タイタン横断

FLIGHT ON TITAN

衛星シリーズその1

スタンリイ・G・ワインバウム Stanley G. Weinbaum

奥増夫訳




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タイタン



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 絶え間のない暴風轟音は、まるで天地創造以来の拷問のようで、2人は滑りまろびつ、氷棚へ一時待避した。きらめく氷針雲ひょうしんぐもが流れ、明るい夜空を虹色に染め、-60℃の冷気が発砲ゴム服を通して伝わった。
 女が男のヘルメットにバイザーを押しつけて、冷静に言った。
「これで最後じゃない、ティム? 嬉しい、一緒に来られて、最後も一緒だから」
 男が絶望してうめくと、暴風が木々を吹き飛ばした。男は視線をそらし、惜しむように昔を振り返った。

 2142年は皆の記憶通り、経済が破綻した年だった。まさにこの年、惑星貿易会社が倒産し、不景気の到来を告げた。ほとんど全員が思い出すのは、2年間の熱狂的投機、破綻前のことだ。
 その昔、2030年はホッケンロケットが開発されたり、ロシアが不毛不要な月の領土を併合したり、国際探検によって火星に古代文明があったとか、金星に文明の萌芽が見られるとか……。この金星報告により惑星貿易会社が設立され、後年倒産の憂き目に会った。
 今となっては誰を非難すべきか分らない。勇敢な遠征隊員はみんな疑いの目で苦しめられた。うちの2人がパリで殺されたのはわずか1年ちょっと前、犯人はおそらく執念深い同社の投資家だろう。金の為ならやりかねない。金の亡者は、得てして危険を顧みず、強欲をこき、挙句の果て、会社が倒産すると、生けにえを探し、手頃で不運な者を攻撃する。
 少なくとも信憑性はともかく、噂で驚いたのは地球の鉄と同じくらい金星では金が豊富だとされ、そのあと悲劇が起きた。誰も考えが及ばなかったことは、金星の密度が地球よりも小さく、金や重金属が月のように皆無と言わないまでも、極めてまれだってこと。
 噂は伝染病のように広まり、流れた話は、遠征隊員が金持ちになって帰還したよし。隊員のやったことは、どうやら親切な金星原住民に数珠玉じゅずだまやジャックナイフを渡し、金のカップや金の斧や、金の装飾品と交換したらしい。
 急造惑星貿易会社の株は額面50ドルから1300ドルへ急騰した。膨大な含み資産が発生し、文明社会は投機熱に浮かれ、食品、家賃、衣類、機器などの新需要を見越して、あらゆる価格が高騰した。
 我々は皆、結果を知っている。同社は2回にわたって探検隊を派遣し、長いこと熱心に金塊を探した。原住民を見つけると、原住民は数珠玉やジャックナイフを欲しがったが、金塊は全く持っていなかった。
 戦利品としては、素敵な小型彫り物、科学的に貴重な銀少々、金星海から採れたわずかな真珠の偽石で、金塊はなかった。何も配当金を貪欲な株主に払えないし、何も噂の金品を確約するものがなかったので、ひとたび真実が分ると、たちまち同社の株は暴落した。

 失敗で動揺したのは投資家だが、非投資家も同様で、その中にティムシィ・ディックと妻のダイアンもいた。2142年の春、2人はニューヨークのアパートでお互いに目を合わせ、ほとんど無一文、どん底だった。仕事がなくなり、ティムシィのテレビ販売は不振となり、誰も買わなくなった。だから絶望して座り込み、顔を見合わせ、口を利かなかった。
 遂にティムシィが憂鬱ゆううつな沈黙を破った。
「ディ、無一文になって、何をしようか」
「ティム、お金のことですか。その前に幾らか戻るでしょう。お金は返すべきです」
「もし返ってこなかったら?」
 妻が黙っていたので、続けた。
「俺はじっと座って待っちゃいない。何かやる」
「何って? ティム。やることがあるの」
 ティムが声を落として、
「ああ、ディ、覚えているかい、政府系の遠征隊が奇妙な宝石をタイタンから持ち帰った。その1個をアドベン夫人が50万ドルで購入して、正式に身に着けて、確かオペラ鑑賞に行っただろ?」
「ティム、その話は覚えているけど、タイタンの話は聞いたことがない」
「土星の衛星だよ。アメリカの所有だ。恒久居留地がある。人が住めるんだ」
「まあ、それがどうしたの?」
「こういうことだ。去年6人の山師がもっとないかとタイタンに行ったんだ。うちの1人が今日お宝を5個持って帰って来た。ニュースで見た。ディ、奴は金持ちになった。貴重品だからな」
 ダイアンが分かり始めた。声もかすれて、
「ティム」
「ああ、それだよ。必要なお金以外の全財産を君に残して、1年間タイタンへ行く。調べ上げたので、やり方は分る……。いまタイタンは近地点に近づいている。1週間以内にロケットが出るだろう。居留地のニビア行きだ」
「ティム、ニビアは聞いたことがある。寒い所じゃないの?」
「ダンテの地獄のように冷たいよ」
 妻が不満そうな唇をしたので、ティムは青い目を細めて、意固地になった。
 妻が無言を翻し、茶色の瞳を細めて言った。
「一緒に行きます」
 ダイアンが勝った。いまや終った……。

 長いこと言い争い、最終的に負けて、数ヶ月も最悪な無換気ロケットに乗り、小型金属半球体を組み立ててむりやり生活空間にして――。
 ロケットが着陸して、全部荷下ろした目的地はそれまで地球で長時間議論して決めた所、その相手とは帰還山師のサイモンズ。
 サイモンズは感じのいい男だったが、話にはちょっとがっかりした。タイタンの気候はエスキモー地獄のようだとか。いや、誇張じゃなかった。ティムがいま分って、呪ったのは自分の弱さ、ダイアンのわがままに屈したことだ。
 さて、2人はタイタンにいる。ティムは1日1本の割り当て煙草を吸っており、ダイアンは声を出して世界史を読んでいるが、数千ページあるから、長いことかかりそうだ。外は信じられないようなタイタンの夜で、時速160※(全角KM、1-13-50)の強風が常に褶曲壁を震わせ、氷山は緑色に映える一方、土星の明かりでタイタンから円盤の端面が見えるのは、同じ平面を回転しているから。
 発見者のヤングが命名した地獄山脈の160※(全角KM、1-13-50)先に、雪の町ニベアがある。地獄山脈は人間の知る限り、ヴァンマーネン星の惑星上と同じかもしれない。
 確かに夜中に山越えしたら、平均-60℃では誰も生き残れないだろうし、日中ですら時々暖かいと言っても-18℃だもの。いやだ、2人はタイタンに置き去りにされ、ロケットは来年まで戻ってこない。
 ティムが震えたのは、山が砕けんばかりに、暴風音で轟き渡ったとき。タイタンではごく普通のことだ。2人が常に翻弄されたのは、巨大土星の強烈な潮汐と、信じがたい強風圧力。やはり、不安になってきた。小さな住処はいつも危険だ。
「ブルブル、あれを聞いて」
 とティムが震えた。
 ダイアンが上目遣いに、
「3ヶ月たってもまだ慣れないの?」
「永久に慣れない。なんてえ所だ」
「ふふふ。よろこばせてやるね」
 と言って立ち上がった。
 ブリキの箱から、ひとつながりの火球を取り出した。
「見て、ティム。6個、6個のラン球よ」
 ティムは光る卵球を見つめた。命が耀くように、卵球の表面下で虹の輪が様々な色に変化している。ダイアンが表面に片手をかざすと、手のぬくもりに応じて色を変え、全波長を再現し、赤が青に溶け合い、青紫、緑、黄、橙、深紅に変わった。
 ティムが見とれてつぶやいた。
「きれいだ。金持ちの女性達がこのために有り金をはたいても不思議じゃないね。ダイアン、きみのために一番きれいな物を1つ取っておこう」
「ふふふ。ほかに欲しいものがあるのよ、ティム」

 扉を叩く音が風のうなりに聞こえた。訳は知っていた。ティムが立ち上がって、補強窓から白夜びゃくやを覗くと、すぐ分ったのは、胴長1※(全角メートル、1-13-35)の原住民が扉に寄りかかり、円錐爪を氷に食い込ませている。もちろんタイタンではどんな生物も、こんな常在強風の中で直立しない、どんな生物も、おっと温暖世界から最近やってきた人間は別だが。
 ティムが扉の鎖を一段ずつ開けたのは、腕力で支えられないから。風が威勢よく吹き込み、壁に掛かっていた道具をがんがん鳴らし、吊るした衣服を狂ったように踊らせ、屋内を凍りつかせた。
 セイウチのようにするりと入ってきた原住民の体はアザラシのような流線型、5※(全角CM、1-13-49)ぶよぶよ肉で守られ、てかてか光っている。ティムが扉を閉めると、膜状のまぶたを上げた生き物の姿は、きらきら輝く大型犬のようだった。
 これがタイタンの原住民で、たぶんセントバーナード犬ほど賢くないが、おとなしくて害が無く、不可能環境に見事に適応し、タイタンで知られている生命の中で最上位にある。
 ゴム状の背中にある開口袋をまさぐった。“アア”と言って、白い卵形を見せた。やや暖かい部屋の空気に晒されると、ラン球の光が華麗に耀き始めた。
 ダイアンが手に取ると、色彩が急変し、ずっと明るくなった。小さなもので、コマドリの卵より大きくなく、完璧な形だが、極寒の岩にくっついている場合は別。
 ダイアンが叫んだ。
「まあ、なんて美しい、ティム」
 ティムがにやついて、
「とんでもない取引だな」
 ティムが物々交換品を入れた黒い箱を引っ張り出し広げて、小鏡、ナイフ、数珠玉、マッチ、地味な装身具を見せた。
 原住民の黒目が強烈にぎらついた。品物に1つずつ目をやり、決めかねている。かぎ爪の3本指で触わり、クークー鳴いている。それから部屋を見渡した。
 突然“アレ”と言って、指を向けた。ダイアンが吹き出した。指差したものは、ぼろいよう日巻かまき古時計で、2人にとっては用無しであり、調整されておらず、ただ地球時間を指す代物。チクチクという音にひかれたに違いない。
「だめ、ここじゃ役に立たない」
 とダイアンが笑って、小間物箱を指差した。
「アレ、ホシイ」
 と原住民は言い張る。
「なら、取りなさい」
 ダイアンが時計を渡した。原住民は皮膚で覆われた耳に当てて、音を聞いた。クークーと言っている。
 ダイアンが咄嗟に箱からポケットナイフを取り出して、
だましたくない。これも取りなさい」
 原住民がごろごろのどを鳴らした。鉤爪かぎづめでナイフを開け閉めしてから、注意深く背中の袋にしまい、そのあと時計を詰め込んだ。袋が小型コブのようになると、原住民は向きを変えて、扉へ急いだ。
アケロ
 と原住民。
 ティムが原住民を出し、窓から見ていると、斜面を滑って、つぶれ鼻を風に向けて、横へ去った。
「やりすぎだ」
 ティムがダイアンに向かって渋い顔。
「お宝代が50セントナイフよ」
 とダイアンが宝石をなで回した。
 ティムが思い出させた。
50セントは持って帰る。飛行費用を考えれば意味が分るだろ? ニビアを見ろ。金鉱を掘り、岩から純金を取り出し、地球輸送費用が算定される頃に、保険金をかろうじてまかなえる、かろうじてだ」
「金欠なの?」
「ああ。簡単に分かるだろ。地球からタイタンあるいはその逆の飛行は、燃料を満タンにしても、貨物積載量がとても少ないと知っているだろ。10※(全角KM、1-13-50)の遊覧旅行でも道中、多くの危険がある。金塊の保険金は価格の30%だと思う」
「ティム、保険をかける必要があるね。どうする?」
「かけない。金塊に保険をかけないのは、金塊を持って帰るからだ」
「でも、もし無くしたら?」
「ダイアン、もし無くしたら保険金は役に立たない。だって2人とも亡くなるもの」

 3ヶ月がゆるゆる過ぎた。小さなラン球が15個、そして18個になった。もちろん、あの初物の超高値で売れないことは分っていたが、半値でも、いや10分の1でも懐は温かくなるし、余裕ができるし、うれしい。苦労した甲斐があった。
 タイタンは土星の周りを回り続ける。昼が9時間続き、地獄の恐怖夜が9時間ある。永久暴風が吠え、噛み付き、引き裂き、豹変ひょうへん氷山が土星の潮汐力で持ち上がり、うなる。
 時々、日中、外へ出て暴風と戦い、あぶなっかそうに極寒ごっかん斜面へ排便した。1回ダイアンが体ごと流されて、奇跡的に助かった場所は深くて妙なクレバス、この淵が山の斜面を取り巻いており、以後気をつけるようにした。
 また無理矢理むりやり突っ切ろうとした森には、ゴム状で弾力のある鞭のような木々があり、近くの断崖に生えていた。木々が2人をピシピシ叩き、倒れるほど激しくなかったが、3※(全角CM、1-13-49)の発砲ゴム層を通しても痛かった。この発砲ゴムが寒さから身を守ってくれる。
 そして7日半ごとに、風が妙にとても静かになり、半時間ほどして、今度は反対方向から凶暴さを再発して吠えまくる。これがタイタンの公転運動の特徴だ。
 ほとんど定期的、つまり8日ごとに原住民が時計を持って現われた。ゼンマイ巻き作業ができないようで、いつも悲しげに時計を差し出し、ダイアンが再びカチカチ動くようにすると、すぐに喜んだ。
 ある緊急現象では、ティムをたまに困らせた。土星は公転周期30年のうち2回太陽と食を起こし、タイタン時間で4日つまり72時間、タイタンは真っ暗闇になる。いま土星がその時点に近づいており、日食になるだろうから、ずっと前にロケット船は地球から近地点で速度を上げ、到着していなければならない。
 人間が占拠したのはわずか6年前。だから4日の闇夜がこの小さなタイタン世界にどう影響するか誰も知らない。
 絶対零度になるか。たぶん濃いキセノン大気の為、絶対零度にはならないだろうが、日食の夜、どんな嵐が起こるか、氷がどんなに激変するか。当然、光る土星が熱を少し与えるが、遠方の太陽の3分の1ぐらいだ。
 まあ、心配は無用。ティムがダイアンを見れば、ダイアンは毛皮外套の面格子めんごうしの破れを縫っており、ティムは散歩を提案した。
「太陽の下で散歩しよう」
 と皮肉った。地球では8月だ。
 ダイアンが同意。いつでも喜んですぐ賛成する。ダイアンがいなければ耐えられなかっただろう。ひどく不思議だったのは、サイモンズがどう耐えたのか、タイタンの単一小大陸にいる他の人々はどう耐えているのか。ティムがため息をついて、厚い服に身を包み、扉を開け、轟音地獄の屋外へ出た。

 その時、2人は惨劇寸前に追い込まれた。のろのろ、這いつくばり、やっとの事で氷山の風下へたどり着き、はあはあ息を継ぎ、しばらく休んだ。ティムが頭を上げ、山頂を見て、バイザーの保護眼鏡から覗けば、何か変わった物が――。経験で分かる。眉をしかめて、高屈折大気を見つめた。距離を測るのが難しい訳は、大気が陽炎かげろうのように周囲を揺らすからだ。
「見て、ディ。鳥だ」
 とティムが叫んだ。
 まさにそのように見え、風に乗って羽根を広げ、2人の方へ来る。次第に大きくなり、プテロダクティルス程で、時速160※(全角KM、1-13-50)の強風をかさに襲いかかってきた。凶暴な1※(全角メートル、1-13-35)のくちばしが見えた。
 ダイアンが悲鳴を上げた。怪鳥が2人に向かってきた。飛行機並みの速度だ。ダイアンが鋭い氷片を掴んで投げた。怪鳥は進路を高く変え、雲のように2人を抜き去った。風上には飛べないようだ。
 2人は小屋にいる時ヤングの本で見ていた。あの勇敢な探検家ヤングが発見し、名付けた。ナイフたこという野獣であり、同僚の死亡原因となっていた。鳥じゃない。実際は飛ばない。タイタンの強風に乗って凧のように舞うだけであり、地面に降りるのは、週1回のぎと、獲物を首尾よく刺した時だけだ。
 だが生命はこの氷結小世界で実に珍しい。時たまやってきて、幽霊のように奇妙に往来する原住民とか、比類無きナイフ凧とか、崖近くに生えるムチ樹木を別にすれば、生命はいない。
 もちろん透明氷アリが丘の氷面にいるが、滅多に出てこず、じっと小洞こぼらに隠れており、小洞こぼらの中を溶かしながらキノコのように成長し、氷晶という新鮮な食料を摂取する。寂しい世界、荒涼、奇異で、許されざる非地球的な小衛星だ。
 実際タイタンでは雪が降らない。凍結空気は雪に成長するほどの水分を含まないので、代わりに別なものができる。日中、温度が度々たびたび融点以上になると、凍結海に浅い水たまりが形成され、時々水面下の極寒海水が大爆発して拡大する。暴風がこの水たまりを波しぶきで吹き上げるので、凍結暴走し、氷針雲ひょうしんぐもとなり衛星を駆け巡る。
 頻繁に暗闇をダイアンが窓から観察している訳は、氷針雲が土星の冷たい緑色に照らされて耀き、壁でキーキー、ズズズと音を立てて、死衣装しにいしょうを着た巨大な幽霊のように見えるからだ。困ったことに、原子力暖炉で狭い住居は暖かいけれど、ダイアンは震えをきたし、服を引き締め、用心してティムに見られないようにした。
 このように、時が作業小屋の中でゆっくりわびしく過ぎた。もちろん天候は一様で、相変わらず凶暴、こんなのはタイタンだけであり、平凡な太陽から14※(全角KM、1-13-50)離れている。1523時間の軌道周期で回るこの小さな世界には知覚できる季節がない。西から東へ変移する風だけが、巨大土星を回っていることを示す。
 季節はいつも冬で、過激、凶暴、想像できないが、これに比べれば地球の極寒南極風はリビエラの4月のようなものだ。そして少しずつ土星が太陽の縁にかかり、遂にある日、輪っかの西端をざっくりえぐり、赤い円盤をすぱっと切った。日食が間近だ。

 その夜、惨劇を見た。ティムは寝台で仮眠していた。ダイアンはぼんやりと緑の畑と暖かい日差しを夢見ていた。外は強風がいつもよりうるさく、氷雲が絶え間なく窓を通り過ぎている。移動氷山の轟音が低く不気味に聞こえる。いま土星と太陽がほとんど一直線に並び、2倍の潮汐力でタイタンを持ち上げた。そのとき不意に警報音が鳴った。警鐘が大音響で鳴っている。
 ダイアンは訳を知っていた。数ヶ月前、ティムが氷に杭を一列に打った。その場所は崖であり、この崖がムチ樹木にかかっている。危険を予測して警報装置をつけていた。警鐘の意味は、崖が動いて杭の先頭に当たった。危険だ。
 ティムがびっくりして寝台から飛び起きて、怒鳴った。
「服を着て外へ出ろ。すぐだ」
 ティムが発泡ゴムパーカをひっつかんで、ダイアンに投げた。自分のも引っ張りだし、扉を開けて外気の修羅場に晒すと、暴風が侵入し、椅子をひっくり返し、部屋中の物を引っかき回した。
 ティムが大騒動の中で叫んだ。
「緊急袋を締めろ、見てくる」
 ティムが消えると、ダイアンはこみ上がる恐怖を抑えた。緊急袋を紐でしっかり結わえて、貴重なラン球を18個小さな皮ポーチに入れて首に掛けた。平静を装った。たぶん氷崖の動きが止まったか、風力だけのせいで警報杭が作動したのだろう。椅子を起こして座り、扉から身を切るような暴風が吹き込む中で、バイザーを開けたままにした。
 ティムが戻って来た。扉枠を掴む手袋が見え、毛皮で覆った顔が見え、曇り止め眼鏡の両目が笑っている。
「外へ出ろ」
 と叫び、緊急袋をひったくった。
 ティムの後について、唸る地獄へ慌てて飛び込んだちょうどその時、2回目の警鐘が鳴った。
 かろうじて間に合った。竜巻が広がり襲った時、大量の氷が舞い上がり、きらきら耀き、小屋高く覆いかぶってきたのが垣間見えた。強風以上の轟音と唸り音がして、掘っ立て小屋が飛ばされた。鉄板が1枚、強風に巻き込まれ、巨大コウモリのように頭上を飛び、ガンガン、ガタガタ音を立てながら斜面に沿って西へ流れていった。
 ぼう然として恐怖におののき、ティムの後について避難棚へ掻き分けて見れば、ティムは強風で生き物のように動く緊急袋をもてあましている。やっと肩に縛ったので、ほっとした。
 ダイアンがティムのヘルメットにバイザーを押しつけて、言った。
「これで最後じゃない、ティム? 嬉しい、一緒に来られて、最後も一緒だから」
 ティムが絶望してうめいたが、強風にかき消えた。不意に向きを変えて、腕をダイアンの体に回して、かすれ気味に言った。
「すまない、ディ」
 キスしたかったが、もちろんタイタンの夜では不可能だ。死のキスになりかねない。唇同士が凍結して死んでしまう。その考えは捨てた。たぶんキスは気持ちが良いだろう、だって、今とにかく死が避けられないもの。もっと良い方、戦って死ぬ方を選んだ。ダイアンを岩棚の物陰に置いて、座って考えた。
 ここには留まれない、明らかだ。ロケットは3ヶ月間来る予定はないし、その前に凍結死体になるだろうし、暴風に吹き飛ばされるか、クレバスに埋まってしまうだろう。道具無しでは避難小屋を造れないし、もし造れたとしても原子力暖炉が移動崖のどこかに埋まってしまった。ニビアへの旅はできそうにない、地獄山脈を160※(全角KM、1-13-50)横断するなんて。できるか。でも、これが唯一可能な選択肢だ。
 ティムが緊張して言った。
「ディ、ニビアへ行くぞ。驚かないで。いいかい、風向きが、ちょうど変わった。背中からだ。また変わるまで地球日でほぼ8日ある。1日に20※(全角KM、1-13-50)進めば、安全だ。もし進めずに、風向きが変われば、そうだなあ、ここで死ぬより悪くはないさ」
 ダイアンは無言だ。ティムは考え込み、眼鏡の奥で眉をしかめた。可能性はある。緊急袋、パーカなどは地球重量より軽い。もちろん、思うほどそんなに軽くはない。
 タイタンは水星より大きくないが高密度の小衛星であり、重量は衛星の密度ばかりでなく、中心からの距離にも比例する。
 でも風はそれほど邪魔しないだろう、順風だし、逆風じゃない。ものすごい推力があり、同等な地球風よりもずっと強力な理由は重いキセノンガスを30%含んでいるからであり、とても危険だけれども、とにかく選択の余地はない。
「行こう、ディ」
 とティムが立ち上がって言った。今や進み続けねばならない。あとで休めるし、太陽が昇れば、凍死睡眠の危険は少ないだろう。
 別な恐ろしい考えにティムは襲われた。つまり、あと3回しか太陽が昇らない。その時タイタンの4日間、この小衛星は土星の大きな影に入り、長い日食の間に、誰も知らないことだが、どんな恐ろしい運命が、雪の町ニビアへ向かう疲労困憊の2人を襲うことやら。
 だが、立ち向かわねばならない。選択肢はない。ティムはダイアンの足を支えて、注意深く避難棚から這い出て、頭を下げたのは、暴風に直撃され、痛めつけられ、厚い服に氷片が飛んでくるからだ。
 その夜タイタンは暗かった。土星がタイタンの反対側にあり、太陽と一緒に、すぐ日食になったけれども、星々が明るく耀き、隙間からまたたくのは、大気が非常に濃く、屈折が大きいからだ。地球は孤独な2人にとって、嬉しい緑色の恋人だが、見えなかった。タイタンの位置からは常に太陽のそばにあり、日の出直前と、日の入り直後にしか見えない。地球がない今、不気味な予兆を思わせた。

 長い吹きさらし斜面にやってきた。過ちを犯した。立って横断しようと、滑り止め歩行靴を信頼した。判断を誤った。不意に風に押され、滑り始め、だんだん早くなり、遂に止められず、暗闇に突入し、前方には未知の領域がある。
 ティムが無鉄砲にダイアンに飛びついた。団子状に倒れ、滑って転がり、やっと30※(全角メートル、1-13-35)先の低い壁にぶち当たった。
 何とか立ち上がり、ダイアンは膝の打撲痛みを聞こえないようにうめいた。2人は慎重に進んだ。行方を阻まれた底無クレバスの奥からは、妙な轟音と悲鳴が聞こえる。どうにかやり過ごした光る壁は、頭上で震えながら移動している。そして遂に土星の巨体が眼前の荒野に現われ、小さな赤っぽい太陽がペンダントのルビーのように出てくる頃には、ほとんど疲れ果てていた。
 ティムは逆光のクレバスの中で、ダイアンを支えた。数十分も2人は無言のまま、休息に甘んじて、緊急袋からチョコレート棒を取りだし、一口毎にバイザーをさっと開けて食べた。
 しかし土星と太陽の放射が合わさると、温度は急激に40℃以上、上昇した。ティムが手首温度計を見ると、もう3℃近くになっており、風の当たらない場所では水たまりができている。ゴムカップですくって飲んだ。少なくとも水に問題はない。
 しかしながら生きるに充分な食料は有り、非常袋のを食べればいい。人間はヒ素があるタイタン生物を食せない。地球から手間をかけて運んだ食料に依存するか、ニビア住民がするようにタイタン生物からヒ素をまず化学的に除去しなければならない。このようにして、ニビア人は氷アリやムチ樹木、そして時にはタイタン原住民を食べるとささやかれている。
 ダイアンが眠りに落ち、丸まって倒れ込んだ冷水溜れいすいだまりは、広場へ流れ、風で飛沫になって巻き上がる。ティムが優しく揺り動かした。時間を無駄にできないし、日食の影が数時間後、不気味に現われる。しかしティムの心が引き裂かれたのは、ダイアンが立ち上がったとき、疲れた笑顔で、眼に皺を寄せたからだ。またしても連れてきた我身を責めた。
 こうして、とぼとぼ進み、無慈悲な暴風に立ち往生し、悩まされた。夜間どれだけ進んだか、全く分らない。高い尾根の頂上から振り返ると、氷の丘が動いているので位置はつかめないし、確認しようにもできないけれど、遙か後の急峻きゅうしゅん断崖が果たして自分らの掘っ立て小屋を破壊したのか。
 ダイアンを再び休ませたのは、正午から日没までほぼ5時間。夜間に消耗した元気をだいぶ取り戻したが、太陽が沈み、手首温度計が-70℃に下がると、ちっとも休めない。だが2人は2日目の地獄夜を生き延び、夜明けが灰色に染まっても、信じられない凶暴永久風の前に、依然として、よろめき、のたうった。

 朝、1人の原住民がやってきた。例の奴だ。かぎ爪指に、動かない8日巻時計を持っている。にじり寄り、頭を風上に向け、短い腕を突き出し、時計を見せた。物悲しく鳴いて、明らかにだまされたと思っている。
 ティムは原住民を見て大きな希望を持ったが、希望はすぐ消えた。原住民は全く2人の苦境が分らない。タイタン世界だけしか知らないので、この厳しい環境に不適応生物がいるとは想像できない。だから黙って突っ立ち、ダイアンがねじを巻き、にっこり笑って返したとき、にぶく反応するばかり。
 ダイアンが原住民に言った。
「あなた、この時刻はね、私達の命をチクタク刻んでいるのよ。また止まる頃、ニビアにいないと……」
 と言ってにぶい頭をなでた。原住民はクークー鳴いて、カニ歩きで去った。

 午後、休憩して眠ったが、まさに弱った2人は地獄夜に直面していた。ダイアンが消耗した原因は、栄養不足のせいじゃなく、絶え間なく打ちつける風の乱打と、進むたびにのしかかる恐ろしい戦いのせいだ。ティムはずっと強かったが、体が痛くなり、3※(全角CM、1-13-49)厚のパーカを貫く冷気のために、両肩が凍傷になってしまった。
 日没から2時間後、無情にも気づいたのは、ダイアンが夜を持ちこたえられそうにない。勇敢に頑張っていたが、努力は報われなかった。
 だんだん弱ってきた。残酷な風が膝を折るたびに、立ち上がるのが次第にのろくなり、ティムの腕にぐらっと寄りかかってくる。絶望的に予想していた時が余りにも急に来て、全く立ち上がれなくなった。
 ティムが傍らにかがみ込んだ。涙で眼鏡が曇ったのは、暴風の叫声きょうせいからダイアンの言葉を聞き分けたときだった。
「ティム、ラン球を持って、行きなさい。私は置いて」
 とつぶやき、首に掛けた袋を指差した。
 ティムは返事せず、弱った体をそっと抱き、できるだけ暴風をさえぎった。必死に考えた。ここに留まればすぐに死んでしまう。少なくともダイアンをもっと風の当たらない場所へ運べば、2人そろってゆっくり凍死できるだろう。置き去りにするなんて考えられない。それを知っていながら、口にするとは勇気の要ることだったろう。
 持ち上げると、弱々しくしがみついてきた。吹き倒そうとする風に地団駄して、最後に低い岩陰に何とか、たどり着いた。背後に腰を下ろし、ダイアンを両腕で抱いて、凍死を待った。
 絶望して前をじっと見た。荒々しいタイタンの壮麗な夜が眼前にあり、冷え冷えする星々が、ガラス質の冷たい峰々にまたたいている。岩陰のちょうど向こうに、吹き曝しの氷河が滑らかに延びており、あちこちに氷アリの結晶泡があった。
 氷アリだ。幸運の小生物だ。掘っ立て小屋で読んだヤングの解説本を思い出した。これら結晶泡の中は暖かく、4℃以上ある。よく見ると、きゃしゃだが暴風に耐えている。理由は知っていた。卵の形をしており、原理は卵の両端に大きな力を加えても耐えるのと同じ。縦方向の力には壊れない。
 ピンときた。希望だ。ダイアンに一言ささやき、抱き上げて、鏡の氷面に駆け寄った。あるぞ。大きな部屋があり、差し渡し2※(全角メートル、1-13-35)ある。裏側へ回り込み、きらきら輝く側面に、けりを入れて穴を開けた。
 ダイアンが腹ばいでやっと入った。ティムが後に続き、薄暗がりの横にかがんだ。果たして? 安堵のため息をついたのは、8※(全角CM、1-13-49)の氷アリが忙しく働き、穴を結晶片で塞ぐのが見えたときだった。
 蒸気で凍結防止眼鏡が曇ってきた。ダイアンを引き寄せて、自分のバイザーを開けた。空気が暖かい。厳しい外気のあとでは慰めだ。かび臭いけど暖かい。ダイアンのも開けた。疲れて眠っており、引きつった青い顔をむき出しにしてもびくとも動かなかった。
 部屋に差し込む薄暗い星明かりに、眼が慣れてきた。見えたのは氷アリ、小さな3本足の赤玉あかだま生物、せわしなく走り回っている。もちろん全くアリじゃないし、地球的な意味の昆虫でもない。ヤングがアリと名付けた理由は、アリのように集団で住んでいるからだ。
 ティムの見つけた2つの穴は、皿のような床にうがってあり、1つは暖かい空気が下の不思議な巣から上がってきて、もう1つは室内の溶水を排出している。この部屋は膨らんで破裂するだろうが、アリたちは気にしない。おそらく破裂点を検知して、既にその上に新しい部屋を作り始めている。
 しばらく眺めていた。侵入者に全く無関心だ。2人のゴム服は食べられない。疑似文明化した小生物だ。興味深く見ていると、氷から灰色カビを剥がし、小さなそりに載せ、そりはムチ樹木の葉っぱのようで、荷物を穴に引っ張っていき、中に落とし、おそらく下には処理係がいるのだろう。ティムはしばらくすると眠りに落ちて、貴重な時間が流れた。
 数時間後、何かで目を覚ますと、昼だ。起き上がった。腕枕で寝ていたので顔が水につかっておらず、半分しびれた腕を惨めに掻きながら、周りを眺めた。ダイアンはまだ眠っているが、顔はずっと穏やかで、安心している。ティムがやさしく微笑みかけたその時、動く物が目に映ると同時に、光がぱっと輝いた。

 最初はただ氷アリがゴムパーカの上を這い回っているだけだった。光にはぎょっとしたが、それはラン球であり、これが排水穴に1個のろのろ転がっており、さらにもう1個続いている。アリどもが小さな皮袋を食用のため切って運んでおり、ダイアンのバイザーを開けたため、胸がはだけてしまった。
 したたる排水からラン球宝石をひっつかみ、必死でほかを探した。無駄だった。18個の貴重な卵形のうち、1個しか回収できなかったが、小さくて、完璧なラン球で、例の時計と交換したものだ。落胆して、小さな光る卵形を眺めた。このラン球のために危険を冒し、おそらく全てを失ってしまった。
 ダイアンが目覚めて起き上がった。すぐティムのびっくりした顔を見て叫んだ。
「ティム、どうしたの」
 ティムがつっけんどんに言った。
「俺の失策だ。君の服を開けた。予想すべきだった」
 差し出した左の長手袋に、宝石が1個鎮座ちんざしている。
 ダイアンが優しく言った。
「ティム、どうってことない。18個でも100個でも何の役に立つ? 1個でも18個でも、同じく死ぬかもしれないのに」
 ティムはすぐに答えず、やっと、
「1個でも持って帰れば充分だ。たぶん18個は市場で飽きられて、全部持って帰っても、ほぼ1個の値段しか得られないだろう」
 もちろんこれは嘘だ。ほかの山師が供給を増やしているだろうから。でもダイアンの心をそらすには役立った。
 ティムがその時気づいたのは、氷アリが中央の2つの穴でせわしく動いている。内側に部屋を造っている。外側の結晶卵部屋が今や3※(全角メートル、1-13-35)高さになり、割れようとしている。
 亀裂が見えたので、2人はバイザーを閉めた。西側にぎざぎざの光が見え、突然、光る氷片と共に壁が壊れ、氷床に転がされ、風が襲いかかり、氷河に倒された。そして氷の上を押され始めた。
 腹ばいで滑りながら、向こうの尖った岩の方へ押された。ダイアンは再び元気になった。若いから回復が早い。ティムが一時的に避難して、何か明かりが妙なことに気づき、見上げれば巨大な木星が太陽をほぼ半分覆い隠している。思い出した。これが最後の日、つまり72時間日食だ。
 そして夜はつるべ落し。日没で赤い円盤の4分の3が見えなくなり、厳しい寒気が西から吹き、大勢の幽霊を引き連れ、鋭い氷針がマスクのフィルターを詰まらせ、2人は何度も震え上がった。
 温度は終日-40℃を上がらず、夜の空気が、冷たい日中のあと、急激に-70℃に落ち、暖房フィルターといえども、極寒の空気を防ぎきれず、肺が炎で焦がすように焼かれた。
 ティムは必死になって氷アリの泡を探した。大きな泡はまれであり、やっと1個見つけたとき、既に大きすぎて、氷アリはティムが蹴り破った穴を修理しようとせず、直ちに新しい泡を造りにかかった。半時間で大きな泡が崩壊し、2人は投げ出された。

 どうにか、その晩は生き延び、4日目の夜明け、2人はほとんどどうしようもなく崖の物陰で、もがいていた。絶望的に眺めた奇妙な日食の土星は、夜明けにあわく耀き、わずかに熱を与える。
 日食太陽が昇って1時間後、ティムが手首温度計を見れば-60℃。2人はチョコレートを少し食べたが、噛むたびバイザーを開けた途端に痛みが走り、チョコレートはしびれるほど冷たかった。
 麻痺と眠気が襲い始めたので、ダイアンを立ち上がらせて、のろのろ進んだ。昼間は今や夜も同然、ただ土星の冷光があるばかり。今まで以上に風が激しく打ち付ける。昼下がり、ダイアンが、かすかにうめいて崩れ落ち、立てなくなった。
 ティムは氷の泡を必死に探した。ついに遙か右方向に直径1※(全角メートル、1-13-35)の小さな泡を見つけ、これならダイアンに充分だろう。抱きかかえられなかったので、肩を貸し、痛々しく引きずった。なんとか這いずり込ませて、警告したのはバイザーを締めて眠るように、アリが顔を攻撃するといけないから。400※(全角メートル、1-13-35)の風速を感じた。
 泡部屋が壊れ、ティムが目を覚ました。再び夜となり、恐怖、悲鳴、遠吠えの暴風夜になり、手首温度計は-95℃。芯から恐怖に襲われた。もしダイアンの部屋が壊れたら……。逆風を突いて狂ったように駆け寄り、安堵の叫びを上げた。泡部屋は成長し、耐えていた。蹴り破り、中に入ってダイアンをみれば、震えて青ざめている。ティムが道に迷ったか、死んだと思っている。ほぼ夜が明けると、泡部屋が崩壊した。
 妙なことに、その日は穏やかだった。極寒だったが、地獄山脈の麓にたどり着き、氷結岩が風よけになった。ダイアンが元気になり、今までのうち一番前進した。
 だがそんなことは今や意味ない、というのも眼前に、真っ白く輝く冷たい山々がそびえ、それを見て絶望したからだ。あの向こう、おそらく40※(全角KM、1-13-50)先にニビアと避難所があるだろうが、あの針山のいただきをどうやって横断するのか。
 ダイアンは夜になってもまだ歩けた。ティムはダイアンを氷土手の物陰に立たせたまま、アリ泡を探しに出かけた。だが今回は失敗。小さな15※(全角CM、1-13-49)のものが数個あるのみ。夜の避難所になるものはなく、今回は今までより確実にずっと厳しい夜になるだろう。遂に諦めて戻った。
「もっと急ごう」
 ティムは疲労困憊のダイアンの目を見て怖くなった。
 ダイアンが静かに言った。
「どうでもいい。ティム、地獄山脈は越えられない。けど、あなたに従う」
 2人は進んだ。夜は急激に-95℃に下がり、手足がしびれて、応答が遅くなった。氷の亡霊が渦巻き、崖が震えて、とどろいた。半時間で2人は消耗したが、氷の避難所は現われなかった。
 尾根の風下でダイアンが立ち止まり、ティムに寄りかかって、つぶやいた。
「ティム、無駄よ。これ以上戦うより、ここで死んだ方がいい。無理だ」
 氷に身を沈めた。そしてこの行動が2人の命を救った。
 ティムがダイアンに覆いかぶさったとき、黒い影と、濡れたくちばしが頭上の空気を切り裂いた。ナイフ凧だ。怒りの叫声が後ろに流れたのは、160※(全角KM、1-13-50)の風に乗って飛び去ったあとだった。
「見たでしょう。絶望的だ」

 ティムが周りをうつろに眺めたそのとき、洞穴ほらあなが見えた。ヤングの記述によれば、これらの奇妙な洞穴は氷にあったり、時々岩にもあったりして、地獄山脈にあるそうだ。開口部は決まって北か南にあり、原住民の住居だと思ったのは、配置や形状が、氷針で塞がれないようになっていたからだ。だが山師の経験では、原住民は住居を持たない。
「あそこに入るぞ」
 ダイアンの足を支えて、開口部に入った。通気口のように中は狭かったが、突然広くなって、部屋があり、瞬時に保護眼鏡に蒸気が付着。つまり暖かい。バイザーを開けて、ティムが懐中電灯を点けた。
「見て」
 とダイアンが息を呑んだ。奇妙な部屋は氷と岩肌で半々ずつ囲まれ、中には本物の彫刻円柱が1本転がっていた。
 ティムが一瞬驚いて、不安になり、
「まさか。この氷山にはむかし先住文化があった。今までこんな原始的なものを評価したことは無いが」
「おそらく、あの原住民のじゃないでしょう。むかしタイタンには高度な生物がいたのでしょう、数十万年前に土星がまだタイタンを暖める十分な熱を持っている頃ね。もしくはまだいるのかも」
 ダイアンの推定は不幸にも正しかった。声がした。
「アム、アッザ、アッザ」
 2人は振り向いて、岩壁から現われた生物を凝視ぎょうし。顔、いや顔じゃなく、巨大ミミズの頭のような口先が、先端を一点に突っ込み、それから恐ろしいほど赤い円盤状に縮まっている。
 先端に中空毒牙どくが、もしくは犬歯があり、震える軸索じくさくの上端に、冷たい緑色の催眠眼球を付けたタイタンの線虫は、人間が初めて見るものだ。仰天して眺めていると、筒状の体を巣の中に滑り込ませ、縄みたいに消えた尻尾は、髪の毛ほどしかない。
「アッザ、アッザ、アッザ」
 と言ったが、妙なことに、2人には意味が分り、繰り返し、こう言っている。
「眠れ、眠れ、眠れ」
 ティムが素早く拳銃を抜くか、そうしようとした。その行動は緩慢かんまん、ほとんど動けなくなり、止まってしまった。緑眼でにらまれて、全く無力にされた。
「アッザ、アッザ、アッザ」
 と繰り返し、催眠言葉をかけている。眠れ、と耳に響く。とにかく眠いし、外界地獄で消耗している。
「アナ、アッザ、アッザ」
 これじゃ寝てしまう。
 素早く気づいたダイアンが救ってくれた。ダイアンの言葉でティムが目覚めた。
「眠りそう、わたしたち。催眠だ。分らないの。急速に眠っている」
「アッザ、アッザ」
 と言っていた線虫が言わなくなったのは混乱したためか。
「2人とも眠っています」
 とダイアンが言い張った。
「ベラ」
 と線虫がざわついた。
 線虫は何も言わず恐ろしい顔をダイアンに向けた。咄嗟にティムが一時中断していた動作を再開し、冷たい拳銃を手袋で握り、青い炎を発射した。
 悲鳴を上げて、線虫はバネのように丸まり、血まみれの顔でダイアンに飛んだ。無意識にティムが飛びついた。ティムの足が線虫の体に絡まった為に倒れてしまい、両手を岩壁に打ち付けた。しかし線虫はもろかった。ティムが起き上がったとき、線虫は死んで、数本に分解した。
「ああ。なんて恐ろしい。すぐ出ましょう」
 とダイアンが真っ青な顔でうめき、体を揺らし、床にへなへな座り込んだ。
「外では死んでしまう」
 とティムが厳しく言った。
 ティムが線虫を手でかき集め、出てきた穴に入れた。それから用心のために、光線銃で穴を照射した。そして素早く引き返し、
「げえー」
 と言って震えた。
「どうしたの、ティム。何かあるの」
 ティムが壊れた円柱を手に持ち、穴をふさいだ。
「奴らの幼虫だ。とにかくまた来たら落としてやる。警告を受けた。ディ、しばらくここで休もう。外へ出たら2人とも1時間持たない」
「ティム、同じ事よ。こんな線虫のそばで死ぬより、きれいな冷たい所で死にたい」
 だが、5分でダイアンは眠ってしまった。

 ダイアンが眠ってすぐ、ティムは左手袋を脱いで、たった1個のラン球をうつうつ眺めた。壁に当たったとき壊れた気がしていたが、案の定、割れて光らず無価値になっていた。2人には今や何も残されておらず、ただ命があるのみ、たぶんそれも短いだろう。
 ティムは割れた宝石を、きたない岩床に投げつけ、その破片をつかんで激しく叩きつけて粉々に砕き、鬱憤うっぷんを晴らした。
 断固たる決意にもかかわらず、まどろんだに違いない。はっとして目を覚まし、恐る恐る穴から覗くと、氷壁に淡い緑色が見えた。夜明けだ。ともかく日食中、精一杯の夜明けだ。直ちに出発しなければ、というのも今日、山頂を越えなければならないからだ。今晩、風向きが変わり、そうなると、希望がなくなる。
 ダイアンを起こすと、やっと立ち上がる様子に、哀憐あいれんの涙を誘われた。出発だと言っても返事がなく、進んでも希望はない。出口を這いながら、風が襲った時には助けようと決めた。
「ティム、あれは何?」
 ティムが振り向いた。ダイアンが指し示した床は、ティムが寝ていたところであり、今は虹のように様々に変化する色が輝いている。ラン球だ。壊れたラン球の破片が、今きらきら光る宝石になっている。小さな粒々が、床の岩ゴミから発芽したのか。
 幾つかは元の大きさになり、幾つかは豆より小さいが、すべて完璧に育ち、値段は計り知れない。50個もある。小さな物まで数えれば100個。
 2人で集めた。ティムが原因を説明し、チョコレート錫箔すずはくにこの岩粒を慎重に包んだ。
「分析したら、地球で育てられるだろう」
「もし……」
 とダイアンが言って、黙った。せめてもの発見を喜ばせてやろう。
 ダイアンはティムの後について通路を通り、暴風地獄のタイタン日食・気候へと突入した。

 その日、2人は地獄で経験する全てを見た。地獄山脈の氷斜面で何時間も、もがいた。空気が薄くなり、非常に寒くなり、-100℃になり、ティムの温度計目盛りの最低点になり、針はそこで止まって用を無さなくなった。
 風のために2人は斜面にへばりつき、十数回も山そのものが上下に揺れた。これで日中だ。おそろしい。地獄山脈の頂上で夜になったら、どんなことになるやら。
 ダイアンは自分を限界まで、いやそれ以上に追い込んだ。これが最後のチャンスだ。少なくとも風向きが変わる前に、山頂を乗り越えねばならない。何度も倒れたが、そのたびに起き上がり、よじ登った。しばらくして、ちょうど夜になる前、やり遂げたように思われた。
 山頂から2※(全角KM、1-13-50)の所で、風が止んで、妙に異常な静寂になり、もしそう呼びたければ、タイタンの半時間の夏だ。追い込みにかかった。ごつごつの斜面を駆け上がると、血液が耳奥でどくどく。山頂の300※(全角メートル、1-13-35)前で、2人が険しい氷の急勾配に阻まれている間、彼方からわき起こる暴風音が聞こえたのは、失敗を意味する。
 ティムが立ち止まった。今となっちゃ、努力はふいだ。荒々しい荘厳なタイタンの景色を最後に眺めて、ダイアンに寄りかかって、ささやいた。
「さようなら、勇敢なキミよ。思った以上に僕を愛してくれたね」
 そのとき、地獄のうなりと共に、山頂から風が吹きおろし、2人を岩に沿って滑らせ、暗闇に運んだ。
 夜になって、ティムの意識が戻った。硬直して、感覚を失い、ガタガタだったが、生きていた。ダイアンもそばにいる。2人は氷晶が詰まった穴に落ちていた。
 ダイアンにかがみ込んだ。こんな怒風では生きているか分らない。少なくとも体はだらんとして、まだ凍結も、死後硬直もしていない。やれることはただ1つ。手首を掴んで、匍匐ほふく前進を開始して、有り得ない強風に立ち向かい、ダイアンを引っ張れ。
 400※(全角メートル、1-13-35)先が頂上だ。数※(全角メートル、1-13-35)登った。風が後へ叩きつける。15※(全角メートル、1-13-35)稼いだ。風で凹みに叩きつけられた。だが、どうにか、ふらふらになりながら、ほとんど無意識に、ダイアンを引っ張り、押し、転がして、一緒に登った。
 どのくらいかかったか分らないが、やり遂げた。大嵐が唸る一方、なんだか奇跡的な剛力ごうりきで、ダイアンを山頂に押し上げ、自分も登頂して、訳も分らず向かいの盆地を眺めれば、そこには雪の町ニビアのあかりがあった。
 しばらくはそこにしがみつくばかり、そのあと理性がぼんやり戻った。忠実で勇敢なダイアンはここで死につつあり、たぶん死んだ。辛抱強く、粘り強く、ダイアンを押したり転がしたりしながら、斜面を降ろし、時には向かい風がダイアンの体を空中に持ち上げて、背中が顔にぶつかるほどだ。この間は何も覚えていないが、突然、金属扉を叩いており、扉が開いた。

 ティムはまだ眠るどころじゃない。ダイアンの安否を知る必要があったので、役人に従い、地下通路を通って、ニビア病院へ向かった。ラン球を調べると、正常だった。窃盗がニビアで不可能なのは、住民が50人しかおらず、逃げるところがないからだ。
 医者がダイアンにかがんでいた。パーカを脱がし、腕と足を曲げている。
 ティムに告げた。
「折れていないな。単なる震蕩しんとうだよ、暴露、疲労、6カ所の凍傷、風邪との恐ろしいもみ合いなどの。ああ、些細な脳震蕩しんとうだ。それに大小無数のすり傷があるな」
 ティムが一息入れて、
「それだけですか。ほんとうに確かですか」
「これで十分じゃないか」
 と医者がきっぱり。
「じゃあ、生きていると?」
 医者の口調が称賛に変わった。
「半時間したら患者がそう言うよ。キミの活躍は知らないけど、語り草になるだろう。それに金持ちだそうな。その資格はある」
 と、うらやましげに付け加えた。





底本:Flight on Titan. Astounding Stories, January 1935
原著者:Stanley G. Weinbaum
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翻訳:奥増夫
2023年10月26日作成
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