観点

THE POINT OF VIEW

マンダプーツシリーズ 第3回

MANDERPOOTZ SERIES

スタンリイ・G・ワインバウム Stanley G. Weinbaum

奥増夫訳




 ハスカル・ヴァン・マンダプーツ大教授が吠え、研究室内の一角を不機嫌にいらつき、俺をしばらくにらみつけた。
「わしは謙虚過ぎた。困ったもんだ。わしの業績を過小評価したため、コーベイルのようなつまらん物真似屋ものまねやが委員会に働きかけてモレル賞を取りおって」
 俺は落ち着かせるように言った。
「でも、教授はモレル物理学賞を6回も受賞されました。いくらなんでも毎年はやれませんよ」
 教授が気色ばんだ。
「なぜだ。わしが受賞に値することが明白からか。わかるかディクソン。わしは謙虚だ。たとえコーベイルのような思い上がりの馬鹿者が受賞しようが、奴の着想はわしに比べ底なしの屁理屈だし、賞をもらっても栄誉は何の自慢にもならん。バーカ。あんなわかりきった研究に賞を与えるなんて、言うのもはばかるし、モレル賞判定も露骨さがわかっていたろうに。思考子の研究だと、ええ! 誰が思考子を発見した? マンダプーツさま以外誰だ?」
 俺は慰めるように、
「それは去年教授が受賞されたものでしょう。つまり、教授の謙虚や寛容は偉大さの象徴じゃないですか」
 マンダプーツ大教授の機嫌が直った。
「そうだ、そうだ。わしより劣った男がこんな恥辱を受けたら、間違いなく重病になる。でもわしはならん。とにかくわしの経験上、全然よくない。マンダプーツさまは偉大だが、スミレのように謙虚で内気だ」
 ここで教授は一息入れて、大きな赤ら顔をしおらしくしてみせた。
 俺は笑いをこらえた。老天才がずっと変人だと知っていたからだ。俺はディクソン・ウェルズ。機械工学の院生時代、この有名教授の下で新物理、即ち相対性を受講した。
 教授は推測しがたい理由で俺が気に入り、卒業後、実験に加えてくれた。例えば「仮想機」とか、「理想変換機」だ。
 最初の思い出は見かけ上死亡した女と2週間後に恋に落ち、不名誉に苦しみ、2番目は同等かそれ以上の苦しみ、ないし不名誉だった。恋した女は存在しない、いや決して存在せず、存在しようのない、言い換えれば理想の女だった。
 たぶん俺は女性の魅力に弱いか、むしろ性癖せいへきかもしれない。だから理想変換機で痛い目にあってから、愚かさを厳しく過去に追いやり、テレビ役者、歌手、ダンサーなどをひどく嫌うようになった。
 そこで遅ればせながら、毎日まじめに過ごし、1回でもいいから事務所に定時出勤するべく本気になり、親父からどこへも間に合ったためしがないなどと次回言われないようにした。
 まだ成功していなかったが、運の良いことにN・J・ウェルズ・コーポレーションは俺ディクソン・ウェルズが常勤しなくても充分利益を出しながら生き残っていた。いや、常勤してもそう言えたかどうか。
 とにかく確かなことは、親父おやじの好みは俺がマンダプーツ教授と夜を過ごして遅刻するほうで、嫌いなのはチップス・アルバやウィムジーホワイトなどテレビ界の女性らと過ごすほうだ。21世紀になっても親父おやじはとても保守的だった。
 マンダプーツ教授はスミレのような謙虚さとしおらしさを忘れてしまった。厳粛にのたまった。
「ちょっと思いついたんだが、こよみには人間と同じぐらい多様な癖がある。今年の2015年は愚かな年として歴史に記憶されよう。モレル賞が間抜けに授与されたのだから。一方、昨年はとても知的な年、文明の白眉はくびであった。モレル賞がマンダプーツさまに授与されたばかりでなく、わしが離散場りさんば理論を発表し、同様に大学がゴグリ制作のわが銅像を除幕したからだ」
 ここでため息をついて、
「そうだ、とても知的な年だった。君どう思う」
 俺は生返事した。
「どう見るかによります。ジョアナ・コードウェルやデニス・アグリオンにはひどい目にあいました。教授の悪魔のような装置にも。すべては観点次第です」
 教授が鼻白はなじろんだ。
「悪魔のような装置だと、ええ! 観点だと。もちろんすべては観点次第だ。アインシュタインの簡単な統合理論でも充分証明できる。もし全世界が例えばマンダプーツさまのような知的で立派な観点を採用すれば、全ての難問が解決しよう。もし可能であれば……」
 間をおくと、血色の良い顔にとても驚いた表情が広がった。
「どうしたんですか」
「どうしたかって。驚いた。わしは天才の驚くべき深奥しんおうを怖れる。偉大な精神の計り知れない神秘に感嘆して圧倒された」
「意味がわかりません」
「ディクソン、君は天才の研究にあずかれて光栄だ。かてて加えて、君が種をまき、その種から大きな思想の大木が育つはずだ。信じられないように思えるが、君はこのマンダプーツさまにアイデアを与えた。そして、私という天才が取りに足らないキミの言葉をとらえて、壮大な目的に変える。わしは畏敬いけいの念に打たれた」
「でも、何にですか」
 教授は自分の精神の尊厳そんげんに酔いしれて、有頂天だった。
「待ちたまえ。樹木に果実がなったら君にも分かるだろう。それまで植樹の一翼を担ったことで満足したまえ」

 たぶん1ヶ月経ったろうか、ある晴れた春の晩、再びマンダプーツ教授の大きな赤ら顔が電話画面に現れた。教授が重々しく告げた。
「準備できたぞ」
「何がですか」
 教授は俺が忘れたと思って悲しそうだった。
「実がなったぞ。わしの部屋に来たいなら、研究室へ行って試そう。君が遅れたら試験が全くできないから、時間は設定しない」
 最後の皮肉は無視する。もし時間を指定されたら間違いなくいつもより更に遅れて行っただろう。とにかく俺を行かせようとする悪い予感があったからだ。
 マンダプーツ教授の発明には最近の2つの実験で不愉快なことがまだ忘れられない。
 しかし、最後には小研究室に座っていた。一方の大研究室には教授の実験助手カーターが装置の向こうでぶらぶらしており、片隅には不細工でさえない秘書のフィッチ嬢が講義ノートを書き取っており、そのわけは教授の金言きんげんが後世に失われるのを嫌ったからだ。教授と俺の間のテーブルには奇妙な装置があって、鼻眼鏡はなめがね付き鉱山ランプのように見えた。
 マンダプーツ教授が誇らしげに言った。
「これがそうだ。これがわしの『本心器』だ。画期的な装置となろう」
「どうやって? 何をするのですか」
「説明しよう。そもそもこのアイデアが芽生えたのは、何事も観点によるという君の発言に行きつく。もちろん非常に明確な言い草だが、天才は自明じめいをとらえ、茫漠ぼうばくを明らかにする。こうして一番単純な精神思考からでも、天才は崇高すうこうな着想を得ることができる。これはわしが君からアイデアを得た事実から明らかだ」
「どんなアイデアですか」
「辛抱せい。君はまず多くを理解せねばならん。何事も観点に左右されるという真実を理解しなければならん。アインシュタインは運動、空間、時間が観測者の特殊な観点に左右されることを証明した。すなわち相対理論を使って表現した。わしはもっと、無限に進化させた。ここに、観測者が観点であるという理論を提起する。更に進んで、世界そのものが単なる観点であると主張する」
「はあ?」
 マンダプーツ教授が続けた。
「いいか、わしが見る世界と君が住む世界とは明らかに異なる。同様に、厳格な宗教家と物質主義者とは明らかに世界が異なる。幸運な男は幸福世界に住み、不幸な男は悲惨世界を見る。足るを知る者は富み、富多くして不幸な者もいる。それぞれが自分の観点で世界を見る。各自、それぞれの世界に住むといえる。従って、観点の数だけ世界がある」
 俺は反論した。
「でも、その理論は事実を無視しています。どんな観点からでも、正しいものはひとつであって、残りはすべて間違いでしょう」
「凡人はそう思うだろう。凡人の考えによれば、例えば君の観点と、そうだなあマンダプーツさまの観点を比べて、どっちが正しいか、疑問は少ないだろう。だが、20世紀のはじめ、ハイゼンベルグが不確実性原理を公表した。その議論が証明するところでは、世の中の科学を完全に正確に描写することは全く不可能であり、原因と結果の法則は機会法則の一側面にすぎず、絶対確実な予測はあり得ず、科学で自然法則と呼ばれるものは人間が自然を認識する方法を記述したものにすぎない。言い換えると、世の中の特徴は観測する精神に全面依存する、すなわち、わしの最初の声明に戻れば、観点だ」
「でも今まで誰も他人の観点を本当に理解できてないですよ。科学の基礎を攻撃するのはよくないです。なぜなら、確認できないからです。我々2人が赤と呼ぶ色は、教授が見ると、ひょっとしたら緑かもしれないでしょう」
 マンダプーツ教授が勝ち誇って言った。
「ああ。だから、『本心器』だよ。わしが君の眼を通して、あるいは君がわしの眼を通して見ることができると仮定しよう。こんな能力があれば人間性にどんな利益をもたらすか分かるか。科学的立場のみならず、誤解によるトラブルがすべて未然回避されるからだ。さらには」
 教授が指を振って、もったいぶってのたまった。
「おお、数ある力よ、他人が見るように、我々自身を見る能力を与え給え。マンダプーツさまがその力だ。ディクソン。わしの『本心器』を使えばついに他人の観点が見える。2世紀以上前の詩人の嘆きに、ついに答えられる」
「一体どうやって他人の目を通して見るのですか」
「とても簡単だ。『理想変換機』を思い出したまえ。今ならはっきりするが、君の肩越しに、鏡の中の君の理想女性像をのぞいた場合、ある程度、君の観点を受け継いでいる。この場合、君の精神から発する思考子が可視光線の量子に転換し、これが見える。『本心器』の場合はこの過程が全く逆になる。観点を知りたい人に、この『本心器』の光線をあてる。すると可視光線が、ある思考子を伴って反射され、その思考子がこの装置で見えるまで増幅され、いうなれば認識できる」
「思考子?」
「もう忘れたのか、わしが発見した思考の単位粒子だ。また説明せんけりゃならんのか。宇宙、時間、空間、思考、その他粒子が交換可能なことを。そしてそれが……」
 教授は上の空で続けた。
「興味深い憶測を導くぞ。仮定としてそうだな、1トンの陽子と電子、即ち物質を空間に変換したとしよう。わしの計算では1トンの物質はほぼ1立方※(全角KM、1-13-50)の空間を造る。ここで質問だ。この空間はどこに置くのか。すべての空間が既に空間で満たされているのに。あるいはわしが時間を1時間か、2時間造ったとしたら? 明らかにこの余分な1ないし2時間は取り込めない。既に時間全部が勘定済みだからな。これらの問題を解くためには間違いなくマンダプーツさまですら相当考えなきゃならん。しかし、わしはいま本心器の作動を見たい。ディクソン君、本心器をつけてくれないか」
「俺? 教授はまだ試してなかったのですか」
「当然試してない。そもそもマンダプーツさまが他人の観点を勉強して何が得られる? この装置の目的は自分より優れた観点を学ばせるためだ。第2に、わしが自分自身に問うたのじゃ。未信頼の新型装置をマンダプーツさまが最初に試すことは世界にとって公正であるか否か。わしの答えはノーだ」
「じゃあ俺が試さねばならないの? ええっ、もう、教授の発明を試すたび毎にいろんなトラブルに巻き込まれた。また面倒に巻き込まれるほどバカじゃないですよ」
 マンダプーツ教授がもったいぶって言った。
「わしの観点であれば君よりトラブルになりにくいだろう。わしの観点をくっつけておれば不可能な恋などに落ちる懸念けねんは一切ない」
 こう大科学者は保証するけど、装置をかぶるのは少なからず気が進まなかった。だが、俺もまた好奇心が強い。他人の目を通して世界を見られるのは魅力的な誘惑であり、教授によれば新世界を訪れるぐらいにわくわくする。
 そこでしばらく躊躇ちゅうちょしたあと、装置を取って頭にはめ、眼鏡を正しい位置にセットし、マンダプーツ教授を好奇の眼で見た。
 教授はスイッチを入れなきゃと言って、手を伸ばし、外装のスイッチをひねった。
「ではわしの顔に光線をあてろ。そうだ、明かりの円がわしの顔に当たるように。いま何が見えるか」
 答えなかった。さしあたり俺が見たものは全く名状めいじょうしがたい。完全にぼーっとなって混乱した。俺の頭が無意識に動いて、教授の顔に当てていた光線が最後に机に反射したとき、少し正気が戻り、少なくとも机には観点が全くないことがはっきりした。
「おおお!」
 と俺は息をのんだ。
 マンダプーツ教授が微笑んだ。
「どうだ、圧倒されたか。マンダプーツさまの観点を取り込むのはほとんど無理だろ。調整が難しいからだ。2回目はもっと簡単にしてやろう」
 俺は手を伸ばして光線のスイッチを切った。
「2回目は簡単じゃなく、不可能でしょう。誰かさんのあんなくらくらする魔法はごめんです」
「でもディクソン、君はもちろんやるよな。2回目の時はめまいがなくなるぞ。もともと予期しない強さが君を襲ったんだ。あたかも警告なしで巨大な崖っぷちに連れてこられたようなもんだ。今度は準備できているから、めまいはずっと少ないはずだ」
 そう、少なかった。しばらくすると、本心器に全神経を集中することができた。またもや変な現象だった。他人の心を通して世界を見た衝撃は何といっていいやら分からない。ほとんど形容しがたい経験だ。究極のところ、経験とはそんなもの。
 最初見た時は色や形が万華鏡のようだったが、びっくり仰天の考えられないような驚くべき場面は、どれ1つとして色が分からない。
 マンダプーツ教授の眼、いやたぶん脳は俺の眼に比べて全く異星人のように色を解釈するのだろう、合成波長がとても奇怪きっかい、単一色相で言い表わせない。
 俺が教授に言ったように、教授の赤は俺には紫と緑の中間の色合いに見えて全く意味をなさず、第三者が理解する唯一の方法は、俺が本心器でマンダプーツ教授の観点を検証している間に、俺の観点を検証することだろう。こうすれば第三者でもマンダプーツ教授の赤色に対する俺の反応がつかめるかもしれない。
 形もだ。数分かかって、部屋の中央にある奇妙に曲がり、ねじれ、ゆがんだものが、平たい研究室台だと分かった。部屋自体、形が変なのはさておき、小さく見えたのはおそらく、マンダプーツ教授が俺よりちょっと大きいからだろう。
 でも、教授の観点がいちばん奇妙なところは外観に全くとらわれないのみならず、もっと基本的な要素、つまり教授の本心にあった。
 最初の場面では、教授の思考はほとんど俺の埒外らちがいだった。なぜなら教授の象徴的な意味を俺がまだ解釈しきれていなかったからだ。でも、教授の本心は理解できた。
 例えば大研究室で地味に働いているカーター。俺がちらと見たところ、マンダプーツ教授にはカーターがのろまで無教養の召使のように映る。
 それにフィッチ嬢。白状すれば、いつも魅力がないように見えるものの、教授の印象に比べれば俺にはビーナスってとこだ。でも教授にはフィッチ嬢が人間に見えず、俺の見るところ、教授は女と考えていないばかりか、単に一片の便利などうでもよい実験装置と考えているふしがある。
 この時点でマンダプーツ教授の眼を通して自分自身をちらと見た。おっと。俺は天才じゃないが、絶対にニヤケ猿じゃないと教授の眼に出てきた。そして、世間で一番いい男ではないものの、そう思えばそうも見える。それから予想外なことに、教授自身によるマンダプーツさまの評価を見てしまった。
 おれは叫んだ。
「もういい。いばるだけなら出て行く。切ります」
 俺は『本心器』を頭から外してテーブルにほうった。突然、教授の顔がニヤケ顔になった。
 教授が愛想よく言った。
「ディクソン君、それが科学を大成功に導いた偉大な精神だ。君が愚弄ぐろうした人物のことを言ったらどうだ。できれば『本心器』の作動についても。いずれにしろ、君が見たものだ」
 俺は赤面して、ちょっと口ごもり、応じた。マンダプーツ教授は物理世界の違い、特に形と色に認識の相違があるという俺の話を興味深く聞いた。
 教授がついに絶叫した。
「何という世界だ、芸術家には。残念ながらこの分野は永久に蓋をしておかねばならない。なぜなら芸術家が何千という見方を検証して、新しい色彩を限りなく会得えとくしようが、観客は既存の顔料で魅了され続けるからだ」
 教授は思案げにため息をついて続けた。
「でもこの装置は使っても全く安全なようだ。わしがちょっと試してみよう。この発明装置に冷静な科学的精神を持ちこめば、キミを悩ませたような些事さじで混乱することはあるまい」
 教授が『本心器』をかぶった。認めざるを得ないのは、教授が最初の試験で、俺よりずっと反応が良かったことだ。
 おう、と驚いたあと、俺の観点をのうのうと分析した。一方の俺は教授の冷静な評価に、幾分かしこまって座っていた。冷静なのは3分ぐらいだった。
 突然、教授が飛びあがり、顔の装置を引っぺがし、いつもの赤ら顔が激怒の余り真っ赤になって叫んだ。
「出ていけ。キミにはマンダプーツさまがそう見えるのか。まぬけ! ばかもん! あほ! 出ていけ!」

 1週間か10日後、いずこからいずこへと行く途中でたまたま大学を通りかかり、ふと教授が俺を許しているかどうか知りたくなった。
 物理ビルの教授の研究室窓に明かりがあったので、お邪魔して机の横を通ったら、カーターは仕事中、隅でフィッチ嬢が取り澄ましてじっと座り、いつ終わるともしれない口述筆記を講義ノートに取っていた。
 マンダプーツ教授は俺を充分暖かく迎えてくれたが、態度に奇妙な憂うつが垣間かいま見えた。
「ああディクソン君。よく来た。最後に会って以来、わしは世の中の愚かさをいやというほど知った。現代の中では君が知性のある方だと今わかったよ」
 マンダプーツ教授からこんな言葉が出ようとは。
「そりゃ、どうも」
「本当だ。いつだったか、わしは窓際まどぎわに座ってあそこの通りを眺めて、通行人の観点を見ていた。信じられるか。わずか7※(全角パーセント、1-13-45)しかマンダプーツさまのことを知らない。おそらくほとんど近辺の学生だろうけど。知性の平均水準が低いことが分かった。わしはそんなに低くない」
 俺は慰めるように言った。
「結局、マンダプーツ教授の業績は多数派より少数派の知性を引きつけると思わないと」
 教授が噛みついた。
「実に馬鹿げた逆説だ。その理屈によれば、優秀な人ほど知能が高いから、少人数しか見つからず、最大の業績は誰も聞いたことがない。この論法では君がマンダプーツさまより偉大になりかねない。明らかに背理法はいりほうだが」
 教授が非難の目をむいたので、俺ですら重要なんだと知った。その時、目ざとい教授が隣の研究室で何か見つけた。
 教授が吠えた。
「カーター、それが陽電子流の同基どうき中間相計器けいきか。ばかもん。お前はどんな測定をするつもりか。測定装置そのものが実験の一部だというのに。取り外してやり直せ」
 教授は哀れな助手のところへ駆け込んで行った。俺はぼんやり椅子に座って、小研究室を眺め回した。部屋には驚くようなものがいっぱいあった。最新の『本心器』が無造作にテーブルに置かれていた。以前、教授が軒下通りの歩行者の観点を多数見たものだ。
 俺は装置を手に取って構造を調べた。もちろん俺の手に負えない。というのも並みの技術者ではマンダプーツ教授の複雑な考えは分らない。だから、めっぽう繊細な配線や格子やレンズに当惑し、ただただ感心したあと、さっと行動を起こし、頭にかぶせた。
 最初、通りを見ようと思ったが、夜が深まっていたので窓下を歩く人はいなかった。椅子にまた座りなおしてぼんやりと物思いにふけっていた時、教授のつぶやき声じゃないかすかな音に気がついた。
 すぐに、しつこいハエのブンブン音だと分かった。小研究室と向こうの大研究室を区切るガラス窓に頭を狂ったようにぶつけていた。俺はふとハエの観点はどんなものだろうと思って、ハエに光線を当てた。
 しばらくの間、自分の観点から見たものしか見えなかった。というのも、あとでマンダプーツ教授の解説によれば、ハエの矮小わいしょう脳から出る思考子が少なすぎて、ぼやけた印象しか作れないからだ。でも次第に画像が見えてきた。奇妙で言いようのない画面だ。
 ハエは色が見えない。これが最初の印象だ。なぜなら、灰色と白黒のぼやけた景色だったからだ。それに、ど近眼だ。
 やっと、いつもの部屋だと分かったが、ハエには巨大空間と映る。ハエの視界は2※(全角メートル、1-13-35)以下だ。でもハエの眼はほぼ完全な球で、現実に全方向が同時に見られる。
 だがおそらく一番驚いたのは、最近まで考えもしなかったことだが、ハエの複合眼は、顕微鏡写真を多数寄せ集めた像じゃない。
 我々がまさに見るように1つの画像しか写らない。網膜に投影された逆さま画像を人間脳が正像にするように、ハエの脳も複合映像を1つにする。
 以上の印象のほかに、野生の臭気がごた混ぜになっており、すりガラスを破って向こうの明りに突入したい奇妙な欲望があった。
 だが俺にはそんな感覚を分析する余裕はなかった。というのも、突然、ハエのかすみ思考よりはるかに鮮明なものがぴかっと光ったからだ。
 30秒かそこら、瞬光しゅんこうが何か分からなかった。
 分かっているのは、何か途方もなく美しいものを見たこと、誰かがいることで観点に恍惚感を引き起こしたこと、しかし誰の観点だか、誰が美貌をちらつかせたかは謎で、俺の解析能力を超えた。
 俺は本心器を外し、窓ガラス上でぶんぶんいってるハエを途方にくれて見つめた。別の部屋ではマンダプーツ教授がしょげかえったカーターを叱責し続けていた。
 そして俺の位置から見えないところで、紙のれる音が聞こえ、フィッチ嬢が延々と口述筆記を行っていた。ことの起こりをあれこれ考えていたら、だんだん分かりかけてきた。
 ハエは外の研究室にいる人物と、俺の間を飛んだに違いない。俺は本心器の微光でハエを追っかけていた。
 そのビームが、窓の向こうにいる3人のうちの誰かに一瞬当たったに違いない。しかし誰にだ? マンダプーツ教授か。たぶん教授か、カーターのどっちかだろう。というのも秘書は光線の到達外にいたからだ。
 有りそうのないのは怜悧れいりな精神を持つマンダプーツ教授、俺が感じた感情的な絶頂など出すはずがない。
 従って、おとなしくて、無害で小柄なカーターの頭にビームが当たったに違いない。変だなと思い、装置を再び頭に付けて、大部屋をゆっくりビームで走査した。
 その時思いもしなかったのは、ざっくばらんに言えば、これが盗聴か、もっと不名誉な犯罪だということだ。なぜなら言葉で伝える以上の個人情報を盗むからだ。でもそのとき考えたのは自分の好奇心だけだった。
 どんな観点で、あんな奇妙な瞬間美が作れるものか調べたかった。これが倫理に反するならばそうだな、俺の罪は天のみぞ知る。
 そこでカーターに本心器を向けた。その時カーターはマンダプーツ教授の話を熱心に聞いており、大人物を尊敬していることがはっきり感じられたが、恐怖という別要素もあった。カーターの印象では、教授の怒鳴り声は神が乗り移った雷のように聞こえ、それが小柄な男の偽らざる意見に近いものであった。
 カーターによるカーター自身の評価も受信した。カーターの自画像は俺の印象より、もっとネズミのようだった。一瞬カーターが俺の方を向いたとき、俺の印象を感じた。マンダプーツ教授が見るほどディクソン・ウェルズは馬鹿じゃないことが確認できた一方、カーターのような礼儀正しさが欠如した男であることも確認できた。
 結局のところ、カーターの観点は臆病で、人畜無害で、内気で、服従的な小男のように思われる。だからこそなおさら、カーターのような小心者に何が原因で、美観が一瞬輝いて消えたか不思議であった。
 今はそんな痕跡は微塵みじんもない。カーターは完全にマンダプーツ教授の声に集中しており、一方の教授はカーターが愚かということを忘れ、競争相手のコーベイルやシュリムスキーが提唱した統一場理論を誤りだと一席ぶっていた。
 カーターはほとんど崇拝すうはいして聞いている。マンダプーツ教授の権威をないがしろにする悪人どもにカーターが怒っているのが感じられた。
 俺は本心器の奇妙な二重映像にすっかり考え込んだ。本心器はある点ではホーステン心理盤のようであり、言い換えると本人の眼でも、他人の眼でも見ることができる。だからマンダプーツ教授とカーターがはっきり見え、同時にカーターが見て感じるものを、認識できた。
 そうこうするうち、突然俺の眼に、教授がカーターに話すのをやめ、俺に見えない誰かのところへ向かうのが確認できた。と同時に、カーターの眼を通して一瞬、恍惚の心象しんしょうがきらりと光った。
 記述不可能。見たのは女。おそらく「理想機」の理想女性を除き、今まで見たうちで最も美しい女性だった。
 記述不可能だ。文字通り真実だ。というのも、カーターの眼を通して見る肌の色、表情、姿は言葉で言い表せないような完璧さだ。
 俺は魅了され、何もできずただ見るだけで、つましいカーターの態度に崇拝すうはいの心をとらえたとき、激しい嫉妬の高まりを感じた。
 女性は素晴らしく、見事で、言いようがなかった。俺はやっとのことで、とらわれの身から脱し、カーターが女の名前にどっぷりはまっていることを知った。カーターはリサのことを考えている。リサ……。
 マンダプーツ教授に話すリサの声は弱すぎて俺には聞こえず、カーターにもどうやら弱すぎて聞こえないようだが、その代わり、本心器を通せば俺だけ、リサの声が聞けるかもしれなかった。またマンダプーツの怒鳴り声が聞こえた。
「辞書単語の発音がどうであれ、かまわん。マンダプーツさまの発音が正しい」
 教授が吠えている。
 輝くばかりに美しいリサは無言で向きをかえ、姿を消した。数分間、カーターの眼を通してリサを見ていたが、リサが研究室のドアへ近づくと、カーターは再びマンダプーツ教授に注意を向け、そしてリサは俺の視界から消えた。
 教授が論文を閉じて近づいてきたので、本心器を頭から外して、平静をよそおった。
「誰ですか女性は? 会っちゃいましたよ」
 教授はぽかんと俺を見て
「誰って誰だ?」
「リサですよ。リサって誰ですか」
 マンダプーツ教授は怜悧れいり碧眼へきがんをぴくりとも動かさなかった。
「リサなど知らんぞ」
「でも今話していたでしょう。あそこで」
 マンダプーツ教授は俺を不思議そうににらんだ。それから少しずつ鋭い疑惑が、知的な大顔に浮かんできたようだ。
「ははあ、キミはもしかして本心器を使っていたな?」
 俺はうなずき、冷たい嫌疑にぞっとした。
「あそこにいるカーターの観点を調べようとしたのも図星ずぼしだろう?」
 俺がうなずくと、教授は扉のところへ行って、2部屋をつなぐ戸を閉めた。再び俺に向かい合った時、楽しみにうずうずした表情を見せながら、突然大笑いした。
「ハハハ、美人のリサが誰だか分かるか。フィッチだよ」
「フィッチ? まさか! リサは光り輝いていたが、フィッチはさえないし、やせて、ブスだ。俺はバカかな?」
 教授がくすくす笑った。
「困った質問だな。いいか、ディクソン。君が見た女は、カーターの眼を通して見た秘書のフィッチ嬢だ。分からんのか。馬鹿なカーターが惚れよって」

 たぶん俺が歩いたのは真夜中だったろうが、まったく夜空の星々なんか、記憶になかった。たしか21世紀のニューヨークにそびえたつ壁の間に星が見え、断続的に自動車が轟音をたてていたような……。まさに最悪の状態だった。偉大なマンダプーツ教授が作った悪魔のような仕掛けで苦境に追い込まれてしまった。
『観点』で恋に落ちた。恋に落ちた女は惑わされたカーターの眼を離れては存在しない。俺が恋したのはリサ・フィッチじゃない。実際、俺は痩せのブスは嫌いだ。俺が恋に落ちた女はカーターが見る女だ。なぜなら、恋に落ちた男が愛する女性ほど、世の中に美しいものはないのだから。
 この苦境は以前のものに比べてずっと悪い。
 亡き女に恋した時はもしかしたらと考えて自分を慰めた。
 理想女に恋した時はそうだな、たとえ実際はいなくても、少なくとも彼女は俺のものだ。
 しかし、ほかの男の女と恋に落ちるなんて。この女が存在し続ける唯一の方法はカーターがリサ・フィッチに恋し続けることだ。これではむしろ俺が両者から完全に蚊帳かやの外に置かれる。
 リサは絶対にものにできない。なぜなら、間違いなく本物のリサ・フィッチは欲しくないからだ。もちろん本物というのは俺にとって実物という意味だが。
 結局、カーターが恋するリサ・フィッチは、俺の目に映るせた案山子かかしと同じだろう。
 リサはものにできない、いやできる? 不意に、長いこと忘れていた心理学講義を思い出した。
 くせは習慣、見方はくせ。従って見方は習慣。そして習慣は学習可能。
 これぞ解決方法だ。やるべきことはカーターの見方を学習するか、実践して身につけることだ。なすべきことは、文字通り、カーターの立場に自らを置いて、カーターの方法で物事を見て、カーターの観点で見ることだ。ひとたび方法を取得すれば、カーターが見るリサ・フィッチの極意ごくいが見られるかも。そして映像もカーター同様、本物になるかも。
 周到に計画した。マンダプーツ大教授の皮肉に会いたくなかった。従って秘密裏に作業しよう。
 教授の研究室を訪れるのは、教授がクラスを持っているか、講義をしているときにしよう。そして『本心器』を使ってカーターの観点を学び、言うなれば見方を練習しよう。
 そうすれば、進歩の確認方法は眼前にある。なぜならやるべきことは『本心器』を使わずフィッチ嬢をちらと見ることだから。カーターが見るようなものがフィッチ嬢に見え始めれば、成功は近いだろう。
 次の2週間は妙だった。マンダプーツ教授がいない時間に研究室に出没した。情報元は大学本部だ。どの時間に教授が講義するかを聞いた。
 ある日『本心器』がないことに気づいて、カーターを説得して保管場所を尋ねたところ、俺を信頼してか、何も言わずに場所を教えた。
 でもあとになって、カーターは俺を疑い始めたように思う。というのも俺が椅子に座ってカーターを長時間凝視しているのがとても奇妙だと思っていることを知ったからだ。
 カーターの心に、もやもやした疑問があることも知った。ただ前にも言ったように、解読は難しかったが、やがてカーターの考える象徴的な意味が分かり始めた。
 しかしながら、少なくとも1人は喜んだ。俺の父だ。親父おやじは俺が事務所にいなくて、仕事しないのを心身が健康なしるしと見て、快気を喜んだ。
 やがて、実験が成功し始め、カーターの見方に同調していることが分かり、少しずつカーターの住むおかしな世界が自分のものになりつつあった。
 カーターの眼を通した色が分かるようになり、形や姿も学んだ。中でも最も基本的なこと、つまり価値や態度や好みを身につけた。
 後者は時々ちょっと不便だ。というのも、夜マンダプーツ教授に訪問の電話を毎日入れるたびに、大教授に対する敬意がカーターの盲目崇拝すうはいと区別つかなくなって、何回か洗いざらいうっかりしゃべるところだった。
 おそらく後ろめたい良心だったのだろうが、俺がずっと気にしていたのは、教授が鋭い碧眼へきがんでけげんな疑惑を一晩中俺に向けていたことだ。
 終点に近づきつつあった。時々、せたブスのフィッチ嬢を見ると、カーターが見るのと同じ奇跡的な美貌がちらと見え始める。ほんのちらだが、成功の前兆だ。
 連日、研究所をますます熱心に訪れた。というのも、毎日成功が近いように思われたからだ。

 そんな熱心さが増したある日、着いたらカーターもフィッチ嬢も不在で、マンダプーツ教授だけいた。確かな証拠によれば、教授は不確実性の講義をしているはずだったのに。
「あ、こんにちは」
 俺は弱々しく挨拶した。
 教授が俺をにらみつけた。
「ふーん、そうカーターが正しかったな。ディクソン、わしは人類の天文学的な証拠が次々現れて、救いがたい愚かさに愕然がくぜんとするが、キミの脱線は白痴の最たるものだ」
「お、俺の脱線?」
「マンダプーツさまの眼力から逃れられると思っているのか。わしの留守中キミがここに来るとカーターが教えたとたん、すぐに真実が分かった。だがカーターの情報すら必要ない。その訳は、片目でも、ここ数日、夜の訪問で君の態度が変わったのが充分わかる。で、カーターの観点を身につけようとしていたな、ええ? カーターから魅惑的なフィッチ嬢を略奪しようとする考えに違いない!」
「ど、どうして」
「いいか、ディクソン。我々は倫理を無視して、純粋に合理的な観点から物事を見ようとした。ただしマンダプーツさまを除く全員に合理的観点があればの話だ。キミ、フィッチ嬢に対するカーターの態度を得るためには、カーターの全観点を取り込む必要があることぐらい分からんのか」
 教授がそっけなく付け加えた。
「カーターの観点がキミよりずっと劣っていると思っているからじゃなく、たまたまネズミよりロバの観点の方が好きなからじゃ。キミ特有の愚かさはカーターの臆病で薄弱で卑屈な性格より、わしは気に入っている。いつか感謝すると思う。キミは自分の個性を犠牲にしてカーターのフィッチ思いを得たいのか?」
「わ、わかりません」
「そこでだ、どっちにしろ、マンダプーツさまは事態を最善の方向に決めた。ディクソン君、また遅すぎたな。2人に1か月の休暇をやって、ハネムーンに送り出した。けさだ」





底本:The Point of View. First published in Wonder Stories, February 1936.
原著者:Stanley G. Weinbaum
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翻訳:奥増夫
2023年2月11日作成
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