ゼロの輪廻

THE CIRCLE OF ZERO

怪奇シリーズその5

スタンリイ・G・ワインバウム Stanley G. Weinbaum

奥増夫訳




第1章 永遠への挑戦


 たとえば高さ1600※(全角キロ、1-13-33)※(全角メートル、1-13-35)の山があって、何千年にもわたり、1羽の鳥が飛び越えるたびに、羽先でちょっと頂上をこするだけでも、途方もない時をかければ、山は擦り切れてしまうだろう。だがその時間ですら永遠の長さに比べれば、ほんの1秒にもならない。

 これにどんな哲学命題が込められているのか知らないが、この言葉で絶えず思い出すのは以前出会ったオーロラ・ディニン先生、かつてのチュレーン大学心理学教授だ。1924年当時、教授の異常心理学を専攻した唯一の理由は、とにかく火曜日と木曜日の11時に講座を受けて、つまらん学科を終了する必要があったからだ。
 俺は陽気なジャック・アンダーズ22歳、これでわけが充分わかろうというもの。少なくとも確かなのは黒髪のかわいい娘のイヴォン・ディニンとは全く関係ない。だって、やせっぽちの16歳、子供だもの。
 老ディニン先生が俺をひいきにした理由は知らないが、出来がとても悪かったからか。たぶん目の前で先生のあだ名を決して言わなかったからだろう。オーロラ・ディニンを翻訳すれば、“無の夜明け”だろ。想像できようというもの、学生らがあだ名をつけるさまが。“昇るゼロ”とか“空っぽ朝”とか。まあ、軽いほうのあだ名だが。
 1924年はそんな年だった。それから5年後、俺はニューヨークで証券営業マンになり、オーロラ・ディニン先生は退官した。これを知ったのは電話で呼び出された時だ。なにしろ大学とは音信不通だったから。
 先生はつましい人だ。充分な貯えを持って、ニューヨークへ移住して来た。そのとき再び娘のイヴォンを見て驚いたのなんの、神秘的なほど美しく変身し、タナグラ人形さながら。俺は結構うまくいっていたので、金を貯めたあかつきにはイヴォンと……
 少なくとも1929年の8月はそんな状況だった。同年の10月になると、大恐慌による株価暴落のため、俺はすってんてんになり、老ディニン先生はちょっとばかりの貯えが残った。俺は若かったから笑い飛ばせたが、先生は歳を取っていたので苦境に追い込まれた。実際、イヴォンと俺の将来を考えた時、ちっとも笑えないけれども、先生のように深刻には考えていなかった。

 思い出すのはある晩、先生が“ゼロの輪廻りんね”という課題を切り出したときだ。暴風雨の秋夜しゅうや、先生のあごひげが淡いランプに揺れるさまは、ひとすじの霧のよう。イヴォンと俺は夜遅くまで居た。芝居見物は金がかかるので、イヴォンは俺が父と語り合うのを喜んでいるようだった。やはり、先生は隠居には早かった。
 イヴォンは長椅子で、父の隣に座っていた。突然、先生が節くれだった指を俺に突き出し、こう切り出した。
「幸せはカネ次第だ」
 俺はびっくりして相槌あいづちをうった。
「ええ、役立ちますね」
 先生の淡い碧眼へきがんがギラリ輝き、絞り出すように言った。
かねを取り戻さんといかん」
「方法は?」
「へへへ、わかっとる、そう、方法だ。皆はわしが狂ってると言う。キミもそう思っとる。イヴォンですらそう思っとる」
 イヴォンがやさしく、たしなめるように言った。
「お父さんたら」
「だがわしゃ狂っとらんぞ。キミやイヴォンや、大学に在籍の馬鹿どもは皆そう思っとる。だがわしゃ狂っとらん」
「市況がすぐ良くならなくても全然大丈夫ですよ」
 と俺は小声で応じた。老先生の癇癪かんしゃくには慣れっこだった。
 先生が冷静になった。
「だんだんよくなるぞ。かねだよ。かねの為なら何でもするだろ、アンダーズ君」
「なんでも正直ですね」
「そうだ、なんでも正直だ。時間も正直じゃないか? 時間は正直な詐欺師さぎしだ。万人からすべてを持ち去り、藻屑もくずに変える。時間をだます方法を説明しよう」
 こう言って、俺の困惑した顔を覗き込んだ。
「だますって……」
「そうだ、いいかジャック。いままで見知らぬ土地へ行って、前に来た感じになったことはないか。旅をして、いつかどこかで出会った気はしないか。行ってもいないのに」
「そうですね。誰でもそうですよ。現世記憶とバーグソンは言ってます」
「バーグソンは馬鹿もんだ。非科学的な哲学だ。いいか、確率の法則は聞いたことないか」
 と先生が言って、身を乗り出した。
「ははは、私の仕事は株式と債券ですよ。当然知ってます」
「そうか。でもそれだけじゃ不十分だ。たとえば100けい個の白砂と1個の黒砂が入ったたるがあるとしよう。このたるから1粒ずつ取り出して同じたるに戻すとする。黒砂を引き当てる確率はいくらだ?」
100けいに1つです」
「もし半分の50けい、砂粒をつかんだら?」
「そのときは5割になります」
「そうだ。要するに、長い時間をかければ、たとえ砂粒を元の樽に戻してつかみ直しても、いつかは1個の黒砂を引き当てる。とても長い時間がかかるけどな」
「そうですね」
「フフフ、永遠にやるとしたら?」
「ええっ?」
「分からんか、ジャック。永遠なら確率の法則が完璧に当てはまる。永遠なら早晩、あらゆる可能な事象の組合せが起こらねばならない。組合せが可能なら、そうならなければならない。従って、こうだ。永遠においては、起こるものはすべて起こる」
 先生の碧眼へきがんが青く輝いた。
 俺はちょっとぼーっとなってつぶやいた。
「そうかもしれませんね」
「そうとも、もちろん正しい。数学は絶対正しい。さあ、結論はなんだ?」
「ええと、遅かれ早かれあらゆるものが起こるってことです」
「バカ、真実は未来が永遠だってことだ。つまり時間に終わりは無いってことだ。だが、フラマリオンは死の直前、過去も永遠だと言った。だから、未来においてあらゆる可能生が必然ということは、過去において既にあらゆることが起こったに違いないということだ」
 俺は口あんぐり。
「ちょっと、分かりませんが……」
 先生が舌打ちした。
「ばかもの。アインシュタインによれば、空間ばかりか時間も曲がっとる。いうなれば、何千年という膨大な時を隔てて、必然性の故に、同じことを繰り返す。確率の法則では時間が充分与えられれば、必ずそうなる。過去と未来が同じことの理由は、これから起こりうることはすべて、とうの過去に起こったに違いないからだ。キミ、この簡単な論理についてこれるか」
「もちろんです。でも、それが何か?」
かねだよ、我々のかねだ」
「何ですって?」
「いいか。口をはさむなよ。過去においてはな、原子と状態の、組合せ可能なものはすべて起こっていなければならない」
 ここで一息入れてから、節くれだった指を俺に向けた。
「ジャック・アンダーズ君よ、キミは原子と状態とが可能的に結合した代物しろものだ。可能なわけは、この瞬間にキミが存在しているからじゃ」
「つまり、過去に私が存在したと?」
「物分かりがいいな。そうだ。過去に存在したし、未来もだ」
輪廻りんね転生てんせいですか。にせ科学ですよ」
 と言って、俺は息をのんだ。
 先生はあたかも集中するかのように眉間みけんにしわを寄せた。
「そうか? 詩人のロバート・バーンズはリンゴの木の下に埋葬された。死後何年かして、ウエストミンスター寺院の偉人列に改葬されるために掘り起こされたが、そのとき何が見つかったか知ってるか。どうだ?」
「あいにくですが、知りせん」
「根っこだ。大きな根っこは頭、分岐の根っこは腕や足、小さい根っこは手指や足指の成り代わりだ。リンゴの木がボビー・バーンズを食べたんだ。じゃあ、リンゴの実を食べたのは誰だ?」
「誰が、何をですか」
「まさに、誰が何をだ。かつてバーンズだった物質がスコットランド農民や子供の腹に収まり、葉っぱを食べた芋虫いもむしの体になり、蝶々になり、森の鳥に食べられた。ボビー・バーンズはどこへ行ったんだ? 輪廻転生、だろ。輪廻転生じゃないか」
「そうですが、おっしゃることは僕のことじゃない。バーンズの遺体は生き続けているかもしれませんが、何千ものいろんな中にでしょう」
「ああ。永遠の未来のいつか、確率の法則によって別な星雲が造られ、別な太陽が生まれ、別な地球ができたとき、散乱原子群がもう1人のボビー・バーンズを再合成する確率はないか」
「途方もない確率です。1兆の1兆に1つですよ」
「でも永遠だぞ、ジャック。永遠では何兆分の1の確率が起こる、起こらねばならない」
 参った。俺はイヴォンの色白で愛らしい顔をじっと見つめてから、オーロラ・ディニン老先生のきらきら輝く瞳を見た。
 俺は長い溜息をついた。
「おっしゃる通りです。でもそれがどうしたっていうんですか。まだ1929年だし、我々の金は、どん底の株式市場に塩漬けです」
 先生が絞り出すようにうめいた。
かねだ。分からんか? 物心ついてからの記憶は既に昔に起こっているから、はるか永遠の未来から見た記憶になる。それを正確に思い出せたらなあ。でも方法はある」
 突然、先生の声が叫び声になった。
「そうだ、方法がある」
 こわい目で俺をにらみつけたので、老先生に調子を合わせざるを得ない。
「前世の記憶を思い出す方法ですか。未来を知るために」
 先生がひどいしわがれ声になった。
「そうだ。生まれ変わりだ。リーインカーネーションというのはラテン語で“カーネーションの中にあるものによって”という意味だが、ここではカーネーションじゃなくリンゴの木だ。カーネーションは学名ダイアンサス・キャリフォラスだ。ホッテントット族が先祖の墓に植えた花で、そこから“未然に防ぐ”という意味になった。もしもカーネーションがリンゴの木に実ったら……」
 イヴォンがさっと割り込んで、おだやかに言った。
「おとうさん、おつかれですよ。さあ、寝室へ行きましょう」
 先生がしわがれ声で応じた。
「ああ、カーネーションのベッドへ」

第2章 過去の記憶


 幾晩か経て、オーロラ・ディニン先生が同じ命題を蒸し返した。さすがに頭は明晰めいせきで、言い残したところを突然言い出した。
「だから何千年の大過去に1929年があり、2人の馬鹿もの、アンダーズとディニンがおって、有り金を皮肉にも安全という有価証券に投資した。ふざけた大恐慌が発生し、2人の金はゼロになった」
 先生が上の空で俺を横目で見た。
「もしも思いだしたら良くないか。そうだなあ、1929年12月から、翌年の1930年6月までだ。そしたら金を取り戻せるぞ」
 不意に声色が哀れっぽくなった。
 俺も同調した。
「思い出せればね」
「できるぞ、できるぞ」
「どうやって?」
 先生の声がヒソヒソ声になった。
「催眠術だよ。ジャック、キミはわしから異常心理学を学んだんじゃないか。わしゃ、覚えとるぞ」
 俺は反論した。
「でも催眠術ですよ。精神科医は治療で使いますが、前世とかそんなものは誰も思い出しませんよ」
「ああ、やつらは馬鹿どもだ。医者といい、精神科医といい。いいか、習った催眠の3段階を言えるか」
「ええ、夢遊むゆう昏睡こんすい硬直こうちょくです」
「その通り。第1段階では被験者が話し、質問に答える。第2段階では深い眠りに入る。第3段階の硬直ではカチカチになって2脚間に橋渡して、体の上に乗ることができる。これはくだらん」
「よく覚えています。それで?」
 先生がニヤリと笑った。
「第2段階では被験者は今まで自分の人生で起こった事をすべて思い出す。潜在意識が優越しているから忘れない。いいかな?」
「そう教わりました」
 先生が身を大きく前に乗りだした。
「第2段階の昏睡では、わしの理論によると、被験者はもう1つの別な人生で起こった事をすべて思い出す。つまり未来だ」
「はあ? じゃあ、なぜ誰も思い出せないのですか」
「眠っているときは覚えているが、目覚めたとき忘れるんじゃ。それが理由じゃ。でも正しい訓練をすれば、思い出せるようになる」
「それを先生がなさるおつもり?」
「わしじゃない。わしゃ、経済のことはほとんど知らん。記憶を説明する方法が分からん」
「じゃあ、誰ですか」
 先生が中指を俺に突き刺した。
「キミだよ」
 俺はびっくり仰天。
「おれ? いや、ダメ、とんでもありません」
 先生が不満げに言った。
「ジャック、キミはわしの講座で催眠術を取らなかったか。無害だと学ばなかったか。くだらん考えがすべて抑圧することを知ってるだろ。実際、被験者が自分で自分に催眠をかけるわけだから、その気のない人にはかからないことも知ってるだろ。それでキミ、何を怖がっているんだ?」
「そうですね……」
 答えが見つからない。
 俺はガツンと言ってやった。
こわくなんかありません。嫌いなだけです」
こわがっとる」
こわくありません」
 先生がだんだん興奮してきた。
こわがっとる」
 そのときだった。イヴォンの足音が廊下からコツコツ。先生の碧眼へきがんがギラリ。俺を見る目に狡猾こうかつな悪だくみがチラリ。
 先生の声が、ささやきから声高になった。
「わしゃ、臆病者は嫌いだ。イヴォンもそうだ」
 イヴォンが入室してきて、父が興奮しているのを見て眉をひそめた。
「まあ、お父さんたら、なんでそんな理論にこだわらなくちゃいけないの?」
 先生が金切り声で言った。
「理論か? そうだ、わしの理論によれば、歩くときはヒトが立ち、歩道が後退するということじゃ。まさか歩道が後退するとは。2人が向かい合って歩けば、まさか歩道が分離、いや伸縮するとは。当然伸び縮みする。だから、最後の2※(全角キロ、1-13-33)※(全角メートル、1-13-35)が一番長い。伸びているからだ」
 イヴォンは父を寝室に連れて行った。

 さてと、先生の話で俺はその気になった。俺がお人好しのせいか、イヴォンの神秘的な黒い瞳のせいかは分からない。翌晩、議論するころには先生の話が半ば信じられるようになったが、決め手は娘のイヴォンとの交際を許さないぞという暗黙の脅しだったと思う。娘のイヴォンは殺されても父に従いかねない。ニューオーリンズ出身だし、しかもクレオールの血がはいっている。
 厄介な訓練過程は述べたくない。やるべきは催眠を習慣づけること。ほかの癖と全く同じで、少しずつ慣れることだ。巷間こうかん言われることに反し、愚者ぐしゃや低能者はできない。本当に集中することが必要だ。コツは全能力を1つの関心事に集中すること。もちろん、催眠術をかけるがわのことではない。
 被験者のことを言っている。催眠をかける側は関係なくて、ただ入眠の誘い文句をつぶやくだけだ。
「眠くなる……眠くなる……眠くなる……」
 ひとたび秘訣ひけつをつかめばこれさえ必要ない。
 ほとんど毎晩、半時間かそれ以上、秘訣の習得に努めた。それはそれはうんざりする稽古で、何十回も嫌気がさし、これ以上茶番に関わりたくないとののしった。だがいつも、半時間ほどディニン先生に調子を合わせた後はイヴォンが来てくれたので退屈が吹っ飛んだ。たぶんお礼だと思うんだが、老先生は我々を2人だけにしてくれた。そして、この時とばかり、先生よりもっと前向きな目標を語り合った。
 だが、少しずつ身に付き始めた。3週間退屈な稽古をした後、軽い夢遊状態に自分を持って行けるようになった。ディニン先生は指輪をはめているのだが、この指輪に付いている安物の石がキラキラ輝き、ついに眼中に満ちあふれ、先生のけだるく機械的につぶやく声が大波のように耳に押し寄せた。この数分間に起こったことは何でも思い出せる。
 先生が質問、
「眠っているか」
 俺が無意識に、
「はい」

 11月の終わりごろには第2段階の昏睡を習得した。そしてなぜだかわからないが、一種熱病的な狂気に取りかれた。証券営業の仕事は休止状態。だんだん顧客対応に疲れ、額面価格で売った債権がいまや50ドル以下になって説明に大わらわ。しばらく経つと午後は先生の所にしけこんで、2人で異常な儀式を何度も行った。
 イヴォンは奇妙な計画の一部しか知らなかった。秘儀を行っている30分間は決して部屋に入ってこなかったが、わずかに知り得たことは我々が何かの実験のとりこになって、失った金を取り戻そうとしていることぐらいだった。それをイヴォンは大して信用していないようだったが、いつも父の気の済むようにさせた。
 12月初旬、夢が思い出せるようになり始めた。最初、ぼぉっと混沌として、正確な言葉で全く言い表せない感じだった。ディニン先生に言おうとするが、うまくいかない。
「丸い感じです。いや、確かじゃないけど渦巻のような、いやそうじゃなく、なんか丸っこい……もう思い出せません。逃げてしまいました」
 先生が小躍こおどりして、つぶやき、白いあごひげが揺れ、碧眼がギラリ輝いた。
「キターッ、思い出し始めたぞ」
「でも、あんな記憶が何の役に立ちますか」
「待て、だんだんはっきりする。もちろんキミの記憶がすべて使えるわけじゃない。玉石混合だ。過去と未来の輪廻りんねする多種多様な永遠のなかで、キミが常に証券営業マンのジャック・アンダーズであるとは限らん。記憶は断片的だろうし、その時々を反映しており、自我が少し残ってる場合もある、確率の法則でジャック・アンダーズじゃない人になった時とかあるわけで、無限世界の中で一定期間は、別人が現れ、消えるんだ、永遠という時間では。だが、どこか同じ原子と同じ環境でキミが造られたに違いない。キミは何兆個もの白砂のなかの黒砂であり、永遠の中で引き出され、以前にも何回も何回も造られたに違いない」
 俺は不意に尋ねた。
「同じ地球に誰かが2回存在したということですか。ヒンズー教の輪廻転生ということですか」
 先生が軽蔑けいべつ笑いした。
「地球の年齢は10億年から30億年の間だ。永遠との比率はいくらだ?」
「もちろん、少しもありません、ゼロです」
「その通り。だから同一惑星の寿命中に、同じ原子が結合して同じ人物を2回造る確率はゼロということだ。しかし、何兆年、いや何兆年の何兆年も過去があることを示した。だから、別な地球に別なジャック・アンダーズがいたに違いない。そして……」
 ここで先生の声が哀れっぽくなった。
「ジャックとディニンを破滅させたもう1つの大暴落もだ。この時期を昏睡状態から思い出してくれ」
「硬直していますよ。硬直状態では何も思い出せないですよ」
「神のみぞ知るだ」
「とんでもない狂った計画です。何て我々はバカな2人組なんでしょう」
 この形容は間違いだった。
 先生が金切り声をあげた。
「狂っただと? バカだと? このディニン老人が狂っただと? “無の夜明け”が狂っただと? キミは時間が輪廻りんねしないと思ってるんだろ? 輪廻りんねが何か知ってるか? 教えてやろう。輪廻りんねはゼロの数学記号だ。時はゼロなり、時は輪廻りんねなり。わしの理論では、時計の針は、本当は鼻だ。時計のツラの上にあるからだ。よって時間は輪廻りんねであり、くるくる……」
 イヴォンが音もなく部屋に入ってきて、しわが刻まれた父の額に軽く触れた。聞いていたに違いない。

第3章 悪夢か真実か


 後日、俺はディニン先生にいた。
「いいですか、過去と未来が同じものなら、未来も過去同様、変えられません。それなら、どうやって、かねを取り戻すのですか」
 先生が鼻白んだ。
「未来を変えるだと? 何で未来を変えようとするんだ? 何で過去に同じことが起こらなかったと言えるんだ? 永遠の別な過去では、ジャックとディニンは同じことをしとる。確かだ」
 俺は沈黙した。そして奇妙な稽古を続けた。俺の記憶が実体であれば、だんだんはっきりしてきた。直近の27歳の記憶をちょくちょく見た。でも当然ディニン先生によれば、はるか過去の時空における他人から見た映像だという。
 また別なものも見た。俺が経験するはずもない出来事だが、無かったとも言い切れない。忘れていたのかもしれない、だろ、特別重要じゃなかったもの。目覚めたらすぐ老先生に洗いざらい話したが、難しいことも度々で、うろ覚えの夢を口にするようなものだ。
 さらに別な記憶もあった。奇妙で異様な夢であり、人類の歴史に無いものだ。いつもぼやけており、とても怖いのだが、乱雑で形状がない為、神経が参ったり、ぞっとしたりすることはなかった。
 ある時の記憶だが、小さな透明窓を覗き込んでいると、赤い霧の中を動くものがあり、言うに言われぬ非人間顔で、今まで見たどんなものにも似てない。
 別な場面では毛皮を着て、寒々とした灰色砂漠をさまよい、そばに1人の女がいるが、絶対イヴォンじゃない。
 覚えているのは女をピロニーバと呼んでいたこと、名前の意味は“鬼火”。周りの空中にきのこ状のものがあちこち浮いており、ぷかぷか上下するさまはバケツの中のジャガイモのようだ。俺達がそっと立ち止まると、小さなキノコの恐ろしい物体が意味ありげにはるか頭上を、未確認物体の方へふらふら飛んでいった。
 また別な時、循環する水銀プールをうっとり眺めていると、そこに映像が見え、翼を持った野生の生物が2匹、バラ色の広場で遊んでおり、形はどう見ても人間じゃないが、抜群に美しく、キラキラ輝く虹のようだった。
 これら2匹の生物の間には、俺とイヴォンの間にある妙な親近感を感じたが、何者だか、どこの世界だか、永遠のどの時期なのか、何も分からないし、ましてはどこぞの宇宙にそんな部屋があって、循環プールを所有し、あんな映像を写し出したか知らない。
 オーロラ・ディニン老先生は俺が述べた狂気じみた写実絵を注意深く聞いていた。
 先生がつぶやいた。
「すばらしい。無限の遠い未来をちらっと、10倍の無限過去から捕らえた。キミが述べたことは地球的でないから、いつかどこかで男が実際、宇宙刑務所に放り込まれ、ほかの世界を見たんだ。いつか……」
「ただの悪夢に過ぎないのでは?」
 先生は自分の気持ちをしずめるのに必死なように見えた。
「悪夢じゃないぞ。すべてに価値があるのと同様、我々にも価値がある。かねはまだ戻ってない。挑戦せんといかん。何年も何世紀も試せば、最後に黒砂が得られる。黒砂はきんを含んでいるから……」
 ここで一息入れて、ブツブツ。
「わしゃ、何を話していたんだっけ?」

 さてと、練習は続いた。時々ほとんど記述不能な乱雑映像にいろどられたり、ほぼ道理にかなった映像も多々来たりするようになった。事態はわくわくする遊びに豹変ひょうへん。自分の仕事はほったらかして、損失なんかちっちゃなもの、オーロラ・ディニン老先生と夢を追っかけた。
 午後も夜中も、ついには朝まで入り浸りになって、昏睡の眠りに身を任せ、夢で見たすばらしい事柄ことがらを語った、いや先生によれば記憶だ。現実がかすんできた。奇妙な夢想世界にうつつを抜かし、イヴォンの物悲しい黒眼だけが、俺をつなぎとめ、昼間の正気な世界に連れ戻した。
 さらに合理的な映像を口にした。ある都市を思い出した、なんと壮大な都市だ。建物は空を突きぬけ白亜はくあ壮麗そうれい、人々は神の英知を持つ厳粛げんしゅくな青白き美人、謹厳きんげんで沈痛、悲しそう。栄光と邪悪な雰囲気が大都市全体に付きまとい、たぶんバビロンにあるようなものが、滅亡まで続く。
 すごく目立ち、どこか不可解だ。何と呼ぶのか正確に分からないが、退廃という単語が我々の言葉では近いだろう。巨大建造物の下に立っていると、動かぬ機械からブーンという音が聞こえたが、都市は死んでいるように見えた。
 こけのようなものが建物の北壁に青く茂っている。草のようなものがあちこち大理石歩道のひび割れから生えている。いや、衰弱した住人の荘厳で悲しい姿だったかもしれない。なにやら、滅びゆく都市と、死にゆく種族の気配があった。
 妙なことが起こったのは、この特殊な記憶を老ディニン先生に言おうとした時だ。当然、つっかえながら語る映像の詳細は、永遠という計り知れない深遠しんえんから出てくるので、言葉の固い壁に阻まれて、なかなか定まらない。映像はぼやけがちで、覚えた記憶を思い出せない。だから、説明する際、都市の名前を忘れてしまった。
 俺は口ごもった。
「都市の名前はターミスとか、ターマフリアとか……」
 ディニン先生がいらついて叫んだ。
「ターマポリスだ、終末都市だ」
 俺は驚いてまじまじ見つめた。
「それです。でもどうして知ってるんですか」
 昏睡状態の深い眠りでは話せないはず。
 怪しい狡猾の表情が先生の瞳に光った。
「知っとる、知っとる」
 とつぶやいて、これ以上言おうとしなかった。

 だが、あの都市をまた見たと思う。そのときは樹木のない茶褐色の平原をさまよっており、かつての寒々とした灰色砂漠ではなく、どうやら地球の乾燥した不毛地帯だ。西側の水平線上にぼんやり、丸い大きな赤っぽい太陽があった。いつもそこにあったと思うし、心の片隅で知っていたのか、巨大な潮汐摩擦力でついに地球の回転が落ち、止まってしまい、もう昼と夜が地上で交互に来ないようになった。
 空気は身を切るように冷たく、俺と仲間6人で群れになって移動し、あたかもお互いを温め合うかのようで、みな半裸だった。全員足が細く痩せていたが、妙に胸は厚く、大きな目がぎらついており、俺のすぐそばにまたしても女がいて、なんかイヴォンのようだがとても小さかった。そして、俺はジャック・アンダーズじゃなく別人だった。だが野獣脳には俺の分身がいくらか残っていた。
 丘の向こうに、うねる滑らかな海があった。這いつくばって小山を登ると、この丘が無限の過去には街だったことにハッと気がついた。数個の巨石が崩れ落ち、朽ちた壁がぽつんとわびしく、ヒトの4〜5倍の高さに立っていた。この幽霊のような残骸を、みじめな一団の指導者が指差しながら、陰気な口調で語った。英語じゃなかったが、わかった。
「石積みしたまう神々は死にたまい、この住処すみかを通り過ぎるものに害を及ぼさず」
 意味が分かった。これは呪文であり、儀式で亡霊から守ってくれており、亡霊は残骸にひそんでおり、この残骸は何千世代も前の先祖が造った都市だと思う。
 壁を通り過ぎる時、後を振り返ると、ひらひら動くなんかぞっとするものが見え、あたかも黒いゴム玄関マットが壁の隅の方でパタパタ動いているようだった。俺は女を脇にピタリと引き寄せ、水を求めて海まで這い降りた。そう、水だ。なぜなら惑星の回転が止まったため、雨が降らなくなり、水の枯渇しない海の岸辺に、生き物すべてが集まり、苦い水を飲まないといけないからだ。
 二度と振りかえ見なかった丘は、かつての終末都市、ターマポリスだった。でも、たまたまジャック・アンダーズの片われが目撃したか、あるいはこれから目撃するであろうものは、おっと、時間が輪廻すればいずれの違いもないが、人類滅亡近辺の時代であった。

 12月初旬、最初の記憶が、成功のきざしかもしれない。一時いっときのとても甘い記憶で、イヴォンと俺だけが庭園におり、そこはニューオーリンズの古民家庭園であり、宮殿近くに建てられた大陸風建築の1棟だった。
 俺達は夾竹桃きょうちくとうの下で、石のベンチに座った。俺は腕をやさしくイヴォンに回し、ささやいた。
「しあわせかい、イヴォン?」
 イヴォンは悲しげな眼で俺を見て、微笑んで答えた。
「今までのようにしあわせよ」
 そして、俺はキスをした。
 それが全てだったが、とても重要だ。極めて重大なわけは絶対に俺の過去の記憶じゃないからだ。だろ、俺はニューオーリンズのオールドタウンで、夾竹桃きょうちくとうのある甘い庭園で、イヴォンのそばに座ったこともないし、それにニューヨークで会うまで1回もイヴォンにキスしたこともないもの。
 俺がこの映像のことを話すと、オーロラ・ディニン先生は有頂天になった。
「ほら、証拠だぞ。未来を見たんだ。もちろんキミの未来じゃなく、別人の幽霊ジャック・アンダーズだ。1兆年、1千兆年前に死んだキミだ」
 とほくそ笑んだ。
「でも何の足しにもならないじゃないですか」
「今に来るぞ。待て。欲しいものがもう来る」
 そしてそのときが1週間以内に訪れた。今度の記憶は妙に明るくて、鮮明で、細かいところまで覚えている。その日を覚えている。

 1929年12月8日だった。俺は午前中、仕事を求め、あてもなくふらついていた。前述の魅惑につかまり、昼食後ディニン先生の部屋に転がり込んだ。イヴォンはいつものように我々に構わなかったので、先生と2人で始めた。
 言ったように、鮮明な記憶、もしくは夢だった。俺はめったに行かない証券会社の事務所で、椅子にもたれていた。営業マンの1人、サマーズという名前の男が俺の肩に寄りかかってきた。
 2人で夢中になっていつもの気晴らし、夕刊紙の終値おわりね株式欄を読んでいた。紙面が本物のようにくっきり見えた。俺は当たり前のように日付に目をやった。1930年4月27日木曜日だった。ほぼ5か月も先だ。
 もちろん夢映像の中ではそんなこと分かっちゃいない。俺にとってはその日が現在に過ぎない。ざっと当日の株式欄を眺めていた。終値おわりねとなじみの銘柄めいがらだ。テレフォン210ドル、USスチール161ドル、パラマウント68ドル。
 俺はスチール株に指を突き差し、肩越しに同僚のサマーズに言った。
「俺はスチール株を72ドルで買って、きょう全部売った。全株だ。2番底が来る前に抜けるぜ」
 サマーズがつぶやいた。
「運のいい奴め。12月の底値そこねで買って、いまごろ売りやがって。俺もそんな金が欲しいよ。ところで、これからどうするんだ。会社にいるのか」
「いいや。俺はもう充分暮らしていける。金を国債に突っ込んで、保険を完済して、その収入で暮らすつもりだ。もうギャンブルはさんざんやった」
「運のいい奴め。俺もウォール街にはうんざりだ。ニューヨークにずっといるのか」
「しばらくさ。投資分をごっそりいただくまでだ。冬はイヴォンとニューオーリンズへ行くつもりだよ……、冬が苦手なんだ。行けてうれしいぜ」
「誰だい、イヴォンって? 運のいい奴め」

 俺がこれをディニン先生に話すと、気も狂わんばかりに興奮して、金切り声になった。
「それだ。買え、あした買え。5月27日に売れ。そのあとニューオーリンズだ」
 もちろん俺も同じく乗り気になった。
「神に誓って、危険を犯す価値があります。やりましょう」
 そのとき不意に、絶望的な考えが浮かんだ。
「やるって? 元手は? 俺名義の金は100ドル足らずです。先生は?」
 先生がうめき、ぶっきらぼうに言った。
からけつだ。わしゃ、年金暮らしだ。借金できん」
 再びかすかな希望が見えたか、
「銀行だ。銀行から借りよう」
 俺は笑うしかない。もっとも苦笑いだが。
「そんな話にどこの銀行が金を貸しますか。担保なしではロックフェラーへも、こんな暴落市場に投資する金は貸さないでしょう。万事休すです、おしまいです」
 先生の青白い心配そうな眼を見ていると、先生も“万事休すだ”と力なく繰り返していたが、再び野望がめらめら輝いて叫んだ。
「万事休すじゃない! どうしたらできる? 出来たんだ。キミの記憶では、やり遂げている。方法を見つけなきゃ」
 俺は黙って見つめた。突如、奇妙でおかしな考えが浮かんだ。この別人ジャック・アンダーズ、すなわち何千兆世紀の過去、もしくは未来の幽霊は、ずっと見ているかもしれないし、過去に見たかもしれないし、これから見るかもしれない、この俺を、つまり永遠の輪廻におけるジャック・アンダーズを。
 俺が方法を見つける様子をはらはらして見ているに違いない。それぞれがお互いを見ているが、誰も答えを知らない。盲人が盲人を案内している。俺は皮肉な成り行きを笑った。
 だが、ディニン老先生は笑ってなかった。今まで見たなかで一番奇妙な表情を目に浮かべ、そっと繰り返した。
「方法を見つけねばならん。出来たんだから。少なくともキミとイヴォンは方法を見つけた」
「それなら、皆が見つけなければいけません」
 と俺は不機嫌に答えた。
「そうだ、ああそうだ。聞いてくれ、ジャック。わしゃ老人だ。“老いぼれオーロラ・ディニン”“老いぼれ無の夜明け”だ。わしの精神は壊れかけている。キミ、うなずくな! わしゃ狂っとらん。誤解されているだけじゃ。2人とも分かっちゃおらん。もちろん、わしの理論によれば、草木や人間はちっとも背が伸びん。地球を押し縮めているんじゃ。このため地球が毎日だんだん小さくなると言われるんじゃ。だが、キミは分かっちゃいない。イヴォンも分かっちゃいない」
 イヴォンが聞いていたに違いない。俺に目もくれず部屋に忍び込んで、父の肩にやさしく手を置いて、怪訝けげんに見返した。

第4章 苦い果実


 もう一つ、ある意味では無関係だが、別な意味で極めて深刻な映像が見えた。翌晩だった。12月初旬、窓越しに雪がシンシンと降り、暖房のこわれたディニン先生の部屋は隙間すきま風がはいり、冷え冷えしていた。
 イヴォンが俺に挨拶あいさつして退室する時、寒さのために震えているのが分かった。ディニン老先生が細い腕をイヴォンに回しながら扉までついて行き、心配そうな目で戻ってきたのに気づいた。
「イヴォンはニューオーリンズ生まれだ。こんなひどい北極気候では病気になっちまう。すぐ手を打たなくちゃいかん」

 あの映像は重苦しかった。俺が立っていたのは雪にぬかるんだ冷たい地面、俺のほかにイヴォンともう1人が墓穴はかあなのそばにいた。背後には十字架と白亜の墓石がずらり。だが、この一角は凸凹、荒れ放題で整地されていない。
 司祭が言っている、
「そしてこれらは神のみが知り給うところなり」
 俺は慰めるようにイヴォンに腕を回した。イヴォンが悲しそうに黒い瞳を見上げてささやいた。
「ジャック、きのうだったのよ、ほんのきのう父が、こう言ったの。“イヴォンよ、次の冬はニューオーリンズで過ごしなさい”ついきのうよ」
 俺は、おくやみの会釈えしゃくをしたが、ただ哀悼あいとうするばかりで、イヴォンの沈んだ顔を眺めるしかなく、見ていると、1粒の涙がゆっくりと右ほほを伝い、一瞬止まってきらきら輝き、次の涙であふれる流れとなって、ポタッと喪服の胸に散るも、イヴォンは気に留めなかった。
 これが全てだったが、どうしてこれをディニン老先生に言えようか。はぐらかそうとした。先生は供述を迫った。
「何もヒントはありませんよ」
 と言ったが、無駄だった。とうとう言う羽目になった。
 先生はしばらく押し黙っていたが、ついに口を開いた。
「ジャック、わしがニューオーリンズのことをイヴォンに言ったのを知っていたのか。けさ雪を眺めながらだ。けさだよ」
 俺はどうしたらいいか分からなかった。ふと、未来を思い出そうなんて考えること自体がすべて、ばかげて異常なことに思われた。これまで思い出した全ての記憶で、何一つ本当の証拠とか、予言らしきものが無かったもの。
 だから何もせずに、オーロラ・ディニン老先生が部屋から出て行くのを黙って見ていた。そして2時間後、俺がイヴォンと話している間に、先生は遺書をしたため、胸を撃って自殺した。なぜだ、これじゃ、何も分からない。

 翌日、イヴォンと俺は会葬者かいそうしゃとしてただ2人、“無の夜明け”老人の墓前に参列した。俺はイヴォンの脇に寄り添い、出来る限り慰めようと努め、暗澹あんたんたる心情から気力をふるい起し、イヴォンの言葉を聞いた。
「ジャック、きのうだったのよ。父がこう言ったの。“イヴォンよ、来年の冬はニューオーリンズで過ごしなさい”ほんのきのう言ったのよ」
 見る間に、イヴォンの涙がゆっくりと右ほほを伝い、一瞬止まってきらきら輝き、次の涙であふれる流れとなって、ポタッと喪服の胸に散った。

 その夜の遅く、あらゆる中で一番皮肉なことが露見した。俺は落胆しながら我が身を攻め続けた。自分が弱いために、ディニン老先生と気違いじみた実験にふけり、それがある意味、先生に死をもたらしたからだ。
 あたかも俺の心を読んでいるかのように、イヴォンが唐突に話しかけた。
「父はこわれていたのよ、心がってたの。父があなたに妙なことをささやき続けたのを全部聞いていた」
「何だって?」
「もちろん、そこの扉の後ろで聞いていた。父を一人にしておけなかったの。父が変なことを言うのを聞いていた。赤い霧に浮かぶ顔とか、寒々とした灰色砂漠とか、ピロニーバという名前とか、ターマポリスとか。父はあなたが座って目を閉じているとき、あなたに寄りかかって、終始ささやいていた」
 皮肉中の皮肉だ。ディニン老先生の狂った心が映像を作り出していたとは。俺が昏睡状態で座っているとき、先生が俺にささやいていたとは。

 後日、遺書が見つかり、又しても衝撃を受けた。先生は生命保険に加入していた。ほんの1週間前、保険証券を担保に借金して掛け金などを支払った。だが、遺書には、なんと、俺を受取人に、それも保険金の半分を指定してあった。さらに指示が――

『ジャック・アンダーズはキミのお金とイヴォンのお金の両方を使って、私が望んだ承知の計画を実行されたし』

 狂気の沙汰だ。ディニン先生はお金を工面する方法を見つけていた。だが、こんな精神異常者の計画にイヴォンの虎の子をギャンブルできるわけがない。
 イヴォンに聞いた。
「どうしようか。もちろんお金は全部きみのものだ。俺は手をつける気はない」
「私のですって? どうして? 違うでしょう。父の望み通りやるのよ。私が父の遺言を尊重しないとでも思っているの?」
 というわけで、我々は実行した。なけなしの数千ドルを、暴落した12月相場にぶち込んだ。どうなったかはお察しの通り。なんと春ごろには株価がぐんぐん急上昇して、あたかも、株価はまさに急落し始めた1929年に戻るかのようだった。
 俺はサーカス芸人のように相場に乗った。利ざやを稼ぎ、更に投資して、4月27日に元手の50倍になったとき売り払い、市場が収縮するのを眺めていた。
 偶然の一致だって? どうもそうらしい。結論として、オーロラ・ディニン先生の精神はほとんどの期間、明晰めいせきだった。経済学者も春に上昇することを予想していた。たぶん先生も予想していたのかも。
 おそらくこのような芝居を舞台化して、我々をギャンブルさせようとしたのだろう。そうしないと我々は決して危険を冒さない。それから、金がなくて落ち込むのを見て、自分が金を工面できる唯一の手段を使った。
 おそらく、これが筋の通った説明だ。それにしても、ターマポリスの廃墟映像によく悩まされる。きのこがプカプカ浮かぶ寒々とした灰色砂漠が目に浮かぶ。不思議だなあ、確率の法則が普遍だとか、ジャック・アンダーズの亡霊が永遠のどこかに存在するなんて。
 たぶん、ジャックは現在、過去、未来に存在する。そうでなければ、最終映像の説明ができない。どう思う? お父さんのお墓のそばでささやいたイヴォンの言葉を。果たして先生が予想して俺にささやいたのか。可能性はある。それなら、どう思う? 二筋の涙がキラキラ輝き、混じり合い、両ほほに流れたのを。
 どう思う?






底本:First published in Thrilling Wonder Stories, August 1936
原著者:Stanley G. Weinbaum
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翻訳:奥増夫
2024年7月7日作成
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