夢の谷

VALLEY OF DREAMS

惑星シリーズその2

スタンリイ・G・ワインバウム Stanley G. Weinbaum

奥増夫訳




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火星後編



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 エアリーズ探検隊のハリソン隊長がロケット先端の小型望遠鏡から目を離した。
「あと最大2週間だ。火星が地球に逆行するのは、ほんの70日間だけ。この拘束期間に帰還しないと1年半待たねばならん。つまり母なる地球が太陽を回って再び我々を捕まえるまでだ。きみ、ここでひと冬過ごしたいか」
 探検隊の化学者ディック・ジャービスが書類から顔を上げて身震いした。
「いっそ液体空気タンクのほうがましですよ。-60℃の夜はたくさんだ」
 隊長がつぶやいた。
「そうだな、初の火星探検はその前に出発してこそ成功だ」
「帰還すれば、でしょ。あんなおんぼろロケットは信頼しない。先週、スーリ砂漠の真ん中に予備機で放り出されたから信頼しない。ロケットから歩いて帰る気分は新鮮だったが」
「それで思い出したが、フィルムを回収せねばならん。フィルムは赤い火星から帰還したら重要だ。覚えているか。初の月面写真に大衆が群がったのを。我々の写真にも、わんさか来るはずだ。放送権もだ。科学委員会に利益を見せられるかもしれん」
「私が興味あるのは自分のもうけさ。たとえば本。探検本はいつも人気だ。『火星のデザート』どうです、この題は」
「ダサい、料理本のようだ。『火星の愛欲生活』とかそんなのがよいぞ」
 ジャービスが苦笑いした。
「とにかく、地球に帰ったら儲けはいただくさ。二度と地球から出るもんか。成層圏で飛ぶほうが良い。地球に感謝しなくちゃ。乾ききったこの大地の苦労ときたら」
「賭けてもいい、おまえは再来年さらいねんここに戻ってくる。友達に会いたいだろう、あのいたずらダチョウに」
 と隊長がニッと笑った。
「トウィールですか。あのとき見失いたくなかった。いい奴だった。奴がいなかったら夢怪獣から生還できなかった。手押車・生物との戦いも。礼をいう暇もなかったが」
「あほなお2人さんだ」
 ハリソン隊長が目を細めて舷窓げんそうから、灰色の陰気なシンメリウム海を眺めた。隊長が一息入れて、言った。
「太陽が昇るぞ。いいか、ジャービス。君と、リロイで予備ロケットに乗って、フィルムを回収してくれ」
「私と、リロイですか。なぜプッツじゃない? 技術屋のプッツならロケットが壊れても戻れますよ」
 隊長は船尾のほうをあごでしゃくった。そこから一瞬、ガンガンたたく音や、罵声ばせいがした。
「プッツはエアリーズ宇宙船を点検中で、出発まで手一杯だ。全ボルトを調べたい。出航してから修理では遅すぎる」
「もしリロイと私が墜落したら? 予備機はあれが最後ですよ」
 隊長が笑いながらぶっきらぼうに言った。
「別なダチョウをつかまえて歩いて戻れ。トラブッたらエアリーズ宇宙船で探してやる。あのフィルムは重要だ。おい、リロイはどこだ」
 小柄で小粋な生物学者リロイが現れた。怪訝けげんな顔だ。
「君とジャービスで備品回収に行くんだ。すべて準備済みだ、すぐ行ってくれ。半時間ごとに連絡しろ。聞いているから」
 リロイの目が輝いた。
「着陸して標本採集しますよ、いいですか」
「お望みなら着陸しろ。この火星は充分安全らしい」
 ジャービスがちょっと震え、突然顔をしかめてつぶやいた。
「夢怪獣は別格だ。しかし、その道を行けば、そうだなあトウィールの住処すみかがあるだろう。そこいらに住んでいるに違いない。火星で会った最重要生物だから」
 ハリソン隊長がちゅうちょした。
「トラブルに巻き込まれないならよろしい。見て来い。予備機には食料と水が積んである。2、3日は食える。だが、俺に連絡しろよ、ものども」

 ジャービスとリロイはエアロックを通って灰色の平原に出た。薄い空気は朝日でかろうじて暖まり、針のように肌や肺を刺し、2人は窒息しそうにあえいだ。座り込んで、体が希薄な空気に順応するのを待った。地上で何か月も順応部屋で訓練したことだ。
 リロイの顔は例の如く、窒息して青白く変色した。ジャービスは自分の息がゼイゼイいうのを聞いた。だが5分もたつと不快感が消え、2人は立ちあがって小型予備ロケットに乗り込んだ。エアリーズ宇宙船の黒い船体わきに駐機してあった。
 下向きジェットから原子力噴射がとどろいた。泥や、小生物塊が砕け散り、ロケットの上昇とともに雲中に舞った。ハリソン隊長は噴射煙が南へ消え去るのを確認して、自分の仕事に戻った。

 4日たってロケットが再び見えた。ちょうど夕刻、太陽が水平線に沈み、突然あかりが海に落ちたとき、予備機が南天からパッと現れ、激しく噴出する下向きジェットに支えられ、ふんわりと降りた。
 ジャービスとリロイが出てきて、つるべ落としの夕闇ゆうやみを抜け、エアリーズ宇宙船の明りに顔を向けた。隊長は2人をしげしげ見た。ジャービスの服はぼろぼろでり切れているものの、見た目はリロイより良い。リロイは小粋こいきさを完全に失くしている。
 小柄な生物学者リロイの顔は、夕空に輝く月のように青白かった。片腕は温布で包帯、服はまさしくぼろきれ。だがハリソン隊長がいちばん奇妙に思ったのがリロイの目だ。小柄なフランス人と辟易へきえきする日々を何日も共に過ごした隊長には、何か変だ。
 2人はとても怖がっていた。これはおかしい。リロイは臆病じゃないからだ。でなけりゃ、科学委員会が第1次火星探検に選んだ4人の1人にはなれない。だが、目の恐怖はほかのどんな表情よりあきらかだ。変に目が据わっている。夢かうつつか、恍惚の人のようだ。
「天国と地獄をいっぺんに見たようだな」
 ハリソン隊長がつぶやいた。正しかったことをこれから知ることになる。
 隊長は無愛想を装った。弱った2人が座り込んだとき、野太い声で出迎えた。
「2人とも素晴らしい格好だな。なんだかふらついてるなあ、どういうことだ。腕は大丈夫か、リロイ? 何か手当が必要か」
 代わって、ジャービスが答えた。
「大丈夫、ちょっとした傷です。ここでは感染の危険はないと思います。リロイの話では火星に細菌はいないそうです」
「それじゃ、聞こうじゃないか。お前たちの無線報告はばかげていた。桃源郷とうげんきょうから抜け出ただと。ほう」
「無線で詳しく言いたくなかったのです。気がふれたと思ったでしょう」
「どっちみち、そうだ」
 ここで、やっとリロイがつぶやいた。
「モア・ウシ。私もです」
 化学者ジャービスが切り出した。
「最初から説明しますか? 第1報は完璧だったでしょう」
 プッツが無言で入ってきた。顔と手はススで真っ黒に汚れている。ハリソン隊長の横に座った。
 隊長が命じた。
「はじめからだ」
 では、とジャービスが語り始めた。
「正常に出発した。エアリーズ宇宙船の経度に沿って南へ飛んだ。先週と同じコースだ。私は火星の狭い水平線にだんだん慣れてきたので、大きなボウルの中に閉じ込められているような感じは全くなかったが、慣れないと距離を過大に読み過ぎる。6※(全角KM、1-13-50)12※(全角KM、1-13-50)に見える。地上の曲率に慣れているからだ。そのため、大きさが4倍に見える。小丘しょうきゅうも越えるまでは山のように見える」
「わかってる」
 とハリソン隊長がぶつくさ。
「ええ、でもリロイは知らなかった。最初の2、3時間、リロイに説明した。わかったころ、わかっていればだが、シンメリウム海を過ぎ、ザンサス砂漠を越えた。それから運河を横切った。泥町やビヤ樽どもがいて、トウィールが夢怪獣を撃った所さ。リロイに害は無いだろうから、着陸して死骸の生物学調査を行うことにした。で、実行した。
 ものはまだそこにあった。腐敗の兆しがない。もちろん生きた細菌がいないから腐敗しない。リロイが言うに火星は手術台のように消毒されている」
「コム・レ・キャル・ドゥン・フィルース。オールドミスの心のようさ」
 小柄な生物学者リロイが言い直し、いつもの元気を取り戻し始めた。
 ジャービスが再開した。
「だが、100個ほどの小さな灰緑色の生物かいが死骸に取り付いて、成長、枝別れしていた。リロイが棒きれを見つけて叩いたら、枝が折れて1個の生物かいになり、それぞれのまわりに集まりだした。そこで、リロイがこの生物をあちこち突いた。一方の俺は目をそむけた。死んでるとはいえ、あの縄腕なわうで・悪魔は不気味だ。その時、驚いた。なんと、死骸は植物の一部だった」
「セ・ンヴレ。本当です」
 と生物学者リロイが追認した。
 ジャービスが続けた。
「生物かいのでかい親類だ。リロイがとても興奮した。リロイの推測では火星生物のすべてがこの種だとか。植物でもなく動物でもない。火星生命は分化してないという。すべてに双方の性質がある。ビヤ樽生物しかり、トウィールしかり。
 リロイは正しいと思う。特にトウィールの休み方を思い出せば。くちばしを土に突っ込んで一晩中じっとしていた。食べたり飲んだりするのを見たことがない。たぶん、くちばしは根のようなものだろう。栄養をこうして取るのだろう」
「ばかげているな」
 とハリソン隊長。
 ジャービスは続けた。
「さて、我々はほかの植物も2、3解体したが、同じ仕組みだった。破片があたりを這いまわり、生物かいよりずっとのろのろと地中に潜っていった。それからリロイは徒歩草とほそうを標本採取する必要があった。我々が出発しようとした時、一団のビヤ樽怪獣が手押車で突っ込んできた。
 連中は誰も俺を忘れていなかった。全員、太鼓をたたいた。トーミダチ、イタ。前と一緒だ。リロイは1匹、撃って切断したかったが、トウィールと俺が巻き込まれた戦闘を思い出し、俺は反対した。そこで、リロイは仮説を立てた。連中は集めたガラクタで何をやっているかを」
「泥まんじゅう作りだろ」
 と隊長がぶつぶつ言った。
「ほぼ当たりですね。リロイは連中が泥まんじゅうを食料にすると思った。もし連中が植物の一族なら、でしょ、欲しいわけだ。有機物入りの土壌は肥料になる。だから砂や生物かいや草木を一緒にすりつぶす、わかりますか」
 ハリソン隊長が応じた。
「まあな、じゃあ自殺はどうなんだ」
「リロイはそれにも直感があった。自殺者がうすに飛び込むのは、混ぜ物が砂っぽく、砂利っぽくなりすぎた時だ。身を投げて成分を調整する」
「あほ、なんで外から枝を拾ってこないんだ?」
「自殺が簡単だからですよ。心すべきは、火星生物は地球基準で判断できない。連中はおそらく痛みを感じない、個人というものがない。連中の知能はすべて、アリ塚のような共同財産だ。それだけさ。アリはアリ塚のために喜んで死ぬ。ここの生物もそう」
 隊長が言った。
「人間もそうだ。事態に至ればだが」
「ええ、でも人間はそれこそ望まない。国のために死ぬには何か愛国心のような動機が必要です。火星の生き物はすべて日常業務で行っている」
 ここでジャービスが一息入れた。

「さてと、夢怪獣とビヤ樽怪獣の写真を数枚とってから、出発した。ザンサス砂漠上空を航行しながら、できるだけエアリーズ宇宙船と同じ経度を維持した。まもなくピラミッド建造の痕跡を横切った。
 そこでリロイに見せるためにぐるりと反転し、ピラミッドを見つけて着地した。トウィールと俺が去ってからちょうど2列目のレンガが完成していた。そしてどうだ、ケイ素で呼吸し、レンガを吐き出し、あたかも運命づけられたかのように中で作業している。リロイはボランド銃弾をぶっ放して解体したがったが、俺は1千万年も生きている年長者には敬意を払うべきと考えて、よせと言った。
 リロイはてっぺんに登って穴を覗き込んだ。あわや、レンガを取り出していた腕で殴られるところだったが、引っ欠いて2、3個かけらを取ったものの、生物はびくともしなかった。リロイは俺が前に欠いた箇所を見つけて、回復あとがないかを調べたが、結論は2、3千年たたないとはっきりしない。それで、写真を数枚とって飛び去った。
 昼下がり、ロケット残骸を突き止めた。何も荒らされてない。フィルムを取り出し、次に何をしようか。できるならトウィールを見つけたい。俺の考えでは、やつが南に向かったことからスーリ砂漠近辺のどこかに住んでいる。経路を描いて、今いる砂漠がスーリ・ツウだと判断した。
 スーリ・ワンは東側のはず。そう、第六感でスーリ・ワンを探索たんさくすることに決め、ブンブン吹かして行った」
 プッツが長い沈黙を破って尋ねた。
「ロケットは?」
「驚いたことに故障しなかったよ、カール。お前の噴射は完璧に作動した。だからブンブン吹かして、かなり高くあがり、視野が広くなって、そうだな、高度15※(全角KM、1-13-50)ぐらいだった。スーリ・ツウ砂漠はだいだい色の敷物のように広がっていた。
 しばらく行くと、灰色クロニウム海の分岐に到達し、境界になった。海は狭く、半時間で横断した。そこがスーリ・ワン。同じ橙色の砂漠仲間だ。南へ舵を切ってオーストレリ海へ向かい、砂漠のふちをたどった。そして日没寸前に発見した」
 プッツがオウム返しで訊いた。
「発見? 何を見つけたでありますか」
「砂漠を発見した。建物もだ。運河の泥町の建物じゃないぞ。運河が流れていたけど、地図からスキャパレリがアスキーニアスと呼んだ運河だと踏んだ。
 たぶん高度が高すぎたために街の住人は何も見えないだろうし、双眼鏡でもよく見えないだろう。ともかく日没直前だったので中に着地せず、あたりを回遊した。運河はオーストレリ海へつながっていた。その南に融氷極冠があった。運河に融解水が流れ込む。水のしぶきが見えた。
 南東へそれると、ちょうどオーストレリ海の端に谷があった。いままで火星を見てきた中で、初めてのデコボコだ。例外はザンサスとスーリ・ツウを区切る崖。我々は谷の上を飛んだ」
 ジャービスが突然話を止めて、身震いした。リロイは顔色が戻り始めていたが、青ざめているようだ。

 化学者ジャービスが再開した。
「まあ、谷は全く正常だった、その時は。単なる灰色の荒れ地で、おそらく例の徘徊はいかい生物がわんさか、いるのだろう。
 街の上空へ引き返した。そうだな、言いたいのはつまり、巨大てことさ。巨大建築だ。最初、この大きさは前に話した錯覚のせい、水平線が近いためだと思ったが、そうじゃなかった。まさしく街の上を飛んでいる。こんなものは今まで見たことがない。
 だが、ちょうどそのとき太陽が視界から消えた。かなり南側の緯度60度にいることは知っていた。しかし、夜がどの程度かは知るよしがなかった」
 ハリソン隊長がスキャパレリ地図をちらと見て言った。
「緯度60度あたりか、ええっ? 南極圏に近いな。この季節、夜は約4時間。いまから3か月間は白夜びゃくやだ」
 3か月ですか、とジャービスがオウム返しで驚いた。それからニヤッと笑って続けた。
「そうです、ここの季節は地球の2倍長いというのを忘れていた。さて、我々は砂漠へ30※(全角KM、1-13-50)ばかり深く航行した。万が一、寝過ねすごしても水平線の向こうに街がある。そして、ここで夜を過ごした。
 夜の長さはその通りだった。暗闇は約4時間だったのでかなり休めた。朝食をとって、位置を隊長に報告し、街を見に出かけた。
 我々は東から街へ飛行した。前方にぬっと様々な巨塊が現れた。おおっ、なんという街だ。ニューヨークにも高層ビルがないわけじゃないし、シカゴにも建ってないわけじゃない。だが、でかさときたら、これらの建物は図抜けている。巨大だ。
 でも配置が変だ。地球の街の広がり方は知っている。地球では郊外や環状住宅地や工場地帯や公園や高速道路が放射状に延びる。だがここには1つもない。崖のように突然、街が砂漠にそびえている。わずかに小高い砂丘が区画を示すのみで、壁なす巨大建造ばかりだ。
 構造も奇妙だ。地球上では不可能な仕掛けがたくさんある。たとえば上段後退が逆。だから建物は基礎が小さく、上にいくほど広がっている。ニューヨークなら有益な芸当だ。土地が高いから。でも、そうするためには火星の重力を持ってこないといけない。
 さて、ロケットを街の通りにうまく着地できないので、運河のすぐ横のまち側に降ろし、小型カメラと拳銃を持って、石造建築壁のあいだに、はいって行った。ロケットから3※(全角メートル、1-13-35)も行かないうちに数々の奇妙な原因がわかった。
 街が崩壊している。見捨てられ、砂漠化し、死んでいる。バビロンのようだ。あるいは少なくとも、その時はそう見えた。通りは空っぽ、舗装されているなら、いまや砂のはるか下だ」
 ハリソン隊長が聞いた。
「崩壊だって、えっ? 古さは?」
 ジャービスが反論した。
「言えるわけないでしょう。火星の次期探検隊は考古学者を連れてくるべきだ。それと言語学者も。あとで分かるけど。
 でもここの年代を決めるのは厄介だ。気候が穏やかだから、建物はずっと変わらない。雨が降らず、地震がなく、植生がないから根っ子で亀裂が広がらない、何も変わらない。唯一の経時変化は風化だが、この大気では無視できる。温度変化による亀裂もだ。そしてもう1つの原因の隕石。ときたま街に落ちるかもしれない。空気が薄いから。事実、まさにエアリーズ宇宙船の近くに4回落ちるのを見た」
 隊長が訂正した。
「7回だぞ。おまえらが行ってる間に3回落ちた」
「まあ、とにかく隕石での損壊は少ないに違いない。でかい隕石は地球同様まれだろうし、この薄い大気なら貫通するが、火星の建物は大量の小隕石にも持ちこたえたようだ。俺の推測だがこの街の年齢は、誤差が大きいかもしれないが、1万5千年だろう。どんな人類文明より何千年も古い。1万5千年前といえば、人類の歴史では新石器時代だ。
 いやはや、リロイと俺が忍び寄った建物群が巨大なため、自分たちが小人のように感じ、ある種の畏怖いふにうたれ、話し声がヒソヒソになった。
 廃墟の砂漠通りを幽霊のように歩いたと思う。影を横切るたびに身震いしたのは、火星の影が冷え冷えしているだけの理由じゃない。我々は侵入者のようであり、あたかも、ここを作った偉大な種族が、我々に怒っているようだった。たとえ150世紀とうが。
 墓場みたいに静かだったが、想像をたくましくしながら、建物の暗い路地を覗き、肩越しに眺めた。建物のほとんどは窓がないものの、巨壁の開口をまともに見たら、中から何か恐ろしいものが出てこないかとヒヤヒヤだ。
 それから我々はアーチ門の大殿堂に入った。扉があり、開いたまま砂で固まっていた。勇気を出して中を覗いたその時、あっ、フラッシュを持ってこなかったことに気がついた。でも、そろそろと暗闇に1※(全角メートル、1-13-35)ばかり足を進めると、通路は大広間へつながっている。はるか上の小さな裂け目から青白い日光が差し込んでいたが、辺りを照らすほど充分でなかった。広間が屋根まで達しているかさえ定かでない。
 だが、施設が巨大なことは分かった。俺がリロイに何か言ったら、暗闇から無数のこだまが、かすかにはね返ってきた。そのあとに別な音が聞こえ始めた。ズルズル、カサカサ、ヒソヒソ、押し殺したような息使いだ。そして、我々と、はるか向こうの光条の間で、何か黒いものが無言で通り抜けた。
 そのとき、小さな緑色の輝点が3個、左側の暗闇に見えた。我々は立ちすくんで見ていた。突然、3個同時に動いた。リロイが叫んだ。セ・ソン・ディ・ユ。あ、あれは目だ。
 そう、我々は一瞬、凍りついた。一方、リロイの叫び声が遠くの壁で前後に反響して、奇妙な言葉がかすかにこだました。モグモグ、ボソボソ、ヒソヒソ、そして変に軽く笑ったように聞こえたとき、3つ目が再び動いた。同時に我々は扉へ突進した。
 外の陽光にほっとした。きまり悪そうに互いを見つめた。だが、2人とも建物の中をもう一度見ようとは言わなかった。もっとも、建物の中はあとでしっかり確認したが、とても奇妙だった。その場面に来たら話すよ。我々はすぐ拳銃を取り出し、幽霊通りを抜き足差し足で進んだ。
 通りは曲がりくねって、枝分かれしていた。方向に注意を払った。巨大迷宮で迷いかねない。温調ぶくろがなければ俺たちはこごえ死んじまう。たとえ隠者が悪さをしなくても。
 やがて、運河の方へ戻っているのに気づいた。ビルぐんがなくなり、わずか数十戸のぼろ石小屋があるだけになった。街の残骸から作ったようだ。トウィール族の痕跡をここで見つけられず、ちょっと失望し始めたが、角を曲がったそのとき、そこにやつがいた。
 トウィールと叫んだが、じっと見返すだけ。その時わかった。トウィールじゃない、同族の別な火星人だ。
 トウィールの羽毛肢うもうしはもっと橙色だいだいいろだし、背はこれより数※(全角CM、1-13-49)高い。リロイは興奮して早口になり、火星人は物騒なくちばしを我々に向けたままだ。そこで俺が前に進み出て、平和の使者として、トウィールかと聞いたが、返事無し。何十回も試したが、とうとうあきらめざるを得なかった。通じない。
 リロイと俺は小屋の方へ歩いて行った。火星人もついてきた。2度、ほかの火星人が加わり、そのたびにトウィールと叫んだが、見つめるばかり。だから3匹ついたまま、ぶらぶら歩いた。そのときハッと、火星語の発音が違っていたことに気づいた。一行いっこうに向かってトウィールが実際に発したようにさえずった。ト・ル・ル・ウィール・ル。こんな風に。
 これが効いた。1匹が首を90度曲げ、ト・ル・ル・ウィール・ルと甲高い声をあげた。と、直ちに、弓矢のようにトウィールが近くの小屋から飛んできて、砂上にくちばしを俺の前に突き立てた。
 うわあ、会えてうれしいぜ。トウィールは夏場の養鶏場のようにさえずり、くちばしで上下に飛びはねた。俺はやつの両手を握り締めたかったが、やつにはそのヒマがない。
 ほかの火星人とリロイは見つめるばかり。しばらくしてトウィールが跳躍ちょうやくをやめ、全員そろった。
 お互い話すことが前以上できず、俺が2、3回トウィールと言った後、やつがティックと言い、事実上、手詰まった。でもまだ朝なかばだし、重要に思えたのがトウィールと町について、全容を知ることだったので、もし忙しくなかったら辺りを案内してくれと身振りした。意を伝えるに、後ろの建物を指し、それから奴と俺たちを指さした。
 そう、どうやら、やつは忙しそうになく、我々と一緒に出発し、例の45※(全角メートル、1-13-35)鼻飛びで先導し、リロイを唖然とさせた。我々が追いついた時こんなことを言った。1・1・2。2・2・4・ノー。ノー・イエス。イエス・ロック・ノーブリート。意味はないようだ。たぶんリロイに話せる英語を教えているだけだろ。あるいは単に語彙ごいをおさらいして記憶を鮮明にしているだけだろう。
 ともかく、トウィールは俺たちにあたりを見せた。やつは黒鞄くろかばんに一種のライトを持っており、小部屋を照らすには充分だったが、我々が通った巨大な空間には全く届かなかった。建物の十中八九、我々には全くわからない、巨大な空っぽの部屋で、影やカサカサ音やこだまが満ちていた。
 使い道が想像できない。生活空間には適してないようだし、交易などの商業用にも不適に見える。発電所にはぴったりかもしれないが、街全体にいっぱいあるのは何のためだ。それに機械の残骸はどこだ。
 不思議だ。時折、トウィールが見せたのは吹きさらしの大広間。遠洋船が停泊した所だろうか、やつは体を膨らまし誇らしげだったが、全く理解できない。街は人工的な力強さを見せつけて壮大だ。なにはともあれ、全くばかげている。
 だが、見覚えのある建物に出くわした。同じ建物にリロイと俺は前回入った。3つ目がいた場所だ。そう、中に入るのはちょっと不安だったが、トウィールがクックッと鳴いて、イエス・イエスと言い続けていたので後をついて行って、監視者がいないか神経質に見た。しかし、この大広間も他と全く同じで、ザワザワ、ズルズルの騒音が満ち、得体のしれないものがかどをすり抜けた。もし3つ目生物がまだいたら、全員そっと逃げたに違いない。
 トウィールが我々を壁にそって誘導した。ライトで小部屋がずらりと見え、先頭の不思議な小部屋に入った。とても奇妙な部屋だ。ライトで中を照らすと、当初、からっぽ空間だけ。
 次に、床にうずくまるものを見た。小さな生き物で、大きめのネズミほど、灰色で、身を寄せ合い、明らかに我々に驚いている。超気持ち悪く、超悪魔的、ちっちゃい顔で、とがった耳かつのがあり、邪悪な眼には、ある種の残忍な知性がほとばしっているように見えた。
 トウィールもそれを見て、キィーッと怒ると、生き物は鉛筆のような細い2本足で立ち上がり、なかば驚き、なかば反抗的にチューチュー叫んで、すばやく逃げた。
 我々の横をさっと暗闇に去り、トウィールよりずっと素早くて、走る時、何かが体の上でひらひらし、皮膜が羽ばたきしたみたいだった。トウィールは怒ってキイーキイー叫び、けたたましく大騒ぎをして、本気で怒っているようだ。
 奴らが去ったとき、想像を絶するとんでもないものに気づいた。床にうずくまっていた所に本があるじゃないか。奴らは本の上で丸まっていた。
 前に1歩踏み出した。確かに、ある種の碑文ひぶんがある。波打った白い線で、地震記録のように、トウィールの小袋材料に似た黒い紙に書いてある。トウィールはイラ立ち、怒って鳴き、書物を拾って、膨大な本棚の所定位置にスコンと差し込んだ。リロイと俺は唖然としてお互いを見つめた。
 悪魔顔の小動物が読んでいたのか? あるいは単に紙を食べて、精神というより栄養を物理的に取っていたのか? あるいはすべて偶然か。
 もしこの生物が本をむしばむネズミのような害獣なら、トウィールの怒りは理解できるが、なぜ知性体を追っ払おうとするのか、たとえ異種族であっても読書を妨害するのか、もし読んでいるとしたらだが。わからん。確かに本は全く傷ついてないばかりか、手にしたもので破損したのは1つもなかった。
 しかし俺には妙な直感があった。あの皮膜を持つ小悪魔の秘密がわかったら、巨大な廃墟の秘密や火星文明の衰退の秘密もわかるだろう。
 さて、しばらくするとトウィールが落ち着いて、あの巨大ホールをすべて案内してくれた。図書館だと思う。少なくとも何千何万という奇妙な黒頁くろページの書物があって、白い波打つ線で印刷してあった。いくつか絵もあった。なかにはトウィール族のもあった。ここがもちろん重要だ。つまり、彼の種族が街を作り、本を印刷したことを示している。思うに、地球上の最優秀な言語学者ですら、この蔵書の1列も翻訳できないだろう。我々と余りにもかけ離れた知性で書かれている。
 トウィールは難なく読めた。数行をさえずった。俺はトウィールの許可を得て数冊とった。ある本にはノーノーと言い、ほかの本にはイエス・イエスと言った。たぶんトウィール族に必要な本を禁止したのか、あるいは我々にも簡単にわかる本を取らせたのだろう。さあな。ともかく書物は外のロケット内にある。
 それからトウィールはトーチを壁に向けた。絵がある。おお、なんという絵だ。上に上にと広がり、天井の暗闇のほうへ謎めいて壮大に延びている。最初の壁は大したことない。トウィール人の大集合の絵のようだ。たぶん、社会か政治を象徴しているのだろう。
 さて、次の壁はもっと明白だ。生物どもがある種の巨大な機械で働いている。産業か、もしくは科学だろう。後ろの壁は一部はがれているが、見たところ芸術を表現した場面と思われる。ところが、4番目の壁には衝撃がくらくらっときた。
 この抽象画は探検か、発見の絵だと思う。この壁画は、はっきり見えた。理由は、亀裂から差し込む日光が上面を照らし、トウィールのトーチが下部を照らしていたからだ。
 着座する1人の大巨人を見つけた。トウィールのようなくちばしをもった火星人だが、どの4肢も重そうで、ぐったりしている。両腕は生気なく椅子に垂れ、細い首は曲がり、くちばしが体の上に置かれ、あたかも自分の重さに耐えかねているようだ。そして、大巨人の前で奇妙にひざまずく姿が1人。これを見た時、リロイと俺はお互いよろめかんばかり。どうやら人間らしい」
 ハリソン隊長がどなった。
「人間だと。おまえ人間と言ったな」
「らしいですと言いました。絵描きが鼻をトウィールのくちばしと同じくらいの長さに誇張しているが、肩まで伸びる黒髪、火星人の4つ指じゃなく、差し伸べた手には5指がある。あたかも火星人を崇拝するかのようにひざまずき、地面には陶器のようなものに満杯の食料をみついでいる。うーん。リロイと俺は気が変になったと思った」
 隊長が大笑いして言った。
「プッツと俺もそう思うよ」
「たぶん、みんなそうでしょう」
 こうジャービスが答え、ニッと笑いながら小柄なフランス人の青ざめた顔を見た。リロイも無言で返した。
「とにかく、トウィールがキーキー言って絵を指し、ティック・ティックと言うものだから同類と見たのだろう。でも、俺の鼻の冗談はよしてくれ。リロイが重大なことを言った。火星人を見て、トート、トート神だと」
 生物学者リロイが追認した。
「ウイ。コム・レ・エジプト。エジプトのようです」
 ジャービスが言った。
「ええ、エジプトのトキの頭をした神のようだ。くちばしがある。そう、トウィールがトートの名を聞いたとたん、声高にクワッ・クワッ、ギャーギャー。自分を指してトート・トート。次に腕をグルグル回してこれを繰り返した。
 確かにやつは時々おかしなことをするが、俺たち2人とも意味がわかった。やつが教えようとしたのは自分の種族がトートだと。私の言ってる意味が分かりますか」
「よくわかるぞ。おまえの考えでは火星人が地球を訪問してエジプト人が神話に記憶した。さあ、お前達、それでおしまいにしな。エジプト文明は1万5千年前には存在しないぞ」
 ジャービスがニッと笑った。
「違います。考古学者がいなくて都合が悪いが、リロイが言うに、当時のエジプトには石器文化、つまり前期王朝文明があった」
「おっと、たとえそうでもそれが何だ」
「たくさんあります。絵のすべてが要点を証明しています。火星人の重そうで疲れた姿勢は地球重力の異常なひずみのせいです。トートの名は、リロイによると、エジプトの哲学神で、書の発明者。わかりますか?
 エジプト人達は火星人が記録をつけるのを見て、考えついたに違いない。あまりにも一致しすぎる。トートの姿がくちばしを持ち、トキの頭をしており、くちばしを持つ火星人が自らをトートと呼んでいる」
「まさか、絶対ない! じゃあ、エジプト人の鼻はどうだ? こういう意味か、石器時代のエジプト人は今の人間より鼻が長いと?」
「もちろん違います。単に火星人がごく自然に火星人風に描いただけです。人間だって万物を自らに関連付けませんか? そのためジュゴンやマナティーが人魚伝説を広めた。船員がこれらの動物に人間の姿を見たと思った。だから火星人の絵描きだって、記述や不鮮明な写真から、人間の鼻を自分に普通と見える大きさに当然のように誇張した。ともかく、これが私の推論です」
 ハリソン隊長がすごんだ。
「じゃあ、推論通りだろうよ。俺が聞きたいのはお前ら2人がここへ戻ってきたとき、鳥の巣のような格好に見えた理由だ」
 ジャービスがまた身震いし、リロイを盗み見た。小柄な生物学者リロイはいつもの冷静さを少し取り戻しつつあったが、ちらと見返し、化学者ジャービスの身震いに共鳴した。

 ジャービスが再開した。
「そこへ行きます。その間にトウィールと仲間のことを話します。彼らと3日間、知っての通り、よい関係で過ごせた。詳しいことは全部言えないけれど、要点をまとめて結論づけると、暴騰するフランほどの価値はないかもしれない。地球基準でこの乾ききった世界を判断するのは難しい。
 できるだけ何でも写真に撮った。図書館の巨大な壁画も撮ろうとしたが、トウィールの明かりでは光線が不充分なので、写ってないと思う。残念だ。間違いなく火星で見た中で一番興味ある物だった。少なくとも人間側からだが。
 トウィールはとても親切だった。面白いところは全部連れて行った。新型の水道も」
 プッヅの目がその言葉に輝いた。
「水道? 何のためでありますか」
「当然、運河用さ。水を運河に流すためには水圧をかけなければならない。明らかだ。隊長は私にこう言いましたね。火星の極冠から赤道に水を引くのは30※(全角KM、1-13-50)の丘に水を持ち上げるのと同じ。なぜなら火星は極地域が平坦で、赤道が地球みたいに膨らんでいるからと」
「そのとおり」
 とハリソン隊長が同意した。
 ジャービスが再開した。
「そう、この街は中継地点の1つで、流れを昇圧する。巨大建物が数あるが、1つは奴らの発電所だろう。大切な目的に使われるようだから見る価値がある。見てくれ、カール。写真を見て、君の本領を発揮してくれ。太陽発電所だ」
 ハリソン隊長とプッツは目をむいた。
「太陽発電だと、そりゃあ原始的だ」
 と隊長がうなった。
 技術屋プッツも同意した。
「ヤー」
 ジャービスが訂正した。
「それほど原始的じゃないさ。奇妙な円筒の大凹面おうめん鏡に太陽光を集めて、電流を生み出す。この電力でポンプを動かす」
「熱起電力であります」
 こうプッツが叫んだ。
「そのようだ。プッツなら写真でわかる。だが、発電所にはなにか奇妙なことがある。その最たるものとして、設備がトウィール人でなく、ザンサスで見たようなビヤ樽怪獣によって管理されている。わかるか?」
 ジャービスは皆の顔をじっと見まわしたが、反応はなかった。皆が黙っていたので続けた。
「わからんと思う。リロイが指摘したんだが、正否は俺にも分からん。リロイの考えでは、ビヤ樽たちとトウィール族とは相互協定を結んでいる。そうだな、地球上でいえば蜂と花のような関係だ。花は蜂に蜜を与え、蜂は花粉を運ぶ。だろ?
 ビヤ樽たちが働き、トウィール人たちが運河システムを作る。ザンサス市は昇圧場に違いない。これが、俺が見た奇妙な機械の説明だ。そして、さらにリロイの考えでは、知的な協定でなく、少なくともビヤ樽側に知性はないので、何千世代にわたって行われ、本能、向性こうせいになってしまい、ちょうどアリや蜂の行動のようになった。生物たちはそれで繁殖している」
 ハリソン隊長が反論した。
「ばかな。じゃあ、大廃墟街の説明を聞こうじゃないか」
「いいですとも。トウィール達の文明は衰退している、これが理由です。滅びゆく種族だ。そしてここにかつて住んでいた何百万の中から、数百人のトウィール同胞が生き残っている。かれらは前哨ぜんしょう部隊だ。極冠の水源を管理するため残った。おそらく立派な都市が2、3まだ運河系のどこかに残っているだろう。一番の可能性は熱帯近辺だ。種族の最後のあがきだ。人間より高い文化に達した種族の」
 ハリソン隊長がご不審だ。
「はあ? なら、なぜ滅亡している。水不足か」
 化学者ジャービスが答えた。
「そうじゃないと思います。街の推定年齢が正しければ1万5千年では水供給にそれほど変化はないでしょう、いや10万年でもそうだろう。何かほかにある。でも、水は間違いなく一要因だが」
 プッツが割り込んだ。
「水はどこへ行ったでありますか」
 ジャービスが冷笑して答えた。
「化学屋だって知ってら。少なくとも地球上だがね。火星では確信はないが、地球では稲光が走る度に、水は水素と酸素に分解され、水素は宇宙へ逃げる。地球重力が水素を永久に引き留められないからだ。それに地震があるたびに水が内部へ失われる。ゆっくりだがとても確実に」
 ジャービスがハリソン隊長に向きなおって、尋ねた。
「正しいですか、隊長」
 隊長が答えた。
「正しい。でもここにはもちろん地震はないし、雷もないから損失は非常に少ない。なら、なぜこの種族は滅亡しつつある?」
 ジャービスが応戦した。
「太陽発電所がその答えです。燃料不足に電力不足。油もない、石炭もない、火星に石炭紀があればだが。それに水力もない。まさしく数滴のエネルギーを太陽から得られるだけ。これが衰退理由です」
 ハリソン隊長が怒鳴った。
「無限の原子力エネルギーは? やつらは原子力を知らない。おそらく今までも。宇宙船にはほかの原理を使ったに違いない」
 さらに、かみついた。
「それなら、やつらの知性が人間より上だとする理由は何だ? 人間はついに原子をこじ開けたぞ」
「確かにそうです。我々には手掛かりがあったんじゃないですか。ラジウムやウラニウム、これらの元素なしで研究できたと思いますか。無けりゃ原子力が存在することすら知るまい」
「じゃあ、奴らは知らなかった?」
「ええ、知らなかった。隊長が私に言ったでしょう。火星密度は地球密度の73%しかないと。化学屋ですら分かる。そのために重金属がないことも。オスミウム無し、ウラニウム無し、ラジウム無し。手がかりがなかった」
「だから、やつらは我々より進歩してないぞ。やつらがもっと進歩してるなら、とっくに発見していたろう」
「かもしれません。我々がその面で劣るとは言ってません。でもほかの面では我々よりずっと先を行っています」
「何だ、たとえば?」
「ええ、社会の一面です」
「はあ? どういう意味だ」
 ジャービスは振り向いて、向かい合った3人をそれぞれ、ちらっと見た。躊躇ちゅうちょして、口ごもって言った。
「君らがこれをどう取るかだが……。当然、誰でも自分の社会が最善だと思う」
 ジャービスがまゆをしかめて続けた。
「ここを見たまえ、地球では3タイプの社会がある、だろ? ここにはまさに各タイプの隊員がいる。プッツは独裁政治、独裁政権下に住んでいる。リロイはフランス第6社会主義の市民だ。ハリソン隊長と俺はアメリカ人で、民主主義の一員だ。独裁主義、民主主義、共産主義という3つの地上社会にいる。トウィール達は我々のどれとも異なる社会システムだ」
「異なるって? 何だそれは?」
「地上国家は試したことがない。無政府主義です」
「無政府主義だと」
 隊長とプッツが同時に叫んだ。
「そのとおりです」
 ハリソン隊長が早口でまくし立てた。
「しかし、どういう意味だ。我々より進んでる? 無政府主義が! けっ」
「そのとおりです。けっ、です。我々、いや人間族のどれにも有効だと言ってるんじゃない。でもやつらには都合がいい」
「でも、無政府だぞ」
 隊長はご立腹だ。
 ジャービスが言い訳がましく反論した。
「じゃあ、率直に言わせてもらうと、うまく機能すれば無政府主義は理想の政治形態です。エマーソンいわく、最善の政府は最少に統治するものなり。ベンデル・フィリップスも、ジョージ・ワシントンもしかり。それに、無政府主義より小さい政治は持ちようがない。なにしろ政府が全く無いのだから」
 隊長が早口でまくしたてた。
「でも、不自然だ。未開部族ですら酋長がいる。狼の群れですらリーダーがいるぞ」
 ジャービスが反抗して言い返した。
「でも、それこそ政府が原始装置という証明に他ならないのじゃないの。完璧な種族なら政府は全く必要ない。政府は弱者の宗教じゃないのかな? その宗教では一部の人が大多数の人と協力しない場合、個人を拘束する法則が必要となる。心理学者のいう反社会的人々さ。もし反社会的な人、犯罪者やそのたぐいが1人もいなければ、法律や警察はいらないんじゃないですか」
「しかし、政府、政府は必要だ。公共事業は? 戦争は? 税金はどうする」
「火星に戦争はありません。戦いの神と名付けられているけれど。ここでは戦争は重要じゃない。人口が少なすぎるし、分散しすぎているし、その上あらゆる共同体の助けがあって運河システムは維持できる。税金も不要。というのも見たところ、どの個体も公共事業に携わっている。もめ事を引き起こす競争もない。なぜなら、何事も自己処理できるからだ。私が言ったように完璧種族であれば政府は全く不要です」
「じゃあ、お前は火星人が完璧だと思ってるのか」
 と隊長が厳しく尋ねた。
「ぜんぜん。でも人間よりずっと長く存在して進化し、少なくとも社会的には政府が不要なところまで到達した。一緒に働く、それがすべてです」
 ジャービスが一息ついて再開した。
「奇妙じゃない? あたかも母なる自然が2つの実験を行っている。1つは地球で、1つは火星で。地球で試されるのが、情緒的、競争的種族、雑多世界だ。火星で試されるのが、温厚で友好的な種族。乾燥して不毛な厳しい世界だ。火星では何でも共同作業。なぜだ、地球であれほどやっかいを引き起こす要因すらない。つまりセックスが」
「はあ?」
「ええ。トウィール人は泥町のビヤ樽たちと全く同じようにして増殖する。2つの個体の間に第3の個体が育つ。リロイ説のもう1つの証拠では、火星の生命は動物でもなく植物でもない。しかも、トウィールは丁寧ていねいな接待ができ、くちばしは下げるわ、羽毛うもうは舞うわで、リロイを納得させた」
「ウイ、本当です」
 と生物学者が追認した。
 ハリソン隊長がむかついてぼやいた。
「でも、無政府だぞ。よくも火星のようなばかげた半死の小球に出現したもんだ」
 ジャービスがニッと笑って、語りを再開した。
「おそらく何世紀も経ってから、地球で無政府主義を心配するはめになるでしょう。そのあと我々はあの陰気な街を歩き回り、何でも写真に撮った。それから……」
 ここでジャービスが一息入れて身震いした。

「俺はロケットで特定したあの谷を一目見ようと思った。なぜだかわからない。でもトウィールをその方向へ向けようとすると、わめいて金切り声をあげるので俺はやつの気がふれたと思った」
 ハリソン隊長が冷やかした。
「ふれればいいさ」
「だから、やつ抜きで出発した。やつは哀れげに叫んでいた。ノーノー・ティック。しかし変だ。我々の頭上を飛んで行って、くちばしを突き刺し、滑稽な仕草を10数回したが、我々が進んでいくと、ついにあきらめて、しょぼんとついてきた。
 谷は街から南東へ2※(全角KM、1-13-50)もなかった。トウィールなら20回も跳躍すれば行けたろう。だが遅れて、ぐずって、街を向いて叫んでいる。ノーノーノー。それから空中高く飛んで、くちばしを勢いよく我々の前方に突き立てたので、避けて歩かねばならなかった。もちろん前にもおかしな仕草をいっぱい見ていたので慣れていたが、谷を見せたくないのは一目瞭然だった」
「なぜだ?」
 ハリソン隊長が聞いた。
 ジャービスが少し震えて言った。
「隊長は俺達がなぜ浮浪者風で戻ってきたか尋ねましたね。これから分かりますよ。我々が低い岩丘に向けて歩いていて、やっと境界の頂上にたどりつくと、トウィールがこう言った。
 ノーブリート、ティック、ノーブリート。そう、この言葉を使ったのは珪素怪獣のとき、またファンシーロングの幻影の時だ。わなをはめようとした夢怪獣は現実じゃなかった。それは覚えていたが何とも思わなかった、その時は。
 すぐあとにトウィールが言った。アナタ・1・1・2、ヤツ・1・1・2。そのとき分かりかけた。トウィールが使ったこの言葉は夢怪獣を説明するためだ。俺が考えていることを夢怪獣も考えている。夢怪獣が犠牲者を欲望で釣り上げるさまを教えている。そこでリロイに警告した。思うに、警告や予測があれば夢怪獣も危険じゃない。でも、俺は間違っていた。
 頂上に着いたときトウィールが頭をぐるっとひねり、足は前向き、眼は後ろ向き、あたかも谷を見るのが怖いかのよう。リロイと俺は上から谷を眺めた。このあたりと同じ様な単なる灰色の荒地だ。はるか南方の縁に南極冠が輝いている。これはほんの束の間だった。次の瞬間、天国が」
「なんだと」
 と隊長が叫んだ。
 ジャービスはリロイに向き直り聞いた、
「説明できるか?」
 生物学者リロイは自信なく手を振り、ささやいた。
「セ・インポシーブラ。できません。イル・ミン・ラン・アフェイ。唖然です」
 ジャービスもつぶやいた。
「俺も唖然とした。どう説明したらいいかわからない。俺は化学屋で詩人じゃない。天国ほどよい言葉は思いつかん。でもちっとも正しくない。天国と地獄が同居している」
「わけがわかるように話せ」
 とハリソン隊長が怒鳴った。
「ほとんど同じような意味です。言いましょう、一瞬、灰色の谷が見えて斑点植物に覆われていたが、次になんと、次の瞬間は想像できまい。自分の夢がすべて実現したらどうしますか。今まであらゆる願望が満たされたら? 今まで欲しかったものが手に入ったら?」
「素晴らしいのを頼むぜ」
 と隊長。
「ご自由に。でも隊長の崇高な願望だけじゃありません。覚えといて。あらゆる良心的衝動だけじゃなく、あらゆる小汚い欲望、不道徳、今までの全願望、良いことも悪いこともです。夢怪獣は素晴らしいセールスマンだ。でも、道徳に欠ける」
「夢怪獣だと?」
「ええ。そこは夢怪獣の谷だった。何百匹だと思うが、何千匹かも。充分だ、どんな具合だろうが、欲望映像を完璧に展開し、すっかり忘れたものでも、潜在意識から引き出す。
 一種の天国です。何十というファンシーロングを見た、あらゆる衣装で、俺が今まで賞賛したものや、いくつかは想像に違いない。今まで知り合った美人も全部見た、全員が俺の気を引こうとしている。行きたかった景勝地も全て見た、妙なことに全部がこのちいさな谷に詰まっている。そして別なものも見た」
 ジャービスは穏やかに首を縦に振った。
「厳密にはすべてがきれいじゃない。おお、なんと多くの野獣性があることか。生ける者すべてがあの不可思議な谷を一目見て、自分の中に隠れた不道徳を一度でも見たら、そうだな、世界は救われるかもしれない。あとで俺は天に感謝した。リロイとトウィールが各自の映像を見て、俺のを見なかったことに」
 ジャービスは再び一息入れて、再開した。
「くらくらして一種の恍惚だ。目を閉じた。目を閉じても全部見える。甘美で邪悪で残忍な光景は心にあり、眼にない。これが悪魔の手口だ、心をあやつる。わかった、夢怪獣だ。トウィールのノーブリート、ノーブリートという叫びは必要ない。でも、逃れられなかった。死の誘惑だとわかっていたが、一瞬でも映像を見るだけの価値はあった」
「どんな映像だ?」
 ハリソン隊長がそっけなく聞いた。
 ジャービスは赤面した。
「関係ないでしょう。でも私の横でリロイがイボンヌ・イボンヌと叫んでいるのを聞いたからリロイも俺同様、わなにはまった。俺は正気になろうと闘った。止めろと自分に言い続けたが、その間も真っ逆さまにわなに突進した。
 そのとき何かにつまずいた。トウィールだ。背後から飛んできた。俺が倒れた時、俺の上空をまっすぐ突進するのが見えた。俺が駆け寄っていたものへ向かった。獰猛どうもうなくちばしを女のまさに心臓めがけて突き刺した」
 隊長がうなずいた。
「ほう、女の心臓だと」
「いやなんでもありません。私が立ち上がった時、くだんの映像は消えていた。トウィールは黒い縄腕なわうでに巻きつかれ、ちょうど初めて見た時のようだった。トウィールは野獣の急所をはずした。だが、死に物狂いになって、くちばしで突ついていた。
 ともかく魔法が解けたか、あるいは一部解けた。俺はトウィールから2※(全角メートル、1-13-35)しか離れていなかった。必死でもがいた。なんとか拳銃を構えて、ボランド弾を野獣にぶち込んだ。むかつくような黒い腐液ふえきがパッと吹き出し、トウィールと俺はびしょ濡れ。吐き気を催す臭いがしたため、谷に架かった美しい幻影が消えたのだろう。とにかくリロイをとりこにした悪魔をなんとか離した。
 我々3人はよろよろ尾根へたどり着いた。気をしっかり持ち、カメラを尾根から構え、谷を撮ったが、きっと何も映らず、灰色の荒地と、もがき苦しむ恐怖しか残っていないだろう。我々が見たものは心の中だ、眼の中にない」
 ジャービスは一息入れて身震いしてから続けた。
「野獣がリロイを半ばとりこにした。我々は重い足取りで補助ロケットへ引き返し、隊長に連絡し、自分らで出来る処置を行った。
 リロイは積荷のコニャックを1瓶飲み干した。あえてトウィールには勧めなかった。なぜなら奴の新陳代謝は違うので、飲ませたら我々を殺しかねない。でもコニャックが効きそうだったし、俺も飲みたかったから、もう1瓶を飲んだ後、ここへ帰ってきた。これで全部です」

 ハリソン隊長がきいた。
「それで全部か? それで火星の謎が全部解けたのか、ええ?」
 ジャービスが答えた。
「途方もないのを見たせいじゃないが、答えられない謎がいっぱい残っています」
 プッツが、ずばっといた。
「そうであります。蒸発はどうやって防いでいるのでありますか」
「運河のか? 俺も不思議に思う。長さが何千キロもあって、空気圧が低いところではたくさん失われると思う。でも答えは簡単だ。水の上に油膜を浮かしている」
 プッツは納得したが、ハリソン隊長が割り込んだ。
「ひとつ難題がある。石炭と石油を燃やすだけで、あるいは電気の力だけで、エネルギーを得て惑星規模の運河を作ったのか、何千何万※(全角KM、1-13-50)も? パナマ運河を海水面まで掘削する仕事を考えてみろ。それから、答えてみい」
 ジャービスがニヤリ笑って言った。
「簡単です。火星の重力と空気が答えです。計算してごらん。第1、掘り出す泥は地球のわずか3分の1の重さです。第2に火星の蒸気機関は地上より薄い大気圧力0.7気圧に対して、膨張する。第3に、ここではエンジンを3倍大きく作れる。内部重量が重くならないからだ。第4に、惑星全体がほとんど平坦だ。だろ、プッツ?」
 技術屋がうなずいた。
「そうであります。ここではエンジンが27倍も効率的であります」
「じゃあ、次に最後の質問にいくぞ」
 ハリソン隊長が黙考した。
 ジャービスが冷笑していた。
「隊長、次の疑問に答えてくださいよ。大・空虚街くうきょがいの役割は何? 火星人はなぜ運河が必要? 飲み食いを見たことがないのに。ほんとに先史以前に地球を訪問したの? 原子力でなければ、宇宙船の動力は何? トウィール族は水を少し、あるいは全然要らないようだが、水が必要な高等生物用に運河を流しているのじゃないか? 火星に他の知性体がいるのか? いないなら、図書館で見た悪魔顔のネズミは何? 隊長、謎が相当ありますよ」
 ハリソン隊長がドスを利かし突然、小柄なリロイを見据えた。
「2、3、もっと知っとるぞ。おまえと、おまえの映像だ。イボンヌだと、ええ? 女房の名前はマリーじゃなかったか」
 小柄な生物学者が真っ赤になった。ウイとバツ悪そうに認めた。訴えるような眼で隊長に向かって懇願した。
「お願いです。パリではトゥ・レ・モンデ。誰でもあれは別なんです、ちがいますか? どうかマリーに言わないでください、ネセ・パ」
 ハリソン隊長が含み笑いした。
「俺にゃ関係ない。もう1つ質問、ジャービス。ここに戻るまえにお前、何かやっただろう?」
 ジャービスが後ろめたそうに言った。
「ああ、それですか。まあ、トウィールにたくさん借りができた気がしたので、ちょっとした行き違いのあと、説得してロケットに乗せ、スーリ・ツウの最初の残骸のところへ連れて行った。それから――やつに原子力噴射を実演してみせました」
 隊長がわめいた。
「なんだと? あれほど強力なものを異星人に与えると何か変わるぞ。いつか敵になるぞ」
 ジャービスは言い訳がましく弁明した。
「ええ、見せてやりました。火星を見てください。この火星と呼ばれるろくでもなく乾ききった砂漠の小球は大勢の人口を養えない。侵略用の土地ならサハラ砂漠と同程度だし、それに身近い所にいっぱいある。だからトウィール族は敵にならんと思います。
 ここを発見した唯一の価値は火星人との貿易です。だったら、なんでトウィールに生き残りのチャンスを与えないのですか。原子力があれば、運河システムをたったの5分の1でなく、100%動かせる。プッツの見立て通りだ。廃墟の街を再生できるし、芸術や産業を復興できる。地球の国々と貿易ができる。そして、きっと我々に何かを伝授できます」
 ここで一息入れた。
「もしやつらが原子力噴射を解明できればだが。私はできるに賭ける。やつらは馬鹿じゃない。トウィールもダチョウ顔の火星人も」





底本:Valley Of Dreams. Originally published in the December 1934 issue of Wonder Stories.
原著者:Stanley G. Weinbaum
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翻訳:奥増夫
2023年5月1日作成
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●図書カード