海流異動

SHIFTING SEAS

怪奇シリーズその8

スタンリイ・G・ワインバウム Stanley G. Weinbaum

奥増夫訳




 あとで分かったことだが、テッド・ウェリングは大惨事の数少ない目撃者、いやむしろ150万目撃者の中で、生き残った6人のうちの1人だった。そのときは災害規模がよく分からなかったけれども、心底最悪に見えた。
 いまコーキスト号の機上にあり、ニカラグア湖が茶色の水をサンファン川へ流し込む地点のちょうど北に位置し、行先はマナグア、つまりニカラグア湖の120※(全角KM、1-13-50)北西だ。機体下からは、エンジンのくぐもったブンブン音に加え、間欠的に3次元俯瞰ふかんカメラのカシャカシャ音が聞こえ、機体速度に合わせて、通過地形の正確な立体地図を造れるようになっている。
 実際それが唯一の飛行目的であり、その日の早朝サンファンデルノーテを離陸して、計画中のニカラグア運河上空を縦断する米地質調査所・地形測量部の飛行である。
 もちろん米国は今世紀初頭からこのルートの権利を持っており、他国が野望を抱き、競合他社にパナマ運河の代替を開削させない担保にしている。
 しかし今はニカラグア運河の検討中である。ひしめくパナマ水路は益々増大する膨大な航行にうめき声を上げ、問題はもう1本海面下25※(全角メートル、1-13-35)の巨大な溝を掘削するか、代替水路を開削するかとなった。
 ニカラグア水路は充分実現可能だ。サンファン川がニカラグア湖から大西洋にそそぎ、マナグア湖が太平洋から20※(全角KM、1-13-50)ほどの所にある。もう選定するだけであり、テッド・ウェリングは地質調査所の地形測量部に所属し、選定の手助けをしている。

地図1

 発生は正確に1040分だった。朝霧あさぎりを通してオメテペクの方をぼんやり眺めていると、円錐火山の頂上から黒い煙がもくもくと上がった。ニカラグア湖やマナグア湖から160※(全角KM、1-13-50)も離れており、オメテペク活火山は現在高度からよく見える。毎週オメテペク火山が雷鳴らいめいをとどろかし煙を吐いてることは知っていたが、見る間に、まるで強力なローマ花火のように噴火した。
 ぴかっと光った白炎は太陽に負けず劣らず明るかった。一筋の煙柱えんちゅうが赤い炎を芯にして、噴水のように吹き上がり、きのこ雲になった。一瞬の沈黙のなか、カメラが規則正しくカシャカシャ鳴っている。と、まさに地獄の蓋が吹き飛び、呪縛のふいごを破裂させたような轟音ごうおんが聞こえた。
 びっくりだ。爆発音の到達があまりにも早すぎる。あの距離なら数分かかるはず。そのとき、否応いやおうなく考えを変えたのはコーキスト号が台風下の葉っぱのようにもみくちゃになったからだ。驚いて眼下の地形をちらと見ると、ニカラグア湖が波打ち沸騰するさまが、あたかもマゼラン海峡の荒海のようで、内陸湖水でないかのようだった。
 東岸に巨大な波が砕け、バナナ園にいた人影が驚き大あわてで逃げ去った。そしてその時まさに魔法のように、真っ白い霧が周りを包み、眼下の視界を完全にさえぎった。
 必死に高度と格闘した。高度900※(全角メートル、1-13-35)だったが、いま深い霧に覆われ、上昇流やら下降流やらエアポケットやらエアこぶやらで、位置がわからなくなった。
 高度計の針は気圧変化に震えて跳ね返り、ジャイロコンパスはぐるぐる回り、対地方向がまったくわからない。そこで、最善の方法で立ち向かい、空力の強弱に応じて変わるプロペラ音に聞き耳を立てた。下界では雷鳴のような地響ぢひびきが間欠的にとどろき、想像するまでもなく、炎が不規則にパッパッと光った。
 突然霧から出た。急に見通しのいい空中に飛び出たその刹那せつな、恐ろしいことに、逆さ飛行しているのではないかと思われた。どうやら足元は霧の雲海、頭上は一見して黒い地面のようだ。だがよく見ると、天蓋てんがいは煙やちりおおわれ、黒煙を通し太陽が幻想的に青く輝いている事が分かった。かつて青い太陽の話を聞いたのを思い出した。火山噴火で見られるとても珍しい現象だ。
 高度計は3千※(全角メートル、1-13-35)を示している。広大な煙霧えんむが巨大な壁のように持ちあがり、波のように押し寄せてきたので、上空へ逃げた。高度6千※(全角メートル、1-13-35)は気流がずっと安定していたが、依然として陰気な煙幕えんまくがはるか上空まで覆っている。テッドは水平飛行に移り、当てもなく北東へかじを切り、安堵あんどした。
「ふー、何が起こったんだ」
 もちろんこんな深い霧では着陸できない。執拗に北東へ飛んだ。波打つ白い煙幕が晴れれば、ブルーフィールズに飛行場があるからだ。
 しかし霧がある。まだ燃料が半分残っているので、ひたすら北へ向かった。はるか向こうに1本の火柱ひばしらがあり、その右向こうにもう1本、更にもう1本ある。もちろん最初のはオメテペク火山だが、ほかのは何だ。フエゴ火山か、タフムルコ火山か。あり得ない気がする。
 3時間後、霧はまだ下にかかっていたが、しつこい煙幕が機体をはさんで、あたかも墜落させるかのように下降し始めた。すぐ着陸するはめになった。今頃ニカラグア上空を過ぎ、ホンジュラス上空のどこかに違いない。度胸を据え、機体を傾け、霧の中に突っ込んでいった。不時着するつもりだ。
 妙なことに、そのとき唯一後悔したのはケイ・ラヴェルにお別れを言わずに死ぬことだった。遠く離れたワシントンに父と滞在しており、父のジョシュア・ラヴェル卿は大英帝国大使だった。
 高度計が60※(全角メートル、1-13-35)を指した時、機体を水平に引き起こすと、列車がトンネルを抜けるように、視界が再び開けた。だが下は荒れ狂う海原うなばら、波が機体を飲まんばかり。低空飛行し、なぜ海に迷い出たのか本能的にいぶかった。ここはホンジュラス湾に違いない。
 西へ向かった。5分以内で、風雨に洗われる海岸へ来た。そのときだ、奇跡中の奇跡、町が、しかも滑走路が……。胴体着陸だ、プロペラを止め、暴風雨のなか、無我夢中で急降下した。
 英領ホンジュラスのベリーズだった。空港名を確認した直後、係員が来て、一言。
「アメリカ人だ、運が良かったのう」
 テッドも歯を見せて、
「ついてたよ。何が起こったんだ」
「地獄のふたが吹っ飛んじまったのさ。それだけさ」
「ああ、見たぜ、真上にいたんだ」
「なら、もっと知っとるだろ。ラジオはおっんだし、おんぼろ電信は使えねえし」
 突然雨が降りだした。激しくバタバタ打ちつける雨粒はビー玉ぐらい大きい。2人は格納庫に退避した。テッドの情報は乏しかったけれど、皆食いついた。というのも北回帰線下では大事件がまれだからだ。しかしまだ誰一人として衝撃の大きさが分かっていなかった。

 3日経って、テッドや世の人々は何が起こったかを一部知り始めた。数時間かかって、やっとベリーズからハバナを電波で呼びだし、テッドはワシントンのアサ・ガーン所長に報告した。うれしいことに、驚いたのはすぐ首都へ戻って来いという命令だった。だって、ワシントンでは楽しい生活が若手官僚に約束され、何よりケイ・ラヴェルに会うのは手紙を出して以来2か月ぶりだもの。
 そこで、テッドはコーキスト号を飛ばし、ユカタン海峡をまたぎ、ハバナで乗り換えた。いま搭乗した快適なカリビアン大型航空機の行く先はワシントン、奇妙に煙る10月中旬の朝、着々と北上した。

地図2

 そのときはケイのことを考えなかった。大惨事の新聞記事を食い入るように読みながら、あの真っただなか、どんな千載一遇の運が働いて無傷だったのかと不思議に思った。だって、この災難のために、影が薄くなり、些細ささいな事件となったのは、中国の黄河大洪水、クラカトア火山の爆発、ペレ火山の大惨事、さらに日本の1923年関東大地震、いや、いままで文明種族に降りかかったどの災難もそうだ。
 というのも、太平洋を囲む活火山の巨大輪は、たぶん月誕生の陣痛にまつわる最後の傷あとに相当するのだろうが、この熱い環状帯が火を噴いたからだ。アラスカのアニアクチャク火山は頂上が吹き飛び、富士山は溶岩を流し、大西洋のラスフリア火山と凶暴なペレ火山が再び目覚めた。
 だがこんなのは小さい方だった。2か所の火山地帯、ジャワと中米の火山が真の脅威を見せつけた。ジャワで起こったことはまだ謎だが、もうパナマ運河は真っ平らになっていた。モスキート湾からリオココまで海になった。パナマの半分、ニカラグアの8分の7、およびコスタリカなど国全体があたかも存在しなかったかのよう。パナマ運河は大破。テッドが苦笑いして思ったのは、今となっちゃパナマ運河はピラミッドと同じ無用の長物だ。南北アメリカは分断、漂流し、パナマ運河はかつてのアトランティス島の仲間入り。

 ワシントンでテッドはすぐアサ・ガーン所長に報告した。さばけたテキサス人の所長は体験を細かく聞いて、情報が足りないと不平を言ったが、事務所の夕会に出るように手短く命令した。午後まるまるケイに時間が割けたので、すかさずそうするつもりだ。
 なかなかケイと2人っきりになれなかった。ワシントンは世界中の都市と同じように地震で騒然となっていたが、どの都市よりも無関心だったのは、150万人の死者や、なかんずく後遺症だった。結局、死者のほとんどが現地人であり、どこか遠くの悲劇、たとえば中国人が大量に死んだというような風だった。災害地域に友人や身内がいる人々だけが心配し、こういう人は少数派だった。
 だが、ケイの自宅でテッドは、ある一団が自然現象の結末を熱く議論しているのに出くわした。明らかにパナマ運河の隘路あいろが無くなった為に、合衆国の海軍力が飛躍的に高まった。もうもろいパナマ運河を死守する必要はない。全艦隊が横一列になって、幅600※(全角KM、1-13-50)の沈降海を通過できる。もちろん米国は通行料の収入源を失うが、防衛や補強に出資することがなくなったのでトントンだ。
 テッドがイライラしているとやがて、なんとかケイと2人きりになり、少し挨拶することができた。気が済んだので、残りの時間は熱心に議論に加わった。大惨事全体のなかで、誰も考えなかったある要因が、世界の歴史を変えかねないものだった。
 テッドはその日の夕会でまわりを見て驚いた。出席者全員を知っていたが、理由が分からなかった。当然、地質調査所のアサ・ガーン所長は出席する。また、もちろんゴルズボロウ内務長官もいる。地質調査所が所管部門だから。だが、なぜ米国陸海軍長官のマクスェル長官がいるんだ。それになぜジョン・パレッシュ国務長官が押し黙り、すみっこでうつむき、靴を見て、しかめ面をしてるんだ。
 アサ・ガーン所長が咳払せきばらいして口火を切った。
「皆さん方の中でウナギ好きな方は?」
 と真面目に聞いた。
 ざわめいた。
「ええ好きですよ。それがどうかしましたか」
 とゴルズボロウ内務長官が答えた。かつてベニス領事を務めたことがある。
「じゃ買い求めてあした食べた方がいいですよ。もうウナギは手に入らないかもしれません」
「ウナギが手に入らない?」
「ええ、ウナギはサルガッソ海で育つことをご存知でしょう。その海がなくなったのです」
 マクスウェル陸海軍長官がすごんで、
「なんだと、わしは忙しいんだ。サルガッソ海がないだと、ほう」
「もっと忙しくなりそうですよ」
 とアサ・ガーン所長があっさり言い、眉をひそめて、
「もう1つ質問させてください。どなたかご存知ですか。英国ロンドンの向かい側は、アメリカ大陸のどこに相当するか」
 ゴルゾボロウ内務長官がイライラして、噛みついた。
「どういう趣旨か知らんが、アサ君。私の考えではニューヨークとロンドンはほとんど同じ緯度じゃないかな。いやたぶんニューヨークの方が少し北かも。ちょっと寒いからね」
 アサ・ガーン所長が
「ほう! ほかに異論は」
 無かったので、アサ・ガーン地質調査所長が、
「さて、間違ってますよ。ロンドンはニューヨークのおよそ1600※(全角KM、1-13-50)も北で、南ラブラドルの緯度です」
「ラブラドルか。実質、北極だ」
 アサ・ガーン所長が後壁に大きな地図を下ろした。メルカトル世界地図だ。
「見てください。ニューヨークの緯度はイタリアのローマです。ワシントンの向かい側はナポリです。ノーフォークの緯度はアフリカのチュニス、ジャクソンビルはサハラ砂漠です。さて皆さん、これらの事実から導き出される結論はというと、来年の夏が世界史の中で最悪の戦争になるということです」
 テッドは所長が正気だということを知っていたが、そのテッドですら、出席者の顔をまともに見られず、皆がありありと疑ってるのを見て取った。
 マクスウェル陸海軍長官が咳払いして、どら声で、
「なるほど、なるほどな。戦争があって、ウナギがなくなる。簡単明瞭だ。だが、わしは大変申し訳ないけど失礼するよ。だろ、ウナギなんかにかまっちゃおれん」
「少しお待ちください」
 とアサ・ガーン所長が制止して、再開した。そして4人は厳しい現実を少しずつ理解し始めた。

 唖然あぜんとなり酔いがさめた一団が去った後も、テッドは残った。まだほかのことで頭がひどく混乱していたし、たとえみずからこんな重大事態にいどんでいたとしても、もう夜も遅すぎてケイには会えないからだ。
 テッドがびくついていた。
「所長、確かですか。ほんとうですか」
「じゃあ、もう一度調べてみよう」
 とアサ・ガーン所長が地図に向かった。大西洋の白線を指差して、
「いいかい、これが反赤道海流で、海岸を洗う地域は、グアテマラ、サルバドール、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマだ」
「知ってます。その海岸上空を全部飛びました」
 所長が青い大西洋を指して、再開。
「ああ、これは北赤道海流だ。大西洋から西に流れ、メキシコ湾にはいり、キューバ付近を通り、メキシコ湾流となる。平均流速は毎時6※(全角KM、1-13-50)、幅100※(全角KM、1-13-50)、深さ180※(全角メートル、1-13-35)、そもそも平均温度は10℃だ」
「そして、ここでラブラドル海流と出会い、メキシコ湾流は東へ向かい、西ヨーロッパ全体へ暖流を運ぶ。その為英国は住みやすく、南仏は亜熱帯で、ノルウェーやスウェーデンにも住める。テッド君、スカンジナビア半島を見てみろ。グリーンランドの中心、バフィン湾の緯度だ。エスキモーですらバフィン島で暮らすのは難しい」
 テッドがうめくように言った。
「知ってます。しかし、残りの話も確かなのですか」
 アサ・ガーン所長が怒鳴って、
「自分の目で確かめろ。壁がなくなったんだ。反赤道海流は毎時4※(全角KM、1-13-50)で、かつての中米の真上を流れ、キューバのちょうど南で北赤道海流とぶつかるようになるだろう。何が起こるか、メキシコ湾流に何が起こりつつあるか。つまり、大西洋沿岸を北東に向かわないで、かつてのサルガッソ海を真東に向かうようになる。
 北欧沿岸を流れないで、スペイン半島にぶつかる、つまり、ちょうど西風海流と呼ばれている今の海流のようになる。そして北へ向かわないでアフリカ沿岸に沿って南下する。毎時6※(全角KM、1-13-50)のメキシコ湾流が最後の暖かい海流をヨーロッパに運ぶのはあと3カ月もないだろう。1月に配達終了だ。1月のあとはどうなる?」
 テッドは何も言わなかった。
 アサ・ガーン所長がびしっと再開、
「さてと、ヨーロッパのうちメキシコ湾流に依存する国々は、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、英国諸島、オランダ、ベルギー、フランス、その他数ヶ国だ。6か月もたたないうちに、テッド君、ヨーロッパの再編が見られるだろうよ。メキシコ湾流依存国はガラガラポンされる運命だ。つまり独仏どくふつが突然親友になり、仏露ふつろはいま仲が良いが、敵同士になろう。理由が分かるか」
「い、いいえ」
「いま名を挙げた国々の人口が2億人以上だからだよ。2億人だぞ、テッド君。もしメキシコ湾流が無くなり、英国やドイツがラブラドル気候に、フランスがニューファンドランド気候に、スカンジナビアがバフィン島の気候になれば、やしなえる人口は何人だ。たぶん3百万〜4百万人か、それでも難しいだろう。残りはどこへ行く?」
「さあ」
「どこへ行こうとするか教えてやろう。英国は余剰人口を植民地へ移住させるだろう。インドは過密だから、南アフリカ、カナダ、豪州、ニュージーランドで吸収できる。見立てでは英国人口5千万人のうち2千5百万人が可能だ。カナダ北部や豪州砂漠に膨大な土地がある。フランスは北アフリカがあるが、既にほぼ満杯だ。ほかの国々は、さあ、言ってみろ、テッド君」
「シベリア、南米、アメリカ合衆国だと思います」
「いい勘してる。だから露仏がもう親友じゃなくなる。南米は抜け殻の国、つまり貝殻だ。内陸は白人には不適。だから残るのはシベリアと北米だ。なんと、戦争が起こるぞ」
 テッドが口ごもり、
「信じられません。やっと世の中が落ち着いてきたと思ったのに」
 アサ・ガーン所長が反論して、
「いや、前にも起こった。戦争になったのはこの気候変動が初めてじゃない。かつて中央アジアで降雨量が減ってフン族がヨーロッパへ移動したし、おそらくゴート族やバンダル族もそうだ。だが2億人の文明社会で起こったことはない」
 と一息入れて、
「どの新聞も中米の150万人死亡のことを一斉に書き立てている。来年の今頃は、150万人死亡記事が見出しになったなんて、すっかり忘れている」
 テッドが思いっきり、
「いやはや。何かできることはないのですか」
 アサ・ガーン所長が、
「ある、ある。うまい具合に役だった地震を調べてくれ。今回沈んだ10万平方※(全角キロ、1-13-33)※(全角メートル、1-13-35)の地面を持ち上げたような地震だ。それが君の仕事だ。見つけられなければ、マクスウェル陸海軍長官の言質げんちが次善策だ。つまり潜水艦を造りまくる。敵は潜水艦を作れなきゃ、侵入できない」
 アサ・ガーン所長は間違いなく、中米災害の全貌ぜんぼうを解明した世界初の人物だが、更に先んじていたのは、英国学士院のきら星フィニアス・グレイ卿だ。フィニアス卿は、住んでいる大西洋の沿岸によって幸運とも、不運ともいえるが、言論界ではどちらかというと極論者として有名で、同氏の警告は英国新聞や大陸新聞では世紀末予言の再来と同等の扱いだった。
 議会がたった1回だけ警告に注目したのは、ラスマー上院議員が季節外れに暖かい天候を取り上げて、メキシコ湾流が今年は早々に向きを変えたのじゃないかと淡々と質問したときだった。時折、海洋学者のなかにもフィニアス卿に同調して暴露本を書くものもいた。

 そうこうしてクリスマスが粛々と近づいた。テッドはワシントンに駐在して幸せいっぱい、昼は事務所で職務の地形図を作製し、夜はケイ・ラヴェルの許す限り一緒に過ごした。そして、だんだん逢瀬おうせが増えていき、休日を大いに楽しみ、婚約寸前となった。
 もう2人の間では婚約したのであるが、都合のいいときに父のジョシュア卿に話すだけとなった。娘のケイにとっては、父の承認が英国の伝統保守階級では必須なようだ。
 テッドの気がかりはアサ・ガーン所長の暗示した悪い未来図であったが、ケイには言うまいと心に誓った。一度、ケイがフィニアス・グレイ卿の警告を何気なく持ちだした時、テッドはくだらないとごまかし、あわてて話題を変えた。だが、年が変わって1月になると、事態が変わり始めた。
 1月14日に最初の寒波が欧州を襲った。ロンドンは終日、前代未聞の-30℃に震え、パリは大寒波を身振り手振りで声高に論争した。そのあと高気圧が東へ移動し、平温に戻った。
 だが長続きしなかった。1月21日には別な極低温の帯が偏西風に乗ってやってきた。英国新聞や大陸新聞は国会図書館で慎重に調査して、動乱のきざしをあばき始めた。テッドが食い入るように読んだ社説。

『なるほどフィニアス・グレイ卿は異常だ。なるほどそうだが、ひょっとして正しかったかも。ひょっとしたらだ。こういうことが考えられなくはないか。新聞発行都市により異なるが、独、仏、英、ベルギーの安全と主権を左右するのは、1万※(全角KM、1-13-50)離れた狭い帯状地域の乱れじゃないのか。独、仏などは自らの運命を決めなければならない』

 第3波の北極寒波が来ると、論調は大っぴらにおびえだした

『おそらくフィニアス卿が正しい。じゃあ何、何をすべきか。噂やささやきがパリやベルリンに満ちている。冷静なオスロですら暴動が目撃され、保守的なロンドンも同様だ』

 テッドは、アサ・ガーン所長の予言が鋭い判断に基づいていたことを分かり始めた。つまりドイツ政府が敏感な国境問題について、フランスに公然と友好的なそぶりを見せ、フランスも同じく寛大な声明を返した。ロシアは抗議したが、やんわりと無視された。ヨーロッパは確実に再編されつつある。それも、ものすごく急激に。
 だがアメリカはワシントンの悩み深き一団を除き、事件にはうわべだけの関心しか持たなかった。貧者の困窮記事が2月の第1週に出始めると、救済募金活動に拍車がかかったが、わずかな成果しか得られなかった。
 人々は単に関心がなかった。厳冬といっても、洪水とか火災とか地震などのように、劇的に訴える力がない。だが新聞報道に増え出した不安材料は、6年間未達の移民割当人数が再び満杯になり、メキシコ湾流の国々から移住が始まったとか。
 2月の第2週になると、激しい動揺が欧州に起こり、さすがに尊大なアメリカにも影響が跳ねかえり始めた。列強の再編成が今や公然かつ明確になった。
 スペイン、イタリア、バルカン諸国、ロシアが同盟を組んだ。北と西に脅迫的な積乱雲が出てきたからだ。ロシアはたちまち日本との積年の争いを忘れ、日本も妙なことに自ら進んで怒りを捨て去った。
 お互いの思惑が奇妙に変化した。大面積、少人口の国々、つまりロシア、アメリカ、メキシコ、南米などがじっと見つめる欧州は逆上しており、夏が来れば有史以来、大量の移民を送り込もうと待ち構えていた。
 族長アッティラと、フン族集団であるモンゴルが大挙して中国を滅ぼした事件、さらに白人が大量に南北アメリカへ移動した事件すらもみな、いま脅威にさらされている侵入に比べれば、取るに足らない。強大な武力を持つ2億人もの人々が、世界の空白地帯を、気が動転してにらんでいる。どこに最初に雷が落ちるか誰も知らないが、落ちることに疑いはない。

 欧州が信じられないような厳冬に震えている間に、テッドもまたある私情のために震えていた。半狂乱の世界がテッドに跳ね返り、ここアメリカでその縮小版が出現したのは大英帝国の申し子、ケイ・ラヴェルであった。2人の思いはそれぞれの国家にならい、破綻した。
 秘密にするときは終わった。ケイの家に行き、暖炉の前でケイに向かいあい、赤々と燃える炎とケイの顔をじっと眺めていると、キラキラ輝く顔を見るだけで、テッドの憂鬱ゆううつはいっそう深まった。
 テッドが白状した。
「ああ、知ってたよ。パナマ運河地震の2〜3日後には知っていた」
「それならどうして私に教えなかったのよ。教えるべきよ」
「出来なかった。言わないと誓ったんだ」
 ケイがなじった。
「ずるいよ。なんで災難が英国に降りかからなきゃならない? メラクラフト地方が雪の中で、古代バイキング塔みたいに、突っ立っているのを考えるだけでも病気になる。テッド、私はウォリックシャー州で生まれ、父と祖父も、先祖もよ。そして家系は征服王ウィリアムの時代までたどれる。母のバラ園がツンドラみたいな不毛地になって、うれしいと思う?」
 テッドは丁寧ていねいに返事した。
「申し訳ない。しかし、どうしようもない、誰にも。ただきみが大西洋のこちら側にいるのでうれしいよ、安全だからね」
 ケイが真っ赤になって、
「安全ですって。ええ、私は安全よ。でも英国民はどうなのよ。アメリカは安全で、運がいい、選ばれた国よ。どうして英国が苦しまねばならない? メキシコ湾流は米国沿岸も洗うのに。なんでアメリカ人は寒さに震えず、こごえず、怖がらず、希望に満ち、温暖で、快適で、無関心なの。これって公平かしら」
 テッドは苦しげに説明した。
「メキシコ湾流が米国にそれほど影響を及ぼさない理由は第1に欧州よりずっと南に位置しているからさ。第2に卓越風たくえつふうが英国と同じように西から吹いてくるんだが、米国の卓越風は陸から湾岸流に流れるけど、英国のは湾岸流から陸に吹き込むからだよ」
「それってずるい、公平じゃない」
「ケイ、僕に出来ることは?」
 ケイは不意に沈んで、それから再び怒って、
「ないと思う。でも米国民は何かできるはずよ。ここを見て、いい」
 ケイが1週間遅れのロンドンタイムズを見つけ、素早く指差し、テッドに見せて、
「いい、ちょっと聞いて」

『人道上の名において姉妹国の門を開けろと強要しているのではない。我々をインディアン狩場かりばや、バッファロー生息地の広大な土地に移住させろということだ。移住によって得られるのは人口ばかりじゃない。つまり、移住先の国に、穏健思想、産業、順法市民をもたらし、強盗や悪党など皆無だから、考えるに充分値する。
 我々がもたらす大きな購買力はアメリカの製造業者のためになるし、全員、財産を携帯するだろう。そして国土防衛戦争になれば、最終的には熱烈な大防衛軍となるだろうし、戦争はいまや不可避のようだ。英国の言語は米国と同じだし、当然の論理的解決策として特に考えるべきは、テキサス1州だけでも、地上の男・女・子供1人当たり、2500坪を割り当てられることだ』

 ケイが一息ついて、テッドをにらみつけて、
「どう?」
 テッドは鼻じろみ、ぴしっと言ってやった。
「インディアンとバッファローか。合衆国でどっちか見たことあんの」
「いいえ、でも……」
「そのテキサスだが、確かに世界中の人間1人当たり2500坪の土地があるけれど、なぜ、きみらの編集者はその2500坪の大部分で牛1頭すらやしなえないと書かないの。ラノ・エスタカド高原はアルカリ砂漠に過ぎないし、残りもほとんど水不足だ。その論調から行くと、きみらはグリーンランドへ移動すべきだ。きっと1人当たり7500坪あるよ」
「そうかもしれないけど……」
「それに大購買力の市民だが、所持財産と言ったら金塊か紙幣じゃないの。金塊はいいが、英国の信用保障なしに1ポンド紙幣が何になる。大量の新市民は単に失業者を増やすだけだ。やがて米国産業が雇うかもしれんが、何年もかかろう。一方では賃金がゼロに下がるかもしれない。労働力がものすごく余るから。食料と家賃は高騰するだろう。何百万人もの余分な胃袋を満たし、寝場所を供給するためにね」
 ケイが冷たく言い放った。
「わかった。好きなだけ言いなさい。一歩譲って正しいとしても、間違いが1つある。残された5千万英国民が飢え、凍りつき、苦しんでいく中で、気候の行き着き先は北極よ。あんたらアメリカ人は暖房なしのあばら家に住む貧しい一家のことを新聞が書けば騒ぎ立てるくせに、1つの国がまるまる暖炉を失ったイギリスはどうなのよ」
 テッドが真面目に反論した。
「暖炉を失くしたほかの7〜8カ国はどうなの?」
 ケイが怒りをあらわにして、
「英国には優先権がある。米国は言葉も、文学も、法律も、文明も全て持っていった。だから今でも英国植民地に過ぎないはず。ほんとのことを知りたければ、それがすべてよ」
「我々の考えは違う。とにかく、きみも知っているように、合衆国は1国に門戸を開け、他国を排除することはしない。全てかゼロ、つまりゼロということだ」
 ケイが厳しい口調で、
「だから戦争になる。ああ、テッド、どうしようもない。向うにおばや、いとこや、友人がいる。ひどい目にあってるのに私が無関心で傍観していられると思う? 事態が進んで、もう駄目になっている。既に土地は無価値になった。今となってはタダでも売れない」
「わかるよ、すまん、ケイ。でも誰のせいでもない。誰も非難できない」
「だから誰も何もしなくていいの。それがアメリカの親切な考えなの」
「公平じゃないよね。でも、我々に何ができるんだ」
「私たちを入国させられるでしょ。ところが実際は入国するために戦わなければならない。私たちを非難できない」
「ケイ、アメリカにはどの国も、どの一団も侵入できない。たとえ我が国の海軍が全滅しても、敵軍はどれだけ海上を進めると思うか。ロシアへ進軍したナポレオンの再現だろう。進軍したら飲み込まれる。それに欧州のどこで食料を見つけて、侵略軍に補給するの。移動先で生き延びられると思うか。言ってやろう、正気な国家ならそんなことはやらない」
 ケイが猛烈に言い返した。
「たぶん正気な国家ってないよ。まともな国家を相手にしてると思っているの」
 テッドは気が滅入って肩をすくめた。
 ケイが続けた。
「みんなやけくそよ。非難できない。何をされようが自らまいた種よ。たとえ大英海軍が米側にこうが、欧州全体を敵に回すよ。愚かだ。もっと悪い。自分本位だ」
「ケイ、きみとはケンカできないよ。気持はよく分かる、それに最悪な立場も。でも全面的に賛成したとしても、それは無理なことだが、僕に何ができる。大統領でもないし、議員でもないし。今夜は議論をやめようよ、ケイ。みじめになるばかりだ」
みじめよ。ほかの誰かになったような気がする。大切なもの、愛するもの全て、運が尽き、北極氷の下に埋められる」
 テッドがやさしくいた。
「ケイ、すべてかい。忘れていないかい、きみにも大西洋のこちら側で何かあるんじゃない」
 ケイが冷静に、
「何も忘れてない。すべて話した。本気よ。アメリカは大嫌い。そう、アメリカ人もよ」
「ケイ」
 ケイが怒って、
「もうひとつ、アメリカ人とは結婚しない。パナマ運河を再建したとしてもよ。もし英国が凍れば一緒に凍る。そして英国が戦えば敵は敵よ」
 ケイは不意に立ち上がり、困惑するテッドの顔にわざと目をそむけ、部屋からプイと出て行った。

 大混乱した2月の数週間、テッドは時々、議会の傍聴席に足を運んだ。やる気満々の議会は、秋の再選に向け、国家の中でも熱気渦巻く要所であり、分科会で声高に論争していた。
 通常案件は無視され、連日、両院一体になって、どう見ても無効だとしか思われない前代未聞の緊急動議を審議し続けた。千差万別の風変わりな法案が提案され、審議、保留となり、ふたたび審議、再提案、再保留となった。
 年初の献金ブームに乗って、中間選挙では多数派の保守党が楽勝したが、真っ当な政策はなく、少数派の労働党や左派の提案は否決され、代替案もなかった。
 不思議な議会史の中でも、一番奇妙な法案がいくつか、この時期に現れた。テッドは左派の提案に聞き入った。
 アメリカ人の1家族につき2人の欧州人を受け入れて収入を3分割する。望むらくは欧州人は自発的に不妊手術を受けて、非常事態を1世代に制限する。
 またある突飛な新聞によれば、アラスカ州選出の上院議員が紙幣計画を発表し、魔法の計算式を適用して、欧州人に生活費を支給し、世界を破綻させないという。完璧な救済法のように思われたが、2億人もの人々へ寄付をするというのは明らかに尻込みするもので、どっちみちこの提案はほとんど注目されなかった。
 しかし両院を通過した幾つかの法案は、議論されることなく、左派からも労働党からも保守派からも支持された。その断固たる予算とは潜水艦や重爆撃機や迎撃戦闘機や空母の予算であった。

 ワシントンは妙に忙しい日々となった。うわべは依然として華やかな社交場で、あぶくのように群れつどうさまは大首都そのもの。もちろんテッドは若く、とても魅力的だったので招待がひきもきらなかった。
 でもいくら鈍感どんかんなものでも表面下を流れる重苦しい影を見逃さなかった。舞踏会あり、楽しい夕食の会話あり、笑い声ありだが、一皮むけば恐怖があった。
 気づいたのはテッドだけじゃなかったし、あらゆる行事に湾流国家の外交団がいないのは、かえって目立った。ただし、重要行事のなかで、湾流国家外交団が出席して政策決定する場合は別だ。そして、そんな場合にも事件は起こった。
 テッドがいるとき、フランス公使が部屋から怒って出てきた。その理由というのは主催者側の不首尾ふしゅび。楽団にうっかり演奏させたのが人気曲『ガルフストリーム・ブルー』訳して『湾岸流の憂鬱ゆううつ』だったからだ。新聞は慎重を期してこの事件を報道しなかったが、ワシントンスズメは数日噂した。

 テッドはケイに会えなかった。ケイの父は必要があれば出てきたが、ケイはあの日突然拒絶してからは現れなくなり、父のジョシュア卿に尋ねても、ただよそよそしいあいまいな言い訳をして、気分がすぐれないという。だからテッドはイライラ、一人悶々とし、ついには自分の立場が重要か、世界が重要か、分からなくなってしまった。突き詰めれば当然ながら、両者は同じ。
 世界はヨウ化窒素結晶のようで、夏の乾燥を待ち、爆発するばかりであった。欧州のてつく地面は南極雪中のエレバス山やテラ火山のようにきかえっていた。
 小国ハンガリーは陸軍を西に集結させ、明らかに目的はオーストリア併合部に集結した敵軍への対抗であった。この報告に関し、テッドが聞いたのはマクスウェル陸海軍長官が安堵の表情を浮かべて述べた談話だ、つまりドイツは矛先ほこさきを内陸に向け、アメリカの潜在的な敵が1つ減ったことを意味する。
 だが海洋国家の戦略は別だった。特に強力な大英帝国は世界防衛艦隊を日に日に大西洋に集結させた。実際大西洋は込み合った。というのも西岸には米国戦艦が集結しており、米国艦隊は最終的に強化条約に基づき建造され、それをはるかに上回る規模になった。
 一方、北方や南方に集まった船はわずかばかりの蒸気しか上げられず、乗船した運のいい人々が故郷の欧州を捨て、希望の国々へ向かった。
 欧州の植民地がどこにあろうが、アフリカとオーストラリアはかつてない大量の移民を受け入れている。でもこれらの移民はほんの一握りであり、たっぷり流動資産を持ち、旅ができる人々であった。何百万人という無数の人々が自宅を離れられないのは土地が売れない、事業に投資している、未練がある、あるいは単に金がなくて家族の旅費が買えない等の理由だ。
 そして被災国内で必死に希望にしがみつく人々は、この信じられないような極寒ですら、やがて危険は去り、最後には良くなるだろうと信じていた。
 愚直で小国のオランダが、おおやけに全人口の移住を発表した最初の国家だ。テッドもその文書、少なくとも2月21日付け新聞記事を読んだ。実質上、ケイがロンドン紙で読んだ主張の繰り返しに過ぎなかった。
 博愛を口実にしたり、善良市民だ、技術市民だと主張したり、友好を強調したり、友好はいつも2国間にあるとか云々。そして非常事態のために、緊急回答を求めて、交渉は打ち切られた。まさに緊急回答が到着しようとしていた。
 回答は新聞にも発表された。上品かつ、とても洗練された微妙な文体で記された内容とは、米国が1ヶ国の国民だけを受け入れて、他国を排除することはないよし
 国籍法の条項に基づき、オランダ移民は割当人数いっぱい受け入れられよう。さらに割当人数を増やすことも可能だろうが、全廃はない。事実上、外交的には体のいい拒絶であった。

 3月が南西風にのってやってきた。南部の州に春をもたらし、ワシントンにもかすかに暖かい気候の兆しがあったが、メキシコ湾流の国々は北極気候からのがれられず、氷に覆われていた。
 ただ南フランスのバスク地方だけは、ピレネー山脈から、湾流の暖かいつむじ風が時折吹き込み、厳寒の縛りが解放されるような兆候があった。しかし、あくまで気配だ。4月が来て、5月も来るだろう。そして世界は戦争に備えて、鋼鉄の筋肉をぴくぴく動かすだろう。
 いまやみんな戦争が差し迫っていることを知った。最初の文書と回答が数件公表されたあとは一切新聞に載らなくなったが、代表団の声明やメモが列強間で白鳩のようにあたふた飛び交っていることは皆知っていたし、少なくともワシントンにいるものなら知っていることだが、メモの文言もんごんはもはや生易なまやさしいものじゃなかった。要求はぶっきらぼうで、拒絶はそっけなかった。
 テッドは、観察に抜け目はなかったが、それ以上どうしようもなかった。延々とアサ・ガーン所長と語り合った。さばけたテキサス人の所長は自分の予想を立証したのであるが、もう騒動の埒外らちがいだった。
 当然ながら地質調査所は関係ないからだ。そして地質調査予算が急激に減らされ、そんな肩身の狭い思いを共有する政府機関は、国土防衛に無関係な部署だった。
 アメリカ国中はもとより、さらに西欧を除く国々が、熱に浮かされたように異常で熱狂的な活気に包まれた。欧州から資本が逃避したり、食料をひっきりなしに貪欲どんよくに半狂乱で求めたりして、商売は繁盛し、輸出が信じられないほど増えた。
 この緊急事態において、フランスおよびその主権下にある国々は、第2次フラン切り下げ以来、金塊にひどく執着しているので、いまや圧倒的な優位に立った。だって、金塊なら小麦や牛や石炭が大量に買えるもの。でも、特に英国のような紙幣国家は、小さな石の家でも、隙間すきま風が入る大邸宅でも、寒さに震え凍りついていた。

 3月11日、忘れもしない火曜日、ロンドンの気温が-33℃に下がった時、テッドは6週間も苦闘した挙句、ある結論に達した。自尊心をぐっと飲み込み、ケイにまた会いに行った。
 ワシントンスズメのうわさでは、ジョシュア卿が召還しょうかんされて、英国との外交関係が壊れ、フランスのような敵対関係になるという。全国家が固唾かたずをのんで日々の成り行きを見守った。というのも、フランスと敵対しても海軍力はほとんど無視できるが、もしも、いま超強力な英国海軍がフランス軍と同盟を結べば……
 だが、テッドを悩ましていたものは、ずっと個人的な問題だった。もしジョシュア・ラヴェル卿がロンドンに召還しょうかんされたら、ケイも一緒に行くだろうし、ケイが欧州の冷凍地獄につかまったら、永遠に失ったように狂乱するだろう。戦争が勃発ぼっぱつしたら、いや確実にそうなるはずだが、再会の望みも吹っ飛ぶだろう。
 欧州はどうやら破滅が運命づけられた。だって何千※(全角KM、1-13-50)もの海原を越えて侵入なんて出来っこないもの。だが欧州の一部分でも救えたら、それが肝心だが、そしてどうにかしてケイ・ラヴェルを救うことができたら、自尊心も何も犠牲にする価値がある。
 そこでもう一度電話をすると、使用人がつっけんどんな返事をするので、ひま同然の事務所を抜け出て、直接ケイの家に乗り込んだ。
 ベルを鳴らすと、先ほどの使用人が冷たく、
「ラヴェルお嬢様はおりません。お電話で申し上げました」
「待つさ」
 とテッドがきっぱり返し、玄関扉から中にはいった。ホールの椅子にぽつんと座り、使用人をにらみつけ、待った。5分もたたないうちにケイが現れ、階段をとことこ降りてきた。
「帰ってちょうだい」
 とケイが言った。青ざめて困っているようなので、急に同情した。
「帰らないぞ」
「どうすれば帰るの。もう会いたくない、テッド」
「ほんの半とき話を聞いてくれりゃ、帰る」
 ケイがやれやれと折れて、居間に案内した。そこは皮肉にも火がパチパチと盛大に燃えている。ケイが聞いた。
「それで?」
「ケイ、僕が好きか」
「い、いいえ」
 テッドがやさしく、
「ケイ、僕と結婚して安全なここに住んでくれ」
 ケイの茶色の眼に不意に涙が光った。
「嫌いだ、すべて嫌い。ここは殺人国家だ。東インド強盗団みたい。ただ殺人教を叫び、愛国心だと言ってる」
「きみとケンカしたくない。ケイ、きみの意見は責められない。僕のことが分からなくてもいい。それでも、僕が好きか」
 突然、弱気になって、
「分かった、好きよ」
「じゃあ、僕と結婚してくれるか」
「ダメ、ダメ。結婚しない、テッド。英国へ帰るから」
「じゃあ、いま結婚してくれないか。帰英させるから、ケイ。そのあとは、何か起きても世界が残っていれば、きっとここに連れ戻せる。僕は信念の為に戦わなければならない。敵同士の間は一緒にいてくれと頼まないが、そのあと、きみが妻なら、ここに連れ戻せる。そうじゃないか」
「分かった、でも、できない」
「なぜだ、ケイ。好きと言ったじゃないか」
 ケイがみじめな思いで言った。
「好きよ。嫌いだったらよかった。そうすれば結婚しなくて済む。アメリカ人のやり方が嫌いなの。もし、テッドがイギリス側だったら、あした、いや今日、いや今から5分後でも結婚する。でも今は結婚できない。正直じゃないもの」
 テッドがふさぎこんで答えた。
「裏切り者はいやだろう。ケイ、1つ確かなことは、きみは裏切り者を愛せない」
 と一息置いて、
「それじゃあ、お別れかい?」
 ケイの眼にまた涙が流れた。
「ええ。まだおおやけになってないけど父が召還しょうかんされたの。あす国務長官に伝える。あさってイギリスへ出発する。それでお別れね」
 テッドがつぶやいて、
「きっと戦争になる。ケイ、何はさておき、本当にすまない。気持ちは責められない。きみが心変わりするはずはないし、以前のケイ・ラヴェルのままだけど、どうしようもない。くそ、どうしようもない」
 ケイは黙ってうなずいた。しばらくして、
「テッド、私のことも考えて。故郷へ帰るってことはそうね、南極のロックフェラー山脈に行くようなものよ。いっそのこと、イギリスは海に沈めばよかった。その方が南極よりずっと良かった。もしも、ベン・マクドィ山頂を波が洗うまで沈んだら……」
 ここでケイが一息入れた。
 テッドが悲しげに答えた。
「波はベン・マクドィ山頂よりずっと上を洗うよ。波は……」
 といいかけて突然止めて、びっくりしてケイを見つめた眼には、一条の希望の輝きがあった。
「シエラ・マドレ山脈だ、母なる山脈、シエラ・マドレ、シエラ・マドレだ」
 とテッドが叫び、あまりの怒鳴り声に、ケイが後ずさり。
「何ですって」
 とケイがあんぐり。
「シエラ・マドレ……、いいか、ケイ、聞いてくれ。僕を信じてくれ。きみに、何か、何か、我々2人の為にやってくれ。いや我々の為じゃない、世界の為だ。やってくれ。ケイ、きみならやれる。お父さんの召還しょうかんを公表しないようにしてくれ。あと10日、せめて1週間、止めてくれ。できるかい」
「方法は? どうやって?」
「さあ。とにかく、どんな方法でも。病気になってくれ。重病で旅ができないと言って、動けるまで召還を公表しないよう、お父さんに頼んでくれ。いや、お父さんにこう言いなさい。米国が数日中に代替提案をすると。これは本当だ。誓うよ、ケイ」
「でも、でも父は信じない」
「信じるはずだ。やり方は任せるけど、お父さんを足止めしてくれ。そして英国外務省にこう報告させろ。新展開、とても重要な展開が生じたと。本当だ、ケイ」
「本当なの。それを教えて」
「説明する時間がない。頼んだよ」
「やってみる」
「たのもしいぜ」
 とテッドがかすれ声で言い、ケイの悲しそうな茶色の瞳を見つめ、軽くキスして、大急ぎで出て行った。

 アサ・ガーン所長が死海ソルトン湖の地図をにらんでいるとき、テッドがアポ無しで事務所に駆け込んできた。長身のテキサス人所長が眼を上げ、不作法な入室者に軽く会釈をした。
 テッドが大声で叫んだ。
「わかりましたよ」
 アサ・ガーン所長もうなずいて、
「最悪だな、何が分かったのか」
「いいえ、と言うか、あのう、パナマ運河の上を音波探知しましたか」
「ドルフィン号が何週間もそこにいる。昼飯の間に、10万平方※(全角キロ、1-13-33)※(全角メートル、1-13-35)の海底図は造れないぞ」
 テッドが大声で、
「どこを音波探査しているんですか」
「当然、パールケイポイント、ブルーフィールズ、モンキーポイント、サンファンデルノーテの海上だ。何はさておき、かつて町だった所を音波探知している」
 テッドが緊張して震え声を抑えながら、
「ええ、当然ですね。で、マーリン号はどこにいますか」
「ニューポートニューズに停泊中だ。今年の予算じゃ2せきも運用できない」
 テッドが急に怒りだして、
「予算などくそくらえ。マーリン号も使え、電気水深測器を積める船すべてだ」
 アサ・ガーン所長が事務的に、
「了解、直ちに。ところで、君はいつゴルズボロウ内務長官を解任したんだ、ウェリング君」
「すみません。命令するつもりはありませんが、考えついたのです。現状の大混乱からすべてを救いだす方法です」
「ほんとかい。ちょっと面白そうだな。国際決定とは別口か。資金計画か」
 テッドが興奮して、
「違います、シエラ・マドレですよ。分かりませんか」
一言ひとことじゃ分からん」
「じゃあ、聞いてください。僕は沈没地域上空を隅々まで飛んできました。測量し、写真を撮って、地図を作りました。沈んだ陸地帯は自分の寝床の凸凹と同じくらい良く知ってます」
「それはおめでとう。で、それがどうした?」
「これです」
 とテッドがきっぱり。壁に向き直り、中米の地形図をおろし、話し始めた。しばらくアサ・ガーン所長が椅子から身を乗り出していたが、薄青色の瞳に奇妙な光が輝いた。


 その後のことは、あまたの歴史家が様々な方法で記録し、解説している。ドルフィン号とマーリン号が、コルディレラ山系の沈下軌跡を大車輪で音波探知し続けた話は、そのまま第一級の冒険物語となっている。
 秘密外交があり、大英帝国が中立を保ったので弱小海軍国があえて5千※(全角KM、1-13-50)の海原を越えて戦争を仕掛けなかったことも、もう1つの伝説であり、決しておおやけに語られることはない。
 だが、なかでもとりわけ素晴らしい物語、つまりコルディレラ大陸間・城壁を建造したことは、人口じんこう膾炙かいしゃされているので論評の必要はない。
 音波探知で、海底のシエラ・マドレ山脈をジグザグに追跡した。テッドの推測が正しかった。山脈の頂上は海面下からさほど沈んでいなかった。反赤道海流ルートが見つかり、深さはどこも70※(全角メートル、1-13-35)以下だった。
 3月31日に始まった城壁建設は超特急、工事は昔日せきじつのパナマ運河掘削工事など取るに足らないと思わせるものだった。
 9月終わりごろになると、長さ300※(全角KM、1-13-50)ほどが海面上に現れ、頑丈な城壁は一番狭いところで幅20※(全角メートル、1-13-35)、高さは最高部で70※(全角メートル、1-13-35)、平均高30※(全角メートル、1-13-35)になった。
 まだ半分しか完成してないとき、北極の冬将軍が欧州を襲ったが、建造半ばでも決定的な城壁となった。片方を反赤道海流が洗い、もう片方を赤道海流が洗い、2つが合流してメキシコ湾流となってゆっくり欧州へ向かった。
 そして、100そうもの海洋調査船によれば、強力な湾流が再び、そろり北に向かい、まずフランス沿岸、次に英国沿岸、最後に高緯度の北スカンジナビア半島沿岸に達した。冬の到来はかつてのように穏やかとなり、安堵のため息が全世界からあがった。
 表向きコルディレラ大陸間城壁はアメリカが建設したことになった。善良で愛国的な新聞の多くが嘆き悲しんだのは、アメリカが欧州の為に5億ドルを負担して、またしてもカモになったことだ。
 誰も気づかなかったのはこの計画のために連邦議会が予算を計上しなかったこと、ましてや誰も不思議に思わなかったのは大英帝国海軍がトリニダードやジャマイカやベリーズの基地に英国大西洋艦隊の大部分を停泊させたことだ。
 そればかりか、これに関して誰も疑問に思わなかったのは、廃止された戦債が突然再発行され、欧州列強が喜んで落札したことだ。

 歴史家や経済学者の中には懸念けねんしたものも少数いたかもしれない。真実はこうだ。コルディレラ大陸間城壁によってアメリカは世界の覇権を獲得し、事実上世界の皇帝同然となった。
 テキサス南端、フロリダ、プエルトリコ、運河地帯などから1千機の飛行機で爆撃すれば、城壁は破壊できるかもしれない。だが、欧州国家でそんな危険を冒そうとする国はない。
 そのうえ、世界のどこにも、更にはメキシコ湾流が気候に影響しない東洋ですら、あえてアメリカに戦争を仕掛けようとする国はない。たとえば日本が宣戦布告でもすれば、欧州の全軍事力が立ち向かうだろう。欧州はコルディレラ大陸間城壁を攻撃する意思はこれっぽちもないし、そもそもアメリカと戦争する国はまず、この城壁を強行突破しなければならないだろう。
 事実上アメリカは欧州の軍隊を数機の爆撃機で攻撃できる。ただし平和主義者なら、そんな企てはおくびにも出さないけれど。かくして、このような結果をもたらした城壁は、公式にはコルディレラ大陸間城壁と呼ばれていたが、新聞はこぞって発案者にちなみ、ウェリング城壁と書き立てた。

 真夏ごろやっと、テッド・ウェリングは結婚とハネムーンを考える余裕ができた。ケイと一緒にハネムーンを過ごしたのがカリブ海、この危険な海を全長15※(全角メートル、1-13-35)の頑丈な帆船はんせんで走っていた。船はアサ・ガーン所長が地形調査の為に借りたものである。
 2人が楽しい時間を過ごしながら眺める先に、大型の浚渫しゅんせつ機と築城船が必死に作業を行い、かつてシエラ・マドレ山脈だった沈下帯に何百万立方※(全角メートル、1-13-35)を埋めている。
 そしてある日、2人が水着を着て船上で肌を焼いているとき、テッドがケイに尋ねた。
「ところで、僕には話してくれなかったけど、どうやってお父さんのジョシュア卿をアメリカに留まらせたの? おかげさまで開戦が引き延ばされ、このようなことが実現できた。どうやったの」
 ケイがえくぼを作って、
「ええ、はじめ、父に病気になったと言ったの。ひどく悪いって」
「お父さんは引っかかっただろ」
「いいえ、航海に出れば治るだって」
「つぎに、どうした」
「そうね、父はキニーネに対してある種の特異体質なの。インドに赴任したとき毎日キニーネを飲まなければならなかったから、発疹ほっしんが出て、それ以来何年も飲んでない」
「それで」
「分からないの? 父の食前カクテルやら、ワインやら、お茶やら、砂糖や塩にまでキニーネを少し混ぜたのよ。食事するたびに、苦いとこぼしたけど、それは消化不良のせいと嘘ついたの」
「それから?」
「もちろん、消化カプセルを買って、中の薬を抜いて、キニーネを一服盛った。すると2時間後にさけのように真っ赤になって、あまりのかゆさに座るどころじゃなくなった」
 テッドが吹きだして、
「それで居たなんて言うなよ」
 ケイがすまして、
「それだけじゃない。知り合いの医者を呼んだ。この医者というのが私に求婚し続けていたので、お金を少し握らせて父に病名を告げさせた。丹毒症と言ったと思う。とにかくなんか激しい接触伝染病よ」
「それで?」
「それで、私たちは2週間隔離された。その間、父にキニーネを投与し続けて、はったりを噛ました。だから厳重に隔離された。召還しょうかんを発表できなかっただけなの」






底本:First published in Amazing Stories, April 1937
原著者:Stanley G. Weinbaum
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翻訳:奥増夫
2024年10月26日作成
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