赤ペリ

THE RED PERI

惑星シリーズその6

スタンリイ・G・ワインバウム Stanley G. Weinbaum

奥増夫訳




[#ページの左右中央]


冥王星



[#改ページ]

第1章


 オランダのロケット、アードキン号はミデルブルフ発の貨客船、慎重に降下中、霧と雲に覆われた地球が2万※(全角KM、1-13-50)下にあり、逆噴射で降下を支えている。この最後の区間は金星旅行でも難しい行程に相当する。
 というのも、葉巻大型ロケットは宇宙空間では素晴らしく早いけれども、強い重力場では手動操縦に頼るほかになく、エイク船長は中央ヨーロッパや中部大西洋のどちらにも降りたくなかったし、結果的に母港が嫌いじゃなかったからだ。母港ゼーランド州ミデルブルフに降りたかった。
 そのとき、右方向にとても奇妙な形の宇宙船が現われて、操縦室窓からわずか400※(全角メートル、1-13-35)の所に見えた。エイク船長が興奮して怒鳴った。
「ぶちのめせ」
 不意に、わきの拡声器が命令した。
「噴射を止めろ」
 船長がやり返した。
「野郎め、ブタめ」
 2番目の悪口は、記録するには、ちょっときつ過ぎる。
 黒い空に機影が急に近づいてきた。今や視認できて、金属ロケットのように輝いているが、決して円錐型のアードキン号のようでもなく、ほかのロケットにも似ておらず、例外的だ。
 形は中空三角形、各角から太いはりが立ち上がり、頂点で合体している。要するにはりの側面が透けた四面体となっており、はりの焦点から、青い原子力噴射炎が放出され、宇宙空間へ扇風機のように広がっている。近づくにつれ、この妙な宇宙船は、巨大な貨客船アードキン号に比べれば小さくて、側面はせいぜい30※(全角メートル、1-13-35)、8分の1の長さもない。
 再び拡声器からキンキン音がした。どうやら変な宇宙船の光線に反応しているようだ。
「噴射を切れ。噴射をとめろ、止めないと乗っかるぞ」
 エイク船長が罵詈雑言ばりぞうごんをやめて、深くため息をついた。海賊船の猛烈な噴射に自船を晒すつもりはない。わきの伝声管に命令を怒鳴ると、噴射轟音が止まった。鈍重貨客船にどんな機動力があろうが、いまや失われ、もはや敏捷しゅんびんな海賊船に体当たりを喰らわすチャンスはない。
 噴射が止まると、完全に無重力になり、自由落下となり、2万※(全角KM、1-13-50)落下には相当時間がかかってから、危険になる。エイク船長がまたため息をついて、床の電磁力を入れるように命令し、海賊船の指示を呆然ぼうぜんと待った。
 なにはともあれ、貨物には保険がかけてあり、ボイズマリン社が損害補償するだろう。さらにボイズは英国の会社だから、船長は優良オランダ船を危険に晒す気はないし、良きオランダ船長を自称するならば、英国損害保険会社の損失を救う気なんか、さらさらない。
 操縦室の扉が開き、1等航海士のホーキンズが駆け込んで来て、叫んだ。
「どうした、噴射が止まったぞ」
 それから舷窓げんそうの向こうに、ギラギラ光る機体を見て、
「赤ペリ号だ、忌々いまいましい海賊め」
 エイク船長は何も言わなかったが、薄青の瞳で不機嫌に見つめる先には、塗装機体があり、塗装が海賊船の船体にくっきり見え、まるで真っ赤な翼を持った小悪魔の姿だ。海賊だと認めるのに、旗は必要ない。奇妙な構造で十分、だってこんな船は宇宙にないもの。
 声が再び響いた。
「エアロックを開けろ」
 エイク船長が命令を下し、厳しい顔で乗船一行の受け入れに向かった。通路が延びて船体にどんと当たる音がして、貨客船体にピタッと磁石がくっつく音が聞こえた。エアロック内扉にシュッと空気が注入された。船長が開けるように命令、声は妙に落ち着いている。またしても、保険会社のことを考えていた。
 アードキン号乗客20名のほとんどが通路に集まっていた。噴射が止まり、1等航海士のホーキンズが司令室から助けを求める声がしたため、乗客全員が事件を知り、赤ペリ号のギラギラ三角形を見て、正体を知った。
 エアロックが内側に開き、接続した先には、鉄枠にゴム張りした通路トンネルがあった。
 宇宙服を着た数人が、変装のためか、あるいは押込強盗に警戒が必要なためか知らないが、丸い入口を通り、これ見よがしに自動拳銃やガス銃を持っている。
 無言だ。十数人の海賊が整然と船尾の船倉へがちゃがちゃ音を立てて行き、細身の男が1人でエアロックを厳しく監視した。連中は5分で戻って来て、どんな略奪品を見つけたか、重さを感じぬ奇妙な動きで引っ張ってきて、あたかも水に浮かべているかのよう。
 エイク船長が見たのは、種子嚢しゅしのうが入った箱、これはダイヤモンド数十個分の貴重品で、これがエアロックに運ばれ、それから金星産の箱詰めインゴット銀が17箱続いた。小声でののしったのは、金星オランダ領アルプス鉱山から採掘したエメラルドの小箱を見たとき、そして罰当たりにも、どうやってアードキン号の金庫を、トーチや爆発物無しで破ったのかと不思議がった。
 事務長室をのぞくと、鉄製大金庫に奇妙なギザギザ穴があり、切ったと言うより、腐食させたか、単に壊したように見えた。そして、海賊は無言で自船へ戻っていき、士官や乗務員や乗客に話しかけたり、危害を加えたりすることはなかった。
 例外はたぶん1人だ。乗客の中にアメリカ人のフランク・キーンという若い放射物理技師がおり、永劫山えいごうさんパトリック峰にある太陽風観測所から帰るところだった。エアロックの端に陣取り、退却海賊がそばを通ったとき、不意に飛び出し、眼を細め、大胆にも警備兵の黒バイザーを覗き込み、叫んだ。
「ほう、赤毛か」
 警備兵は何も言わず、金属手袋を振り上げた。金属の親指と人差し指が、日焼けしたキーンの鼻に激しく当り、乗客の中にどっと押し戻され、傷ついた鼻から2筋の血が噴き出した。
 キーンが痛みにうめき、うつろに言った。
「わかった。いつかまた会おうぜ」
 やっとしゃべった警備兵の声はヘルメットの振動板からキンキン響き、
「会うときは2人だけにしろ」
 そして、警備兵は皆の後について行った。エアロック外扉がバタンと閉まり、磁力が切れて通路が外れ、赤ペリ号はツバメのようにさっと、近日点彗星すいせいのように素早く、漆黒空間へ飛び去った。
 キーンのそばでエイク船長が、
「何てえ船だ。キーン、あれが赤ペリ号じゃないかね」
 船長は着陸航路を新しく決める面倒な作業中も時折、繰り言を言っていたが、1時間後、連盟の小型ロケットが1等航海士ホーキンズの要請に応じて現われたとき、連盟の士官にこう言った。
「海賊船には手も足も出なかった。たとえ君らのデブ宇宙船が奴らの加速に匹敵しても、追いつけまい」

 1年後、フランク・キーン技師は赤ペリ号や赤毛海賊のことなど、すっかり忘れていたが、折にふれ、有名な海賊のことが話題になる度に、当時を思い出した。
 結局、海賊が15年近く捕まらずに宇宙を荒らし回ってみれば、キーンがなにかしら伝説的、英雄的な人物となった。新聞やラジオが連日言及し、数々の喜ばしからざる無法者の狼藉ろうぜきについて、キーンが非難されたり、キーンのせいにされたりした。
 依然として赤ペリ号のアジトは謎だったが、連盟宇宙船は小惑星帯や、見捨てられた月の裏側や、火星の極小衛星などを調べ回った。すばしっこい海賊は相変わらず獲物を仕留め続け、用心深く惑星の重力圏に忍び込み、人知れず出入りしていた。
 だがキーン技師は、この有名な海賊のことなど考える余裕はなかった。いまキーンに同行する55歳のソロモンはスミソニアン所属、2人の行先は、小数の人間しか行ったことがなく、苦界であり、おそらく特殊だろう。
 目下、リンボ号は凸凹黒円盤の冥王星に降下中で、基地から約30※(全角KM、1-13-50)離れており、ぜんぜん楽しくない。
 キーン技師がうめいた。
「絶対に、着陸しなければなりません。望んでこの石炭殻の冥王星に駐留するとお思いですか。修理しなければなりません。船尾の噴射口が1個壊れたままでは操縦できません、注意しないとグルグル回転します」
 ソロモンおうは硬放射線や恒星化学や天体物理学には詳しかったが、技術者じゃない。悲しげに言った。
「なんで息継ぎ走行が駄目なんだ」
「まったく。言ったでしょう。5時間も費やして、一番近い居留地への到達時間を計算しましたよね。その居留地が土星近くのタイタンで、ここから15※(全角KM、1-13-50)だと言いました。現在の速度では息継ぎで行かざるを得ません。その理由は加速を一定に保てないからです、もし息継ぎで行けばちょうど4年3ヶ月かかります。食料は3ヶ月分しかないので、残り4年はどうやって生き延びますか。原子力ですか」
「じゃあ冥王星で何ができるんだ。なぜ予備の噴射口を持ってこなかったのか」
「噴射口は溶けないと思われていたからです。何ができるかという点ですが、耐熱金属鉱石が見つかる可能性があります。プラチナ、イリジウム、タングステン、その他高融点金属で、長い噴射口を造れば、ジェットで船尾を溶かすことはありません。ですから、この進路を進めば、そういうことになります」
「冥王星にはタングステンがある。ハーベイとキャスパリがそう報告している。でも大気はないが、何にせよ液体か固体はあり、例外的にヘリウム圧がおよそ0.5※(全角CM、1-13-49)水銀柱ある。冥王星は直径約2万※(全角KM、1-13-50)、表面重力は約1.2、反射能は……」
「興味ありません。いえ、ソロモンさん、すみません、八つ当たりして。欠陥噴射口のせいです。でもヤバイ状態です。帰還したら責任を追及しましょう。スミソニアン協会の全財力を持ってすれば誰でも、信頼できる装置を提供できると思うでしょう。ほら、到着します」
 リンボ号がきしり、震えて、着地した。外は、ちりと煙の混じった竜巻が舷窓の周りに逆巻き、立ち昇り、さっと静まり、まるで砂を噴射したかのようで、船の周りはほぼ真空だ。
 キーンが噴射を切った。フックに懸けた宇宙服の所へ行って、
「さあ、時間を無駄にせず、調査しましょう」
 重い宇宙服に身をねじ込み、黒い惑星・冥王星の表面重力に気づき、いらついた。冥王星の重力では、地球上80※(全角KG、1-13-52)体重が、さらに16※(全角KG、1-13-52)重くなる。
「丸腰か」
 とソロモン翁が訊いた。
「銃? 何のためですか。この惑星は死んでいます。あの噴射口を試験した人の脳と同じです。真空、絶対10度の環境で、有機生命があり得ますか」
 キーンがエアロックの内扉を開いた。キーンの声はヘルメットの振動板のせいでキンキン声だ。
「ところで、このスミソニアン探検隊の任務は外惑星空間・宇宙放射強度測定です。我々は完璧に実行しました。現在、探検隊の唯一の問題はこの統計結果を持って帰還することです」
 こう言って、外扉を開き、冥王星の黒い表面へ踏み出して行った。
 キーンの知る限り、自分は4番目、ソロモン翁は5番目に、この黒い惑星に降り立つ。アツキがもちろん1番目、ただし計算と写真を信用すればの話、勇猛なハーベイが2番目、キャスパリが3番目だ。
 ここ太陽系の外れでは、真っ昼間であっても地上の満月より暗く、妙に黒い表面のため冥王星の反射能は低く、より一層暗く見える。
 でも摩訶不思議な山々の外形を見分けることができて、これらはリンボ号が着地した盆地の彼方かなたにあり、近くには無数の奇妙な尖った岩や丘の岩が、風や水に浸食されずに、ぬーっと突き出ている。
 すぐ右側に白く輝く残雪のようなものがあったが、雪じゃなく、凍結空気であると知っていた。こんな吹きだまりには、あえて足を踏み入れない。というのも、凍結空気は断熱宇宙服に強力にくっつくし、岩の地面よりはるかに熱を伝えやすいからだ。
 頭上には銀河の星々が輝き、変わりようのなさと言ったら、あたかも約30※(全角KM、1-13-50)太陽側の楽しい地球に立っているかのようで、星々との無限距離に比べれば、30※(全角KM、1-13-50)なんてどうってことない。辺りの風景は殺風景、黒っぽく、荒涼として冷涼だ。これが冥王星、太陽系の端を回る惑星である。
 2人が仰天したのは、尾根の所で何か淡く光っており、何かの原石に違いない。妙なことに自分の足音は聞こえる。その理由は宇宙服素材が音を伝えるからであり、そのほかは全く不気味な沈黙だ。
 お互いに通話できないわけは、2人の宇宙服が宇宙空間での緊急修理用にしつらえたものであり、無線を備えていないからであり、通話するためには相手の手か、腕に触る必要があり、こうすれば素材を通じて音が容易に伝わる。
 尾根の所でキーンが立ち止まり、不機嫌に見つめたのが、星明かりに輝く鉱脈だ。ソロモン翁の肩に手を置いて、
「黄鉄鉱です。もっと遠くを探すべきです」
 キーンは右へ曲がり、歩き出したが、地球上の体重より30※(全角KG、1-13-52)ぐらい重い。確かに、と思い詰めたのは、こんな環境ではソロモン翁は長く探査できないだろうなあ。渋顔になった。
 キャスパリの報告によれば、ここには重金属が大量にあり、そんなに長駆探査は必要ないはず。急に止まったのは、石が1個、岩の表面を転がってきたからだ。きざしだ。
 薄明かりの外れで、ソロモン翁が身振りしている。キーンが振り向き、引き返し、凸凹地面を這いずり、余りにも急いだので息が切れて、バイザーが曇り始めた。翁の腕に軽く触り、尋ねた。
「どうしましたか。金属ですか」
 ソロモン翁の声が弾んでいる。
「金属? 違う。キミは冥王星には有機生命はいないと言ったよな。無機生命ならどうか。これを見ろ」
 見た。尾根の狭い割れ目というか、裂け目で何か動いている。一瞬、小川が流れていると思ったが、小川つまり液体の水は冥王星では有り得ない。目を細めてよく見た。結晶だ。結晶のかたまりが薄闇で灰白色に光り、ゆっくりとっている。
「驚いた。キャスパリはこれに言及していません」
「忘れるな。冥王星の表面積は地球全表面積より36%広いのだぞ。全体の1万分の1も調査されていないし、これからもできないだろう、ロケットを調達する必要があるからな。もしアツキが……」
 キーンがじれてさえぎって、
「分っています。でもこれはタングステンでもプラチナでもありません。進みましょう」
 と言いながら、這い回る微光物体を眺めた。静寂の中で絶えず聞こえてきたのは、カサカサ、カラカラ、サラサラという音、地面から足を伝わり、ヘルメットへ届く。
「何の動力で動いているのですか。生きているのですか」
「生命? さあな。結晶は無機物質なのに生命に近いぞ。食べて成長する」
「でも結晶は生きていません」
 いまや、ソロモン翁の得意分野だ。教授口調になり、
「さて、生命という基準は何か。動くことか、違う。理由は風、水、火が動くのに、多くの生き物は動かないからだ。成長か、違う。理由は火や結晶も成長するからだ。再生か、これも違う。火も結晶も、供給物質があれば再生する。それでは生物と死物を分けるものはなんだ?」
「それを訊いているじゃありませんか」
「では教えてやろう。たった1つ、いやたぶん2つ基準がある。第1に、生物は刺激に反応する。第2に、これがもっと重要だが、適応することだ」
「へえ?」
 ソロモン翁が続けた。
「いいか、火は動き、成長し、喰らい、再生するじゃないか。でも水からは逃げられない。火は水に逆らえないが、生き物は毒に反抗する……火は水が毒になる。どんな生き物も毒を食べると、排出しようとする。耐性を発達させたり、高熱を出したり、毒物を吐き出したり。もちろん、たまには死ぬが、生き延びようとする。でも火はそうしない。
 適応については、今まで火が自発的に獲物をあさったことがあるか。敵の水から意図的に逃げるか。原始的な生物さえも敵を知っている。哀れなアメーバですら、環境に対して積極的に適応する姿勢を見せるぞ」
 キーンがのろまな結晶列をしげしげ眺めていると、結晶列が黒平原へ出て、いまキーンの足元に衝突している。かがんで、はっと気づけば、もう足を避けていた。
 ソロモン翁の腕に触って、
「見て下さい。これは生物です。のろま結晶じゃなく、生物の集合体です」
 本当だ。カサカサと動く結晶は、親指爪ほどの大きさから、イヌほどに大きく集合して、光る塊になっている。カチカチ、カサカサと音を立て、どうやら底部結晶がゆっくり動いているようで、蛇が腹のうろこで移動するようなものだが、ずっと硬くてのろい。
 無造作にキーンが金属靴で蹴った。パッと青い静電気と共に砕け、破片が、のろのろ動き出した。
「たしかに刺激に反応しませんね」
「おい、見ろ。適応してるぞ。食べている」
 ソロモン翁がキーンを尾根から1※(全角メートル、1-13-35)引き下ろした。そこには小さな青い堆積物があり、粘土が凍ったようであり、おそらく無限過去に冥王星が熱を持ち、液体水や気体空気があったころ、岩が砕けて粉末状になってできた産物だろう。
 例の結晶物がそばに留まり、2人の見ている前で、だんだん成長して、灰白色の結晶ができており、あたかも冬の冷たい窓に霜が広がるかのようだ。
 ソロモン翁が叫んだ。
「アルミニウム食だ。この結晶はミョウバンだ。粘土を食べている」
 キーンがソロモン翁より冷静だった訳は、ずっと実務家だったせいだろう。
「さあ、これ以上道草はいけません。耐熱金属が必要ですが、アレは不要です。あなたは尾根を調べて下さい、私は越えますから」
 キーンが突然中断し、唖然と足元を見れば、粉砕した結晶が動いている。靴の表面に小さな光る点々が集まって、次第にギラギラ広がっている。
 宇宙服が破れたら死を意味するわけは、相当な漏れがあれば酸素発生器が圧力を維持できないからだ。かがんで、アルミニウム食・結晶をあたふた剥ぎ落とし、汚染が広がっているんじゃないか、もし手袋に広がっていたら……。
 ソロモン翁がバイザーの裏側で、聞こえないように無駄口を叩いている一方、キーンは足元の黄鉄鉱土に手袋をこすりつけた。
 うまくいきそうだ。こびりついた結晶を、粗い物質でこすり落とし、靴周りに沿って狂ったように厄介者をそぎ落とした。どんな小さな穴もあいていませんように。がむしゃらにかきむしり、とうとう表面が傷だらけの凸凹になったが、結晶は着いていない。
 ふらふら立ち上がり、何か身振りしているソロモン翁に手を置いて言った。
「それから離れて下さい。奴らは食い……」
 キーンの言葉は完結しなかった。何か硬い音が宇宙服の背中で響いた。金属質の声がキンキン響いた。
「動くな、2人とも」

第2章


「なんてこった」
 とキーンが息を呑んだ。固定ヘルメットの中で頭をねじり、後部バイザーを覗いた。5人、いや6人、青い金属宇宙服姿が立っていた。
 結晶生物を払いのけている間に、音のしない真空中を接近したに違いない。一瞬、不気味な衝撃をうけ、驚き、怖れ、謎めく黒惑星の奇怪な住人に出会ってしまったと思ったが、よく見ると形は人間だ。バイザーの裏側にそのような顔がうっすら見え、声もそのように聞こえた。
 キーンがうろたえて、
「いいか、君らには干渉しない。欲しいのはタングステン、用途は修理……」
「歩け。いいか、お前は殺されようとしているんだぞ。さっさと歩け」
 と怒鳴った声は、キーンの背中に突きつけられた武器から伝わった。
 歩いた。できることはほとんど無く、考えれば敵の手には自動拳銃があり、脅している。のろのろ歩きながら、背中に銃口が押しつけられているのを感じ、横を見れば、ソロモン翁が足を引きずり、すでに疲れを見せている。
 翁がキーンの腕にさわり、震え声で言った。
「どういうことだ?」
「知るわけないでしょう」
 とキーンが鼻白んだ。
「だまれ」
 と後ろで命令。
 かすむリンボ号を通り過ぎ、150※(全角メートル、1-13-35)から300※(全角メートル、1-13-35)歩いた。真正面に別なコップ形状窪地の縁があり、一方のリンボ号が降りた窪地には妙な形の黒々とした高い崖があった。
 にわかにキーンが驚いた。小規模崖に過ぎないと思っていたものがいまや、金属フレームの透けた四面体、3本のはりシャフトが、下部の中空三角形から伸びて、1点に集まっている。
「赤ペリ号、赤ペリ号だ」
 とキーンが息を呑んだ。
 皮肉な声がした。
「なんで驚くんだ。探し物が見つかったんじゃないのか」
 キーンは何も言わなかった。海賊船が現われてびっくりだ。誰も今まで想像もしなかったことだが、すばしっこい海賊といえど、基地から限りなく遠い黒惑星・冥王星へ行けるものなのか。どうやれば味方の俊敏な宇宙船をもってして、30※(全角KM、1-13-50)の宇宙空間に浮かぶ黒い冥王星から、餌食の惑星へ飛び立つ海賊の軌道を探すことができようか。
 キーンの知る限り、リンボ号以前には、わずか2機しか、いやアツキが嘘を言っていなければ3機だが、今までこの遠大な深淵に到達していないし、これらの旅には絶え間ない苦しみや痛みが伴うことを知っている。
 心の中で、1年半前のエイク船長の言葉が響き、つぶやいた。
「何てえ船だ、主よ、何てえ船だ」

 赤ペリ号の船体を回ると、崖にぽっかり穴が空いている。黄色い光りが漏れており、見れば洞穴の屋根に馴染みの蛍光灯がある。
 無理矢理、入口に押し込まれ、一瞬でバイザーが湿気で曇った。空気が暖かいことを意味するが、エアロックも見なかったし、作動音も聞こえなかった。眼鏡を金属被覆ひふく手袋でこすりたい衝動を抑えた。そんなことをしてもつゆは払えない。
 声はまたしても妙に皮肉的だったが、幾分和らいで、
「ヘルメットを開けてよい。空気がある」
 従った。自分やソロモン翁を取り囲む連中を見渡せば、まだヘルメットを付けているものや、すでに不快な宇宙服を脱いでいるものもいる。
 目の前に、ほかより背の低いのがおり、思い起こせば、あのアードキン号事件の赤毛海賊だ。窮屈なヘルメットを外している最中。
 ヘルメットが脱げた。あらわになった顔を見て、またしても息を呑んだ、女だ。むしろ、小娘、というのも、せいぜい17歳だもの。キーンの息が止まったのは、全く驚いたせいじゃなく、純粋に感動したからだ。
 銅とマホガニーの中間色を赤と呼べば、赤毛で十分。目は明るい緑色、肌は絹のように柔らかく、青白いのは、めったに陽光に晒されないためだが、蛍光灯の紫外線に当たって、次第に色づいてきた。
 女が面倒な金属宇宙服を脱ぎ捨てて、現われた姿は完全に都会的な衣装であり、シャツ、短パン、粋な編み上げ靴など、宇宙服にぴったりだ。
 女が2人に振り向いたとき、キーンはよわい26歳、ソロモン翁の死んだ目も釘付けだ。
 体はすらりと伸び、カーブを描き、引き締まっており、細いけれども四肢にしなやかさと強靱さがあるのは、おそらく冥王星という異常な重力のもとで暮したからだろう。
「宇宙服を脱げ。マルコ、この2人も皆と一緒に監禁しろ」
 と冷たく命令すると、皆が従った。
 背の高い黒毛の男が、脱いだ宇宙服をガチャガチャ集めていた。
「了解、船長」
 と言って、差し出された鍵を受け取って、洞穴へ消えていった。
「ええっ、船長? じゃあ、キミが赤ペリか」
 緑眼がギラリ。ねめ回されるキーンの体は頑丈で、褐色、力がみなぎっており、大学の水泳部で鍛えたもの。女が無表情で言った。
「おまえとは前に会ったな」
「いい記憶だ。アードキン号にいた」
 女がちらと笑顔を見せ、記憶を楽しんで、鼻を見て、
「鼻に傷は? 無いようだな」

 連中のうち2人、いや3人が、洞穴の長い回廊を走ってきて、興味深そうにキーンとソロモン翁を眺めている。
 2人は男、3人目は亜麻色あまいろの髪のかわいい青白い少女だ。赤ペリがちらと見て、岩壁の大きな石に座った。
「エルザ、たばこを」
 と言って、青白い少女から1本取った。
 煙草の臭いに、キーンが我慢できなくなったわけは、宇宙船の貴重な空気に、そんな嗜好品は許されなかったからだ。最後に煙草を吸ってから4ヶ月経っており、あれはタイタンにあるニビアという極寒の小さな雪の町だった。
「1本もらえませんか」
 すると、赤ペリが緑眼でねめつけて、短く、
「駄目だ」
「欲しいんだ、なぜ駄目か」
「吸い終わるまで生きちゃいないと思うよ。それに補給は限られているし」
「略奪品だからな」
 女が紫煙を当てつけに吹きかけて、
「そうだよ。いいか、こうしよう。煙草と情報を交換しようじゃないか。どうやって、つけてきたんだ」
「付けて来ただと?」
 とキーンが困惑してオウム返し。
「いったとおりだ。寛大な提案だよ、拷問して、はかせることもできる」
 キーンは素敵な緑眼を覗き込みながら、そんなことができるはずはないと思った。丁寧に言った。
「付けて来てはいない」
「たぶん冥王星に来たのは、いい商売探しか、あるいはキャンプ旅だろう。こんな作り話だろ?」
 女の冷酷で傲慢な態度にキーンが怒って、
「事故でここへ来たんだ。噴射口が1個溶けた。信じないなら見てくれ」
「噴射口は意図しない限り、溶けない。とにかく、冥王星の近辺で何をしていた? たぶん数百万平方※(全角KM、1-13-50)表面の中から偶然この盆地を着陸地点に選んだとおもう。まあ、嘘をついて良いことはない、どうせ死ぬんだから。でも本当のことを言えば、痛い目に遭わずに死ねる」
 キーンがカッとなって、
「本当のことを言っているだけだ。信じようが信じまいが、偶然にこの盆地へ降りた。我々はスミソニアン探検隊で、目的は外空間の宇宙線研究だ。ニビアの出港書類で証明できる」
「フフフ、秘密任務にはいい偽装だな。そんな種類の政府書類は欲しけりゃ何でも手に入るんじゃないか」
「偽装だと。いいか、赤ペリの捕獲なら、こんなものを持ってくると思うか。カメラや干渉計、検電器、偏光器、ボロメータなんぞ。船内を調べてみろ。銃は1丁しかないし、ちっぽけな拳銃だ。場所も教えよう。飛行机の右上引き出しにある。ここに着陸した理由は、噴射口が焼き切れたとき、冥王星が最短の陸地だったからだ。本当だ」
 赤ペリがちょっと考え込んで、ちらと見て、意味深に言った。
「さあねえ。重大なことだ。もし本当なら、とても運が悪かったな、だって絶対に釈放できないし、客人にするつもりもないから。つまり、いぜんとして死ぬ運命だってことだ。ところで、名前は?」
「こちらはスミソニアン協会のソロモン教授、僕はフランク・キーン放射線技師だ」
 緑眼が老教授に向いて、ゆっくり、
「ソロモンは聞いたことがある。教授は殺したくないが、実際ほかに方法がない。だろ?」
「どんな情報も渡さないと約束する」
「ハハハ、私は口先なんかぜんぜん信用しない。じゃあ、そのように宣言するか」
 キーンがあざける女の目を30分たっぷり、ながめた挙句言った。
「情報は渡さない。スミソニアン協会へ入ったとき、宇宙でも法律を守ると誓った。たぶん探検家の多くが、誓いは単なるおしゃべりだと思っている。何人かは協会をだしにして、金持ちになったのを知っている。でも僕は誓いを守る」
「ハハハ、どうでもいい。私は自分の安全を他人の言葉にゆだねることはしない。でも、お前の処理問題は残っている。フフフ。即座に死にたいか、それとも拷問に耐えられると思うか、お前の話をチェックし終わるまでずっとだぞ。ざっくばらんに言うと、どっちにしろお前は殺す必要がある。ほかに道はない」
「待つさ」
 女が煙草の吸いさしをはじき飛ばし、優美な足を組んで、
「わかった。エルザ、もう1本」
 キーンが金髪少女エルザをサッと見ると、エルザが煙草に火を差し出している。その態度には何かやや反抗的なものがあり、あたかも憎しみや怨念を必死に抑えているかのよう。
 エルザがぶっきらぼうに、いらついて火を引っ込めた。
 緑眼の指導者が言った。
「以上だ。お前たちは準備ができるまで、監禁する」
「ちょっと待て。質問に2、3答えてくれないか」
 女が肩をすぼめて、
「よかろう」
「赤ペリはあなたが1人だけか」
「1人だけだよ、フフフ、なぜ訊く?」
「だってキミは老子のように80歳になっていなければならないからだ。海賊は15年間活動しているけど、キミは17歳を越えていない。つまり、キミは2歳で海賊を始めたのか」
19歳だよ」
「おお、4歳で始めたのか」
「気にするな。ほかには?」
「赤ペリ号を設計したのは誰だ?」
「優秀な設計者だよ」
「違いねえ」
「そうだよ。ほかにきくことは?」
「これまで1個は答えなかったな。じゃあ、もう1つ。リンボ号が期限内にニビアに戻らなかったら、どうなると思うか。次の国営ロケットが我々の捜索に発射されるぞ。最初に冥王星を探すと分らないのか。ここの基地は見つかるぞ、そしてもし我々を殺したら、キミらはもっとひどいことになる」
「ハハハ、おどしにもならない。タイタンは地球・冥王星距離の4分の1以内にないし、毎日遠ざかっている。土星と冥王星の次のごう50年後だし、お前らのおんぼろロケットで乗り移れるチャンスはごうだけだろ。知っているはずだ。
 もっと言えば、見つからないばあい、あきらめる以外、手はないし、行方不明のスミソニアン探検隊としては第一号でもないだろう。それに、捜査隊を送っても、どうやってさがすんだ? めくら計算でか」
「無線だ」
「おや、リンボ号に無線を積んでいたのかねえ」
 キーンがうめいて引き下がった。当然、小型探検ロケットに無線はない。貴重な部屋に積んだのは燃料、食料、必要観測機器であり、無線にどんな使い道があるというのか、何もない広大な外惑星空間の探検家にとって――。
 一番近い居留地はタイタンのニビアだが、数億※(全角KM、1-13-50)離れており、既存の最強無線でも届かない。
 赤ペリがキーン同様に知っていたのは、2人が見つかる可能性が全くないってこと。簡単に捜索が打ち切られ、科学の殉教者と呼ばれ、観測結果に関心のある少数の研究者達に惜しまれて、それから忘れ去られるだろう。
「ほかに質問は?」
 と赤ペリが小馬鹿にして尋ねた。
 キーンは肩をすくめたが、不意ふいにソロモン翁が口を利いた。
「あの入口は? どうやって空気が逃げないようにしているんだ?」
 と洞穴入口を指差して、的外れにわめいた。
 キーンが振り向き、驚いて眺めた。本当だ。洞穴は極寒ごっかん真空屋外おくがいに開いている。ガラスもなく、密閉もされていない出口から、薄暗い冥王星の景色を見ることができる。
「いい質問だ。ちからで行っている」
 キーンがオウム返し、
ちからか、どんな種類……」
 赤ペリが厳しく割り込んで、
「もう十分きいた。これいじょう答えない。エルザ、この2人を金属扉付きの空き部屋に入れろ。おなかがすいたら食べ物をさしいれよ。以上だ」
 赤ペリは囚人の2人に目もくれず立ち上がった。キーンが、とびきり優雅な姿を目で追うと、軽い足取りは、まるで地球の回廊を歩くかのようで、あとに男5人を従えている。逆巻く髪の毛が赤々と廊下全体に耀き、横に曲がり、消えていった。

 キーンとソロモン翁は亜麻色あまいろ髪の少女エルザに付いていき、後ろにはむっつり押し黙った男が2人従い、この2人はエルザと一緒に来た連中だ。
 連れ回した所は狭間はざま側廊そくろう、人造部屋など数々。洞穴は冥王星の山深部まで無限に伸びているようで、間違いなく天然洞穴だが、あちこち床とか壁に、人の手の痕跡がある。
 やっと少女が右側の部屋を指し示し、小さな部屋に入ってみれば、快適に調度ちょうどされており、アルミニウム製の椅子とテーブルが各1個、長椅子が2脚あった。テーブルと長椅子は豪華で華麗な分厚い金襴きんらんで覆われており、明らかに貨物船からの略奪品だ。
「ここがあなた方用です。おなかが空いていますか」
 とエルザが扉の方へ行き、立ち止まっていた。
 キーンが廊下に立っている2人の男を見て、声を落として言った。
「空いてない。エルザ、僕たちだけで少し話しませんか」
「なぜですか」
「ちょっと訊きたいからです」
「どんなことですか」
 キーンが声を落とし、ささやいて、
「エルザ、きみは赤ペリが嫌いじゃないのか。我々同様ひどく」
 エルザが不意に扉の方に向き直り、穏やかに言った。
「お父様、バジルと2人で何か食べ物を持って来てくれませんか。私はここに留まります。扉は外からロックできます」
 外で2人が何かぶつぶつ言っている。
「しっ、聞いたでしょう。この人たちは紳士です」
 エルザは扉が閉まると、向き直って、
「それで?」
 キーンが岩壁部屋を見ながら訊いた。
「盗聴は?」
「もちろん、ありません。ペリは自分の信奉者をスパイする必要が無いからです。ペリのかしこいところは、男の感情を、目つきや声色で読めることです」
「それじゃ、きみがペリを嫌っていることは読まれているよ、エルザ」
「嫌いと言ったことはありません」
「でも嫌いだね。ばれているんじゃないの?」
「ないとおもいます」
「でもいま言ったばかりじゃないか、読めるって……」
「男と言ったでしょう」
「ふふふ、なぜ嫌いなの、エルザ?」
 青い瞳が固まった。
「言いません」
 キーンが肩をすくませて、
「まあ、どうでもいい。エルザ、脱出できる可能性は? 助けてくれないか、たとえば赤ペリ号を盗むとか。我々の宇宙船は使えないんだ」
「赤ペリ号は修理中です。赤ペリ号はあなたの手に負えないと思います。あなたのロケットのような操縦じゃありません。私も操縦方法は知りません」
「試してみるさ。いずれにしろ赤ペリ号を乗っ取る必要がある。連中はリンボ号の所へ行って、3時間で爆破しかねない、赤ペリ号を最初に壊さないかぎり……」
「できるとは思えません。赤ペリ号の鍵はペリが持っていて、どこかに隠してあります。どうやって行けるの? 宇宙服は施錠してあるし、出入口の外へ一歩も行けません」
 新しい考えがまた浮かんだ。
「出入口の空気はどうやって密閉しているの、エルザ」
「わかりません」
 ソロモン翁が、
「分るぞ。ちからを使っていると言った。つまり……」
「ソロモンさん、今は気にしないでください。エルザ、ほかに私達に味方してペリに対抗する人はいないの?」
「男はいません。男は全員ペリを崇拝すうはいしています。しかもその半数はペリを愛しています」
「それは責められないなあ。およそ、かわいいメス悪魔のようだし、地獄の裏側で見た通りだ。でも、何人かいるんじゃないか、ただ残酷な性格という理由だけでも」
 エルザがしぶしぶ言った。
「残酷ではありません。無慈悲、傲慢ごうまん、尊大ですが、残酷ではありません、必ずしも……。拷問は楽しんでいません」
「まあ緑眼が十分残酷に見える。ところでエルザ、マルコと呼んだ黒毛の男は、どうなんだ?」
 少女が赤面した。
「マルコが、どうして?」
「奴はずるがしこく、打算的で、抜け目がないように見えるから、ペリに反抗したら高い報酬を払うよ。誘ってみよう」
 エルザの赤面が怒りに変わった。
「マルコは素晴らしい人です。お金で誘惑するなんてマルコや私達には通用しません。お金は報酬の何十倍も持っていますから」
 キーンが自分のミスを認め、あわてて、
「すまん、しょせん、一見しただけです。うーむ、ひょっとして、マルコは赤ペリが好きなのかな?」
 エルザがたじろいで、
「ほかの男とおなじです」
「なるほど。でも、そうでないほうがいいのでしょう?」
 エルザが白い手で顔を拭いて、不機嫌に、
「分りました。好きだと白状します。だからペリが嫌いなのです。マルコは惑わされています。愛されていると思っています。冷酷で無関心だということが分りません。だから仕返しをしようと思うのですが、マルコに害があってはいけません。もし手を貸しても、マルコを守ると誓ってください。脱出するなら、誓ってください」
「誓うよ。では手助けできますか」
「わかりません。やってみます。ペリが本当に殺したいのか疑問です、もしそうなら、あそこの回廊で爆殺したでしょう。ペリはためらうとか、ぐずるとか、長く考えるとかしません。だってあなた方は厄介者ですから」
「いい情報だ。ねえ、ここの海賊天国には何人住んでいるの?」
「子供を含めて105人です」
100人と……、おお。きっとよく整備された植民地に違いない。経過年数は?」
16年です。ペリの父が建設して、ほぼ自立生活です。通路の脇に菜園があります。私は4歳の時からここに住んでいます。いま20歳です」
 と言って、眉をひそめた。
 キーンが機敏に、誘惑の手がかりをつかんで申し出た。
「じゃあ、地球を見たことがないの? エルザ、太陽系で一番豪華な惑星を知らないんだ。緑の農場、白い雪、大都市、うねる青い大海原、生命、人類、歓楽……」
「グラティアで5年間学校へ通いました。全員が行けるわけではありません。つい最近までペリは行かせてくれませんでした。疑っているのでしょう」
 キーンが優しく、
「もし皆で脱出したら、きみはずっと自由に地球で暮らせる。エルザ、もしあの海賊女王が捕らえられて、一味がやられたら、きみの人生に幸せが来るよ」
 エルザの顔がまた青ざめて、
「一味がやられるって? 駄目よ、マルコと、父と、兄のバジルは。約束して、3人は」
「約束する。僕が欲しいのは赤ペリを裁判にかけることだ。あとは関係ないがちょっと当てがあるからうまく収めてやる。赤ペリ次第だが」
 ノック音がして、声が聞こえた。
「エルザ」
「はい、お父様。鍵を解除してくだされば、お盆を取ります」
 と言って、向きを変えた。
 キーンがささやいた。
「じゃあ、助けてくれるね。赤ペリがいなくなれば、きみとマルコは……分るよね、エルザ。助けてくれるね、ちょっと反抗するだけだから」
 エルザがささやいた。
「とことん」


第3章


 キーンがいつもと違う優雅な快適さに目が覚めて、一瞬原因が分りかねた。はっと気づいたのは、空気が甘いせいであり、鼻腔がびっくりしたためであり、これまでリンボ号の空気清浄器が賢明に作動したとは言え、何ヶ月間も吸ってきた空気に比べれば、ただただ甘かった。ぼんやり思ったのは、赤ペリはどこでこの植民地に酸素を供給しているのか。
 そうだ赤ペリだ。パッと起き上がり、奇妙に愛らしい海賊女王を思い出した。少女エルザは約束してくれたけれども、信用ならないのは、赤ペリの冷笑緑眼の裏に隠された目的だ。
 立ち上がり、電灯スイッチをまさぐり、腕時計を見た。洞穴では昼夜同じだが、冥王星の10時間夜が過ぎて、どんな日光を黒惑星が享受するにせよ、昼にだんだん近づいていることが分った。
 ソロモン翁はまだ眠っている。カーテンを開けると、小さなプールに水が張ってあったので、沐浴してから、シャツ、半ズボン、靴を履いた。これだけしか持っていない。1日で伸びた薄茶色のあごひげに触ったが、カミソリはリンボ号にあり、入手できない。
 そのとき振り向くと、ソロモン翁が薄青色の瞳をキーンに向けてぱちぱちしていた。
 キーンがぶつぶつ、
「おはようございます。嬉しいですね、就寝中にあの愉快な女に殺されずに済んで」
 ソロモン翁がうなずき、震え声で、
「ニビアを出てから、こんなにぐっすり寝たことはなかったなあ。新鮮な空気はありがたい」
「そうですね。どこで手に入れているか不思議です」
「きっと採掘しとるんだろ。表面に何百万トンも凍結しておる」
「本当ですね」
「何か妙なことに気づかなかったか」
「いいえ。良い臭いがして新鮮なほかは――あっ、気づきました。あの金髪少女エルザがペリの煙草に火を付けたとき、気づきましたよ、炎の様子が、紫色、確かに紫でした」
「だから何だ?」
「当然、ネオンのせいです。ここには窒素がありません。ハーベイとキャスパリもそう言っており、添加剤としてネオンを使いました。誰も純酸素は吸えませんが、ネオンは窒素のいい代替品であり、密度がほとんど同じで、不活性で無毒です。これは覚えておくべきです。役立つかも知れません」
「役立つかな。そのうち分ろう」
 キーンがだしぬけに尋ねた。
「ところで、洞穴入口はどう説明されますか。通り抜けた片方は真空、片方は空気でした。場の力と言っていたのを覚えていますか」
「覚えておる。静電場のことだ。知ってるだろ、電荷が反発すように、空気分子は空間を激しく叩き、同じ電荷を持っている。空気分子同士は反発し、場を横切れない。静電気を帯びた電子風のようなものだから、ここでは侵入しようとする風と、排出しようとする風が釣り合っている。その結果、どっちからも風が吹かない」
「でも僕たちは歩いて通りましたよ。場を横切れば、電流を生じますが、何も感じませんでした」
「もちろん感じない。空気分子のように毎秒2※(全角KM、1-13-50)も動けないだろ。君の運動でどれくらい電流が生じるにせよ、体や宇宙服が導体だから、瞬時に地面に流れ去る。でも通常圧の空気はほとんど電気を通さないから、静電荷が保たれる。夜道で球電光が目撃されるだろ」
「なるほど、賢い。便利な点ではエアロックより優れていますが、熱は電場から逃げるかもしれません。でも原子力熱を使えば、少し損失するだけです」
「出入口は、岩壁の損失よりも、熱ロスが少ないぞ。熱は確かに拡散するけど、伝導では逃げない。真空が一番の断熱材だ。リンボ号の魔法瓶容器を見てみろ。赤熱温度以下の熱放射は非常にゆっくりだ。これも覚えておけ」
「ええ。ところで今思い出したんですが、まだ朝食を食べていません。死刑執行方法は餓死ですかね」
 とキーンが言い、扉の所へ行って、激しく叩き、
「おーい、おい、そこの」
 応答がない。いらいらして取っ手をつかみ、ガタガタ回したら、ほとんど後ろへ倒れそうになり、扉が簡単に開いた。鍵がかかっていない。
「たまげたなあ。エルザの仕業しわざですかね」
 とキーンが言い、無人の廊下をのぞいた。
「もしそうでも、大して役に立たん」
「そうですね。でも、周りを見てきます。さあて、宇宙服を見つけてくるか」
「赤ペリ号の鍵も必要だろう、いや連中がリンボ号に鍵をかけていたら、最低その鍵も必要だろう。わしはここに座って、考え事をするよ。古頭ふるあたまでも時々良い考えが浮かぶ」
 と言って、ソロモン翁が眉にしわを寄せた。
「好きにしてください」
 とキーンがぶつぶつ言って、無体むたいな老科学者に考えが浮かぶものかと、ほとんど期待しなかった。果敢に通路に踏み出した。
 誰もいなかった。左へ曲がり、洞穴出入口へ向かった。前方の通路から、不意に人が出てきた。女だ。少女エルザが光るアルミニウム製のすきを持っている。名前をそっと呼んだ。
「エルザ」
 エルザが振り向いて、
「こんにちは」
 と短く言って、そばに寄ってきた。
「分捕ったお宝を埋めたのかい? エルザ」
「いいえ、庭に種を植えただけです」
「きみが扉の鍵を開けたのか」
「わたし? ええ。ペリが開けるように命令しました」
「命令するか。なぜだ?」
「だって、ここから逃げられますか」
 と言って、横の大きな金属扉を指し示し、
「ここがペリの部屋で、その奥の部屋に宇宙服と、両船の鍵があります。あなた方は永久に事実上の囚人です」
「分っている。ペリは暴力なんて怖くないだろ。殺してやる」
「ペリに怖いものはありません。とにかくペリを殺して何の利点がありますか。自殺と同じことでしょう」
「それもそうだ」
 とキーンが言いながら、見えない静電気密閉式出入口に近づいた。立ち止まり、寂寥せきりょうとして空気のない黒々とした冥王星の盆地を眺めた。
 そこから300※(全角メートル、1-13-35)離れたところにリンボ号の黒い船体があった。突然、その横で明かりがパッとき、一瞬光って消えた。
「アレは何だ?」
「父が外に出て、あなた方の船の噴射口を溶接しています。利用しようとしています」
「何のために?」
「知りません。確か連盟防衛ロケット連隊がありましたね。おそらく、そのおとりに使うのでしょう」
 後ろから冷たい声がして、
「おそらくお前達2人がはいる飛行霊廟れいびょうとしてだろうよ」

 振り向いた。赤ペリが近づけたのは、柔らかい編み上げ半長靴を履いていたせいで、足音が消えたためだろう。そばにマルコが寄り添っている。
 キーンは、エルザが黒毛男マルコを見たとき紅潮したのを見逃さなかったが、自分自身を怒ったわけは、緑眼で冷笑している赤毛の女ペリをみて、自分も赤面したからだ。怒ってふっかけた。
「何ておめでたい人なんだ、主導権を持っているのに」
 赤ペリが一言、
「朝食は?」
「まだだ」
「だから、機嫌が悪いのか。エルザ、お盆2つを私の部屋へ、もう1つをソロモン教授のところへ運べ。マルコは行って良い」
「ここでキーンと一緒ですか」
 赤ペリが笑って、ベルトの自動拳銃を叩いて、
「ははは、自分の身は守れる。疑っているのか。行ってよし、マルコ」
「了解、船長」
 とマルコが口ごもって、しぶしぶ下がった。赤ペリが、挑発するように派手な目をキーンに向けて、
「フフフ、お前の船を調べた。話は本当だった」
「それで、僕たちをどうするんだ?」
「まだ決めていない。どうせ死なねばならないだろう。そうなりそうだが、恨みはない。ただ好都合ということだ、わかるだろ」
「じゃあ、なぜ扉を施錠しなかった?」
「いけないか? ここからは逃げられないだろ。これを見ろ」
 壁に立てかけられた光るアルミニウムすきを持って、静電場に通し、外の真空へ半分ほど突き出した。
 じっと見ていると、ゆっくり放熱して、結晶構造が変化するにつれ、色がわずかに変わるほかは、何も変わらないように見えた。すきが冷たくなって、ペリのきゃしゃなこぶしが白くなり始めたとき、足元へ鋤を放り投げた。
 すると変化した。たちまち暴露部分に白い霜が付き、きらきら耀く結晶が、3※(全角CM、1-13-49)ほどふわっと覆い、取っ手に向かって広がり始めた。時計の秒針のようにたちまち4※(全角CM、1-13-49)に成長した。
 ペリが笑って、あざけった。
「へへへ、外へ出たいのか。寒くないよ、零度より10度も高い。絶対零度以上という意味だ。水素とヘリウム以外どんなガスも液化、凍結する。お前の熱い血液と頭が凍りつくまでどれくらいかかると思うか」
「ふん、キミを部屋に閉じ込めて、人質にして、取引して、我が身の安全を図るさ」
 ペリが冷静に反論、
「できたとしても、まずいだろうよ。もし私を殺したらたちまち、なぶり殺されるだろう。逆に私を殺さないなら、お前の約束なんぞ屁のカッパだ。一番賢いのはこのまま私の決定を待つことだ。ところで、エルザを信用してはいけない」
 と付け加えて、緑眼を細めた。
 キーンがびっくりして、
「エルザを? どういう意味だ?」
「私を嫌っていることは知っている。マルコを横恋慕よこれんぼしたと思っている。だから、いたぶって楽しんでいる。エルザは復讐のためなら何でもやりかねないが、お前と同じ、全く無力だ。実は改心させようとしている、理由はマルコが余り感心しないからだ。だから一撃でエルザを改心させて、マルコに忠誠を誓わせてやる」
 キーンが息を呑んで、
「悪魔め。何よりやりたいことが1つあるとすれば、キミを法廷に引きずり出すことだ。アードキン号事件以来ずっと……」
 ペリが優しく、
「鼻をつまんだことか。じゃあ、もう1回」
 と言って、手を素早く振って、同じところを激しくねじって、いらだつキーンを笑って、体の向きを変え、命令した。
「ここに朝食を直ちに持ってこい」
「絶対にお前とは食事しない」
 ペリが肩をすぼめて、
「好きなように。これだけがお前の朝食だ、間違いない」
 結局、朝食は朝食だ、とぼやいて、あとについて頑丈な金属扉へ向かい、扉が開くと、思わず怒りを忘れ、部屋の豪華さに圧倒された。
 どうやら大量の略奪品の中から、高価なものを選び、この部屋を調度したようだ。床には厚い絹絨毯じゅうたんがあり、壁には高価なタペストリがかかり、絵画は金星定期航路宇宙船の豪華客間から分捕り、繊細工芸のアルミニウム製家具や、完璧な造りの彫刻鏡も、火星の比類無き芸術盗品に違いない。
 召使いが、朝食のお盆を運んできて、テーブルに静かに置いて、退去した。ここにも別な驚きがあった。卵だ。しかも新鮮、臭いで分る。
 キーンの視線を読んで、赤ペリが、
「ニワトリを数羽飼っている。少なくとも私の分は十分だ。むしろえさの方が問題だね」
 キーンが怒りを思い出し、いらいらして、ふん、と返事した。一瞬、なぜペリのような嫌なやつのために、自分が激するのか、いぶかったが、結局分ったのは、いらいらのほとんどが自分自身に向けられている。
 だが1つ確かなことは、今の最高の望みは、傲慢、自己満足、尊大、冷笑の海賊女王をくじき、犯した罪に対して、それ相応の罰を受けるのを見ることだ。
 そのとき顔をしかめた。果たして懲らしめを願っているか。望むらくは傲慢、横柄な態度をへし折り、怖れさせ、嘆願させることであり、さげすみ扱いに対する一種の償いをさせることだ。
 ペリがつらつら言うに、
「お前は食客しょっかくだ。だがお前達2人が迷い込んできたのはむしろ嬉しい。ひどくうんざりして、退屈していた。文明地に立ち寄りたいと思っていたところだ」
「もし地球へ行ったら、キミの小旅行もおしまいだ。喜んで、赤ペリの悪行をあらいざらい証言する」
「赤毛のペリは私だけだと思うか」
「たぶん、キミは最高の美人だし、分っている」
「ヘヘヘ、キーン、私の無実が偽証できるとしたら、考え直せ。私はそこら中に出没する。ロンドン、パリ、ニューヨークに長く住んで、世間を知っている。じつは各地で慎重に身元を造り上げた。地球の友達は私が金星に住んでいると思っている。だから投網とあみするようなことはするな」
 その言葉でひらめいた。無性に悲しくなって、オウム返し。
投網とあみ? やらない。まさに不幸なことだが、キミとは半分恋に落ちかかり、あとの半分は根っから嫌っている」
 本当は、どれくらい嘘かと、不意に疑った。
「ハハハ、お前のいうことは半分しか信用しない」
「どっちをだ?」
「どっちだろうと、気にするな。覚えておけ、赤ペリの愛を勝ち取る方がずっといいってことだ」
「そんなものは欲しくない。いつもキミの要求は不埒ふらちな法破りだが、僕の望みはキミが捕まることだ」
「それは無理だろうな」
 と冷たく返した。椅子にふんぞり返って、箱から葉巻を取り出し、
「吸うか?」
 和睦のような申し出だ。キーンは休戦と葉巻の両方を受け入れて、思う存分、煙を吹かした。
「キーン、施設を見たくないか」
 うなずいた。友好、いや少なくとも寛容を申し出るなら、相手が優勢である限り、拒否する立場にない。でも自分を偽って受けるつもりはない。
「いいか、多くの点でキミが好きだ。度胸があるし、悪魔の美貌もある。でもこれは覚えておけ。もし脱走チャンスや、捕縛ほばくチャンスがあれば、すかさず実行する。分ったか」
「フフフ、キーン、この赤ペリを負かしたら、あっぱれだ。でも絶対に無理だ」
 ペリが立ち上がったので、付いていき、石壁の廊下に出て、ちらと奇妙な出入口を覗き、見えざる静電密閉装置を眺めた。
「もし、あの静電装置が壊れたら、ここの空気はどうなる?」
「壊れない。原子崩壊で直接動いている。可動部は一切無い。でも万一壊れたら、緊急空気扉がある。漏れが関知されたら、瞬時に閉じる。空気圧力を維持するに十分な強度がある。0.8気圧を維持する」
「デンバーの標高と同じくらいだ。準備おこたりないな」
 とペリの後に付いていきながらつぶやいた。
 本当に感心したのは、通路の両側に手入れの行き届いた菜園があり、冥王星の土から最適な元素を集めて、育てられていることだ。
 ペリが説明、
「窒素は面倒だ。窒素はほとんど無いから、手持ちのものに凍結アルゴンを混ぜる。分留してアンモニアを造り、最終的に使える形にする」
「行程ぐらいは分るさ」

 2人は洞穴のなかを、冥王星の黒山へ深く進んだ。だんだん蛍光灯が少なくなってきて、今や通路が薄暗く延びて、明かりが全くない。
 ペリが言った。
「結晶虫は封鎖されている。いま主要洞穴の封鎖点に近づいている。あの先で狭まっているのが分るだろ。静電密閉されており、脇の通路はコンクリートを打ってあり、結晶虫が入らないようにしてある」
「結晶虫か。なぜ奴らは静電密閉を突破できないんだ?」
 とキーンがオウム返し。冥王星のサリーで見た奇妙な生き物のことを、すっかり忘れていた。
「やろうとするが、滅多に成功しない。理由が分るか」
「何ものなんだ? 生きているのか。誰も、アツキもハーベイもキャスパリも報告していない」
「起源はこの洞穴だと思う。ここ全体がハチ巣状になっており、奴らは谷のはぐれものだ。探検家はたまたま遭遇しなかっただけだろう」
「生きているのか」
「いいや。正確には生きていない。まあ、ギリギリだ。化学的に結晶が成長し、動きはまったく機械的だ。変種が半ダースもいる。アルミニウム食虫、鉄食虫、シリコン食虫、イオウ食虫などだ。フフフ、少なくとも1つは使い道がある。アードキン号の金庫を覚えているか、あるいは気づいていたか。鉄食虫は時々、大活躍する」
 キーンがうなった。どういうわけか悲しくなったのは、この女が自分の海賊行為を話すのを聞いたからだ。
 返事をしようかと思っている内に、不意に大きな天然洞穴に出くわし、その先に狭い開口部があり、ここがペリの言った静電密閉部だ。
 はるか上から、1灯の光りが淡く照らしており、薄暗い中に見えたのが、狭くて深い裂け目というか、渓谷というか、くぼみであり、これが部屋の床一面に走り、暗いトンネル壁を縦横に分割している。
「ここで虫を捕らえる」
 とペリが言い、指し示したのは割れ目に渡した妙な棒――1本の重い金属けたが、谷幅6※(全角メートル、1-13-35)に鋭く4屈曲して橋渡してある。不安定な狭い橋で、桁幅は30※(全角CM、1-13-49)しかない。
「銅製だな」
 とキーンが言った。
「そうだ。どうやら銅食虫はいないので、この橋は壊されない。わなの理屈が分るか。結晶虫は目も触覚もないから、ただ這い回るだけ。橋桁を渡るには正確にジグザグ動かないといけない、そのチャンスは限りなく低い。だから谷底へ落ちて、下で這い回る。もっとも1回だけ、うっかり渡ったのがいたけれど。
 奴らのほとんどは、何を食べるかを別にすれば、危険じゃない。あの密閉の向こうに空気供給装置がある。規則正しく凍った地下海があり、ネオン、アルゴン、酸素が含まれており、半永久的に採掘可能だ。渡って、見たくないか」
 キーンが谷の縁へ歩み、覗き込んだ。深い。天井の光りがスーッと謎の暗闇に消え、闇で微光がいくつかうごめいており、間違いなく結晶虫であり、ちらちら光って動いている。
 思わず眉をしかめ、ジグザグ銅橋が用心のために細長く造ってあるので、自尊心を捨て、慎重に膝を落し、四つん這いでゆっくり渡った。
 まさに反対側に着いて、立ち上がったその時、キーンが気づいたのは、ペリが軽蔑して鼻で笑っているじゃないか。ペリの歩きを見れば、平然とすたすたジグザグ橋を渡り、まるで広い道を歩くかのように、簡単に平衡を保っている。
 キーンがじんわり赤面。この女は図太い神経を持っており、俺に見せつけてわざと愚弄している。
 ペリが狭い開口に足を踏み入れると、そこには銅ピン付きの輪があり、これで静電場を造っており、天井に吊ってあるのが緊急密閉扉であり、外側のアーチ門にあるようなものだった。ペリが指差して、
「あれだ、見ろ」
 目を細めて暗闇を覗いた。4※(全角メートル、1-13-35)先に通路が広がっているようで、こんな空洞レンガの巨大空間では、背後から光りが当たっても、全く境い目が分らない。
 だがぼんやり、かすかに蜃気楼のように分ったのは、ちらちら光る無限の広がりがあり、冥王星の化石空気が、白く膨大に、地下に漂っている。
 ペリが言った。
「あそこにパイプを突っ込んでいる。必要なものは簡単な熱処理で全て手に入る。でも時々パイプを伸ばさないといけない。そのためこの居留地端は静電場で密閉されている。あっ、あーっ」
 ペリが金切り声を出した。キーンが振り向いた。洞穴の床――2人がいる所と渡橋の間――に黒い結晶虫が列を成してカサカサ不規則に進んできた。
 キーンが息を呑んで、
「どうした。蹴飛ばしてやる」
 ペリがキーンの腕をつかんで引き戻して、叫んだ。
「やめろ。炭素食虫だ。わからないか。奴ら炭素を食べる。人体は炭素だ。見ろ」

第4章


 キーンがびっくりして後ずさり。灰黒、平結晶、にぶく輝く塊が足元に迫っている。這いずり虫をじっと見つめた。どうやら右側の突出岩壁から出てきたようだ。
 床一面に点在し、時々ちらっと光って、中央穴の縁から滑り落ちている。だが、何百匹以上もいる。床がきれいに片付くまで待てない。ぴょんと跳ねてよけると、別な奴が足元へ静かに忍び寄った。
 キーンが動いた。出し抜けにペリをつかまえて、腕に抱えて、駆け出し、ジグザグの銅橋を渡った。
 ペリがもがいて言った。
「おろせ」
 そのときペリはじっとしており、一方のキーンは道を慎重に選び、ダンサーのように横飛び、上跳び、ねじ曲りながら、炭素食虫を避けた。半分駆けながら4回鋭く曲り、ついに息を切らし、ペリを居留側の岩の上に置いた。
 ペリが冷ややかに見上げて、静かに言った。
「よくやった。なぜだ?」
「ちょっとしたお返しだよ」
「私がうまくできないと思ったか。なぜやったのか」
「なぜなら……」
 とキーンが中断した。なぜやったか。にわかに分ったのは、素敵なペリが死ぬのを見たくないからだ。へこむのは見たい。罰せられるのさえ見たいが、死ぬのは見たくない。きっぱり言ってやった。
「まったくの衝動だ。もし1秒か2秒考えていたら、キミは死んだ」
「ははは、うそつき。まあ、気持ちには感謝するが、1人でも十分うまくやれた。でもお前は力持ちだな。あっ、キーン、お前の足元、靴だ、早く」
 眼をぱちくり。革靴を見る間も無く、灰黒の結晶虫が広がっており、あっというまにつま先を刺す痛みがやってきた。
 くそっ、とののしり、激しく蹴った。革製の半長靴が弧を描いて、真っ正面にいる結晶虫の中に落ちた。たちまち針のような結晶にびっしり覆われた。
 ペリが哀願して、
「つま先を」
 と叫んだ。蛇のように素早く、キーンの足の甲を、優美な自分の足でしっかり押えた。どこからか取り出した宝石付き小型ナイフは、刃先がカミソリのように光っている。依然として全体重をキーンの足にかけながら切った。
 キーンが痛みと驚きにうめいたが、ペリは足指爪を半分がし、下層皮膚を上手に切り出し、血まみれの切片を穴に蹴り投げ、しばらく自分のつま先を調べてから、キーンに向かい直った。出会って始めて、震えているように見えた。野生緑眼が心配気に広がった。
 だがそれも一瞬だった。一喝して、
「ばか、ばかもの」
 キーンは出血したつま先を唖然と眺めて、つぶやいた。
「何てこった。すんでの所だったなあ。僕はキミにはお礼を言わないつもりだったが、この件はありがとう」
「ふん、炭素食虫を穴のこっち側へ入れたいと思うか。だからやった」
「僕を穴に落とすこともできたのに」
 とキーンが嫌み。
「そうやりたかった」
 とペリがきっぱり。急に向きを変えて、素足で歩き出し、洞穴を抜けて、居留地の方へ向かった。

 キーンは残った半長靴を、痛めた足に移し替えて、びっこで追った。感情が揺れ動いた。この海賊女王には何か素晴らしいものがあり、得も言われぬ幻想的な美貌という単なる事実以上に、何かある。でもそれを言ってなるかと毒づき、跛行はこうしながら急ぎ、やっとペリをつかまえて、出し抜けに訊いた。
「君の名前は?」
「私を呼ぶ必要がある場合は、船長と呼べ」
「僕が船長と呼べるのは喜んで奉仕できる人物だけだが、それは絶対に赤ペリじゃない」
 ペリが横ざまにキーンを見て、口調を変え、
「どうしても名前が知りたいか。いいか。お前の名前はフランク・キーンだが、私を負かすほどキーン(機敏)でなく、愛していると言うほどフランク(率直)でもない」
 キーンが鼻白んで、
「愛してるだと。でも愛してる、なぜだ……。たとえ本当だとしても、僕が人殺し海賊と取引すると思うか。代わりに、あらゆる手を尽くして、キミを裁判にかけたい気持ちだ。キミは何人殺したのか。どれだけ苦しんだのか」
「さあね。人殺しだって? 純粋な防衛以外、誰も殺しちゃいない」
「そうか。ヘルメスの虐殺行為については、どうなんだ」
 ペリがキーンを見ておだやかに、
「ヘルメスには一切関係ない。人は何事も赤ペリを非難する。コソ泥海賊に苦しむ船長はみんな、私のせいにする。だったら、100機の宇宙船が必要で、皆が言う犯罪をやらねばならない」
「でも、キミは海賊だ」
「ああ、でも、わけがある。それに、おっと、なんでお前に申し開きしなきゃならない。どう思おうが気にしない」
 キーンがうめいて、
「やはり、僕の考えを言おう。キミのご両親なら、罰として尻を叩くだろうな。キミはうぬぼれ、無茶で危険な子供にすぎない」
「私の両親だと」
 とオウム返し。
「そうだ。今のキミを誇りに思うか」
 ペリがゆっくり、
「そう願いたい。1人はそう思ってくれる」
 と言って、自分の部屋の前で立ち止まり、扉を開いて、厳しく命令した。
「なかにはいれ」
 ペリの後について豪華な部屋に入った。隣の部屋に消え、すぐ戻ってきて、ボトルと、ガーゼを持ってきて、言った。
「ほら。つま先につけろ」
「何でもない。いらない」
 ペリがぴしゃり、
「つけろ。ここで感染の原因を作りたくない」
 キーンがボトルを取りながら嫌みに、
「感染病で死ぬかもしれないから処置して、人殺しを防いでやろう」
 緑眼が優しくなって、声を低くして、
「覚えておけ、キーン。あそこの穴のふちでお前を殺せたのだぞ。できたが、やらなかった」
 キーンは答えなかった。しばし、法外な美顔をしみじみ眺め、それから筋違いの質問を蒸し返した。
「君の名前は?」
「ふふふ、ペリだ」
「本当か。ペリの姓は? ペリという名は変だが」
「ああ、小悪魔や妖精のペルシャ語だ」
「知っている。僕はイラクで働いたことがある。でもそれ以上の意味がある。ペリという名前が与えられた子供は、手に負えない天使で、天国への入場が待たされる」
 ペリが急に沈鬱ちんうつになり、つぶやいた。
「ああ、天国への入場が待たされる」
「で、ペリの姓は?」
 とキーンが繰り返した。
 ペリが躊躇ちゅうちょして、ゆっくりと、
「言ってもわかるかどうか。じゃあ、言おう。いままでペリイ・マクレインのことを聞いたことは?」
 キーンが眉をしかめてつぶやいた。
「ペリイ・マクレインか、ちょっと待て。ひょっとして発明家のレッド・ペリイ・マクレイン、惑星協会と法的に争った有名な人か。でもあれは何年も前のことだ。僕は7歳か8歳だった。キミは生まれていないはずだ」
「ちょうどうまれた。ペリイ・マクレインは私の父だ」
「レッド・ペリイが君の父だって。そういえば、一字違いのレッド・ペリは宇宙船だ。なるほど、赤ペリ号は父の忌名いみなか」
「名付け親は父だ。造ったのも父。海賊船専用に造ったが、責められない」
「責められないだと。なぜだ」
 ペリの大きな目が厳しくなって、
「いいか。ペリイ・マクレインは惑星協会と同業者に強奪された。25年か30年前、宇宙旅行がどんなに危険だったか知っているか。最初の植民地が金星に設立されてから50年後でさえ、金星へ行くのは命がけだった。
 交易はほとんど不可能だった。なぜならロケット噴射は失敗するし、宇宙船は着陸で壊れるし、挙句は太陽に突っ込むし……。その時、熱膨張室が開発された。噴射が安定し、安全になり、使えるようになった。交易が可能となり、惑星協会は巨大金満きんまん会社になった。じゃあ、誰が膨張室を発明したか知っているか、ええ?
 ペリイ・マクレインが発明した。発明して特許を取った。だが惑星協会は名誉など些細なことだと目もくれない。特許を丸写して、協会技術者の1人が最初に発明したと申し立てた。どの法廷でも争い、遂にペリイ・マクレインの金が尽きて、そいつが勝利した。4年かかったが、最後の年に私が生まれ、母が死に、ペリイ・マクレインは破産した。
 だが父は諦めなかった。手当たり次第に働いた。世界最高のロケット技術者だ。下水管を掘削する排水システムを構築したりした。どんな仕事もしたが、一方では常に復讐しようと思っていた。
 夜ごと父が計画を練っていた宇宙船は、人が夢想だにしないもの、固有の安定性を持つロケット――重力場をサッと抜けて惑星空間を容易に突き抜け、噴射でふらついたりぐらついたりせず、修正や緩慢降下しない宇宙船だ。父の計画が完成したとき私は3歳だったが、父は建造費用を提供する人を見つけた。
 惑星協会が破産させたのは父だけじゃなかった。ほかにも協会を憎んでいたものがいた。そこで、赤ペリ号を完成させ、協会の宇宙船を襲撃し始めた。宇宙船の乗員には困らなかった。千人でもあつめられただろう。だが、最適人物を乗務員に選抜した。
 最初、基地はオーストラリアの砂漠にしたが、危険になった。月とか小惑星を考えたが、最終的に惑星空間をものともしない宇宙船を持っていたので、ここ冥王星に来て、居留地を造った。私は学校で過ごした数年を除いてずっとここに住んでいる」
「ところで、レッド・ペリイ・マクレインはどうなった?」
「3年前に殺された。覚えているか、惑星協会所属ルクレティアのソーセン船長が海賊を撃った話だ。それが父だ。死んで遺言通り、宇宙葬にした。ソーセンを殺したのが私だ、私を狙ったからこの手で殺した」
 キーンがじっと見つめた。緑眼に涙が光っている。キーンが優しく言った。
「ペリ、終わりはどうなるんだ。キミは人生の全てを父の復讐に費やすつもりか。実際は惑星協会をちっとも傷つけていないんだぞ。保険をかけている。でもキミは惑星の発展を妨げている。人々が旅行を怖れるところまで来ている」
 ペリが紅潮して、
「さいこうだ。貿易が減って、乗客も減って、惑星協会の金庫が膨らまない」
「何てことを、ペリ。キミの宇宙船なら合法的に何百万ドルも稼げるのに」
 ペリが皮肉で応じた。
「ああ、もちろんだ。父が熱膨張室を発明したときのようにな」
 キーンはこれに返答せず、悲しげに首を振って言った。
「じゃあ、キミは海賊として生き永らえるつもりか、最後には捕まるぞ、もしくはこの惨めな黒惑星で死ぬぞ」
「そうならない。父のレッド・ペリイ・マクレインが立てた計画を実行するつもりだ。父は向こう見ずで戦っちゃいない。ここと地球で自分の会社を作り、社訓とした。惑星協会から分捕ったものを少しずつ地球へ運び、現金と証券に変え、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、パリ、東京などの銀行に保管している。十分になったら、たぶん1億ドルだろうが、何をするか分るか」
「さあな、ペリ」
 キーンの目は紅潮したかわいい顔に釘付け。
 ペリが激しく、
「いいか、惑星協会と競合する定期航路を開く。赤ペリ号のような宇宙船を造り、協会を破産させる。奴らを這いつくばらせ、懇願させてやる。今度は金がたっぷりあるから、悪徳弁護士や賄賂判事でも歯が立つまい。全滅させてやる」
 キーンは長い間、ペリの妙な美貌や、野生緑眼や、燃えるような赤毛を眺めていた。やっと悲しげに言った。
「おお、ペリ。そんな計画は狂っていることが分らないのか。この船を造ったら、キミが海賊と知られるのだぞ。今は誰も知らないけど」
 ペリが怒って、啖呵を切った。
「気にしない。1億ドルを持った人には、法律も及ばない。父が惑星協会から学んだ。お前のお節介は甘んじて受け入れてやろう。私は戦う方を選ぶ」
「お父さんが不当な扱いを受けたからと言って、地球全体に戦争をふっかける筋合いはない」
 ペリの緑眼が激しく燃えて、
「地球で戦争? それはない。私が決心したら、考えもしないような戦いができる」
「どういうことだ? ペリ」
「教えてやろう。たとえば、炭素食虫を1匹つかまえたとしよう、お前のつま先を食った奴だ。たとえば、そのちっぽけな結晶虫を落としたとしよう、アフリカ密林、中央ヨーロッパ、アメリカ穀倉地帯だ。全ての生命には炭素がある。緑の小地球はどうなる、キーン。悪徳弁護士や、賄賂判事、その他の正直者や不正直者、それに惑星協会首脳はどうなる?」
「なんてことを」
「キーン、結晶虫はひたすら突き進むってことが分らないか。麦畑、家、馬、人間……」
「ペリ、いいか。僕のやるべき事を知っているか。義務は分っている。キミを今すぐここで、2人だけのうちに殺すことだ。さもないと、キミの狂った無謀な精神がいつかそうさせる。いま首を絞めるべきだが、神にかけて、できない」
 にわかにペリの顔から激しさが全部消え、悩ましく誘惑して、つぶやいた。
「最後の2語はうれしい、キーン。いいかい、そんな復讐など考えないと、お前に約束したら、喜ぶか」
 とやさしく訊いて、腕を上げ、見れば、拳銃の台尻をしっかり握っている。
「わかっているくせに」
「それじゃ約束しよう。さてと、これでもまだ赤ペリなどと非難するか。どうだ?」
「さあな。たぶん君の思うとおりになるだろうが、ペリ、信じられない」
「じゃあ、何をしてもらいたい?」
「当然、健全な道、尊敬される道だし、償いをして、盗んだものはすべて返還し、明け渡し、悪事をあがなうことだろう、そうすれば自由になって、虚空こくう端のここで埋もれなくて済む。これが全部できるとは言わないが、少なくとも取ったものは返せるだろう、尊敬され、幸せに暮らす生活も取り戻せるだろう」
 ペリが苦々にがにがしく、
「尊敬され、幸せにか。まあそうなろう。父を失ったのを別にすれば」
「君のお父さんは間違っていた、ペリ」
 これにペリが激怒、
「ああ、お前は余りにもうぬぼれて、独りよがりだ。お前には自由を与えるつもりだった。私を理解し、守ってくれると思っていたが、今お前を地球へ帰すほど信用していると思うか。直ちに囚人として留め置く」
 キーンが冷静に言った。
「ペリ、いつか裁判に引き出してやる。自由になった暁には、僕に感謝するだろう」
「でていけ。このばか。ばかはきらいだ」
 キーンは激怒美人を静かに眺めて、立ち上がり、扉から堂々と出た。一瞬、廊下で逡巡しゅんじゅんし、それからソロモン翁のいる部屋に向かい、大勢の通行人の視線を無視した。そして、扉を開けて最初に見えたのが少女エルザ、翁と内密に話をしている。

 キーンが入室すると、2人が目を上げて、亜麻色あまいろ髪のエルザがサッと離れて、青い目で怪訝けげんそうにじっと見た。
 ソロモン翁が言った。
「いや、ばか話じゃよ。エルザが妄想して神経質になっただけじゃ。まあ聞け、キーン。エルザが駆け込んで言うには、お前が赤ペリと何時間も一緒に過ごして、おそらく魔法の魅力で落とされた。だから今エルザが怖れたのは、ペリに告げ口された。馬鹿げているじゃないか」
「あったりまえだ。まったく、ばかげている」
 とキーンが断じ、あまりの馬鹿げさにあきれ、赤面して慌てて反復した。
 ソロモン翁が勝ち誇って、
「わかったか。よし、エルザ、進めよう。宇宙服はかっぱらえないのか」
「できません。赤ペリが鍵をかけて保管していますから、手が出ません」
「でもお前の父と兄は、宇宙服を着てあの宇宙船へ行ったじゃないか」
「はい。でもけません。ペリに言うからです、分っています」
 ソロモン翁が考え込んで、
「そうか、手に入らないと、宇宙服なしでやらねばならんな。でも宇宙船の鍵ならどっちか手に入るんじゃないか」
「赤ペリ号は無理です。リンボ号ならたぶんできます、父が作業中持っていますから。盗めると思います。机に放っていますから」
 キーンがうめいて、
「うーん、リンボ号が何の役に立つか。打ち落とされて、粉々に吹き飛ばされるだけだ」
 ソロモン翁が反論して、
「奴ら、やれるけど、やらない。この件はこのソロモンに任せろ。さて、エルザ、いつごろジェット噴射口は修理できるか」
「いま終わっていると思います」
「じゃあ、今晩、鍵を盗めるか」
「と、おもいます、やります。今晩か明朝」
「よろしい。エルザ、行きなさい。赤ペリに復讐できるぞ、いい子だ」
 金髪のエルザが去った。ソロモン翁がキーンに疑いのまなざしを向け、あざけって言った。
「馬鹿げている、全く、ばかばかしい」
「何が、ですか」
「キミが赤ペリにかれたってことだ。あんな不細工な女が、強面こわもてのフランク・キーンを、どうやってものにしたのか。ばかばかしい」
 キーンがうめいて、
「やめて下さい。ペリは美しいし、ペリの話を聞いて見方が変わったことは認めます。でもやはり、ペリは横柄で上から目線です。僕はペリがやられるのをずっと願っており、邪魔できたら最高です。ところで、リンボ号の鍵が何の役に立ちますか」
「じきわかる。ペリは何と言ったのじゃ?」
 キーンはレッド・ペリイ・マクレインの話を語った。思わず同情口調になり、めの段階になり、銅橋のくだりを述べたとき、ソロモン翁がじっと見ているのに気づき、不快になった。話し終わり、にらみ返した。
 ソロモン翁が言った。
「そうか、キミのために赤ペリは命、いや少なくとも足指を1本か2本、食いちぎられる危険を冒した、ということだな。もし赤ペリがキミのつま先にいた炭素食虫に触ったらどうなった?」
「考えもしませんでした」
「いまでも、ペリを痛めつける決心は固いか」
 キーンが考えてきっぱり、
「はい。固いです。傷つけたくはないが、仕返しはしたい。僕を侮辱し、威嚇し、あざけったからです。やられるのを見たいです」
「たとえペリが捕まってもか」
「いいですか、ソロモンさん。いまこんがらかって、確信はありませんが、僕への仕打ちに対し、赤ペリが詫びを入れるのを見たいのです」
「そうか。キーン、惚れたのだと思う。わしの知ったこっちゃないがね」
「ちくしょう、いまいましい」
 ソロモン翁が続けて、
「どれくらいやりたいのじゃ」
「芯からです」
「やればキミの命やペリの命を危険にさらすぞ」
「僕の命はいいが、ペリのは駄目です」
「十分だ。最初にやることは迷信を捨てろと言うことだ」
「迷信などありません」
「あるけど、気づいていない。よく聞け」
 翁が耳元に寄って、低い声で真剣に話し始めた。一言でキーンが青ざめ、驚いた。それからじっと座り、聞き入った。5分間聞いた後、深く息を吸い、厚い胸板をいっぱい膨らませた。
 キーンが意気揚々と、
「大学で夢中になっていました。当時は息を4分間止められたのですが、今でも3分半は止められます」
「それで十分だ」
「ええ、持つかなあ。持ってくれれば……」
「わしなら、すぐ試すがのう」
 1分間、キーンが翁を見つめた。突然うなずいて、すぐ向きを変えて、廊下へ飛びだした。5分で戻って来たが、惨めになり果て、唇は腫れ上がり、目は充血し、息がゼイゼイ。鼻をすすっている。勝利にあえいで、
「持ちました。まったくの地獄でしたが、持ちました」

第5章


 エルザはその晩、現われず、一方のキーンは何時間も眠れずに、惨めに寝返りを打ち、身もだえていた。暗闇でやるべきことは、奇怪、幻想、不可能のように思われるが、既にソロモン翁の理論を実証していた。つま先が痛み、唇や目が腫れていたが、なにものにも増して痛々しいのは、勇敢で誇り高い赤ペリを懲らしめることだ。
 冥王星の夜がゆうに10時間過ぎた頃、やっとまどろんだが、ほんの短時間で、ぶすっと不機嫌に起きて、部屋の床をうろついた。
 蛍光灯の明かりでソロモン翁が目を覚ました。しばらく、うろつくキーンを眺めてから、尋ねた。
「エルザは来たのか」
 キーンが怒鳴って、
「いいえ、来ないと思います。鍵を取れなかったんでしょう。よしんば鍵を持って来ても、やり通せる自信がありません」
 ソロモン翁がこともなげに、
「キミの仕事だ。わしはどうでもいい、だってわしの年齢では長く生きられないからな。いずれにしろわしはここに留まらざるを得ないし、気にしない。エルザが言うに、連中が観測機器を洞穴へ移したと言うから、ここで働けるし、宇宙空間とほとんど同じだ。ところで、エルザが好きならなぜ人間として振る舞い、そう言わないのか」
 キーンが叫んだ。
「エルザを……。僕がそんなことを考えて野良犬みたいにぶらついているからといって、エルザが好きだというわけじゃありません。まだ少女じゃありませんか」
「それにとても美人だ」
「ふん、まだ小娘だし、女性同士を戦わせるのは嫌です」
「じゃあ、戦わせるな」
「でも、悪魔のようにペリの裏をかきたいです」
「じゃあ、そうしろ」
「しかし、ある意味ペリは非難できません」
「じゃあ、非難するな」
 キーンが行ったり来たりを再開した。さらに1分後、立ち止まり、翁に向かって反抗的に言った。
「ソロモンさん、非難できません。赤ペリは海賊だし、交易や文明には脅威だと分っていますが、非難できません」
 ソロモン翁が答える前に扉を叩く音がして、キーンが振り向いてつぶやいた。
「朝食だな、朝食」
 エルザが朝食を持って来て、静かにテーブルに置いて立ち去った。キーンがどっと安堵した。鍵は取れなかったな。歌が出かかったその時、コーヒーカップを持ち上げると、そこにあったのがお馴染みリンボ号のエアロック鍵だった。
 ソロモン翁の楽しそうな青い目に見ると、冷たく光って、つぶやきが相当きつい。
「結局、キミは鍵を使う気は無いな」
 キーンがとげとげしく、
「ええ、使いません。いい選択じゃないですか。残りの人生をここで過ごせます。赤ペリが僕を殺そうと思っていなければですが、あるいは僕は嫌いなのですが、あなたの、はちゃめちゃ計画で逃げられたら……。でも1人では逃げられません。だって海賊船ですぐ見つけ出すから」
「いっそ、海賊になれば」
 とソロモン翁がそそのかした。
「くそっ」

 キーンはこの種のもやもやした状況に慣れていなかった。1度に何通りの見方がある場面に遭遇したことが無い。
 だって、いままで善は善、悪は悪だったが、いま相対性原理が物理学同様に倫理面にも通用するなんて、ちっとも自信がないもの。確かに赤ペリは必ずしも悪くないけれども、同時に確実なのは海賊であり、発展に対する脅威であり、反社会分子だから、いわゆる犯罪者だ。
 ああ、こんな狂った目的をあきらめてくれたらなあ。弁償してくれたらなあ……。激しくののしりながら扉から外へ出たとき、リンボ号の鍵がポケットにあることにほとんど気づかなかった。
 あてもなく洞穴出口へ向かった。宇宙服を着た連中が静電密閉部を出入りしており、よく見れば、外へ行く者は箱や缶詰や包みを背負っている。密閉部の端に立って、夜のように薄暗い朝の黒惑星を覗き込んだ。
 キーンの横には金属服を着た者どもが外へ向かってガチャガチャ並び、足音が不意に消えるや、外の真空へ出て行った。じっと見ていると、奴らが荷物を赤ペリ号に運び、エアロックを開けて搬入している。積載中だ。
 キーンは興味もなく、わけも分らず眺めていた。そのときパッと理由が分った。身をこわばらせ目を細め、じっとのぞき込み、向きを変えて話しかけると、近づいた金属服の男はマルコ。奴のバイザーを通して黒い鷲鼻わしばなが見えた。
 キーンが叫んだ。
「どういうことだ。赤ペリ号に積み込んでいる。何のためだ?」
 マルコが返事をしないので、キーンが正面に立ちはだかり怒鳴った。
「何のためだ?」
 振動板から甲高い声で、
「どけ、忙しいんだ」
 キーンが怒鳴って、
「もっと忙しくしてやる、この……」
「この……なんだ?」
 と冷たい声で訊いたのはペリだった。

 キーンが振り向いた。ペリがそばに立っており、全身を明るい緑色の船長服で包み、それが為にエメラルドの瞳がいっそう映える。
「赤ペリ号に荷を運んでいるぞ」
 とキーンが叫んだ。
「知っている」
「じゃあ、何のためだ?」
「仕事のためだ」
「仕事だって。略奪だろう」
 赤ペリが冷たく、
「それが仕事だ」
 キーンはなんとか自分を抑えて、緑眼の冷笑に対峙して冷静に言った。
「それが仕事か。ペリ、話がしたい」
「話たくない」
 キーンは意固地になって繰り返し、
「話がしたい、2人だけで」
 と言って、マルコの敵対的な眼をちらと見た。
 ペリが肩をすくませ、命令、
「マルコ、退出」
 キーンに向かい、
「それで、話とは?」
「いいかい。そんな仕事はやめてくれ。公正にやってくれ。キミなら略奪以上にもっと大きな仕事ができる」
「わかっている。準備ができたら大仕事をやる」
「復讐か。復讐したとしよう。幸せになれると思うか」
「不幸なら、お前にどうだっていうのか」
 キーンが深呼吸して、落ち着いて言った。
「大事なことだ。だって、ペリ、君を好きになったのだから」
 ペリの緑眼は不動だ。傲慢ごうまんに言った。
「お前の愛など私のあずかり知らぬことだ。好きならありのままを認めろ」
「僕は正直が良いと育てられた、ペリ」
「私は名誉が良いと育てられた。父のレッド・ペリイ・マクレインの名誉は回復しなければならない。娘以外に見届ける者はいない」
 キーンがいらついてこぶしを壁に叩きつけて、とうとう言ってしまった。
「ペリ、僕が好きか」
 ペリはすぐ返事しなかった。重厚な絹制服のどこからか葉巻を取り出し、火を付け、灰色の煙を出入口に吹き付けて言った。
「いいや」
「じゃあ、なぜ、あそこの穴のところで戻って来て、自分の命を危険にさらした? もし炭素食虫に触っていたらどうなった?」
 ペリが冷涼な黒い盆地をちらと見て、つぶやいた時の目は、依然としてそっぽを向いている。
「あのときは好きだったかもしれないな。お前が私の気持ちをほとんど知らないときだった。私らは同種の人間じゃない」
「同じ人間だ。異なる道徳律を学んだに過ぎない。でも、ペリ、僕の道徳律が正しい。君でも分る」
「私には通じない。父の望むものが私の望むものであり、やろうとするものだ」
 キーンがうめいて、その方面を責めるのはあきらめた。
「ソロモンと僕に何を期待する?」
 ペリが少し絶望的な身振りをして、
「どうするかなあ。ここに放置せざるをえない。キーン、この場所と私の素姓を秘密にできたら、喜んでお前を解放しよう」
「約束する」
「それでは、ここに居ろ」
「我々を殺す考えは捨てたのか」
「ああ、私を好きになった者へは、いつも寛大だ」
「ずいぶんな自信家じゃないか。海賊行為で留守の時、我々をここに放置したら、手を尽くして、君を負かすことぐらいよく分るだろ」
「絶対勝てないことぐらいよく分るさ」
 ここで、キーンの手が不意にポケットの鍵に触れ、思わずつぶやいた。
「勝てないってか、ええ。おい、ペリ。それが最後の決定か」
「最後だ」
「好きだと言っても変わらないか」
 ペリがぷいと向きを変えて厳しい下界を見ながら、不毛で冷涼な黒い冥王星の風景をじっと眺めて言った。
「変わらない、キーン」
「じゃあ、何も変えないのだな」
 ペリはいらついたそぶりで、まだ遠くを見ながら、こう言った。
「ああ、議論して何になる? 変えない、キーン」
 キーンは黙ってペリを眺め、黒々とした山々の冷たい背景に見事な赤毛が輝くのを見た。注意深く無人の廊下と、赤ペリ号に目を凝らした。
 盆地は無人だ。乗員は室内におり、エアロックは閉じている。平原の向こうに、うっすらリンボ号の鈍い船体があり、その鍵をキーンが握っていた。
 キーンが悲しげにつぶやき、
「さても墓穴を掘ったな、ペリ」
「どうしてだ、キーン?」
「これだ」
 とキーンが叫び、不意にペリもろとも突進し、無防備なまま、よろめき出た先には真空の冥王星平原があり、絶対温度10度の世界があった。

第6章


 たちまち地獄だ。空気がすっと肺から抜け、薄い霧となり、すぐに消え、痛む鼓膜に血液がどくどく鳴り、両眼は突き出たようになり、鼻からはどす黒い血が噴き出た。
 全身がひどく痛むのは体が膨らんだからであり、圧力0.8気圧から、ほとんどゼロの0.1気圧へ移動したためだ。苦痛と激しく戦った。意識をできるだけ長く保たねばならない。でも、ソロモン翁は正しかった。キーンは生きていた。
 ぱっと見れば、ペリの緑色制服が、見事な体から風船のように膨らみ、中の空気が抜けた途端に元に戻った。それからペリはふらつき、目を見開き、口を開けて、あるはずの無い空気を求め、狂乱してあえぎ、両手で喉をつかんだ。明敏な知力を目一杯使い、発作的に洞穴入口の密閉部へ飛び込んだ。だがキーンが厳しく押し返した。
 ペリが叫ぼうとした。胸が膨らんだが、むなしくつぶれ、音もせず、あえぐばかり。額に汗が出たが、たちまち消えた。鹿シカのように素早く入口へ駆けだしたが、またしてもキーンが苦悶しながら背中をつかまえた。
 人生で始めてペリは狂乱に陥った。もう心と体を制御できない、まだ脱出できるかもしれないのに……。激痛と恐怖のために機会を失ってしまった。そして数秒間キーンにつかまれた体を漫然と押し返すことしかできず、両手を激しくばたつかせ、両足で発作的に蹴りつけ、野生の緑眼でキーンの鼻先をにらむばかり。
 キーンには今2つの使命がある。1つは入口に近寄せないこと、2つめは、靴を履いた足は別だが、暴れる体のどの部分も、凍傷を引き起こす冷たい岩肌に触れさせないこと。ペリをしっかと抱いた。突然、ペリの反抗が弱まり、あえぐ喉に両手をむなしく回し、ぎゅっと握り、気を失った。
 2人はほとんど赤ペリ号のエアロック近くにいた。エアロックが開き、マルコの驚いた顔がバイザー越しに見えたので、1秒も無駄にできない。
 ペリを肩に担いで、驚異的に駆け出した先にはリンボ号が300※(全角メートル、1-13-35)以上離れており、そこは真空で、宇宙空間よりわずかに冷たいだけ。マルコは絶対につかまえられないだろう、だって宇宙服を着ては走れないもの。
 ペリは軽くなかった。地球なら52※(全角KG、1-13-52)だが、ここでは62※(全角KG、1-13-52)以上だ。自分の体重はもっと重いが、どっちも全く感じない。体をさいなみ激痛を与える苦しみなんて吹っ飛んだ。
 目もくれずアルミニウム食虫を踏みつぶすと、くるぶしに付いた小さな傷から血が噴き出した。それからリンボ号のエアロックを手探りした。
 エアロック扉は内圧がゼロだから開いた。ペリと一緒に転がり込み、扉を閉め、自動弁がシュッと開き、天国のような空気流が顔に当たったとき、気を失った。真空中を300※(全角メートル、1-13-35)走り、なお生きていた。
 空気圧が正常に達した。なんとか立ち上がり、内扉を開けてペリを引っ張り込んだ。横たわった女は、素敵な髪が鉄床てつゆかに乱れ、鼻血を出しているが、息はしている。
 キーンにはやるべき仕事があった。下向き噴射を全開にすると、宇宙船が轟音と共に、サッと上昇し、舷窓を覗けば、マルコが必死に平原を歩いている。リンボ号を当てもなく上昇させた。あとで航路は決められるだろう。
 だらんとなったペリを椅子に座らせた。細い腰のあたりに、船尾の換気装置から取ってきた鉄の鎖を巻き、ソロモン翁のボロメータ空箱にあった南京錠を通した。他端は壁の握りに慎重につないで鍵をかけると、ひと仕事で息を切らし、やっと薬箱に目が行った。

 ウィスキーをタンブラーに半分注ぎ、ペリの唇に無理矢理含ませた。キーンはまだ激痛にうめいていたけど、それ以上に苦痛だったのは、気を失ったペリの顔に浮かぶ苦悶の表情を見てしまい、ゼイゼイする吐息を聞いたからだ。
 ペリがウィスキーに弱々しくむせび咳き込んでいるとき、キーンは操縦室へすっとんで戻り、リンボ号の鼻先を太陽方向に向けた。当分これで十分だし、あとでタイタンへ進路を取れる。
 ペリが目を開けた。不審な緑眼でキーンと部屋をぼんやり見つめて言った。
「キーン、ここはどこだ」
「リンボ号だ」
 ペリが目を落とした。腰に巻かれた鎖が手に当たった。
「リンボ号か、ああ」
 とつぶやいて、30秒間も鎖を見ていた。再び顔を上げたとき、眼がすわり、意識がはっきりしてきた。
「捕らえたな、キーン」
「まさに僕の望み通りだ」
 と厳しく言ったが、妙なことに嬉しくなかった。ペリの敗北を見たかったものの、今になってみれば痛々しい限りだ。
 ペリがゆっくり尋ねた。
「なぜ死ななかった、キーン? 真空地帯にいたのじゃないか。どうして生きている?」
「ペリ、こういうことだ。ソロモン翁の考えだよ。宇宙については誰もが多くの迷信を信じているが、翁は真実を見抜いていた。真空が危険なのではなく、冷たいのも危険じゃない。空気がないのが危険だ。体が凍結しないのは、真空が最高の断熱材だから。体はアルミニウムすきみたいなものじゃない、なぜなら体は放射熱以上の熱を発生している。実際、あの地獄で感じた限り、僕には暖かく感じられた。
 そして肺がつぶれるなどという恐ろしい話については、高校物理の生徒がみんな目撃するように、ガラスしょうに入れたネズミ実験がある。空気ポンプでかねの中を最高限度に真空引きすると、ネズミは意識を失う、君のようにね、ペリ。でも空気を戻せばネズミは生き返る。
 肺がつぶれないわけは、押しつぶす外圧がないからであり、また破裂しないわけは、細胞組織が十分強くて、内圧を維持できるからだ。ネズミが耐えられるのだったら、人間だって耐えるだろう。そして、僕が君より長く真空に耐えられるのは分っていた」
 ペリが悲しそうに認めて、
「そのようだ。でも、キーン、あの恐ろしい圧力低下は……。破裂しないことは分っていたが、そうなるかのように感じた。でもまだ理由が分らない」
「確かに細胞組織はとても強靱だ。いいかい、ペリ。地上の海面圧力は1気圧だ。エベレスト山頂は0.3気圧、標高は約9千※(全角メートル、1-13-35)だ。
 150年前の1930年、風防無し飛行機がエベレストを越えた。パイロットが空気欠乏に苦しむことはなかった。呼吸用酸素を持ち込んでいる限り、生きられる。
 海面から高度8800※(全角メートル、1-13-35)へ上がると、気圧が0.7気圧下がり、この下がり具合は、あの洞穴から下界への圧力低下とほとんど同じだ。
 人間の体はそんな急減圧に耐えられない。全員が現実に高山病になる。実際、真珠獲りは海面下7〜9※(全角メートル、1-13-35)潜るから、これ以上の圧力変化に遭遇する。南洋にいる大勢の素潜りは無防備で、その深さで働く。僕たちに起こっていたかもしれないのが潜水病だが、君たちの空気システムのおかげで、ならずに済んだ」
「私らの空気システムだって?」
「そうだ、ペリ。潜水病は圧力低下で起こり、血液中に溶けた窒素が泡になるのが原因だ。泡が病気を起こす。でも君らの空気は窒素を含んでいない。酸素とネオンから造られており、ネオンは血液に溶けない。血中にガスがないので、泡が発生せず、潜水病にならない」
「でも、変だ、不可能だ」
「できたよ。どうだ」
「もちろん、キーンに勇気があったからだろう。お前はこの赤ペリを怖れさせた唯一の男だし、2回も見せてくれた」
「2回だって。1回目はいつだ?」
「炭素食虫がお前の足に乗ったときだ」
「うーん、ペリ、2回とも十分こたえたよ。でも、もしか、君は……」
「もちろん、そういうこと、好きだ、キーン」
「ペリ、信じるよ。僕も好きだ」
 ペリの緑眼に、昔の冷笑がかすかに光り、こう言った。
「ええ、もちろん。とても親切にしてくれたから」
 この皮肉には苦しむ。
「やらねばならなかった。僕の味方にする必要があった。ペリ、正直な側だ」
「それで、できるとおもうか」
「やってみせる」
「本当か。キーン、数分で私の船が追いつくことが分らないのか。このたらい船では赤ペリ号に勝てない。いま私は無力だが、そんなに長くない」
「そうか。まあ、たらい船だろうとなかろうと、リンボ号は頑丈だ。奴ら、君が乗っているこの船は粉砕できまいし、もし停止させて割り込んだら、ぶつけてやる。言ったように、この船は頑丈だし、キミらの三角高速船よりずっと頑丈だ。壊してやる」
 と言って、眼を細め、ペリを見た。
 ペリの顔に戻っていたかすかな赤みが消えた。やがて低い声で言った。
「キーン、この私に何をするつもりだ?」
「君を裁判にかけるために連れて帰る。罪を償ったあと、おっと君は美しいから米国法廷なら判決は軽いだろうから、そのあと君と結婚する」
「けっこん? ええ、しましょう、キーン、でも海賊行為は海事法で裁かれるのを知らないね。刑罰は死刑だ」
「君のような女性には適用されない。3年以下だ」
「でもキーン、私は地球上のどの国でもお尋ね者だ。きっと引き渡される。もし英国法廷の殺人罪で裁かれたらどうなる?」
「殺人か。考えていなかった。しまったペリ。どうしよう」
「あなた次第だ」
 とペリは投げやりだ。緑眼に涙が光った。
「どうしよう。僕は法律を尊重すると厳しく誓った。誓いは破れない、ペリ。僕にはお金がある。米国法廷と戦い、引き渡さない。略奪品はすべて返そう。みんな寛大になるだろうし、そうならねば」
「たぶん、そうね、かまわない。あなたが勝った、キーン。すきよ」
 衝動的にキーンは操縦桿を離し、鎖で縛ったペリに歩み寄りキスした。サッとやらねばならない訳は、不意に目がかすんできた為だ。
 再び操縦に戻って強く誓ったこと、それは今わかったことだが赤ペリを裁判にかけず、決して危険にさらさない。誓いを破り暗澹あんたんとなった。愛する女性を危険にさらしては何にもならない。

 計画を立てた。タイタンのニビアでは、たしか船の検査がある。冷えた噴射口にペリを隠し、ペリをつかまえたことなど言わずに、作り話をしよう。海賊基地のありかをばらし、国営ロケットでソロモン翁を救出させてアジトを破壊させよう。それから……。
 それから? えーと、リンボ号をイラクに着陸させよう。そこに友人がいるからペリをかくまってもらおう。自国へ飛び、忌々しい公職をやめ自由になって、海賊か殺人鬼か知らないが、好きになった人と結婚すれば、誰も愛らしいキーン夫人がかつての強面こわもて赤ペリだなんて知らないだろう。
 当分ペリには、罰を受けるために連れ戻すと信じさせよう。少なくともペリは恐れをなして立派な人生に戻るだろう。
 キーンがにやり笑って見上げれば、ペリが緑眼を輝かせ、キーンの顔をじっと不安そうに見ている。

 話そうとする直前、静電場のブザーが鳴り、流星警報を出した。しかし、流星はここ木星軌道以遠では実際まれだ。後部を振り返り、冥王星の巨大な黒円盤を見れば、まさしく小さな光点が黒い空間を背景に現われ、これはロケット噴射にほかならない。
 一刻一刻、光点が近づき、赤ペリ号が押し寄せ、自船の噴射はかき消されたかのよう。
 海賊船が並列した。出し抜けに拡声器から声がした。海賊が光線で遠隔操作している。
「噴射をとめろ」
 と聞こえた冷たい金属音はマルコだと分った。
 キーンには返事手段がないので、構わず進んだ。赤ペリ号がぴたりと付けて、命令。
「噴射を止めろ。さもないと粉砕するぞ」
 はっと気づいて、そうだ、操縦室から船尾への通信系がある。もしこの通信系で話し、奴らの真空管感度がよければ、奴らは受信機で誘発電流を感知するかもしれない。スイッチを最高音量にした。
「赤ペリ号へ、聞こえるか、聞こえるか」
 即答だった。
「聞こえる。噴射をとめろ」
「いやだ。もし1※(全角メートル、1-13-35)でも近づいたら、ぶつけてやる。ペリが乗っているから、この船を粉砕すればペリも殺すことになるぞ」
 沈黙があった。
「ペリが生きている証拠を見せろ」
前窓ぜんそうを見ろ」
 とキーンが言って、ペリの手を縛っていた鎖をほどいた。ペリは抵抗せず、舷窓げんそうへ連れて行かれ、紐に繋がれた子犬のようにおとなしく従った。
「ペリ、すまない。顔を見せねばならない」
 と言って、ペリの見事な赤毛を乱暴につかんで顔を窓に押しつけた。しばらくして離し、椅子に戻し、また鎖で縛った。
 キーンが呼びかけた。
「赤ペリ号、離れろ。さもないと、ぶつけるぞ。400※(全角メートル、1-13-35)離れろ」
 返事はなかったが、海賊船は少し傾き、静かに離れた。典型的な子供のように近場に留まり、しつこくまとわりついた。でも手出しできない。マルコはあえてペリを危険に晒せない。
 1時間が経とうとする直前、ペリが惨めに言った。
「あんたが分らない。自分の命が危なくなったら私を差し出すくせに、自分の命を賭けて私を殺そうとする。これがお前の愛か」
「僕は命を賭けて君を殺そうとしていない、救おうとしている。ペリ、君の人生を考えると耐えられない。幸せになってほしい」
「しあわせか、もしこれがお前の考えなら……」
 と悲しげに言い、しり切れた。
 何時間も海賊船はしつこくそばにいた。やっとのことでキーンは寝たが、もしマルコが突っ込んできたら、警報器が起こすだろうと信頼して眠った。
 最後にキーンが見たのは、冷たく輝くペリの両眼、そんな眼はキーンがはじめて見る眼だった。ペリは石のように座っていた。

 もう1日が過ぎた。冥王星がはるか後ろにちっぽけにかすみ、海王星と天王星が太陽の向こうにあり、土星が明るく輝いてきた。
 終日ペリは哀れを誘うほどおとなしく、就寝前にキスすると、狂乱したかのようにしがみついてきた。そんなことを、あとになって思い出すのも、目が覚めてみたら、いなくなっていたからだ。
 行ってしまった。鎖が消え、椅子に真四角の星図紙が1枚置いてあるだけだった。ペリはリンボ号におらず、もはや赤ペリ号も左側に併走していなかった。キーンが狂ったように星図紙をひっつかんでメモを読んだ。

 キーン、最愛のキーン、これでお別れです。好きでした。その証拠に、とっくの前、あなたが寝ている間に逃げ出せたのに、ここに居たかったからです。もしあなたのおっしゃる通りであれば、法の前にただ喜んで従いましょう。でもできません。3年刑期でも無理です。自由がなければ死んだも同然だからです。
 私はいつもポケットに鉄食虫を入れて、襲撃に連れて行きます、アードキン号事件を思い出して下さい。鎖は食べますが、クロム鋼は攻撃しません。ですから、あなたの床と壁は安全です。
 キーン、もしあなたが下手したてに出て、私の安全を約束したなら、きっと留まったと思いますが、おそらくそうなったら、今より愛せなくなるに違いありません。
 さようなら

 メモに署名はなかった。赤鉛筆で、翼の小さな妖精――赤ペリ――を見事に描いてあった。
 ペリのやり方が分った。リンボ号に宇宙服はない、というのもソロモン翁と海賊洞穴へ行くとき、着たからだ。ペリは自分の船に合図して、エアロックを開けさせ、再び宇宙真空に挑み、自ら横断した。
 キーンは呪いや、ののしり言葉を吐き尽くし、我身をあらん限り阿呆呼ばわりしたとき、やるべき事が分った。
 ペリは冥王星で見つからないだろう、確実に基地を移動するだろう、だってキーンが国営ロケットをアジトへ道案内するだろうから。
 さはさりながら、キーンにできること、しなければならないことは、惑星協会の貨物船に職を得て、待つことだ。
 そうすれば、早晩赤ペリ号に再びまみえるだろう。





底本:The Red Peri. Fantasy Press, Reading, Pennsylvania, 1952
原著者:Stanley G. Weinbaum
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)の下で公開されています。
Creative Commons License
上記のライセンスに従って、訳者に断りなく自由に利用・複製・再配布することができます。
※翻訳についてのお問い合わせは、青空文庫ではなく、訳者本人(okk@r.saturn.sannet.ne.jp)までお願いします。
翻訳:奥増夫
2023年10月26日作成
青空文庫収録ファイル:
このファイルは、著作権者自らの意思により、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)に収録されています。




●表記について


●図書カード