褐色のマオリ人がカヌーの
「立入禁止、立入禁止、島のタブーです」
カーバーは表情を変えずに見返した。顔をあげ、島を見た。
マオリ人は
「立入禁止、島のタブーです」
白人の男カーバーはちらっと見たが、何も言わなかった。マオリ人は茶色の両眼を力なく落とし、仕事に身を入れた。カーバーが陸の方にじっと見を凝らすと、マオリ人は互いに無言で意味深に
カヌーは青い寄せ波に乗り、スカート状の島に向かっていたが、進路を外れ始め、あたかも近づきたくないかのよう。
白人のカーバーが大口で叫んだ。
「マロア、進め、この茶豚、進め、聞いてるのか」
カーバーが再び島を見た。オースチン島はとうの昔から未踏じゃないが、この原住民どもは何らかの理由で恐れている。動物学者カーバーは原因を調べる気などない。
島は無人島で、最近海図に載ったばかり。前方に見えるシダ林はニュージーランドそっくり。カウリ松、フタバガキのこんもりした森と、円弧状の白い砂浜だ。
と、森と砂浜の間に黒点が動いた。カーバーの考えではキーウィだ。
カヌーを慎重に岸に寄せた。
マロアはブツブツ言い続けている。
「立入禁止です。たくさんバニップがいます」
白人のカーバーが怒鳴り声で、応じた。
「上等だ。ジェイムスン
浜辺に近づくと、キーウィは小走りで森の方へ逃げたが結局、キーウィだったかどうか……。少し変に見えたので、横眼で追った。当然キーウィに違いない。
ニュージーランド域の島々は動物相が乏しいので他にあり得ない。1種類の犬、1種類の鼠、2種類のコウモリ、これがニュージーランドの哺乳類すべてだ。
もちろん、外来種の猫や、豚やウサギが北島や中央島を我物顔に走り回っているが、この島はそうじゃない。
これらはオークランド諸島とマッコーリ島にもいないし、ましてここオースチン島はマッコーリ島と、不毛なバレニイ諸島との間にあり、孤海に隔絶し、南極端から遠く離れている。あり得ない。だから小走りの黒点はキーウィに違いない。
カヌーが接地した。
カーバーが立ち上がり一歩踏み出し、足をハッと止めたのは船尾にいたマロアがうめいたからだ。
「見てください、木、ワヒ、バニップ・ツリーです」
指差す方向をカーバーが見た。木がどうしたってんだ? 浜辺の先、縁取りはマッコーリ島やオークランド諸島にそっくり。はて、といぶかった。俺は植物学者じゃない。ハーバトンの分野だし、ハーバトンはマッコーリ島に停泊中のフォーチュン号にジェイムスン
木々が何か妙だ。遠目では巨大シダや、雲つくカウリ松に似ており、誰もそう思う。だが、近くで見ると様相が違い、偽物じゃなく本物だけど、変種というほかない。
カウリ松が本物のカウリ松じゃなく、
カーバーが顔をしかめてつぶやいた。
「変種だ。ダーウィンの隔離理論を立証しているようだ。2〜3標本を採集してハーバトンの所へ持って帰らなくちゃ」
コルが神経質そうに、
「ワヒです。すぐ帰りますか?」
カーバーが怒鳴った。
「すぐだと、今着いたばかりだ。はるばるマッコーリ島から
マロアが泣きわめいて、
「木、ワヒ、バニップです、歩く木、話す木です」
「ばか、歩いてしゃべるだと?」
カーバーが浜辺の小石をつかんで、近くの薄暗い森に投げて言った、
「それじゃ、やつらの悪態を聞こうじゃないか」
石が葉っぱとツル植物を切り裂き、バシャッと落ちたが、動きもなく音もない。いや、まったく動きがないわけじゃない。
一瞬なにか黒い小さいものがバタバタッと、陰影を描き空中高く飛び出した。スズメのように小さいが、コウモリのような皮膜の
一瞬、ぎこちなくバタバタと陽光に羽ばたき、奇妙な尾を激しく振って、再び森の暗がりに急降下、石が落ちた場所だ。甲高い野生の鳴き声だけが残った。こんなふうな、
「ウィール、ウィーイール」
「なんなんだ。2種類の
コルとマロアはそろって泣き叫んでいる。この生き物は小さすぎて
奇怪で変わっている為、ポリネシア人どもは奇妙な事態に恐れおののいている。だが、そんなものにカーバーの白人精神は影響されない。妙な不安心理など無視だ。コルとマロアの恐怖心が、まともな動物学者カーバーに影響を及ぼすことなどまったくばかげている。
カーバーが一喝。
「だまれ。あいつ
褐色人どもは恐怖の声を上げた。カーバーがバサッと切り捨てたのは、抗議、忠告、
カーバーがどら声で、
「さあ、カヌーの荷をおろせ。俺は浜をぶらついて飲料水を探す。モーソンの報告では島の北側にある」
カーバーが向うへ行くと、マロアとコルは不満タラタラ。カーバーの前方は夕暮れの太陽に照らされ、浜辺が白く伸び、左手には青い太平洋がうねり、右手には奇妙な薄暗い地帯がまどろんでいる。
妙なことに気付いたのは、植生がほとんど無限と言っていいぐらい雑多なこと、驚いたのが名前を言える木や
とにかく、離島には動植物相に固有変種が生まれる。ダーウィン進化理論の一部、隔絶という考えだ。例えば、モーリシャスのドードー、ガラパゴス
だが、首をかしげたのは独自植物で覆い尽くされた島など見たことがない。海風に吹かれ、
それにしても、モーソンのような注意深い人なら1911年のオースチン島調査で特異性を報告したろうに。報告がないばかりか、クジラ捕りですら、南極へ向かう途中時々立ち寄るのに何ら報告がない。もちろん最近捕鯨はしないから、オースチンへの
カーバーが突然狭い砂州の上に出ると、そこに水がちょろちょろ花崗岩から垂れており、ジャングルの端にあった。立ち止まり、指を濡らし、
小川の流れに沿ってシダ林に目を移すと、一瞬動くものがあった。咄嗟に、本当は今見ているものを、見ていないんじゃないかと疑って、しげしげ眺めた。
その生物はどうやら小川の縁で水を飲んでいるようだ。というのもパッと見、ひざまずいている。
凶悪な黄色の目をカーバーに向け、直立した。二足動物、小人もどき、身長わずか50。
カーバーが一目見て驚いたのは体がもじゃもじゃの灰毛でまだらに覆われ、ぴくぴく尾が動き、小さな赤い口に針のような鋭い歯があったことだ。だが、敵視するような黄色い目と、とても人間といえないような顔がちらり見え、情のかけらもない
カーバーは今まで地球の荒野に長いこと暮らしてきた。いつもとっさに反射行動をとり、考えたり
弾は葉っぱを切り裂き、生き物の鼻先をかすった。歯をむき出し
カーバーが声を出してつぶやいた。
「いったい何ものだ?」
でも熟考する余裕はなかった。長い影が差し、オレンジ色が夕暮れを警告し、
背の低いサンゴ
駆け出した。サンゴ岬の尾根まではわずか100、高緯度では太陽の沈むのがとても速いので、尾根まで暗闇が追っかけてくるように思われた。頂上に立った時、暗闇が浜辺すれすれにかかり、必死に見つめた所は、カヌーを浜に上げた地点だ。
なにかある。箱が1個、カヌー荷の一部だ。しかし、肝心のカヌーがない。
そのときカヌーが見えた。既に湾から1沖だ。マロアが船尾にかがみ、コルが帆で見え隠れしながら、カヌーは確実に北方の暗闇へ進んでいる。
とっさの行動は叫び、かつ叫ぶことだった。だが、聞こえないと分かり、故意に拳銃を3回発砲した。空へ2発撃ってもマロアが
カーバーは
真っ暗になった。空に現れたのは一風変わった天球の星座、華麗な南十字星や神秘的なマゼラン星雲だ。でも美しさには目もくれない。南天にはもう慣れっこだった。
置かれた状況を考えた。絶望というより腹立たしかった。武器はある、なくたって危険動物はいない。ここはオークランド諸島の南方に位置するちっぽけな島だし、人間を除けばニュージーランド島でも危険はない。その人間ですら、オークランド諸島やマッコーリ島や、この離れ小島のオースチン島にはいない。
マロアとコルは間違いなく怖がっていたが、ポリネシア人に迷信的な恐怖をかき立てるものはほとんどない。妙なコウモリでも、あるいは
それに、救助に関しても確実だ。もしかしたらマロアとコルが勇気を奮い起し戻ってくるかもしれない。戻らなくても、マッコーリ島のフォーチュン探検隊へ向かっているかもしれない。たとえ、やつらが本能的に向かいそうなのがまずオークランド諸島、次に自宅のあるチャタム諸島だろうが、3〜4日もすればジェイムスンが心配して、探し始めるだろう。
危険はない、心配することはない、と自分に言い聞かせた。最善なのは自分の仕事をすることだ。幸いにも腰かけている箱には昆虫標本用の青酸カリ
カーバーは
7時間50分経ち、太陽の
なぜかって。絶対に、妙な環境や一人ぼっちにされたせいじゃない。アラン・カーバーは今まで荒野の夜を何回も単独で過ごしてきた。しかし、昨夜はざわめきの為に絶えず半分目ざめた状態で、少なくとも十数回は完全に目が覚めて、不安になった。なぜだ。
理由は分かっている。夜のざわめきそのものだ。騒がしい為でもなく脅かされたわけでもなく、そうだなあ、雑多なことだ。夜が騒がしいことは知ってるし、島固有の鳥やコウモリの鳴き声も全部知っている。
でもここオースチン島の夜のざわめきは常識とかけ離れていた。奇妙で、分類不能で、本来と著しく違っており、あまつさえ絶叫ですら、どこか聞いたような旋律が入り乱れて、幻想的だった。
カーバーは肩をすくめた。明るい陽光の中、昨夜の記憶がバカげて邪悪な考えのように思われ、
腹がすいた。どこかに朝飯用の果物か、鳥がいる。この二つが選択肢だ。というのも今はネズミやコウモリや犬など他の可能性を考えるほど空腹じゃないからだ。以上がこの島の動物のすべて。
ほんとにそうか。突然思い出して、眉をひそめた。小川のほとりで歯をむいて
なお眉をひそめつつ、銃を触わり、ちらと眼をやり、発射態勢を確認した。あのマオリ人らは脅威を空想して怖がって逃げたのかもしれないが、小川のほとりの生き物を迷信のせいにすることはできない。見てしまった。さらに顔をしかめたのは前日、宵の口で見た尾のあるコウモリの記憶。どっちも、現地人の空想じゃない。
シダ林の方へとことこ歩いて行った。実際オースチン島にいくつか変種や奇形や独立種がいるとすればどうか。だろ、ますます好都合だ、フォーチュン探検隊が認められる。アラン・カーバーは動物学者として有名になるかもしれない、もしこの変わった孤立動物界を最初に報告すればだが。それにしても、妙なのはモーソンが何も言ってないばかりか、クジラ捕りもだ。
森の端でちょっと立ち止まった。奇妙な原因にハッと気づいた。マロアが木々を指差した意味がわかった。注意深く木という木に目を凝らした。本当だ。種がバラバラだ。二つとして同じ木がない。二つとして似てない。葉や、樹皮や幹がバラバラだ。二つとして同じじゃない。二つとして似ている木がない。
でもこれは不可能だ。植物学者であろうがなかろうが、不可能なことは分かる。離島ならなおさら不可能だ。離島は必然的に近親交配が避けられない。他島とは姿が違うかもしれないが、隣同志は同じで、少なくとも信じがたいほどこんな多様性はないはず。種の数は、島内で厳しい生存競争がある為、限定されるにちがいない。そうでなければならない。
カーバーが5〜6歩後ずさりして森を眺めた。本当だ。無数のシダ、松、落葉樹があるが、識別可能な100の間には二つとして似てるのがない。異なる種じゃなく同種に特定されるほど似ているのに、おそらく同属じゃない。
カーバーは不可解にうろたえて立ち尽くした。どういうことだ。種や属がこんなに不自然に多いのは何が原因か。どこかで他の種が受粉しないかぎり、どうやって無数の樹木が再生するのか。当然同じ木の花々は交配可能だが、それならばその子孫はどこだ。自然の基本原理はドングリから樫の木、カウリ
完全に途方に暮れ、浜辺に戻り、波際を歩いたが、あやうく引き込まれるところだった。森の品種は固定して動かないもの。ただし海洋風が葉っぱをかき乱す場所は別だが、カーバーの見るところ、信じられないほど雑多だ。どこにも、一本として、今まで見たどの木とも似てない。
葉っぱには、複葉、
浜辺を2ほど歩いたら、やがて猛烈にひもじくなって本来の欲求を思い出した。食べ物を植物か、動物から調達しなければならない。やれやれと思いながら、浜辺に目を向けると、鳥が騒々しくさえずりながら上下している。せいぜいカモメ属の典型だ。だがよくても、肉がかたく脂っこいから、再び摩訶不思議な森に目を向けた。
すぐ、
果物はたくさんあった。木々に大小の球形、卵形の実が
鳥たちが羽ばたいて枝で鳴いているものの、さしあたり小さすぎて弾があたりそうにない。更にまた奇妙なことに気がついた。海から離れれば離れるほど森の木々がますます変になっていく。浜沿いなら、少なくとも属でないにしろ、種を同定することはできたが、ここでは種が溶け始めている。
理由が分かって、つぶやいた。
「沿岸の植物は他島の種と交配する。しかし内陸では暴走する。全島暴走だ」
揺れる葉っぱを背景に、黒いものが動き、注意を引いた。鳥か。そうなら、周りで羽ばたいているスズメ目の小さな鳴き鳥より、はるかに大きい。拳銃を慎重に構えて撃った。
奇妙な森に、こだまが響いた。アヒルぐらいの大きさの体がドスンと落ち、長いこと奇妙な叫びをあげ、森の下草の中でしばらくバタバタもがき、静かになった。カーバーが駆け寄って、どんな獲物かと眺めた。
鳥じゃなかった。木のぼりする生き物、何かの種か、鋭く尖った爪で武装し、邪悪な針状の白い歯が小さな三角形の口にある。小型犬によく似ているが、木登り犬は想像出来かねるし、一瞬凍りついた驚くべき考えは、誰かの雑種テリア犬をうっかり撃ち殺したんじゃないか、いや少なくとも何らかの犬属だ。
だがこの生き物は犬じゃない。
小川の土手で見た場景をハッと思い出した。あれも猫がやる野生の仕草を帯びていた。どういうことだ。サルのような猫、犬のような猫とは。
すっかり空腹を忘れてしまった。しばらくして毛むくじゃらの体を拾い上げ、浜辺へ向かった。動物学者として目ざめた。ぶら下げた未分類の原始動物はもはや食料ではなく、希少標本だ。浜辺へ戻ってなすべきことはこれを保存処理すること。自分に
背後で音がしたので不意に立ち止まった。後ろを振り返り、注意深く
ここに来て初めて、次から次へと起こる不思議な現象が脅威となり始めた。カーバーは歩みを急いだ。影がするするっと背後で走った。これは空想じゃないと念じると、遠吠えのような低い押し殺した叫びが、暗い森の左翼からあがり、右翼で応じた。
カーバーはあえて走らず、経験上、恐怖心を見せれば野獣や野蛮人から攻撃されると知っていた。できるだけ早足で歩き、怪物から逃げるそぶりを見せず、ついに浜辺に着いた。ここは開けているので、少なくとも追跡者が分かる。もし、やつらが攻撃してくればだが。
でも攻撃してこなかった。植物林の方をふりかえったが何も追ってこない。だがそこにいる。箱と
現状に悩み始めた。ただ浜辺にずっと留まって、攻撃を待つわけにはいかない。早晩、寝なきゃいけない。だから次善策は一斉攻撃を誘発させ、やつらがどんな生き物か確認して、追っ払うか、皆殺しすることだ。どっちみち、弾はたっぷりある。
銃を持ち、コソコソ動く物陰に向かって発砲した。吠え声は明らかに野獣だ。吠え声が止む前に、ほかの野獣が応じた。そのときカーバーがとっさに後ずさりしたのは、やつらが突進して
数十匹が1列になって藪から砂上に飛び出してきた。息がかかるぐらいの所まで来て止まった。動物学者カーバーは悪夢に落ちた。だってほかに説明のしようがないもの。
群れはやや犬のようだった。だが、四肢はニュージーランド固有種の狩猟犬や、オーストラリアのディンゴにも似てなかった。それどころか経験上どの犬種にも、いや実を言えばどんな犬にもちっとも似てない。例外はたぶん攻撃方法がオオカミに似ていることや、低いうなり声や、よだれを垂らした口や、歯列だろう。果たしてカーバーが見たものは……
今伝えるべき事実は、オースチン島の観測すべてが、とまどうことばかり、つまり隣どうしが似てなくて、実際カーバーが圧倒的に打ちのめされたのは、この変な島に関する限り、生物や動物や植物が、二つとして種の関連がないように見えることだ。
得体のしれない群れが、ジリッ、ジリッと前進。群れの中にひときわ
後ろ脚が長く、前肢が短い。毛がなく皮膚に
そいつは声も出さず倒れた。弾が頭をぶち割った。銃弾の音が丘の間を前後にこだまし、オースチン島の東西端に達すると、群れが一斉に叫び、吠え、唸り、悲鳴をあげ、応答した。やつらは仲間の死体からパッと後ずさりしたが、やおら、
再びカーバーが発砲。跳びかかった赤眼がギャンギャン吼え、くたばった。一団はびくっと凍りつき、2匹の死体をはさんで
突然驚いたのはその時、別な叫び声が聞こえ、正体は分からないが、森の小高い断崖から発したような気がした。あたかも番人が群れをけしかけているようで、再び勢いを取り戻し、前進してきた。まさにそのとき、カーバーの肩に石が飛んできて、びしっと当たった。
カーバーがよろめいて、藪のほうを見た。投石はヒトの
また叫び声が響き渡り、カーバーの耳元を石がヒュンと通過した。このとき、パッと動くものが断崖の上に見えたので、すかさず発砲。
悲鳴が上がった。人間のような姿が葉っぱの裏側でぐらっと傾き、3下の藪にまっ逆さまに落ちた。群れが
だがカーバーには断崖から落ちた姿が何か奇妙に思えてならなかった。顔をしかめ、しばらく待ってから、野獣の群れが逃げたことを確認し、藪に潜んでないことを見極めて、落下場所に突進した。
姿はヒトだ、間違いない、いやそうか。この変な島は種がどんな姿にもなれるようだが、カーバーはさすがにその仮説にはためらった。落下物にかがんだ。敵は顔を下にしていたので、体をひっくり返し、覗き込んだ。
女だ。顔立ちは日光菩薩みたいだが、若くて愛らしく、ベネチア青銅人形のようで、柔らかい表情の中に、意識不明でも野性があった。閉じた眼は妖精のような雰囲気すら漂った。
女は白人だ。でも皮膚は日焼けして金色に近い。だがカーバーは確信した。というのも女が着ていた一枚服はヒョウのような毛皮で、なましてない為すでに硬くなって破れており、端っこから白い肌がのぞいていたからだ。
女を殺したのか。妙に不安になり、傷を探し、やっと右膝のかすり傷を見つけたが、ほとんど出血はない。銃弾のためにバランスを失い、崖から3落ちて怪我したもので、左
あわてて両腕で抱え、浜辺に向かったが、藪の中には間違いなく混成軍団がなお潜んでいる。
カーバーはからっぽ寸前の水筒をふり、女の頭を傾け、唇に水を注いだ。たちまち女が目をパチパチ、一瞬何が何だか分からない風にカーバーを見た距離、わずか30。そのとき眼を大きく見開き、恐怖というよりうろたえ、激しくカーバーの腕を振りほどき、2回起き上がろうとしたが、2回とも倒れて立ち上がれなかった。ついに仰向けになって、カーバーの顔をまじまじ見つめ続けた。
カーバーも衝撃を受けた。まぶたの下の眼を見てびっくり。意外にも、かすかに東洋的な顔立ちが感じられたというのも、眼が黄褐色だったからだ。琥珀色か、ほぼ金色か、牧羊神のような野性味だ。動物学者カーバーを見るさまは、捕われた鳥のようだが、臆病なそぶりがないわけは、腰ひもにつった
カーバーが水筒を差しだすと、女は後ずさりした。水筒を振って水のグシュグシュ音を聞かせると、恐る恐る水筒を取って、傾け、手にしずくをたらし、驚いたことにクンクン臭いをかぎ、小鼻を思いっきり広げ、上品な鼻孔をぴくぴく。しばらくして手の平をコップ代わりにして吸い、また注いで吸った。どうやら水筒から飲んだことがないらしい。
女の心が落ち着いた。動かない2匹の射殺体を見て、悲しげに低い声をあげた。立ち上がろうとしたとき、傷ついた膝が痛んだのか、カーバーに向けた奇妙な眼には、恐怖心がありあり。
女が傷の赤い血を指差し、
「コ・レ?」
と語尾を上げて聞いた。
カーバーの考えでは偶然に音感が英語に似たにすぎない。
「どこだ?」
とカーバーがニヤリ。
女は困った様子で頭を振って、
「ブルルーン、ジィイイー」
わかった。これは射撃の音と、銃弾の飛翔音を真似たものだ。カーバーが拳銃をたたいて、警告。
「魔法だ、悪い薬だぞ、おとなしくした方がいいぜ、わかるかい」
明らかに女は理解してない。
「サンビか、マオリか」
返答はなく、吊りあがった金色の眼でじっと見つめるだけ。
「それじゃ、ドイツ語を話すのか、カナカ語か、いったいぜんたい。俺は三つしか知らん。ラテン語は?」
「コ・レ?」
と女は弱々しく言って、眼が銃に釘付け。女が膝のかすり傷と、
わかった、とカーバーが冷酷に応じた。この女に銃の威力を見せても害はあるまいと思い、
「やるぞ、見てろ」
カーバーが銃をかまえたその先に見つけた最初の目標は、1本の枯れ木、サンゴ岬先端の流木から突き出ている。腕ほどの太さだが、芯まで腐っていたに違いない。というのも、樹皮を少々
「オ・オ・オウ」
と女が叫んで両耳を両手でふさいだ。横目でカーバーをちらと見て、急に立ち上がった。ひどく
女の片腕をつかみ、怒鳴った。
「駄目、行っちゃダメ。ここにいるんだ」
一瞬、女のすばしこさに驚いた。空いた手に木製ナイフを握って振りかぶってきた。すかさずその手もつかんだ。女の筋力は柔らかい鋼線のようだった。女は必死にもがいていたが、不意に屈服し、カーバーの両腕の中でおとなしく立ち尽くし、さもこう言わんばかり。
「神と争って何の役に立つ?」
カーバーは女を離し、怒鳴った。
「座れ」
女は声じゃなく仕草に従った。女は砂上でカーバーの眼前に座り、見上げる態度には一筋の恐怖、いやそれ以上に用心深さが蜂蜜色の眼にあった。
「君の仲間はどこだ?」
と、きつく
女は理解できず見つめるだけ。そこでカーバーは表現を変えた。
「じゃあ、家は?」
カーバーは眠る様子を体で真似た。
結果は同じ、ただ困ったような表情が華麗な眼に浮かんだだけだ。
「はて、どうしたもんか。名前があるだろ、名前だ、いいか、俺はアランだ、分かるか、アランだ、アランだ」
と言って、自分の胸をたたいた。
これはすぐ分かった。アラン、とそのままオウム返しでカーバーを見上げた。
だがこの女に名前をつけようとして、ことごとく失敗した。散々努力した結果は戸惑いを深めただけ。最後にまた原点に立ち戻り、住処や仲間のことを何らかの方法で知ろうと、手を変え、品を変え、考えられる限りの身ぶりをした。やっと分かったようだ。
女がよろよろ立ち上がり、悲しげな低い奇声をあげた。直ちに藪から応答があり、得体のしれない
カーバーが拳銃をサッと抜いた。すると女が苦悶するような叫び声を上げ、自分の体をカーバーの前に投げ出し、両手を広げ、あたかも銃から野獣軍団を守るかのようだった。向き合った顔はびくついているが挑戦的であり、なぜだという戸惑いもある。カーバーが女に命令して仲間を集めさせ、殺すと脅してると、非難してるかのようだ。
カーバーはじっと見つめて、ついに降参。
「分かった。なんてえ珍しい標本だ、この島にはうようよだぜ。やつらを追っ払え」
女はカーバーの手振り命令に従った。奇妙な群れが静かに視界から消え、女も渋々引き下がり、やつらについて行こうとしたが、カーバーの声で急に立ち止まった。女の態度は奇妙そのもの。一部は恐れているが、大部分はある種の強い興味を抱いているようで、動物学者カーバーの正体が全く理解できないようだ。
これはある程度カーバーにも通ずる感情であった。というのも、こんな狂ったオースチン島で白人の女に出会うなんて、確かに何か摩訶不思議だ。まるで一種、それもあらゆる種の中でたった一種、この小島世界のここだけにしか存在せず、この女はヒト科の代表であるかのよう。依然として、カーバーは女の野性味あふれる琥珀色の眼に戸惑うばかり。
またしても思い出したのは、オースチン島を横断中、同じものを二つとして見なかったことだ。この女もまた突然変異なのか、ヒト以外の変種で、偶然に完璧な人間の形になったのか。例えば砂上に投げ捨てられ横たわっている犬のような猫か。ひょっとして島で唯一のヒト科代表か、楽園でアダム以前のイブか。そう言えばアダム以前に女がいたなあと思い出した。
考え込んだ
「きみをリリスと呼ぼう」
完璧な野生と、炎のような瞳にぴったりだ。リリスとは楽園でアダム以前に存在した不思議な人物で、イブより前に造られた。
「リリス、アランとリリスだ、分かるか」
とカーバーが反復した。
女は音をなぞって身ぶりした。無言でカーバーが与えた名前を受け入れ、音が名前であるということを理解したことは、音に反応したことから明らかだ。というのも、数分後に名前を言ったら、瞬時に琥珀色の眼がカーバーに向き、なにか聞きたそうだった。
カーバーは笑って、こんがらかった考えを解きほぐしにかかった。反射的に
女が痛みに悲鳴を上げ、怖がった。直ちに得体のしれない群れが森の端から現れ、怒って吠えたので、カーバーはまたかと目まいがしてきた。だが再びリリスが落ち着きを取り戻し、声をあげて群れを押し留め、藪に戻した。女は焦げた指を吸って、大きな瞳でカーバーを見た。どうやらこの女は火を知らないらしい。
荷物の箱にアルコール
「さて、どうしたらいいもんかなあ」
と煙草をふかしながら自問。
リリスに応答の気配はない。ただ大きな目で見つめている。
「少なくともこの気違い島で、食えるものは知ってるはずだ。食べるだろ?」
と身ぶり手ぶりした。
女はすぐ分かった。立ち上がり、歩み出したその先に犬のような猫の死体が横たわり、ちょっと臭いをかいだように見えた。腰帯から木製ナイフを取り出し、片方の裸足で死体を押さえ、切り裂き、肉をえぐり出した。血がしたたる塊をカーバーに差し出し、カーバーが拒絶すると、明らかに驚いた。
女はすぐ引っ込め、カーバーの顔をちらと見てから、小さな白い歯で肉にかぶりついた。カーバーが興味を持ったのは、なんと上手に食事を行うことか、唇に一滴の血も残さない。
しかし、カーバーの空腹は満たされない。意味が伝わらないのにイライラ、ついに方法が分かった。リリス、と短く言うと、リリスがパッと見た。リリスの肉を指し示し、次に摩訶不思議な森を手でスーッと払った。
「
と言って、食べる動作をした。
またしても女がすぐ分った。不思議だ、あるものはすぐ分かる一方、簡単なことが全く分からない。妙だ、オースチン島のすべてが妙だ。やはり、リリスは本当に人間か。
女の後について森へ入りながら、盗み見る横顔には、奇怪な
女は崩れた土手を駆けあがり、奇術のように暗闇に消えたかに見えた。一瞬カーバーは警告をビビッと感じて、女の後を必死によじ登った。ここで影のように簡単に逃げられる。実際、女を拘束する権利は道義的にはないし、攻撃されてもかろうじて防げるけれども、まだ失いたくなかった、いや、たぶんこれっぽっちも。
「リリス」
と土手の頂上で叫んだ。
リリスはすぐそばに現れた。頭上にはハイネズのような奇妙な植物がのたくっており、白い緑がかった果物がなっており、大きさと形は
「パーボウ」
と言って、まずそうに鼻にしわを寄せた。
もう一つ見つけた別な果物は、妙に不格好で、指のようなこぶが繊維質の円盤から突き出ており、全体が大きな奇形の手形みたいだった。これも前例通り慎重に臭いをかぎ、それから横にいるカーバーに微笑み、
「ボウ」
と言いながら果物を差し出した。
カーバーは躊躇した。何と言っても、ほんの1時間前は俺を殺そうとした。毒果物を食べさせて、同じことをもくろむ可能性が全くないか。
女は気味の悪い球根状の果物を振って、
「ボウ」
と繰り返し、まさに俺の嫌がったのが分かるかのように、果物の指こぶを1本欠いて自分の口に入れて、カーバーを見て笑った。
「充分だ、リリス」
とカーバーは苦笑いして、残りを手にとった。
果物は見てくれよりずっとうまかった。甘酸っぱく、どこかなじみがあるものの、特定不能な味だ。でもリリスに勇気づけられ、腹いっぱい食べた。
リリスや野生軍団に出会った結果、任務をすっかり忘れてしまった。浜辺に大股で戻りながら苦々しく思い出したのは、俺がここへ来たのは動物学者としてのアラン・カーバーであって、他の役目はない。だが、どこから始めろってんだ。ここで分類、標本収集するために来たが、こんな気違い島で何をすりゃいいんだ。生物すべてが未知の変種だってのに。ここは分類が不可能だ、生物
どうせむなしい仕事にとりかかるよりも、とカーバーは考えを変えた。オースチン島のどこかに、この無秩序の秘密がある。分類に膨大な時間を費やすより、究極の鍵を探したほうがよい。島を探検しよう。
何となく考えたのは、変な火山ガスか、奇妙な放射線鉱物、つまりモーガンが実験でエックス線を生殖細胞に当てたような鉱物があるかも。あるいはほかの何かだろう。きっと何か答えがあるに違いない。
「行こう、リリス」
と命令し、西へ向かった。西の丘は東の丘よりずっと高そう。
例によっておとなしく後をついてきた女の蜂蜜色の眼は、カーバーに釘づけ、恐怖や驚きや、たぶん
動物学者カーバーはそれほど神秘性にとりつかれていなかったので、時々野生的な美貌を垣間見ることができ、一回だけ心に描いてみたのが、この女に文明服を着せた姿、赤褐色の髪の毛を、流行の小さな帽子で包んだらとか、しなやかな体に、今つけている乾いてひび割れた毛皮じゃなく上等な織物を着せたらとか、足に上品な革靴を履かせたらとか、くるぶしにシフォンをつけたらとか。
だが、カーバーは
坂へ向かった。オースチン島はオークランド島と同じように木々がうっそうとしているが、簡単に進めた。というのも密林じゃなく森のためだ。芯から狂った森だが、比較的、
影が一つちらちら、更にもう一つ。最初のは、ただのオウギバト、豪華な
午後3時前、頂上に着いた。黒い玄武岩がヌッと突き出すさまは森番の
一面の原生林を、青緑の濃い影が浜風で揺れるさまは、静かな湖面にあちこちスコールが降っているかのよう。ある種の滑空鳥が下で輪を描き、はるか向こう、盆地のど真ん中で、水面が光っている。前に行った小川に違いない。だが、どこにも、少しも、ヒトの住む気配はなく、リリスの存在証拠は、煙はおろか、広場も、何もない。
女がカーバーのひじをおずおず触り、向う側の丘を指差した。
「パーボウ」
と女がおびえて言ったが、どうやらカーバーには分らないと思ったようだ。というのも、文句を強調したからだ。上品な唇をひんまげて歯をむき出し、東を指差し、うなった。
「ル・ル・ル・ル。パーボウ、ウ・テ」
東に何か恐ろしい野獣が住んでると教えようとしているのか。カーバーにはどうにも意味が分かりかね、そう言えば今の文句は毒果物のときと同じだなあ。
カーバーは眼を細めて東側の高台をじっと見つめ、ドキッとした。何かある、対面の丘じゃなく、中央にある水面近くだ。
カーバーは腰に鳥観察用の双眼鏡をぶら下げていた。眼に当てた。見たものは、はっきりしないが土塁か建物で、ツルが巻きついて形が分からない。もしかしたら、屋根の抜けた
太陽が西へ傾いている。もう探検には遅すぎ、明日やろう。カーバーは土塁の場所を記憶して、丘をそそくさと下りた。
夕闇が近づくと、リリスが妙に東へ行きたくないそぶりを見せ始め、尻込みしたり、おどおど腕を引っ張ったりした。2回もノー、ノーと言ったので、この言葉を元々知っていたのか、俺から学習したのか、首をかしげた。確かに、思い起こせば、俺はこの言葉をよく使ったなあ、子供に使うように。
時々、リリスが果物をもいでくれたけれど、カーバーはまた腹がすいてきた。浜辺にいた大きな黒鳥、オーストラリア黒鳥を射撃して、首を引きずって持って来ると、リリスは銃撃に驚いていたが、もう抵抗なくついてきた。
カーバーは浜辺に沿って大股で箱の所まで歩いて行った。そのあたりが他所より望ましいからではなく、コルとマロアが戻ってきたり、あるいはフォーチュン号の救出隊を案内して来るかもしれないからであり、ここを最初に探すからだ。
カーバーは流木を集め、ちょうど暗くなったとき、火を付けた。
マッチに火がつき、炎が広がると、リリスが動揺して、低く、オーオーオーと恐れたのを見て苦笑い。リリスは指の
リリスが全く理解できないのは、鳥に串を差して焼き始めたこと、一方、カーバーが笑ったのは、リリスが敏感な鼻腔をぴくぴくさせて、木と肉が焦げるごちゃ混ぜの臭いを嗅いだこと。
焼きあがると、女に肉を切ってやった。新鮮、豊潤、脂たっぷりでガチョウの丸焼のようだった。女がうろたえたのを見てまた微笑んだ。女は恐る恐る食べたが、加熱で味が変わったのを不思議がった。間違いなく血の
カーバーは女の処置にまた悩んだ。失いたくないが、一晩中起きて監視もできない。荷を結んだ縄があったので、腕と足を結べないこともない。でも、どういうわけか、この考えは絶対駄目だ。あまりにも純真無垢で、疑うことを知らず、
とうとう両肩をすくめ、消えかかった炎越しに、リリスに笑いかけた。リリスはもう飛び散る火を恐れていない。
「キミ次第だ。引き留めたいけど、強制はしない」
と微笑んで言った。
リリスはカーバーの笑顔にパッと反応し、まさしく両眼に炎の色が反射していたが、何も言わなかった。カーバーは砂の上に寝そべった。砂が充分冷えていたので、砂ノミに悩まされることなく、しばらくして眠った。
眠りは結果的に切れ切れだった。夜のざわめきが荒々しく合唱し、またしても奇妙さに心乱され、目が覚めると、リリスが消えかかる残り火をじっと見つめていた。そのあと少し経ってまた目が覚めた。今度は火が完全に消えて、リリスが立っている。黙って見ていると、森に向かった。残念だ。リリスが去っていく。
だが、止まった。何か黒いものにかがみこんでいる。射殺された動物の死体だ。見ていると、死体を持ち上げようとモタモタして、重すぎたのか引きずって、やっとサンゴ岬まで運び、海に転がした。
ゆっくり戻ってきて、今度は小さいほうの死体を腕に抱え、同じことを繰り返し、長いこと暗い海に向かって立ち尽くした。再び戻って来て、しばらく月を見上げる両眼に、涙が光ってるのが見えた。葬儀を見てしまった。
黙って女を見ていた。女が腰を下ろした所は黒い灰のあたり、眠りはいらないようだ。あまりにもじっと心配そうに東を見るので、カーバーは不吉な予感がした。カーバーがまさに起き上がって座ろうとしたとき、リリスが長い思案の末決断したのか、不意に立ち上がり、砂上を森へ駆けだした。
びっくりして暗い森をじっと見つめると、森から以前聞いたことのある奇妙な声が聞こえた。耳を澄ますと、確かに木々の中から重苦しい叫び声が聞こえた。女が群れを呼び寄せている。カーバーはそっとホルダーから拳銃を抜き、片ひじで半身に構えた。
リリスがまた現れた。うしろには影の隠者が、暗い森に野生の姿を隠している。カーバーは拳銃をしっかと握った。
だが、攻撃してこなかった。女が低い声で、何事か命令を下すと、隠者が消え、やがて女は単独で戻ってきて、元の砂の上に座った。
女がちらっとカーバーを見たとき、動物学者カーバーは月明かりに映える女の青白い顔を垣間見た気がして、寝たふりをしていると、しばらくしてリリスも寝る準備にかかった。女の不安が顔から消え、穏やかになり、信頼しきっている。にわかに理由が分かった。軍団に防衛させている。どんな敵が東から襲おうと……
夜が明けてカーバーが目覚めた。リリスの寝姿は砂に身体を丸めた子供のよう。しばらく立ち尽くして眺めた。じつにかわいくて、いま黄褐色の眼を閉じているから神秘的でもなく、島の精霊でも、妖精でもなく、単にかわいらしい野生の女だ。
だが、分かっているのは、いや引っかかっているのだが、オースチン島が狂っているという事実。もし恐れていることが真実なら、カーバーが恋に落ちようとしているのは、ひょっとしてスフィンクスか、人魚か、女ケンタウロスか、それらと同じたぐいのリリスだ。
カーバーは覚悟を決め、ぶっきらぼうに言った。
「リリス」
リリスが驚いて起きた。一瞬びっくりしてカーバーを見たが、思いだし、安堵して、苦笑いした。こんな微苦笑をされると、恐れていたことを忘れかねない。だって、とても美しく、人間らしいもの。ただし野生的な炎色の眼は別だ。さらにそんなものは妄想にすぎないのではないかとさえ思われた。
リリスはカーバーの後について森へはいった。野獣の護衛は見えなかったが、近くにいると踏んだ。朝食はまた、無限にある果物の中から、リリスが敏感な鼻で正確に選んでくれた。カーバーが興味深く思ったのは、このおかしな島では臭いが生物の属を確認する手段らしい。
臭いはもともと化学物質だ。化学物質の違いは内分泌の違いであり、後者は最近の研究によれば、種の違いに関係しているとか。例えば猫と犬の違いは、とどのつまり内分泌の違いだ。こんな考えに顔をしかめ、リリスをまじまじ見つめたが、たとえ凝視しようとも、まさしく超かわいい小さな野蛮人としか言いようがなかった。ただし眼は別だが……
小川に沿って、島の東側の
小川の土手でリリスがぐずり始めた。カーバーの腕をつかみ、後ろへ引っ張って、
「ノーノーノー」
と繰り返し叫びながら、怖がった。
イライラしながら、どうしたかと女をちらり見ると、昨日の文句を繰り返すではないか。
「ウ・テ、ウ・テ」
と心配げに、怖がって言っている。
「おう、それを聞いちゃ、小鳥一羽でも大砲を……」
とぶつぶつ言って、小川に沿って森へはいって行った。
リリスが後ずさり。そこから先に行けなくなってしまった。カーバーは一瞬立ち止まり、後ろを振り返って女の
「アラン、アーラン」
カーバーが振り返り、驚いたのは、俺の名前を覚えていたのと、こっちへ駆けてきたことだ。リリスは青ざめて怖がっていたが、カーバーを単独で行かせない決意だ。
だが、島のこの領域がほかより危険な兆候は何もない。同じく狂ったように植物が乱立し、同じく葉っぱや果物や花々は分類不能。ただそう思えたのだが、それにしても鳥が少ない。
あることで歩みが遅くなった。時々、小川の東側土手がこっち側より開けているように見えるのに、リリスが頑として向う側へ渡らせない。渡ろうとすると腕に必死にしがみつくので、ついに譲歩して、こっち側の土手をのろのろ、下草をかき分けて進んだ。あたかも水路が分割線のよう、つまり最前線か、国境なのかなあ。
お昼ごろ着いたところは、まさしくカーバーが思っていた場所近辺だ。小川沿いにかかる木々のトンネルを覗くと、その先に、茂りすぎて、森と完全に融合している物体が見えた。
小屋、いや残骸だ。丸太壁はまだ残っているが、屋根はたぶん草ぶきだったろうから、とうに崩落している。だが、カーバーをまず驚かせたのは確かな証拠、つまり、造り、窓の開口、戸口が原住民の小屋じゃないことだ。おそらく白人の小屋で、3部屋あっただろう。
残骸は東側の土手に立っていた。この辺りは川幅がせせらぎ程度に狭く、ジャージャー音を立てながら溜り場から小さな早瀬へ流れている。リリスの苦しそうな声を無視して、飛び越えた。
だが、リリスの顔をちらと見て立ち止まった。蜂蜜色の大きな目が恐怖でまん丸くなり、唇をキッと閉じ、思いつめた様子。その姿はまるで古代の殉教者がライオンと戦う出陣式のようで、意を決し川を渡り、カーバーの所へ来た。こう言っているかのようだ。
「あなたが死ぬつもりなら、私もそばで死ぬ」
ぼろぼろの廃屋には怖いものなどなかった。そればかりか動物すらいない。ただし、入ったとき小さな鼠のようなものが丸太の間をコソコソした。草ぼうぼうでシダが生い茂る内部を見渡すと、朽ちた家具の残骸やゴミが積もっていた。もう何年もヒトが住んでいない、少なくとも10年以上は。
足に何か当たった。下を見ると人間の頭蓋骨、草の上には大腿骨が、それにほかの骨も、どれ一つとして正常な位置にない。この住人は寝床で死んで、ベッドが朽ちて、引きずり出され、そうだなあ、何ものかが、人間の死肉で宴会をしたのだろう。
わきのリリスを見たが、じっと東の方を見て、ただ怖がっている。骨には気づかず、いや、たとえ気づいても、何の意味もないのだろう。カーバーが骨のあたりを恐る恐るつついて、遺体の身元に何か手掛かりがないか探したが、腐食した
ガラクタが数センチ、土に埋まっている。むかし食器棚だったと思われる残骸を蹴りあげると、何か固くて丸いものに当たった。今度は頭蓋骨でなく、普通のビンだった。
拾い上げた。密封され、中に何かはいっている。蓋が長年の腐食によってビッタリくっついていたので、丸太壁に投げつけて、ビンを割った。破片から拾い上げた手帳は時を経て黄ばみ、もろくなっている。手の中で数十枚がぼろぼろ崩れ、クソッとののしったが、残りは大丈夫なようだ。丸太に座り込んで、ほとんど消えかかった文字に目を通した。
日付と名前がある。名前はエンブローズ・キャラン、日付は1921年10月25日だ。顔をしかめた。1921年か、そうだなあ、15年前、俺は小学生だ。当時エンブローズ・キャランという名前は知れ渡っていた。
薄れた文章を更に読み進み、じっくり行間を吟味した。当時、英雄だった。キャラン探検隊のことはよく覚えている。なぜなら、少年の常として、
でもモーガンが造り出した新種はショウジョウバエだけだし、生殖細胞に硬エックス線を当てた結果だ。だがこの気違い島のオースチン島はそんなもんじゃない。緊張して怖がっているリリスを盗み見て、ぞっとした。だってあまりにもかわいい人間だもの。ぼろぼろのページに眼を転じ、読み継いでいくと、ついに秘密に近づいた。
そのとき、リリスが突然恐怖の声をあげたのでびっくり。
「ウ・テ、アラン、ウ・テ」
と叫んでいる
身振りの先には、何も見えない。リリスの視力は間違いなくカーバーよりずっといい、もうそこにいる。午後遅い森の藪に、何かが動いている。
一瞬はっきり見えたのは、敵意むき出しのネコ目のような小人、かつて小川で水を飲んでいた恐ろしい生き物のようだ。ようだって、いや、同じ種族に違いない。だって、ここオースチン島では生き物は互いに似ないばかりか、そうなり得ないもの、万が一の偶然を除き。
カーバーが銃を抜く寸前に生き物は消えたが、藪の中に仲間が潜んでおり、その眼には非人間的な知性がギラギラ光っているように思えた。発砲したら、奇妙なわめき声が戻ってきて、しばらく引き下がったようにみえた。だが、再びやってきた。カーバーは悪魔の大群を目にしても、驚かなかった。
手帳をポケットに突っ込んで、リリスの腕をつかんだ。恐怖で身がすくんだかのように突っ立っていたからだ。扉のない出入り口を飛び出し、狭い小川を飛び越えた。女は追跡してくるやつらを見て、半分催眠にかかり、ぼうっとしている。恐怖のため眼を大きく見開き、カーバーの後をうつろに歩いている。カーバーが藪にもう1発、発砲。
それでリリスが目を覚ましたようだ。
「ウ・テ」
とつぶやいて勇気を奮い立たせ、奇妙な声を発すると、どこかで応答があり、ずっと離れたところで再び応答があった。
軍団がリリスを守るために集まってきた。カーバーは自分の立場が急に分かった。敵同士なら、俺はつかまらないのでは?
小川沿いに退却したこの事件は決して忘れられない。ひたすら心を乱し、思い出しかねないもの、それは遭遇した荒々しい戦闘といい、この世と思われない叫びといい、死をも恐れぬ異常な結束といい、狂った奇形の捨て猫と戦う生き物の姿だ。
リリスの防衛軍団が介入しなければ、たちまち殺されたかもしれない。軍団は藪からひそかに飛び出し、獣声で低く吠え、カーバーらを慎重に取り囲み、敵には容赦しなかった。
今までほとんど忘れていたことを思いだした、いや感じた。形や外観がどうだろうが、リリスの軍団は犬のようだ。顔じゃない、顔はずっとかけ離れている。性質と特徴がそういうことだ。
一方、敵は悪夢のような野獣だが、何か猫のようだ。外観はほかの動物そのものだが、性質と行動が猫だ。例えば戦い方、ほとんど声を出さず、
でも、やつらの性質、つまり猫らしさが外観の下に隠れている。というのも、体型は小川で見た半・人間の小悪魔で、頭は
カーバーの銃が役立った。敵を見たらすかさず発砲、でもそれほど頻繁じゃない。だが時たま撃ち殺すから、敵には充分こたえるようだ。
リリスは石と木製ナイフ以外に武器がないから、ただカーバーの脇にぴったりくっつき、ゆっくり浜辺へ後退した。じれったいほどゆっくりだ。カーバーが心配になり始めたのは暗闇が東の方へ伸び始めたこと、あたかも夜が世界の半分を包み、歓迎しているかのよう。夜になれば、殺される。
もし浜辺に到達できたら、もしリリスの軍団がやつらを釘づけにして、カーバーが火を燃やせば、生き残れるかもしれない。だが、リリスの同盟軍は次第に圧倒されてきた。絶望的なぐらい数不足だ。急激に殺され、一匹ずつ倒れ、まるで氷が急速に解けるように減っていった。
カーバーもよろよろと、橙色の太陽に向かって後退した。浜辺だ。太陽は既にサンゴ岬にかかっており、暗闇は時間の問題、数分だ。
藪から出てきたリリス軍団の敗残兵が6匹、何ともいいようがなく、歯をむいて唸り、血まみれで、ハアハアあえぎ、消耗しきっている。一瞬、敵が攻撃しなくなった。猫・悪魔が藪に隠れた為だ。カーバーはさらに後退し、自分の影がつかの間の薄暮で長く伸び、あたり一帯が夜になった時、死を予感した。ちょうどリリスをサンゴ岬まで引っ張ってきたとき、さっと暗くなった。
まさに突撃しようとしているのが見えた。気味の悪い敵が森の暗闇を出た。
カーバーはこいつを標的に選んだ。銃を発射した。吠え声が断末魔のうめき声になり、一団が突撃してきた。
リリス軍団が背を丸めたので、これで終わりか。カーバーが発砲。やつらが跳ねながら突撃。弾が空っぽになった。充填する暇はない。銃を逆さに持ち、こん棒にして殴った。リリスは横で緊張しまくりだ。
そのとき突撃が止んだ。一斉に、あたかも命令されたかのように敵が動かなくなり、静かになった。ただし、砂の上で死にかかっている奴は低くうなっている。やつらは再び動き出し、森の方へ去っていくではないか。
ほっとした。森の壁にかすかにちらちら光が反射するのが見えたので、駆け出した。本物だ。浜辺の下方、荷物箱のところで、火が燃えている。そして、明かりに照らされ、暗闇でこっちを向き、突っ立っている物体は人間の姿だ。
敵は未知なる火を怖がって、攻撃を止めた。カーバーは凝視した。海上には西方のかすかな明かりに、真っ黒いなじみの船影があった。フォーチュン号だ。仲間の男たちがいる。発砲音を聞いて、道案内に火を焚いてくれた。
カーバーが声を振り絞って、
「リリス、あれを見ろ、来い」
だが、女は後ろへ止まったままだ。軍団の残兵はサンゴ岬の陰に隠れて、怖い火から離れている。リリスはもう火を恐れてないが、黒い軍団は別だ。だからアラン・カーバーは人生の中で最も難しい決断に直面したことを悟った。
リリスをここに置いていくこともできる。ついて来ないと分かっている。蜂蜜色の眼に悲しみの兆しが見えた。そうすることが紛れもなく最善だ。だって、この女とは結婚できないもの。今まで誰とも結婚してないだろうし、もし男の中につれて行ったら、あまりにかわいすぎるために、カーバーが恋に落ちたように、誰かが恋に落ちるだろう。
しかしカーバーの心に、ある情景がハッと浮かび、ちょっと身震いした。子供だ。果たしてリリスはどんな子供を生むのやら。誰も敢えて結婚すまい、だってリリスもオースチン島の呪いにかかっているからだ。
カーバーは
「おいで、リリス。みんな結婚して、子供がなくても、暮らして、死んでいく。我々もできるよ」
フォーチュン号は青い大波に乗って、北方のニュージーランドへ向かった。カーバーは甲板の椅子で手足を伸ばしてニタニタ。ハーバトンはまだ残念そうに、緑の線になったオースチン島を眺めている。
カーバーがからかった。
「元気出せよ、ハーバトン。百年かかってもあそこの植物相は分類できないぜ。出来たって、何の役に立つ。どっちみち、一つしかない」
ハーバトンが応じた。
「今畜生め、やりやがって。3日もいい目を見やがって。マロアの腕を撃ってなければ、もっとおれたのに。弾が腕に当たらなければ、やつらはチャタム諸島の自宅へ戻っていた。治療しにマッコーリ島へ寄ったんだ」
「運がよかったぜ。それにキミらの
「猫だって、ええ? アラン、もう一度言ってくれないか。ばかばかし過ぎて分からん」
アラン・カーバーがニヤリ、
「いいとも。俺の言うことをちゃんと聞けばわかるぜ。ざっくばらんに言えば最初、これっぽちも考えてなかった。島全体が異常だ。二つとして生き物が似てない。たった一属、ましては未知の属だ。手がかり一つない。そのあと、リリスに出会った。リリスは臭いで違いが分かる。臭いで毒・果物か、食べられるか分かる。俺が最初に撃ち殺した猫動物も臭いで分かった。敵だから食べた。でも射殺された犬動物軍団は食べようとしなかった」
「だからなんだ」
とハーバトンが眉にしわを寄せて聞いた。
「ああ、臭いは化学ということだ。外見よりずっと根源的な訳は、器官の化学作用が内分泌に左右されるからだ。まさにそのとき考えついたことは、オースチン島の生物すべて、基本性質がどこも同じってことだ。変化したのは性質じゃなく、外見だけだ。わかるか」
「ちっとも」
「そのうちわかるぜ。もちろん染色体は知ってるだろ。遺伝の
「トマトもそうだ」
「ああ。でもトマトの48本の染色体が運ぶのは、異なる遺伝形質だ。さもなきゃ、ヒトとトマトが交配しかねない。本題に戻ると、個々の変化の原因はすべて、決定遺伝子を乗せたこれら48本を乱雑に混ぜ合わせるからだ。それでも出現可能な変種は極めて限られるぜ。たとえば、眼の色の遺伝子は第3染色体に乗っている。仮定として、青眼遺伝子じゃなく茶眼遺伝子を2つ持っているとしよう。その子供は、男の子であろうが女の子であろうが、親の染色体をもらうから、茶眼になる確率は2対1だ。ただし、配偶者に特定のマイナス要因がない場合だ。わかるかい」
「全部わかるさ。エンブローズ・キャランと手帳の話をしてくれ」
「いま行くぜ。さあ思い出せよ。これら決定因子が遺伝形質をすべて運ぶ。形、大きさ、知能、性質、色などなんでもだ。ヒト、いや植物、動物でも膨大に変化でき、遺伝子と決定因子を持つ48本の染色体は混ざり合うことができる。でも無限じゃない。限りがある。大きさ、色、知性にも限りがある。たとえば、青色毛髪の人間は誰も見たことがないぜ」
「誰も欲しくないよ」
とハーバトンが、ぶつくさ。
カーバーが続けた。
「それはヒトの染色体に青色毛髪の決定因子がないからだ。しかし、ここがキャランの考えだが、卵子の染色体数を増やしたとしたら、どうなる? もし、ヒトやトマトが48本でなく480本あるとすれば、変種の数は今より10倍広がるぜ。例えば身長だ。今は80ぐらいしか変動幅がないけれど、8ぐらい上下する。形もだ。ヒトが何にでも似てしまう。つまり哺乳類
ここでカーバーが考え込んで一息ついた。
ハーバトンが割り込んだ。
「でも、キャランはどうやって余分な染色体を追加する芸当ができたんだい。染色体は非常に小さいし、遺伝子はかろうじて最高倍率の顕微鏡で見えるが、決定因子は誰も見たことがないよ」
カーバーが真面目に答えた。
「さあな。手帳の一部がぼろぼろで、その
不意にカーバーが
「キャランは放射線と注射を組み合わせて使ったんじゃないかと思うが、どうかな。分かってるのは妻を伴い、オースチン島に4〜5年いたということだ。この部分は手帳で明らかだ。つまり、処理し始めたのが、小屋近くの植物と、連れてきた数匹の猫と犬だ。そのあと、病気のように広がったと書いてある」
「広がったって?」
とハーバトンがオウム返し。
「当然さ。キャランの処理した木々が、風で多重染色体の花粉をまき散らした。猫についてもだ。とにかく、異常な花粉が普通の種に受粉し、その結果べつな変種を造る。片親からは正常な数の染色体と、もう片親からは10倍も多い染色体を受け継ぐ。変化は終わりがない。カウリ松や木生シダの成長は早いだろ。それより10倍も成長が速くなるんだぜ。変種が島内を暴走して、普通の植物を制圧したんだ。それに、キャランの放射線と、おそらく注射も、オースチン島の固有種のネズミやコウモリにも影響を与えた。突然変異し始めた。キャランは1918年に来たが、自己崩壊を察知し始めたころに、オースチン島は異質な島になっていたんだ。つまり子供が親に全く似てない。わずかな機会を除いてな」
「自己崩壊って、どういうことだ?」
「さあな、キャランは生物学者で、放射線の専門家じゃない。何が起こったかは正確に分からん。エックス線に長時間さらすと火傷や潰瘍や悪性腫瘍ができる。おそらくキャランは装置を適正に
「ところで、リリスはどうなんだよ」
カーバーが真面目に答えた。
「そうだ。リリスはどうなんだ。オースチン島の秘密を探り始めたとき、悩んだ。リリスは本当に人間なのか。リリスも同じ様に突然変異のけがれにおかされているんじゃないか、だからリリスの子供は猫の子みたいに大変異するんじゃないか。言葉を何一つ話さないし、そう思っていたが、とにかく、腑に落ちなかった。だが、キャランの日記と手帳でわかった」
「どう?」
「リリスは帆船の船長の娘だった。サンゴ岬で難破したときキャランが救助した。当時5歳だったから、いま20歳だ。言葉についてはそうだなあ、たどたどしい単語を俺が理解すればよかったのだが……。例えばコ・レはコメント、つまり、どうやってという意味。それにパーボウは単純にパ・ボン、よくないということ。これは毒・果物で言った。ウ・テは猫。どっかで覚えていたか、感じてたんだ。東から攻めてくる生き物が猫だと。リリスは15年間、犬生物を従え、犬生物は、姿は犬じゃないけれども結局もともと犬だから、女主人に忠実だ。そして、二つの群れはずっと闘争をしてきたのさ」
「しかし、リリスが、けがれてないのは確かか」
カーバーが物思いにふけって、
「名前はルチエンだが、俺はリリスの方が好きだな」
カーバーは
女はジェイムスンのズボンとカーバーのシャツを着ている。
カーバーが船尾に立ち、オースチン島を振り向き眺めながら、
「ああ、確かだよ。島でルチエンを救出した時、キャランが既に装置を壊していた。この装置が妻を殺し、自分も死にかかっていた。キャランは装置を完全に破壊した。時がたてば自分が造った変種は消える運命だと知っていたのさ」
「消える運命だって?」
「そうだ。正当な品種であれば、進化することで鍛えられ、更に強くなる。もうすでに島の端々で現れている。いつの日にか、ほかの離れ小島と変わらないことをさらけ出すぜ。自然は常に自ら回復する」
完