理想

THE IDEAL

マンダプーツシリーズ 第2回

MANDERPOOTZ SERIES

スタンリイ・G・ワインバウム Stanley G. Weinbaum

奥増夫訳




「これは自動機械だ。正しい時に話し、いかなる質問にも答え、全ての秘密を明らかにする」
 フランシスコ派の修道士が微笑みながら、台座に鎮座ちんざする金属製の頭に優しく手をおいた。
 若者は口をぽかんとあけて、銅像の頭と修道士を交互に見つめて言った。
「でも、金属です。頭は金属です。神父様」
 ロジャーベーコンがのたもうた。
「金属は外側で、仕掛けは内側だ、若者よ。正しい時に独自の方法で話すように作ってある。賢人は悪魔の技を神の領域にねじ込み、悪を排除する。シーッ。静かに。夕拝の鐘が鳴っている。恵みあふれる処女マリア様」
 だが、話さなかった。何時間も、何週も、驚嘆きょうたん博士は銅像を見守ったが、金属のくちびるは黙り、金属のはうつろ。ただ偉大なる男が修道院で話す声のみ聞こえ、いかなる質問にも答えなかった。
 ついにある日、机に座り研究を行いながら、遠方ケルンに住むドゥンス・スコトゥスに手紙をしたためていたその日、銅像が優しくほほ笑み、こう叫んだ。
「時は今!」
 修道士が見上げた。
「時は今、まさしくそうです。時こそあなたが発した言葉、そしてある意味、時ほどわからないものはない。もちろん、時には何もないのだから。時なしでは」
 銅像が吠えた。
「時は過去!」
 銅像は微笑んでいるが、ドラコン像のように毅然きぜんとしている。
 修道士が答えた。
「まさしく時は過去。時は、過去、現在、未来なり。なぜなら時は事象を生じる媒体なり。物質は宇宙に存在する。しかし事象は」
 銅像はもう微笑んでいない。
「時は過ぎた」
 と吠える銅像の口調は屋外にある大聖堂の鐘のように渋い。
 そして爆発して、何千個もの破片に散った。

     ***

 ハスカル・ヴァン・マンダプーツ老教授が本を閉じながら言った。
「どうだ。わしの実験には古典的な裏付けがある。この物語には中世の神話や伝説が混ざっているが、ロジャーベーコンが実験して失敗したことを証明している」
 教授は人差し指をふって注意した。
「ディクソン君、ベーコン修道士が偉大じゃないと思っちゃいかんぞ。事実、偉大だ。彼が松明たいまつをともしてくれたおかげで同姓のフランシス・ベーコンが4世紀後に取り上げて、今ヴァン・マンダプーツが再挑戦する」
 俺は黙って見つめた。
 教授が再び口を開いた。
「実際にロジャーベーコンは13世紀のヴァン・マンダプーツと呼ばれるかもしれない。あるいはわしが21世紀のロジャーベーコンと呼ばれるかもしれない。『大著作』、『小著作』、『第三著作』……」
 俺はイラついて口をはさんだ。
「何の関係があるんですか。あれに」
 研究室の片隅に立っている不格好な金属ロボットを指さした。
 マンダプーツ教授がかみついた。
「さえぎるな。わしは……」
 このとき、俺は椅子から飛びあがった。金属の塊が突然、アーガーラースというような声を発し、窓際まどぎわへ1歩踏み出し、腕を振り上げたからだ。
「なんてこった」
 と俺が思わず叫ぶと、ロボットは腕をおろし、無表情で元の場所に戻った。
 マンダプーツ教授が冷静に言った。
「車が路地を通ったに違いない。今わしが言ってたように、ロジャーベーコンは……」
 俺は聞くのをやめた。マンダプーツ教授が持論を述べる時、中断するなど無理もいいところ。教え子だから知っている。

 そこで俺は自分の個人的な問題を考えることにした。特にチップス・アルバについては目下の事案。そう、テレビダンサーのチップス・アルバのことだ。小柄な金髪小悪魔で、ブラジル社提供のヤーバ・マテ・アワーに出ている。俺はコーラスガールやダンサー、テレビスターに弱い。たぶん、潜在的な芸術肌なんだろう。たぶん。
 俺の名はディクソン・ウェルズ。N・J・ウェルズ社の御曹司おんぞうしで、特命技師だ。おそらく自分は技師だと思うが、おそらくと言ったのは、入社以来7年間、父が証明する機会を与えなかったからだ。
 父には時間が重要だが、俺には生来せいらい、何事にも、何にでも遅刻する困った性癖がある。父は、俺のたまさかの設計ですら昔のヤコブ時代だというが、言いがかりだ。後期ロマネスクなのに。
 老父はまた、俺が舞台やテレビの女優好みが気に入らず、きまって手当てを減らすと脅す。たぶん手当が給料なんだろう。扶養されすぎるのも不便だ。
 後悔するのは、折しも2009年の株式暴落で財産がすっからかんになって、ウィムジーホワイトと結婚できなくなったことだが、マンダプーツ教授は仮想機を使って恐慌がくることを証明していた。だが、俺に関する限り、とにかく大惨事となってしまった。
 ジョアナ・コードウェルの銀眼を忘れるのにも、何か月もかかった。俺がちょっと遅れたとき、実際に起こった別な出来事だったが。
 ヴァン・マンダプーツ教授は俺の古い恩師、ニューヨーク大学の新物理学部長で、天才だ。でもちょっと変わっている。諸君、自分で判断してくれ。

「それが命題だ」
 突然、教授が俺の夢想むそうをさえぎった。
「ええっ? はい、もちろんです。でも、あの出歯ロボットと何の関係があるんですか」
 教授が青ざめた。
「今言ったばかりだ。ばか、たわけ。マンダプーツさまがしゃべっている時に眠るとは。出てけ、出てけ」
 退席した。とにかく遅くなって、夜更かししたので、いつもより朝まで寝過した。そして、会社で親父から直々に、いつもよりこってり叱られた。

 ある夜、次にマンダプーツ教授を訪ねた時、教授は怒ったことを忘れていた。ロボットはまだ窓際まどぎわに立っていた。早速さっそく目的を聞いた。
「学生が作った単なるおもちゃだ。右目の奥に光電子セル幕があって、画像がはいると機械が動くようになっている。機械は光回路につながっているが、実際に動くのはガソリンだ」
「なぜですか」
「なあに、組み込んだ画像が車なんだ。これを見ろ」
 教授は机からカードを取り出し、今年度発売の流線形型・車のカードを出した。
「片目しか使ってないので、機械は遠くの実物と、近くの小さなカードとの区別がつかない。機械には遠近がわからない」
 教授が機械の眼前にカードを1枚掲げた。とたんに、ロボットがアーガーラースと吠えて、1歩前に進み、両手を上げた。マンダプーツ教授がカードを引っ込めると、元の場所に無表情で戻った。
「なんてこった。何のためですか」
「いままでマンダプーツさまが訳もなく研究したか。わしの講義で、デモ用に使う」
「何のデモですか」
 マンダプーツ教授が厳粛に答えた。
「理性力だ」
「どんなやり方ですか。それから、なぜ電気じゃなくガソリンで動かなくちゃいけないのですか」
「質問は1つずつだ、ディクソン君。君はマンダプーツさまの偉大な思想を忘れたな。これを見たまえ。この創造物は見ての通り不完全だが、捕食機械だ。ジャングルに潜み、獲物にとびかかる虎のような機械。この怪物のジャングルは都市。獲物は通りを走る不用心な車だ。分かるか」
「わかりません」
「では、この自動機を想像してみよ。ありのままじゃなく、マンダプーツさまの理想どおりに。つまり、ビルの巨大な影に潜み、暗い路地にそっと忍び、人気のない通りをこそこそ動く。ガソリンエンジン音は静か。そのとき、無防備な車の画像が眼底の膜に焼きつく。飛びかかり、獲物を仕留め、鋼鉄の腕で振り回し、鋼鉄のあごに運ぶ。獲物を鋼鉄の歯で砕き、鋼鉄の喉を通り、獲物の血、すなわちガソリンが胃、つまりタンクに流れる。すると力がよみがえり、残骸を振り飛ばし、ほかの獲物を探して這いまわる。機械の肉食動物、機械の虎だ」
 俺は無言で見つめていたと思う。偉大なマンダプーツ教授の頭脳が突然壊れたのかと思った。俺がいったい……と、うめくと、教授が冷淡に言った。
「単なる考えだ。おもちゃの使い道はたくさんある。何でも証明できる、望むものは何でも」
「できますか。なら、何か証明してください」
「君から言い給え、ディクソン君」
 俺はためらい、困惑した。
 教授が待ち切れずに言った。
「では、証明しよう。無政府主義は理想的政府とか、天国と地獄は同一場所とか……」
「証明してください。天国と地獄のことを」
「簡単だ。まず、ロボットに知性を与える。老舗しにせのクッシュマン製・遅延ちえんバルブを使って機械メモリを追加する。何らかの計算機を入れて数学能力を付ける。電磁式有線蓄音機で声と語彙ごいを与える。そして重要な点がこれだ。機械に知性を付与すれば、同じように作られた機械でも、同じ性格にならなければならない決まりはないだろう? 同じものを内蔵するロボットでも全く同じ性格じゃないだろう?」
「同じじゃないですね。人間は2つの機械を精密に同じに作れない。違いが少し出ます。反応の早いのがいたり、フォックス・エアスプリッタの獲物が好きなのがいたり、カーナカーズに激しく反応するのがいたり。言い換えれば個性があります」
 俺は得意気にニッと笑った。
「まさにその通りだ。君の認識では、個性は不完全な職人わざのせいだ。製造技術が完璧なら、ロボット全部が同一になって、個性は無いだろう。だろ?」
「そうだと思います」
「わしの理論では、人間の個性は完璧性の欠如のせいだ。我々すべて、このマンダプーツさまですら個性的なのはただ完璧でないからだ。完璧なら、誰もがみな同じだろう。だろ?」
「ええ、そうです」
「だが天国は、定義によれば、すべてが完璧な場所だ。故に天国では誰もがまさしく皆と同じ。従って、皆に完璧性と完全性が備わっている。退屈などという拷問はない、ディクソン君。どうだ、要点を証明したかな?」
 参った。俺は口ごもった。
「し、しかし、無政府主義はどうですか」
「簡単だ。マンダプーツさまにはとても簡単。こういうことだ。完璧な国家であれば、個人が厳密に同等で、完璧な構成要因と証明したばかりだが、完璧な国家であれば、繰り返すが、法律や政府は全く不要だ。皆が同じ方法で反応すれば、法律は明らかに無用。例えばある事件が起こって宣戦布告になるかもしれない場合、このような国家では皆一斉に戦争に投票しないはずはない。従って政府は不要。だから無政府主義が理想だ。なぜなら完璧な種族にふさわしい政府だからだ」
 ここで一息ついた。
「さあ、今度は無政府主義が理想政府でないことを証明しよう」
「けっこうです。教授と議論するつもりはありません。でもこのあほロボットの目的はそれだけですか。単なる論理だけですか」
 ロボットは窓の向こうに放浪車が通ると駆け寄ってガーガー言うばかり。
「充分じゃないか。しかしながら、大きな宿命すら感じる。きみ、マンダプーツさまは宇宙の謎を解いたぞ」
 教授が感慨深く間をおいた。
「おや、何か言ったらどうだい」
 俺はハッとして
「あ、す、すばらしい」
「ヴァン・マンダプーツさまのためじゃないぞ」
 こう、教授は謙虚に言った。
「じゃあ、なんのためですか」
 教授は眉をしかめた。
「えーと、そうだな、言おう、ディクソン君。わからんだろうが、言おう」
 教授が咳払いした。
「ウッフン、20世紀初めに戻れば、アインシュタインはエネルギが特殊だと証明した。物質も特殊だ。ここにヴァン・マンダプーツは空間と時間は別々だと宣言する」
 教授が俺をにらんだ。
 俺はつぶやいた。
「エネルギと物質は特殊。空間と時間は別々。なんと貞節ていせつな」
 教授が激怒した。
「大バカ者。ヴァン・マンダプーツの言葉をもじるとは。特殊と、別々は物理的な意味で言ったことをよく知ってるだろう。物質は素粒子から構成されるが故に特殊だ。物質の素粒子が電子、陽子、中性子。エネルギの素粒子が量子。わしがいま2つ追加する。空間の素粒子、空間子と、時間の素粒子、時間子だ」
「いったいぜんたい、空間と時間の素粒子ってなんですか」
 マンダプーツ教授が断言した。
「言ったとおりだ。まさに物質の素粒子は存在しうる最小部品だ。物質に半分電子などないし、半分量子もない。だから時間の最小かけらが時間子だし、空間の最小かけらが空間子だ。時間も空間も連続してない。どれも非常に小さなかけらから構成されている」
「じゃあ、時間子の長さは? 空間子の大きさは何ですか」
「マンダプーツさまが既に測った。時間子は、1エネルギ量子を消費して、1電子を軌道1から軌道2へ押し上げるに要する時間の長さだ。これより短い時間間隔は存在しない。なぜなら1電子が物質の最小単位だし、1量子がエネルギの最小単位だから。そして1空間子は1陽子の実容積だ。これより小さいものは存在しないから、明らかに空間の最小単位だ」
 俺は議論を吹っ掛けた。
「ちょっと失礼ですが、なら、空間子と時間子の間には何がありますか。時が動くなら、教授がおっしゃる1時間子どうしの跳躍の間には何がありますか」
 偉大なるヴァン・マンダプーツ教授が言った。
「おっと、いま物質の核心まで来た。空間子と時間子の間には空間・時間・物質・エネルギ、これらでない何かが必ず存在しなければならない。100年前シェプレーはヴァン・マンダプーツをおぼろげに予想しており、当時の発表で、宇宙プラズマが大きな母体であり、中に時間と空間と宇宙が内包されていると言った。ここでヴァン・マンダプーツは究極の単位として宇宙子を提案する。宇宙子の中で物質・エネルギ・時間・空間が出合い、それぞれ電子・陽子・中性子・量子・空間子・時間子がすべて作られる。宇宙の謎は、わしが宇宙子と名付けたもので解ける」
 教授の青い目が俺を射すくめた。
「すばらしい」
 俺は控え目に言った。そんな言葉を期待していると感じた。
「ですけども、何の役に立ちますか」
 教授が怒鳴った。
「何の役に立つだと。出る、いや出す、ちょっと研究すれば。エネルギを時間に、空間を物質に、時間を空間に変換する手段だ」
 こう、しゃべって黙った。そしてつぶやいた。
「ばかものが。ヴァン・マンダプーツの下で研究していることを考えろ。わしは恥ずかしい。ほんとに恥ずかしい」
 教授が赤面してるかどうか、わかりっこない。教授の顔はいつも赤ら顔なのだから。
 俺は慌てて言った。
「見事です。なんという知性でしょう」
 これで教授が変わった。
「でも、これですべてじゃない。マンダプーツさまは完璧の手前で止まらん。ここに思考の単位を発表しよう。思考子だ」
 これはちょっと行き過ぎだ。俺は見つめるばかり。
「君はびっくりしたかもしれないが、少なくとも噂で思考物質があることを君は知っていると思う。思考の単位、1思考子は1電子プラス1陽子であり、1中性子を形成し、1宇宙子に内包され、1空間子の容積を占め、1量子によって駆動され、1時間子のあいだ動く。簡単明瞭だ」
「すごい、私でさえ1思考子に等しいと分かります」
 教授の目が輝いた。
「よくできた、すばらしい」
 いてみた。
「それで、思考子で何が得られますか」
 教授が重々しく言った。
「ああ、いまや物質の核心すら超越し、ここにいるアイザックに還元する」
 教授がロボットに親指を押しつけた。
「ここでロジャーベーコンの頭を機械で作る。不格好な生き物だが、頭蓋とうがいにはマンダプーツさまも及ばぬ知性が宿ろう。でもマンダプーツさまだけはおそらく想像できる。理想変換機作りが残っているだけだ」
「理想変換機?」
「そうだ。たった今、思考は物質やエネルギ、時間、空間と同じだと証明しなかったか。宇宙子を使えば何にでも変換できると証明しなかったか。わしの理想変換機は思考子を量子に変換する手段だ。例えばクルックス管やエックス線管が物質を電子に変えるようなもんだ。わしが君の思考を見えるようにしてやろう。だが、君のおバカな頭脳のままじゃなく、理想的な形だ。わかるか。君の心にある思考子は他人の物と同じだ。ちょうど、電子が鉄から出ようが金から出ようが、みんな同一であるように。そうだ、君の思考子は……」
 教授の声が震えた。
「マンダプーツさまのものと同一だ」
 教授が動揺して止めた。
 本当ですかと言って俺はあえいだ。
「本当だ。もちろん数は少ないが、同一だ。したがって、理想変換機は君の人格から発する思考を示す。理想を」
 果せるかな、俺はまたしても会社に遅刻した。

 1週間たって、マンダプーツ教授のことを思い出した。チップス嬢はどこかで巡業中だ。俺は誰もつれて出かける気はない。なぜなら昔やってばれたからだ。だから何もすることがないので、仕方なく教授宿舎へ行ったが教授は見つからず、やっと物理学ビルの研究室で会えた。
 教授はテーブルの周りをうろついていた。そこは昔あの忌まわしい仮想機があったところだ。いまは名状しがたい配管がのたくり、配線がもつれ、一番目立つのは丸い鏡、格子状の線が微細に刻まれている。
「こんばんは、ディクソン君」
 教授が厳粛に挨拶した。
 俺も挨拶を返し、尋ねた。
「それ何ですか」
「理想変換機だ。試作機がでかすぎてアイザックの鉄頭に入りきらん。今仕上げ中で、試運転するところだ。君は何と運がいいんだ。世界が恐ろしい危険から救われる」
 教授が青目を輝かせて俺を見た。
「危険?」
「そうだ。この装置に長時間かかりすぎると思考子が引き出されすぎて、被験者の精神が一種の痴呆状態になる。わしがリスクをしょい込むところだったが、マンダプーツさまの精神を害することは世界にとって著しい損失だろう。しかし、手近に君がいる。こりゃ都合良い」
「だめ、良くない」
 教授が威圧した。
「ささ、来たまえ。危険は少ない。実のところ、わしはこの装置が君の精神から思考子を引き出せるか心配している。とにかく最低30分間は全く安全だ。わしなら旺盛な精神が有り余っているから、間違いなくひずみにずっと耐えられようが、世界に対する責任が非常に重いので、誰かが試験するまで挑戦しない。キミ、栄誉を誇りたまえ」
「はて、うれしくないですね」
 でも俺はそれほど抵抗せず、結局、教授は横柄おうへいだが、俺を好きだと知っていたので、危険はないだろうと前向きに捉えた。遂に、自分から椅子に座り、加工鏡に向かった。
 マンダプーツ教授がストーブ管のような筒を指さした。
「顔を筒にいれろ。外界を遮断して、鏡しか見られないようにしてある。前へ進んで、そうだ。ただの望遠鏡か、顕微鏡の筒に過ぎん」
「はて、何かが」
「何が見えるか」
「自分の顔が鏡に」
「当然だ。さあ、反射鏡を回すぞ」
 ブーンとかすかな音がして、鏡がグルグル回っているが、まだ、自分の顔が少しぼやけただけだ。
 マンダプーツ教授が続けた。
「さあ、いいか。ここからは君がやるんだ。総称名詞を考えてくれ。たとえば家だ。家のことを考えれば、個人の家ではなく理想の家、あらゆる夢と願望が詰まった家が見える。馬のことを考えれば、夢とあこがれを乗せた完璧な馬が見える。わかるか? 選んだか? 題目を1つ」
「はい」
 やはり俺は若干じゃっかん28歳。選んだ名詞は、女。
「よし、電気を入れるぞ」
 鏡の後ろに青い光源があった。回転面には相変わらず自分の顔が写っているが、背後に何か出来始め、形をなし、成長してきた。目をぱちぱちした。そのとき焦点が合った。女だ。女がそこにいる。
 なんとまあ。表現できない。初見しょけんじゃ、たとえまじまじ見ても分かりゃしない。別世界をのぞいているようで、あらゆる切望、夢、願望、理想の化身けしんを見ているよう。あまりの衝撃に苦しくなった。そうだなあ、優美な拷問か、苦悶の歓喜だ。耐え難くもあり、抑え難くもあった。
 だが俺は凝視した。せざるを得ない。どうしようもないほど美しい姿にはなんだか親しみがあった。いつか、どこかで顔を見たことがある。夢の中でか? 違う。突然わかった。見覚えの原因が。これは生身なまみの女じゃない。合成だ。
 鼻はちっちゃいが生意気な感じ、ウィムジーホワイトが一番かわいらしい瞬間の鼻だ。唇はチップス・アルバの完璧な弓形だ。銀色の眼と柔らかな茶髪はジョアナ・コードウェルのものだ。だが鏡の中の顔は寄せ集めの統合で、誰のものでもない。不可能で信じられない異常な美貌だ。
 顔と首だけしか見えない。冷静、無表情な面立ちで、彫刻のようにじっとしている。笑ってくれたらなあ、とふと思ったらその通りになった。前も美しかったというなら、今の美貌はそうだな、傲慢ごうまんの極みで燃え盛っている。
 かわいいというには恥辱ちじょくで、失敬しっけいだ。目の前の映像が美貌をひけらかし、しかも実在しないのには激しい怒りがこみ上げる。これは欺瞞ぎまん、不正、詐欺、決して満たされぬ願望だ。
 魅惑にどっぷりはまって怒りが収まった。残り部分はどうなんだろうと思ったら、すぐさま素直に後ろへ下がり、全体像が見えた。俺の本心は堅物かたぶつかもしれない。なぜなら当年流行の胸当て短パン姿じゃなく、虹色の四葉よんようドレスを着ていたからだ。きゃしゃな膝まですっぽり隠れている。
 でも体形はスリムで、静寂な空中に立ち昇る煙草たばこのようだ。水上で一片のかすみのように踊れるかもしれないと思った。そう考えると、女が躍り、片足引いてお辞儀をし、首を真っ赤に染め、かすかに紅潮して見上げた。
 そう、俺の本心は堅物かたぶつに違いない。チップス・アルバやウィムジーホワイトなどと違って、俺の理想の女は謙虚だった。
 単に鏡が俺の考えを反映しているだけとは信じがたい。本物のように見えたし、結局いたのだと思う。本物だし、それ以上でも、それ以下でもない。俺の心の一部だからだ。このとき、マンダプーツ教授が俺を揺り動かして、怒鳴っているのがわかった。
「時間だ、出ろ、30分過ぎた」
 教授が電流を切ったに違いない。映像が消えた。俺は管から顔を離して、両腕で支えてうめいた。
「おおおおお」
「どんな感じだ」
「感じ? 大丈夫です」
 教授の碧眼へきがんに好奇心がちらついた。
「4913の3乗こんはいくつだ?」
 いきなりの突っ込み。俺はいつも計算が早い。
 うつろに返答した。
「えーと17。でもいったいなぜですか」
「神経は大丈夫だな。さて30分も人形のようになぜ座ってた。わしの理想変換機は機能したろう。マンダプーツさまが作ったから当然だ。で、おまえは何を考えていた?」
「俺は、俺は……女」
 教授が軽蔑した。
「はっ、ばかもの。家とか馬では役不足だったな。おまえ、情緒領域は入念に選ぶべきだぞ。さあ、いまから女を忘れることだ。存在しないんだぞ」
 そんなに簡単に希望を捨てられるもんじゃない。
「でも、でも……」
 何をいたらいいかすらわからない。
「ヴァン・マンダプーツさまは数学者で、手品師じゃない。君の理想を物質化できると思ったのか」
 俺が返事しないでうめくだけなので教授は続けた。
「さてと、充分安全のようだから自分で試してみよう。そうだな、『人間』を考えてみよう。超人がどんなだか見てやろう。マンダプーツさまの理想形が超人に他ならないのだから」
 教授が自分で座った。
「スイッチを入れてくれ。今だ」
 入れた。筒がほのかに青く輝いた。俺は関心なくぼんやり眺めていた。あんな理想映像を見たあとでは何も気を引かない。
 マンダプーツ教授が突然怒鳴った。
「おいっ、入れろと言っただろ。何も見えん、わしの顔以外」
 俺は凝視した。そして、訳もなく急にふきだした。鏡は回っている。管群かんぐんは光っている。装置は機能している。
 マンダプーツ教授が顔をあげた。いつもより少し赤い。俺は半分馬鹿笑いした。
 教授は不機嫌だ。
「結局、一般人はわしより人間の理想が低いのかもしれん。わしはお前が見たほど滑稽こっけいなのは何も見とらん」
 俺は消えた。みじめになって帰宅し、夜の残り半分を不機嫌に黙って過ごし、たばこを2箱近く吸った。そして翌日は丸1日会社へ行かなかった。

 チップス・アルバが週末放送のために町へ帰ってきたが、俺はわざわざ出向かず、電話だけして、病気だと告げた。
 俺の顔は話に信用を与えたようで、ひどく同情して、電話画面の顔はとても心配していた。それどころか、俺は唇から目をそらせることができなかった。ちょっと光りすぎる化粧だが、理想の唇だった。だが、あれでも充分でない。まったく不充分だ。
 老父のN・Jがまた心配し始めた。俺はこれ以上朝寝坊ができなくなり、1日欠勤したあと、だんだん早起きするようになって、ついにある朝、わずか10分遅れまでになった。すぐに父が呼び入れた。
「おい、ディクソン。最近、病院へ行ったのか」
 俺はだるそうに言った。
「病気じゃない」
「頼むから結婚してくれ! 彼女がどんな歌をがなりたてようが構わん、結婚して、真人間に立ち戻ってくれ」
「できないよ」
「なんだ、彼女結婚していたのか、ええっ」
 そう、彼女が実在しないと言えるわけがない。映像の、夢の、理想に恋したと言えるわけがない。
 とにかく父は俺がちょっとおかしくなったと思った。だから、俺は、はいとしか言わず、口答えしなかった。
 親父が突然、ぶっきらぼうに言った。
「じゃあ、忘れろ。休みを取れ。2回だ。ここじゃいいことないからその方が良い」
 俺はニューヨークを離れなかった。元気がなかった。しばらく友達を避けて街をほっつき歩き、鏡に映った不可能なほどの美貌を夢想した。やがて完璧映像をもう一度見たい願望が圧倒し始めた。俺以外だれも、あの魅惑の記憶は理解できないと思う。
 ほら、あの顔が俺の理想、完璧というものだ。美人は世界中あちこちにいる。人は恋に落ちるが、どんなに美しかろうが、どんなに愛が深かろうが、常に秘密映像の理想にどこかちょっと足りない。でも鏡の顔はそうじゃない。彼女こそ俺の理想だ。だから、他人がどんな不備を感じようが、俺の眼に欠陥は無い。
 つまり、欠陥がないことこそ、唯一理想という極論を救う。だから、実現不可能なんだが、これこそ、完璧さ全てに特有の欠点だ。

 数日たって俺は屈した。一般常識ではくだらんし無謀だ、願望完璧映像をまたも凝視するのは。渇望かつぼうと戦ったが、むなしく敗れ、ある夜、大学クラブにあるマンダプーツ教授の扉をノックしていた自分に少しも驚かなかった。
 教授はいなかった。いないことを望んでいた。というのも、物理ビルの研究室で探す口実ができたからだ。でも何とかして教授を物理ビルへ連れ出していたことだろう。
 物理ビルに教授はいた。何かの書き物をしていた机上に、理想変換機があった。
 教授が声をかけた。
「こんばんは、ディクソン君。今まで理想大学が存在したことがあるか。当然、存在しない。そのわけは完璧な生徒と完璧な教授がいなければならないからだ。この場合、前者は学ぶべきものが無い、従って後者は教えるべきものが無い」
 俺に完璧大学に何の関心がある? 存在不能も。俺の全霊は別な理想が存在しないせいですさんでいる。俺は緊張して言った。
「教授、もう一度、あれ、あれを使わせてもらえませんか。何か、あの――、見たいんです」
 俺の声で状況がばれたに違いない。マンダプーツ教授がきっと見上げたからだ。
「さては、君はわしの助言を無視したな。女は忘れろと、わしは言った。忘れろ。彼女は存在しないのだから」
「でも、できません。もう一度、教授、ほんのもう1回」
 教授は肩をすくめたが、青くきらきら輝く瞳はいつもより少し優しかった。結局、ある信じがたい理由で、俺を好きだった。
「ディクソン君、君は成人だし、大人の知性があるだろう。これは非常に愚かな注文だが、わしは自分の話すことは常に理解している。もし君が不可能な夢という阿片アヘンで自身を麻痺させたければやりたまえ。これが最後のチャンスとなろう。なぜなら、わしのこの理想変換機を明日、あそこのアイザックというベーコンの頭に移植するからだ。発信器を交換して、思考子が光量になる代わりに、電流になるようにするつもりだ。この電流でアイザックの発声装置を駆動し、声を出す」
 教授は黙想して一息入れた。
「マンダプーツさまが理想の声を聞く。もちろんアイザックが返すのは操作脳の思考子のみだ。ただし鏡の映像のもので、人間の影響は排除してある。発声は理想の単語となろう」
 教授は俺が聞いてないのがわかった。ぶつくさ言った。
「やれ、ばかもの」

 俺はやった。俺の渇望した映像がゆっくりと人物に照り輝き、以前に比べ、途方もなくかわいくて、なにか信じがたいほどの美しさだ。今なら理由がわかる。ずっとあとで教授が説明してくれた。
 前に1回理想を見たために俺の理想が変質し、より高みまで持ち上がったせいだ。記憶の中の理想顔も、完璧という概念も、以前と変わった。
 だから、じっと見つめて願った。鏡の中の人物は微笑みと動きで俺の考えにすぐ気安く応じた。俺が愛を思うと、彼女の眼は優しく燃え上がり、あたかも俺、ディクソン・ウェルズが世界の大ロマンス相手のように思えた。
 エロイーズとアベラール、トリスタンとイゾルデ、オーカッサンとニコレット。
 マンダプーツ教授が俺を揺り動かしたのを感じ、教授のしゃがれ声が聞こえたとき、短剣で刺されたようだった。
「出ろ、出ろ、時間だ」
 俺はうめいて、顔を手でおおった。言うまでもなく教授は正しかった。狂気の模写絵は満たされぬ願望を一層強めただけで、困惑が10倍も悪化した。そのとき、教授がうしろでつぶやくのが聞こえた。
「おかしい。実に変だ。オイディプスだ、雑誌の表紙や看板のオイディプスだ」
 俺は周りをうつろに見渡した。教授が俺の後ろに立って、どうやら回転鏡を黒い筒の端からのぞいたようだ。俺は気だるくつぶやいた。
「はあ?」
「あの顔はとても妙だ。君は何百冊の雑誌、何千枚の看板、無数のテレビ放送で彼女の姿を見たに違いない。エディプス・コンプレックスが妙な形で」
「えっ、教授も見たのですか」
「もちろんだ。何十回と言わなかったか。思考子が完璧な可視光線に変わると言ったろ。君が彼女を見たら、わしも見ないでか」
「でも、看板とかは?」
 教授がゆっくりと話した。
「あの顔はもちろん幾分、理想化されているし、細かい所で間違っているところもある。彼女の眼は君が夢想した青白い銀眼ではない。緑がかった紺碧こんぺきのエメラルド色だ」
「いったい、何の話ですか」
 俺はかすれ声でいた。
「鏡の中の顔の話だよ。ディクソン君、たまたまディ・ライ・アグリオンの顔にとても似ているんじゃ。龍蝶りゅうちょうの」
「というと、彼女は本物? 実在? 生存?」
「ちょっとまて、ディクソン君。ディ・ライはまず本物だが、君のならわしに従えば、ちょっと遅かったな。25年ばかり遅すぎたと言える。ディ・ライはいま50歳台に違いない。えーと、53歳だと思う。でも君が幼い頃、顔は見たにちがいない。どこにでも貼ってあったディ・ライ・アグリオン、龍蝶りゅうちょうだ」
 危うく息が詰まるところだった。この話は衝撃的だ。
 マンダプーツ教授が続けた。
「いいか、人間の理想が埋えつけられるのは幼児期だ。このため、君がいつも恋に落ちる女は、その時の髪、鼻、口、眼を1つか2つ持つ女だ。とても単純だ。しかし妙だな」
「妙、妙と教授はおっしゃる。教授の珍妙な仕掛けを覗くたびに俺は神話と恋に落ちる。死んだ女とか、既婚者とか、幻とか、老婦人になったとか。妙だって? くそおかしいじゃない?」
 俺は食ってかかった。
 教授が落ち着いて言った。
「ちょっと待て、ディクソン君。たまたまディ・ライには子供がいてな。デニスといって、いいことに、母親そっくりだ。なお良いことに来週ニューヨークへ来て、この大学でアメリカ文学を学ぶ。手紙が来たぞ」
 すぐには理解できなかった。俺はあえいだ。
「ど、どうして知っているのですか」
 数少ない瞬間の1つ、恐ろしく面白みのないマンダプーツ教授が取り乱したのを見てしまった。教授が少し赤面してゆっくり話した。
「ディクソン君、ずっと昔、アムステルダムで起こったことだが、わしとディ・ライ・アグリオンはとても親しく、友達以上と言えた。が、龍蝶りゅうちょうとわしのような強烈な個性はいつも衝突する。わしは2番目の夫だった。ディ・ライは7回結婚したと思う。デニスは3番目の夫の娘だ」
「なぜ、なぜ娘さんはここへ来るのですか」
「それはな、わしがここにおるからじゃ。まだディ・ライの友達なんじゃ」
 教授は向きなおり、机上の複雑な装置にかがみこんだ。
「レンチを取ってくれ。今夜これを分解して、あしたアイザックの頭に組み込み始める」

 でも次の週、俺がたまらなくなってマンダプーツ研究室へ舞い戻った時、理想変換機はまだあった。教授がユーモラスに挨拶したことが顎髭あごひげの口からうかがえた。
「おい、まだここにあるぞ。アイザックには新品を作ることにした。その上この機械は楽しみをうんと与えてくれる。さらにオスカーワイルドの言葉を借りれば、天才の研究を改ざんするつもりはない。結局この機械が偉大なマンダプーツさまの作品だ」
 教授はわざと俺をじらした。俺がアイザックや天才教授に相談しに来たのじゃないことは先刻承知。にこやかに笑って、小さな隣部屋に向き直った。そこに金属製のアイザックが厳粛に立っている。教授が呼んだ。
「デニス、来なさい」
 自分の期待は正直なところ分らないが、香りから女が入ってきたことがわかった。案の定、俺の理想ではなかった。たぶんちょっと痩せぎすだ。眼はそうだな、ディ・ライ・アグリオンとうり二つに違いないだろう。というのも今までで最高の透明エメラルドだったからだ。でも横柄おうへいな視線だ。これでマンダプーツ教授と龍蝶りゅうちょうがいつも喧嘩していた訳が想像できようというもの。
 いや、想像するのも簡単だ。龍蝶りゅうちょうの娘の眼を見れば。一見して、デニスには俺の完璧像と言うべき女性の謙虚さが微塵みじんもなかった。極端に露出した流行の服を着ている。
 おおっているのは20世紀半ばのワンピース水着と同じぐらいだ。しなやかさや従順さといった気品は漂わず、独立心や露骨性や、もう一度言うが、厚かましいという印象を与えた。
 マンダプーツ教授が俺を紹介したとき、デニスが冷淡に言った。
「あら、あなたがN・J・ウェルズ社の御曹司おんぞうしなの。おりあるごとに、あなたの脱線がパリ・サンデー誌の付録をにぎわしている。株で百万ドルすったのはあなたじゃなかったの? ウィムジーホワイトに求婚できたの?」
 俺は赤面した。あわてて否定した。
「誇張だよ。とにかく損した、我々、いや俺が」
「ばかを見たのはあなたじゃないでしょう」
 デニスがうまくまとめた。
 まあ、デニスはそんなところだ。すごくかわいいとか、あの鏡で見たような顔であれば、燃え上がったかもしれない。
 会えてうれしいですと挨拶した。まさかまた会うとは思いもよらなかったが……。しかし、怒る気はしなかった。俺にとって理想的な黒髪、完璧な唇、粋な鼻じゃないけど。
 というわけでデニスとまた会った。数回も。実際、デニスが受講していた数少ない文学コースの合間では大部分を一緒に過ごした。そして少しずつ、体格はともかく、俺の理想から程遠くないことがわかった。
 厚かましさの下に正直さと率直さがあり、不本意ながらかわいさもあり、出合頭であいがしらの印象さえ許し、たちまち恋に落ちてしまった。さらに良いことに、デニスも返し始めたように思えた。

 そんなころ、とある正午、デニスを呼んで、一緒にマンダプーツ研究室へ行った。教授と大学クラブで昼飯を食べる予定だったが、教授は個人研究室の向かい側にある大研究室で実験をじか指導しており、スタッフがしくじったある種のゴタゴタを解決しようとしていた。
 そこで、デニスと俺は、くだんの小部屋に舞い戻った。お互い2人になるには完璧な部屋だった。デニスがいるだけで腹がすかない心地。デニスと話すだけで充分食べた気分だ。
「わたし作家になるつもりよ、ディック。わたし、いつか有名になる」
 こう言いながらデニスは物思いにふけった。
 そう、予想が正しかったことはご承知の通り。俺はすぐうなずいた。デニスが微笑んだ。
「ディックすてき、とても」
「とても?」
「とってもよ」
 デニスが熱く返した。そのときデニスの緑眼がテーブルに泳ぎ、理想変換機に向いた。
「ハスカルおじさんの珍妙な頭の壊れた機械というのがこれ?」
 俺の説明はずっと不正確だったと思うが、普通の技術者でもマンダプーツ教授の考えにはついていけない。だがデニスは骨子をとらえ、エメラルドの眼がきらっと輝いた。
「おもしろそうね、やってみる」
 こう、はしゃいで、立ち上がってテーブルへ向かった。
「教授がいない時にやっちゃいけない。危ないよ」
 言うだけ無駄だった。緑眼がキッと輝き、いたずらっぽい目で俺を見た。
「でもディック、わたし、やる。理想の男を見てやる、フフフ」
 俺はパニクった。背が高く黒髪で力強いのがデニスの理想だったとしたら、そうじゃない俺のような背が低く薄い茶髪で少々丸ぽちゃは……。俺は厳しく言った。
「だめ、やっちゃいけない」
 デニスはまた笑った。俺の戸惑いを読んだのだと思う。やわらかく返した。
「ばか言わないでディック」
 デニスが座って、顔を筒の開口部に入れて命じた。
「スイッチを入れて」
 断れなかった。鏡を回し、筒群かんぐんのスイッチを入れた。それからすぐデニスの後ろへまわって、回転鏡に何が見えるか、のぞいた。ゆっくりと顔が浮かんできた、ぼんやりと。
 ぞくぞくした。映像の髪の毛は確かに薄茶色だ。ひょっとして俺に似てるかもとうぬぼれさえした。たぶんデニスも同じ何かを感じていたのだろう。というのもふいに管から目をそらし、ちょっと困惑した眼差まなざしで見上げたからだ。デニスにしてはとても珍しい。
「理想なんてつまんない。本物のスリルが欲しい。見たいのが分かる? 本物の恐怖を見てやる。究極の恐怖を見てやる」
「おー、だめ、いけない。とても危険な考えだ」
 別な部屋からマンダプーツ教授の“ディクソン”という呼び声が聞こえた。
 デニスが言い返した。
「危険、ばか言わないで、わたし作家よ、ディック。すべてが素材になるの。単なる経験よ、経験したいの」
 マンダプーツ教授が再度呼んだ。
「ディクソン、ディクソン、こっちへ来い」
 俺は言った。
「いいかいデニス。すぐ戻るから。戻るまで何もするんじゃない、お願いだから」
 大研究室へ駆け込んだ。教授はおびえた助手の一団と対峙たいじしていた。一見して教授を極度に恐れている。
「あ、ディクソン。エメリッチ弁を馬鹿どもに教えてやれ。自由電子流で動かないことも。一般技術者でもよく知ってることをわからせろ」
 さあ、一般技術者は知らないだろうが、たまたま俺は知っていた。俺が並外れた技術者というわけでなく、たまたま知っただけだ。1、2年前、メイン州にある大きな潮流タービンで仕事をした時、エメリッチ弁を使って超高圧コンデンサの漏電ろうでんを防止しなければならなかった。そのように、説明を始めた。マンダプーツ教授は途中で助手たちに皮肉を言っていた。
 俺が説明を終えたとき、30分ばかり経ったと思う。そのとき、デニスのことを思い出した。
 マンダプーツ教授がじっと見ているのをおいて、急いで戻った。案の定、デニスは顔を筒に押し付けたままだった。両手でテーブルの端を握っている。もちろん顔は隠れているが、なにか変だ。姿勢が崩れ、こぶしが白い。俺は叫んだ。
「デニス、大丈夫か、デニス」
 デニスは動かなかった。俺が鏡と筒端の間に顔を突っ込み、デニスの顔をじっと見ると、ほとんど気絶同然。諸君、今まで、正真正銘狂乱した底なし恐怖にひきつった人間の顔を見たことがあるか。
 まさにデニスの顔がそうだった。表現不可能で、耐えられない恐怖だ。死の恐怖にさらされた場合よりもっと悪い。緑眼がかっと開き、白目をむいている。完璧な唇はひん曲がり、顔全体がゆがみ、恐怖仮面となっている。
 スイッチへ駆け寄ったが、途中でちらっと見えた。鏡に映ったものが。信じられない! 卑猥ひわいで、恐怖を帯び、ぞっとする、これでも言葉が足りない。全く言葉がない。
 デニスは管が暗くなっても動かなかった。俺がデニスの顔を筒から持ち上げると、俺をちらりと見てビクッ。イスから転げ落ちて逃げた。恐怖にひきつった顔を向けたから、追っかけなかった。
「デニス、ディックだ。見て、デニス」
 だが、俺がデニスの方へ行くと、絞り出すような金切り声を張り上げ、目がうつろになり、ひざがおれて、卒倒した。何を見たか知らないが、極度にぞっとするものだったに違いない。デニスは気弱じゃないからだ。

 1週間後、教授の小部屋に座って、マンダプーツ教授に会っていた。灰色の金属製アイザックはなかった。テーブルにあった理想変換機もなかった。マンダプーツ教授いわく。
「そうだ、分解した。わしが犯した過ちは機械を放置して、君とデニスのような無能が2人、いじれたことだ。どうもわしは他人の知性をいつも過大評価するようだ。マンダプーツさまの頭脳寄りに判断しがちかもしれん」
 俺は黙っていた。完全に気落ちして、憂うつだったので、教授が俺に知性がないと言っても、正しい感じがした。マンダプーツ教授が再開した。
「これから、自分以外だれの知性も信用しないつもりだ。間違いなく正解に近い」
 アイザックがいない片隅を指さした。
「ベーコンの頭ですら信じない。あの計画は中止した。なぜなら、ざっくばらんに言えば、機械脳に何の需要があるか、マンダプーツさま並みになっても」
 俺は突然叫んだ。
「教授、なぜみんながデニスを俺に会わせない? 毎日病院へ行ったが、たった1回しか入れてくれなかった。たった1回しか。ちょうどその時、デニスがヒステリーを起こしたけど、なぜ? デニスは……」
 俺は息をのんだ。
「デニスは順調に回復しているよ、ディクソン君」
「なら、なぜ会えないのですか」
 マンダプーツ教授が静かに言った。
「そうだな、こういうことだ。なあ、君が研究室へ駆け込んだとき、誤って筒の正面に顔を向けたろ。デニスが呼び出していた恐怖のまっただ中に、ちょうど君の顔が見えたんだ。わかるか? その時から、君の顔がデニスの心に、鏡地獄の権現ごんげんとなったのじゃ。デニスが君を見ると、全部再現するぞ」
 俺はあえいだ。
「ちくしょう。でも治るんでしょう? その場面は忘れるんでしょう?」
「若い精神医が治療している。余計なことだが陽気な奴だ、私見だがね。彼によれば2、3か月で完治するそうだ。だがディクソン君、個人的に言えばデニスはもう君の顔を見たくないと思うよ。わしだってもっとひどい顔はあちこちで見たがね」
 俺は無視してうめいた。
「おおー、こりゃ大変だ」
 飛び出そうと立ち上ったその時、うまい考えを思いついた。
 後ろを振り向いて叫んだ。
「いい、いいですか、教授。デニスをここへ連れ戻して、理想美を見せましょう。そのとき俺が顔を突っ込む」
 だんだん興奮してきた。
「成功するぞ。最悪、ほかの記憶も消える。すばらしい」
「相変わらずだなあ、キミは。ちょっと遅かった」
「遅い? なぜ? 理想変換機はまた作れるでしょう? 教授は何度も作ったでしょう?」
「マンダプーツさまはとても気前が良い。喜んでやるよ。でも少し遅かった、ディクソン君。あのな、デニスは今日のお昼、陽気な若い精神医と結婚したんだ」
 さて、今晩俺はチップス・アルバとデートするんだが、まさにさっき遅れたように、いま遅れようとしている。そしたら、一晩中、唇を眺める以外、何もできないなあ。





底本:The Ideal. First published in Wonder Stories, September 1935.
原著者:Stanley G. Weinbaum
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翻訳:奥増夫
2022年12月28日作成
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