もしも世界

THE WORLDS OF IF

マンダプーツシリーズ 第1回

MANDERPOOTZ SERIES

スタンリイ・G・ワインバウム Stanley G. Weinbaum

奥増夫訳




 スタテン島空港へ行く途中で停止して、電話したのが間違いなく失敗だった。別な機会にできたのに。だが、空港は愛想よかった。係員が言った。
「出発を5分待ちましょう。これが私どものできる精いっぱいです」
 そこで、タクシーに大急ぎで戻って、3速でぶっ飛ばし、彗星のようにスタテン橋に突っ込み、鋼鉄の虹橋にじばしに踏み込んだ。
 モスクワで開催されるウラル・トンネル入札式に、夜の8時までに間違いなく出席しなければならなかった。
 政府は入札代理人の出席を求めたが、俺を出張させるなんて、会社はもっとよく考えなくちゃ。俺はディクソン・ウェルズ、会社はN・J・ウエルズコーポレーション、つまり父のだが。
 俺には何事にも遅刻するという悪い評判があった。いつも何かしら起こって、時間到着を妨害する。
 決して俺の落ち度ではない。今回は恩師のハスカル・ヴァン・マンダプーツ物理学の老教授に会える機会だった。
 先生に会えたら、単に、やあ、さようなら、じゃ済まないだろう。2014年の学生時代は先生の寵児ちょうじだったのだから。
 案の定、定期旅客機に乗り遅れた。スタテン橋の途中で発射轟音が聞こえ、ソ連のバイカルロケットがゴーッと上空を長い炎を引きながら曳光弾えいこうだんのように飛んで行った。
 会社はとにかく契約した。ベイルートの社員を引っ張ってモスクワへ飛ばせたが、俺の評判はガタ落ち。
 しかしながら、夕刊を見たら、すごくいい取引をした気がした。
 バイカル機が嵐を避けるために、東境界線の北端を飛んでいる時、イギリスの貨物機と翼が接触し、乗客500人のうち100人を除く人命が失われたという。
 俺はもう少しで残酷な意味『故・ウェルズ氏』になるところだった。

 次の週、マンダプーツ老教授と約束できた。教授は新物理学、つまり相対性物理学部長として、ニューヨーク大学に移籍したようだ。
 教授にはその資格がある。老教授は、いるとしたら過去に1人、そして今なお天才だ。俺は大学を出て8年経つが、技術教育課程で微積分とか蒸気ガスとか機械などの6つの関門より、教授の授業のほうがずっと記憶にあった。
 というわけで、火曜日の夜、1時間ばかり遅れたが、実を言うと、夜まで約束を忘れていたからだ。
 教授は昔同様の散らかった部屋で、本を読んでいた。
「ふーん、時はすべてを変えるが癖は別だな。ディック、君はいい学生だったが、思い起こせばいつも講義の半ば頃来ていたな」
「直前まで東棟で受講していました。とても間に合いそうにありませんでした」
「そうだな、君も時間を守る努力をする時だ」
 教授は小言を言ってから目を輝かせて、時間、と叫んだ。
「時間という言葉は言語の中で最高に魅力的だ。会話の冒頭で5回も使ったが更に6回、7回と使う。お互い時間は理解できるが、科学は時間の意味を研究し始めたところだ。科学か? わしが学び始めたということじゃ」
 俺は座った。
「教授と科学は同義語ですよ。教授は世界の優れた物理学者たちの1人じゃないですか」
「たちの1人だと。ええ! じゃあ、ほかは誰だ」
「えー、コベイル、ヘースティング、シュリムスキー」
「ばか、マンダプーツさまの名前を言って、その舌の根も乾かぬうちに奴らをあげるとは。奴らはわしのうまい考えのおこぼれを食うジャッカルだ。いま前世記へ戻って、アインシュタインとかド・ジッターと言えば、名声はおそらくマンダプーツさまに並ぶか、ちょっと下だ」
 俺はおかしくなってまた笑った。
「アインシュタインならいいとお考えで? つまり、初めて時間と空間を研究に結び付けた。彼以前は哲学命題に過ぎなかった」
 教授がいら立った。
「違う。一応原始的だが、方向を示した。しかしこのマンダプーツさまこそが初めて時間をつかみ研究室へ引きずり込み、実験を行った」
「本当ですか。どんな実験ですか」
「簡単な測定以外、どんな実験もできるぞ」
「どうも、わかりません。実験で旅行するとか」
「その通り」
「流行雑誌に載っているタイムマシンのようなものですか。未来とか過去へ行くとか」
「ばか。大ばか。未来とか過去だと。ふーっ。その過ちを正すにマンダプーツさまは要らない。アインシュタインがとくとやった」
「どうやって? わかりますか」
「わかるかって。ディクソン、君はマンダプーツさまのところで研究したろう」
 教授は感情が高ぶり真っ赤になったあと、厳粛になった。
「聞きたまえ。時間は系の速度で変わることを知ってるだろ。アインシュタインの相対性だ」
「ええ」
「よろしい。例えばだ、大技術者ディクソンが光の10分の9の豪速で移動可能な機械を発明したとしよう。ついてこれるか。よし。この魔球船に燃料を積んで、80※(全角KM、1-13-50)を走るとすれば、アインシュタイン公式では速度が増すにつれ慣性が増大して、世界全部の燃料が必要となる。でもこれを解決する。原子エネルギを使う。このとき光速の10分の9だから宇宙船重量は太陽ぐらいになって、完全に駆動力を得るためには北アメリカが崩壊してしまう。この速度、毎秒27※(全角KM、1-13-50)で、33※(全角KM、1-13-50)走る。すると、加速のため君は死んでしまうが、未来へは貫通する」
 教授は一息入れて、ニヤリ笑った。
「わかったか?」
「はい」
「じゃあ、どんだけだ?」
 俺は躊躇ちゅうちょした。
「アインシュタイン公式を使え。どんだけか教えてやる。1秒だ。ハハハ、これが未来へ旅行する可能な方法だ。過去へはまず光速を突破しなければならんが、即、無限馬力以上が必要だ。仮定として大技術者ディクソンがこのささやかな問題も解決したとしよう。ただし、宇宙全体のエネルギは無限じゃないぞ。次にこの無限馬力を使って毎秒33※(全角KM、1-13-50)の速度で10秒間旅行する。このとき過去を貫通する。どんだけだ?」
 俺はまたしても躊躇ちゅうちょした。
 教授が俺をにらんだ。
「教えてやろう。1秒だ。君の仕事はそんな機械を設計することだ。そうすれば限定秒だが、このマンダプーツさまが未来へ旅行できることを認めよう。過去についてはいま説明したように宇宙全部のエネルギでも足らない」
「で、でも、今言ったように教授は……」
「わしは未来へも過去へも旅行するとは何も言っとらん。まさに説明したように不可能だ。片方は実用上、もう一方は絶対的に無理だ」
「なら、どうやって時間で旅行します?」
「マンダプーツさまでも不可能なことはできない」
 今度は少し楽しそうに言った。教授はテーブルにあった分厚いタイプライター紙をたたいた。
「見たまえ、ディック、これが宇宙世界だ。時間は長手ながて方向だ。空間は広いけれども、4次元は非常に薄い。マンダプーツさまは常に最短、最も論理的な道を選ぶ。わしは時間に沿って過去へも未来へも旅しない。違う。わしは時間を横切って、斜めに旅する」
 俺は息をのんだ。
「斜めに時間とは。一体何があるんですか」
 教授の鼻息が荒くなった。
「元々あるものは何だ。前が未来、後ろが過去。これらは現実の過去と未来の世界だ。過去にも未来にもなく、同時期ではあるが、一時的に存在し、いまの時間に平行に存在するものとはどんな世界だ?」
 俺はかぶりを振った。
「まぬけ、当然、制御世界、『もしも世界』だ。前方はあるべき世界、後方はあった世界、横方があったかもしれない世界、つまり『もしも世界』だ」
 俺はわからなくなった。
「ええっ? あれこれ思ったらそれが見えるってことですか」
「違う。わしの機械は過去をあばかないし、未来も予測しない。言ったように条件付き世界だ。こう言って欲しい、もしあれこれやったら、それやこれやが起こる。仮定法の世界だ」
「では一体どうやってそうします?」
「マンダプーツさまなら簡単だ。偏光へんこうを使う。水平面でも垂直面でもなく、4次元方向。簡単なことだ。アイスランド鉱石に強大な圧力をかける。それだけだ。4次元方向は非常に薄い世界だから、1波長のわずか100万分の1ミリで充分だ。過去とか未来に旅するより著しい進歩だ。過去とか未来は不可能な速度と、ばかげた距離が必要だからな」
「でも、『もしも世界』は現実なんですか」
「現実? 現実とは何ぞや。√(ルート)-2虚数きょすうであるのに対して、2が実数という意味においてはたぶん現実だろう。もしもこうだったらという世界だ。分かるか」
 俺はうなずいた。
「なんとなく。例えば、イギリスが植民地解放戦争に勝っていたら、ニューヨークがどうなっているかが見えるとか」
「原理的にはそれで充分だが、君には分からんだろう。あのな、機械の一部がホーステン心理盤だ。ついでながらこれはわしの考えを盗んだものだ。使用者も装置の一部となるんじゃ。情景を見るためには使う人の精神が必要だ。例えばジョージ・ワシントンが講和条約に調印したけれども、この機械を使えば君でもその映像が見られるかもしれん。他人は見えない。わしがこれを発明しなければ『もしも』は見られない。でも発明したぞ。わかるか」
「ええ。使用者の過去の経験が背景に宿る必要があるってことでしょう」
「キミ、えてきたな。そうだ。この装置はもしもの10時間を、当然凝縮して30分に動画化する」
「こりゃ、おもしろそうだ」
「見たいか。何か見たい事があるか。変えたいものがあるか」
「そうですねえ、何千と。もし株を2010年に売らないで2009年に売っていたら、どうなったか知りたいですね。親譲りの億万長者になったかもしれない。まあちょっと現金化するのが遅れましたが」
 マンダプーツ教授がのたもうた。
「相変わらずだなあ。それじゃ研究室へ行こうか」

 教授の部屋は大学から、わずか1ブロックだった。俺を物理ビルに案内して、研究室へ入った。かつて受講中訪れた研究室そっくりだ。仮定の世界で動くから、教授は『仮想機』と呼んでいたが、その機械が中央テーブルを占領していた。大部分は単なるホーステン心理盤だが、ぴかぴか光る結晶性ガラス質のアイスランド鉱石プリズムがあって、これが偏光へんこう物質で、装置の心臓部だ。
 マンダプーツ教授が部品を指さした。
「それを頭につけろ」
 俺は着席して『心理盤』の画面をじっと見つめた。
 ホーステン心理盤はみんな知っていると思う。数年前に熱中したものだ。あたかも1世紀前のウイジャ盤のよう。でも単なるおもちゃじゃない。時にはウイジャ盤より本当に記憶を助けてくれる。薄い色つきの影が画面にふらふらと迷い込み、じっと見つめる。その間、場面や状況を視覚化しようと記憶をたぐる。ノブを回して光と影の配列を変えると、ふいに自分の心像に画面が一致する。
 意外や意外。眼の中で場面が再合成される。当然、被験者の心情が細部を造る。画面全体が実際に表示しているのは光と影の色付き背景だが、驚くほどリアルだ。俺は場面を見たことがあり、誓って言うが、心理盤が映し出す画像はほとんど本物そっくり、詳細で切れがいい。時に映像には驚くほどだ。
 マンダプーツ教授が光源スイッチを入れると、影が動き始めた。
「さあ、市場暴落から、そうだな、半年後の状況を思い出してくれ。画像が鮮明になるまでノブを回して止めろ。その時点で、わしが仮想機の光を画面に出す。君は見てるだけでよい」
 俺は指示されたようにやった。瞬間的に画像が出ては消えた。装置のくぐもった音が遠吠えのように聞こえ、絵も出ず、何も意味をなさない。と、俺の顔がぱっと浮かんだり消えたりして、やっと出た。画像の中に俺自身が薄暗い部屋に座っていた。それだけしか見えない。俺はノブを離し、合図した。
 カチッという音がして、明かりが点滅した。画像が鮮明になり、別な顔が現れたのにはびっくり。女だ。わかった。ウィムジーホワイトだ。かつてのテレビスター、2009年テレビバラエティの主演女優だ。画面では顔が変わっていたが、ウィムジーだ。
 そうだ、追っかけた。結婚しようと2007年から2010年のブーム中追っかけた。一方、老父のN・Jは怒鳴り、説教し、ゴビ砂漠復興協会へ飛ばすと脅した。
 こんな脅しで、ウィムジーは俺を受け入れなかったんだと思うが、俺の投資が2008年と2009年の暴騰市場で200300万ドルに跳ね上がってからは、軟化した。
 一時的さ、つまり。2010年春に大暴落がきて、父にもN・J・ウェルズ社にも影響が及ぶと、会社の人気が市場で12ポイント落ちた。2月に婚約したが4月には口もきかなくなった。5月には見放された。またしても俺は遅かった。
 そして今、心理盤の画面にウィムジーがいる。明らかに太って、以前ほどかわいくない。憎むような表情で俺をじっと見ている。俺もにらみ返した。気障きざわりな声がした。
 ウィムジーがいきなりの罵倒ばとうだ。
「このうすのろ。私はここへ閉じ込められないよ。ニューヨークへ戻りたい。ささやかな生活があるのよ。あなたとゴルフにはうんざりだ」
「それなら、俺もお前にはうんざりだ。お前のバカな連中もだ」
「少なくとも彼等は生きている。あなたは生けるしかばねよ。お金のギャンブルで運が良かっただけじゃない。このくわせ者」
「なにを、クレオパトラぶって。お前の連中はパーティーと金を目当てに追っかけるんじゃ。俺の金だ」
「山腹で白クルミをたたくよりマシよ」
「ほんとか。やってみろよ、マリー(彼女の本名)。せるかもよ。できるか怪しいもんだ」
 ウィムジーは激怒してにらみつけた。まあ、つら30分だった。詳しく言いたくもない。画面が無意味な雲色に変わったときはうれしかった。
「フーッ」
 俺はマンダプーツ教授を見た。教授は本を読んでいた。
「よかったかね」
「よかったです。そうですね、スカンピンになって運が良かった。今なら、後悔しない」
 教授がもったいぶって言った。
「これこそマンダプーツさまの大貢献だ。人間の幸福に対してな。言葉や文筆の中で、数ある悲しい単語の最たるものが『こうなったかも』だ。これはもはや誤りだ。なあディック君、マンダプーツさまが示した正当な読みはこうだ。『最悪こうなったかも』だよ」

 だいぶ遅くなって帰宅した結果、起床も遅くなり、同様に出社も遅刻。親父はとてもイラついて、大げさにこう言った。
「おまえはいつも時間に来たためしがない」
 親父は忘れている。俺が父を起こしたり、引っぱり出したことがあることを。そればかりかバイカル機に乗り遅れたことを皮肉る必要はない。親父に旅客機の遭難を思い出させてしまった。
 親父の態度は非常に冷酷だった。もし俺が乗って、ロケットが遅れていたら、英国貨物機とは衝突しないですんだだろうと。余計なお世話だ。
 親父と俺が山に2〜3週間ゴルフに出かけようとするとき、春が遅れているぞと言うようなもんだ。俺には何の関係もない。
「ディクソン、お前には何にも時間という概念がない。何にも」
 マンダプーツ教授との会話を思い出した。尋ねたくなった。
「父上はありますか」
「あるぞ、確かにある。時は金なりだ」
 諸君、この見解には反論できない。
 だが、親父の非難にはグサリと来た。特にバイカル機に関しては。俺は遅刻したけれど、俺がロケットに乗ったからといって惨事が避けられたとは到底想像しがたい。イライラしてきた。ある意味では死亡した何百人という乗客や乗組員に対し責任があるかもしれない。でもそんなことは考えたくなかった。
 それにしても、あと5分俺を待ってくれたら、俺が時間に間に合い、5分遅れず予定通り出発したら、もし……。
 もしという言葉でマンダプーツ教授と仮想機を思い出した。
 もしも世界は奇妙な架空世界だが、現実に存在しないばかりか過去にも未来にも存在せず、同時期の即興的なものだ。幽霊のような無限のどこかに、俺がもしも旅客機に乗った世界があるのだろう。マンダプーツ教授に電話してアポを取るしかない。そうすれば分かる。
 まだ簡単に結論はでなかった。仮に、ほんとに仮にだが、俺に責任があるとしたら……。もちろん法的には責任はないし、犯罪的過失とか、モラルに無関係なその種の過失についても論外だ。なぜなら予想しようがないからだ。
 俺がいようがいまいが、生きるか死ぬかにどれだけ影響を持つか、ましてはどっちの方向に傾くかなどは。ただ責任がある、それだけだ。まだ、なぞ解きをためらっていた。
 同時に、解明されないこともいやだ。不確かというのも苦痛だ、自責の念ぐらい苦しい。自分に責任があるとわかればイライラしないだろうに。いぶかったり、いたずらに疑って無駄な叱責しっせきに思考を費やすことはない。そこでテレビ電話をつかんで大学の番号をかけた。ついに、奔放でユーモアがあり知的なマンダプーツ教授が、朝の講義途中で電話口に出た。

 俺は次の晩、約束時間にひたすら急いだ。実際、定刻に着くはずだったが、無体むたいなおまわりが速度違反で連行するときかない。とにかくマンダプーツ教授には強烈な印象となった。
 教授が怒鳴った。
「なんだ、会い損なうとこだった、ディクソン。いまクラブへ行くところだ。1時間も待てないからな。ほんの10分遅れだが」
 俺はかまわず言った。
「教授、あのう、仮想機を使いたいのですが」
「えっ、あ、そうか。君はついとるぞ。ちょうど分解するところだ」
「分解? なぜ」
「目的を果たしたからだ。もっと重要なアイデアが生まれた。スペースが必要になった」
「どんなアイデアですか。さしつかえなければきかせてください」
「かまわん。待ち望んでる者なら知ってるかもしれんが、立案者のわしから言おう。つまりマンダプーツさまの自伝にほかならぬ」
 教授は感に堪えかねて一息いれた。
 俺はポカン。
「教授の自伝?」
「そうだ。多分気づいてないが、世界が熱望している。わしの生涯研究の詳細だ。わしが2004年の太平洋3年戦争にかかわる重要人物だと明かすつもりだ」
「教授が?」
「ほかに誰もいない。わしが当時、王立オランダ国民でも中立でもなかったら、アジア軍は3年持たずに、3か月で崩れただろう。そのように『仮想機』が告げておる。わしが交戦予測計算機を発明した。マンダプーツさまは戦争の当り外れの要因を排除した」
 教授がもったいぶって眉をひそめた。
「これがわしの考えだ。マンダプーツさまの自伝だ。どう思う」
 俺は正気に戻り、熱を込めて言った。
「す、すばらしいですね。本、買いますよ、何冊も。友達に送ります」
 マンダプーツ教授が屈託なく言った。
「君の買った本にサインしてやろう。値が上がるぞ。ぴったりな文句を書いてやろう。たぶん、偉大にして誇らずのような。マンダプーツさまをよく表わしておる。偉大にもかかわらず、地味で、謙虚で、気取らない。そうだろ」
「完璧です。とても適切な表現です。では仮想機を見せてもらえませんか。そのあとで分解して偉大なお仕事を」
「ああ、何か見たいのか」
「はい、教授。1〜2週間前のバイカル機墜落を覚えていますか。あれでモスクワへ行く予定でした。ちょっと乗り損ねましたが」
「ほう、乗ったらどうなったかを知りたいんだな。わしが可能性をいくつか言おう。『もしも世界』は3つある。1つは君が時間に間に合った場合。2つ目は君が実際に着くまで旅客機が待った場合、3つ目は実際に待っていた5分以内に君が着いて搭乗した場合だ。どれに興味がある?」
「おお、最後の場合です」
 いちばんありそうだった。結局、1番目の場合、ディクソン・ウェルズが時間に合うなど期待できない。2番目の可能性は実際に俺を待ってくれなかったし、俺に責任がなくなるからだ。
「行こう」
 マンダプーツ教授が地声で言った。

 俺は物理ビルへついて行き、教授の乱雑な研究室へ入った。装置はまだテーブルにあった。俺はホーステン心理盤の前に座って画面を見つめた。雲が揺れ、記憶を強く念じるにつれ、影がうつろい、あの消えた朝の場面が出てきた。
 そのとき見えた。スタテン橋からの展望が。空港へ向かって巨大な橋を走っている。マンダプーツ教授に合図を送った。カチッと音がして、仮想機が作動した。
 裸地らちの広場が現れた。心理盤とは奇妙なものだ。イメージを眼で画面に映すんだから。おもちゃみたいな作りにしては変な現実味がある。一種の自己催眠のせいだと思う。
 俺は広場を駆け、きらきら光る銀翼ぎんよくの発射機へ走った。バイカル機だ。渋顔しぶがおの乗組員が上で手招きしている。タラップ板を駆け上がり機内に入った。扉が閉じ、俺は安堵してフーッと長息した。
「座りなさい」
 こう乗組員が叫び、空き座席を指した。倒れこんだ。機体がカタパルトの推力でふるえ、激しくきしり、からだごと空中へ飛び出した。瞬時に噴射音が轟き、鈍い鼓動音になった。スタテン島が下へ落ち、後方へ消えた。巨大ロケットが上昇している。
「フーッ」
 再度息をはいて叫んだ。
「やったあ!」
 右側から笑い視線を感じた。俺の席は通路側席で、左側に誰もいなかったので、視線へ目を向けると、一瞬じろっと凝視している。
 女だった。たぶん実際は見た目ほどかわいくないだろう。つまり半透明の心理盤・画面を通して見ている。自分に言い聞かせた。実物がかわいいなんてあり得ない、想像で細部を埋めているのだから。わからん。ただ思い出すのは、見つめていたのが奇妙に愛らしい銀眼、滑らかな茶髪、微笑んだ口元、生意気な鼻だった。女が赤面するまで眺めていた。
 俺は言い訳をした。
「すみません。驚かせて」
 大洋横断ロケット上では親しげな雰囲気があった。

 乗客は満員で、7〜12時間の親密さを強いられた。部屋も多くなかった。一般にこういう場合、隣人と知り合いになるものだ。紹介は全く要らない。習わしとして、誰か選んで話をするだけだ。前世記、列車で終日旅行するようなものだと思う。旅行期間中に友達ができ、十中八九、その後は二度と旅仲間のことを耳にすることはないだろう。
 女が微笑んだ。
「出発が遅れたのはあなたのせい?」
 俺は認めた。
「遅刻常習者のようです。時計をはめたとたんに時計の方が遅れるんですよ」
 女が笑った。
「ふふふ、あなたに責任はなさそうね」
 もちろんそんなことはない。驚くべきことに、多くのクラブやキャディーや歌手たちの実入りが俺のせいで何回も相当割りを食った。だが、どういうわけか、この銀眼の女にはこんなことを言いたくなかった。
 語りあった。女の名前はジョアナ・コードウェル、パリへ行くところだった。将来の希望は芸術家だ。もちろんパリ以外に、修行や霊感が得られる場所は、世界中どこにもない。そこに1年ばかり腰を据える。控え目で、ユーモアがあり、眼差まなざしは微笑んでいるけど、仕事が最重要のようであった。
 俺が得た情報ではパリで何年か懸命に働いて、生活費を稼ぎ、女性雑誌のファッションイラストレータを3年間勤めるとか。まだ21歳を数か月も越してないのに。絵には大きな意味があるだろう。ポロシャツにも感じた。
 だからほら、初めから共感した。女も俺が好きなようだった。でも明らかにディクソン・ウェルズとN・J・ウェルズ社の関係は全く知らない。俺はといえば、そうだな、女のクールな銀眼を一目見てから、どこも目にはいらない。女を見ていると数時間が数分に縮まる。
 どうなるかはお察しの通り。ふいに女をジョアナ、俺をディックと呼ぶようになった。あたかも2人の生涯がそうなるかのようだった。モスクワからの帰途パリに寄ろうと決め、会う約束をした。
 ジョアナは、そこいらの女とは違っていた。計算高いウィムジーホワイトとは全く違う。社交場あたりでたむろする踊り好きで、にやけた軽薄なやからでもない。まさにジョアナにほかならず、クールでユーモアがありながら、情があり、まじめでマジョリカ人形のようにかわいかった。
 乗員が昼食の注文を聞きに来た時も気づかないほど。4時間過ぎたのか。40分のようだ。そして2人ともエビサラダが好きで、カキが嫌いなことがわかって親しみを感じた。もう1つの共通点だ。俺が気まぐれにこれは前兆だと言ったら、否定しないばかりかそうだと言う。
 しばらくして、我々は狭い通路を通って前方のガラス張り観覧室へ行った。混み合ってやっと入れたが、ちっとも気にならず、ぴったり座らざるを得なかった。2人とも息苦しくなるまで長いこと座っていた。

 ちょうど座席に戻ったとき惨劇が起きた。警告なく突然よろめいた。その結果、俺が思うに、パイロットは最後の数分間、必死によけようとした。直後、接触して壊れ、激しく回転し、そのあと一斉にあがった叫び声は戦場のようだった。
 まさしく戦場だった。500人もの乗客が床から持ち上がり、踏みつぶされ、ぶつかり、大ロケット機と共に、なすすべもなく落下。左翼が壊れ、大西洋にくるくる落ちて行った。
 乗員の叫びが聞こえた。拡声器が繰り返した。
「落ち着いてください。衝突しました。海洋船に連絡済みです。危険はありません、危険はありません」
 俺は壊れた座席の残骸から立ち上がった。ジョアナがいない。座列にはさまれたジョアナを発見したまさにそのとき、機体が海に突っ込み、衝撃で何もかもめちゃめちゃになった。
 拡声器がまた叫んだ。
「座席下のコルクベルトを着けてください。安全ベルトは座席の下です」
 ベルトを引っ張ってゆるめ、ジョアナに着け、自分も着けた。乗客が前方へ殺到し、機体の尾部が沈み始めた。
 真っ暗な中、バシャバシャと背後から水が押し寄せて来て、明かりが消えた。乗員が駆け込み、前方で気絶した婦人に前かがみでベルトを着け、大丈夫ですかと叫び、返事もきかずに通り過ぎた。
 拡声器は電源回路が切れていたに違いない。突然、命令調になった。
「緊急脱出せよ。前方の窓から飛び降り、できるだけ離れろ。船が待機している。拾ってくれる。飛べ……」
 再び壊れてしまった。
 俺はジョアナを瓦礫がれきから手繰たぐり寄せた。顔が青ざめ、銀眼をつむっていた。ゆっくりと引っ張り、前方の窓へやっと動かした。床の傾きがきつくなり、ついにスキージャンプ台のようになった。乗員が再び通り過ぎ、1人でできるか? といてまた走り去った。
 たどり着こうとしていた。窓の乗客が小さく見えるけど、単にぎっしり詰まっているからか。その時突然、恐怖と絶望の叫び声が沸き起こり、水がどっと流れ込んだ。展望室の壁が破れた。緑の大波が見え、大洪水が逆巻いて押し寄せてきた。俺はまたしても遅かった。
 これがすべてだった。俺は、ショックでこわばった眼を仮想機から離し、マンダプーツ教授を見た。教授はテーブルの端で走り書きをしていた。
「どうだった?」
 俺は身震いして、うめき、つぶやいた。
「こわかった。我々は生存者の中にいなかったように思います」
「我々? ええっ、我々?」
 教授の眼が輝いた。
 教授には教えなかった。お礼を言って、お休みを告げて、気落ちして帰宅した。

 親父すら俺がおかしいことに気づいた。わずか5分遅れで出社した日、親父が呼び入れて身体のことを聞いた。もちろん言えるはずはない。どのツラ下げてまたもや手遅れになって、ジョアナが死んでから2週間後に恋に落ちたと言えようか。
 考えるあまり狂いそうになった。ジョアナ、銀眼のジョアナは大西洋の海底に沈んでいる。半ばボーッとして、ほとんどしゃべらず動き回った。
 ある夜ついに帰宅する力もなくなって、社長室の大きな張りぐるみ椅子に座って煙草をふかしているうち、とうとう眠り込んでしまった。
 翌朝、老父N・Jが入ってきて俺を見つけたとき、蒼白になり、呆然あぜんとしてうめき、猛者もさだと叫んだ。俺は早朝出勤じゃなく、帰宅するのが遅すぎたと弁明に大わらわ。
 とうとう耐えられそうにない。何か、とにかく何かやらなくちゃ。ついに仮想機を思いついた。見える、そうだ、見える。もし機体が壊れなかったら起ったかもしれないことが。
『もしも世界』のどこかで、奇妙な架空のロマンスが追跡できる。たぶんこの上ない喜びの代償が得られる。仮想機があればだが。ジョアナにもう一度会える。

 夕方近くマンダプーツ教授の部屋に駆け込んだ。不在だった。結局、物理ビルの玄関で見つけた。
「ディック君、病気かね?」
「病気? いえ。体じゃないです。教授、また仮想機を使う羽目になりました。使うはめに」
「ええっ? あのおもちゃか。遅すぎたなディック君。分解したよ。空間を有効利用するんじゃ」
 俺はみじめにうめいた。マンダプーツ大教授の自伝を呪う誘惑に駆られた。教授は眼に同情を浮かべて、俺の腕を取って、研究室わきの小部屋に連れて行って、うながした。
「言いたまえ」
 言った。俺には充分すぎるほど悲劇だった。教授の濃い眉が同情のしかめ面になった。
「マンダプーツさまでも死んだものは生き返らせない。すまんな、ディック。事故は忘れろ。たとえ仮想機があってもわしは使わせない。ナイフを傷にねじ込むようなもんじゃ」
 しばらく間をおいた。
「夢中になるものを見つけろ。マンダプーツさまを見習え。仕事で忘れることじゃ」
 俺は力なく答えた。
「はい、でも俺の自伝なんか誰が読みたいですか。おかまいなく」
「自伝? おう、思い出した。いや中止したんじゃ。マンダプーツさまの生涯と研究は歴史が記録する。今わしはもっと壮大な計画にはまっとる」
 俺は全く憂鬱で興味がなかった。
「本当?」
「そうだ。彫刻家のゴグリがここにいた。ゴグリがわしの胸像を作る。わしが世界に残せる素晴らしい遺産といえば、生身のマンダプーツさまから拓本した胸像以上のものはない。町に寄付しよう。たぶん大学にも。王立協会にも提供しよう。もし受け入れてくれればだが、もし彼らが、もし、もし……」
 最後は大声だ。
「はあ?」
 マンダプーツ教授が叫んだ。
「君が仮想機で見たものは、旅客機に間に合った場合の出来事だぞ」
「わかってます」
「でも実際は全く違ったことが起こったかもしれん。わからんのか。あれ、あれだ。古い新聞はどこだ」
 教授は山積みの新聞紙をめくった。とうとう1紙を見広げて、言った。
「ここだ、ここに生存者が」
 恋人の手紙のようにジョアナ・コードウェルの名前が目に飛び込んできた。さらに小文があった。俺のぐらぐらする脳でも読めた。

『少なくとも大勢が助かったのは28歳の航空士オリス・ホープの勇敢な行為による。彼はパニックのさ中、通路を巡回し、負傷者や弱者に安全ベルトを着けてやり、多くを港へ運んだ。最後まで沈みゆく旅客機に残り、ついに観覧室の崩壊壁から海面に出た。この若い乗員に救助された人は次の通り。パトリック・オウェンズビー(ニューヨーク市)、キャンベル・ウォレン夫人(ボストン)、ジョアナ・コードウェル嬢(ニューヨーク市)……』

 俺の歓喜の叫びは数ブロック離れた本部ビルまで聞こえたと思う。構うもんか。マンダプーツ教授の頬髭ほおひげがゴワゴワでなければキスしただろう。たぶんかまわずキスしている。混沌こんとんの数分、教授の小さな部屋で何をしたか思い出せない。
 やっと落ち着き、満足した。
「ジョアナを確認しました。ほかの生存者と上陸したに違いありません。全員、英国の不定期貨物船オズグッドに乗船です。先週ここに停泊しました。いまニューヨークかもしれません。もしパリに行ってたら見つけて一緒になろう」

 さてと、妙な結末。ジョアナはニューヨークにいたが、強いて言えばディクソンが教授の仮想機でジョアナを知ってるのに対し、ジョアナはディクソンを一切知らない。
 もしも、もしなら結末はどうなっただろう。でもそうならなかった。ジョアナはオリス・ホープと結婚した。ジョアナを救助した若い乗員だ。俺はまたしても遅かった。





底本:The Worlds of If. First published in Wonder Stories, August 1935.
原著者:Stanley G. Weinbaum
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翻訳:奥増夫
2022年12月27日作成
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