ピグマリオン眼鏡

PYGMALION'S SPECTACLES

スタンリイ・G・ワインバウム Stanley G. Weinbaum

奥増夫訳




「しかし現実とは何ぞや。すべては夢、すべては幻、キミも私も映像だ」
 小人こびとのような老人が尋ねた。身振りの先には、ズラリ並んだ高層ビル群がセントラルパークにそびえ立ち、無数の窓々が赤々と輝き、クロマニヨン人街の穴火あなびのようだった。
 ダン・バークは酒の毒気にやられた頭をはっきりさせようともがきながら、ぼんやり相手の小柄な老人を見つめた。
 残念ながら、このパーティーを抜けて公園で新鮮な空気を吸いたい衝動に駆られてきたが、ひょんなことで、頭のおかしな小柄老人と連れになり始めた。
 でも抜けねばならなかった。このパーティーは数ある中の一つだ。たとえ、いかすクレアがいても引き留められなかったろう。
 無性に家に帰りたくなった。ホテルじゃなく、シカゴの家、比較的平穏な商品取引所だ。だがどっちみち、明日出発する。

 小柄なあごひげ老人が言った。
「飲んで正夢を見る。そうじゃないか。せものが見つかる夢か、それとも苦手にがてに打ち勝つ夢か。飲んで現実逃避するものの、その現実ですら夢だというから皮肉だ」
 ダンは再認識した。
「このひと、こわれてるな」
 老人がまた言った。
「こう哲学者バークリーがのたまった」
「バークリーって。ビショップ・バークリーのことですか」
 頭が次第にはっきりしてきた。大学2年の基礎哲学講義を思い出した。
「知っているのか。理想主義哲学者じゃなかったかな。こう、のたもうた。我々は物事を見ず、触れず、聞かず、味わうことなく、視覚、触覚、聴覚、味覚があるのみだ」
「まあ、そんなものでしたね」
「ああ、でも感覚は精神現象だ。心の中にある。ならば、物事が心の外に存在すると、どうしてわかるのか」
 老人はまた、点々と明かりのついた建物を手振した。
「キミはあの石壁は見てない。感覚を認識しているにすぎない。視覚だ。あとは解釈している」
「あなたも同じものを見ていますよ」
「どうしてわかる? たとえ私には赤が緑に見えないとわかっても、キミは私の目を通して確認できるか。たとえ分かっていても、私が幻でないと、どうやって分かる?」
「ハハハ、もちろん誰も何も分かりませんよ。単に五感情報をとらえて推量しているだけです。間違えれば痛い目にあいますからね」
 ダンは、意識ははっきりしていたが、軽い頭痛があった。だしぬけに言った。
「いいですか。あなたは現実を幻にすり替えることができる。簡単だ。でもバークリーが正しいなら、なぜ夢を現実にできないのですか。片方が出来りゃ、もう一方も出来なくちゃ」
 老人のあごひげが揺れ、いたずらっぽい目が奇妙に輝き、こともなげに言った。
「芸術家はみんなやっている」
 ダンは胸騒ぎを覚えてやっとのことで言った。
「それは言い逃れですよ。誰でも絵と本物の違いとか、映画と人生の違いとかは分かりますよ」
 老人がささやいた。
「しかし、現実味を帯びれば帯びるほどよくなる。違うか。なまに近い映画が作れたら、どうだ」
「でも誰も作れませんよ」
 またしても眼が奇妙に輝き、小声で言った。
「できる。作った」
「何を、ですか」
「夢を現実にした」
 不意に、声が怒りに変わった。
「バカ者だ。カメラ会社のウエストマンに機械を売り込みに来たのに、奴ら何と言った。鮮明じゃないとか、一度に1人しか見られないとか、高すぎるとか。バカ者だ。バカだ」
「はあ?」
「いいか、私はアルバート・ルードウィク教授だ」
 ダンが黙った。
 教授が続けた。
「キミにはどうってことないだろうが、まあ聞いてくれ。絵と音の出る映画だ。話に興味があればだが、いまこれに味覚、嗅覚、触覚を加えたとしよう。もし、筋書きにキミを入れて、キミが映像に話しかけ、映像がこたえ、映像を銀幕に写さず、キミの周りで物語が進行し、どっぷり浸るとしよう。これで夢が現実にならないか」
「一体どうやって?」
「やり方は簡単だ。まず陽極液体、次に魔法眼鏡めがねだ。感光クロム酸塩入りの液体に筋書きを撮影し、溶液を調合する。分かるか。味覚を化学で、音楽を電気で注入する。物語を記録してから、溶液をメガネ、つまり映写機に入れる。溶液を電気分解して壊すと、クロム酸塩が古い順から析出し、筋書きや、映像や、音声や、匂いや、味覚など、もろもろ発生する」
「さわれますか」
 教授の言葉に熱がこもってきた。
「関心があれば心でさわれる。見たいか。ミスター……?」
「ダン・バークです」
 こりゃ詐欺師だなと思った。そのとき、向こう見ずな考えがパッとひらめき、アルコールの毒気を吹き飛ばした。
「もちろん見たいですよ」

 ダンが立ち上がった。ルードウィク教授の背は、肩までしかなかった。奇妙で小鬼こおにのようだなあとダンは思いながら老人について行き、公園を横切り、近隣に並ぶホテル群の一つにはいっていった。
 部屋でルードウィク教授はバッグの中をごそごそ探って、なんだかガスマスクを連想させるような装置を取り出した。ゴーグルにゴム口金くちがねがついていた。ダンが物珍しげに調べていると、小柄なあごひげ教授は1本の液体瓶を振っていた。ほくそ笑みながら言った。
「これがそうだ。陽極液体、つまり筋書きだ。難しい写真技術だ、とてもむずかしい、だから一番単純な物語にした。一編の理想郷で、2人の俳優と、観客のキミしかいない。さあ、眼鏡をつけろ。それをつけて、ウエストマン社の人間がどんなにバカか教えてくれ」
 教授がマスクに液体を静かに注入し、巻線を引きずってテーブルの装置につないだ。
「電気分解用の整流器だ」
「液体は全部使うのですか。もし一部しか使わなかったら見えるのは物語の一部ですか。それで、どの部分ですか」
「1滴でも全部が見えるが、接眼鏡に充満させないといけない」
 ダンがおそるおそる装置を付けた。
「そうだ、いま何が見えるか」
「なーんにも。窓と、通りの明かりだけです」
「当然だ。さあ、今から電気分解を始めるぞ」

 一瞬の混沌こんとんがあった。ダンの眼前の液体が突然白くなり、得体のしれないうなり音がした。頭から装置を引っ剥がそうとしたが、濃霧の中にだんだん姿が現れて、興味をひいた。巨大なものがくねっていた。
 場面が安定した。かすみが夏霧なつきりのように晴れてきた。信じられない。見えない椅子の肘かけを握りしめ、森を眺めていた。でも何という森だ。すごい、この世のものではない、美しい。すべすべした幹が真っ青な空に途方もなく伸びている。
 木々は奇怪きっかい、石炭紀の森のようだ。はるか頭上で葉っぱが霧のように揺れている。草木は高さに応じて茶と緑。そして少なくとも鳥がいる。まわり中で奇妙にかわいらしくさえずっていた。ただ生き物は見なかったが、妖精笛ようせいぶえのようなかすかで繊細な音がやさしく響いていた。
 ダンは身じろぎもせずうっとり。一遍の旋律が大きく押し寄せ、得も言われぬ恍惚が一気にはじけ、あるときは金管楽器のように澄み渡り、あるときは思い出曲のようにやさしかった。
 一瞬、忘れた。肘掛椅子も、かすむ貧相なホテルの部屋も、老ルードウィク教授も、頭痛も。一人ぼっちで素敵な林間の真ただ中にいる自分が浮かんだ。楽園だとつぶやくと、見えぬ音楽が盛り上がってこたえた。

 ある程度、訳が分かった。幻想だと自分に言い聞かせた。巧妙な光学装置で、現実じゃない。手探りで椅子の肘かけを探し出し、しがみつき、足をこすったところ、また矛盾を感じた。地面は見ると緑の苔だが、触るとホテルの単なる薄っぺら絨毯じゅうたんだった。
 妖精笛がやさしく響いた。かぐわしい甘い香りがほのかに漂ってきたので、ちらっと見上げると、近くの木に真紅しんく大輪たいりんの花があり、赤みがかった弱々しい太陽が頭上のまん丸い空にかかっていた。
 繊細で優雅なオーケストラ音楽が明かりの中でだんだん高まり、物言いたげな旋律が体中にぞくぞくっと響いた。幻影か。もしそうなら生々しさに耐えられそうにない。
 信じたい。どこか、夢の一端のどこかに、実際にうっとりする地域がある。桃源郷の出先か。たぶん。

 すると、うすもやのはるか向こうに、何か動くのが見え、草木が揺れるのでなく、霧よりしっかり、ちらちら銀色に光っている。
 何かが近づいてきた。じっと動きを見つめると、木々に見え隠れして、すぐ人間だと思ったが、眼前に来てからやっと女だとわかった。
 女が着ていた銀色の長い服は半透明の服地で、星々の光のようにきらきら輝いている。銀の薄いヘヤバンドがふさふさの黒髪と額を分けている。
 そのほか飾りや衣服はつけていない。白く細い足は裸足はだしで、苔むす地面にあり、ダンのすぐ目の前に立ち、黒い瞳で見つめている。再び音楽がかすかに聞こえると、女が微笑んだ。
 ダンはぐらつく考えを奮い起した。またしても幻想か。現実というより森の妖精にすぎないか。口をあけて話そうとしたが、しゃがれ声が耳に聞こえた。
「きみは誰?」
 俺が言ったのか。声はまるで別人からのようで、熱に浮かされた人物の言葉のようだった。
 女が再び微笑んだ。妙に柔らかい声色で、ゆっくりと丁寧ていねいに話した。
「少し英語が話せます。習ったのは、母の父で、グレイ・ウィーバーと呼ばれています」
 再びダンの耳に声が響いた。
「きみは誰?」
「ガラテアと申します。あなたを探しに参りました」
「俺を探しに?」
 響いた声はダンの声だった。
 女が微笑みながら説明した。
「通称ルーコン、本名グレイ・ウィーバーが私に申しつけました。あなたは今から2日滞在します」
 女がちらと見た太陽は弱々しく輝き、いまや空き地の真上に昇っている。女がさらに近寄ってきて尋ねた。
「お名前は?」
「ダンです」
 口ごもった自分の声が妙に違う。
 女が素手を差し伸べて、微笑んだ。
「なんて変な名前なんでしょう。さあ、いらっしゃい」
 差し伸べた手にダンが触ると、当然ながら指に暖かな生気せいきを感じた。幻想という逆説を忘れて、これはもう幻想じゃない、現実そのものだ。
 女のあとについて行き、偽芝生にせしばふを歩く感じはゴワゴワだったが、ガラテアは足跡を全く残さなかった。ちらと下を見ると、自分も銀色の服のみを着ており、裸足はだしだし、体に軽やかなそよかぜを感じ、足元にはこけの感触があった。
「ガラテア、ここはどこ? 何語を話すの?」
 女はちらと後ろを振り返って笑った。
「もちろんパラコズマです。パラコズマ語です」
 パラ……コズマ。10年前に大学2年コースで習ったギリシャ語を不思議と思いだした。
 パラコズマ! 世の果て!
 ガラテアが微笑んでちらと見て、言った。
「この本物世界が変に見えますか。あなたの世界は映像でしょう」
 ダンがうろたえてオウム返しで反論した。
「映像世界だって? こっちが映像だ。俺の世界じゃない」
 女の微笑みが困惑に変わった。ふふふ、とかわいらしく口をとがらせて生意気に言い返した。
「それなら私が亡霊ね、あなたじゃなくて。わたし幽霊のように見える?」
 ダンは答えなかった。しなやかな女の後ろを歩きながら、難問に悩み続けた。この世と思われない木々の間に通路が広がり、巨木が消えた。

 2キロメートルぐらい歩いたあと、ザーザーという水音で奇妙な音楽がかき消えた。小さな川のほとりに出た。速くて澄み、波打ち、ごうごうと音をたて、満々の貯水池から一気に流れ、弱々しい太陽にきらきら輝いている。ガラテアが水辺にかがみ、手ですくって水を口に運んだ。ダンも真似まねをした。刺すように冷たかった。
 ダンがいた。
「どうやって渡るの?」
 ダンを案内していたガラテアが小滝の上流、日が当っている浅瀬を身振りで示した。
「あそこなら歩いて渡れます。でも私はいつもここを渡ります」
 女はしばらく緑のほとりに立っていたが、貯水池に銀の矢のように飛び込んだ。ダンも続いた。
 水がシャンパンのように体を刺激したが、ひとかきか、ふたかきで泳ぎきったところに、ガラテアが真っ白ななま手足をキラキラさせながら現れた。濡れた体に服が銀ドレスのようにぴったりくっついているのを見て、ダンは息をのむような衝動を覚えた。すると、不思議なことに、まるで絹に油を塗ったかのように水滴が落ち、銀の服が乾いた。そして、2人はずんずん進んだ。
 得も言われぬ森が川と一緒に途切れ、2人が草原を歩くと、あちこちに、色とりどりの小さな星花が散らばり、足元の葉っぱは、芝のように柔らかい。依然として甘い笛の音が響き、あるときは強く、あるときはやさしくささやき、淡いメロディーに包まれた。
 ダンがだしぬけにいた。
「ガラテア、音楽はどこから?」
 女がびっくりして振り返った。
「ばかね、ふふふ。もちろん花からよ。見てごらん」
 紫の星花ほしばなを摘んでダンの耳に当てた。本当だ。かすかな哀愁のメロディーが花から出ている。驚いたダンの目の前に花をほおって、女は跳ねるように進んだ。

 前方に小さな森が現れた。森は巨木でなく低草木、虹色の花や果物が実り、森の中を小川がサラサラ流れている。
 そこに旅の終着点があった。白い、大理石らしき石でできた建物だ。平屋で、つるがはい、大窓にガラスがない。
 2人はきらきら輝く玉石の一本道を入口アーチに歩いて行った。そこに石造の奇妙な椅子があり、白いあごひげの家長らしき老人が座っていた。
 ガラテアが優美な言葉で話しかけたのを聞いて、ダンは花音楽を思い出した。
 女が振り向いて言った。
「この方が通称ルーコンです」
 すると、古老が椅子から立ち上がって英語でしゃべった。
「ガラテアと私が歓迎します。ここではお客様はまれだし、ましてはあちらの映像社会からは」
 ダンの感謝はしどろもどろだったが、古老はうなずき、彫刻椅子に座り直した。ガラテアはアーチ門を飛ぶように去った。
 ダンは躊躇ちゅうちょしたあと、別な椅子に腰かけた。またしてもダンの考えはぐるぐる乱れた。すべては本当にただの幻想か。
 実際は安ホテルの部屋で手品眼鏡めがねを覗きこんで、この世界を演出しているのではないか。あるいは奇跡が起こり、本当に魅惑島に座っているのか。椅子に触ると、石だ、硬い、曲がらない、指にそんな感触があった。
「ルーコン、どうして俺が来ることが分かったのですか」
「聞いた」
「誰にですか」
「誰にも」
「まさか、誰か言ったでしょう」
 当のグレイ・ウィーバーは、かぶりを厳粛に振った。
「聞いただけだ」
 ダンは質問をやめ、甘んじて、しばし魅惑に酔うことにした。
 その時ガラテアが戻ってきて水晶容器いっぱいに奇妙な果物を持って来た。山盛りの果物は、色とりどり、赤、紫、橙、黄色。形も、梨型、卵型、房状楕円型。風変りでこの世のものと思われない。ダンが半透明の卵型果物をとって口に入れると、甘い液体が口いっぱいに広がり、それを見てガラテアが喜んだ。
 ガラテアは笑って同じ果物を選んで、端っこをひと噛みして中身をすすった。ダンは別な果物を取った。ライン川のワインのように紫色で、ピリッとした味だ。別な果物にはアーモンドのような食用の実が詰まっていた。
 ガラテアはダンがびっくりするのを見て嬉しがって笑い、ルーコンまで微苦笑。最後に、ダンが殻を傍らの小川に放り投げたら、くるくる踊って流れて行った。
「ガラテア、まちへ行ったことがあるのかい? パラコズマのまちはどんな?」
まち? まちってなあに?」
「大勢の人々が寄り合って住むところさ」
「あら、いいえ、ここにまちはありません」
「それなら、パラコズマの人達はどこにいるの? ご近所の方々は?」
 女が当惑したように見えた。水平線にかすむ遠方の青い丘陵を身振りした。
「1組の男女なら向こうに住んでいます。ずっとむこうよ。1回行ったけど、ルーコンと私はこの谷の方が好きなの」
「じゃあ、ガラテア、この谷にはきみとルーコンだけ? ご両親はどこ? お父さんとお母さんに何があったの?」
「行ってしまった、あっちへ、日が昇る方へ。いつか戻るでしょう」
「もし戻ってこなかったら?」
「どうして、おバカさんね。何も邪魔しないでしょう」
「野獣とか、毒虫とか、病気とか、洪水とか、嵐とか、無法者とか、死とか」
「そんな言葉聞いたことない。ここではそんなものありません。無法者なんて」
 ガラテアが軽蔑するように鼻であしらった。
「死も無いのかい?」
「死て、なあに」
 ダンが困惑して言い淀んだ
「それは……寝てるようで絶対に目覚めないことさ。誰でも命の最後に訪れる」
 ガラテアがきっぱり言った。
「命の終わりって聞いたことない、そんなものはありません」
「なら、年取ったらどうなるんだい?」
「何も起こらないのよ、ばかね。望まなければルーコンのように年は取らない。一番好きな年齢まで成長し、そこで止まる。これが法よ」
 ダンはこんがらかった考えを整理して、ガラテアの素敵な黒い瞳を見つめた。
「きみはもう止まったのかい?」
 ガラテアが黒い瞳を伏せた。ガラテアのほおが恥ずかしさで真っ赤になったのを見てダンは驚いた。ガラテアはベンチで反射的にうなずくルーコンを見て、ダンに向きなおり、目を合わせた。
「まだよ」
「いつ止まりたい、ガラテア?」
 ガラテアが優美な足に眼を落した。
「1人子供が認可されたら、ね。そのあと子供は産めないのよ」
「認可って? 誰が認可するんだい?」
「法よ」
「法! ここは何でも法が支配しているのかい。冒険とか事件はないのかい」
「何よ、それ、冒険とか事件とか」
「意外なことや、不測事態だよ」
「不測事態なんてありません」
 ガラテアがなお、まじめに、ゆっくりと繰り返した。
「不測事態なんてありません」
 ダンはガラテアの声が沈んでいるような気がした。
 ルーコンが顔をあげ、不意を突いて、ダンに向かって言った。
「もういいだろう。私は冒険とか、病気とか、死とかいう君たちの言葉を知っている。これらはパラコズマには無い。君の裏世界に取っておきたまえ」
「じゃあ、どこで聞いたのですか」
 本名グレイ・ウィーバーが答えた。
「ガラテアの母親からだ。母親が君の先人せんじんから持ってきた。その先人せんじんとはガラテアが生まれる前にここを訪れた亡霊だ」
 ダンはルードウィク教授の顔を思い出した。
「どんな顔ですか」
「君にそっくりだ」
「じゃあ、名前は?」
 老人の口ぶりが突然険しくなった。
「それは言えない」
 こう言って立ち上がり、ぶすっと沈黙してしまった。
「ルーコンは機織はたおりに行くのよ」
 とガラテアがしばらくして言った。魅力的で愛らしい顔にまだ戸惑いがあった。
「何をるんだい?」
 ガラテアが自分のドレスの銀布ぎんぷを指さした。
「これよ。精巧な機械で金属棒からりあげるの。私はり方を知らないけど」
「誰がり機を造ったの?」
「もともとここにありました」
「でもガラテア、誰が建物を造った? 誰が果樹を植えた?」
 ガラテアが見上げた。
「ここにあったのよ。建物も木々も、ここに。すべてが予測されていると言ったでしょう。初めから未来永劫まで、何もかも。建物と木々と織り機はルーコンと私の両親と私に用意されていた。この場所は私の子供、子供はたぶん女の子ね、その子の子供と、永遠に続くの」
 ダンはしばらく考えた。
「きみはここで生まれたのかい?」
「知りません」
 ダンがふいと見ると、ガラテアの目が涙でうるんでいた。
「ガラテア、かわいそうに。なぜ悲しむ? どうした?」
 ガラテアは黒い巻き毛を左右にふって、おもむろにダンに笑いかけた。
「なんでもありません。一体何がいけないの。パラコズマに不幸なんてあり得ない」
 ガラテアがすっくと立ち上がって、ダンの手をつかんだ。
「さあ、明日の果物を採りましょう」
 ガラテアは銀服をきらきらひるがえしながら駆けて行った。ダンがついて行った所は建物の横だった。頭上の枝に飛びつき、ダンサーのように優美につかまり、笑みを浮かべて、大きな金色の果物をもいだ。
 ダンの両手に新鮮な果物を積み上げて、ベンチへ案内した。座ったとき、山盛だったので、色とりどりの果物がどっと周りに転がり落ちた。ガラテアはまた笑って、美脚で果物を押しやり、小川へころがした。方や、ダンはもったいないと思いながらじっと眺めていた。
 それからガラテアは不意にダンに向きなおった。2人は長いことじっと立ちすくみ、眼と眼を合わせた。やおらガラテアは向きを変えてゆっくりとアーチ玄関へ歩いて行った。ダンも果物を持ってついて行った。ダンの心は再び疑惑と不安に揺れ動いた。

 小さな太陽が西の方、巨木の森に隠れつつあった。冷気が降り、影が長く伸びてきた。小川が夕日に赤く染まった。でも、せせらぎの陽気な調べはまだ花音楽と合唱している。
 太陽が沈むと、夕闇で川辺が暗くなり、突然花が沈黙し、小川だけが夜のしじまにごうごうと音をたてた。ダンも無言で扉の中に入った。
 内部の部屋は広大で、床は大きな白黒タイル張り。彫刻を施した最高の大理石椅子が点在。老ルーコンは向こうの隅で、ピカピカの複雑機械にかがみ込んでいる。
 ダンが入室したとき、きんきらの銀布をひとひき取り出してたたみ、丁寧にわきに置いた。
 この世と思われない奇妙な事実にダンは気づいた。闇夜に窓が開け放しなのに、明かりに夜光虫が群れてない。壁のくぼみで等間隔にきらめいているのに。
 ガラテアはダンの左側の戸口に立ち、半ば疲れて縁によりかかった。ダンは入口の椅子に果物入りかごを置き、ガラテアの方へ行った。
「これがあなたの部屋です」
 ガラテアが向こうの部屋を指差した。覗くと、素敵な小部屋で、窓枠は星型、一筋の水流がほとんど音もなく、左壁の人頭彫像の口から噴出し、床に埋め込まれた2メートルの水槽に曲線を描いている。
 そのほか銀布をかけた優美な椅子の調度品があった。輝く球体が1個天井からぶら下がり、部屋を照らしている。ダンが向き直ると、ガラテアの眼はいつになく一層真剣だった。
「完璧だ。でもガラテア、明かりはどうやって消すの?」
「消すって?」
 とガラテアが聞き返し、答えた。
おおうのよ」
 口元に再び笑みを浮かべながら、金属カバーを明かりにかぶせた。2人は暗闇に息を殺し立ちつくした。ダンは痛いほど緊密さを感じた。それからもう一度明かりをつけた。ガラテアは扉へ行きかけて、立ち止まり、ダンの手を取って、優しく言った。
「ねえ、映像さん、音楽の夢を見てね」
 ガラテアは行ってしまった。
 ダンが自室でぼんやり立ったまま、大きな部屋に眼をやると、ルーコンがまだ仕事に没頭しており、本名グレイ・ウィーバーは手をあげて無言のまま厳粛に挨拶した。
 ダンはこの無口な老人のところへ行く気になれず、部屋に戻って眠る仕度したくにかかった。

 ほとんど一瞬のように、夜明けがきて、明るい妖精音楽があたりに満ち、妙に赤い太陽が部屋に斜光を差し込んだ。
 すっかり周りの様子に気づいて起きたものの、ちっとも寝ていないような感じで、プールに気を引かれ、ピリピリする水につかった。そのあと中央部屋へ入ったところ、おかしなことに、明かりがまだついており、日光とむなしく張り合っている。
 さりげなくひとつに触ってみると、金属のように冷たくて、台からそっくり持ち上げることができた。一瞬、手の中で冷光が光った。それから元の所へ戻し、明け方の中にさまよい出た。
 ガラテアが通りで踊りながら、唇と同じように真っ赤で、奇妙な果物を食べていた。ガラテアはまた陽気を取り戻し、再び幸福な妖精となり、ダンに挨拶し、笑顔をこぼれんばかりに振りまき、一方のダンは緑の甘い果実を選んで朝食にした。
「さあ、川へ行きましょう」
 ガラテアは例のけったいな森の方へ弾んで行った。ダンも続いた。驚いたことに、ガラティアのゆったりした歩みでも、ダンの強靭な筋力にまさっている。
 そのあと、2人はプールで談笑し、水を掛け合い、ついにガラテアが紅潮して息を切らし、土手に上がった。ガラテアが体を横たえたので、ダンも上がったが、不思議なことに疲れもなく息切れもせず、消耗してない。疑問が再燃したが、まだ聞かなかった。
「ガラテア、君は誰と結婚するの?」
 ガラテアの目がまじめになった。
「知りません。ふさわしい時に来るでしょう。それが法よ」
「それで幸せかい?」
「もちろんよ。みんな幸せでしょう?」
 ちょっと困ったように見えた。
「僕の住んでいる所はそうじゃないよ、ガラテア」
「おかしなところね、あなたの幻想世界は。どっちかというと恐ろしいところね」
「よくあることさ。ところで……」
 言い淀んでしまった。ダンの望みは一体何だ? 話しかけているのは幻想か、夢か、亡霊じゃないか?
 女を見た。きらきらの黒髪、黒い瞳、柔らかな白い肌。そのとき、無駄なことながら、安ホテルの椅子肘かけを腕の下で探ろうとしたが、なかった。
 ダンが苦笑いして手を伸ばすと、ガラテアの素手に触ったその刹那、ガラテアが振り向き、びくっとして真剣な目で見返し、飛び起きた。
「さあ、見せましょう、私の国を」
 ガラテアは小川を下り始めた。ダンはしぶしぶ起き上がって、ついて行った。
 何という1日だ。2人は小川をたどり、静寂の貯水池から音曲の急流まで辿たどった。まわりには常にチ・チ・チ、ピ・ピ・ピという奇妙な音を花々が出している。どっちを向いても新たな美しい光景があり、いつも新鮮な喜びがある。
 話し込んだり、黙りこんだり、喉が渇いたら冷たい小川に手が届き、腹がすいたら果物がある。疲れたらいつでも深いプールがあり、苔の土手がある。休んでいるときも新たな美が手招く。
 とてつもない木々が様々な形で白夢のように屹立きつりつし、2人がいる川岸の方には花々をちりばめた草原があった。ガラテアがきれいな花冠はなかんむりをダンの頭にかけてくれたので、ダンが動くといつも甘い音楽が流れた。
 しかしながら、少しずつ赤い太陽が森の方へ傾き、時が過ぎた。ダンが指摘して、両人はしぶしぶ家路へ向かった。
 戻りながらガラテアが奇妙な歌を歌った。憂いを含み感傷的で、川や花のメドレーのようだった。そしてまた悲しげな目をした。
「それ何の歌?」
 ガラテアがダンの肩に手を置いた。
「私の母が歌った歌なの。あなたのために英語にしましょう」
 ガラテアが歌った。

川は流る   花にシダに
花にシダに  つむぐ歌は
つむぐ歌は  君の帰り
君の帰り   幾星霜
幾星霜    つぶやくは
つぶやくは  むなしい便り
むなしい便り 花は歌い
花は歌い   川は流る

 最終旋律は震え声だった。静かだった。水音と花笛のほかは。ダンが“ガラテア”と呼び止めた。ガラテアの眼は再び悲しげな涙をためていた。ダンがかすれ声でいた。
「悲しい歌だね、ガラテア。なぜお母さんは悲しむの? パラコズマではみんな幸せと言ったじゃない」
「母は法を破ったのよ。嘆いて当然です。母は亡霊に恋したの。あなたの映像種族で、ここへ来て滞在して帰らねばならない人に。母のいいなづけが来たときは遅すぎた。分かる? でも最後には法に従った。だから永遠に幸せになれず、世のあちこちをさまよっている」
 一息おいて、きっぱり言い切った。
「私は絶対に法を破らない」
 ダンはガラテアの手を取った。
「君を不幸にはしないよ、ガラテア。いつも幸せでいてくれ」
 ガラテアはかぶりを振って、私は幸せよと言って笑ったが、こわれげで、物言いたげであった。
 両人は長いこと黙り込んだまま、家路へとぼとぼ歩いた。巨木林の影が川向うまで届き、太陽が隠れた。
 長い距離を2人は手をつないで歩いたが、しかし輝石きせきを敷いた小道の家近くで、ガラテアがさっと手を引っ込めて、素早くダンを追い抜いた。

 ダンも精一杯急ぎ、着いたとき、ルーコンが玄関そばの椅子に座り、ガラテアが入口で待っていた。
 ガラテアがダンの到着を待つ眼には、なんとなく涙が光っているような気がした。
「とても疲れた」
 と言って、中にはいって行った
 ダンもついて行こうとしたが、老人が手を挙げて制止した。
「映像からのお客様。ちょっとお耳を」
 ダンは立ち止まり、おとなしく従って、向かいの椅子に座った。何かよくないことが待っているような予感がした。
「言っておきたいことがある。君を苦しめるつもりはない。亡霊が痛みを感じればだが。こういうことだ。ガラテアが君を愛している。もっともガラテアはまだわかってないと思うがね」
「僕も愛してる」
 本名グレイ・ウィーバーがにらんだ。
「わからん。実体は本当に映像に恋するかもしれないが、どうすれば映像が実体に恋できるかな」
「愛しているのです」
「両人にわざわいなるかな! なぜならパラコズマでは不可能だからだ。法に抵触する。ガラテアの配偶者は指名済みだし、たぶん今頃接近中だ」
 ダンがつぶやいた。
「法、法、誰の法ですか? ガラテアのでも私のでもない」
「でも法は法だ。君にも私にも法は非難できん。もっとも、どんな力が法を失効させ、君をここに入国させたかは不思議だがね」
「僕はあんたらの法に投票してない」
 老人は薄暮はくぼの中でダンを覗きこんだ。
「どこぞに、なんぴとに、法の投票権があるか?」
「僕の国にはあります」
 ルーコンはうめいた。
「狂ってる。人が作った法だと。単なる人工罰則付き人工法が何の役に立つか? ちっとも役に立たんだろう? もし君ら映像人間が作った法律で、風が東からだけ吹くべしと決めたら、西風は従うか」
 ダンは惨めな思いで認めた。
「我々が通すのはそんな法です。狂っているかもしれないが、あなた方のよりずっと公正です」
 当のグレイ・ウィーバーが言った。
「我々の法は世の中で不変、つまり自然法則だ。違反は常に不幸なり。私は見たし、ガラテアの母親の例も知っている。でもガラテアは母親より強いけどな」
 一息入れて、続けた。
「さあ、どうか滞在を短くしてくれ。これ以上迷惑をかけないでくれ。慈悲じひをかけてくれ。これ以上、ガラテアを後悔させないでくれ」
 ルーコンは立ちあがってアーチ道を通って行き、ダンも少し遅れてついて行ったが、すでに隅の機械から銀布を取り出していた。
 ダンが黙り込み、惨めに自分の部屋に戻ると、噴水がかすかにチンチンと遠方の鐘のように鳴っている。

 再びダンが夜明けの光りで起き、再びガラテアが来て扉の前に現れ、籠いっぱいの果物を持ってきた。ガラテアは果物をおろし、少し青白い笑顔であいさつし、正面に立ち、あたかも待ってたかのようだった。
「ついておいで、ガラテア」
「どこへ?」
「川の土手さ。話をしに」
 2人はとぼとぼと無言でプール淵まで歩いて行った。ダンが気づいた周りの微妙な違い、輪郭がぼやけ、花音楽が聞こえづらく、壮大な景色が妙に不安定になり、直視してないと煙のように揺れた。
 そしておかしなことだが、話をするために連れてきたのに今は何も言うことがなく、やるせない沈黙に座り込み、じっとかわいいガラテアの顔を見ていた。
 ガラテアが赤い朝日を指して、
「時間がない。あなたが幽霊世界に帰るまで。お気の毒だ。とてもお気の毒、ねえ、映像さん」
 指でダンのほほを触った。
 ダンがかすれ声で言った。
「もし僕が行かなかったら。もし僕が行かなかったらどうなる? 僕は行かん。僕はとどまるつもりだ」
 ダンの声が荒くなった。
 ガラテアは穏やかな顔でダンを悲しそうに見ていたが、ダンは避けがたい夢の結末に挑む奇怪な感じがした。ガラテアが言った。
「私が法を作ったらあなたを留まらせる。でも、できないのよ。ね、できないの」
 いままで忘れていたあのグレイ・ウィーバーの言葉を思い出した。
「愛してる、ガラテア」
「私もよ、ああ、いとしい映像さん。母が破った同じ法を私が破るなんて。降りかかる不幸を喜んで受けるなんて」
 ガラテアがやさしくダンの手に手を重ねた。
「ルーコンはとても賢いの。私は従うようにしつけられた。しかしここまで知恵は及ばない。歳を取っているから」
 ガラテアは間を置いて、自問した。黒い瞳を奇妙に輝かせて、突然ダンに向きなおり、思いつめて言った。
「老人にはあれが起こる。あなたがた世界の死よ。そのあとどうなるの?」
「死のあとかい? 誰も知らないよ」
「でも、でもただ消えるだけじゃない。復活があるでしょう」
「誰も知らないよ、幸福世界へよみがえると信じる人もいるけれども」
 ダンが絶望的に否定した。
 ガラテアが叫んだ。
「本当かも、本当かも。現世以上の世界があるかも」
 ガラテアがぴったり寄りかかった。
「ねえ、私のいいなづけが来て追い返したらどう。子供を作らずに、自分を老化させて、ルーコンより歳を取り、死んだらどう。私もあなたの幸福世界にはいれるかしら?」
 ダンが取り乱して叫んだ。
「ガラテア、おお、いとしい人、なんと恐ろしいことを」
 ガラテアは依然としてダンのすぐ近くでささやいた。
「もっと恐ろしいことよ。法律違反どころじゃない。反乱よ。すべて計画され、全て予定されているけれど、これは別格。もし私に子供がなかったら、その居場所がなくなり、その子供の居場所も、その孫の居場所も、次々となくなり、ついにいつかパラコズマの全体計画が瓦解がかいする。たとえどんな運命だろうが」
 ガラテアのささやきがとても小さくなり、すごみを帯びた。
「滅亡ね。でもあなたを愛してる。死など怖くない」
 ダンは両腕をガラテアに回した。
「よせ、ガラテア、よせ。約束してくれ」
 ガラテアがつぶやいた。
「約束する。死なないから」
 ガラテアがダンの顔を引きよせた。唇がふれた。かぐわしい香り、蜜のような味。ガラテアが口を開いた。
「せめて、あなたを愛した証拠に名前をあげる。フィロメトロス。私の愛のあかしよ」
「名前だって?」
 突飛な考えが頭に走った。証明方法だ。これは現実で、誰もが見られるルードウィク老教授の魔法眼鏡めがねじゃない。もし、ガラテアが俺の名前を言ったら。おそらく、ダンは必死に考えた。そうすればたぶん滞在できるかもしれない。ダンはガラテアを押しのけた。
「ガラテア、僕の名前を覚えているかい?」
 ガラテアは黙ってうなずき、眼に悲しみがあった。
「僕の名前を言ってくれ! 言ってくれ! お願い」
 ガラテアはあわれみをこめて、ダンを無言で見つめたが、何も言わない。
 ダンは必死に哀願した。
「ガラテア、言ってくれ。僕の名前を、ただ僕の名前を」
 ガラテアの口元が動き、あがいて、青ざめた。ダンはガラテアの震える唇から自分の名前が漏れたと信じたかったが、でも名前は出なかった。
「できない、あなた、ああ、できない。法が禁じている」
 突然すっくと立ちあがった姿は象牙彫刻のように真っ白だった。
「ルーコンが呼んでいる」
 と言って、さっと行ってしまった。

 ダンも小石道をついて行ったが、速さはダンの脚力を超え、玄関にはあのグレイ・ウィーバーだけが冷徹に、厳粛に立っていた。ダンの前で手を挙げた。
「時間切れだ。行け。君が行った破壊を考えて」
「ガラテアはどこですか」
「逃がした」
 老人が入り口をふさいだ。一瞬、ダンはぶっ飛ばしかねなかったが、やっと思いとどまった。
 草原をくまなく見渡した。あそこだ。ピカッと銀色が、川向うの、森の端に……。くるりと向きを変えて突進した。一方、当のグレイ・ウィーバーは微動だにせず、ダンが行くのを冷静に見ていた。
「ガラテア、ガラテア」
 ダンは川を越えて、森の外れにきた。走り抜けた柱状の景色が霧のように渦巻いた。世界が曇ってきた。薄片が雪のように目の前で舞った。パラコズマが、あたり一面で溶けている。混沌の中、女をちらと見たような気がしたが、近づくほどにむなしい叫び声が残った。
「ガラテアーッ」

 どのくらい経ったか、なにかおなじみの場所に行きあたって立ち止まり、ちょうど赤い太陽が縁にかかったとき、場所が分かった。まさにパラコズマに入国した場所だ。
 むなしさに負け、一瞬まじまじ見た光景は信じがたい幽玄だった。曇り窓が眼前にぶら下がり、その窓を通して電球が列をなして輝いていた。ルードウィク教授の窓だ。
 消えた。しかし、木々にはつるが巻きつき、空は薄暗く、ダンは動揺してふらついた。突然気づいた。俺は立ってるんじゃなく、おかしな場所の真っただ中に座っていて、手は何か滑らかで固いものを握りしめている。
 安ホテル椅子のひじかけだ。あのとき、見おさめのガラテアは、悲しみに打ちひしがれ、涙を浮かべた姿であった。必死に起き上がってまっすぐに立とうとしたが、強力な閃光に、手足が言うことをきかない。
 ダンはひざと悪戦苦闘した。ルードウィク教授の部屋壁に包囲されていた。椅子から滑り落ちたに違いない。魔法眼鏡が前方に落ち、レンズが片方粉々になり、液体がこぼれ、透明水じゃなく、ミルクのように白かった。
「大変だ」
 ダンは動揺し、吐き気がし、へなへなになり、女に先立たれた悲痛な感じがして、頭がずきずきうずいた。
 部屋はくすみ、胸糞が悪くなり、出たくなった。何気なく時計を見たら4時だ。5時間近く座っていたに違いない。

 最初に気がついたのはルードウィク教授がいないこと。なによりだ。ドアを出て、とぼとぼとエレベータまで歩いて行った。ベル音に応答がなかったから誰か使っている。3階を歩いて降りて、通りへ出て、自分の部屋へ戻った。
 映像に恋した。最悪だ。決して生かざる女に恋した。空想の理想郷に住み、文字通りどこにもいない。ベッドに身を投げ出し、うめく声は半ば号泣であった。
 ダンはとうとうガラテアという名前の裏面を見てしまった。
 ガラテアというのはピグマリオンが作った彫像、古代ギリシャ神話のビーナスによって生を与えられた。
 でも、ダンのガラテアは体温があり、かわいくて、元気があり、命を与えなくても永遠に生きるに違いない。だって、ダンはピグマリオンでもなく、神でもないのだから。

 朝遅く起きて、わけも分からず、パラコズマの噴水やプールがないか探した。だんだん分かり始めた。夕べのことはどれくらい、いったいどれほど本当だったのか。アルコールの影響がどんだけあったのか。あるいはルードウィク老教授が正しくて、夢と現実には差がないのか。
 しわくちゃの服を着替え、憔悴しょうすいして通りへさまよい出た。やっとルードウィク教授のホテルが見つかり、調べてみると、小柄な教授はチェックアウトしており、前住所を残していなかった。
 かまわん。たとえルードウィク教授でもダンが探している生きたガラテアは出せまい。消えてしまってせいせいした。小人こびと教授は嫌いだ。教授か? そう言えば催眠術師は自称・教授だ。毎日イライラ過ごし、シカゴへ戻ってからというもの、眠れない夜となった。

 真冬、シカゴ都心で先を歩く小人こびとに、それとないおもかげがあった。ルードウィクだ。まてよ、何と呼びかけようか。無意識に呼んだ。
「ルードウィク教授」
 小妖精のような姿が振り向き、気づいて、会釈した。2人は建物の待合室へ入った。
「教授、あなたの機械を壊して申し訳ありません。喜んで弁償します」
「ああ、あれは何でもない、ただのガラスだ。しかし、キミ、病気かね。ひどく悪いようだ」
「何でもありませんよ。教授、あの劇は素晴らしかった。すばらしいと言いたい。でも終わった時いなかったのは?」
 ルードウィク教授が肩をすくめた。
「葉巻を吸いにロビーに行っていた。キミは蝋人形と5時間もかい」
「素晴らしかったですよ」
「そんなにリアルかい、フフフ。理由はたった一つ、そのとき共同作業して、自己催眠状態になったからだ」
「ほんとうにリアルでした。でも理解できません、あの奇妙に美しい国が」
「木々はシダ植物、レンズで拡大した。すべてトリック写真だが、言ったように3次元ステレオだ。果物はゴム、建物はノーザン大学の林間学校だ。そして声は私だ。キミは何にもしゃべっちゃいない。例外は最初の名前だけだ。その名前を空欄にしておいた。私が君の声を演じたんだよ。頭に映像機器を取り付けてキミの映像を常に監視していたんだ。分かるか。幸いにして私は小さい。さもなきゃ、巨人に見えたろう、フフフ」
 と教授は苦笑いした。
「待ってくださいよ。教授が私の声を演じたとおっしゃった。なら、ガラテアは? 彼女も本物?」
「充分本物だ。私のめいで、ノーザン大学の専門課程におり、演劇好きだ。彼女が手助けした。おや? 会いたいのか」
 ダンははっきり答えなかったが、幸せいっぱいだった。痛みが飛んで行き、苦しみが楽になった。ついにパラコズマに行きつける。





底本:Pygmalion's Spectacles. First published in Wonder Stories, June 1935.
原著者:Stanley G. Weinbaum
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翻訳:奥増夫
2023年3月7日作成
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