ハス仙人

THE LOTUS EATERS

惑星シリーズその4

スタンリイ・G・ワインバウム Stanley G. Weinbaum

奥増夫訳




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金星後編
ハム&パット



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 フーッとため息をつきながら、ハム・ハモンドは右前方の観測窓からじっと眺めた。
「なんてえ場所だ、ハネムーンには」
「じゃあ、生物学者と結婚しないことね、むろん探検家の娘とも」
 と、後ろから生物学者のハモンド夫人が言ったが、灰色の瞳は窓ガラスに小躍りしていた。
 夫人のパット・ハモンドはハムと結婚するほんの4週間前まで、旧姓パトリシア・バーリンゲームと言い、偉大な英国探検家の娘であり、父バーリンゲームは英国のために金星の薄暮はくぼ領域を大きく獲得し、まさしく合衆国のクロウリーに匹敵する。
「僕は生物学者と結婚したんじゃない。結婚した女性がたまたま生物に興味を持っていただけだ。それだけさ。きみの数少ない欠点だがね」
 ハムが下向きジェットを絞ると、ロケットは火炎のクッションに乗って徐々に降下し、真下の黒い台地に向かった。ゆっくり、慎重に、扱いにくい宇宙船を下げ、やがてかすかな振動を感じた。スパッと噴射を切ると、床が少し傾き、すさまじい轟音が止み、妙に辺りが静かになった。
「着いたよ」
「そうね、どこなの、ここは」
「ちょうどバリアの120※(全角KM、1-13-50)東、ビノーブルの反対側、英国領の寒帯だ。北側はたぶん永劫えいごう山脈、南側は神のみぞ知る。東側もそう」
「いい報告だこと、どこなんだか。さあ、部屋の明かりを消して、どことやらを見ましょう、ふふふ」
 部屋の明かりを消すと、暗闇の中に、舷窓げんそうからぼんやりと光の輪が広がった。
「共同探検するならロケットの丸屋根に登って、もっと広く見ましょう。調査に来たのよ。少し調べましょう」
「共同探検に賛成」
 とハムが含み笑い。
 ハムは暗闇でおしゃべりにニヤリ、パットは真面目に探検をとらえている。
 ここで正式名を使えば、2人は英国学士院と米国スミソニアン協会の共同探検隊であり、金星の暗黒側を調査する目的があった。
 もちろんハム自身は、厳密には米国探検隊の片割れであり、実際はパットが他人と思わなかったため一員になっただけだが、パットはひげづらの学士院教授たちの質問や課題、指示にこたえる立場にあった。
 そしてこれはほんの公平な扱いに過ぎず、最終的にはパットが熱帯動植物の最高権威であり、さらに金星で生まれた初めての子供であるのに対し、一方のハムは単なる技術屋、もともと金星辺境に釣られて来たのであり、てっとり早い金もうけを夢見て、熱帯でジックスチルを交易していたにすぎない。
 熱帯でパトリシア・バーリンゲームに出会い、永劫山麓えいごうさんろくへ危険な旅をしたあげく、パトリシアを口説き落とした。2人はアメリカの居留地、エロティアで1カ月足らず前に結婚し、暗黒側探検の誘いを受けた。
 ハムは招待に反対した。地球のニューヨークかロンドンで楽しい新婚旅行をしたかったが、無理だった。
 そもそも天文学的な理由、つまり金星が近地点を過ぎており、8カ月待たないと、金星が太陽をゆっくりとまわるため、ロケットが地球を捕らえる地点へ来ないためだ。
 8カ月間、未開前線のエロティアや、同様のビノーブルに居るとなれば、英国居留地を選択するにしろ、標本採取を除き、楽しみはないし、ラジオも遊びも本すらもない。そして標本採取には、当然未知なるスリルと冒険があるとパットが言う。
 金星の暗黒側に、もしいればどんな生命が潜んでいるのか誰も知らない。めったに見られず、ましてはロケットで大山脈や広大な凍結海の上空を高速飛行したら、これらの生命体はほとんど見えない。この機会に謎解きや、探検をやろうと経費が支出された。
 自前のロケットを建造し整備するには億万長者が必要だが、英国学士院と米国スミソニアン協会であれば、政府の金が使えるので心配無用。たぶん危険やハラハラするようなこともあろうが、2人っきりになれる。
 最後の点がハムの決め手になった。こうして2週間、食料補給とロケット装備に忙殺され、いまや氷壁のはるか高みを乗り越えたが、この氷壁が薄暮地帯の境目であり、決死で通り抜けた暴風前線では、暗夜側の下層冷風が上層熱風にぶちあたり、上層熱風が金星の砂漠表面をなめ尽くす。
 なぜなら、金星はもちろん回転しないため、昼夜が交替しないからだ。片面は永久に太陽に照らされ、片面は永久に暗い。
 ただゆっくりとした惑星の秤動ひょうどうにより、薄暮地帯に季節のようなものがある。そしてこの薄暮地帯にのみ人が住め、熱帯につながる片方は灼熱の砂漠、もう片方は氷壁でぷっつりと途切れ、ここで上層風が下層冷風へ湿気を与える。
 こうして2人はいま、操作盤の上方にある小さなガラス丸屋根にはいり、梯子はしごの上段に寄り添って立っていた。丸屋根は2人の頭がちょうどはいるぐらいだ。ハムはパットの腰に手をまわして、外の景色を眺めた。
 たぶん西のはるか遠方は永遠のやみ、つまり太陽が落ち、氷壁に光が反射するのみだ。この光を背景に、巨大な柱のように大永劫えいごう山がそびえ、山頂は40※(全角KM、1-13-50)上空の雲に隠れている。少し南に小永劫えいごう山があって米国金星領の境界になっており、これら2つの山の間では暴風前線の稲光いなびかりが絶えない。
 でも周囲は陽光の屈折によって、かすかに見えて、薄暗く荒涼としている。氷の丘や尖塔、平原、巨石、崖などすべてが壁からの反射で薄緑うすみどりに光っている。静寂、凍結、不毛の世界だが、外の下層風のうなり音は別、氷壁が寒帯を遮蔽しゃへいしているのに聞こえてくる。
「すごい」
 とパットがつぶやいた。
「そうだな、冷たくて、生命もなく、こわいな。パット、ここに生命があると思うかい」
「それを判定するのよ。タイタンやアイアピタスのような世界に生命が存在できればここにもあるはず。外は何度?」
 パットが丸天井の外にある温度計を見た。水銀柱と数字が発光している。
「たったの-34℃ね。この温度なら地上でも生命は存在する」
「そうだ、存在する。でも凍結温度以下では発達できない。生命は液体中で生存可能だ」
「ふふふ、ハム、あんたは生物学者に説教している。違うよ、生命は-34℃以下では進化できない、が正しい。仮に薄暮地帯で発生してここに侵入してきたとしたら? あるいは凶暴な闘争に負けて暖かい地域からここへ逃げてきたとしたら? 熱帯の様子は知ってのとおり、カビやドウポッド、ジャックケッチ樹木や無数の小さな寄生物などが共食いしあっている」
 ハムは考え込んだ。
「どんな種類の生命だ?」
「ふふふ、予想してほしい? いいよ。まず何らかの植物が基本ね。だって動物の共食いは続かない、ほかに食料がないと無理。猫牧場のようなものね、猫のエサにネズミを飼育し、あとで猫の皮をはぎ、猫肉をネズミに与え、次にこのネズミを猫に与える。いいように聞こえるが、うまくいかない」
「では植物が必須か。なら、なんだ?」
「それって、神のみぞ知るよ。おそらく暗黒側の生命は、もしいるとしたら、原型は薄暮地帯の弱小種族ね。でも、何になってようが、まあ想像できない。もちろん、トライオップス・ノックタバイバンズはいる。私が永劫山えいごうさんで発見した……」
 ハムがニヤリと笑った。
「きみが発見したって? きみは氷のように失神していたよ、僕が悪魔の巣から運びだした時だ。見てないはずだ」
 パットは冷静に応じた。
「猟師がビノーブルに持ち込んだ死体を私が調査した。忘れないでほしいのは学会の推奨学名が私にちなんだトライオップス・パトリシアということよ」
 思わず知らずパットが身震いし、あの悪魔のような生物が2人を殺そうとした記憶がよみがえった。
「でもほかの名前、トライオップス・ノックタバイバンズを選んだ。暗闇の3つ目住人よ」
「悪魔の野獣にしてはロマンチックな名前だな」
「そうね、でも私が言おうとしたことは、たぶん、トライオップスあるいはトライオプシーズ、あれっ、トライオップスの複数形はなに?」
「トライオッツ、ラテン語だ」
「そうね、おそらくあのトライオッツがこの夜側で見つかる生物でしょう。そして永劫山えいごうさんやみ峡谷で我々を襲ったあの恐ろしい生物は、山中の暗闇の道を通って、薄暮地帯にい出してきた前哨隊ぜんしょうたいだったのでしょう。光に耐えられない。あなた見たでしょう」
「だから何だ?」
 パットはアメリカ気質かたぎを笑った。
「だからこういうことよ。姿や構造は、手足が6つ、眼が3つだったりするから、明らかにトライオッツは熱帯の現地人に関係がある。従って私の結論では暗黒側へ最近来て、ここでは進化してない。地質学的に言えばついこの前ここに進出した。いや、地質学的というのは地球を意味するから正確な単語ではない。ヴェヌソロジカリ(金星学的)というべきね」
「そうじゃない。きみはギリシャ語をラテン語にしている。それを言うならアフロディシオロジカリだ」
 パットがまたクスクス笑って、
「論争を避けるため正しく言うならパロントロジカリ、こっちの方がましな英語ね。それはさておき、トライオッツは地球年で2万〜5万年以上、あるいはこれより短いかもしれないが、暗黒側に存在してないと思う。というのも金星上の進化速度を知ってる? たぶん地球より早いでしょう。おそらくトライオップスは5千年で暗闇生活に適用できている」
「1学期で夜の生活に適応した大学生を知ってるぞ」
 とハムがニヤリ。
 パットは無視して続けた。
「だから、トライオップスが来る前に生命があったに違いないと思う。というのもここに来たとき何か食物を見つけたに違いないからよ。さもないと生き残っていないでしょう。それに私の調査によれば、ある程度の肉食性だから、ここに生命はもちろん、動物もいるはずよ。純粋に理論から導いた結論だけど」
「じゃあ、分からないんだな、どんな動物かは。知性体か」
「わからない。そうかもしれない。でもあんたらヤンキーがあがめる知性といえども生物学的には重要でない。生き残りにはたいして役に立たない」
「何だって? パット、どうしてそんなことが言える。知性のほかに、何が地球や金星の支配権を人類に与えた。そこんとこは?」
「でも、人間は地球を支配したの? ハム、いい、知性とはこんなものよ。ゴリラの脳は亀よりはるかに素晴らしいよね。でもどっちが繁栄している? ゴリラは希少で、アフリカの狭い地域に閉じ込められている。方や亀はありふれて北極から南極までどこにもいる。そして人間について言えば、そうね、顕微鏡的な目で見れば、つまり地球上のあらゆる生物を見ることができれば、結局人間は、ほんのまれな種族に過ぎず、本当は虫の世界、つまり虫世界ということよ。というのも数の上では、そのほかの生物を合計したって、かなわない」
「でもパット、それは支配じゃないよ」
「支配したとは言ってない。ただ単に、知性には生存価値が大してないと言ってるだけよ。なぜ知性のない本能だけの虫けらどもが人間に戦いをいどむの? 人間はアワノメイガや、ゾウムシや、ミバエや、マメコガネや、マイマイ蛾などすべての害虫よりも優れた頭脳を持っているが、害虫の方が人間の知性に勝っており、たった一つの武器というのがとてつもない繁殖力よ。わかる? 1匹の子が生まれるたび1匹が死んで平衡するが、たった一つの給餌きゅうじ方法しかない。つまり子供の重さの食物を食いつくすのよ」
「全部もっともなようだなあ、でも金星の暗黒側知性とどんな関係があるんだ?」
 わからない、とパットが返事したが、声が妙に神経質だった。
「ハム、ただこんな意味よ。トカゲは魚よりずっと賢いが、ちっとも優位に立てない。じゃあ、なぜトカゲの子孫たちは知性を進化し続けたのか。なぜ? 必ずしも生命すべてが時を経れば賢くなるわけじゃないのに。これが真実なら、ここにも知性体がいるかもしれない。奇妙な異星人、理解不可能な知性体よ」
 パットは暗闇でハムに向かって身震いして、気にしなさんなと言って、突然声色を変えた。
「たぶん空想よ。外はとても不気味でこの世とも思われない。疲れた。ハム、長い1日だった」
 ハムはパットに続いてロケット内部へ降りて行った。部屋の明かりをパチンとつけると舷窓げんそうの異界が見えなくなり、唯一見えるのが寒帯薄着をまとった愛らしいパットだった。
「それじゃ、あした。食料は3週間分ある」

 明日というのは勿論、時間だけの話で日光のことではない。2人が起きたのは相変わらずの暗闇、金星半球は永久に日が当たらず、水平線に広がる氷壁は常に変わらぬ日没の緑色だ。だがパットはいつもより機嫌がいい。いそいそと初探検の準備をしている。
 パットはゴム張り3※(全角CM、1-13-49)厚の綿製アノラックを引っ張り出してきた。一方のハムは技術屋という立場から慎重にヘルメットを調べた。てっぺんに強力なランプがついている。
 ランプは勿論、第一義的には照明用だが別な目的もある。分かってることだが、獰猛どうもうな3つ目怪人は光を見ることができないので、ヘルメットの光を4つ全部使えば防護光線に守られて、動ける。
 でもこれだけじゃ防御できないから装備として、青光り拳銃が2丁、破壊級の火炎銃が2丁ある。そしてパットはベルトに小袋を装着し、その中に暗黒側で出会う無害で小さい動植物の標本を入れる予定だ。
 2人はマスク越しにお互いに微苦笑。ハムは、太ったようだなと意地悪を言って、パットが嫌がるのを楽しんでいる。
 パットが背を向け、扉を開け、外へ踏み出した。
 舷窓げんそうから見るのと違った。舷窓からは現実味がなく、全てが無音の静止画であったが、いまや周りに現実があり、冷たい息遣いきづかいと、陰気な下層風の音によって、現実であることが確実に分った。
 しばらく2人はロケット舷窓から伸びる光の輪に立ちすくみ、畏怖の念に打たれ、じっと眺める水平線には、信じられないような大永劫えいごう山のいただきが、いつわりの日没の中に黒々とそびえている。
 近づくにつれ、光が届く範囲は太陽も月も星もなく、不気味な荒れ地の平原であり、そこには山頂、尖塔、突端、氷稜ひょうりょう、岩石が、えもいわれぬ幻想的な姿で屹立きつりつし、表面は荒々しい下層風の力によって刻まれている。
 ハムが肉付きの良い腕をパットにまわすと、驚いたことにパットは震えていた。寒いのかとき、腕の温度計目盛りをちらと見て、
「たったの-38℃じゃないか」
「寒くない。景色のせいよ。この場所が暖かいのはなぜかしら。太陽光がないのに、そう思うでしょう」
 とパットが言って離れた。
 ハムが口をはさんだ。
「きみは間違っている。技術者ならガスが拡散することぐらい知っている。上層風がちょうど頭上の8〜9※(全角KM、1-13-50)を吹いており、当然薄暮地帯の砂漠熱風を大量に運んでくる。暖かい空気も少しは冷たいところへ拡散するし、その結果冷えれば沈む。そのうえ、等高線が大いに関係している」
 ハムが一息入れて、思慮深く言葉を継いだ。
「そうだなあ、永劫山えいごうさん近くでこんな場所を見つけても驚かないさ。下降気流があって、上層風が斜面にそって吹き下ろせば、こんな場所でもまあ我慢できる気候になるよ」
 ハムはパットのあとをついて回り、パットはロケットから漏れる光輪の端あたりを探索した。
 パットが叫んだ。
「まあ、ハム、あった。暗黒側の植物標本が」
 パットは灰色の丸っこい塊にかがみこんだ。
「地衣類か真菌類ね。もちろん葉っぱがない。葉っぱは太陽があってこそ役に立つ。同じ理由で葉緑素もない。とても原始的で単純な植物だが、ある意味では全然単純じゃない。見て、ハム、高度に発達した血管がある」
 ハムが上体を曲げてぐっと近づくと、舷窓の淡い黄色光に照らされて、パットの示す先に細かい網目状の血管が見えた。
 即座にパットが厚ぼったい塊に温度計を突き刺して、しばらくそのまま持って、まじまじ見た。
「一種の心臓かしら。ほれ、見て、ハム、温度計の針が動いている、あったかいのよ、温血植物だ。考えてみれば当然ね。永久凍結温度域で生存できる植物だもの。生命は液体で生きるはずよ」
 パットが植物を引き抜くと、ブスッと音がして、ちぎれた根っこから黒い液体がしたたり落ちた。
 ああっ、とハムが絶叫して、
「むかつく植物だなあ。血を流す曼陀羅華まんだらけか? 唯一、引き抜くと叫び声を出すといわれているが」
 ハムは黙った。脈打ちながら叫び、すすり泣くような低い声が、ぶるぶる震えるくきずいから出ており、ハムはパットに驚きの目を向けて、またうめいた。
「うわあ、むかつくぜ」
「むかつくですって? どうして、美しい植物よ。完全に環境に適応している」
「うーん、技術屋でよかったよ。行こうぜ、まわりを探そう」
 とハムがうめきながらパットを見ていると、パットがロケットの扉を開けて、真四角なゴムの上に、植物を置いた。
 パットは扉を閉め、ハムのあとを追い、ロケットを離れた。たちまち暗闇が黒い霧のように2人を包み、明かりのついた舷窓をちらと振り返るだけで、自分たちが現実の世界にいることを確信した。
「ヘルメットのランプをつけようか、パット。その方がいいと思うよ。さもないと転ぶ」
 2人がいくらも行かないうちに、下層風のうなり音に混じって聞こえたのは、この世と思われないような荒々しく恐ろしげな甲高い笑い声、地獄でホーホーと遠吠えして含み笑いするような陰気な雑音だった。
「トライオップスだ」
 とつぶやくパットは複数形も文法も上の空。
 パットは怖がっている。平常はハムと同じぐらい勇敢か、むしろ向こう見ずで無鉄砲なところがあるが、あんな不気味な金切り声を聞けば、永劫山の峡谷で遭遇した苦悶を一瞬思い出す。パットはひどく怖がり、取り乱し、慌てて、ライトのスイッチと拳銃をまさぐった。
 2人のまわりで石が6個ばかり銃弾のようにヒュンとうなった。そして1個がハムの腕に激しく当たったので、ライトをつけた。4個のビームが長く伸び、尾根を照らすと、野獣の笑い声は極限の苦痛をあげた。ちらり見えた影法師のような姿が尾根や尖塔から飛び出し、亡霊のようにひらひら舞いながら暗闇に消え、静かになった。
「おお、怖い、ハム」
 とパットがつぶやき、ハムに身をよせ、今度はきっぱり、
「でもこれが証拠ね。トライオップス・ノックタバイバンズは現実に夜側の生物よ。山中の奴らは前線部隊か、はぐれもので、暗闇の亀裂をさ迷っている」
 はるか向こうでホーホーと笑う声がする。ハムが考え込んだ。
「奴らの雑音のような声は一種の言語かもしれんな」
「きっとそう。つまり熱帯原住民は知的だから、これらの生き物も関連種族よ。しかも石を投げたり、麻酔胞子の利用方法を知っている。峡谷で使った。ところであれは夜側植物のに違いない。3つ目怪人は間違いなく知的で、兇暴で、残忍で、未開な部族ね。でも近づけないから、人類は今まで頭脳や言語を研究したことはないと思う」
 ハムがそうだと同意するもっともな理由は、石が1個突然ビュンと飛んできて、氷の塔が欠け、きらきら光る破片が5〜6歩の所に落ちたときだ。ハムが頭を回してヘルメットランプの光を平原に投射すると、暗闇から一声ひとこえ高笑いが聞こえた。
「ありがたい、光のおかげではいってこれない」
 とハムがつぶやいた。
「陛下のおぼしじゃないかな。神よ、陛下を救い給え、慈悲じひ多きならんことを」(原文注)

(原文注):2人は英国領のビノーブル地域にいる。2020年ライルで開催された国際会議で暗黒側の権利を配分した。それによれば各国は自国金星領域の薄暮地帯から、仲秋ちゅうしゅう時の太陽位置に真逆する地点まで、領域を与えられた。

 でもパットは再び標本採取に専念した。いま自分のランプをつけている。異様な平原、奇妙な造形物の間を機敏に動いている。ハムがあとをついて眺めていると、パットは血を流しすすり泣く植物を引き抜いている。
 1ダースばかり変種を集めた。そのなかの1種、小さなくねくねする煙草たばこの形をした生き物を困惑げにじっと眺め、植物か動物か、どっちでもないか、ほとほと決めかねている。そしてついに採取袋がいっぱいになり、戻る平原の先にロケットの舷窓がぼんやり光る様は、眼が1列になって見つめているようだった。
 しかし衝撃が待っていたのは扉を開けて中に入った時だ。2人とも思わず後ずさり、生暖かくてむっとする不快で息もできない空気がワッと噴き出し、顔面に腐った臭いが降りかかった。
 何だ、とハムがうめいて、くすくす笑った。
「きみの曼陀羅華まんだらけだよ、見てごらん」
 パットが中に入れておいた植物がかたまって腐っていた。船内が暖かいために急激に分解して、ゴムマットの上で単なる半液体のかたまりになっている。パットが入口へ引っ張りだし、マットごと放り投げた。
 まだ臭っている船内に入り、ハムが換気扇を回した。もちろん換気は冷たいものの、純粋な下層風のため雑菌や塵がなく、8千※(全角KM、1-13-50)も凍結海や山々を吹き渡ってきたものだ。ハムが扉を閉め、ヒーターを入れ、バイザーをおろし、パットを見てニヤリ。
「そうか、あれがきみの美しい植物か」
「だった。美しい植物だったのよ、ハム。批難しないで。遭遇したことない温度にさらした為だ。すぐ取りかからなくちゃ、変質するから」
 とパットはため息をついて、標本袋をテーブルに投げた。
 ハムはブスっとして、食事の用意、その見事な手際は本当の熱帯人だ。パットはと見ると、標本にかがみ込んで、2塩化溶液を注入している。
「パット、トライオップスが暗黒側の最上級生物だと思うか」
「間違いない。もし、いたとしても、とっくの昔にこの悪魔に絶滅させられている」
 でも、パットは完全に間違った。

 4日でロケット近辺の荒れ地を大方調べつくした。パットは多様な標本を集めた。ハムの常時観測項目は温度、磁力変化、下層風の方向と速度。
 そこで基地を移動し、ロケットを吹かし、南方へ向かうその先には、おそらく巨大にして不思議に満ちた永劫山が、氷壁の向こう、暗黒世界の夜側にそびえている。噴射圧力を絞って、わずか時速80※(全角KM、1-13-50)でゆっくり飛ぶ理由は、夜間飛行であり、前照灯をたよりに、大きく迫る山頂を警戒するためだ。
 2回着地して、そのたびに1日か2日の調査で充分、最初の基地と同じだと分かった。血管を持つ同じような丸っこい植物、同じような永久下層風、同じように血に飢えた3つ目怪人が高笑いしている。
 だが3番目の所は違った。着いたのは大永劫山の裾野にある寒々とした荒野平原。西方のはるか遠方、水平線の半分がまだにせ日没の緑色に染まっているが、真西の南側全体は真っ暗、巨大な壁に隠れ、山脈が頭上40※(全角KM、1-13-50)も真っ黒な天空にそびえている。もちろん山々は永久暗夜にあるから見えないが、ロケットの中にいる2人には、これら途方もない山頂がぐっと身近に感じられた。
 そしてもう一つ、永劫山による大きな影響がある。暖かい。一般的な薄暮地帯ほど暖かくはないが、下の平原よりずっと暖かい。ロケットの片側は-18℃、もう片方は-15℃。巨大な山頂が上層風のところまで突き出ており、上層風をかき混ぜて、暖かい空気を下へ導き、冷たい下層風を和らげている。
 ハムは前照灯に映る台地をうっとおしく眺めてぶつくさ。
「好かんな。この山は絶対に好かん。きみがこの山を横断して寒帯へ戻ろうとしてバカを見たせいじゃないけど」
 パットがオウム返し。
「バカですって。誰が山の名付け親? 誰が横断した? 誰が発見した? 私の父でしょ」
 ハムが言い返した。
「それで、後継者だと思ったの? ただ口笛を吹くだけで、奴らが横になって死んだふりをして、狂人道きょうじんどうが公園の散歩道に変わるか。それじゃ今頃、きみは峡谷で白骨になっているよ。もし僕がきみを運び出さなかったなら」
 パットが吐き捨てた。
「あーあ、臆病なヤンキーね。わたし外を見に行く」
 パットは防寒着を着て、扉へ足をかけ、そこで止まり、ためらいがちにいた。
「あなた、行かないの?」
 ハムがニヤリ。
「行くとも、誘うのを待ってたんだ」
 ハムは自分の外出着を羽織ってついて行った。

 ここは違っていた。見たところ台地は同じような荒涼地帯で、氷や石があり、下の平原にもあった。風化した尖塔は究極の幻想的な姿であり、荒々しい風景がヘルメットランプの明りに輝き、奇怪な地形は最初に遭遇したものと一緒だ。
 しかしながらここはちっとも寒くない。変なことに、この奇妙な惑星は高度があがるにつれて、冷えるのでなく、地球のように暖かい。なぜなら上層風の領域に近づき、ここ永劫山では下層風が強大な山頂で阻止され、めったに吹かないからだ。
 そして、植物が豊富だ。いたるところに血管を持つ丸いかたまりがあり、そのためハムは気をつけねば、不愉快なことになる。踏んづけたが最後、痛いというすすり泣き声を聞く羽目になる。
 パットは気にも留めず、泣き声は単なる屈性だと言い、標本を引っこ抜いたり解剖しても痛みは食されるリンゴと同じで感じない、そしてなにより生物学者の仕事は生物学者に徹することだという。
 山頂のどこか遠くで、3つ目怪人のあざ笑い声が甲高く響き、光線の先端で動く影に、ハムは真っ黒い悪魔の姿を何回も見たような気がした。でも、いるとしても明かりが2人を安全な距離に保っている。だって石が1個も飛んでこないもの。
 だが、このように移動光源の真ん中を歩くのは奇妙な感じだった。絶えず感じたのは、もしかしたら視界のちょっと先に、天のみが知る奇妙で信じられないような生物が潜んでいるかもしれない。もっとも、理屈的にはこのような怪物であれば未確認のままであるはずがない。
 光源ビームが先方の氷壁を照らし、土手か崖が行く手の左右に伸びている。
 パットが突然指をさし、明かりを向けて、叫んだ。
「あそこを見て。こおり洞窟、というか隠れ家よ、分かる?」
 ハムが見たのは、たぶんマンホールふたほどの黒々とした開口であり、ずらり氷壁の下に並んでいる。何か黒いものが笑いながらガラス質の坂をさっと通り過ぎた。3つ目怪人だ。怪獣の巣穴か。ハムがしげしげのぞいて、パットにささやいた。
「何かいるぞ。見ろ、半数の開口に何か立っている。いや、単なる岩が入口をふさいでいるのか」
 用心して拳銃を構え、2人は進んだ。ブツは動かなかったが、ビームが強く当たるほどにますます岩のようでなく、ついに血管模様と多肉質な丸っこい生命体だと分かった。
 少なくともこの生物は新種だ。いまハムが分かったのは眼のような1列の斑点、その下に足が何本もある。大きさと輪郭は35※(全角リットル、1-13-40)かごを逆さにしたような形、血管が走り、肉が分厚く、これと言った特徴がない。ただし、眼の斑点は真ん丸だ。そして、はからずも見えたのは半透明の閉じたまぶた、どうやら我々の光源から眼を保護しているようだ。
 2人はこの生き物からわずか4※(全角メートル、1-13-35)のところにいた。パットは一瞬躊躇したあと、この動かない不思議生物へ進み出た。
「まあ、ハム、ここに新種がいる。こんにちは、新種さん」
 その直後、2人は凍りついた。びっくり仰天、完全に打ちのめされ、うろたえ、驚愕きょうがく、混乱した。てっぺんの薄膜から高音の声がカシャカシャ出てきたように思えた。
 その生物が言ったのは、
「こんにちは、しんしゅさん」
 ぞっとするような沈黙があった。ハムは拳銃を構えたが、もし使う必要があったとしても使えなかっただろうし、覚えてもいまい。立ちすくみ、口がきけなかった。
 だが、パットがかろうじて言った。
「ありえない。向性こうせいだ。単に反響しただけだ。でしょ、ハム、でしょ?」
 ハムがまぶた付きの眼をしげしげ眺め、前のめりになって叫んだ
「と、と、とうぜんだ。違いない。いいか。やい、答えろ」
 と直接生き物に向かって吠えた。
 すると生き物が、
「こうせいではありません」
 と甲高い完璧な英語で返した。
「反響じゃない」
 とパットが息も絶え絶えに言い、後ろへ下がり、怖い、と泣き言をたれ、ハムの腕を引っ張り、
「行きましょ、すぐに」
 ハムはパットを後ろへ下げて、
「俺は臆病なヤンキーにすぎないが、この生きた高音機械に反対尋問をして、ガチャガチャ言うのが何か、いや誰か、調べてやる」
「よして、よして、ハム。怖い」
「危険そうには見えないぜ」
 氷上の生物がこたえた。
「きけんではありません」
 ハムは息がつまり、パットは怖そうに小さくうめき声をあげた。
 ハムが口ごもりながらいた。
「キミは誰、誰だ」
 返事がない。まぶた付きの眼がハムをじっと見ている。
「キミは何だ?」
 と再びハムがいた。
 またしても返事がない。
「どうして英語を知っている?」
 とハムがズバッといた。
 カシャカシャ音が響いた。
「わたしはえいごをしりませんです」
「それなら、あー、どうして英語を話す?」
「あなたがえいごをはなすからです」
 と不思議生物の説明は充分論理的だ。
「なぜという意味じゃない、どうやってという意味だ?」
 ところでパットはやっとこさ、驚愕きょうがくに打ち勝ち、勘のいい頭脳で手掛かりをつかんだ。緊張して小声で、
「ハム、あれは私たちの単語を使っている。意味を盗んでいる」
「わたしはあなたから意味を盗むであります」
 と生き物がなまって証言。
 ハムに光がさし始めた。うめいて、
「おお、それなら、言葉は我々次第だ」
「あなた話す、わたし話す」
 と生き物が提案。
「いいとも、わかるか、パット、何でも言えるぞ」
 ここで一息入れて、
「さてと……人類の営みにおいて……」
 パットがぴしゃり言った。
「おだまり。ヤンキー、ここは英国領だ。生か、死か、それが問題だ……」
 ハムはにやりと笑い沈黙した。パットが知識を使い果たしてから、授業を引き継いだ。
「むかしむかし、3びきのクマがすんでおりました……」

 こうして授業は進んでいった。突然ハムがあきれるほどばかばかしくなったのは、パットが『赤ずきんちゃん』の童話を、金星闇夜半球に住む諧謔かいぎゃくを解しない怪物に丁寧ていねいに説明していることだ。パットが困り果てたようにハムをちらと見るや、ハムは大爆笑。
「ハハハ、やつに『旅する男』や『ミネソタの娘』を教えてやれ。やつを笑わせられるかな」
 ハムがクックッとむせんだ。
 釣られてパットも大笑いして、
「ははは、それって大変なことよ。想像してハム、暗黒側に知性体がいる」
 パットが不意に氷上の生物にいた。
「あなたは知性体ですか?」
「わたしは知性体です。わたしは知的に知性体です」
「少なくともあなたは、すばらしい言語学者ね」
 ここでパットが振り向き、
「ハム、英語を30分で習得したって、聞いたことある? 考えてみて」
 どうやら生き物への恐怖は消えたようだ。
「そうだな、奴を利用してみよう」
「キミ、キミの名前は?」
 返事がない。
 パットが割り込んだ。
「当然よ。自分の名前は言えない、英語で教えるまでは言えないのよ、だって――。あ、そうだ、それならオスカーと呼ぼう。都合がいい」
「上等だ。オスカー、とにかくキミは何者だ?」
「ヒトです。わたしは人間です」
「ええっ? おまえがそんなはずがあるわけない」
「これはあなたがわたしに与えた単語です。わたしもあなたも人間です」
「ちょっと待て。“私も人間”だと、わかったぞパット、奴の言ってる意味は、自分自身のことを考える者に対する唯一の単語が人間とかヒトというようなことだ。それじゃ、キミの民族は何だ?」
「民族です」
「種族のことだ。どの種族に属しているのか?」
「ヒトです」
 ハムがうめいて、
「もったいぶりやがって。パット、君がやれ」
「オスカー、あなたはヒトだと言った。あなたは哺乳類?」
「わたしもあなたも人間は哺乳類です」
「まあ、そんな。オスカー、あなたの種族はどうやって繁殖するの?」
「わたしには単語がありません」
「あなたは生まれたの?」
 生物の奇妙な顔というか、顔なし胴体がわずかに変化した。半透明のまぶたの上に、さらに厚いまぶたが降りてきて、複眼を遮蔽しゃへいした。あたかも熟考するかのようだ。
「われわれは生まれません」
「それじゃ、種子? 胞子? 単為生殖? それとも分裂?」
「胞子と、分裂です」
 と不思議生物が甲高い声を上げた。
「でもねえ……」
 パットは途方にくれて中断した。一瞬の静寂があり、やって来たのが1匹の3つ目怪人、ホウホウとあざ笑うような叫び声が左遠方にあがり、2人は無意識に振り返り、見つめ合い、びっくりしてたじろいだ。
 ヘルメット光線の末端で、嘲笑怪人がつかまえて持ち去ったのは、間違いなく洞穴の生物だ。さらに恐ろしいことに、あとのものは全く無関心な様子で、穴の前にたたずんでいる。
 パットが叫んだ。
「オスカー、やつらが1人さらったよ」
 パットが突然話を中断したのは、ハムが拳銃で撃ちはずしたからだ。
 パットがうめいて、
「ああっ、悪魔が、悪魔がさらった」
 眼の前の生物からは何の返事もない。
「オスカー、心配しないの? 悪魔が仲間を殺したのよ。分からないの?」
「わかります」
 この生物を見て、パットの心にちょっと、人間でいう憐憫れんびんの情を生じた。話すことができるし、野獣をはるかに超えている。
「でも、何もしないじゃない? なにも心配しないの?」
「心配しません」
「悪魔は何なの? 仲間が殺されて、悪魔は何をするの?」
「われわれを食べます」
 とオスカーがしれっと言った。
 パットは恐怖のあまり息がつまった。
「まあ。でも、でも、なぜ」
 パットが中断した。生き物はゆっくりと後ろへ下がり、整然と穴にはいった。
「待って。悪魔はここへは来れない。光があるから」
 カシャカシャ音が流れた。
「さむい。さむいので行く」
 静かになった。
 ぐっと寒くなってきた。いまや強力な下層風が絶え間なくうなりを上げ、パットが尾根の方をちらと見ると、穴生物のすべてがオスカーのように自分の穴にはいるところだった。パットは困った表情でハムを見た。
「わたし、夢を見ているのかな?」
「2人とも夢を見たのさ、パット」
 とハムがパットの腕を取って、ロケットの方へ戻った。ロケットの丸い舷窓げんそうがこうこうと輝き、暗闇の中で招いていた。

 さて、暖かい部屋にはいると、パットは不格好な外套を脱ぎ、優美な素足を出し、たばこに火をつけ、この謎をじっくり考え始めた。
「ハム、理解に苦しむことがいくつかある。なにかオスカーの頭脳が変だと感じない?」
「おっそろしく学習が早いな」
「そう、とても知的。人間並み、いや、人間以上だ。でも人間の頭脳じゃない。どこか違って、異星人みたいに変だ。気持を言い表せないが、オスカーが何も質問しないことに気がつかない? 1回もよ」
「なぜ、質問しないのか。変だな」
「とっても変ね。ヒトであれば、考える他の生命形態に出会ったなら、たくさん質問をするものよ。現に我々は質問した」
 ここでパットは感慨を煙幕で吹きとばしながら、
「それだけじゃない。3つ目怪人が仲間を攻撃したときの無関心といったら、ヒトじゃない、いや地球的ですらない。見たことあるけど、クモが大群のハエから1匹とらえても残りのハエは騒がないが、しかし知性生物に起こるかなあ? あり得ないでしょう。低脳なシカの大群や、すずめの群れですらあり得ない。1匹殺せば、みな怖がる」
「そうだな、パット。全く変な奴らだ。オスカー族の奴らは、おかしな動物だ」
「動物ですって? 知らないことを言わないで、ハム」
「知らないって、何だ?」
「オスカー族は動物じゃない。植物よ。温血の移動植物よ。話の最中、周りの地面に足を入れていた。根っこよ。足のように見えたものは、さやよ。莢では歩かず、根っこを引きずっていた。さらに……」
「さらに何?」
「さらにハム、あの莢は3つ目怪人が永劫山えいごうさんの峡谷で我々に投げつけたものと同じよ。息をできなくして窒息させたものよ」
「きみを気絶させたものだというのか」
 パットが赤面して返答。
「とにかく充分勉強させてもらった。でもハム、これは謎の一部だね。オスカーの頭脳は植物よ」
 パットが中断して煙草をふかしたとき、ハムもキセルに煙草をつめた。
 パットが不意に尋ねた。
「オスカー族がいることで、人間が金星を征服するのに脅威になると思う? 彼等は夜側の住人だと思うが、もしここで鉱山が発見されたらどう? 商業的に開発可能とわかったらどう? 人間は太陽光を永久に断って生活できないと思うが、ここにも一時的に居留地が必要になるかもしれない。その時どうなる?」
「そうだな、その時どうなる?」
「そうねえ、その時どうなるの? 同一惑星に知性種族が2つも存在する余裕がある? 早晩、利害が衝突しない?」
「それがどうした。パット、奴らは原始的だ。洞穴に住み、文化も武器もない。人間には危険じゃない」
「でも知性は驚異的よ。どうしてわかる? 見たでしょう、単なる野蛮人じゃないし、膨大な闇世界のどこかに植物文明があるなんて知らないでしょう。文明は人類の特権じゃないと知ってるでしょう。だって火星の巨大衰退文明やタイタンの残骸を見てごらん。人間はたまたま奇妙な文明という看板を持ったに過ぎない。少なくとも今までは」
「まったく本当だよ、パット。でもオスカー族がちっとも好戦的でなく、あの凶悪な3つ目に対抗しないなら、たいして脅威にならん」
 パットが身震いして、
「ちっともわからない。もしかしたら……」
 と眉をひそめて中断した。
「もしかしたらって?」
「わからない。ある考え、恐ろしい考えだが……。ハム、あしたオスカーの知能を正確に調べてみる。どれくらい知性的か。できるかなあ」

 しかしながら、一つ難しいことがあった。ハムとパットが奇妙な地形をとことこ歩いて氷壁に近づいた時、全く当惑したのは、穴列のどの穴が以前オスカーと話した穴か分からない。ヘルメットランプに照らされて、どの開口も皆同じように見え、開口部の生物はまぶた付き目でじっと見つめ、表情が読めない。
 パットが困って、
「さあて、ちょっとやってみなくちゃ。そこのあなた、あなたはオスカー?」
 カシャカシャ音が響いた。
「はい」
 ハムが反論、
「信じられん。オスカーはずっと右寄りだった。おい、お前オスカーか」
 別な声がカシャカシャ、
「はい」
「2人、オスカーには、なれん」
 パットの選んだ生物が答えた。
「ぜんいん、オスカーです」
 パットが割り込み、ハムの抗議に先手を打った。
「ああ、気にしなさんな。どうやら1人が知れば全員知ってるようだから、どれを選んでも違わないようね。オスカー、きのう、あなたは知性体と言ったよね。私より賢い?」
「はい、ずっと賢いです」
 ハムが笑って、
「はっはっは。パット、くらえ」
 パットがフンと鼻であしらって、
「そうね、ヤンキーより遥かに偉いよ。オスカー、うそついたことある」
 半透明のまぶたの上に、さらに不透明のまぶたが降り、甲高い声でオウム返し、
「うそ、いいえ、必要ありません」
「それじゃ、聞くけど……」
 突然、鈍いポンという音がして中断。
「あれ何? まあ、見て、ハム。さやが1個はじけた」
 パットが後ずさり。
 鋭いつーんとくる臭いに襲われ、峡谷の危ない体験を思い出したが、今回はそれほど強烈でなく、ハムを窒息させたり、パットを意識不明にしたりはしなかった。つーんと刺激的だが、全く不快じゃない。
「オスカー、あれは何?」
「あれは、その……」
 声が途切れた。
「繁殖?」
 とパットがさぐった。
「はい、繁殖です。風がお互いの胞子を運びます。風のあるところで育ちます」
「でも、きのうは分裂だと言った」
「はい、胞子が我々の体にくっついて……」
 再び声が止まった。
「受精?」
 とパットが先走り。
「違います」
「それじゃ、分った、刺激ね」
「はい」
「それが引き金になって発がん的に成長するの?」
「はい、成長し切ると分裂します」
「ええっ、それは腫瘍しゅようだ」
 とハムが鼻白はなじろんだ。
 パットがぴしゃり、
「お黙り。赤ん坊はすべて正常腫瘍よ」
「正常だと。うーん、生物学者や女でなくてよかったよ」
 パットが澄まして返事。
「私もよ。オスカー、知識はどれくらいあるの?」
「あらゆるものです」
「私たちがどこから来たか知っている?」
「光の向こうからです」
「そうよ、でもその先は?」
「知りません」
 パットが感慨深げに言った。
「私たちは別の惑星から来ました」
 オスカーが黙っているので続けた。
「何という惑星か知っている?」
「はい」
「でも、私が言う前に知っていたの?」
「はい、ずっと前に」
「でもどうして? 機械は? 武器は? 作り方は?」
「知っています」
「それなら、なぜ反撃しないの?」
「必要ありません」
 パットがあきれて、
「必要ないですって? ひかり、いや火だけでもあれば、3つ目を防げる、つまり追っ払えるのに。食べられなくて済むのに」
「必要ありません」
 パットは仕方なくハムに向き直った。
「やつらはうそをついている」
 とハムが入れ知恵。
 パットがつぶやいて、
「私はそうは思わない。ほかに何かある、我々が理解できない何かが。オスカー、どうやったら全てが分かるの?」
「知性です」
 隣の穴で別なさやがブスっとはじけた。
「しかし、方法は? 事実の発見方法を教えて」
 氷上の生物がカシャカシャ言った。
「どんな事実からでも知性が造り上げる映像とは……」
 ここで沈黙した。
「宇宙?」
 とパットが誘い水。
「そうです。宇宙です。一つの事実から始め、理由づけします。宇宙の映像を一つ造ります。別な事実をつかみ、理由づけします。描いた宇宙は当初と同じだということがわかります。映像は本物です」
 2人は畏怖いふして生物をじっと眺めた。ハムがごくんとつばをのんで、言った。
「おいっ、それが本当なら、オスカー、何でも分かるな。オスカー、俺たちが知らない秘密を教えろ」
「できません」
「どうして?」
「最初に単語をもらわねばなりません。単語のないものは言えません」
 パットがつぶやいて、
「本当よ。じゃあオスカー、ここに単語があります。時間、空間、エネルギ、物質、法律、原因。教えてちょうだい、宇宙の究極法則を」
「法則は……」
 沈黙だ。
「保存法則? エネルギや物質や重力の」
「違います」
「神?」
「違います」
「生命?」
「違います。生命は重要ではありません」
「何の法則? 私にはほかに言葉が浮かばない」
「偶然、言葉がないってこともあるさ」
 とハムが強調。
 オスカーがカシャ、
「そうです。偶然の法則です。ほかの言葉は偶然の法則の異なる側面です」
 パットが口走った。
「なんてことを。オスカー、知ってるの、私が言った星とか、太陽、星座、惑星、星雲、原子、陽子、電子とかを?」
「はい」
「でも、どうやって? 今まで星を見たことがあるの? 永久に雲の上よ。氷壁の先にある太陽は?」
「見たことはありません。充分理由があります。宇宙が存在できる方法はたった一つだからです。存在可能のみが真実で、真実でないものは存在できません」
「なんか意味があるようね。正確には分からないけど。しかし、オスカー、どうして知識を防御に使わないの?」
「必要ありません。何もする必要はありません。百年のうちに我々は……」
 黙ってしまった。
「安全?」
「そうです……いや違います」
 恐ろしい考えがパットに浮かんだ。
「何ですって? 絶滅ってこと?」
「そうです」
「でも、ああ、オスカー、生きたいと思わないの? みんな生き残りたくないの?」
 オスカーが叫んだ。
「たい、たい、たい、たい。タイに意味は何もありません」
「願望とか、欲求のことよ」
「願望は取るに足りません。欲求、欲求もいなです。生き残る必要はありません」
「まあ、それなら、なぜ繁殖するの?」
 それに答えるかのようにさやがはじけて、つーんとする煙幕が漂った。オスカーがカシャカシャ、
「繁殖する理由は……胞子がくっつくと、そうしなければなりません」
 パットがゆっくりつぶやき、
「なるほど。ハム、わかった。理解した。宇宙船へ戻ろう」
 パットはさよならも言わずきびすをかえし、ハムは考え込みながらついて行った。妙な気だるさに襲われた。

 2人はちょっとした災難にあった。尾根の後ろに隠れていたはぐれ3つ目が石を投げたため、パットのヘルメットの左ランプが粉々に壊れた。パットは少しも動じる様子がなかった。ちらと見て、ずんずん歩いて行った。
 でも帰る道中、左側の暗闇は、いまやハムのヘルメットランプの左側だけが頼りになって、怪獣がホーホー、キーキーとあざ笑いながら2人を追いかけてきた。
 ロケットに戻ると、パットは疲れ果てて標本袋をテーブルへ投げ出し、重い外套を脱がず座り込んだ。ハムも脱がなかった。うだるほど暑かったが、大儀そうに寝台に身を投げた。パットが言った。
「疲れた。でも、それほど疲れてないから、あのミステリの謎はわかる」
「じゃあ聞こう」
「ハム、植物と動物との大きな違いは何?」
「もちろん、植物は栄養を直接、土と空気から摂取する。動物は植物か動物が必要だ」
「完璧じゃないよ、ハム。寄生植物もあり、ほかの生命を奪う。ここの熱帯、もしくは地球上の植物を考えてごらん。真菌類、ウツボカズラ、ハエトリグサがある」
「そうだなあ、動物は動くが、植物は動かない」
「それも正しくない。微生物を見てごらん。植物でありながら、食べ物を求めて泳ぎ回る」
「なら、違いは何だ?」
 パットが口ごもった。
「なかなか言うのがむずかしい。でも分かった気がする。こういうことよ。動物には願望があり、植物には必然がある。分かる?」
「ちっともわからん」
「いい、じゃあ。植物は動くものでさえ、義務があるからそのように行動し、そう作られているのよ。動物は欲求があるから、つまり欲するように作られているから行動する」
「どこが違う?」
「違いがある。動物には意志があるが、植物にはない。分かる? オスカーは神のような膨大な知性があるが、虫けらほどの意志すらない。反応はするが、望みはしない。暖かければ穴から出てきて栄養を取り、寒くなれば穴に引っ込み、穴を体温で溶かす、これは意志ではなく単なる反応よ。願望がない」
 ハムがまじまじ見つめ、もやもやがふっきれた。
「うそでもたまらんなあ。道理で質問しなかったわけだ。願望や意志があってこそ質問できる。だから奴らには文明や意志がない」
 パットが言う。
「ほかにも理由がある。考えてみて、オスカーはセックスしない。ヤンキーの沽券こけんにかかわるが、文明はずっとセックスが大きな要因だった。家族の基本でもある。オスカー族には両親や子供のようなものはいない。分裂し、それぞれが大人だし、おそらく知識や記憶もすべて元のままでしょう。愛する必要もないし、実際に場面もない。だから、友達や家族のため戦う必要もない、今以上に生活を楽にする理由もない、芸術や科学や諸々を発展させるために、知性を利用するという動機もない」
 ここでパットが中断して、
「ハム、マルサス法則を聞いたことある?」
「知ってるわけがない」
「そうお、マルサス法則によれば、人口は何乗的にも増えるが、食糧は何倍にしか増えない。人間はこの法則のもとで発展した。1世紀かそこら、この法則は疑問視されていたが、人類はこの法則のもとでヒトに進化した」
「疑問視だと。何だか重力の法則を廃止したり、逆2乗の法則を改定するように聞こえるが」
「違う違う。19世紀と20世紀は機械が発達したので疑問視されたのよ。食料供給が著しく増えたから。だから人口が増えた。でもこれからまたマルサス法則が働くでしょうよ」
「それとオスカーと何の関係があるんだ?」
「こういうことよ、ハム。この法則によればオスカー族は絶対に進化しない。ほかの要因が働き、オスカー族の人口は食料供給量以下を維持し、従って食料獲得競争をせず進化した。オスカー族は環境に完璧に適合して、これ以上なにも必要ない。文明なんか余計なことだったのでしょう」
「しかし、それなら、3つ目怪獣は?」
「そう、3つ目よ。ね、ハム、前に言ったように、3つ目怪獣は新参者で、薄暮地帯から押し出されたのよ。この悪魔が来たとき、オスカー族は既に進化を終わり、新しい事態に適用できなかったか、すばやく変われなかった。だから不幸な運命を背負った」
 パットが身震いして、続けた。
「オスカーが言うように間もなく絶滅するでしょう。それでも心配すらしない。やること、できることと言ったら、穴の前に座って考えるだけ。おそらく神のような思想でしょうが、ネズミ1匹の意志すら引き出せない。それが植物の知性よ。それが必然よ」
「きみが正しいと思う。ある意味では恐ろしくないか」
 パットは重い上着を着ているにもかかわらず震えた。
「ええ、恐ろしい。膨大かつ高等な頭脳があるのに、使い道がない。あたかも、強力なガソリン車のドライブシャフトが壊れ、いくら吹かそうが車輪を回せないようなもんね。ハム、命名しようと思ってるの。ラタファジャイ・ヴィーナリーズ……“ハス仙人”よ。坐禅に満足し、存在を夢想する。方や、おとった頭脳の我々や、3つ目怪獣はそれぞれの惑星でもだえ苦しむ」
「いい名前だな、パット」
 パットが立ち上がったのでハムが驚いて尋ねた。
「標本は? 標本を採取しないのか?」
「ああ、あしたよ」
 パットは上着を着たまま寝床に身を投げた。
「でも、あれは腐るぜ。それにきみのヘルメットランプも修理しなくちゃ」
「あしたよ」
 とパットが疲れた様子で繰り返した。ハムもつかれていたので、それ以上言わなかった。
 何時間か経って吐き気を催す腐敗臭がしてハムが目を覚ますと、パットは重い上着を着たまま眠りこけていた。ハムは袋と標本を扉から放り投げた。そしてパットの上着を脱がせた。優しく寝床に戻したので、まったく目を覚まさなかった。

 パットが標本袋をゆめゆめ手放すはずはない。ともかく次の日、この永久暗闇を日中と呼べるかどうか、2人は荒涼とした台地をとぼとぼ歩いた。パットのヘルメットランプは未修理だった。
 またしても左側に荒々しく高笑いする夜の住人が2人をつけており、下層風が不気味に吹き下ろすや、石が2個飛んできて、近くの尖塔が欠け、氷がきらきら光った。2人が構わず、黙って歩くさまは、あたかも一種のきものになっているかのようであったが、頭は妙にさえていた。
 出会った最初のハス仙人に、パットが話しかけた。いつもの軽口が少し戻ってきた。
「オスカー、帰ってきたよ。夜はどうやって過ごすの?」
「思考します」
 と生物が答えた。
「何を思考するの?」
「思考するのは……」
 声が止まった。
 さやがポンとはじけて、妙に楽しげな刺激臭が鼻孔に漂った。
「我々のこと?」
「違います」
「世界のこと?」
「違います」
「知って、何に使うの?」
 ここでパットが気だるそうに中断してから言った。
「永遠に考え続けかねないし、たぶん正解に行き当たらないでしょう」
 ハムが加勢した。
「もし正しい質問であっても、合う言葉があるかどうか、我々の頭脳で受け止められるかどうか、どうやって分かる? 我々の理解力を越えた考えもあるだろう」
 2人の左側でさやが1個、ボンとはじけた。煙が影のように動き、光線をさえぎり、下層風に漂い、見れば煙がパットの周囲で渦巻き、パットは思いっきり刺激臭を吸っている。妙なことに、匂いがなんとも気持ちいい。
 同じ煙なので、高濃度であれば、ほぼ人命を奪うはず。そんな思いがよぎり、なんとなく心配になったが、わけがわからない。
 ハムがはっと我に返ると、2人とも無言でハス仙人の前にたたずんでいた。質問するために来たのじゃなかったかな?
 ハムが言った。
「オスカー、命にどんな意味があるか」
「無意味です。意味はありません」
「なら、なんで命のために戦う?」
「われわれは命のために戦いません。命は重要ではありません」
「お前達がいなくなっても、世界は全く同じように動くか」
「わたしたちがいなくなっても、何も変わらないでしょう。ただし、わたしたちを食べる3つ目怪獣たちは別ですが」
「おまえらを食うやつか」
 とハムがオウム返し。
 なんだかあの状態、まさに、もやっとした無関心に襲われ、頭がぼーっとなった。
 パットはと見ると、横でだまって、だらーんと突っ立っており、ヘルメットランプの光で見えた灰色の澄んだ瞳は、ゴーグルの奥でまっすぐ正面を見据え、どうやら幻を見てるか、思いつめているようだった。
 そして、尾根の向こうに突然、暗黒住人の荒々しい叫びと笑い声が響き渡った。
「パット」
 返事がない。
「パット」
 と再び呼んで、だらんとしたパットの腕を持ち上げた。
 右側でさやがはじけた。
「戻らなきゃ。戻らなくちゃ」
 とハムが繰り返した。
 突然、大量の石が尾根の向こうから飛び交った。1個がハムのヘルメットに当たり、前面ランプが鈍くボンと破裂した。別な石がハムの腕にあたって、ずきずき痛んだがそれほど大したことはない。
「戻らなくちゃ」
 とハムが大声で反復。
 パットがやっと口を開いたが、動かない。物憂げにいた。
「何の為?」
 ハムはまゆをひそめた。何の為だと? 薄暮地帯へ戻るためじゃないか。脳裏に浮かんだのは、エロティアの映像、それから地球で計画していたハネムーンの映像、次に地球上のあらゆる思い出、ニューヨーク、木々に囲まれた大学構内、陽光あふれる少年時代の農場が……。でもみんな遠くへかすみ、まぼろしのよう。
 強烈な一撃が肩にあたってハムは我に返った。パットのヘルメットに石が当たったのが見えた。パットのランプは今や2個、後と右しか光っておらず、ハムのランプだけで後と左を照らしている。
 黒い影がぴょんぴょん跳ね、訳の分からないしゃべり声が聞こえる尾根のいただきは、いまやライトが壊れた為、まっ暗闇。そして、大量の石がビュンビュン飛び、2人の周りを砕いている。
 ハムは力を振り絞って、パットの腕をぐいとつかんだ。
「帰ろう」
 と耳元でささやいた。
「なぜ? どうして?」
「ここにいたら殺される」
「そうね、でも……」
 ハムはそれ以上聞かず、荒々しくパットの腕をひっつかんだ。無理矢理ロケットの方へ向けると、パットは体を回し、よろよろとハムのあとを追った。
 後ランプが尾根を照らすと、甲高い叫び声が聞こえ、そして、あまりにも2人の歩みがのろいので、ギャーギャーという声が左右に広がった。どういうことか察しがついた。悪魔が周りを取り囲み、正面で待ち伏せている。前ランプは壊れて防御ぼうぎょ光線を発射できない。
 パットはのろのろと歩き、無気力だ。ハムの腕に引っ張られているだけ。そしてハムも無理がたたり、だんだん億劫おっくうになってきた。まさに目の前で影がサッと飛び交い、遠吠え、高笑いしながら、悪魔が2人の命を奪おうとしている。
 ハムは頭をひねり、右ランプであたりを照らした。ギャーと叫び声が聞こえた先には、真っ暗な山頂や尾根に隠れ場が見える。こうしてハムが頭を横に振りながら歩いたので、2人はつまずいてひっくり返ってしまった。
 パットを引き起こしても、なかなか起きようとしない。
「その必要はない」
 とパットがつぶやいたが、抵抗しなかったので、持ち上げた。
 ふと考えを思いついた。パットを抱きかかえ、パットの右ランプ光線を正面に向けながら、よろめき歩き、やっとロケットの窓明かりにたどりつき、扉を開け、床にパットをドサッと降ろした。

 最後の印象。ハムの見た嘲笑する影は3つ目怪獣であり、スキップしながら暗闇をぴょんぴょん跳ねつつ、向かう尾根の先に、オスカーとその仲間が自らの運命を従容しょうようと受け止めて待っている。
 ロケットは高度60※(全角KM、1-13-50)で爆音を轟かせ続けた。というのも、宇宙から無数に写真を撮って観測したところ、永劫山脈のさしもの山頂も標高が60※(全角KM、1-13-50)を超えないことが分かったからだ。
 眼下には前方に白い雲がきらめき、後方に黒い雲がかかり、まさに薄暮地帯へ突入しつつあった。この高度なら惑星の壮大な曲線が見える。
 ハムが下を見ながら言った。
手球てだまで8番黒玉だ。これから的球まとだまに突っ込む」
 パットがハムを無視して話し始めた。
「胞子だったのよ。胞子はもともと麻薬だったんだ。でもそんなことなどわかりっこない。麻薬を使ってあれほど狡猾に、人間の意志と強さを奪うなんて。オスカー族はハス仙人であり、ハスそのものよ。でも、ちょっと哀れね。膨大で強力な頭脳があるのに使えないとは。ハム、あなたは何で眼がさめたの?」
「ああ、オスカーの言葉だよ。3つ目怪獣にただ食われるだけとかなんとか」
「それで?」
「うん、食料を食べつくしたろ。あの言葉で正気に戻ったんだ。2日も食べていないって」





底本:The Lotus Eaters. First published in Astounding Stories, April 1935
原著者:Stanley G. Weinbaum
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)の下で公開されています。
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翻訳:奥増夫
2023年7月17日作成
青空文庫収録ファイル:
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●表記について


●図書カード