鬱屈のあまり一日じゅう
硯にむかって、心のなかを浮かび過ぎるとりとめもない考えをあれこれと書きつけてみたが、変に気違いじみたものである。
何はさて、この世に生まれ出たからには、望ましいこともたくさんあるものである。
帝の
御位はこのうえなく
畏れ多い。皇室の一族の方々は末のほうのお
方でさえ、人間の種族ではあらせられないのだから尊い。第一の官位を得ている人のおんありさまは申すにおよばない。普通の人でも、
舎人(貴人に仕える下級の官人)を従者に
賜わるほどの身分になると、たいしたものである。その子や孫ぐらいまでは、落ちぶれてしまっていても活気のあるものである。それ以下の身分になると、分相応に、時運にめぐまれて得意げなのも、当人だけはえらいつもりでいもしようが、つまらぬものである。
法師ほど、うらやましくないものはあるまい。「他人には木の
端か何かのように思われる」と
清少納言の書いているのも、まことにもっともなことである。世間の評判が高ければ高いほど、えらいもののようには思えなくなる。高僧
増賀が言ったように、名誉のわずらわしさに仏の
御教えにもかなわぬような気がする。しんからの
世捨人ならば、それはそれで、かくもありたいと思うような人がありもしよう。
人は
容貌や
風采のすぐれたのにだけは、なりたいものである。口をきいたところも聞き苦しからず、
愛敬があって、おしゃべりでない相手ならばいつでも対座していたい。りっぱな様子の人が、話をしてみると気のきかない
性根があらわれるなどは無念なものである。
身分や
風采などは生まれつきのものではあろう。心ならば賢いのを一段と賢くならせることもできないではあるまい。風采や性質のよい人でも、才気がないというのは、品位も落ち、風采のいやな人にさえ無視されるようでは生きがいもない。
得ておきたいのは真の学問、文学や音楽の
技倆。また古い
典礼に明るく、朝廷の儀式や
作法について人の手本になれるようならば、たいしたりっぱなものであろう。筆跡なども見苦しからず、すらすらと文を書き、声おもしろく歌の
拍子を取ることもでき、ことわりたいような様子をしながらも酒も飲めるというようなのが、男としてはいい。
昔の
聖代の政治を念とせず、
民の困苦も国の疲労をもかえりみず、すべてに豪華をつくして得意げに、あたりを狭しとふるまっているのを見ると、腹立たしく無思慮なと感ぜられるものである。
「
衣冠から馬、車にいたるまでみな、あり合わせのものを用いたがいい、
華美を求めてはならない」とは、
藤原師輔公の
遺誡にもある。
順徳院(順徳天皇。在位一二一〇〜二一)が宮中のことをお書きあそばされた
禁秘抄にも「臣下から献上される品は、そまつなのをよいとしなくてはならぬ」とある。
万事に
傑出していても、恋愛の
趣を解しない男は物足りない。玉で作られた
杯に底がないような心もちのするものである。
露や
霜に
濡れながら、
当所もなくうろつき歩いて、親の意見も世間の非難をもはばかっているだけの余裕がないほど、あちらにもこちらにも心定まらず苦しみながら、それでいてひとり寝の時が多く、寝ても熟睡の得られるというときもないというようなのが、おもしろいのである。そうかといって、まるで恋に
溺れきっているというのではなく、女にも
軽蔑されているというのでないのが、理想的なところである。
死後のことをいつも心に忘れずに、仏教の素養などがあるのが奥ゆかしい。
不運にも
憂いに沈んでいる人が髪などを
剃って、世をつまらぬものと思いきったというのよりは、住んでいるのかいないのかと見えるように門を閉じて、世に求めることがあるでもなく日を送っている。
というほうに自分は賛成する。
顕基中納言(源顕基)が「罪無くて
配所の月が見たい」と言った言葉の味も、なるほどと思い当たるであろう。
わが身の
富貴と、
貧賤とにはかかわらず、子というものはなくてありたい。
前の
中書王兼明親王
(醍醐天皇の皇子)も、
九条の
伊通太政大臣
(藤原伊通)、
花園の
有仁左大臣
(源有仁)など、みな血統のないのを希望された。
染殿の
良房太政大臣
(藤原良房)に「子孫のなかったのはよい。
末裔の振るわぬのは困ることである」と
大鑑の作者も言っている。聖徳太子が御在世中にお墓をお作らせなされたときも「ここを切り取ってしまえ、あそこも除いたほうがいい。子孫をなくしようと思うからである」と
仰せられたとやら。
あだし野の
露が消ゆることもなく、
鳥部山(現在の京都市東山区嵯峨にあった墓地)に立つ煙が消えもせずに、人の命が常住不断のものであったならば、物のあわれというものもありそうもない。人の世は無常なのがけっこうなのである。
生命のあるものを見るのに人間ほど長いのはない。かげろうの夕べを待つばかりなのや、夏の
蝉の春や秋を知らないのさえもあるのである。よくよく一年を暮らしてみただけでも、このうえもなく、
悠久である!
飽かず惜しいと思ったら、千年を過ごしたところで一夜の夢の心地であろう。いつまでも住み果たせられぬ世の中に、見にくい姿になるのを待ち得ても、なんの足しにもなろうか。長生きすれば恥が多いだけのものである。せいぜい四十に足らぬほどで死ぬのがころ合いでもあろうか。
その時期を過ぎてしまったら、
容貌を
愧じる心もなく、ただ社会の表面に出しゃばることばかり考え、夕日の落ちてゆくのを見ては子孫のかわいさに
(4)、ますます栄えてゆく日に会おうと生命の欲望を
逞しくして、いちずに世情を
貪る心ばかりが深くなって、美しい感情も忘れがちになってゆきそうなのがあさましい。
人間の心を
惑わすものは、
色情に越すものがない。人間の心というものは、ばかばかしいものだなあ。
匂いなどは、仮りのものでちょっとのあいだ着物にたき込めてあるものとは承知のうえでも、えも言われぬ匂いなどにはかならず心を鳴りひびかせるものである。
久米の仙人が、
洗濯していた女の
脛の白いのを見て
通力を失ったというのは
(『今昔物語集』巻第十一にある)、まことに手足の
膚の美しく
肥え太っていたので、
外の色気ではないのだけに、ありそうなことではある。
女は髪の毛のよいのが、格別に、男の目につくものである。人柄や心がけなどは、ものを言っている様子などで物を
隔てていてもわかる。ただそこにいるというだけのことで、男の心を
惑わすこともできるものである。一般に女が心を許す間がらになってからも、満足に眠ることもせず、身の苦労をもいとわず、
堪えられそうにもないことによく
我慢しているのは、ただ
容色愛情を気づかうためである。実に愛着の道は根ざし深く植えられ、その
源の遠く
錯綜したものである。
色、
声、
香、
味、
触、
法の
六塵の
楽欲(欲望)も多い。これらはみな容易に心からたち切ることもできないではないが、ただそのなかの一つ恋愛の執着の押さえ
難いのは、老人も青年も知者も愚者もみな一ようのように見受けられる。それ
故、女の髪筋で作った
綱には
大象もつながれ、女のはいた
下駄でこしらえた笛を吹くと、秋山の
鹿もきっと寄って来ると言い伝えられている。みずから
戒めて恐れつつしまなければならないのは、この誘惑である。
住居の身分に相応なのは、うき世の仮りの宿りではあるがと思いながらも、楽しいものである。
身分のある人がゆったりと住んでいるところへは、照らし入る月光までが、いっそうおちついて見えるものである。現代的に華美ではないが、植込みの木々が古色を
帯びて、天然に
生い茂った庭の草も
趣をそえて縁側や
透垣(竹や木で作った隙間のある垣)の
配置もおもしろく、座敷の内のおき道具類も古風なところがあって親しみ多いが奥ゆかしく思われる。多くの
細工人がくふうを
凝らしてりっぱに仕上げた
唐土(中国)やわが国の珍奇なものを並べ立てておき、庭の植込みにまでも自然のままではなく人工的に作り上げたのは、見た目にも
窮屈に、苦痛を感じさせる。これほどにしたところで、どれほど長いあいだ住んでいられるというものだろうか。また、またたくひまに火になってしまわないともかぎらない。と一見してそんなことも考えさせられる。たいていのことは住居から
推して想像してみることもできる。
後徳大寺の大臣
実定卿(藤原実定・祖父の実能から徳大寺家と呼ばれる)が自邸の
正殿の屋根に
鳶を止まらせまいと
縄の張られているのを見た
西行が、
鳶が止まったってなんの悪いこともあるまいに、この
邸の
主の大臣が心というのはこれほどのものであったのか。と言って、その後はこの殿には
伺わなかったと聞きおよんでいるが、
綾小路の宮
(性恵法親王。亀山天皇の皇子)のお住まいしていらせられる
小坂殿(比叡山延暦寺別院の妙法院内の一院)の
棟に、あるとき縄の引かれていることがあったので、西行の話も思い出されたものであったが、実は
烏がたくさん来て、池の
蛙の
喰べられるのを宮様がかわいそうに
思召されたからであると人が話したので、これはまたけっこうなと感ぜられたことであった。徳大寺にも、なにか事情があったかもしれない。
十月のころ、
栗栖野(現在の京都市山科の一部)という所を過ぎてある山里へたずね入ったことがあったが、奥深い
苔の細道を踏みわけて行ってみると、心細い
有様に住んでいる小家があった。木の葉に埋もれた
筧(泉などから水を引く樋)の
滴ぐらいよりほかは訪れる人とてもなかろう。
閼伽棚(仏前に供える水の器を置く棚)に
菊紅葉などを折り散らしているのは、これでも住んでる人があるからであろう。こんなふうにしてでも生活できるものであると、感心していると、向こうの庭のほうに大きな
蜜柑の木の、枝もたわむばかりに実のなっているのがあって、それに厳重に
柵をめぐらしてあるのであった。すこし
興がさめて、こんな木がなければよかったのになあと思った。
同じ心を持った人としんみり話をして、おもしろいことや、世のなかの無常なことなどを
隔てなく語り
慰め合ってこそうれしいわけであるが、同じ心の人などがあるはずもないから、すこしも意見の相違がないように対話をしていたならば、ひとりでいるような退屈な心もちがあるであろう。
双方言いたいだけをなるほどと思って聞いてこそ、かいもあるものであるから、すこしばかりは違ったところのある人であってこそ、自分はそう思われないと反対をしたり、こういうわけだからこうだなどと述べ合ったりしたなら、退屈も
紛れそうに思うのに、事実としてはすこしく意見の相違した人とは、つまらぬ雑談でもしているあいだはともかく、本気に心の友としてみるとたいへん考え方がくい違っているところが出てくるのは、なさけないことである。
ひとり
灯下に書物をひろげて見も知らぬ時代の人を友とするのが、このうえもない楽しいことではある。書ならば
文選(昭明太子撰。周から梁時代の詩文をまとめたもの)などの心に訴えるところの多い巻々、
白氏文集(唐の詩人・白楽天の詩文集)、
老子の言説、
荘子の
南華真経(『荘子』のこと)だとか、わが国の学者たちの著書も、古い時代のものには心にふれることどもが多い。
和歌となると一だんと興味の深いものである、
下賤な
樵夫の仕事も、歌に
詠んでみると趣味があるし、恐ろしい
猪なども、
臥猪の
床などと言うと優美に感じられる。ちかごろの歌は気のきいたところがあると思われるのはあるが、古い時代の歌のように、なにとなく言外に、心に訴え心に
魅惑を感じさせるのはない。
貫之(紀貫之)が「糸による物ならなくに
(5)」と
詠んだ歌は、古今集の中でも
歌屑(つまらない歌)だとか言い伝えられているが、現代の人に詠める作風とは思えない。その時の歌には
風情も句法もこんな種類のものが多い。この歌に限って、こう
貶しめられているのも
合点がゆかぬ。源氏物語には「ものとはなしに
(6)」と書いてはいる。新古今では、「残る松さへ峰にさびしき
(7)」という歌をさして歌屑にしているのは、なるほどいくぶん雑なところがあるかもしれない。けれどもこの歌だって合評のときにはよろしいという評決があって、あとで
後鳥羽院からもわざわざ感心したとの
仰せがあったと
家長(源家長)の日記に書いてある。
歌の道だけは昔と変わってはいないなどというが、はたしてどうか。今も歌に詠み合っている同じ
詞なり、名勝地でも、古人の詠んだのは全然同じものではない。わかりやすく、すらすらと、姿も上品で、実感も多い。
梁塵秘抄(後白河上皇の撰になる歌謡集)の
謡い
物の歌詞は、また格別に実感に富んでいるように思う。昔の人は、出まかせのような言葉のはしまでもどうしてこうも、みなりっぱに聞こえるものであろうか。
どこにもせよ、しばらく旅行に出るということは目の
覚めるような心もちのするものである。その地方をあちらこちらと見物してまわり、
田舎臭いところ、山里などは、はなはだ珍しいことが多い。都の
留守宅へ
伝手を求めて手紙を送るにしても、あれとこれとをいい、ついでを心がけておけなどと言ってやるのも、楽しい。こんな場合などにあって何かとよく気のつくものである。手回りの品なども良い品はいっそう良く感ぜられ、働きのある人物はふだんよりはいっそう引き立って見える。寺や社などに知らぬ顔をしてお
籠りをしているなどもおもしろいものである。
神楽というものは活気もあり、趣味の多いものである。一般の音楽では、笛、ひちりき
(竹の笛の一種)が
好い。常に聞きたいと思うものは
琵琶と
和琴とである。
山寺に
引き
籠っていて仏に
仕えているのこそ、退屈もせず、心の
濁りも洗い清められる気のするものである。
人はわが身の節度をよく守って、
驕りを打ち払い、
財を持たず、世間に
執着しないのがりっぱである。昔から賢い人で富んでいたという例は、はなはだ少ない。
中国の
許由という人は身に着けたたくわえは何一つなく、水をさえ手で飲んでいたのを見たので、人が
瓢箪を与えたところ、あるとき木の枝にかけておいたのが風に吹かれて音を立てるので騒々しいと言って捨てた。ふたたび手で
掬い上げて水を飲んだ。どんなにか心の中がさっぱりしていたものであったろうか。また
孫晨という人は冬、
夜着がなくて
藁が一
束あったのを、夜になるとそのなかにもぐりこみ、朝になると丸めてしまっておいた。中国の人はこれをりっぱなことに思ったればこそ、書き記して後世に伝えたのであろう。こんな人があっても日本でなら話にも伝えられまい。
季節の移り変わりこそ、何かにつけて
興の深いものではある。
感情を動かすのは秋が第一であるとはだれしも言うけれども、それはそれでいいとして、もういっそう心に活気の出るものは、春の
景色でもあろう。鳥の声などは、とくに早く春の感情をあらわし、のどかな日ざしに、
垣根の草が
萌えはじめる時分から、いくぶんと春の
趣ふかく
霞も立ちなびいて、花もおいおいと目につきやすくなるころになるというのに、おりから西風がつづいて心おちつく
間もなく花は散ってしまう。青葉のころになるまでなにかにつけて心をなやますことが多い。花たちばなはいまさらでもなく知られているが、梅の
匂いにはひとしお過ぎ去ったことどもが思いかえされて恋しい思いがする。
山吹の
清楚なのや
藤の心細い
有様をしたのなど、すべて春には注意せずにいられないような事象が多い。
仏生会(釈迦の誕生日の行事。陰暦四月八日)のころ、
加茂(京都・賀茂神社のこと)のお祭のころ、若葉の
梢がすずしげに茂ってゆく時分こそ、人の世のあわれが身にしみて、人の恋しさも増すものであると
仰せられた方があったが、まったくそのとおりである。五月あやめの
節句のころ、田植の時節に
水鶏の戸をたたくように鳴くのも心細くないことがあろうか。六月になって、
賤しい小家に夕顔の白く見えて
蚊遣火のくすぶっているのも趣がある。六月の
大祓(六月と十二月に宮中や神社で行なわれる神事)もまたよい。
七夕を祭るのはにぎやかに優美である。おいおい
夜寒になってきて
雁が鳴き渡るころ、
萩の
下葉が赤味を
帯びる時分、
早稲田を
刈り
乾すなど、さまざまな興味は秋に限って多い。
野分(秋から冬の暴風)の朝というものが趣の多いものである。言いつづけてくると、すべて、源氏物語や枕草子などで
陳腐になってはいるけれど、同じことだから言い出さないという気にもならない。思うところは言ってしまわないと気もちが悪いから、筆にまかせた。つまらぬ遊びごとで
破き捨てるつもりのものだから、人が見るはずもあるまい。
さて冬枯れの景色というものは、秋にくらべてたいして劣るまいと思われる。
水際の草には
紅葉が散りとまって、
霜のまっ白においている朝、庭にひいた流れから煙のような気が立ちのぼっているのなどは、わけておもしろい。
年の暮れの押し迫って、だれも彼もみな忙しがっているころがまた、このうえなく人の心を引くものである。すさまじいものと決めてしまって見る人もない月が寒く澄みきっている二十日過ぎの空こそ、心細いものではある。おん
仏名会(十二月十九〜二十一日の宮中の仏事)だの
荷前の
使が立つなど、趣味深く尊いものである。こんなお儀式がいくつも、春を迎える忙しさのなかにかさねがさね取り行なわれる様子が、すばらしい。
追儺から
四方拝(それぞれ、十二月末日と元日の宮中の行事)につづいてゆくのがおもしろい。つごもりの夜はたいそう暗いのを、
松明などともして人の家をたずねて歩き回り、なんだか知らないがぎょうぎょうしくわめき立て、足も地につかぬかとばかり急ぐが、夜明け方になると、さすがに、物音がなくなって世間がひっそりする。一年の
名残りかと心ぼそくもある。死人の来る夜というので魂を祭る風習はこのごろでは都ではしなくなったのに、関東ではまだしていたのは、奥ゆかしかった。こんなふうに一夜が明けてゆく空の景色は昨日と変わっているところもないのに、なんだか新鮮に貴重な感じがする。
大路の有様は松飾りをして行き交う人もはなやかに飾り、うれしげに見えるのがまたおもしろい。
何某とやらいった
世捨人が、この世の足手まといも持たない自分にとっては、ただ空の見納めがこころ残りであると言ったのは、なるほどそう感じられたであろう。
すべてのことは、月を見るにつけて
慰められるものである。ある人が月ほどおもしろいものはあるまいと言ったところが、別の一人が
露こそ
風情が多いと抗議を出したのは愉快である。
折にかないさえすれば、なんだって
趣のないものはあるまい。
月花は無論のこと、風というものが、あれで人の心もちをひくものである。岩にくだけて清く流れる水のありさまこそ、季節にかかわらずよいものである。「
湘日夜東に流れ去る。
愁人のためにとどまることしばらくもせず」という詩
(唐の詩人・戴叔倫の作。
・湘はともに杭州の川)を見たことがあったが、なかなか心にひびいた。また
康(三国・魏の人で、竹林七賢の一人)も「
山沢にあそびて
魚鳥を見れば心
慰しむ」と言っている。人を遠ざかって水草の美しいあたりを
逍遥するほど、心の慰められるものはあるまい。
何事につけても、昔がとかく
慕わしい。現代ふうは、このうえなく下品になってしまったようだ。
指物師の作った
細工物類にしても、昔の様式が趣味深く思われる。手紙の文句なども昔の
反古がりっぱである。口でいうだけの言葉にしたところが、昔は「車もたげよ」「火かかげよ」と言ったものを、現代の人は「もてあげよ」「かきあげよ」などと言う。
主殿寮(宮中の役所の一つ)の「
人数立て」と言うべきを、「たちあかししろくせよ」
(松明を明るくせよ)と言い、
最勝講(五月に宮中で行なわれる仏事)の
御聴聞所(前記の仏事の際、天皇が高僧の講義を聞かれる御座所)は「
御講の
盧」というべきを「
講盧」などと言っている。心外なことであると、さる老人が申された。
衰えた末の世ではあるが、それでも雲の上の
神々しい御様子は世俗を離れて尊貴を感じるのである。
露台(宮中にある板張りの一角)、
朝餉(清涼殿内の一間で、天皇が略式の食事をとる所)、
何殿、
何門などはりっぱにも聞こえるであろう。
下々にもある
小蔀、
小板敷、
高遣戸(それぞれ、清涼殿の窓、板敷き、戸)などでさえ高雅に思われるではないか。
「
陣に
夜のもうけせよ
(9)」というのは、どっしりしている。
夜御殿をば「かいともし、とうよ
(10)」などというのもまた、ありがたい。
上卿(儀式の首座)の陣で事務を
執っておられる様は申すにおよばぬこと、下役の者どもが、得意ぶった様子で事務に熟達しているのも興味がある。すこぶる寒いころの徹夜にあちらこちらで居眠りをしている者を見かけるのがおかしい。「
内侍所(神鏡を奉ずる温明殿のことで、内侍司という女官がつとめる)の
御鈴の音
(彼女らが天皇の参拝のときにふる)はめでたく優雅なものです」などと、徳大寺殿の
基実太政大臣
(藤原公孝)が申しておられる。
斎宮(天皇即位の際、伊勢神宮に奉仕する内親王・皇女)が
野宮におらせられるおん
有様(11)こそ、しごく優美に
興趣のあるものに感ぜられるではないか。経、仏などは
忌んで、「
染め
紙」「
中子」などと言うのもおもしろい。元来が、神社というものはなんとなく取り得のある奥ゆかしいものだ。年を
経た森の
景色が超世間だのに、
玉垣(神社の垣根)をめぐり渡して
榊に
木綿(コウゾの皮の繊維で作った布で、幣帛として榊にかけて献ずる)をかけてあるところなど堂々たらぬはずはない。わけてもすぐれているのは伊勢、
加茂、
春日、平野、
住吉、
三輪(伊勢神宮、京都・賀茂神社、奈良・春日神社、京都・平野神社、大阪・住吉神社、奈良・大神神社)、
貴船、吉田、
大原野、松の尾、梅の宮
(以上は京都の神社)である。
飛鳥川(奈良県明日香村あたりを流れる)の
淵瀬のように、変わりやすいのが無常のこの世のならいであるから、時移り、事は過ぎて、歓楽や
哀傷の
往来して、
華麗であった場所も住む人のない野原となり、変わらぬ家があれば、住む人のほうで変わってしまった。たとい昔ながらに咲き誇るとも
桃李(モモとスモモ)は物言わぬものであるから、だれを相手に昔語りをしようか。まして見も知らぬ遠い昔の高貴な人々の
趾にいたっては、実にはかない。
たとえば
藤原道長の
京極殿や
法成寺(道長の邸宅と、その東、鴨川近くに建立した寺)などを見ると、昔の
志だけは残って時勢が一変しているのに注意を促されて、胸の迫る思いがある。
御堂殿(道長のこと)が善美をつくして造営せられて、
荘園を多く寄付され、自分の一族を皇室の
藩屏(垣根、転じて天子の守護)、国家の
柱石として、後世まで変わるまいと信じておられたその当時には、どんな時勢になってこんなふうに荒廃するものと思ってみられようはずもない。
大門、
金堂などは近いころまではまだあったが、
正和(一三一二―一七)のころに
南門は焼けた。金堂はその後、横倒れになってしまったままで、それをもう建て直そうとする
企てすらない。
無量寿院(阿弥陀堂)ばかりがその形見となって残っている。一丈六尺
(約五メートル弱。一般に化身仏の高さをいう)の仏体が九つ、権威を見せて並んでおられる。
行成大納言が名筆の
額や、
兼行の筆の扉
(藤原行成、源兼行ともに能筆として名高い)が鮮明に見えているのは興趣が多い。
法華堂もまだ残っているであろう。それとてもいつまで残っていようか。これほどの
残骸さえとどめていない場所は、自然、
礎の石だけが残るということにもなるが、由来を判然と知る人もなかろう。それゆえ何かにつけて見ることもできないのちの世のことまで思慮を
尽くしておくというのも、たのみにはならない。
風に吹かれるまでもなく変わりうつろうのが人の心であるから、
親睦した当時を思い出してみると身に
沁みて聞いた一言一句も忘れもせぬのに、自分の生活にかかわりもない人のようになってしまう恋の一般性を考えると、死別にもまさる悲しみである。それゆえ、白い糸が染められるのを見て悲しみ、道の
小路が分かれるのを
嘆く人もあったのではあろう。
堀川院百首
(堀河天皇の下で、十六人の廷臣が百首ずつ計千六百の歌を詠んだもの)の歌の中にある――
昔見し妹がかきねは荒れにけり
つばなまじりの菫のみして(13)
哀れを誘う
風情は、実感から出たものであったろう。
御譲位の御儀式がすんで、三種の
神器を新帝にお渡しあそばされるときは、ひどく心細く感ぜられるものである。
花園上皇が
高御座(天皇の位のこと)をお
譲りあそばされたつぎの春、お
詠みあそばされたとやらうけたまわる――
殿守のとものみやつこよそにして
掃わぬ庭に花ぞ散りしく(14)
新帝の
御代の務めの忙しいのにかまけて、上皇の御所には参る者もないというのはまことに
寂しいことではある。こういう場合に人の心の真実は現われもしよう。
諒闇(天皇が父母の喪に服すこと)の年ほど悲しいことはない。
倚盧の御所
(諒闇の初めに籠るところ)の
有様にしたところが、
板敷を下げて
葦で編んだ
御簾をかけ、布の
帽額(御簾の上に引く幕状のもの)は
粗野に、お道具類も粗略になり、百官の
装束や、
太刀、
平緒(太刀の飾りひも)までが平素と異なっているのは、ただごとではない思いをさせる。
静かに思うと、何かにつけて過去のことどもばかり恋しくなってきてしかたがない。人の寝静まってのち、
夜長の退屈しのぎにごたごたした道具など片づけ、死後には残しておきたくないような
古反古などを破り捨てているうちに、
亡くなった人の手習いや絵など
慰みにかき散らしたものを見つけ出すと、ただもうその当時の心もちになってしまう。いま現に生きている人のものだって、いつどんな折のものであったろうかと考えてみるのは、身にしみる味である。使い古した道具なども、気にもとめず久しいあいだ用いなれているのは、感に
堪えぬものである。
人の
亡くなったあとほど悲しいものはない。
中陰(死後の四十九日間)のあいだ山里などに引っ越していて狭い不便な所へ多人数が寄り集まり、のちの法事などを営んでいるのは気ぜわしい。日数の
経つことの早さはくらべものもない。最後の日にはたいへん情けないふうになっておたがいに口をきくこともなく
各々われがちに
荷纏めして、ちりぢりに別れていってしまう。もとの
住居へ帰って来てからがまた一段と悲しいことが多いのである。しかじかのことは、
慎しむべし、あとに生き残っている人のために
忌むべき事柄であるなどと言うが、この悲しみの最中にそんなことぐらいでもよさそうなものを、人間の心というものはやはりいやなものであると感じさせられる。年月が経ってもすこしも忘れられぬということではないが、去る者は日々に
疎しというとおり、忘れられないといううちにも、その当時とは違ってくるものか、雑談に笑い
興じたりする。
遺骸は人里遠い山の中へ葬って、
忌日などにだけ
参詣してみると、ほどなく
卒都婆に
苔が生えて、木の葉に埋められ、夕方に吹く風や
夜半の月などばかりがわずかに
慰めてくれるのである。それも思い出してたずねて来る人が生きているうちはまだしもいいが、それらも早晩はみな亡くなってしまって、話に聞き伝えるだけにすぎぬ人などは、なんで悲しいなど思おうや。かくてあとを
弔うことも打ち絶えてしまうと、どこの人であったやら名さえ知れなくなり
(15)、年々の春の草ばかりは、心ある人に感動を与えもしよう。
ついには、
嵐に
咽んでいた松も千年とは経たぬうちに
薪に
摧かれ
(16)、
古墳は
犁かれて田となる。そのあとかたさえなくなるのが悲しい。
雪のおもしろく降った朝、ある人のところへ用があって手紙をやるに、雪のことには一言もふれなかったところが、その返事に、「この雪をなんと見るかと一筆申されぬほどのひねくれた
野暮な人のいうことなんか聞いてあげられましょうか、どこまでもなさけないお心ですね」とあったのは、
興があった。今はもう
亡き人のことだから、こればかりのことも忘れがたい。
九月二十日時分のこと、ある方のお誘いのお供をして、夜の明けるまで、月を見歩いたことがあったが、お思い出しになった家があるというので、案内を受けておはいりになられた。庭の荒れている
露の多いところに、とくにというのではなくふだんから
焚いているらしい
薫香(いくつかの香を練り合わせた練香)がしっとりと
匂うている。世を忍んでただならぬ方の住んでいるらしい様子が、まことに風雅である。自分のいっしょに行った方はいいかげんおられて出てこられたが、自分はことの優美に感心して、ものかげからしばらく見ていたら、家のなかの人は
妻戸(両開きの板戸)をすこしおしあけて月を見る様子であった。客を送り出してすぐ奥に引っこんでしまったとしたら、うちこわしであったろう。まだ見ている人がいようなどとは知るはずがあるものではない。これらのことはただ日常の心がけによってなされたものであろう。彼女はその後まもなく死んだと聞いた。
今の
内裏が落成して、
有職の人々
(朝廷の儀式・作法などにくわしい人たち)に見せられたところが、どこにも欠点がないというので、もうお引き移りの日も迫っていたのに、
玄輝門院(後深草天皇の妃)がご覧あそばされて、
閑院殿(平安京内に臨時に設けられた里内裏と呼ばれた皇居のこと)の
櫛形の窓は、
円っこく
縁もありはしなかったと
仰せられた。まことにえらいものであった。これは壁にきざみを入れて木で
縁をしていたもので、違っていたから改められた。
甲香は、
螺のようなものが、形が小さく、口のところが細長く出ている貝の
蓋である。
武蔵の金沢
(現在の横浜市金沢)という浦で取れたのを、土地の人は「へなだり」と呼んでいるということであった。
字のへたな人が、平気で手紙を書き散らすのは
好い。見苦しいからと代筆をさせているのはいやみなものである。
長いあいだ訪れもせぬが
恨んでいるであろう。自分のぶしょうのせいと申しわけもない気もちがしていると、女のほうから「手のすいた召使いをひとりよこしてください」などと言ってくるのは、ありがたくうれしい。「そんな気風のがいい」とある人が語った。同感のことである。
いつもわけ
隔てなく慣れ親しんでいる人が、何かの
拍子に、わけ
隔てがましく様子ぶっている
有様をしているのは、いまさらそんなことをするでもあるまいという人もあるかもしれないが、やはりきちんとした
好い人だなあと感じられるものである。平素あまり親密でもない人が打ち解けたことを話し出したりするのも、それから好きになったりするものである。
名聞利益のために心を支配されて、おちついた時もなく一生を苦しみ通すのはばかげたことである。財産が多くなると一身の
護りのためには不充分なものである。危害を求め、
煩悶を招く
媒になる。
白氏文集にあるように、
黄金を積み上げて
北斗(北斗星)を支えるほどの身分になってみても、他人に迷惑をかけるだけのことである。俗人の目を喜ばせる
慰しみというのもつまらぬ。大きな車や、
肥えた馬、黄金や
珠玉も、心ある人にはいやなばかげたものと思われるであろう。金は山に捨て、玉は
淵へ投げるがいい。古人が言うように利欲に
惑うのは最も愚かな人である。
不朽の名を世に残すことは望ましい。位が高く身分が尊いからといって、必ずしもすぐれた人とは言えまい。
愚者迂人(おろかでにぶい人)でも貴い家に生まれ、時にあえば、高い位にも上り
驕奢(ぜいたく)をきわめるものである。りっぱな聖人であった人でも、自分から辞退して低い位にいたり時代にあわないでしまった人も多かった。いちずに高位高官を希望するものも利欲に
惑うにつづいて第二のばかである。知恵と精神とにおいてこそ世に
勝れた名誉をも残したいものであるが、熟考してみると名誉を愛するというのはつまりは人の評判を喜ぶわけである。
褒める人も、
毀る人も、いつまでもこの世にとどまっているわけではない。伝え聞く人々だとて、またさっさとこの世を去ってしまう。だれに対して恥じ、だれに知られようと願おうか。
誉れは同時に
毀りの根本である。死後の名が伝わったとていっこう無益ではないか。これを願うのも第三の愚かである。
しかし、しいて知恵を求め、賢くなりたいと思う人のために言ってみるとすれば、なまなかの知恵が出るので
虚偽が生じた。才能というのも
煩悩の増長したものである。聞き伝えたり、習って覚え知ったのは、ほんとうの知恵ではない。どんなのを知恵といったものだろうか。可も不可も一本のものである。どんなものを善といったものだろうか。
真人(まことの道を知り、完全な道徳を身につけた人)は知もなく、徳もなく、
功名もなく、名誉もない。だれがこれを理解し、これを世に伝えようや。べつに徳を隠し、愚を守るというわけでもない。本来が
賢愚得失の境地には住んでいないのだからである。迷いの心をいだいて名聞利得を求めるのはこのとおりである。すべてみな、まちがいである。言うに足らず。願うにも足りない。
ある人が、
法然上人に、「念仏の時に眠くなってしまって
行ができませんが、どうしてこの障害を防いだらよろしゅうございましょうか」と言うと、「目が
覚めたら念仏をなさい」と答えられた。じつに尊かった。
また、
往生は確実なものと思えば確実、不確かと思えば不確かであるとも
仰せられた。これも尊い。また疑いながらでも、念仏をすれば
往生するとも仰せられた。これもまた尊い。
因幡の国
(現在の鳥取県)に何の
入道とかいう者の娘が
美貌だというので、多くの人が結婚を申しこんだが、この娘はただ
栗ばかり食べて、米の
類はいっこう食べなかったので、こんな変人は人の嫁にはやれないといって、親が許可しなかった。
五月五日、
加茂の
競馬(上賀茂神社で催される)を見物に行ったが、車の前に、
雑人(身分の低い者)どもが多数立ちはだかって見えなかったから、
一行はそれぞれ車を
下りて
埒(馬場の垣)のそばへすり寄ったけれど、特別に人が混雑していて割りこまれそうにもなかった。
こんなおりから
樗の木に
坊主が登って、木の
股のところで見物していた。木に取っつかまっていて、よく眠っていて落ちそうになると目をさますことがたびたびであった。これを見ている人が
嘲笑して「実にばかな
奴だなあ、あんな危ない枝の上で、平気で居眠りしているのだから」と言っていたので、その時心に思いついたままを「われらが死の到来が今の今であるかもしれない。それを忘れて、物を見て暮らしている。このばかさかげんは、あの坊主以上でしょうに」と言ったので、前にいた人々も「ほんとうに、そうですね、最もばかでしたね」と言って、みな後をふり返って見て「こちらへおはいりなさい」と場所を立ち
退いて呼び入れた。
このくらいの道理を、だれだって気がつかないはずはなかろうに、こういう場合、思いがけない気がして思い当たったのでもあろうか、人は
木石ではないから時と場合によっては、ものに感ずることもあるのだ。
唐橋中将(源雅清)という人の子息に、
行雅僧都といって密教の教理の先生をしている僧があった。のぼせる病気があって年とってくるにしたがって、鼻がつまり、息もしにくくなったのでいろいろ治療もしたけれど、重態になって、目や
眉や
額など
腫れぼったく
覆いかぶさってきたので、物も見えず、二の舞の
面のように色赤く、恐ろしげな面相に似て、ただ恐ろしげな、鬼の顔になり、目はいただきにつき、額のあたりが鼻になったりしたので、のちには同じ寺中の人にも会わず、引き
籠り、長いあいだ病んだあげく、死んだ。妙な病気もあったものである。
晩春のころ、のどかに美しい空に品位のある住宅の奥深く、植込みの木々も年を
経た庭に散り
萎れている花の素通りしてしまうのが惜しいようなのを、はいって行ってのぞいて見ると、南向きのほうの
格子はみな閉めきってさびしそうであるが、東のほうに向かっては
妻戸をいいかげんにあけているのを、
御簾の破れ目から見ると、
風采のさっぱりした男が、年のころ二十ばかりで、改まったではないが、奥ゆかしく、のんびりした様子で机の上に本をひろげて見ているのであった。いったいどんな
素姓の人やら知りたいような気がした。
そまつな竹の
編戸の中から、ごく若い男が、月光のなかでは色合いははっきりしないが、
光沢のある
狩衣(貴族の日常着)に、濃い
紫色の
指貫(はかまの一種)を着け、
由緒ありげな様子をしているが、ちいさな童子をひとり
供に連れて遠い田の中の細い道を稲葉の露に
濡れながら歩いていくとき、笛をなんともいえぬ音に吹きなぐさんでいた。聞いておもしろいと感ずるほどの人もあるまいにと思われる場所柄だから、笛の主のゆくえが知りたくて見送りながら行くと、笛は吹きやめて山の
麓に表門のある中にはいった。
榻に
轅(牛をつなぐ牛車の棒。とめておくときにそれを置く台が榻)をもたせかけた車の見えるのも市中よりは目につくような気がしたので、
下部の男に聞いてみると「これこれの宮様がおいでになっていられるので、御法事でもあそばすのでしょうか」と言う。
御堂のほうには
法師たちが来ていた。
夜寒の風に誘われてくる
空薫(それとわからないように香をたきくゆらすこと)の
匂いも身にしみるようである。正殿から御堂への
廊をかよう女房の追い風の用意なども、人目のない山里とも思われず行きとどいていた。
思う存分に茂った秋の野は、置きどころのないほどしとどな露に埋まって虫の音がものを訴えるように、庭前の流水の音が静かである。市中の空よりも、雲の往来も速いように感ぜられ、月の晴れたり曇ったりするのも
頻繁であった。
従二位
藤原公世の兄の、
良覚僧正と申された方は、とても怒りっぽい人であった。寺のそばに大きな
榎の木があったので、人々が榎の僧正と呼んだ。こんな名は
怪しからぬというので、その木は
伐ってしまった。その根があったので
切杭の僧正と呼んだ。僧正はますます立腹して切杭を掘りかえして捨てたので、その跡が大きな堀になってあったから、
堀池の僧正とつけた。
柳原(京都市上京区柳原町のあたり)の付近に、
強盗法印と名づけられた僧があった。たびたび強盗にあったものだから、こんな名をつけたのだという。
ある人が
清水へお
詣りをしたとき、年寄りの
尼に道連れになったことがあったが、尼は途中「くさめ、くさめ」と言いながら歩くので、「尼さん何をそんなに言っていらっしゃるのですか」と問うたけれど返事もせずに、やはり言いつづけていたのを、たびたび問われて腹を立てて、「え、鼻のつまったときに、このおまじないをしないと死ぬと言いますから、乳をお飲ませ申した
方が
比叡山に
児になっておいであそばすのが、今日でもお鼻をつまらせてはおいでにならぬかと思ってこういうのですよ」と言った。珍しく殊勝な
志ではないか。
葉室中納言光親卿(藤原光親)が、
後鳥羽院の
最勝会の講式の
奉行(公事を執行すること)で
伺候して邸前へお召しがあって、お
膳部を出して
御馳走をたまわった。食い散らしたお
重をそばの
御簾の中へ押し入れて御前を退出した。女房たちは「まあ、きたならしい、だれに残しておいてくれようとでもいうのかしら」と言い合ったので、院は「古式に
故実(昔の儀式や作法などの規定)の
心得のあるやり方のりっぱなものである」と繰りかえし繰りかえし御感心なすったということであった。
老年になったら仏道を心がけようと待っていてはならない。古い
墳の多くは少年の人のものである。思いがけない病を得て、ふいにこの世を去ろうとするときになって、やっと過ぎてきた生涯の誤っていたことに気づくであろう。誤りというのは
他事ではない。急を要することをあとまわしにし、あとまわしでよいことをいそいで、過ぎてきたことがくやしいのである。そのときに後悔したって間に合うものでもあるまい。
人間はただ無常が身に切迫していることを心にはっきりと認識して、瞬間も忘れずにいなければなるまい。そうしたならば、この世の
濁りに染まることも薄く、仏の道をつとめる心もしんけんにならずにはいまい。昔の高僧は、人が来てさまざまの用談をしかけたとき、「ただ今
火急の要事があって、もう今日明日に迫っている」と言って、相手の話には耳も貸さないで念仏して、ついに
往生をとげたと、
永観律師の往生
十因という書物にある。
心戒といった聖僧は、この世がほんの仮りの宿のようであると痛感して、静かに尻をおろして休むこともなく、
平生ちょっと腰を曲げてかがんでばかりいたそうである。
応長(一三一一―一二)のころ、伊勢の国から女が鬼になったのを引き連れて都へ来たということがあって、当時二十日ばかりというものは毎日、
京白川あたりの人が、
鬼見物だというのであちらこちらとあてもなく出歩いていた。
昨日は
西園寺に参ったそうであるし、今日は院
(上皇の御所)の御門へ参るであろう。今しがたはどこそこにいたなどと話し合っていた。確実に見たという人もいなかったが、根も葉もない
嘘だという人もない。
貴賤みな鬼のことばかり
噂して暮らした。その時分、自分が
東山から
安居院(比叡山東塔竹林院の僧が京で寄宿する別院)のほうへ行ったところ、
四条から
上のほうの人はみな北をさして走って行く。一条
室町に鬼がいると騒ぎ立てていた。
今出川付近から見渡すと、院のおん
桟敷の付近はとうてい通れそうもない群集であった。まったく根拠のないことでもないようだと思って、人を見させにやったが、だれも会ってきたという者もない様子であった。夜になるまで、こんなふうに騒ぎ、果ては
喧嘩がおっぱじまって、
怪我人などいやなことが起こったものであった。そのころ一帯に、二、三日ずつ人の病気することがあったのを、鬼の取りざたは、この
疫病の流行の前兆であったのだと言う人もあった。
亀山上皇の
離宮のお池に、
大井川の水をお引きあそばそうというので、大井の村の者に命じて水車をお作らせあそばされた。多くの金銀をたまわって、数日で仕上げて流れにかけて見たけれど、ほとんど回らなかったので、さまざまに直してみたけれど、ついに
巡らずにただ立っているだけであった。そこで宇治の
里人を召して作らせられたところが、わけもなく組み立てたが、思うように巡って水を
汲み入れることに効果があがった。何かにつけてその道の心得のある者は尊重すべきである。
仁和寺のある坊さんが、年寄りになるまで
男山八幡宮(京都・八幡市の石清水八幡宮)へまだ
参詣したことがなかったのでもの足らぬことに思って、ある時、思い立ってただひとり歩いて御参詣した。
山麓にある
極楽寺、
高良などの末社を
拝んで、これだけのものかと早合点をして帰ってしまった。そうしてかたわらの人に向かって「年ごろ、気にかかっていたことをし終わせました。聞きしにまさる尊いものでございました。それにしてもお参りする人ごとに、みな山へ登ったのはどういうわけであろうか。自分も行ってみたくはあったけれど、お参りが目的で山の見物に来たのではないと思ったから、山までは行かなかった」本堂の山上にあるは気づかないで、こう言っていた。
なんでもないことでも案内者はあってほしいものである。
もう一つ、
仁和寺の法師の話。寺にいた
童子が、法師になる記念にと、知人が集まって
酒盛を
催したことがあった。酔っぱらって
興に乗じてそばの
鼎(物を煮たり酒を暖めたりするための、足つきの鍋)を取って頭にかぶり、つっかかって、うまくはいらないのを、むりやりに、鼻をおしつぶして、とうとう顔をさし入れて舞ったので、一座の人々が非常におもしろがった。しばらく舞ってから、
鼎を抜こうとしたが、どうも抜けない。酒宴の興もさめて、どうしたものかと当惑していた。そのうちに
頸のあたりに傷ができて血が流れ出し、だんだん
腫れ上がってしまって、息も
詰まってきたから、割ってしまおうとしたけれど容易には破れない。響いて
我慢ができない。手に
負えずしかたがなかったので、三つ足の上へ
帷子(裏地をつけない服)をかぶせて手を引き、
杖をつかせて京の医者のところへ連れて行ったが、途中ではふしぎがって人だかりがする。医者のところへ行って対座したときの様子は定めし異様なものであったろう。物を言ってもこもり声になっていっこう聞こえないし、こんなことは書物にも見当たらず師の教えにもなかったから、治療ができないと言われて、また仁和寺へ帰って親友や老母などが、枕もとにより集まって泣き悲しんだが、聞こえているかどうかもわからない。こうしているあいだに一人が言うには、たとい耳や鼻が切れてしまおうとも命だけは別条ありますまい。力のかぎり引っぱってみようと、
藁の
心を鼎の周囲にさしこんで
金の
縁とのあいだをへだてておいて、首もちぎれるほど引っぱったので、耳や鼻は欠けてとんだが鼎は抜けた。
危い命をやっと助かったが、長いあいだ病気をしていたものであった。
御室(仁和寺)に非常に美しい
児があったのを、どうかしておびき出して遊ぼうとたくらんだ法師どもがいて、芸のある遊び好きの法師どもと相談して、気のきいた弁当のようなものを、念入りに用意して箱のようなものに入れておいて
双岡のぐあいのよさそうなところへ埋め、その上に
紅葉を散らしかけたり、思いがけないようにしておいて、仁和寺の御所へ行ってその児を誘い出してきた。うれしがってあちらこちらを遊び回ってきたあげく、そこらの
苔の
筵に並んで「ひどくくたびれた。だれか紅葉を焼いて一杯あたためないか。
効験のある僧たち、一つ祈ってみてはどうだ」などと言い合って、埋めてある木の根もとに向かって
数珠をおし
揉んで、もったいらしく
印を結んだりして、
気取られないようにふるまいながら、木の葉を
掻きのけて見たがいっこう何も見えない。場所をまちがえたろうかと、掘らぬ場所などないほど山中をあさったが、なかった。埋めているのを人が見ていて、御所
(寺)のほうへ行っているひまに盗んだのであった。法師たちは口をあんぐりと、聞き苦しい口争いなどをはじめ、腹を立てて帰ってしまった。しいて
興を求めようとすると、きっとあっけないものになる。
家の造り方は、夏を
専一にするのがよい。冬はどんな所にも住まれる。暑いころの悪い住宅ときては
我慢のならないものである。深い水は涼しげでない。浅くて流れているのがずっと涼しい。微細なものを見るには、
遣戸(引きちがいの戸、またその戸のついた部屋)のなかのほうが
蔀(格子に板を張った横戸。吊り上げて開く)の部屋よりも明るい。
天井の高いのは、冬寒く灯火も暗い。
造作は無用のところを作っておくのが見てもおもしろく万事に都合がいいと、人々が
評定し合ったことであった。
久しぶりで会った人が、自分のほうにあったことを片っ端から残らず話しつづけるのは
曲(おもしろみ)のないものである。
隔てなく親しんでいる人だってしばらく会わずにいたのなら、遠慮ぐらいは出てよさそうなものではないか。
柄の悪い人は、ちょっと外出してきても、おもしろいことがあると息もつかず話し
興ずるものである。上品な人が話をするのは、おおぜいがいても一人を相手に言うが、自然と、他の人も耳を傾けるようになる。
下賤の人はだれに向かってということもなく多人数のなかへ押し出して、目の前に見えるように話すので、みないちじに笑い騒ぐので、非常に騒々しくなる。
おかしいことを言っても、たいしておかしがらないのと、なんでもないことによく笑うのに、人柄の程度も推察できるものである。人の
行状の
善し
悪しを見るにも、才知のある人がそれを品評するのに、自分の身を引き合いに出すのははなはだ聞き苦しい。
人が話し出した歌物語
(和歌にまつわる話)のよくないのは困ったものである。多少その方面の心得のある人ならば、おもしろがって話さないはずであろうに。いったいに
半可通のする話というものは、そばで聞いていても笑止千万で聞き苦しいものである。
「
道心さえあるなら、住所などどうでもよかろう。家庭に住んで社会にまじっていても、
後世(死後の世界。来世)を願うに困難なことはあるまい」というのは、いっこうに後世を理解しない人である。ほんとうに
現世をつまらぬと感じ、ぜひとも
生死を
解脱しようと思っているなら、なんのかいがあって毎日
君に
仕えたり、家庭を
顧慮したりする
業にはげみが出ようか。人の心は外界の事情に影響されるものであるから、静かな境地でなければ道の修行はできまい。
器量は古人におよばず、たとい山林にはいってみても
餓を救い暴風雨を防ぐ方便がなくては生きていられないものであるから、自然と社会的の欲望を
貪るに似たようなことも、時によってはないとも言えまい。それだからといって「そんなことでは世を捨てたかいはない。出家の生活をしながら利欲の念に動かされるほどなら、なぜ世を捨てたか」などというのは、むちゃなことである。ひとたび仏道にはいって世をいとうたほどの人であってみれば、たとい多少の利欲の念があっても権勢を追う人の
旺盛な
貪欲にくらべものにはなるまい。紙の夜具、
麻の
衣、
一鉢(鉢一杯の食べ物)の用意、
藜の
吸物などの望みが、人にどれほどの
費をかけようや。要求は簡単で、欲望も容易に満足するであろう。
それにわが身の入道の姿の手前もあるから、人並みの欲があったにしても、悪には遠ざかり、善に近づくことが多い。人間と生まれた以上はなんとかして
遁世する
(世を捨てる、また出家すること)ようにしたいものである。いっこうに貪欲を事として、真理の知恵に従わなくては、一般の動物となんの選ぶところもないではないか。
真理探究の大事の
志を
発起した人は、捨て去りがたい気がかりのことも
成就しないで、そのままに捨ててしまうべきである。「ちょっとこのことをすませておいて、ついでにあのことも片をつけて、あのほうのことも人に笑われないように、将来の非難が起こらぬように準備しておこう、今までだってこうしていたのだから、いまさらこれくらいのことを待つのは、今すぐである。あまり人困らせをしないように」などと思っていたのでは、よんどころないことがあとからあとから出てきて、そんなことが
尽きてしまう日もなく、思いきって実行する日があるものではない。おおかたの人を見ると、相当な分別のある人なら、みんなこういう予定だけはして一生を通してしまうものなのである。
近火などで逃げる人は「もうちょっと」などと言っているものであろうか。一命を助けたいと思えば、恥もなく財産も捨てて逃げ出すのである。寿命が人を待っていてくれようか。無常がくるのは水火が攻めるよりもすみやかにのがれる方法とてもないのに、その時になって、老親幼児、主君の義、愛人の情などがふり捨てがたいからとて、捨てないですませられることだろうか。
真乗院(仁和寺に属する院の一つ)に
盛親僧都という
尊貴な知者があった。
里芋というものが好物で、たくさん食べた。談義の席上でも、大きな
鉢へ高く盛り上げたのを
膝もとへ置いて食べながら書物を講義した。病気になると一週間も二週間も
養生だと引き
籠っていて、思う存分に、上等の里芋を特別にたくさん食べて何病でも
癒してしまった。人に食べさせることはない、ただ自分ひとりだけが食べたものである。非常に貧乏していたのに、師匠が死ぬときに、
銭を二百
貫と
僧房一
棟とをこの僧都に譲った。
僧都はこの
房を百貫に売り払って、合計三万
疋の銭を里芋の代と決めて京都の人に預けておいて、銭十貫ずつをとりよせて里芋を存分に食べていたものだから、べつの用途に当てるまでもなく、その銭は使い果たしてしまった。三百貫の銭を貧乏な身分で手に入れながら、こんなふうに銭を処置したのは、まことに珍しい道心の人であると人が評していた。
この僧都がある法師を見て「しろうるり」という名をつけた。「しろうるりとは何か」と人が問うたところが、そんなものは
吾輩も知らない。もしあったら、「あの坊主の顔みたいなものでしょうよ」と言った。
この僧都は
容貌がりっぱ、力強く、大食で、筆跡も学力も弁論も人にすぐれて一宗の権威であったから寺中でも尊重されていたが、世俗を軽視した男で万事わがまま勝手で、たいていのことは人に見習うということもしなかった。出張して
御馳走になるときなども、みなの前へお
膳の並びそろうのも待たずに、自分の前に置かれるとすぐにひとりで食べてしまって、帰りたくなるとひとり突っ立って出て行ってしまう。昼食も夕飯も人並みに決めて食べることはしないで、自分の食べたいときに、夜中でも
暁方でも食べ、眠ければ昼間でも部屋へ
駆け込んで
籠り、どんな
大事があっても人の言葉を受けつけない。目が
覚めるとなると幾晩も寝につかないで、心を澄ませて
興に乗じて歩くなど、世間に並みはずれた状態であったが、人にもきらわれないで、何をしても人々が大目に見ていた。これは、徳が最高の境地へ達していたためでもあったかしら。
后などがお産のときに、
甑を落とすのは、必ずしなければならないことではない。お
胞衣(胎児を包んでいる膜や胎盤)が早くおりないときの
咒である。早くおりさえすれば甑落としはしない。本来
下賤の社会からはじまったので、べつだんに根拠のある説もない。〔后などは〕
大原の里
(現在の京都市左京区大原)の甑をとくにお求めになる。古い
宝物蔵の絵に、下賤の者が子を
産んだ所で、甑を落としているのを描いていた。
延政門院様
(後嵯峨天皇の皇女)幼少のおん時、父君がおいでの院へ参る人に、
言伝であると申し上げさせられたお歌は、「ふたつ
文字牛の
角文字
直ぐな文字
曲み文字とぞ君は覚ゆる」。恋しく思い参らせ
給うというのである。
宮中で正月に行なわれる
後七日の
御修法(正月八日から七日間行なわれる宮中の仏事)に、
阿闍梨(導師。ここでは御修法を勤める)が武者を集めることは、いつぞや
盗人に襲われたことがあったので、
宿直人(警護役)という名義でこのように物々しく警固させることになったものである。一年じゅう吉凶はこの御修法中の
有様に現われるものなのに、武人など用いるのは不穏当なことである。
車の
簾につける
五緒の
飾は、けっして人によってつけるものではなく、
何人でもその
分際として最高の官位に到達したら、それをつけて乗るものであると、ある人の話であった。
このごろの
冠は昔のよりずっと高くなっていると、ある人の話であった。昔の
冠桶(冠をおさめる容器)を持っている人は、現在では
端をつぎ足して使っているのである。
岡本の
関白家平公
(近衛家平)が、満開の
紅梅の枝に鳥を
一番添えて、この枝につけてこいと
鷹飼の
下毛野武勝に申しつけられたが、「花に鳥をつける方法はぞんじません。一枝に
一番つけることもぞんじません」と言ったので、料理方にもお尋ねがあって人々に問うてから、ふたたび武勝に「それでは
其の
方の思うとおりにつけて差し出せ」と
仰せられたので、花のない梅の枝に、鳥は一つだけつけて差し上げた。武勝が申しますには、「
柴の枝の、梅の枝の、
蕾のあるのと散ったのとには、つけます。
五葉の松などにもつけます。枝の長さは七尺か六尺、そぎ取ったのをかえし刀で五
分に切ります。枝の中ほどに鳥をつけ、つける枝、踏ませる枝があります。つづら
藤の割らないままので、二カ所結びつけます。藤のさきは
火打羽(翼の下脇にある火打ちの羽)の長さにくらべて切り、それを牛の
角のように曲げておきます。初雪の朝、枝を肩にかけて、中門から様子を整えて参り、軒下の石を伝い、雪には足跡をつけないで、尾のつけ根にある毛をすこし抜き散らして、
二棟の
御所の
欄干に寄せかけておきます。
下されものがあったら、肩にかけて礼をして退出いたします。初雪と申しても、
沓の鼻のかくれないほどの雪なら参りませぬ。尾のつけ根の毛を抜き散らすのは、
鷹は腰を襲うものだから鷹の
獲ったもののようにするためでしょう」と申した。
花に鳥をつけないというのは、どういう理由であるやら、九月のころに梅の造り枝に
雉をつけて「君がためにと折る花は、時しもわかぬ」と言ったことが伊勢物語に見えている。造り花には鳥をつけても差しつかえないものなのであろうか。
賀茂の
岩本、
橋本(京都・賀茂別雷神社の二つの摂社)は、
業平、
実方(在原業平、藤原実方)である。
世人がよく取り違えているから、ある年のこと、
参詣をして、年寄りの
宮司の通りかかったのを呼びとめて質問したところ、「実方は
御水洗(参拝に際し、手を洗い清めるところ)に影のうつる所と言われていますから、橋本のほうがいっそう水に近かろうとぞんじております。
吉水の
僧正(慈円、おくり名は慈鎮)が「月をめで花をながめしいにしえのやさしき人はここにあり原」とお
詠みなされたのは、岩本の
社であったと聞きおよんでおりますけれど、私どもなどより、かえって、よくごぞんじでいらっしゃいましょう」と、たいへん謹直な態度で言ってくれたのには感心した。
今出川院近衛(今出川院、すなわち亀山天皇の中宮に、仕えた近衛という女官)といって
撰集などに歌のたくさん入れられている人は、年の若かったころに、いつも百首の歌を詠んで、前述の両神社社前の水で
浄書して奉納していた。尊い名誉を得て、この歌は人口に
膾炙したものが多い。漢詩文をも
巧みに書く人であった。
筑紫(筑前・筑後の二国、ひいては九州の総称)に
某という
押領使とでもいうような格の人があったが、
土大根(ダイコン)を万病に効能のある薬にして毎朝二つずつ焼いて食べることが、久しい年月におよんだ。ある時、
館の中に、だれもいないすきにつけこんで敵が襲撃して取りかこんだところ、館の中に二人の武者が現われた。命を惜しまず応戦して、敵をみな打ち払った。はなはだふしぎに思ったので「日ごろはおいでになる様子もない人々が、このように
戦をし
給うたのはどういうお方ですか」と言ったところが、「年来の御信頼で、毎朝毎朝召し上がってくださる大根でございます」と言って姿を消した。深く信じていると、こういう徳もあるものである。
書写山の
性空上人は、
法華経を
読誦した
功徳によって肉体的な
汚れから脱却した人であった。旅で、宿屋に行ったところ、豆のからを
焚いて、豆を
煮ていると、音のつぶつぶと鳴るのを聞いてみると「疎遠でもない貴様たちが、
恨めしくも自分らを煮て、苦痛を与えるものだな」と言っていた。焚かれている豆がらのぱちぱちと鳴る音は「自分の本心から出たことであろうものか。焚かれるのもどれほど
堪えがたいか知れたものではないが、しかたのないことである。どうぞわれらを恨んではくれまいぞ」と言っているのが聞かれた。
元応(一三一九―二一)の
清暑堂の
御遊びに、名器の
玄上が失われていた時分、
菊亭右大臣
(藤原兼季。琵琶の名手)が
牧馬を
弾じたが、座についてまず
柱(琵琶の弦の駒となる板)を
触ってみると、一つ落ちた。けれども大臣は懐中に
続飯(飯粒で作った糊)を持ってきていたのでつけたから、
神饌(神へのお供え)のくるころにはよく
乾いて、なんの不都合もなしによく
弾くことができた。
どういうわけであったか、見物人のなかの
衣被(女性が顔をかくすために頭からかぶった単衣の小袖)の者が近づいてその柱をもぎ放して、もとのように見せかけておいてあったのだという。
名を聞くと、すぐその人の
風貌が想像できるような気がするものであるが、会って見ると、それがまた、思っていたとおりの人というのもないものである。昔物語を聞いても、現代の人の家が、あの辺であろうと感じ、人物も、
今日のだれのようなと思いくらべて見られるのは、
何人もそんな気のするものかしら。また、どんなときであったか、現在いま話していることも、目に見ていることも、自分の心の中も、このとおりのことがいつであったかしら、あったような気がしていつとは思い出さないが、必ずあったような心もちのするのは、自分だけが、こんなことを感ずるのかしら。
卑しく見苦しいもの。身のまわりに日用品の多いこと、
硯に筆が多くはいっていること、
持仏堂(信仰する仏像を安置する部屋)に仏が多いの、
前栽(庭の植え込み)に石や植木類が多いの、家の中に子孫が多いの、人に面会して言葉数が多いの、
願文(神仏に祈願するところを記した文)に
善事をほどこしたことを多く書き立てたの。多くても見苦しくないのは、文庫に積みこんである書物、
掃きあつめの
埃。
世に言い伝えていることは、真実では興味のないものなのか、多くはみな
虚言である。人間というものは、実際以上にこしらえ事を言いたがるのに、いわんや、年月を過ぎて、世界も代わっているから、言いたい放題を虚構し、筆でさえ書き残しているからそのまま事実と認定された。
それぞれの道の達人のえらかったことなど、わけのわからぬ人でその方面に知識のない
輩は、むやみに神様のように
崇めて言うけれど、その方面に明るい人は、いっこうに
崇拝する気にもならない。
評判に聞くのと見るのとは、何事でも相違のあるものである。そばからばれるのも気がつかず口まかせにしゃべり散らすのは、すぐに根もないことと知れる。また、自分でもほんとうらしくないと知りながら、人の言ったままを鼻をうごめかしながら話すのは、別段その人の虚言ではない。もっともらしくところどころは不確かそうによくは知らないと言いながら、それでいて、つじつまを合わせて話す虚言は恐ろしいものである。自分の名誉になるように話されている
嘘は
何人もしいて取り消そうともしない。人がみなおもしろがっている嘘は自分ひとり打ち消すのも変なものだと、黙って聞いているうちに、つい証人にまでされてしまって、いよいよ事実と決定してしまう。ともかくも嘘の多い世の中である。それゆえ、人があまり珍奇なことを言ったら、いつもほんとうは格別珍しくもない普通のことに直して心得てさえおけば、まちがいはないのである。
下賤な人間の話は耳を驚かすものばかりである。りっぱな人は奇態なことは言わない。
こうはいうものの、神仏の奇跡や、高僧の伝記などを、そんなふうに信じてはいけないというのとは違う。これらは、世俗の嘘を本気で信じるのも間抜けだが、まさかそんな事実はあるまいと争論したとてはじまらないから、だいたいはほんとうのこととして相手になっておいて、むやみに迷信したり、またむやみに疑い
嘲ったりしてはならない。
蟻のように集まって、東西に急ぎ、南北に
奔走している。高貴の人もあれば
卑賤の人もある。老人もいるし、若者もいる、出かけて行く場所があり、帰って来る家庭がある。みな、夜には寝て、朝になれば起きて働く。営々と労苦するのはなんのためであるか。死にたくない。
儲けたい。休息する時もない。身を養って何を待つのであろうか。待つのはただ年をとって死ぬだけのことではないか。死期の来るのは速いもので、一秒一秒のあいだでさえ近づいてきているのである。これを待つ間にどんな楽しみがありうるか。
眩惑されている者はこれを恐れない。
名聞や利欲に
惑溺して
冥途の近づくことを
顧慮しないからである。
愚人はまたいたずらに死の近づくのを悲しむ。人生をいつまでもつづけたいと願って、変化の法則を悟らないためである。
退屈で困るという人はどんな気もちなのかしら。気の散ることもなくただひとりでいるのは、けっこうなものではないか。社会の調子についてゆけば、心は
俗塵にけがされて欲望に迷いやすく、人と交渉すれば、言葉が相手の気をかねて本心のままではいない。人に
戯れ、物事を争い、
恨んでみたり、喜んでみたり、心はすこしも安定しない。差別
好悪の思考がむやみに起こって、利害得失の欲念が休むまもない。
惑いのうえに酔うて、酔いの中に夢を見ているようなものである。走りまわるに忙しく、うかうかと大事を忘れているというのが
世上一般の人の
有様である。まだ真の道は自覚できないにしても、せめては外界の諸縁とぐらいは離れて身を安静に、俗事に関与しないで、心を安らかにするのが、しばらく楽しむともいうべきであろう。
摩訶止観(中国天台宗の根本経典)にも生活、人事、技能、学問などの諸縁はやめるがよいとある。
権勢栄華にときめく家に冠婚葬祭などがあって人々が多く訪問する際、その中に出家法師が入り
交って、案内を乞い門のあたりに立っているのは、よせばいいのにと思われる。相応の理由はあるにしても、法師というものは人との交わりは遠ざかっていてほしい。
世間で当人が言いはやす事柄を、関係するはずもない人がよく様子を知って人に説明したり、自分でも人に質問したりしているのは、合点のゆかないことである。ことに
片田舎の坊主などは、世間の人の身の上をわがことのように知りたがって聞きたずね、どうしてこうくわしく知っているのかと思われるまでさまざまに
吹聴する。
当世ふうの事物の珍しいのを言いひろめているのもまた、
了簡が知れない。
陳腐になってしまうまで新しいことを知らないでいる人は奥ゆかしい。はじめての人などがいるのに、自分のほうで言い慣らわした話題や、物の名などを知っているどうしが、ほんの
片端だけ言い合って顔見合わせて笑ったりして、意味のわからぬ人に不快を与えることは、世間慣れない、たちのよくない人のあいだではよくあることである。
万事に、あまり立ち入らないのがよい。上品な人は、知っていることでもそれほど知ったかぶりをして話すだろうか。
片田舎から出てきた人のほうが、万端
心得顔に応対するものである。そんな人の中には尊敬すべき知者もいるけれど、自分でもえらそうな様子をしているのが見苦しい。心得きった方面のことには、きっと口が重く、人が問わない限りは口を出さないのがりっぱな態度である。
だれも彼も、自分に縁の遠いことばかりを好くようである。坊主が軍事に心がけ、
田舎武士が弓術を心得ないで仏法を知った様子をしたり、
連歌をしたり、音楽を好んだりしている。それでも、至らぬ自分の道でよりも、別の道楽のおかげで人からばかにされるものである。坊主ばかりではない。身分の高い
公卿や、
殿上人など、上流の人たちまでも、おおかたは武を好む人が多い。
百戦して百勝したからといって、まだ武勇の名誉は許されない。というのは、運に乗じて敵を粉砕する場合は、
何人とて勇者のようでない人もあるまい。兵士は
尽き、
矢種が絶えて後でも敵には
降らず安らかに死について、そこではじめて名誉をあらわすことのできるのが武道である。生きているほどの人は、まだ武を誇ってはなるまい。武道はそもそも
人倫に遠く
禽獣(鳥やけもの)に近い行為なのだから、その家柄でもない者が好むのは無益のことである。
屏風や
襖などが、絵にしろ文字にしろ
拙劣な
筆致でできているのは、そのものが見苦しいよりも、その家の主人の趣味の至らぬのがなさけないのである。いったいその所有の日用品によっても、その人柄を
軽蔑することはあるものである。それほど上等のものを持つべきであるというのではない。破損しては惜しいというので品格のない見にくいものにしておいたり、珍奇なのがよいというので無用な装飾があったり、
繁雑な好みをしているのを、よくないというのである。古風に、おおげさでない高価にすぎぬもので、品質のすぐれたのが好もしいのである。
羅の
(薄い織物を張った)表紙は早く損じて困るとある人が言ったら、
頓阿が、羅の表紙なら上下がほぐれ、
螺鈿(貝殻の光る部分を木や漆器に埋め込む細工)の
軸は貝が落ちてしまったあとがけっこうなのであると言ったのは、頓阿に敬意を感ぜしめる。数冊を一部としたとじ本の類の、そろっていないのを
不体裁なというが、
弘融僧都(仁和寺の僧)が、なんでもきっと完全にそろえようとするのは未熟な人間のすることである、ふぞろいなのがよいのだと言ったのも、さすがはと思った。いったい、何につけても、事の完備したのはよくないものである。でき上がらないのをそのままにしてあるのも、おもしろく、気もちがのんびりするものである。
内裏を造営せられるにも、きっと完成せぬところを残しておくものであると、ある人が話していた。
古の聖賢の作った
儒仏経典にしても、章や段の欠けていることが多い。
竹林院入道左大臣殿
(西園寺公衡)は、
太政大臣にのぼられるのはなんの差しつかえもなかったけれど、「太政大臣も別に珍しくもない。左大臣の位でやめよう」と言って出家せられた。
洞院左大臣殿
(藤原実泰)もこのことをわが意を得たことに思って、太政大臣の望みはいだかなかった。
亢竜に悔いがある
(昇りつめた竜は下るしかなく、悔いが残る)とやら言うこともある。月も満つれば欠け、物も盛りになると衰える。何事につけても、このうえなしというのは破滅に近い道理である。
法顕三蔵(中国東晋の高僧)が、
印度に渡って
故郷の扇を見ては悲しんだり、病気にかかると中国の食物をほしがったりしたことを、あれほどの人物でありながらひどく
女々しい態度を外国人に見せてしまったものだとある人が言ったのを、
弘融僧都がまことに人情に富んだ三蔵であったなあと言ったのは、法師にも似合わしくないことをよくも言ったと感じ入った。
人間の心というものは素直なものではないから、
偽りがないとは言えない。けれども、自然と正直な人だって、いないと断言できようか。自分は素直ではなくて人の賢を見て
羨むのが世間の常態である。それを最も愚かな人が賢い人を見たりすれば、これを
悪むものである。大きな利益を得ようと思って小さな利益を受けないとか、虚飾をして名声を博しようとするのだとか
謗る。自分の心と賢者の行為とが違っているので、こんな非難をする者の正体は察せられる。これらの人は愚中の愚で、とうていつける薬もない。彼らは
偽りにもせよ
小利を解することもできまい。うそにも愚者のまねはしてならない。狂人のまねをして大通りを走ったら、つまりは狂人である。悪人のまねだといって人を殺したら、悪人である。千里の
駿馬(一日に千里を走るという名馬)に見ならうのは千里の駿馬の仲間である。
大聖舜(中国古代の聖帝)を学ぶ者は舜の一類である。うわべだけにしろ賢者を手本にするのを賢者といっていいのである。
惟継中納言(平惟継)は
詩歌の才能に富んだ人である。生涯仏道に
励んで一心に
読経して、
三井寺(滋賀県大津市の園城寺の俗称)の
円伊という法師といっしょに住んでいたが、
文保年間
(一三一七―一九)三井寺の焼けた時、坊主の円伊を見かけると「あなたを今までは寺法師とお呼びしていましたが、寺がなくなってしまいましたから、今後は法師と言いましょう」と言った。すばらしいしゃれであった。
(訳者
蛇足)この段、古来の解、みなせんさくに過ぎてかえっておぼつかなく思われる。あえて愚解を加えれば中納言の
洒々磊々たる風貌を伝えんとするものであろう。寺の焼け落ちるや、別段の見舞いを言うでもなく一片の冗談としてしまう。兼好はこの際のこの言葉を「いみじき秀句」と評したのであろう。単に「寺法師」「法師」の語だけに
拘泥して全文を見ることを忘れてはなるまい。軽い冗談にまぎらしたようで一場の笑いに必ずしも情味がないでもない、まことにいみじき秀句である。
下僕に酒を飲ませることは注意すべきである。
宇治に住んでいた男が、京都にいた
具覚坊といって風流な脱落した僧が
小舅であったので、常に仲のよい相手であった。ある時迎え馬をよこしたので、遠方の所を来たのだからまあ一杯やらせようというので、馬の口を
曳いている男に酒を出したところが、
杯を受けて
垂涎しながら何杯も飲んだ。この下僕は
太刀を
佩いて威勢がいいので、たのもしく思いながら引き従えて行くうちに、
木幡(京都市伏見区大亀谷あたりの山路)の辺へ来たころ、奈良法師
(奈良の興福寺・東大寺の法師)が兵士をたくさん引き連れたのに出会ったので、この男が立ち向かって、日の暮れた山中に怪しいぞ止まれと言って太刀を引き抜いたので、向こうの人々もみな太刀を抜き、弓に矢をつがえなどしたのを具覚坊が見て、
揉み
手をしながら
本性もなく酔っております者です、まげてお
宥し願いたいと言ったので、人々は
嘲りながら通り過ぎた。この男は今度は具覚坊に向かってきて、貴公は残念なことをしてくれましたな。
拙者は酔っぱらいなどした覚えはない、高名手柄をいたしたいと思っておりましたものを、抜いた太刀をよくも役に立たずにしてくれましたなと怒って、めった打ちに切り落とした。それから山賊が出たとわめき立てたので、
里人が興奮して出てくると、
乃公が山賊だぞと言って走りかかって切り回るのを、里人おおぜいで手を負わせ打ち伏せて
縛り上げてしまった。馬は血に
塗れたまま宇治
大路にある主家へ駆け入ったので、家人はあきれ驚いて男どもを幾人も差し向け、走らせてみると、具覚坊は
梔原(クチナシの生えている原)で切り倒されて
呻き苦しんでいたのを、連れ出して戸板で運んで帰った。具覚坊は
危い命を取りとめはしたが、腰を負傷して不具者になってしまった。
ある人が
小野道風(書家)が書いた
和漢朗詠集を所有していたのを、さる人が、
御相伝のお品でいいかげんなものともぞんぜられませぬが、
四条大納言(藤原公任)が選ばれたものを道風が書いたのでは時代に錯誤がございましょう。変なものですな、と言ったところが、それだからこそ珍重なのでございますと、いっそうたいせつに保管した。
奥山に
猫又というものがあって人を食うものであると、ある人が言うと、山でなくともこの辺にも、猫の年功を
経たものが猫又に成り上がって人を取ることはあるものですよと言うものもあったのを、
何阿弥陀仏とかいう
連歌をする法師が、
行願寺(京の一条北・油小路の東にあったが、現在は中京区寺町通竹屋町に移転)の付近に住んでいたのが聞いて、ひとり歩きをする身分だから、用心しなければと思っていたところから、ある所で連歌で夜ふかしをしてただひとりで帰って、小川の端を通りかかっていると、
噂に聞いていた猫又がはたしてこの坊主の足もとへふと寄ってくると、すぐさまかきのぼり、首のあたりに
喰いつこうとした。
肝をつぶして防ぐ力さえ
失せ、足も立たず小川へ転び入って、助けてくれ猫又だ、助けてくれと叫ぶので、あたりの家々から
松明などつけて駆けつけて見ると、近所に顔見知りの坊主であった。これはどうなされたと川の中から抱き起こして見ると、連歌の
賭物に取って来た扇や小箱などを懐中していたのも水に
浸ってしまっていた。ふしぎと命は
危く助かったらしく、ようようのことに家に帰り入った。飼い犬が、暗中にも
主を知って飛びついたのであったそうである。
大納言法印の召し使っていた
乙鶴丸という
童が、やすら
殿という者と知り合いになって常によくたずねていたが、ある時やすら殿の家から乙鶴丸が出て帰るところを法印が見つけて「どこへ行ってきたか」とたずねると、「やすら殿のところへ行っていました」と言う。法印に「そのやすら殿というは、男か法師か」と重ねて問われて、乙鶴丸は
袖かき合わせて、てれながら「さあ法師ですかしら、頭は見ませんでした」と返事をした。どうして頭だけ見えなかったものやら。
赤舌日ということは、
陰陽道にも定説のないものである。昔の人はこの日を
忌まなかった。ちかごろ、何者が言い出して、忌みはじめたのであろうか。この日にすることは
成就せずと説いて、この日に言ったこと、したことは目的を達せず、得たものも失い、
企てたことも成功しないというのは、愚劣なことである。吉日を選んでしたことで成就しないのを数えてみたって、また同様の統計を得られよう。その理由は、常住ならぬ転変の現世では、目前に
在りと思うものも実は存在せず、始めあることも終わりがないのが一般である。
志はとげぬがちである。欲望は不断に起こる。人間の心そのものが
不定であり、物もみな、幻のように変化して何一つしばらくでもとどまっているものがあろうか。この道理がわからないのである。吉日にも悪事をしたら、かならず凶運である。悪日に善事を行なうのは、かならず吉であるとかいわれている。吉凶は人によって定まるもので、日に関係するものではない。
ある人が弓を射ることを習うのに、二本の矢を手にして
的に対した。すると師匠の言うには「初心の人は矢を二本持ってはならぬ。のちの矢を頼みにして最初の矢をぞんざいに取りあつかう気味になる。いつも区別なくこの一本で的中させてみせると心得ていろ」と言った。わずかに二本の矢、それも師の面前でその一本をぞんざいに思おうはずもあるまいに。
懈怠(なまけること)の心を自分では気づかずにいるが、師匠のほうではちゃんと
看て取っている。この訓戒は万事に適用できよう。
道を学ぶ人、夜分は明朝のあることを思い、朝になると夜
勉めようと思い、この次にはもう一度心をこめてやり直そうと期待する。まして一瞬間のうちにさえ懈怠の心のあるのを自覚しようか。
何故に、今この一瞬間にすぐさま決行することが至難なのであろう。
「牛を売る者があった。買う人が、
明日、その代価を支払って牛を引き取ろうと約束した。夜の間に牛が死んだ。買おうという人が
得をした。売ろうという人は損をした」と話した人があった。
この話を聞いていたそばの人が「牛の
持主は、なるほど損をしたわけだが、また大きな得もある。というのは生きている者が死の近いのに気づかぬ例は、牛が、現にそれである。人とてもまた同様である。思いがけなくも牛は死に、思いがけなく、持主は生きている。一日の命は
万金よりも重い。牛の価は
鵝毛(ガチョウの羽根)よりも軽い。万金を得て一銭を失った人を、損をしたとは申されまい」と言ったら、人々はみな
嘲って「その理屈は牛の主だけに限ったものではあるまい」と言った。
そこでそばの人が重ねて「人が死を
悪むというならば、すべからく生を愛したがよかろう。命を長らえた喜びを毎日楽しまないはずはない。しかるに人は愚かにもこの楽しみを無視して、労苦して別の楽しみを追い、この存命という財宝を無視し、身を
危くしてまで別の財宝を
貪るから、心に満足を感ずる時もないのである。生きているあいだに生を楽しむことをせずに、死に
臨んで、死を恐れるのは不条理である。人がみな生を楽しまないのは、死を恐れていないからである。死を恐れないのではなく、死の近づくのを忘れているのである。もしまた生死の問題に超越しているというのなら、まことに真理を
会得していると申すものである」と言ったら、聞く人はますます
嘲笑った。
常磐井の
太政大臣
(西園寺実氏)が出仕された際に、
勅書(天皇の命令を記した文書)を
捧持して
(ささげ持って)いる
北面の武士
(上皇の御所を警護する武士)が、
実氏公に出会って馬からおりたのを、実氏公はのちになって「北面の
某は勅書を捧持しながら自分に下馬した者である。こんな者がどうして、
主上のお役に立つものか」と申されたので、北面を免職になった。勅書の捧持者は、勅書を馬上のままで
捧げて示せばよい。馬からおりてはいけないそうであった。
箱のえぐってあるところに
紐をつけるのにはどちら側につけるものかと、ある
故実家に質問したところが、その人は「
軸につけるのも表紙
(軸は箱の向かって左、表紙は右をいう)につけることも、両方の説があるところから、どちらでも差しつかえはありますまい。
文の箱の場合は多く右につけ、手箱には軸につけているのが普通のようです」と言った。
めなもみ、という草がある。
蝮に刺された人が、その草を
揉んでつけると即座に
癒えるとのことである。覚えておくとよかろう。
その物に付着して、その物を毒するものが無数にある。たとえば、人体に
虱、家に
鼠、国に
盗、
小人に財、君子に仁義、僧に法など。
高僧たちが言い残したのを書きつけて、
一言芳談とか名づけた本
(浄土教の高僧たちの法語集)を見たことがあったが、
会心のものと感じて覚えているのは――
一、しようかせずにおこうかと思うことは、たいがいしないほうがいいのである。
一、仏道を心がけている者は
味噌桶一つも持たないのがよろしい。
持経(平常、つねにたずさえ読む経)でも御本尊様にしても
好いものを持つのは、つまらぬことである。
一、
遁世者は何もなくとも不自由しないような生活の様式を考えて暮らすのが、理想的なのである。
一、上流の人は下等社会の者のつもりになり、知者は愚人に、富人は貧民に、才能の士は無能な者のようにありたいものである。
一、仏道を願うというのは、ほかではない。暇のあるからだになって世間のことを心にかけないというのが第一の道である。
このほかにもいろいろあったが、忘れてしまった。
堀川の
太政大臣
久我基具公は
容貌の美しい快活な気風の人柄で、何かにつけてちょっと
奢りを好まれた。
御子の
基俊卿を
検非違使別当(現在の警察・司法にあたる検非違使庁の長官)にして
庁の事務をとらせたが、役所に備えつけの
唐櫃(衣類・調度などを収める脚つきの入れ物)が見苦しいというのでりっぱに改造しようと命ぜられたが、この唐櫃は大昔から伝わっているもので、いつからあるものとも知れない。数百年を
経たのである。代々の公用の御器物というものは、古くすたれたこのような古物をモデルにしている。むざむざとは改造できませんと
故実に通じた官人らが申したので、そのことはそのままに
沙汰やみになった。
久我相国(太政大臣源雅実、または久我通光)は
殿上(宮中清涼殿中の一間)で水を召し上がるとき、
主殿司(雑務を受け持つ女官)が
土器(素焼の食器)を差し上げると、わげもの
(曲げ物。木製の容器)を持って参れと
仰せられて、わげもので召し上がった。
ある人が大臣任命式の
内弁(宮中の行事に際し、諸事をつかさどる役)を勤められたが、
内記(宮中の記録をつかさどる官人)の持っていた辞令を持たずに、式場にはいってしまった。このうえなしの失態であるが、出直して持って来るというわけにもゆかぬ。当惑しきっていると、持っていた
六位外記中原康綱が
衣かつぎの女官と相談をしてこっそりと内弁に渡させた。実にりっぱな仕打ちであった。
尹大納言光忠入道
(源光忠)が
追儺の
上卿を勤められたので、
洞院右大臣殿
(藤原実泰か、その子の公賢)に式の次第を教えてくださいと申し入れたところ、「あの
又五郎という者を師にするよりほかに良策もあるまい」とおっしゃった。この又五郎というのは老人の
衛士(宮中を警護する兵士)で、よく朝廷の儀式に慣れた者であった。
近衛殿
(近衛経忠)が着席せられたとき
膝着(地面にひざまずく際の敷物)を忘れて
外記(儀式の進行係)を
召されたのを、火を
焚いていた又五郎が「式はじめにまず膝着のお召しだ」と小声で
呟いていたのは、まことにおもしろかった。
後宇多院の
御所の
大覚寺殿でおそばづかえの人々がなぞなぞをこしらえて
解いているところへ、医師の
忠守が参ったので、
侍従大納言公明卿(三条公明)が「わが
朝のものとも見えぬ忠守や」となぞなぞにせられたのを「
唐瓶子」と解いて笑い合ったので、忠守が気を悪くして出て行ってしまった。
荒れた家の人目に立たないあたりへ、女が世間をはばかる
節があって、退屈そうに引き
籠っているころ、ある方が御訪問なさろうというので、夕月夜のほのぐらい時刻に忍んでおいでになったところが、犬がおおげさに
吠えついたので、下女が出てどちら様からと聞いたのに案内をさせて、おはいりなされた。心細げな様子はどんなふうに生活していることかと気の毒であった。へんな板敷の上にしばらく立っていると、しとやかな若々しい声で「こちらへ」と言う人があったので、あけ立ても窮屈に不自由な戸をあけて、おはいりになった。室内の様子はそんなにひどくもない。奥ゆかしくも
灯は遠くうすぐらいほどではあるが物の色合いなどもよく見え、にわか仕込みでない
匂いがたいへんにものなつかしく住んでいた。門をよく気をつけさせて、雨も降りそうですよ、
御車は門の下へ入れてお供はどこそこへ案内なさいと腰元が下女に言うと、「今夜こそ心丈夫におちついて寝られるでしょう」と
内所で小声にささやき合っているのも、手狭な家だからかすかに聞かれる。
さて一別以来のことなどをこまごまと話して聞かせるうちに、一番
鶏が鳴いた。
過し方行く末のことなどをしんみりと話し合っていると、今度は鶏も元気な声で鳴き立てるから、もう夜が明けたのだろうかと思ったが、夜明け前から帰らなければならない場所がらでもないからすこしぐずぐずしているうちに、戸のすきまが白くなってきて夜が明け放れたから、この夜の忘れがたいことなどを言い、
後朝(男女が一夜を共にした翌朝)を惜しんで出てきた。
梢も庭ももの珍しく青く見渡される四月
(初夏)のころの
曙がはなやかに情趣があったのをよく思い出すので、そのあたりを通るごとに今も
桂の木の大きなのが隠れるまで、あとをふりかえって見送られるということである。
家屋の北側の日かげに消え残った雪が固く凍りついたのに、差し寄せた車の
轅にも雪がかたまってきらきらしている。明け方の月は
冴えきっているが、くまなく晴れ渡ったというほどの空でもない。と見るあたりに人目に遠い
御堂の廊下に、身分ありげに見える男が女と
長押に腰をかけて話をしている
有様は、何を語り合っているのやら、話はいつ果てるとも思えない。髪、かたちなどすこぶる美しいらしい。言うに言われぬ衣の香が、さっと
匂ってくるのも情趣が深い。身動きのけはいなどが、時たまに聞こえてくるのもゆかしい。
高野の
証空上人が京へのぼろうとしていると、細い道で馬に乗っている女に行き会ったが、馬の口引きの男が馬の引き方を誤って、上人の馬を堀のなかへ落としてしまった。上人はひどく立腹して「これは
狼藉千万な。
四部の弟子と申すものは、
比丘よりは
比丘尼が劣り、比丘尼よりは
優婆塞が劣り、優婆塞より
優婆夷が劣ったものだ。このような優婆夷
風情の身をもって、比丘を堀の中へ
蹴入れさせるとは
未曾有の悪行である」と言われたので、相手の馬方は「何を
仰せられるのやらわかんねえよ」と言ったので、上人はますます息巻いて「なんとぬかすか
非修非学(仏道修行もせず、学問もないこと)の野郎」と荒々しく言って、極端な
悪口をしたと気がついた様子で、上人はわが馬を引き返して逃げ出された。尊重すべき、天真
爛漫、
真情流露の
喧嘩と言うものであろう。
女の話しかけた言葉に、すぐさまいいぐあいな返事と言うものは、めったにないものである。というので
亀山院のおん時に、
洒落な女房どもが若い男が来るたびに、「ほととぎすをお聞きなされましたか」と問いためしてみたところ、
某の
大納言とかは「わたくし
風情は聞くこともかないません」と返事をされた。
堀川内大臣
(源具守)は「
岩倉(京都の上賀茂。具守の山荘があった)で聞いたことがあるようです」と言われたのを、「これは
無難である。わたくし風情はときては困ったものだ」などと批評していた。いったい、男というものは、女に笑われないように育て上げるべきものであるということである。「浄土院
前関白殿
(九条師教)は、御幼少から
安喜院様
(後堀川天皇の皇后、師教の大伯母にあたる)がよくお教えなされたので、お言葉づかいなどもいい」とある人が申された。
山階左大臣殿
(西園寺実雄)は「
下賤な女に見られても、たいへんにはずかしくて気がおける」とおっしゃった。女のない世界であったら
衣紋(装束のつけ方)も冠も、どうなっていようが引きつくろう人もたぶんあるまい。
このように男に
気兼ねをさせる女というものが、どれほどえらいものかと思うと、女の根性はみな曲っていて、自我が強く、
貪欲がひどく、物の道理は知らず、迷信におちいりやすく、浮気っぽく、おしゃべりもお得意だのに、なんでもないことを問えば答えない。注意深いのかと思っていると問わず語りには外聞の悪いことまでしゃべり出す。うわべをじょうずにつくろって人を
欺くことは男の知恵にもまさっていると思うと、あさはかであとになってしっぽの出ることに気がつかない。不正直で愚劣なのが女である。そんなものの気に入ってよく思われるのは、いやな話であろう。
それゆえ、なんだって女などに気兼ねするものか。もし賢女があったとすれば、人情にうとい、没趣味なものであろう。ただ、男が自分の迷いに
仕え、それに身をまかせているときだけは、女はやさしいものとも、おもしろいものとも感じるわけのものなのである。
寸陰(わずかな暇)を惜しむ人はない。これは悟りきってのうえでのことか。ばかで気がつかないのであろうか。ばかで
懈怠の人のために言いたいが、一銭は軽いがこれを積み上げれば貧民を富豪にさせる。それゆえ、金を
志す商人が一銭を惜しむ心は切実である。一
刹那は自覚せぬほどの小時間ではあるが、これが運行しつづけて休む時がないから、命を終わる時期が
迅速にくる。それゆえ道を志す道人は、漠然と概念的に月日を惜しむべきではない。ただ現実に即して、現在の一念、一瞬
時がむなしく過ぎ去ることを惜しむべきである。万一だれかが来て、我らの命が
明日はかならず失われるであろうと予告したとすれば、今日の暮れてしまうまで、何事を力とし、何事に身を
委ねるか。我らの生きている今日の一日は、死を予告された日と相違はあるまい。一日のうちに飲食、便通、睡眠、談話、歩行、などのやむを得ないことのために多くの時間を消失している。その
余の時間とてはいくらもないのに、無益なことをなし、無益なことを言い、無益なことを考えて、時を推移せしめるばかりでなく、一日を消費し、
一月にわたり、ついに一生を送る。しごく愚かなことである。
謝霊運(中国六朝時代の詩人)は
法華経の訳者ではあったけれども、心は日常、自然の
吟詠に没頭していたから、
恵遠(東晋の高僧)の
浄業修行の仲間入りは許可しなかった。心に
光陰(時間、歳月)を惜しんで修行する念がなかったならば、その人は死人にひとしい。光陰を惜しむのはなんのためかというに、自分の内心に無益の思慮をなくし、その身がつまらぬ世上の俗事に関与せぬようにし、それで満足する人は満足するのがいいし、修行をしようとする人はますます労力して修行せよというのである。
木のぼりの名人と定評のあった男が人のさしずをして高い木にのぼらせて、
梢を切らせたのに、非常に危険そうに思われたあいだは何も言わないでいて、おりるとき、
軒端ぐらいの高さになってから「
怪我をするな、気をつけておりよ」と言葉をかけたので、「これぐらいなら、飛びおりてもおりられましょうに。どうして注意しますか」と言ったところが、「そこがですよ。目のまうような、枝の危いほどのところでは、自分が恐ろしがって用心していますから申しません。過失は、なんでもないところで、きっとしでかすものですよ」と言った。いやしい下層の者であったが、聖人の訓戒にも合致している。
鞠もむつかしいところを
蹴ってしまってのち、容易だと思うときっとし損じると申すことである。
双六のじょうずと言われた人に、その方法を問うたことがあったが、「勝とうと思ってかかってはいけない。負けまいとして打つのがいい。どの手が一番早く負けるかということを考えて、その手を
避けて、一
目だけでもおそく負けるはずの手を用いよ」と言った。この道に通じたものの教えである。身を治め国を
安泰ならしめる道とても、またこのとおりである。
「
囲碁、
双六を好んで、これに
耽って夜を明かし日を暮らす人は、
四重五逆の重罪
(仏教で言う大罪)にもまさる悪事であると思う」とある高僧が申されたのが、今に忘れず、けっこうな言葉と感じられた。
明日は
遠国へ旅行すると聞いている人に
対って、おちついてしなければならない用事を頼む者があろうか。切迫した大事に着手しているとか、切実な
悲嘆に暮れている人などは、他人のことなど耳に入れず、他人の喜びや
悔みごとにも行かない。行かないからといって
恨みとがめる人もあるまい。それゆえ、年もだんだんとってきたり、病身になっていたり、ましてや出家している人などももちろん、同じことであろう。人間の礼儀、何が無視できないものがあろうか。世間がうるさいからといって何事も、義理でしかたがない、これを果たそうと言っていたら、願望は増すし、からだは苦しむ、心は
怱忙(いそがしいこと)になる、一生涯は世俗の
些雑な小さな義理に妨害されてむなしく終わるであろう。日が暮れたが前途がまだ遠い、わが生ももはやよろめく力なさである。いっさいの世俗関係をうっちゃらかしてしまうべき時機である。約束も守るまい。礼儀をも気にかけまい。この心もちを感じない人は、われを狂人と言うならば言え、放心者、冷血漢など、なんとなりと思え。そしられたって苦にはしない。ほめたって耳に入れるがものもない。
四十の坂を越した人が好色の心をひそかにいだいているのは、いたしかたもなかろう。言葉に出して男女の情事を、他人の身の上にもせよ言い
戯れているのは、
歳にも似合わず見苦しいものである。だいたい見苦しく聞き苦しいものは、老人の青年らにうちまじって、おもしろがらせるつもりで話をすること。つまらぬ身分でありながら、世にときめいた人を
懇意らしく言いふらしていること。貧家のくせによく酒宴をもよおしお客を呼んで
派手にやっていること。
今出川の
太政大臣
菊亭兼季公
(または西園寺公相)が
嵯峨へお出かけになられたとき、
有栖川(京都・嵯峨にあった地名)の付近の水の流れているところで、
賽王丸が牛を追ったために
足掻の水が走って前板のところを
濡らしたのを、お車の後に乗っていた
為則朝臣が見て「
怪しからぬ
童だな。こんな場所で牛を追うなんてことがあるか」と言った。すると大臣は顔色を変えて「お前は車の
御し方を賽王丸以上に心得てもいまい。怪しからぬ男だ」と言って、為則の頭を突いて車の内側でこつんとやらせた。この牛飼いの名人の賽王丸というのは
太秦殿、
信清内大臣
(藤原信清)の召使いで、天子の御乗料の牛飼いであった。この太秦殿に
仕えている女房には、それぞれに
膝幸、
特槌、
胞腹、
乙牛などの牛に縁のある名がつけられていた。
宿河原(現在の神奈川県川崎市にある)という場所で
虚無僧(こじき僧)が多数集合して
九品の念仏をとなえていたところへ、外から
虚無僧が入ってきて「もしや、このなかにいろおし坊と申す
梵論僧はおられますまいか」とたずねたので、群集のなかから「いろおしはわたくしです。そう言われるのはどなたですか」と答えた。すると虚無僧は「自分はしら
梵字というものです。わたしの
師匠の
某という人が、
東国でいろおしという人に殺されたと聞いておりますから、そのいろおしという人に会って
仇をとりたいとたずねております」と言う。すると、いろおしは「よくもたずねて来た。たしかにそんなことがありました。ここでお相手をいたしては、
道場をけがす
虞れがありますから前の川原でたち合いましょう。どうぞ、みなの衆、どちらへもお加勢は御無用に願いたい。多人数の死傷があっては仏事の妨害になりましょうから」と言いきって、二人で川原へ出かけ合って、思う存分に相手を刺し傷つけ合って、両人とも死んだ。ぼろぼろというものは以前はなかったものらしい。ちかごろになって
梵論字、
梵字、
漢字などという者がそれのはじめであったということである。世を捨てたようでいて、
我執が強く、仏道を願っているようでありながら、闘争にふけっている。
放逸な
無頼漢みたいだけれど、死を軽んじて生死に
拘泥しないのを気もちのいいことに感じているから、右の話も人の話したままを書きつけたものである。
寺院の称号や、その他何ものにでも名をつけるに、昔の人はすこしも
凝らないで、ただありのままに、簡単につけたものであった。このごろでは考えこんで学識を
衒って見せたふうのあるのは、すこぶるきざなものである。人の名でも、見なれない文字をつけようとするのはつまらぬことである。万事に奇を求め、異説を好むのは、才の足りない人物がよくやることだそうな。
友達にするのに、よくないものが七つある。一には高貴な身分の人、二には年少の人、三には無病
頑健の人、四には酒の好きな人、五には武勇の人、六には虚言家、七には欲の深い人。
善い友は三つある。一にはものをくれる友、二には医者、三には知恵のある人。
鯉の
羹(吸いもの)を食べた日は、
鬢の毛が乱れないということである。
膠にさえ製造するほどの物だから、ねばりけのあるものに違いない。鯉ばかりは
主上の
御前でも料理されるものであるから、
貴い魚である。鳥では
雉が、無類のけっこうなものである。雉や
松茸などはお料理座敷の上にかけてあっても差しつかえはないが、その他のものは入れるわけにはゆかぬ。
中宮(ここでは後醍醐天皇の皇后、禧子)の東二条院のお料理座敷の
黒棚に
雁のおかれてあったのを、中宮のおん父の
北山入道殿
(西園寺実兼)が御覧になって、御帰邸の後すぐお手紙で、このような品がそのままの形でお
棚におりますことは異様に感じられました。無作法のことと思われます、識見のある
侍女がおそばにお仕えしておられないためかと思われます。と書き送った。
鎌倉の海で、
鰹という魚は、あの辺では無上のものとして近来は賞美されている。これも鎌倉の老人が話したのだが、「この魚は自分らの若年の時代までは相当な人の前へは出なかったものである。
頭は下男でさえ食べず、切って捨てていたものである」ということであった。このようなものでも世が末になると上流へもはいりこむものである。
唐の物は、薬のほかはなくとも不自由はあるまい。書物にしたって、わが国に多くひろまっているから筆写することもできよう。唐船の困難な航海に、無用なものばかり
積荷してどっさり持ちこんでくるのは、ばかばかしいことである。「遠方の物を宝としない」とも、また、「手に入れにくい宝は尊重しない」とも、書物に書いているということである。
養い飼うものは馬と牛である。つないで苦しめるのは気の毒だけれど、必要かくべからざるものだからしかたがない。犬は家を守り防ぐ勤めが人にもまさるものだから、これまたなくてはならない。けれども、どこの家にもあるものだから、とくに飼育するほどのこともあるまい。そのほかの鳥や獣、いっさい飼うこと無用である。走る獣がおしこめられ鎖につながれては、雲を恋い野山を思い、
悲愁は絶えまもあるまい。こんな目に自分が会ったら
堪え
忍べないとしたら、心ある人はこれを楽しむことをしようや。生きものを苦しめて目を喜ばすというのは
桀紂(桀・紂ともに中国古代の暴君)のような暴虐な心である。
王子猷(王徽之。晋の書生、王羲之の子)が鳥を愛したのは、林中に楽しんでいるのを見て
逍遥の友としたのである。捕えて苦しめたのではない。「いっさいの珍しい鳥や異様な獣を国に養わない」とは、書物にも書いてある。
人の教養は
経書(儒教の四書五経)に精通して、
聖賢の教えをよく心得るのを第一とする。つぎには能書、専門としなくともこれは習うべきである。学問をするうえに得るところが多いものである。つぎに医術を習得するのがよい。わが身を
養い、他人を助け、忠孝のつとめをするにも医者の心得がなくてはならないものである。つぎには弓術、馬に乗ること、
六芸(中国古代の士の必修とされた六つの伎芸)にも上げられている。かならずこれを知っておきたい。文武医の道は、真に欠くことのできないものである。これを学んでいる人を無益無能な者ということはならない。つぎに食は人の天性になくてならないものであるから、食物の調理を心得ている人は大きな徳をそなえているとせねばならない。つぎに
細工のできるというのも何かにつけて
重宝である。これ以外のことどもは、多能な君子の恥ずるところである。詩歌に長じ、音楽に巧みなのは、幽玄の道であって、古は君臣ともにこれを重んじたけれど、現代では詩歌音楽をもって国を治めることはだんだんおろそかになったようである。黄金は優良なものではあるが、鉄の実用性の多いのにはおよばぬようなものであろう。
無益のことをして時を浪費するを、愚かな人ともまちがったことをする人ともいうべきであろう。国家のため、君主のために、ぜひともしなければならないことが多い。それに時を
捧げたらその
余の暇は、いくらもないものと知らねばならない。人間たるものがどうしても営まなければならないものは、第一に食物、第二に着物、第三に居所である。人間のたいせつなものは、この三つ以上のものはない。飢えず、寒からず、風雨に
冒されないで静かに過ごすのが、人間の楽しみである。けれども人はだれしも病気がある。病にかかると、この苦痛心配は
堪え
難い。医療を無視することはできない。薬をも加えて、それらの四つ、衣食住とさらに薬を得ることのできないのを貧しいとし、それらの四つに不自由しないのを富んでいるとする。この四つのほかを求め営むのを
贅沢とする。この四つのことなら、質素を心がけたら、どんな人でも足らぬものはないはずである。
是法法師は浄土宗で
何人にも恥じない人であるが、学者ぶらないで、ただ朝夕念仏をして気楽に世を渡っている
有様は、じつにわが理想的な境涯である。
人に死なれて四十九日の仏事に、ある高僧に来ていただいたところ、説法がけっこうで人々みな涙を流した。導師が帰ってからのち、
聴聞(説教などを聞くこと)の人々が「いつもよりは今日は特別にありがたく感じられました」と感心し合っていると、ある人が「なにしろあれほど
唐の
狗(犬)に似ていられるのですものね」と言ったのには、感動もさめて吹き出したくなった。そんな導師のほめ方なんてあるものか。また、「人に酒をすすめるつもりで、自分がまず飲んでから人にしいようというのは、剣で人を切ろうとしているようなものである。両方に刃がついているから、ふり上げたとき、まず自分の頭を切るから相手を切ることはできない。自分がまず酔い倒れたら、人にはとても飲ませられはすまい」とも言った。剣で人を切ってみたことがあるのだろうか、じつにこっけいであった。
賭博ですっかり負けて、有り金を全部
賭けようと決心した相手に出会ったら、けっして打ってはならない。今まで負け通した男に、悪運が転じて、つづけさまに勝つ機運になってきたのに気がつかねばならない。こんな時機に運を見抜くのがえらい賭博者というものであると、ある人が言った。
改めても益のないことは、改めないのがよいのである。
大納言源雅房卿は学才もすぐれ物のわかった人で、
後宇多上皇も
近衛大将にでもしようかとお考えになっていたおり、上皇のおそばの者が「ただ今
怪しからぬことを見て参りました」と申し上げたので、上皇は「何事か」とおたずねあそばされると「雅房卿が
鷹に
餌をやるのに生きた犬の足を切りましたのを、中垣の穴から見ました」と
言上したので、いやらしく、憎らしく
思し
召されて日常の
御機嫌も以前とは変わり、雅房を昇進なされなかった。あれほどりっぱな人が鷹を飼っておられたのは、意外なことではあるが、犬の足の件は、あとかたもないことである。でたらめは雅房卿に気の毒ではあるが、上皇がこれをお聞きあそばされて、
御憎しみをもよおさせられたお心はまことにありがたい。
いったい、生き物を殺したり、傷つけたり、
咬み合わさせたりして遊び楽しむ人は、畜生が同類
相食むと同様である。すべての鳥獣はたとい小さな虫にしても注意してその生態を見ると、子を思い親を
慕い、夫婦
相伴う。そねんだり、怒ったり、欲ばったり、自分の身をたいせつにし、命を惜しむこと、人間と同じだが、人間にくらべて
愚痴一方なものだけに人間以上にさらにはなはだしいものであるから、そんなものに苦しみを与え生命を奪うことが、どうしてかわいそうでなかろう道理があろうか。いっさいの動物を見て慈悲の心を起こさないのは人間の仲間ではない。
顔回(孔子の第一弟子)の心がけは、他人に苦労をかけまいというのであった。いったいに人を苦しめたり、いじめたりすることはもちろん、
賤しい者の意志をでもじゅうりんしてはならない。また、幼少な子どもを
欺いたり、
脅かしたり、からかいはずかしめて喜んだりすることがあるけれど、おとなにとっては、本気のことではないから、なんでもないと思っているが、子どもの幼い心には真実に恐ろしくもはずかしくもなさけなくも感ずることが痛切であろう。おとなたる者の喜怒哀楽にしたって、みな
虚妄であるのに、これを悟らないで、
惑わしの外形のすがたに執着しているではないか。肉体を破損するよりも精神に痛苦を与えるほうが、人を傷つけることが一段とはなはだしい。病にかかることも多くは内面からである。外部からくる病気というものは少ない。薬を飲んで
発汗を
企てても
効験のない場合があるのに、一度、
羞恥や恐怖を感じたら、きっと汗を流すのは精神の作用であるということに気がつかねばなるまい。
凌雲閣の
額を書かせられて、一朝にして白髪の人となった
韋誕(三国時代の魏の能書家)の
故事のような例もあるではないか。
物事を人と争わず、自分の意志を屈して人の意向に従い、自分の身のことはあとにして、人のことを先にするのが何よりである。
いろいろの遊戯でも、勝負を好む人は勝って愉快を得んがためである。自分の
技のまさっていることに
満悦するのである。それだから、負けるとつまらぬ思いがするのは、もちろんである。自分が負けて人を喜ばせようと考えたらいっこうに遊戯の興味はあるまい。人につまらぬ思いをさせて、自分が愉快を感ずるなどは徳義にかなわない。
親しい間柄でふざける場合にも、人をたぶらかして自分の知のすぐれているのをおもしろがることがある。これも非礼である。それだから、はじめは座興に起こったのに、長い
恨みを結ぶようなことがよくあるものである。これらはみな、勝負を好むところから起こる失策である。人にまさろうと思うならば、学問をしてその知で人にまさろうと考えたらよかろう。道を学んだならば、善に誇らなくなり、仲間とは争うべきものではないということがわかってくるからである。時には高位大官をも辞し、利益をも捨てることができるのは、ただ学問のおかげである。
貧しい者は財力を用いて礼儀をつくそうとし、老いた者は体力を用いて礼儀とする。ともに非である。自分の身のほどを知って、できそうもないことは、さっそく廃止するのが
上分別というものでなければならない。これを許さないのは、許さぬ人の心得違いである。身のほどをわきまえないでむりな努力をしようとするのは、する人の心得違いである。貧者が身のほどをわきまえない場合は盗みをし、力が衰えて、身のほどをわきまえない場合は病気をする。
鳥羽の作り道
(京都にあった大通りの一つ)というのは、鳥羽殿
(白河天皇の造った御所)が
応徳三年
(一〇八六)に建てられて以来にできたのではない。昔からの名前である。
元良親王
(陽成天皇の第一皇子)が元日の奉賀の声がすこぶるすぐれていたので式場の
大極殿(大内裏の正殿)から鳥羽の作り道まで聞こえたということが、
式部卿重明親王
(醍醐天皇の皇子)の記録にあるということである。
天子の御寝所は、東の
御枕でおわせられる。すべて東方を枕にすると陽気を受けてよいというので、孔子も東を枕にされた。一般に寝所の設備は、東枕でなければ南枕にするのが普通であろう。
白河院は北枕でおやすみあそばされた。北は
粛殺の気のある方角で、
忌むべきものである。そのほかにまた、「伊勢は南である。北枕をなされば白河院は
御足を大神宮に向けられたわけで、これはいかがなものか」と申した人があった。しかし、朝廷で大神宮の御
遥拝の場合は東南に向かってあそばしておられる。南方ではない。
高倉院の
法華堂に
三昧(仏道修行の一つ)を修している僧の
某の
律師という者は、ある時、鏡で自分の顔をつくづくと見て、自分の
容貌の醜悪で
陋劣なのに、非常に苦痛を感じて、鏡までがいまいましい気がして、以来久しく鏡を恐れて手にさえ取らず、いっこう人とも交際することをせず、
御堂の勤めのときだけ人に会うほかは、室内に
籠ってばかりいたと聞いたが、ありがたいことに感ぜられた。
賢そうな人でも、人の批評ばかりしていて、自分のことは知らないものである。自分を知らないでいて他を知るという道理はあるはずもない。それゆえ自分を知っているのを、物を知る人と称すべきである。形が
醜くとも気がつかず、心の愚なのをも知らず、芸の
拙劣も知らず、自分のつまらぬ人物というのも知らず、自分が年取ったのも知らず、病気になりそうなのも知らず、死の近づいているのをも知らず、行なう道の未熟をも知らず、わが身の欠点をも知らず、まして他人が
謗っていることも知らないのである。しかし容貌なら鏡で見られる、年は数えてみれば知れる。自分のことをまんざら知らないではないが、意識してみたってはじまらないから無自覚なようにふるまっている。と弁解しそうである。別に、容貌を改め、
齢を若くせよと言うのではない。身の
拙きに気づいたら、なぜさっそくに退かないのか。年
老ったと知ったら、なぜさっそくに隠退し閑居しないのか。行ないが至らぬと自覚したら、なぜ他人を
推して身は
退かないのか。
いったい人に敬愛せられないで衆に交わっているのは恥辱である。形醜く心
怯れながら宮に出て
仕えたり、無知でありながら
大才に交わったり、未熟の芸をもって
練達の人の座に加わったり、頭に雪をいただきながら
壮者と並んだり、ましてや、力およばぬことを希望したり、さらにその望みの
叶わぬことを
嘆いたり、来るはずのないことを期待して、人を恐れ、人に
媚びるなどは、人の与える恥辱ではない。
貪欲の心に引かれて、われとわが身をはずかしめているのである。貪欲の念の
止まない結果、眼前に死が来ているのをさえ確実に認識できないのである。
資季大納言入道
(藤原資季)とかいう人が、
具氏参議中将
(源具氏)にあって「貴君が質問されるぐらいのことならば、なんなりとお答えのできないことはありますまい」と言われたので、具氏は「さあ、どんなものでしょうかな」と言うと、「それじゃ、ためしてごらんなさい」と言われたから、「満足なことはまるでこころがけてみたこともありませんから、おたずねすることもできません。なんでもない言い草みたいなことのなかで意味の知れないことをおたずね申し上げましょう」と言ったので、「何がさて日本の事柄で浅俗なことなどは、なんなりと解き明かしましょう」と申したので、院のおそばの人々や、侍女なども「これはおもしろい勝負でございます。同じことならば院の
御前でなすって、負けたほうが
御馳走をあそばせ」と決めて、院の御前へ参上させて勝負をつけさせたところ、具氏は「子どものころから聞いておりますが、意味の知れないことがございます。
馬のきつりよう、
きつにのをか、
なかくぼれいりくれんどうと申すことは、どういうわけでございましょうか、お聞かせくださいませ」と申させたので、大納言入道はグッとつまって、「それはたわいもないことだから言う価値もない」と言われたのを「はじめから満足な事柄は学んでおりません。言い草をおうかがい申しましょうと、お断り申し上げています」と申されたので、大納言入道殿の負けに決定して、
賭けを厳重に申しつけられたということである。
医者の
篤茂(和気篤茂)が、故
花園法皇の
御前に
伺候していたとき、院が召し上がるお
膳が出たのを、篤茂は「ただいま参りましたお膳部の一々の品について、その文字、その功能をおたずねくださらば、わたくしは暗記でお答え申しますほどに植物書
(薬用植物などを研究する本草学の書物)とおくらべ合わせ願い上げとうぞんじます。一つもまちがいは申し上げますまい」と言っているところへ、ちょうど、故
六条内大臣
有房公
(源有房)が参られて「では我々がついでに教えていただきましょう」と言って「まず、しおという字は、何偏でしょうか」と問われたら、「
土偏でございます」と申したので、内大臣は「もう君の学才の底も見えました。それだけでたくさんです。言うまでのこともございません」と申されたので、大笑いになって、篤茂はこそこそと
[#「こそこそと」は底本では「そこそこと」]退出した。
花は満開を、月は
明澄なのをばかり賞すべきものではあるまい。雨に対して月にあこがれたり、家に引き
籠っていて気のつかぬうちに春が過ぎてしまっていたなども、情趣に富んだものである。もう咲くばかりになっていた
梢だの、散りしおれた庭などこそ見どころが多いのである。歌の
詞書にも「花見に行ったらもう散り果てていたので」とか「差しつかえがあって見に行けないで」などと記してあるのは、花を見てというのにけっして劣ろうや。花が散り、月がはいるのを
名残り惜しく思うのはもっともなことであるが、無風流な人に限って、あの枝もこの枝も散ってしまった。もう見る値打ちもないなどと言いたがるものである。
すべてなんにつけ、初めと終わりとが
趣の多いものである。男女の情にしても、ただ会うばかりが恋愛の趣味ではあるまい。会えないで苦しんだことを思ってみたり、心変わりしたのを
嘆いたり、長い夜をひとりで恋い明かしたり、遠い空に愛慕の思いを
馳せたり、わびしい
住居に
昔日の情を追慕するなどが、
真の恋愛を知る人というものであろう。満月の晴れ渡ったのを千里の果てまで飽かず賞したのよりは、もう夜が明けそうになってから出たのが、いっそう色あざやかに青みがかって、深山の杉の
梢頭に現われて木の間の影や
時雨のした雲の奥に見えたのなどが、このうえなく感じの深いものである。
椎や
樫などの湿っているような葉の上にきらきらと照っているのを見たりすると、身にしむ思いがして趣を知る友がいたならばなあと、
山棲みの身のふと都が恋しく思われてくる。
そもそも月や花は、そんなに目ばかりで見るものではない。
春景色は家のなかから出ないだっても、月影は
臥床にいて感じているのが、深みのある
風情であろう。上品な人はむしょうに愛好する態度ではない。楽しむ様子にも
程がある。
片田舎の人に限ってしつっこく極端に喜ぶ。花の下に押し寄せてわき目もふらずに
凝視して、酒は飲む、
連歌はする、はては見るだけで満足せずに、大きな枝などを心なくへし折る。清水には手足を突き入れてみるし、雪にはおりて行って踏みつけるなど、何事も静かに鑑賞することができない。
こんな
輩が、
賀茂のお祭を見ている様子はじつに奇観であった。「見るものはまだまだだいぶ間がある。それまで
桟敷に用もない」と言って奥のほうの家で酒を飲んだり、物を食べたり、
囲碁や
双六などをして遊び、桟敷には番人を見張りにつけていたから「お通りですよ」と知らされたときに面々は
肝をつぶさんばかりにわれがちに桟敷へ争い上がって、落っこちそうになるまで
簾から身を乗り出し、押し合いながらも何もかも見落とすまいと注視して、「ああだ、こうだ」と、いちいち批評して、行列が過ぎてしまうと、「また来るまで」と言っておりて行った。ただ行列だけを見ようというのであろう。都の人の堂々たるお方は、眠っていて、よくも御覧にはならない。若い
下端の人などは見物をよそに御用勤めに働いて、後のほうにお供をしている者は
不体裁にのび上がって見るようなこともせず、むりに見ようとする人もない。
葵(フタバアオイのこと)を掛け並べた町がなんとなく優雅なのに、夜の明け放れもせぬうちから、人に知られないように道ばたに寄せている車の奥ゆかしいのを、どなたのはあれかこれかなどと想像してみていると、牛飼や下郎などの見知り越しの者がまじっていて、車の主がおのずと見当がついて来る。あるものは風雅に、あるものは
華麗に、さまざまに装うて行き
交うさまは、見ていて飽くこともない、日の暮れかかる時分には立ち並んでいた車も、すきまなく立っていた人々もどこへ行ってしまったものやら、
追々と群集もまばらになって車などの騒がしさもやんでしまうと、簾や
畳など取り払われて目の前が寂しそうになってゆくのは、無常な人の世の出来事などにくらべて思い当たるのが
哀愁をもよおす。こんな
大路を見たのこそは、祭を見たことにもなるのである。
桟敷の前を往来する人に顔見知りが多いので気がついた。世間の人の数というものも、そうは多いのでもない。これらの人がみな
失せるであろう。我が身としても死なねばならないに決まっている、最後にとしたところで、まもなく自分の順番がくることであろう。大きな
器に水を入れて小さな
孔をあけたと仮定して、
滴ることはすこしではあるが、休むまなく
漏れてゆくから程なくすっかりなくなってしまうわけでしょう。都の中に多数にいる人の、死なないという日はけっしてない。一日に一人二人ぐらいとは限ってもいまいに。
鳥部野、
舟岡山(いずれも京都にあった墓地・火葬場)、その他のいやな野山に、
弔いを送る数のたくさんある日はあるけれど、今日は葬式を一つも出さないという日というのはない。それゆえ
棺桶を売る者は、作ったのを店においておくひまもない。年若な者、強健な者の区別もなく、不意にくるのが死期である。今日まで死をのがれてきているのが、ありがたいふしぎである。
暫時も
悠然たる気もちでおられようか。まま
子立という遊戯を、
双六の石で配置しておくと、取られるのはどの石ともわからないけれど、数えあてて一つを取ると、その外のは取られないですむと思っていると、たびたび数えて、あれこれと抜き取ってゆくうちに、どれ一つも取られないでいるというのはないと、同じようなしだいである。兵士の出征するのは、死に直面するのを承知のうえで、家をも身をも忘れている。
遁世者の草の
庵では、
悠然と
泉石を楽しんで兵乱
殺生をよそにしていると思うのは、はなはだ
浅薄なものである。平和な山奥だとて、無常という敵は先を争って攻め寄せないではない。死に直面している点は、身を軍陣に置いているのと同然である。
加茂の祭がすんでしまえばあとの
葵は用もないと言って、ある人が
御簾にあったのをみな取り払わせたのを、すげないことに感じたことがあったが、りっぱなお方のなさったことであったから、そうするのがいいのであろうかと思っていたけれど、
周防の
内侍(平仲子、平棟仲の娘。歌人)が「かくれども、かいなき物はもろともに、みすの葵の枯葉なりけり」と
詠んだのも、
母屋の
簾にかかっていた葵の枯葉を詠んだものだということを内侍の家集に記している。古歌の
詞書に「枯れたる
葵にさしてつかわしける」というのもある。
枕草子にも「
来し
方恋しきもの、枯れたる葵」と書いているのはたいそうなつかしく思い当たった。
鴨の
長明が四季物語にも「たまだれに
後の葵はとまりけり」と書いている。自然と枯れてゆくのでさえ惜しく思われるものを、どうして祭がすむかすまぬにあとかたもなく取り捨てることに忍びようや。
御帳にかけた
薬玉も九月九日には
菊に取り代えられるということだから、
菖蒲は菊のおりまでそのままに残しておくのがよいのである。
枇杷皇太后宮さま
(三条天皇の皇后、研子)が
崩御になったあと、古い御帳のなかに、菖蒲や薬玉などの枯れたのがあるのを見て「おりならぬ根をなおぞかけつる」と
弁の
乳母(藤原順時の娘で、敦兼の妻。歌人)が言ったので、「あやめの草はありながら」という返事を
江の
侍従(大江匡衡と赤染衛門の娘。歌人)も詠んだものでした。
家に植えておきたい木は松、桜である。松は
五葉もよいが桜は
一重がいい。
八重桜はもとは奈良の都にだけあったのを、現今ではだんだんと世に多くなって来た。吉野山の花や
左近の桜もみな一重である。八重桜はちょっと
趣の変わったものではあるが、しつっこくてすっきりしない。植えたくもないものである。おそ桜もまた無趣味である。虫のよくつくのもいとわしい。梅は白梅、うす
紅梅の、一重のものが早く咲くのも八重の紅梅の
濃艶なのも、みな趣がある。おそ咲きの梅は桜と咲き合うから圧倒されて見おとりがするので、枝に
萎びついて生気がないようでいけない。一重なのが第一に咲いて散ったのが気早くておもしろいというので
京極入道
中納言(藤原定家)は、やはり一重の梅を
軒近くお植えになられた。京極の
邸の南面に今も二本あるようである。柳もおもしろいものである。四月のころの若
楓は、あらゆる花や
紅葉にもまさって珍重なものである。
橘、
桂、いずれも樹木は古い大木が好もしい。
草は
山吹、
藤、
杜若、
撫子、池には
蓮、秋の草は
荻、
薄、
桔梗、
萩、
女郎花、
藤袴、
紫苑、われもこう、
苅萱、
龍胆、
白菊、黄菊もいい、
蔦、
葛、朝顔などは、どれもあまり高くないちょっとした垣に繁茂しすぎないのがよい。このほか珍奇なものや、
唐らしい名の聞きにくく、花も見なれないものなど、どうもなつかしくない。いったい、なんでも、珍しくめったにないようなものは
下賤の人の
翫賞するものであるが、さようのものは、なくてもよいものである。
死後に財宝を残すようなことは知者のせぬところである。よくないものをたくわえておくのも品格を下げるし、りっぱなものは執着のほどを思わせるので趣味性ならぬ、人生観を浅薄に思わせる。ましてさまざまなものがごたごたとあるのはいよいよいけない。自分が手に入れたいという人々が現われて、争いになるのは
不体裁である。のちにだれに譲りたいと思うものがあるなら、生存中に譲るべきである。毎日欠くべからざるものはなくてはなるまい。それ以外のものは、なに一つ持たないでいたいものである。
悲田院(老病者・孤児などの救済施設。はじめ興福寺に設けられたが、のち諸国にも設置された)の
堯蓮上人は俗姓は
三浦の
某とかいって、もとはこのうえなしの武者であった。故郷の人が来て話をして、東国の人は言ったことが当てになる、都の人は口先ばかりがよくて実意がないと言ったのに、上人は、「それはそう感じられるかもしれないが、自分は都に久しく居住して慣れてみると、この土地の人の心が必ずしも劣っているとも思われない。いったいに心が
柔和で情があるから、人の言うことをはっきりと断りかねて、何かとはっきり言いきることができないので、気が弱くて引き受けてしまうのである。偽りを言うつもりはないのだが、貧乏で
不如意な人が多いから自然と不本意なことも生ずるのであろう。東国の人は、自分の
生国ではあるが、実を言うと心は単純で、人情も粗野に、正直一方なだけにはじめからきっぱり謝絶もする。生活にはゆとりがあるから、人に信頼される結果になる」と理解せられたとのことであった。この上人は言葉には
訛りがあり、声が荒々しく、とても仏法の微妙な味などわかりそうにもないのにと思っていたが、今の言葉を聞くにおよんで奥ゆかしく覚えて、仏道に人も少なくないのに、とくに一つの寺を支配しておられるのは、このようにやさしい人情もあり、この
得もあるのだと感じたことであった。
心なしとも見える者でも名言を言うことはあるものである。ある
荒夷(関東の荒武者)の恐ろしげな者が、かたわらの人に向かって、「お子さんはおありですか」と問うたので、「ひとりもありません」と答えると、「それでは情愛はおわかりにはなりますまい。むごい冷たいお心でいられようと思われて恐ろしくなります。子があればこそ、はじめてよろずの情愛というものが
会得されるのです」と言った。なるほどと思われる言葉である。恩愛の情によらないでは、こういう野蛮な民に慈悲の念がありえようか。孝養の心のない者も、子を持ってはじめて親の心もちも思い知るのである。
遁世者のスッカラカンが万事に束縛の多い世間人を見て、世にへつらい欲望の深いのを
無下に
軽蔑するのはまちがった話である。その人の心もちになってみたらば、定めし悲しいことであろう。親のため妻子のためには、恥をも忘れて盗みをやりそうなことではある。それゆえ、盗人を捕縛し、他の悪事を
詮議するよりは、世の人の飢えず
凍えないような社会にしてほしいものである。人は定収入がないと
恒心も持てないものである。せっぱつまって盗みもする。世の中がうまく
治まらないで凍えたり飢えたりするような苦痛があると、犯罪者は絶えないわけである。人民を苦しめて法禁を犯させるようにし向けて、それに罪を科するというのは
不便なわざである。
しからばどうして人民を恵んだらよいかと申すなら、社会の上流に立つ者が
奢侈浪費をやめて民を
愛撫し、農業を奨励する。こうすれば下民が利益を受けること疑いはない。衣食住が人並みであるのに盗みを働く者こそ、ほんとうの盗人と言うべきではある。
人の臨終の
有様のりっぱであることなどを人の話すのを聞くと、ただ平静で取り乱されなかったとだけで奥ゆかしいのに、愚人どもはこんなふしぎな
瑞相(めでたいことのおこるしるし)があったなどと
付会して
(こじつけて)臨終の際の言葉も動作も自分勝手の意味をつけてほめそやす、これでは死者が平素の本懐にも違背するだろうにと思われる、臨終という大事件は
仏菩薩がかりに人間に現われたほどのお方も、また博学の学者が批評も考量もおよぶべきではない。当事者の本心さえ教えに
違うところがなかったならば、他人の見聞などはどうでもよいことである。
栂尾の
明恵上人(京都の右京区にある高山寺の高僧)が道を通っておられると、川で馬を洗っていた男が「あし、あし」と言っていたので、上人は立ち止まって「ああ、ありがたい。前世の
功徳を現世で現わされた方だ。
阿字阿字と
称えていらっしゃる。どなた様の
御馬でございましょうか。異常にもったいなくぞんぜられます」とおたずねになると、その男は「
府生殿(府生は、検非違使庁などに勤める下級の役人のこと)のお馬でございます」と答えたので、「これはこれは、ありがたいことです。
阿字本不生ですからなあ。この
結縁はまことにありがたい一日でございました」と上人は
感涙をぬぐわれたということです。
御随身(公家の警護役)の
秦重躬は北面武士の
下野入道
信願のことを「落馬の
相のある男です、注意しなければなりませんな」と話したがだれも信じる人もなかったが、信願はほんとうに馬から落ちて死んだ。道を通じた人の一言は神のようだと人々は感心して、「それにしても、どういうところに現われていた相でしたか」と人が質問すると、「非常にすわりの悪い尻で、そのくせ
悍馬(あばれ馬)が好きときていたから、落馬の相と判断しました。言いまちがってはおりませんよ」と言われたとのことです。
明雲座主(延暦寺の住職)が
人相見にお会いになったとき、「自分はもしや剣難の
相がありはしないか」とおたずねになると、
相者は「なるほど、その相がおありです」と申し上げた。座主が「どういうわけであるか」とお問いになると「負傷殺害などの御
懸念のない御身分でいらせられながら、そんなことをお思いあそばされておたずねなさるのが、すでにその
奇禍の前兆でございましょう」と申した。はたして、
木曾冠者(木曾義仲)が
法住寺を襲撃した際に、流れ矢に当たって
亡くなられた。
灸点があまりたくさんになると
汚れた者として神事にははばかりがあるということを、ちかごろ言い出した向きがあるが、格式書の
類には書かれてもいないということである。
四十以上の人が
灸をするとき、三里
(左右の膝下あたりのツボ)を焼いておかないと逆上することがある。きっとまず三里に灸をしなければならない。
鹿の
袋角(角が落ちてまた新しく生えた角)を鼻にあてて
嗅いではいけない。小さな虫がいて、鼻から侵しはいって脳を
蝕むという。
芸能を身につけようとする人は、それに達しない間はなまなかに人には知らせないで、内々によく習い覚えてから人中へ出るのが奥ゆかしくてよいとは人のよく言うところではあるが、こんな考えの人は一芸も習い得るものではない。まだぎごちなく未熟な中からじょうずな人の間にまじって嘲笑をも恥じずにかまわずやり通していく人が、生まれつきにその器用がなくても途中で停滞することもなく、放漫に流れることもなしに年期を入れたら、器用でも不勉強なのよりはかえってじょうずになり、徳もおのずと
備わり、人にも許されて、無比の名声を博することがあるものである。
天下に知れ渡ったじょうずでも、はじめはへたという評判もあり、ひどい欠点もあるものである。しかしその人がその道の道筋を正しく守って身勝手をつつしみ、努力していったなら、世の物知りともなり、万人の師として仰がれるようになるのは、諸道みなその
軌を
一にしている。
ある人の説に、年五十になるまでに熟達しなかった道は廃棄すべきである。その理由は、
励み習うべき将来もなく、老人のすることは他人も笑うことができない。衆にまじっているのは愛想のつきる
不体裁である。総体に年を取った人は、万事を
放擲して閑散に処するのが似つかわしくて好もしい。世俗のことに関与して生涯をあくせくと暮らすのは愚である。ゆかしくて覚えたいと思う芸があったら、学び聞くとしてもひととおり
趣がわかったら、あまり深入りしないでやめたほうがよい。無論、最初からそんなことを思いつかずにすんだら最上である。
西大寺の
静然上人は腰がかがまり、
眉は白く
垂れ、実に高僧の面目をそなえて
内裏へ参られたのを、
西園寺内大臣殿が「ああ、
尊いお
有様だなあ」と信仰のきみがあったのを、
日野資朝卿が見て「年を取っただけのことでさ」と言われた。さて後日になって、見るかげもなく老衰して毛もはげているむく犬を「この犬の様子も尊く見えますから」と西園寺内大臣の
許へ贈ったという。
為兼大納言入道が召し取られて、武士どもがとり囲んで
六波羅へ
曳いて行ったのを、
日野資朝卿が一条あたりで見かけて、「実に美しい。人として世に生まれ出たかいには、こういうことになってみたいものである」と言われたとのことである。
この人
(日野資朝)が、あるとき、
東寺の門に雨やどりをされたことがあったが、不具者どもの集まってきているのがあって、手足がねじれ
歪んだり、そりかえったり、どちらを向いてもかたわの異様なのを見て、それぞれに無類な奴らである。はなはだ
賞翫するに足ると考えながら見守っておられたが、しばらくすると興味がつきて醜くうっとうしいものに感じられてきて、ただ普通の平凡なものにはおよばぬと考えて、帰ってからのち、このごろ植木を愛好して奇異にまがりくねったものを求めて喜んで見ているのは、あの不具者を愛するわけであったとつまらなく感じたので、鉢に
栽えていたさまざまな木はみな投げ捨ててしまわれた。実にそうあるべきことである。
俗に順応して世に生きる人は、まず第一に時機を察知しなければなるまい。順序が悪いと、人の耳にも逆らい、心もちをもそこない、事は
成就しない。これほどたいせつな機運というものをわきまえなくてはならない。しかし、病気になるとか、子を
産むとか、死ぬることなどに従っては、時機も何もない。折が悪いといって見合わすこともない、発生、
存生、異状、壊滅の四相の移り変わる真の重大時は、あたかもみなぎる
奔流のように停止するところを知らない力である。寸時も停滞せず、即時に変化進行を実現する。それゆえ、真理に関する方面の努力にしろ、世俗的な
業で、この一事はかならず遂行しようと思うほどのものは、時機などは問題ではない。あれこれと準備も用意も必要はない、即刻実行に着手するがいい。
春が暮れて夏になり、夏が終わって秋がくるのではない。春はその時に早くも夏の気をもよおし、夏の時すでに秋の気が来ているのである。秋はやがて冬の寒さを伴い、初冬陰暦十月の
小春の天気は、春の気にかようて草も青み、梅も青みを持つ。木の葉の落ちるのもまず落ちてから芽を
萌すのではない。下に萌し、
衝き張る力をささえ切れなくて落ちるのである。迎える気が下に準備されているから、推移の順序がすこぶる早いのである。人生の生老病死の推移のくることも、その早さはそれ以上である。四季の推移には、それでもまだしも一定の順序もある。死期は順序も待たない。死は前方から目に見えてはこない。あらかじめ背後に切迫している。人はみな、死のあることは承知しているが、今にとのんきにかまえている人に対して不意を襲う。沖まで
干潟が遠く見えているけれども、
磯には突如と潮の満ちてくるようなものである。
新任大臣の
披露宴は、相応な堂々たる所を借りて挙行されるのが常例である。
藤原頼長公は
東三条院殿を拝借して披露の
宴をなすった。当時
帝がこの殿に御座ましましたのに、公の拝借
奏請でわざわざ
行幸あそばされた。別だんに皇室と御縁つづきということのない方でも、
女院の
御所などを拝借して挙行するのが
故実にかなうのだそうである。
筆を取ればその気になって物が書かれ、楽器を取れば音を出したいと思い、
盃を取れば酒を欲しいと思い、
賽を手にすると
賭博を欲する。心というものはかならずそのことに触れて、もよおしてくる。いやしくも
善からぬ
戯れをしてはならない。ふとした気もちで聖教の一句が目につくと、なんとなく前後の文も気にとめてみる。突如として多年の非行を改めることもある。もし教典を目にしなかったとしたら、このことを悟ることができなかったろう。これはつまり事に触れてたまたま起こった
利益である。その心が別に起こらないでも、仏前にいて
数珠や教典などを手にしていると怠慢しながらもおのずと善行が修せられ、散乱心のままでも、座禅の席につくとわれ知らずに禅の静思ができるであろう。外界と内面の作用とにおいて、事理はもと一体のものである。形式を尊重しているうちに内容も充実してくる。うわべだけの人を見ても、むやみに不信心呼ばわりをしないがいい、むしろほめ、尊重すべきである。
「
盃の飲み残りを捨てるというのは、なんの理由かごぞんじですか」とある人がたずねたので、答えて「
凝当(盃の底に残った酒)と申していますからは、底に
沈澱しているのを捨てるのでしょう」と言ったところが、「そうではない、
魚道である。流れを残して口をつけたところを洗い清めるのである」と話しておられた。
みなむすびという結び方は、糸を結び重ねた形が
蜷という貝に似ているからそう呼ぶのであると、ある貴人のお話である。ついでに蜷を「にな」というのは誤りである。
門に
額を掛けることを額を打つというのは、よくないらしい。
世尊寺行忠卿は額を掛けると
仰せられた。見物の
桟敷を打つというのもよくないらしい。
平張りの幕ならば打つというのが通常いうところであるが、桟敷はかまえるというべきである。
護摩をたくというのもよろしくない
(護摩は密教の儀式で、供物などを焚くという意味も含まれている)。護摩を修するとか護摩をするとかいうべきである。「
行法も、法の字を清音に発音するのではない。濁音で
ぼうというのである」と
清閑寺の
道我僧正が仰せられた。日用語にさえ、こんなまちがいばかり多いのである。
花の盛りは、
冬至から百五十日目とも
彼岸の
中日後七日ともいうが、立春から七十五日目というのが、たいていまちがいのないところである。
遍照寺(京都市嵯峨の真言宗の寺)の
承の役
(寺院の雑役)に服していた僧が、
広沢の池に来る鳥を毎日
餌をやって飼い慣らして、戸を一つあけると無数に飛びこんで堂内に一ぱいになったところへ、僧自身もはいっていってしめきって捕えては殺した様子が、物音すさまじく聞こえたので、近所にいた草刈りの
童が聞きつけて人に知らせたので、村人どもが集まってきて堂の中にはいってみると、
大雁などがばたばた驚き騒いでいる中に僧がまじっていてねじ
伏せ、ひねりつぶしていたから、この僧を捕えてその場から
検非違使庁へつき出したが、検非違使庁ではこの法師が殺した鳥どもを頭のまわりにかけさせて獄舎に入れた。これは
基俊大納言(久我基俊)が別当をしておられたときのことである。
陰暦九月の異名、
太衝の太の字は、点を打ってはいけないということを
陰陽寮の連中が議論したことがあったものだ。もりちか入道が申しておられたのには、天文博士
安倍吉平が自筆の
占文の裏に記録をしてあるものが
近衛関白家にある。点を打った「太」が書いてあったとの話であった。
世上の人間は、会いさえすればすこしのあいだも黙っていることはない。きっと何かしゃべる。その言葉を聞いてみると、たいていはむだな談話である。世間の
噂ばなし、人の品評、自分にとっても他人にとっても損多く益が少ない。しかもこれを語っているとき、当人たちがいかに無益なことも気づいていない。
関東の人で都に来て、都人といっしょに生活する人、または都の生まれで、関東へ行って身を立てているのや、また出家で本寺本山を離れ、
宗旨を変えている顕教密教の僧など、総体に自分の習俗を廃棄して他の習俗の人々のあいだにまじり加わっているのは見苦しいものである。
人間がおのおの経営努力している仕事を見ると、暖かな春の日に、
雪仏を作ってこれに金銀
珠玉の装飾を
施して、これを本尊に、お堂や塔などを
建立しているようなものである。どうしてその
伽藍の落成を待って本尊を安置し
奉ることができようか。人には命があるように見えているが、下のほうから絶えず消えつつある雪のようなものであるのに、計画し期待することが多すぎる。
一つの道に関与している人が、専門以外の道の席上にのぞんで「これがもし、自分の専門のことでありさえしたら、こう指をくわえて見てはいないものを」と言ったり感じたりするのはよくあること、人情の普通ではあるが、
好くないことのように思われる。知らぬ道がうらやましかったら「うらやましいなあ、どうして習っておかなかったろう」と言っておればよろしい。自分の得意を持ち出して人と競争しようというのは、
角のある獣が角を振りかざし、
牙のある獣が牙をむき出すようなやり方である。
人間たるものは自分の長所を鼻にかけず、他と競争しないのが美徳である。他にまさるところのあるのは大きな損失である。品格の高さにしろ、学術技芸の才能にしろ、祖先の名誉にしろ、他人より傑出している人は、たとい口に出して言わずとも、内心の誇りにも多少の罪があるわけである。つつしんでこれを忘れなければいけまい。ばかにも見え、他人にも悪く言われ、災難を招くのはもっぱらこの慢心である。
一道にも真に上達している人は、われと明確にその短所を自覚しているから、内心いつも満足せず、最後まで慢心しないのである。
老年の人で一道に傑出した才能のある人物がいて、「一代の
師表(模範・手本となる人)、この人の死後はだれに道の
奥義を問おうか」などと言われるなどは、老人連の味方であって、たのもしい生きがいである。しかしその芸道も、老輩になったというすたれた気分を
伴って謙虚なものがないと、一生を芸道だけで暮らしてしまったかと浅薄になさけなく見えるものである。「今はもう忘れてしまった」などと言っているのがいい。
ひととおりは知っていても漫然と
吹聴するのは、たいした才能ではないらしいと感じられる。自然とまちがったところもありましょう。明確にはわきまえてもおりませんなどと言う人こそ、なるほど、まことに、一芸一道の主とも感ぜられるものである。まして、よくも知らぬことを知ったかぶりに、資格もない人間がとやかくいうのを、まちがいらしいがなと思いながら聞いているのは、はなはだ困るものである。
「何々の式ということは、
後嵯峨帝の
御代までは申されていなかったのを、近い時代になってから言いはじめた言葉である」とある人が言っておられましたが、しかし
建礼門院の
右京大夫が、
後鳥羽院の
御即位ののち、ふたたび
内裏へ住んだ時のことを記して、「世の式も、かわりたることはなきにも」と書いている。
さしたる用事もなくて人のところを訪問するのは、よくないことである。用事があって訪問しても、そのことがすんだら早く帰るのがいい。長くいるのは困る。
人と応対すると、言葉も多く、からだもくたびれ、心もおちつかず、万事に差しつかえが多くて時間をつぶす。双方にとって無益なことである。客をきらうようなことを言うのもよくない。気ぜわしいことでもある場合などは、かえってこのわけを言ったほうがよかろう。
会心の
(心にかなう)人で、対談を希望する人が、退屈して「もうすこし」、「今日はゆっくりと」など言うような場合は、この限りではなかろう。常に
白眼の
阮籍が気に入った客を迎えたときにした
青眼の場合も、だれしもあるものである
(阮籍は中国・晋の隠士。白眼・青眼はそれぞれ人を冷遇・厚遇する目つきのこと)。
なんのためということもなく、人が来て、のんびりと話して帰るのは、よいものである。また、手紙も「あまりごぶさたしていますから」とだけ言ってよこしたのなど、たいへんにうれしいものである。
貝合わせ
(遊戯の一種)をする際に、自分の目の前のをさしおいて、よそを見渡して、人の
袖のかげや、
膝の下まで注視するすきに、自分の目前のを人に合わされてしまうものである。よく合わす人というものは、よそのほうまでむりに取るような様子もなくて、身のまわりのばかり合わすようでいながら、多く合わすものである。
碁盤の
隅に目的の石を立てて
弾くとき、先方の石を見つめて弾くと当たらない。自分の手もとを注意して、こちらの筋目をまっすぐに弾けば、目的の石にきっと当たる。
万事は外部に向かって求めるべきではなく、ただ自分の手もとを正しくすべきものである。
清献公趙抃(宋の名臣)の言葉にも、「ただ好き事を行なって、将来のことは問題にするな」とある。世を治める道もこんなものであろう。国内のことを取り締まらず、なおざりに打ち捨てて
放埒に任せて乱れたなら、
遠国が必ず
叛く。そのときになってやっと国策を求め出す。あたかも風に当たり
湿気た土地に
臥していて、病気を神様にお祈りするのは愚人である、と医書に書かれてあるのと同様である。目前の人の苦痛を去らせ、恩恵をほどこして道を正しくしたならば、その徳化が遠く天下に流れおよぶ
所以を知らないのである。
古、
禹が
三苗を平定しようと遠征した
(禹は中国古代の聖王。三苗は漢族に反抗した苗族のこと)効果も、軍を収め帰って徳を国内に
布いたのにはおよばなかったものであった。
青年時代には血気が体内に
漲っているから、心も事物に感じやすく欲情さかんである。一身を危険にさらして
砕けやすいことは、まるで
珠を
転がしているようなものである。華美なものを好んで金銀を浪費するかと思うと、きまぐれにこれを捨ててわびしい境涯に身を
委ねてみたり、気を負うて勇んでいる心が
旺盛だから争いをし出かし、ある時は
羨望し、ある時は
慚愧する
(恥じる)など、気分がむらで好むところも日ごとに定まらない。色情に
溺れ、情懐に
耽り、そうかと思うと義に勇んでは一生を投げ出してかかり、ために一命を捨てた人を理想として、その身を長く安全に保つことは考えない。熱情のおもむくところに迷わされて、長く世間の語り草にもなってしまう。こんなふうに一身を誤るということは、若い時にあることである。
年を取ると精神が衰え、淡泊に何事にも感動しなくなる。心がおのずと平静だから、無益な事はし出かさず、とかくわが身も苦労少なく、他人にも迷惑はかけまいと心がける。老年が理性の点で青年にすぐれているのは、青年が容姿にかけて老年にまさるのと同じである。
小野小町の事跡は、はなはだ不明確である。衰えたときの
有様は、
玉造という本に見えている。この文章は
三好清行が書いたという説があるけれど、
弘法大師の著作目録にもはいっている。大師は
承和の初め
(八三五)に
亡くなられた。小町の全盛時代はその後のことのように思われるが、やっぱりよくわからない。
小鷹狩に適した犬を
大鷹狩に使用すると、小鷹狩に悪くなるということである。大について小を捨てる道理は、実にもっともな次第である。人生の事柄が多事な中で、道を修めることを楽しみとするほど、興趣の深遠なものはない。これこそは
真の大事である。いったん人間の志すべき道を聞いて、これに
志を向けた人が、どうして世上一般の何事か捨てられないことがあろうか。何事を営む心があろうか。愚人だっても、
怜悧な犬の心に劣るはずがあろうか。
世間には心得がたいことも多いものである。何かにつけて、まず酒をすすめ、むりに飲ませておもしろがるのは、どういうわけだかわからない。飲む人の顔は
我慢しかねたように、
眉をひそめ、人目を見はからっては酒を捨てようとし、すきを見てはその場を逃げ出そうとするのを、捕えて引きとどめて、むやみに飲ませるので、ちゃんとした人も急に気違いになり、健康な人も、見る見る大病人になって前後不覚に打ち倒れてしまう。祝い事のある日などはあさましいことではあるまいか。飲まされたほうでは翌日まで、頭痛で食事もできず、
呻吟して
(うめき苦しんで)打ち
臥している。
昨日のこともまるで世を
隔てたことか何か
(39)のように記憶も残らず、公私の重大な用件も打ち捨てて不都合を生じている。人をこんな目にあわせるのは無慈悲でもあり、礼儀にも違ったことである。こんなひどい目にあわされた人は、
恨めしく無念に思わぬはずはあるまい。外国にはこんな風習があるのだそうなと、こちらにはない風俗と仮定してこれを伝聞したものと仮想したら、奇々怪々に感ぜられるものであろう。
酒の酔いは他人の様子で見てさえ不快なものである。深い思慮の敬服すべく見えた人まで、無分別に笑いののしり、多弁になり、
烏帽子は横っちょに曲がり、
装束の帯や
紐などはほどけたままに、
裾をまくって
脛を高く
蹴り上げたはしたない
有様などは、とうてい平常の人物とは考えられない。女は
額髪をすっぽりと
掻きのけてしまい、しおらしげもなく、顔を仰向けて笑いかけ、
盃を持っている人の手にすがりつき、下品なのは
肴を取って人の口に押しつけたり、自分もかぶりついている。とんと、ぶざまなものである。声のありったけを出して歌いわめいたり、舞い出したり、たまたま年
老った法師などが召し出されていて、黒く見にくいからだを肩ぬぎになって目も当てられない様子で身をくねらせているのは、当人は申すに及ばず、おもしろがって見ている人まで
忌まわしく腹立たしい。
また自慢話を聞き苦しく
吹聴するのがあったり、酔い泣きをしたり、下等な連中は大声に
悪罵し合い、
喧嘩になる。あさましく、恐ろしい有様、
外聞の悪い不愉快なことばかり起こって、果てはやらぬというものをむりに奪い取ったり、
縁から落っこちたり、帰途には馬や車から落ちて
怪我をしでかしたり、乗り物のない連中は、道をよろめき歩いて、
土塀や門の下などに向かって言うをはばかるようなことどもをしちらかす。年老って
袈裟などをかけた法師の身で
小童の肩によりかかって、くだらぬことなどを言いかけながらよろめいているのなどは、見る目もきまりが悪い。こんなことも、現世あるいは来世に益のある行為だというのならいたしかたもあるまい。しかし、この世では過失を生じ、財産を失い、疾病を得る。百薬の長などとはいうけれど、万病を酒から引き起こしている。
憂いを忘れさせるともいうが、酔った人は過去の悲しさを思い出して泣いたりしている。それで来世はというと
後世のためには人の知恵を失い、さながら善根を焼く火のように悪行を増し、いっさいの戒律を破って地獄へ
堕ちるであろう。酒を取って人に飲ませた者は
五百生のあいだ
(五百回も生まれ変わるほど長い間)手のない者に生まれると、仏は説いておられる。
こういういとうべき酒ではあるが、また自然と捨てがたいときもあるものである。月の夜、雪の朝、あるいは花の下などに、ゆったりと話し出して盃を取り出すのは、すこぶる
興を添えるものである。退屈な日に、思いがけぬ友だちが来て酒盛がはじまるのは楽しいものである。またお近づきもない高貴の方の
御簾の中から
菓子やお酒などをけっこうに取り合わせて差し出してたまわるのは、まことによいものである。また、冬、狭い場所で火に物を煮たりしながら、
隔意のない仲間が寄り集まってどっさり飲むのはまことにおもしろい。旅の宿または野原や山などで、ありもせぬ
肴を
(40)空想しながら打ち興じて、芝の上で飲んだのなどは
趣が深い。非常に弱い
下戸が、しいられてちょっぴり飲むのなど実に
好い。ありがたいお方が特別に「もうすこし、それではあんまりちょっぴりですから」などとおっしゃってくれるのは、うれしいものである。かねて近づきになりたいと願っていた人が、
上戸で酒のせいでぐんぐんと親密になるのもまたうれしい。
いろいろ欠点も
挙げてはきたが、それでも、上戸というものは愉快で無邪気なものである。前夜酔いくたびれて他人の家に泊まり込みながら朝寝しているところを主人が戸をあけてはいってきたのに、度を失ってぼんやりした顔をしながら、寝乱れて細い
髻をあらわし、着物をじゅうぶんに着るひまもなく両手で抱きかかえ、引きずりまわして逃げ出して行く、帯なしのうしろ姿、細い
毛脛をあらわしたぐあい、こっけいに、酒飲みらしく、無邪気である。
禁中(御所)の
黒戸という
御間は
小松の
御門(光孝天皇)が
御即位以前に、おん幼いお
戯れにお手料理などをあそばされたのを、御即位のおんのちも、お忘れあそばされず、常に、お手料理をあそばされたその御間である。
薪の煙でそこの戸が
煤けたので、黒戸と申すとのことである。
鎌倉の
中書王(後嵯峨天皇の皇子、宗尊親王)の
御邸で
蹴鞠のもよおしがあったのに、雨降り上がりで庭まで
乾かなかったので、どうしたものであろうかと相談があったとき、
佐佐木入道
真願が
鋸屑を車に積んで、たくさん
奉ったので、庭中に敷きつめて、泥の
気遣いもなかった。これなどたくさんたくわえておいた用意のほどが珍しい心がけであると、人々が感心し合った。このことをある人が話したところ、藤原藤房卿
(または吉田中納言)が聞かれて、「さては、乾いた砂の準備がなかったのだね」とおっしゃったのは、はずかしい思いがした。けっこうなと思った鋸屑とは、下品で変なものであった。庭を
司る者は、乾いた砂を用意しておくのが慣例的な作法だそうである。
ある所の
侍たちが、
内侍所の
御神楽を拝観して、そのことを人に話すのに「そのとき宝剣は
何某殿が持っておられた」などと言ったのを聞いて、居合わせた
内裏の女房の中に「
別殿の
行幸(本殿である清涼殿から別の殿舎へ移ること)のは、宝剣ではなく
昼御座の
御剣(清涼殿内の平常の座所である昼御座に置かれている剣)よ」とこっそり言った人がいたのは感心であった。この人は長年
典侍(女官の一つ)をしている人であったとか。
宋に行ったことのある
道眼上人は、
一切経を向こうから持ってきて
六波羅のあたりのやけ野という所に安置し、その経中でも、ことに
首楞厳経を講じて、この所を、この経に
因んで
那蘭陀寺と号した。この上人の話では「那蘭陀寺は、
大門が北向きであると
大江匡房の説として言い伝えているが、
西域伝にも
法顕伝にも見えず、その他にもいっこう見当たらない。匡房卿はどんな知識で言ったものやら、どうも不確かな話である。中国の
西明寺なら北向きなのはもちろんである」と言っておられた。
「さぎちょう」は正月に
毬を打って遊んだ
毬杖を、
真言院から
神泉苑(それぞれ平安京大内裏の仏道道場と庭園)へ出して焼き上げたのがもとである。「
法成就の池にこそ」と
囃すのは、神泉苑の池をいうのである。
「降れ降れこ雪、たんばのこ雪」という歌の意味は、米を
搗いて
篩うときのように雪が降るから粉雪というのである。
溜れ粉雪というべきをまちがえて、「たんばのこ雪」といったのである。そのつぎの句は、「垣や木のまたに」と歌うのであると、さる物知りが言った。昔から言ったものであったろうか、
鳥羽天皇が御幼少のおんころ雪の降ったときにこう
仰せられたというおんことを、
讃岐典侍(藤原顕綱の娘、長子。歌人)が日記に書いている。
四条大納言隆親卿
(藤原隆親)が
乾鮭というものを天皇の
御食膳に供せられたのを、こんな下品なものは差し上げることはあるまいとある人が言ったのを聞いて、大納言は鮭という魚は差し上げないというならばさもあろうが、鮭の
乾したものがなんでいけないことがあろうか、現に
鮎の乾したのは差し上げるではないか、と申したということであった。
人を突く牛は角を切り、人に食いつく馬は耳を切ってこれに印をしておく。印をつけないで人に
怪我をさせたときは飼い主の
科になる。人に喰いつく犬は養ってはならない。これらは皆、罰せられるところで刑法に
戒めてある。
相模守北条時頼の母は、
松下禅尼といった。あるとき時頼を
請待される
(招きもてなす)ことがあったが、その準備に、
煤けた紙
障子の破れたところばかりを、禅尼は手ずから小刀で切り張りをしておられた。禅尼の兄の
秋田城介義景(安達義景)が、その日の接待役になって来ていたが、その仕事はこちらへ任せていただいて何の
某にさせましょう。そういうことのじょうずな者ですから、と言ったところが、禅尼はその男の
細工だってわたしよりはじょうずなはずはありますまいよと答えて、やはり
一間ずつ張っておられたので、義景が、みな一度に張り代えたほうがずっとめんどうくさくないでしょう。
斑に見えるのも
不体裁でしょうし、と重ねて言ったので、尼は、わたしものちにはさっぱりと張り代えようとは思っていますが、今日だけはわざとこうしておきたいのです。物は破れたところだけ修繕して使用するものであると若い人に見習わせ、心得させるためです、と言われた。誠にけっこうなことであった。
世を治める道は倹約を根本にしなければならない。禅尼は女性ながらに聖人の心を体得していた。天下を治めるほどの人を子に持つだけに、凡人ではなかったと聞いている。
秋田城介兼
陸奥守泰盛(安達泰盛。義景の三男)は無双の乗馬の名人であった。従者に馬を出させるとき、その馬が一足飛びに門の
閾をゆらりと越えたのを見ると、これは過敏な馬だと言ってほかの馬に
鞍を置きかえさせた。そのつぎの馬は足をあげず伸ばしたままで閾に当てたので、これは愚鈍な馬だから過失があるだろうと言って乗らなかった。その道の心得のない人物であったならば、なんでこんなに恐れることをしようか。
吉田という乗馬家の言ったのに「馬というものはどれもこれも強いものである。人の力で争うことのできないものと知っておくがいい。乗馬の際には馬をよく見て、その強い所や弱い所をのみこんでおくがよい。つぎに
轡、
鞍などの馬具に危険はないかとよく見て、気がかりなことがあったならその馬を走らせてはならない。この用心を忘れないのが一人前の乗馬家というものである。これが奥義である」とのことであった。
いっさいの技術の道においてその専門家が、たといじょうずではなくともじょうずな
素人にくらべてかならずすぐれているのは、油断なく慎重に道を
等閑にしないのに、素人はわがまま勝手にふるまう。これが素人と専門家との違う点である。技術の道に関することのみと限らず日常の行動や心がまえにも、
魯鈍に慎重なのは得のもとである。巧妙に任せて法式を無視するのは失敗のもとになる。
ある人がその子を僧にして仏教の学問を知り、因果の哲理をも
会得し、説教などをして世渡りの手段ともするがよかろうと言ったところが、子は親の
命のとおりに説教師になるために、まず乗馬を
稽古した。それは
輿(人を乗せてかつぐ乗りもの)や車
(牛車)のない身分で導師として
請待された場合、先方から馬などで迎えに来た場合に
鞍に尻が
据わらないで落馬しては困ると思ったからである。そのつぎには仏事のあとに酒のふるまいなどがあったとき、坊主がまるで芸がなくとも
施主は
曲のないことに思うだろうと
早歌というものを習った。乗馬と早歌とがだんだんじょうずになると、ますますやってみたくなって稽古しているあいだに、説教を教わる時がなくて年を取ってしまった。
この坊主ばかりではない。世間の人はみなこの坊主と同様なところがある。青年時代には何事かで身を立てて大きな道をも成しとげ、才能をも発揮し、学問をもしたいと遠い将来の念願を心にいだきながら、この世を長くのんきなものに考えて怠慢しつつ、まず目前の事にばかり追われて、それに月日を
費して暮らすから、どれもこれも一つとして
成就することもなくその身は老人になってしまう。芸道の達人にもなれず、思ったほどの立身もせず、後悔しても逆に年を取れるわけでもないから、走って坂を下る車輪のように衰えてしまう。
それゆえ、自分の生涯で主要な願望のなかで何が最も重大かをよく思いくらべたうえで、第一の事をよく決定し、他のいっさいは放棄して、その一事を励むべきであろう。一日の中、一刻の間にも幾多のことが起こってくる中で、すこしでも益のあることは実行して他は放棄して大事の実現を急ぐべきである。何もかも捨てまいとする心もちでは、結局、何一つ成就するものではない。
たとえば
碁を打つ人が、一手もむだをせず、人の先を打って小を捨て大を取ろうと心がけるようなものである。三つの石を捨てて十の石に着目することは容易である。十を捨てて十一を取ろうとするのがむずかしい。一つでも多いほうを取るのがあたりまえなのに、十にもなると惜しく感ぜられるから、たいして多くもない石とは取り換えたくない。これをも捨てず、あれをも取ろうと思う心のために、あれも得られず、これをも失ってしまう道理である。
京に住む人が急用で東山へ行ったと仮定してすでに着いてからでも、西山へ行ったほうがさらに有益だと気づいたなら、東山の目的の家の門前からでも引き返して西山へ行くべきである。ここまで来着いたのだから、まずこのことをすましておこう。期日のあるわけでもないから、西山のほうへは帰ってからまた志そうと思うから、いちじの
懈怠が一生の懈怠となってしまう。これを恐れなければいけない。一事をかならず成就しようと思ったら、他のことの破れるのをもけっして案じてはいけない。他人の
嘲笑なども恥とするにはおよばぬ。いっさい万事と取り換えるに気にならないでは一つの大事も成るものではない。
人のたくさん集合していた中で、ある人が「『ますほの
薄』『まそほの薄』などということがある。
渡辺の
聖がこのことを伝え知っている」と話したのを、
登蓮法師がその席上に居合わせ聞いて、雨が降っていたので、「
蓑笠がございましょうか、拝借したい。その
薄のことを習いに渡辺の聖のもとへ問いに行きましょう」と言ったので、「あまり性急です。雨がやんでからでは」と人が言うと、「とんでもないことをおっしゃるものですね、人の命は雨の
晴間まで待っているものでしょうか。私も死に
聖も
亡くなられたら、たずねることができましょうか」と、走り出て行って習ってきたと言い伝えられているのは、実に非常にありがたいことと思う。「
敏き時は
(機敏にやれば)則ち功あり」ということは論語という書物にもある。この薄のことを不審にしていたおりから、真理を追究しようという意気込みであったのであろう。
今日はあることをしようと思っているのに、別の急ぎの用が出てきてそれに
紛れて暮らし、待つ人は故障があって
来ぬ。待たぬ人が来る。頼みにしていたことは不調で、思いがけぬことだけが成立した。心配していたことは、わけなく成り、なんでもないと思っていたのが、たいそう骨が折れる。一日一日の過ぎてゆくのも予想どおりにはならない。一年もそのとおり、一生涯もまたそうである。予定の大部分は、みな違ってしまうかと思うとかならずしも違わないものも出てくる。だからいよいよ物事はきめてかかれないのである。「不定」と考えておきさえしたら、これがまちがいのない真実である。
妻というものこそ、男の持ちたくない者ではある。いつも独身でなどと
噂を聞くのはゆかしい。
誰某の
婿になったとか、またはこういう女を家に入れて
同棲しているなどと聞くのは、とんとつまらぬものである。格別でもない女を好い女と思って添うているのであろうと
軽蔑されもするだろうし、美人であったら男はさだめし
可愛がって本尊仏のようにもったいながっているであろう。たとえばこんなふうになどと、こっけいな想像もされてくる。まして家政向きな女などはまっぴらである。子などができて、それを守り育て愛しているなどはつまらない。男が
亡くなってのち尼になって年を
老っている
有様などは、死んだあとまでもあさましい。
どんな女であろうと、朝夕いっしょにいたら、うとましく憎らしくもなろう。女にとっても、夫の愛は足らず自由はなく中ぶらりんな頼み少ないものであろう。別居してときどきかようて住むというのが、いつまでも長つづきのする間柄ともなろう。ちょっとのつもりで来たのがつい泊まり込んでしまうのも、気分が変わってふたりには珍しくたのしかろう。
夜になると物の
光彩が失われると説く人のあるのは、はなはだ心外である。万物の光彩、装飾効果、色調なども、夜見てこそ始めてりっぱにも見えるのである。昼は簡素に地味な姿でいてもよいが、夜は
燦然たる
華麗な装束がすこぶる
好い。人の様子も夜の灯火の下が、美しい人は美しさを発揮するし、物を言う声も暗いところで聞いて、たしなみのあるのが奥ゆかしい。
匂いも物の
音色も、夜が一段と好もしい。
べつになんの儀式とてもない夜、ふけて
参内した人がりっぱな装束を着ているのはまことに好いものである。若い友人の間柄でたがいにその容姿を観察し合うような間柄では、見られる時機が定まっているわけではないから、特別に改まらぬ場合に、ふだんも晴着も区別なく周到な用意をしておきたい。品のよい男が日暮れてから髪を洗うのや、女が夜ふけになったとき席をはずして
局(女性の居室として仕切った部屋)で鏡を取り出し、化粧などを直してくるのは趣のあるものである。
神社仏寺へも人の多く
参詣せぬ日、夜分に参るのがよろしい。
暗愚な人が他人を推量して、その人の知恵を知ったつもりでいるのは、いっこう当てにならないものである。
碁を打つことだけが巧者な人が、えらい人でも碁の
拙いのを見て自分の知恵にはおよばないと判断するようなもので、すべていずれの
業でもその道の職人などが、自分の職業のことを心得ないのを見て、自分のほうがえらいものと考えたら大きなまちがいであろう。
経文に明るい学僧と
坐禅をして真理を悟ろうとする実行僧とが、たがいに相手を
量って自分のほうがえらいと思うなども、ともに当たらないことである。自分の専門外のことを争ったり、批評したりするものではない。
達人たるものが人を見る眼識は、すこしも見当違いのあってならないものである。たとえば、ある人が世に対して虚言をかまえて人を
欺こうと計画する場合、それを正直に事実と信じて、その人の言うがままにだまされる人がある。また、あまりに深く虚言を信じ過ぎて、その上に輪をかけた虚言をつけ加える人もある。また、なんとも思わないで気にもとめぬ人もある。また、いくぶんか疑念をはさんで、ほんとうにするでもなく、しないでもなく考えてみている人もある。また、ほんとうとは受けつけないが、人のいうことだからそんなこともあるかもしれないくらいに思って、そのままにしておく人もある。また、さまざまに推察して万事のみこんだようなふうに賢者ぶってうなずいて、微笑してはいるが、その実、いっこう真相を知らないでいる人もある。また、推測して、なるほどそうかと気がついていながら、まだまちがいがあるかもしれないと疑いをいだいている人もある。また、格別にたいしたことでもないさとばかり、手をうって笑っている人もある。また、虚言とよく知っていながら、わかっているとは言わないで気のつかぬ人同然の態度で過ごす人がある。また、虚言と知り抜いて、虚言をかまえた人と同じ心もちからそれに力を合わせ、それを助長する人もある。
無知な人間どもが集まってする取るにも足りない虚言でさえ、
種を知ってさえいれば、このように人さまざまの個性が言葉になり表情になり、現われるのがわかるものなのである。まして
明達の士
(かしこく道理をよく知る人)がわれわれのように
惑っている者を見抜くのはわけもないこと、あたかも手のひらの上のものを見るほどのことであろう。さればといって、こんな推測をもって深遠な仏法の方便などにまで準じて、論じおよぶことはよくない。
ある人が
久我畷(京都市伏見区にある道)を通行していると、
小袖を着て大口の
袴をつけた人が木造の地蔵尊を田の中の水に
浸してたんねんに洗っていた。変なことだなあと見ていると、
狩衣をつけた男が二三人出てきて「ここにおいでになった」と言って連れていった。
久我内大臣
通基公であった。以前、普通の精神状態でおられたころには、温順で尊敬すべき人物であった。
東大寺
鎮守の
八幡の
神輿が
東寺の
若宮八幡からお帰りの時、源氏の
公卿方はみな若宮へ参られたが、その時この
久我内大臣は
近衛大将であって
随身に先払いさせられたのを、
土御門の
太政大臣
定実公
(源定実)は「神社の前で先払いをするのはいかがなものであろう」と言われた。するとこの大将は「随身たるべきもののいたすべき作法は、われら武家の者がよくぞんじております」とだけ答えた。さて、のちになってから久我殿は「土御門太政大臣は
北山抄(藤原公任選の故実書)は見ておられるが、もっとふるい西の宮
(西宮左大臣源高明)の説のほうはごぞんじないとみえる。神の
眷族たる悪鬼悪神を恐れるから、神社の前ではとくに随身に
警蹕(天皇や貴人の通行のために先ばらいすること)の声をかけさせる理由がある」と言われた。
定額(朝廷から供料を頂く定員の決まった僧)というのは、何も諸寺の僧とばかりは限ったものではない。定額の
女嬬(下級の女官)という言葉が現に
延喜式に見える。本来はすべて数の定まった公儀の人には一般に通じた呼び方なのである。
揚名介があるだけではなく
揚名目というものもある。政事要略に出ている。
横川の
行宣法印の言うところによると、「中国は
呂の国である、
律の
音がない
(いずれも雅楽に用いられる旋法)。日本は律だけの国で呂の音がない」とのことであった。
呉竹は葉が細く、
河竹は葉が広い。
禁中の
御溝(宮中の庭の水の流れるみぞ)のそばに植えられているのが河竹で、
仁寿殿のほうへ近くお植えになったのが呉竹である。
退凡と
下乗との
卒都婆(仏教の聖地・霊鷲山にあったといわれる塔。退凡は凡人をしりぞける、下乗は乗馬を禁ずるもの)は
紛らわしいものであるが、外側のが下乗で内側のが退凡である。
十月を
神無月と呼んで神事にはばかるということは、別に記した物もなければ、根拠とすべき記録も見ない。あるいは当月、諸社の祭礼がないからこの名ができたものか、この月はよろずの神々が大神宮へ集まり
給うなどという説もあるが、これも根拠とすべき説はない。それが事実なら伊勢ではとくにこの月を祭る月としそうなものだのに、そんな例もない。十月に天皇が諸社へ
行幸された例はたくさんにある。もっともその多くは不吉な例ではあるが。
勅勘(天皇の命により罰せられること)をこうむった家に
靫(矢を入れて背負う道具)をかける作法は、今では知っている人がまるでない。天子の御病気のおん時とか
疫病の流行する時には、五条の天神に靫をお掛けになる。
鞍馬に靫の明神というのがあるのも靫を掛けられた神である。
看督長の負うていた靫を勅勘の者の家に掛けると、人がその家へ出入りしないようになるのである。このふうが絶えてからのちは、
封(封印)を門戸につけることとなって今日におよんでいる。
犯罪者を
笞で打つときは
拷器へ近づけて
縛りつけるのである。拷器の構造も、縛りつける作法も、今日ではわきまえ知っている人はないということである。
比叡山にある大師
勧請の
起請文というのは、
慈恵僧上が書きはじめられたものである。起請文ということは法律家のほうではなかったものである。
古の
聖代には、本来起請文などによって民を信用させたうえで行なう政治などはなかったはずのものを、ちかごろになってこのことが流行になったのである。またついでながら、法令には
水火に
穢れを認めていない。水火の入れ物には穢れもあろう。水火それ自体に穢れがあるはずもない。
徳大寺右大臣
公孝卿(藤原公孝)が、
検非違使の
別当であられたころ、検非違使庁の
評定、すなわち裁判の最中に、役人
章兼(中原章兼)の牛が車を放れて、役所の中にはいり、長官の席の台の上へ登り込んで、
反芻をしながら寝ていた。異常な怪事というので、牛を
占のところへやって
卜わせようと人々が言っているのを、公孝卿の父の
太政大臣
実基公
(徳大寺実基)が聞かれて、牛にはなんの思慮もない、足があるのだからどこへだって登って行くのがむしろ当然である。
微賤な役人が、偶然
出仕に用いたつまらぬ牛を取り上げてよいものではなかろうと言うので、牛は持主に返し、牛がしゃがんだ
畳は取り換えられた。別段なんらの凶事も起こらなかったということである。怪事を見ても怪しいと思わないときは、怪事が逆に
壊れてしまうともいわれている。
亀山殿(後嵯峨上皇が嵯峨に作った御所)を建設せられるために地ならしをなされたところが、大きな
蛇が無数に寄り集まっている
塚があった。この土地の神だといって
顛末を
奏上したところが、どうしたものであろうかとの
勅問があったので、衆議は昔からこの土地を占領していたものだからむやみに掘り捨てることはなるまいと言ったけれど、この太政大臣
(徳大寺実基)だけは、王者が統治の地にいる虫どもが皇居をお建てあそばすのになんの
祟りをするものか。鬼神も道理のないことはしないから祟りはないはずである。みな掘り捨ててしまいさえすればよろしい、と申されたので、塚を破壊して蛇は
大井川へ流してしまった。はたしていっこうに祟りもなかった。
経文などの
紐を結ぶのに、上下から
襷のように交錯させて、その二筋のなかからわなの頭を横へ引っぱり出しておくのは、普通のやり方である。しかるに
華厳院の
弘舜僧正はこの結び方を見て解いて直させ、この結び方はちかごろの方法ですこぶるぶざまである。いいのは、ただくるくると巻きつけて上から下へわなのさきを押しはさんでおくのである、と申された。老人でこんなことに通じた人であった。
他人の田をわがものと論じ争ったものが
訴訟に負けて、くやしさにその田を刈り取ってこいと人をやったところが、これを命ぜられた者どもは、問題の田へ行く途中からよその田をさえ刈って行くので、そこは問題のあった田ではないと抗議されて、刈った者たちはその問題の田にしたところで刈り取る理由がないのにむちゃをしに行くのだから、どこだって刈り取ってもかまうものですか、と言った。この理屈がすこぶるおかしい。
呼子鳥は春のものであるとばかり説いて、どんな鳥だとも確実に記述したものはない。ある
真言の書のなかに、呼子鳥が鳴く時、
招魂の法を行なう式が書かれてある。これで見ると
鵺のことである。万葉集の長歌に「
霞立つ長き
春日の……」とあるところに「ぬえこ鳥うらなきおれば……」とある。この鵺子鳥と呼子鳥とは、様子が似かよっているようである。
いっさいの事物は、信頼するに足りないものである。愚人はあまり深く物事を当てにするものだから、
恨んだり腹を立てたりすることが生ずる。権勢も信頼できない。強者は滅びやすい。財産の豊富も信頼できない。時のまになくなってしまう。才能があっても信頼できない。孔子でさえも不遇であったではないか。徳望があるからといって信頼はできない。
顔回(孔子の第一弟子)でさえも不幸であった。君主の
寵遇も信頼はできない。たちまちに
誅せられる
(罰として殺される)ことがある。従者を連れているからと信頼することもできない。主人を捨てて逃げ出すことがある。人の厚意も信頼できない。きっと気が変わる。約束も信頼できない。相手に信を守るのは少ない。
相手ばかりか、わが身をも信頼しないでいれば、
好い時は喜び、悪い時も
恨まない。身の左右が広かったらなにも
障らない。前後が遠かったならば行きづまることもない。しかし前後左右の狭い時には押しつぶされる。心を用いる範囲が狭小で
峻厳な場合は、物に逆らい争うて破滅するような結果になる。寛大で
柔和ならば一毛も損ぜられることはない。人は天地間の霊である。天地は局限するところのないものである。それゆえ天地の霊たる人の
性は、どうして天地と
相違うてよかろうぞ。天地の心を心として寛大に局限しない場合には、喜怒の感情はこれに接触せず、事物のために心をわずらわされることもなくてすむはずである。
秋の月はこのうえなくいいものである。いつでも月をこんなものであると思って、この季節の特別の
趣に気がつかぬような人は、すこぶるなさけないしだいである。
天子のおん前の
火鉢に火を入れるときは、
火箸ではさむことはしない。
土器から直接に移し入れるのがよいのである。それゆえ、炭を
転ばさないように注意して積むべきである。
上皇が
石清水八幡宮へ
行幸のおりに、お供のひとが白い
浄衣を着ていて手で炭をついだのを、ある
有職(古い典礼の知識)に通じた人が、白い物を着ている場合は火箸を用いても悪くはないのだ、と言っていた。
想夫恋という
楽(雅楽)は、女が男を恋い慕うという意味の名ではない。本来は、相府蓮というのが、文字の音が通ずるので変わったのである。これは
晋の
王倹という人が、大臣としてその邸家に
蓮を植えて愛した時の音楽である。これ以来、大臣のことを
蓮府ともいう。
廻忽という楽も、廻鶻がほんとうである。廻鶻国といって強い
夷(未開の異民族の意)の国があった。その夷が漢に帰服してから来て、自分の国の楽を奏したのである。
平宣時朝臣(大仏宣時)が老後の追懐談に、
最明寺入道
北条時頼からある
宵の
口に召されたことがあったが、「すぐさま」と答えておいて
直垂(武士の平服)が見えないのでぐずぐずしていると、また使者が来て「直垂でもないのですか、夜分のことではあり、
身装などかまいませんから早く」とのことであったから、よれよれの直垂のふだん着のままで行ったところ、入道は
銚子に
土器を取りそえて出て来て「これをひとりで飲むのが物足りないので、来てくださいと申したのです。
肴がありませんが、もう家の者は寝たでしょう。適当なものはありますまいか、存分に探してください」と言われたので、
紙燭(ロウソクがわりの一種のたいまつ)をつけて
隅々まで探したところが、小さな土器に
味噌のすこしのせてあったのを見つけて「こんなものがありましたが」と言うと「それでけっこう」と、それを肴に愉快に数杯を傾け合って
興に入られた。その当時はこんな質素なものであったと申された。
最明寺入道
(時頼)が
鶴岡八幡へ参拝せられたついでに、
足利左馬入道
義氏のところへまず前触れをつかわしてから立ち寄った。その時の
御馳走の
献立は第一
献にのし
鮑、第二献に
鰕、第三献に
牡丹餅、これだけであった。その座には主人夫妻と
隆弁僧上とが、主人側の人であった。
宴が果ててから、「毎年下さる足利の染物はいただけましょうね」と言われたので、左馬入道は「用意しております」と種々の染物を三十種、時頼の目の前で、召仕えの女どもに命じて
小袖に
截たせあとから仕立てておくられた。このとき、これを見た人がちかごろまで存世で、話して聞かせました。
ある大富豪の説に、「人は万事をさしおいて、専念に財産を積もうとすべきものである。貧乏では生きがいもない。富者ばかりが人間である。裕福になろうと思ったら、よろしくまず、その心がけから修養しなければならない。その心がけとはほかでもない。人間はいつまでも生きておられるものという心もちをいだいて、いやしくも人生の無常などは観じてはならない。これが第一の心がけである。つぎに、いっさいの所用を弁じてはならない。世にあるあいだは、わが身や他人に関して願い事は無際限である。欲望に身を任せて、その欲を果たそうという気になると、百万の銭があってもいくらも手に残るものではない。人の願望は絶えまもないのに、財産はなくなる時期のあるものである。局限のある財産をもって無際限の願望に従うことは不可能事である。願望が生じたならば身を滅ぼそうとする悪念が襲うたと堅固に
謹慎恐怖して、
些少の用をもかなえてはならない。つぎに、金銭を
奴僕のように用いるものと思ったら、永久に貧苦から
免れることはできない。君主のように神のように
畏怖し尊敬してわが意のままに用いることを禁止せよ。つぎに、恥辱を感じたことがあっても、
憤怒怨恨を感じてはならない。つぎに、正直に約束を固く守るべきである。これらの意味をよくわきまえ信じて利得を求める人には、富の集まってくること、たとえば火の乾燥物に燃え移り、水の低きにつくようなものであろう。銭の蓄積してつきない限りは、酒色や音曲などに従事せず、居住をりっぱにせず、願望をとげなくとも心は永久に安楽である」と申された。
いったい、人間は自分の欲望を満足させようとして財産を作ろうとするものである。金銭を宝とするのは、願望を満足させるがためである。願望が起こってもこれをとげず、銭があっても使用しないとすれば、まったく貧者と同然である。前の大富豪の戒律は、つまり人間の欲望を断って、貧を
憂うるなかれということのように聞こえる。富の欲を満たして楽とするよりも、むしろ財産のないほうがましである。
癰疽(癰、疽、いずれも悪性のできもの)を
病む者が患部を水で洗って楽しいとするのよりも、病気にかからぬがいっそうよかろう。ここまで考えてくると、貧富の区別もなく、
凡夫も
大悟徹底の人も同等で、大欲は無欲に類似している。
狐は人に食いつくものである。
堀川殿で
舎人が寝ていて、足を狐にかまれたことがあった。
仁和寺で、夜、本堂の前を通行中の下級の僧侶に狐が三匹飛びかかってくいついたので、刀を抜いてこれを防ぐうちに、狐二匹を突いた。その一匹は突き殺した。二匹は逃げた。僧はたくさんかまれはしたが、生命は別条もなかった。
四条中納言藤原隆資卿が自分に
仰せられたには、「
豊原龍秋という楽人は、その道にかけては尊敬すべき男である。先日来て申すには、無作法きわまる無遠慮な申し分ではございますが、横笛の五の穴はいささか
腑におちないところがあると、ひそかに愚考いたします。と申しますのは、
干の穴は
平調、五の穴は
下無調です。そのあいだに
勝絶調を一つ飛んでおります。この穴の上の穴は
双調で、双調のつぎの
鳧鐘調を一つ飛んで、
夕の穴は
黄鐘調で、そのつぎに
鸞鏡調を一つ飛んで、中の穴は
盤渉調である。中の穴と六の穴とのあいだに
神仙調を一つ飛んでいる。このように穴のあいだにはみな一調子ずつ飛ばしているのに、五の穴ばかりはつぎの上の穴とのあいだに一調子を持っていないで、しかも穴の距離は他の穴と同じくしているから、この穴を吹くときは、かならず吹く口を少し穴から離して吹くのです。もしそうしないと調子が合いませぬ。したがって、この穴を無難に吹ける人はめったにありませぬ」と述べた。よく事理に通じた話で実におもしろい。先輩が後進を恐れるというのは、すなわちこのことであるとのお言葉であった。
後日、
大神景茂の説では、
笙はあらかじめ調子を用意しておいてあるから、ただ吹きさえすればよいのである。笛のほうは吹きながら調子を
調えてゆくものであるから、どの穴にも
口伝があるうえ、自分のくふうでかげんし注意する必要のあるのは、あえて五の穴のみとは限らない。悪く吹けばどの穴も不快である。じょうずの人はどの穴もよく調子を合わせて吹く、笛の調子が他の楽器に合わないのは、吹く人が
拙劣で楽器の欠点ではない、と言っている。
何事も地方のは下品で不作法であるが、
天王寺(大阪の四天王寺)の
舞楽だけは、都の舞楽にくらべて
遜色がないと言ったら、天王寺の
伶人(雅楽の奏者)が言うには、当寺の楽はよく標準律に
則って音を合わせるので、音のりっぱに
調っていることは
他所の楽よりすぐれている。というのは、聖徳太子のおん時の標準律が現存しているので、それによるのです。この標準律というのは、あの
六時堂の前にある鐘です。あの鐘の声は
黄鐘調のまん中の音です。もっとも気候によって音の高低がありますから、二月十五日の
涅槃会から同月二十二日の
聖霊会までのあいだの音を標準にするのです。これはたいせつな秘伝です。この一音調をもとにして他の音を調えるのです」と言った。
いったい鐘の声というものは黄鐘調であるべきものである。これは無常の音調で、
天竺の
祇園精舎の
無常院の鐘の声がこれである。
西園寺の鐘は黄鐘調に
鋳ようというので、いく度も
鋳直したが、ついぞできなかったので、
遠国から黄鐘調のものを探し出してきたものであった。
法金剛院のものも黄鐘調である。
建治弘安(一二七五〜八八)のころは、
賀茂の祭の
放免、言ってみれば
検非違使の雑役の
物には、変な紺の
布四、五反で馬の形を作り、尾や髪を灯心で作って、
蜘蛛の巣をかいた
水干(貴族の日常着、狩衣の一種)を着た上へこれを引っかついで、この
意匠をそこから取った和歌――蜘蛛のいの荒れたる駒はつなぐとも
二道かくる人はたのまじ――を口ずさんだりしながら渡っていったのは、以前はよく見かけたもので興味のある趣向だなあと思っていたのにと、今日も年取った
道志(大学寮で明法道を修め、衛門府と検非違使庁の四等官を兼任するもの)連と話し合ったものである。近年はこの

物が年々に
贅沢の度がひどくなって、さまざまな重いものなどを身につけて左右の
袖を人に持たせ、自分は当然持つべき
鉾さえ持てないで、息づかい苦しげの様子は、はなはだもって醜悪である。
竹谷の
乗願坊という坊さん
(宗源)が、
後深草院の
后、
東二条院のおんもとへ参られた時、
亡者の
追善には何が一番
利益がすぐれているかとおたずねがあったので、乗願坊は、
光明真言の
宝篋印陀羅尼でございますと答えたのを、あとで、弟子どもがなんであんなことを
仰せられましたか、念仏こそ第一等でこれにおよぶものはございますまいと、どうしておっしゃらなかったのですかと言ったところが、乗願坊の答えるには、わが宗派ではあり、そう答えたいものではあったが、たしかに念仏が追善に大きな利益があると書いてある
経文は見たことがないので、そのことは何経に出ているかと重ねておたずねのあったとき、なんとお答えできようかと案じて、根拠になるたしかな経文に従ってこの光明真言宝篋印陀羅尼と申し上げたのであると言われた。
九条基家公を
鶴の
大殿と申したのは、幼名がたず
君であったのである。
鶴をお飼いになったからというのは誤りである。
陰陽師の
安倍有宗入道が鎌倉から上京して訪問してくれたが、まず
入りがけに、この庭がむやみと広すぎるのはよくないことで感心できない。物のわかった人は植物の養成を心がける。細い道を一筋残しておいて、みな畑にしてしまいなさいと忠告したものであった。なるほどすこしの土地でも打ち捨てておくのは無益なことである。食料になる野菜や薬草などを植えておくのがよかろう。
楽人
多久資が話したのに、
通憲入道
信西(藤原通憲)が
舞の
所作の中からおもしろいのを選んで、
磯の
禅師という女に舞わせた。その姿は白い
水干に
鞘巻という刀をささせ、
烏帽子をかぶらせたから
男舞とよんだ。禅師の娘の
静というのがこの芸を伝承した。これが
白拍子の起源である。仏神の由来
縁起を歌ったものであった。その後
源光行が多くの歌曲を作った。
後鳥羽院の
御製になったのもある。院はこれを
亀菊という
遊女(歌舞などの芸をする女)にお教えになったということである。
後鳥羽院の
御時(一一八三〜一二二一)、
信濃前司行長(中山行長)は学問において名誉のあった人であったが、この人が
楽府の御議論の中に召し加えられた際、
七徳の
舞の中の二徳を忘れたので、五徳
冠者という
仇名をつけられた。それを苦にして学問をやめて出家したのを、
叡山の
慈鎮和尚は一芸のある者は、たとい下僕でも召しかかえて
寵遇したのでこの信濃入道行長をも養っておかれた。この行長入道が平家物語を作って、これを
生仏という盲人に教えて語らせた。それで自分の世話になった
延暦寺のことを、とくべつにりっぱに書いているのである。
九郎判官(源義経)のことはくわしく知って記載してある。
蒲冠者(源範頼)のことはじゅうぶん知らなかったものを書き
漏らしている事跡が多い。武人、兵馬のことは生仏が関東の出身者であったので、武士に問わせて記入したのである。あの生仏の性来の音声を、現代の
琵琶法師はまねているのである。
六時礼讃は
法然上人の弟子の
安楽という僧が、
経文を集めて作り、日没、初夜、中夜、
後夜、
晨長、午時の六時に、これを
誦して
勤行したのである。その後、
太秦の
善観房という僧がそれに
節を決めて
梵唄としたものであった。
一念義流の念仏の最初である。これを
唱えることは、
後嵯峨天皇の
御代から始まった。
法事賛も同じく善観房がはじめたものである。
千本(京都の大報恩寺のこと)の
釈迦念仏は、
文永(一二六四〜七五)のころ、
如輪上人(澄空)が始められたものである。
よい
細工人は、いくぶん
鈍い刀を使用する、ということである。
光仁朝
(七七〇〜八一)の名仏工
妙観の刀も、あまり鋭利ではない。
五条の
内裏には
化物がいた。
藤大納言殿のお話しなされたところでは、殿上人たちが
黒戸の間に集合して
碁を打っていたら、
御簾を上に持ち上げて見るものがある。たれだとふり向いて見ると、
狐が人間のようにちゃんとすわって、のぞいていたので、やあ、狐だと騒がれて逃げまどうていた。未熟な狐が化けそこなったものとみえる。
園別当入道
藤原基氏は、料理にかけては無比の名人であった。ある人のもとでりっぱな
鯉を出したので、衆人は別当入道の
庖丁を見たいと思ったが、こともなげに言い出すのもはばかられるので遠慮していたのに、別当入道は
如才のない人で「このあいだから、百日つづけて鯉を切ることにしていましたのに、今日だけ休みたくないものです。ぜひともそれをいただいて切りましょう」と言って切られたのは、すこぶる好都合でおもしろいと、みなは感じました。と、ある人が
北山太政入道殿
西園寺公経に話したところが、そんなことを自分はまことに小うるさいと思います。切る人がないならください、切りましょうと言ったらもっとよかったでしょうに。なんだって、百日の鯉を切るなんて、ありもしないこしらえごとを、と
仰せられたのは、いかにもとぞんじましたとある人が言ったのに、自分もすこぶる共鳴した。
いったい、いろいろ
趣を
凝らしておもしろみをそえたのよりは、わざとらしい趣向などはなく、あっさりしたのがいいものである。客を
饗応するにしても、何かしかるべき口実を設けてもてなすのも悪くはないが、それよりは別になんということなしに取り出したのがいたってよい。人に物をやるにしても、とくにこれという理由を設けないで、あげましょうと素直に言ったのが、真実の
志というものである。惜しむような様子をして欲しがらせたり、勝負事の負けた
賭物などにかこつけて与えるのは、見苦しい。
総じて、人間は無知無能な者のようにしているのがよろしい。ある人の子で、
風采などもりっぱな人が、父の前で人と話をするのに史籍の文句を引用していたのは、賢そうに聞こえはしたが、目上の人の前では、そんなでない方だと感じたものだ。
またある人のもとで、
琵琶法師の物語を聞こうと琵琶を取り寄せたところ、その
柱の一つが落ちていたので、すぐに柱を作ってつけておいたらよかろうと言うと、一座にいた相当なふうをした男が、古い
檜杓の
柄がありますかと言うので、その男を見ると
爪を長くはやして琵琶などを弾く男だなと思えた。
盲法師の弾く琵琶は、音楽のもの同様に取扱うにもおよばぬ
沙汰である。自分がその道の心得があるというつもりで、きいたふうを言ったのかと思うと、冷汗ものであった。檜杓の柄は、ひもの木
(檜物木。ヒノキ細工に使う板のこと)とかいうもので好くないものだのに、と
後にある貴人が言っておられた。若い人の場合はちょっとしたことでも、
好い感じを受けたり、悪い感じを受けたりするものである。
万端、過失のないようにと心がけるなら、何につけても誠実に、相手を問わず
恭謙の態度をもって、言葉数の少ないのに越したことはない。老若男女を問わず、
何人もそういう人が
好いけれど、なかんずく、青年で
風采のあがった人が言葉のよいのは、忘れがたく感銘するものである。すべての過失というものは慣れきった様子でじょうずぶり、巧者らしい態度に、人をのんでかかるので起こるものである。
人が物を問うたとき、知らないわけでもあるまい。ありのままに答えるのも気がきかないとでも思うのか、
曖昧な返事をするのはよくないことである。知っていることでも、もっと確実にしたいと思って問うのであろうし、また、ほんとうに知らない人だってないはずもなかろう。それゆえ、人の質問に対しては明白に答えるのが穏当であろう。
人がまだ聞きつけないことを自分が知っているからというので、先方から問い合わせがあったときなどに、自分のひとり
合点で、ただあの人のこともあきれかえったものですねというようなことだけを返事してやると、事件そのものを判然と知らないほうでは、どんなことがあったのだろうかとさらに押しかえして問いに行かなければならないのなどは、まことにいやなしだいである。世間周知のことだって、つい聞きもらす場合
(44)だってあるのだから、
腑におちない
節のないように知らせてやるのが、なんで悪いはずがあろうか。こんなやり方は、世事に慣れない人のよくやることである。
持主のある家へは、用のない人間などが気ままに入ってくることはないが、
主のいない家へは、通りがかりの人でもむやみに入りこんで来る。
狐や
梟のようなものでも主のない家は人気に
妨げられないから、得意然と入りこんで住み、
木魂などという怪異などまで現われるものである。また、鏡には色や形がないから、種々の物の影も映る。もし鏡に定住のものともいうべき色や形があったなら、外物の影は映らないであろう。
空虚なところへは、よく物が入りこむ。雑多な欲念が勝手に思い浮かんでくるのも、本心というものがないからであろう。心に一定の主体さえあったなら、胸中かように雑多なことが入ってはこないのであろう。
丹波に
出雲という所がある
(現在の京都府亀岡市の出雲)。名にちなんで
杵築大社を移してりっぱに
社を造営している。
志太の
某という人が、
知行しているところだから、この人が、秋のころ、
聖海上人をはじめ、
数多の人々を誘い、さあどうぞ、出雲の社へ
御参詣かたがた
牡丹餅でも召し上がってくださいというので、案内していってくれたので、人々は参拝して大いに信心を起こしたが、ふと見ると神前の
獅子や
狛犬が反対に、うしろ向きに立っていたので、上人がひどく感心して、ああありがたい。この獅子の立ち方が実に珍しい。深い
訳があろうと
感涙をもよおして、「どうです、みなさん、ありがたいことが、お気づきにはなりませんか。しかたのない人たちだ」と言ったので、人々もふしぎに思って「なるほど、
他処とは変わっていますね。都への
土産話にしましょう」などと言ったものだから、上人はいっそうゆかしく思って、おとなしくて物わかりのしそうな顔をした神官を呼んで「ここのお
社の獅子の立て方は、きっと由来のあることでしょう。御説明を願いましょう」とたずねられると、「それでございますか、
腕白どもがしでかした不都合ないたずらです」と答え、そばへ立ち寄って
据え直して行ってしまったので、上人の感涙も、ふいになってしまった。
「
柳箱(身の回りの小物などを入れる柳細工で作った箱。フタを台として使った)に置くのは、
縦向きにしたり、横向きにしたり、物品によるものでしょうか、巻物などは縦に置いて、木の間からこよりを通して結びつけます。
硯も縦に置くと筆が
転ばないでよい」と三条右大臣殿が言っておられた。
世尊寺家のお方たちは、かりにも縦に置くことはなく、きっと横向きに
据えられたものでした。
御随身の
近友の自賛といって、七ヵ条書きつけていることがある。馬術に関したつまらぬことどもである。その先例に見ならって、自分にも自賛のことが七つある。
一、人を多く同伴して花見をして歩いたが、
最勝光院の付近
(現在の京都・三十三間堂あたりといわれる)で、ある男の馬を走らせているのを見て「もう一度あの馬を走らせたら、馬が倒れて落馬するでしょう。ちょっと見ていてごらん」と言って立ちどまっていると、また馬を走らせた。それをとめようとするところで馬を引き倒し、男は泥のなかへ
転び落ちた。自分の言葉の的中したのに、人々はみな感心した。
一、
今上の
帝が、まだ
東宮であらせられた
(皇太子であった)ころ、
万里小路殿藤原宜房邸が
東宮御所であった。
堀川大納言殿東宮大夫藤原
師信(または源具親)が
伺候しておられたお部屋へ、用事で参上したところが、論語の四、五、六の巻を繰りひろげていられて「ただいま東宮御所で、
紫の
朱をうばうを
悪む」という
文を御覧あそばされたいことがあって、
御本を御覧あそばされたが、お見出しあそばさぬのです。なおよく探してみよとお言葉があったので、それを探しているところであると申されたので、「九の巻のこれこれのところにございます」と言ったところ、堀川殿はやれうれしやと言って、御所へ持って参られた。これくらいのことは、子どもにだってよくあることだけれど、昔の人は、ちょっとしたこともたいそう自慢にしたものでした。
後鳥羽院がお歌のことで、「
袖とたもととを一首のなかに入れては悪かろうか」と
定家卿におたずねになった際、定家が「秋の野の草のたもとか花すすき穂に
出でてまねく
袖と見ゆらむ」という古歌もございますから、差しつかえはございますまいと申されたことをも「時に応じて、根拠とすべき歌をはっきり思い出したのは、この道の
冥加で運がよかったのである」とおおげさに書きつけておかれた。九条
相国伊通公
(藤原伊通)の
款状(上申書、嘆願書)にも、つまらぬ項目まで列挙して自賛しておられる。
一、
常在光院の
撞鐘の
銘は、
菅原在兼卿が原稿を作られた。それを
藤原行房朝臣が清書して、
鋳型にうつさせようとせられた時、そのことを
奉行していた
(命によって実務を行なっていた)入道が、自分にその原稿を取り出して見せたのを見ると、その中に「花の外に
夕を送れば声
百里も聞ゆ」という句があった。「
陽唐の
韻と見えるのに、百里とあるのは韻を誤ったのでしょうか」と自分が言ったら、奉行の入道は大喜びで「あなたにお目にかけてよいことをしました。自分の手柄になります」と言って、入道が在兼卿のところへ言ってやったので、彼は「なるほど、まちがいでした。どうか
数行と直してください」と韻を合わせた返事があった。数行にして韻だけは合わせてもまだ変ではなかろうか、あるいは数歩という意味かしら。よくわからない。
一、人を多数同伴して
叡山の三塔順礼をした時、
横川の
常行堂の中に
龍華院と書いた古い
額があった。「筆者、あるいは
藤原の
佐理か、藤原
行成かと、この二人のいずれかに疑問があって、まだ決定できないということになっています」と、堂にいる僧がぎょうぎょうしく述べていたので、自分は「行成の筆ならば
裏書があるはずだし、佐理なら裏書はないはずですね」と言ったので、額の裏の
塵が積もって、虫の巣がくっついてむさ苦しくなっているのをよく
掃きぬぐって、みなで
検べてみたら、行成の名、官位、名字、年号などが確実に見えたので一同おもしろがった。
一、
那蘭陀寺で
道眼上人が説教中に、
八災の一々の名を忘れてだれか記憶した人はありませんかと
仰せられたるに、弟子僧は一人も覚えていなかったのを、自分が
聴聞席からこれとこれでしょうと数え出したので、たいへん感心しておった。
賢助僧正に連れられて
加持香水のお儀式を拝観した時、まだすまないうちに僧正は帰途につき、
衛士の
詰所の外まで出られたが、同行の
僧都の姿が見えない。法師どもを
使にやって探させたが「同じような様子の群集のなかで見わけがつきません」とだいぶぐずぐずしてから出て来たので「ああ困ったなあ、さがして来てくださらぬか」と言われたので、自分は奥へはいって行って、すぐに連れて出てきた。
一、二月十五日の月の明るい晩、だいぶふけてから千本の
釈迦堂へ
参詣、後方から、ひとり、顔をすっぽりかくしてお説教を
聴聞していたところ、姿も
焚きしめた香料なども抜群な美しい女が人を押しわけてきて、自分の
膝に寄りかかって、香などまで移ってくるほどなのでぐあいが悪いと思って後へ
退くと、女はそれでもまだ近寄って同じ様子をするので、自分はその場を立ち去った。その後、ある御所に
仕えていた老女房が、雑談の末に、あなたはまるで色気のない方で、つまらぬ人と考えていたこともございました。無情なお方と
恨んでいる向きがありますよと話し出したが、いっこうに思い当たることもありませんと答えてすましたが、このことをさらにのちに聞いたところでは、例の聴聞の別室から、ある貴婦人が自分をお見つけになって、おそばの侍女を作り立ててお出しになって、「うまくゆくと言葉をかけますよ。何を言うか向こうの態度を注意しておいて、帰ってきて話して聞かせてください。おもしろいでしょうから」と言うので、おためしになったのであったということである。
八月十五日、九月十三日は、
婁宿(宿は星座の意で、婁宿は二十八星座のひとつ)の日である。この婁宿は清明な
宿であるから、月を賞するのに絶好の夜としてある。
忍ぶ恋ゆえ、はばかる人目の窮屈さに心のままならず、暗夜にまぎれて
通うのに周囲にはつき守る人の多いのを、むりにも
通おうとする心の深く痛切なのに感動させられて、忘れられないことなども多くなるのであろう。親兄弟が認めて、いちずに迎え取って家に
据えておくようなのは、あまり公然すぎ露骨にいとわしく、天下晴れてはまぶしくはずかしかろうではないか。
世に住みあぐんだ女が、不似合いな
年寄坊主や
卑しい
東国人、なんでもよいから景気のよさそうなのに気を引かれて、さながらに根のない浮きぐさの誘う水にまかせてどこの岸にでもという気になっているのを、
媒介人が双方へうまく持ちかけて、見も知らず知られもせぬ人を連れてくる。愚劣千万な話。おたがいに何を話題のいとぐちにすることやら。年来
慕って会うすべもなかった
憂さつらさ、恋路の峠をなど語り合ってこそ、はじめて話の種も
趣もつきぬものではあろうに。
いっさいを他人が取り計らってくれたのなどは、気の乗らないいやなことがさぞ多かろう。相手が美しい女であったとしたら、品格のない老年の男としてはこんなぶざまな自分などのためにもったいない、あんな美しさをむざむざと捨てずともよさそうなものだと、相手の心情も
卑しまれ、自分では連れ添うているのも気はずかしくなってしまって、とんとつまらぬ気もちであろう。
君のそば近く梅香の
匂やかな夜のおぼろ月に立ちつくしたり、
御垣のもとの草原の露踏み分けて
有明月に女のもとを出てくるような経験を、わが身の上にふりかえって見ることのできないような人は、好色の心などを起こさぬに越したことはない。
十五夜の月の円満な形も、一刻も固定的なものではない。すぐ欠けてくる。注意深くない人は、一夜のうちにだって月の形がそれほど変化してゆく状態などは、目にもとまらないのであろう。病が重なるのもある状態でおちついているすきもなく、刻々に重くなっていってやがて死期は的確にくる。しかし病勢がまだあらたまらず、死に直面しないあいだは、とかく人間は人生が固定不動という考えが習慣になって、生涯のうちに多くの事業を
成就してのち静かに仏道を修行しようなどと思っているうちに、病にかかって死の門に接近する。その時かえりみれば、平生の
志は何一つ成就していない。このたび命をとりとめて全快したら、昼夜兼行このこともあのこともつとめて完成しようという念願を起こすようであるが、ほどなく病が
昂じては我を忘れて取り乱して終わる。人間はだれしもこんなふうである。
何人も、この一事を痛切に念頭に置くべきである。
欲望を成就してのちに、余暇があったら道を
修しようという気では、欲望は際限もあるまい。幻のような人生において、成就するに足る何事があろうぞ。いっさい欲望はみな
妄想である。所願が心に現われたら、
妄念が身を迷わし乱すものと自覚して、何事もしないのがよい。いっさいのことを
放擲して仏道に向かったならば、なんの障害もなく
為さねばならぬという仕事もなく、心身ともに永久に安静である。
いつまでも、あるいは逆境、あるいは順境に処して、それに支配されるのはもっぱら苦楽のためである。
楽は好ましく愛するの意である。好み愛するものを求める情はいつまでたってもやまぬ。無際限なものである。人の
楽欲するところは、第一に名誉である。名誉のうちに二種類、行為に関するもの、才能芸術に関するもの二つ。楽欲の第二は色欲である。その第三は飲食物に対する欲である。いっさいの欲望は、この三つをもって最上とする。この三つはいずれも、人間の本性に違背した心から発しているので、それには多かれ少なかれ、
煩悶を
伴う。求めないのが最もいい。
八歳になった時、自分は父にたずねて、仏とはどんなものでしょうかと言うと、父は、仏とは人間がなったのだと言う。またたずねて、人間がどうして仏になったのでしょう。すると父が答えて、仏に教えられてなるのです。さらにたずねて、その教える仏は何が教えて仏にしたのでしょう。父が答えて、それもまたその前になっていた仏の教えによっておなりなすったものです。そこでさらにたずねて、それではその一番はじめに教えた第一番の仏は、どうしてできた仏でしょうと言うと、父は、さあそれは天から
降ったかもしれない、地から
湧いたのかもしれない、と言って笑った。あとで子どもに問いつめられて返答ができなくなりました、といろんな人に話しておもしろがっておられた。
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(4)「子孫のかわいさに」 訳者注―白楽天の句に、「朝露名利を貪り、夕陽子孫を憂う」とある。
(5)「糸による物ならなくに」 訳者注―糸によるものならなくに別れ路の心細くも思ほゆるかな。
(6)「ものとはなしに」 訳者注―前述の上の句の「糸によるものならなくに」を『源氏物語』には「ものとは無しに」と変えて引用していることを指す。
(7)「残る松さへ峰にさびしき」 訳者注―冬の来て山もあらはに木の葉ふり残る松さへ峰にさびしき。
(9)「陣に夜のもうけせよ」 訳者注―節会の折の諸卿の座(陣)に灯火の用意を命令する言葉である。
(10)「かいともし、とうよ」 訳者注―主上の御寝所(夜御殿)をということを、ただ「掻灯疾うよ」といっていることをさしている。
(11)「野宮におらせられるおん有様」 訳者注―伊勢の大神宮に奉仕される内親王が、嵯峨の有栖川の御殿(野宮)で潔斎される時のことをいうのである。
(13)「昔見し」 訳者注―以前の愛人の門に来てみたが垣根の面目は一変し、荒涼として茅花の茂る間に可憐な菫の花が少しばかり見えているばかりであった(あの人の心のうちは、いま果たしてどんなであろうかという意味である)。
(14)「とのもりの」 訳者注―主殿寮の下司どもは自分のほうをすてておいて、掃除も行きとどかない庭は花の散り敷くのにまかせている。
(15)「名さえ知れなくなり」 訳者注―白楽天の詩に、「古墳何れの代の人か、北して路傍の人と為るや、知らず姓と名を、年年春草を生ず」とある。
(16)「薪に摧かれ」 訳者注―文選の古詩に、「廊門を出でて直に視る、ただ丘と墳を見る、松柏は摧けて薪と為り、白楊悲風多し、蕭々として人を愁殺す」とある。松は中国では墓畔に植える樹である。
(39)「世を隔てたことか何か」 訳者注―仏説に[#「仏説に」は底本では「伝説に」]人の前世を隔生即志というに因ったのであろう。
(40)「有りもせぬ肴を」 訳者注―「御肴何」は普通催馬楽のその句を歌いつつと解くが、自分は与謝野晶子氏の解に従った。
(44)「つい聞きもらす場合」 訳者注―「聞き洩すこと」一本には「聞き洩すあたり」とあり、前者を場合と訳し、後者ならば境遇などとするが適当らしい。