潮汐衛星

TIDAL MOON

衛星シリーズその4

スタンリイ・G・ワインバウム Stanley G. Weinbaum

奥増夫訳




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ガニメデ



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 乗合自動車の中は暖房されているけど、アマーストがぶるっと身震いしながら、にこっと笑ったのはハイドロポール街のてつく尖塔せんとうが目に入ったからにほかならない。
 極都市ハイドロポールに戻ってくるのは、いつもうれしいし、たとえ唯一の楽しみが高層ビル群を眺めるだけであっても、はるか8億※(全角KM、1-13-50)先、太陽方向に浮かぶ灰色惑星、つまり地球の故郷シラキュースのようだもの。
 木星第3衛星ガニメデの南極都市ハイドロポールは一年中てついたまち、平均気温-1℃、温度変動はわずか±3℃。でも衛星で実質上唯一の居留地きょりゅうちであり、まさに都市の名に値する。
 アマーストは4地球年の間、この水衛星でクリー社の収集人として働き、町から町へ貴重な薬用こけを集め、ロケット基地ハイドロポールに持ち込み、地球へ輸送している。
 何百人といるクリー社収集人の中の1人であり、独自の路線をもち、それぞれの方法で町々を収集し、各自の海馬に乗り、凶暴な洪水をかわしているが、時として縦谷じゅうこくに何億トンもの水が襲いかかり、予告なしに山腹さんぷくを破壊することがある。
 でもハイドロポール市内だけは安全だ。南極にあるから大洪水が襲わない。大洪水は木星が強大な引力で引っ張るために、このちっぽけな衛星を3か月毎に1周する。
 その結果、ハイドロポール市内と、周囲数※(全角KM、1-13-50)にしか植物は生えない。例外は奇妙なクリーというこけ、このこけは岩山の割れ目にぴったり張り付いているので、さしもの強烈な潮汐力でも剥がされないし、巨大灰色岩盤を割ることもできない。
 従って、ガニメデにおいては、すべての生き物が青苔あおごけのクリーごけを軸にして回る。
 その昔、ガニメデの先住民ニンパス達がこの苔を地下深く持ち込み、まわしい村の岩盤に幾層も積み重ね、地面を造った。ハイドロポールの狭い領域から種を集め、ここに少品種の食物を育て、生活している。
 地上の苔は濃い青色をしている。地球の地衣類リトマス苔で染色したリトマス試験紙が、色変化で酸やアルカリを検知するように、ガニメデのクリー苔はこの衛星のアンモニア大気に反応する。
 地下の空気は人工的に造られているため、アンモニアがないので、地下の苔は赤色だ。実際、地上の山のクリー苔すらも、水素含有の大洪水に洗われたあとでは短期間だが赤色になる。
 ちょっと前までは苔を収集する期間がとても限られていた。赤色苔は薬効が欠乏しているのに対し、青色苔はアンモニア大気に化学反応するという理由や、内部に卵を抱えているという理由で、効能が優れ、地球の需要が多い。
 しかし現在、カール・ケントが処理方法を開発したため、赤色クリー苔でも薬効が得られるようになった。だから、アクァイア居留地にあるカール・ケントの小取引場では青色苔と同じように赤色苔も集めている。

 乗合自動車はハイドロポール市の大通りを静かに下った。ロボット操縦され、騒音や寒気が遮断され、確かに海馬で旅するより良い。だが、ここから先は海馬での旅が避けられない。
 アクァイア居留地への旅は洪水側へ向かい、この方面から猛烈な洪水が押し寄せる。そして、急勾配と岩の段差に加え、湿った泥地があるため、乗合自動車は通行不能で、海馬だけが横断できる。
 アマーストはたくましい長身をパーカ服に包みジッパーを閉め、いかつい顔をシリセル製のバイザーで覆い、やおら乗合自動車から降りた。
 冷気が貫いた。真空服ですら保温には不十分だ。おっと真空服というのはあやまり、というのも魔法瓶の原理で保温するのではなく、内層と外層の間に、細い放熱線が貼ってあるからだ。
 アマーストが振り向き、ニンパス達が乗合自動車から荷物をおろしているのをじっと見た。やつらは何となく不快で、足は短く、よたよた歩き、お尻に足首がくっつき、頭はきのこ傘のように奇妙に広がり、のっぺり顔が隠れ、長い両腕は水かきで体につながっている。
「アマー」
 という奇妙なしわがれ声で、アマーストが振り向いた。ニンパス達がアマーストに付けた名だ。
「はい?」
「見に行け」
 長い水かきのついた腕が差す方向には、ロケット空港事務所があった。
「お、ありがと」
 アマーストはガラス丸屋根の方に歩いて行った。中でマガワンが座って見ている。丸屋根はおっそろしくバカでかい神々こうごうしい釣鐘つりがね型の実験器具そっくりだ。
「やあ、アマースト、元気かい」
 といたマガワンの顔は福々しくてしわがない一方、アマーストの顔はごつごつして風雪にうたれ、著しく対照的だ。
「相変わらずさ。最近なにかあったかい」
「なんにも。ただ、うわさではイオで赤いクリー苔が発見されたそうだ」
「イオか、木星の第1衛星だな」
「その通り。アイオニアン製造という毛皮けがわ輸出会社が独占した。ちょうどクリー社がガニメデで独占しているようにな」
「でも、赤色クリー苔はよくないぜ、マック。効能がない」
 マガワンが椅子にもたれて、言った。
「忘れたのか。カール・ケントが処理方法を開発してから、ガニメデでも赤色クリー苔を集めているよ」
 アマーストが長い脚を伸ばして、言った。
「あ、忘れてた。アクァイア居留地には処理が実用化されてから行ってないなあ」
 一瞬思いがよぎったのは小さな丸屋根の居留地、そこに涼やかな目をした妖精のキャロル・ケントがいる。カール・ケントの娘である。マガワンの言葉を聞いて胸騒ぎがして急に立ち上がって、こう言った。
「それって、よくないなあ。やつらが市場を荒らすぜ」
「ああ、今までのところ単なるうわさだ。それに、ともかくカール・ケントしか処理方法は知らない。でも、アクァイア居留地に行ったら伝えてくれ。この情報は2か月前に得た」
 アマーストが首を振った。
「皮肉なもんだ。2083年だというのに、2か月前の情報を海馬で運ばなけりゃならんとは。中世の昔へ戻ったようだぜ」
「そうだな。でも、ガニメデの洪水地帯ではラジオが使えない。大気が乱れすぎている。ハイドロポールでしか受信できない」
 と言いながら、マガワンが机のメモに目をとめて、
「おう、忘れるとこだった。アクァイア居留地に行く連れがいるぞ」
「だれだい?」
「スカラーだ」
 マガワンが机の送話器に向かって告げた。
「スカラー氏に来るように」
 マガワンがアマーストに向き直り、続けた。
「目的は知らないが、書類はきちんとしているから面倒は起きないだろう」
 わかったとアマーストが返事した時、はいってきたスカラーの風貌からは、これならアクァイア居留地への危険な旅などなんなくこなせる。
 赤褐色の瞳はアマーストと同じで、きつい試練を切り抜けた沈着な雰囲気が漂っている。遠くをじっと見つめ、危険を受容し対応し、克服する姿勢がうかがえる。黄褐色の肌に白い歯がえ、鋼鉄のような手は見かけの強さが嘘でないことを示している。
「仕事ですか」
 とアマーストがいた。
「違います。ただの旅行です」
 誰もがガニメデで旅行を楽しもうと考えるものだとアマーストは苦笑い。
「海馬で旅の経験がおありのようで」
「いいえ。地球を出たのは初めてです」
 なんとも変だ、勘違いするなんて、とアマーストがいぶかった。誓ってこの男は、幾多の惑星でしか経験し得ない冒険で鍛えられていると思っていたのに。
「それなら、あした面白いことが待っていますよ」
 とアマーストが微笑ほほえんだ。

 洪水の時が迫っている。2頭の船酔ふなよい友好ゆうこうという名前の海馬がそわそわ。海馬はいつも洪水のとき、むくむくと本能が芽生え、強烈なちからで山のような潮汐ちょうせきり、一気に泳いで頂上へ登る。
 途中には巨体のガンマ・ナガスが遊弋ゆうよくし、その姿は獰猛どうもうなクジラのような哺乳類で、長いとがったきばをもち、海馬のみが硬い外皮に守られて安全だ。
 洪水がさし迫ってない時でも、海馬に乗るのは簡単じゃない。奇妙に揺れて歩く。最初、2本の足を前に出すが、体は尻尾しりびで支えたままで、次に尻尾を足のところへ運ぶ。騎手は体長6※(全角メートル、1-13-35)の背中に慎重に座らねばならない。あまりにも頭に近すぎて座ると、動かない。尻尾の間近に座ると、歩くたびに大揺れすることになる。足のちょっと後ろが一番良い。そこなら最小の揺れで乗っていられる。

 夜がきた。2人の移動はわずか数時間だったが、空はもう暗くなっている。ガニメデの昼は短い。こうしてずっと、2人は時おり話をわした。関心はもっぱら旅が不快なことだった。わかったのはスカラーが無口で、過去をほとんど明かさず、ガニメデ旅行の理由を一切言わなかったことだ。スカラーは黙って乗馬し、右も左も見ず、じっと友好海馬の緑色ろくしょく背中を見つめたままだった。
 だが見るべきものは多くない。平原に点在する高床式たかゆかしき家を除けば、山とか岩とか泥穴など、単調そのものだ。それでもアマーストがいぶかったのは地球から来たものであれば高床式たかゆかしき家に興味を示すはず。
 思えば、クリー苔を固めて造った4角な巣箱のような家を初めて見たとき、高さ6※(全角メートル、1-13-35)の支柱の上で、実際どうやって洪水を乗り切るのか不思議に思ったものだ。誰も地上に長くとどまって見届けた者はいない。
 しかしながら、アクァイア居留地に住むカール・ケントは持ち前の研究心で、作動を突き止めていた。まず水位が3※(全角メートル、1-13-35)上がったら、ニンパス達は両側の支えを外し、家を浮かす。でも、中に住んでいるニンパス達以外、洪水を乗り切れたどうかわからない。というのも洪水が元の場所からはるか遠くへ家を流すために、確認しようがないからだ。

 突然、悲鳴が空気を切り裂いた。耳障りな悲鳴だが、まぎれもなく苦痛の悲鳴だ。
 2人が山を周りながら、次の踊り場に来た時、争っている気味悪い生き物の塊に出くわした。ぬるぬるした平べったい体から長い触手が伸び、岩をつかみ、残りの触手で、逃げ惑うニンパスの体に吸いついている。蛇のようにじわじわと、ニンパスの暴れる腕に絡みつき、真ん中の長いやりを突き刺して、重い体を強引に引き寄せている。
 スカラーは怖そうに見つめ、バイザー越しの顔が青ざめている。生き物が奇怪な悪夢のように見えた。アマーストが銃を抜いて発砲した。シュッと軽い音がして、やがて動かなくなって、黄色い血が岩に流れた。
 ニンパスは飛びのき、けたたましく叫んで、山の裂け目に突進し、青色の濡れたクリー苔をひとつかみして傷口に当てた。
 しばらく怪物の触手はぶるぶる震えていたが、ねばねばの腐った胴体に落ちて、動かなくなった。長いやりのみが原型を保っている。
「要するに進化だ」
 とアマースト。
 スカラーが深呼吸して言った。
「そんなに進化してないです。つのをもったクラゲのようですね」
 アマーストが答えた。
「おそらく昔はクラゲだったのだろう。今となっちゃ言えない。原型から何回も変態している。蝶々が次々と段階を経て、卵から幼虫、幼虫からさなぎ、さなぎから蝶々となるように、こいつも原型細胞から発生し、アメーバのように細胞のどこからでも食物を吸収し、そのたびごとに捕食した獲物に変化していく」
「消化するのでなく、食べたものになるということですか」
「その通り。このアメーバは一段高い生命にくっつき、常にその高等生命体になるが、次の獲物に変身するという本能は残っている。でも変な習性があり、以前の特徴を確実に変身後も引き継ぐ。たとえば、こいつはきばからわかるように以前ガンマ・ナガスでもあったし、触手があることから陸ダコでもあったし、もし我々が現れなきゃ同様にニンパスになったかもしれない」
「おかしな衛星ですね」
 ゆっくりと2人は山を降り続け、時おり荒涼とした台地に立った。暴風と洪水でガラスのように平らだ。洪水を予兆する飛翔獣ひしょうじゅうが上空で急降下している。

 とある台地を横切った時、風のうなる上空で、バタバタ音を聞いた。山を背景に、真っ黒な巨鳥が全幅9※(全角メートル、1-13-35)の4枚羽根を交互に羽ばたきながら、2人の方に向かってきた。疾風のようにさっと近づいた。
 一瞬2人は座ったまま動けず、やっと恐怖状態から脱し、拳銃を抜いた。船酔海馬が尻尾をパシッと振ったので、アマーストの手元拳銃がグラついた。
 アマーストがふらつく拳銃で狙いながら叫んだ。
「撃つな、スカラー。君には殺せない」
 アマーストが拳銃を構える前に、スカラーが発砲した。弾は右に流れ、胴体をそれた。だが鳥は落ち、地面でのたうちまわっている。再びスカラーが発砲すると、鼓膜をつんざくような甲高い悲鳴をあげて、動かなくなった。
「フー、危なかったなあ。スカラー、君はなんで知ってる?」
「何のことですか」
「羽根の筋肉を撃つことさ」
「あれは毛布コウモリです。毛布コウモリは獲物を殺さないが、獲物の電気精力を吸い取り、弱らせて動けなくします。毛布コウモリを落とす唯一の方法は羽根を撃つことです。イオにも同様な種類がいます」
 アマーストがいぶかって相手を見ながら言った。
「その通り。でも俺の考えでは惑星体験のない男なら心臓のある左を狙うはず。それじゃうまくない。ところが、君ときたらまちがいなく知っていた。というのも、迷うことなく撃った2発目が、毛布コウモリの心臓だ。体の中央部にあるからな」
 スカラーが肩をすくめた。
「地球でもこんなものが動き回っていますよ」

 山の麓についた時、とても暗くなり、これ以上進めなくなった。木星が夜空にうっすら幽霊のように輝き、はるか向こうの漆黒しっこくに、ピンのようにちっぽけな地球があった。
 風が強まったので船酔海馬と友好海馬を岩にもやい、山の物陰に避難した。
 2人が来たために陸ダコが数匹、岩からはい出してきた。アマーストは濃縮携帯食品より新鮮な食材が好みなので、これを捕まえて、放射線ストーブで調理して夕食にした。タコのような生物はとてもうまい。そのあと2人は満腹して夜の眠りについた。

 翌朝太陽が昇ると同時に出発した。今日の旅は平原。荒涼たる風景に高床式たかゆかしき家が高々と点在している。たまに家の前でニンパスが寝転んでいるのを見たが、立ち止まらなかった。辺鄙へんぴなところではニンパス達がガニメデ方言を話すので、地球人にはほとんど理解できない。
 泥をはね上げ進んでいると、スカラーが長い沈黙を破って尋ねた。
「ところでアマースト、クリーは何ですか」
「クリーこけはクレフィンという薬の原料だ。あらゆる悪性疾患しっかんの治療に使われる。痛みを除去するばかりでなく、なおしてくれる」
「クリー苔はガニメデにたくさんありますけど、全部利用しているようには見えませんが」
「クレフィン1オンス(28※(全角グラム、1-13-36))を造るのにクリー苔が1俵以上必要だ。この10年で需要が著しく増えた。なのに、ガニメデの大部分で収穫期間が短い」
「洪水のせいですか。なぜガニメデの大部分ですか。なぜ衛星全体の収集期間が短いのですか」
 アマーストが一瞬びくっとして補足した。
「それはな、ハイドロポールの事情のせいだ。当然あそこは洪水が襲わないけれども、クリー苔が少ししかない。だから、収穫期間が短いのは洪水のせいだ」
「それに洪水後、色が変わるせいですか」
 とスカラーが、しれっといた。
「そのとおり。なんで知ってるんだ?」
「どこかで読みました。ところでアクァイア居留地の貿易商はどんな人ですか」
「カール・ケントか? いいやつだよ。娘のキャロルと住んでいる」
「そこで洪水を避けるのですか」
「そうだ。新顔を見て大層喜ぶよ」
「洪水のときは村を出られないと思いますが」
「どんなことをしても出られない。水圧のため扉を開けるのは、やろうと思ってもできないし、誰もやらない。一旦、地下へもぐったらずっと滞在することになる」
 スカラーはしばらく独り言をぶつぶつ言っていたが、やがて口をまた開いた。
「次の洪水はいつですか」
 アマーストが船酔海馬の背中で位置を変え、スカラーを正面に見据えて言った。
「ええと、今から2日後のはずだ。おそらくアクァイア居留地から出られるのは、地球暦で5月12日ごろだろう。ところで、どうやってハイドロポールへ帰るつもりだ? 1人じゃ道が分からないぞ」
「ええ、マガワンに相談しました。あなたが水滴丘すいてきおか落涙丘らくるいおかへの旅を終えるまで待ちます。帰り道はいつもアクァイア居留地へ立ち寄るんでしょう?」
「そうだが、君はアクァイア居留地で2か月間、何をしたいんだ」
「たぶん、観光でしょう」
 とスカラーがにっこり。

 夜が来ても2人は止まらなかった。洪水時期が迫り、無駄に休めない。もう、湿地帯に近いし、泥穴どろあなが至る所にあり、海馬はゆうゆうとよけて行くけれど、歩みはのろい。風が強くなり、風に向かって進んでいるので、くらにしがみつかざるを得ない。

 数時間後、山に差しかかった。暗くて岩だらけの道を登ればもっと遅くなると思って、アマーストは平原を回り道しようと決めた。
 未踏の地を半ば眠りながら進んでいると、突然まぶしい光が当たるのを感じた。山陰やまかげで夜は真っ暗なのに、不意打ちの閃光で目が覚めた。
 横から真っ黒な巨怪が、光の真ん中に影を作りながら向かってきた。石の擦り合うようなごろごろ音が、アマーストの耳をつんざき、何より光が気になる。
 スカラーはというと、山に一番近かったので前進し続けた。だがアマーストの乗っている船酔海馬は突然向きを変え、閃光の方へまっしぐら。アマーストが手綱をグイと引っ張るが、曲がらない。
 そのとき光が体全体を包み、自分も引き込まれるように感じた。前方は明るく光る暖かい催眠状態、両側は何もない。
 アマーストは心が沈むような、体が弛緩しかんするような感じがして、前に傾いた。その時、何かが目の前を飛んだ。一瞬光がさえぎられた刹那せつな、力が戻った。
 すぐわかったのは目の前の物体が魂を奪ってること、そして逃げるには船酔海馬の両目をふさぎ、手綱を引かねばならない。いま巨怪が近づき、ぱっくり開いた大きな穴を見たような……。中でピストンのような棒が上下に動いている。
 じっと見れば、石が1個、穴に転がり落ち、ピストンが降りて粉々に砕いた。
 必死に目を閉じた。それからバイザーを開けて顔を冷気にさらし、船酔海馬の手綱たづなを口にくわえ、両手で海馬の目をおおい、あらん限りの力で引っ張った。海馬が急に曲がった。
 いま巨怪が向きを変えないでまっすぐ進めば、アマースト組は救われる。巨怪が向きを変えればアマースト組は穴に落ちる。
 アマーストは全身に光を浴びないようにして、深く息を吸い込み、胸の動悸を抑えた。安全だ。巨怪は確実に前を行き、獲物が逃げたのに気づいていない。
 スカラーは光の催眠力が及ばないところにいたので、何があったかと聞いた。
 アマーストが答えた。
「光が当たっている間、向きを変えられなかった。だが全く変なものじゃない。光の束というか、動物というか、いや何にしろ、あれは岩を食べる。火星のピラミッド建設怪獣のほかに聞いたことないが」
「ミネラル消化の足しにしたかったのでは」
「ははは、すんでのところだったよ。極端な雑食性に違いない、体を維持するのに鉱物やら生物を必要とする」
「進化の大河小説のほんの1行ですね」
 こうスカラーが言って友好海馬の背中で位置を変え、目を閉じ、しばし、まどろんだ。

***

 地球日で2日後に見つけたアクァイア居留地は、ガニメデの荒野に丸屋根が群集し、巨鳥の卵が半分埋まったような姿で、時が止まったまま濃灰色に変色し、風景が静止しているようだった。丸屋根にかすかに残る扉の枠が、この泥土でいどに人が住んでいる唯一の証拠だ。それでもなお、夜を日に継いで乗馬して体がこわばり、疲れ果てた2人には丸屋根の小さな村が見えるとうれしかった。
 スカラーが待ち切れずに言った。
「これがアクァイア居留地ですね、ガニメデのアクァイアですね。聖書に出てくるようです」
 遠くからにぶいうなり音が聞こえた。
「もっとひどくなる、洪水が来るぞ」
 とアマースト。

 取引所で、アマーストが細身の女をほれぼれ眺めて、こう言った。
「キャロルかい。あれから10年たったきみかい」
 軽口をたたいたアマーストの目がきらきら輝いた。最後に見たとき、キャロルはまだ16歳そこそこのひょろっとした女の子だった。いまや金髪の女神、丸みを帯び、生気にあふれている。金髪と碧眼へきがんは取引所のくすんだ色と好対照だ。いっぺんに成長したかのようだった。
「そうよ」
 と言って、キャロルが扉を閉め、凍てつく外気を遮断した。
 驚きを隠すあまり、アマーストの話す言葉は幼児のよう。
「いやあ、美人だ、おぐしも、おかおもきれい……」
「あなたも若々しい」
 キャロルの目がスカラーに止まった。
「おお、忘れてた。キャロル、この方がスカラー氏だ」
 スカラーは茶色の瞳でキャロルを品定めするかのようにねめ回した。
 アマーストが聞いた。
「お父さんはどこ?」
 キャロルが真顔まがおになった。
「この前の洪水で戻らなかった。私が後を継いでいる」
 戻らなかったのか。これ以上言う必要はない。誰もが知っていることだが、何を意味するか、大洪水が雷鳴らいめいのように押し寄せた時、丸屋根村から流される……。耐えがたいことだ。
 父のカール・ケントはガニメデの貿易商の中でも余人をもって代えがたい。残念だ、貴重な調合方法を完成させた直後に死なねばならぬとは。キャロルにとっても最悪だ。いまや完全に1人ぼっちになってしまった。
 キャロルに案内され、地下通路を通って取引所から居間に着いた。丸屋根は緻密ちみつに構築され、すさまじい洪水圧力に耐えられるようになっており、空気も温かい。2人は真空服を脱いだ。
 キャロルの扉は他の部屋と同様、中央広場に通じており、ニンパス達と地球人たちが大急ぎで大洪水に備えていた。

 巨大なアリ塚のように、村は活気に満ちている。タンクは必須で、水をたくわえたり、酸素を発生させたりする。窒素混合機を動かし、2種類のガスを完璧に調合し、洪水の間、確実に空気を供給しなければならない。
 一方、アマーストは仕事に取り掛かり、クリー苔を見回ったり、海馬を浮籠うきかごにつなぎ、投錨とうびょうしたりして、すっかり大洪水の準備ができたわいと見れば、スカラーとキャロルが、暖かい部屋で一緒に座っており、そこはキャロルの父カール・ケントが整備した地球のような部屋だった。

「ガニメデで一番重要な取引所のここで、きみが後を継いでいると言った時、信じられなかったよ」
 とスカラーが茶色の瞳で暖かく女の顔を見つめた。
「継がなきゃ。私しかできない。父が洪水につかまってからは研究所をほかに作れてないのよ」
「計画してたの? お父さんの秘密をあまり他人に教えるのは危険だと思うよ」
「そんなことない。ガニメデ以外のどこにもクリー苔はないし、それにクリー社がガニメデを独占しているし」
 スカラーがキャロルの隣に座って言った。
「いやあ、知らなかった。きみがここで埋もれるのは悲惨だ」
 そして唐突に言った。
「ここに居ちゃいけない。きみは地球に住むべきだ。見聞したり、行動したり、何より一番重要なのは世に出ることだよ」
 キャロルがほほ笑んだ。今まで漆黒しっこくに浮かぶピン穴のような小さい地球を訪れたことはなかったが、地球のことを読んだことがあったし、空中都市や、地下高速道路や、美女のことなど知っていた。キャロルがやさしく言った。
「教えて、世界のことを。そんなにガニメデと違うの?」
「大違いだよ。どこからはじめようか」
「いつもニューヨークを見たかったのよ」
 と言って、スカラーをうらやましげにのぞきこんだ。
 そのときアマーストが部屋にはいってきて、キャロルの言葉尻を聞いて、割り込んだ。
「くだらんもんさ、キャロル。地球にわんさかあるものはガニメデにゃ欲しくないぜ」
 スカラーが笑って、
「ふふふ、ギャングやら、ごうつくばりなどは、ずっと前にいなくなったよ」
「ギャングはそうだ」
 とアマーストは切り捨てたが、不意に長い洪水の間じゅうスカラーがいるのかと思ったら、気がかりになった。
 たぶん無意識のなかに、アマーストはキャロルと2人っきりになりたい下心があったのだろう。今わかったのは、地下村に閉じ込められ時間をもてあますだろうけども、スカラーの為にそれどころじゃなくなる。

 その時、地下深部から山腹の崩壊する音が聞こえ、洪水が襲来した。いつものことだから、クリー苔収集人たちの村は静かで、脅迫されておし黙ったも同然、あたかも誰もが無感情で、どっちみち今回も丸屋根が持ちこたえると達観しているようだ。数時間、空気タンクが効率的に作動している限り、こんな死んだような妙な感情に浸る。
 アマーストが予想した通り、キャロルとスカラーは多くの時間を一緒に過ごした。
 2人がよく歩く狭いトンネルの先には農場があり、たたずむ広々とした空間は、巨大な基地のようであり、天井に水の開閉弁があり、地上の洪水を地下の農場へ流している。時々立ち寄る窒素混合機のそばは、耳をつんざくものすごい騒音がして、そこから人工空気が流れてくる。
 実際、スカラーはアクァイア居留地の人工施設に興味が尽きないようだ。アマーストが部屋にはいっていくと、スカラーがキャロルに技術のことをあれこれ質問しているのによく出くわした。
 スカラーは、ほかにガニメデで何もすることがないので、キャロルが見たことのない世界について長々と話していた。そんなときキャロルは魅せられたように聞き入り、青い瞳で夢見るような表情は、あたかもスカラーの目を通して情景を見ているかのよう。

 日が過ぎるにつれ、キャロルがますますスカラーにかれていくのに気付いたが、スカラーそのものにかれているのか、スカラーが来た世界にかれているのか、まだ確信が持てなかった。
 突き止めてやろうと思い、スカラーとキャロルが別々になる数少ない瞬間を待った。その時を見計らって、キャロルにつかつかと歩み寄り、キャロルのあごを片手でつかんで聞いた。
「キャロル、スカラーのことをどれくらい知ってるんだ?」
「少しよ。どうでもいいでしょ」
「大ありさ。古い古い話の『シティ・スリッカー』や『ミネソタの娘』の復活になりかねないな」
 キャロルが怒って飛びのいた。
「アマースト、余計なお世話よ」
 アマーストがキャロルに片手を回した。
「俺には責任がある」
「いつからよ」
 それに答えず、アマーストはキャロルを引き寄せて、強引にキスした。キャロルはパッと押しのけて、カンカンに怒って部屋から飛び出した。
 アマーストはキャロルが去るのをぼんやりながめながら、キャロルが怒ったことはたいして気にならなかったものの、確認しようとしていたのはキャロルがスカラーに本当にぞっこんかということだった。
 父のカールが死んでからアマーストはキャロルにますます責任というか、もっと何かを感じた。というのも、キャロルは若い娘っ子なのに、友人以上のものを惹起じゃっきするからだ。
 だから、ほかの誰かと恋に落ち、結婚することを考えると苦しかった。そのうえ、スカラーを見れば見るほど、なんて失敬な男なんだ。アクァイア居留地に来た理由がただの旅行とは聞いてあきれる。
 それに確かにキャロルが魅力的だからと言って、キャロルの魅惑に尾ひれがついて、6億※(全角KM、1-13-50)かなたからわざわざスカラーは出て来ない。それでもやはり、アクァイア居留地のあちこちに関心を持つのはさておき、今までのところ、スカラーがここへ来たのはキャロルだけが目当てのように思えた。

***

 それから数日間、キャロルはアマーストを冷たくあしらい、決して2人っきりで話す機会を作らせず、スカラーと一緒に大部分を過ごしていた。
 アマーストもめったに部屋に入らなかったがしかし、のぞいたら、金髪が茶髪にぴったり寄り添い、スカラーのやさしい言葉遣いが聞こえてきたのには胸がきりきりする思いだった。
 しかし、日が経つにつれ、スカラーがそわそわし始めた。1人でしきりに村をふらつき、キャロルを連れてない。
 ある時アマーストが見ると、スカラーが地球こよみをめくりながら、持参の紙に印をつけている。その時、ピンと来た。もっともその時はまだ、キャロルの拒絶反応を突き崩せていなかったのであるが。
 潮が完全に引く1日半前、アマーストが取引場に1人で座っていると、キャロルが入ってきて、だしぬけに言った。
「変ね。調合書類が無いの。もちろん暗記しているけど書類が無い」
「無くなっただと」
 とアマーストが叫んで椅子から飛び上がり、はたと思い出したのは週初めに聞いた噂、赤クリー苔がイオで発見されたことだ。
 キャロルはゆっくりと腰かけて、冷静に言った。
「アマースト、興奮しないで。何のために欲しがるのかしら」
「イオで赤クリー苔が発見されたんだ」
 こう言って、アマーストは扉から半身を出した。なんて俺は馬鹿だ、キャロルに言わなかったなんて。わざわざ前に、父のカールへ知らせるようにことづてされていたのに。
 キャロルが追いかけてきた。
 研究室の中でキャロルに向き合った。
 アマーストがうめいた。
「俺の落ち度だ。話しておくべきだった。お父さんが死んだと聞いて、すっかり忘れていた。ほんとに無くなったのか、なにも荒らされてないようだが」
「ほんとよ、ここに置いていた」
 キャロルが引き出しを開けた。
「キャロル、この部屋に誰がいた? 君のほかに今まで誰が来た?」
「ニンパス収集人たちよ。父が生きていた時だけど」
 アマーストが床をせかせか歩いた。
「他にだれか? やつらに盗む知恵はない」
 ちょっと間をおいて、尋ねた。
「今までにスカラーを入れたことは?」
「ええ、一度。赤クリー苔が処理されるのを見たいと」
 アマーストが突然向き直った。
「やつだ。疑わなかった俺が馬鹿だった。やつは間違いなくアイオニアン製造から調合書類を盗むように送り込まれた。旅行だって? 畜生、道理で毛布コウモリが分かったはずだ」
「どうしよう」
 キャロルは引き出しの書類をむなしくひっかきまわした。
「村を探そう。地上の潮が引くまで村を出られない。少なくとも1日半先だ。村のどこかにいる。他に行く所はない」
 村中スカラーを探したが見つからなかった。小さな地下村で人が消えるなんてありえない。だが貴重な5時間が過ぎたのに手がかりさえない。信じられない。
 キャロルがしばらくして心配げに訊いた。
「アマースト、もしアイオニアン製造が青クリー苔を地球に輸出したら、クリー社はどうなる?」
「競争が厳しくなって、過剰供給になり、売り上げが落ち、最終的には破産だ、たぶんな。知っての通り、ガニメデで会社を維持するには膨大な経費がかかる」
「それなら、スカラーを見つけなきゃ。父はきっと、きっとなげく」
 アマーストが躊躇ちゅうちょしてしばし立ちつくした。
「わかってる。だが残された方策はたった1つしかない。やり直そう。どこか見落としている」
 3時間後、足が棒になり、疲れ果てて、再び農場へ戻ってきた。2回目の探索も1回目と同じく収穫なし。

 はるか遠くで1人のニンパスが農作業をしている。トンネル入口のところだ。
 アマーストが、せっせと働いているニンパスに力なく聞いた。
「新顔の地球人を知らないか」
 きのこ頭がククッと動いた。
「ああ」
「今日見たのか」
「ああ」
 再びうなずいた。
「どこだ」
 アマーストが、緑色の灰がこびりついたニンパスの肩をつかんだ。ニンパスがぶらぶら振った腕先は農場のはずれ、岩壁が露出する農場の終点だ。
 アマーストはニンパスの肩を激しくゆすった。
「どこだ」
「ペンのナカ」
 アマーストが叫んだ。
「弁の中だ。上等だ、そこしかない」
 その時、農場のはずれにある岩盤を水流が激しくたたいた。
 アマーストが水の方へ駆け始めて、叫んだ。
「あれだ。いま弁が外に開いたぞ、キャロル。真空服を取りに行って、持ってこい、すぐだ」
 アマーストが現場に着いた時、水の流れは細くなっていた。明らかに地上のしおは完全に引いている。
 クリー苔が管口の下にこんもり積まれ、スカラーがどうやって隠れたか分かった。人間が入れるほどの傾斜送水管から、地上の光が見えた。たぶんスカラーは逃げたばかりだ。おそらくニンパス農民に見られたと知って、隠れきれないと悟ったんだろう。
 でもキャロルが真空服を持ってくるまで後を追えない。イライラしながら待ってる間に自分を慰めたのは、洪水後の奔流ほんりゅうを歩いて遠くへ行けまいし、洪水が始まってから地上は無人だし、外にもやいだ海馬もいないので逃げられまい。
 焦りを紛らわすため、スカラーが遺棄した土塁にクリー苔をさらに積み上げた。そうすれば時間が節約でき、キャロルが真空服を持って戻ったとき、岩盤天井の開口部へ簡単に登れる。
 やっと、キャロルが真空服を着て、農場を横切り、駆けこんできた。
「きみはダメだ」
 こうキャロルに告げ、手渡された真空服を大急ぎで着こんだ。キャロルは返事をせず、アマーストが管口に長身を潜り込ませるのを眺めていた。
 百※(全角メートル、1-13-35)の傾斜送水管を全力で匍匐ほふく上昇して、アマーストはびしょびしょになり、湿ったガニメデの地上に出た。数秒遅れてキャロルも出てきた。
「戻れ」
 アマーストがシリセル製バイザーに付いた泥を落としながら叫んだ。泥は濡れた送水管を登った時に付着したものだ。スカラーは近くにいなかった。
 ところが、1機のロケット宇宙船が空に見えた。アマーストが歩き始めると、キャロルが寄り添った。スカラーは丘の向こうの谷で簡単に見つかるだろう。
「あの宇宙船は何をするつもりかしら? ここには着陸できない」
「着陸するようだ」
 本当だ。宇宙船が下降してる。2※(全角KM、1-13-50)ぐらい前方で急降下した。おかしいな、今までガニメデの泥土でいどにロケットが着陸したことはなかったのにと、目を凝らせば、船体から梯子はしごが降りてきた。これこそ、スカラーがもくろんだ脱出方法だ。
 アマーストが駆けだし、水を跳ね上げ、泥穴どろあなを避けるので、なかなか進めない。キャロルも重い真空服を着て、あえぎながら、ねばねばの泥を進んだ。
 なすすべもなく、宇宙船が丘のてっぺんで隠れると、すぐ黒いしみが梯子はしごにくっついて、上がってくるのが見えた。やるせない気持ちで見上げると、赤い斑点が空高く舞い上がった。
 赤だ。赤色宇宙船はイオ所属だ。なぜなら、衛星間平和条約の調印後、衛星ごとに宇宙船の色を塗り分けたからだ。疑う余地なく、今まさに調合書類が盗まれようとしている。
 キャロルはがっくり腰を落とした。しばらくのあいだ両者は無言だった。やっと立ち上がり黙々と、クリー収集人村の方へ歩き始めた。

 ついにアマーストが尋ねた。
「キャロル、調合処理って何だ? スカラーがアイオニアン製造へ持っていったからには俺も知ってた方がよい」
「簡単よ。単なる化学変化の繰り返し、洪水が起きたあと、苔に起こるものよ。知ってるようにクリー苔の色が変わるのは空中のアンモニアが原因ね。だから、医療効果はそのためだし、また苔に含まれる内卵のためよ。父の処理方法はまさにそれ、青色の虫こぶとアンモニアを同量混ぜるのよ」
 アマーストが突然立ち止まった。
「虫こぶと言ったか、青色の虫こぶか」
「そうよ。野菜にできる生成物の名前ね。勇士アリの卵の周りにできる。ここで勇士アリを飼って、卵を粉末にして……」
 アマーストはうれしさのあまり膝を打った。
「キャロル、救われたぞ。調合処理が好都合だ」
 アマーストが手を振る先には、幽霊のようなイオが薄暗い天空にあった。
「どうして? イオにもクリー苔があるのよ」
「やつらは首尾よくクリー苔と処理方法を手に入れた。しかしアリはまだだし、これからも絶対に無理だ。勇士アリはメタンの中では生きられない。生物学で覚えている。そしてイオの大気はほとんどメタンだ」
「なぜ、生きられないの」
「なぜなら、勇士アリはアンモニア呼吸に適合しているからだ。メタンと正反対のガスだ。分からないか、アンモニアは塩基、メタンは炭化水素、酸だ」
「じゃあ、アンモニアは作れないの」
「作れるさ。でも、どこでアリを手に入れる? 勇士アリはガニメデのクリー苔の中でしか繁殖しない。アリを入手するには我々からクリー苔を買うしかないし、それでアリの卵を使い、虫こぶを作り、調合して、赤苔を青苔に転換しなければならない」
 ここでアマーストが深呼吸した。
「アリは自己繁殖しない。だから、わが社からクリー苔を買い続けて、アリを入手し、虫こぶを作り……」
「分かった、あとはいい」
 とキャロルがさえぎった。
 だがアマーストは続けた。
「そのうえ、クリー苔を青色に転換できたにしろ、たぶんできないと思うが、やつらにクリー苔を売らないから、アリも入手できない、虫こぶも、その先も手に入らないし、イオのメタンを除去し続けなければならない。そうしないと再びクリー苔が赤色に変わる。結論を考えよう。何百俵というクリー苔を真空パックして外気にさらさないようにしなければならない。製造コストが跳ね上がるから、いずれにしろ競合相手になり得ない」
「処理方法が使えないってことね。とにかく、ほっとした」
 とキャロルが安堵した
「俺もだ。ほかにもわけありだが」
「何なの、ほかのわけとは」
「スカラーの目的が結局、調合書類だけだったことさ」
「どういうこと、だけとは」
 キャロルがアマーストに向き直ったうしろには、坊主のような取引場の丸屋根があった。
「ずっと君が目的だと……」
 キャロルが片足を地面でもじもじして言った。
「ああ、それ。ええ、求められたけど拒んだの」
「でも、なぜだ? ずいぶん好きなようだったが、初めは」
 キャロルが、ゆっくり言った。
「最初はね。でもあのキスで気が変わった。荒っぽいキスで」





底本:Tidal Moon. First published in Astounding Stories, December 1938
原著者:Stanley G. Weinbaum
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翻訳:奥増夫
2024年1月30日作成
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