もや惑星

THE PLANET OF DOUBT

惑星シリーズその5

スタンリイ・G・ワインバウム Stanley G. Weinbaum

奥増夫訳




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天王星
ハム&パット



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登場人物

ハム    男性(技術者)
カレン   男性(化学者)
ヤング   男性(探検家)
パット   女性(生物学者)
ハーバード 男性(宇宙飛行士)


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 ハミルトン・ハモンドがびくっとしたのは、探検隊の化学者カレンが持ち場の船尾から、こう電話したときだった。
「何か見えます」
 ハムがかがんで、左舷を覗いて見た灰緑の霧は、永遠に天王星を覆っている。慌てて電子高度計を見れば、16※(全角メートル、1-13-35)の静圧を示しているが、これが嘘である理由は、この値が250※(全角KM、1-13-50)緩慢かんまん降下中、ずっと同じ値だったからだ。霧そのものが電波を反射している。
 気圧計は862※(全角CM、1-13-49)を示している。この値も信用ならないが、高度計より増しな理由は、かの勇敢なヤングが40年前の2060年、タイタンからこのもや惑星・天王星の南極に突っ込んだとき、大気圧86※(全角CM、1-13-49)を記録しているからである。
 いま宇宙船ガイア号は反対極の北極に着陸しようとしており、ヤングの着陸地から7万※(全角KM、1-13-50)離れており、どんな巨大な穴や山のせいで、こんな役立たずな数値が出るのか誰も知らない。
「何も見えん」
 とハムがつぶやいた。
「私もよ」
 と言ったパトリシア・ハモンドはハムの妻――公式にはスミソニアン協会ガイア探検隊の生物学者であり、にじり寄ってこう叫んだ。
「いいえ、何か動いている。上昇、上昇、上げて」
 ハーバードは腕のいい宇宙飛行士だ。何も質問しないばかりか、制御盤から目を離さなかった。スロットルをぐいと引くと、噴射音が次第に大きくなり、上向きの推力で全員が床に激しく押しつけられた。
 かろうじて間に合った。灰色の巨大波が左舷下をガバと襲い、余りにも近かったので、波頭はとうが噴射で砕け、飛沫で窓が曇った。
 ハムが息を吐いて、
「フー、近い、近すぎた。波に当たったら、確実に噴射口が壊れていた。噴射口は白熱している」
 パトリシアがうんざりして、
「海よ。ヤングの報告では陸がある」
「ヤングが着陸した南極は7万※(全角KM、1-13-50)向こうだ。もしかしたら、ここの海は地球全体より広いかも」
 パトリシアが眉をひそめて、
「ねえ、この霧は表面全部を覆っているの?」
「ヤングはそう言っている」
「でも金星で雲ができるのは、上昇風と下降風が交わる所だけよ」
「ああ、だが金星は太陽にずっと近い。ここ天王星の熱が一様な理由は、太陽が実質なんら貢献しないからだ。ほとんどの表面熱は内部からしみ出たもので、これは土星や木星と同じだが、ただ天王星は少し小さいので、ずっと冷たい。十分冷えているから、固体の地殻があり、ほかの大惑星のように溶けておらず、金星の薄暮はくぼ地帯より、かなり寒い」
 パトリシアが反論して、
「でもタイタンはロシアのノヴァ・ゼンブラと同じくらい寒くて、暴風が永遠に続く」
 ハムがニヤリ、
「僕をだまそうとしてないか。絶対温度が風を引き起こすのじゃなく、場所間の温度差が風を引き起こす。タイタンは片側を土星で暖められているが、ここ天王星の温度は一様、つまり惑星上で実質同じであり、内部から暖められている」
 ハムが不意に飛行士・ハーバードを見て、
「何を待っている?」
 宇宙飛行士・ハーバードが、
「あなたです。今あなたが指揮を執っています。私の指揮は表面まで、ちょうど完了しました」
「おっと、そうだった」
 と叫んだハムは満足げだ。直近の探検は金星の夜側だったが、その時は妻・パトリシアの命令下にあり、今度は逆になり、嬉しかった。重々しく言った。
「さて、生物学者・パトリシアが親切にどいてくれれば……」
 パトリシアが軽蔑して、
「じゃあ、案内できるのね。一つの考えもないくせに」
「あるさ。南東だ。30※(全角KM、1-13-50)上がって、山脈へ向かえ」
 ハムがハーバードへ命令すると、2人の声に噴射音が加わり、一段と轟いた。

 宇宙船ガイア号は古代の地母神――天王神の妻――にちなんだ名前であるが、いま無限霧を突っ切り、北極に突っ込んでいる。
 一つ比較すると、極軸が太陽家族の中で独特であり、その理由は天王星の回転が木星、土星、火星、地球のように軸心を立てて回るのじゃなく、転がり玉のように横倒しで回るためだ。
 両極が公転軌道の平面上にあるから、ある時点では南極が太陽に向き、42年後には公転軌道の半分の間、反対極の北極が太陽を向く。
 40年前ヤングが南極に着地した。さらに40年たてば、南極が再び太陽を浴びるだろう。
 飛行士・ハーバードがぼやいて、
「女性は質問が多すぎて困ります」
 パトリシアが向き直り、
「ショーペンハウアーだ。パトリック・バーリンゲームの娘がこの米国探検隊を援助していることに感謝しなさい」
「へえ、なぜショーペンハウアーですか」
「女嫌いだったじゃない? あなたのように」
「なら、思っていた以上の大哲学者ですね」
 とハーバードがぶつくさ。
 パトリシアが厳しく反論。
「とにかく、2百万ドルは大金です、80万坪の霧砂漠に値します。金星を占拠した方法では、この惑星を占有できません」
 もちろんパトリシアが指摘したのは、2059年のベルン評議会の決定であり、その趣旨とは、ある探検家がある惑星に着陸したという単純事実では、当該惑星の全部を当該探検国家が所有できず、実際の探検場所のみ与えるというものだ。霧に包まれた天王星では、探検箇所は実に狭いだろう。
 ハムが割り込んで、
「気にするな。米国がこの霧玉きりたま天王星を占有宣言しても、他国は文句が言えまい。だってここに到達できる基地が近くにないもの」
 本当だ。土星唯一の生存可能な衛星タイタンを領有するおかげで、米国だけが天王星へ探検ロケットを送り込める国家となった。
 地球から直接飛行するのは問題外。2惑星間の最短距離でも27※(全角KM、1-13-50)あるからだ。飛行は2回の中継で行い、まずタイタンへ、次に天王星へ行く。
 でもこの場合、訪問回数が著しく限られる。というのも、土星と地球が合の位置になるのが1年ちょっとの間隔であるのに対し、天王星と土星はおよそ40年に1回しか合にならないからだ。この時だけ、巨大で神秘的な霧に包まれた天王星に到達できる。
 天王星は余りにも離れているから、隣の土星との距離は、実際、土星〜木星間、木星〜小惑星帯間、小惑星帯〜火星間、火星〜地球間よりずっと大きい。
 天王星は荒涼、異星的で、謎に包まれた惑星であり、氷の海王星と冥王星だけが外側にあり、そのあいだは星間空間となっている。
 パトリシアがハムに回り込み、吐き捨てた。
「あなた、南東ですって。ええっ、なぜ南東? 当てずっぽでしょう。そうじゃない?」
 ハムが歯をむいて、
「違う。根拠がある。できるだけ時間を節約したい。天王星滞在は限られており、まさか次の合になるまで40年間、見捨てられたくないだろ」
「でも、なぜ南東?」
「こうだ。今まで地球儀を見たことがあるか、パット。たぶん気づいているだろうが、大陸、大島、重要半島の全てが、南へ向かってせばまっている。つまり、北半球は陸形成に有利であり、事実、地球陸地の大部分は断然、赤道の北側にある。
 北極海は陸地にほぼ囲まれているが、南極海は大きく開いている。そして同じ事が火星にも言えて、仮定として黒い湿地平原が古海底とすればの話だが……、それに金星夜側の凍結海も、その通りだ。
 だから僕の推定では、もし全惑星が共通の起源を持ち、同じ条件下で固まったならば、天王星も同じ大陸分布に違いない。ヤングが見つけた陸地は南極に相当する。僕が探しているのは、北極海を取り囲んでいるはずの陸地だ」
 パットが反論、
「はずじゃなく、たぶんでしょう? ところで、なぜ真南ま・みなみじゃなく南東なんとうなの?」
「その方向、真南には渦巻きがあるから、陸地間の海峡や、水路を見失う可能性がある。視界が15※(全角メートル、1-13-35)では、広い海峡を海と思いかねない。きみの母国テムズ川ですら、こんな霧では太平洋のように見えるだろう、もし土手から15※(全角メートル、1-13-35)以上、降りてみたら」
「アメリカのミシシッピ川もノアの洪水みたいでしょうね」
 とパトリシアが言って、目を落とした灰色の霧ゴミは、延々と舷窓を渦巻き、通り過ぎている。

 1時間弱後、慎重かつ足踏み気味に、再びガイア号は降下に取りかかった。大気圧85※(全角CM、1-13-49)でハムが宇宙船をほとんど停止状態にさせ、それから下向き噴射ジェットに乗って、毎分3※(全角CM、1-13-49)の速度で降下させた。
 気圧計が858※(全角CM、1-13-49)になったとき、船尾から化学者カレンの声がしたが、船尾の舷窓ではジェット噴射のためよく見えない。こう言っている。
「下に何かあります」
 何かある。霧は部分的に暗かったので、形状や模様がいくつか見えた。宇宙船が低速になったとき、ハムがよく見て、遂に着地命令を下した。
 ガイア号がかすかに震えて着地したのは、砂利むき出しの灰色平原であり、霧の半球に覆われ、壁のように完全に視界をさえぎられている。
 何か荒々しい異星的なものが、限定視界の前にあった。噴射風が静まり、全員で鉛色の空気をじっと見ていると、カレンが無言でやってきて、皆に加わった。噴射を止めた後に続く突然の静寂の中で、外側世界の異常な奇妙さに、全員が圧倒された。
 金星はパットが生まれた所であり、とても奇妙な世界であり、生存可能な薄暮はくぼ地帯は狭く、生命豊かな熱帯があり、暗黒側は不可思議な地帯であるが、これでも地球の双子姉妹惑星だ。
 火星は偉大な衰退文明を持つ砂漠惑星であり、やはり奇妙だが、それほど異星人的じゃない。
 木星の衛星には、怪奇な小世界に住む異様な生物がおり、土星を回る極寒タイタンには、荒涼こうりょう凍結衛星上に、奇怪な生物がいる。
 だが天王星は内側小惑星とはただの異母兄弟に過ぎず、小衛星とは従兄いとことも言えない。謎に満ちた孤独な異星であり、誰も足を降ろしたことのない主惑星だが、勇敢なヤング隊は40年前に上陸した。
 ヤングが探検したのは、全体の何百万平方※(全角KM、1-13-50)のうち、わずか1平方※(全角KM、1-13-50)で、ここから7万※(全角KM、1-13-50)離れた南極だ。残部は謎だらけで、考えるだけでも、じゃじゃ馬パトリシアを圧倒するに十分だった。
 だが長くはなかった。ついに、
「そうねえ、私にはロンドンそっくりだ。最後に遭遇した天候と同じよう。外に出て、ピカデリーを探す」
 ハムがぴしゃり言った。
「まだ出るな。まず大気を調べたい」
「何のため? ヤング隊はこの空気を吸っている。たぶんあなたの意見は場所が7万※(全角KM、1-13-50)離れているというでしょうが、生物学者でもガス拡散法則は知っている。北極と南極では空気成分が同じってことよ。もし南極で安全だったなら、ここでも安全だ」
「そうか? 拡散は正しい、けど分るだろ、この霧玉きりたま惑星は熱のほとんどが内側から来ている。つまり火山活動が多いから、この近くのどこかで毒性ガスが噴出している。化学者・カレンに試験させよう」
 パトリシアが引き下がり、カレンが黙って手際よく天王星の空気を採取管に入れるのを見ていた。しばらくして膝を曲げて、尋ねた。
「なぜここでは重力が弱いの? 天王星は地球より54倍も大きいし、15倍も重いのに、家に居るときよりも重く感じない」
 パットの家とは、もちろん金星寒帯にある前線基地ビノーブルのことだ。
「こういうことだよ。地球や金星の54倍も大きいが、15倍しか重くない。つまり密度がずっと小さい、正確には1・27だ。この数値から重力は地球表面重力のおよそ10分の9と算定されるが、僕にはほとんど同じに感じる。あとで1※(全角KG、1-13-52)をバネはかりで量って、正確な数値を求めよう」
「吸っても大丈夫?」
「もちろん。アルゴンは不活性ガスだし、体内では化学的に反応できないから、毒になりえない」
 パットが鼻であしらって、
「ふん、いつでも安全よ。外へ出る」
「待ってくれ。きみの無茶を許す度にひどい目に遭う」
 とハムが言って、舷窓から温度を測ると9℃、これは母国の晩秋の温度だ。
「原因はこの永遠の霧だ。表土は常に空気より暖かい」
 パットはもう肩に上着を掛けている。ハムが後に続き、機密扉の輪を回し始めた。
 シュッと小さい音がして、やや濃い天王星の空気が侵入し、ハムが飛行士・ハーバードに話しかけようと向き直ると、ハーバードは満足げにキセルに火を点けており、宇宙では厳禁だが、今は無害であり、空気供給が確保されている。
 ハムが言った。
「僕たちを見張っていてくれ。舷窓から見張れ、何か起こったら、助けが必要だ」
「僕たちですって? 奥さんはもう見えませんよ」
 ハムは悪態あくたいを口ごもり、見渡した。本当だ。機密扉が開き、霧がドロンと漂い込み、淀んだ天王星の空気のなかで、霧はほとんど静止している。
「拳銃がそこだ。それをくれ」
 2丁帯をひっつかみ、標準自動拳銃を1丁、強力破壊火炎銃を1丁入れた。腰に巻き付けて、別な包みをひったくり、天王星の永遠の霧へ突入していった。

 まさに、いぶし銀の容器を逆さに伏せた中に、立っているよう。緑がかった奇妙な明かりが濾過ろかしてくるが、ハムに見えるのは、後ろにある金属宇宙船と、眼前の15※(全角メートル、1-13-35)半円の明かりだけだ。そして、パットはどこにも見えなかった。
 妻の名前を呼んだ。
「パット」
 音が霧の冷たい湿気でくぐもり、耳に妙に柔らかく響いた。再び大声で叫び、必ず助けると厳しく誓ったとき、弱く静かな返事が灰色霧の中から返ってきた。
 すぐパットが現われ、ジグザク状、縄状の緑がかった灰色生物をぶら下げていた。
 意気揚々と、
「見て。これが天王星植物の初めての標本よ。結合がゆるく、分裂で増殖する。でも一体なにもの?」
「何物だと。分らないのか、行方不明になったかもしれないのだぞ。どうやって戻ってこれた?」
「コンパスよ」
 と澄まして答えた。
「効かないはずだ。磁極の真上かもしれないのだぞ、天王星に磁力があればの話だが」
 パットが腕を見て、
「そういえば、変ね。針がふらついている」
「ああ、それに丸腰で出て行った。最たるお馬鹿なお茶目だ」
「ヤングの報告では動物はいない、でしょう。ちょっと待ってよ、こう言おうとしてるでしょう、7万※(全角KM、1-13-50)離れているって」
 ハムがねめつけて、すごんだ。
「今後は命令に従え。1人で外出するな、僕とロープで繋ぐ」
 ポケットから重い絹紐きぬひもを取りだし、片側をパットのベルト、もう片側を自分のに結んだ。
「そんなにビビらないでよ。リード付きの子犬みたいだ」
「臆病にもなるさ。相手が無鉄砲、軽率、不注意の小悪魔だからな」
 不承知の不満を無視して、持参の小包みを開きにかかった。米国国旗を取りだし、砂礫されき層に穴を掘り始め、中に旗を立てて、こう宣言した。
「アメリカ合衆国の名において、この土地を所有する」
「たったの15※(全角メートル、1-13-35)?」
 とパトリシアがぼそっとつぶやいた理由は結局、不作法な態度でも、夫の祖国に対して忠実だから。静かに、2人は旗を見つめていた。

 妙なこだまが、30※(全角KM、1-13-50)も離れたこの惑星から聞こえてくる。こだまは人間か友達か文明を意味するが、余りにも離れており、非現実的なので、2人は広大、寂寥せきりょう、不思議な惑星の土壌に、立ち尽くすばかりだった。
 ハムが夢心地から冷めて、
「そうだ、周りをよく見よう」
 ヤングはこの惑星について探検技法を示しているが、探検家がほとんど乗り越えられそうにない難しい所だった。
 ハムが細い鋼線の端を機密扉の横にむすんだ。腰に付けた糸巻きの長さは300※(全角メートル、1-13-35)あり、朦朧もうろう地帯から戻れる確実な道案内として機能する唯一の実用手段であり、音が届かず、電波も接地金属屋根同様ほぼ遮断される場所では特にそうだ。
 この鋼線は道しるべとしての役目ばかりじゃなく、伝言係としても働き、鋼線を引っ張ると、ロケット内部のベルが鳴るようになっている。
 ハムが飛行士・ハーバードに手を振ると、舷窓の中でキセルをくわえているのが見えたので、両人は出発した。
 許される時間の限界まで、天王星を300※(全角メートル、1-13-35)の円弧で探査しなければならず、ロケットを移動させる度に、そこの詳細を記録した。過酷な仕事だ。パットに言ったのは、この広大な惑星は決して探検し尽くされないだろう、だって40年間も訪問が空くのだから。
 パットが修正して、
「特に、あんたのようなひどい探検家以上に、安全第一主義の臆病な探検家を送り込んだ場合はね」
 ハムが反論。
「少なくとも、僕は探検結果を報告しに戻る、たとえヤングの業績のように、わずか1平方※(全角KM、1-13-50)であっても」
 パットがいらついて、
「分らないの? どこへ行こうが、視界のちょっと先に何かすごいものがあるかも知れないのよ。数千個足らずの標本を採取したが、そのたびに一番重要なものを見過ごしているかもしれない。私達がやっていることは、数十※(全角メートル、1-13-35)の円弧を地球に描いているようなものよ。その円弧の中に、町や、家や、ヒトを見つける機会がどれくらいある?」
「パット、きみの言うとおりだが、何ができる?」
「少なくともちょっと警戒を解いて、もっとなわばりを広げるべきよ」
「しかしだな。きみの安全が気になる」
「まあ、あなたって」
 とイラついて、ぷいと行ってしまった。言葉がくぐもったのは目一杯、絹紐が伸びたからであり、この絹紐が2人を結んでいる。完全に見えなくなったが、お互い逆方向に行こうとすると、時々ぐいと引っ張られるので、明らかにまだつながっている。
 ハムがゆっくり前進し、探査した無機質な砂利地面は、時折湿気がこもり、うっとおしくて、まれに出会う屈曲雑草はパットがロケットわきに落としたものに似ている。
 どうやら無風の天王星に雨は降らず、惑星表面の水分は無限にサイクルを繰り返し、冷気で結露し、暖かい地面で蒸発するようだ。

 ハムがやってきた場所は、沸騰する泥が地下から湧き出て来るようで、絶えず蒸気が立ち登り、もやに包まれており、これが惑星を温める内部熱の正体だ。じっと見ていたら突然、紐が激しく引っ張られ、うしろへ倒れそうになった。
 見回した。パトリシアが急に霧から現れ、片手に縄状の植物をつかんでいる。ハムを見て、植物を落とし、突然、見境無く、しがみついてきた。
「ハム、戻りましょう。怖い」
 と息も絶え絶えだ。
「怖いって、何にだ?」
 パットの性格は知っており、いかなる危険にも、理解さえできれば、無鉄砲過ぎるほど勇敢だが、ここはひとつ、事件を謎のままにしておこう、だってパット本来の想像力が、対処能力を超えて、恐怖に染まったのだから。
「わからない。見たのよ」
「どこで?」
「霧のなかの、どこでもよ」
 ハムは腕をほどいて、両手をベルトに突っ込み、銃尻を握った。
「どんなものだ?」
「怖ろしいもの、悪夢のようなものよ」
 ハムがパットをそっと揺すって、優しくいた。
「今おじけづいているのはだーれだ?」
 この問いで、図星の効果があった。パットが我を取り戻し、冷静になった。
「怖がっちゃいない。びっくりしただけよ。見たのは……」
 と言って、再び青ざめた。
「何を?」
「わからない。霧の中だから。大きな動くもので、顔がある。ガーゴイルか、悪魔か、悪夢だ」
 パットは震えて、その後また落ち着いて、しゃべった。
「あそこの小さな水たまりにかがんで、生物かいを調べていたら、すべてが静かで、死んだようだった。そのとき影が水たまりを通り過ぎて、何か反射して……、見上げると何も見えない。でもそのとき、シューシュー音や、つぶやきや、雑音が、くぐもった人の声のように聞こえ、怖ろしい霧の形が見え始めて、まわり中にあった。それで悲鳴を上げ、もしや聞こえないかと思って、紐を思いっきり引っ張った。そのあとは目を閉じて、突っ切って、戻ったんだと思う」
 またしても震えた。
「まわり中かい? つまり僕ときみの間にもかい?」
 とハムが問い詰めた。
 パットがうなずいて、
「どこにでもよ」
 ハムがニヤリ。
「白日夢だ。この絹紐はそれほど長くないから、何物も2人に近づくことなく間を通れないし、はっきり目えるはずだけど、僕は何も見ていない、全く何も」
「でも私は見たのよ。妄想じゃない。私が奇妙な場所を怖れる餓鬼とでも思ってんの。私は異星惑星で生まれたのよ」
 とパットが言い張ったが、ハムのにんまり笑いに、カッとなって、
「わかった。ここでじっと立っていましょう。奴らはまた戻ってくる。そのとき、正体が分る」
 ハムが同意して、2人は黙って、半透明の霧屋根の下に立ち尽くした。何もない、あるのは深い無限の灰色と、永遠の静寂だが、その静けさと言ったらハムが今まで経験したことのないものだった。
 だって金星では、熱帯の一番蒸し暑いところですら、うじゃうじゃいる生物が絶えずカサカサ音を立て、下降風が常にうなっているし、地球では、昼夜を問わず、いまだかつて無音はない。
 地球では常にどこでも、葉っぱのそよぎ、雑草のさわぎ、水のせせらぎ、昆虫の羽音があり、乾燥砂漠ですら寒暖で砂のささやきがする。
 だがここ天王星にそれは無い。天王星は全く無音なのでパットの呼吸音が際立っている。無音だからこそ聞こえる。
 本当に聞こえたか、いや単なる血液の脈動か。姿無くして動き回り、絶えず微妙にこすれあい、消え入るようにささやく。ハムは眉をひそめ、耳をそばだてた。パトリシアはハムに寄りかかって、震えている。
「あそこよ、あそこ」
 ハムがうす暗闇を覗き込んだ。何もない、いや、ある。影が……、でもここで影ができるか、だって陽光のない霧の中だよ。あたりは霧が凝集しており、それがすべてだ。でも影が動いている、しかし霧は風がなければ動かないし、ここに風はない。
 目をこらし、濃霧を透かした。見えた、いやおそらく妄想だろうが、不気味な大巨人が1人、もしくは数十人いる。まわりじゅうにおり、1人が静かに頭上を通り過ぎると、大勢が視界のはずれで体をくねり、揺れている。ブツブツ音や、サラサラ音が、息づかいや、ささやきや、おしゃべりや、衣擦きぬずれのように聞こえる。
 霧の形が妙に不安定で、暗闇の小さな切れ目から、ぬーっと雲突く影になって伸び、煙のように消えたり、姿を変えたりしている。
「なんてことだ、一体……」
 とハムが息を呑んだ。
 影衆の1人に焦点を当てようとした。難しかった。まるで全員が移動、合体、前進、後退、つまり現われたり、消えたりしている。でも突然、驚くべき現象に注意を引かれ、一瞬固まってしまった。顔が見えた。
 正確には人間の顔じゃない。パトリシアが言ったような外観、つまりガーゴイルか悪魔が、横目で、しかめ面をして、にやにや狂い笑いしているか、ふざけて嘆き悲しんでいるようだ。一瞬の印象以外、はっきり見ることができず、あまりにもおぼろげで刹那的なので、奇術か夢のようだった。
 魔術に違いないと、うろたえて考えた。ただ形になった為か、つまり人間じゃなく、似ただけだったのか。理性の範囲を超えて仮定すれば、天王星は人間種族、もしくは人間のような生き物をはぐくむのか。
 そばでパトリシアがべそをかいている。
「戻ろう、ハム。お願い戻って」
「いいかい、これは錯覚だ、少なくとも一部は」
「どうしてわかる?」
「人に似ている為だよ。ここで人間の顔をした生き物はあり得ない。僕たちの心が、存在しないものに詳細を描き加えている。天上の雲や、裂け目を見る度に、顔を見つけようとしているんだ。見ているものはすべて、霧の中の濃いまだらだよ」
「たしかめてよ」
 とパトリシアが震えた。
 確信は全くなかったが、再び同意して、
「もちろん確かめるさ。簡単な証明方法を教える。赤外線カメラを向ければ、詳細がわかり、判断できる」
 パットは不安そうに霧中のばくとした恐ろしいものを覗きながら震えて、
「写真を見るのが怖い。もしも、もしも顔が写っていたら……。何というの?」
「奇妙で予想外の一致だと言うさ、天王星の生き物が生物の形をしているならばだが……少なくとも外観は地球と同じような方向にいくらか進化したとね」
 パットが震えてつぶやき、
「そうじゃないかもしれない。こんなことは偶然の一致を越えている。ハム、私の考えがわかる? もし、科学がすべて間違っており、天王星が地獄だったら? そして呪われていたら?」
 ハムは笑ったが、その笑い声さえ、深い霧で、うつろに、くぐもって、
「最狂の考えだ、いままできみの荒唐無稽な想像が作り出した中でもな。パット、あれはね……」

 パットの悲鳴で中断した。2人はくっついて立っており、霧の屋根を広角度で眺めていたが、ハムがぐるり見渡して、パットの視線の先に目を向けた。
 一瞬、動いたことで視界が途切れ、必死にまばたいて焦点を合わせる始末。そのとき、悲鳴の原因がわかった。巨大な黒い影が地面近くで発生したように見え、上へ駆けあがり、頭上でくねる様子は、まるで龍が実際に本物の霧天井へ昇るかのようで、黒いまぼろし川が頭上を流れるかのようだった。
 パトリシアの弱気をあざけっていたが、ハムの神経は張りつめていた。まったく自動的に拳銃を構え、衝動的に弾丸を霧に発射した。奇妙にくぐもった応答があり、1回だけの反響だったが、そのあと完全に静かになった。
 完全な無音だ。カサカサ音やブツブツ音も消え、霧影も消えた。もやの中を覗くと、灰色雲が一面を覆い尽くすのみで、何も聞こえず、聞こえるのは自らの激しい呼吸音と、鼓膜に残る発射音の残響だけ。
「行ってしまった」
 とパトリシアが息を継いだ。
「確かに。僕の言ったとおりだ。幻想だよ」
「幻想なら銃弾から逃げない。本物よ。本物なら全然怖くないが、そうねえ、理解できないものは……」
 と反論したパトリシアは、霧影が消えた途端に気力が戻った。
「分らないのだな。幻想なら弾丸から逃げないかもしれない、僕もそう思うよ。でも仮にだね、あの霧影が一種の自己催眠、あるいは単に霧を見続けた目の錯覚だとしたらどうなる。1発撃ったせいで、そんな精神状態がびっくりして、もう見えなくなったのでは?」
 パットが疑わしげに、
「たぶんね。とにかく、もう怖くない。なんであれ、害はないと思う」
 パットが関心を向けた眼前の泥溜りには、奇妙な羽毛植物が、表面に噴出する泡に揺れている。その上にかがんで、
こけ植物よ。おそらく天王星で生育できる唯一の植物ね。蜂とか、花粉を運ぶものがいないもの」
 ハムがぶつくさ言って、陰気な灰色の霧を覗き込んだ。突然2人が驚いたのは、案内鋼線とむすんだ太鼓の音が鳴ったからだ。警報だ。宇宙船ガイア号からだ。

 パットが立ち上がった。ハムは即座に鋼線を引っ張って、つぶやいた。
「戻った方が良い。ハーバードとカレンが何か見たに違いない。おそらく僕たちが見たものと同じだろうが、戻った方がいい」
 2人が歩みをたどり始めると、300※(全角メートル、1-13-35)の鋼線を巻き取るたびに、ハムの腰に付けたバネ太鼓が小さくコトコト鳴った。その音と、砂利道を踏みしめる足音のほかは静かで、霧は薄緑がかった特徴の無い灰色屋根を形作るばかり。およそ180※(全角メートル、1-13-35)進んだとき、変化があった。
 パトリシアが最初に霧影を見つけた。奴らが戻って来たと、ささやいた声は、もう怖がっていない。
 ハムも見た。今やもう、霧影は2人を取り囲んでおらず、2列になって、ガイア号の方向へ突進、いやたぶん視界外で2つに別れて進んでいる。ハムとパットは、押し寄せる霧影の2列縦隊で囲まれた小道を、歩いていた。
 2人はかたまって、霧の中を突き進んだ。いまや、わずか45※(全角メートル、1-13-35)の所に宇宙船がある。そのとき突然待ったを食らわせたのは、霧よりもずっと固い何か、いや霧影よりもっと固いもの、これが2人の正面にぬーっと現われた。
 何だか知らないが、近づいてくる。地面の高さに黒い円筒があり、直径2※(全角メートル、1-13-35)、この筒が横たわり、腹を見せている。ヒトが歩くほどの速度で、急激に明確な形を現わし始めた。
 ハムとパットが見とれた。特徴が無く、単なる薄黒い円筒形であり、霧の中から伸びている。いや、全く特徴が無いわけじゃない。円筒中央から器官が伸びており、ブルブル震える先端は、指ほどのえだに大きめのパンケーキのようなものが付いており、2人に向かって、震えながら手のひらのようにすくう様子は、音や臭いをつかまえようとするかのよう。この生き物は目が見えない。
 だが、何らかの感覚があり、距離は測れるようだ。2人から10※(全角メートル、1-13-35)離れたところで、丸い円盤が忍び寄り、2人の進行方向に大きな凹みを作り、ちょっと曲がって、音も立てず向かってきた。
 ハムが構えた。自動拳銃が、くぐもった発射音を2発轟かせた。襲撃者が縮んだように見え、脇にどくと、そのうしろに全く同じものが現われて、同じように特徴の無い黒い円筒で、同じように震える円盤がある。しかしながら甲高い突き刺すような激痛悲鳴が、鋭いナイフのように霧を切り裂いた。
 危険だとパトリシアが判断した。もう怖がっていない。余りにも多くの異星体に遭遇したためであり、金星の熱帯前線とか、荒々しい奇妙な永劫山脈とか……。
 パトリシアがハムの銃帯から火炎銃をひっつかんで、破壊火炎を発射する態勢で構えた。これが最終手段だと知っていたので、ほかの方法が失敗するまで使わないから、保持したまま、ガイア宇宙船の鋼線を引っ張った。3回引くと、3回応答したので、カレンとハーバードが応援を要請しているのだろう。
 2番目の生き物か、もしくは1番目の切れ端だったのか、これが攻撃してきた。そいつにむかってハムが更に2発撃ち込むと、正面に顔はないが、またしても鋭い悲痛をあげた。怪獣が急に曲がって、倒れると、別な黒い円筒が2人に向かってきた。ハムは撃ち倒すことができなかったが、生き物は進路を変えた。
 不意に轟音を立て過ぎ去った姿は、列車のように巨大で黒かった。節足動物だ。2・5※(全角メートル、1-13-35)節が数十個つながっており、小型車が列になったようで、各節には足が3組ある。
 だが単一生物のように動き、無数の足に乗って、うしろから波がうねるように、まさにムカデのように走る。ハムが動く様子をちらと見ると、結節ヶ所は指ほどの太さの筋肉でつながっている。
 ちょうど通過する節の真ん中に3発撃った。これが大きな間違いだった。節部は黒い液を噴き、列から外れたが、そのうしろの節が突然、枝付き器官を2人に向けて、追いかけてきた。そして霧の中から、最初に撃たれた節部が、戻って来た。今や2人は1匹じゃなく2匹に対峙たいじするはめになった。
 ハムは弾倉に3発残していた。ぐっと構えて、お椀を広げて震える肉円盤に1発かますと、怪物が倒れたので、もう1発を追ってくる節部にぶっ放した。奴は、いや奴らか、霧の中から無限に伸びているように見えた。
 火炎銃の彷徨ほうこうが聞こえた。怪物どもが近くに来るのを待ち構えていたパットが、1回の放射で最大の損害を与えたようだ。
 ハムが一瞬の隙を盗んで、結果を見ると、あの恐ろしい火炎銃で、数十節があっさり焼却され、生き残った1匹も霧の中に消えていった。
 よくやった、とハムがつぶやき、最後の1発を突進する怪獣に発射した。倒れたが、そのうしろから容赦なく仲間が向かってくる。空の拳銃を肉盤に投げつけると、黒い皮膚で包まれるのが見え、じっと待って、パットに援護を頼んだ。
 強力な光と轟音があった。火炎銃だ。霧の中にぼんやりハーバードとカレンの姿があり、2人は鋼線をたぐりながらやってきて、眼前には吹き飛んだ怪獣の節部がのたくっている。
 どうやら生き残った生物は十分罰を受けたようだ、というのも左に向きを変え、霧の中にゴロゴロと逃げ去り、もう10節しかない。そして一団の周りの視界外で、霧の形が変わり、ゆがみ、ギャーギャー叫びながら、消えていった。

 4人は無言で鋼線をたどり、ガイア宇宙船の扉まで戻った。中にはいると、パトリシアが濡れた上着を脱ぎ捨てて、低く息を吐いた。
「いやあ、スリルだった」
 ハムが鼻白んで、
「スリルだって。まったく、僕に言わせれば、君はこのうっとおしい惑星を征服しかねないから、この宇宙船に縛り付けておきたいね。ここは君のように無鉄砲な小悪魔が来る場所じゃない。蜂蜜がハエを引きつけるように、もめ事を引き寄せるんだから」
「私を原因扱いするかのようね。わかった。待機命令を出しなさいよ、それが良いと思うなら」
 ハムはぶつくさ言って、ハーバードに向き直り、
「すまん。君たち2人が現わるまでアレが近くにいたんだ。ところで、ベルは何の警告だ? 霧の形か」
 飛行士のハーバードが、
「もしかして、マルディグラ行進? それとも心霊主義者の会議? いえ、アレが現実とは思えません。でも実際にからまれています。あなた方の方向からここに、背中を丸めてやってきました」
「1匹か、それとも何匹もか」
 とハムが訂正した。
「あなたが見たのは1匹以上なのですか」
 と逆にハーバードが尋ねた。
「1匹以上だ。1匹を半分に切ったら、2つとも向かってきた。パットがその1つを火炎銃でやっつけたが、僕の銃弾は全部、断片破壊に使ったようだ。パット、アレが分るか」
 と眉をひそめた。
 パットは、宇宙船に閉じ込めるというハムの脅しがまだ効いているようで、きつく言い返した。
「あんたより分っている。さぞ生物学者不在の素晴らしい探検になるんじゃない」
 ハムがニヤリ、
「だから貴女あなたを大切にするんだ。生物学者を失うのが怖いんだ。ところで、あの着脱自在な虫について、きみの見解は?」
「こういうことよ。行列生物よ。アンリ・ファーブルのことを聞いたことは?」
「ない」
「およそ2世紀前の偉大なフランスの博物学者よ。とりわけ、行列毛虫と呼ばれる興味深い昆虫を研究した。この毛虫はぐるぐる動いて絹の巣をこぢんまり造り、毎晩給餌きゅうじに出かける」
「それで?」
「ちょっと聞きなさいよ。この毛虫は縦1列になって行進し、それぞれの頭を、先行する毛虫の尻にくっつける。目が見えないのよ。こうして、それぞれが先行毛虫に頼る。先頭の毛虫が先導者となる。先導者が道を選び、最適な木に導くと、そこでばらばらになり、それぞれ給餌きゅうじする。日が昇ると、再び小さな列になり、また長い列を造って、巣に戻るのよ」
「まだ見たことはないな……」
「でしょうね。さて、どの毛虫が先頭になっても、先導者になる。もし棒で、縦列のどの点を壊しても、切られた先頭が先導者になって皆を絹巣へ、本来の先導者同様、効率的に導く。そして、どれでも1匹だけを分離しても、自分の道を見つけて、自ら先導者となり、隊列は1匹のままだ」
「分かり始めたぞ」
 とハムがつぶやいた。
「そうよ。各個もしくは各隊が行列毛虫みたいなものよ。みんな目が見えない。じっさい、目は天王星では地球より価値がないし、たぶんどんな天王星生物も目は発達していないでしょう、ただし霧影が目の代わりならば話は別だが……。でもこれらの生物行列の頭はずっと先だと思う。だって、毛虫らは絹糸で連絡を取り合い、どうやら神経中枢を通じて行動しているふしがあるもの」
「ええっ?」
 とハムが疑った。
「とうぜんよ。結合方法を見なかったの? 平らな器官が正面にあり、後者の尻を吸盤のようにひらひらさせながら、常に同じ位置に配置されていた。あなたが縦列の真ん中を銃撃したとき、すぐに多肉質の塊が穴を塞いだのが見えた。そのうえ……」
 ここで中断した。
「そのうえ、何だ?」
「あら、奇妙なことに気づかなかったの? 全体が協調している。全部の足が一種のリズムにのって、単一生物の足のように、多足動物、つまりムカデのように動く。習慣とか訓練とか練習とかで、生物集合体が一斉に動いて突進し、止まったり、向きを変えたり、丸まるとは思えない。全体が先導者の神経制御下にあって、たぶん聴覚、嗅覚そしておそらく願望や嫌悪や恐怖も、先導者と同じ状態でしょう」
 ハムが叫んだ。
「まさかそんなことがあるもんか。全体が1匹の生物のように動くなんて」
「あなたが縦列を2つに分けるまではね。見たでしょう……」
 ハムが興奮して、眉をひそめ、
「先導者が2匹になった。切れた縦列の先頭が2番目の先導者となり、勝手に動いた。奴らは結合したときに知性も共有すると思うか。各個体が知性を、もしあればだが、先導者の支配脳に注入するのか」
「さあ。それが本当なら、節をくっつけるだけで、膨大な知識を構築できる。各個体がどんなに愚かであっても、お互いにくっつくだけで、神のような知性を造れる。もしそんなものがここにいれば、あるいは、いたとすれば、野蛮のまま丸腰で動き回っていないでしょうね。ある種の文明があってもいいんじゃない? でも、経験は積んでいるかもしれない。先導者は各個体の記憶を全部自由に使えるかもしれないけど、自分の理解力にはならない」
 ハムが同意して、
「もっともらしいね。ところで、霧影については? 何か手がかりは?」
 パットが震えて、
「あまりない。でも、両者は関係があると思う」
「どうして?」
「だって攻撃直前、霧影がそばに寄ってきたもの。行列生物から単に遠ざかり、そのときは散らばっていたのかもしれない。でも逃げなかった。2列の流れになって押し寄せて、そればかりか戦闘中、後ろ側でチカチカ光って揺れていた。気づかなかったの?」
 ハムがあっさり、
「集中していたからね。じゃあ、何だ?」
ノドグロミツオシエのことを聞いたことがある?」
「なんとなく」
「アフリカにいるカッコウ鳥の仲間で、人間に野生蜂巣のありかを教えてくれる。人間は蜂蜜を、鳥は幼虫を獲る。霧影は蜂蜜案内の役目を果たしていると思う。あの目の見えない行列毛虫を我々に導いているのだと思う、理由は銃撃に怒ったか、ほかの毛虫が食い残した我々を欲しがったのか、あるいは単に乱暴者だっただけなのか……。いずれにしろ、これが私の推論よ」
 ハムが補足。
「もし奴らが現実なら、連中の集まりに赤外線カメラを向けてやる。連中を、群れ、塊、行、何と呼ぼうが――。僕はいまでも錯覚だと思っている」
 パットが震えて、つぶやいた。
「そうであってほしい」
 飛行士のハーバードが不意に、
「フン、女性はこんな場所にふさわしくありません。臆病すぎます」
 今度はハムがパトリシアを完全に擁護する準備ができており、
「そうか? パットは冷静にあの騒動をガン見していたぞ」
「でも霧影を怖がっています」
 とハーバードがぶつくさ。

 だが、影じゃなかった。数時間後、化学者カレンの報告によれば、ガイア号周辺の霧がごっそり高速移動する形になったというので、長波カメラを舷窓から舷窓へ転がして、写した。
 空気中にアルゴンがあるために、波長が吸収され、長波光線を通さないけれども、赤外感光板はそれでも人間の目より遙かに感度がいい、しかし細部には反応しにくい。
 でも写真感光板はヒトの思惑には従わない。つまり、過去の経験に色づけすることはないし、感光板に達した光線の正確な形を冷徹に感情抜きで記録する。
 カレンが感光板の処理にかかったとき、パトリシアは天王星の多忙な初日に疲れてまだ寝ていたが、ハムはよろよろ這いだして、結果を見ていた。
 結果はパットが怖れていたよりたいしたことはなかったものの、ハムの期待以上だった。陰画原板を光にかざし、ちらと覗いてから、一束の写真をカレンから取り上げて、眉をしかめて眺めた。
「ほう」
 とつぶやいた。写真には明らかに何かが写っているが、肉眼と大して変わらない。確かに霧影は本物だが、同様に確かなのは、ヒトの形じゃない。
 カメラの目には、悪魔顔、狡猾顔、あざけり顔など全くなく、皆が見た生き物はある程度幻想であり、そんな特徴は霧の影に自分達の心証を重ね合わせたものだったのだろう。
 だがほんのわずかだろうが、そんな幻想の背後に、疑いなく何か実体が隠れている。でもどんな実体が造れるか、あんなチカチカしたり、移動したり、形や大きさが変化するものを……、実際見たし。
 ハムが意味深に言った。
「パットが尋ねない限り、これを見せるなよ。パットはしばらく船内に留めておこうと思う。今まで見た3千坪から判断して、ここは友好的な場所じゃないな」
 そして、ハムはパット抜きで2つの案件を処理した。15時間後、宇宙船を2※(全角KM、1-13-50)南へ移動させ、霧の中で別な探査準備をしていると、パットが猛烈に抗議してきた。
「この遠征は何のため? この惑星で一番の重要事項は、ここに生存する生命であり、それが生物学者の仕事じゃないの?」
 さらにハムに怒りの目を向けて、
「協会がなぜこの任務に私を選んだと思う? 私がただロケットにぼんやり座っている一方で、無能な化学者と技術者が2人で周りを探査している……、着生ちゃくせい生物、半翅はんし昆虫など知らないくせに」
「まあ、標本ぐらいは持ってこれるさ」
 とハムがいじけた。
 これがパットの怒りを倍加させ、
「よくお聞き。もし真実を知りたければ、私はここにいない、あんたのせいだ。代わりにあんたがここだ。技術者や、化学者や宇宙飛行士はごろごろいるが、優秀な地球外生物学者は何人いると思う? ほとんどいないよ」
 ハムは咄嗟に反論できなかった。本当だもの。パトリシアは若いが、金星で生まれ、パリで教育を受けており、この分野では疑いなく優秀だ。ましては探検の後援者にすれば、公平に見てハムがパットに劣ることは言わずもがなだ。
 結局、政府支援のスミソニアン協会といえども、2百万ドル余を費やして、金額相応の正当な見返り無しでは済まされまい。
 宇宙深淵しんえんにロケットを送り込むことは、天王星が孤独な軌道を描く遠路にあって、とても金のかかる計画なので、ちょっとでも考えれば、最高の成果を収めるべきであり、特に40年もの長い時が経って、やっと次の訪問機会がこのもや惑星に訪れるときては、なおさらだ。
 ということで、ハムはため息をついて降参した。
 パトリシアが言った。
「アレには知性が少しちらついていた。私が漫画みたいなソーセージの隊列を怖れると思ってんの? 私なら真ん中で切断する過ちは犯さない。おかしな顔影については、あんたは幻想だと言ったけど……、そういえば、写真を撮るとか、どこにあるの? 何か写っている?」
 カレンは渋ったが、ハムが観念してうなずいたので、写真の束を渡した。初見しょけんで、パットが顔をしかめた。
「アレは現実だった」
 と言ってから、食い入るように見るものだから、ハムはあんなぼんやりした影の様な写真から、何を読み取ったか不思議がった。ハムの見るところ、パットが妙に満足して目を輝かせ、大いに安堵しているので、少なくとも何か発見したけど動揺はしていない。
「どう思う?」
 とハムがうずうずして聞くと、笑って返答しなかった。

 どうやらパトリシアに関する疑念は、全て根拠のないものだった。日々が何事もなく過ぎた
 カレンはサンプルを分析、整理し、緑がかった天王星大気を数え切れないほど試験した。
 ハムは自分の体重を何回もチェックし、余った時間に噴射ロケットを検査し、これにはガイア宇宙船と自分達の命が懸かっている。
 パトリシアは標本を採取、分類し、少なくともひどい事件は起こさなかった。
 ハーバードはもちろん、何もすることがなく、ロケットを再び宇宙空間へ飛ばすまで暇だから、調理人や雑役として働き、大部分は簡単な仕事であり、缶詰を開けたり、残飯を捨てたり――。
 4回、ガイア宇宙船は飛び立ち、永久霧を突っ切って、新しい場所へ移動し、そこへ着陸すると、ハムとパトリシアが300※(全角メートル、1-13-35)円内を探査した。
 灰色上空のどこか、永遠に見えないけれども、土星が近くに寄ってきて、ゆっくり動く天王星を通り過ぎ、遠ざかり始めた。時間がなくなりつつあった。1時間ごとに、帰りの距離が遠くなっていく。
 5回目の移動場所でハーバードが滞在制限を告げて、警告した。
「次の40年をここで過ごしたくなければ、あとせいぜい50時間です」
 ハムが外出着をひっつかんで言った。
「まあ、ロンドンほど悪くはない。行こう、パット。素敵な天王星景色の見納めだ」
 パットはハムの後について灰色の外へ出て待機し、ハムが案内鋼線をロケットに付け、絹紐をベルトに結ぶ間、ぶつくさ。
「あの行列悪党の友人をもう1回見たい。ある考えがあるから、調査したい」
「よしてくれ。一見いちげんでたくさんだ」
 とハムがうめいた。
 ガイア宇宙船が永遠の霧に隠れた。2人の周りで、霧影がちらつき、ゆがむのは、最初に現われた時と同じ、もう関心は無い。慣れてしまったので、恐怖のかけらもなかった。
 ここは石だらけの小塚こづか地帯、パトリシアは絹紐で目一杯あちこち動き回り、天王星の稀少植物相を切ったり、調べたり、廃棄したり、保存したりした。ほとんどの時間、姿を消し、音も立てなかったが、絹紐で無事なことは分った。
 ハムは、じれて絹紐を引っ張り、パトリシアが現われると、文句を言った。
「僕は子犬を繋いだ木のようだ。ここは鋼線の限界だぞ。戻ろう」
 パットは絹紐があるから、更に15※(全角メートル、1-13-35)朦朧もうろう地帯を行けたかもしれない。
「でも向こうに何かある。何か成長している。あそこの手の届かない所よ。何か新しいものがある。見たい」
「とんでもない。範囲外ということだ。鋼線を少し伸ばして、それでおしまいだ」
 パットが振り切って、
「ほんの1※(全角メートル、1-13-35)だ。ひもをほどいて、見て来て、戻る」
「駄目だ、パット、戻ってこい」
 ハムが紐を強く引っ張った。薄暗闇から、かすかに不快な声が聞こえたが、不意に紐がたるんだ。パットがほどいてしまった。
「パット、戻ってこい、戻ってこい、おーい」
 押し殺したような返事があったが、ほとんど聞こえなかった。そのあとは完全な静寂。もう1回叫んだ。周り中の霧で自分の声がくぐもった。ちょっと間を置いて、また叫んだ。何も聞こえない。ただ霧影がカサカサこすれる音ばかり。
 めちゃくちゃ途方に暮れた。しばらく間を置いて、拳銃を空中にぶっ放した。少し間をあけ、全部で10発。待ってから、もう一度発砲したが、鉛色の不活性霧は反応がなかった。激しくののしったのは、パットの向こう見ず、自分のふがいなさ、ゆがんだ霧影。
 何かしなければ……。ガイア宇宙船に帰り、ハーバードとカレンに探させよう。貴重な時間を費やしている。この瞬間もパトリシアはさまよっているかもしれない。つぶやいた文句は呪いか、祈りか知らないが、ポケットから鉛筆と紙切れを取り出し、伝言を書き殴った。

『パット行方不明。もう1コ糸巻きを持って来て、鋼線を追加しろ。俺の探査圏を広げてくれ。600※(全角メートル、1-13-35)半径の探査を行わせろ』

 紙を鋼線の端に刺し、石の重しを付けてから、3回鋼線を引っ張って、ガイア宇宙船の2人を呼びつけた。それから故意に鋼線をはずし、道案内無しに霧の中に突入して行った。
 どれくらい遠くまで、あるいはどのくらい長いこと歩いたか分らない。霧影がギャーギャーあざ笑い、顔に結露し、鼻や顎からしたたり、難儀なんぎする。大声で叫び、拳銃を発砲し、高音が届けとばかり口笛を吹いて、前後左右に道を歩いた。
 確信していることは、パットなら豊富な知恵があるから迷わない。確かに金星の熱帯で訓練しているので、正しい手順を知っており、道に迷ったら動かないことだし、1歩迷い出せば、一層危険になることも承知だ。
 今やハム自身が道にすっかり迷ってしまった。一体どこにガイア宇宙船があるのか、どっちの方向に案内鋼線があるのか、全然分らない。時々銀色に光る鋼線を見つけたと思ったが毎回、水のちらつきや石の鈍い耀きだった。霧桶の中を移動しているので、どの方向も見えない。
 最終的に、迷子のハムが弱ったのでよかった。何時間も霧の中を当てもなくさまよった挙句、鋼線にかかった、いや実際は引っかかった。ハムはぐるぐる歩き回っていた。
 カレンとハーバードがそばにぬーっと現われ、お互いを絹紐でつないでいる。
「君たち、もしかして……」
 とハムがあえいだ。
「いいえ。でも見つけます。必ず」
 と沈鬱ちんうつに言ったハーバードの蒼白そうはく顔は、絶望して疲れ切っている。
 カレンが言った。
「あのう、乗船して休んだら? へとへとのようだし、手伝いましょうか」
「よせ」
 とハムが厳しく言った。
 ハーバードが思いがけず優しく、
「心配しなさんな。奥さんは分別があります。見つかるまでじっとしていますよ。鋼線の300※(全角メートル、1-13-35)先も徘徊しません」
 ハムが惨めに応答。
「ただし、引き込まれたり、さらわれたりしなければだが……」
「きっと見つけます」
 とハーバードが繰り返した。
 しかし10時間後、ガイア宇宙船の周りを、十数回いろんな方向にくまなく探したが、明らかになったのは600※(全角メートル、1-13-35)鋼線の半径以内に、パトリシアはいない。50回もの耐えがたい探索道中で、ハムは鋼線から自由になりたい衝動にあらがい、もうちょっと先の濃霧内を探したかった。
 パットは目と鼻の先に、消耗して座っているかもしれないし、石を投げたら届く範囲内で怪我をして横たわっているかもしれないが、決して分らない。でも基地となる鋼線から我身を離すのは自殺にほかならないし、狂気どころの騒ぎじゃない。
 皆が杭に着いたとき、そこは出発点としてカレンが印を付けた場所であるが、ハムが立ち止まり、厳しく命令した。
「宇宙船へ戻ろう。この方向に宇宙船を1※(全角KM、1-13-50)移動して、再探査しよう。見失った点から2※(全角KM、1-13-50)もうろついていないはずだ」
「奥さんを探しましょう」
 とハーバードが繰り返した。
 だが見つからなかった。むなしく消耗して探査した後、ハムがガイア宇宙船を移動した地点は、既に探査した2つの範囲円に接する鋼線円、そこでまた熱心に捜索を始めた。
 パットが失踪してから31時間が過ぎ、3人はへとへとになりつつあった。カレンが最初に参ってしまい、疲れて手探りで宇宙船へ戻る始末。あとの2人が、新しい地点へ移動しようと宇宙船へ戻ってみれば、カレンは完全装備のまま寝込んでおり、わきには半分飲んだコーヒーカップがあった。
 時間がゆっくり奈落へ落ちていった。土星がこのもや惑星を着実に先導し、40年先の会合を粛々と約束している。ハーバードは時間のことを一切言わなかった。ハムがこれを始めて口にした。
 ガイア宇宙船が新しい地点に着地したとき、ハムが言った。
「いいか。時間が無い。君たち2人をここに置き去りにしたくないから、ここでパットを見つけられなかったら、君とカレンは去って欲しい。分ったか」
「英国人気質はわかりますよ。でもそういうことじゃないでしょう」
 とハーバードが言った。
「2人がここに留まる理由はない。だが僕は留まる。僕たち夫婦の食料と、武器、弾薬をもらって留まる」
 ハーバードがうなった。
「あほな、40年後には?」
 ハーバードは60歳になっている。
「君たちは去ってくれ」
 とハムが静かに言った。
「二度と去れと言わないで下さい。私達は留まります。奥さんを探します」
 とハーバードがりきんだ。

 でも絶望的になりつつあった。カレンが目を覚まし、皆に加わり、一同で無限霧へ突入していき、人員配列は鋼線に沿って200※(全角メートル、1-13-35)間隔にした。ハムが一番外側に位置して、皆で霧の中を黙々と歩き始めた。
 ハムは限界に近かった。40時間、眠らず食べず、例外はガイア宇宙船に戻って、コーヒーをがぶ飲みし、チョコレートを一噛みするだけ。疲れた目には、霧の形がとても奇妙な様相になり始め、ぐっと近づいて、ひどく意地悪に笑っているように見えだした。
 だから、無理矢理目をしばたき、細め、近目で覗くはめになると、探査道中4分の1あたり、薄暗闇の中に、霧影よりちょっと濃いものが見えた。
 ハムが鋼線を引っ張って、ハーバードとカレンを静止させて、じっと見た。音がする。かすかなうなり声だ。霧影の不気味なこすれ音とまったく違っている。
 びっくりしたのは、もう一つ別な音が聞こえる……、形容しがたい、くぐもった、しかし確かにヒトの声だ。ハムが鋼線を3回引っ張った。これで2人が集まってくるだろう。
 2人がやってきたので、ハムが黒い塊を指さして言った。
「紐を結べば、あれにたどり着ける。2本で十分だ」
 全員で霧の中を慎重に進んだ。なにか、何かが、うごめいている。静かに15※(全角メートル、1-13-35)18※(全角メートル、1-13-35)忍び寄った。にわかにハムが分かった。行列生物の列だ。どうやら巨大な鎖になっている。だっていまだに眼前を通過しているもの。
 ひどくがっかりして、立ち止まり、絶望して前方を眺めていた。それからゆっくりと鋼線の所へ引き返した。
 音だ、鋭い音でハムが凍りついた。せきのような音だ。
 急旋回した。危険な塊が目の前にあるにもかまわず、叫んだ。
「パット、パット」
「ハム、ああ、ハム」
 安堵の極致だ。かすかに弱い声が行列の向こうでふるえている。
「きみ、きみか、大丈夫か」
「ええ」
 ハムは通過生物のすぐそばにいた。その向こう、霧同様に真っ青なパトリシアが3※(全角メートル、1-13-35)しか離れていなかった。
「ありがたい。パット、この行列が途切れたら、ここへ走り込め。そこを1歩も動くな、1歩も」
 パットが震えて、
「途切れる? ああ、途切れないのよ。これは行列じゃない、円環だ」
 次第に分かってきた。
「円環か。ならば、どうやって脱出できるんだ。破れない、だって……」
 と中断した。この奇妙な行列は、今は先導者不在の無害だが、ひとたびどこかの点で壊せば、怖ろしい吸血鬼に変身して、パットを攻撃するかもしれない。うめいた。
「主よ」
 ハーバードとカレンはそばにいた。ハムがゆるんだ紐をつかんで叫んだ。
「ここだ。横切るぞ。ここに立て」
 ハムが2人の肩に這い上がった。その高さなら円環行列生物を飛び越すことができるかもしれない。可能なはずだ。
 飛び越したけれども、カレンとハーバードはハムの体重82※(全角KG、1-13-52)にうめいたが、天王星上の重さだ。ハムは即座にパトリシアを確保した。円環怪獣の脅威が差し迫っている。
 ハムが円環の外にいる2人に紐の端を放り投げた。
「パット、紐を高く掲げたら、円環を渡れるか」
 パットは今にも倒れそうだ。
「もちろんよ」
 とつぶやいた。
 ハムがパトリシアの手首と足首を紐で固定してくれた。ゆっくり、痛そうに、南米ナマケモノが渡る方法で、一手ずつ進んだ。
 ハムが一瞬恐怖を感じたのは、円環生物の真上でパトリシアがぐらついたときだったが、渡りきって、向こう側のハーバードの腕にどすんと落ちた。
 パトリシアが叫んだ。
「ハム、どうやって渡る?」
 ある考えが浮かんだ。
「飛び越えるぞ」
 その考えに時間をかけなかった。残った体力を集中して、短い助走で2※(全角メートル、1-13-35)高さの障壁を飛び越え、黒いぶよぶよの背中に、くるぶしが当たった。
 パトリシアがよろよろ立ち上がり、しがみついてきた。ハムがすぐにつかまえて、息も切れ切れに、
「主よ。もし見つけられなかったら……」
「でも見つけた」
 とパットがぼそっと言ってから、突然衝動的に笑い出したが、咳が詰まって笑うのをやめて、
「なんで来なかったの? すぐ来ると思っていたのに」
 と、円環生物をにらみつけて叫び、
「奴らを短絡してやった。奴らの脳みそを短絡した」
 と言って、ハムに倒れ込んだ。ハムは無言で持ち上げて、ハーバードとカレンに従い、鋼線を伝って、ガイア宇宙船に戻った。後には無限に回りながら円を描く呪われた生物が残った。

 宇宙船のジェット噴射を後塵こうじんに、天王星が禁断の緑星となり、土星が青い光星となり、左手には、ちっぽけだが強烈に輝く太陽があった。
 パトリシアの咳はガイア宇宙船の清浄な空気で既に止まっており、回転椅子におとなしく座り、ハムに微笑みかけてこう言った。
「あのね、私が紐をほどいたあとは、待つべきよ。二度も説教させないで。ほんの数歩、霧に踏み込んで結局見た植物は、かつての屈曲植物と同じでクルプトガミ・ウラニと命名済みと分かり、戻ってみたら、あなたがいないじゃない」
「いないだと。僕は動いちゃいない」
 パットが冷静に繰り返した。
「いなかった。ちょっと歩いて叫んだけど、声がこもって消えてしまった。そのとき、別な方向から銃声が数回したから、その方向へ行ったら、藪から棒に行列毛虫が霧から突っ込んで来た」
「それでどうした?」
「何ができる? 近すぎて銃を抜けなかったので、逃げた。奴らは早かったが、私も足が速いので、先頭を保ったが息が切れ始めた。そのとき考えて、急旋回したら逃げ切れるのじゃないか、奴らは急に曲がれないし……で、数分時間を稼いだけれども、濃霧のために捕まる危険はあった。そのとき、ひらめいた」
「必死だな」
 ハムを無視して、
「おぼえている? 言ったでしょ、ファーブルの松の行列毛虫の研究を。実験では、大きな花瓶の縁を動いている行列毛虫を、円形にしたんだ。先導者がいなくなって、どうなったか、わかる?」
「まあね」
「そのとおりよ。先導者がいなくなると円形に、何時間も、何日もただ回り続け、時間は知らないが、ついに疲労から行列が崩れると、新しい先導者が切れ目から出てくる。これを不意に思い出したものだから、真似してやろうと思った。咄嗟に行列の尻に回り込み、追っかけを前面におびきよせた」
「なるほど」
「そうよ。円を閉じようと、外へ逃げたが、何かがうまくいかなかった。行列の尻をうまくつかませたが、ちょうど疲れ果てたので、つまずいたか、どうしたか、次に覚えているのは、自分が地面に横たわり、毛虫の足が目の前で行進していた。円の中に閉じ込められていた」
「たぶん疲れて気絶したんだ」
「気絶なんかしない」
 とパトリシアがもったいぶって言った。
「助け出したとき気絶したよ」
 パットが反論。
「あれは、飲まず食わず起きていた40時間後に、眠っただけよ。気絶とか卒倒とかとは全く違う、脳に血液が行かなくなるのだから……」
「そうだな。脳が関係するなら、きみが気絶するなんて有り得ないな。続けて」
 パットが穏やかに再開。
「まあ、そういうこと。もちろん円陣の中で休むこともできたが、攻撃されるかもしれないし、ガイア宇宙船の場所も全然分らなかった。だから、そこに座っていたのが、1週間か、10日か、1ヶ月か……」
40時間だよ」
「それに霧影がソーセージ行列生物の上方でカサカサ音を立て、チカチカして、突進し、ヒューヒュー言い続けるので、狂いそうになった。恐ろしかった、実態を知っていても、恐ろしかった」
「何を知っている? アレは何だ?」
「一つ思い当たることがある。じっさい、カレンの赤外写真を見た途端に、思った」
「じゃあ、一体アレは何だ?」
「そうね、あのくさり生物を目近で調べるいい機会だった。奴らは完璧な生物じゃない」
「僕もそう思う」
「変態していないという意味よ。じじつ、奴らは幼虫だ。そして霧影は変態後の姿だと思う。そのため霧影が幼虫を我々にけしかけた。わからないの? あの鎖生物は霧影の子供なのよ。毛虫や、蛾のようなものよ」
「まあ、もちろんそういう可能性はあるが、霧影の奇妙な顔や、大きさが変わるのは?」
「大きさは変えない。いい、天王星からの光は直接に頭の上から来るじゃない? だから影は真下にできるのは明らかよね。そこで私達が見たものはガーゴイル一味がちらついたり、移動したりした結果だが、浮遊物体や飛行物体の単なる影に過ぎなくて、これらが霧に反射したものよ。だから霧影が大きくなったり、小さくなったり、形を変えたりした。翼を持った生物が上下左右を動き回った影に過ぎない。わかった?」
「もっともらしいな。そのように報告しよう。それに80年内に天王星の北極がまた太陽光線を受けるから、誰かが訪れて、理論を確かめるだろう。たぶんハーバードが案内するだろう。どうだ、ハーバード? 80年内にまたここを訪問したいか」
 宇宙飛行士のハーバードがぼやいた。
「女性なしでね」





底本:The Planet of Doubt. First published in Astounding Stories, October 1935
原著者:Stanley G. Weinbaum
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翻訳:奥増夫
2023年8月29日作成
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