寄生惑星

PARASITE PLANET

惑星シリーズその3

スタンリイ・G・ワインバウム Stanley G. Weinbaum

奥増夫訳




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ハム&パット
金星前編



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 ハム・ハモンドの運が良かったのは、真冬に泥が噴出したことだ。金星で感じる真冬は地球で考えるような季節と全くちがう。地球の真冬はおおむね楽しめるが、おそらくアマゾン流域やコンゴの熱帯に住む人々は違うだろう。
 熱帯住民なら、一番熱い夏を思い浮かべて、金星の冬は獰猛どうもうで不快で気色悪い密林生物が盛夏の十数倍もいるのだろうと思いかねない。
 金星は現在よく知られているように、地球同様に季節が半球毎に交代するけど、大きな違いがある。地球では北アメリカやヨーロッパが夏の時、オーストラリアやケープ植民地やアルゼンチンは冬で、北半球と南半球で季節が交代する。
 だが金星ではとても奇妙なことに、東半球と西半球で季節が交代する。黄動面の傾きでなく、秤動ひょうどうによって、季節が左右されるからだ。金星は自転せず同じ面を常に太陽に向けており、ちょうど月が地球に表面を向けるのと同じ。片面は永久に昼、反対面は永久に夜で、薄明かり地帯にそって幅800※(全角KM、1-13-50)だけに人間が住め、この狭い領域が金星をぐるり取り囲んでいる。
 太陽が当っている側には砂漠の熱風が吹き、金星生物は少ししかいない。そして夜側は、上空の風が凝縮し、巨大な氷の壁でさえぎられ、絶えず熱半球の上昇気流が流れ込み、冷えて、下降し、また冷所から吹き返す。
 暖かい空気が冷えると雨になり、夜側の端には雨が凍って氷壁ができる。氷壁の向こうに何があるのか、凍結半球の漆黒しっこくの闇にどんなすごい生命が住んでいるのか、あるいは真空の月面と同じく死の世界なのか、いずれも謎だ。
 金星がゆっくり秤動ひょうどうし、不自然に横揺れするため、季節が生まれる。薄明かり領域のまず片半球から、雲隠れした太陽が15日間じんわり昇り、同じく15日間沈み、これをもう片半球で繰り返す。太陽は空高く昇ることはなく、ただ氷壁付近の水平線をなめるかのよう。というのも秤動ひょうどうがわずか7度しかないからだ。でも15日という季節を際立たせるには充分。
 ともかくも、こんな季節だ。冬の気温は32℃まで下がり、湿気が多いものの我慢できる。だが2週間後、灼熱地帯は60℃が涼しい日だ。そして年中、夏も冬も断続的に雨がじとじと降り、柔土に浸みこみ、蒸せかえり、不愉快で不健康な湿気が立ち込める。
 こうして、はじめて金星を訪れる人々はとてつもない湿気にびっくり仰天する。もちろん雲は見えるが、分光器でも水分は検出できない。というのも、分光器は上空80※(全角KM、1-13-50)に浮かぶ雲の反射光を分析するからだ。
 水分が豊富なため奇妙なことが起こる。金星には大海も海洋も存在しない。ただし夜側に存在すると思われる沈黙の巨大永久凍結海は別。昼半球は蒸発が強烈なために、雪山から流れ出た川はすぐに細り、最後には消えて枯れる。
 さらなる結果、薄明かり地帯の土壌が妙に不安定になる。無数の伏流ふくりゅうが地下を走り、流れるにつれ、蒸発したり、氷のように冷たくなったりする。ために、泥が噴出する要因となり、熱帯に住むのは賭けだ。完璧に堅固で、見かけ上安全な場所に突然、泥が噴出、泥海どろうみと化し、建物もろとも住人を飲み込み、消滅することがよくある。
 惨事を予測する手立てはない、ただし岩盤が露出しているまれな場所だけは安全なため、人間の永住居留地はすべて山脈付近にかたまっている。

 ハムは貿易商。冒険心に富み、常に出没するところは居住地の限界や最前線だ。こういう人物はたいてい次の2つのタイプに分かれ、いずれも命知らずの無鉄砲者だ。つまり危険人物やお尋ね者や犯罪者を追跡するやからか、あるいは孤独か世捨て人だ。
 ハムはどっちでもない。そんな幻想より、健全で堅実な魅惑の富を求める。実は金星植物ジックスチルの種子嚢しゅしのうを現地人と取引している。ジックスチルから地球の化学者たちがトライハイドロキシル・ターシャリ・トルーナイトリル・ベータ・アントラクァイナン、即ちジックスチリン、別名3TBAを抽出ちゅうしゅつする。これが若返りにとてもよく効く。
 ハムは若いので時々不思議に思うのだが、なぜ金持ちの老人たちが男も女も、とてつもないお金を払ってつかの間の若さを求めるのか、特に薬を処方しても現実の寿命は伸びず、ただ一時的にまやかしの若さが得られるだけなのに。
 白髪が黒くなり、しわが伸び、禿頭とくとうに毛が生えるものの、いずれにしろ数年も経てば、若返った体も本来あるべき老身に戻る。でも3TBAの値段に関する限り、だいたいラジウムの重さと同等だ。このため、ハムは危険を冒してでも労苦をいとわない。
 泥の噴出は全く予期してなかった。もちろん、いつ起きてもおかしくない事故ではあったが、ぼんやりと掘立小屋の窓から、ジリジリ蒸す金星平原を眺めていると、突然あたり一面に水が吹き出すのが見え、気が動転するほど驚いた。
 一瞬、身がすくんだが、ガバと起きて、パッと動いた。ゴム状の防護服を全身にまとい、大きな球形の泥靴をはき、種子のうが入った大事な袋を担ぎ、食料を少し詰めて、外へ飛び出した。
 土はまだ半分硬かったが、見る間に真っ黒な泥が金属壁の周りに吹き出し、掘立小屋がぐらっと傾き、ゆっくりと視界から沈み、泥に吸い込まれ、ゴボゴボと音を立てながら、徐々にその場から消えた。
 ハムは冷静になった。さすがに泥噴出に巻き込まれたら球形泥靴どろぐつでもじっと立っていられない。いったん粘着物質が泥靴を越えると、不運にもとらわれの身になり、足を上げることもできず、吸い込まれ、最初はゆっくり、次に急速に掘立小屋に引き込まれてしまうだろう。
 だから、ぶくぶく沼地のなかで始めた独特な横滑り運動は、実地でさんざん会得したものであり、泥靴を表面から持ち上げず、横滑りさせて、泥が靴のふちを超えないよう慎重に行う。
 うんざりする動作ではあるが不可欠だ。まるでカンジキのように滑り、西へ向かった。というのもそっちが夜側であり、もし無事に着きたかったなら、冷静に実行したほうがいい。沼地はとても広かった。少なくとも2※(全角KM、1-13-50)行ってからやっと地面が少し上りになった。そして固めか、ほぼ固まった土に泥靴が当たった。
 汗びっしょりになった。防護服がボイラ室のように熱くなったが、金星の熱さには慣れっこだった。よしんば、高温多湿な金星空気を一息吸うために防護服のマスクを開ける機会が得られたとしても、その場合ジックスチル種子のうの半分を呉れてやってもいいが、マスクを開けたらダメ、ダメ――少なくとも生きたいという気持ちがあれば。
 薄明かり温地帯の端はどこでも、濾過ろかしてない空気を一息吸おうものなら、たちまち激痛が走り、死に至る。そう、ハムが迷い込んだのは金星の恐ろしいカビ胞子が無数に舞うところであり、カビ胞子はうんざりするほど大量に発芽し、口や鼻孔や肺や耳や目にさえ入り込む。
 カビ胞子を吸いこむのはとんでもない。かつて見た貿易商の死体は肉からカビが発芽していた。あわれな貿易商の防護服が1カ所ちょっと裂けていた。それだけでこうだ。
 だから、おおっぴらに金星上で飲んだり食ったりするのは大問題。雨が胞子を洗い流すまで待たねばならず、安全なのはこの30分ばかりだ。その時ですら、直前に水を沸騰させ、すぐ缶から食料を取り出さねばならず、そうしないと昔ハムが一度ならず何回もやったように、時計の分針が進むように、たちまち食料にカビがこんもりはえる。胸くそが悪い。吐き気のする惑星だ。
 ハムがこんな極端な悪口を言うのは掘立小屋をのみ込んだ沼地を見たせいだ。大きな植物も一緒に沈んでしまい、もう強欲ごうよく貪欲どんよくな生物が現れ、泥草どろくさがのたうち、歩行球ほこうきゅうと呼ばれる球形の真菌がうごめいている。さらに、あたり一面、ぬるぬるした何百万もの小さな生物が泥の上をズズズと滑り、ガツガツ共食いして、粉々になり、再びかけら同士がくっ付いてまた1匹の成虫になる。
 何千ものさまざまな種がいるが、貪欲どんよくという一点ではみな同じ。同様に金星生物のほとんどが足と口を複数持っている。実は外皮が裂けたものにほかならず、何十個もの口でむさぼり、何百本ものクモのような足で這いつくばう。
 金星の生命すべてがほぼ寄生的だ。土と空気からじかに栄養を採る植物ですら、ちょいちょい動物を捕らえ、咀嚼そしゃく、消化する能力がある。だから、火と氷の間に横たわる湿地帯で生存競争が苛烈かれつだといっても、見たことのない人には想像すらできまい。
 動物は自らの動物界はもとより、植物界とも絶えず戦っている。これに対し、植物は仕返しを行い、奇怪でぞっとする捕食手段を編み出し、動物の上手を行くので、植物生命などと呼ぶのさえ、ためらわれる。恐ろしい世界だ。
 しばらくしてハムが立ち止まり後ろを見たら、もう縄みたいなツル植物が足に巻きついていた。もちろん防護服は破れなかったが、ナイフでツルを切り離さざるを得ず、吐き気を催す黒い汁が噴出し、防護服にかかるや、すぐカビが発芽して綿毛わたげになり始めた。身の毛がよだつ。
 地獄だ、とうめいて腰をかがめ、泥靴を脱ぎ、慎重に背負った。
 ハムはのたうつ植物のあいだをとぼとぼ歩き、ジャック・ケッチという樹木が攻撃をしつこく仕掛けるのを避け、あわよくばツル縄を首や腕にひっかけようとするのを無意識によけた。
 ときおりわなにかかった生物がぶら下がっているのに出くわしたが、獲物えものを確認できない理由は、カビの綿毛で取り囲まれているからであり、一方の樹木は悠然と獲物をカビもろともに吸っている。
 恐ろしいところだ、とハムはつぶやいて、行く手をさえぎる名も分からぬ虫けらがのたくるかたまりを蹴っ飛ばした。
 思うに、俺の掘立小屋は薄明かり領域の熱端に近く、闇線やみせんまで400※(全角KM、1-13-50)ちょいだった。もちろん闇線やみせん秤動ひょうどうによって変わるし、いずれにしろ闇線に近づき過ぎてはならない。なぜなら想像を絶する強風が荒れ狂っており、そこでは上空の熱い空気が夜側の冷たい風に衝突し、氷の絶壁を絶えず生み出しているからだ。
 従って、ちょうど西へ240※(全角KM、1-13-50)行けば充分寒くなって、カビが生えない温度領域になり、そこなら比較的気持ちよく歩けるはず。それに、北へ80※(全角KM、1-13-50)そこそこ行けば、アメリカの居留地エロティアがある。明らかにこの地名はビーナスのやんちゃ息子、キューピッド神話にちなんでいる。
 もちろん横断するのは永劫えいごう山脈であり、3万※(全角メートル、1-13-35)の巨大山頂を越える訳じゃないけど、この頂上は時々地球の望遠鏡から垣間見えて、イギリス領地とアメリカ領地を永久に分断しており、ハムがまさに横断しようとしている場所は、実に堂々とした山なみであった。ハムはいまイギリス領にいるが、誰も気にしない。貿易商たちは好きに往来している。
 まあ、およそ300※(全角KM、1-13-50)だ。できないわけはないし、自動拳銃と火炎銃で武装しているし、水は充分沸騰すれば問題ない。それに必要に迫られたら金星生命さえ食えるかもしれない。ただし、ひもじくて、完全に調理して、胃が丈夫という条件付きだが。
 味は外観ほどじゃないと聞いたことがある。顔をしかめた。まちがいなくやがて思い知るだろうが、缶詰が道中持ちそうにない。でも心配には及ばないと言い聞かせた。事実、楽しみが沢山ある。袋のなかのジックスチルのうは、地球上で何十年も苦労して稼ぐほどの富に匹敵する。
 危険はない。しかし、金星では何十人もの男どもが消えていた。カビが命を奪ったのか、この世と思われない獰猛どうもうな怪獣か、あるいは植物・動物を問わず、未知の恐怖生物か。
 とぼとぼ歩きながら、常にジャック・ケッチ樹木と距離をとった。この植物は強欲な輪縄わなわを投げて他の生命を奪う。どこにも前進できないとはこのことだ。なぜなら、のたうつ凶暴な生物が恐ろしく群れる金星密林では一歩一歩、道を切り開き、えんえんと努力するしか移動できないからだ。
 この場合にも神のみぞ知る危険があり、毒牙や毒腺を持つ生物に防護服を噛み破られたら死んでしまう。不快なジャック・ケッチ樹木ですら、ましな道づれだとつくづく思いながら、捕獲なわを脇にたたきつけた。
 ハムが仕方なく旅を始めてから、6時間後に雨が降ってきた。この機会をとらえて、泥噴出で巨大植物が最近消えた場所を見つけ、食事の準備に取り掛かった。でも、まず汚水を適量すくって、水筒の付属網で濾過して、それから殺菌だ。
 火を工面するのは難しい。金星の熱帯で乾燥燃料は実に稀だ、しかしハムが発熱錠剤を1個水に放り込むと、化学反応でたちまち水が沸騰し、蒸気となった。水にアンモニアの味が少し残っていても、不快なんてちっちゃいものだと考えながら、蓋をして冷やした。
 豆の缶詰を開けて、しばらく観察して、空中の残存浮遊カビが食品を冒さないことを確認してから、防護服のバイザーを開けて、急いでかき込んだ。そのあと、生暖かい水を飲んで、残りを防護服内の水袋に慎重に入れた。水袋から管を使って口で吸えるので致命的なカビにさらされない。
 食事を終えて10分後、休息して、たばこでもゆっくりのみたいなと思ってるさなか、やおら缶詰の残りものに綿毛がむくむく生えてきた。


 1時間後、へとへと、汗びしょびしょになって、友好樹ゆうこうじゅを見つけた。探検家バーリンゲームが名付けた木で、枝にヒトを休ませてくれる金星の数少ない生物だ。その木に登って、最適な場所を見つけて、ぐっすり眠った。
 起きて腕時計を見たら5時だった。友好樹ゆうこうじゅのツルや小吸盤が防護服全体に巻きついていた。慎重にはがしてから、下へ降りて、とぼとぼ西の方へ歩いて行った。
 2度目の雨が降ったあとドウポットに出会った。金星の英領や米領ではこう呼ばれている。仏領ではペーストポット、オランダではそうだな、オランダ人は上品ぶらないから思ったまま単にホラーと呼ぶ。
 ドウポットは実に気味の悪い生物だ。白いパン生地のような原形質のかたまりで、大きさは細胞1個から、たぶん20トンぐらいのドロドロ汚物にまでなる。固定した形は持たず、実際単なる細胞の塊で、事実上、肉体のない徘徊する貪欲ながん細胞だ。
 組織も知能もなく、空腹を抑制する本能すらない。食物に触れたらその方向へ移動し、もし2つの食物に触れたら、静かに分かれ、いつも大きい部分が大きい食料を攻撃する。
 銃弾では死なず、まさしく火炎銃の強力な噴射じゃないと殺せないし、その場合も細胞すべてを焼き殺すことが必要。地上のあらゆるものを食いつくして移動し、あとに黒い裸地らちを残すのみで、そこにはたちまちカビが発芽する。まことに不快で、悪夢のような生物だ。
 突然ハムの右手に、ドウポットが密林から湧き出てきたので横に跳びのいた。もちろん防護服を溶かすことはできないが、あんなドロドロの汚物を浴びたらたちまち窒息しかねない。いまいましそうににらみつけて、ドウポットが駆け足でズズズと滑って行くとき、おもわず火炎銃で撃ちたくなった。そうしたかもしれないが、金星の辺境に住む海千山千のハムは火炎銃に関してはとても慎重だ。
 火炎銃にはダイヤモンドを装填そうてんしなければならない。もちろん安い黒ダイヤだが、よく考えないといけない。この結晶に着火すると、すさまじい一撃でエネルギすべてを放出し、雷鳴のように咆哮し、弾道100※(全角メートル、1-13-35)沿いのあらゆるものを焼き尽くして灰にする。
 ドウポットはズルズル、ガブガブと音を立てながら過ぎ去った。背後には道が開け、更地になり、はいずり虫や、くねるツル植物や、ジャック・ケッチ樹木などあらゆるものが一掃され、湿った大地そのものになり、ドウポットの粘液跡にはもうカビが発芽していた。
 道はハムが行こうとしている方向にほぼ続いており、この好機をとらえて、大股でずんずん歩いたが、それでも密林の不吉な壁に注意を怠らなかった。10時間かそこらで更地は再び不快な生物で埋め尽くされるだろうが、さしあたり、障害物を避け、先を切り開くよりも、はるかに歩みが早い。
 道の8※(全角KM、1-13-50)北は面倒なことに、もう発芽し始めており、そこで出会った現地人は、4本の短足で駆けながら、ハサミのような手で道を切り開いていた。ハムが立ち止まって話しかけた。
「マーラ」
 とハムが呼びかけた。
 熱帯赤道地域の現地語は全く奇妙だ。おそらく200単語ぐらいあるのだろうが、その200語を覚えたところで、言語の知識は何も知らないのに比べ、若干多いという程度だ。
 単語は漠然としており、どの発音も場面により10から100通りも意味がある。たとえば「マーラ」はあいさつ語であり「ハロー」とか「おはよう」などを意味する。また「用心して」という注意にもなるし「友達になろう」という意味すらあり、妙なことに「けりをつけよう」にもなる。
 さらに「マーラ」はある名詞を示す。「平和」「戦争」「勇気」「恐怖」を意味する。変な言語だ。つい最近、抑揚の研究により、人類の言語学者たちが特性を明らかにし始めたばかりだ。でも、結局は英語の totootwo や、onewonwanwenwinwhen などの類似音が、母音の違いを判別できない金星人の耳に奇妙に聞こえるようなものかもしれない。
 そのうえ、金星人の顔は広くて平らで、目が3つあるので、人間には表情が読めない。当然、現地人同士は顔で情報を伝えているに違いない。
 だが、この金星人は本来の意味がわかった。「マーラ」と応じ、しばらく間をおいて、
「アスク?」
 これは次のどれかだ。
「お前は誰?」
「どこから来た?」
「どこの所属?」
 ハムは最後の意味を選んだ。かすむ西の方を指し、それから手で円弧を造り、山を示し「エロティア」と言った。少なくとも一つしか意味がない。
 現地人は黙って考えた。ついに低いうなり声を発して、ある情報をくれた。ハサミのような爪を振り上げて道沿いに西を示し「カーキー」と言い、それから「マーラ」と言った。最後の言葉は別れのあいさつだ。ハムは、のたうつ密林壁に体を押しつけて、金星人を行かせた。
「カーキー」にはほかに20ばかり意味があるが「貿易商人」だ。通常、ヒトに使う。ハムは人間社会だと察して、期待に浮き浮きした。ヒトの声を聞いてから6か月たっている。ただし掘立小屋と一緒に沈んだ小型ラジオは別だが。

 まさに8※(全角KM、1-13-50)、ドウポットの跡をついて行き、突然出くわした場所は最近泥が噴出したところだった。植物の背丈が腰までしかなく、500※(全角メートル、1-13-35)四方が開けており、そこに1軒の貿易小屋が建っている。ともかくハムのトタン小屋よりはるかに見栄えが良い。
 部屋が3つもあり、熱帯では聞いたことのない豪華さだ。ここでは1※(全角グラム、1-13-36)たりとも居留地からロケットで苦労して運ばなければならない。高価で手の出ない代物だ。貿易商が乾坤一擲けんこんいってきの賭けをして、運よくこの男はひと儲けしたのだろう。
 まだふわふわの土壌を大股で急いだ。とわの日光を窓が遮蔽しゃへいし、扉は施錠せじょうされている。これは辺境条例違反だ。扉は常に開けておき、道に迷った貿易商の避難場所にしなければならないし、最低の恥さらし者でも、開放小屋の備品は保安上盗まない。
 ましてや現地人は、盗みをしない。つまり金星の現地人ほど正直なものはいないし、決して嘘をつかず、盗みをしないが、商品取引のためなら、警告後、殺しもいとわない。でも、あくまで正当な警告のあとだ。
 ハムは当惑して立ちすくんだ。あきらめて空地あきちを蹴り、地団太じだんだを踏んで扉の前に座り込み、無数の忌まわしい小生物が防護服に群れ登るのを手で払いのけるはめになった。ハムは待った。
 30分もたたず貿易商が空地あきちをとことこ歩いてくるのが見えた。背の低い痩せた男だ。防護服で顔は見えないが、どうやら眼が大きいようだ。ハムが立ち上がり、陽気に言った。
「こんにちは。ちょっと寄りたいんだ。俺の名前はハミルトン・ハモンドだ。あだ名を当ててみろ」
 新顔はちょっと立ち止まり、それから妙にやわかい、かすれ声で、流暢りゅうちょうな英国なまりを話した。
煮豚にぶただろうよ。脇にどけ。はいるから。じゃあこれで」
 抑揚がなく、無愛想だ。
 ハムは怒りがこみ上げると同時に驚いた。
「ちぇっ。親切じゃないな」
 相手が扉の所で立ち止まった。
「そうだ。その通り。アメリカ人だな。英国領で何をしている? 入国証はあるか」
「いつから熱帯で入国証が必要なんだ?」
 せ男が厳しく言った。
「商売しているのか、密猟だぞ。お前に権利はない。立ち去れ」
 ハムはマスク越しに強固に主張した。
「権利があろうがなかろうが、俺は辺境条例適格者だ。空気を吸い、顔を拭き、食事させてくれ。扉を開けたら俺もはいるぞ」
 拳銃がパッと目に入った。
「やってみろ。鉛を食らうぞ」
 ハムは金星の貿易商すべて同様、勇敢で機転が利き、いわゆる合衆国で言うところのハードボイルドだ。決してひるまないが、表向き従順にこう言った。
「わかった。でも聞いてくれ。ただ食べたいだけだ」
「雨を待て」
 こう冷たく言って、扉を開けようと横を向いた。
 男の目がそれたとき、ハムが男の拳銃を蹴り上げると、拳銃はくるくるまわりながら壁の方へ飛び、雑草の中に落ちた。敵は腰にぶら下げた火炎銃を素早くつかんだが、その腕をハムがしっかと握った。
 すぐ相手は抵抗を止めた。一方ハムが一瞬驚いたのは、防護服ごしに感じた腕の細いこと。
 ハムがすごんだ。
「いいか。俺が欲しいのは食う場所だ。いま手にいれる。扉を開けろ」
 ついに男の両手をつかんでいた。妙にきゃしゃだ。しばらくして、うなずいたので片手を離してやった。扉が開いて、ハムは男のあとに続いた。
 繰り返すが、聞いたことのない豪華さだ。どっしりしたイス、頑丈なテーブル、書籍すらよく保存されており、間違いなくヒカゲノカズラ粉末を使って、殺菌している。熱帯の掘立小屋ではフィルターと自動噴霧で除去しようが、しつこいカビが時々侵入する。ここでは自動噴霧がすぐ行われ、胞子を殺菌しており、ドアを開けた時侵入したかもしれない。
 ハムは男に火炎銃を携帯させたまま、警戒の目を離さず、座った。この痩せた男より早抜きの自信があった。それに室内で火炎銃を発射する危険をだれがおかす? 建物の壁を吹っ飛ばすだけだ。
 そこでハムはマスクをはずし、袋から食料を取り出し、湯気立った顔をいた。一方の相方、いや敵は黙って見ていた。ハムは缶詰の肉をしばらく見て、カビが生えてこないので食べた。
 ハムがいらだった。
「なんでバイザーを開けないんだ?」
 相手が黙っているので続けた。
「顔を見られるのが怖いのか、ええ? 俺は興味ないし、サツじゃない」
 返答がない。
 再度聞いた。
「名前は?」
 冷たい声が響いた。
「バーリンゲーム、パット・バーリンゲーム」
「ははは、パトリック・バーリンゲームは死んだ。俺の友人でよく知っている」
 返事がない。
「本名を言いたくないようだが、この際、勇敢で偉大な探検家を愚弄ぐろうしちゃいかん」
 相手がせせら笑って、
「どうも。それは父だ」
「またうそを。息子はいなかった。たった一人……」
 突然、中断。驚天動地きょうてんどうちの感情が沸き起こった。どなった。
「バイザーを開けろ」
 相手の唇を見ると、防護服を通してうっすら、皮肉な笑いがぴくっと動いた。
「いいだろう」
 とおだやかな声で言って、マスクを取った。
 ハムは息をのんだ。マスクの裏側は優美な顔立ち、怜悧れいりな灰色の目、ほほやひたいに汗がきらきら光っているけれど、愛らしい顔の女だ。
 ハムは再度ゴクリ。ハムの職業は金星の荒くれ冒険貿易商だが、結局は紳士。大学で教育を受けた技術者であり、てっとり早い富につられて熱帯へ来ただけだ。
「も、もうしわけない」
 とハムが口ごもった。
 女があざ笑った。
「勇ましいアメリカ密猟者だこと。あんたら、みんな女には、たけだけしいの?」
「でも、知らなんだ。こんなところで何をしてるんだ?」
 女は向こうの部屋を指さして、
「答える義理はないが……、熱帯の植物相と動物相を分類している。私は生物学者のパトリシア・バーリンゲームだ」
 ハムは隣部屋の研究室にびん標本があるのにいま気づいた。
「熱帯に女一人とは。むちゃだ」
「アメリカの密猟者に出会うとは思ってもいなかった」
 と逆襲。
 ハムは赤面した。
「心配するな、俺は出て行く」
 ハムは両手をあげてバイザーを閉めた。
 その瞬間、パトリシアがテーブルの引き出しから拳銃をひっつかんで、冷静に言った。
「ハミルトン・ハモンドさん、さあ出て行け。しかし、ジックスチルは置いてけ。王室財産だ。英領から盗んだものだ。没収する」
 ハムは唖然あぜんとして、突然、激怒した。
「いいか。俺はこのジックスチルのためにさんざん危険を冒した。もし失えば破滅、破産だ。放さないぞ」
「でも、密漁だ」
 ハムはマスクを取って座った。
「バーリンゲームさんよ、あんたは俺を撃てないようなやわじゃないと思うが、没収するにゃ撃たねばならん。でなきゃ、俺はあんたがへばるまでここに座っているぜ」
 女は灰色の光彩でハムの碧眼へきがんを無言で射貫いぬいた。銃をハムの心臓にしっかり向けているが、撃たない。こう着状態だ。
 ついに女が言った。
「密猟者の勝ちね。それじゃ、出ていって」
 女は銃をホルスターにピタとおさめた。
「うれしいぜ」
 とハムが捨て台詞ぜりふ
 ハムが立ち上がって、バイザーに手をかけて、おろしたところ、また突然びっくり、キャーという女の金切り声だ。いたずらだろうと思ったが、女はカッと目を見開き、不安そうに窓の外をじっと見ている。
 植物がなぎ倒れ、次に巨大な白っぽいかたまりが見えた。ドウポットだ。ぞっとするかたまりが小屋の方に向かって確実に動いている。軽いパンという衝突音が聞こえ、どろどろの汚物で窓ガラスが壊れ、建物をのみこむほど大きくはないが、2つの塊に割れて、あたりに流れ、片方と合流した。またパトリシアが叫んだ。
「ばか、マスクよ、閉めて」
「マスクか、なぜだ」
 でもハムは反射的に従った。
「なぜって? あれよ。消化酸よ、見て」
 指さす壁には実に何千個という小さな穴が開いて、光が漏れていた。怪物の消化酸は非常に強力、食えるものなら何でも攻撃し、金属を腐食するので、小屋が穴だらけになって台無しになった。ハムが息をのんだのは、食事の残りから瞬時にカビがふわふわ生えてきて、木製のいすやテーブルに赤緑の綿毛が発芽したからだ。
 2人は顔を見合わせた。
 ハムがくすくす笑った。
「さて、君も家なしだ。俺のは泥噴出で沈んだが」
 パトリシアが辛辣しんらつに言い返した。
「だろうよ。ヤンキーは土が浅いところを見つけようとしない。この下のわずか2※(全角メートル、1-13-35)下は岩盤だ。私の場所は塔の上だ」
「まあ、冷めた奴だな。ともかく、君の家は沈んだも同然だ。これからどうするつもりだ」
「どうするって? あんたに関係ない。一人でできるから」
「どうやって」
「あんたの知ったことじゃない。ロケットが毎月くる」
「君は億万長者かね」
 女が冷静に言った。
「この探検は英国学士院が出資している。ロケットの到着予定は……」
 女が言い淀んだ。マスクの裏で顔が少し青ざめたように見えた。
「予定はいつだ?」
「しまった、2日前に来たばかりだ。忘れてた」
「なるほど。1か月釘づけになってロケットを待つ。だろ?」
 パトリシアがハムをけんか腰にねめつけた。
 ハムが再び口を開いた。
「1カ月でどうなるのか知ってるのか。夏まで10日だ。君の小屋を見ろ」
 指さす壁には茶色のさび模様ができており、ハムが動くと、小皿こざらほどの大きさの破片がパラパラ落ちた。
「2日でこの建物は崩落する。15日間、夏をどう過ごす? シェルターなしでどうする? 65℃から70℃になるのに。言おうか。君は死ぬ」
 女は何も言わない。
「ロケットが来ないうちに君はカビの塊になる。それから1柱の骨になって、1発の泥噴出で沈む」
 女が怒った。
「だまれ」
「黙ってても助からん。君のやるべきことを言おう。背負袋せおいぶくろと泥靴を持って、俺と一緒に歩くんだ。夏までに寒帯に着くだろう。君が口ほどに歩ければだがね」
「ヤンキー密猟者と一緒に行くって? 考えられない」
 ハムが冷静に続けた。
「それから、エロティアへ楽に行ける。いいアメリカ村だよ」
 パトリシアが非常袋を取って肩に担いだ。ぶ厚いノートの束を回収した。特殊紙にアニリンインクで書いてある。少し付いたカビをはたき落して、袋に入れた。一対の小型泥靴を持って、悠々ゆうゆうと扉へ向かった。
 ハムがくすくす笑って、
「それじゃ、来るのかい?」
 女が冷たく言い返した。
「一人でイギリス領のビノーブル町へ行く」
「ビノーブルだって。300※(全角KM、1-13-50)南だ。しかも永劫えいごう大山脈を横切る」
 ハムは息をのんだ。


 パトリシアは扉をあけ、無言で西の寒帯へ向かった。ハムは一瞬、躊躇ちゅうちょしたがあとについて行った。そんな旅を女一人にさせられない。ハムの存在を無視しているから、数歩下がり、不機嫌に不快そうに女のあとをとぼとぼ歩いた。
 3時間以上、白夜びゃくやを歩き、ジャック・ケッチ樹木の攻撃をよけながら行ったが、大部分はあのドウポットの通り跡で、かなり開けていた。
 ハムが驚いたのは女の敏捷しゅんびんで、しなやかな身のこなし。するするっと進む様は確かに原住民の技だ。そのとき、ある記憶がよみがえった。この女はある意味では原住民だ。いま思い出した。パトリック・バーリンゲームの娘は金星で最初に生まれた人間の子供であり、生誕地はビノーブル、父親が造った植民地だった。
 教育のために8歳で地球へ送られた新聞記事を思い出した。その時、ハムは13歳、今27歳だから、パトリシア・バーリンゲームは22歳になっている。
 両者は一言も言葉を交わさなかったが、ついに女が怒って振り向き、怒鳴った。
「あっちへ行け」
 ハムは立ち止まって、
「邪魔してない」
「ボディガードは要らない。熱帯はあんたよりずっと詳しい」
 ハムは反論しなかった。黙っていた。
 しばらくして、女がかっとなって、
「ヤンキーは嫌いだ、ああ、心底嫌いだ」
 女は向きなおり、とぼとぼ歩いて行った。

 1時間後、2人は泥噴出どろふんしゅつに襲われた。予兆もなく足元に泥が噴出、草木が激しく傾いた。急いで泥靴をはく間、大木が不気味にゴボゴボと沈んで行った。またしてもハムは女の技量に舌を巻いた。パトリシアはハムが追いつけないような速度で不安定な表面をすり抜けた。ハムははるか後方ですり足状態。
 突然女が止まったのが見えた。泥噴出の最中では危険この上ない。緊急事態が起こったに違いない。ハムが駆けつけると、30※(全角メートル、1-13-35)手前で原因が判明。右側の泥靴のひもが切れ、女は左足だけで不安定に立っており、右靴がゆっくりと沈んでいく。今まさに真っ黒な泥が左靴の端を超えた。
 近づくと女が見た。脇にすり足で寄ると、女は意図を悟ってこう言った。
「無理だ」
 ハムは慎重にかがんで、片腕を女の膝、もう片腕を女の肩に回した。既に女の左泥靴は埋まっており、ぐっと持ち上げると、自分の靴もあやうく沈みかけた。あたりにごうごうと大きな吸い込み音が響く中、女は自由になりハムにしがみつき、ハムがバランスを崩さないようにじっとしており、一方のハムは不安定な土壌の上を注意深く滑った。
 女は重くなかったものの、間一髪、泥がハムの靴のふちまでドクドク入り込んだ。金星の重力は地球よりわずかに小さいとはいえ、1週間かそこらで慣れてしまうので、20%軽いも、優位は無いも同然だ。
 100※(全角メートル、1-13-35)を確実に歩き、女を座らせ、泥靴のひもをほどいてやった。
 女が冷静に言った。
「ありがとう、勇敢ね」
 ハムもそっけなく返した。
「どういたしまして。これじゃ一人で行こうなんて思わんだろう。泥靴がなけりゃ、次の噴出で君はおしまいだ。さあ、一緒に行くか」
 女の返事は冷たかった。
「木の皮からでも代用靴を作れる」
「原住民でも木の皮じゃ歩けまい」
「なら、泥が乾くまで2、3日待って、埋まった片靴を掘り出す」
 ハムは笑って広い泥の海を指さして言い返した。
「どこを掘るんだ? それをやるんだったら夏までここにいることになる」
 女が折れた。
「またヤンキーの勝ちね。でも寒帯までだ。そのあと、あんたは北、私は南」
 2人はとぼとぼ歩いた。パトリシアはハム同様疲れ知らずで、熱帯にとても通暁つうぎょうしていた。2人はほとんどしゃべらなかったものの、ハムは最短距離を行く女の技術が常に不思議で、ジャック・ケッチ樹木の攻撃が無意識で分かるように思えた。

 さて、雨が降り、やっと休止して、大急ぎで食事したあと、まさにハムが女に礼を言う出来事があった。
「眠るかい? あそこに友好樹ゆうこうじゅがある」
 とハムが言うと、女がうなずいた。
 ハムがその方向へ行き、女が背後になった。
 突然、女が腕をつかんだ。
擬態樹ぎたいじゅだ」
 と叫び、ハムをぐいと引き戻した。
 早すぎるものかは。にせの友好樹ゆうこうじゅがハムの顔をめがけ強烈な一撃を振りおろし、すんでのところをかすった。全く友好樹ではなく偽物で、外観を無害にして獲物を手のうちにおびき寄せ、ナイフ形状の大釘おおくぎを撃ちつける。
 ハムは息が止まった。
「なんだあれは。今まで見たことがない」
擬態樹ぎたいじゅだ。とても友好樹ゆうこうじゅに似てる」
 女が拳銃を抜いて、脈打つ黒い幹に弾を発射した。灰色の樹液がほとばしり、たちまち、そこいらじゅうのカビが銃痕じゅうこんに群がった。樹木の運命は尽きる。
 ハムはきまり悪そうに、
「ありがと。おかげで命拾いした」
 女はハムを冷静に凝視した。
「トントンだ。分かる? あいこよ」
 しばらくして本当の友好樹を見つけて寝た。それから白夜の3日間、起きては歩き、寝るを繰り返した。もう泥噴出は起きなかったが、熱帯にはあらゆる恐怖が満載だ。
 ドウポットが道をよぎり、へび状のツル植物がシューシューと狙い、ジャック・ケッチ樹木が残忍な輪縄わなわを投げ、無数の小さないずり虫が足元をのたくり、服の上に落ちてくる。
 あるとき、出会った動物はカンガルーに似て、奇妙な1本足、強力な1本足で飛びあがり、密林に突っこみ、3※(全角メートル、1-13-35)のくちばしで獲物を突き刺して捕らえる。
 ハムがカンガルーを初弾で打ちそこなうや、女が跳躍中を撃ち落とすと、のたうちまわり、たちまちジャック・ケッチ樹木と、残酷なカビに捕まった。
 別な事例で、パトリシアがジャック・ケッチ樹木の輪罠わなわに両足をつかまれたのは、分からないように地面に仕掛けられていたからだ。足を踏み入れた瞬間、輪罠わなわが突然持ち上がり、空中3※(全角メートル、1-13-35)頭を下に、無防備に吊るされ、最後にどうにかハムが輪を切って、助けた。
 どの場合でも、一人旅では間違いなくどっちかが死んでいただろう。両人は協力して乗り越えた。
 しかしながら、双方打ち解けず、冷静で、そっけない態度が習わしになった。ハムは決して必要がなければ女に近づかなかったし、女もまれにしか話さず、ハムのことを「ヤンキー密猟者」としか言わなかった。
 そうではあったが、時々男として内々に記憶にとどめたのは女の面立ちや、茶色の髪や、均一な灰眼などの魅力的な愛らしさだ。これらを垣間見たのは、雨があがり、安全になり、バイザーを開けたときだった。

 ついにある日、西から風が巻き起こり、冷やかな息吹いぶきをもたらし、2人にとっては天国のような空気になった。この吹き下ろしは凍結半球をわたり、氷壁の向こうから冷気をもたらす。ためしにハムがのたくる雑草の表面をそぎ落とすと、ゆっくり、まばらにしかカビが生えない。寒帯に近づきつつあった。
 友好樹を見つけ、心が軽くなった。数日旅して高地へ行けば、カビ防止のフードをはずして歩けるかもしれない。25℃以下ではカビが発芽できないからだ。
 まずハムが目を覚ました。しばらく黙って女の方を眺めると、微笑ほほえましいことに樹木の枝が女を優しく囲んでいる。当然2人は腹ペコで、圧痛を感じた。
 微笑ほほえみがちょっと悲しみに変わったのは、寒帯が別れを意味すると悟ったからだ。仮にも、永劫えいごう大山脈を横断するなどという狂気の沙汰を、ハムが止めないかぎり。
 ハムはため息をつき、枝にぶら下げた袋に手を伸ばしたとたん、驚き、かつ激怒して、うぉーと大声をあげた。
 俺のジックスチルが――。特殊被膜の袋が切り裂かれ、ジックスチルが無くなっている。
 ハムの叫び声に驚いて、パトリシアが目を覚ました。そのとき裏で女が皮肉なあざ笑いを浮かべているように感じた。
 ハムが吠えた。
「俺のジックスチルはどこだ?」
 女が下を指さした。低木の間に、カビがこんもり。
 女が冷静に言った。
「あそこよ。下だ。密猟者」
「キミは……」
 怒りのあまり声が出ない。
「そうよ、あんたが寝てる間に袋を切った。盗品は英国領から密輸させない」
 ハムは青ざめて言葉を失った。
 ついにわめいた。
「きさま! あれは俺の全財産だ」
「でも盗んだ」
 女は面白そうに言いながら、優美な足をぶらぶらさせた。
 ハムは怒りのあまり全身がわなわな震えた。女をにらみつけた。眼光は半透明の防護服を貫き、女の体型と、スリムで完璧な足が、陰影に浮かび上がった。思い詰めてつぶやいた。
「殺してやる」
 ハムの手がぶるぶる震えた。女がカラカラと笑った。ハムはやけのやんぱちでうーんと唸りながら、袋を肩に引っ担いで地面に降りた。
「おまえは……お前は山で死ぬがいい」
 無慈悲に言い放つと、西の方へとぼとぼ歩いて行った。
「ヤンキー、ちょっと待って」
 ハムは止まるどころか振り向きもせず、ずんずん進んだ。
 30分後に上り坂から後ろをちらっと振り返ると、女がついてくるのが見えた。ハムはくるりと背を向けて前に進んだ。ここは坂、ハムの方が女のスピードと技量を上まわり始めている。
 次にハムが振り向くと、女がずっと後方で点のように小さくなって歩いており、どうやら強情も弱り気味だ。それを見てハムは顔をしかめた。もしかしたら、泥が噴出して完全に無防備になっているかも。命にかかわる重要な泥靴を失っているからなあ。
 そのとき、ここは泥噴出のない永劫えいごう山脈の裾野すそのだとわかり、ともかく気にしないとビシッと決めた。
 しばらくハムは川と平行に歩いた。川は間違いなくプレゲトン川の無名支流だ。いままで水路を横断する必要はなかった。というのも、金星の川は全て自然に、氷壁から薄明かり地帯を通り、熱帯へ流れており、方向が一致しているからだ。
 しかし今度、ひとたび高台へ到着して北へ向かう際には、川が立ちはだかるだろう。川を渡る際には丸太か、あるいは運がよくて川幅が狭ければ、友好樹の枝で渡らなければならない。川に足をつけるなんて命取りだ。恐ろしい毒牙をもった生き物がうようよいる。
 その高台の縁で、ハムは大惨事に近い目にあった。ジャック・ケッチ樹木をすり抜けて進んでいる時、突然真っ白な腐物くされものの塊が現れ、木々や密林が巨大なドウポットの塊に飲み込まれた。
 通せんぼをするくねくね植物と、ドウポット怪物との間に追い詰められたハムに残された道はたった一つ。火炎銃をひっつかんで、恐怖生物へ一撃を食らわすと、雷鳴が轟き、何トンものドロドロ汚物が焼け、跡には少数の小物が這いまわり、残骸を食べている。
 いつもそうなんだが、銃を発射すると銃身を痛める。銃身の交換に40分もかかるのでため息が出た。根っからの熱帯住人なら、手間はいとわない。1発撃てばアメリカドルで15ドルかかる。10ドルが爆発用安ダイヤモンド、5ドルが銃身。ジックスチルがあれば何てことはないが、今は切実だ。残りの銃身が最後だと分かって、またため息。出発したときから何事も節約を強いられてきた。

 とうとう高台についた。凶暴な熱帯捕食植物がほとんどいなくなり、運動能力のない真の植物に出くわし始め、吹き下ろしの風が顔に冷たい。
 そこは高原谷のようなところだった。右手は灰色の小永劫えいごう山、その向こうがエロティア、左手はきらめく強固な城壁のように、大レンジ山の巨大すそ野が広がり、山頂は上空25※(全角KM、1-13-50)の雲に隠れている。
 ごつごつした狂人道きょうじんどうの入口が見えた。これが英米2つの植民地を分つ。道そのものは高度7500※(全角メートル、1-13-35)だが、1万5千※(全角メートル、1-13-35)以上の山々がそびえている。かつて一人の男がこの切れ目を歩いて横断した。それがパトリック・バーリンゲームだ。そしてその道を娘が行こうとしている。
 前方は真っ黒いカーテンのように見え、薄暮はくぼ地帯の端となり、中では絶え間のない雷光が、止むことのない嵐のなかで常に光っているようだ。ここに永劫えいごう山脈をよぎる氷壁がある。そして冷えた下降風が大山脈によって吹きあがり、上空の暖かい風とぶつかり、連続暴風雨となり、こんな暴風雨は金星にしか発生しない。プレゲトン川の水源はこのうしろのどこかにある。
 ハムは荒れ狂う荘厳な全景を見渡した。明日、いや休憩後、ハムは北へ向かう。パトリシアは南へ向かい、間違いなく狂人道きょうじんどうのどこかで死ぬだろう。ひととき、ハムは奇妙な感傷に浸り、心底顔をしかめた。
 死なせてやれ。一人で通ろうなんて浅はかなんだから。余りに傲慢ごうまんでアメリカ居留地のロケットに乗らないというんだから。搭乗資格はある。知るか。そんなことをなお自問しながら、眠りの準備に取り掛かったのは友好樹でなく、ずっとやさしい本物の植物、そしてなにより贅沢なことにバイザーをあけられる。
 自分の名を呼ぶ声で眼を覚ました。高台を凝視すると、パトリシアがちょうど境界を登りきったところだった。はて、どうやって俺のあとをついてきたのか、一瞬疑問に思った。ヒトが通ったあとすぐに草木がのたくるような実に恐ろしいところなのに。そのとき火炎銃を撃ったことを思い出した。閃光と轟音が何キロも届き、聞いたか見たに違いない。
 女があたりを不安げに眺めているのが分かった。
 女がまた叫んだのは、ヤンキーでも密猟者でもなかった。
「ハム!」
 ハムはむっつりを決め込んだ。また女が呼んだ。今はまるで銅像みたいに魅力的な顔立ちだ。防護服のフードを取っている。女は再び呼んだが、少ししょげた様子で両肩をすくめて、南の方へ向きをかえ、境界線に沿って進んだ。
 ハムは女が行くのをじっと無言で見ていた。視界から女が森に消えたとき、ハムも高台を降りて、ゆっくりと北へ向かった。
 だんだんと足取りが鈍くなった。あたかも見えざるゴムのりがくっついたかのよう。女の不安げな顔や、元気のない呼び声を思い続けた。死地におもむいていると確信し、結局俺に何かやったにしろ、死んでほしくない。余りにも生気せいきにみち、自信過剰で、若過ぎ、何より死なせるには愛らしすぎる。
 まことに尊大で、意地悪で、自己中心的で、水晶のように冷たく、よそよそしいけれども、灰色の光彩、茶色の髪、それに勇気がある。とうとう我慢しかねて、重い足取りを止め、くるりと向きをかえ、ほとんど全速力で南の方へ駈け出した。
 熱帯で訓練を積んだものなら、ここで女を追跡することなど簡単だ。寒帯では植物の自己修復が遅いので、足跡や折れた枝が見つかり、追跡できる。木の枝で川を渡った場所や、休んで食事を取った場所も見つけた。
 だが、ハムより前進が早いようで、女の技量や速さが勝り、足跡がだんだん古くなってきた。ハムはやっと止まって休んだ。台地がだんだん登りになって、巨大な永劫えいごう山に向かっており、上り坂なら女に追いつけるかも。
 そう、しばらく眠ったときの素晴らしい心地といったら、防護服が全く要らず、半ズボンと下着のシャツだけ。ここはそれで安全だ。常に下降風が熱帯の方へ吹き、浮遊カビを吹き飛ばし、動物の毛皮についたカビも冷風のひと吹きでたちまち死んでしまう。そればかりか、寒帯の本物植物は肉体を攻撃しない。
 5時間寝た。翌日の旅は風景が様変わり。この丘陵地帯は台地に比べ生命がまばら。草木はもはや密林にならず、森となっているけれども、地球と異なる木々が生え、幹の高さは150※(全角メートル、1-13-35)、先端は葉っぱじゃなく、花弁みたい。ときどきジャック・ケッチ樹木のみが熱帯を思い出させる。
 さらに行くと森が消えた。大きな岩が露出し、巨大な赤崖が現れ、草木一草ない。ときどき、出会う金星唯一の空中生物は灰色ののようで、大きさはタカほどだがとてもきゃしゃなので、風のひと吹きで粉々になる。ときにはサッと飛んで下に降り、はいずり小虫をとらえ、ベルのような奇妙な鳴き声を出す。そして、見かけは頭上にあるものの、実際は50※(全角KM、1-13-50)先に永劫えいごう山がドーンと現れ、山頂は高度25※(全角KM、1-13-50)の雲に隠れている。
 ここで又もや追跡が難しくなった。というのもパトリシアがしょっちゅう裸岩はだかいわをよじ登っているからだ。しかし徐々に痕跡が新しくなり、ハムの方がより強靭きょうじんなことを示し始めた。そしてその時、ちらっと見えた女の居場所は巨大な断崖の底、樹木に覆われた峡谷であった。
 女が凝視していたのは最初、巨大な崖、次に裂け目。明らかにどうしようか、この崖をよじ登る方策があるか、それとも回り道をしようか、迷っている。ハムと同じように防護服を脱いで、ありふれたシャツと半ズボン姿になっていた。結局ここの寒帯は地球よりひどく寒いわけではない。女を見たハムの心境は古代ペリオン山の丘に住む愛らしい森のニンフだ。
 女が峡谷へはいって行くので急いだ。叫んだ。
「パット!」
 これが女の名を呼んだ最初だ。道中30※(全角メートル、1-13-35)で女に追いついた。
「あんたか」
 女が息を呑んだ。疲れているようだ。何時間も先を急いでいたのに、一筋の生気せいきが眼中にキラッと光った。
「あんた北へ行ったんじゃないのか。私は呼んだけど……」
 ハムはそれには答えなかった。冷静に話した。
「いいか、パット・バーリンゲームさんよ。君は箸にも棒にもかからないが、死に行くのを見ちゃおれん。君は頑固なやつだが、女だし、俺がエロティアへ連れて行く」
 女の悲壮感が消えた。
「そうかい、密猟人。父はここを越えたし、私もできる」
「君のお父さんが横断したのは真夏じゃなかったか。今は真夏だが、狂人道きょうじんどうは5日以下、つまり120時間では横断できないから、そのころ冬が近づき、ここの経度は嵐になる。君はバカだ」
 女は真っ赤になって、
「この道は高度が高いから、上空の風の中だ。そこは暖かい」
「あったかいだと。そうさ、雷で」
 とハムが言って、間を置いた。
 かすかなゴロゴロという雷鳴が峡谷から聞こえる。指さす先は全く不毛の急峻きゅうしゅんだ。
「聞こえたか。5日で真上にくる。金星生物すらあそこに取りつけない。それとも君は避雷針になれるほど銅線をたっぷり持ってるというのか。たぶん、そうだろ」
 パトリシアの怒りがめらめら。ぴしゃり言った。
「あんたより稲光いなびかりがましだ」
 それから突然やわらかい口調になって、見当違いなことを言った。
「あんたを呼び戻そうとしていた」
「俺を笑うためか」
 とハムがきつく言い返した。
「いいえ、あやまるためよ、それに……」
びなんか欲しくない」
「でも、言いたかったのは……」
 ハムはそっけなく、
「気にすんな。きみの後悔に興味はない。悪趣味だ」
 と眉をひそめ、冷やかに女を見た。
 パトリシアがぼそっと言ったのは、
「でも、わたしは……」
 ドスドス、ドクドクという音で話がとぎれ、女が金切り声をあげたとき、巨大なドウポットが視界にはいり、巨体が峡谷の壁という壁を高さ2※(全角メートル、1-13-35)も覆い、2人の方へ押し寄せてきた。
 寒帯に恐ろしいものはほとんどいないが、いればでかくなる、その理由は熱帯に食料がいっぱいあるため、分裂し続けるからだ。しかしこいつは何十トンもの巨獣だ。へどが出るほど吐き気を催す腐臭が狭い道に立ち昇った。行く手をさえぎられてしまった。
 ハムが火炎銃をひっつかむと、女が腕をつかんだ。
「だめだめ、近すぎて、飛び散る」
 パトリシアが正しい。防護服なしで怪物にちょっとでも触れるものなら死を招き、そればかりか火炎銃を撃てば、2人に破片が降り注ぐ。
 ハムは女の腕をしっかと握って、峡谷の上方へ懸命に逃げ、銃をぶっ放しても安全な場所を探した。4※(全角メートル、1-13-35)うしろにドウポットが押し寄せ、やみくもに食料のある方向へのみ移動してくる。
 2人は進んだ。そのとき不意に、南西に向いていた峡谷が南へ急に曲がった。東方から絶えず降り注ぐ太陽光が隠れ、2人が永遠の暗闇の穴にはいると、地べたは真っさらの裸岩はだかいわ、生物がいない。ドウポットはここに来て止まり、組織も意志もないため、食料がないことには動けない。こんな怪物は生き物が湧く金星気候のみに宿る。生きるため、ひたすら食うのみだ。
 2人は暗闇の中で一息ついた。
 ハムがつぶやいた。
「さて、何を?」
 怪物の塊をスパッと撃つには角度の関係で不可能。撃っても一部分のみ破壊するだけだ。
 パトリシアが壁に跳び付き、蛇のような低木ていぼくを捕まえた。わずかな光を受ける場所に生えていた。これを、ドクドク脈打つドウポットに投げると、3060※(全角CM、1-13-49)ほど先へ突進した。
「おびきだせ」
 とパトリシアが提案。
 試した。でもできなかった。草木があまりにも少なすぎる。
「どうなるんだ?」
 とハムが聞いた。
「熱帯砂漠の端で見たことがある。しばらくぶるぶる震えて、細胞がお互いを攻撃して共食いする。おおこわ」
 とパトリシアが身震い。
「どれくらい続く?」
「まあ、4050時間ね」
「そんなに待てない」
 とハムはつぶやいて、袋をまさぐり防護服を引っ張りだした。
「何をするつもり?」
「これを着て、ここを出て近くからぶっ放す。これが最後の銃身だ」
 と言って、ハムが火炎銃に指をかけ、しおれて言ったが、すぐ元気になって、
「でも、君のがある」
「私の銃身も最後に壊れた。10時間か、12時間前だ。でも銃身はいっぱい持ってる」
「結構だ」
 慎重にほふくして、兇暴な脈打つ白い塊の方へ向かった。腕を伸ばし、ぐっと銃口を曲げて、引き金を引くと、火炎放射と咆哮が峡谷中に轟きこだました。怪物が粉々になって周りに散らばり、何十トンも燃えて、残骸の厚みはわずか1※(全角メートル、1-13-35)になった。
「銃身が持ちこたえた」
 勝ち誇って叫んだ。再装填の時間を大いにかせいだ。
 5分後、火炎銃が壊れた。怪物の塊がドクドクと波打ちながら止まったとき、わずか50※(全角CM、1-13-49)、銃身は木端微塵こっぱみじんに吹き飛んだ。
「君のを使おう」
 パトリシアがひとつ取り出し、ハムが手に取ってじっと見つめるや、落胆した。エンフィールド製の銃身は余りに小さすぎてアメリカ銃の台じりにあわない。
 ハムがうめいて、口走った。
「おおばかもの!」
 パトリシアが激怒、
「ばかですって、あんたらヤンキーが銃身に迫撃砲を使うからよ」
 ハムが両肩をすくめた。
「ばかは俺のことだ。予想すべきだった。さてと、選択肢は、ドウポットが共食いするまで待つか、ほかの方法を見つけてここから出るかだ。俺の直感ではこの峡谷は行き止まりだ」
 たぶんそうと、パトリシアも同意。この狭い割れ目は大昔、大地が隆起して山を半分に割った産物だ。水で浸食されてないから、充分ありそうなことはこの割れ目が登頂不能な絶壁で突然終点になりそうだが、また可能性として、この垂直壁のどこかを登って越えられるかもしれない。
 パトリシアが決した。
「ともかく、時間を無駄にした。試した方がよい。そのうえで……」
 ドウポットの臭気で、パトリシアは上品な鼻にしわをよせた。
 ハムは防護服を着たまま、薄暗い中をパトリシアについて行った。道が狭くなり、それから再び西へ曲がり、壁が垂直にそそり立ったので、東南に傾いた太陽が差し込まなくなった。日陰になり、嵐の領域線のようであり、ここは暗黒半球と薄暮領域を分かち、闇夜でもなく、真昼でもなく、なんとなく中間の状態だ。
 ハムの先を行くパトリシアの彫刻のような四肢は黄褐色というより青白かった。パトリシアの話す声が岩壁の間を奇妙にこだまする。この割れ目は、奇妙で薄暗い不快なところだ。
 ハムが言った。
「いやだなあ。この道はだんだん暗闇に近づいている。分かってんのか、永劫山脈の暗闇に何があるか誰も知らないのだぞ」
 パトリシアが笑った。その声は幽霊のようだった。
「ははは、どんな危険があるというの。ともかく拳銃がある」
 ハムがこぼした。
「ここから上に道はない。引っ返そう」
 パトリシアがハムに向かい直った。声がひくい。あなどってしゃべり続けた。
「おびえたか、ヤンキー。原住民の話ではこの山には幽霊が出る。父が言うに、狂人道きょうじんどうで奇妙なものを見たそうだ。分かるか、もし夜側に生命があれば、ここの薄明かり地帯に出そうなものだ。永劫山脈のここで」
 パトリシアがハムを馬鹿にして、また笑った。すると不意に、その笑い声がぞっとする耳障り音になって反響し、頭上の両崖壁から不快な調子で響き渡った。
 パトリシアが青ざめた。いま怖くなった。2人は不安げに頭上の岩壁を見上げた。そこに妙な影がちらちら動いている。
「あれは何? ハム、あれを見た?」
 ハムも見た。野生の影が上空を横切り、がけからがけを頭上高く跳んだ。そしてまたもや、とどろき渡る音が笑い声のように響き、黒い影が飛ぶように切り立った壁を移動した。
「戻ろう、すぐに」
 とパトリシアが息せき切った。
 パトリシアが振り向くと、黒い小さな物体が1個落ちてきて、ポンという不吉な音がして2人の前で壊れた。ハムが凝視。さやか、胞子のうか、何か未知の変種だ。ふんわりと黒い煙が漂い出て、突然2人は息が非常に苦しくなった。ハムはめまいで頭がグルグル、パトリシアはハムに寄りかかった。
「麻酔だ、さがれ」
 とパトリシアがあえいだ。
 だが、何十個もポトンポトンと周りに落ちてきた。ほこりのような胞子が真っ黒い渦を巻いて、呼吸が苦しくなっていく。2人とも中毒しかかり、呼吸困難になってきた。
 ハムがとっさにひらめいた。マスクだ、とむせながら、防護服を顔に引っ張った。
 フィルターが熱帯のカビを防止するように、胞子まみれの空気を浄化して、ハムは頭がすっきりした。しかしパトリシアのは袋の中にある。パトリシアが袋の中をまさぐった。突然、座り込んで倒れた。
 つぶやくように、
「私の袋、取り出して、あんた、あんた……」
 急に咳こみ始めた。
 ハムは狭い岩棚の下までパトリシアを引っぱってきて、袋から防護服をひっつかんで、叫んだ。
「着ろ!」
 たくさんのさやがポンポンとはじけている。
 はるか上の岩壁を1匹の影が音もなくさっと飛んだ。ハムは動きをじっと狙い、拳銃で撃った。甲高い耳障りなギャーという悲鳴がして、不快な吠え声が合唱となって返ってきた。そして、人間ほどの大きさの何かが、くるくる回りながら3※(全角メートル、1-13-35)足らずの位置にドシンと落ちた。
 ひどく醜い。唖然あぜんとして、しげしげ眺めると、現地人に似てなくもない。目が3つ、手が2本、足が4本、手は現地人同様に指が2本あるけれどもハサミじゃなく白いかぎ爪だ。
 そして顔だ。現地人のような無表情の幅広い顔じゃなく、目がつりあがり、邪悪な、暗い表情の顔立ちで、眼は現地人の2倍の大きさだ。まだ死んでおらず、敵意むき出しでにらみつけ、石をつかんで、弱々しく投げつけるや、死んでしまった。
 もちろんハムはそれが何だかは知らない。実は、これが暗闇の3つ目住人、トライオップス・ノックタバイバンズ、奇妙な半知性生物、夜側で唯一今まで知られた生物、永劫山脈の暗闇で時々発見される凶暴な生存せいぞん生物だ。おそらく知られている惑星の中で最も不埒ふらち不可触ふかしょく殺生せっしょうを楽しみにする生き物だろう。
 銃弾をバンと撃ったら、さやは降ってこなくなったが、高笑いの大声は止まない。この間に、ハムがパトリシアの頭まで防護服を引き上げた。半分しか着せないうちに、パトリシアは気を失った。
 その時、ビュンと音がして、石が1個ハムの腕に当たった。バタバタっと周りに当り、ヒュンヒュンと銃弾のようだ。黒い物体が天空を大跳飛ちょうひして、凄まじい笑い声であざけっている。ハムが1匹を空中で撃ち抜くと、再び苦痛の叫び声を発したものの、落ちてこなかった。
 投石がハムを襲った。すべて小石だが、豪速なので通過時ヒュンと音がして、防護服でも肉体を裂傷する。パトリシアの方を向くと、石が背中に当たるたびにかすかにうめいている。ハムはパトリシアにおおいかぶさった。
 耐えられない状況だ。ドウポットが出口をふさいでいるけれど、危険を冒して戻るしかない。防護服で装甲しているからたぶん、ドウポットをすり抜けられる。正気の沙汰ではない。ねばねばの塊に巻き込まれて窒息するかもしれないが、立ち向かわねばならない。ハムはパトリシアを両腕に抱え突然、峡谷を駆け降りた。
 ホーホー、ギャーギャー、ガハハのあざ笑い合唱があたりにこだました。石がどこからともなく飛んでくる。1個が頭に当たり、よろめき、ふらつき、崖から落ちそうになる。だが、屈せず突進した。何が俺を駆り立てるのか今わかった。運んでいる女だ。このパトリシア・バーリンゲームを助けなきゃ。
 曲がり場に着いた。西壁のはるか上方で、曇った太陽光が輝いた。すると、この世のものとも思われない追っ手が暗闇側にパッと退しりぞいた。奴らは日光に耐えられない。これでいくらか助かった。東壁にぴったりはいつくばり、ハムは半身を隠した。
 その先にもう一つ曲がり場があり、ドウポットが通せんぼしている。近づいてみると、ウッと吐き気を催す。先ほどの怪物が3匹、白いドウポットの塊に群がって食っている。実際食べている。腐臭だ。奴らは無我夢中で、ホーホー叫んでいる。近づいて2匹撃ち殺し、3匹目が壁に飛びつく所を、同様に狙撃すると、ドーンという鈍い音と共にドウポットに落ちた。
 またしても気分が悪くなった。ドウポットが去って、残った怪物が窪みに横たわっている場所は、巨大ドウポットの穴のようだ。奇怪なドウポットですらあの怪物は食えない。原文注

原文注:その時知られていなかったことだが、金星の夜側生物(トライオップス)は昼側生物(ドウポット)を消化できるけれども、その逆はできない。昼側生物(ドウポット)は夜側生物(トライオップス)を消化できない。その理由は様々な代謝アルコールが存在し、全て有毒だからだ。

 怪物が飛んだことで、30※(全角CM、1-13-49)の岩棚があることに気づいた。そうだ、あの岩道を行けばドウポットを回避できるかも。ほとんど絶望的で、きっと石が雨あられのように降ってくるだろうが、やらねばならぬ。ほかに手はない。
 ハムはパトリシアを左に抱え直し、右手を自由にした。拳銃に2つ目の弾倉を差し込み、頭上の飛び跳ねる影に向かって乱射した。しばらく小石が飛んでこなくなった。そして痙攣けいれんしそうになりながら四苦八苦して、パトリシアを岩棚に引き上げた。
 小石がまたもやあたりを襲った。1歩ずつ道なりに進み、ちょうど宿敵ドウポットの真上に来た。下も死、上も死。そして少しずつ屈曲部を回ると、両壁の上空に太陽が輝き、安全になった。
 少なくともハムは助かった。パトリシアはもう死んだかもしれないと気も狂わんばかりに、ドウポットのヘドロ道をすり抜けた。日光が当たる坂に出て、パトリシアのマスクを取って、白い大理石のように冷たい顔をじっと見つめた。
 しかしながら死んではおらず、麻酔にかかっただけだった。1時間後、意識が戻ったが、弱っており、ひどく怖がった。それでも、最初に発した質問は自分の袋のことだった。
 ハムが答えた。
「ここにあるよ。この袋がなんで大事なのか。ノートか」
 パトリシアの顔が少し赤らんだ。
「ノート? いや、違う。それは――言おうとしてたんだが――あんたのジックスチルよ」
「なんだと」
「そう、カビに投げたわけじゃない。ハム、あれはあんたの権利だ。イギリスの貿易商も大勢アメリカの熱帯へ行っている。あなたの袋を切り裂いて私の袋に隠しただけよ。地面のカビは小枝をちょっと投げただけ。本物に見せるためだ」
「でも、でも、なぜだ」
 赤みが増した。
らしめたかったのよ。冷たくて、よそよそしかったから」
 とパトリシアがぽつり。
 ハムは驚いた。
「俺が? それは君だろう」
「たぶん最初はね。強引に家に押し入ったでしょ。でも、泥噴出の中を運んでくれてからは、ハム、違う」
 ハムはごくりと息をのんだ。不意にパトリシアを腕の中に抱き寄せた。
「誰が悪いか争うのはよそう。だが、一つすぐやることがある。エロティアへ行って、結婚しよう。まだ立っていれば米国教会で、沈んでいれば米国判事の所で。これ以上、狂人道や永劫山脈の話は無しだ。いい?」
 パトリシアは、ぼうとかすむ巨大な山頂を眺め、身震いして、素直に答えた。
「いいよ」





底本:Parasite Planet. First published in Astounding Stories, February 1935
原著者:Stanley G. Weinbaum
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翻訳:奥増夫
2023年6月12日作成
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