅうである!
 飽かず惜しいと思ったら、千年を過ごしたところで一夜の夢の心地であろう。いつまでも住み果たせられぬ世の中に、見にくい姿になるのを待ち得ても、なんの足しにもなろうか。長生きすれば恥が多いだけのものである。せいぜい四十に足らぬほどで死ぬのがころ合いでもあろうか。
 その時期を過ぎてしまったら、容貌ようぼうじる心もなく、ただ社会の表面に出しゃばることばかり考え、夕日の落ちてゆくのを見ては子孫のかわいさに(4)、ますます栄えてゆく日に会おうと生命の欲望をたくましくして、いちずに世情をむさぼる心ばかりが深くなって、美しい感情も忘れがちになってゆきそうなのがあさましい。



 人間の心をまどわすものは、色情しきじょうに越すものがない。人間の心というものは、ばかばかしいものだなあ。においなどは、仮りのものでちょっとのあいだ着物にたき込めてあるものとは承知のうえでも、えも言われぬ匂いなどにはかならず心を鳴りひびかせるものである。
 久米くめの仙人が、洗濯せんたくしていた女のはぎの白いのを見て通力つうりきを失ったというのは(『今昔物語集』巻第十一にある)、まことに手足のはだの美しくえ太っていたので、ほかの色気ではないのだけに、ありそうなことではある。



 女は髪の毛のよいのが、格別に、男の目につくものである。人柄や心がけなどは、ものを言っている様子などで物をへだてていてもわかる。ただそこにいるというだけのことで、男の心をまどわすこともできるものである。一般に女が心を許す間がらになってからも、満足に眠ることもせず、身の苦労をもいとわず、えられそうにもないことによく我慢がまんしているのは、ただ容色ようしょく愛情を気づかうためである。実に愛着の道は根ざし深く植えられ、そのみなもとの遠く錯綜さくそうしたものである。しきしょうしょくほう六塵ろくじん楽欲ぎょうよく(欲望)も多い。これらはみな容易に心からたち切ることもできないではないが、ただそのなかの一つ恋愛の執着の押さえがたいのは、老人も青年も知者も愚者もみな一ようのように見受けられる。それゆえ、女の髪筋で作ったつなには大象だいぞうもつながれ、女のはいた下駄げたでこしらえた笛を吹くと、秋山の鹿しかもきっと寄って来ると言い伝えられている。みずからいましめて恐れつつしまなければならないのは、この誘惑である。


一〇


 住居すまいの身分に相応なのは、うき世の仮りの宿りではあるがと思いながらも、楽しいものである。
 身分のある人がゆったりと住んでいるところへは、照らし入る月光までが、いっそうおちついて見えるものである。現代的に華美ではないが、植込みの木々が古色をびて、天然にい茂った庭の草もおもむきをそえて縁側や透垣すいがい(竹や木で作った隙間すきまのある垣)配置はいちもおもしろく、座敷の内のおき道具類も古風なところがあって親しみ多いが奥ゆかしく思われる。多くの細工さいく人がくふうをらしてりっぱに仕上げた唐土もろこし(中国)やわが国の珍奇なものを並べ立てておき、庭の植込みにまでも自然のままではなく人工的に作り上げたのは、見た目にも窮屈きゅうくつに、苦痛を感じさせる。これほどにしたところで、どれほど長いあいだ住んでいられるというものだろうか。また、またたくひまに火になってしまわないともかぎらない。と一見してそんなことも考えさせられる。たいていのことは住居からして想像してみることもできる。後徳大寺ごとくだいじの大臣実定卿さねさだきょう(藤原実定・祖父の実能さねよしから徳大寺家と呼ばれる)が自邸の正殿せいでんの屋根にとびを止まらせまいとなわの張られているのを見た西行さいぎょうが、とびが止まったってなんの悪いこともあるまいに、このやしきあるじの大臣が心というのはこれほどのものであったのか。と言って、その後はこの殿にはうかがわなかったと聞きおよんでいるが、綾小路あやのこうじの宮性恵しょうえ法親王。亀山天皇の皇子)のお住まいしていらせられる小坂殿こさかどの(比叡山延暦寺別院の妙法院内の一院)むねに、あるとき縄の引かれていることがあったので、西行の話も思い出されたものであったが、実はからすがたくさん来て、池のかえるべられるのを宮様がかわいそうに思召おぼしめされたからであると人が話したので、これはまたけっこうなと感ぜられたことであった。徳大寺にも、なにか事情があったかもしれない。


一一


 十月のころ、栗栖野くるすの(現在の京都市山科やましなの一部)という所を過ぎてある山里へたずね入ったことがあったが、奥深いこけの細道を踏みわけて行ってみると、心細い有様ありさまに住んでいる小家があった。木の葉に埋もれたかけひ(泉などから水を引くといしたたりぐらいよりほかは訪れる人とてもなかろう。閼伽棚あかだな(仏前に供える水の器を置く棚)きく紅葉もみじなどを折り散らしているのは、これでも住んでる人があるからであろう。こんなふうにしてでも生活できるものであると、感心していると、向こうの庭のほうに大きな蜜柑みかんの木の、枝もたわむばかりに実のなっているのがあって、それに厳重にさくをめぐらしてあるのであった。すこしきょうがさめて、こんな木がなければよかったのになあと思った。


一二


 同じ心を持った人としんみり話をして、おもしろいことや、世のなかの無常なことなどをへだてなく語りなぐさめ合ってこそうれしいわけであるが、同じ心の人などがあるはずもないから、すこしも意見の相違がないように対話をしていたならば、ひとりでいるような退屈な心もちがあるであろう。
 双方言いたいだけをなるほどと思って聞いてこそ、かいもあるものであるから、すこしばかりは違ったところのある人であってこそ、自分はそう思われないと反対をしたり、こういうわけだからこうだなどと述べ合ったりしたなら、退屈もまぎれそうに思うのに、事実としてはすこしく意見の相違した人とは、つまらぬ雑談でもしているあいだはともかく、本気に心の友としてみるとたいへん考え方がくい違っているところが出てくるのは、なさけないことである。


一三


 ひとり灯下とうかに書物をひろげて見も知らぬ時代の人を友とするのが、このうえもない楽しいことではある。書ならば文選もんぜん(昭明太子撰。周から梁時代の詩文をまとめたもの)などの心に訴えるところの多い巻々、白氏文集はくしもんじゅう(唐の詩人・白楽天の詩文集)老子ろうしの言説、荘子そうし南華真経なんかしんぎょう(『荘子』のこと)だとか、わが国の学者たちの著書も、古い時代のものには心にふれることどもが多い。


一四


 和歌となると一だんと興味の深いものである、下賤げせん樵夫きこりの仕事も、歌にんでみると趣味があるし、恐ろしいいのししなども、臥猪ふすいとこなどと言うと優美に感じられる。ちかごろの歌は気のきいたところがあると思われるのはあるが、古い時代の歌のように、なにとなく言外に、心に訴え心に魅惑みわくを感じさせるのはない。貫之つらゆき(紀貫之)が「糸による物ならなくに(5)」とんだ歌は、古今集の中でも歌屑うたくず(つまらない歌)だとか言い伝えられているが、現代の人に詠める作風とは思えない。その時の歌には風情ふぜいも句法もこんな種類のものが多い。この歌に限って、こうおとしめられているのも合点がてんがゆかぬ。源氏物語には「ものとはなしに(6)」と書いてはいる。新古今では、「残る松さへ峰にさびしき(7)」という歌をさして歌屑にしているのは、なるほどいくぶん雑なところがあるかもしれない。けれどもこの歌だって合評のときにはよろしいという評決があって、あとで後鳥羽院ごとばいんからもわざわざ感心したとのおおせがあったと家長いえなが(源家長)の日記に書いてある。
 歌の道だけは昔と変わってはいないなどというが、はたしてどうか。今も歌に詠み合っている同じことばなり、名勝地でも、古人の詠んだのは全然同じものではない。わかりやすく、すらすらと、姿も上品で、実感も多い。梁塵秘抄りょうじんひしょう(後白河上皇の撰になる歌謡集)うたものの歌詞は、また格別に実感に富んでいるように思う。昔の人は、出まかせのような言葉のはしまでもどうしてこうも、みなりっぱに聞こえるものであろうか。


一五


 どこにもせよ、しばらく旅行に出るということは目のめるような心もちのするものである。その地方をあちらこちらと見物してまわり、田舎臭いなかくさいところ、山里などは、はなはだ珍しいことが多い。都の留守宅るすたく伝手つてを求めて手紙を送るにしても、あれとこれとをいい、ついでを心がけておけなどと言ってやるのも、楽しい。こんな場合などにあって何かとよく気のつくものである。手回りの品なども良い品はいっそう良く感ぜられ、働きのある人物はふだんよりはいっそう引き立って見える。寺や社などに知らぬ顔をしておこもりをしているなどもおもしろいものである。


一六


 神楽かぐらというものは活気もあり、趣味の多いものである。一般の音楽では、笛、ひちりき(竹の笛の一種)い。常に聞きたいと思うものは琵琶びわ和琴わごんとである。


一七


 山寺にこもっていて仏につかえているのこそ、退屈もせず、心のにごりも洗い清められる気のするものである。


一八


 人はわが身の節度をよく守って、おごりを打ち払い、ざいを持たず、世間に執着しゅうちゃくしないのがりっぱである。昔から賢い人で富んでいたという例は、はなはだ少ない。
 中国の許由きょゆうという人は身に着けたたくわえは何一つなく、水をさえ手で飲んでいたのを見たので、人が瓢箪ひょうたんを与えたところ、あるとき木の枝にかけておいたのが風に吹かれて音を立てるので騒々しいと言って捨てた。ふたたび手ですくい上げて水を飲んだ。どんなにか心の中がさっぱりしていたものであったろうか。また孫晨そんしんという人は冬、夜着やぎがなくてわらが一たばあったのを、夜になるとそのなかにもぐりこみ、朝になると丸めてしまっておいた。中国の人はこれをりっぱなことに思ったればこそ、書き記して後世に伝えたのであろう。こんな人があっても日本でなら話にも伝えられまい。


一九


 季節の移り変わりこそ、何かにつけてきょうの深いものではある。
 感情を動かすのは秋が第一であるとはだれしも言うけれども、それはそれでいいとして、もういっそう心に活気の出るものは、春の景色けしきでもあろう。鳥の声などは、とくに早く春の感情をあらわし、のどかな日ざしに、垣根かきねの草がえはじめる時分から、いくぶんと春のおもむきふかくかすみも立ちなびいて、花もおいおいと目につきやすくなるころになるというのに、おりから西風がつづいて心おちつくもなく花は散ってしまう。青葉のころになるまでなにかにつけて心をなやますことが多い。花たちばなはいまさらでもなく知られているが、梅のにおいにはひとしお過ぎ去ったことどもが思いかえされて恋しい思いがする。山吹やまぶき清楚せいそなのやふじの心細い有様ありさまをしたのなど、すべて春には注意せずにいられないような事象が多い。
 仏生会ぶっしょうえ釈迦しゃかの誕生日の行事。陰暦四月八日)のころ、加茂かも(京都・賀茂神社のこと)のお祭のころ、若葉のこずえがすずしげに茂ってゆく時分こそ、人の世のあわれが身にしみて、人の恋しさも増すものであるとおおせられた方があったが、まったくそのとおりである。五月あやめの節句せっくのころ、田植の時節に水鶏くいなの戸をたたくように鳴くのも心細くないことがあろうか。六月になって、いやしい小家に夕顔の白く見えて蚊遣火かやりびのくすぶっているのも趣がある。六月の大祓おおはらい(六月と十二月に宮中や神社で行なわれる神事)もまたよい。七夕たなばたを祭るのはにぎやかに優美である。おいおい夜寒よさむになってきてかりが鳴き渡るころ、はぎ下葉したばが赤味をびる時分、早稲田わせだすなど、さまざまな興味は秋に限って多い。野分のわき(秋から冬の暴風)の朝というものが趣の多いものである。言いつづけてくると、すべて、源氏物語や枕草子などで陳腐ちんぷになってはいるけれど、同じことだから言い出さないという気にもならない。思うところは言ってしまわないと気もちが悪いから、筆にまかせた。つまらぬ遊びごとでやぶき捨てるつもりのものだから、人が見るはずもあるまい。
 さて冬枯れの景色というものは、秋にくらべてたいして劣るまいと思われる。水際みずぎわの草には紅葉もみじが散りとまって、しものまっ白においている朝、庭にひいた流れから煙のような気が立ちのぼっているのなどは、わけておもしろい。
 年の暮れの押し迫って、だれも彼もみな忙しがっているころがまた、このうえなく人の心を引くものである。すさまじいものと決めてしまって見る人もない月が寒く澄みきっている二十日過ぎの空こそ、心細いものではある。おん仏名会ぶつみょうえ(十二月十九〜二十一日の宮中の仏事)だの荷前のさき使つかいが立つなど、趣味深く尊いものである。こんなお儀式がいくつも、春を迎える忙しさのなかにかさねがさね取り行なわれる様子が、すばらしい。
 追儺ついなから四方拝しほうはい(それぞれ、十二月末日と元日の宮中の行事)につづいてゆくのがおもしろい。つごもりの夜はたいそう暗いのを、松明たいまつなどともして人の家をたずねて歩き回り、なんだか知らないがぎょうぎょうしくわめき立て、足も地につかぬかとばかり急ぐが、夜明け方になると、さすがに、物音がなくなって世間がひっそりする。一年の名残なごりかと心ぼそくもある。死人の来る夜というので魂を祭る風習はこのごろでは都ではしなくなったのに、関東ではまだしていたのは、奥ゆかしかった。こんなふうに一夜が明けてゆく空の景色は昨日と変わっているところもないのに、なんだか新鮮に貴重な感じがする。大路おおじの有様は松飾りをして行き交う人もはなやかに飾り、うれしげに見えるのがまたおもしろい。


二〇


 何某なにがしとやらいった世捨人よすてびとが、この世の足手まといも持たない自分にとっては、ただ空の見納めがこころ残りであると言ったのは、なるほどそう感じられたであろう。


二一


 すべてのことは、月を見るにつけてなぐさめられるものである。ある人が月ほどおもしろいものはあるまいと言ったところが、別の一人がつゆこそ風情ふぜいが多いと抗議を出したのは愉快である。おりにかないさえすれば、なんだっておもむきのないものはあるまい。
 月花は無論のこと、風というものが、あれで人の心もちをひくものである。岩にくだけて清く流れる水のありさまこそ、季節にかかわらずよいものである。「※(「さんずい+元」、第3水準1-86-54)げんしょう日夜にちや東に流れ去る。愁人しゅうじんのためにとどまることしばらくもせず」という詩(唐の詩人・戴叔倫たいしゅくりんの作。※(「さんずい+元」、第3水準1-86-54)・湘はともに杭州の川)を見たことがあったが、なかなか心にひびいた。また※(「(禾+尤)/山」、第3水準1-47-83)けいこう(三国・魏の人で、竹林七賢の一人)も「山沢さんたくにあそびて魚鳥ぎょちょうを見れば心たのしむ」と言っている。人を遠ざかって水草の美しいあたりを逍遥しょうようするほど、心の慰められるものはあるまい。


二二


 何事につけても、昔がとかくしたわしい。現代ふうは、このうえなく下品になってしまったようだ。指物さしもの師の作った細工物さいくもの類にしても、昔の様式が趣味深く思われる。手紙の文句なども昔の反古ほごがりっぱである。口でいうだけの言葉にしたところが、昔は「車もたげよ」「火かかげよ」と言ったものを、現代の人は「もてあげよ」「かきあげよ」などと言う。主殿寮とのもりょう(宮中の役所の一つ)の「人数にんじゅ立て」と言うべきを、「たちあかししろくせよ」松明たいまつを明るくせよ)と言い、最勝講さいしょうこう(五月に宮中で行なわれる仏事)御聴聞所みちょうもんじょ(前記の仏事の際、天皇が高僧の講義を聞かれる御座所)は「御講ごこう」というべきを「講盧こうろ」などと言っている。心外なことであると、さる老人が申された。


二三


 おとろえた末の世ではあるが、それでも雲の上の神々こうごうしい御様子は世俗を離れて尊貴を感じるのである。
 露台ろだい(宮中にある板張りの一角)朝餉あさがれい(清涼殿内の一間で、天皇が略式の食事をとる所)何殿なにでん何門なにもんなどはりっぱにも聞こえるであろう。下々しもじもにもある小蔀こじとみ小板敷こいたじき高遣戸たかやりど(それぞれ、清涼殿の窓、板敷き、戸)などでさえ高雅に思われるではないか。
じんのもうけせよ(9)」というのは、どっしりしている。夜御殿よるのおとどをば「かいともし、とうよ10」などというのもまた、ありがたい。上卿しょうけい(儀式の首座)の陣で事務をっておられる様は申すにおよばぬこと、下役の者どもが、得意ぶった様子で事務に熟達しているのも興味がある。すこぶる寒いころの徹夜にあちらこちらで居眠りをしている者を見かけるのがおかしい。「内侍所ないしどころ(神鏡を奉ずる温明うんめい殿のことで、内侍司ないしのつかさという女官がつとめる)御鈴みすずの音(彼女らが天皇の参拝のときにふる)はめでたく優雅なものです」などと、徳大寺殿の基実もとざね太政だじょう大臣(藤原公孝きんたかが申しておられる。


二四


 斎宮いつきのみや(天皇即位の際、伊勢神宮に奉仕する内親王・皇女)野宮ののみやにおらせられるおん有様ありさま11こそ、しごく優美に興趣きょうしゅのあるものに感ぜられるではないか。経、仏などはんで、「がみ」「中子なかご」などと言うのもおもしろい。元来が、神社というものはなんとなく取り得のある奥ゆかしいものだ。年をた森の景色けしきが超世間だのに、玉垣たまがき(神社の垣根)をめぐり渡してさかき木綿ゆう(コウゾの皮の繊維で作った布で、幣帛へいはくとして榊にかけて献ずる)をかけてあるところなど堂々たらぬはずはない。わけてもすぐれているのは伊勢、加茂かも春日かすが、平野、住吉すみよし三輪みわ(伊勢神宮、京都・賀茂神社、奈良・春日神社、京都・平野神社、大阪・住吉神社、奈良・大神おおみわ神社)貴船きぶね、吉田、大原野おおはらの、松の尾、梅の宮(以上は京都の神社)である。


二五


 飛鳥川あすかがわ(奈良県明日香村あたりを流れる)淵瀬ふちせのように、変わりやすいのが無常のこの世のならいであるから、時移り、事は過ぎて、歓楽や哀傷あいしょう往来ゆききして、華麗かれいであった場所も住む人のない野原となり、変わらぬ家があれば、住む人のほうで変わってしまった。たとい昔ながらに咲き誇るとも桃李とうり(モモとスモモ)は物言わぬものであるから、だれを相手に昔語りをしようか。まして見も知らぬ遠い昔の高貴な人々のあとにいたっては、実にはかない。
 たとえば藤原道長ふじわらのみちなが京極殿きょうごくでん法成寺ほうじょうじ(道長の邸宅と、その東、鴨川近くに建立した寺)などを見ると、昔のこころざしだけは残って時勢が一変しているのに注意を促されて、胸の迫る思いがある。御堂殿みどうどの(道長のこと)が善美をつくして造営せられて、荘園しょうえんを多く寄付され、自分の一族を皇室の藩屏はんぺい(垣根、転じて天子の守護)、国家の柱石ちゅうせきとして、後世まで変わるまいと信じておられたその当時には、どんな時勢になってこんなふうに荒廃するものと思ってみられようはずもない。大門だいもん金堂こんどうなどは近いころまではまだあったが、正和しょうわ(一三一二―一七)のころに南門なんもんは焼けた。金堂はその後、横倒れになってしまったままで、それをもう建て直そうとするくわだてすらない。無量寿院むりょうじゅいん(阿弥陀堂)ばかりがその形見となって残っている。一丈六尺(約五メートル弱。一般に化身仏の高さをいう)の仏体が九つ、権威を見せて並んでおられる。行成大納言こうぜいのだいなごんが名筆のがくや、兼行かねゆきの筆の扉(藤原行成、源兼行ともに能筆として名高い)が鮮明に見えているのは興趣が多い。法華堂ほっけどうもまだ残っているであろう。それとてもいつまで残っていようか。これほどの残骸ざんがいさえとどめていない場所は、自然、いしずえの石だけが残るということにもなるが、由来を判然と知る人もなかろう。それゆえ何かにつけて見ることもできないのちの世のことまで思慮をくしておくというのも、たのみにはならない。


二六


 風に吹かれるまでもなく変わりうつろうのが人の心であるから、親睦しんぼくした当時を思い出してみると身にみて聞いた一言一句も忘れもせぬのに、自分の生活にかかわりもない人のようになってしまう恋の一般性を考えると、死別にもまさる悲しみである。それゆえ、白い糸が染められるのを見て悲しみ、道の小路こうじが分かれるのをなげく人もあったのではあろう。堀川院ほりかわいん百首(堀河天皇の下で、十六人の廷臣が百首ずつ計千六百の歌をんだもの)の歌の中にある――
昔見しいもがかきねは荒れにけり
  つばなまじりのすみれのみして13
 あわれを誘う風情ふぜいは、実感から出たものであったろう。


二七


 御譲位ごじょういの御儀式がすんで、三種の神器じんぎを新帝にお渡しあそばされるときは、ひどく心細く感ぜられるものである。花園上皇はなぞのじょうこう高御座たかみくら(天皇の位のこと)をおゆずりあそばされたつぎの春、おみあそばされたとやらうけたまわる――
殿守とのもりのとものみやつこよそにして
  はらわぬ庭に花ぞ散りしく14
 新帝の御代みよの務めの忙しいのにかまけて、上皇の御所には参る者もないというのはまことにさびしいことではある。こういう場合に人の心の真実は現われもしよう。


二八


 諒闇りょうあん(天皇が父母の喪に服すこと)の年ほど悲しいことはない。倚盧いろの御所(諒闇の初めにこもるところ)有様ありさまにしたところが、板敷いたじきを下げてあしで編んだ御簾みすをかけ、布の帽額もこう(御簾の上に引く幕状のもの)粗野そやに、お道具類も粗略になり、百官の装束しょうぞくや、太刀たち平緒ひらお(太刀の飾りひも)までが平素と異なっているのは、ただごとではない思いをさせる。


二九


 静かに思うと、何かにつけて過去のことどもばかり恋しくなってきてしかたがない。人の寝静まってのち、夜長よながの退屈しのぎにごたごたした道具など片づけ、死後には残しておきたくないような古反古ふるほごなどを破り捨てているうちに、くなった人の手習いや絵などなぐさみにかき散らしたものを見つけ出すと、ただもうその当時の心もちになってしまう。いま現に生きている人のものだって、いつどんな折のものであったろうかと考えてみるのは、身にしみる味である。使い古した道具なども、気にもとめず久しいあいだ用いなれているのは、感にえぬものである。


三〇


 人のくなったあとほど悲しいものはない。中陰ちゅういん(死後の四十九日間)のあいだ山里などに引っ越していて狭い不便な所へ多人数が寄り集まり、のちの法事などを営んでいるのは気ぜわしい。日数のつことの早さはくらべものもない。最後の日にはたいへん情けないふうになっておたがいに口をきくこともなく各々おのおのわれがちに荷纏にまとめして、ちりぢりに別れていってしまう。もとの住居すまいへ帰って来てからがまた一段と悲しいことが多いのである。しかじかのことは、つつしむべし、あとに生き残っている人のためにむべき事柄であるなどと言うが、この悲しみの最中にそんなことぐらいでもよさそうなものを、人間の心というものはやはりいやなものであると感じさせられる。年月が経ってもすこしも忘れられぬということではないが、去る者は日々にうとしというとおり、忘れられないといううちにも、その当時とは違ってくるものか、雑談に笑いきょうじたりする。遺骸いがいは人里遠い山の中へ葬って、忌日きじつなどにだけ参詣さんけいしてみると、ほどなく卒都婆そとばこけが生えて、木の葉に埋められ、夕方に吹く風や夜半よわの月などばかりがわずかになぐさめてくれるのである。それも思い出してたずねて来る人が生きているうちはまだしもいいが、それらも早晩はみな亡くなってしまって、話に聞き伝えるだけにすぎぬ人などは、なんで悲しいなど思おうや。かくてあとをとむらうことも打ち絶えてしまうと、どこの人であったやら名さえ知れなくなり15、年々の春の草ばかりは、心ある人に感動を与えもしよう。
 ついには、あらしむせんでいた松も千年とは経たぬうちにたきぎくだかれ16古墳こふんかれて田となる。そのあとかたさえなくなるのが悲しい。


三一


 雪のおもしろく降った朝、ある人のところへ用があって手紙をやるに、雪のことには一言もふれなかったところが、その返事に、「この雪をなんと見るかと一筆申されぬほどのひねくれた野暮やぼな人のいうことなんか聞いてあげられましょうか、どこまでもなさけないお心ですね」とあったのは、きょうがあった。今はもうき人のことだから、こればかりのことも忘れがたい。


三二


 九月二十日時分のこと、ある方のお誘いのお供をして、夜の明けるまで、月を見歩いたことがあったが、お思い出しになった家があるというので、案内を受けておはいりになられた。庭の荒れているつゆの多いところに、とくにというのではなくふだんからいているらしい薫香たきもの(いくつかの香を練り合わせた練香ねりこうがしっとりとにおうている。世を忍んでただならぬ方の住んでいるらしい様子が、まことに風雅である。自分のいっしょに行った方はいいかげんおられて出てこられたが、自分はことの優美に感心して、ものかげからしばらく見ていたら、家のなかの人は妻戸つまど(両開きの板戸)をすこしおしあけて月を見る様子であった。客を送り出してすぐ奥に引っこんでしまったとしたら、うちこわしであったろう。まだ見ている人がいようなどとは知るはずがあるものではない。これらのことはただ日常の心がけによってなされたものであろう。彼女はその後まもなく死んだと聞いた。


三三


 今の内裏だいりが落成して、有職ゆうそくの人々(朝廷の儀式・作法などにくわしい人たち)に見せられたところが、どこにも欠点がないというので、もうお引き移りの日も迫っていたのに、玄輝門院げんきもんいん(後深草天皇の妃)がご覧あそばされて、閑院殿かんいんどの(平安京内に臨時に設けられた里内裏と呼ばれた皇居のこと)櫛形くしがたの窓は、まるっこくふちもありはしなかったとおおせられた。まことにえらいものであった。これは壁にきざみを入れて木でふちをしていたもので、違っていたから改められた。


三四


 甲香かいこうは、ほらがいのようなものが、形が小さく、口のところが細長く出ている貝のふたである。武蔵むさしの金沢(現在の横浜市金沢)という浦で取れたのを、土地の人は「へなだり」と呼んでいるということであった。


三五


 字のへたな人が、平気で手紙を書き散らすのはい。見苦しいからと代筆をさせているのはいやみなものである。


三六


 長いあいだ訪れもせぬがうらんでいるであろう。自分のぶしょうのせいと申しわけもない気もちがしていると、女のほうから「手のすいた召使いをひとりよこしてください」などと言ってくるのは、ありがたくうれしい。「そんな気風のがいい」とある人が語った。同感のことである。


三七


 いつもわけへだてなく慣れ親しんでいる人が、何かの拍子ひょうしに、わけへだてがましく様子ぶっている有様ありさまをしているのは、いまさらそんなことをするでもあるまいという人もあるかもしれないが、やはりきちんとしたい人だなあと感じられるものである。平素あまり親密でもない人が打ち解けたことを話し出したりするのも、それから好きになったりするものである。


三八


 名聞利益みょうもんりやくのために心を支配されて、おちついた時もなく一生を苦しみ通すのはばかげたことである。財産が多くなると一身のまもりのためには不充分なものである。危害を求め、煩悶はんもんを招くなかだちになる。白氏文集はくしもんじゅうにあるように、黄金こがねを積み上げて北斗ほくと(北斗星)を支えるほどの身分になってみても、他人に迷惑をかけるだけのことである。俗人の目を喜ばせるたのしみというのもつまらぬ。大きな車や、えた馬、黄金や珠玉たまも、心ある人にはいやなばかげたものと思われるであろう。金は山に捨て、玉はふちへ投げるがいい。古人が言うように利欲にまどうのは最も愚かな人である。
 不朽ふきゅうの名を世に残すことは望ましい。位が高く身分が尊いからといって、必ずしもすぐれた人とは言えまい。愚者迂人ぐしゃうじん(おろかでにぶい人)でも貴い家に生まれ、時にあえば、高い位にも上り驕奢きょうしゃ(ぜいたく)をきわめるものである。りっぱな聖人であった人でも、自分から辞退して低い位にいたり時代にあわないでしまった人も多かった。いちずに高位高官を希望するものも利欲にまどうにつづいて第二のばかである。知恵と精神とにおいてこそ世にすぐれた名誉をも残したいものであるが、熟考してみると名誉を愛するというのはつまりは人の評判を喜ぶわけである。める人も、そしる人も、いつまでもこの世にとどまっているわけではない。伝え聞く人々だとて、またさっさとこの世を去ってしまう。だれに対して恥じ、だれに知られようと願おうか。ほまれは同時にそしりの根本である。死後の名が伝わったとていっこう無益ではないか。これを願うのも第三の愚かである。
 しかし、しいて知恵を求め、賢くなりたいと思う人のために言ってみるとすれば、なまなかの知恵が出るので虚偽きょぎが生じた。才能というのも煩悩ぼんのうの増長したものである。聞き伝えたり、習って覚え知ったのは、ほんとうの知恵ではない。どんなのを知恵といったものだろうか。可も不可も一本のものである。どんなものを善といったものだろうか。真人しんじん(まことの道を知り、完全な道徳を身につけた人)は知もなく、徳もなく、功名こうみょうもなく、名誉もない。だれがこれを理解し、これを世に伝えようや。べつに徳を隠し、愚を守るというわけでもない。本来が賢愚得失けんぐとくしつの境地には住んでいないのだからである。迷いの心をいだいて名聞利得を求めるのはこのとおりである。すべてみな、まちがいである。言うに足らず。願うにも足りない。


三九


 ある人が、法然上人ほうねんしょうにんに、「念仏の時に眠くなってしまってぎょうができませんが、どうしてこの障害を防いだらよろしゅうございましょうか」と言うと、「目がめたら念仏をなさい」と答えられた。じつに尊かった。
 また、往生おうじょうは確実なものと思えば確実、不確かと思えば不確かであるともおおせられた。これも尊い。また疑いながらでも、念仏をすれば往生おうじょうするとも仰せられた。これもまた尊い。


四〇


 因幡いなばの国(現在の鳥取県)に何の入道にゅうどうとかいう者の娘が美貌びぼうだというので、多くの人が結婚を申しこんだが、この娘はただくりばかり食べて、米のたぐいはいっこう食べなかったので、こんな変人は人の嫁にはやれないといって、親が許可しなかった。


四一


 五月五日、加茂かも競馬くらべうま上賀茂かみがも神社で催される)を見物に行ったが、車の前に、雑人ぞうにん(身分の低い者)どもが多数立ちはだかって見えなかったから、一行いっこうはそれぞれ車をりてらち(馬場の垣)のそばへすり寄ったけれど、特別に人が混雑していて割りこまれそうにもなかった。
 こんなおりからおうちの木に坊主ぼうずが登って、木のまたのところで見物していた。木に取っつかまっていて、よく眠っていて落ちそうになると目をさますことがたびたびであった。これを見ている人が嘲笑ちょうしょうして「実にばかなやつだなあ、あんな危ない枝の上で、平気で居眠りしているのだから」と言っていたので、その時心に思いついたままを「われらが死の到来が今の今であるかもしれない。それを忘れて、物を見て暮らしている。このばかさかげんは、あの坊主以上でしょうに」と言ったので、前にいた人々も「ほんとうに、そうですね、最もばかでしたね」と言って、みな後をふり返って見て「こちらへおはいりなさい」と場所を立ち退いて呼び入れた。
 このくらいの道理を、だれだって気がつかないはずはなかろうに、こういう場合、思いがけない気がして思い当たったのでもあろうか、人は木石ぼくせきではないから時と場合によっては、ものに感ずることもあるのだ。


四二


 唐橋中将からはしのちゅうじょう(源雅清まさきよという人の子息に、行雅僧都ぎょうがそうずといって密教の教理の先生をしている僧があった。のぼせる病気があって年とってくるにしたがって、鼻がつまり、息もしにくくなったのでいろいろ治療もしたけれど、重態になって、目やまゆひたいなどれぼったくおおいかぶさってきたので、物も見えず、二の舞のめんのように色赤く、恐ろしげな面相に似て、ただ恐ろしげな、鬼の顔になり、目はいただきにつき、額のあたりが鼻になったりしたので、のちには同じ寺中の人にも会わず、引きこもり、長いあいだ病んだあげく、死んだ。妙な病気もあったものである。


四三


 晩春のころ、のどかに美しい空に品位のある住宅の奥深く、植込みの木々も年をた庭に散りしおれている花の素通りしてしまうのが惜しいようなのを、はいって行ってのぞいて見ると、南向きのほうの格子こうしはみな閉めきってさびしそうであるが、東のほうに向かっては妻戸つまどをいいかげんにあけているのを、御簾みすの破れ目から見ると、風采ふうさいのさっぱりした男が、年のころ二十ばかりで、改まったではないが、奥ゆかしく、のんびりした様子で机の上に本をひろげて見ているのであった。いったいどんな素姓すじょうの人やら知りたいような気がした。


四四


 そまつな竹の編戸あみどの中から、ごく若い男が、月光のなかでは色合いははっきりしないが、光沢こうたくのある狩衣かりぎぬ(貴族の日常着)に、濃いむらさき色の指貫さしぬき(はかまの一種)を着け、由緒ゆいしょありげな様子をしているが、ちいさな童子をひとりともに連れて遠い田の中の細い道を稲葉の露にれながら歩いていくとき、笛をなんともいえぬ音に吹きなぐさんでいた。聞いておもしろいと感ずるほどの人もあるまいにと思われる場所柄だから、笛の主のゆくえが知りたくて見送りながら行くと、笛は吹きやめて山のふもとに表門のある中にはいった。しじながえ(牛をつなぐ牛車の棒。とめておくときにそれを置く台が榻)をもたせかけた車の見えるのも市中よりは目につくような気がしたので、下部しもべの男に聞いてみると「これこれの宮様がおいでになっていられるので、御法事でもあそばすのでしょうか」と言う。
 御堂みどうのほうには法師ほうしたちが来ていた。夜寒よさむの風に誘われてくる空薫そらだき(それとわからないように香をたきくゆらすこと)においも身にしみるようである。正殿から御堂へのろうをかよう女房の追い風の用意なども、人目のない山里とも思われず行きとどいていた。
 思う存分に茂った秋の野は、置きどころのないほどしとどな露に埋まって虫の音がものを訴えるように、庭前の流水の音が静かである。市中の空よりも、雲の往来も速いように感ぜられ、月の晴れたり曇ったりするのも頻繁ひんぱんであった。


四五


 じゅ二位藤原公世ふじわらのきんよの兄の、良覚僧正りょうがくそうじょうと申された方は、とても怒りっぽい人であった。寺のそばに大きなえのきの木があったので、人々が榎の僧正と呼んだ。こんな名はしからぬというので、その木はってしまった。その根があったので切杭きりくいの僧正と呼んだ。僧正はますます立腹して切杭を掘りかえして捨てたので、その跡が大きな堀になってあったから、堀池ほりけの僧正とつけた。


四六


 柳原やなぎはら(京都市上京区柳原町のあたり)の付近に、強盗法印ごうとうほういんと名づけられた僧があった。たびたび強盗にあったものだから、こんな名をつけたのだという。


四七


 ある人が清水きよみずへおまいりをしたとき、年寄りのあまに道連れになったことがあったが、尼は途中「くさめ、くさめ」と言いながら歩くので、「尼さん何をそんなに言っていらっしゃるのですか」と問うたけれど返事もせずに、やはり言いつづけていたのを、たびたび問われて腹を立てて、「え、鼻のつまったときに、このおまじないをしないと死ぬと言いますから、乳をお飲ませ申したかた比叡山ひえいざんちごになっておいであそばすのが、今日でもお鼻をつまらせてはおいでにならぬかと思ってこういうのですよ」と言った。珍しく殊勝なこころざしではないか。


四八


 葉室中納言光親卿はむろちゅうなごんみつちかきょう(藤原光親)が、後鳥羽院ごとばいん最勝会さいしょうえの講式の奉行ぶぎょう(公事を執行すること)伺候しこうして邸前へお召しがあって、お膳部ぜんぶを出して御馳走ごちそうをたまわった。食い散らしたおじゅうをそばの御簾みすの中へ押し入れて御前を退出した。女房たちは「まあ、きたならしい、だれに残しておいてくれようとでもいうのかしら」と言い合ったので、院は「古式に故実こじつ(昔の儀式や作法などの規定)心得こころえのあるやり方のりっぱなものである」と繰りかえし繰りかえし御感心なすったということであった。


四九


 老年になったら仏道を心がけようと待っていてはならない。古いつかの多くは少年の人のものである。思いがけない病を得て、ふいにこの世を去ろうとするときになって、やっと過ぎてきた生涯の誤っていたことに気づくであろう。誤りというのは他事よそごとではない。急を要することをあとまわしにし、あとまわしでよいことをいそいで、過ぎてきたことがくやしいのである。そのときに後悔したって間に合うものでもあるまい。
 人間はただ無常が身に切迫していることを心にはっきりと認識して、瞬間も忘れずにいなければなるまい。そうしたならば、この世のにごりに染まることも薄く、仏の道をつとめる心もしんけんにならずにはいまい。昔の高僧は、人が来てさまざまの用談をしかけたとき、「ただ今火急かきゅうの要事があって、もう今日明日に迫っている」と言って、相手の話には耳も貸さないで念仏して、ついに往生おうじょうをとげたと、永観律師ようかんりっしの往生十因じゅういんという書物にある。心戒しんかいといった聖僧は、この世がほんの仮りの宿のようであると痛感して、静かに尻をおろして休むこともなく、平生へいぜいちょっと腰を曲げてかがんでばかりいたそうである。


五〇


 応長おうちょう(一三一一―一二)のころ、伊勢の国から女が鬼になったのを引き連れて都へ来たということがあって、当時二十日ばかりというものは毎日、京白川きょうしらかわあたりの人が、鬼見物おにけんぶつだというのであちらこちらとあてもなく出歩いていた。昨日きのう西園寺さいおんじに参ったそうであるし、今日は院(上皇の御所)の御門へ参るであろう。今しがたはどこそこにいたなどと話し合っていた。確実に見たという人もいなかったが、根も葉もないうそだという人もない。貴賤きせんみな鬼のことばかりうわさして暮らした。その時分、自分が東山ひがしやまから安居院あぐいん(比叡山東塔とうとう竹林院ちくりんいんの僧が京で寄宿する別院)のほうへ行ったところ、四条しじょうからかみのほうの人はみな北をさして走って行く。一条室町むろまちに鬼がいると騒ぎ立てていた。今出川いまでがわ付近から見渡すと、院のおん桟敷さじきの付近はとうてい通れそうもない群集であった。まったく根拠のないことでもないようだと思って、人を見させにやったが、だれも会ってきたという者もない様子であった。夜になるまで、こんなふうに騒ぎ、果ては喧嘩けんかがおっぱじまって、怪我人けがにんなどいやなことが起こったものであった。そのころ一帯に、二、三日ずつ人の病気することがあったのを、鬼の取りざたは、この疫病えきびょうの流行の前兆であったのだと言う人もあった。


五一


 亀山上皇かめやまじょうこう離宮りきゅうのお池に、大井川おおいがわの水をお引きあそばそうというので、大井の村の者に命じて水車をお作らせあそばされた。多くの金銀をたまわって、数日で仕上げて流れにかけて見たけれど、ほとんど回らなかったので、さまざまに直してみたけれど、ついにまわらずにただ立っているだけであった。そこで宇治の里人さとびとを召して作らせられたところが、わけもなく組み立てたが、思うように巡って水をみ入れることに効果があがった。何かにつけてその道の心得のある者は尊重すべきである。


五二


 仁和寺にんなじのある坊さんが、年寄りになるまで男山八幡宮おとこやまはちまんぐう(京都・八幡市の石清水いわしみず八幡宮)へまだ参詣さんけいしたことがなかったのでもの足らぬことに思って、ある時、思い立ってただひとり歩いて御参詣した。山麓さんろくにある極楽寺ごくらくじ高良こうらなどの末社をおがんで、これだけのものかと早合点をして帰ってしまった。そうしてかたわらの人に向かって「年ごろ、気にかかっていたことをし終わせました。聞きしにまさる尊いものでございました。それにしてもお参りする人ごとに、みな山へ登ったのはどういうわけであろうか。自分も行ってみたくはあったけれど、お参りが目的で山の見物に来たのではないと思ったから、山までは行かなかった」本堂の山上にあるは気づかないで、こう言っていた。
 なんでもないことでも案内者はあってほしいものである。


五三


 もう一つ、仁和寺にんなじの法師の話。寺にいた童子どうじが、法師になる記念にと、知人が集まって酒盛さかもりもよおしたことがあった。酔っぱらってきょうに乗じてそばのかなえ(物を煮たり酒を暖めたりするための、足つきのなべを取って頭にかぶり、つっかかって、うまくはいらないのを、むりやりに、鼻をおしつぶして、とうとう顔をさし入れて舞ったので、一座の人々が非常におもしろがった。しばらく舞ってから、かなえを抜こうとしたが、どうも抜けない。酒宴の興もさめて、どうしたものかと当惑していた。そのうちにくびのあたりに傷ができて血が流れ出し、だんだんれ上がってしまって、息もまってきたから、割ってしまおうとしたけれど容易には破れない。響いて我慢がまんができない。手にえずしかたがなかったので、三つ足の上へ帷子かたびら(裏地をつけない服)をかぶせて手を引き、つえをつかせて京の医者のところへ連れて行ったが、途中ではふしぎがって人だかりがする。医者のところへ行って対座したときの様子は定めし異様なものであったろう。物を言ってもこもり声になっていっこう聞こえないし、こんなことは書物にも見当たらず師の教えにもなかったから、治療ができないと言われて、また仁和寺へ帰って親友や老母などが、枕もとにより集まって泣き悲しんだが、聞こえているかどうかもわからない。こうしているあいだに一人が言うには、たとい耳や鼻が切れてしまおうとも命だけは別条ありますまい。力のかぎり引っぱってみようと、わらしんを鼎の周囲にさしこんでかねふちとのあいだをへだてておいて、首もちぎれるほど引っぱったので、耳や鼻は欠けてとんだが鼎は抜けた。あやうい命をやっと助かったが、長いあいだ病気をしていたものであった。


五四


 御室おむろ仁和寺にんなじに非常に美しいちごがあったのを、どうかしておびき出して遊ぼうとたくらんだ法師どもがいて、芸のある遊び好きの法師どもと相談して、気のきいた弁当のようなものを、念入りに用意して箱のようなものに入れておいて双岡ならびがおかのぐあいのよさそうなところへ埋め、その上に紅葉もみじを散らしかけたり、思いがけないようにしておいて、仁和寺の御所へ行ってその児を誘い出してきた。うれしがってあちらこちらを遊び回ってきたあげく、そこらのこけむしろに並んで「ひどくくたびれた。だれか紅葉を焼いて一杯あたためないか。効験こうけんのある僧たち、一つ祈ってみてはどうだ」などと言い合って、埋めてある木の根もとに向かって数珠じゅずをおしんで、もったいらしくいんを結んだりして、気取けどられないようにふるまいながら、木の葉をきのけて見たがいっこう何も見えない。場所をまちがえたろうかと、掘らぬ場所などないほど山中をあさったが、なかった。埋めているのを人が見ていて、御所(寺)のほうへ行っているひまに盗んだのであった。法師たちは口をあんぐりと、聞き苦しい口争いなどをはじめ、腹を立てて帰ってしまった。しいてきょうを求めようとすると、きっとあっけないものになる。


五五


 家の造り方は、夏を専一せんいつにするのがよい。冬はどんな所にも住まれる。暑いころの悪い住宅ときては我慢がまんのならないものである。深い水は涼しげでない。浅くて流れているのがずっと涼しい。微細なものを見るには、遣戸やりど(引きちがいの戸、またその戸のついた部屋)のなかのほうがしとみ(格子に板を張った横戸。吊り上げて開く)の部屋よりも明るい。天井てんじょうの高いのは、冬寒く灯火も暗い。造作ぞうさくは無用のところを作っておくのが見てもおもしろく万事に都合がいいと、人々が評定ひょうじょうし合ったことであった。


五六


 久しぶりで会った人が、自分のほうにあったことを片っ端から残らず話しつづけるのはきょく(おもしろみ)のないものである。へだてなく親しんでいる人だってしばらく会わずにいたのなら、遠慮ぐらいは出てよさそうなものではないか。
 がらの悪い人は、ちょっと外出してきても、おもしろいことがあると息もつかず話しきょうずるものである。上品な人が話をするのは、おおぜいがいても一人を相手に言うが、自然と、他の人も耳を傾けるようになる。下賤げせんの人はだれに向かってということもなく多人数のなかへ押し出して、目の前に見えるように話すので、みないちじに笑い騒ぐので、非常に騒々しくなる。
 おかしいことを言っても、たいしておかしがらないのと、なんでもないことによく笑うのに、人柄の程度も推察できるものである。人の行状ぎょうじょうしを見るにも、才知のある人がそれを品評するのに、自分の身を引き合いに出すのははなはだ聞き苦しい。


五七


 人が話し出した歌物語(和歌にまつわる話)のよくないのは困ったものである。多少その方面の心得のある人ならば、おもしろがって話さないはずであろうに。いったいに半可通はんかつうのする話というものは、そばで聞いていても笑止千万で聞き苦しいものである。


五八


道心どうしんさえあるなら、住所などどうでもよかろう。家庭に住んで社会にまじっていても、後世ごせ(死後の世界。来世)を願うに困難なことはあるまい」というのは、いっこうに後世を理解しない人である。ほんとうに現世げんせをつまらぬと感じ、ぜひとも生死しょうじ解脱げだつしようと思っているなら、なんのかいがあって毎日きみつかえたり、家庭を顧慮こりょしたりするわざにはげみが出ようか。人の心は外界の事情に影響されるものであるから、静かな境地でなければ道の修行はできまい。
 器量は古人におよばず、たとい山林にはいってみてもうえを救い暴風雨を防ぐ方便がなくては生きていられないものであるから、自然と社会的の欲望をむさぼるに似たようなことも、時によってはないとも言えまい。それだからといって「そんなことでは世を捨てたかいはない。出家の生活をしながら利欲の念に動かされるほどなら、なぜ世を捨てたか」などというのは、むちゃなことである。ひとたび仏道にはいって世をいとうたほどの人であってみれば、たとい多少の利欲の念があっても権勢を追う人の旺盛おうせい貪欲どんよくにくらべものにはなるまい。紙の夜具、あさころも一鉢ひとはち(鉢一杯の食べ物)の用意、あかざ吸物すいものなどの望みが、人にどれほどのついえをかけようや。要求は簡単で、欲望も容易に満足するであろう。
 それにわが身の入道の姿の手前もあるから、人並みの欲があったにしても、悪には遠ざかり、善に近づくことが多い。人間と生まれた以上はなんとかして遁世とんせいする(世を捨てる、また出家すること)ようにしたいものである。いっこうに貪欲を事として、真理の知恵に従わなくては、一般の動物となんの選ぶところもないではないか。


五九


 真理探究の大事のこころざし発起ほっきした人は、捨て去りがたい気がかりのことも成就じょうじゅしないで、そのままに捨ててしまうべきである。「ちょっとこのことをすませておいて、ついでにあのことも片をつけて、あのほうのことも人に笑われないように、将来の非難が起こらぬように準備しておこう、今までだってこうしていたのだから、いまさらこれくらいのことを待つのは、今すぐである。あまり人困らせをしないように」などと思っていたのでは、よんどころないことがあとからあとから出てきて、そんなことがきてしまう日もなく、思いきって実行する日があるものではない。おおかたの人を見ると、相当な分別のある人なら、みんなこういう予定だけはして一生を通してしまうものなのである。近火ちかびなどで逃げる人は「もうちょっと」などと言っているものであろうか。一命を助けたいと思えば、恥もなく財産も捨てて逃げ出すのである。寿命が人を待っていてくれようか。無常がくるのは水火が攻めるよりもすみやかにのがれる方法とてもないのに、その時になって、老親幼児、主君の義、愛人の情などがふり捨てがたいからとて、捨てないですませられることだろうか。


六〇


 真乗院しんじょういん(仁和寺に属する院の一つ)盛親僧都じょうしんそうずという尊貴そんきな知者があった。里芋さといもというものが好物で、たくさん食べた。談義の席上でも、大きなはちへ高く盛り上げたのをひざもとへ置いて食べながら書物を講義した。病気になると一週間も二週間も養生ようじょうだと引きこもっていて、思う存分に、上等の里芋を特別にたくさん食べて何病でもなおしてしまった。人に食べさせることはない、ただ自分ひとりだけが食べたものである。非常に貧乏していたのに、師匠が死ぬときに、ぜにを二百かん僧房そうぼうむねとをこの僧都に譲った。僧都そうずはこのぼうを百貫に売り払って、合計三万びきの銭を里芋の代と決めて京都の人に預けておいて、銭十貫ずつをとりよせて里芋を存分に食べていたものだから、べつの用途に当てるまでもなく、その銭は使い果たしてしまった。三百貫の銭を貧乏な身分で手に入れながら、こんなふうに銭を処置したのは、まことに珍しい道心の人であると人が評していた。
 この僧都がある法師を見て「しろうるり」という名をつけた。「しろうるりとは何か」と人が問うたところが、そんなものは吾輩わがはいも知らない。もしあったら、「あの坊主の顔みたいなものでしょうよ」と言った。
 この僧都は容貌ようぼうがりっぱ、力強く、大食で、筆跡も学力も弁論も人にすぐれて一宗の権威であったから寺中でも尊重されていたが、世俗を軽視した男で万事わがまま勝手で、たいていのことは人に見習うということもしなかった。出張して御馳走ごちそうになるときなども、みなの前へおぜんの並びそろうのも待たずに、自分の前に置かれるとすぐにひとりで食べてしまって、帰りたくなるとひとり突っ立って出て行ってしまう。昼食も夕飯も人並みに決めて食べることはしないで、自分の食べたいときに、夜中でも暁方あけがたでも食べ、眠ければ昼間でも部屋へけ込んでこもり、どんな大事だいじがあっても人の言葉を受けつけない。目がめるとなると幾晩も寝につかないで、心を澄ませてきょうに乗じて歩くなど、世間に並みはずれた状態であったが、人にもきらわれないで、何をしても人々が大目に見ていた。これは、徳が最高の境地へ達していたためでもあったかしら。


六一


 きさきなどがお産のときに、こしきを落とすのは、必ずしなければならないことではない。お胞衣えな(胎児を包んでいる膜や胎盤)が早くおりないときのまじないである。早くおりさえすれば甑落としはしない。本来下賤げせんの社会からはじまったので、べつだんに根拠のある説もない。〔后などは〕大原おおはらの里(現在の京都市左京区大原)の甑をとくにお求めになる。古い宝物蔵ほうもつぐらの絵に、下賤の者が子をんだ所で、甑を落としているのを描いていた。


六二


 延政門院えんせいもんいん後嵯峨ごさが天皇の皇女)幼少のおん時、父君がおいでの院へ参る人に、言伝ことづてであると申し上げさせられたお歌は、「ふたつ文字もじ牛のつの文字ぐな文字ゆがみ文字とぞ君は覚ゆる」。恋しく思い参らせたまうというのである。


六三


 宮中で正月に行なわれる後七日ごしちにち御修法みずほう(正月八日から七日間行なわれる宮中の仏事)に、阿闍梨あざり(導師。ここでは御修法を勤める)が武者を集めることは、いつぞや盗人ぬすびとに襲われたことがあったので、宿直人とのいびと(警護役)という名義でこのように物々しく警固させることになったものである。一年じゅう吉凶はこの御修法中の有様ありさまに現われるものなのに、武人など用いるのは不穏当なことである。


六四


 車のすだれにつける五緒いつつおかざりは、けっして人によってつけるものではなく、何人なんぴとでもその分際ぶんざいとして最高の官位に到達したら、それをつけて乗るものであると、ある人の話であった。


六五


 このごろのかんむりは昔のよりずっと高くなっていると、ある人の話であった。昔の冠桶かぶりおけ(冠をおさめる容器)を持っている人は、現在でははしをつぎ足して使っているのである。


六六


 岡本おかもと関白家平かんぱくいえひら(近衛家平)が、満開の紅梅こうばいの枝に鳥を一番ひとつがい添えて、この枝につけてこいと鷹飼たかがい下毛野武勝しもつけのたけかつに申しつけられたが、「花に鳥をつける方法はぞんじません。一枝に一番ひとつがいつけることもぞんじません」と言ったので、料理方にもお尋ねがあって人々に問うてから、ふたたび武勝に「それではほうの思うとおりにつけて差し出せ」とおおせられたので、花のない梅の枝に、鳥は一つだけつけて差し上げた。武勝が申しますには、「しばの枝の、梅の枝の、つぼみのあるのと散ったのとには、つけます。五葉ごようの松などにもつけます。枝の長さは七尺か六尺、そぎ取ったのをかえし刀で五に切ります。枝の中ほどに鳥をつけ、つける枝、踏ませる枝があります。つづらふじの割らないままので、二カ所結びつけます。藤のさきは火打羽ひうちば(翼の下脇にある火打ちの羽)の長さにくらべて切り、それを牛のつののように曲げておきます。初雪の朝、枝を肩にかけて、中門から様子を整えて参り、軒下の石を伝い、雪には足跡をつけないで、尾のつけ根にある毛をすこし抜き散らして、二棟ふたむね御所ごしょ欄干らんかんに寄せかけておきます。くだされものがあったら、肩にかけて礼をして退出いたします。初雪と申しても、くつの鼻のかくれないほどの雪なら参りませぬ。尾のつけ根の毛を抜き散らすのは、たかは腰を襲うものだから鷹のったもののようにするためでしょう」と申した。
 花に鳥をつけないというのは、どういう理由であるやら、九月のころに梅の造り枝にきじをつけて「君がためにと折る花は、時しもわかぬ」と言ったことが伊勢物語に見えている。造り花には鳥をつけても差しつかえないものなのであろうか。


六七


 賀茂かも岩本いわもと橋本はしもと(京都・賀茂別雷わけいかずち神社の二つの摂社)は、業平なりひら実方さねかた(在原業平、藤原実方)である。世人せじんがよく取り違えているから、ある年のこと、参詣さんけいをして、年寄りの宮司ぐうじの通りかかったのを呼びとめて質問したところ、「実方は御水洗みたらし(参拝に際し、手を洗い清めるところ)に影のうつる所と言われていますから、橋本のほうがいっそう水に近かろうとぞんじております。吉水よしみず僧正そうじょう慈円じえん、おくり名は慈鎮じちんが「月をめで花をながめしいにしえのやさしき人はここにあり原」とおみなされたのは、岩本のやしろであったと聞きおよんでおりますけれど、私どもなどより、かえって、よくごぞんじでいらっしゃいましょう」と、たいへん謹直な態度で言ってくれたのには感心した。
 今出川院近衛いまでがわいんこのえ(今出川院、すなわち亀山天皇の中宮に、仕えた近衛という女官)といって撰集せんしゅうなどに歌のたくさん入れられている人は、年の若かったころに、いつも百首の歌を詠んで、前述の両神社社前の水で浄書じょうしょして奉納していた。尊い名誉を得て、この歌は人口に膾炙かいしゃしたものが多い。漢詩文をもたくみに書く人であった。


六八


 筑紫つくし(筑前・筑後の二国、ひいては九州の総称)なにがしという押領使おうりょうしとでもいうような格の人があったが、土大根つちおおね(ダイコン)を万病に効能のある薬にして毎朝二つずつ焼いて食べることが、久しい年月におよんだ。ある時、やかたの中に、だれもいないすきにつけこんで敵が襲撃して取りかこんだところ、館の中に二人の武者が現われた。命を惜しまず応戦して、敵をみな打ち払った。はなはだふしぎに思ったので「日ごろはおいでになる様子もない人々が、このようにいくさをしたもうたのはどういうお方ですか」と言ったところが、「年来の御信頼で、毎朝毎朝召し上がってくださる大根でございます」と言って姿を消した。深く信じていると、こういう徳もあるものである。


六九


 書写山しょしゃざん性空上人しょうくうしょうにんは、法華経ほけきょう読誦どくじゅした功徳くどくによって肉体的なけがれから脱却した人であった。旅で、宿屋に行ったところ、豆のからをいて、豆をていると、音のつぶつぶと鳴るのを聞いてみると「疎遠でもない貴様たちが、うらめしくも自分らを煮て、苦痛を与えるものだな」と言っていた。焚かれている豆がらのぱちぱちと鳴る音は「自分の本心から出たことであろうものか。焚かれるのもどれほどえがたいか知れたものではないが、しかたのないことである。どうぞわれらを恨んではくれまいぞ」と言っているのが聞かれた。


七〇


 元応げんおう(一三一九―二一)清暑堂せいしょどう御遊おんあそびに、名器の玄上げんじょうが失われていた時分、菊亭きくてい右大臣(藤原兼季かねすえ琵琶びわの名手)牧馬ぼくばじたが、座についてまずじゅう(琵琶の弦の駒となる板)さわってみると、一つ落ちた。けれども大臣は懐中に続飯そくい(飯粒で作った糊)を持ってきていたのでつけたから、神饌しんせん(神へのお供え)のくるころにはよくかわいて、なんの不都合もなしによくくことができた。
 どういうわけであったか、見物人のなかの衣被きぬかつぎ(女性が顔をかくすために頭からかぶった単衣ひとえの小袖)の者が近づいてその柱をもぎ放して、もとのように見せかけておいてあったのだという。


七一


 名を聞くと、すぐその人の風貌ふうぼうが想像できるような気がするものであるが、会って見ると、それがまた、思っていたとおりの人というのもないものである。昔物語を聞いても、現代の人の家が、あの辺であろうと感じ、人物も、今日こんにちのだれのようなと思いくらべて見られるのは、何人なんぴともそんな気のするものかしら。また、どんなときであったか、現在いま話していることも、目に見ていることも、自分の心の中も、このとおりのことがいつであったかしら、あったような気がしていつとは思い出さないが、必ずあったような心もちのするのは、自分だけが、こんなことを感ずるのかしら。


七二


 いやしく見苦しいもの。身のまわりに日用品の多いこと、すずりに筆が多くはいっていること、持仏堂じぶつどう(信仰する仏像を安置する部屋)に仏が多いの、前栽せんざい(庭の植え込み)に石や植木類が多いの、家の中に子孫が多いの、人に面会して言葉数が多いの、願文がんもん(神仏に祈願するところを記した文)善事ぜんじをほどこしたことを多く書き立てたの。多くても見苦しくないのは、文庫に積みこんである書物、きあつめのほこり


七三


 世に言い伝えていることは、真実では興味のないものなのか、多くはみな虚言そらごとである。人間というものは、実際以上にこしらえ事を言いたがるのに、いわんや、年月を過ぎて、世界も代わっているから、言いたい放題を虚構し、筆でさえ書き残しているからそのまま事実と認定された。
 それぞれの道の達人のえらかったことなど、わけのわからぬ人でその方面に知識のないやからは、むやみに神様のようにあがめて言うけれど、その方面に明るい人は、いっこうに崇拝すうはいする気にもならない。
 評判に聞くのと見るのとは、何事でも相違のあるものである。そばからばれるのも気がつかず口まかせにしゃべり散らすのは、すぐに根もないことと知れる。また、自分でもほんとうらしくないと知りながら、人の言ったままを鼻をうごめかしながら話すのは、別段その人の虚言ではない。もっともらしくところどころは不確かそうによくは知らないと言いながら、それでいて、つじつまを合わせて話す虚言は恐ろしいものである。自分の名誉になるように話されているうそ何人なんぴともしいて取り消そうともしない。人がみなおもしろがっている嘘は自分ひとり打ち消すのも変なものだと、黙って聞いているうちに、つい証人にまでされてしまって、いよいよ事実と決定してしまう。ともかくも嘘の多い世の中である。それゆえ、人があまり珍奇なことを言ったら、いつもほんとうは格別珍しくもない普通のことに直して心得てさえおけば、まちがいはないのである。下賤げせんな人間の話は耳を驚かすものばかりである。りっぱな人は奇態なことは言わない。
 こうはいうものの、神仏の奇跡や、高僧の伝記などを、そんなふうに信じてはいけないというのとは違う。これらは、世俗の嘘を本気で信じるのも間抜けだが、まさかそんな事実はあるまいと争論したとてはじまらないから、だいたいはほんとうのこととして相手になっておいて、むやみに迷信したり、またむやみに疑いあざけったりしてはならない。


七四


 ありのように集まって、東西に急ぎ、南北に奔走ほんそうしている。高貴の人もあれば卑賤ひせんの人もある。老人もいるし、若者もいる、出かけて行く場所があり、帰って来る家庭がある。みな、夜には寝て、朝になれば起きて働く。営々と労苦するのはなんのためであるか。死にたくない。もうけたい。休息する時もない。身を養って何を待つのであろうか。待つのはただ年をとって死ぬだけのことではないか。死期の来るのは速いもので、一秒一秒のあいだでさえ近づいてきているのである。これを待つ間にどんな楽しみがありうるか。眩惑げんわくされている者はこれを恐れない。名聞みょうもんや利欲に惑溺わくできして冥途めいどの近づくことを顧慮こりょしないからである。愚人ぐじんはまたいたずらに死の近づくのを悲しむ。人生をいつまでもつづけたいと願って、変化の法則を悟らないためである。


七五


 退屈で困るという人はどんな気もちなのかしら。気の散ることもなくただひとりでいるのは、けっこうなものではないか。社会の調子についてゆけば、心は俗塵ぞくじんにけがされて欲望に迷いやすく、人と交渉すれば、言葉が相手の気をかねて本心のままではいない。人にたわむれ、物事を争い、うらんでみたり、喜んでみたり、心はすこしも安定しない。差別好悪こうおの思考がむやみに起こって、利害得失の欲念が休むまもない。まどいのうえに酔うて、酔いの中に夢を見ているようなものである。走りまわるに忙しく、うかうかと大事を忘れているというのが世上せじょう一般の人の有様ありさまである。まだ真の道は自覚できないにしても、せめては外界の諸縁とぐらいは離れて身を安静に、俗事に関与しないで、心を安らかにするのが、しばらく楽しむともいうべきであろう。摩訶止観まかしかん(中国天台宗の根本経典)にも生活、人事、技能、学問などの諸縁はやめるがよいとある。


七六


 権勢栄華にときめく家に冠婚葬祭などがあって人々が多く訪問する際、その中に出家法師が入りまじって、案内を乞い門のあたりに立っているのは、よせばいいのにと思われる。相応の理由はあるにしても、法師というものは人との交わりは遠ざかっていてほしい。


七七


 世間で当人が言いはやす事柄を、関係するはずもない人がよく様子を知って人に説明したり、自分でも人に質問したりしているのは、合点のゆかないことである。ことに片田舎かたいなかの坊主などは、世間の人の身の上をわがことのように知りたがって聞きたずね、どうしてこうくわしく知っているのかと思われるまでさまざまに吹聴ふいちょうする。


七八


 当世ふうの事物の珍しいのを言いひろめているのもまた、了簡りょうけんが知れない。陳腐ちんぷになってしまうまで新しいことを知らないでいる人は奥ゆかしい。はじめての人などがいるのに、自分のほうで言い慣らわした話題や、物の名などを知っているどうしが、ほんの片端かたはしだけ言い合って顔見合わせて笑ったりして、意味のわからぬ人に不快を与えることは、世間慣れない、たちのよくない人のあいだではよくあることである。


七九


 万事に、あまり立ち入らないのがよい。上品な人は、知っていることでもそれほど知ったかぶりをして話すだろうか。片田舎かたいなかから出てきた人のほうが、万端心得顔こころえがおに応対するものである。そんな人の中には尊敬すべき知者もいるけれど、自分でもえらそうな様子をしているのが見苦しい。心得きった方面のことには、きっと口が重く、人が問わない限りは口を出さないのがりっぱな態度である。


八〇


 だれも彼も、自分に縁の遠いことばかりを好くようである。坊主が軍事に心がけ、田舎いなか武士が弓術を心得ないで仏法を知った様子をしたり、連歌れんがをしたり、音楽を好んだりしている。それでも、至らぬ自分の道でよりも、別の道楽のおかげで人からばかにされるものである。坊主ばかりではない。身分の高い公卿くげや、殿上人てんじょうびとなど、上流の人たちまでも、おおかたは武を好む人が多い。
 百戦して百勝したからといって、まだ武勇の名誉は許されない。というのは、運に乗じて敵を粉砕する場合は、何人なんぴととて勇者のようでない人もあるまい。兵士はき、矢種やだねが絶えて後でも敵にはくだらず安らかに死について、そこではじめて名誉をあらわすことのできるのが武道である。生きているほどの人は、まだ武を誇ってはなるまい。武道はそもそも人倫じんりんに遠く禽獣きんじゅう(鳥やけもの)に近い行為なのだから、その家柄でもない者が好むのは無益のことである。


八一


 屏風びょうぶふすまなどが、絵にしろ文字にしろ拙劣せつれつ筆致ひっちでできているのは、そのものが見苦しいよりも、その家の主人の趣味の至らぬのがなさけないのである。いったいその所有の日用品によっても、その人柄を軽蔑けいべつすることはあるものである。それほど上等のものを持つべきであるというのではない。破損しては惜しいというので品格のない見にくいものにしておいたり、珍奇なのがよいというので無用な装飾があったり、繁雑はんざつな好みをしているのを、よくないというのである。古風に、おおげさでない高価にすぎぬもので、品質のすぐれたのが好もしいのである。


八二


 うすもの(薄い織物を張った)表紙は早く損じて困るとある人が言ったら、頓阿とんあが、羅の表紙なら上下がほぐれ、螺鈿らでん(貝殻の光る部分を木や漆器しっきに埋め込む細工)じくは貝が落ちてしまったあとがけっこうなのであると言ったのは、頓阿に敬意を感ぜしめる。数冊を一部としたとじ本の類の、そろっていないのを不体裁ふていさいなというが、弘融僧都こうゆうそうず(仁和寺の僧)が、なんでもきっと完全にそろえようとするのは未熟な人間のすることである、ふぞろいなのがよいのだと言ったのも、さすがはと思った。いったい、何につけても、事の完備したのはよくないものである。でき上がらないのをそのままにしてあるのも、おもしろく、気もちがのんびりするものである。内裏だいりを造営せられるにも、きっと完成せぬところを残しておくものであると、ある人が話していた。いにしえの聖賢の作った儒仏じゅぶつ経典にしても、章や段の欠けていることが多い。


八三


 竹林院入道ちくりんいんにゅうどう左大臣殿西園寺公衡さいおんじきんひらは、太政だじょう大臣にのぼられるのはなんの差しつかえもなかったけれど、「太政大臣も別に珍しくもない。左大臣の位でやめよう」と言って出家せられた。洞院とういんの左大臣殿(藤原実泰さねやすもこのことをわが意を得たことに思って、太政大臣の望みはいだかなかった。亢竜こうりょうに悔いがある(昇りつめた竜は下るしかなく、悔いが残る)とやら言うこともある。月も満つれば欠け、物も盛りになると衰える。何事につけても、このうえなしというのは破滅に近い道理である。


八四


 法顕三蔵ほっけんさんぞう(中国東晋の高僧)が、印度インドに渡って故郷ふるさとの扇を見ては悲しんだり、病気にかかると中国の食物をほしがったりしたことを、あれほどの人物でありながらひどく女々めめしい態度を外国人に見せてしまったものだとある人が言ったのを、弘融僧都こうゆうそうずがまことに人情に富んだ三蔵であったなあと言ったのは、法師にも似合わしくないことをよくも言ったと感じ入った。


八五


 人間の心というものは素直なものではないから、いつわりがないとは言えない。けれども、自然と正直な人だって、いないと断言できようか。自分は素直ではなくて人の賢を見てうらやむのが世間の常態である。それを最も愚かな人が賢い人を見たりすれば、これをにくむものである。大きな利益を得ようと思って小さな利益を受けないとか、虚飾をして名声を博しようとするのだとかそしる。自分の心と賢者の行為とが違っているので、こんな非難をする者の正体は察せられる。これらの人は愚中の愚で、とうていつける薬もない。彼らはいつわりにもせよ小利しょうりを解することもできまい。うそにも愚者のまねはしてならない。狂人のまねをして大通りを走ったら、つまりは狂人である。悪人のまねだといって人を殺したら、悪人である。千里の駿馬しゅんめ(一日に千里を走るという名馬)に見ならうのは千里の駿馬の仲間である。大聖たいせいしゅん(中国古代の聖帝)を学ぶ者は舜の一類である。うわべだけにしろ賢者を手本にするのを賢者といっていいのである。


八六


 惟継中納言これつぐちゅうなごん(平惟継)詩歌しいかの才能に富んだ人である。生涯仏道にはげんで一心に読経どきょうして、三井寺みいでら(滋賀県大津市の園城寺の俗称)円伊えんいという法師といっしょに住んでいたが、文保ぶんほう年間(一三一七―一九)三井寺の焼けた時、坊主の円伊を見かけると「あなたを今までは寺法師とお呼びしていましたが、寺がなくなってしまいましたから、今後は法師と言いましょう」と言った。すばらしいしゃれであった。

(訳者足)この段、古来の解、みなせんさくに過ぎてかえっておぼつかなく思われる。あえて愚解を加えれば中納言の洒々磊々しゃしゃらくらくたる風貌を伝えんとするものであろう。寺の焼け落ちるや、別段の見舞いを言うでもなく一片の冗談としてしまう。兼好はこの際のこの言葉を「いみじき秀句」と評したのであろう。単に「寺法師」「法師」の語だけに拘泥こうでいして全文を見ることを忘れてはなるまい。軽い冗談にまぎらしたようで一場の笑いに必ずしも情味がないでもない、まことにいみじき秀句である。


八七


 下僕に酒を飲ませることは注意すべきである。宇治うじに住んでいた男が、京都にいた具覚坊ぐかくぼうといって風流な脱落した僧が小舅こじゅうとであったので、常に仲のよい相手であった。ある時迎え馬をよこしたので、遠方の所を来たのだからまあ一杯やらせようというので、馬の口をいている男に酒を出したところが、さかずきを受けて垂涎すいぜんしながら何杯も飲んだ。この下僕は太刀たちいて威勢がいいので、たのもしく思いながら引き従えて行くうちに、木幡こはた(京都市伏見区大亀谷あたりの山路)の辺へ来たころ、奈良法師(奈良の興福寺・東大寺の法師)が兵士をたくさん引き連れたのに出会ったので、この男が立ち向かって、日の暮れた山中に怪しいぞ止まれと言って太刀を引き抜いたので、向こうの人々もみな太刀を抜き、弓に矢をつがえなどしたのを具覚坊が見て、をしながら本性ほんしょうもなく酔っております者です、まげておゆるし願いたいと言ったので、人々はあざけりながら通り過ぎた。この男は今度は具覚坊に向かってきて、貴公は残念なことをしてくれましたな。拙者せっしゃは酔っぱらいなどした覚えはない、高名手柄をいたしたいと思っておりましたものを、抜いた太刀をよくも役に立たずにしてくれましたなと怒って、めった打ちに切り落とした。それから山賊が出たとわめき立てたので、里人さとびとが興奮して出てくると、乃公おれが山賊だぞと言って走りかかって切り回るのを、里人おおぜいで手を負わせ打ち伏せてしばり上げてしまった。馬は血にまみれたまま宇治大路おおじにある主家へ駆け入ったので、家人はあきれ驚いて男どもを幾人も差し向け、走らせてみると、具覚坊は梔原くちなしばら(クチナシの生えている原)で切り倒されてうめき苦しんでいたのを、連れ出して戸板で運んで帰った。具覚坊はあやうい命を取りとめはしたが、腰を負傷して不具者になってしまった。


八八


 ある人が小野道風おののとうふう(書家)が書いた和漢朗詠集わかんろうえいしゅうを所有していたのを、さる人が、御相伝ごそうでんのお品でいいかげんなものともぞんぜられませぬが、四条大納言しじょうだいなごん(藤原公任きんとうが選ばれたものを道風が書いたのでは時代に錯誤がございましょう。変なものですな、と言ったところが、それだからこそ珍重なのでございますと、いっそうたいせつに保管した。


八九


 奥山に猫又ねこまたというものがあって人を食うものであると、ある人が言うと、山でなくともこの辺にも、猫の年功をたものが猫又に成り上がって人を取ることはあるものですよと言うものもあったのを、何阿弥陀仏なにあみだぶつとかいう連歌れんがをする法師が、行願寺ぎょうがんじ(京の一条北・油小路の東にあったが、現在は中京区寺町通竹屋町に移転)の付近に住んでいたのが聞いて、ひとり歩きをする身分だから、用心しなければと思っていたところから、ある所で連歌で夜ふかしをしてただひとりで帰って、小川の端を通りかかっていると、うわさに聞いていた猫又がはたしてこの坊主の足もとへふと寄ってくると、すぐさまかきのぼり、首のあたりにいつこうとした。きもをつぶして防ぐ力さえせ、足も立たず小川へ転び入って、助けてくれ猫又だ、助けてくれと叫ぶので、あたりの家々から松明たいまつなどつけて駆けつけて見ると、近所に顔見知りの坊主であった。これはどうなされたと川の中から抱き起こして見ると、連歌の賭物かけものに取って来た扇や小箱などを懐中していたのも水につかってしまっていた。ふしぎと命はあやうく助かったらしく、ようようのことに家に帰り入った。飼い犬が、暗中にもあるじを知って飛びついたのであったそうである。


九〇


 大納言法印だいなごんほういんの召し使っていた乙鶴丸おとづるまるというわらべが、やすら殿どのという者と知り合いになって常によくたずねていたが、ある時やすら殿の家から乙鶴丸が出て帰るところを法印が見つけて「どこへ行ってきたか」とたずねると、「やすら殿のところへ行っていました」と言う。法印に「そのやすら殿というは、男か法師か」と重ねて問われて、乙鶴丸はそでかき合わせて、てれながら「さあ法師ですかしら、頭は見ませんでした」と返事をした。どうして頭だけ見えなかったものやら。


九一


 赤舌日しゃくぜつにちということは、陰陽道おんようどうにも定説のないものである。昔の人はこの日をまなかった。ちかごろ、何者が言い出して、忌みはじめたのであろうか。この日にすることは成就じょうじゅせずと説いて、この日に言ったこと、したことは目的を達せず、得たものも失い、くわだてたことも成功しないというのは、愚劣なことである。吉日を選んでしたことで成就しないのを数えてみたって、また同様の統計を得られよう。その理由は、常住ならぬ転変の現世では、目前にりと思うものも実は存在せず、始めあることも終わりがないのが一般である。こころざしはとげぬがちである。欲望は不断に起こる。人間の心そのものが不定ふじょうであり、物もみな、幻のように変化して何一つしばらくでもとどまっているものがあろうか。この道理がわからないのである。吉日にも悪事をしたら、かならず凶運である。悪日に善事を行なうのは、かならず吉であるとかいわれている。吉凶は人によって定まるもので、日に関係するものではない。


九二


 ある人が弓を射ることを習うのに、二本の矢を手にしてまとに対した。すると師匠の言うには「初心の人は矢を二本持ってはならぬ。のちの矢を頼みにして最初の矢をぞんざいに取りあつかう気味になる。いつも区別なくこの一本で的中させてみせると心得ていろ」と言った。わずかに二本の矢、それも師の面前でその一本をぞんざいに思おうはずもあるまいに。懈怠けたい(なまけること)の心を自分では気づかずにいるが、師匠のほうではちゃんとて取っている。この訓戒は万事に適用できよう。
 道を学ぶ人、夜分は明朝のあることを思い、朝になると夜つとめようと思い、この次にはもう一度心をこめてやり直そうと期待する。まして一瞬間のうちにさえ懈怠の心のあるのを自覚しようか。何故なにゆえに、今この一瞬間にすぐさま決行することが至難なのであろう。


九三


「牛を売る者があった。買う人が、明日あす、その代価を支払って牛を引き取ろうと約束した。夜の間に牛が死んだ。買おうという人がとくをした。売ろうという人は損をした」と話した人があった。
 この話を聞いていたそばの人が「牛の持主もちぬしは、なるほど損をしたわけだが、また大きな得もある。というのは生きている者が死の近いのに気づかぬ例は、牛が、現にそれである。人とてもまた同様である。思いがけなくも牛は死に、思いがけなく、持主は生きている。一日の命は万金まんきんよりも重い。牛の価は鵝毛がもう(ガチョウの羽根)よりも軽い。万金を得て一銭を失った人を、損をしたとは申されまい」と言ったら、人々はみなあざけって「その理屈は牛の主だけに限ったものではあるまい」と言った。
 そこでそばの人が重ねて「人が死をにくむというならば、すべからく生を愛したがよかろう。命を長らえた喜びを毎日楽しまないはずはない。しかるに人は愚かにもこの楽しみを無視して、労苦して別の楽しみを追い、この存命という財宝を無視し、身をあやうくしてまで別の財宝をむさぼるから、心に満足を感ずる時もないのである。生きているあいだに生を楽しむことをせずに、死にのぞんで、死を恐れるのは不条理である。人がみな生を楽しまないのは、死を恐れていないからである。死を恐れないのではなく、死の近づくのを忘れているのである。もしまた生死の問題に超越しているというのなら、まことに真理を会得えとくしていると申すものである」と言ったら、聞く人はますます嘲笑あざわらった。


九四


 常磐井ときわい太政だじょう大臣西園寺実氏さいおんじさねうじが出仕された際に、勅書ちょくしょ(天皇の命令を記した文書)捧持ほうじして(ささげ持って)いる北面ほくめんの武士(上皇の御所を警護する武士)が、実氏さねうじ公に出会って馬からおりたのを、実氏公はのちになって「北面のなにがしは勅書を捧持しながら自分に下馬した者である。こんな者がどうして、主上しゅじょうのお役に立つものか」と申されたので、北面を免職になった。勅書の捧持者は、勅書を馬上のままでささげて示せばよい。馬からおりてはいけないそうであった。


九五


 箱のえぐってあるところにひもをつけるのにはどちら側につけるものかと、ある故実家こじつかに質問したところが、その人は「じくにつけるのも表紙(軸は箱の向かって左、表紙は右をいう)につけることも、両方の説があるところから、どちらでも差しつかえはありますまい。ふみの箱の場合は多く右につけ、手箱には軸につけているのが普通のようです」と言った。


九六


 めなもみ、という草がある。まむしに刺された人が、その草をんでつけると即座にえるとのことである。覚えておくとよかろう。


九七


 その物に付着して、その物を毒するものが無数にある。たとえば、人体にしらみ、家にねずみ、国にとう小人しょうじんに財、君子に仁義、僧に法など。


九八


 高僧たちが言い残したのを書きつけて、一言芳談いちごんほうだんとか名づけた本(浄土教の高僧たちの法語集)を見たことがあったが、会心かいしんのものと感じて覚えているのは――
 一、しようかせずにおこうかと思うことは、たいがいしないほうがいいのである。
 一、仏道を心がけている者は味噌桶みそおけ一つも持たないのがよろしい。持経じきょう(平常、つねにたずさえ読む経)でも御本尊様にしてもいものを持つのは、つまらぬことである。
 一、遁世者とんせしゃは何もなくとも不自由しないような生活の様式を考えて暮らすのが、理想的なのである。
 一、上流の人は下等社会の者のつもりになり、知者は愚人に、富人は貧民に、才能の士は無能な者のようにありたいものである。
 一、仏道を願うというのは、ほかではない。暇のあるからだになって世間のことを心にかけないというのが第一の道である。
 このほかにもいろいろあったが、忘れてしまった。


九九


 堀川ほりかわ太政だじょう大臣久我基具こがもととも公は容貌ようぼうの美しい快活な気風の人柄で、何かにつけてちょっとおごりを好まれた。御子おんこ基俊卿もととしきょう検非違使別当けびいしべっとう(現在の警察・司法にあたる検非違使庁の長官)にしてちょうの事務をとらせたが、役所に備えつけの唐櫃からびつ(衣類・調度などを収める脚つきの入れ物)が見苦しいというのでりっぱに改造しようと命ぜられたが、この唐櫃は大昔から伝わっているもので、いつからあるものとも知れない。数百年をたのである。代々の公用の御器物というものは、古くすたれたこのような古物をモデルにしている。むざむざとは改造できませんと故実こじつに通じた官人らが申したので、そのことはそのままに沙汰さたやみになった。


一〇〇


 久我相国こがのしょうこく太政だじょう大臣源雅実、または久我通光みちみつ殿上てんじょう(宮中清涼殿中の一間)で水を召し上がるとき、主殿司とのもづかさ(雑務を受け持つ女官)土器かわらけ(素焼の食器)を差し上げると、わげもの(曲げ物。木製の容器)を持って参れとおおせられて、わげもので召し上がった。


一〇一


 ある人が大臣任命式の内弁ないべん(宮中の行事に際し、諸事をつかさどる役)を勤められたが、内記ないき(宮中の記録をつかさどる官人)の持っていた辞令を持たずに、式場にはいってしまった。このうえなしの失態であるが、出直して持って来るというわけにもゆかぬ。当惑しきっていると、持っていた六位外記中原康綱ろくいのげきなかはらのやすつなきぬかつぎの女官と相談をしてこっそりと内弁に渡させた。実にりっぱな仕打ちであった。


一〇二


 尹大納言光忠いんのだいなごんみつただ入道(源光忠)追儺ついな上卿しょうけいを勤められたので、洞院とういん右大臣殿(藤原実泰さねやすか、その子の公賢きんかたに式の次第を教えてくださいと申し入れたところ、「あの又五郎またごろうという者を師にするよりほかに良策もあるまい」とおっしゃった。この又五郎というのは老人の衛士えじ(宮中を警護する兵士)で、よく朝廷の儀式に慣れた者であった。近衛このえ殿(近衛経忠つねただが着席せられたとき膝着ひざつき(地面にひざまずく際の敷物)を忘れて外記げき(儀式の進行係)されたのを、火をいていた又五郎が「式はじめにまず膝着のお召しだ」と小声でつぶやいていたのは、まことにおもしろかった。


一〇三


 後宇多院ごうだいん御所ごしょ大覚寺殿だいかくじどのでおそばづかえの人々がなぞなぞをこしらえていているところへ、医師の忠守ただもりが参ったので、侍従大納言公明卿じじゅうだいなごんきんあきらきょう(三条公明)が「わがちょうのものとも見えぬ忠守や」となぞなぞにせられたのを「唐瓶子からへいし」と解いて笑い合ったので、忠守が気を悪くして出て行ってしまった。


一〇四


 荒れた家の人目に立たないあたりへ、女が世間をはばかるふしがあって、退屈そうに引きこもっているころ、ある方が御訪問なさろうというので、夕月夜のほのぐらい時刻に忍んでおいでになったところが、犬がおおげさにえついたので、下女が出てどちら様からと聞いたのに案内をさせて、おはいりなされた。心細げな様子はどんなふうに生活していることかと気の毒であった。へんな板敷の上にしばらく立っていると、しとやかな若々しい声で「こちらへ」と言う人があったので、あけ立ても窮屈に不自由な戸をあけて、おはいりになった。室内の様子はそんなにひどくもない。奥ゆかしくもは遠くうすぐらいほどではあるが物の色合いなどもよく見え、にわか仕込みでないにおいがたいへんにものなつかしく住んでいた。門をよく気をつけさせて、雨も降りそうですよ、御車みくるまは門の下へ入れてお供はどこそこへ案内なさいと腰元が下女に言うと、「今夜こそ心丈夫におちついて寝られるでしょう」と内所ないしょで小声にささやき合っているのも、手狭な家だからかすかに聞かれる。
 さて一別以来のことなどをこまごまと話して聞かせるうちに、一番どりが鳴いた。し方行く末のことなどをしんみりと話し合っていると、今度は鶏も元気な声で鳴き立てるから、もう夜が明けたのだろうかと思ったが、夜明け前から帰らなければならない場所がらでもないからすこしぐずぐずしているうちに、戸のすきまが白くなってきて夜が明け放れたから、この夜の忘れがたいことなどを言い、後朝きぬぎぬ(男女が一夜を共にした翌朝)を惜しんで出てきた。こずえも庭ももの珍しく青く見渡される四月(初夏)のころのあけぼのがはなやかに情趣があったのをよく思い出すので、そのあたりを通るごとに今もかつらの木の大きなのが隠れるまで、あとをふりかえって見送られるということである。


一〇五


 家屋の北側の日かげに消え残った雪が固く凍りついたのに、差し寄せた車のながえにも雪がかたまってきらきらしている。明け方の月はえきっているが、くまなく晴れ渡ったというほどの空でもない。と見るあたりに人目に遠い御堂みどうの廊下に、身分ありげに見える男が女と長押なげしに腰をかけて話をしている有様ありさまは、何を語り合っているのやら、話はいつ果てるとも思えない。髪、かたちなどすこぶる美しいらしい。言うに言われぬ衣の香が、さっとにおってくるのも情趣が深い。身動きのけはいなどが、時たまに聞こえてくるのもゆかしい。


一〇六


 高野こうや証空上人しょうくうしょうにんが京へのぼろうとしていると、細い道で馬に乗っている女に行き会ったが、馬の口引きの男が馬の引き方を誤って、上人の馬を堀のなかへ落としてしまった。上人はひどく立腹して「これは狼藉千万ろうぜきせんばんな。四部しぶの弟子と申すものは、比丘びくよりは比丘尼びくにが劣り、比丘尼よりは優婆塞うばそくが劣り、優婆塞より優婆夷うばいが劣ったものだ。このような優婆夷風情ふぜいの身をもって、比丘を堀の中へ蹴入けいれさせるとは未曾有みぞうの悪行である」と言われたので、相手の馬方は「何をおおせられるのやらわかんねえよ」と言ったので、上人はますます息巻いて「なんとぬかすか非修非学ひしゅひがく(仏道修行もせず、学問もないこと)の野郎」と荒々しく言って、極端な悪口あっこうをしたと気がついた様子で、上人はわが馬を引き返して逃げ出された。尊重すべき、天真爛漫らんまん真情しんじょう流露りゅうろ喧嘩けんかと言うものであろう。


一〇七


 女の話しかけた言葉に、すぐさまいいぐあいな返事と言うものは、めったにないものである。というので亀山院かめやまいんのおん時に、洒落しゃれな女房どもが若い男が来るたびに、「ほととぎすをお聞きなされましたか」と問いためしてみたところ、なにがし大納言だいなごんとかは「わたくし風情ふぜいは聞くこともかないません」と返事をされた。堀川ほりかわ内大臣(源具守とももりは「岩倉いわくら(京都の上賀茂。具守の山荘があった)で聞いたことがあるようです」と言われたのを、「これは無難ぶなんである。わたくし風情はときては困ったものだ」などと批評していた。いったい、男というものは、女に笑われないように育て上げるべきものであるということである。「浄土院前関白さきのかんぱく殿(九条師教もろのりは、御幼少から安喜院あんきいん(後堀川天皇の皇后、師教の大伯母にあたる)がよくお教えなされたので、お言葉づかいなどもいい」とある人が申された。山階やましなの左大臣殿(西園寺実雄さねおは「下賤げせんな女に見られても、たいへんにはずかしくて気がおける」とおっしゃった。女のない世界であったら衣紋えもん(装束のつけ方)も冠も、どうなっていようが引きつくろう人もたぶんあるまい。
 このように男に気兼きがねをさせる女というものが、どれほどえらいものかと思うと、女の根性はみな曲っていて、自我が強く、貪欲どんよくがひどく、物の道理は知らず、迷信におちいりやすく、浮気っぽく、おしゃべりもお得意だのに、なんでもないことを問えば答えない。注意深いのかと思っていると問わず語りには外聞の悪いことまでしゃべり出す。うわべをじょうずにつくろって人をあざむくことは男の知恵にもまさっていると思うと、あさはかであとになってしっぽの出ることに気がつかない。不正直で愚劣なのが女である。そんなものの気に入ってよく思われるのは、いやな話であろう。
 それゆえ、なんだって女などに気兼ねするものか。もし賢女があったとすれば、人情にうとい、没趣味なものであろう。ただ、男が自分の迷いにつかえ、それに身をまかせているときだけは、女はやさしいものとも、おもしろいものとも感じるわけのものなのである。


一〇八


 寸陰すんいん(わずかなひまを惜しむ人はない。これは悟りきってのうえでのことか。ばかで気がつかないのであろうか。ばかで懈怠けたいの人のために言いたいが、一銭は軽いがこれを積み上げれば貧民を富豪にさせる。それゆえ、金をこころざす商人が一銭を惜しむ心は切実である。一刹那せつなは自覚せぬほどの小時間ではあるが、これが運行しつづけて休む時がないから、命を終わる時期が迅速じんそくにくる。それゆえ道を志す道人は、漠然と概念的に月日を惜しむべきではない。ただ現実に即して、現在の一念、一瞬ときがむなしく過ぎ去ることを惜しむべきである。万一だれかが来て、我らの命が明日あすはかならず失われるであろうと予告したとすれば、今日の暮れてしまうまで、何事を力とし、何事に身をゆだねるか。我らの生きている今日の一日は、死を予告された日と相違はあるまい。一日のうちに飲食、便通、睡眠、談話、歩行、などのやむを得ないことのために多くの時間を消失している。そのあまりの時間とてはいくらもないのに、無益なことをなし、無益なことを言い、無益なことを考えて、時を推移せしめるばかりでなく、一日を消費し、一月ひとつきにわたり、ついに一生を送る。しごく愚かなことである。
 謝霊運しゃれいうん(中国六朝時代の詩人)法華経ほけきょうの訳者ではあったけれども、心は日常、自然の吟詠ぎんえいに没頭していたから、恵遠えおん(東晋の高僧)浄業じょうぎょう修行の仲間入りは許可しなかった。心に光陰こういん(時間、歳月)を惜しんで修行する念がなかったならば、その人は死人にひとしい。光陰を惜しむのはなんのためかというに、自分の内心に無益の思慮をなくし、その身がつまらぬ世上の俗事に関与せぬようにし、それで満足する人は満足するのがいいし、修行をしようとする人はますます労力して修行せよというのである。


一〇九


 木のぼりの名人と定評のあった男が人のさしずをして高い木にのぼらせて、こずえを切らせたのに、非常に危険そうに思われたあいだは何も言わないでいて、おりるとき、軒端のきばぐらいの高さになってから「怪我けがをするな、気をつけておりよ」と言葉をかけたので、「これぐらいなら、飛びおりてもおりられましょうに。どうして注意しますか」と言ったところが、「そこがですよ。目のまうような、枝の危いほどのところでは、自分が恐ろしがって用心していますから申しません。過失は、なんでもないところで、きっとしでかすものですよ」と言った。いやしい下層の者であったが、聖人の訓戒にも合致している。まりもむつかしいところをってしまってのち、容易だと思うときっとし損じると申すことである。


一一〇


 双六すごろくのじょうずと言われた人に、その方法を問うたことがあったが、「勝とうと思ってかかってはいけない。負けまいとして打つのがいい。どの手が一番早く負けるかということを考えて、その手をけて、一もくだけでもおそく負けるはずの手を用いよ」と言った。この道に通じたものの教えである。身を治め国を安泰あんたいならしめる道とても、またこのとおりである。


一一一


囲碁いご双六すごろくを好んで、これにふけって夜を明かし日を暮らす人は、四重五逆しじゅうごぎゃくの重罪(仏教で言う大罪)にもまさる悪事であると思う」とある高僧が申されたのが、今に忘れず、けっこうな言葉と感じられた。


一一二


 明日あす遠国おんごくへ旅行すると聞いている人にむかって、おちついてしなければならない用事を頼む者があろうか。切迫した大事に着手しているとか、切実な悲嘆ひたんに暮れている人などは、他人のことなど耳に入れず、他人の喜びやくやみごとにも行かない。行かないからといってうらみとがめる人もあるまい。それゆえ、年もだんだんとってきたり、病身になっていたり、ましてや出家している人などももちろん、同じことであろう。人間の礼儀、何が無視できないものがあろうか。世間がうるさいからといって何事も、義理でしかたがない、これを果たそうと言っていたら、願望は増すし、からだは苦しむ、心は怱忙そうぼう(いそがしいこと)になる、一生涯は世俗の些雑さざつな小さな義理に妨害されてむなしく終わるであろう。日が暮れたが前途がまだ遠い、わが生ももはやよろめく力なさである。いっさいの世俗関係をうっちゃらかしてしまうべき時機である。約束も守るまい。礼儀をも気にかけまい。この心もちを感じない人は、われを狂人と言うならば言え、放心者、冷血漢など、なんとなりと思え。そしられたって苦にはしない。ほめたって耳に入れるがものもない。


一一三


 四十の坂を越した人が好色の心をひそかにいだいているのは、いたしかたもなかろう。言葉に出して男女の情事を、他人の身の上にもせよ言いたわむれているのは、としにも似合わず見苦しいものである。だいたい見苦しく聞き苦しいものは、老人の青年らにうちまじって、おもしろがらせるつもりで話をすること。つまらぬ身分でありながら、世にときめいた人を懇意こんいらしく言いふらしていること。貧家のくせによく酒宴をもよおしお客を呼んで派手はでにやっていること。


一一四


 今出川いまでがわ太政だじょう大臣菊亭兼季きくていかねすえ(または西園寺公相さいおんじきんすけ嵯峨さがへお出かけになられたとき、有栖川ありすがわ(京都・嵯峨にあった地名)の付近の水の流れているところで、賽王丸さいおうまるが牛を追ったために足掻あがきの水が走って前板のところをらしたのを、お車の後に乗っていた為則朝臣ためのりあそんが見て「しからぬわらわだな。こんな場所で牛を追うなんてことがあるか」と言った。すると大臣は顔色を変えて「お前は車のぎょし方を賽王丸以上に心得てもいまい。怪しからぬ男だ」と言って、為則の頭を突いて車の内側でこつんとやらせた。この牛飼いの名人の賽王丸というのは太秦殿うずまさどの信清のぶきよ内大臣(藤原信清)の召使いで、天子の御乗料の牛飼いであった。この太秦殿につかえている女房には、それぞれに膝幸ひざさち特槌ことづち胞腹ほうばら乙牛おとうしなどの牛に縁のある名がつけられていた。


一一五


 宿河原しゅくがわら(現在の神奈川県川崎市にある)という場所で虚無僧ぼろぼろ(こじき僧)が多数集合して九品くほんの念仏をとなえていたところへ、外から虚無僧こむそうが入ってきて「もしや、このなかにいろおし坊と申す梵論僧ぼろぼろはおられますまいか」とたずねたので、群集のなかから「いろおしはわたくしです。そう言われるのはどなたですか」と答えた。すると虚無僧は「自分はしら梵字ぼじというものです。わたしの師匠ししょうなにがしという人が、東国とうごくでいろおしという人に殺されたと聞いておりますから、そのいろおしという人に会ってかたきをとりたいとたずねております」と言う。すると、いろおしは「よくもたずねて来た。たしかにそんなことがありました。ここでお相手をいたしては、道場どうじょうをけがすおそれがありますから前の川原でたち合いましょう。どうぞ、みなの衆、どちらへもお加勢は御無用に願いたい。多人数の死傷があっては仏事の妨害になりましょうから」と言いきって、二人で川原へ出かけ合って、思う存分に相手を刺し傷つけ合って、両人とも死んだ。ぼろぼろというものは以前はなかったものらしい。ちかごろになって梵論字ぼろんじ梵字ぼんじ漢字かんじなどという者がそれのはじめであったということである。世を捨てたようでいて、我執がしゅうが強く、仏道を願っているようでありながら、闘争にふけっている。放逸ほういつ無頼漢ぶらいかんみたいだけれど、死を軽んじて生死に拘泥こうでいしないのを気もちのいいことに感じているから、右の話も人の話したままを書きつけたものである。


一一六


 寺院の称号や、その他何ものにでも名をつけるに、昔の人はすこしもらないで、ただありのままに、簡単につけたものであった。このごろでは考えこんで学識をてらって見せたふうのあるのは、すこぶるきざなものである。人の名でも、見なれない文字をつけようとするのはつまらぬことである。万事に奇を求め、異説を好むのは、才の足りない人物がよくやることだそうな。


一一七


 友達にするのに、よくないものが七つある。一には高貴な身分の人、二には年少の人、三には無病頑健がんけんの人、四には酒の好きな人、五には武勇の人、六には虚言家、七には欲の深い人。い友は三つある。一にはものをくれる友、二には医者、三には知恵のある人。


一一八


 こいあつもの(吸いもの)を食べた日は、びんの毛が乱れないということである。にかわにさえ製造するほどの物だから、ねばりけのあるものに違いない。鯉ばかりは主上しゅじょう御前ごぜんでも料理されるものであるから、とうとい魚である。鳥ではきじが、無類のけっこうなものである。雉や松茸まつたけなどはお料理座敷の上にかけてあっても差しつかえはないが、その他のものは入れるわけにはゆかぬ。中宮ちゅうぐう(ここでは後醍醐ごだいご天皇の皇后、禧子)の東二条院のお料理座敷の黒棚くろだながんのおかれてあったのを、中宮のおん父の北山きたやま入道殿(西園寺実兼さねかねが御覧になって、御帰邸の後すぐお手紙で、このような品がそのままの形でおたなにおりますことは異様に感じられました。無作法のことと思われます、識見のある侍女じじょがおそばにお仕えしておられないためかと思われます。と書き送った。


一一九


 鎌倉の海で、かつおという魚は、あの辺では無上のものとして近来は賞美されている。これも鎌倉の老人が話したのだが、「この魚は自分らの若年の時代までは相当な人の前へは出なかったものである。かしらは下男でさえ食べず、切って捨てていたものである」ということであった。このようなものでも世が末になると上流へもはいりこむものである。


一二〇


 からの物は、薬のほかはなくとも不自由はあるまい。書物にしたって、わが国に多くひろまっているから筆写することもできよう。唐船の困難な航海に、無用なものばかり積荷つみにしてどっさり持ちこんでくるのは、ばかばかしいことである。「遠方の物を宝としない」とも、また、「手に入れにくい宝は尊重しない」とも、書物に書いているということである。


一二一


 やしない飼うものは馬と牛である。つないで苦しめるのは気の毒だけれど、必要かくべからざるものだからしかたがない。犬は家を守り防ぐ勤めが人にもまさるものだから、これまたなくてはならない。けれども、どこの家にもあるものだから、とくに飼育するほどのこともあるまい。そのほかの鳥や獣、いっさい飼うこと無用である。走る獣がおしこめられ鎖につながれては、雲を恋い野山を思い、悲愁ひしゅうは絶えまもあるまい。こんな目に自分が会ったらしのべないとしたら、心ある人はこれを楽しむことをしようや。生きものを苦しめて目を喜ばすというのはけつちゅう(桀・紂ともに中国古代の暴君)のような暴虐な心である。王子猷おうしゆう(王徽之きし。晋の書生、王羲之ぎしの子)が鳥を愛したのは、林中に楽しんでいるのを見て逍遥しょうようの友としたのである。捕えて苦しめたのではない。「いっさいの珍しい鳥や異様な獣を国に養わない」とは、書物にも書いてある。


一二二


 人の教養は経書けいしょ(儒教の四書五経)に精通して、聖賢せいけんの教えをよく心得るのを第一とする。つぎには能書、専門としなくともこれは習うべきである。学問をするうえに得るところが多いものである。つぎに医術を習得するのがよい。わが身をやしない、他人を助け、忠孝のつとめをするにも医者の心得がなくてはならないものである。つぎには弓術、馬に乗ること、六芸りくげい(中国古代の士の必修とされた六つの伎芸)にも上げられている。かならずこれを知っておきたい。文武医の道は、真に欠くことのできないものである。これを学んでいる人を無益無能な者ということはならない。つぎに食は人の天性になくてならないものであるから、食物の調理を心得ている人は大きな徳をそなえているとせねばならない。つぎに細工さいくのできるというのも何かにつけて重宝ちょうほうである。これ以外のことどもは、多能な君子の恥ずるところである。詩歌に長じ、音楽に巧みなのは、幽玄の道であって、古は君臣ともにこれを重んじたけれど、現代では詩歌音楽をもって国を治めることはだんだんおろそかになったようである。黄金は優良なものではあるが、鉄の実用性の多いのにはおよばぬようなものであろう。


一二三


 無益のことをして時を浪費するを、愚かな人ともまちがったことをする人ともいうべきであろう。国家のため、君主のために、ぜひともしなければならないことが多い。それに時をささげたらそのあまりの暇は、いくらもないものと知らねばならない。人間たるものがどうしても営まなければならないものは、第一に食物、第二に着物、第三に居所である。人間のたいせつなものは、この三つ以上のものはない。飢えず、寒からず、風雨におかされないで静かに過ごすのが、人間の楽しみである。けれども人はだれしも病気がある。病にかかると、この苦痛心配はがたい。医療を無視することはできない。薬をも加えて、それらの四つ、衣食住とさらに薬を得ることのできないのを貧しいとし、それらの四つに不自由しないのを富んでいるとする。この四つのほかを求め営むのを贅沢ぜいたくとする。この四つのことなら、質素を心がけたら、どんな人でも足らぬものはないはずである。


一二四


 是法ぜほう法師は浄土宗で何人なんぴとにも恥じない人であるが、学者ぶらないで、ただ朝夕念仏をして気楽に世を渡っている有様ありさまは、じつにわが理想的な境涯である。


一二五


 人に死なれて四十九日の仏事に、ある高僧に来ていただいたところ、説法がけっこうで人々みな涙を流した。導師が帰ってからのち、聴聞ちょうもん(説教などを聞くこと)の人々が「いつもよりは今日は特別にありがたく感じられました」と感心し合っていると、ある人が「なにしろあれほどからいぬ(犬)に似ていられるのですものね」と言ったのには、感動もさめて吹き出したくなった。そんな導師のほめ方なんてあるものか。また、「人に酒をすすめるつもりで、自分がまず飲んでから人にしいようというのは、剣で人を切ろうとしているようなものである。両方に刃がついているから、ふり上げたとき、まず自分の頭を切るから相手を切ることはできない。自分がまず酔い倒れたら、人にはとても飲ませられはすまい」とも言った。剣で人を切ってみたことがあるのだろうか、じつにこっけいであった。


一二六


 賭博とばくですっかり負けて、有り金を全部けようと決心した相手に出会ったら、けっして打ってはならない。今まで負け通した男に、悪運が転じて、つづけさまに勝つ機運になってきたのに気がつかねばならない。こんな時機に運を見抜くのがえらい賭博者というものであると、ある人が言った。


一二七


 改めても益のないことは、改めないのがよいのである。


一二八


 大納言源雅房卿だいなごんみなもとのまさふさきょうは学才もすぐれ物のわかった人で、後宇多上皇ごうだじょうこう近衛このえ大将にでもしようかとお考えになっていたおり、上皇のおそばの者が「ただ今しからぬことを見て参りました」と申し上げたので、上皇は「何事か」とおたずねあそばされると「雅房卿がたかをやるのに生きた犬の足を切りましたのを、中垣の穴から見ました」と言上ごんじょうしたので、いやらしく、憎らしくおぼされて日常の御機嫌ごきげんも以前とは変わり、雅房を昇進なされなかった。あれほどりっぱな人が鷹を飼っておられたのは、意外なことではあるが、犬の足の件は、あとかたもないことである。でたらめは雅房卿に気の毒ではあるが、上皇がこれをお聞きあそばされて、おん憎しみをもよおさせられたお心はまことにありがたい。
 いったい、生き物を殺したり、傷つけたり、み合わさせたりして遊び楽しむ人は、畜生が同類相食あいはむと同様である。すべての鳥獣はたとい小さな虫にしても注意してその生態を見ると、子を思い親をしたい、夫婦相伴あいともなう。そねんだり、怒ったり、欲ばったり、自分の身をたいせつにし、命を惜しむこと、人間と同じだが、人間にくらべて愚痴ぐち一方なものだけに人間以上にさらにはなはだしいものであるから、そんなものに苦しみを与え生命を奪うことが、どうしてかわいそうでなかろう道理があろうか。いっさいの動物を見て慈悲の心を起こさないのは人間の仲間ではない。


一二九


 顔回がんかい(孔子の第一弟子)の心がけは、他人に苦労をかけまいというのであった。いったいに人を苦しめたり、いじめたりすることはもちろん、いやしい者の意志をでもじゅうりんしてはならない。また、幼少な子どもをあざむいたり、おどかしたり、からかいはずかしめて喜んだりすることがあるけれど、おとなにとっては、本気のことではないから、なんでもないと思っているが、子どもの幼い心には真実に恐ろしくもはずかしくもなさけなくも感ずることが痛切であろう。おとなたる者の喜怒哀楽にしたって、みな虚妄きょもうであるのに、これを悟らないで、まどわしの外形のすがたに執着しているではないか。肉体を破損するよりも精神に痛苦を与えるほうが、人を傷つけることが一段とはなはだしい。病にかかることも多くは内面からである。外部からくる病気というものは少ない。薬を飲んで発汗はっかんくわだてても効験こうげんのない場合があるのに、一度、羞恥しゅうちや恐怖を感じたら、きっと汗を流すのは精神の作用であるということに気がつかねばなるまい。凌雲閣りょううんかくがくを書かせられて、一朝にして白髪の人となった韋誕いたん(三国時代の魏の能書家)故事こじのような例もあるではないか。


一三〇


 物事を人と争わず、自分の意志を屈して人の意向に従い、自分の身のことはあとにして、人のことを先にするのが何よりである。
 いろいろの遊戯でも、勝負を好む人は勝って愉快を得んがためである。自分のわざのまさっていることに満悦まんえつするのである。それだから、負けるとつまらぬ思いがするのは、もちろんである。自分が負けて人を喜ばせようと考えたらいっこうに遊戯の興味はあるまい。人につまらぬ思いをさせて、自分が愉快を感ずるなどは徳義にかなわない。
 親しい間柄でふざける場合にも、人をたぶらかして自分の知のすぐれているのをおもしろがることがある。これも非礼である。それだから、はじめは座興に起こったのに、長いうらみを結ぶようなことがよくあるものである。これらはみな、勝負を好むところから起こる失策である。人にまさろうと思うならば、学問をしてその知で人にまさろうと考えたらよかろう。道を学んだならば、善に誇らなくなり、仲間とは争うべきものではないということがわかってくるからである。時には高位大官をも辞し、利益をも捨てることができるのは、ただ学問のおかげである。


一三一


 貧しい者は財力を用いて礼儀をつくそうとし、老いた者は体力を用いて礼儀とする。ともに非である。自分の身のほどを知って、できそうもないことは、さっそく廃止するのが上分別じょうふんべつというものでなければならない。これを許さないのは、許さぬ人の心得違いである。身のほどをわきまえないでむりな努力をしようとするのは、する人の心得違いである。貧者が身のほどをわきまえない場合は盗みをし、力が衰えて、身のほどをわきまえない場合は病気をする。


一三二


 鳥羽とばの作り道(京都にあった大通りの一つ)というのは、鳥羽殿(白河天皇の造った御所)応徳おうとく三年(一〇八六)に建てられて以来にできたのではない。昔からの名前である。元良もとよし親王陽成ようせい天皇の第一皇子)が元日の奉賀の声がすこぶるすぐれていたので式場の大極殿だいごくでん(大内裏の正殿)から鳥羽の作り道まで聞こえたということが、式部卿重明しきぶきょうしげあきら親王(醍醐天皇の皇子)の記録にあるということである。


一三三


 天子てんしの御寝所は、東の御枕みまくらでおわせられる。すべて東方を枕にすると陽気を受けてよいというので、孔子も東を枕にされた。一般に寝所の設備は、東枕でなければ南枕にするのが普通であろう。白河院しらかわいんは北枕でおやすみあそばされた。北は粛殺しゅくさつの気のある方角で、むべきものである。そのほかにまた、「伊勢は南である。北枕をなされば白河院は御足みあしを大神宮に向けられたわけで、これはいかがなものか」と申した人があった。しかし、朝廷で大神宮の御遥拝ようはいの場合は東南に向かってあそばしておられる。南方ではない。


一三四


 高倉院たかくらいん法華ほっけ堂に三昧ざんまい(仏道修行の一つ)を修している僧のなにがし律師りっしという者は、ある時、鏡で自分の顔をつくづくと見て、自分の容貌ようぼうの醜悪で陋劣ろうれつなのに、非常に苦痛を感じて、鏡までがいまいましい気がして、以来久しく鏡を恐れて手にさえ取らず、いっこう人とも交際することをせず、御堂みどうの勤めのときだけ人に会うほかは、室内にこもってばかりいたと聞いたが、ありがたいことに感ぜられた。
 賢そうな人でも、人の批評ばかりしていて、自分のことは知らないものである。自分を知らないでいて他を知るという道理はあるはずもない。それゆえ自分を知っているのを、物を知る人と称すべきである。形がみにくくとも気がつかず、心の愚なのをも知らず、芸の拙劣せつれつも知らず、自分のつまらぬ人物というのも知らず、自分が年取ったのも知らず、病気になりそうなのも知らず、死の近づいているのをも知らず、行なう道の未熟をも知らず、わが身の欠点をも知らず、まして他人がそしっていることも知らないのである。しかし容貌なら鏡で見られる、年は数えてみれば知れる。自分のことをまんざら知らないではないが、意識してみたってはじまらないから無自覚なようにふるまっている。と弁解しそうである。別に、容貌を改め、よわいを若くせよと言うのではない。身のつたなきに気づいたら、なぜさっそくに退かないのか。年ったと知ったら、なぜさっそくに隠退し閑居しないのか。行ないが至らぬと自覚したら、なぜ他人をして身は退かないのか。
 いったい人に敬愛せられないで衆に交わっているのは恥辱である。形醜く心おそれながら宮に出てつかえたり、無知でありながら大才たいさいに交わったり、未熟の芸をもって練達れんたつの人の座に加わったり、頭に雪をいただきながら壮者そうじゃと並んだり、ましてや、力およばぬことを希望したり、さらにその望みのかなわぬことをなげいたり、来るはずのないことを期待して、人を恐れ、人にびるなどは、人の与える恥辱ではない。貪欲どんよくの心に引かれて、われとわが身をはずかしめているのである。貪欲の念のまない結果、眼前に死が来ているのをさえ確実に認識できないのである。


一三五


 資季大納言すけすえのだいなごん入道(藤原資季)とかいう人が、具氏ともうじの参議中将(源具氏)にあって「貴君が質問されるぐらいのことならば、なんなりとお答えのできないことはありますまい」と言われたので、具氏は「さあ、どんなものでしょうかな」と言うと、「それじゃ、ためしてごらんなさい」と言われたから、「満足なことはまるでこころがけてみたこともありませんから、おたずねすることもできません。なんでもない言い草みたいなことのなかで意味の知れないことをおたずね申し上げましょう」と言ったので、「何がさて日本の事柄で浅俗なことなどは、なんなりと解き明かしましょう」と申したので、院のおそばの人々や、侍女なども「これはおもしろい勝負でございます。同じことならば院の御前ごぜんでなすって、負けたほうが御馳走ごちそうをあそばせ」と決めて、院の御前へ参上させて勝負をつけさせたところ、具氏は「子どものころから聞いておりますが、意味の知れないことがございます。馬のきつりようきつにのをかなかくぼれいりくれんどうと申すことは、どういうわけでございましょうか、お聞かせくださいませ」と申させたので、大納言入道はグッとつまって、「それはたわいもないことだから言う価値もない」と言われたのを「はじめから満足な事柄は学んでおりません。言い草をおうかがい申しましょうと、お断り申し上げています」と申されたので、大納言入道殿の負けに決定して、けを厳重に申しつけられたということである。


一三六


 医者の篤茂あつしげ和気わけの篤茂)が、故花園はなぞの法皇の御前ごぜん伺候しこうしていたとき、院が召し上がるおぜんが出たのを、篤茂は「ただいま参りましたお膳部の一々の品について、その文字、その功能をおたずねくださらば、わたくしは暗記でお答え申しますほどに植物書(薬用植物などを研究する本草学の書物)とおくらべ合わせ願い上げとうぞんじます。一つもまちがいは申し上げますまい」と言っているところへ、ちょうど、故六条ろくじょう内大臣有房ありふさ(源有房)が参られて「では我々がついでに教えていただきましょう」と言って「まず、しおという字は、何偏でしょうか」と問われたら、「土偏つちへんでございます」と申したので、内大臣は「もう君の学才の底も見えました。それだけでたくさんです。言うまでのこともございません」と申されたので、大笑いになって、篤茂はこそこそと[#「こそこそと」は底本では「そこそこと」]退出した。


一三七


 花は満開を、月は明澄めいちょうなのをばかり賞すべきものではあるまい。雨に対して月にあこがれたり、家に引きこもっていて気のつかぬうちに春が過ぎてしまっていたなども、情趣に富んだものである。もう咲くばかりになっていたこずえだの、散りしおれた庭などこそ見どころが多いのである。歌の詞書ことばがきにも「花見に行ったらもう散り果てていたので」とか「差しつかえがあって見に行けないで」などと記してあるのは、花を見てというのにけっして劣ろうや。花が散り、月がはいるのを名残なごり惜しく思うのはもっともなことであるが、無風流な人に限って、あの枝もこの枝も散ってしまった。もう見る値打ちもないなどと言いたがるものである。
 すべてなんにつけ、初めと終わりとがおもむきの多いものである。男女の情にしても、ただ会うばかりが恋愛の趣味ではあるまい。会えないで苦しんだことを思ってみたり、心変わりしたのをなげいたり、長い夜をひとりで恋い明かしたり、遠い空に愛慕の思いをせたり、わびしい住居すまい昔日せきじつの情を追慕するなどが、まことの恋愛を知る人というものであろう。満月の晴れ渡ったのを千里の果てまで飽かず賞したのよりは、もう夜が明けそうになってから出たのが、いっそう色あざやかに青みがかって、深山の杉の梢頭しょうとうに現われて木の間の影や時雨しぐれのした雲の奥に見えたのなどが、このうえなく感じの深いものである。しいかしなどの湿っているような葉の上にきらきらと照っているのを見たりすると、身にしむ思いがして趣を知る友がいたならばなあと、山棲やまずみの身のふと都が恋しく思われてくる。
 そもそも月や花は、そんなに目ばかりで見るものではない。春景色はるげしきは家のなかから出ないだっても、月影は臥床ふしどにいて感じているのが、深みのある風情ふぜいであろう。上品な人はむしょうに愛好する態度ではない。楽しむ様子にもほどがある。片田舎かたいなかの人に限ってしつっこく極端に喜ぶ。花の下に押し寄せてわき目もふらずに凝視ぎょうしして、酒は飲む、連歌れんがはする、はては見るだけで満足せずに、大きな枝などを心なくへし折る。清水には手足を突き入れてみるし、雪にはおりて行って踏みつけるなど、何事も静かに鑑賞することができない。
 こんなやからが、賀茂かものお祭を見ている様子はじつに奇観であった。「見るものはまだまだだいぶ間がある。それまで桟敷さじきに用もない」と言って奥のほうの家で酒を飲んだり、物を食べたり、囲碁いご双六すごろくなどをして遊び、桟敷には番人を見張りにつけていたから「お通りですよ」と知らされたときに面々はきもをつぶさんばかりにわれがちに桟敷へ争い上がって、落っこちそうになるまですだれから身を乗り出し、押し合いながらも何もかも見落とすまいと注視して、「ああだ、こうだ」と、いちいち批評して、行列が過ぎてしまうと、「また来るまで」と言っておりて行った。ただ行列だけを見ようというのであろう。都の人の堂々たるお方は、眠っていて、よくも御覧にはならない。若い下端したっぱの人などは見物をよそに御用勤めに働いて、後のほうにお供をしている者は不体裁ふていさいにのび上がって見るようなこともせず、むりに見ようとする人もない。
 あおい(フタバアオイのこと)を掛け並べた町がなんとなく優雅なのに、夜の明け放れもせぬうちから、人に知られないように道ばたに寄せている車の奥ゆかしいのを、どなたのはあれかこれかなどと想像してみていると、牛飼や下郎などの見知り越しの者がまじっていて、車の主がおのずと見当がついて来る。あるものは風雅に、あるものは華麗かれいに、さまざまに装うて行きうさまは、見ていて飽くこともない、日の暮れかかる時分には立ち並んでいた車も、すきまなく立っていた人々もどこへ行ってしまったものやら、追々おいおいと群集もまばらになって車などの騒がしさもやんでしまうと、簾やたたみなど取り払われて目の前が寂しそうになってゆくのは、無常な人の世の出来事などにくらべて思い当たるのが哀愁あいしゅうをもよおす。こんな大路おおじを見たのこそは、祭を見たことにもなるのである。
 桟敷の前を往来する人に顔見知りが多いので気がついた。世間の人の数というものも、そうは多いのでもない。これらの人がみなせるであろう。我が身としても死なねばならないに決まっている、最後にとしたところで、まもなく自分の順番がくることであろう。大きなうつわに水を入れて小さなあなをあけたと仮定して、したたることはすこしではあるが、休むまなくれてゆくから程なくすっかりなくなってしまうわけでしょう。都の中に多数にいる人の、死なないという日はけっしてない。一日に一人二人ぐらいとは限ってもいまいに。鳥部野とりべの舟岡山ふなおかやま(いずれも京都にあった墓地・火葬場)、その他のいやな野山に、とむらいを送る数のたくさんある日はあるけれど、今日は葬式を一つも出さないという日というのはない。それゆえ棺桶かんおけを売る者は、作ったのを店においておくひまもない。年若な者、強健な者の区別もなく、不意にくるのが死期である。今日まで死をのがれてきているのが、ありがたいふしぎである。暫時ざんじ悠然ゆうぜんたる気もちでおられようか。まま子立こだてという遊戯を、双六すごろくの石で配置しておくと、取られるのはどの石ともわからないけれど、数えあてて一つを取ると、その外のは取られないですむと思っていると、たびたび数えて、あれこれと抜き取ってゆくうちに、どれ一つも取られないでいるというのはないと、同じようなしだいである。兵士の出征するのは、死に直面するのを承知のうえで、家をも身をも忘れている。遁世者とんせしゃの草のいおりでは、悠然ゆうぜん泉石せんせきを楽しんで兵乱殺生せっしょうをよそにしていると思うのは、はなはだ浅薄せんぱくなものである。平和な山奥だとて、無常という敵は先を争って攻め寄せないではない。死に直面している点は、身を軍陣に置いているのと同然である。


一三八


 加茂かもの祭がすんでしまえばあとのあおいは用もないと言って、ある人が御簾みすにあったのをみな取り払わせたのを、すげないことに感じたことがあったが、りっぱなお方のなさったことであったから、そうするのがいいのであろうかと思っていたけれど、周防すおう内侍ないし(平仲子、平棟仲むねなかの娘。歌人)が「かくれども、かいなき物はもろともに、みすの葵の枯葉なりけり」とんだのも、母屋もやすだれにかかっていた葵の枯葉を詠んだものだということを内侍の家集に記している。古歌の詞書ことばがきに「枯れたるあおいにさしてつかわしける」というのもある。枕草子まくらのそうしにも「かた恋しきもの、枯れたる葵」と書いているのはたいそうなつかしく思い当たった。かも長明ちょうめいが四季物語にも「たまだれにのちの葵はとまりけり」と書いている。自然と枯れてゆくのでさえ惜しく思われるものを、どうして祭がすむかすまぬにあとかたもなく取り捨てることに忍びようや。
 御帳みちょうにかけた薬玉くすだまも九月九日にはきくに取り代えられるということだから、菖蒲しょうぶは菊のおりまでそのままに残しておくのがよいのである。枇杷びわの皇太后宮さま(三条天皇の皇后、研子)崩御ほうぎょになったあと、古い御帳のなかに、菖蒲や薬玉などの枯れたのがあるのを見て「おりならぬ根をなおぞかけつる」とべん乳母めのと(藤原順時まさときの娘で、敦兼あつかねの妻。歌人)が言ったので、「あやめの草はありながら」という返事をごう侍従じじゅう(大江匡衡まさひらと赤染衛門の娘。歌人)も詠んだものでした。


一三九


 家に植えておきたい木は松、桜である。松は五葉ごようもよいが桜は一重ひとえがいい。八重桜やえざくらはもとは奈良の都にだけあったのを、現今ではだんだんと世に多くなって来た。吉野山の花や左近さこんの桜もみな一重である。八重桜はちょっとおもむきの変わったものではあるが、しつっこくてすっきりしない。植えたくもないものである。おそ桜もまた無趣味である。虫のよくつくのもいとわしい。梅は白梅、うす紅梅こうばいの、一重のものが早く咲くのも八重の紅梅の濃艶のうえんなのも、みな趣がある。おそ咲きの梅は桜と咲き合うから圧倒されて見おとりがするので、枝にしなびついて生気がないようでいけない。一重なのが第一に咲いて散ったのが気早くておもしろいというので京極きょうごく入道中納言ちゅうなごん(藤原定家)は、やはり一重の梅をのき近くお植えになられた。京極のやかたの南面に今も二本あるようである。柳もおもしろいものである。四月のころの若かえでは、あらゆる花や紅葉もみじにもまさって珍重なものである。たちばなかつら、いずれも樹木は古い大木が好もしい。
 草は山吹やまぶきふじ杜若かきつばた撫子なでしこ、池にははす、秋の草はおぎすすき桔梗ききょうはぎ女郎花おみなえし藤袴ふじばかま紫苑しおん、われもこう、苅萱かるかや龍胆りんどう白菊しらぎく、黄菊もいい、つたくず、朝顔などは、どれもあまり高くないちょっとした垣に繁茂しすぎないのがよい。このほか珍奇なものや、かららしい名の聞きにくく、花も見なれないものなど、どうもなつかしくない。いったい、なんでも、珍しくめったにないようなものは下賤げせんの人の翫賞がんしょうするものであるが、さようのものは、なくてもよいものである。


一四〇


 死後に財宝を残すようなことは知者のせぬところである。よくないものをたくわえておくのも品格を下げるし、りっぱなものは執着のほどを思わせるので趣味性ならぬ、人生観を浅薄に思わせる。ましてさまざまなものがごたごたとあるのはいよいよいけない。自分が手に入れたいという人々が現われて、争いになるのは不体裁ふていさいである。のちにだれに譲りたいと思うものがあるなら、生存中に譲るべきである。毎日欠くべからざるものはなくてはなるまい。それ以外のものは、なに一つ持たないでいたいものである。


一四一


 悲田院ひでんいん(老病者・孤児などの救済施設。はじめ興福寺に設けられたが、のち諸国にも設置された)堯蓮上人ぎょうれんしょうにんは俗姓は三浦みうらなにがしとかいって、もとはこのうえなしの武者であった。故郷の人が来て話をして、東国の人は言ったことが当てになる、都の人は口先ばかりがよくて実意がないと言ったのに、上人は、「それはそう感じられるかもしれないが、自分は都に久しく居住して慣れてみると、この土地の人の心が必ずしも劣っているとも思われない。いったいに心が柔和にゅうわで情があるから、人の言うことをはっきりと断りかねて、何かとはっきり言いきることができないので、気が弱くて引き受けてしまうのである。偽りを言うつもりはないのだが、貧乏で不如意ふにょいな人が多いから自然と不本意なことも生ずるのであろう。東国の人は、自分の生国しょうごくではあるが、実を言うと心は単純で、人情も粗野に、正直一方なだけにはじめからきっぱり謝絶もする。生活にはゆとりがあるから、人に信頼される結果になる」と理解せられたとのことであった。この上人は言葉にはなまりがあり、声が荒々しく、とても仏法の微妙な味などわかりそうにもないのにと思っていたが、今の言葉を聞くにおよんで奥ゆかしく覚えて、仏道に人も少なくないのに、とくに一つの寺を支配しておられるのは、このようにやさしい人情もあり、このとくもあるのだと感じたことであった。


一四二


 心なしとも見える者でも名言を言うことはあるものである。ある荒夷あらえびす(関東の荒武者)の恐ろしげな者が、かたわらの人に向かって、「お子さんはおありですか」と問うたので、「ひとりもありません」と答えると、「それでは情愛はおわかりにはなりますまい。むごい冷たいお心でいられようと思われて恐ろしくなります。子があればこそ、はじめてよろずの情愛というものが会得えとくされるのです」と言った。なるほどと思われる言葉である。恩愛の情によらないでは、こういう野蛮な民に慈悲の念がありえようか。孝養の心のない者も、子を持ってはじめて親の心もちも思い知るのである。
 遁世者とんせしゃのスッカラカンが万事に束縛の多い世間人を見て、世にへつらい欲望の深いのを無下むげ軽蔑けいべつするのはまちがった話である。その人の心もちになってみたらば、定めし悲しいことであろう。親のため妻子のためには、恥をも忘れて盗みをやりそうなことではある。それゆえ、盗人を捕縛し、他の悪事を詮議せんぎするよりは、世の人の飢えずこごえないような社会にしてほしいものである。人は定収入がないと恒心こうしんも持てないものである。せっぱつまって盗みもする。世の中がうまくおさまらないで凍えたり飢えたりするような苦痛があると、犯罪者は絶えないわけである。人民を苦しめて法禁を犯させるようにし向けて、それに罪を科するというのは不便ふびんなわざである。
 しからばどうして人民を恵んだらよいかと申すなら、社会の上流に立つ者が奢侈しゃし浪費をやめて民を愛撫あいぶし、農業を奨励する。こうすれば下民が利益を受けること疑いはない。衣食住が人並みであるのに盗みを働く者こそ、ほんとうの盗人と言うべきではある。


一四三


 人の臨終の有様ありさまのりっぱであることなどを人の話すのを聞くと、ただ平静で取り乱されなかったとだけで奥ゆかしいのに、愚人どもはこんなふしぎな瑞相ずいそう(めでたいことのおこるしるし)があったなどと付会ふかいして(こじつけて)臨終の際の言葉も動作も自分勝手の意味をつけてほめそやす、これでは死者が平素の本懐にも違背するだろうにと思われる、臨終という大事件は仏菩薩ぶつぼさつがかりに人間に現われたほどのお方も、また博学の学者が批評も考量もおよぶべきではない。当事者の本心さえ教えにたがうところがなかったならば、他人の見聞などはどうでもよいことである。


一四四


 栂尾とがのお明恵上人みょうえしょうにん(京都の右京区にある高山寺の高僧)が道を通っておられると、川で馬を洗っていた男が「あし、あし」と言っていたので、上人は立ち止まって「ああ、ありがたい。前世の功徳くどくを現世で現わされた方だ。阿字あじ阿字とたたえていらっしゃる。どなた様の御馬おんうまでございましょうか。異常にもったいなくぞんぜられます」とおたずねになると、その男は「府生殿ふしょうどの(府生は、検非違使けびいし庁などに勤める下級の役人のこと)のお馬でございます」と答えたので、「これはこれは、ありがたいことです。阿字本不生あじほんぶしょうですからなあ。この結縁けちえんはまことにありがたい一日でございました」と上人は感涙かんるいをぬぐわれたということです。


一四五


 御随身みずいじん(公家の警護役)秦重躬はたのしげみは北面武士の下野しもつけの入道信願しんがんのことを「落馬のそうのある男です、注意しなければなりませんな」と話したがだれも信じる人もなかったが、信願はほんとうに馬から落ちて死んだ。道を通じた人の一言は神のようだと人々は感心して、「それにしても、どういうところに現われていた相でしたか」と人が質問すると、「非常にすわりの悪い尻で、そのくせ悍馬かんば(あばれ馬)が好きときていたから、落馬の相と判断しました。言いまちがってはおりませんよ」と言われたとのことです。


一四六


 明雲座主めいうんざす(延暦寺の住職)人相見にんそうみにお会いになったとき、「自分はもしや剣難のそうがありはしないか」とおたずねになると、相者そうじゃは「なるほど、その相がおありです」と申し上げた。座主が「どういうわけであるか」とお問いになると「負傷殺害などの御懸念けねんのない御身分でいらせられながら、そんなことをお思いあそばされておたずねなさるのが、すでにその奇禍きかの前兆でございましょう」と申した。はたして、木曾冠者きそのかんじゃ(木曾義仲よしなか法住寺ほうじゅうじを襲撃した際に、流れ矢に当たってくなられた。


一四七


 灸点きゅうてんがあまりたくさんになるとけがれた者として神事にははばかりがあるということを、ちかごろ言い出した向きがあるが、格式書のたぐいには書かれてもいないということである。


一四八


 四十以上の人がきゅうをするとき、三里(左右のひざ下あたりのツボ)を焼いておかないと逆上することがある。きっとまず三里に灸をしなければならない。


一四九


 鹿しか袋角ふくろづの(角が落ちてまた新しく生えた角)を鼻にあてていではいけない。小さな虫がいて、鼻から侵しはいって脳をむしばむという。


一五〇


 芸能を身につけようとする人は、それに達しない間はなまなかに人には知らせないで、内々によく習い覚えてから人中へ出るのが奥ゆかしくてよいとは人のよく言うところではあるが、こんな考えの人は一芸も習い得るものではない。まだぎごちなく未熟な中からじょうずな人の間にまじって嘲笑をも恥じずにかまわずやり通していく人が、生まれつきにその器用がなくても途中で停滞することもなく、放漫に流れることもなしに年期を入れたら、器用でも不勉強なのよりはかえってじょうずになり、徳もおのずとそなわり、人にも許されて、無比の名声を博することがあるものである。
 天下に知れ渡ったじょうずでも、はじめはへたという評判もあり、ひどい欠点もあるものである。しかしその人がその道の道筋を正しく守って身勝手をつつしみ、努力していったなら、世の物知りともなり、万人の師として仰がれるようになるのは、諸道みなそのいつにしている。


一五一


 ある人の説に、年五十になるまでに熟達しなかった道は廃棄すべきである。その理由は、はげみ習うべき将来もなく、老人のすることは他人も笑うことができない。衆にまじっているのは愛想のつきる不体裁ふていさいである。総体に年を取った人は、万事を放擲ほうてきして閑散に処するのが似つかわしくて好もしい。世俗のことに関与して生涯をあくせくと暮らすのは愚である。ゆかしくて覚えたいと思う芸があったら、学び聞くとしてもひととおりおもむきがわかったら、あまり深入りしないでやめたほうがよい。無論、最初からそんなことを思いつかずにすんだら最上である。


一五二


 西大寺さいだいじ静然上人じょうねんしょうにんは腰がかがまり、まゆは白くれ、実に高僧の面目をそなえて内裏だいりへ参られたのを、西園寺さいおんじ内大臣殿が「ああ、とうといお有様ありさまだなあ」と信仰のきみがあったのを、日野資朝ひのすけとも卿が見て「年を取っただけのことでさ」と言われた。さて後日になって、見るかげもなく老衰して毛もはげているむく犬を「この犬の様子も尊く見えますから」と西園寺内大臣のもとへ贈ったという。


一五三


 為兼大納言ためかねだいなごん入道が召し取られて、武士どもがとり囲んで六波羅ろくはらいて行ったのを、日野資朝卿ひのすけともきょうが一条あたりで見かけて、「実に美しい。人として世に生まれ出たかいには、こういうことになってみたいものである」と言われたとのことである。


一五四


 この人(日野資朝)が、あるとき、東寺とうじの門に雨やどりをされたことがあったが、不具者どもの集まってきているのがあって、手足がねじれゆがんだり、そりかえったり、どちらを向いてもかたわの異様なのを見て、それぞれに無類な奴らである。はなはだ賞翫しょうがんするに足ると考えながら見守っておられたが、しばらくすると興味がつきて醜くうっとうしいものに感じられてきて、ただ普通の平凡なものにはおよばぬと考えて、帰ってからのち、このごろ植木を愛好して奇異にまがりくねったものを求めて喜んで見ているのは、あの不具者を愛するわけであったとつまらなく感じたので、鉢にえていたさまざまな木はみな投げ捨ててしまわれた。実にそうあるべきことである。


一五五


 俗に順応して世に生きる人は、まず第一に時機を察知しなければなるまい。順序が悪いと、人の耳にも逆らい、心もちをもそこない、事は成就じょうじゅしない。これほどたいせつな機運というものをわきまえなくてはならない。しかし、病気になるとか、子をむとか、死ぬることなどに従っては、時機も何もない。折が悪いといって見合わすこともない、発生、存生そんじょう、異状、壊滅の四相の移り変わる真の重大時は、あたかもみなぎる奔流ほんりゅうのように停止するところを知らない力である。寸時も停滞せず、即時に変化進行を実現する。それゆえ、真理に関する方面の努力にしろ、世俗的なわざで、この一事はかならず遂行しようと思うほどのものは、時機などは問題ではない。あれこれと準備も用意も必要はない、即刻実行に着手するがいい。
 春が暮れて夏になり、夏が終わって秋がくるのではない。春はその時に早くも夏の気をもよおし、夏の時すでに秋の気が来ているのである。秋はやがて冬の寒さを伴い、初冬陰暦十月の小春こはるの天気は、春の気にかようて草も青み、梅も青みを持つ。木の葉の落ちるのもまず落ちてから芽をきざすのではない。下に萌し、き張る力をささえ切れなくて落ちるのである。迎える気が下に準備されているから、推移の順序がすこぶる早いのである。人生の生老病死の推移のくることも、その早さはそれ以上である。四季の推移には、それでもまだしも一定の順序もある。死期は順序も待たない。死は前方から目に見えてはこない。あらかじめ背後に切迫している。人はみな、死のあることは承知しているが、今にとのんきにかまえている人に対して不意を襲う。沖まで干潟ひがたが遠く見えているけれども、いそには突如と潮の満ちてくるようなものである。


一五六


 新任大臣の披露宴ひろうえんは、相応な堂々たる所を借りて挙行されるのが常例である。藤原頼長ふじわらよりなが公は東三条院殿とうさんじょういんどのを拝借して披露のうたげをなすった。当時みかどがこの殿に御座ましましたのに、公の拝借奏請そうせいでわざわざ行幸ぎょうこうあそばされた。別だんに皇室と御縁つづきということのない方でも、女院にょういん御所ごしょなどを拝借して挙行するのが故実こじつにかなうのだそうである。


一五七


 筆を取ればその気になって物が書かれ、楽器を取れば音を出したいと思い、さかずきを取れば酒を欲しいと思い、さいを手にすると賭博とばくを欲する。心というものはかならずそのことに触れて、もよおしてくる。いやしくもからぬたわむれをしてはならない。ふとした気もちで聖教の一句が目につくと、なんとなく前後の文も気にとめてみる。突如として多年の非行を改めることもある。もし教典を目にしなかったとしたら、このことを悟ることができなかったろう。これはつまり事に触れてたまたま起こった利益りやくである。その心が別に起こらないでも、仏前にいて数珠じゅずや教典などを手にしていると怠慢しながらもおのずと善行が修せられ、散乱心のままでも、座禅の席につくとわれ知らずに禅の静思ができるであろう。外界と内面の作用とにおいて、事理はもと一体のものである。形式を尊重しているうちに内容も充実してくる。うわべだけの人を見ても、むやみに不信心呼ばわりをしないがいい、むしろほめ、尊重すべきである。


一五八


さかずきの飲み残りを捨てるというのは、なんの理由かごぞんじですか」とある人がたずねたので、答えて「凝当ぎょうどう(盃の底に残った酒)と申していますからは、底に沈澱ちんでんしているのを捨てるのでしょう」と言ったところが、「そうではない、魚道ぎょどうである。流れを残して口をつけたところを洗い清めるのである」と話しておられた。


一五九


 みなむすびという結び方は、糸を結び重ねた形がみなという貝に似ているからそう呼ぶのであると、ある貴人のお話である。ついでに蜷を「にな」というのは誤りである。


一六〇


 門にがくを掛けることを額を打つというのは、よくないらしい。世尊寺行忠卿せそんじゆきただきょうは額を掛けるとおおせられた。見物の桟敷さじきを打つというのもよくないらしい。平張ひらばりの幕ならば打つというのが通常いうところであるが、桟敷はかまえるというべきである。護摩ごまをたくというのもよろしくない(護摩は密教の儀式で、供物などをくという意味も含まれている)。護摩を修するとか護摩をするとかいうべきである。「行法ぎょうぼうも、法の字を清音に発音するのではない。濁音でぼうというのである」と清閑寺せいがんじ道我僧正どうがそうじょうが仰せられた。日用語にさえ、こんなまちがいばかり多いのである。


一六一


 花の盛りは、冬至とうじから百五十日目とも彼岸ひがん中日ちゅうにち後七日ともいうが、立春から七十五日目というのが、たいていまちがいのないところである。


一六二


 遍照寺へんじょうじ(京都市嵯峨の真言宗の寺)しょうの役(寺院の雑役)に服していた僧が、広沢ひろさわの池に来る鳥を毎日えさをやって飼い慣らして、戸を一つあけると無数に飛びこんで堂内に一ぱいになったところへ、僧自身もはいっていってしめきって捕えては殺した様子が、物音すさまじく聞こえたので、近所にいた草刈りのわらわが聞きつけて人に知らせたので、村人どもが集まってきて堂の中にはいってみると、大雁おおがんなどがばたばた驚き騒いでいる中に僧がまじっていてねじせ、ひねりつぶしていたから、この僧を捕えてその場から検非違使けびいし庁へつき出したが、検非違使庁ではこの法師が殺した鳥どもを頭のまわりにかけさせて獄舎に入れた。これは基俊大納言もととしだいなごん久我こが基俊)が別当をしておられたときのことである。


一六三


 陰暦九月の異名、太衝たいしょうの太の字は、点を打ってはいけないということを陰陽寮おんようりょうの連中が議論したことがあったものだ。もりちか入道が申しておられたのには、天文博士安倍吉平あべのよしひらが自筆の占文せんもんの裏に記録をしてあるものが近衛このえ関白家にある。点を打った「太」が書いてあったとの話であった。


一六四


 世上の人間は、会いさえすればすこしのあいだも黙っていることはない。きっと何かしゃべる。その言葉を聞いてみると、たいていはむだな談話である。世間のうわさばなし、人の品評、自分にとっても他人にとっても損多く益が少ない。しかもこれを語っているとき、当人たちがいかに無益なことも気づいていない。


一六五


 関東の人で都に来て、都人といっしょに生活する人、または都の生まれで、関東へ行って身を立てているのや、また出家で本寺本山を離れ、宗旨しゅうしを変えている顕教密教の僧など、総体に自分の習俗を廃棄して他の習俗の人々のあいだにまじり加わっているのは見苦しいものである。


一六六


 人間がおのおの経営努力している仕事を見ると、暖かな春の日に、雪仏ゆきぼとけを作ってこれに金銀珠玉しゅぎょくの装飾をほどこして、これを本尊に、お堂や塔などを建立こんりゅうしているようなものである。どうしてその伽藍がらんの落成を待って本尊を安置したてまつることができようか。人には命があるように見えているが、下のほうから絶えず消えつつある雪のようなものであるのに、計画し期待することが多すぎる。


一六七


 一つの道に関与している人が、専門以外の道の席上にのぞんで「これがもし、自分の専門のことでありさえしたら、こう指をくわえて見てはいないものを」と言ったり感じたりするのはよくあること、人情の普通ではあるが、くないことのように思われる。知らぬ道がうらやましかったら「うらやましいなあ、どうして習っておかなかったろう」と言っておればよろしい。自分の得意を持ち出して人と競争しようというのは、つののある獣が角を振りかざし、きばのある獣が牙をむき出すようなやり方である。
 人間たるものは自分の長所を鼻にかけず、他と競争しないのが美徳である。他にまさるところのあるのは大きな損失である。品格の高さにしろ、学術技芸の才能にしろ、祖先の名誉にしろ、他人より傑出している人は、たとい口に出して言わずとも、内心の誇りにも多少の罪があるわけである。つつしんでこれを忘れなければいけまい。ばかにも見え、他人にも悪く言われ、災難を招くのはもっぱらこの慢心である。
 一道にも真に上達している人は、われと明確にその短所を自覚しているから、内心いつも満足せず、最後まで慢心しないのである。


一六八


 老年の人で一道に傑出した才能のある人物がいて、「一代の師表しひょう(模範・手本となる人)、この人の死後はだれに道の奥義おうぎを問おうか」などと言われるなどは、老人連の味方であって、たのもしい生きがいである。しかしその芸道も、老輩になったというすたれた気分をともなって謙虚なものがないと、一生を芸道だけで暮らしてしまったかと浅薄になさけなく見えるものである。「今はもう忘れてしまった」などと言っているのがいい。
 ひととおりは知っていても漫然と吹聴ふいちょうするのは、たいした才能ではないらしいと感じられる。自然とまちがったところもありましょう。明確にはわきまえてもおりませんなどと言う人こそ、なるほど、まことに、一芸一道の主とも感ぜられるものである。まして、よくも知らぬことを知ったかぶりに、資格もない人間がとやかくいうのを、まちがいらしいがなと思いながら聞いているのは、はなはだ困るものである。


一六九


「何々の式ということは、後嵯峨ごさが帝の御代みよまでは申されていなかったのを、近い時代になってから言いはじめた言葉である」とある人が言っておられましたが、しかし建礼門院けんれいもんいん右京大夫うきょうだいぶが、後鳥羽院ごとばいんおん即位ののち、ふたたび内裏だいりへ住んだ時のことを記して、「世の式も、かわりたることはなきにも」と書いている。


一七〇


 さしたる用事もなくて人のところを訪問するのは、よくないことである。用事があって訪問しても、そのことがすんだら早く帰るのがいい。長くいるのは困る。
 人と応対すると、言葉も多く、からだもくたびれ、心もおちつかず、万事に差しつかえが多くて時間をつぶす。双方にとって無益なことである。客をきらうようなことを言うのもよくない。気ぜわしいことでもある場合などは、かえってこのわけを言ったほうがよかろう。会心かいしん(心にかなう)人で、対談を希望する人が、退屈して「もうすこし」、「今日はゆっくりと」など言うような場合は、この限りではなかろう。常に白眼はくがん阮籍げんせきが気に入った客を迎えたときにした青眼せいがんの場合も、だれしもあるものである(阮籍は中国・晋の隠士。白眼・青眼はそれぞれ人を冷遇・厚遇する目つきのこと)
 なんのためということもなく、人が来て、のんびりと話して帰るのは、よいものである。また、手紙も「あまりごぶさたしていますから」とだけ言ってよこしたのなど、たいへんにうれしいものである。


一七一


 貝合わせ(遊戯の一種)をする際に、自分の目の前のをさしおいて、よそを見渡して、人のそでのかげや、ひざの下まで注視するすきに、自分の目前のを人に合わされてしまうものである。よく合わす人というものは、よそのほうまでむりに取るような様子もなくて、身のまわりのばかり合わすようでいながら、多く合わすものである。碁盤ごばんすみに目的の石を立ててはじくとき、先方の石を見つめて弾くと当たらない。自分の手もとを注意して、こちらの筋目をまっすぐに弾けば、目的の石にきっと当たる。
 万事は外部に向かって求めるべきではなく、ただ自分の手もとを正しくすべきものである。清献公趙抃せいけんこうちょうべん(宋の名臣)の言葉にも、「ただ好き事を行なって、将来のことは問題にするな」とある。世を治める道もこんなものであろう。国内のことを取り締まらず、なおざりに打ち捨てて放埒ほうらつに任せて乱れたなら、遠国おんごくが必ずそむく。そのときになってやっと国策を求め出す。あたかも風に当たり湿気しけた土地にしていて、病気を神様にお祈りするのは愚人である、と医書に書かれてあるのと同様である。目前の人の苦痛を去らせ、恩恵をほどこして道を正しくしたならば、その徳化が遠く天下に流れおよぶ所以ゆえんを知らないのである。いにしえ三苗さんびょうを平定しようと遠征した(禹は中国古代の聖王。三苗は漢族に反抗した苗族のこと)効果も、軍を収め帰って徳を国内にいたのにはおよばなかったものであった。


一七二


 青年時代には血気が体内にみなぎっているから、心も事物に感じやすく欲情さかんである。一身を危険にさらしてくだけやすいことは、まるでたまころがしているようなものである。華美なものを好んで金銀を浪費するかと思うと、きまぐれにこれを捨ててわびしい境涯に身をゆだねてみたり、気を負うて勇んでいる心が旺盛おうせいだから争いをし出かし、ある時は羨望せんぼうし、ある時は慚愧ざんきする(恥じる)など、気分がむらで好むところも日ごとに定まらない。色情におぼれ、情懐にふけり、そうかと思うと義に勇んでは一生を投げ出してかかり、ために一命を捨てた人を理想として、その身を長く安全に保つことは考えない。熱情のおもむくところに迷わされて、長く世間の語り草にもなってしまう。こんなふうに一身を誤るということは、若い時にあることである。
 年を取ると精神が衰え、淡泊に何事にも感動しなくなる。心がおのずと平静だから、無益な事はし出かさず、とかくわが身も苦労少なく、他人にも迷惑はかけまいと心がける。老年が理性の点で青年にすぐれているのは、青年が容姿にかけて老年にまさるのと同じである。


一七三


 小野小町おののこまちの事跡は、はなはだ不明確である。衰えたときの有様ありさまは、玉造たまつくりという本に見えている。この文章は三好清行みよしきよつらが書いたという説があるけれど、弘法こうぼう大師の著作目録にもはいっている。大師は承和じょうわの初め(八三五)くなられた。小町の全盛時代はその後のことのように思われるが、やっぱりよくわからない。


一七四


 小鷹狩こたかがりに適した犬を大鷹狩おおたかがりに使用すると、小鷹狩に悪くなるということである。大について小を捨てる道理は、実にもっともな次第である。人生の事柄が多事な中で、道を修めることを楽しみとするほど、興趣の深遠なものはない。これこそはまことの大事である。いったん人間の志すべき道を聞いて、これにこころざしを向けた人が、どうして世上一般の何事か捨てられないことがあろうか。何事を営む心があろうか。愚人だっても、怜悧れいりな犬の心に劣るはずがあろうか。


一七五


 世間には心得がたいことも多いものである。何かにつけて、まず酒をすすめ、むりに飲ませておもしろがるのは、どういうわけだかわからない。飲む人の顔は我慢がまんしかねたように、まゆをひそめ、人目を見はからっては酒を捨てようとし、すきを見てはその場を逃げ出そうとするのを、捕えて引きとどめて、むやみに飲ませるので、ちゃんとした人も急に気違いになり、健康な人も、見る見る大病人になって前後不覚に打ち倒れてしまう。祝い事のある日などはあさましいことではあるまいか。飲まされたほうでは翌日まで、頭痛で食事もできず、呻吟しんぎんして(うめき苦しんで)打ちしている。昨日きのうのこともまるで世をへだてたことか何か39のように記憶も残らず、公私の重大な用件も打ち捨てて不都合を生じている。人をこんな目にあわせるのは無慈悲でもあり、礼儀にも違ったことである。こんなひどい目にあわされた人は、うらめしく無念に思わぬはずはあるまい。外国にはこんな風習があるのだそうなと、こちらにはない風俗と仮定してこれを伝聞したものと仮想したら、奇々怪々に感ぜられるものであろう。
 酒の酔いは他人の様子で見てさえ不快なものである。深い思慮の敬服すべく見えた人まで、無分別に笑いののしり、多弁になり、烏帽子えぼしは横っちょに曲がり、装束しょうぞくの帯やひもなどはほどけたままに、すそをまくってすねを高くり上げたはしたない有様ありさまなどは、とうてい平常の人物とは考えられない。女は額髪ひたいがみをすっぽりときのけてしまい、しおらしげもなく、顔を仰向けて笑いかけ、さかずきを持っている人の手にすがりつき、下品なのはさかなを取って人の口に押しつけたり、自分もかぶりついている。とんと、ぶざまなものである。声のありったけを出して歌いわめいたり、舞い出したり、たまたま年った法師などが召し出されていて、黒く見にくいからだを肩ぬぎになって目も当てられない様子で身をくねらせているのは、当人は申すに及ばず、おもしろがって見ている人までまわしく腹立たしい。
 また自慢話を聞き苦しく吹聴ふいちょうするのがあったり、酔い泣きをしたり、下等な連中は大声に悪罵あくばし合い、喧嘩けんかになる。あさましく、恐ろしい有様、外聞がいぶんの悪い不愉快なことばかり起こって、果てはやらぬというものをむりに奪い取ったり、えんから落っこちたり、帰途には馬や車から落ちて怪我けがをしでかしたり、乗り物のない連中は、道をよろめき歩いて、土塀どべいや門の下などに向かって言うをはばかるようなことどもをしちらかす。年老って袈裟けさなどをかけた法師の身で小童こわらわの肩によりかかって、くだらぬことなどを言いかけながらよろめいているのなどは、見る目もきまりが悪い。こんなことも、現世あるいは来世に益のある行為だというのならいたしかたもあるまい。しかし、この世では過失を生じ、財産を失い、疾病を得る。百薬の長などとはいうけれど、万病を酒から引き起こしている。うれいを忘れさせるともいうが、酔った人は過去の悲しさを思い出して泣いたりしている。それで来世はというと後世ごせのためには人の知恵を失い、さながら善根を焼く火のように悪行を増し、いっさいの戒律を破って地獄へちるであろう。酒を取って人に飲ませた者は五百生ごひゃくしょうのあいだ(五百回も生まれ変わるほど長い間)手のない者に生まれると、仏は説いておられる。
 こういういとうべき酒ではあるが、また自然と捨てがたいときもあるものである。月の夜、雪の朝、あるいは花の下などに、ゆったりと話し出して盃を取り出すのは、すこぶるきょうを添えるものである。退屈な日に、思いがけぬ友だちが来て酒盛がはじまるのは楽しいものである。またお近づきもない高貴の方の御簾みすの中から菓子くだものやお酒などをけっこうに取り合わせて差し出してたまわるのは、まことによいものである。また、冬、狭い場所で火に物を煮たりしながら、隔意かくいのない仲間が寄り集まってどっさり飲むのはまことにおもしろい。旅の宿または野原や山などで、ありもせぬさかな40空想しながら打ち興じて、芝の上で飲んだのなどはおもむきが深い。非常に弱い下戸げこが、しいられてちょっぴり飲むのなど実にい。ありがたいお方が特別に「もうすこし、それではあんまりちょっぴりですから」などとおっしゃってくれるのは、うれしいものである。かねて近づきになりたいと願っていた人が、上戸じょうごで酒のせいでぐんぐんと親密になるのもまたうれしい。
 いろいろ欠点もげてはきたが、それでも、上戸というものは愉快で無邪気なものである。前夜酔いくたびれて他人の家に泊まり込みながら朝寝しているところを主人が戸をあけてはいってきたのに、度を失ってぼんやりした顔をしながら、寝乱れて細いもとどりをあらわし、着物をじゅうぶんに着るひまもなく両手で抱きかかえ、引きずりまわして逃げ出して行く、帯なしのうしろ姿、細い毛脛けずねをあらわしたぐあい、こっけいに、酒飲みらしく、無邪気である。


一七六


 禁中きんちゅう(御所)黒戸くろどという御間みま小松こまつ御門みかど(光孝天皇)おん即位以前に、おん幼いおたわむれにお手料理などをあそばされたのを、御即位のおんのちも、お忘れあそばされず、常に、お手料理をあそばされたその御間である。たきぎの煙でそこの戸がすすけたので、黒戸と申すとのことである。


一七七


 鎌倉の中書王ちゅうしょおう後嵯峨ごさが天皇の皇子、宗尊むねたか親王)御邸おんやかた蹴鞠けまりのもよおしがあったのに、雨降り上がりで庭までかわかなかったので、どうしたものであろうかと相談があったとき、佐佐木ささき入道真願しんがん鋸屑おがくずを車に積んで、たくさんたてまつったので、庭中に敷きつめて、泥の気遣きづかいもなかった。これなどたくさんたくわえておいた用意のほどが珍しい心がけであると、人々が感心し合った。このことをある人が話したところ、藤原藤房卿(または吉田中納言)が聞かれて、「さては、乾いた砂の準備がなかったのだね」とおっしゃったのは、はずかしい思いがした。けっこうなと思った鋸屑とは、下品で変なものであった。庭をつかさどる者は、乾いた砂を用意しておくのが慣例的な作法だそうである。


一七八


 ある所のさむらいたちが、内侍所ないしどころ御神楽みかぐらを拝観して、そのことを人に話すのに「そのとき宝剣は何某なにがし殿が持っておられた」などと言ったのを聞いて、居合わせた内裏だいりの女房の中に「別殿べつでん行幸ぎょうこう(本殿である清涼殿から別の殿舎へ移ること)のは、宝剣ではなく昼御座ひのおまし御剣ぎょけん(清涼殿内の平常の座所である昼御座に置かれている剣)よ」とこっそり言った人がいたのは感心であった。この人は長年典侍ないしのすけ(女官の一つ)をしている人であったとか。


一七九


 そうに行ったことのある道眼上人どうげんしょうにんは、一切経いっさいきょうを向こうから持ってきて六波羅ろくはらのあたりのやけ野という所に安置し、その経中でも、ことに首楞厳経しゅりょうごんきょうを講じて、この所を、この経にちなんで那蘭陀寺ならんだじと号した。この上人の話では「那蘭陀寺は、大門だいもんが北向きであると大江匡房おおえのまさふさの説として言い伝えているが、西域伝さいいきでんにも法顕伝ほっけんでんにも見えず、その他にもいっこう見当たらない。匡房卿はどんな知識で言ったものやら、どうも不確かな話である。中国の西明寺さいみょうじなら北向きなのはもちろんである」と言っておられた。


一八〇


「さぎちょう」は正月にまりを打って遊んだ毬杖ぎちょうを、真言院しんごんいんから神泉苑しんせんえん(それぞれ平安京大内裏の仏道道場と庭園)へ出して焼き上げたのがもとである。「法成就ほうじょうじゅの池にこそ」とはやすのは、神泉苑の池をいうのである。


一八一


「降れ降れこ雪、たんばのこ雪」という歌の意味は、米をいてふるうときのように雪が降るから粉雪というのである。たまれ粉雪というべきをまちがえて、「たんばのこ雪」といったのである。そのつぎの句は、「垣や木のまたに」と歌うのであると、さる物知りが言った。昔から言ったものであったろうか、鳥羽とば天皇が御幼少のおんころ雪の降ったときにこうおおせられたというおんことを、讃岐典侍さぬきのすけ(藤原顕綱の娘、長子。歌人)が日記に書いている。


一八二


 四条大納言隆親しじょうだいなごんたかちか(藤原隆親)乾鮭からざけというものを天皇の御食膳おんしょくぜんに供せられたのを、こんな下品なものは差し上げることはあるまいとある人が言ったのを聞いて、大納言は鮭という魚は差し上げないというならばさもあろうが、鮭のしたものがなんでいけないことがあろうか、現にあゆの乾したのは差し上げるではないか、と申したということであった。


一八三


 人を突く牛は角を切り、人に食いつく馬は耳を切ってこれに印をしておく。印をつけないで人に怪我けがをさせたときは飼い主のとがになる。人に喰いつく犬は養ってはならない。これらは皆、罰せられるところで刑法にいましめてある。


一八四


 相模守北条時頼さがみのかみほうじょうときよりの母は、松下禅尼まつしたのぜんにといった。あるとき時頼を請待しょうだいされる(招きもてなす)ことがあったが、その準備に、すすけた紙障子しょうじの破れたところばかりを、禅尼は手ずから小刀で切り張りをしておられた。禅尼の兄の秋田城介義景あきたじょうのすけよしかげ(安達義景)が、その日の接待役になって来ていたが、その仕事はこちらへ任せていただいて何のなにがしにさせましょう。そういうことのじょうずな者ですから、と言ったところが、禅尼はその男の細工さいくだってわたしよりはじょうずなはずはありますまいよと答えて、やはり一間いっけんずつ張っておられたので、義景が、みな一度に張り代えたほうがずっとめんどうくさくないでしょう。まだらに見えるのも不体裁ふていさいでしょうし、と重ねて言ったので、尼は、わたしものちにはさっぱりと張り代えようとは思っていますが、今日だけはわざとこうしておきたいのです。物は破れたところだけ修繕して使用するものであると若い人に見習わせ、心得させるためです、と言われた。誠にけっこうなことであった。
 世を治める道は倹約を根本にしなければならない。禅尼は女性ながらに聖人の心を体得していた。天下を治めるほどの人を子に持つだけに、凡人ではなかったと聞いている。


一八五


 秋田城介あきたじょうのすけ陸奥守泰盛むつのかみやすもり(安達泰盛。義景の三男)は無双の乗馬の名人であった。従者に馬を出させるとき、その馬が一足飛びに門のしきいをゆらりと越えたのを見ると、これは過敏な馬だと言ってほかの馬にくらを置きかえさせた。そのつぎの馬は足をあげず伸ばしたままで閾に当てたので、これは愚鈍な馬だから過失があるだろうと言って乗らなかった。その道の心得のない人物であったならば、なんでこんなに恐れることをしようか。


一八六


 吉田という乗馬家の言ったのに「馬というものはどれもこれも強いものである。人の力で争うことのできないものと知っておくがいい。乗馬の際には馬をよく見て、その強い所や弱い所をのみこんでおくがよい。つぎにくつわくらなどの馬具に危険はないかとよく見て、気がかりなことがあったならその馬を走らせてはならない。この用心を忘れないのが一人前の乗馬家というものである。これが奥義である」とのことであった。


一八七


 いっさいの技術の道においてその専門家が、たといじょうずではなくともじょうずな素人しろうとにくらべてかならずすぐれているのは、油断なく慎重に道を等閑なおざりにしないのに、素人はわがまま勝手にふるまう。これが素人と専門家との違う点である。技術の道に関することのみと限らず日常の行動や心がまえにも、魯鈍ろどんに慎重なのは得のもとである。巧妙に任せて法式を無視するのは失敗のもとになる。


一八八


 ある人がその子を僧にして仏教の学問を知り、因果の哲理をも会得えとくし、説教などをして世渡りの手段ともするがよかろうと言ったところが、子は親のめいのとおりに説教師になるために、まず乗馬を稽古けいこした。それは輿こし(人を乗せてかつぐ乗りもの)や車(牛車)のない身分で導師として請待しょうだいされた場合、先方から馬などで迎えに来た場合にくらに尻がわらないで落馬しては困ると思ったからである。そのつぎには仏事のあとに酒のふるまいなどがあったとき、坊主がまるで芸がなくとも施主せしゅきょくのないことに思うだろうと早歌そうかというものを習った。乗馬と早歌とがだんだんじょうずになると、ますますやってみたくなって稽古しているあいだに、説教を教わる時がなくて年を取ってしまった。
 この坊主ばかりではない。世間の人はみなこの坊主と同様なところがある。青年時代には何事かで身を立てて大きな道をも成しとげ、才能をも発揮し、学問をもしたいと遠い将来の念願を心にいだきながら、この世を長くのんきなものに考えて怠慢しつつ、まず目前の事にばかり追われて、それに月日をついやして暮らすから、どれもこれも一つとして成就じょうじゅすることもなくその身は老人になってしまう。芸道の達人にもなれず、思ったほどの立身もせず、後悔しても逆に年を取れるわけでもないから、走って坂を下る車輪のように衰えてしまう。
 それゆえ、自分の生涯で主要な願望のなかで何が最も重大かをよく思いくらべたうえで、第一の事をよく決定し、他のいっさいは放棄して、その一事を励むべきであろう。一日の中、一刻の間にも幾多のことが起こってくる中で、すこしでも益のあることは実行して他は放棄して大事の実現を急ぐべきである。何もかも捨てまいとする心もちでは、結局、何一つ成就するものではない。
 たとえばを打つ人が、一手もむだをせず、人の先を打って小を捨て大を取ろうと心がけるようなものである。三つの石を捨てて十の石に着目することは容易である。十を捨てて十一を取ろうとするのがむずかしい。一つでも多いほうを取るのがあたりまえなのに、十にもなると惜しく感ぜられるから、たいして多くもない石とは取り換えたくない。これをも捨てず、あれをも取ろうと思う心のために、あれも得られず、これをも失ってしまう道理である。
 京に住む人が急用で東山へ行ったと仮定してすでに着いてからでも、西山へ行ったほうがさらに有益だと気づいたなら、東山の目的の家の門前からでも引き返して西山へ行くべきである。ここまで来着いたのだから、まずこのことをすましておこう。期日のあるわけでもないから、西山のほうへは帰ってからまた志そうと思うから、いちじの懈怠けたいが一生の懈怠となってしまう。これを恐れなければいけない。一事をかならず成就しようと思ったら、他のことの破れるのをもけっして案じてはいけない。他人の嘲笑ちょうしょうなども恥とするにはおよばぬ。いっさい万事と取り換えるに気にならないでは一つの大事も成るものではない。
 人のたくさん集合していた中で、ある人が「『ますほのすすき』『まそほの薄』などということがある。渡辺わたのべひじりがこのことを伝え知っている」と話したのを、登蓮とうれん法師がその席上に居合わせ聞いて、雨が降っていたので、「蓑笠みのかさがございましょうか、拝借したい。そのすすきのことを習いに渡辺の聖のもとへ問いに行きましょう」と言ったので、「あまり性急です。雨がやんでからでは」と人が言うと、「とんでもないことをおっしゃるものですね、人の命は雨の晴間はれままで待っているものでしょうか。私も死にひじりくなられたら、たずねることができましょうか」と、走り出て行って習ってきたと言い伝えられているのは、実に非常にありがたいことと思う。「き時は(機敏にやれば)すなわち功あり」ということは論語という書物にもある。この薄のことを不審にしていたおりから、真理を追究しようという意気込みであったのであろう。


一八九


 今日はあることをしようと思っているのに、別の急ぎの用が出てきてそれにまぎれて暮らし、待つ人は故障があってぬ。待たぬ人が来る。頼みにしていたことは不調で、思いがけぬことだけが成立した。心配していたことは、わけなく成り、なんでもないと思っていたのが、たいそう骨が折れる。一日一日の過ぎてゆくのも予想どおりにはならない。一年もそのとおり、一生涯もまたそうである。予定の大部分は、みな違ってしまうかと思うとかならずしも違わないものも出てくる。だからいよいよ物事はきめてかかれないのである。「不定」と考えておきさえしたら、これがまちがいのない真実である。


一九〇


 妻というものこそ、男の持ちたくない者ではある。いつも独身でなどとうわさを聞くのはゆかしい。誰某たれがし婿むこになったとか、またはこういう女を家に入れて同棲どうせいしているなどと聞くのは、とんとつまらぬものである。格別でもない女を好い女と思って添うているのであろうと軽蔑けいべつされもするだろうし、美人であったら男はさだめし可愛かわいがって本尊仏のようにもったいながっているであろう。たとえばこんなふうになどと、こっけいな想像もされてくる。まして家政向きな女などはまっぴらである。子などができて、それを守り育て愛しているなどはつまらない。男がくなってのち尼になって年をっている有様ありさまなどは、死んだあとまでもあさましい。
 どんな女であろうと、朝夕いっしょにいたら、うとましく憎らしくもなろう。女にとっても、夫の愛は足らず自由はなく中ぶらりんな頼み少ないものであろう。別居してときどきかようて住むというのが、いつまでも長つづきのする間柄ともなろう。ちょっとのつもりで来たのがつい泊まり込んでしまうのも、気分が変わってふたりには珍しくたのしかろう。


一九一


 夜になると物の光彩こうさいが失われると説く人のあるのは、はなはだ心外である。万物の光彩、装飾効果、色調なども、夜見てこそ始めてりっぱにも見えるのである。昼は簡素に地味な姿でいてもよいが、夜は燦然さんぜんたる華麗かれいな装束がすこぶるい。人の様子も夜の灯火の下が、美しい人は美しさを発揮するし、物を言う声も暗いところで聞いて、たしなみのあるのが奥ゆかしい。においも物の音色ねいろも、夜が一段と好もしい。
 べつになんの儀式とてもない夜、ふけて参内さんだいした人がりっぱな装束を着ているのはまことに好いものである。若い友人の間柄でたがいにその容姿を観察し合うような間柄では、見られる時機が定まっているわけではないから、特別に改まらぬ場合に、ふだんも晴着も区別なく周到な用意をしておきたい。品のよい男が日暮れてから髪を洗うのや、女が夜ふけになったとき席をはずしてつぼね(女性の居室として仕切った部屋)で鏡を取り出し、化粧などを直してくるのは趣のあるものである。


一九二


 神社仏寺へも人の多く参詣さんけいせぬ日、夜分に参るのがよろしい。


一九三


 暗愚な人が他人を推量して、その人の知恵を知ったつもりでいるのは、いっこう当てにならないものである。を打つことだけが巧者な人が、えらい人でも碁のつたないのを見て自分の知恵にはおよばないと判断するようなもので、すべていずれのわざでもその道の職人などが、自分の職業のことを心得ないのを見て、自分のほうがえらいものと考えたら大きなまちがいであろう。経文きょうもんに明るい学僧と坐禅ざぜんをして真理を悟ろうとする実行僧とが、たがいに相手をはかって自分のほうがえらいと思うなども、ともに当たらないことである。自分の専門外のことを争ったり、批評したりするものではない。


一九四


 達人たるものが人を見る眼識は、すこしも見当違いのあってならないものである。たとえば、ある人が世に対して虚言をかまえて人をあざむこうと計画する場合、それを正直に事実と信じて、その人の言うがままにだまされる人がある。また、あまりに深く虚言を信じ過ぎて、その上に輪をかけた虚言をつけ加える人もある。また、なんとも思わないで気にもとめぬ人もある。また、いくぶんか疑念をはさんで、ほんとうにするでもなく、しないでもなく考えてみている人もある。また、ほんとうとは受けつけないが、人のいうことだからそんなこともあるかもしれないくらいに思って、そのままにしておく人もある。また、さまざまに推察して万事のみこんだようなふうに賢者ぶってうなずいて、微笑してはいるが、その実、いっこう真相を知らないでいる人もある。また、推測して、なるほどそうかと気がついていながら、まだまちがいがあるかもしれないと疑いをいだいている人もある。また、格別にたいしたことでもないさとばかり、手をうって笑っている人もある。また、虚言とよく知っていながら、わかっているとは言わないで気のつかぬ人同然の態度で過ごす人がある。また、虚言と知り抜いて、虚言をかまえた人と同じ心もちからそれに力を合わせ、それを助長する人もある。
 無知な人間どもが集まってする取るにも足りない虚言でさえ、たねを知ってさえいれば、このように人さまざまの個性が言葉になり表情になり、現われるのがわかるものなのである。まして明達めいたつの士(かしこく道理をよく知る人)がわれわれのようにまどっている者を見抜くのはわけもないこと、あたかも手のひらの上のものを見るほどのことであろう。さればといって、こんな推測をもって深遠な仏法の方便などにまで準じて、論じおよぶことはよくない。


一九五


 ある人が久我畷こがなわて(京都市伏見区にある道)を通行していると、小袖こそでを着て大口のはかまをつけた人が木造の地蔵尊を田の中の水にひたしてたんねんに洗っていた。変なことだなあと見ていると、狩衣かりぎぬをつけた男が二三人出てきて「ここにおいでになった」と言って連れていった。久我こが内大臣通基みちもと公であった。以前、普通の精神状態でおられたころには、温順で尊敬すべき人物であった。


一九六


 東大寺鎮守ちんじゅ八幡はちまん神輿みこし東寺とうじ若宮わかみや八幡からお帰りの時、源氏の公卿方くげがたはみな若宮へ参られたが、その時この久我こが内大臣は近衛このえ大将であって随身ずいじんに先払いさせられたのを、土御門つちみかど太政だじょう大臣定実さだざね(源定実)は「神社の前で先払いをするのはいかがなものであろう」と言われた。するとこの大将は「随身たるべきもののいたすべき作法は、われら武家の者がよくぞんじております」とだけ答えた。さて、のちになってから久我殿は「土御門太政大臣は北山抄ほくざんしょう(藤原公任きんとう選の故実書)は見ておられるが、もっとふるい西の宮(西宮左大臣源高明たかあきらの説のほうはごぞんじないとみえる。神の眷族けんぞくたる悪鬼悪神を恐れるから、神社の前ではとくに随身に警蹕けいひつ(天皇や貴人の通行のために先ばらいすること)の声をかけさせる理由がある」と言われた。


一九七


 定額じょうがく(朝廷から供料くりょうを頂く定員の決まった僧)というのは、何も諸寺の僧とばかりは限ったものではない。定額の女嬬にょじゅ(下級の女官)という言葉が現に延喜式えんぎしきに見える。本来はすべて数の定まった公儀の人には一般に通じた呼び方なのである。


一九八


 揚名介ようめいのすけがあるだけではなく揚名目ようめいのさかんというものもある。政事要略に出ている。


一九九


 横川よかわ行宣法印ぎょうせんほういんの言うところによると、「中国はりょの国である、りつこえがない(いずれも雅楽に用いられる旋法せんぽう。日本は律だけの国で呂の音がない」とのことであった。


二〇〇


 呉竹くれたけは葉が細く、河竹かわたけは葉が広い。禁中きんちゅう御溝みかわ(宮中の庭の水の流れるみぞ)のそばに植えられているのが河竹で、仁寿殿じじゅうでんのほうへ近くお植えになったのが呉竹である。


二〇一


 退凡たいぼん下乗げじょうとの卒都婆そとば(仏教の聖地・霊鷲山りょうじゅせんにあったといわれる塔。退凡は凡人をしりぞける、下乗は乗馬を禁ずるもの)まぎらわしいものであるが、外側のが下乗で内側のが退凡である。


二〇二


 十月を神無月かんなづきと呼んで神事にはばかるということは、別に記した物もなければ、根拠とすべき記録も見ない。あるいは当月、諸社の祭礼がないからこの名ができたものか、この月はよろずの神々が大神宮へ集まりたまうなどという説もあるが、これも根拠とすべき説はない。それが事実なら伊勢ではとくにこの月を祭る月としそうなものだのに、そんな例もない。十月に天皇が諸社へ行幸ぎょうこうされた例はたくさんにある。もっともその多くは不吉な例ではあるが。


二〇三


 勅勘ちょっかん(天皇の命により罰せられること)をこうむった家にゆぎ(矢を入れて背負う道具)をかける作法は、今では知っている人がまるでない。天子の御病気のおん時とか疫病えきびょうの流行する時には、五条の天神に靫をお掛けになる。鞍馬くらまに靫の明神というのがあるのも靫を掛けられた神である。看督長かどのおさの負うていた靫を勅勘の者の家に掛けると、人がその家へ出入りしないようになるのである。このふうが絶えてからのちは、ふう(封印)を門戸につけることとなって今日におよんでいる。


二〇四


 犯罪者をむちで打つときは拷器ごうきへ近づけてしばりつけるのである。拷器の構造も、縛りつける作法も、今日ではわきまえ知っている人はないということである。


二〇五


 比叡山ひえいざんにある大師勧請かんじょう起請文きしょうもんというのは、慈恵僧上じえそうじょうが書きはじめられたものである。起請文ということは法律家のほうではなかったものである。いにしえ聖代せいだいには、本来起請文などによって民を信用させたうえで行なう政治などはなかったはずのものを、ちかごろになってこのことが流行になったのである。またついでながら、法令には水火すいかけがれを認めていない。水火の入れ物には穢れもあろう。水火それ自体に穢れがあるはずもない。


二〇六


 徳大寺とくだいじ右大臣公孝卿きみたかきょう(藤原公孝)が、検非違使けびいし別当べっとうであられたころ、検非違使庁の評定ひょうじょう、すなわち裁判の最中に、役人章兼あきかね(中原章兼)の牛が車を放れて、役所の中にはいり、長官の席の台の上へ登り込んで、反芻はんすうをしながら寝ていた。異常な怪事というので、牛をうらないのところへやってうらなわせようと人々が言っているのを、公孝卿の父の太政だじょう大臣実基さねもと(徳大寺実基)が聞かれて、牛にはなんの思慮もない、足があるのだからどこへだって登って行くのがむしろ当然である。微賤びせんな役人が、偶然出仕しゅっしに用いたつまらぬ牛を取り上げてよいものではなかろうと言うので、牛は持主に返し、牛がしゃがんだたたみは取り換えられた。別段なんらの凶事も起こらなかったということである。怪事を見ても怪しいと思わないときは、怪事が逆にこわれてしまうともいわれている。


二〇七


 亀山殿かめやまどの(後嵯峨上皇が嵯峨に作った御所)を建設せられるために地ならしをなされたところが、大きなへびが無数に寄り集まっているつかがあった。この土地の神だといって顛末てんまつ奏上そうじょうしたところが、どうしたものであろうかとの勅問ちょくもんがあったので、衆議は昔からこの土地を占領していたものだからむやみに掘り捨てることはなるまいと言ったけれど、この太政大臣(徳大寺実基さねもとだけは、王者が統治の地にいる虫どもが皇居をお建てあそばすのになんのたたりをするものか。鬼神も道理のないことはしないから祟りはないはずである。みな掘り捨ててしまいさえすればよろしい、と申されたので、塚を破壊して蛇は大井川おおいがわへ流してしまった。はたしていっこうに祟りもなかった。


二〇八


 経文きょうもんなどのひもを結ぶのに、上下からたすきのように交錯させて、その二筋のなかからわなの頭を横へ引っぱり出しておくのは、普通のやり方である。しかるに華厳院けごんいん弘舜僧正こうしゅんそうじょうはこの結び方を見て解いて直させ、この結び方はちかごろの方法ですこぶるぶざまである。いいのは、ただくるくると巻きつけて上から下へわなのさきを押しはさんでおくのである、と申された。老人でこんなことに通じた人であった。


二〇九


 他人の田をわがものと論じ争ったものが訴訟そしょうに負けて、くやしさにその田を刈り取ってこいと人をやったところが、これを命ぜられた者どもは、問題の田へ行く途中からよその田をさえ刈って行くので、そこは問題のあった田ではないと抗議されて、刈った者たちはその問題の田にしたところで刈り取る理由がないのにむちゃをしに行くのだから、どこだって刈り取ってもかまうものですか、と言った。この理屈がすこぶるおかしい。


二一〇


 呼子鳥よぶこどりは春のものであるとばかり説いて、どんな鳥だとも確実に記述したものはない。ある真言しんごんの書のなかに、呼子鳥が鳴く時、招魂しょうこんの法を行なう式が書かれてある。これで見るとぬえのことである。万葉集の長歌に「かすみ立つ長き春日はるひの……」とあるところに「ぬえこ鳥うらなきおれば……」とある。この鵺子鳥と呼子鳥とは、様子が似かよっているようである。


二一一


 いっさいの事物は、信頼するに足りないものである。愚人はあまり深く物事を当てにするものだから、うらんだり腹を立てたりすることが生ずる。権勢も信頼できない。強者は滅びやすい。財産の豊富も信頼できない。時のまになくなってしまう。才能があっても信頼できない。孔子でさえも不遇であったではないか。徳望があるからといって信頼はできない。顔回がんかい(孔子の第一弟子)でさえも不幸であった。君主の寵遇ちょうぐうも信頼はできない。たちまちにちゅうせられる(罰として殺される)ことがある。従者を連れているからと信頼することもできない。主人を捨てて逃げ出すことがある。人の厚意も信頼できない。きっと気が変わる。約束も信頼できない。相手に信を守るのは少ない。
 相手ばかりか、わが身をも信頼しないでいれば、い時は喜び、悪い時もうらまない。身の左右が広かったらなにもさわらない。前後が遠かったならば行きづまることもない。しかし前後左右の狭い時には押しつぶされる。心を用いる範囲が狭小で峻厳しゅんげんな場合は、物に逆らい争うて破滅するような結果になる。寛大で柔和にゅうわならば一毛も損ぜられることはない。人は天地間の霊である。天地は局限するところのないものである。それゆえ天地の霊たる人のさがは、どうして天地と相違あいちがうてよかろうぞ。天地の心を心として寛大に局限しない場合には、喜怒の感情はこれに接触せず、事物のために心をわずらわされることもなくてすむはずである。


二一二


 秋の月はこのうえなくいいものである。いつでも月をこんなものであると思って、この季節の特別のおもむきに気がつかぬような人は、すこぶるなさけないしだいである。


二一三


 天子のおん前の火鉢ひばちに火を入れるときは、火箸ひばしではさむことはしない。土器かわらけから直接に移し入れるのがよいのである。それゆえ、炭をころばさないように注意して積むべきである。上皇じょうこう石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう行幸ぎょうこうのおりに、お供のひとが白い浄衣じょうえを着ていて手で炭をついだのを、ある有職ゆうそく(古い典礼の知識)に通じた人が、白い物を着ている場合は火箸を用いても悪くはないのだ、と言っていた。


二一四


 想夫恋そうふれんというがく(雅楽)は、女が男を恋い慕うという意味の名ではない。本来は、相府蓮というのが、文字の音が通ずるので変わったのである。これはしん王倹おうけんという人が、大臣としてその邸家にはちすを植えて愛した時の音楽である。これ以来、大臣のことを蓮府れんぷともいう。廻忽かいこつという楽も、廻鶻がほんとうである。廻鶻国といって強いえびす(未開の異民族の意)の国があった。その夷が漢に帰服してから来て、自分の国の楽を奏したのである。


二一五


 平宣時朝臣たいらののぶときあそん大仏おさらぎ宣時)が老後の追懐談に、最明寺さいみょうじ入道北条時頼ほうじょうときよりからあるよいくちに召されたことがあったが、「すぐさま」と答えておいて直垂ひたたれ(武士の平服)が見えないのでぐずぐずしていると、また使者が来て「直垂でもないのですか、夜分のことではあり、身装みなりなどかまいませんから早く」とのことであったから、よれよれの直垂のふだん着のままで行ったところ、入道は銚子ちょうし土器かわらけを取りそえて出て来て「これをひとりで飲むのが物足りないので、来てくださいと申したのです。さかながありませんが、もう家の者は寝たでしょう。適当なものはありますまいか、存分に探してください」と言われたので、紙燭しそく(ロウソクがわりの一種のたいまつ)をつけて隅々すみずみまで探したところが、小さな土器に味噌みそのすこしのせてあったのを見つけて「こんなものがありましたが」と言うと「それでけっこう」と、それを肴に愉快に数杯を傾け合ってきょうに入られた。その当時はこんな質素なものであったと申された。


二一六


 最明寺さいみょうじ入道時頼ときより鶴岡つるがおか八幡へ参拝せられたついでに、足利左馬あしかがのさま入道義氏よしうじのところへまず前触れをつかわしてから立ち寄った。その時の御馳走ごちそう献立こんだては第一こんにのしあわび、第二献にえび、第三献に牡丹餅ぼたもち、これだけであった。その座には主人夫妻と隆弁りゅうべん僧上とが、主人側の人であった。えんが果ててから、「毎年下さる足利の染物はいただけましょうね」と言われたので、左馬入道は「用意しております」と種々の染物を三十種、時頼の目の前で、召仕えの女どもに命じて小袖こそでたせあとから仕立てておくられた。このとき、これを見た人がちかごろまで存世で、話して聞かせました。


二一七


 ある大富豪の説に、「人は万事をさしおいて、専念に財産を積もうとすべきものである。貧乏では生きがいもない。富者ばかりが人間である。裕福になろうと思ったら、よろしくまず、その心がけから修養しなければならない。その心がけとはほかでもない。人間はいつまでも生きておられるものという心もちをいだいて、いやしくも人生の無常などは観じてはならない。これが第一の心がけである。つぎに、いっさいの所用を弁じてはならない。世にあるあいだは、わが身や他人に関して願い事は無際限である。欲望に身を任せて、その欲を果たそうという気になると、百万の銭があってもいくらも手に残るものではない。人の願望は絶えまもないのに、財産はなくなる時期のあるものである。局限のある財産をもって無際限の願望に従うことは不可能事である。願望が生じたならば身を滅ぼそうとする悪念が襲うたと堅固に謹慎きんしん恐怖して、些少さしょうの用をもかなえてはならない。つぎに、金銭を奴僕ぬぼくのように用いるものと思ったら、永久に貧苦からまぬがれることはできない。君主のように神のように畏怖いふし尊敬してわが意のままに用いることを禁止せよ。つぎに、恥辱を感じたことがあっても、憤怒ふんぬ怨恨えんこんを感じてはならない。つぎに、正直に約束を固く守るべきである。これらの意味をよくわきまえ信じて利得を求める人には、富の集まってくること、たとえば火の乾燥物に燃え移り、水の低きにつくようなものであろう。銭の蓄積してつきない限りは、酒色や音曲などに従事せず、居住をりっぱにせず、願望をとげなくとも心は永久に安楽である」と申された。
 いったい、人間は自分の欲望を満足させようとして財産を作ろうとするものである。金銭を宝とするのは、願望を満足させるがためである。願望が起こってもこれをとげず、銭があっても使用しないとすれば、まったく貧者と同然である。前の大富豪の戒律は、つまり人間の欲望を断って、貧をうれうるなかれということのように聞こえる。富の欲を満たして楽とするよりも、むしろ財産のないほうがましである。癰疽ようそ(癰、疽、いずれも悪性のできもの)む者が患部を水で洗って楽しいとするのよりも、病気にかからぬがいっそうよかろう。ここまで考えてくると、貧富の区別もなく、凡夫ぼんぷ大悟たいご徹底の人も同等で、大欲は無欲に類似している。


二一八


 きつねは人に食いつくものである。堀川殿ほりかわどの舎人とねりが寝ていて、足を狐にかまれたことがあった。仁和寺にんなじで、夜、本堂の前を通行中の下級の僧侶に狐が三匹飛びかかってくいついたので、刀を抜いてこれを防ぐうちに、狐二匹を突いた。その一匹は突き殺した。二匹は逃げた。僧はたくさんかまれはしたが、生命は別条もなかった。


二一九


 四条中納言藤原隆資卿しじょうちゅうなごんふじわらのたかすけきょうが自分におおせられたには、「豊原龍秋とよはらのたつあきという楽人は、その道にかけては尊敬すべき男である。先日来て申すには、無作法きわまる無遠慮な申し分ではございますが、横笛の五の穴はいささかにおちないところがあると、ひそかに愚考いたします。と申しますのは、かんの穴は平調ひょうじょう、五の穴は下無調しもむじょうです。そのあいだに勝絶調しょうぜつじょうを一つ飛んでおります。この穴の上の穴は双調そうじょうで、双調のつぎの鳧鐘調ふしょうじょうを一つ飛んで、さくの穴は黄鐘調おうじきじょうで、そのつぎに鸞鏡調らんけいじょうを一つ飛んで、中の穴は盤渉調ばんしきじょうである。中の穴と六の穴とのあいだに神仙調しんせんじょうを一つ飛んでいる。このように穴のあいだにはみな一調子ずつ飛ばしているのに、五の穴ばかりはつぎの上の穴とのあいだに一調子を持っていないで、しかも穴の距離は他の穴と同じくしているから、この穴を吹くときは、かならず吹く口を少し穴から離して吹くのです。もしそうしないと調子が合いませぬ。したがって、この穴を無難に吹ける人はめったにありませぬ」と述べた。よく事理に通じた話で実におもしろい。先輩が後進を恐れるというのは、すなわちこのことであるとのお言葉であった。
 後日、大神景茂おおみわのかげもちの説では、しょうはあらかじめ調子を用意しておいてあるから、ただ吹きさえすればよいのである。笛のほうは吹きながら調子を調ととのえてゆくものであるから、どの穴にも口伝くでんがあるうえ、自分のくふうでかげんし注意する必要のあるのは、あえて五の穴のみとは限らない。悪く吹けばどの穴も不快である。じょうずの人はどの穴もよく調子を合わせて吹く、笛の調子が他の楽器に合わないのは、吹く人が拙劣せつれつで楽器の欠点ではない、と言っている。


二二〇


 何事も地方のは下品で不作法であるが、天王寺てんのうじ(大阪の四天王寺)舞楽ぶがくだけは、都の舞楽にくらべて遜色そんしょくがないと言ったら、天王寺の伶人れいじん(雅楽の奏者)が言うには、当寺の楽はよく標準律にのっとって音を合わせるので、音のりっぱに調ととのっていることは他所よその楽よりすぐれている。というのは、聖徳太子のおん時の標準律が現存しているので、それによるのです。この標準律というのは、あの六時堂ろくじどうの前にある鐘です。あの鐘の声は黄鐘調おうじきじょうのまん中の音です。もっとも気候によって音の高低がありますから、二月十五日の涅槃会ねはんえから同月二十二日の聖霊会しょうりょうえまでのあいだの音を標準にするのです。これはたいせつな秘伝です。この一音調をもとにして他の音を調えるのです」と言った。
 いったい鐘の声というものは黄鐘調であるべきものである。これは無常の音調で、天竺てんじく祇園精舎ぎおんしょうじゃ無常院むじょういんの鐘の声がこれである。西園寺さいおんじの鐘は黄鐘調にようというので、いく度も鋳直いなおしたが、ついぞできなかったので、遠国おんごくから黄鐘調のものを探し出してきたものであった。法金剛院ほうこんごういんのものも黄鐘調である。


二二一


 建治弘安けんじこうあん(一二七五〜八八)のころは、賀茂かもの祭の放免ほうべん、言ってみれば検非違使けびいしの雑役の※(「二点しんにょう+黎」、第4水準2-90-3)ねりものには、変な紺のぬの四、五反で馬の形を作り、尾や髪を灯心で作って、蜘蛛くもの巣をかいた水干すいかん(貴族の日常着、狩衣の一種)を着た上へこれを引っかついで、この意匠いしょうをそこから取った和歌――蜘蛛のいの荒れたる駒はつなぐとも二道ふたみちかくる人はたのまじ――を口ずさんだりしながら渡っていったのは、以前はよく見かけたもので興味のある趣向だなあと思っていたのにと、今日も年取った道志どうし(大学寮で明法道を修め、衛門府と検非違使庁の四等官を兼任するもの)れんと話し合ったものである。近年はこの※(「二点しんにょう+黎」、第4水準2-90-3)物が年々に贅沢ぜいたくの度がひどくなって、さまざまな重いものなどを身につけて左右のそでを人に持たせ、自分は当然持つべきほこさえ持てないで、息づかい苦しげの様子は、はなはだもって醜悪である。


二二二


 竹谷たけだに乗願坊じょうがんぼうという坊さん宗源そうげんが、後深草院ごふかくさいんきさき東二条院とうにじょういんのおんもとへ参られた時、亡者もうじゃ追善ついぜんには何が一番利益りやくがすぐれているかとおたずねがあったので、乗願坊は、光明真言こうみょうしんごん宝篋印陀羅尼ほうきょういんだらにでございますと答えたのを、あとで、弟子どもがなんであんなことをおおせられましたか、念仏こそ第一等でこれにおよぶものはございますまいと、どうしておっしゃらなかったのですかと言ったところが、乗願坊の答えるには、わが宗派ではあり、そう答えたいものではあったが、たしかに念仏が追善に大きな利益があると書いてある経文きょうもんは見たことがないので、そのことは何経に出ているかと重ねておたずねのあったとき、なんとお答えできようかと案じて、根拠になるたしかな経文に従ってこの光明真言宝篋印陀羅尼と申し上げたのであると言われた。


二二三


 九条基家くじょうもといえ公をたず大殿おおいどのと申したのは、幼名がたずぎみであったのである。つるをお飼いになったからというのは誤りである。


二二四


 陰陽師おんようじ安倍有宗あべのありむね入道が鎌倉から上京して訪問してくれたが、まずはいりがけに、この庭がむやみと広すぎるのはよくないことで感心できない。物のわかった人は植物の養成を心がける。細い道を一筋残しておいて、みな畑にしてしまいなさいと忠告したものであった。なるほどすこしの土地でも打ち捨てておくのは無益なことである。食料になる野菜や薬草などを植えておくのがよかろう。


二二五


 楽人多久資おおのひさすけが話したのに、通憲みちのり入道信西しんぜい(藤原通憲)まい所作しょさの中からおもしろいのを選んで、いそ禅師ぜんじという女に舞わせた。その姿は白い水干すいかん鞘巻さやまきという刀をささせ、烏帽子えぼしをかぶらせたから男舞おとこまいとよんだ。禅師の娘のしずかというのがこの芸を伝承した。これが白拍子しらびょうしの起源である。仏神の由来縁起えんぎを歌ったものであった。その後源光行みなもとのみつゆきが多くの歌曲を作った。後鳥羽院ごとばいん御製ぎょせいになったのもある。院はこれを亀菊かめぎくという遊女あそびめ(歌舞などの芸をする女)にお教えになったということである。


二二六


 後鳥羽院ごとばいん御時おんとき(一一八三〜一二二一)信濃前司行長しなののぜんじゆきなが(中山行長)は学問において名誉のあった人であったが、この人が楽府がふの御議論の中に召し加えられた際、七徳しちとくまいの中の二徳を忘れたので、五徳冠者かんじゃという仇名あだなをつけられた。それを苦にして学問をやめて出家したのを、叡山えいざん慈鎮じちん和尚は一芸のある者は、たとい下僕でも召しかかえて寵遇ちょうぐうしたのでこの信濃入道行長をも養っておかれた。この行長入道が平家物語を作って、これを生仏しょうぶつという盲人に教えて語らせた。それで自分の世話になった延暦寺えんりゃくじのことを、とくべつにりっぱに書いているのである。九郎判官くろうほうがん(源義経)のことはくわしく知って記載してある。蒲冠者がまのかんじゃ(源範頼のりよりのことはじゅうぶん知らなかったものを書きらしている事跡が多い。武人、兵馬のことは生仏が関東の出身者であったので、武士に問わせて記入したのである。あの生仏の性来の音声を、現代の琵琶びわ法師はまねているのである。


二二七


 六時礼讃ろくじらいさん法然上人ほうねんしょうにんの弟子の安楽あんらくという僧が、経文きょうもんを集めて作り、日没、初夜、中夜、後夜ごや晨長しんちょう、午時の六時に、これをして勤行ごんぎょうしたのである。その後、太秦うずまさ善観房ぜんかんぼうという僧がそれにふしを決めて梵唄ぼんばいとしたものであった。一念義流いちねんぎりゅうの念仏の最初である。これをとなえることは、後嵯峨ごさが天皇の御代みよから始まった。法事賛ほうじさんも同じく善観房がはじめたものである。


二二八


 千本せんぼん(京都の大報恩寺のこと)釈迦しゃか念仏は、文永ぶんえい(一二六四〜七五)のころ、如輪上人にょりんしょうにん(澄空)が始められたものである。


二二九


 よい細工人さいくにんは、いくぶんにぶい刀を使用する、ということである。光仁こうにん(七七〇〜八一)の名仏工妙観みょうかんの刀も、あまり鋭利ではない。


二三〇


 五条の内裏だいりには化物ばけものがいた。藤大納言殿とうのだいなごんどののお話しなされたところでは、殿上人たちが黒戸くろどの間に集合してを打っていたら、御簾みすを上に持ち上げて見るものがある。たれだとふり向いて見ると、きつねが人間のようにちゃんとすわって、のぞいていたので、やあ、狐だと騒がれて逃げまどうていた。未熟な狐が化けそこなったものとみえる。


二三一


 園別当そののべっとう入道藤原基氏ふじわらもとうじは、料理にかけては無比の名人であった。ある人のもとでりっぱなこいを出したので、衆人は別当入道の庖丁ほうちょうを見たいと思ったが、こともなげに言い出すのもはばかられるので遠慮していたのに、別当入道は如才じょさいのない人で「このあいだから、百日つづけて鯉を切ることにしていましたのに、今日だけ休みたくないものです。ぜひともそれをいただいて切りましょう」と言って切られたのは、すこぶる好都合でおもしろいと、みなは感じました。と、ある人が北山きたやま太政だじょう入道殿西園寺公経さいおんじきんつねに話したところが、そんなことを自分はまことに小うるさいと思います。切る人がないならください、切りましょうと言ったらもっとよかったでしょうに。なんだって、百日の鯉を切るなんて、ありもしないこしらえごとを、とおおせられたのは、いかにもとぞんじましたとある人が言ったのに、自分もすこぶる共鳴した。
 いったい、いろいろおもむきらしておもしろみをそえたのよりは、わざとらしい趣向などはなく、あっさりしたのがいいものである。客を饗応きょうおうするにしても、何かしかるべき口実を設けてもてなすのも悪くはないが、それよりは別になんということなしに取り出したのがいたってよい。人に物をやるにしても、とくにこれという理由を設けないで、あげましょうと素直に言ったのが、真実のこころざしというものである。惜しむような様子をして欲しがらせたり、勝負事の負けた賭物かけものなどにかこつけて与えるのは、見苦しい。


二三二


 総じて、人間は無知無能な者のようにしているのがよろしい。ある人の子で、風采ふうさいなどもりっぱな人が、父の前で人と話をするのに史籍の文句を引用していたのは、賢そうに聞こえはしたが、目上の人の前では、そんなでない方だと感じたものだ。
 またある人のもとで、琵琶法師びわほうしの物語を聞こうと琵琶を取り寄せたところ、そのじゅうの一つが落ちていたので、すぐに柱を作ってつけておいたらよかろうと言うと、一座にいた相当なふうをした男が、古い檜杓ひしゃくがありますかと言うので、その男を見るとつめを長くはやして琵琶などを弾く男だなと思えた。盲法師めくらほうしの弾く琵琶は、音楽のもの同様に取扱うにもおよばぬ沙汰さたである。自分がその道の心得があるというつもりで、きいたふうを言ったのかと思うと、冷汗ものであった。檜杓の柄は、ひもの木(檜物木。ヒノキ細工に使う板のこと)とかいうもので好くないものだのに、とのちにある貴人が言っておられた。若い人の場合はちょっとしたことでも、い感じを受けたり、悪い感じを受けたりするものである。


二三三


 万端、過失のないようにと心がけるなら、何につけても誠実に、相手を問わず恭謙きょうけんの態度をもって、言葉数の少ないのに越したことはない。老若男女を問わず、何人なんぴともそういう人がいけれど、なかんずく、青年で風采ふうさいのあがった人が言葉のよいのは、忘れがたく感銘するものである。すべての過失というものは慣れきった様子でじょうずぶり、巧者らしい態度に、人をのんでかかるので起こるものである。


二三四


 人が物を問うたとき、知らないわけでもあるまい。ありのままに答えるのも気がきかないとでも思うのか、曖昧あいまいな返事をするのはよくないことである。知っていることでも、もっと確実にしたいと思って問うのであろうし、また、ほんとうに知らない人だってないはずもなかろう。それゆえ、人の質問に対しては明白に答えるのが穏当であろう。
 人がまだ聞きつけないことを自分が知っているからというので、先方から問い合わせがあったときなどに、自分のひとり合点がてんで、ただあの人のこともあきれかえったものですねというようなことだけを返事してやると、事件そのものを判然と知らないほうでは、どんなことがあったのだろうかとさらに押しかえして問いに行かなければならないのなどは、まことにいやなしだいである。世間周知のことだって、つい聞きもらす場合44だってあるのだから、におちないふしのないように知らせてやるのが、なんで悪いはずがあろうか。こんなやり方は、世事に慣れない人のよくやることである。


二三五


 持主もちぬしのある家へは、用のない人間などが気ままに入ってくることはないが、あるじのいない家へは、通りがかりの人でもむやみに入りこんで来る。きつねふくろうのようなものでも主のない家は人気にさまたげられないから、得意然と入りこんで住み、木魂こだまなどという怪異などまで現われるものである。また、鏡には色や形がないから、種々の物の影も映る。もし鏡に定住のものともいうべき色や形があったなら、外物の影は映らないであろう。
 空虚なところへは、よく物が入りこむ。雑多な欲念が勝手に思い浮かんでくるのも、本心というものがないからであろう。心に一定の主体さえあったなら、胸中かように雑多なことが入ってはこないのであろう。


二三六


 丹波たんば出雲いずもという所がある(現在の京都府亀岡市の出雲)。名にちなんで杵築大社きづきたいしゃを移してりっぱにやしろを造営している。志太しだなにがしという人が、知行ちぎょうしているところだから、この人が、秋のころ、聖海上人しょうかいしょうにんをはじめ、数多あまたの人々を誘い、さあどうぞ、出雲の社へ御参詣ごさんけいかたがた牡丹餅ぼたもちでも召し上がってくださいというので、案内していってくれたので、人々は参拝して大いに信心を起こしたが、ふと見ると神前の獅子しし狛犬こまいぬが反対に、うしろ向きに立っていたので、上人がひどく感心して、ああありがたい。この獅子の立ち方が実に珍しい。深いわけがあろうと感涙かんるいをもよおして、「どうです、みなさん、ありがたいことが、お気づきにはなりませんか。しかたのない人たちだ」と言ったので、人々もふしぎに思って「なるほど、他処よそとは変わっていますね。都への土産話みやげばなしにしましょう」などと言ったものだから、上人はいっそうゆかしく思って、おとなしくて物わかりのしそうな顔をした神官を呼んで「ここのおやしろの獅子の立て方は、きっと由来のあることでしょう。御説明を願いましょう」とたずねられると、「それでございますか、腕白わんぱくどもがしでかした不都合ないたずらです」と答え、そばへ立ち寄ってえ直して行ってしまったので、上人の感涙も、ふいになってしまった。


二三七


柳箱やないばこ(身の回りの小物などを入れる柳細工で作った箱。フタを台として使った)に置くのは、たて向きにしたり、横向きにしたり、物品によるものでしょうか、巻物などは縦に置いて、木の間からこよりを通して結びつけます。すずりも縦に置くと筆がころばないでよい」と三条右大臣殿が言っておられた。世尊寺家せそんじけのお方たちは、かりにも縦に置くことはなく、きっと横向きにえられたものでした。


二三八


 御随身みずいじん近友ちかともの自賛といって、七ヵ条書きつけていることがある。馬術に関したつまらぬことどもである。その先例に見ならって、自分にも自賛のことが七つある。
 一、人を多く同伴して花見をして歩いたが、最勝光院さいしょうこういんの付近(現在の京都・三十三間堂あたりといわれる)で、ある男の馬を走らせているのを見て「もう一度あの馬を走らせたら、馬が倒れて落馬するでしょう。ちょっと見ていてごらん」と言って立ちどまっていると、また馬を走らせた。それをとめようとするところで馬を引き倒し、男は泥のなかへころび落ちた。自分の言葉の的中したのに、人々はみな感心した。
 一、今上きんじょうみかどが、まだ東宮とうぐうであらせられた(皇太子であった)ころ、万里小路殿藤原宜房までのこうじどのふじわらよしふさ邸が東宮御所とうぐうごしょであった。堀川大納言殿東宮大夫ほりかわだいなごんどのとうぐうだいぶ藤原師信もろのぶ(または源具親ともちか伺候しこうしておられたお部屋へ、用事で参上したところが、論語の四、五、六の巻を繰りひろげていられて「ただいま東宮御所で、むらさきあけをうばうをにくむ」というもんを御覧あそばされたいことがあって、御本ごほんを御覧あそばされたが、お見出しあそばさぬのです。なおよく探してみよとお言葉があったので、それを探しているところであると申されたので、「九の巻のこれこれのところにございます」と言ったところ、堀川殿はやれうれしやと言って、御所へ持って参られた。これくらいのことは、子どもにだってよくあることだけれど、昔の人は、ちょっとしたこともたいそう自慢にしたものでした。後鳥羽院ごとばいんがお歌のことで、「そでとたもととを一首のなかに入れては悪かろうか」と定家卿ていかのきょうにおたずねになった際、定家が「秋の野の草のたもとか花すすき穂にでてまねくそでと見ゆらむ」という古歌もございますから、差しつかえはございますまいと申されたことをも「時に応じて、根拠とすべき歌をはっきり思い出したのは、この道の冥加みょうがで運がよかったのである」とおおげさに書きつけておかれた。九条相国伊通しょうこくこれみち(藤原伊通)款状かんじょう(上申書、嘆願書)にも、つまらぬ項目まで列挙して自賛しておられる。
 一、常在光院じょうざいこういん撞鐘とうしょうめいは、菅原在兼すがわらありかね卿が原稿を作られた。それを藤原行房朝臣ふじわらゆきふさあそんが清書して、鋳型いがたにうつさせようとせられた時、そのことを奉行ぶぎょうしていた(命によって実務を行なっていた)入道が、自分にその原稿を取り出して見せたのを見ると、その中に「花の外にゆうべを送れば声百里はくりも聞ゆ」という句があった。「陽唐ようとういんと見えるのに、百里とあるのは韻を誤ったのでしょうか」と自分が言ったら、奉行の入道は大喜びで「あなたにお目にかけてよいことをしました。自分の手柄になります」と言って、入道が在兼卿のところへ言ってやったので、彼は「なるほど、まちがいでした。どうか数行すこうと直してください」と韻を合わせた返事があった。数行にして韻だけは合わせてもまだ変ではなかろうか、あるいは数歩という意味かしら。よくわからない。
 一、人を多数同伴して叡山えいざんの三塔順礼をした時、横川よかわ常行堂じょうぎょうどうの中に龍華院りょうげいんと書いた古いがくがあった。「筆者、あるいは藤原ふじわら佐理さりか、藤原行成こうぜいかと、この二人のいずれかに疑問があって、まだ決定できないということになっています」と、堂にいる僧がぎょうぎょうしく述べていたので、自分は「行成の筆ならば裏書うらがきがあるはずだし、佐理なら裏書はないはずですね」と言ったので、額の裏のちりが積もって、虫の巣がくっついてむさ苦しくなっているのをよくきぬぐって、みなでしらべてみたら、行成の名、官位、名字、年号などが確実に見えたので一同おもしろがった。
 一、那蘭陀寺ならんだじ道眼上人どうげんしょうにんが説教中に、八災はちさいの一々の名を忘れてだれか記憶した人はありませんかとおおせられたるに、弟子僧は一人も覚えていなかったのを、自分が聴聞ちょうもん席からこれとこれでしょうと数え出したので、たいへん感心しておった。
 賢助けんじょ僧正に連れられて加持香水かじこうずいのお儀式を拝観した時、まだすまないうちに僧正は帰途につき、衛士えじ詰所つめしょの外まで出られたが、同行の僧都そうずの姿が見えない。法師どもを使つかいにやって探させたが「同じような様子の群集のなかで見わけがつきません」とだいぶぐずぐずしてから出て来たので「ああ困ったなあ、さがして来てくださらぬか」と言われたので、自分は奥へはいって行って、すぐに連れて出てきた。
 一、二月十五日の月の明るい晩、だいぶふけてから千本の釈迦堂しゃかどう参詣さんけい、後方から、ひとり、顔をすっぽりかくしてお説教を聴聞ちょうもんしていたところ、姿もきしめた香料なども抜群な美しい女が人を押しわけてきて、自分のひざに寄りかかって、香などまで移ってくるほどなのでぐあいが悪いと思って後へ退しりぞくと、女はそれでもまだ近寄って同じ様子をするので、自分はその場を立ち去った。その後、ある御所につかえていた老女房が、雑談の末に、あなたはまるで色気のない方で、つまらぬ人と考えていたこともございました。無情なお方とうらんでいる向きがありますよと話し出したが、いっこうに思い当たることもありませんと答えてすましたが、このことをさらにのちに聞いたところでは、例の聴聞の別室から、ある貴婦人が自分をお見つけになって、おそばの侍女を作り立ててお出しになって、「うまくゆくと言葉をかけますよ。何を言うか向こうの態度を注意しておいて、帰ってきて話して聞かせてください。おもしろいでしょうから」と言うので、おためしになったのであったということである。


二三九


 八月十五日、九月十三日は、婁宿ろうしゅく(宿は星座の意で、婁宿は二十八星座のひとつ)の日である。この婁宿は清明な宿しゅくであるから、月を賞するのに絶好の夜としてある。


二四〇


 忍ぶ恋ゆえ、はばかる人目の窮屈さに心のままならず、暗夜にまぎれてかようのに周囲にはつき守る人の多いのを、むりにもかよおうとする心の深く痛切なのに感動させられて、忘れられないことなども多くなるのであろう。親兄弟が認めて、いちずに迎え取って家にえておくようなのは、あまり公然すぎ露骨にいとわしく、天下晴れてはまぶしくはずかしかろうではないか。
 世に住みあぐんだ女が、不似合いな年寄としより坊主やいやしい東国人とうごくびと、なんでもよいから景気のよさそうなのに気を引かれて、さながらに根のない浮きぐさの誘う水にまかせてどこの岸にでもという気になっているのを、媒介人なこうどが双方へうまく持ちかけて、見も知らず知られもせぬ人を連れてくる。愚劣千万な話。おたがいに何を話題のいとぐちにすることやら。年来したって会うすべもなかったさつらさ、恋路の峠をなど語り合ってこそ、はじめて話の種もおもむきもつきぬものではあろうに。
 いっさいを他人が取り計らってくれたのなどは、気の乗らないいやなことがさぞ多かろう。相手が美しい女であったとしたら、品格のない老年の男としてはこんなぶざまな自分などのためにもったいない、あんな美しさをむざむざと捨てずともよさそうなものだと、相手の心情もあやしまれ、自分では連れ添うているのも気はずかしくなってしまって、とんとつまらぬ気もちであろう。
 君のそば近く梅香のにおやかな夜のおぼろ月に立ちつくしたり、御垣みかきのもとの草原の露踏み分けて有明月ありあけづきに女のもとを出てくるような経験を、わが身の上にふりかえって見ることのできないような人は、好色の心などを起こさぬに越したことはない。


二四一


 十五夜の月の円満な形も、一刻も固定的なものではない。すぐ欠けてくる。注意深くない人は、一夜のうちにだって月の形がそれほど変化してゆく状態などは、目にもとまらないのであろう。病が重なるのもある状態でおちついているすきもなく、刻々に重くなっていってやがて死期は的確にくる。しかし病勢がまだあらたまらず、死に直面しないあいだは、とかく人間は人生が固定不動という考えが習慣になって、生涯のうちに多くの事業を成就じょうじゅしてのち静かに仏道を修行しようなどと思っているうちに、病にかかって死の門に接近する。その時かえりみれば、平生のこころざしは何一つ成就していない。このたび命をとりとめて全快したら、昼夜兼行このこともあのこともつとめて完成しようという念願を起こすようであるが、ほどなく病がこうじては我を忘れて取り乱して終わる。人間はだれしもこんなふうである。何人なんぴとも、この一事を痛切に念頭に置くべきである。
 欲望を成就してのちに、余暇があったら道をしゅうしようという気では、欲望は際限もあるまい。幻のような人生において、成就するに足る何事があろうぞ。いっさい欲望はみな妄想もうそうである。所願が心に現われたら、妄念もうねんが身を迷わし乱すものと自覚して、何事もしないのがよい。いっさいのことを放擲ほうてきして仏道に向かったならば、なんの障害もなくさねばならぬという仕事もなく、心身ともに永久に安静である。


二四二


 いつまでも、あるいは逆境、あるいは順境に処して、それに支配されるのはもっぱら苦楽のためである。らくは好ましく愛するの意である。好み愛するものを求める情はいつまでたってもやまぬ。無際限なものである。人の楽欲ぎょうよくするところは、第一に名誉である。名誉のうちに二種類、行為に関するもの、才能芸術に関するもの二つ。楽欲の第二は色欲である。その第三は飲食物に対する欲である。いっさいの欲望は、この三つをもって最上とする。この三つはいずれも、人間の本性に違背した心から発しているので、それには多かれ少なかれ、煩悶はんもんともなう。求めないのが最もいい。


二四三


 八歳になった時、自分は父にたずねて、仏とはどんなものでしょうかと言うと、父は、仏とは人間がなったのだと言う。またたずねて、人間がどうして仏になったのでしょう。すると父が答えて、仏に教えられてなるのです。さらにたずねて、その教える仏は何が教えて仏にしたのでしょう。父が答えて、それもまたその前になっていた仏の教えによっておなりなすったものです。そこでさらにたずねて、それではその一番はじめに教えた第一番の仏は、どうしてできた仏でしょうと言うと、父は、さあそれは天からくだったかもしれない、地からいたのかもしれない、と言って笑った。あとで子どもに問いつめられて返答ができなくなりました、といろんな人に話しておもしろがっておられた。
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注釈




(4)「子孫のかわいさに」 訳者注―白楽天の句に、「朝露名利を貪り、夕陽子孫を憂う」とある。
(5)「糸による物ならなくに」 訳者注―糸によるものならなくに別れ路の心細くも思ほゆるかな。
(6)「ものとはなしに」 訳者注―前述の上の句の「糸によるものならなくに」を『源氏物語』には「ものとは無しに」と変えて引用していることを指す。
(7)「残る松さへ峰にさびしき」 訳者注―冬の来て山もあらはに木の葉ふり残る松さへ峰にさびしき。
(9)「陣に夜のもうけせよ」 訳者注―節会せちえの折の諸卿の座(陣)に灯火の用意を命令する言葉である。
10)「かいともし、とうよ」 訳者注―主上の御寝所(夜御殿)をということを、ただ「掻灯疾うよ」といっていることをさしている。
11)「野宮におらせられるおん有様」 訳者注―伊勢の大神宮に奉仕される内親王が、嵯峨の有栖ありす川の御殿(野宮)で潔斎される時のことをいうのである。
13)「昔見し」 訳者注―以前の愛人の門に来てみたが垣根の面目は一変し、荒涼として茅花の茂る間に可憐かれんすみれの花が少しばかり見えているばかりであった(あの人の心のうちは、いま果たしてどんなであろうかという意味である)。
14)「とのもりの」 訳者注―主殿寮とのもりょうの下司どもは自分のほうをすてておいて、掃除も行きとどかない庭は花の散り敷くのにまかせている。
15)「名さえ知れなくなり」 訳者注―白楽天の詩に、「古墳いずれの代の人か、北して路傍の人と為るや、知らず姓と名を、年年春草を生ず」とある。
16)「薪に摧かれ」 訳者注―文選の古詩に、「廊門を出でて直に視る、ただ丘と墳を見る、松柏は摧けて薪と為り、白楊悲風多し、蕭々として人を愁殺す」とある。松は中国では墓畔に植える樹である。
39)「世を隔てたことか何か」 訳者注―仏説に[#「仏説に」は底本では「伝説に」]人の前世を隔生即志というにったのであろう。
40)「有りもせぬ肴を」 訳者注―「御肴何」は普通催馬楽さいばらのその句を歌いつつと解くが、自分は与謝野晶子氏の解に従った。
44)「つい聞きもらす場合」 訳者注―「聞きもらすこと」一本には「聞き洩すあたり」とあり、前者を場合と訳し、後者ならば境遇などとするが適当らしい。





底本:「現代語訳 徒然草」河出文庫、河出書房新社
   2004(平成16)年4月20日初版発行
底本の親本:「日本古典文庫10 枕草子・方丈記・徒然草」河出書房新社
   1976(昭和51)年6月30日発行
初出:「現代語譯國文學全集 第十九卷 徒然草・方丈記」非凡閣
   1937(昭和12)年4月5日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「二カ所」「七ヵ条」の「カ」と「ヵ」、「―」と「〜」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った「そこそこと」と「伝説に」を、初出の表記にそって、あらためました。
※底本巻末の池田弥三郎氏による注釈は省略しましたが、訳者注の部分は採録しました。
※「現代語訳 徒然草」の表題は、底本編集時に与えられたものです。
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2025年4月5日作成
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