変な衛星

THE MAD MOON

衛星シリーズその2

スタンリイ・G・ワインバウム Stanley G. Weinbaum

奥増夫訳




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イオ



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 グラント・カルソープがわめいた。
「まぬけ、たわけ、ばか、あほう」
 もっと言葉がないかと探したが見つからなかったので、激怒のあまり、地面にこんもり置かれた草束くさたばを激しくった。
 じっさい、りが激しすぎた。またしても忘れていたのはイオの重力が3分の1しかないことだ。蹴ったあと、グラントの体全体が4※(全角メートル、1-13-35)の長い弧を描いた。
 地面に着地すると、4匹のべらぼう達がニタニタ笑っている。べらぼう達のあほう顔はというと、子供の日曜風船ふうせんに描かれたマンガほどでかくはないが、顔が一斉に左右に揺れ、首は長さ1.5※(全角メートル、1-13-35)、細くてグラントの手首ほどだ。
 グラントがすっくと立ち上がって、激怒した。
「行け、失せろ、出てけ、去れ、チョコレートはやらん、飴もやらん。俺が欲しいのは強心草きょうしんそうだ。お前らが持ってきた草じゃない。消えろ」
 べらぼうは学名『ルナエ・ジョビス・マグニカピテス』――文字通り「木星月もくようつきのでか頭」――あとずさりしながらバツ悪そうにニタニタ笑っている。間違いなく、べらぼう達の考えではグラントも完全に馬鹿、怒りの原因もさっぱりわからない。でも、飴がもらえないことはよく分かり、激しい落胆の表情を呈した。
 事実、あまりに落胆したので、べらぼう達の親分は、青白い不細工な顔でグラントを馬鹿笑いしてから、一声ひとこえ荒々しく叫ぶや、光る石木せきぼくに頭を打ちつけてしまった。仲間達が無造作に親分の死体を拾い上げて去っていく姿は、ズルズル引きずる首の頭が、鎖につながれた囚人球のようだった。
 グラントは額を手でぬぐい、よろよろと石木せきぼくの丸太小屋に向かった。ギラギラ光る一対の小さな赤眼に気づいた。スリネズミだ。学名『ムス・サピエンス』――15※(全角CM、1-13-49)の体が敷居を飛び越え、骨皮ほねかわの小腕は、まさに体温計ぐらいだ。
 グラントは怒って生き物を大声で叱りつけ、石をつかんで投げたが失敗。スリネズミは、やぶの端っこで、半人間のようなねずみ顔をグラントに向け、わけのわからないことを小声でチューチュー言いながら、小さなこぶしを握って、ヒトのように激怒して、コウモリのような皮膜をひらひらさせて消えた。まるで、黒鼠くろねずみがマントを着たようだった。
 石を投げるなんて間違いだと知っている。もう、あの小悪魔はグラントを決して許すまい。小ざかしい知性と小さな体で、残酷に悩ますだろう。でも、スリネズミの仕返しも、べらぼうの自殺もどうってことない。というのも後者のような事例はちょいちょい目にしたからだ。さらにグラントは白熱病はくねつびょうにかかったかのように頭がガンガンした。

 掘立小屋にはいり、扉を閉めて、ペットのバカ猫を見下ろし、どなりつけた。
「オリバー、お前はいいやつだが、なんでスリネズミを見張らんのか。何のためにここにいるんだ」
 バカ猫は強力な1本の後足で立ち上がり、2本の前足でグラントの両膝を引っ掻きながら、おっとり、こう言った。
「黒女王に赤ジャック。べらぼう10人で1人のバカ」
 2つの意味は簡単だ。最初のはもちろん前にやったソリティア・ゲームのオウム返し。2番目は昨日のべらぼうとの打ち合わせ。グラントはうわごとを言って痛む頭をなでた。また白熱病だ、間違いない。
 気付け薬を2錠飲みこんで、寝台の端に大儀そうに腰かけ、しまいには白熱病のせいで意識不明になるんじゃないかと案じた。
 木星の居住可能な第1衛星イオでこんな仕事に就くなんて、自らの愚かさをのろった。このちっぽけな世界は狂気の衛星だ。強心草きょうしんそうが栽培できる以外なにも良いところがない。地球の化学者たちがこの強心草から強力なアルカロイドを大量生産する。かつてはアヘンから作られていた。
 もちろん医療にはとても貴重なものだが、グラントにどんな関係があるのか。イオの赤道領域で1年を過ごしたあと地球へ帰還しても、気のふれた俺には高給など、どうでもいい。来月ジュノポリスから強心草を取りに飛行機が来たとき、それに乗って極都市まで戻るぞ、と毒づいた。たとえニーラン製薬会社との契約が丸1年あり、契約を破ったら報酬が出なくともだ。お金が何になるというのか。
 ちっぽけな衛星全部が変だ。べらぼう、バカ猫、スリネズミ、それにグラント・カルソープ、みんな変だ。少なくとも、北極のジュノポリス、南極のヘラポリスの2都市から出るものは変人だ。極都市にいれば白熱病にかからないが、緯度20度以内はどこも地球のカンボジア密林よりずっと悪い。

 グラントは地球のことを夢想して気を紛らわせた。ほんの2年前まで地球では金持ちの人気猟人かりうどとして知られ、幸せだった。まさにそうだった。すなわち21歳までに、タイタンで鷹刃たかばと線虫を、金星で3つ目怪獣と1本足怪獣を狩猟しゅりょうした。
 やがて2110年に金恐慌がきて、グラントは一文無しになった。そして、まあ働くとしたら、生計手段として惑星間の経験を利用するのがもっともなように思われた。実際、熱心に働きかけて、ニーラン製薬会社と組んだ。
 いままでイオに来たことはなかった。この荒っぽい小世界は猟人にとって天国じゃない。馬鹿なべらぼうや、知的で邪悪な小型スリネズミがいる。強心草を収穫する以外なにも価値がないこの小さな衛星は、巨大な木星の熱風にさらされ、木星からわずか40※(全角KM、1-13-50)の位置にある。
 もし1回でも来たことがあればと、みじめに自問して、こんな仕事は引き受けなかったろうに。イオはタイタンのように低温で無害だろうと思い描いていた。
 そうじゃなく、イオは赤熱の木星によって金星の熱帯ぐらい熱く、いろんな蒸し暑い日光に6回もさらされる。太陽光、木星光、木星光と太陽光、エウロパの日光、それに時たまの陰鬱いんうつ暗夜あんやだ。そしてこれらすべてがイオの42時間自転の過程で生じる。余りにも日光が変化するという狂気の連続だ。くらくらする昼間、密林、掘立小屋の背後にそびえる馬鹿丘、全部が憎々しい。
 今は木星と太陽の昼日ひるびで、あらゆる中で最悪、遠方の太陽が木星に熱をさらに加えているためだ。そして今グラントの不快にとどめを刺す白熱病の前兆があった。頭がガンガン痛むので毒づき、気付け薬をもう1錠飲みこんだ。備蓄がなくなりつつあることに気づいた。飛行機が来たら予備薬を聞き忘れないようにしないと。いや、飛行機に乗って帰るんだ。

 オリバーがグラントの足にすりより、でれでれして言った。
「まぬけ、たわけ、ばか、あほう。なんでくそダンスをしに行かなくちゃならない」
「はあ?」
 ダンスのことなど言った覚えがない。さっきの白熱病の最中に口走ったに違いない。
 オリバーは扉がきしむようにギャーと鳴いて、べらぼうのようにニタニタ笑い、グラントに請け負った。
「大丈夫です。父上が間もなく来られるはずです」
 グラントがオウム返し。
「父だと。オリバー、その台詞せりふはどこで聞いた」
 父は15年前に死んでいる。
 オリバーが落ち着いて答えた。
「熱に浮かされたのでしょう。御主人様は良い子猫ちゃんですが、御自分のおっしゃったことぐらい分かりなさいな。父が来てくれたらなあ」
 最後にのどをごろごろ鳴らす様子は、すすり泣くかのよう。
 グラントはオリバーをぼんやり見つめた。そんなことを言った覚えはない。俺は正気だ。このバカ猫が誰かから聞いたに違いない。でも誰だ。800※(全角KM、1-13-50)以内には誰もいないのに。
 グラントが怒鳴った。
「オリバー、どこで聞いたんだ。どこだ」
 バカ猫が後ずさりして驚き、おどおどして言った。
「父上はまぬけ、たわけ、ばか、あほうです。子猫ちゃんに赤ジャック」
「こっち来い。誰の父だ。どこで聞いた。こっちこい、このやろ」
 グラントがバカ猫を突っついた。オリバーは後ろの1本足を曲げ、うろたえて木炭ストーブの排気筒にとび乗り、大声でわめいた。
「熱病に決まってます。チョコレートはやらないよ」
 オリバーの3本足が閃光のように煙道の出口へ飛んだ。爪で金属を引っ掻く音がして、慌てて出て行った。
 グラントはオリバーのあとを追った。頭がずきずき痛んだが、まだ少し正気が残っており、何もかも白熱病の幻覚に違いないが、それでも突き進んだ。

 経過は悪夢だった。べらぼう達が長い首をひょこひょこ動かしている下には、丈の長い流血草りゅうけつそうがあり、べらぼう達のニタニタ笑いや、間抜け顔がいっそう狂気じみた雰囲気を漂わせた。
 ぬかるんだ地面を踏みしめるたびに、悪臭と熱気が噴き出した。右側のどこかで1匹のスリネズミがチューチュー、ギャーギャー。あの方向にはスリネズミの村があるのを知っていた。というのも、かつてちらと見た小さな建物群は、小石できっちり組み合わされ、中世風のミニチュア街のようであり、尖塔せんとう胸壁きょうへきが完備していた。風聞ふうぶんによるとスリネズミ同士の戦争もあるとか。
 熱病と気付け薬の副作用で、頭がガンガン、クラクラしてきた。まさしく白熱病のせいだ。掘立小屋からさまよい出るなんて、愚かで間抜けな行動だったと悟った。寝床で休むべきだった。そうすれば熱病はひどくならなかった。イオでは大勢の男が朦朧もうろうとなり、幻覚を見て、死んだ。
 今やふらふらだ。オリバーを見たとたんわかった。というのもオリバーがじっと眺めていたのが魅惑的な若い女性で、2120年式の完璧な夜会服を着ていたからだ。明らかに幻覚だ。イオの熱帯で女は仕事しないし、やむなく来ざるを得ない場合も、正装なんか絶対にしないからだ。
 どうやら幻覚がひどくなった。だって、女の顔は真っ青、「ブランカ」の白さだもの。女は灰色の瞳で驚きもせず見ており、その間グラントは流血草の間を縫うように女の方へ歩いた。
「こんにち、こんばん、おはよう。いや、たぶん、良いお日和で、ミス・リー・ニーラン」
 とグラントが話しかけて、ちらと眺めた木星は登る途中、太陽は沈む途中、いったいどうなってんだ。
 女がじろじろグラントを見て、言った。
「見かけないはじめての顔ね。お友達が周りにいっぱいいるけど、初めてのよそ者だ。でも、初対面かしら。私の名前を知っているけれども、当然、幻覚のはずね」
「どっちがまぼろしか口論するのはよそう。こうしよう。最初に消えた方が幻だ。キミが消えるに5ドル賭ける」
「わかりっこないでしょう。夢から推測しようがないもの」
「そりゃ問題だ。もちろん俺は困らない。俺が現実だから」
「どうして私の名前がわかったの」
「ああ、飛行機が運んできた新聞の社会面を隅から隅まで読んだからさ。実際、きみの写真を切り抜いて寝床に貼っている。おそらくそのため、きみが見えるのだろう。いつか本物に会いたいものだ」
「幽霊にしてはなんて優しいお言葉だこと。それで自分は誰だと思ってるの」
「もちろん、グラント・カルソープさ。実際俺はきみのお父さんのために働いているよ。強心草をべらぼう達と交易してな」
「グラント・カルソープですって。まさか、あなたが」
 と女が反復。女は高熱でいかれた眼を細めて、焦点を合わせるかのようだった。
 女の声が一瞬震え、青白い額を手でぬぐった。
「私の記憶からなぜ出て来たのかしら、変ね。3、4年前、私がまだ夢見る学生で、あなたが有名猟人かりうどだった頃、狂おしいほど入れあげた。本という本にあなたの写真を貼った。タイタンで線虫を狩猟するパーカ姿のグラント・カルソープ、永劫山えいごうさんで射殺した巨大1本足怪獣の脇に立つグラント・カルソープ。今まで見た幻覚のなかで本当に、最高にうれしい。妄想も楽しいものね。ただ、頭がガンガンしなければ」
 と言って額にまた手をやった。
「へえ、本当かい、本のこと。心理学者の言う願望成就じょうじゅの夢だな。俺はベッドに行くぜ。雨は白熱病によくない。また会おう。熱が出てきた」
 生暖かい雨がグラントの首に落ちた。
「ありがとう。お互いさまよ」
 とリー・ニーランがもったいぶって言った。
 グラントはうなずいたが、頭がズキズキ。居眠り中のバカ猫に向かって、
「オリバー、こっちに来い」
「オリバーじゃない、ポリーよ。2日間一緒だったから、ポリーと名付けたの」
「オスだぜ。とにかく、オリバーは俺のバカ猫だ。お前、オリバーじゃないのか」
「また会いましょう」
 とオリバーが眠そうに言った。
「ポリー、あんた、ポリーじゃないの?」
「あなたに5ドル賭ける。熱病のせいに違いない」
 とバカ猫は捨て台詞を吐いて、立ち上がり、背伸びして、灌木かんぼくの中に跳ねていった。
 そうかもと、グラントも同意して、向き直り、
「さようなら、ミス……。そうだ、リーと呼んでも差しつかえあるまい。本物じゃないのだから。それじゃ、リー」
「さようなら、グラントさん。でもそっちへ行っちゃだめよ。草原の向こうにスリネズミ村があるから」
「違う。あっちだ」
「そっちよ。建設現場を見たの。でも攻撃されない。いくらスリネズミでも幽霊はやっつけられない。ではごきげんよう、グラントさん」
 女は疲れたように目を閉じた。

 雨が激しくなってきた。グラントが流血草を押し分けて進むと、赤い樹液が血のしたたりとなって長靴にくっついた。もはや一刻の猶予もなく、小屋に帰らねばならず、そのうち白熱病がぶり返し、意識が混濁して、道にすっかり迷ってしまう。気付け薬が必要だ。
 突然、足を一瞬とめた。真正面の草木が開け、狭い平野に肩ほどの高さの尖塔せんとう胸壁きょうへきが出現し、スリネズミの新しい村があった。というのも、できかけの家々が散在し、頭巾をかぶった15※(全角CM、1-13-49)体長のスリネズミ達が石をせっせと積んでいたからだ。
 チューチュー、ギャーギャーと大騒ぎになった。後ずさりしたものの、ちっぽけな矢がビュンと十数本飛んできた。長靴に1本の矢が妻楊枝つまようじのように刺さったが、皮膚まで届かなかったのは幸い。なぜなら間違いなく毒が塗ってあるからだ。さらに急ぎ足で進んだが、辺り一帯は多肉質の草木があり、ガサガサ、チューチュー、得も言われぬ呪いが満ちている。
 迂回うかいした。べらぼう達は風船のような顔を草の上でひょこひょこさせていたが、時々スリネズミが噛んだか、刺したりするたびに、ヒィヒィ言って苦しんでいる。
 グラントがスリネズミの群れを突っ切って、草の中にいる小悪魔を撹乱しようとすると、紫顔の長身べらぼうが1匹、長い首をまげてニタニタ笑い、腕先の指骨ゆびぼねを振った。
 グラントは無視して、掘立小屋へ向かった。スリネズミから逃れたと思い、必死に歩いた。のどから手が出るほど気付け薬が欲しいからだ。だが、突然、顔をしかめて立ち止まり、向きを変え、引き返し始め、つぶやいた。
「うそだろ。でも女が言ったスリネズミ村は本当だった。ここにあるとは知らなかった。しかし俺の知らないものを幻覚が教えられようか」

 リー・ニーランは、まだ石木せきぼくの丸太に座っていた。まさに別れた時と同じ、オリバーも脇に座っている。女は目を閉じていた。2匹のスリネズミが、すその長い女のスカートをギラギラ光る小刀で切っている。
 グラントの知るところでは、スリネズミ達はいつも地球の織物を狙っており、どうやらサテンの魅惑的な光沢を複製することができないようだ。でも小悪魔たちは、ちっぽけな手にしてはすごく器用。
 グラントが近づいてみると、足首から大腿部までスカートが切り裂かれていたが、女はびくとも動かなかった。グラントが大声で叫ぶと、邪悪な小悪魔たちは何とも知れない呪い声を浴びせて、絹の略奪品を持ち、飛び跳ねて逃げた。
 リー・ニーランが目を開けて、かすかにつぶやいた。
「また、あなたなの。ちょっと前は父がいた。今度はあなたが……」
 顔面がますます蒼白になり、白熱病が体中に広がっている。
「父上だと。そうかここでオリバーは聞いたんだ。いいか、リー、スリネズミの村を見つけた。俺はそこにあることを知らなかったが、まさにきみが言った通りだった。これがどういうことかわかるか。我々は2人とも本物だ」
 リーがけだるく言った。
「本物ですって。あなたの後ろに紫のべらぼうが1匹ニタニタ笑っている。あっちへ追いやって。吐き気がする」
 グラントがあたりをちらと見ると、紫顔のべらぼうがほんとに背後にいた。しっかりしろ、と言いながら、女の腕をつかんだ。女のしっとりした肌の感触で証拠は充分だ。
「小屋に行って気付け薬を飲むんだ。わからないのか。俺は本物だ」
 と女を引っ張った。
「いいえ、違う」
 と女はぼうっとして言った。
「いいか、リー、一体きみがどうやって、なぜここへ来たのか知らないが、俺はまだイオで狂ってないぞ。きみも俺も本物だ」
 グラントは女を強く揺さぶって、また叫んだ。
「俺は本物だ」
 女のうつろな目にかすかに意識が戻った。本物なの、とつぶやいて、
「ほんとうだ、ああ、神様、この変なところから連れ出して」
 女はふらつき、懸命に我を取り戻そうとして、前のめりにグラントへ倒れこんだ。
 もちろんイオでは女の重さは地球の3分の1で、大したことない。グラントは女をさっと抱きかかえ、小屋へ向かい、スリネズミの村々から距離をとった。
 辺りは興奮したべらぼう達がひょこひょこ出没し、時折ときおり紫顔のべらぼうが1、2匹、まさにグラントのようにニタニタ笑ったり、指さしたり、手を振っている。
 雨が強くなってきて、首元に生温かいしずくが流れ、さらに妙なことに、とげヤシの林に迷い込んでしまい、とげがシャツを貫いて痛く刺さった。このとげの毒抜きに失敗しようものなら、命取りだ。実際このとげヤシの為に、貿易商人が強心草を集めず、代わりにべらぼうたちに任せている。
 低い雨雲の向こうに太陽が沈み、木星の赤い日が偽りの光線を差すと、意識を失ったリー・ニーランのほほが、いっそう愛らしく見えた。
 おそらく女の顔に見とれていたせいだろうが、またしてもグラントはスリネズミ達に囲まれてしまった。チューチュー、もぞもぞ。紫顔のべらぼうは足をかまれたり、矢で刺されたりして、痛みにのたうちまわっている。しかし、もちろん、べらぼう達は毒に免疫を持っている。
 小悪魔たちがグラントの足元にまとわりついた。低い声でののしって、激しく1匹けり上げると、鼠のような体が15※(全角メートル、1-13-35)空中をくるくる舞った。グラントは自動拳銃と火炎放射機を腰にぶら下げていたが、ある理由で使わなかった。
 第1に、自動拳銃を小獣の群れに使うのは蚊の群れにぶっ放すようなものだ。弾で1匹、2匹、あるいは10匹殺そうが、残り何千という蚊には何ら影響ない。
 火炎放射機についてはビッグ・バーサ大砲で1匹のハエを撃つようなものだ。巨大な炎を放射すると、直下の炎道はたちまちすべてのスリネズミや、草木、べらぼう達も確実に灰にできようが、外れた群れには少しも影響せず、それに黒ダイヤモンドと銃身の再装填に手間がかかる。
 掘立小屋にはガス球があるが、この瞬間は手に入らないし、そのうえ予備ガスマスクもないし、人間を殺さずスリネズミを殺すガスはまだ発明されてない。だから結局いまはどんな武器も使えないので、リー・ニーランを下に置かず、あえて両手を自由にしなかった。

 前方に広場があり、小屋があった。広場はスリネズミ達で埋め尽くされたが、小屋そのものは少なくとも相当な時間、スリネズミを防げると思われる。というのも石木せきぼく丸太はスリネズミどものちっぽけな武器に耐えるからだ。
 だが、グラントが見ると、小悪魔の一団が扉の周りにたかっている。やにわに意図が分かった。やつらは何かの綱を扉の取っ手に巻きつけて、回そうとしている。
 グラントは叫んで、突進した。距離にしてまだ15※(全角メートル、1-13-35)あるのに、扉が内側に開き、スリネズミ達が暴徒となって小屋になだれ込んだ。
 グラントも入口へ駆け込んだ。中は大騒動。頭巾ずきん小鼠どもが切り裂いているのは、寝床の毛布、予備の衣服、強心草を入れておくための袋、そして料理道具や、固定してないものを全部引っぱり出している。
 グラントはわめいて群れを蹴った。一斉にチューチューとわけのわからない怒声をあげて、スリネズミどもはかわして逃げた。小悪魔はとても賢くて、グラントが両手にニーランを抱えて何もできないことを知っており、グラントの蹴る方向をさっとよけ、グラントが炉付近の一群を脅している間、別の暴徒が毛布を切り裂いている。
 あわてて寝床に駆け寄った。女の体をまんべんなく手で拭いてきれいにして、寝台に置き、家事用のほうきをつかんだ。柄を握って大きく振りかぶって、スリネズミをたたくと、キーキーという激痛の鳴き声や悲鳴が入り混じった。
 数匹が扉に突進し、略奪品を引きずり出した。やおら見回すと、6匹の群れがニーランにたかって、衣服、腕時計、それに小さな足に付けた光沢のある夜会靴を切り裂いている。グラントは悪態をついて、たたき散らし、毒剣どくけん毒牙どくがで女が刺されてないことを祈った。
 小競り合いに勝ち始めた。やつらの大部分が黒マントを閉じ、略奪品を持って入口に殺到した。ついに、一斉にキィーキィーと叫んで、ある者は両手にいっぱい、ある者は手ぶらで、突進し駆けだし、去った後には何十匹という毛むくじゃらの小悪魔が死傷している。
 グラントは次々に旧式兵器のほうきで掃き出して、入口でちょこちょこ動いているべらぼうの面前で扉を閉め、スリネズミがまた侵入して悪戯いたずらをしないように掛け金を閉め、略奪された部屋をうんざり眺めた。
 缶が転がり、中身が抜かれている。止めてないものはすべてスリネズミの小汚い手で荒らされ、壁につるされたグラントの衣服はめちゃめちゃ。だが、盗人たちは戸棚や食卓の引き出しは開けることができず、食料は安泰だった。
 6か月もイオ暮らしを続ければ、グラントも達観するというもの。思いっきり毒づき、あきらめ顔で肩をすくめ、棚から気付け薬の瓶を取り出した。
 気付け薬を飲んでいたのでグラントの白熱病は完全に消滅した。しかし女は気付け薬を飲んでないため顔面蒼白で動かない。瓶を見れば、8錠残っている。
「さて、俺はいつでも強心草きょうしんそうを噛める」
 と独り言。強心草はアルカロイドそのものより効果は少ないが、それなりに効くし、なによりリー・ニーランには錠剤が必要だ。グラントは2錠をコップの水に溶いて、リーの頭を持ち上げた。
 リーは飲み込めないほど衰弱してなかったが、血の気の引いた唇に溶液を含ませ、そのあと姿勢をできるだけ楽にしてやった。リーの絹服はズタズタに切り裂かれており、グラントが掛けてやった毛布も同様にズタズタ。それから、自分のとげヤシの傷を消毒して、椅子を2脚引っぱり出し、広げて、その上に寝た。

 屋根をガリガリ引っ掻く爪の音で目が覚めた。通気管が熱くないか、オリバーが恐る恐る確かめた音だった。すぐにバカ猫が侵入してきて、伸びをしてこう、告げた。
「私も本物、あなたも本物です」
「たわごとを」
 とグラントは眠そうにぶつぶつ。
 起きてみると、木星とエウロパの光があり、7時間寝たことが分かった。というのも3番目の小さな月がきらきら輝きながら、ちょうど登っている最中。
 グラントが起き上がって、リー・ニーランを眺めると、すやすや眠っている顔にほんのりと朱がさし、赤っぽい光のせいだけではないようだ。白熱病がえている。
 グラントはさらに2錠を水に溶かして、リーの肩をゆすった。刹那、開けた灰色の目はとても透きとおり、見上げた顔に驚きはなかった。
「あらグラント、またあなたなの。白熱病も悪くはない、結局」
「うなされたままにしておいた方がよかったかな。そんなうまいこと言って。さあ、リー、起きて、これ飲んで」
 リーは不意に掘立小屋の内装に気付いた。
「まあ、ここはどこ。本物に見える」
「本物だよ。さあ、気付け薬を飲んで」
 リーが素直に飲んで、体をそらせ、じろじろ見つめて言った。
「本物、じゃあ、あなたも本物なの」
「そうだよ」
 リーの目にどっと涙があふれた。
「じゃあ、抜け出したのね、あの恐ろしいところから」
 リーは安堵のため息をつき、感情が抑えられなくなったようだ。グラントが急いで気を紛らわせようとした。
「確かだよ。よかったらあそこにいたわけを教えてくれないか。パーティー服を着ていたわけも」
 リーが我を取り戻した。
「パーティーの正装よ。ヘラポリスでやるの。でも私がいたのはジュノポリス、わかるでしょ」
「わからんな。最初の場所、イオのジュノポリスで何をしていたの。いままで君の噂を聞くたび、出どころはニューヨークやパリの社交がらみ、なのに」
「ふふふ。それじゃ、すべて妄想じゃなかったのね。私の写真を持ってると言ったよね。ああ、それよ」
 壁の写真を見て不機嫌になった。
「次回写真家が私を撮りたいと言ったら、べらぼうみたいにニヤニヤしないようにしなくちゃ。ところで私がイオに来たわけは父に同行したからよ。父は、貿易商やべらぼうに頼らずに、強心草の大農園が作れないか、調査に来たのよ。3か月もここにいると、恐ろしく退屈する。イオはわくわくするところだと思っていたけど、そうじゃなかった。さっきまでは」
「じゃあ、舞踏会は? どうやってここへ来たの。ジュノポリスから何千※(全角KM、1-13-50)も離れているのに」
 リーがゆっくり話した。
「そうねえ。ジュノポリスにはうんざりよ。観劇はないし、スポーツもないし、たまに舞踏会があるだけ。イライラよ。ヘラポリスで舞踏会があると、そこへ飛ぶのが習慣になった。高速飛行機でわずか4、5時間だ。先週、いやいつだったか、飛行計画を立てて、父の秘書のハーベイが私を連れていくことになった。しかし、直前になって父がハーベイに用事を言いつけて、単独飛行を禁止したの」
 グラントはハーベイに強い反感をもった。
「それで?」
「だから、1人で飛んだの」
 と澄まして言った。
「それで落ちたのかい」
 リーが反論。
「皆と同じくらいうまく飛べる。別な航路を取ったら、突然前方に山が」
「馬鹿丘だ。俺の補給機はこれを避けるために800※(全角KM、1-13-50)迂回うかいする。この丘は高くないが、イオの大気からにょきっと突き出ている。イオの大気は濃いけど高さは低い」
「知ってる。真上は飛べないと知ってたけど、飛び越せると思ったの。全速力で飛行機を上昇させた。密閉飛行機だったし、イオの重力は弱いから。しかも何回も成功するのを見ている。特殊なロケット駆動よ。空気が無くなって翼が役立たなくなっても、ジェットが飛行機を保持してくれる」
「何というバカな曲芸だ。確かに飛び越せるけど、向こう側の空気に突っ込んだら、機首を引き上げなければならない。突っ込み速度が速いから、あっという間に落ちる」
 リーが悲しげに言った。
「知ってた。機首を目一杯引いたけど、完璧じゃなくて、とげヤシのど真ん中に突っ込んだ。なぎ倒したから、とげヤシに襲われないうちに何とか脱出できた。でも二度と飛行機には戻れない。この2日間しか思い出せない。怖かった」
「そうだったろう」
 とグラントがやさしく言った。
「飲み食いしなければ白熱病にかからないと知っていた。食べないのはいいけど飲まないのは、そうねえ、とうとう我慢できずに小川の水を飲んだの。何が起ころうと構わない、一瞬でも喉の渇きが抑えられるなら。そしたらそのあと、すっかり混乱して朦朧もうろうとなった」
強心草きょうしんそうを噛めばよかったのに」
「そんなの知らない。形すらわからないもの。それに父が来るのを待っていた。今頃探している」
 グラントが皮肉っぽく言った。
「たぶんそうだろうよ。きみが落ちたのは表面積4千万平方キロの小さなイオだ。おそらく、どこにでも不時着の可能性がある。北極から南極への飛行にどんな最短ルートもない。天体のどこでも通れるから」
 リーの灰色の瞳孔どうこうが開いた。
「でも、私は……」
「さらにだ、探索隊がここを探すのはおそらく最後になるぞ。馬鹿丘を越えようとするなんて、べらぼう以外誰も考えないだろう。まったく。だからリー・ニーランさんよ、来月俺の補給機が来るまで見捨てられたようなもんだ」
「でも父は気が狂いそうでしょう。私が死んだと思っている」
「今頃きっとそうだ」
「でも私たちは……」
 リーが突然黙り、1部屋しかない掘立小屋を眺めた。一瞬ためらい、観念してため息をつき、微笑んでそっと言った。
「そうね、最悪かもね。グラント、わたし働いてみる」
「いいね。リー、気分は」
「まったく正常よ。すぐ働く」
 ぼろぼろの毛布を放り、起き上がり、床に足をつけた。
「食事を作りましょう。あっちゃあ、私のドレスが」
 リーは毛布をひっつかんで再び体に巻いた。
 グラントはニヤニヤして、
「キミが気を失ってから、やつらが入り込んだ。俺の予備服も切りやがった」
「台無しだ」
 とリーが泣き顔。
「よかったら針と糸があるけど。食卓の引き出しにあったから盗られなかった」
「わかった。自分の水着ぐらいお手の物よ。あなたの服で作ってみる」
 リーは切ったり、貼ったり、つくろったりして、とうとうグラントの服を見苦しくない程度に、自分用になんとか仕立てた。シャツとズボン姿になったリーはとても愛らしかったが、突然顔が青白くなって、グラントはあたふた。
 白熱病のぶり返しだ。病状が激しかったり長引いたりすると、2段階で発作が来る。グラントは深刻な顔をして、最後に残った4錠の気付け薬のうち、2錠を手に取ってコップに入れた。
「これを飲んで。強心草をどこかで取って来なくちゃ。補給機は先週行っちまった。あれ以来、べらぼう達はへまばかりだ。雑草とか、くだらんものばっかり持ってきやがる」
 リーは薬の苦みに唇をすぼめ、目を閉じ、一時のめまいと吐き気に耐えた。
「どこで強心草は手にはいるの?」
 グラントが当惑してかぶりを振って、ちらと眺めた木星は、中央にどっしり構え、縞模様が白くなったり茶色になったり、大赤斑が西端でふつふつ沸いている。その真上近くに、エウロパの小さな円盤がきらきら輝いている。グラントは突然顔をしかめ、時計を見て、それから戸棚の内側に貼ってある暦を見た。
15分間エウロパの光が差す。それから25分間真っ暗になる。半月ごとに来る最初の闇夜だ。心配だな……」
 リーの顔をしげしげ眺めた。強心草のありかは知っている。密林を敢えて突っ切る者などいない。なにしろ密林にはとげヤシや矢ツル、歯噛はかみと呼ばれる地獄虫などがおり、べらぼうやスリネズミを除き、自殺しに行くようなものだ。でも、どこに強心草があるかは知っている。
 希有けうな真っ暗闇では広場ですら危険だ。スリネズミなんてものじゃない。暗黒界の生物が密林から這い出してくることは充分承知だ。そうでなければ奴らは永遠の闇底に留まっている。歯噛はかみ、弾頭だんとうガエル、それにもちろん今までヒトが見たことない不可解でぬめぬめした未知の有毒生物も這い出す。そんな話をヘラポリスで聞いた。それに……。
 でも、グラントは強心草を手に入れねばならない。ありかを知っている。べらぼうでさえ、そんなところでは集めようとはしない。ところがどっこい、スリネズミ村の庭園や農場には、強心草が植えてある。
 グラントは迫りくる夕暮れの中で明かりをつけて、リー・ニーランに告げた。
「ちょっと外へ行ってくる。もし白熱病がぶり返したら最後の2錠を飲んで。飲めばこれ以上悪くならない。スリネズミどもが体温計を持ち去ったが、めまいがしたら、飲みなさい」
「グラント、どこへ」
「戻ってくるよ」
 と扉を閉めながら大声で返事した。

 薄青いエウロパの光に照らされて、紫色のべらぼうが1匹、ヒィヒィと長笑いしながらヒョコヒョコ動き回った。グラントはべらぼうを追っ払って、隣のスリネズミ村へ抜き足差し足。
 この村は古い。なぜなら短時間で一帯の土地は耕せないからだ。慎重に流血草の間をうものの、この隠密行動がまったく無謀むぼうであることは分かっていた。まさしく30※(全角メートル、1-13-35)の大巨人が人間の町にこっそり近づくようなものだ。真っ暗闇ですら見つかる行動だ。
 スリネズミ村広場の端っこに到達した。背後のエウロパは時計の分針のように速く動き、もう水平に落ちた。一瞬驚いて立ち止まった先に見えたのは、とても素敵な小さな町で、小農場の30※(全角メートル、1-13-35)向うにあり、手のひらほどの窓々に明かりがまたたいている。スリネズミに明かりを使う文明があるとは知らなかった。たぶん小さなろうそくか、小型の油燭台しょくだいだろう。
 グラントは暗闇でまぶたをぱちくり。2番目の3※(全角メートル、1-13-35)畑が強心草のようだ。低く身をかがめて、い出し、新鮮な白い葉っぱに手を伸ばした。その刹那、甲高いイッヒッヒという声と、バサバサという草の音が背後からした。あのべらぼうだ。紫色の馬鹿べらぼうめ。
 ギャーギャーという金切り声が響いた。グラントは両手にいっぱい強心草をつかんで、明かりのついた自分の掘立小屋へ突進した。毒とげに刺されたり、病原歯に噛まれたくない。そうこうするうちに、スリネズミどもが確実に目を覚ました。一斉にわけのわからないことをチューチュー言い出して、地面がスリネズミで真っ黒になった。
 掘立小屋にたどりつき、滑り込んで、扉をバタンと閉め、掛け金をかけ、ニヤリ。
「やったぜ! さあ、外でわめいていろ」
 スリネズミどもがわめいている。やつらのたわごとが壊れた機械のようにキーキー鳴り響いた。オリバーですら眠たい目を開けて聞き入った。バカ猫は落ち着いて、
「熱病に違いない」
 リーは確実に青白さが取れて、白熱病のぶり返しがえつつある。外の大騒ぎを聞いて、
「ああ、鼠はいつも嫌い。スリネズミはもっと嫌い。鼠のずるさと不埒ふらちな悪知恵があるんだもの」
 グラントが考え込んで、
「ああ。やつらのやることはわからん。どっちみち俺に恨みを持った」
「去っていくようよ。音が消えていく」
 とリーが耳をそば立てながら言った。
 グラントが窓の外に目を凝らした。
「まだいるぞ。のろい終わって算段しているところだ。何をするつもりか。いつか、このおかしな小衛星に人間が住みついたら、人間とスリネズミは最終的に対決するだろう」
「そうお。それほど文明が進んでいないから現実に障害にはならないわよ。その上、とても小さい」
「でも、学習する。学習がとても速くて、ハエのように繁殖する。もしガソリンの使い道を知ったら。もし毒矢の代わりに小型ライフルを発明したら。奴らはやれるぞ。もう金属を使っているし、火も知っている。攻撃が続く限り、実質的に人間と同じになる。だって、15※(全角CM、1-13-49)のスリネズミには巨大な大砲もロケットも役に立たない。さらに条件が同じになれば破滅的だ。人間1人にスリネズミ1匹の対決はめちゃくちゃだ」
 リーがあくびをして、
「そんなのどうでもいい。グラント、おなかすいた」
「いいね。白熱病が去った証拠だ。食べてから少し眠ろう。暗闇が5時間あるから」
「でもスリネズミは」
「やつらのやることはわからん。ただ5時間で石木せきぼく壁は切り裂けまい。ともかくスリネズミが1匹でも入ろうものならオリバーが警告するだろう」

 光が差し、グラントは目が覚め、縮こまった手足を2脚の椅子の間で痛そうに伸ばした。何かの拍子で目が覚めたが、何かはわからない。オリバーがそばに不安げに座っており、グラントを心配そうに見上げた。
 バカ猫がもの悲しげに声を出し、
「べらぼう達には参る。あなたは良い子猫ちゃん」
「お前もだ」
 とグラント。何かで目が覚めたが、何だ。
 その時わかった。再来襲らいしゅうだ。石木せきぼく床が少し揺れている。混乱して眉をひそめた。地震か。イオに地震はない。このちっぽけな衛星は、はるか昔に内部熱を失っているからだ。なら、なに?
 突然分かった。グラントがわっと叫んで飛び起きたので、オリバーがさっと脇によけて毒づいた。驚いたバカ猫は暖炉に飛び乗って、煙道に消え、わめき声がかすかにこだました。
「熱病に違いない」
 リーは寝床に座り直しているところで、眠そうに灰色の瞳をぱちぱち。
 グランドがリーを引っ張り、叫んだ。
「外へ、早く出ろ」
「ど、どうして」
「出ろ」
 とリーを扉から押し出し、向きを変え、ベルトと武器、強心草袋、チョコレートを1箱ひっつかんだ。床が再び揺れると、扉から脱出し、大跳躍ちょうやくして、ぼうっとしているリーの傍らに着地した。
「穴を掘りやがった。悪魔どもが穴を……」

 これ以上しゃべる暇がなかった。掘立小屋の一角が突然沈下し、石木せきぼく丸太がギシギシ音を立て、子供の積木小屋みたいに全体が壊れた。崩壊して静かになって止まった。ただ、ガスがプスプスくすぶり、黒鼠どもが草原へ逃げ出し、紫色のべらぼうが1匹廃墟の向こうでヒョコヒョコ動いているだけ。
 グラントが激しく毒づいた。
「汚い悪魔め。くそ黒小ねずみめ」
 矢が非常に近くでヒュンと鳴るや、グラントの耳をかすめ、リーの乱れた茶髪をツンと引っ張った。流血草の中ではチューチューの大合唱。
 グラントが叫び、
「早く早く。やつら躍起になって殺そうとしている。そっちじゃない。こっちだ。丘の方だ。密林はこっちが少ない」
 2人ならあのちっぽけなスリネズミから充分逃げられる。しばらくするとチューチュー声が聞こえなくなったので、立ち止まり、壊れた住処すみかを悲しげに振り返った。
 グラントはみじめになって、
「さてと、2人とも振り出しに戻った」
 リーが見上げて、
「違う。グラント、今は一緒よ。怖くない」
 グラントは自信げに、
「何とかして、どこかに仮小屋を立てよう。何とかして……」
 1本の矢がグラントの長靴に鋭くブスッと当たった。スリネズミどもが2人に追いついた。
 再び馬鹿丘へ駆けた。ようやく止まって見下ろすと、長い坂のはるか向こうにイオの密林がある。壊れた自分の小屋があった所だ。近くのスリネズミ町は畑や尖塔が整然と配置されている。だが、一息つく暇もなく、ギィー、ギィー、チュー、チューの声が藪から聞こえた。
 2人は馬鹿丘に追い込まれつつあった。馬鹿丘は人間には不毛の荒野、冥王星と同じぐらい未知の領域だ。あたかも小悪魔が今度こそ、敵なる踏みつぶし屋の大巨人、畑の強奪者を、絶滅させる覚悟を決めたかのようだった。
 武器は役に立たない。グラントは追跡者を見ようともしなかった。やつらは草の中を頭巾鼠ずきんねずみのようにすべって来る。たとえ1発の銃弾が1匹のスリネズミをやっつけようが、無駄というものだ。火炎放射機なら一吹きで何トンというやぶや流血草を灰にできようが、大群の鼠どもの狭路きょうろを切り開くにすぎない。役立つかもしれない唯一の武器、ガス球は壊れた小屋に置いてきた。
 グラントとリーはやむなく上へ。平地から300※(全角メートル、1-13-35)登ると、空気がだんだん薄くなった。もう密林はなく、流血草だけが繁茂しており、数匹のべらぼうが頭を出し、長い首をひょこひょこ動かしている。
 グラントがあえぎ、苦しげに息を切らし、
「山頂へ。たぶんやつらより薄い空気に耐えられる」
 リーは返事どころではない。かたわらでぜいぜい息を切らし、むき出しの岩肌をのろのろ進んだ。前方に門柱のような低いいただきが2つあった。グラントが後ろを振り返ると、小さな黒い群が空き地にちらと見えたので、怒りにまかせて1発撃った。1匹のスリネズミがマントを広げて反射的に飛びのいたが、残り部隊が続いた。何千匹もいるに違いない。
 頂上に近づき、ほんの数百※(全角メートル、1-13-35)のところに来た。頂上は切り立ち、つるつるで、登れそうにない。
「あいだに」
 とグラントがつぶやいた。
 いただきのあいだには何もなく、狭い。2つのいただきはかつて一体で、むかし火山活動のために2つに割れて、このような峡谷ができた。
 グラントはリーに腕をまわした。リーの息は無理がたたり、高度のせいで、ひっきりなしにぜいぜい。開口に着いたとき岩に矢がチャリンと当たってきらきら光り、グラントが後ろを振り返ると、紫色のべらぼうが1匹だけついて来て、数匹が右手にいるだけだ。15※(全角メートル、1-13-35)直線通路を急ぐと突然、かなり大きな谷が現れ、しばしきもをつぶして、2人は立ち止まった。

 そこに街があった。グラントは一瞬、スリネズミの大都市に出くわしたと思ったが、一見してそうじゃないと分かった。中世風の街並みじゃなく、大理石風の古代美的な叙情があり、ヒト、いや人間的な調和がある。白い円柱、壮麗なアーチ、曲線ドーム、建築美、すべてがまるでアクロポリスの影響を受けている。再度よく見れば、街がさびれ、砂漠化して、荒れていることが分かった。
 疲労困憊こんぱいのリーすらも美しいと感じた。息も絶え絶えに、
「な、なんてすばらしい。スリネズミならやりかねない」
 グラントがつぶやき、
「ヒトならたまらん。陣地を確保せねば。建物を選ぼう」
 だが、谷の入り口から1※(全角メートル、1-13-35)も行かないうちに、大騒動で足止めされた。辺りを見回した途端、グラントは現実に身がすくんだ。狭い谷がチューチューと叫ぶ大群のスリネズミに満ち溢れ、黒いじゅうたんが波打つさまに吐き気を催した。
 だが、やつらは谷の端っこに留まっている。なぜなら、ニタニタ、ギャーギャー、ヒョコヒョコしながら入り口をふさいでいるのが、3つ指足をどんどんと踏み鳴らしている4匹のべらぼうだったからだ。
 戦いになった。スリネズミが噛んだり刺したりすると、惨めな守備隊のべらぼう達が痛みで泣き叫ぶ嬌声きょうせいは笑い声じゃなく金切り声だ。
 だが、べらぼう達にとって全くの部外者であるスリネズミを排除しようと固く決意してか、鉤爪かぎつめのついた足を整然と上げ下げして、踏みつけるわ、踏みつけるわ。
 グラントが感情を爆発させた。その時考えが浮かんだ。
「驚いたな。リー、やつら谷に閉じ込められている。全悪魔が」
 グラントが入口に突進した。火炎放射銃を1匹のべらぼうの細い足の間に差しこんで、まっすぐ谷を狙って、発射した。
 地獄のような音がとどろいた。ちっぽけなダイヤモンドが、すさまじい一吹きで全エネルギーを放出し、火炎をめらめら放ち、谷の壁という壁をなめ尽し、はるか向こうに噴出し、火炎風で坂の流血草を焼き払った。
 馬鹿丘に轟音が何回もこだました。塵の雨が収まると、谷にあるのは肉の塊と、かわいそうなべらぼうの頭が1個、まだはずんで、のたうちまわっている。
 3匹のべらぼうが生き残った。紫顔のべらぼうが1匹、グラントの手を握って、にこにこしながらギャーギャーと馬鹿喜びしている。グラントはべらぼうを払いのけて、リーのところに戻った。
「ありがたい。とにかく排除した」
「怖くなかった、あなたがいたから」
「ふふふ、おそらくここにいることが分かるよ。この高度であれば白熱病にはかからない。ところで、そうだなあ、ここは全スリネズミ種族の古代首都だったに違いない。でも小悪魔どもがこんなにも美しい、いや大きい建物を造ったとは思えない。だって、スリネズミの大きさとこれらの建物の比はニューヨークの摩天楼と人間の割合と比べて巨大すぎる」
 リーが壮大な廃墟を眺めてそっと、
「とても美しい。まあやりかねないかもね、グラント、あれを見て」
 身ぶりの先を見た。峡谷玄関の内側に巨大な彫刻があった。まんじりともせず驚いて見つめたのは肖像画だった。そこ、崖の両側のはるか上に描かれた姿はスリネズミでなく、べらぼうだった。まさに生き写し、うすら笑いというより微笑み、やや悲しげ、気の毒そうで、哀れむような感じだが、まちがいなくべらぼうだ。
 グラントが小声で、
「驚いた。リーわかるか。かつてはべらぼうの街だったに違いない。階段、扉、建物、すべてがやつらの大きさだ。どういうわけか、ある時期、文明を獲得したに違いない。我々の知るべらぼう達は偉大な種族が退化した残りくずだよ」
 リーが割ってはいった。
「それに、スリネズミ達が入り込もうとした時、4匹が阻止したわけは、まだ覚えているってことよ。いや実は覚えていないかもしれないけれど、過去の栄光伝説を持っているか、あるいはもっとありそうなことはここに何らかの神聖な迷信を感じている。私たちを通したのは結局私たちがスリネズミよりべらぼう達に似ているからよ。でもいまだにかすかな記憶があるというのはすごいことよ。だって、何世紀も荒れ果てていたのだから。いや、何千年かも」
「べらぼう達が知性を持ち、独自の文明を造ったとは」
 とグラントがつぶやき、脇でヒョコヒョコ、ニタニタしている紫野郎を追っ払った。不意に立ち止まり、1匹に関心を示し、改めてじろじろ見た。
「こいつ、何日も俺をつけている。よしよし、若いの、何だそれは」
 紫色のべらぼうが、べっとりぐちゃぐちゃの流血草と小枝の束を差し出し、阿呆面あほうづらでニタニタ。笑止しょうしな口がねじれ、目ん玉が大きく開き、必死になって精神を集中している。
「アメー」
 と勝ち誇ってケタケタ。
 グラントが一喝、
「あほ、たわけ、まぬけ」
 急に止めて、笑い出し、
「ハハハ、心配するな。くれてやる」
 グラントはチョコレート箱を喜色満面の3匹に放った。
「ほら、お前らの飴だ」

 リーが金切り声をあげたので、グラントはびっくり。両手を大きく振っている。すると、馬鹿丘の頂上にロケットが1機、轟音を響かせ旋回して、機首を谷に向けた。
 ドアが開いた。オリバーが威張って下船して、ぞんざいに言った。
「わしは本物、おまえも本物」
 男が1人、バカ猫のあとに続いた。お出ましだ。
「おとうさん」
 とリーが泣きじゃくった。
 しばらく経ち、グスタフ・ニーランがグラントに向き直り、
「お礼の言いようもない。もしあれば、感謝のしるしに何でも……」
「ありますよ。契約を破棄してください」
「おや、私の会社に勤めているのか」
「グラント・カルソープという一介の仲買人です。この変な衛星にはもうこりごりです」
「もちろん、そうしたければ。もし、支払いに問題があれば……」
「働いた6カ月分はお支払ください」
「わかった。でも居たいと思っても、そう長く交易できまい。極都市近郊で強心草を栽培できるようになったから。べらぼう達に頼って不安定になるより農場の方がずっとよい。もし残りを勤めあげる気があれば、期限まで農場をまかしてもいい」
 リー・ニーランの灰色の瞳をみて、固辞して、ゆっくり、
「どうも。でもこりごりです」
 リーに笑いかけ、それからリーの父に向き直り、
「よかったら、我々を見つけた方法を教えていただけせんか。一番ありそうもない場所なのに」
「こういうことじゃ。リーが戻らなかったとき、慎重に考えた。最後に決断を下したのは、娘がわしと同じように行動すると思い、一番ありそうもない場所を探すことだっだ。ねつ海岸、次にしろ砂漠、最後に馬鹿丘だ。掘立小屋の残骸を見つけ、そこにこいつがいた」
 とオリバーを指し、
「こう言ってた。べらぼう10匹でバカ1人。そうだよ、バカと言ったらわしの娘のことじゃないか。あたりを飛んでいたら、火炎放射機の咆哮ほうこうが聞こえて注目を引いた」
 リーが口をとんがらせた。それからグラントを灰色の瞳でまじまじ見つめ、やさしくこう言った。
「私があそこの密林で言ったことを覚えている?」
「聞いたことないな。うわごとは言ってたようだが」
「うわごとじゃないわよ。妻の助けがあれば年期を勤め上げるのはずっと楽じゃなくて? こういうことよ、たとえば一緒にジュノポリスへ私を連れてもどるってのは」
 グラントの声がかすれた。
「リー、なんという重大な決断を。でも、そんな夢を今まで見ていたとは」
 オリバーのたまわく
「熱病に違いない」





底本:The Mad Moon. First published in Astounding Stories, December 1935
原著者:Stanley G. Weinbaum
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)の下で公開されています。
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翻訳:奥増夫
2023年11月27日作成
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