第1章 真の恐怖
ニコラス・ディバインが連れの女性に眼を向けながら言った。
「そういうことじゃない。経験や現実と、かけ離れた真の恐怖という意味だ。ただ漠然と怖いのじゃない、つまり何か起こるかも、未知の危険があるかも、という恐怖じゃない。意味が分るか」
黒々と広がる闇夜のミシガン湖に眼を泳がせながら、連れのパットが言った。
「もちろん。確かに言うことは分るけど、いきさつは全く知りません。だいぶお困りのようで」
見れば、ニコラスの細顔が遠くの明りでくっきり浮かび上がっている。ニコラスは視線を転じ、湖をじっと見つめ、ハンドルのレバーをぼんやりいじった。パットは少し胸騒ぎを覚えた。
パトリシア・レーンの夜の楽しみといえば、おしゃべり以上にわくわくするものはない。二人はここに丸々2時間も駐車している。
ニックには何かある、しかし実体はよく知らなかった。感性とか、魅力とか、個性とか……。これらは、つまらない常套語句であり、説明できない微妙な性格を掴む手段でもある。
ニックが再開した。
「むずかしいけど、ボードレールや、ポーが試みた。絵画ではホガース、ゴヤ、ドレがやった。ポーが一番近づいたと思う。特定の詩や小説で恐怖の本質を捉えた。そう思わないか」
「さあね。ポーはほとんど忘れました」
「黒猫という小説を覚えているか」
「すこし。妻殺しの男でしょう」
「そうだけど、その役じゃない。猫のほう、脇役の猫の方だ。使いようによって、猫は恐怖の象徴になり得るって知っているだろう」
「ええ。裏切り猫は嫌いです」
「ポーの猫だがね。ちょっと考えてみれば、まず黒猫、恐怖の要素だ。それから不自然に巨大で、異常に大きい。そして全身真っ黒じゃなく、つまり完璧に美しくなく、胸の所に白いまだらがあり、徐々に途方もない形になっていく。覚えているか」
「いいえ」
「絞首台の形だよ」
「うわあ」
「それから、ここが鬼才のきわみ、眼だ。片側はつぶれ、もう片方は不吉な黄色い眼球だ。想像できるか。黒猫、絞首台の斑点がある異常に大きい黒猫、片目がなく、もう片目はもっとおそろしい。もちろん創作上の仕掛けだが、うまいし、天才的だ。そうじゃないか」
「ええ、あなたがそういうなら、天才です。ひねくれた悪魔の天才ですね」
ニックがさざ波の湖面に映る光点を見て、
「それを書きたいし、いつか書いてやる。真の恐怖、恐れの
「あなたの分析は趣味がよくない、ニック。なぜ、ポーの小説を改善したいの?」
「書きたいからだし、恐怖に興味があるからだ。この二つが理由だ」
「どっちも言い訳でしょう。もちろん書きあげても、みんなに読みなさいと無理強いできません」
「書き上げたら読者に押しつける必要はない。成功すれば偉大な文学となり、今もなお、こんな時代だから読む人がいるだろう。しかも……」
「しかも、なんですか」
「誰もが恐怖には興味がある。きみですら、否定しようが、しまいが」
「きっぱりごめんです」
「でもそうだよ、パット。それが自然だ」
「ちがいます」
「じゃあ、何だ」
「私の興味の対象は、人々、生活、楽しいひととき、かわいいもの、それに自分のことや気持ちよ。そして愛するひとの気持ちね」
「ああ。まさに僕が強調する点だ。人々は強欲で、人生に絶望し、楽しいときはバカみたいで、美は官能的で、気持ちはわがままだ。そして愛は肉欲的。恐怖の勢揃いだから、キミらが興味を持つ」
パットが
「ふふふ、ニック、あなたなら悪魔を論破しかねない。まともな考えを非難できるって、本当に信じているの」
「ちょいちょいね」
「いまも?」
パットをじっと見て、
「今は全くその気は無い。今は信じていない」
「なぜ信じないの? ふふふ」
「きみの方が正しいからだ」
「おやまあ。私の考えがそのように認められるとは思ってもいませんでした」
「きみの考えじゃない。ほかの理由だ」
「お世辞のようね。もしそうであっても、記憶に残る唯一のご褒美です」
「僕は滅多に見え透いたことは言わない」
「それは別です。ふふふ。この日はカレンダーに赤印をつけなくては。まったく珍しいことですからね。ええと、およそ一ヶ月の知り合いで」
「とても短期間だね。きみを知るのに何年もかかると思っていたよ。今はすべてが詳細だ」
ここでニックが目を閉じて、
「絹のような黒髪、奇妙な紺碧の瞳、いま詩に書けば紫と呼ぶね。小さな唇、エリザベス一世がハチ
「すてき、でも誇張しすぎです。たとえ正しいとしても、それは本当のパット・レーンじゃありません。カメラの方がずっといいでしょう、たった0・1秒ですから」
ニックがまた目を閉じて、
「検証する。個性は魅力的、人格は誠実、根は明るく知的だが厳しくない。賢い蝶々、芸術愛好家。冷静、沈着、それでいて天性的に愛情深い。まだ実社会に触れておらず、シカゴ在住、同時に空想世界に住んでいる。何歳だっけ、パット」
「22歳よ、どうして?」
「どれくらい長い間、人は空想世界にいられるものかなあ。僕は26歳、とっくに脱出した」
「知らないでしょう? 空想世界がどんなものか。きっとそうです」
「もちろん、そうさ。知り得ないし、きみはまだそこにいられる。幸せなようだが、実体が分れば、もう安心していられない」
「それなら、言わないで」
「説明したって、どうってことないだろ、パット。空想世界は奇妙だ、フランス劇作家サルドゥ(訳注)のメロドラマや、昼下がり教室みたいなものた。すべては大道具の作り物だが、特に登場人物に没頭したら、見ているだけで本物に見える」
(訳注)サルドゥ(1831年〜1908年)は史劇でメロドラマ様式を流行させたフランスの劇作家。(『精選版 日本国語大辞典』「サルドゥー」参照)
「聞きたくないよ」
「あなたに苦しめられたから、仕返しをする権利があります。そうねえ、あなたは知的で、無精で、夢想家で、審美眼があります。目が肥えていますね。つまり好色にならずに、芸術を
「もういい」
パットがぐっとにらみつけて、落ち着き払って言った。
「それに、失恋を怖れています」
「ほう、そう思うか」
「ええ」
「きみは間違っている。僕が怖がるはずがない。だって、ほとんど一ヶ月間、恋しているからだ」
「わたしにですか」
「そうだよ、きみにだよ」
「あら。以前は一ヶ月もかからず、男の人が告白したものです。22歳は歳ですかね」
「きみは、じらしの小悪魔だ」
パットが、がっかりしたように口元をすぼめ、
「それで、どうすればいい? 助けを呼びますか。襲われていないけど」
渋々許したキスはパットにとって、満足のいくものだった。喜びに身を任せた。少ない経験ながら、今までで明らかに最高のキスだ。最後に少しあえぎ、きらめく瞳で見つめ、身を離した。
ニックは真剣な眼で見おろし、口元を激しくゆがめ、予想外なことに、妙に不満足な態度を示した。
「ニック、よくなかったですか」
「良くない、パット。つまり、僕に気があるって事かい? とにかく少しは」
「すこし、いやもっとかな。見捨てられたように思いましたか」
ニックがパットをぐっと引き寄せて、
「こんな事があったら、きみ、惨めになりようがないだろ。まさに幸せへ一直線だよ」
パットはハンドルぎりぎりに身をよせて、ニックの片腕を自分の肩に回した。
「わかるでしょう、ニック」
「それじゃ、そういうことか。本当かい?」
「ほんとうです」
「うれしいな」
とニックがかすれ声で言った。その声には妙に不審な響きが感じられた。パットの顔を見れば、遠く霞む夜の水平線をじっと見ている。
「ニック、なぜ愛をそんなに渋々認めるのですか。知るべきよ、好きだって。故意に、いっぱい仕向けたのに」
「確信が無かったんだ」
「ありました。それはないでしょう、ニック。事実上、脅して愛を告白させねばなりませんでした。なぜ?」
ニックが始動ボタンを押した。車に命が
「分ってたまるか」
第2章 心の科学
巨体のカール・ホーカー先生が戸口に現れたとき、パットが言った。
「母は外出しました。先生の処方が効いたようです。いま外でトランプを楽しんでいます」
先生が低くうなるように含み笑いして、
「ますます結構だ、パット。いずれにしろ常習性じゃないようだ。ところで、君の具合は?」
先生が居間に移動し、巨体をソファにおろすと、ソファがきしんだ。
「体調が良すぎて、患者になれません。精神医学なんて、新しい宗派です。仲間内ではたわごとですね」
「君の
「おっしゃる心が存在すればね」
とパットが言い、優美な脚を肘掛け椅子でぶらぶらさせた。
「心はある。私の経験でも時たま証拠がある。いやあった。君らの世代は代わりを見つけたようだが」
「うまくいっているようですよ、ふふふ。今の悩みは多少とも先生方の世代から受け継いだものです」
「その通りだ。でも私の世代がしっかりしたものを贈ったけど、君らの世代は使い方を知らない」
「重いし、使いにくいです。せっせと、現代に合うものに代えています」
「実に良くないなあ」
「たぶんそうでしょうが、先生、ともかく今は私達のものです」
「きみとトム・ペイン(訳注)のものだな。きみら若い人が新語を社会に持ち込むのは理解できない」
(訳注)トマス・ペイン(1737年〜1809年)は、アメリカで活動したイギリス出身の思想家・革命家。(Wikipedia「トマス・ペイン」参照)
「馬鹿にしているな。私が親の立場じゃなかったら……」
「わかってます。お尻をぶつのでしょう。まったく、それが親の特権ですかね」
「お嬢さんの精神はともかく、肉体的には尻叩き年齢を超えておる。もっとも、私は君ほど心は痛まないがね。間違いなく楽しめるだろうな」
「じゃあ、夕食を食べさせないで、寝かせなさいよ、ふふふ」
「それが医者の特権だよ、パット。君のお母さんにも使ったものだ」
「つまり、あなたは親として完全に失格ですね。全責任はあるが、特権がありません」
「そういうことになる」
「でも、ご自分で選ばれたのよ、先生。私のせいじゃありませんよ、偶然お隣にお住まいなのは」
「そうだ。不運だった」
「ところで気づいたのですが、先生はしかるべき治療費を母に請求なさっていませんね」
とパットがいたずらっぽく言った。
「お嬢さん、あれは一部だ」
「そうなの。どうして?」
「お母さんが治療のお世話になりすぎないように、適正額の請求書を送った。賭け事を実際に少し控えなければ、本物の精神病患者になるぞ。いわゆる鼻につく人生を諦めた常習病人だ、分るだろ」
「じゃあ、なぜ高額請求して、完全に治さないのですか」
「お母さんは精神分析、もしくは新思考に乗り換えたかもしれないな。しかも亡くなった父上から面倒を見てくれと言われた。私はそのほかに家事も好きなんだ」
「おやまあ、けっこうなことで。猫とカナリアも一匹ずつ飼っていますよ」
「パット、今日の午後は元気だね。ははは。夕べの
「そうです」
と言うパットの眼が不意に夢見るように変わった。
「また恋したのか、パット」
「またって? なぜまたですか」
「おっと、ビリーとポールがいただろ」
パットの口調が
「ああ、連中ですか。単なる一過性の気まぐれです、先生。ほんの出来心、ひとときの夢、言い換えれば
「今回は? 今回は違って、ぞっこんなのか」
パットが眉をサッと曇らせて、
「どうかしら。素敵なひとですが、変わっています。悪魔のように魅力的なのです」
「変わってる? どんな風に」
「ええ、先生がお考えの、私達現代人にない精神の持ち主です」
「インテリなのか、ええ? 変人か、ダンス仲間の
「むかしはたぶんそうでした。今回は連中と大きく違います」
「どんな場面で、そんな精神の逸材に出会ったんだ」
「ビリー・フィールドが主催する文学の夕べに、ある人を連れてきました。そこではオスカー・ワイルドとユージン・オニールをみんなで音読していました。ビルは図書館でその人に出会ったそうです」
「そこで異彩を放ったんだろう」
「そうです。でもその晩は一言も言いませんでした」
「全員がビリーのようなら、言いたくもなかろう。その神童とやらの特技は?」
「作家です。笑いたければ笑いなさい。おそらく天才です」
「そうか。そういうこともあろう。起こることは知られているが、私の知る限り、君らの世代ではまれだ」
「ええ、先生のご威光に、いま恐縮したところです」
パットが床に足をぶらぶらさせ、医者に向かって、
「あなたがた精神科医は愛の実体をご存じなのですか」
「そう思われておる」
「じゃあ、愛はなんなのですか」
「種を永続させるため、自然が作った装置に過ぎない。生物の中には愛がなくても、うまくやっているものもいる」
「ええ、下等な魚はそうだと聞いたことがあります」
「不正確だな。魚にも原始的な性衝動の
「それじゃ、先生の定義は間違っていないですか」
「おそらくその非難は当たらない」
「とにかくご親切な説明の手前ですが、むかし本能の事を聞いたことがあります。本能では、なぜこの人に引きつけられるのに、あの人を拒絶するか説明できません、でしょう?」
「いや、フロイトがやった。有名なエディプス・コンプレックスだよ」
「母親に対する息子の愛、もしくは父親に対する娘の愛じゃないですか。これで全部説明できるとは思えません。たとえば、私は父親をほとんど思い出せません」
「いっぱい思い出すぞ。恋人のちょっとした特徴とか、何気ないクセとかで記憶は
「完全には納得できません」
とパットが思案げに眉をひそめて反発した。
「まあ、正しい判断におとなしく従いなさい。君が遭遇するかわいい妄想については、そのすべての原因を、私が正確に教えよう。でも一発で当てると思うな」
「けっこうです。そんなことをしたら、秘密が全部お医者さんに漏れます。少ない秘密でも内緒にする方を選びます」
「いい決断だ、パット。ところで、今度の恋人は変な奴だとか言ったな。単に作家という意味か。作家でも全く普通人がおるぞ」
「いいえ、そういうことではありません。ほとんどの場合、とても優しくて親切で、従順なのですが、時々専門知識を激しく披露するので、怖いほどです。とまどいますが、魅力的です。先生に意味がわかれば……」
「ほう、おそらく奴は本来わがままなのだろう、君に優しさを見せつけているんだろう。我を忘れた瞬間に、過激な言動が、やつ本来の性格だろう」
「あなた方お医者様は何でも説明できますね」
「それが仕事だからな。それで報酬を得ている」
「でも、今回は間違っています。ニックのことはよく知っており、演技かどうかわかります。ニックの性格は言ったとおり、優しいけど傷つきやすいことです。このように複雑なのが大きな魅力です」
「そんなに深刻な事例じゃないな。君は充分に冷静だし、自分の感情を分析したり、奴の魅力を解剖できるんだから、君に危険は及ばないよ」
「危険ですって。自分でわかります、おせわさま。危険は私達愚かな現代人が若いときに学びます、だから恋愛中に私の回りをぶらつかないでください。親の立場だろうが、単なる狂人だろうが、私が代わって尻打ちしますよ」
「信じてくれ、パット。心の問題を扱いたいなら、君のような短気者は相手にしない」
「おやまあ、カール先生、なんてことを……」
「そのニックは、北の王女をかんかんに怒らせた奴かもしれないな。奴の姓名は何だ?」
「ニコラス・ディバインです。すてきでしょう」
「ディバインか。ディバイン姓は多くない。家族は?」
「いません」
「生活費は? 著作か」
「しりません。両親の残した収入だとおもいます。どうでもよろしいのでは?」
先生が眉に皺を寄せて、
「違う、そういうことじゃない。私の同僚にディバイン博士がおってな、ずいぶん前に死んだ。風評は自慢できるものじゃなかった。精神を少し病んでいた」
「あら、ニックはそうじゃありませんけど」
とパットが幾分つっけんどんに言った。
「奴に会いたいな」
「こんばん、ここへきます」
先生が、やっこら立ち上がり、
「そうか。君の母上にも会いたいな。またトランプ遊びをしていなければだが」
「ニックをよくしらべてください。それに先生は愛の知識が決定的に薄いですね。すごく無知だとおもいます」
「どうしてだ?」
「だって、愛の何かを知っていたら、この17年の間で、私の母と結婚できたでしょうに。試みたことは神のみぞ知るですが、先生が得たものは親の立場であり、親そのものじゃありませんもの」
第3章 天才を精神分析
「一時間当たり、おいくら請求するのですか」
とパットが訊いたのは、カール先生が玄関から戻ってきたとき。母の足音が玄関の張り出しに響き、家をあとにしている。
「もちろん、お嬢さん、配管工並みだよ」
「それでは一分間当たりの値段は高額ですね。母を診断なさったのは、一瞬、つまりブリッジゲームの間しかなかったじゃないですか」
「君との無駄話時間も含んでいるよ、お嬢さん。今のように、妙な恋人を待っている時間もだ。今晩くると言わなかったかな」
「ええ。でもニックの精神分析をするのは、費用に含まれないでしょう。私でもできますから」
「分った、パット。無料分析して差し上げよう」
と先生が含み笑いして、巨体を長椅子に気持ちよさそうに沈めた。
「無料は嫌いです。むかし美容雑誌を無料で取り寄せたことがあります。ほんの12歳だったので、7日で返却しましたが、いまだに販促資料が送られてきます。国中のカモ名簿に載っているに違いありません」
「そうか、それが君の美貌の秘密だな」
「何がですか」
「つまりその本を読んだに違いないってことだ。タイトルを思い出せば、分析してやろう。助かるだろ」
「ふふふ。先生に美容雑誌は必要ないでしょう。必要なのはブリッジ本です。先生の遊ぶ残酷なゲームこそが母を苦しめるのですから」
「へえ、君の分析が正しくても驚かないな。私もそう、にらんでいる」
「驚くのは、しまっといて、私が間違ったときのために。ましてはショックで寝込むなんていやですよ」
「自信満々の悪ガキめ。いつか叩きのめされるぞ、そうなって欲しくはないが……」
「耐えられます」
「間違いなく君なら耐えられようし、叩かれるのも慣れている。ところで、君の恋人はどこだ?」
「じきやってきます。デートで私を待たせた人は今までいません」
「なるほど、小悪魔め。あれが噂のニックか」
と医者が訊いたとき、窓の向こうで車がブルブルッと止まった。
パットが外をのぞいて、
「そうです。わくわくする人です」
パットが扉へ駆け寄った。カール先生はさりげなく体をひねり、扉が開くとニコラス・ディバインをプロの冷静な目で観察した。
入室した男は、背が高く、やせて、やや繊細な風貌をしており、ホールの明りで輪郭がくっきり見えた。医者をサッと見た。若者の目は奇妙な
「こんばんは、ニック」
とパットが元気よく言った。ニックはあわててパットに笑顔を返し、医者をちらと見た。
「カール先生は気にしないで。キスするんじゃないの。医者にはうんざりよ。機会を逃さないで」
ニコラスはまごついて赤面。もじもじしていたが、あわててパットの
「小悪魔め」
パットは明らかに立場を楽しんでいる。
「へたねえ。もっと上手でしょう。カール先生に会って」
ニコラスを居間の入口へ引っ張って、
「カール先生、こちらが例のニコラス・ディバインです」
紹介されたニコラスが控えめに微笑んで言った。
「カール先生は精神科医・兼・脳専門家でいらっしゃいますね」
「そのように患者は信じておる」
こう言って、巨体の医者は挨拶のために立ち上がり、ニックの手を握った。
「君が天才か、パトリシアがべた誉めしておる。君に会えて嬉しいよ」
ニックが、げんなりしてパットをちらと見れば、返事がないのであからさまに不快そうだ。パットはいたずらっぽく笑っている。
「お二人ともおかけ下さい」
とパットが親切に勧めた。渋るニックの手から帽子を取って、無造作に椅子の方へ投げた。
医者は巨体を再び長椅子に沈めた。神経質そうに座っているニックに目をやり、うめいた。
「さてと、姓はディバインとか」
「そうです」
「ディバインは一人知っておる。同僚だった」
「医者ですか。父は医者でしたが……」
「スチュアート・ディバイン先生かな」
「そうです。父をご存じだとおっしゃるのですか。カール先生」
「ちょっとな。ほんのちょっとだ」
「僕は父を全く覚えておりません、というのも父も母も僕が幼い頃に死んだものですから」
「そうだろうな。ところでパトリシアの話では作家だとか」
「なんとか」
「どんな題材だ」
「もちろん、どんなものでも。散文や詩です。書きたいものなら」
「感じるものなら何でもか」
「はい」
ニックがまた赤面した。
「いままで発表したことは」
「はい、あります。“国民詩”という雑誌に」
「聞いたことがないな」
「発行部数は多いですけど」
とニックが弁解がましく言った。
「へえ。そうか、たいしたものだ。誰が好きか」
「誰が好きか、ですか」
ニックの口調が困惑気味だ。
「どんな著作者、作家を好きか」
再びパットに不快そうな視線を送って、
「ええ、もちろん好きなのは、ボードレール、ポー、スウィンバーン、ヴィヨンそれに……」
「みんな退廃詩人だな」
と医者が鼻白み、
「散文作家は?」
「そうですね、ポー、スターン、ラブレー……」
「ラブレーか。ほう、思ったほど趣味は悪くないな。ともかく一つは一致した。それに現代作家を
「いままで現代物は多く読んだことがありません」
「気に入った」
ここでパットが口を挟んだ。
「よして。あなたは、ある日など私の世代をこてんぱんにやっつけたでしょう」
医者がほくそ笑んで、
「わしと同意見の現代人を見つけて嬉しいよ。少なくとも作品を読んでいない限り」
パットがにやけて、
「私が教えます。一週間で自由詩やダダイズムの書き方を教えます」
カール先生がうなって、
「無駄にならなきゃいいが。ところで、まだ君の作品は見ていない」
「そのうち持って来ます。でしょう、ニック」
「もちろんです、先生が望まれるなら。でも――」
またパットが割り込んで、
「ニックは控えめなことを言おうとしたのです。ニックはもう退去したい気分なので、いまにも心変わりして、先生の首をポキンと折りかねませんよ」
「ふん。見ものだな」
パットが反発して、
「私もよ。先生は毎日災難を招いています。私もやりかねません」
「お嬢さんは数え切れないほどだ。でも私はヒドラ並みだよ。ただし頭は一つしかないから、ポキンと折られても交換できないけど」
先生がニコラスに向き直り、
「ところで、君は働いているのか」
「はい。書いています」
「生活手段という意味だ」
ニックがまた困って、赤面した。
「もちろん。両親の――」
またしてもパットが、
「ちょっと。先生の尋問はもうたくさんです。まるで自分の娘に手を付けられたビクトリア朝の父親じゃないですか。婚約の話なんて、していませんよ、先生」
「そうだな、でも私が訊いたのは」
「もちろん、親の立場でしょう。わかってます」
「君は手に負えないな、パット。手を引くよ。行きたければ行きなさい」
「家の敷居をまたぐなということですね」
とパットが言い、細い足を伸ばし、この上なく魅力的な足首の先端、つまり、つま先でニックの帽子を引っかけて、膝上にうまく蹴り上げた。
「行きましょう、ニック。月夜です」
医者が反論して、
「月はないよ、パット。月は朝4時に出ることを知るべきだ。夕べ見なかっただろう」
「それは気がつきませんでした。行きましょう、ニック。こんばん昇るのを見ましょう。先生の天文学とやらを調べましょう、いや年代学ですか」
「調べなさい、結果は分っておる。すぐ帰ってくるさ、この小悪魔め」
「素敵なお
とパットが陽気に言って、扉に足を掛けて、
「先生が窓から
パットが先生のぼやきを無視して、ホールへ出ると、そこに、ニックが先生に、控えめにお別れを言ったあと現れて、後についてきた。パットが軽い外套を取ると、ニックが肩に掛けてくれた。
「ニック、車の所まで走って行って、ここで待っていて。先生の機嫌をひどく損ねたようですから、すこし慰めてきます。いいでしょう?」
「もちろんだ、パット」
パットは居間にすっ飛んで戻り、医者の横、長椅子の
「それで、評決は?」
「いい奴のようだな。いい奴だが、内向性で、抑圧されており、反社会性があっても驚かない。奴の性分に合わすのは簡単じゃないな。自分の夢世界に逃避しておる」
「私も悩まされています。以上で、すべてですか」
「以上だが、君の言う天才の片鱗はどこにあるんだ。君が首
「今夜は見せませんでした。ぞくぞくしますよ、奇想天外ですから」
「ふん、夢を見ていたんだろ。あの若者は君のカナリアよりおとなしかったぞ」
「信じないのですね、カール先生。問題は、ニックには才能があるけれども心理学では見抜けないことです」
「天才というものは才能が昇華、いや、あした教えよう、才能昇華とはどういうものか」
こうパットに言ったとき、パットは扉を抜けていた。
第4章 変容
車がすーっと走る白い直線道路は、前方の暗闇に伸びて、まるで地上の天の川のよう。霞む遠方に、数台の後尾灯がアンタレス星のように赤く輝いている。
人間がいるというかすかな証拠を除き、パットの心境は、惑星空間の宇宙深淵をすっ飛ばしており、闇夜のシカゴ高速を走っていないかのよう。湖岸の巨大都市は後方に見えなくなり、郊外があちこち現れてきた。
無言のあと、パットが言った。
「変じゃない? いったい満足できますか? 娯楽切符を買ったのに、観劇や映画鑑賞やダンスも、何もしないなんて」
「変じゃないよ。助手席で君を見ている時は」
「ご親切に。今までに無いことで。ところであの医者はどれくらい好き?」
「どれくらい好きかって。かなり重い質問じゃないか」
「先生のお考えでは、あなたはいい人だが、そうねえ、内向性で、抑圧されており、まわりに不適応だとか。そんなところよ」
「まあ、君の作戦がなくても、医者であっても、あの人は好きさ」
「お医者さんなら何が悪いの?」
「今までにトリストラム・シャンディ(訳注)を読んだことは?」
(訳注)『トリストラム・シャンディ』はイギリスの小説家ローレンス・スターンの小説。全9巻(1759年末〜1767年刊)だが未完。(Wikipedia「トリストラム・シャンディ」参照)
「いいえ、でも新聞は読みます」
「どんな関連があるんだ、パット」
「大いに関連があります、邪悪な医者と、トリストラム・シャンディ読者の間には。少なくとも、その本についてはよく知っています」
「ほぼ当たっているね、ハハハ。医者と弁護士に関するトリストラムの記述を引用しようとしていた。僕の
「どんな文句なの」
「そうだねえ、トリストラムは職業を選択できて、偶然に知ったことだが、医術や法律は強欲な職業だとか、だって弁護士は人の喧嘩で飯を食い、医者は人の不幸で飯を食っているからね。だからトリストラムは作家になった」
「で、作家は? 人の愚かさにつけ込んで生きていますよ」
とパットが茶目っ気に訊いた。
「ご立派だ、パット、フフフ。君に任せて料理を頼んだら、ゆめゆめ味見はさせられないなあ。胡椒、タバスコ、お酢、スパイス、蜂蜜……」
「お塩も評判がいいわよ」
とパットがやり返し、魅力的な小悪魔の顔をしかめた。ニックに近づき、ハンドルを握るニックの腕に手を置いた。パットの口調が急にやさしくなり、
「ニック、あなたに夢中なの。なぜだか分らないが、ほんとうよ」
「おやおや、パット」
「おとなしくて繊細なあなたに夢中なの。時々見事な瞬間に
「やめろ」
とニックが急に言った。
「どうして?」
「僕のことは言うな、パット。恥ずかしい」
「わかりました、はずかしがり屋さん。それなら私のことを話しましょう。おたおたしませんから」
「絶対に面白くなるぞ、パット」
「さあねえ、それで?」
「何が?」
「どうして話し始めないの? 内容は分っているでしょう」
「フフフ、何人の男が綺麗だと言った、パット?」
「数えたことはありません」
「いろんな方法があっただろ」
「もちろんです。もしかしたら、新しい方法を考えついたの、ニック」
「全然。一番古い方法だよ、サッフォー(訳注)とか、ピンダー(訳注)だよ」
(訳注)サッフォー(またはサッポー)は古代ギリシアの女性詩人(前7世紀末〜前6世紀初)。(Wikipedia「サッポー」参照)
ピンダー(またはピンダロス)は古代ギリシアの叙情詩人(前518年〜前438年)。(Wikipedia「ピンダロス」参照)
ピンダー(またはピンダロス)は古代ギリシアの叙情詩人(前518年〜前438年)。(Wikipedia「ピンダロス」参照)
「あらまあ。詩ですね」
「これこそが唯一の方法だ、可能な限り、美を表現できる」
「ニコラス、私に詩を作って捧げるの?」
「作る? まさか、必要ない、そばにいるから」
「どういうこと? なんか、ずるいお世辞じゃない?」
「ずるくないよ、パット。君が詩そのものだから、僕のやるべきことは君を見て、君に耳を傾け、それを言い換えるだけだ」
「へえー。英語で聞けるの?」
「そういうこと」
とニックが言って、奇妙な黄緑の瞳を返し、前方の道を曲がった。低い声で話し始めた。
ど田舎じゃない静かな道で
忘られようか 些細な一つ一つを
じっと見つめる君の柔らかいまなざし
かわいい君のささやき
惜しみなくやさしい君の称賛
吐息にほのめかす君の言葉
ど田舎じゃない静かな道で
田舎の名前に死が付かない限り
忘られようか 些細な一つ一つを
じっと見つめる君の柔らかいまなざし
かわいい君のささやき
惜しみなくやさしい君の称賛
吐息にほのめかす君の言葉
ど田舎じゃない静かな道で
田舎の名前に死が付かない限り
ニックが急に詩をやめて、静かに車を前進させた。
「えっ、なぜ続けないの、ニック? お願い」
「ああ、今夜はそんな気分じゃない、パット。君と二人だけの今夜は」
「どういうこと?」
「感動がない。何か、安っぽい。何か、そう、エリザベス朝みたい。そういうことだ」
「で、なぜ詩をやめたの」
「考えが浮かばなかった。おっと、待って、ちょっと」
今度は冗談口調で始めた。
朝に正装するのは
街で車に乗るため
君はかわいい小妖精
このうえなくかわいい
昼に着るのは
町の習慣のため
よく思い出せない
茶色い色彩の調和
夜に無頓着に着るのは
優美な白服
輝く化身は
発光か 後光か
だがお楽しみ時間が終わり
夜に休むときは
炉棚の小神のみが
さらに素晴らしい光景を知るだろう
街で車に乗るため
君はかわいい小妖精
このうえなくかわいい
昼に着るのは
町の習慣のため
よく思い出せない
茶色い色彩の調和
夜に無頓着に着るのは
優美な白服
輝く化身は
発光か 後光か
だがお楽しみ時間が終わり
夜に休むときは
炉棚の小神のみが
さらに素晴らしい光景を知るだろう
「ほほほ、さいこう。でも
「小神がいれば、そうすべきだよ。僕が述べた情景なら、銅像すら元気づくはずだ」
「あら、一つ持っています、
「簡単だ。羨望して青ざめて、感服して凍りつき、驚きに打ちのめされたのさ」
「おやまあ、感謝しなくちゃ、恐怖で石になっちゃって、ほほほ。ねえ、ニック、これは素晴らしいことじゃない? つまり、自分達だけですっかり楽しんで、二人だけで満足している。でも、わたしたち、今まで踊ったことがないでしょう」
と、不意に夢見る声色になった。
「そうだね。言い逃れは出来ないね」
パットが輝く黒髪の頭をニックの肩に落し、
「そうねえ。しかも、ずっと嬉しいのは、こっそりあなたと腕を組む方で、群衆に腕をつかまれる方じゃないし、立っているより座っている方よ。でもあなたと踊りたい、ニック」
「じゃあ、好きなとき、いつでも踊りに行こう」
「あなたってとても親切ね、ニック。でも、とまどっている、とても渋っている。一時間ドライブしたけど、一回もキスしようとしなかった、でも、私が好きなことは明らかよ」
「おお、パット、それは間違いないよ」
「じゃあ、なんなの? あなたは霊的で、空気のようなもので、私の魅力が単なる知的なものって言うの? あるいは怖がっているの?」
ニックが返事しないので、続けた。
「あるいは私の身体的魅力を述べたあの詩は、単なる詩人の特権なの」
「違う、分っているくせに。鏡を持っているだろ。それに僕以外の連中も君を連れ回したのじゃないか」
「ええ、連れ回されました。だからあなたには、まごつくのよ、ニック。そうじゃなければ、ほんとうにキスを怖がっている」
パットの声が次第に小さくなり、瞑想してじっとながめる先には、幾筋もの道路が、ヘッドライトの輝きの中に、延々と続いていた。
パットが無言の
「なんなの、ニック。時々ヒントはくれるけど……。お願いだから、話すのをためらわないで。私は現代人だから許しますよ、過去のこととか、ごたごたとか、事件とか、不名誉とか、そんなことは何でも許します。でも知るべきだと思わない?」
「分るよ。話せば分る」
「じゃあ、何かあったのね、ニック」
パットがニックの腕をつかんで、
「さあ、おっしゃい、なかったの?」
「さあね」
ニックの声にはうめきに近いものがあった。
「さあねって。しんじられない」
「僕もだ。お願いパット、今夜の楽しみを奪わないでくれ。話せたら話したよ。だってパット、きみが好きだから。怖いほど心からひたすら恋している」
「わたしもよ、ニック」
前方を見れば、
その時突然、道路の真っ正面に、今まで
うめくような息づかいが聞こえ、それから、どうしたことか、
「おおお、助かった、ニック」
橋を越えると、道路がまた広くなった。車が減速して、路肩に寄った。
「危なかった。なんとか救えた」
というニックの口調は感情がなく、まるで金属をヤスリがけするよう。
「救うって、なにを?」
とパットが訊いたのは、車が芝地に止まったときだ。
「きみの体だよ。美しいきみの体だ」
というニックの口調は依然として
ニックの細い手が伸びて、不意にパットのスカートを
「これだよ、このことを言ったんだ」
息が荒い。
「ニック」
パットがひどく驚いて、半ば金切り声で叫んだ。
「なんてことを――」
ここで中断。ショックを受け、突然黙ったのは、向けられた顔がニコラス・ディバインとは別種、邪悪な劇画調だったからだ。
血走った目で色目を使う様子は、あたかも仮面の裏側で、赤目悪魔が
第5章 恐怖の幻影
色情狂がパットに寄りかかってきた。片手で荒々しく無慈悲に抱きつき、信じられないような眼で、狂ったようにじっと見つめながら、もう一方の手が執拗に、探るように体の方へ伸びてくるのが分った。
絹をまとう
「ニック、ニック」
ニックを呼び寄せる不思議な感覚がある一方、全力を込めて両手でニックを押し返した。だが情け容赦ない腕力にあらがいきれず、
「ニック」
とまた叫び、恐ろしくなって、すすり泣いた。
変化があった。ニックの目を見れば、充血、怖れ、戸惑っているが、明らかにニックの目だ。
ぎらつく悪魔の眼球はもうなく、あたかも
若さの衝動が影を
「パット、なんてこった。彼なら出来なかった――」
とニックが不意に中断した。パットは返事をせず、じっと見ていた。
ニックが低い声で緊張してつぶやいた。
「パット、申し訳ない。分らない。どうしてこんなことを……」
「気にしなさんな。大丈夫です、ニック」
とパットがいつもの落ち着きを取り戻した。
「でも、ああ、パット」
「あの事故まがいのせいです。あれで気が動転したのです、ええ、二人とも」
「ああ、そうだった、パット。そうに違いない。でも許せるか。僕を許せるか」
「大丈夫です。結局、私の脚を誉めただけだし、我慢できます。前にもあったし、全く同じじゃないけど、ありそうなことです」
「ありがとう、パット」
パットがニックの苦悩を見て、ふと哀れになった。
「いえ、あなたが好きなだけよ、ニック。キスして、やさしくね」
ニックが唇をそっと、ほとんどびくびくして押しつけた。パットは座席にもたれて、一瞬目を閉じた。
「これがあなたよ。ほかの人はできない」
「頼む、パット。他人と比べないで、決して」
「でも、あれは本来のあなたじゃない、ニック。あの間一髪のせいです。あなたは責めません」
「きみって神だ、パット。僕はきみに値しない。知ってるだろ、愛情や尊敬がない限り、きみには
「もちろんです。アレは何でもありません、ニック。わすれなさい」
「出来ればいいのだが……」
と
二人とも無言のまま、車は橋を疾走し、スロープを下った。ここで、まさにほんの数分前に、事故の脅威が襲いかかった。
しばらくしてパットが小声で言った。
「今夜は月が見られそうにありません。カール先生の天文学は検証できません」
「今夜は調べたくないだろう、パット」
「たぶんその方がいいでしょう。二人とも動揺していますから、別な夜もあるでしょうし」
再び両人は黙った。パットは緊張し、震えた。あの出来事には何か異常な力が働いており、始末に困る。
ギラリ光ったニックの赤目に悩まされ、奇妙に耳障りな声が人間じゃないかのように未だに記憶にこびりついている。思い出すほどに、新たな謎が沸き上がった。
「ニック、あのとき、どんな気持ちだったの? つまり、あぶないと言って、私を助けた時よ」
「何も」
「でもそのあと、驚かせたじゃない、こんなことを言って、彼ならできなかったって……。彼って誰?」
「何でもない、本当だよ。考えると狂いそうになる、きみを傷つけたんじゃないかと……。それだけだ」
「信じます、あなたを」
とパットは言いながら、本心かどうか、だんだんあやふやになり始めた。既に想像したことだが、単に若さの欲望が高じた結果じゃないか。
このような事例は、聞かないこともないけれど、今までパトリシア・レーンに起こったことはない。でも充分考えられることだし、黒々として形のない、もやもやした疑惑よりも遙かに想像できることだ。疑惑と呼べるほど明確じゃなかったし……。言いようのない不安が、わきおこってきた。
しかし、あの奇妙な野獣の顔がニックの美顔に現れたり、恐ろしい赤目が現れたり……。あれは絵の一部か、パット自身の妄想で呼び起こされたのか。当然、それに違いない。
この
先生がニックの父のことを言っていたのを思い出した。狂人という疑惑だ。狂ったのか。それが原因で、私に対して妙におずおずしたのか。私を見つめたあの顔は狂人の顔だったのか。
それはないと、自分に強く言い聞かせた。だって、素敵で優しくて、感受性のあるニックじゃなかったもの。
しかも、想像をたくましくすれば、あの顔は狂人じゃなく、悪魔だ。パットはあたかも自分の考えを否定するかのように、首を横に振って、発作的にニックの手に自分の手を重ねた。
「かまわない。すきよ、ニック」
「僕もだ。パット、今夜を台無しにして申し訳ない。すまない、恥じている」
「気にしないで、あなた。またの日があります」
「明日はどう?」
「だめです。母と夕食に出かけます。金曜日も一緒です」
「本当か、パット。やんわりお断りしているんじゃないか」
「ほんとうです、ニック。土曜日の夜、尋ねてくればわかります」
「その日はいいんだ」
「会えますよ」
と、いつものさりげない返事を返してから、パットが付け加えた。
「いい子にしていたらね」
「約束する」
「そうしてね」
でも不可解な胸騒ぎに負けた。安全だと言い聞かせながら、何か名状しがたいものに悩まされた。内心、肩をすくめ、不愉快な考えを忘れるようにした。
車はデンプスター通りにはいった。賑やかな居酒屋、ダンスホール、道端のハンバーグ店、バーベキュー店などの明りがある。ここでは車がひしめいているので、もう孤独という印象はないし、巨大都市からあぶれた裏道を走っていた。
絶えず車が流れるので、パットに安心感をあたえた。これらは実体のあるものだけど、またしてもあの不穏な事件の記憶がぼんやり、夢のように思い出された。
これが、横にいる優しくて知的で、親切なニックに起こった。もしかしたら別人だったのか。とても説明できないし、恐怖は幻想だったのか、一瞬の狂気だったのか。
「おなかが空いたかい?」
とニックが思いがけず訊いた。
「バーベキュー店へ行きましょう、牛肉よ」
車は砂利広場に進路を変え、電飾灯の前で止まった。ニックが店員に注文した。
ニックがクスクス笑ったのは、パットが若さの食欲にまかせ、無頓着に脂ぎった肉塊に食らいついたからだ。
「ハチドリが干し草を食べているようだ。いやむしろ、レプラコーン(訳注)みたいに犬用馬肉を食べている」
(訳注)レプラコーンはアイルランド伝承の妖精で、名は片足靴屋の意。妖精の堕落した小悪霊で、靴の修繕を行うとされる。(Wikipedia「レプラコーン」参照)
「とてもいいことだ。ハンバーガーやバーベキューはずっと家計にやさしいからね」
パットが、紙ナプキンを車の窓から投げ捨てて、
「ニコラス、それは間接的で、非常に遠回しな結婚の申し込みですか」
「そう思えば、そうかもしれない」
パットが考え込んだかのように、
「私はそうねえ、たとえば後で知らせるとしたら……」
「で、その間は?」
「ええ、その間は一種の婚約期間となります。その方向で進んでいます」
ニックが車を少しずつ車線へ入れて、つぶやいた。
「きみは優しいね、パット。感謝の伝えようがないけど、そういうことだ」
建物が密集してきて、道路に街灯が並び始め、それからほとんど知らないうちに、パットの家の前に着いた。
ニックは扉の横までついていった。突っ立って、おずおず向かい合った。
「お休み、パット」
と、かすれ声で言った。前屈みになり、優しくキスして、向きを変え、別れた。
パットは扉を空けたまま、車のライトを追い、通りに消えるまで見守った。
ああ、優しいニック。そのとき、あの嫌な出来事が
あれはニックの複雑な性格の一端で、妙な本性が隠れている。何の本性か。知らないし、想像も出来ない。ニックは知らないと言ったが、言い逃れのようであり、一層困惑が深まった。
パットはカール先生の言葉を思い出した。そんな思いで、隣の先生宅をちらと見た。書斎に明りが点いており、まだ起きている。自宅扉を閉めて、狭い芝道を駆けて、先生宅の玄関へ行って、ベルを鳴らした。
「こんばんは、カール先生」
とパットが言ったのは、先生の巨体が現れたとき。失礼にも口元にしわをよせながら、先生の横を通り、先生の家にはいった。
第6章 仮説
「君が訪ねてくるのは嫌いじゃないけどな、パット」
と医者がぶつくさ言って、暖炉脇の長椅子に巨体を沈めながら、
「妙だな。今夜は理想の恋人とデートしていたと思っていたが、午後11時ちょっと過ぎに一人で戻って来た。なぜだ?」
「だって、
とパットが平然と言いながら、別の椅子に、
「じゃあ、なんで私の所へ来たんだ? この小悪魔め」
「おひとりじゃ、さみしいだろうと思って」
「絶対そう言うな。でもパット、本当は何だ? もめ事か」
「いいえ、もめ事ではありません。質問を二、三したいだけです。科学上の仮説的なことです」
「では、すぐ
「はい、ニックの父のことです。医者で、気がふれたようだとおっしゃいました。本当ですか」
「ふん、詮索好きだな。ちょうど今日の午後、君たちと話をしたあと、米国医師会雑誌の冊子を調べていた。何でそんなことを訊くのか」
「だって興味があるから、とうぜんです」
「では、覚えていることを話そう、パット。ニックの父は優秀な医学博士ということが、読んでいたこの論文で分るし、ノーザン大学の教授だったことも分る。クック郡の精神病院で何か研究を行い、患者を虐待したことに少し触れてある。それから出版論文の冒頭に、医療関係者はおかしいとか、自分が正しいなどと述べ立てておる。以上が私の知る全てだ」
「じゃあ、ニックは……」
「そうか。要するに、ニックの先祖を調べているのだな、ええ? 目的は結婚か、何か」
「後者です。普通に知りたいのです」
医者が厳しい目で鋭い視線を送り、
「それが普通か。恋人に狂気の
「いいえ。カール先生、普段は恥ずかし屋の人で、激情悪魔に変身する狂人がいますか。いえ激情というより、むしろ冷静、無慈悲、
先生がパットをじっと見て、
「そんな人は知らないな。ニックが一瞬、傲慢になったのか」
「それ以上に良くないのです。交通事故を起こしかけて、びっくりした途端に、私を悪魔のように見て、それから……。少し怖かったです」
「何をされたんだ」
「なにも」
とパットが平然と偽証。
「サチュロマニア(訳注)の気配があったのか」
(訳注)サチュロスは、ギリシア神話における半獣半人の山野の精。山羊にも似た男の姿で快楽者。(『精選版 日本国語大辞典』「サテュロス」参照)
「つまり、簡単なアメリカ英語で言えば、口説かれたのか」
「いいえ、口説きませんでした」
「じゃあ、何をしたんだ」
「ただ見ているだけでした」
パットはなにか不誠実なことをしている気がしてきた。これ以上ニックのことをばらすのは気が進まない。
「その時ニックは何と言ったんだ。今度は嘘をつくなよ」
「ただこう言っただけです――私の足を見て、きれいだとかなんとか、それだけでした。そのあと、元のニックの顔に戻りました」
「
と先生が怒って吠えた。
パットが証拠として、大胆に脚を振って、
「素敵な足でしょう。先生は悪漢だとおっしゃった。なぜ悪漢と言われなきゃならない? 悪漢になるわけは?」
「一つは紳士規範だな」
「まあ、だれがビクトリア朝の規律を気にしますか。とにかくここへ来たのは情報を知るためで、尋問されるためではありません。訊きたいことがあります」
先生が不機嫌にぶつくさ、
「パット、きみは向こう見ずな火の玉だな。いつか
「わかりました。でも先生の質問には答えませんよ」
パットが依然として反抗した。
「さ、言ってみろ、この小悪魔め」
「まず、先生のおっしゃったサチュロ素質は一時的なものですか、それともずっと続くものですか」
「必然的に一時的だよ、このあほう。オスという生物は長続きできない」
「つまり、何週間、何ヶ月も休止状態にあって、それから発情するということですか」
「違う。サチュロマニアはその他の精神的性疾患のように恒久的な
「まあ」
と沈んで言うパットは安心した模様だ。
「さあ、続けてくれ。次の質問は?」
「このような二重人格は、なんですか、先生は論文で読まれたでしょう?」
「それは失語症だな。自分の名前を忘れて、たまたま雑踏を
「そうですか。二番目の性格には一番目にないものがあり得ますか」
「余分な
パットが冗談口調で言った。
「面白すぎるじゃありませんか。わかりました。カール先生、こんどは先生の番です」
「そんなに変態と失語症に興味があるのはなぜだ。きみの天才的恋人に何が起こったんだ?」
「はい、精神病の勉強を始めようかと思って」
とパットが陽気に答えた。
「真面目に答える気がないな」
「ええ」
「それじゃ、私に質問して何の役に立つんだ?」
「その正しい答えは一つです。何の役にも立ちません」
すると、先生が低い声で、
「パット、君はこしゃくな
「もちろん、知っていますよカール先生。敬愛しています。でも私は跳ねっ返りだと、先生もご存じでしょう」
「言おうとしていたのは、単純に君を助けたいということだ。助けが必要なら助ける。どう?」
「助けはいりません、先生。お優しいですね」
「ニコラス・ディバインに惚れたのか」
「たぶん」
とやんわり認めた。
「で、ニック本人はどうなんだ」
「率直に言って、避けたいのでは……」
「ニックは何か心配事を抱えているな。そうだろう?」
「だと思います。あの間一髪のあと、ニックが急変してちょっとびっくりしましたが、きっと何でもなくて、単なる妄想だったのでしょう。本当にこれがすべてです」
先生がパットを見据えて、
「君を信じるよ、パット。でも自分の身は守りなさい。君が思うニックであるか確かめなさい。正体を確認しなさい」
「ニックは潔白で素晴らしいと、断言します」
「でも、君はニックの性格に悩まされているぞ、パット。気に食わんな。二重に確かめなさい、恋の丸焦げになるまえに。これが唯一の常識だよ、お嬢ちゃん、精神医学でも魔法でもないよ」
「断言します。もう、とまどっていないし、困っていません。どうも、先生。お休みなさい、私も休みます」
先生が立ち上がり、パットを扉まで案内する顔は、いつになく深刻だ。
「パトリシア、私の言ったことをよく考えて欲しい。二重に確かめなさい、苦しむ姿を人前にさらす前に……。よく覚えておきなさい」
「そうします。心配しないでください、先生。私は現代的で冷静な若者ですから、私を非難中傷するには、ダイヤモンドヤスリが必要です」
「そう願うよ。行きなさい。家に入るまで見ているから」
パットは草道を突っ切り、自宅の扉を開き、先生にお休みのキスを投げて、入館した。つま先で静かに自室へ歩き、服を脱ぎ、長くて細い脚を鏡で見た。鏡を見ていぶかり、
「どうしてこの足を、きれいと言ってはいけないのかしら。こんな単純な褒め言葉に興奮する理由が分らない」
暖炉の上に鎮座する緑色の仏像を見て、顔をしかめて、つぶやいた。
「このおでぶちゃん、今夜は私を見てウィンクだね。これから毎晩かい」
眠り支度をして、大きなベッドに潜り込んだ。
第7章 赤目再現
母が窓の外を見ながら、
「パトリシア、あなたの友達に会わねばなりませんね。私が不在の時に来ているようだから」
「2月に何人か呼びます。お母さまは2月には頻繁に外出されません」
「私が2月に頻繁に外出しないって、なぜ言える? いったい月の中で何が違うっていうの」
「だって、2月は日数が少ないでしょう」
「おかしな子ね」
「よくそう言われます。でも心配いりません、お母様。私はまじめで、冷静で、信頼できます。もしそうでなければ、カール先生が友人を選んでくれます」
「そうね、カール先生は大切な人です。ところで、お前がご
「知り合った人です」
「どんな人?」
「まあ、英語を話し、帽子をかぶっています」
「ばか。素敵なの?」
「つまり、親戚が歓迎できるかってことですか。家族はいません」
母が魅力的な肩をすくめて、
「あんたはわがままだよ。あんたは亡くなったお父さんに似て、
と言って、急いでキスして、
「おやすみ。楽しい時間を。私はブレット・カッターと絶対にゲームはしないから」
母が車に乗り込むとき、驚くべき若々しい
「入賞犬のように監視されるよりずっといい。たぶんカール先生は代理父として、いいところもあるが不利な点も一つや二つあるだろう。尊敬できるし、私が跳ね返りだから、代理親の義務として、19世紀に傾きがちだ」
見ればニックの車が縁石に来ている。車から姿を現わしたので、窓から手を振って、玄関へ急いだ。ショールを引っかけて飛び出し、階段を上ってくるニックに会った。
「行きましょう」
とパットが言った。ニックの様子を心配げに見たが、何も不安なものはない。
控えめで、恥ずかしげで、優しく微笑み、あの初対面の場面そのものだ。まさにニックに外ならないし、最後に出くわした疑念を起こさせる人格は微塵もない。
乗車を介助してくれて、助手席に座らせてくれた。寄りかかって、とても優しくキスをしてくれたので、思わず抱きつくと、
「ニック、大丈夫なようですね。私はあらぬ事を考えていました」
ニックの腕に軽く抱かれると、
パットが緑の黒髪を軽くなでて、冷静に、
「とても、気持ちよかった。ニック、気にしないでね」
「気にするよ。冗談なら、きみ、余りにも分っちゃいない」
パットが横に座り直し、取り澄まして、
「おや、気にしているとは思いませんでした。それじゃ、行きましょう。カール先生があそこの窓から眼を飛び出さんばかりです」
車がブーンと動き出した。パットは先生が見ている窓に向かって、小馬鹿にするように腕を振って、監視していることがばれているよと教え、腹の中では、
「いつかやり込めてやる。いつか素敵な夜に驚かせてやる」
「どこへ行こうか」
とニックが訊きながら、交通の激しいシェリダン通りへ巧みに進路を変えた。
「どこでも。一緒なら気にしない」
「ダンスかい?」
「いいじゃない? いい場所を知っていますか」
ニックが考え込んで顔をしかめ、
「いいや、
「ピカドール店はどう? 音楽はいいし、値段も高くありません。町のど真ん中にあるので、土曜の夜はもみくちゃ確実でしょうね」
「それで?」
「あなたと踊りたいのよ、ニック、一晩中。水入らずでいたいの」
「パット、キスしていいか」
「どうぞ」
とパットがそっとつぶやいた。
車は当てもなく南方の流れに乗り、交差点信号で一時停止したり、加速したりした。パットは無言でニックの肩に満足げに寄りかかっている。次々と区画をあとにした。
しばらくしてニックが尋ねた。
「なぜ考え込んでいる? きみがそんなに静かなのは見たことがない」
「幸せをかみしめているのよ、ニック」
「いつもは幸せじゃないのかい?」
「もちろん、最後のデートからほんの二、三日はそうだった。みじめだった。ばかなことや、ありえないことを考えていたけど、いまは気分が晴れました。しあわせよ、ニック」
「嬉しいよ」
ニックの声が妙にかすれ、混雑道路をじっと見つめている。“嬉しいよ”を繰り返す声は妙に力んでいた。
「わたしもよ」
「きみを不幸にすることは絶対しない、パット。決してしないよ、でも、出来るかなあ」
「できますよ、ニック。あなたこそが私を幸せにできます。どうかそうして」
「そうしたいね」
ニックの声には妙な引っかかりがあった。何かを怖れているかのようだ。
パットが考えながら、断定的に言った。
「あの出来事に結びつけるのはよくありません。結局、害は無かったし。情熱の自然な発露だったのです。誰にでも起こりえます」
リンカン公園の
「どこへ行こうか。まだ決めていなかった」
「どこへでも、運転してちょうだい。見つかるでしょう」
「きみならいっぱい知っているに違いない」
「新しい店へ行きましょう。ぴったりの店が見つかります。つまり踊りに適した店です、古い店には昔の男友達がいっぱいいますから。昔の男友達と踊らせたくないでしょう」
「単なる思い出でなら、気にならないよ」
「でも、私は気になります。こんやは、二人だけになりましょうよ」
「ほかに選択肢がないかのようだな」
「そうお。どんな思い出が引っかかっていると思う? 私の心の中を
「そんなものは捨てろ。今夜は身軽な旅行じゃないか」
パットが生意気にニックの
「悪い子ね。素敵で面白い餓鬼ね」
ニックは返事しなかった。
車はミシガン通りをゆっくり進んだ。半区画先の信号は緑。二人の周辺は車が激しく流れ、さながら小舟を渦巻く水流だ。
突然、流れがのろのろになった。注意を示す黄色信号が点いている。交差点を通り過ぎた直後、赤信号になり、合流点の数

「ニック、違反切符を切られるよ。なぜ信号を無視するの」
「きみの守護天使が出来なくなった」
と低い声でつぶやいたので、パットにはほとんど聞こえなかった。
パットが後ろを振り向いた。赤信号の後ろには十数台の車のライトがあった。
「うしろの車が付けてきたと言うの? いったいどうしてそんなことを考えたの? なぜ信号を無視しなければならない?」
ニックは返事しなかった。車を急に本通りからそらし、目立たない脇道へ入れた。素早く角を曲り、再び南へ向かい、また曲がった通りはパットに分らない。南スペリオルかサウスグランドだと思う。
ほとんど一区画も離れていないところには、華麗なミシガン通りや摩天楼があって、きらびやかな照明や、あふれかえる夜の交通があるけれども、二人が降りた道路は
「ニック、どこへ行くの?」
ニックの低い声が響いた。
「ダンスさ」
ニックが車を縁石に乗り上げた。エンジンを切ったとき、静かさの中に自動ピアノの音がかすかに聞こえる。車のドアを開けて、歩道へ出た。
「ここだよ」
口調が少し甲高かったので、顔を見た。視線の先には、先週水曜日の夜と同じ、血走った悪魔の眼があった。
第8章 魔界へ
パットは例の亡霊の出現を興味深くながめていたが、車から降りようとしなかった。怖くはなく、ただ驚き、戸惑っただけ。
結局、ただのニックであり、無害で大好きなニックであり、何か不思議な仮面をかぶっているけど、パットにはどんな状況でも対処できる自信があった。助手席に座ったまま訊いた。
「ここはどこなの?」
抑揚のない答えが返ってきた。
「ダンスをする店だよ」
ニックを見た。路面電車が轟音を立てて過ぎ去り、車内灯の明りがニックの顔を照らした。にわかに顔つきがニックの顔になった。
赤眼のぎらつきが見えなくなり、容貌はいつものニコラス・ディバインそのものだったが、妙に緊張して、こわばっている。
「ひかりのせいだ」
とパットが思ったのは、路面電車が騒々しく走り過ぎて、再び赤目がかすかに現れたとき。興味深くながめていると、ニックが突っ立って冷静に見返して、車のドアを開けてくれた。だが顔はニックの顔であり、おそらく
パットは向かいの建物に目を向けた。きつい自動ピアノの音は止まっている。建物には、スリガラスの目くら窓があり、中の弱い光が漏れている。
しょぼくてボロい無塗装の掘っ立て小屋であり、情けなくて不愉快になった。ながめていると、不調和な音楽が再開し、感じの悪い最新曲を鳴らし始めたようだ。
「とてもさえないお店ね、ニック」
とパットが怪しんで言った。
「僕もそう思うよ、どんなに見ても」
「じゃあ、ここへ来たことがあるの?」
「ああ」
「でもお店は知らないと言ったじゃない」
「この店はあの時思い浮かばなかった」
「あら、わたしなら簡単に、いいお店を見つけられたのに。ここはちっともよくない、ニック」
「でも、ここへ行く。きみならおもしろがるよ」
「いい、ニコラス・ディバイン。誰が私を痛めつけられると思いますか。いままで誰もできなかった」
「面白いお店だと分るよ」
ニックの言葉は変わらなかった。パットは全く困惑してニックを見つめ、にわかにやさしい口調になった。
「ああ、ニック、どうでもいい。まえに、どこでもいいと言ったので一緒に行きます、ふふふ。あなたが望むなら、行きましょう、でも本当はね、行きたくありません」
「ぜひ行ってくれ」
「わかりました。約束は守ります」
パットの口調には、かすかに嫌だという痕跡があり、車から降りた。
降車の介助に手を取られたとき、握力の強さにたじろいだ。指はまるで、マストワイヤが肉体に食い込むかのよう。
「ニック、痛い、腕にあざができる」
ニックが離すと、パットは痛そうに腕をさすって、あとについて奇妙なお店に向かった。
扉を開けると、不調和なピアノの音が急にガンガン鳴り響いた。中に入って、あらわになった部屋をちらと見た。
暗くて煙たく、うっとうしくて、ちっともわくわくせず、面白くもない。壁に沿って短いカウンターがあり、その後ろにいるのが形容しがたい痩せた小男で、短い口ひげを生やしている。
6台のテーブルが部屋の残りを占めている。4〜5人の常連客は不浄な連中のようで、そうだなあ、映画スクリーンの中で見た類いの連中だ。
ニックが入室すると、二人の女がクスクス笑った。それから一斉に、全員の目がパットに向いたので、その場で上っ張りをぐっと引き寄せて、ニックの後ろで不愉快に立ちすくんだ。ピアノが向こうの隅で、不調和音をガンガン鳴らしている。
「例の部屋を」
とニックがバーテンダーに短く言い、常連客の視線を無視した。パットが後についていき、部屋を横切り、扉を通り、ホールへ出て、それから小部屋に入ると、調度品はわずかにテーブルが1台、椅子は4脚しかない。
案内の男が戸口で待っている間、ニックが上っ張りを取ってくれて、椅子に座らせてくれた。
「4合です」
とバーテンダーがぶっきらぼうに言って消えた。
ニックの顔をじっと見た。間違いなくニックの顔だ。明るい電灯のここでは、赤目恐怖の痕跡はなかった。赤目はあの薄暗い通りで疑ったが……。いや、あるのか。
そのとき、ニックが向きを変えると、明りが目に当たり、果たして赤く光っているか。でも依然としてニックの容貌だ、ただ気味の悪い異質なものが口元や、しかめた
「おやまあ、これがパリのお店ですか。なにをするつもりですか、都市生活を教えるつもり? それに、どこで踊るの?」
「ここだ」
「それに、どんなお酒を注文したのですか。わたしが飲まないことは知っているでしょう。ちょっとでもいやですよ」
「好きになるさ」
「どうかしら」
「好きになるさ」
パットが眉をしかめて、
「それはもう聞きました。ニック、あなたの優しい心遣いには
「それも好きになるさ」
「どうかしら。ニック、前回の夜のようなことはしないでね」
「今回は前回の夜のようにはならないよ」
「でも、あなた……」
ここで止めたのはバーテンダーが入室したからで、お盆には開封したジンジャーエール1本、氷入りグラス2個、油性の琥珀液体1瓶が乗っている。赤
「2ドルです」
とバーテンダーが言い、金をポケットに入れて、そっと退出した。
「ニコラス、その毒は軍隊用にも充分な量です」
「そうは思わない」
「でも、私は飲みませんし、あなたにも飲ませません。さあ、どうします?」
「どっちも飲むさ」
「飲みません。きらいです、ニック。場所もお酒も、あなたの態度も、何もかも嫌いです。出ましょう」
返事代わりに、ニックが瓶のコルクを取って、大量の琥珀液体を2個のグラスに注いだ。
うちの1個に同量のジンジャーエールを加えて、無造作にパットの正面に置いた。パットはそれを見て、不快そうに眉をひそめ、首を振った。
「いいえ、飲みません。出て行きます」
しかしながら動かなかった。目と目が合い、ニックが奇妙な濃い
パットは衝動的に手を伸ばしニックに触り、ほとんど哀願せんばかりに優しく、
「ああ、ニック。おねがい。あなたがわからない。好きだってことが分らないの、ニック。聞いたでしょう、好きよ。信じないの?」
ニックは冷たく厳しく、にらんでいる。への字の口元は大理石のように固い。パットは不安が体中を走って震え、ほとんど催眠状態になり、不可解な眼光の圧力に負けそう。目を離し、テーブルクロスの赤模様に視線を落とした。
「ニック、意味がわからない。教えて、なぜここへ?」
「分らないと思うよ」
「でも、わかります、なにか水曜日の夜や、あなたの渋るものや、分らないと言ったものに関係があります。でしょう?」
「そう思うか」
「ええ、そうおもいます。それにニック、わたし何でも許すと言わなかったですか。過去は気にしません。気にするのは、いまと将来です。わかりませんか。好きだと言ったでしょう。私がきらいですか」
「好きだよ」
ニックは視線を動かさなかった。
「じゃあ、どうして、こんな仕打ちができるの?」
「これが僕の考える愛だ」
「わかりません、まったく困惑しています。めちゃくちゃです」
「そうだね」
「どういうこと? ニック。どうか、おしえて、どういうこと? 狂ったの? 父上のように」
「いいや。これは実験だ」
「じっけんって」
「ああ。悪魔の実験だ」
「わかりません」
「そうだろうよ」
パットが突然ひらめいて、
「つまり、純粋な恐怖ということですか。あの先週の夜に言ったことですか」
「そうだ。あれは弱虫のたわごとだ。違う。僕が言うのは悪徳のことであり、恐怖じゃない。生きている悪魔であり、余りにも美しいがために、承知の上でやけくそになって地獄へ行き、死を免れる。これが実験だよ」
パットの声が、にわかに冷静になり、
「まあ、それがやりたいの、この私を実験台に?」
「ああ」
「それで、なにをすればいい?」
「まず僕と一緒に飲むことだよ」
「わかりました、ぼんやりですが……。わたしは実験台、被験者、モルモットで、作家の材料を提供するのですね。このわたしを悪魔の実験に使おうということですね。了解」
パットがグラスをつかみ、発作的に飲み干した。その液体は希釈してあるけど、活性があり、目がちかちかして涙が出るほど強力だ。いや、果たして酒だったのか。
「わかりました、飲みましょう、瓶ごと」
と言って、瓶をつかみ、グラスの縁までなみなみ満たした。一方のニックは冷静に見ている。
「ニコラス・ディバイン、実験を行いなさい。そうすれば、わたしたちは最後まで一緒です。聞いているの? さいごまでよ」
パットがグラスをつかみ、唇に当てて、
第9章 アヴェルヌス湖(訳注)へ
(訳注)アヴェルヌス湖はイタリア南部にある火山湖。俗信では湖上を飛んだ鳥が瘴気で墜落死したとされ、古代ローマではよく地底世界の喩ともされた。(Wikipedia「アヴェルヌス湖」参照)
パットは
それから、気を静め、目を上げ、ニコラス・ディバインの奇妙な目をまっすぐ見据え、厳しく言った。
「それで? これで十分ですか」
ニックは写真か絵画のように冷ややかに見ている。鋭い視線は人間というより猫のようだ。パットが頭をそむけても、目をそらさず、なおじっと見ており、まるで肖像画だ。
ニックが余りに動かないので、またしても怒りがむくむくわき起こった。ニックの冷淡さと言ったら、何をしても動揺しないのではないかと思わせる。
「十分じゃないの? 十分じゃないの? それじゃ、見て」
瓶をつかみ、油性液体をまたグラスに注ぎ、唇に持ち上げた。再び焼けるような液体が舌と喉の皮を剥ぐと、突然グラスが手から落ちて、残量がテーブルにこぼれた。
「それで十分だ」
とニックが冷たい声で言った。
「おや、そう? そのうちわかります」
とパットが言って、まだ半分以上残っている瓶をつかんだ。ニコラス・ディバインのやさ腕が瓶をねじって、取り返した。
「それをちょうだい。実験をやりたいんでしょう」
いまや熱気があふれ出た。顔の赤らみを感じ、興奮し、向こう見ずになり、破れかぶれになって、怒った。
ニックは瓶を床に慎重に置いて、立ち上がり、テーブルを周り、例の不可解な表情で突っ立って、パットをにらみつけた。
やにわに手を上げて、パットの髪の毛をつかんでねじり、半開きの唇に、刺すような鉄拳を加え、悲鳴を上げさせ、余りにも荒々しく突っかかったので、今にも椅子から投げ出されんばかり。
パットは叫び声が出なくなった。鉄拳によって気が遠くなり、頭がテーブルに付いて、痛みと恐怖ですすり泣いて、体を震わせた。首尾一貫した考えがなくなり、ただ分っていたのは唇がちくちく痛み、持ち前の明晰、活動的な精神が混乱の網に絡め取られてしまい、考えられなくなった。まとわりつく
長いことかかって、頭を上げ目を開けて、ぐらぐらする不安定な世界を見て、ニックに向き合えば、ニックは無言で椅子に座り直している。
「ニコラス・ディバイン。あんたは嫌い」
と、ゆっくり話す言葉は、あたかも絞り出すかのよう。
「そうか」
とニックは言い、再び沈黙した。
パットは無理にニックの顔に焦点を当てようとしたが、まるで二人の間に雲が流れているかのように、顔つきが少し揺らいでいる。自分の心にも同じ雲があるかのよう。必死に、考えを惑わす雲の上に出ようと、もがいた。
「家に帰して。ニコラス、家に帰りたい」
「なぜだ? 実験は始まったばかりだ」
とニックが無表情で言った。
「じっけん? ああ、そうでした、実験です。実験台でした」
「悪徳の実験だ」
「ええ、悪徳のね。そして、あなたを憎みます。相当なワルじゃないですか」
ニックが床に手を伸ばし、瓶をテーブルに上げて、例の液体をグラス一杯に注いだ。そのグラスを持ち上げて、中の油性液体が明りの下で渦巻くのを眺め、それから自分の口に傾けている間、パットは唇をへの字に結んでじっとながめていた。
パットの口元には小さな赤い染みがついている。刺すような痛みがあり、手でぬぐった。じっと眺める様子は、まるで指に付いた小さな赤いものが、信じられないかのよう。
「ニコラス。家に返して。お願い、ニコラス、ここを出たいの」
「僕が嫌いか」
と訊いた口元には、ひねた妙な笑いがあった。
パットは、クラクラする
「家に帰してくれれば
「嫌いを聞こうじゃないか。嫌いなんだろ?」
とニックが言い、また立ち上がった。近づいてきたとき、パットは縮こまり、少しべそをかいた。
ニックが再び黒髪をつかんで、顔を後ろに反らせ、じっと見おろし、
「唇に血が付いている。唇に血が」
とほくそ笑むかのように言った。髪の毛をぐっと握って、不意にかがんで、唇を押しつけてきた。
パットは傷ついた唇が、激しい圧迫を受けて、焼けるように痛い。歯が当たったので、強い痛みを感じた。依然として、まとわりつくうつろな雲は晴れなかった。余りに怖くて、抵抗することができない。
ニックが驚喜して、繰り返した。
「唇に血が……。これこそ悪魔の美貌だ」
パットは残った理性にしがみつき、弱々しく、
「ニコラス。わたしにどうしろというの? おっしゃい、それから家に帰らせて」
「きみにワルの顔を見せたい。ワルの輝き、極限ワルの愛を知って欲しい」
ニックが椅子をパットのそばに置いた。自ら座って、パットを引き寄せると、パットはされるがままになり、とても酔っていたので、ぐったりして抵抗できなかった。
やにわにパットの体を回し、顔を向かい合わせにした。じっと見れば、明りが斜めに当たり、わずかに残る赤目が突然ぎらついた。
「ワルの能力を教えてやる。圧倒的説明不能な魅力と、得も言われぬ欲望の楽しみだ」
パットはほとんど聞いていなかった。今飲んだ強力な酒毒とむなしく戦っている。部屋がぐらぐら揺れており、絶望と恐怖の背後には、奇妙な絶頂感が意識の中に押し寄せてきた。
「悪魔だ」
とパットが弱々しく繰り返した。
ニックがじっと見おろしながらつぶやいた。
「唇に血が……。血まみれ唇のキスで、無常の楽しみを味わえ。甘い痛みを吐き出せ、苦しみという歓喜だ」
ニックがかがんで、再び唇を押しつけてきて、今度はパットも自分から応じる有様だ。まだ脳にいくらか正気は残っていて逆らったが、酔いとアルコールにはかなわない。
急にニックにしがみつき、キスを返し、傷ついた唇に走る痛みに歓喜した。赤い霧にまみれた。何も感じず、ただ激しいキスの痛みだけを感じ、どういうわけか痛みが喜びの恍惚に転換したよう。ニックが唇を離したとき、パットは息が絶え絶えになっていた。
ニックがほくそ笑んだ。
「いいか。分ったか。悪徳は開かれている。呪われ
パットは答えず、身を削るような喜びと、痛みがない交ぜになって、すすり泣いている。
アルコールが脳に打撃を与え、強力に抵抗を弱めたからだ。しばらくして、もぞもぞ身動きして、座った姿勢からなんとか立ち上がり、空ろに言った。
「ワルだ。悪と善がなんだっていうの? すべて定めだ」
パットがほろ酔い機嫌で嬉しくなると、自動ピアノが押し殺したような音楽を
「踊りたい。酔っているけど、踊りたい。わたし、酔ってる?」
「わかった」
「わたし酔っちゃいない。ただ踊りたいだけよ、ここはちょっと暑いなあ。私と踊って、ニコラス。ワルのダンスを見せて。悪魔と踊りたいの。踊ってやる。あんたは悪魔だ、なんとでも言ってやる。昔のニックとダンスしたい」
パットが椅子からふらふら立ち上がった途端、部屋が狂ったようにぐるぐる回り、倒れそうになった。腕をつかまれ、肩を支えられたような感じがして、まっすぐ立たされた。そして、壁によりかかって、大声で笑った。
「ははは、おかしな部屋だこと。悪魔の部屋だ、回っている」
「きみにはまだ学ぶべきことがある。悪魔の顔を見たいか」
「もちろん。いい思い出に、いろんな顔を見せて」
左肩のドレスをつかまれて、ごそごそいじられている。またしても、脳の奥底に残っていた正気が戻り、危ないことがわかり、ぼうっと言った。
「だめ、だめ」
そのとき急に、手が離れた。するとドレスがするりと落ちて、くしゃくしゃになって細い足の周りにぶざまに丸まった。
パットは顔を両手で覆い、消えかかる最後の意識を必死に保ちながら、一方ではふらふら状態で壁によりかかっていた。
またしても、ニコラス・ディバインの腕につかまれて、首筋に鋭いキスの痛みを感じた。くるっと回され、低いテーブルに押し倒された。助っ人など、誰も来ないという衝撃にうろたえた。
「さあ、これがワルの究極の楽しみだ」
とニックが耳元でつぶやいている。押しつけられて、むき出しの肩に手を感じた。
そのとき、急に動きが止まり、手が離れた。パットがふらふらと立ち上がり、視線の先を見た。例のバーテンダーが半開きの扉に突っ立ち、横目で見ている。
第10章 地獄から救出
パットはふらふらしながら、ちゃぶ台代わりのニックの
口ひげを生やした違法
哀れにも、
うせろ、と言うニコラス・ディバインの声は金属をこするよう。うせろと、変わらず繰り返した。
管理人は去ろうとせず、
「そうかい。いいか、きみ。ここは上品なところだ、分るか? 何かやりたいなら、2階に行って、部屋代を払ってくれ」
「うせろ」
というニックの声色に変化はない。管理人が、
「おまえらこそ出て行け。二人共だ、いいか」
ニコラス・ディバインがゆっくり前に進み出た。バーテンダーに向かったとき、パットはニックの後ろにおり、酔って
「うせろ」
バーテンダーにそんな相手と戦う気はない。後ずさりして扉を閉めて退出し、ホールで叫んでいる。
「本当に、出て行け」
ニコラス・ディバインが戻って来て、椅子に座っているパットの様子をねめ回した。パットは片手をあごに置いて、ぐらつく頭を支えている。
「行こう、さあ」
「ちょっとここに座っていたい。ちょっと座らせて。疲れているの」
「さあ」
「だって、つかれているのよ」
「邪魔されたくない。どこかほかへ行こう」
「服を着なければなりません。服なしでは街を歩けません」
ニコラス・ディバインが隅のドレスをつかみ、上っ張りを椅子から取って、自分の腕にひっかけた。パットの腕をつかみ、ぐいと引き寄せて立たせると、パットはふらふらしている。
「さあ」
「服を着させて」
ニックが赤縞柄のテーブル布を引っ張って、瓶や灰皿、グラスを乱雑にひっくり返し、染みの付いた
「裏口を通って、裏道へ行こう。バーにいる連中と、もめたくない」
ニックが依然として腕をつかんでいる。よろめきながら付いていくと、暗い広間に引き込まれた。手探りで広間端の扉まで移動した。ニコラスが扉を開けると、そこは薄暗い路地で、両側に建物があり、頭上には星をちりばめた空が見えた。
パットの足は、どうにもいつものしなやかな動きができない。一歩が踏み出せなくて、コンクリート舗道にドンとくずれた。衝撃と冷たい外気で一瞬正気に戻ったが、すりむいた膝に痛みは感じず、うっとうしい心の霧が一時的に晴れた。赤縞布を肩にしっかり引き寄せたとき、ニックが依然として手首を握っており、荒々しく引き立てられた。
二人は路地裏へ移動し、ここでパットがついて来られなくなった。歩く度にちっちゃなハイヒール靴が舗道のごろ石で滑って、不安定な足取りはよろよろふらふらで、遂に薄暗い裏道は、星々や窓明かりや白黒
ニコラス・ディバインがじれったそうに振り向くと、この薄暗がりで、ニックの顔がまたしても赤目悪魔になっている。
パットはニックを引き留めて、奇妙に笑い、空いた手でニックを指し示した。
「それです」
ニックが振り向いて、厳しい表情でパットを見据えた。
「何がだ?」
「それですよ。あなたの顔。悪魔の顔だ」
パットがまたしても引きつり笑いした。
ニックがにじり寄ってきた。邪悪な目が眼前にあった。パットが笑うと、手を上げてぴしゃりと平手打ちをカマしたので、あたまがグラリ。肩をつかまれ体をゆすられ、ついには縞柄布が風に揺れる旗のように、なびくありさま。
「さあ、行こう」
パットはもう笑わず、青ざめて弱々しく、低い板壁に寄りかかった。手足が麻痺しているようで、全く動けない。平手打ちも、肩ゆすりも分らなかったが、むかつく吐き気と、体中弱っていることは分った。板壁に寄りかかり、ひどく気分が悪い。
しばらくして吐き気が消えて、疲労と妙なだるさが残った。ニコラス・ディバインが立ちはだかり、不意に体を押しつけてきて、発作的に抱いたので、頭が後ろに反り返り、ニックの顔がぬーっと現れて、星々が消えた。
「ああ!」
とニックが言い、キスしようとしたとき、音、いや声が、暗い路地のどこからか漏れてきて、裏通り沿いに広がった。体は離したが、手首は握られていたので、またしても惨めによろめき、石畳の凸凹に足を取られた。
無感覚に襲われた。意識がぼうっとなったのは、暗闇をふらつき歩いたからだ。かろうじて分ったのは、裏通りの終わりに近づいている。通りの光がぱっと前方に現れて、通過する車で一瞬、光線が遮断された。
ニコラス・ディバインは歩みを遅くしたが、依然として手首を冷酷に握っている。ちょっと立ち止まり、注意深く建物の角へ移動した。周りをのぞき込み、調べれば今は通りに誰もいない。
一方、パットはニックの後ろにぼんやり突っ立って、考えることも、自由に動くこともできず、肩に掛けた汚い布を絶望的につかんでいるだけ。
ニックが調査を終えて、どうやら進んでも安全だと判断して、パットを引っ張り、向かった先の角に車が止めてあった。パットは引っ張られてよろめき、力が出ない。意識がほとんどなくなり、歩みはふらふらで、恐ろしくのろい。ニックの腕を強くひきずった。余りの弱さにニックがいらついた。
「急げ、角の所までだ」
わずかに声色が高くなり、依然として金属を削るようなざらざら声だ。
「俺にはまだ究極のワルが残っている。おまえには奥深い美貌が隠れているし、快楽も見つけなきゃ」
角に近づくと、ニコラス・ディバインが急に引き返したのは、向こうから予期せず二人の姿が眼にはいってきたからだ。裏通りへ戻り、パットを薄暗い所へ引っ張った。数歩、足早に進んだ。
だがパットはすっかり疲れていた。ニックが一歩を踏み出すと、つまずいて投げ出され、片手を地面についた。ニックが手を放し、近づいてくる男らにけんか腰に向かう一方、パットは舗道に腹ばいになりながら、なんとか壁に背中を付けて、座る体勢をとった。
どろ〜んと無関心に見ていると、幾分高揚気味の声が聞こえて、なんだか聞き覚えがある。
「あそこだ、奴がいる。奴の車だぞ」
カール先生だ。パットは必死に考えを巡らせた。ぼんやり分ったのは、きっと救出されて安全になる。
自分にできることは、注意を少しでも引くこと、いやむしろ、この無力感を軽くすることだ。テーブル布を体に引き寄せて、壁にうずくまり、じっと見た。
先生と、もう一人のちょっと妙な男は暗闇でも大柄でがっしりしており、こちらに駆けてくる一方、かたやニコラス・ディバインは待ち構えており、赤目の悪魔顔で冷酷に見下している。
そのとき先生がちらと目をやり、うずくまる泥まみれのパットを見た。ぎょっとなり、信じがたいという顔つきをしたのは、着衣状態を見たときだ。
「パット、なんてことだ。どうした? どこへ行ってた?」
パットは自分のどこかにまだ隠れた力があることを悟った。発した声は甲高く、発作的だった。
「地獄にいました。連れ戻しに来たんでしょう? オルフェウスとエウリュディケ(訳注)です。ふふふ。オルフェウス先生」
(訳注)オルフェウスはギリシア神話における竪琴の名人で詩人。亡き妻エウリュディケを連れ戻す冥界下りの主人公だが約定を破って失敗した。(『精選版 日本国語大辞典』「オルフェウス」参照)
「あの車を持ってこい」
これだけだった。体格男がどたどた角のほうへ去ると、再び先生が向かい合ったニコラス・ディバインの顔は無表情だ。
だしぬけに先生が鉄拳を若者、いや悪魔の眉間にグサッと打ち込み、建物へ吹っ飛ばした。それから振り返りパットにかがみこんだ。パットは膝と肩に先生の腕が当たるのを感じた。
先生はパットを車まで運んだ。車は縁石まで来ていた。後部座席に優しく置いた。それから、まだ建物に寄りかかっているニックには目もくれず、歩道に散らばるドレスやスカーフなどの黒い塊をかき集めて、車に乗り込み、パットの横に座った。
「あの男を乗せましょうか」
と運転席の体格男が尋ねた。
「駄目だ。奴とはあとで話をつけてやる」
車が動くと、パットの頭が傾いた。意識を失いつつあり、かすかに残った記憶は、車が動き出している。
そして建物に寄りかかる孤独なニックの顔は、即ち恐怖と不信の目でにらみつけた顔は、もはや悪魔の顔じゃなく、元のニックの顔だった。
第11章 敗残者
パットが弱々しく目を開けて持った印象は、何か不快なことがあったようだが、今や完全に正気に戻った。何が起こったかまだ思い出せない。目覚めた場所さえ定かでない。
だが、目で探れば、馴染みの自室だ。ベッドの向かい側、炉棚の上に鎮座する
いろんな映像がごちゃごちゃ浮かんだが、まだ断片的で混沌としており、ひたすら完全な記憶回復を待つばかり。そして不意に分ったのは、頭がひどく痛み、口がカラカラに渇き、明らかに全身至る所で痛みがうずく。
頭を回すと、ベッド脇に一人の人物が見えた。一目で、すぐ分った、カール先生が座って静かに観察している。
「こんにちは、せんせい。いや、おはようございますですか、裁判長」
と言って苦笑いすれば、口元が激しく痛む。
「パット。かわいそうにパット。どんな気分だ?」
と先生が重々しくうなる声は妙に優しい。
「いいですよ。快調そのものです、カール先生。何が夕べあったんですか。思い出せません、ああ」
記憶の閃光が、ぼやけた混乱状態を突き刺した。今思い出した、あのぞっとする夜の全部じゃないが……。それで充分。たくさんだ。
「ああ、カール先生」
「そうだよ。君の“ああ”というのはどういうことか教えてくれ」
ええ、と言って、体を震わし中断したのは、次々にあの恐怖場面が蘇ってきたからだ。
「はい、よく覚えています。何でもなかったのですが……。ああ、でもカール先生、あれは恐ろしくて、言いようがなく訳が分りません。ですから話せません。できません」
「たぶん君は正しい。本当に話したくないのか」
「ほんとうは話したいです、話したいのですが、できないのです。考えると怖いのです」
「一体全体、何をやったんだ?」
「ダンスに行こうと外出しました。それから街への道中でニックが変わったのです。誰かが付けているとか言って」
「誰かとは、私とミューラーだよ。ニックは悪魔のようにズル賢い」
「そうです。悪魔そのものです。ところでミューラーって誰ですか」
「私服刑事で、私の友人であり、むかしの患者だ。ニックが変わったとはどういうことだ?」
「目です。それと口です。目が赤くなり、怖くなりました。口はへの字になり、きつくなりました。そして声が荒っぽくなりました」
「今までそんなことがあったのか」
「一回です、あの時……」
「おう、先週の水曜日の夜か、きみが純粋科学のことを聞きに来たときだな。ところで何があったんだ」
「ダンスをしに行きました」
「それが原因だと思うな。君を見つけたとき、通りをふらついて、テーブルクロスをかぶり、下着と靴下だけだったぞ。ひどい酒で酔いつぶれる寸前だった。まるでプロペラ飛行機の空中戦で負けたかのようだった。その顔はどうした?」
「私の顔? それがどうしましたか」
先生が椅子から立ち上がり、パットの化粧机から手鏡を取り出した。見てみろ、と言って、手鏡を渡した。
パットが思案げに鏡を見た。
「
パットがテーブル布の下からパジャマ着の足を出し、調べるために片足をむき出した。膝の大きな赤い傷を見て、ぎょっとして息を呑んだ。
「赤チンをつけてやる」
「せんせい、つけてください。ゆうべはどうやって家に帰ったの? どうやってベッドに寝たの?」
「それも私がやった。私がベッドに運んだ。いいか、パット。君のお母さんはまだ何も知らない。君を運び込んだとき、留守だったし、けさはまだ寝ている。車の事故にあったことにしよう。このあざはそう説明する。ところで、どうしてこうなったのか」
「ころんだのだと思います。二、三回」
「
パットが身震いした。いま朝の穏やかな光りを浴びているが、夕べの出来事は間違いなく恐ろしい。信じる気がせず、まったく疑わしい。自分の行動すら説明に戸惑うし、ニコラス・ディバインの行動に到っては、ただただ理解を越えるのみならず、古代の神
「何があった、パット。教えてくれ」
「説明できません。あの場所へ連れて行かれて、お酒を飲んだのが失敗でした。腹いせで飲んだのです。だって気にかけてくれないもの。そして、それから……」
「ほう? それから?」
「ええ、ニックが話し始めたのが、悪魔の美貌とか、悪徳の喜びとか、それから私をじっと見つめて……。ちっとも理解できません、カール先生、でも全く突然に、負けてしまいました。わかりますか」
「わかるよ」
と先生が優しく、穏やかに言った。
「ふっと分った気がしました、ニックの言っていること、つまり悪徳の究極の喜びが……。そして、ちょっと吹っ切れたのです。服はニックのせいですが、どういうわけか抵抗する気力がありませんでした。酔っていたからだと思います」
「あざは? 唇のキズは?」
と先生が厳しく責めた。
「ええ、ニックに殴られました。しばらく気になりませんでしたが、その間、ニックは何かできたし、やったでしょう。ただ、中断されて、退去する羽目になりました。以上です、カール先生」
「それで全部か。パット、あの場でニックを殺すべきだった」
「殺さないで良かった」
「好きなのか」
「さあ」
「まだニックを愛しているというのか」
「いいえ。愛していません。でも、カール先生、これには何か説明のつかないことがあります。何か分らないことがあります。しかし、一つは確かです」
「なんだ」
「あれはニックじゃありません、私の知っているニックじゃありません、夕べあんなことをしたのは……。ニックじゃありません、カール先生」
「パット、君はお馬鹿さんになっているぞ」
「わかっています。おバカです。ニックのことは分っています。愛していました。あんなことはできないと思います。いつもの優しいニックじゃない、なにしろキスをこちらからお願いする始末ですから」
「パット、私は精神科医だ。私の仕事は人の裏に隠れている嫌な部分を全て知ることだよ。私の病院にあふれているのが、不適格者、落伍者、潜在的犯罪者、狂人、精神薄弱者……。人生の嫌な苦い側面であり、私はよく知っている。間違いなく、奴は危険だ」
「わかりますか、カール先生」
先生が腕を伸ばし、パットの手を取った。大きな
「私の持論だがね、パット。男はサディスト、つまり残酷を愛好する者であり、一方どんな女性にもマゾヒズムがあり、男をますます危険にする。約束して欲しい」
「なにをですか」
「二度とニックに会わないと約束して欲しい」
パットが真剣に目を向けた。パットの目を同情ひとしきりに見れば、涙が浮かんでいる。
「先生の警告は、火遊びをしたら
「私は老いぼれだよ、お嬢ちゃん。もし自分の診断に確信があったら、君にこんなことは絶対に起こらなかったろうに。約束してくれるか」
と言って、パットの手を軽く叩いた。
パットが目をそらし、はい、とつぶやいた。先生がたじろいだのは、涙が頬を伝わっているのを見たからだ。
先生が立ち上がり、
「そうか、気分が良くなったら、ベッドから出てよろしい。前に述べた些細な嘘も忘れるなよ、お母様のために」
パットはじっと先生を見上げて、なお手は離さなかった。
「カール先生。たしかに、たしかに見立ては正しいのですか。間違っていることはありませんか。先生の精神医学に見落としがあったり、初耳だったり、しませんか」
「少しはね、パット」
「じゃあ、あるってこと?」
「まあ、私でも、いや、どんな評判のいい医者でも、全てを知っているわけじゃないし、人の心はとらえがたいからな」
第12章 魔王の手紙
パットが自分に言い聞かせた。
「うれしい、終わって。それにカール先生に約束して……。あの時はあやうく破滅するところだった」
顔の傷を調べて、慎重に粉をはたき、母が大騒ぎしないようにした。小さな嘘も効いた。母はガソリン時代の危険性についてうんちくを垂れて、無事を神に感謝した。思うに、親切なカール老先生がいてくれて、言い逃れがうまくいってありがたかった。
先生は情報をうまく隠し、登壇舞台を整え、傷の心配をする母をなだめてくれた。そしてパットも、化粧机の鏡で自分の顔を見て、傷がささいなことを確認できた。パットが独り言。
「傷か、フンだ。ほほのキズ、裂けた唇、すりむいたアゴなんてちょろい。仕上げは目の周りの黒アザだ。私なら5分ちょっとで全部カバーできるし、おまけにボクサー耳だって治せる」
だが、気分は少しも
笑い飛ばして忘れたかったが、できないことは自明だ。忘れたいというのは臆病者の願望だと分っていたし、自分が臆病者という考えには我慢ならない。
「気の利いた慰めは忘れよう。正面から立ち向かい、考え倒せ。それが安心へ唯一の方法だ」
立ち上がって、ちょっと顔をしかめたのは、すりむいた膝が痛むからだ。それから向かいの窓際にある長椅子の所へ行った。
長椅子に座り、また考え始めた。多少は正気に戻っていた。朝あった頭痛はほとんど消えていたが、ただ痛みはいろいろあり、気分も
「たやすく抜けられて運が良かった。直前にはあんなに胸を出して歩いたりして、まるでポケットに駄賃を突っ込んだ木こりのようだった」
はっと気づいて悲しげに首を振って、
「おっと、私はパトリシア・レーンだ。ビリーが“完璧パット”とあだ名した女だ。完璧だって? 下着とテーブル布姿で裏通りをさまよい、酔っ払いに殴られ、安酒で酔いつぶれ、家に運ばれ、ベッドに寝かしつけられた。ちっとも完璧じゃない。無能ということだ。カール先生の言う無能者仲間だ」
そして痛ましく考え続けた。
「さあて、一つはニックをもう愛していないことだ。今は愛せない」
炉棚の上にある笑顔の緑色仏像に言った。
「終わった。約束したもの」
どういうわけか、この約束には不満足な点があった。もちろん、理屈の上では当然だ。今ほかにすることはないけれども、依然として……
自分に言い聞かせた。
「あれはニックじゃなかった。私の知っているニックじゃない。たぶんカール先生の言うことは正しい。そしてニックはとにかく落胆している。もしあの時ニックが狂っていたなら、私も狂っている。私を納得させたのだから。ニックの言うことが分ったし、ニックの感覚も分った。ニックが狂人なら、私も狂人だ。我々はすごいカップルだ」
パットが続けた。
「しかしあれはニックじゃなかった。車で去るときの顔を見たら、顔がまた変化して、本来のニックの顔に戻り、怖い顔じゃなかった。そしてニックは謝っていた。すまないという顔が見えた。でもあの怪物はあの行為を決して後悔していない、一切……。あの怪物は全く人間じゃなかったが、たしかにニックだった」
ここで中断し、考えが浮かび、
「もちろん、あの最後の変化は妄想だったかもしれない。自分はもうろうとして、震えており、これが思い出す最後の記憶で、酔いつぶれる直前だったに違いない」
そんな議論に対して、
「しかし妄想とは思いたくないなあ。あの顔は以前にも一回あったし、あれは別な夜だったが……。まあ、とにかくどんな違いがあるというのか。済んだことだし、約束した」
だがそんなに簡単に忘れることはできなかった。何か不可解でとらえがたいものに魅入られている。ニックは元々残酷、狂暴、悪魔だったのかもしれない。同時に親切で、人なつこくて、やさしい。
それにしても、カール先生が言っていたことだが、別人格は本来その人の性格にないものを含み得ないとか。それなら残酷性は親切の一部分か。残酷性は単に親切が欠如したものか、あるいは人を冷笑するのは、残酷性なき親切心か。
ニコラス・ディバインは、相反する個性の中で、どっちが優勢で、どっちが劣勢なのか。やさしくて人なつこいが、明らかに弱い性格という人物でありながら、かつ昨夜の悪魔となるのがニックの普遍性格か。あるいはその逆か。またはこれら両方の断片的性格、つまり何らかの主要部が、まだパットに分っていないのか。
全体はまだ謎だ。果てない困惑に肩をすくませた。
「カール先生は、おっしゃるほど全容が分っていると思えない。精神医学やその他の科学が、人間の魂を理解するとは思えない。カール先生は魂など信じてすらいない。だから、知りようがないじゃないか」
困惑して眉をひそめ、謎解きを
母に強制されて、自室で過ごす時間が退屈になり始めた。特に気分は悪くないが、けだるい以上に抑圧疲労感があった。母は当然、どこかに出かけている。
パットは人間的なふれあいが欲しくなり、ひょっとして先生が偶然に立ち寄ってくれないかと案じた。でもそれは
ため息をついて、足を伸ばし、長椅子から立ち上がり、ふらふら向かった台所には、確実に炊事婦のマグダがいる。
まさに後ホールの暗がりで、始めて喪失感に襲われた。今までニコラス・ディバインに会わないのは理性的な行動であり、そう約束したが、さほど気にならなかった。
だが今になって、にわかにど〜んと響く現実となった。ニックは去ってしまった。自分の世界から行ってしまい、取り消しがつかないほど離れてしまった。後階段の最上部で立ち止まり、考え込んだ。
「ニックは行ってしまった。もう会えないだろう」
この考えは恐ろしい。既に孤独の予感がして、むなしい世界、埋め合わせできない空白を感じた。
「カール先生に約束するんじゃなかった」
と考えたが、あんな約束をしなくても、結果は同じだったに違いない。
「するべきじゃなかった、せめてニックと、それも正常なときのニックと話し合うまでは……」
依然として惨めに反復、それでどうなる?
でもニックなら説明してくれるかも、とむなしく考えたが、すぐに自ら反論した。ニックも説明できない、分らないと言ったっけ。議論は袋小路だ。
意気消沈して緑の黒髪を振り、暗い階段吹き抜けを台所へ降りていった。マグダが台所におり、容器と鍋をガタガタかき混ぜている。
パットは静かに入り、長テーブルそばにある腰高椅子に座った。老婦のマグダがミルクを暖めたり、レシピを計ったりして、パットをちらと見て、自分の仕事を続けている。
「車事故は大変でしたね」
と目も上げず言った。
「ありがとう。すっかり良くなりました」
「事故には見えませんよ」
「すっかり良くなりましたから」
錬金術師のようにパン菓子を奇妙に混ぜるのをじっと見ながら、マグダの手から続々とパン菓子が作られていくのを思い出した。昔を振り返れば、この椅子に座りながら、同じように不可思議な料理儀式を見ていたなあ。
不意に別な記憶が忘却の墓場から
「マグダ、いままで悪魔を見たことがある?」
とパットが訊いた。
「私はないが、取り
「じゃあ、いままで見たことはないんだ」
「ええ」
マグダがパン菓子をオーブンに入れながら、
「子供の頃、悪魔に取り憑かれた男は見たが……」
「見たんだ。どんなふうだった?」
「恐ろしく叫んで、妙なことを言ったね。それから倒れて口から泡を吹いたよ」
「引きつけみたいに?」
「司祭を、と男が言って、悪魔に取り憑かれたとか。司祭がきて祈ったら、しばらく動かなくなって、それからすっかり良くなったよ」
「悪魔に取り憑かれたんだ。で、男はどうなったの?」
「さあ」
「どんな妙なことを言ったの?」
「司祭の話ではひどいことだと。わたしゃ子供だったから分りゃせん」
「悪魔に取り憑かれたんだ」
パットが考え込んで繰り返した。そんな考えに浸り、腰高椅子に座っていた。一方、マグダは忙しくガチャガチャ音を立てている。やっと中断して、パットに顔を向けた。
「何でそんなにおとなしいのだい? お嬢ちゃん」
「ちょっと考えることがあって」
「ところで、手紙を取ったかい?」
「手紙? 何の手紙? 今日は日曜日なのに」
「特別配達だよ。女の子が玄関に置いといたよ」
「何も知らなかった。誰だろう?」
椅子から滑り降りて、正面玄関へ行った。手紙があり、一通だけお盆に乗っており、ここにいつも郵便が置かれる。拾い上げて、封筒を調べて、びっくり仰天、無理筋の喜びどころの騒ぎじゃない。
というのも、同日朝の消印が押された手紙が、なぐり書きのニコラス・ディバインからだったからだ。
第13章 優柔不断
パットは封筒を何気なく手で丸める一方、混乱して支離滅裂な考えに襲われた。ほとんど罪の意識を感じたのは、まるでカール先生との約束をなんだか破るかのようだったからだ。
つまり
妙なことに孤独感が消えた。この大きな家は、いま空っぽ、ただし離れた台所にいるマグダは別だが、もはや孤独な場所でなくなった。手紙を見つけたことで、内容がどうであれ、この物寂しい部屋を、興奮、狼狽、疑惑、希望に満ちた部屋に変えた。願望さえ内心沸き起こったが、どんな願望かは全く言えない。
ニックが何を書けば、物事を変えることができるというのか。謝罪か、弁解か、約束か。どれも、むき出しの恐ろしい苦界という現状を変えることはできまい。
それでも、期待に震えながら、急いで自室へ駆け込み、そっと扉を閉めて、西窓のそばに腰を降ろした。ポケットから手紙を取りだし、ゴクリと唾を飲み、封を切り、走り書き書状を引き出した。熱心に読み始めた。手紙は挨拶もなくこう始まる。
君がこの手紙を見るかどうか分らないが、パット、もし未開封で返却しても、君を責めはしない。君は不都合なことは何一つしていないし、僕の行為を悪く思わないでくれ。こんなことを書いてもほとんど意味がないし、君の想像がつこうというもの。
パット、どうやったら僕が真剣だと納得させられるか。愛していると書いたら信じてくれるか。信じられるか、僕の愛は、思いやりがあり、敬虔 であり、君を敬 っている。
昨夜あんなひどいことがあったあとでは、僕を信じられまい。でも本当だ、パット。スピノザの論理を持ってしても、納得させられないだろう。
手紙の書き方が分らない。僕の言い分を聞きたいかどうかも分らないが、言うだけは言いたい。謝罪はしない、パット。そんな浅はかなことを言って君に近づけないから、ちゃんと説明をする。この世で、きみ以上にこの説明をするにふさわしい人はいない、ただし聞きたいのであればだが。
説明内容は書けない、パット。信じさせられるのは口で言ってこそであり、底知れない何か、いやむしろ、恐ろしい内容だ。でもどうか、危害を加えないことは信じてくれ、そしてきみに会えたら、責任逃れはしないから。おそらく最後の機会になると思う。
今晩、明晩、続けられる限り毎晩、最初にキスした場所近くの公園ベンチに座っている。人々が行き交い、車が通り過ぎるから僕を怖がる必要はない。自制できる場所を選んだ、パット。世間の目にさらされて、あそこに座っている間は、何も起こりえない。
これ以上書いてもむなしい。来てくれれば、僕はそこにいる。来なくても納得しよう。
愛してる。
パット、どうやったら僕が真剣だと納得させられるか。愛していると書いたら信じてくれるか。信じられるか、僕の愛は、思いやりがあり、
昨夜あんなひどいことがあったあとでは、僕を信じられまい。でも本当だ、パット。スピノザの論理を持ってしても、納得させられないだろう。
手紙の書き方が分らない。僕の言い分を聞きたいかどうかも分らないが、言うだけは言いたい。謝罪はしない、パット。そんな浅はかなことを言って君に近づけないから、ちゃんと説明をする。この世で、きみ以上にこの説明をするにふさわしい人はいない、ただし聞きたいのであればだが。
説明内容は書けない、パット。信じさせられるのは口で言ってこそであり、底知れない何か、いやむしろ、恐ろしい内容だ。でもどうか、危害を加えないことは信じてくれ、そしてきみに会えたら、責任逃れはしないから。おそらく最後の機会になると思う。
今晩、明晩、続けられる限り毎晩、最初にキスした場所近くの公園ベンチに座っている。人々が行き交い、車が通り過ぎるから僕を怖がる必要はない。自制できる場所を選んだ、パット。世間の目にさらされて、あそこに座っている間は、何も起こりえない。
これ以上書いてもむなしい。来てくれれば、僕はそこにいる。来なくても納得しよう。
愛してる。
手紙は単に“ニック”とだけ署名してあった。とても戸惑いながら見ていたので、内容を分析しなかった。
「でも、行けない。カール先生に約束した。いや、少なくとも先生に相談しないで行くなんて、できない」
この考えは、一歩譲った結論であることはわかっている。これまでニコラス・ディバインに再び会うなんて考えもしなかったが、今になって突然軟弱になり、倫理上会ってもいいかと思案する有様だ。きっぱり首を振って、自分に言い聞かせた。
「行っちゃだめだ、パトリシア・レーン。次には、黙って誰にでもついていき、目にあざをつけられ、鼻を折られて帰還する羽目になる。絶対行っちゃだめだ」
パットが手紙に目を落とし、
「説明か。たしかカール先生があの説明への一発必中をあきらめたなあ。私の方がもっと解明できる。でも関係ないや、約束したもの」
と首を残念そうに振った。
太陽が西窓から斜めに差してきた。部屋内の影が長く伸びるのを、座って眺めながら、もっと有益なことを考えようとした。
数ある月のうち、この家で日曜日を一人で過ごすのは初めてだ。パットと母にとっては、日曜午後はクラブで過ごすのが習慣だ。夜も概してそうだ。
母はいつもブリッジをしており、パットは若者グループの中心だった。なんとなく浮かんだのは、自分が現れなくて、皆がどう思うか、母がカール先生の車事故の作り話をきっと吹聴するに違いない。
カール先生は多くを言わず、ただ家にいろと命じただけだった。だが遅かれ早かれ、ニックがこの事故話を聞きつけるだろうから、はたしてどう思うことやら。パットは重大にとらえた。
「考えがぐるぐる回っている。どこから始めようが、ニックの所へ戻ってくる。だめだ、止めなければ」
夕食時間近くまで考えていると、太陽がカール先生宅の背後に落ちるのが見えた。食欲はわかなかった。依然としてへとへと状態であり、だらだら引きずる衝撃事件の残照はあったが、けさ起きた時あった頭痛は消えていた。少し苦笑いして考えた。
「あんな気持ちの朝はそんなものだ。誰でも一度は経験する。ニックはどうしているかしら――」
不意にとめて、いやだという風に肩をすくめた。手紙を封筒に戻し、立ち上がり、ベッド小卓の引き出しに入れた。照明台の上でチクタク動く時計に目をやった。
「午後6時だ」
とつぶやいた。ニックはこれから2時間かそこら公園に座っているだろう。たった一人で寝ずの番をしていると思うと同情心がうずく。私が来ずに時間だけが通り過ぎるとき、ニックの困り果てた顔が想像できる。自分に言い聞かせた。
「助けることはできない。あの夜以来、許しを請う権利はない。それはわかっている。手紙にもそう書いてある」
手紙をもう一度読みたい衝動を抑え、ゆっくり部屋から出て、階段を下りた。
マグダが朝食部屋のテーブルに夕食を用意してくれていた。特に母がいないときは大食堂よりもずっと居心地がいい。マグダはいなかったが、この部屋なら、給仕も簡単だ。
マグダが用意してくれた夕食を無理に食べようとしたが、食べられなかった。そんな状態じゃない。実態は歯を食いしばっていた。はたしてニコラス・ディバインの記憶が永久に付きまとうのか。自らに訓戒を垂れた。
「パット・レーンよ。お前はどうしようもない馬鹿だ。あの場所で殴られたからといって、ニックを悪霊に取りつかれたままにしておいてはいけない」
コーヒーを飲むと、傷ついた唇にひりひりする痛みがあった。テーブルを離れ、自室へひたすら進み、ふてくされて本を読み始めた。その努力は無駄だった。6たびも本に注意を向けたのに、一瞬か二瞬にしてぼうっと
「この家には耐えられない。独房監禁囚人のように、ここに閉じ込められたくない。自由に歩き回ることが必要だし、やってやる」
時計をちらと見れば、午後7時半だ。不機嫌に部屋着を捨て、パジャマを脱ぎ、頑として服を着始めた。考えたくなかったのはあの孤独な男のこと。今も
傷ついたほほをできるだけうまく化粧し、あごの擦り傷にも粉をはたき、戦闘態勢で階段を下りて行った。
上っ張りは先生が夕べ放り投げたままのところにあり、扉へ向かうと、開けた途端、危うくぶつかりそうになったのが、巨体のカール先生。驚いて後ずさりすると、先生がうなった。
「おや、病人にしては元気だな。外出かな」
「ええ」
とパットが強気で言った。
「今夜は駄目だ、パット。君を診察するためにクラブを早退した」
「すっかり良くなりました。散歩したいのです」
「散歩も駄目だ。医者の命令だ」
「私は成人です。散歩したいのです。いいですか」
医者が戸口正面に巨体で立ちはだかり、
「駄目だ。私を叩き出さない限り、ダメだ。私はタフだよ。夕べは君をベッドに運んだし、今晩だってわけないぞ。やろうか」
パットが広間に戻り、ぶすっと言った。
「そんな必要はありません。自分でベッドへ行きます」
パットは怒って、上っ張りを椅子に投げ捨てて、階段を上がっていった。
先生が追撃ちをかけて、
「おやすみ、短気もの。君のお母さんが帰ってくるまで、ここの下で本を読んでいるよ」
パットがかっかして自室へ戻った怒りは、筋の通らないものだと分っていた。
「問題児みたいに監視されてたまるか。先生の考えはよく分る。ニックには会わないつもりだったのに。金輪際そのつもりだったのに」
不意に冷静になり、ベッドの端に腰掛けて、靴を脱ぎ飛ばした。はっと思い出せば、ニックはあしたの晩も同じように公園で待っているつもりだと書いていた。ようし、先生が邪魔するなら、逆に会ってやれと決心した。
第14章 突飛な説明
「いじめられてたまるか」
とパットが自分に言い聞かせて、鏡で顔を調べた。二日も経てば、
「午後8時か。出発時間だ。ゆうべカール先生が高圧的に止めたのは正しかった。ニック以外に、いじめられてたまるか」
と思わず口から出た。嘘か誠か、最近の考え事は楽しめない。思い出があまりにも心をかき乱す。
ほつれた黒髪を
「外出するの? パトリシア。そんなことしていいのですか」
「すっかり良くなりました。散歩したいのです」
「わかった、パット。問題はお前の顔だよ。充分いいけど、ただちょっと
パットが玄関扉に向かいながら、
「目立つようにするの。流行に遅れたくない」
玄関の張り出しで、カール先生宅の窓を注意深くながめたが、先生の巨体はどこにも見えない。書斎だけ明りが点いており、そこにいる。
ほっとため息をついて、階段を降りて、こそこそ歩道へ行き、先生から見えないところに急いで移動した。
公園を見つける間もなく、疑惑に苦しめられ始めた。もしこれがニコラス・ディバインの策略で、あの土曜夜のようなことを仕掛けているとしたら……
たとえ愛するあの甘い個性が見えたとしても、それも策略じゃないか。もしかしてニックは能力がなくて私に勝てないのではないか、私が
はたしてニックの恋愛
「先んずれば人を制す。今回はあんな軟弱な抵抗はしない、本音を知った。唯一まともな行動は説明を聞くことだ、本当に内容があればだが……」
公園を再確認すると、人々がたむろし、遊歩道を散策し、絶え間なく車のヘッドライトが道路を照らしている。こんな環境なら何も起こりえない。幸いにも内緒話ができそうだ。
車のライトを頼りに目を凝らし、ニコラス・ディバインの場所を探した。信号がチカチカすると、道路を突っ切った。
湖の方へ移動した。ここが待合場所に違いない。思いがけず熱心に辺りを見回し、影になった暗がりをのぞいた。ここにはいないと結論づけたものの、妙な失望感があった。夕べ現れなかったので、がっかりしたのだろう。おそらく
そのとき見つけた。ほかの人達から離れて樹木のない場所に座って、湖を見ている。絶望的な様子で、ほおづえをついて、不機嫌に水面を凝視している。
パットは全身に震えが走り、ぐっと立ち止まり、高ぶった感情が消えるのを待ってから、前進して、静かにニックのそばに立った。
しばらく、気づかれなかった。ニックは相変わらす気落ちした様子で、見向きもしない。その時突然、何かちょっと動き、スカートがぱたつき、注意を引いて、まともに顔と目が合った。
「パット、パット、君か。本当に君か。いや、僕を何時間も悩ませている幻想か」
「ほんものよ」
と言って、わざと冷静な顔をしてニックを見返した。ほかは微動だにしなかった。冷静な態度にニックはうろたえ、パットが椅子に座ると、狼狽し、赤面し、自信なげに脇にどいて、横に収まった。
パットに触ろうとせず、余りにも長いこと黙って見ているので、パットの冷静さも失われる気がする。ニックの表情には絶対に勝ってやるぞという意気込みがあり、目には物言いたげな
「それで? 私はここよ」
とパットがやっと小声で訊いても、返事がない。ニックは、しきりにパットを見ながら、
「本当にパットか。本当にここに居るのか。まだ信じられない。夕べはここで何時間も待っていた。今晩も、いやずっと諦めていた。でも毎晩来るつもりだった」
ニックが不意に腰をかがめたのでびっくりしたが、単に顔を調べただけだった。あごに赤いアザと、ほほにキズがかすかにあるのを見たとき、ぞっとしたような表情をみせた。
「何てことだ、パット、大変だ。嘘であってくれ」
声はほとんど聞き取れない。そんな繰り言を言いながら、身を引き、ぽつねんと座る様子は、最初に見つけたときと同じ。
「何が嘘であってくれなの?」
とパットが慎重にさりげなく尋ねた。このようにニックが惨めに後悔したことで、これなら絶対に安全だ。
「僕が覚えていることだよ。いま見た顔のことだよ」
「嘘であってくれと思ったの? でもあなたがやったのよ」
「僕がやったのか、パット。僕ができると思うか」
「あなたがやりました」
とパットの声が冷たく響いた。あの
「パット、僕が可憐な君に暴行できると思うか、敬愛する君を虐待できると思うか。何もなかったのじゃないか。何も変じゃなかったようだが、あの夜は」
「変でした。ずいぶんおだやかな言葉を使うじゃないの」
「でも、何があったか、思い出さないか。僕が突然狂った以外に、何か思わなかったか。いや、嫌いになった意外に」
「何を思い出せというの」
と反発し、声の震えを押えようと努めた。
「でも思い出したんだろ?」
パットがしばらく間を置いて、
「いいえ。最初あの飲み物を出されたとき、研究材料を探しているのかと思っていた。あなたが言っていた実験よ。そうじゃない?」
「そうだと思う」
「でもあのあと、あの恐ろしい物をのんだあと、
「えっ、何だ、パット。何を思った?」
「ええ、あのとき、あれはあなたじゃない、つまり本当のあなたじゃないと思った。感じたのは、ええと、知っている人だが、私を虐待するこの人は、その人とは別人で、怖くて冷酷で、非人間的な見知らぬ人でした」
「パット、本当にそう感じたのか」
と言うニックの声にはほっとした響きがあった。
「ええ。私の感想が役立ちましたか。理由は分りませんが」
ニックの目はパットに釘付けだったが、不意に外し、安堵の感情が口調から消えて、
「いや、役に立たないよ。ただ、君の感想を知って少しは慰めになったけど」
パットは手を伸ばして、ニックの髪の毛をなでてやろうかという衝動を、なんとか抑えた。必死に自制した。これは危ない、自ら戒めていたことだ。
ニコラス・ディバインがやりそうなことだし、
「あほうだけが同じ罠にはまる」
不意に、大声で言ってやった。
「説明する約束でしたね。弁解することがあれば聞きましょう」
再び声に冷静さが戻って来た。
「弁解はしない。説明はおそらく突飛すぎ、空想すぎて、信じられまい。自分でも信じない。君でも全然信じないだろう」
「説明すると約束したでしょう」
とパットが繰り返した。慎重に構えた冷静な声が今にも壊れそう。ニックの物言いたげな様子はパットの防御を崩す強力な武器となった。ニックが哀れげにしょげかえって見返した、
「そうか、説明しよう。警告しておくけど、君は信じないと思う。パット、君を愛しているから僕の言うことは本当だ。信じてくれるか」
「ええ」
とパットがつぶやいた。押えたけど声に震えが再発した。
ニコラス・ディバインが湖に目を転じ、話し始めた。
第15章 現代のハイド氏
ニックが低い声で話し始めた。
「最初気づいたのは覚えていないが、僕は二人の人間だ。一人は僕で、いま君に話している。そしてもう一人、僕がいる」
パットは薄暗い明りの中、青ざめ、厳しい顔になったが、何も言わなかった。ただ黙って見つめるだけで、全く驚く気配を示さず、黒い瞳を見開いているばかり。ニックが惨めに続けた。
「それが本当の僕だ。もう一人の僕は
パットが必死に声を押えて、
「え、ええ、少しは」
ニックが続けた。
「この戦いは長い間続いた。たびたび子供時代を思い出すのだが、僕が絶対にやっていないと思う違反に対して罰せられた。でも意地悪で下劣なことは一切やっていない。それを説明しようとすると、母やそして母が死んだあと、家庭教師からも、僕が嘘をついていると言われた。責任回避しているという。その後、もう説明はしないことにした。辛抱強く罰を受けて、戦うことにして、それ以外は勝つ力を探し求めた」
「できたの? 戦うことができたの?」
と尋ねるパットの声は実のところ震えている。
「僕もだんだん強くなってきたから、通常は勝てた。もう一人の僕が意識に入り込む時は、勝手気ままで、ちょっとさもしい衝動が起きたり、嫌な気分とか、訳の分らない憎しみとかそんな不快な気分になった時だった。でも僕はいつも勝った。裏側へ追いやる方法を学んだ」
パットが不思議がり、
「だんだん強くなったと言ったけど、どういうこと、ニック」
「僕は常に強くなっていった。今はそうだ。しかし、最近だが、パット、思えば君に恋してからは、戦いが拮抗してきた。僕が弱くなったか、第二の僕が強くなったかだ。絶えず防御しなければならなくなった。一瞬でも弱くなると、はいり込んできて、先週のドライブのように、事故を起こしそうになった時に出る。そして、あの土曜日もだ。パット、信じるか」
と言って、訴えるような目を向けた。
「信じざるを得ませんね。むしろ絶望的になるじゃないですか」
ニックががっくりきてうなずき、あいまいに首を振り、
「ああ、でもそのうち勝って、永久に追放できると思っていた。何回も完全勝利寸前になったが、今は……。あの土曜日まではそれほど完全に支配されていなかったが、パット、君は地獄がどんなものか知るまい。遂に君の敬愛する人物が暴力をふるうまでになり、むなしく
パットが“まあ”と小声で言った。頭に浮かんだ無残な姿は、衣服を半分はだけて路地でよろめいていた場面だ。
「第二のあなたが見たものは分りますか」
「もちろんだ。考えてもみろ。でもそれは第二人格が支配的なときだけだ。何を
「第二のあなたは今どこに居ますか」
「ここだ。ここで話を聞いており、僕の考えや感情を知っており、僕の不幸を笑っている」
「まあ」
とパットがまた息を呑んだ。ニックを疑わしげにじっと見た。
そのときカール先生の診断を思い出し、いぶかった。この話は不安定な精神による作り話ではないか。こんな鬼畜生の不条理な話はまさに先生の意見が正しい証拠じゃないか。こんがらかって分からなくなった。
「ニック、いままで病院に行ったことがありますか。先生に診てもらったことは?」
「もちろんあるさ、パット。2年前、ニューヨークの有名な精神科医の所へ行った。名前を言えば君も知っているはずだ。この医者に症状を説明した。調べたり、治療したり、精神分析したところ、結果は何でもないとのことだった。最終的に退院して、付帯意見では単なる固着妄想であり、幸いにも無害だという。無害だと、ふんだ。そんなことをしたのは、僕だけじゃないってさ、パット。僕は怖くて立ちすくまざるをえない。狂人になれる素質はあったが、ならなかった」
「でも、ああ、ニック、なに? その異端者って、なにもの? どうやって戦えるの?」
「僕以外どうやって戦うというのか」
「さあ、わかりません。方法があるに違いない。先生方は、ほぼ全てがわかるとおっしゃる。何かやれることがあるに違いない」
「でもなかった。君の言ったこと以上のことは僕も知らないし、君の先生でも手に余る。僕一人で戦わざるを得ない」
「ニック。それは狂気じゃない? 何かそんなものなら、たぶん対処できます」
「君の先生が扱える類のものじゃないよ、パット。今まで狂人のことを聞いたことがあるか。そばにじっと立って、冷静に自分の愚行を見ている。僕はそれを強いられた。だが第二人格はいずれにしろ狂人じゃない。行動が異常なのかも」
パットが身震いして、低い声で、
「わからない、さっぱり」
「ああ、恐ろしくて、残酷で、野獣的で、悪魔的に狡猾、邪悪だが、狂人じゃない。何だか分らない。僕一人で戦わなければならない。助けてくれる人は誰もいない」
パットが悲しげに叫んだ。
「ニック」
「ごめん、パット。これで分ったろ、君と恋に落ちるのを尻込みするわけが。君を愛するのが怖い。そういうことだ」
パットが再び“ニック”と叫び、それから絶望して中断した。しばらくして続けた。
「きのうあなたを忘れようと決心したが、いまはたとえあなたの話が絵空事の嘘であってもかまわない。愛しています。たとえ本当の姿が怪物であっても、たとえワナであっても、とにかく愛しています」
「パット、僕を信じないのか。もしこれが君の言う通りなら、なぜ君を諦めると告白しなければならない? まさか、もう一度チャンスを懇願したり、約束したり、言い訳なんかしないだろ」
「ええ、信じます、ニック。でもそういうことじゃありません。つまり考えていたのは、なんて変なのでしょう、過去2晩あなたを憎み、今晩こんなにも愛せるって」
「ああ、パット。君でさえ、どれほど僕が愛しているかは知り得ない。そして君を勝ち取っても、諦めねばならない」
パットが片手を伸ばし、ニックの手に重ねた。その夜で初めて、ニックに触れ、手の感覚がびりびりっと全身に伝わった。ひどく取り乱してしまった。パットが途切れ途切れにつぶやき、
「ニック、あなた」
ニックが見返して、
「打開するチャンスがあると思うか。待ってくれとお願いはしないが、パット、ただチャンスをつかみさえすれば……」
「待ちます。待つ以外、なにもできません」
「戦うべき相手が分ったらなあ。それが分ったらなあ」
突然パットの頭に記憶が
「ニック、わかりました」
「どういうこと、パット?」
「炊事婦のマグダが言ったことです。馬鹿げていて迷信的ですが、ニック、ほかにありえません」
「教えてくれ」
「ええ、きのう私に話したのですが、子供のころ田舎で、男を見たことがあるそうです、悪魔に取り憑かれた男です。ニック、あなたは悪魔に取り憑かれています」
ニックがまじまじ見つめて、かすれ声で、
「パット、それは不可能だ」
「わかっています、でもほかにありません」
「暗黒時代から、黒ミサと魔術が共鳴すると……。でもなあ」
「何をしたのですか。悪魔憑きになった人に、何をしましたか」
「悪魔払いだ」
「どうやって、悪魔払いをしたのですか」
「さあな。パット、そんな考えは不可能だし、わからん」
パットは依然としてニックの手に手を重ねながら、つぶやいた。
「やりましょう。ほかに何ができますか、ニック」
「何をしようが、僕一人でやるよ、パット」
「でもあなたを助けたい」
「君には、やらせない、パット。そんな侮辱的なこと、いやもっと悪いことに君を
「怖くなんかありません」
「僕は怖い、パット。やらせない」
「でも、なにをやるの?」
「ここを立ち去って、きっぱりけりをつけて、自由になって戻ってくるか、あるいは――」
ニックがここで止めたが、パットはこれ以上質問せず、座ったままじっと、困惑した目で見つめた。ニックが続けた。
「もう手紙は書かない。僕から手紙が来ることがあっても、焼き捨てなさい、読んじゃいけない。第二人格からかもしれないし、何らかの罠か、誘惑かもしれない。約束してくれ。約束するね?」
パットがうなずいた。目にちらと涙が光った。
ニックが続けた。
「それに君を待たせたくないし、拘束するように感じて欲しくない。絶対に僕に感謝する必要はない。僕が戻ってきて、君が心変わりしていなければ、よりを戻そう」
「ニック、どうして第二人格がここで再現しないと分る? 確約できますか」
「俺がまだご主人様だ。あんなことを起こすほど長い間支配されてたまるか。叩き出してやる」
「じゃあ、さよならっていうこと?」
「永久じゃないよ」
「ニック、キスしてくれない。あなたを失っても、ちょっとは耐えられます。思い出に最後にキスをもらえば」
ほほに涙を感じ、声が口ごもっている。
ニックが腕を回した。ニックの愛撫に完全に身を任せた。公園は人々が数

その時しつこい声が、パットの意識を貫いた。数秒間、自分の名前を呼んでいる。
「パットお嬢様、パットお嬢様」
肩を軽く叩かれた。びっくりして唇を離し、顔を見上げれば、しばらく誰だか分らない。
その時思い出した。ミューラーだ、カール先生の仲間で、あの破滅的な土曜の夜に現われた私服刑事だった。
第16章 憑依
パットが侵入者をじっと見入る姿には、きまり悪さ、不安、
「それで、どうしたいのですか」
「あなたを連れ帰りたいと思いまして」
と私服刑事のミューラーが愛想よく言った。
「連れ帰る、ですって。わけを説明しなさい」
パットがニコラス・ディバインの腕をつかんだのは、話を中断されて、ニックが怒って立ち上がったからだ。
「すわって、ニック。この人は知っています」
私服刑事のミューラーが言った。
「座ってください。ええ、説明しましょう。カール先生に頼まれました」
「私をつけたのでしょう」
とパットがののしった。
「いいえ。あなたをつけてはいません」
ニックが落ち着いて言った。
「僕をつけたんだよ。ミューラーは非難できない、パット。たぶん君は帰った方がいい。ここで終わりだ。これ以上やること、いや言うことはない」
パットが突然やさしくなって、
「わかりました。ちょっと待って、ニック」
ミューラーに向かって責めた。
「なぜ今まで待って、割り込んだのですか。2時間前ここへ居たのを知っていたでしょう」
「確かに。言いましょう。邪魔せよという命令は受けていません。これが理由です」
「じゃあ、なぜ邪魔したのですか」
「そこにいるニックが……。あなたに腕を回すまでは邪魔していません。あのとき、命令は受けていませんが、自己判断すべき時だと思いました」
「何かありましたか」
とパットがしらばくれて言った。またニックに向かい直り、顔がゆるみ、やさしくなって、かすれ気味につぶやいた。
「ニック、これでお別れです。あなたとは戦いますよ、覚悟なさい」
ニックもパットの目をのぞき込んで、
「分っている。でも幸せだよ、パット」
「いつ行くの?」
とミューラーに聞こえないようにささやいた。
「分らない。準備をしなくちゃならない、知られたくないから」
パットがうなずいた。涙目で、ちょっと長めに見つめた。
「さようならニック」
とささやき、つま先立ちでニックの唇に軽くキスして、向きを変えて、さっさと歩くと、ミューラーが後についてきた。
パットはずんずん歩き、ミューラーを無視していると、交差点で横に並ばれた。そのとき冷たい目つきで、尋ねた。
「なぜカール先生はニックを監視するのですか」
ミューラーが肩をすくめて、
「この案件は完全に私の手に余ります。私の仕事は給料分だけです」
「でも今はニックを監視していないでしょう」
「そうですが、きっと先生はあなたを帰宅させる方が重要だとお考えです」
「時間の無駄です。どっちみち帰宅するつもりでしたから」
とパットがいらついて言えば、信号が変わり、道路へと歩み出した。ミューラーが落ち着いて言った。
「さあて、道中ご一緒しましょう」
パットは軽蔑して鼻白み、黙って歩いた。ミューラーがついてくるので、癇に障る。
一人になって考えたかったのは、ニコラス・ディバインが語った驚くべき話だ。自分の感情を分析したかったし、何より欲しいのは隠れ場所、そこで思い切り泣きたい。
さてニコラス・ディバインが居なくなったことで、攻撃を回避できた幸運な気持ちから、残念な感情に変わり、たとえニックが嘘つき、狂人、悪魔だろうが、心底とても会いたい。だから、できるだけ早足で急ぎ、無口なミューラーを無視した。
自宅に着いた。居間の明りが点いているので、ブリッジゲームをやっていることは明らかだ。パットが踏み石に上がると、ミューラーは歩みを止めて、黙って見ている。パットがバッグの鍵を手探りした。
突然、ハンドバッグをパチンと閉めた。会いたくなかった。母とオールドミスのブロック姉妹、それに詮索好きな年配のカーター・ヘンダースンらにだ。ゲームの仲間にはいれと誘われるだろうし、もし拒否したら文句を言われるだろうし、いまはブリッジをする気になれない。
無表情のミューラーをちらと見て、向きを変えて、芝地を横切り、カール先生宅へ行くと、まだ書斎の明りが点いているので、ベルを鳴らした。廊下に姿が消え、明りのついた扉正面に、先生が現れた。
「やあ、おはいり」
と先生が愛想良く言った。パットは書斎に入り、ぷりぷりして、カール先生の専用椅子に座った。先生は苦笑いして、ほかの椅子に座った。
「さあて、今回はどんなことで堪忍袋が切れたんだ」
「なぜ私の友人を監視するのですか。何の権利があって?」
「そうか、ニックがミューラーを見破ったのか。あの若造はとんでもなく賢いな、パット。奴は悪魔のようだってことだ」
「答えになっていません」
「そうだな。言おう、私が親代わりだからだよ」
「先生の権利範囲は私の監視まで、ですけど」
「君をか? 誰が君を監視するというのだ?」
「じゃあ、私達を監視する権利は?」
「私達って? ミューラーに言いつけたのは、ニックの監視だ。さては
パットが赤面した。約束を破ったことを忘れていた。思い出した途端に、自信を砕かれ、守勢に立たされた。ふてぶてしく、
「ばれたか。破りました。認めます。許してくれますか」
「おそらく、これで私の取った行動が説明できるよ、パット。君を守ろうとしていることが分らないか。本件でミューラーを雇ったのは、病的興味からや、職業的関心からだと思うか。そんな気まぐれに金を捨てるほど暇じゃない」
「護衛はいりません。自分の面倒ぐらい見られます」
「でもな、おとといの夜が明らかな証拠だ」
パットが激怒して、
「まあ、あれを言うなんて」
「本当のことじゃないかね」
「たぶん。でも二回も同じ轍は踏みません」
「どうやら一回では足らなかったようだ。今晩、同じ危険に晒された」
「今晩、危険はありませんでした」
ここで不意に気分が変わったのはニコラス・ディバインと別れた場面を思い出したからだ。パットの声が沈んでいる。
「カール先生、私はとても不幸です」
先生がパットをじっと見つめながら、
「おお、パット、君の感情は私のゴルフと同じようにころころ変わる。君はニック同様に移り気だ。ちょっと前は、がみがみ言っていたが、また受け入れる始末だ。わかった、パット、聞こう」
「ニックが離れていきます」
「それが皆にとって最善だと思わないか。ニックの判断を称賛する」
「でも、ニックに離れて欲しくありません」
「離れなさい、パット。会い続けるのは無理だ。居ないほうがかえって楽だろう」
パットが涙目になり、
「決して楽になりません、カール先生。たぶんニックのことになると私は愚か者同然です」
「あんな目に遭ったあとでも、そんな気持ちがあるのか」
「ええ、はい、そうです」
「そうなら、ニックに首ったけと言うことだ、パット。そんなに夢中になる玉じゃない」
「どうして先生にわかりますか。判断するのはこの私です」
「私には
「きのうは今の気持ちが分りませんでした」
先生は真剣に困惑するパットの表情を見て、
「そうか、奴が話したのか、ええ? 内容を話してくれないか、お嬢ちゃん。私の関心は精神病患者の言い訳であり、自らの衝動をどう語るかだ」
「だめ、言いたくありません。精神病患者ですって。みんな先生の患者ですか。私もニックも。先生が知りたいのは症状ですか」
カール先生が落ち着かせるように笑いかけて真剣に言った。
「パット、君を助けるためなら、私はどんなことでもすることが分らないのか。私が無礼な振る舞いをしたからと言って、厳しくとがめないでくれ、お嬢ちゃん。背後の意図をたまには見なさい」
先生はじっと見続けた。パットが見返した。顔は和らいで悔い改めている。
「ごめんなさい。信じています、カール先生。ただ、そんなことで心がとても粉々に砕かれたので、かみついたり、怒ったりしました。もちろん、話します」
「是非聞きたいな」
「そうですね、ニックが言うに、ニックは二つの人格を持っているとか。一つは私の知っている人格、もう一つは例の土曜夜の人格です。第一の人格が支配的で、第二の人格と戦っているとか。第二の人格がだんだん大きくなってきて、最近までは押えることができた。そして、ああ、ばかげています、こんなことを言って。でも本当です。確かに本当です。こんなことを聞いたことがありますか、カール先生」
ない、と首を振る先生は依然として真剣にパットを見ながら、
「正確にはないな、お嬢ちゃん。奴が嘘を言っていると思わないか。例えば、土曜夜の責任を逃れるために」
「いいえ、そうは思いません」
とパットがけんか腰に言った。
「それじゃ、君の考えでは何が原因だ? 考えがあるだろう」
「はい。あります」
「なんだ?」
「ニックは悪魔に取り
とパットが力なく言った。先生の顔に困った表情が現れた。
「おやおや、君はこれまで散々無茶なことを考えてきたが、中でも一番
と言って、クスクス笑った。パットが怒って、
「奇怪ですか。先生や精神科医たちが、仮面をかぶったスワヒリ族の呪医より、賢いとは思えません」
パットは怒ってその場を蹴って、ぷりぷりしてホールへ向かった。パットが繰り返して、
「悪魔か、なんかです。でもニックを愛しています」
「パット、パット。どこへ行くんだ?」
パットの声があざけるように、正面扉から戻って来た。
「悪魔がどこに住んでいるかって? もちろん地獄よ」
第17章 呪術医師
しかしながらパットはその晩、混み合う高速道路に乗るつもりはなかった。怒って先生宅の階段を降りて、薄い靴下が破れるかもしれないのも全然気にせず、壊れた垣根をすたすた通って自宅玄関に帰った。鍵を見つけて扉を開き、中にはいった。
階段を上っていると、先生に対する怒りが消えて、言いようのない孤独、疲労、悲哀を感じた。最上階の椅子に座り、苦い反省にふけった。
ニックは行ってしまった。心がひどく痛んだ。夜のドライブはもうない、会話もない。内容は世間話に限られているが……。息を呑むようなキスもない、嫌がるニックもとろけるのに……。哀れげに黙って座り込み、いまの惨めな立場を考えた。
狂人に恋した。いや、もっと悪い。悪魔にだ。ニックの半分はパットを
何ができる? 何もできないと分っているし、ぼうっと脇に座っているだけだし、一方のニックは目的をやり遂げようとするし……
いや、あり得る唯一の選択肢として、現状のまま、ニックの不安定な性格が変わることに賭けて、前回の恐怖に我身をさらし、幸運を祈って救出方法を見つけることだ。そして今の気持ちを保ち、よりましな解決方法を探すことだ。
でも理性的には不可能なことも分っている。落胆して首を振り、絶望的に惨めになって、壁に寄りかかった。
その時、か細いが、甲高い呼び鈴の音が聞こえ、ちょっと間を置いて、階下のホールで女給の足音がパタパタした。ぼんやり聞きながら、落胆の連鎖に悩んでいると、おやっと驚くことに、カール先生のどら声だ。先生の挨拶と、くぐもった返事があり、文言が聞き取れたのは、声が反響するからだ。
「パットはどこだ?」
という言葉が階段の吹き抜けから響き、ほとんど聞こえないような返事が母からあった。
「パットお嬢ちゃん、君には心配させられるよ」
パットの声は弱々しく、元気がない。
「私に? 私はずっと変わっていません」
「かわいそうに。ニックのことで、ずいぶん惨めじゃないか」
「愛しています」
パットを見つめる先生の目には、同情と打算が入り交じっている。
「そうか。君を信じるよ。すまん、お嬢ちゃん、今までニックの存在意味が分らなかった」
パットが依然として弱々しくつぶやいた。
「先生はいまでも分っておられない」
「たぶんな、パット、だが分ってきた。ともかくニックにぞっこんなら、私も最後まで付き合うぞ。いいか」
パットが手を伸ばし、先生の外套
「ごめんな、お嬢ちゃん。申し訳ない」
パットは自分から離れ、再び壁に寄りかかり、頭を振って、涙を振り切った。先生に弱々しく微笑み、尋ねた。
「それで?」
「例の夜、君が言った褒め言葉を返すよ。二、三聞くけど、もちろん純粋に職業的なものだ」
「どんどんやってください、カール先生」
「よろしい。ニックがあのう…そのう…襲ってきたとき、奴は正気だったか。発言は論理的だったか」
「そう思います」
「いつもと、どんな風に違っていたか」
「ええ、すべてです。ニックの親切で優しくて繊細で無邪気なところが、残酷、粗野、下品、狡猾、恐怖になりました。こんな激変は想像できないでしょう」
「うーん。違いはすぐ分ったのか。いままで疑ったことはないのか、君が遭遇した場面で」
「いえ、ありました。いままでニックを手玉に取っていたのですが、ああ、神さま、なにか強大な邪悪神のようになり、私はまるで怖がる子供のようでした」
「ふん、おそらくその神の名前はプリアーポス(訳注)だろう。まあ、君の感情は信用できないな、パット、なぜなら、最善状態じゃないからだ、なんというか正常な判断には……。ところでニックのことだ。第二の人格が支配的だったとき、何があった? 何か言ったか」
(訳注)プリアーポスはギリシア神話において生殖力と豊穣を象徴する男神で羊飼い。庭園・果樹園の守護神でもある。(Wikipedia「プリアーポス」参照)
「ニックは第二人格に侵入されてからどれくらいの期間、苦しんでいるのか」
「ニックが物心ついてからずっとです。子供の頃、他人がいたずらしたのに、自分が責められて、それを説明しようとすると、罰を逃げるために嘘をついていると思われたとか」
「そうか。連中がそう思うさまが見えるようだ」
「信じないのですか」
「正確には、信じないわけじゃないよ、お嬢ちゃん。人間の心は時々妙な振る舞いをして、この場合はおふざけかもしれないな。精神科医の仕事はそんなことを調べて、おふざけの要素を無痛で取り除くことだよ」
「ああ、それさえできたら、カール先生、できたら……」
「そのうち分るよ」
と言って、慰めるようにパットの片手を軽く叩いた。
「さて、君の話では、親切で優しく、その他
「はい。ニックは第二人格を押えることができました、いや、なんとか最近までですが……。最後の攻撃が今までの内で最悪だったとか。第二人格がだんだん強くなってきたそうです」
先生が考え込み、励ますように笑顔になって、
「妙だな。そうか、一回診察しなくちゃ」
「助けられますか。心当たりがありますか」
「とにかく悪魔じゃないな」
「それで、心当たりは?」
「もちろんあるさ、でも又聞きでは診断できない。会って話す必要がある」
「しかし、どうお思いなのですか」
「子供時代に受けた精神状態が固着したためだと思うよ、お嬢ちゃん。むかし患者が居てな、ははは、そんな妄想が固着していた。あらゆる点で完全に理性的だったが、たった一つ例外があって、桃色リボンを付けたブタがどこへでも追いかけてくると信じていた。下町、エレベータの中、事務所、家、ベッドまで、行くところ全て、この桃色リボンを付けた入賞ブタが追いかけてくる」
「それで、なおりましたか」
「ああ、直ったよ。豚を排除した。何かその
「あっ、忘れていました。ニックはニューヨークでとても有名な医者の所へ行ったことがあります」
「マンステールか」
「だれかは言いませんでした。でもこの医者が長いこと調べて、遂に先生と同じ固着概念という考えを示しました。ただ
「うーん」
と先生がうなって、考え込んだ。
「固着概念で人はあんなことをしますか。ブタのようなことや、何がニックに起こったのですか」
「そんなことかもな」
「じゃあ、悪魔ですね。先生の専門分野じゃないですか、まさに炊事婦のマグダが言ったように、悪魔に取り憑かれています。そう、とにかく私が正しい」
先生がおちょくって、
「結構な神学理論だ、パット。じゃ、君の悪魔とやらに、ちょっと悪魔払いをやるか。君のボーイフレンドをここへ連れて来てくれないか」
と言って立ち上がると、パットが叫んだ。
「あっ、カール先生、ニックは去って行きます。今晩、呼び出さなくちゃ」
「今晩は駄目だ、お嬢ちゃん。ニックが逃げたら私服刑事のミューラーが知らせてくれる。明日で大丈夫だ」
パットが立ち上がり、踏み台に上がって、先生の顔の高さに自分の顔を持っていった。腕を回し、先生の大きな肩に顔を埋めた。
「カール先生、私は厄介で、短気で、堕落したジャジャ馬です。ごめんなさい、あやまります。先生には狂っていると映るでしょう、母にも」
第18章 蒸発
「電話に出ない、おそすぎた」
パットは電話機を置きながら、
余りにも時間を置きすぎた。カール先生お抱えの私服刑事ミューラーに頼らず、夕べ直ちに電話すべきだった。
「行ってしまった」
と取り乱してつぶやいた。もう見つけることはできないと悟った。ニックは単独行動が好きで、友達がおらず、ひとりぼっちだから、どうやって探したらいいか皆目見当がつかない。
実際、ニックのことはほとんど知らない、生活費の原資すら知らない。途方に暮れ、困り果て、誰にも頼れず、意気消沈。無駄に電話の呼び出し音が鳴っていることが、いらいらを象徴している。
おそらくカール先生が何か手を考えているだろう。たぶん私服刑事のミューラーがニックの居場所を報告しているかも。希望をひたすら願った。
腕時計をちらっと見れば、午前10時半、まさに先生の診療時間真っ最中だが、かまうもんか。忙しければ待つさ。立ち上がり、急いで階下へ降りた。
母が書斎で郵便物を開けていたので、扉の所で一瞬立ち止まった。パットを見つけると、目を上げて、言った。
「おはよう。けさはずっと電話していたけど、ゆうべカール先生と何をしていたの?」
「議論です」
「カール先生は素晴らしい人です。計り知れないほどの援助で、お前は魅力ある賢い娘になったのですよ。先生なしでは、こうはいかなかった」
「たぶん、先生はカイン(訳注)です」
(訳注)カインは、旧約聖書創世記における人類初の殺人者。(Wikipedia「カイン」参照)
診察室の扉は閉じており、中から先生のくぐもった声がかすかに聞こえてくる。いらいらしながら椅子に座り、じっと待った。
幸いにもほんのわずかしか待たなかった。たった数分で扉が開き、派手な中年女性が出てきて、去って行った。ローリー夫人だと分った。ブロック姉妹の
「おはよう。正式な診察だね、営業時間中に来たから」
「ニックが行ってしまいました。連絡がつきません」
「ふーん」
「午前中、呼び出しました。ニックは朝いつも家に居ます」
「いいか、まぬけちゃん。なぜ言わなかったんだ、夕べミューラーと一緒なことを。てっきりニックをつけていたと思っていた」
「考えつきませんでした。ニックの話では何か準備が必要だとかで、このように逃亡するとは夢にも思いませんでした」
「君と別れたあと、すぐ家を出たに違いない。ミューラーでも見つけられまい」
「じゃあ、どうするんですか」
「遠くへは行かないさ。手紙ぐらい書くよ。一日か二日以内に届くさ」
「書きません、そう言ったもの。居場所を知られたくないのです」
「まあ、まあ。そんなに悪くはないよ」
「慰めはいりません。最悪です。いったい何ができますか、カール先生。何か思いつきませんか」
と断じるパットが目を
「もちろん、パット、幾つか考えられるよ、ちょっと静かにしてくれたらね」
「ごめんなさい、カール先生。でもなにができますか」
「まず、ミューラーに追わせよう。それが奴の仕事だからな」
「失敗したら? 次は何を?」
「そうだなあ、手紙を書くことだな」
「でも宛先がわかりません。住所を知りません」
「ちょっと静かにしてくれ、まぬけちゃん。最後の住処に送りなさい。知っているだろう? もちろん書くだろ。いまも、転送先を残していると思わないか。だって郵便で受け取るべきものとして、収入とか、賃貸料とか、生活費とかあるだろ。君の手紙は届くよ、お嬢ちゃん。そうだろ」
「えっ、届くと思いますか。本当にそう思いますか」
「本当だよ。君が些細な困難にあたふたしなければだが……。時々私の精神医学でも説明に困ることがあり、なぜ君がこんな風になれるのか、利口、お馬鹿さん、独立独歩、従順、有能、無能……これらが突然、同時に起こる。でもニックは君ほど自己矛盾にならない」
パットが先生の説明を無視して、熱く言った。
「手紙が届くって。やってみます。すぐに書きます」
「多少そんな気がしてきたな。うまくいくよ、それに君のためばかりでなく、パット、神様も成功することを知っておられる。でも私のためにもニックは是非調べたい。奴はうってつけの対象であり、君を混乱させる全てが説明できるに違いない。ジキルとハイドという側面も興味深い」
「ジキルとハイドですって。カール先生、あり得ますか」
「厳密にはない、ふふふ。もっともある意味、スチーブンスンがフロイトの論文で予想しているのだが、悪魔を解放すれば、いいこともあるとか」
「でも、薬があれば、そんな変化を起こします、小説ではそうじゃないですか」
「そうか。ニックが変な薬におぼれていると疑っているのか。それが最新の仮説か」
「そんな薬がありますか。人の性格を変えるような薬が」
「全てのアルカロイドにそんな作用があるよ、お嬢ちゃん。幾つかは興奮剤となり、幾つかは鎮静剤となり、幾つかは精神錯乱を引き起こし、幾つかは歓喜映像を見せるが、すべて人間の精神感覚器官、つまり性格に作用する。だから、そういう意味では肉や、一杯のコーヒーや、さらには雨の日ですら影響する」
「じゃあ小説のように、善と悪の性格を分ける薬があるのじゃないですか」
「絶対にないな、パット。君の厄介な友人のニックはそれが原因じゃないよ」
「そうですね。先生と同じくらい心理学に確信が持てたらなあ。もし先生がた脳医者が全てを知っているなら、なぜ毎年、理論を替えるのですか」
「全てを知っているわけじゃない。一方では、少し認められていることも、二、三ある」
「それはなんですか」
「一つは、ときたま治せることだ。これは君も認めるだろう」
パットが不意に心配な表情を見せて、
「たしかに。セイラム魔女裁判(訳注)では偶然に全快しました。ああ、カール先生、感謝します。先生の助けに期待していますが、とても心配なのです」
(訳注)セイラム魔女裁判とは、1692年3月1日以降、セイラム村(現アメリカ合衆国ニューイングランド地方)で繰り広げられた裁判。魔女告発された村人約200名、刑死19名、拷問死1名、獄死5名(乳児2名含む)。(Wikipedia「セイラム魔女裁判」参照)
ここで中断したのは玄関で足音が聞こえて、ベルが鳴ったからだ。
「すぐ帰って手紙を書きなさい、パット。おや、火曜日の心気症患者が来たようだ。金持ちで、私の指示によく従ってくれる」
パットは別れの笑顔をぱっと見せて、静かにホールへ出て行った。扉の所で患者とすれ違った。やせた年配の紳士で、苦悩に満ちた顔だ。それから自宅へ戻った。
パットの気持ちがかなり変化し、再び元気になった。にわかに前向きになり、先生の言うとおりにすれば、うまくいくだろう。そしてほとんど浮かれて自宅へ飛び込んだ。母は机にいなかったので、椅子に腰を下ろし、紙とペンを見つけ、白紙をじっと見つめた。やっと書いた。
親愛なるニック
私達に何かいいことが起こったと思います。私達が必要とする助けが見つかったと信じます。可能なら来てくれませんか、もしくはそれができないなら、自戒の約束を破って、私と連絡を取ってくれませんか。愛しています。
私達に何かいいことが起こったと思います。私達が必要とする助けが見つかったと信じます。可能なら来てくれませんか、もしくはそれができないなら、自戒の約束を破って、私と連絡を取ってくれませんか。愛しています。
単にパットと署名して、封筒に入れて、急いで宛先を書いて、外へ飛び出し投函した。帰る途中で、病院を退去する心気症患者の様子を盗み見た。
通り過ぎた患者の顔は、やせこけ、悩みに打ちひしがれ、まるでホガースの絵画だ。ブツブツ独り言をいうのが聞こえた。上機嫌も失せてしまい、重々しく階段を上がり、惨めな気分になって家にはいった。
第19章 人か怪物か
水曜日、パットがとにかく苦しんだのは、手紙の返事がそんなに早く来るわけがないと分っていたからだ。でも来ないと分っても、電話の呼び出し音や、郵便物の配達音にちょくちょく飛び出すので、お母さんに偶然気づかれてしまった。
「おやまあ、パトリシア、お前はサンタクロースにお願いした
「そんな状態です。たぶんサンタクロースに期待しすぎですね」
午後遅く、ふらりとカール先生宅へ行くと、外出していると告げられた。気晴らしに、とりあえず中にはいり、しばらく書斎の本を読みあさって時間をつぶした。クラフト・エービングの本を手に取り、数ページ読んで、だんだん怒りが湧いてきた。
『精神病患者の性欲』という本をパタンと閉じて、うんざりしながらつぶやいた。
「人間であることが恥ずかしい。医者にはなりたくない、自分の子供にも例え、リスター男爵(訳注)に確実になれると分ってもだ。ニックが言ってたけど、医者は人々の悩みのおかげで生きているというのは正しい」
(訳注)ジョゼフ・リスター(1827年〜1912年)は、フェノール消毒法の開発者であるイギリスの外科医で、のち要職を歴任、初代リスター男爵となった。(Wikipedia「ジョゼフ・リスター」参照)
先生はいい人だ。秘密を打ち明けても、きまり悪さを感じない。たとえ母親に自分の感情をさらけだしたくない時でもだ。もしかして、悩みを医者に話すことはごく自然なことなのか。
もちろん、立場上お母さんに不信感は持たれない。母はとても珍しいタイプの親であり、精神的に幼いパットを、大いに尊重し、こよなく愛している。娘を信用し、好きなようにさせてくれるのは、まさに娘の行動だから。
愛情がないと言ってはいけない。例えば母と娘が別々の興味を持っているとか、あるいは娘が時々このように
しかし、苦々しいことに、パットには
自宅垣根の方へふらふら戻り、初めて何週間も昔なじみと遊んでいないことに気づいた。夏の期間、これまで暇な午後はあまり多くなかった。
町では常に何かしら学生気分の休暇期間があるものだが、パットに関しては一大関心を解決する為に、現状よりほかの魅惑なんて要らない。今も、もちろんそうだ。
例のニコラス・ディバインに余りにも徹底してのめり込んでいたので、一番仲良しのグループからも警告される始末だ。自宅へ入りながらつぶやいた。
「いずれにしろ後悔しない。困惑、不可解、苦しみなどすべて、後悔しない。埋め合わせになるものがある」
ため息をついて、とぼとぼ階段を上がり、夕食の準備にかかった。
翌朝はかなり不安な気持ちで起きた。繰り返し反復したことは、二日じゃ足りないし、もっと時間が必要だし、そしてたとえニコラス・ディバインが手紙を受け取ったとしても、すぐには返事しないかもしれない。だが震えながらホールへ駆け降り、郵便を調べた。
あった。変わった手書き郵便がないか探し、メモや請求書や広告束の中から、目当ての封筒を取りだした。消印に目をやった。シカゴだ。
ニックは町を離れておらず、おそらく人ごみによる匿名性を頼りにしたのだろう。実際に手紙をじっと見ながら考えたのは、ニックがそこの
封を破り、走り書きに目を通した。住所も日付も、挨拶の言葉も、署名すらない。ただこれだけだ。
『木曜日の夜、例の公園の場所で』
それ以上ない。パットが単語を熱心に調べる様子は、あたかも
一行だが、これで充分。その日が突然明るくなり、昨日しぼんでいた願望がにわかに希望どころか、現実になってきた。カール先生の治療能力を疑ったこともすっかり忘れた。あのぞっとする謎がもう解けるような気がして、二人のロマンスがもうすぐ復活するかのよう。手紙を自室へ持っていき、ベッド脇の小型テーブルの引き出しにそっとしまった。
木曜日の夜は今夜だ。
最速でニックに会える。たぶん夜の8時半だろう。すぐ先生宅へ連れて行こう。一瞬も無駄にできない。一刻も早く、この苦悩に何らかの光りを与えることができれば、それだけ早く悪魔を倒し、追い払うことができよう。
悪魔
昼食は上の空だった。午後、電話が鳴ると、驚いて飛び上がり、そのたびに肩をすくめて気を静めた。
だが、今回はパットに用件だった。ホールに駆け降り、階下の電話を取った。驚くまいか、かなり興奮した声はニコラス・ディバインだ。
「パットか」
「ニック、ああ、ニック、あなた、どうしたの?」
「君に送ったメモだが、読んだか」
電話線を通しても、緊張した声が分かる。
「もちろんです、ニック。そこへ行きます」
ニックの声は震えている。
「いや、来ないでくれ、パット。来ないと約束してくれ」
「なぜ、なぜ駄目なの、ニック。そう、あなたに会うのがとても重要です」
「来ないでくれ、パット」
「でも……」
ある考えがむくむく生じた。
「ニック、もしかして……」
「そうだ。わかるだろ」
「でも、あなた、どうってことないでしょう? 来なさい、約束を守って、ニック」
「会わない、絶対に」
声が上ずっており、ひどく苦しんでいるようだ。どれくらい長い距離の銅線を伝わってきたか知らないが……
「ニック、私がそこへ行きますから、私に会いなさい」
相手は黙っている。
「ニック、聞いているの。そこに行きます、いい?」
ニックの声が再び聞こえたが、今度は平板で、抑揚がない。
「分った。行く」
電話の向こう側で受話器の切れる音がした。パットの耳にはむなしいブーンという唸り音しか聞こえなかった。パットも受話器を置いて、どうなることやら、と座って嘆息。
果たしてニック、本来のニックだったのか、もしかして……。たとえ会いに行って、見つけたのが狂人だったら? 侮辱と恐怖にさらされた例の夜に、遭遇してもかまわないか。まだ記憶に生々しいのに。
それでも考えれば、あの公園ならどんな悪いことが起こりうるか、だって夏の夜、公園を散策する人々の目がたくさんあるもの。
仮に会ったのが狂人だったとしよう。土曜夜のような立場に追い込まれるのはまっぴらだ。でもニック自身が選んだのは、改めて会うまたとない場所であり、まさにそういう理由の為だ。パットが独り言。
「危険はない。何も起こりえない。単にあそこへ行って、カール先生のところへ連れて行こう、照明灯のある激しい通りを、全部で2区画だ。何を怖れることがあるか」
なにもないと、自問自答。でも仮に……。体が震え、一連の考えを無理矢理止めて、立ち上がり、母の所へ行った。
第20章 逢引
パットは決して朝のように陽気じゃなかった。待ち合わせ指定場所に行く気持ちは不安で、言葉で言い表わせないほどだった。
公園で散歩する人々を見てほっとした。まず確実だと思ったのは、こんなに多くの見物人がいるなら何も不愉快なことは起こりえない。だから家を出るときよりも幾分自信を持ってベンチに近づいた。
椅子に一人で座っているのが見えたので、歩みを早めた。ニコラス・ディバインがまさにあの時のように座っており、頬杖をつき、不機嫌に見つめている大きな湖は今や星々と多くの明りが反射してきらきら光っている。
前と同じように、見つからないようにそばに近づいたが、今度は以前のようじゃなかった。恐れが現実となった。のぞき込めば、赤い目がぎらつき、無表情の顔つきは第二人格、あの土曜夜の悪魔だ。
ニックがニタニタ半笑いして、唇をひねり、
「座れ。楽しくないか。骨の髄までぞくぞくしないか」
パットは決めかねて突っ立っていた。不意に沸き上がる逃避衝動を押えた。大勢が散歩しているので、また心が落ち着き、ベンチの端に恐る恐る座り、敵を見るような目で冷たくニックを見た。
見返すニックの姿は彫像のように動かず、ただ赤い目だけが仮面の裏側に、いやらしい異常な生き物がいることを証明している。
「それで?」
と言うパットは、これ以上ないほどの冷酷な声だった。ニックがパットに目をやり、
「ああ、君は想像通りに完璧だ。とてもかわいくて、美しいが、ちょっと顔が引きつっている。でも嬉しくないわけじゃない」
と言って体をねめ回した。反射的にパットは身を引き、後ずさりした。ニックが続けた。
「君は魅惑的な体をしている。とても魅惑的な体だ。この状況じゃそれを楽しめなくて残念だ。でもそうなる。そうだ、そうなる」
「まあ」
とパットが小声で言った。必死の思いで、怪物のそばに座った。怪物が話を続けた。唇が興奮し、妙な色目を使っている。
「君には土曜の夜のように、とてもそそられる。もっと時間があれば、もっといいことができただろう。素っ裸にできた。両脚をのぞく全てだ。俺は絹のストッキングを履いた長い足を見ると興奮し、おそらくもっと楽しみが得られたはずだが、この手で両脚をなで回し、時々引っ掻いて、血を出して、
パットは反射的に立ち上がり、息を呑み、言葉も出ず、激しい怒りに襲われた。ぷいと向きを変え、もう心残りは全くない。
ひたすら逃げ出したいこの卑劣な拷問者には、元のニコラス・ディバインの面影など、かけらもない。パットが突然一歩を踏み出した。そのとき後ろから聞こえた声は、抑揚のない平板な口調だった
「座れ、さもないとここに引きずり込むぞ」
パットはひどく驚いて、立ち止まり、しかめっ面を怪物に向けた。生々しい鉄面皮の脅迫に驚いて、
「やめて。ここで私に触らないで」
「ヒヒヒ、そうか? 俺に何の
パットがぽかんと邪悪な顔を見つめた。返す言葉がない。今度だけはさすがの舌鋒も逆襲できなかった。
「座れ」
と怪物が繰り返すので、ベンチの元の位置にふらふら腰を落とした。いぶかしげに暗い目を向けた。怪物が白々しく言った。
「分るか、お前の愛がどれほどニックの力をそぐか分るか。ニックを守るには、俺に従うことだ。これが俺の特権だ。俺はニックと体を共有している」
パットは返事しなかった。必死に頭をフル回転し、自分を苦しめる怪物と戦うすべを見つけようとした。怪物が続けた。
「お前の愛がニックを弱らせた。奴の変質愛は支配力を失っており、その結果、俺が支配力を握った。ニックはいま弱った理由が分っている。教えてやろう、俺は弱ることはない」
パットはなんとかして落ち着きたかった。まさしく冷酷な悪魔を前に、平静さを根こそぎ奪われ、発作的に笑いたいのを必死に押えた。ばかばかしくて、絶望的で、不可解な状況だ。喉を震わし、かすれ声で言った。
「あ、あなたはいったい何なの?」
「神経
「あなたは悪魔だ。何か恐ろしいものがニックに取り憑いており、人間じゃない。そういうことです」
パットの声に、少し冷静さが戻って来た。
「好きなように言え。時間の浪費だ。来い」
「どこへ?」
とパットがギクッとして、またしても逃げたい気持ちになった。
「どこだろうが気にするな、さあ」
「行かない。なぜ、私が欲しいの?」
「土曜夜の決着をつけるためだ。唇の傷は治っている。もう血は出ていない、治りが早い。さあ」
「行かない」
とパットが突然パニックを起こし、立ち上がるかのようなそぶりをした。横の怪物が抑揚を付けて、
「お前は忘れている。お前の愛のおかげで、俺に支配力が与えられたことを忘れている。認めろ」
怪物がやせこけた手を伸ばし、
「来い、そして俺を脅した罪で、ニックに罰を与えろ」
怪物が腕をつかみ、荒々しく肉をつねると、爪が柔らかな皮膚に食い込んだ。パットは顔が灰のように真っ白くなるのを感じた。
目を閉じて、ほぼ完治した唇を噛み、激しい痛みに耐えながらも、一言も発せず、微動だにしなかった。ただ座って、苦しんでいた。いたぶる怪物がパットを離しながら、
「分ったか。俺の親切に感謝しろ、顔じゃなくて腕を傷つけてやった。行くか」
パットの口からほとんど聞こえないような苦痛の泣き言が出た。青ざめて座り、動かず、両目をじっと閉じていた。やっと小声でつぶやき、
「いや、いやだ、行かない」
「引きずってもいいか」
「どうぞ、やるならやんなさいよ」
怪物が手首をつかんだ。足が急に引きずられる感じがして、余りの激しさに肩がねじ曲がった。びっくりして恐怖の声が少し漏れたけど、口元をぴたっと締めたのは、通行人が何人か好奇な目を二人に向けたからだ。
「行きます」
とつぶやいた。混乱した頭に、かすかな考えがちらついた。
パットは厳しい顔で、苦々しく無言でついていき、刈り込まれた芝生を横切り、公園の端まで来た。見れば、ニックの地味な車が通りに止めてある。
連れ、いや誘拐犯は車へ一直線に行って、ドアを開け、一度も後ろを見なかった。誘惑犯が振り向いたとき、パットは小さな片足を車のステップに乗せて、ためらい、傷ついた腕をさすっていた。怪物が冷たく命令。
「乗れ」
パットは動かなかった。
「どこへ連れて行くつもり?」
「どこでもいいだろ。未完結の実験を完結させる場所だ。期待にわくわくしないか」
「私が同意すると思いますか。ニックが不祥事や懲罰にさらされます。それほど愚かだと思いますか」
怪物が手を伸ばし、あざけって、
「すぐ分る。泣き叫べ、戦え、苦しめ。ニックに訴えろ」
怪物が手首を締め上げた。パットは発作的に振りほどいた。
「取り引きしましょう」
とやっとのことで言った。頭の中を整理するために、少し時間が必要だった。
「取り引きか。何を提供するんだ?」
「あなたのと同等なものです」
「ああ、でも俺のは、お前の恋人には重いぞ。悪魔の誘惑を提供しよう。お前がこの前魅了されたものだ。どれほど崇拝したか忘れたのか。あの痛みの恍惚を忘れたのか」
怪物の恐ろしい血走った目が顔に近づいてきた。そして妙なことに、あの不条理な願望がまた再現すると感じ、土曜夜に起こった惨劇に甘んじそうになった。
あの時は確かに恍惚があった。野獣のとんでもない邪悪な喜びがあり、殴られたり、傷ついた唇にキスされたりして、やけどするような痛みが走った。何となく分っていたが、赤目をぼんやり夢うつつで見つめ、自分の中のどこか、狂気の脳細胞が助手席に座れとせっついている。
目を
「ニック、ニック」
と熱心に呼びかける様は、遠くから呼びかけるかのよう。どうやら相手の顔に、かすかに意識が戻ったように思われた。続けた。
「ニック、聞こえますか,あなた。できるだけ早く我家に来てください。今晩、いや、いつでも。来るまで待っています。来なさい、あなたは来なければなりません」
パットが車から離れた。怪物は引き留めることはしなかった。パットは車をぐるっと周り、強引に道路を渡った。反対車線の歩道に行ったとき、安心して後ろを振り向けば、赤目顔がフロントガラスからじっと見ている。
第21章 神経軸索異常
パットは自宅への数区をほとんど走った。行き交う歩行者が見ているにもかかわらず、慌てふためいて急いだ。緊急事態がなくなり、必死に平静を取り戻そうとしたが、それもかなわず震えが来て、怖くなり弱気になった。
腕がひどく痛み、ねじられた肩も、動く
「これ以上耐えられない。
ポーチの手すりにへなへな寄りかかり、痛めた腕をさすった。
「カール先生が正しかった。ニックも正しかった。あれは危険だ。一瞬終わりかと思ったのは、あいつ、いや怪物に捕まったときだ、怖い。もうちょっと弱気になっていたら、何が起こったかわからない。たとえ神が知っていようと」
鍵を見つけて、家に入った。ホールには暗い電灯しかついていない。もちろん母はクラブだし、女給と炊事婦のマグダは3階の離れ部屋にいる。
上っ張りを椅子に投げて、大電灯を点けて、痛む腕を調べれば、赤あざがもう
家の中が静まりかえっているので、気が重い。人間の仲間が欲しい。安全で、信頼できる親切な仲間が……。付きまとう薄気味悪い不穏な考えをそらしてくれるなら誰でもいい。いまなお少しパニックになっており、ベッドの下から恐ろしいものが現れる不安をやっと押える始末。自分に言い聞かせた。
「臆病もの。これからどうする」
不意に別れ際の
もしニックが来たら、本来のニックとして来たら、そしてそうだと分ったら……、いや怪物が来たら、そして罠を仕掛けてはいってきたら、あるいは
「耐えられない。諦めざるを得ないかも、たとえニックに二度と会えなくても。そうせざるを得ない」
惨めに首を振る様子は、あたかも心に浮かび上がる惨劇を打ち消して、ひとりぼっちの恐怖を否定するかのよう。
「ここにいてはいけない」
と決めた。先生宅の西窓をのぞき、ひと安心したのは、先生の灰色頭が下の書斎に見えたから。本を読んでおり、膝上の本まで見えた。避難所だ。急いで階段を駆け下りて、扉の外へ出た。
通りを不安そうに見ながら、先生宅の扉に着き、ベルを鳴らした。先生が出てくるのをいらいらしながら待ち、不意に思い出し、バッグから化粧道具を取り出し、腕の傷に粉をはたいた。そのとき重々しい足音が聞こえて、扉が開いた。先生が愛想良く、
「やあ。こんなに夜遅く尋ねてくるのが、常習化してきたなあ。よければ診て進ぜよう」
「しばらくおじゃましても?」
とパットが控えめに訊いた。
「今まで追い返したことがあるか」
先生が書斎に案内し、椅子を勧めて、自分用の椅子に素早く座った様子は、専用椅子を取られるのに間に合った格好だ。パットがほかの椅子に座りながら言った。
「先生の古い肘掛け椅子には座りたくありません」
「今晩の困り事は何だ?」
「そうですね、ちょっと不安になっただけです。自宅に一人で居たくないのです」
先生の口調が、いぶかるように、
「君が? 不安だって? 全く理解できないな、君のように独立独歩で、火の玉小娘が言うとは」
「でも、こわいのです」
「何が? それとも誰が?」
「幽霊と悪魔です」
「おお、分ったぞ。手紙の結果だな」
「まあ、そんなところです」
「君の婉曲表現には慣れているよ、パット。今度だけはずばり要点を言ってくれないか。何があった?」
「ええ、ニックに会ってくれと手紙を書いたら、返事が来ました。公園の例の場所で会うと言ってきました。今晩です」
「それで、もちろん行ったのだな」
「はい、でも出かける前、今日の午後、電話がきて、来るなと言われたのですが、強引に会いました」
「来るなと言ったのか、え? そして、警告が正しかったのか」
「はい、そうです。指定場所へ行くと、居たのは悪魔でした」
「そうか、分った。公園だから君を乱暴に扱えなかったんだ」
パットはひねった肩と、傷ついた腕のことを思い出して、震えた。
「おそろしかった。人間じゃありません。例の土曜夜のことを言い続けて脅すのです、もし動いたり大声を出せば、ニックが苦しむだろうと。だから、いたぶる間はじっとしていました」
先生の声は怒りどころの騒ぎじゃない。
「ばかもの。君のばかっぷりを見たいものだ。奴が何物か、そのうち突き止めてやる。
「何なのですか。ああ、教えてください。カール先生、染色体
「染色体対合か。よく知ってるな」
「生理学か心理学かそんなものに使われていると思います。染色体
「あの悪魔がそう言ったのか」
「はい」
「うーん」
と、うなって先生が考え込んだ。眉をひそめ、途方に暮れて、不意に見上げて、
「ひょっとして神経
「そうです。神経軸索異常だと言っていました。それで説明できますか。いったい何なのですか」
「それじゃ、くそ行為は説明できん。神経軸索は接合部だ、つまり二つの神経線維が出会うところだ。だから無意識な行動とか習慣が可能だし、例えばピアノとかダンスだな。それを行うとき、関連する神経繊維軸索は消耗して薄くなり、神経繊維そのものが言わば短絡しておる。だから頭を使わなくてもやれるし、全ての習慣が可能だ。分かるか」
「よくわかりません」
「ふん。どっりみち重要じゃない。君の悪魔の分析に役立つとは思えん」
「分析できなくてもかまいません。カール先生、またあんな怖ろしい目に会いたくありません。たとえ二度とニックに会えなくても」
「分かっている。ニックにも機会を与えたいが、君を不安状態のままにしたくない。もっとも、この謎の大部分は君の途方もない考えの産物だけどもな。そう思わないか、お嬢ちゃん」
「よくもそんなことが言えますね。あの変化を見たこともないのに。私の妄想だというなら、私にこそ処方
「全てが妄想じゃなく、大部分がそうだってことだ。私の知っている内向性の人には、ヒステリー症や、
パットは痛めた腕をさすりたいのをこらえ、感情を表わさず、
「気にしないで。もういいです。あの事件が怖いのです。こんなことでは来週、先生の患者になりそうです」
「最良は忘れることだ。そんなに気が動転しては何にもならない、パット」
「ニックのためです。その価値はあります。ただ私に強さがないばっかりに。勇気がないばっかりに……。忘れられません」
「気にするな、お嬢ちゃん。君はおそらく窮地をうまく脱している。君が今回の件を全て話していないことはお見通しだよ。だって、特に腕の醜い傷がどうやってできたかだ。慎重に粉で隠しているがね。だから総合的に判断して、窮地からうまく逃げたと思うな」
「そういうことです」
と答えるパットの声は、依然として弱々しかった。そのとき窓に車のヘッドライトが光って、気を引かれた。自宅前に車が止まろうとしている。
「母です。すぐもどります、カール先生。孤独で、落ち込んだ私を慰めてくださってありがとう」
パットが立ち上がり、何気なく窓を見れば、驚きの余り、固まって、恐怖の表情となった。
「あっ」
と息を呑んだ。車はニコラス・ディバインの地味なクーペだった。パットが窓をのぞき込むと、先生が立ち上がり、肩越しに見渡した。パットがささやいて、
「私が来るように言いました。来られる時は来るようにと言いました。ニックなら言うことを聞いてくれますが、怪物なら……」
男が車から降りた。暗闇の中でも、疲れて弱っているのが分る。パットが顔を窓ガラスに押しつけて、魅入られたように調べた。男は向きを変え、車に寄りかかり、じっと我家の扉を見ている。動くと同時に、街灯の明りが顔を照らした。
「ニックです。あれは本来のニックです」
こんなに熱く叫ぶものだから、先生がびっくり。
第22章 医者と悪魔
パットが扉に突進し、玄関を出て、通りへ走った。カール先生は玄関までついてきて、そこで立ち止まり、パットはと見れば、車の横でしょげている男の所へ駆け込んでいる。
「ニック、私はここです。あなた、聞いてくれたのですね」
ニックの腕に飛び込んだ。ニックがしっかと抱いて、すかさず唇に優しくキスした。
「聞いてくれたのですね」
とパットがつぶやいた。ニックの声はかすれて張りつめている。
「そうだよ。どうした、パット。教えてくれ。どれくらい一緒に居たのかわからない」
「あちらがカール先生です。私達を助けてくれます」
「助けてほしい。でも誰も助けられない、誰も」
「先生なら助けてくれます。何も害はありません、あなた。一緒に中にはいって、さあ」
「無駄だ、絶対」
「来て、おねがい、来て、とにかく来て」
「パット、確実にこの戦いは僕一人でやり遂げねばならない。僕だけが、とにかく何か出来るし、それに……狂いそうだ」
「ニック」
「そのため今晩来たんだ。僕はとても臆病だから、月曜夜の公園で会った時を、最後の別れにできなかった。最後にしたかったが、心が折れた。だから、パット、今晩が最後のさよならだ、神に感謝する」
「まあ、ニック」
「とにかく今晩行くかどうかはきわどかった。戦っていたんだ、パット。今じゃ怪物が僕と同等の強さになっている。いや、強いかも」
疲れて衰弱したニックの顔を、探るようにながめた。惨めなぐらい具合が悪そうだ。肉弾戦をやったかのよう。
「ニック、何を言われようが気にしない。一緒に来て。ほんのちょっとでいいから」
ニックの手を取って、強く引っ張ると、渋々ついてきた。玄関へ着くと、開いた扉の所には、まだ先生の巨体があった。
「カール先生は知っているでしょう」
「中へ」
と先生がぶつくさ。ぶっきらぼうで、誠意がないけど、パットは何も言わず、嫌がるニックを引っ張って、扉を通り、書斎へ行った。
先生が別な椅子を引き、ランプの光がニックの顔に当たるようにするのを見ていた。自分の椅子に座り、成り行きを静かに待った。
先生が鋭い老眼をニックの顔に向けて、
「さて、本題に入ろう。パットが知っていることを教えてくれた。そんなことはごく当たり前のことだ。ほかに君の方から言いたいことがあるか」
「いいえ。パットに全部話しました」
「ふむ。じゃあ、幾つか誘導尋問をしよう。答えてくれるか」
「もちろんです。何でもお答えします」
「分った。さてと、君はあのう…そのう…例の暴力を覚えているだろ。その通りか」
先生の声が
「はい」
「最近だんだん激しくなっているのか」
「ますます悪化しています」
「いつからだ?」
「だいたいパットを知ってからです。4〜5週前からです」
「ふむ、ふむ。暴力の悪性度が増した原因に心当たりはないか」
「いいえ」
とニックは、ちょっと
「例えば、ここにいるパットと知り合いになってから、情緒が混乱したことと、関係していると思わないか」
「いいえ」
「分った。差し当たりその線はやめよう。発作の後遺症は?」
「はい。いつもひどい頭痛があります。今もあります」
「片頭痛か」
「はあ?」
「痛みは特定の場所か。ひたいか、こめかみか、目か、その他か」
「いいえ。単なる不快な頭痛です」
「では、ほかに後遺症は?」
「ほかには思い出しません。ただし、発作が終わったあとは、疲れた感覚があります」
と言って目を閉じ、あたかも思い出すのを拒否するかのよう。
「そうか。身体症状は排除しよう。君の個性、つまり意識に何が起こったか、発作で苦しんでいる間にだ」
「意識には何も起こりません。観察して様子を見ていたのですが、悪魔のやることは制御できませんでした。ぞっとするほど怖かったです」
「なるほど。ほかには? 君が支配権を握っている間にも、怪物はそばにいたのか」
「ええ、もちろんいました。いつも存在を感じます。今もです。いつも隠れて、じっと待ち、油断すると飛び出してきます」
「ふん。君はどうやって眠りにつくのか」
「疲れるのを待ちます。これ以上起きていられなくなるまで待ちます」
「君は第二人格の怪物を支配できるのか。つまり、自由自在に制御できるのか」
ニックが困ったかのようにもじもじして、
「あ、はい、できると思います」
「じゃあ、見せてくれ」
「でも……」
というニックの声には恐怖があった。ここでパットがぎょっとなり、口を
「駄目です、カール先生。そんなことはさせません」
「君ならそう言うと思ったよ」
と先生がパットを鋭い目で見て言った。
「せんせい、もう一度言います。先生のおっしゃることはさせません、とにかくそれだけは」
「パット、君はこの難事を治療して欲しいのじゃなかったか。君たち二人もそうじゃないかね」
パットが聞き取れないような声で同意した。
「よろしい。君は本件をメクラ、つまり
「いいえ」
とパットが小声で言った。先生がニックに向き直り、
「さてと。その変化を見よう」
「やらねばなりませんか」
とニックが嫌々言った。
「助けが欲しいなら……」
「分りました」
とニックが震えて同意した。座って、先生を控えめに見つめた。しばらく経った。先生がパットの神経質な息継ぎを聞いた。そのほか部屋は静かだ。
ニコラス・ディバインが目を閉じて、額を手でぬぐった。もうちょっと経ってから目を開けて、困惑したように先生を見た。驚いたようにつぶやき、
「悪魔が出ません。出たくないようです」
先生は、パットがほっと、つぶやいたのを無視して、
「ふん。気難しい悪魔じゃないか。いじめる相手をえり好みするようだな」
ニックの顔がぼおっとなり、
「それは分りません。悪魔はほんの今まで僕をいたぶっていました。僕が嘘を言っていると思わないでください、カール先生」
「そうは言っていない。ニック、このパットに少しでも無礼を働いた責任が君にあるなら、質問して時間を浪費しないで、代わりに一発お見舞いしているだろう」
「僕がパットを傷つけられるはずがありません」
「それじゃ、君にとてもよく似た悪魔がやった。だが、そんなことは重要じゃない。言ったように、君はこの異常事態に責任はないと思うし、君の制御を越えていると思う。大事なことは診断することだ」
「悪魔はなんだと思いますか」
とパットが熱く割り込んだ。
「少なくともまだ確定しない。一つしか実際に得られる手法はない。今までの質問では、らちがあかない。君の精神分析をする必要がある、ニック」
「希望が得られるなら、何をなさってもかまいません。さっさと片付けましょう」
「そんなに簡単じゃないぞ。時間がかかる。そのうえ、そんな精神状態ではうまくいかない。しかも、真夜中を過ぎておる」
ニコラス・ディバインに向き直って、
「次の土曜夜にやろう。その間、キミ、パットに会っちゃいかんぞ。一切だ、分ったか。ここへ来たときだけパットに会える」
「思った以上にきついですね。会える希望がなくなりました」
ニックが立ち上がり、扉の方へ移動すると、あとの二人もついてきた。玄関の所で立ち止まり、観葉植物の方に少しかがみ、パットの唇に優しくキスして、無言で扉から出て行った。
パットはニックが車に乗り込み、車が見えなくなるまで見送った。それから先生に向き直って尋ねた。
「何か分りましたか。ともかく考えがありますか」
「嘘はついていないな。じっくり観察させてもらった。本当のことを言っていると思う」
「そうですね。私も見ましたから」
「早発性認知症とか、
「あれは悪魔です。どんな病名を付けようがかまいません、悪魔です。先生方は長い学名をつけて、自分達の無知を隠せます」
先生はパットの言い分を無視して、
「精神分析学の成果は知っておる。子供が責任を逃れようとして引き起こした自己防衛本能の結果だとしても驚かないよ。そんな気がするな」
「あれは悪魔です」
「そうだな、もしそうなら、今まで聞いた幽霊や悪魔には共通項がある」
「なんですか」
「それは正体を調査すると、どんな条件下でも現れないってことだ。気まぐれな霊媒みたいなもので、脚光を浴びたとき出現する」
第23章 狼男
パットはむしろ気分よく目覚めた。ともかくカール先生が本件に関わってくれたので、安心感を覚え、持ち前の楽観主義も幸いして、絶望から希望へ振り子が戻った。腕の痛々しい青黒いアザは後悔したけれど、陽気な気分に変わりはない。
そんな陽気な気分が、ほぼ一日中保たれた。さすがに夕方になると、またぞろ疑惑が襲ってきた。薄暗い居間に座り、母の招待客を待ちながら、疑問に思ったのは結局、この窮地を思惑通り簡単に解決できるのか。
車道のヘッドライトが窓から差し込み、天井に光の影を描くのをながめつつ、改めてカール先生の腕は確かなのか、といぶかった。
科学か。パットの世代は科学万能を信じるけど、この薄暗がりで、子供時代の古くさい迷信がおそろしく現実味を帯びてきて、炊事婦マグダの話は、何年も忘れていたけど、墓から蘇り、ギャーギャー、ぐちゃぐちゃしゃべり出し、その有様は死衣装を着た幽霊が頭の中を行進するかのよう。
カール先生の科学に対して、いつも投げかけた無意味なあざけりが、突然真実味を帯びてきた。長年苦学して身につけた先生の科学といえども実際、まじない師が乱心して、南アフリカのローデシア沼地で踊っているとしか思えない。
科学が何の役に立つか、病気の治療に失敗したら……。医学が漢方レベルになっていないか、
心底安心したのは、ブロック姉妹の声が聞こえていたからだ。その晩はずっとトランプ遊びのブリッジで負け続けだったが、ひとりぼっちで考えにふけるよりも、悩みはずっと和らぐ。
土曜の朝、今にも降り出しそうな雲行きで、またしても振り子が円弧の反対側に振れた。うきうきするほど陽気でないにしろ、少なくとも昨夜の様々な疑惑や恐怖に、もう悩まない。
それさえ思い出せない。昼間の冷静な考えとかけ離れており、冷静な論理こそが日々の真っ当な営みに明白な信頼を与えるものだ。あれは暗闇と日陰が引き起こした幼稚な悪夢に過ぎないと、結論づけた。
服を着て、遅い朝食を食べた。母は既にクラブへ行っており、ブリッジをして昼食を
「マグダ」
「聞いていますよ、パットお嬢さん」
「ずっと前に私に話した物語を覚えていますか。その昔、町の男が、何か、何か恐ろしい動物に変身した話です。狼か、そんなものだったような」
マグダが太い眉をしかめて、
「ああ、あの男か。
「それです。狼男です。思い出しました。ベッドに行った時どんなに怖かったことか。8歳前じゃなかったかしら」
「さあどうだったか。でも、たしかに何年も前でしたね」
「どんな話でしたか。覚えていますか」
「ああ、あの時は羊がいなくなってね」
とマグダが言葉を強調しながら、水切り台の所でお皿をガチャガチャさせて、
「それから子供が一人、二人といなくなり、村中がこの狼で大騒ぎさ。わたしゃ、見たことがないけど。それからというもの、子供達は暗くなったら家に閉じこもったものさ」
「それだけじゃありません。それ以上のことを話してくれました」
「まあね。私の叔父がおり、この叔父が村一番のライフル名手だった。叔父達はこの怪物を追跡して、戻って言うことに、怪物が背景にくっきり見えたとき、ぶっ放したそうだ。叔父がミスするはずがない。近くに行ったら、狼は叔父をにらみ返して、逃げたそうだ」
「それからどうしましたか」
「それから神父がきて、普通の狼じゃないと言う。銀貨を溶かし、弾丸を造り、叔父に渡した。村で一番うまかったからね。そして次の夜、再び出かけていった」
「
「やったさ。牧場のそばで見つけて、銃を構えた。狼が邪悪な赤目でにらみつけたので、撃った。駆け寄ると、狼はおらず、名前は忘れましたがね、頭に穴の開いた男がいた。それから神父が言うに、これは狼男で、銀の弾丸でしか殺せない。叔父が言うには、幾晩もあの邪悪な赤目ににらまれたとか」
「邪悪な赤目ですって。マグダ、その男はいつでも望めば変身できるのですか」
「夜だけだと神父は言った。夜明けには元に戻るはずだと」
「夜だけか」
とパットが考え込んだ。よからぬ考えが頭の片隅でむくむく湧いてきて、この考えは困惑して、口に出せない。
「悪魔に取り憑かれるより、たちが悪いじゃないですか、マグダ」
「確かに悪いね。神父なら悪魔は退散できるが、狼男になったものが治ったなんて聞いたことないね」
パットはもう何も言わず、高い腰掛けから降りて、深刻な顔で台所を出て行った。夕べの恐怖がまたしても蘇り、いまや外の曇り空が自分の気持ちを写しているかのよう。
思い悩んで居間の窓を見れば、にわかに窓ガラスを叩く雨粒の飛沫が、全く陰気な風景へのとどめとなった。自分に言い聞かせた。
「私は単なる迷信深いアホな小娘だ。母がいつも南北チームで遊んでいるのを見て笑ったものだが、ここでは自分が迷信にはまってうろたえており、そんな迷信はさっさと捨てて、ブリッジゲームでもすれば……」
だがそんな議論は説得力がない。あの怪物の恐ろしい眼を思い出せば、マグダの文句に余りにもぴったり合いすぎる。
夢に現れる場面を押え込めず、不安な気分を
パットが思うに、今晩ニックは先生と会う約束をしている。もし、先生の心理分析であの恐怖に光明を当てられたら、どうだろう。だって、あの恐怖はニックと幸せになれる可能性を永久に壊しかねないもの。たとえ先生があの怪物を多音節科学用語で命名しなくても、私たちは分断されるだろう。
じっとしておれなくてホールへ行った。真鍮製容器に朝の郵便が未回収で置いてあったので、そこへ行き、無造作に触った。
急にびっくりして固まった。見慣れた手書封筒が眼にはいったからだ。つまみ上げた。当たりだ。ニコラス・ディバインからの手紙だった。
慎重に封を破いて、いぶかった。果たしてカール先生の助けを再び拒絶したのか、来られなくなったのか、あるいはあれが起こったのか。
紙が一枚封筒から出てきただけで、書いてあったのは数行の短い詩だった。
涙も出ないほどの悲しみ
そして痛みに青息吐息
百年続くかもしれない
その後また這い出るかも
でも君を愛する余り
君の軽蔑に苦しみ
今夜も君への愛を押え
むなしく試みる羽目に
そして痛みに青息吐息
百年続くかもしれない
その後また這い出るかも
でも君を愛する余り
君の軽蔑に苦しみ
今夜も君への愛を押え
むなしく試みる羽目に
第24章 ワル
夕まぐれの午後8時前、パットはニコラス・ディバインの車が自宅前に止まっているのを眺めていた。窓際の長椅子に
ニックのあいまいな詩で混乱して、マグダの魔法話で疑惑や気持ちがますます強くなり、まさに
ニックがためらっている間に、パットは扉に突進し、玄関の外へ出た。ニックが力なく笑って挨拶して、階段に足を掛けて、そこで止まった。
「先生はまだ帰宅されていません。上にあがって」
とニックに呼びかけた。ニックは突っ立ったまま動かず、階段下にいる。自分の言葉に妙な不安感があった。というのもニックに会いたいにもかかわらず、精神があんな不安定状態では怖いからだ。
ぞっとして考えたのは、以前に起こったことがまた起こるかもしれない。でも
ニックが思い悩みながらパットを見て、
「上がれない。上がれないと分るだろ」
「どうして?」
「約束した。覚えているだろ、カール先生に約束した、先生のいないところでは君に会わないって」
「そうでしたね」
とパットがあいまいに言った。約束のおかげで危険な立場は逃れられるが、何だか哀れげに突っ立っているのを見れば、何も有害なことは起らないのじゃないか。
いままで何回も夜を一緒に過ごしてきて、嬉しかったし、楽しかったし、安全だった。哀れみの感情が押し寄せた。結局、悲しむのはニックだし、苦しむのもほとんどニックだ。
「文字通り受け取る必要はありません。先生はすぐに帰宅なさいます」
「分っている。でも約束だ。しかも怖い」
「心配しなさんな。上がりなさい、階段のここ、私のそばに座りなさい。ここの長椅子ならうまく話ができます」
ニックが階段を上り、椅子に腰掛け、あこがれのまなざしでパットを見つめた。触ろうとしないばかりか、パットもキスをせがまなかった。遂にパットが言った。
「詩は読みました。あなたが心配です」
「ごめん、パット。眠れなかったんだ。家の中でうろつき、やっと詩を書き、ひっつかんで、郵送した。考えていたことを書いたもので、悩みを軽くするものだ」
「どういうこと?」
「ほとんどは、君の人生から僕を取り除く方策だよ。恒久的な方法だ」
「ニック」
「見ての通りだ、パット。臆病すぎたんだ。いや、たぶん絶望のせいだ。でも希望はいつもある。絞首台の階段を昇る死刑囚にさえ、希望がある」
「ニック、そんなことを考えてはいけません。自己が弱くなって、怪物が出やすくなります」
「それはない。怪物が怖がれば、嬉しい」
「カール先生に頼みましょう。先生にゆだねると約束してくれない?」
「もちろん約束する。約束しない理由があるか、パット。たとえ無駄だと分っても」
「それは言わないで。先生に助けを求めましょう。信じましょう。ほら来ました」
先生の車が邸宅の私道を曲がってきた。建物に消えるとき、こっちを見たので、先生の顔が見えた。
「さあ、始めましょう」
二人は先生宅の玄関へゆっくり行って、先生の重い足音が聞こえるまで待った。ホールに明りが点き、一瞬、扉に巨体が映ったあと開いた。先生が陽気に、
「おはいり。素敵な夜を無駄にしていないかな」
先生の後について書斎へ行きながら、パットが言った。
「かもしれません。もっと雨が降ればですが」
「ほう、ゴルフコースは穏やかだったぞ。距離がつかめず、スコアを6打も叩いた。少なくとも6打だ」
パットが同情しておちょくった。
「グリーンランドにゴルフコースを作るべきでしたね。滑らかな氷の上なら、だれでも400

「ふん」
先生が低い大きな椅子を指差して、
「そこに座ってくれ、若いの。さあ、始めよう。そんなに悲観するな」
ニックが指定された椅子に神経質そうに座った。先生はちょっと離れて脇に座った。そしてパットは暖炉脇の定位置に緊張して座った。黒魔術の精神分析が始まるのを辛抱強く待った。
「さてと、できればパット、君は静かにしてもらいたい。そして若いの、リラックスして、気を静め、できるだけなんでも受け入れるようにしてくれ。分ったか」
「わかりました」
とニックが言って、大きな椅子に背を持たれ、目を閉じた。
「そうだ。さて、子供時代の記憶を思い出してくれ。自由に思いをはせて、心に浮かんだことを話してくれ」
ニックはしばらく静かに座っていたが、
「難しいです」
「そうだな、おそらく何週間もかかるだろう。こつが必要だろうが、やらねばならん」
ニックが目を閉じて座ったまま、
「わかりました。母は優しかったです。母のことは少し、ほんの少ししか覚えていません。とても優しくて、叱りませんでした。理解してくれました。父に言い訳をしてくれました。父は厳しかったが、残忍じゃありませんでした。理解できなかったのでしょう。非難すべきじゃない時に怒りました。ほかの人がやったのにです。いたずらしないのに責めるのです。説明できないから、信じてくれませんでした」
「続けてくれ」
と先生が静かに言い、一方のパットは聞き耳を立てた。
「実母の死後、スチーブンス夫人が
と神経質に言い、静かになり、目を開けた。
「初回にしては十分だ。何週間か通ってくれ。君の人生を引き出すから。これには訓練が必要だ」
パットが驚いて、
「以上ですべてですか」
「初回だからな。あとで半時間、一気に
と先生がニックに言った。
「まだ早いでしょう」
とパットが抗議した。
「早かろうが遅かろうが、私は疲れておる。それに君たちはここ以外、お互い会わないことになっていないか。覚えているだろ」
ニックが大きな深椅子から腰を上げて、
「ありがとうございました。理由は分りませんが、先生の前では気分が楽でした。ここに居る間は葛藤が消えました」
「そうか、私を信頼してくれる患者は好きだな。お休み」
扉の所でニックが立ち止まり、もの言いたげな目をパットに向け、お休みと言って、上体を曲げてパットに軽くキスした。
何か感情が押し寄せたのか、表情が変わった。奇妙にパットを見つめて、僕は行くよと出し抜けに言って、去って行った。
パットが先生に向って、疑い深く、
「それで、何かわかりましたか」
先生があくびして、
「大してない。だが、私の考えを実証しておる」
「どのように?」
「ニックが理不尽な罰を受けたことを、くどくど話したのに気がついたか。ニックは他人のいたずらで罰せられた」
「ええ、それがなにか」
「そうだな。ニックが臆病で感受性の強い子供だと仮定すれば、罰せられるのを怖れている。例えば暗い押し入れに閉じ込められるとかだ。さて、全ての子供がやるように、うっかり良くないことをやらかしたときには、必死になって誰かに転化しようとする。でも、責めるべき人は自分以外にいない。で、どうする?」
「何を?」
「別人を作る、ワル
パットは扉の方へ行きながら、あいまいにつぶやき、
「わかりましたが、なんだか無理筋のような気がします」
「だろうな。お休み」
パットはゆっくりと階段を降りて、垣根の破損部を通りながら、カール先生の見解に思いを巡らせた。
つまり、ニックによると、あの悪魔はニックの心が造り上げたものに外ならず、臆病な子供がただ罰を避けるためのまやかしだという。
パットが首を振った。全くニックらしくない。ニックは優しくて感受性が強いけれども、そんな偽物の後ろに隠れるような人間じゃない。臆病じゃないことは、保証する。
それに有り得ないほど確かなことは、ニックを苦しめるこの別人格を、ニック自身は憎み、怖れ、嫌っている。だから作り出せるはずがない。
ため息をついて、階段を昇り、鍵をまさぐった。後ろで動く音がしたので、あっと驚きの声が出た。振り向いてみれば、ポーチの影から人物が現れた。
玄関の明りで顔が照らされ、パットが後ずさりしたのは、ニコラス・ディバインだとわかったが、いましがたキスして別れたニックじゃなく、拷問者の
第25章 悪魔の恋人
パットが後ずさりして、玄関扉に寄りかかると、鍵がコンクリートにチャリンと落ちた。驚き動揺したが、予想したほど怖くなかった。
結局思うに、二人が立っているところは国道から丸見えだし、カール先生宅からわずか数

「おやまあ。消えたり現れたり、ルイス・キャロルのチェシャーキャット(訳注)を思い起こさせます」
(訳注)チェシャーキャットは、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(1865年)に現れる人語を解する不思議な猫で、ニヤニヤ笑いを残したまま体の消失・出現が自在にできる。(Wikipedia「チェシャ猫」参照)
と怪物が冷たい口調で言った。
「なにが欲しいのですか」
「わかっているはずだ」
「いやです。とにかくあなたは消える運命です。行きなさい」
怪物が妙に冷酷に引きつり笑いをして、
「ヒヒヒ、仮にニックが消滅する定めだとしたら、どうなる?」
「そうなりません。そうなりません、ニックはもっと強いです」
こうパットが繰り返す一方、不確かさに震えていた。
「じゃあ、いまニックはどこにいるんだ?」
「カール先生が助けてくれます」
「先生だと。偉い理論だと。俺は幻か。俺は子供じみた蜃気楼の産物か。バーカ。俺が手がかりを与えても、先生の知能ではついて来れまい」
と怪物があざけるように反論して、ぎらつく赤目をパットに向けた。パットは怪物の顔が近づくと、気力が失われ、恐怖が渦巻き始め、小声でつぶやいた。
「あっちへ行きなさい。あっちへ行きなさい。なぜ私をいじめなきゃならないの。誰がよこしまな行為をさせるものですか、どんな女性でも……」
怪物が例の抑揚のない声で応じ、
「お前には美しいものがある、前にも言ったが、黒髪や白い肌を
と言って、
「ああ、神様、憎いです」
パットは震えている。
「なら、言え。嫌いだと言え」
「嫌いです。すぐ退去して」
「一緒にか?」
「少しでも近寄ったら、大声を出します。触らないで。カール先生を呼びますよ」
「打撃を受けるのは、お前の恋人だけだ」
「じゃあ、呼びます。ニックは理解してくれます」
怪物が反射的に、
「ああ、ニックはバカだから許すだろう。何でも許すだろう、弱虫だから」
「行きなさい。ここから立ち去りなさい」
怪物が血走った目でパットを見据え、平板な口調で、
「よく分った。今回の勝者はお前だ」
怪物がゆっくり階段を下がった。パットはその動きを監視しながら、ひと安心した。怪物の影が消えたとき、足元で鍵が光ったので、身をかがめて、取り上げた。
素早い動きがあったのは、敵から目を離した
ニコラス・ディバインが階段へ引きずり降ろそうとしている。途中で意識が戻り、必死にもがいた。
身をよじり、体をねじった。全力を込めて
ふさがれた口で手の平をガブッと噛むと、うっと押し殺したうなり声とともに、余りにも急に体を離したものだから、そのはずみで垣根の藪におもいっきり突っ込んでしまった。
息を切らし一瞬、叫び声が出なかった。一方の怪物はパットに向き合い、突っ立ち、恐ろしい眼をぎらつかせて見ている。
それからゆっくりと視線を移し、かわいい脚から、くしゃくしゃの黒髪までなめ回すので、パットが両手で髪を後ろに掻き上げると、顔は蒼白、恐怖におののいている。
「意固地な奴だ」
と怪物が言いながら、噛まれた手をさすった。
「意固地で、頑固だが、それに見合う価値がある。充分ある」
怪物が素早く手を伸ばし、パットの手首をつかんだのは、パットが藪を背にしたとき。
パットが身をねじり、必死にカール先生宅を見れば、いまや明かりが一灯、上階窓にあるだけ。息をおもいっきり胸に吸い込んで、大声で叫んだ。
「カール先生、カール先生、たすけて」
怪物が乱暴にパットを振り回した。一瞬恐ろしい悪魔の形相が見え、それから怪物は腕を構え、
世界が光の渦に包まれ、瞬く間に暗くなった。
パットは全く意識を失っておらず、少なくとも一瞬に過ぎなかった。突然気づけば、下で歩道が動き、自分の腕がだらんと垂れ下がっている。わかった、ニコラス・ディバインの肩に
それから、依然として何の抵抗もできずにニックの車にどさっと投げ込まれた。怪物が横に座り、車がブーンと動いた。
パットは残っている力を呼び起こした。起き上がり、車の扉に手を掛けて、車から道路へ飛び降りようと無茶な考えを起こした。横の怪物が手荒に引き倒した。パットが座席に倒れ込むと、またしても
それはめくらめっぽうな打撃であり、ほとんどパットを見なかった。パンチがおでこに当たったり、頭に当たったり、車の壁をドンと叩いたりした。パットは目を閉じて、しばらくよけていたが、やがて怪物にぐらっと倒れかかり、完全に意識を失った。
今回の失神も短かったに違いない。ぼうっと目を開ければ、街灯が飛んでいる。まだ車上で、今やどこか見知らぬ細道を走っており、くすんだ古い家々が立ち並んでいる。しばらく訳が分らず、状況も全く分らなかった。
やがてだんだん分ってきた。うめき声を上げ、寄りかかった怪物の肩からなんとか立ち直り、助手席の隅で
パットは絶望して、もう一度扉を開けようとする気力も失せた。依然として半分しか状況が分っておらず、わずかに分ったのは、なにか恐ろしいことが起こっている。
助手席クッションに力なく惨めに横たわっていると、突然暗い坂道を曲り、小さな車庫に
運転席のドアが開く音が聞こえた。何だか無限の時間が経ったような気がしたあと、助手席ドアの開く音がした。恐ろしくなって固まり、声も出ず、動けなかった。
怪物が手を伸ばし、暗闇をまさぐった。腕を見つけて、車から引きずり出した。またしてもほかの場合同様に、力なくよろよろ暗闇の中をついて行ったのは手首をつかまれていたからだ。車庫横の建物扉で立ち止まり、空いた手でポケットを探している。
「行かない」
とパットが
扉の中にはいり、パットを引っ張った。パットは急に馬鹿力が出て、扉をつかみ、つかまれた手首を激しく持ち上げると、思いがけず自由になった。よろめきながら通りの方へ向かい、道路へ数歩よたよた踏み出した。
ほとんど一瞬で怪物が追いかけてきて、腕をつかまれた。もうパットには力がなかった。歩道に倒れ、そこでうずくまり、腕をしつこく握られたのも分らなかった。怪物がすごんだ。
「来い。お楽しみが遅れるだけだ。引きずるか」
パットは返事しなかった。怪物が手首を荒々しくつかんで、歩道を数

無理矢理、扉を押し通り、パットの肩や膝がぶつかって痛がるのさえ無視。パタンという扉音が聞こえたのは、蹴って締めたからだ。
そして気がつけば、階段を上っており、どこか重苦しい陰険な暗闇に連れて行かれる。
それから床を移動し、またしても別な扉で腕が傷ついた。一瞬静かになり、解放され、ベッドか長椅子に無造作に落とされた。直後に明かりが点いた。
最初気づいたのは赤目がのぞき込んでいる。魅惑、解読不能、恍惚状態のような魔力で見ている。その時くらくらっときて、目を閉じた。
「ここはどこ? 地獄?」
とパットがつぶやいた。すると、あざけるような声が……
「天国と呼べ。お前の恋人の家だ。ニックと俺の」
第26章 深刻
「天国と地獄は常に同じ所にある。それを実証しよう」
とニコラス・ディバインが赤目でパットをねめつけながら言った。パットはのろのろ動いて頭を起こし、ぼうっとしたまま手で顔をぬぐった。目にかかる黒髪を振り分けて、部屋を
部屋は書斎か研究室か、あるいはおそらく診察室だろう。向かい壁には書棚があり、
発作的に震えたのは、ワニスを塗った
「ここは……」
「お前の恋人ニックの父の部屋だ。ニックと俺の共通の父親だ。父は実験者、研究者だったし、そして別の意味では俺もそうだ」
パットに邪悪な横目を使いながら、
「父はこの部屋で実験を行った、俺も行う。一族の崇高な伝統を引き継ぐ」
パットはほとんど聞いていなかった。怪物が表情も変えずに言うものだから、混乱状態の頭に入ってこない。ただ感じたのは、ぼんやりした恐れ、何となく周りに漂う怖さであり、頭は殴られたせいで痛かった。パットがぼんやり訊いた。
「何をしたいのですか」
「もちろん、未終了の実験だよ。一週間前の中断を覚えているだろ。魔性実験のとっかかりをもう忘れたのか」
パットは怪物のあざけるような冷たい口調に縮み上がった。泣き声で訴えた。
「行かせて、おねがい。行かせて」
「時が来ればな。お前は感謝が足らん。最後のあの時は親切心から、アルコールを飲ませて感覚を鈍らせたが、どうやら趣向が分らなかったようだ。だが今回は、正気のまま実験を成就させる」
怪物の目が奇妙に光り、近づいてきた。パットは膝を抱えて、長椅子の端で丸まり、最後の力を振り絞った。やけくそに叫んだ。
「
怪物が手の届くギリギリで止まって、皮肉を込めて言った。
「楽しみだ、お前の協力がなくても、少なくともこれ以上抵抗しなければ……。抵抗は無駄だ。何日か前に言ったけど、こんな機会がくる」
怪物が慎重に近づいた。パットが足を突き出し、全力を込めて蹴った。瞬時に怪物は身を引き、足首をわしづかみ。脚をぱっと上げられ、長椅子に乱暴に倒されてしまった。そしてまた近づいてきた。
パットは身をよじって離れた。長椅子から滑り降りて、怪物をぐるりと避けて、部屋のただ一つの出口に走った。入室した扉だ。怪物が素早く邪魔した。
扉を閉められた。万事休す。部屋の片隅に待避した。またしても両者、向かい合い、邪悪な怪物の眼が光り、容赦なく向かってくる。
後ろへ下がると、テーブルに当たった。テーブルを前に出し、できるだけ離れるようにした。怪物が歩みを変えず近づいてくる。
不意にパットの手に何かつるつるして丸くて固い物体が触れた。例の頭蓋骨だ。これをつかんで投げた先に、接近中のもっと恐ろしい顔があった。
怪物がさっと身をかわした。ガラスの割れる音がしたのは、ぞっとする頭蓋骨ミサイルが薬棚のガラス窓を割ったからだ。容赦なくニコラス・ディバインが再び近づいてくる。
テーブルの端に沿って移動し、壁に身を寄せた。後ろには、二箇所しかない窓のうちの一つがあり、カーテンがなく、目隠しが下がっている。
「窓から身を投げる。一歩も近づくな」
悪魔がまたしても止まり、慎重になり、あたかも考えているかのよう。
「もちろんやれるさ。チャンスがあればな。体が裂けて砕けて、血まみれになる。そうなりゃ俺の第二歓喜計画になるだけだ」
パットが頭にきて、
「苦しむがよい。よろこんで飛び降りる、お前が苦しむのが分って」
「俺じゃない、お前の恋人だ」
「かまわない、もう耐えられない」
怪物が悪魔の笑いを浮かべて、また前進してきた。それを
時々ガラスは驚くべき抵抗を示すもので、打撃に震えはしたが、割れなかった。もう一度振りかぶると、振り上げた腕をしっかりつかまれ、後ろへ引きずられ、部屋の真ん中へ戻され、床に激しく投げ出された。ぼんやり座り込み、目の前の怪物を見上げた。怪物が平坦な口調で、
「しょうもないことは止めろ。割れないだろ、そんなことは無駄だと分らないのか」
パットは答えず、無表情の悪魔顔をうつろに見た。依然としてパットが黙っていると、怪物が繰り返し、
「まだ戦うつもりか、どうだ?」
パットが首をかすかに振って、いいえ、とつぶやいた。もうどうなってもいい。いまとなっちゃ戦っても全く無駄だ。怪物が頭ごなしに命令。
「立て」
パットが力なく立ち上がり、壁に寄りかかった。一瞬目を閉じたが、怪物が動いたので、うっすら目を開けた。
「な、なにをするつもり?」
「まず、前回よりもっと完全に服を脱がせる。そのあと実験の仕上げを行う」
パットが訳も分らず、ぼうっと見ているとドレスの
無抵抗で立っていると、指が胴着のひもにかかり、そのひもには小さく盛り上がった布も結ばれている。ちょっと震えたのは腰もあらわに立っているせいだが、それ以上の反応は示さなかった。
またしても骨張った手が伸びてきた。傷心のどこからか、最後の抵抗のかけらが沸き上がり、まさぐる手を弱々しく払いのけた。怪物が低くあざ笑うのが聞こえた。
「ヒヒヒ、俺を見ろ」
けだるく見上げた。片手で体を惨めに隠すような仕草をした。怪物の奇妙な眼球と目が合い、わずかに恐怖が湧き上がった。これ以外、何も感じない。それから怪物の眼が近づいてきて、気づけば眼が広がったように感じ、顔面を覆わんばかり。不気味な眼光がこの世に満ちて、全てを支配している。怪物が尋ねた。
「降参か」
眼で命令している。パットが“はい”と力なく言った。
冷たい手が、むき出しの肩に触った。震える手で体中をなで回され、ガバッと引き寄せられた。
「俺のものになれ」
と怪物が要求した。初めて平板な口調に変化があり、熱くなっている。パットは返事しなかった。怪物に抱かれ、パットの眼はうっとり、まるで陶酔状態の眼であり、
「俺のものになれ」
と繰り返す怪物の息が、ほほにかかった。
「はい」
と聞こえた自分の声は質問への自動応答だった。
「俺のものだ。邪悪な喜びが欲しいか」
「あなたのものです」
とパットがつぶやいた。悪魔の眼で全てを忘れた。
「俺が嫌いか」
「いいえ」
腕力で、体をぎゅっと締め付けられた。圧力で息ができない。まさに骨が激しく圧迫されている。怪物がつぶやいた。
「俺が嫌いか」
「ええ、ええ、嫌いです」
怪物がパットの黒髪に片手を突っ込み、荒々しく後ろへ引っ張り、
「いいか、今から仕上げにかかる。悪魔の顔を見たいか」
パットは返事しなかった。パットの眼は、夢遊病者のように生気のない眼で怪物を見ている。
「いいか」
「はい」
怪物が口を押しつけてきた。激しいキスで唇が傷つき、髪を引っ張る力で焼けるように痛み、抱きしめる力で窒息しそう。
でも、どういうわけか、またしてもあの不浄な喜びが芽生えた。あの時と同じ
なにか
パットが動くと、不意に足が浮き上がるのを感じた。唇を押しつけられたまま、持ち上げられてしまった。部屋の中を運ばれている。怪物が止まった。突然解放されて、長椅子の固い表面に落とされ、裸の背中にひっかき傷ができた。
ニコラス・ディバインが覆いかぶさってきた。手が、たった一枚残った下着に伸びてくる。そして再び、疲れ切った魂のどこからか、抵抗の火花が散った。
「ニック、ああ、ニック。たすけて」
怪物があざけりの表情で、
「奴を呼べ。奴は聞いている。奴の苦しみが増す」
パットが両手で眼を覆った。怪物が冷たい手で触っている所は、腰の柔らかいところ。
「ニック、おお、たいへん、ニック」
第27章 地獄の二人
冷たい手はまだパットの体の上にある。肉体の上で固まり、こわばっている。パットは受け身で横たわり、目を閉じていた。最後に絶叫して、根が尽きた。惨めな中で絞り出した言葉は、残った気力の最後の抵抗であった。傷ついた体と、打ちのめされた精神から出るものは、もう何もない。
そのとき悪魔の手が震え、引っ込んた。しばらくパットは動かず、両手で体を隠していたが、やがて目を開けて力なくぼんやり見つめれば、悪魔が突っ立ってかがみ込んでいる。
悪魔は放心状態で、奇妙に顔をしかめて、眺めている。パットがもぞもぞ動くと、更にしかめっ面が増し、一歩後ずさりした。
悪魔の顔が突然ゆがんだのは、何か推測しがたい感情がわき起こった為か。
「変だ。でも俺はまだここでは主役だ」
やはり主役だった。一瞬で激情が消え、再びパットの前に立ち、以前と同じ冷たい悪魔顔に戻った。
パットが悪魔を見ながら茫然自失になり、痛みにすすり泣く我が身が余りにも絶望的になったのは、腰のゴムをひねり回されて、ゴムが肉体に食い込んで裂けたときだ。下着を引き裂かれ、赤目が近づき、奥底には野獣の絶頂感が見えた。
野獣がつぶやく声には、新たな耳障りな響きがあった。
「お前は俺のものだ。俺のものになるか」
パットは返事しなかった。悪魔のしゃがれ声がより強烈になった。
「俺のものになるか」
返事できなかった。肩に指が食い込んでくるのを感じた。荒っぽく激しく揺さぶられ、またしても厳しく
そしてパットが無力感と弱さを通して感じたのは、戦慄すべき奇妙で不条理な魅惑、これを悪魔が及ぼしている。悪魔がしゃがれ声で訊いた。
「答えろ。俺のものになるか」
肩を焼けるようにつかまれているため、答えざるを得ない。パットが小声で、
「ええ、あなたのものです」
パットは再び絶望してあきらめて目を閉じた。悪魔の手が引っ込んだのを感じたが、されるがまま横たわり、まさに人事不省、麻痺、精神破壊、降伏寸前だった。
何も起こらなかった。長い間隔を置いて、目を開けて悪魔を見れば、またしても突っ立ったまま拳を握り、顔をゆがめている。葛藤の余り、身もだえして、奇妙な低いうなり声を出している。一歩ずつ後ずさりして、本棚に寄りかかると、玉の汗がしかめ面にじわり。
もう主役じゃない。変化が分った。いつの間にか顔から悪魔が消え、もはや怪物でなくなり、疲れ果て、恐怖におののくニック本来の姿だ。
赤目はもう悪魔的じゃなく、充血、困惑する優しい恋人の眼となり、口元も薄気味悪さがなくなり、息を切らし、震えている。壁に寄りかかり、テーブル椅子へふらふら進み、どかっと座り込んだ。
パットは余りにも消耗して、ぼうっとしていたので、解放されたという意識がかすかにあるだけ。わずかに自覚したのは、涙が
しばらく動くことができず、そう長くかからなかったが、やっと
ニックが椅子から立ち上がり、ためらいながらよろよろ進んできた。つかんだのは何かのカバー、長椅子の足元に
「パット、大丈夫か」
パットは何も答えず、ぼんやり見返した。
「パット、教えてくれ、大丈夫か」
「だいじょうぶって? ええ、大丈夫だと思います」
「じゃあ、行け、パット。ここから去れ。奴の前から、何か起こらないうちに。服を着て、急いで去れ」
「できない、できない」
「行け、パット」
「動けないのよ。もうすこし、ニック。息が整ったら……」
ニックの叫びには苦悩があった。
「パット、ああ神様。二度と二人きりになっちゃいけない、どんなときでも」
パットに少し正気が戻って来た。自分の立場が分って、全身が震えた。
「そうです、会っちゃいけません」
「二度とこんなことには耐えられない。狂いそうだ」
パットが息を詰まらせ、涙を流し、
「ああ、もしあなたが戻ってこなかったら、ニック」
「僕は怪物に勝った。二度と起こさない。君の叫びで強くなった。パット、怪物の考えによれば、君と恋に落ちたことで僕は弱くなった。でも結局は僕に元気をくれた恋のおかげで、怪物を退治できた」
「こわい。ああ、ニック、おそろしい」
「行きなさい。服を着て、すぐここを去りなさい、ここを」
ニックがパットの服を床から集めて、横の椅子に置いて、
「止めピンはテーブルの箱にある、パット。できるだけ上手に着付をして、急いでここから出なさい」
ニックが退去するかのように扉の方へ向かった。パットは恐怖の衝撃で震えている。
「ニック、行かないで。こわいのです、あなたがいないと……。怪物がこわいのです」
「分った、戻るよ」
パットは毛布を着けたまま滑るように進み、ピンを見つけ、台無しの衣装修復にかかった。ドレスは破れ、しわしわ、くしゃくしゃ。首のところでピン留めしたが、指が震えてむずかしい。それを着て、おずおず扉へ進んだ。
「ニック」
と呼んだのは、ふらっときて壁にもたれた時だ。ニックが心配そうに振り返った。
「どうしたんだ」
「ふらふらです。頭が痛い、それに怖い」
「パット、かわいそうに。そんな状態で一人じゃ行けない。連れて行けないし、どうしよう」
ニックが腕を優しく体に回し、長椅子に座らせた。パットがつぶやいて、
「よくなります。もうすぐいけます」
めまいが去り、力が戻って来た。
「そうしてくれ。何という別れだ、パット。二度と会えないとは。お別れに覚えておこう」
パットが困惑の黒い瞳を向けて、
「わかっています。ニック、あなたが好きです。あなた、お別れにキスして。とにかく今回のことは覚えておかなくちゃ」
パットのほほに再び涙があった。
「僕のことか。あのあと僕の口は何を言った? この腕は君に何をした?」
「でもあなたは何もしていない。ニック、あなたを非難できますか、悪魔がやったのに」
「神よ、君は優しい、パット。いつかこの戦いに勝てたら、いつか最終勝者になれたら……、でも勝てない」
ここで急に声色を落し、
「僕は二度と君の元に戻ってこない。余りにも危険だし、いつかやるに決まっている、だろ?」
「どうかしら。やれますか」
「僕はやれない。確信はないけど、悪魔が以前のように休眠中じゃなく、僕が弱るのを待って、裏切ろうとするだろう。自信が持てない。パット、お別れしなければ」
「じゃあ、キスして」
ニックにしがみついた。つい先ほどまで恐怖の館だったのが、変わった。
ニックに抱かれ、唇を押しつけられながら、不意に悪魔の放った言葉を思い出した――天国と地獄は常に同じ場所にある。
この言葉に新しい意味が加わった。ニックから体を離し、涙に光る眼で優しく見つめ、つぶやいた。
「あなたに去ってほしくない。いかないで」
「僕も行きたくない。でも行かねば」
「いかないで。ここに留まって、一緒に戦いましょう。結婚して……そうすればとにかく一緒に戦えます」
「パット、僕が同意すると思うか」
「ニック、結婚は値千金です。いまわかりました。結婚はできないと思っていましたが、できます。あなたを失うことはできません。とにかくあなたを失うぐらいなら悪魔でもましです」
「君は甘ちゃんだ、パット。僕が悪魔と魂を取り引きしているのは知っているだろ、いや結婚はできない。結婚を匂わせて、僕を苦しめないでくれ」
パットが言い含めるように話した。
「でも私はやります。ニック、あなたはかけがえのない人です。もし悪魔が私を殺しても、あなたは依然として結婚に値します。とにかくあなた無しでは死にたくない」
「僕も君なしでは死にたくない。でも結婚はしない、パット。結婚はしない」
とニックがおぼつかなくつぶやいた。
「愛しています。ニック、あなた無しで生きていたくない。わかりますか。あなた無しで生きていたくない」
ニックが悲しそうに見つめて、
「僕もそれを考えていた。パット、死後、どこへでも一緒にいられると信じさえできたら、イエスと言うけどなあ。死後の世界があると信じられたらなあ」
「悪魔の存在が、それを証明していないですか」
「君の先生は否定するだろうな」
「カール先生は一度も悪魔を見ていません。いずれにしろすっかり忘れている方がいい、ずっと」
ニックは静かに見ていた。パットが再開した。
「そんなことは怖くありません。ニック、あなたを失うことが怖いのです、特に悪魔に負けてあなたを失うことが」
ニックは相変わらず黙って見ていた。不意にパットを引き寄せ、ひしと、やさしく抱いた。
第28章 月の予言
ニックはずいぶん長い間、無言でしつこくパットを抱いたあとに解放して、あご
パットはその横で無意識に、ドレスの首回りを再びピン留めにかかった。抱かれている間は開いていた。ニックが立ち上がり、神経質そうにうろうろしながら横に立ち止まり、つぶやいた。
「あれは一時の衝動でしたことじゃない、パット。分ってくれ」
「一時の出来心ではありません」
「パット、そんなに何もかも、全てを簡単に捨てられない。最後の望みは捨てないけど、惨めになるかも」
「希望がありますか、ニック。選択肢がありますか」
「分らん、神に誓って分らん」
「もし選択肢があるとすれば、少しでもチャンスのある方法を選びませんか。だってほかの方法はいつでもとれますから」
「そうだね。いつでもとれる」
「でも、あなたを失う方は、選びません。前に言った通りよ、ニック。あなた無しでは生きていたくない」
「どんな選択肢がある? 変わりの選択肢として、人生は別々、死ぬのは一緒」
「ニック、私の決心がわかりますね。あなた、おちゃらけにしないで。耐えられない」
ニックが戸惑い、いらついた風に片手を振って、向きを変え、神経質そうに歩く先に窓があり、窓の目隠しはパットが上げていた。テーブルに両手をついて、がっくりきた様子で下の通りをのぞいた。
ニックが妙な声で筋違いなことを尋ねた。
「何時に月が昇るって、先生は言ったっけ? 覚えているか」
「いいえ。ああ、おねがい、背中を向けてそこに立たないで、半分狂いそう」
「考えているんだ。夜ごと早まる? いや遅くなる? まあどうでもいいや。ここへおいで、パット」
パットがよろよろ立ち上がって、やってきた。ニックは腰に腕を回して引き寄せた。
「見てごらん」
と言って、窓の向こうの暗い夜景を指差した。ぼんやり光る道路や通路を見ると、暗闇の端に家が建ち並んでいる。
遙か向こうの開けたところに高速道路があり、こんな時間になっても車がひっきりなしに流れており、帯を成して湖を照らし、その上に輝く大きな月が昇っている。
遠く波がちらつくのを見ると、光が道路沿いにまき散らされている。パットが困惑したような目をニックに向けた。ニックは空に浮いている大きな月を指差して、
「あれが天国だ。あの世界には生命という
パットは訳が分らず、つぶやいた。
「わかりません、ニック」
「分らないか、パット。あそこは天国、死の世界。ここは地獄、生の世界だ。天国と地獄は共通の重心を永久に揺れ動く。見なさい、パット。死の世界が、生の世界という墓場に、花々をまき散らしている」
と言いながら、水面に輝く月光を指差した。
ニックの
「すきよ、ニック」
とささやき、体をぴったり寄せた。
「我々が行動したところで、どんな違いがある? あそこ、天空の生命無き球体にこそ予言がある。我々がどこへ行こうが、今生きている人々は一世紀経ずして、いや百万年以内に、人類も含めて死ぬだろう。死の眠りを前にして、一年とか百万年とかが何になる。終わりに違いは無いだろ? ここ地球では皆、希望を大事にしている。希望なんてくそくらえ。代わりに平穏な心だ」
「わたしは怖くありません、ニック」
「僕もだ。もし我々が死んだら怪物も死ぬし、怪物も死をとても怖がっている」
「怪物はあなたを妨害できますか」
「今はできない。僕がずっと強くなっているから。今回は僕が主役だ」
ニックが再び向きを変え、光る月を眺めたとき、月は水平線からいつの間にか上昇していた。
「パット、後悔することは何もない。ただし、美を失うことを除いてだ。つまり月の美と、君の美だよ。これを否定するのはとても難しい」
ニックは前かがみになり、上空の月を見ている。あたかも月に話しかけるように余りにも低い声で言うものだから、パットはぴったりくっつき、自分の息を殺して聞かねばならなかった。ニックが言っている。
土手 突風 雲のはるか上
そして海上のはるか上
君が堂々と昇るのを見て
君の冷たい光をついに感じ
君は冷たい美貌を道中に放ち
銀の成分を波間に分かち
この惑星の命が消えたかのように
人は己の墓で平和に眠る
そして海上のはるか上
君が堂々と昇るのを見て
君の冷たい光をついに感じ
君は冷たい美貌を道中に放ち
銀の成分を波間に分かち
この惑星の命が消えたかのように
人は己の墓で平和に眠る
パットがしばらく黙っていたのは、ニックが中断したから。やがて低い声でつぶやいた。
「ああ、愛しています、ニック」
「僕もだ、パット。それじゃ決めようか。やり抜く覚悟があるか」
「ひるみません。そのつもりです。ニック、あなたのいない人生は空っぽ、それはさっき言った真空と同じです。
「パット、心の動揺は
「ええ、そうね。いい方に変わる以外、想像できません」
「じゃあ、やろう。以前何十回もやろうとしたけど、そのたびに思い留まった。臆病風に吹かれたんだ」
「あなたは臆病じゃない。希望の幻を見たからよ。それで人はいつも弱くなります。希望を
「じゃあ、やろう」
「方法は? ニック」
「父が手段を残してくれた。キャビネットに百個もの毒薬がある。即効剤や遅効剤や、激痛剤やら無痛剤まで。僕には判別できない。選択は当てずっぽになる。君のために、もし分れば無痛剤を選ぼう。安楽死だ」
と言って、ケースの所へ歩み、ガラス扉を引くと、前面の割れガラスが床に散らばった。ニックが目を
パットは不意にこの場面がおかしく思えて、妙に怪しく、なにか異常に恐ろしい。何時間も神経をすり減らし、壊れる寸前だったので、訳が分らず、ヒステリーを起こす瀬戸際に来ていた。
パットが喉から出かかった笑いを抑えようと、息を詰まらせて、ヒステリックに笑いながら、首を振って言った。
「ふふふ、毒薬のバーゲンだ。どれが最適か。どれが一番効くか。どれが一番長引くか」
ニックが振り向きパットを見つめる顔は、まともじゃないな、という風だ。
「どんな違いがあるって言うの? かまわない。痛かろうが、楽しかろうが、みんな同じ墓にはいる。目をつぶって選びなさい」
急にニックが再び抱き寄せると、パットはすすり泣いて、激しくしがみついてきた。惨めに取り乱している。
「我々は狂っている。異常な考えだし、これをパット、君に科すなんて。君の美貌を僕が壊せると思うか。僕は自分に嘘をつき、空想を想像して、判断を押さえつけ、その間ずっと一人で立ち向かうことを怖れていただけだ」
パットがニックの肩に顔を埋めて、
「いいえ、私こそ臆病です。おびえて、壊れていました。今夜はとくにそうでした。もうだいじょうぶです」
「でも、こんなことはやれないよ、パット」
「やりましょう。あなた無しで生きるよりずっといい。議論を重ねて、やっと現実を忘れることができたし、これは撤回しません。ニック、あなた無しでは生きていられません」
ニックが目をそっとこすりながらつぶやき、
「原点に戻ろう。わかった、パット。そうしよう」
キャビネットの方へまた行って、
「塩化水銀と青酸カリだ。二つとも致死毒物だが、二番目の方が即効性だから苦しみが少ないだろう。青酸カリにしよう」
ガラス棚から小さなビーカを2個取り出した。テーブルの水差しでビーカに水を注ぐのを、じっと見ていると、スプーン一杯の白い結晶を無造作に入れた。水をちょっとかき混ぜ、無色透明になり、結晶が消え始め、たちまち溶けた。ニックが不気味に告げた。
「ほうら出来た。これで平穏、恩赦、忘却、消滅が、君にも僕にも怪物にも、もたらされる。疑いなく、合理的な方法じゃないか。飲もうか」
パットが蚊の鳴くような声で、
「おねがい、まずキスして。これが恋人同士の正しい方法なのですか」
パットはこの自虐に、ちょっと驚いた。今の状況は現実味がちっともなく、単なる劇場の出来事で、芝居の偶発事件のよう。
ニックが再び抱きしめて、唇を押し付けてきた。もの言いたげで、優しい長いキスだった。やっと終わったとき、パットの目にまた涙があふれていたが、今回は神経発作の涙じゃなかった。
「ニック、ニック」
ニックは深く悲しみに沈んでいたが、とてもやさしい笑顔を見せて、致死薬入りのビーカに手を伸ばし、指でつかんで言った。
「あの世で会おう」
あっ、突然びっくりだ。耳障りな玄関扉のベル音が聞こえたからだ。もっと驚くべきことに、現実世界に居ることをすっかり忘れていた。邪魔がはいった。またしても、いま進行中の全てを止めることにほかならない。
「飲みなさい」
とパットが衝動的に叫び、残りのビーカをつかんだ。
第29章 悪魔用鎮静剤
パットの手から、ビーカが叩き落され、透明水が流れて
怒りとか、安堵という気持ちはなく、何も感じず、ただ拍子抜けしただけ。階下のどこかでベルがまた鳴り、扉を激しくたたく音がするけど、ただ混乱して、けげんなまなざしで見つめるばかり。
「君には飲ませられない、パット」
とニックがつぶやいたのはパットが無言で問うたから。
「でもニック、なぜ?」
「誰か来たんじゃないか。確認した方がいいのじゃないか」
「それでどうなりますか」
とパットがだるそうに訊いた。
「分らんけど、確認したい」
「また幻の希望です。もうおしまいです、ニック。今となってはおしまいです。全ては初めから決まっており、私達は終わりに近づいています」
「分っている。全て分っているが……」
と中断したのは階下のベルがしつこく鳴っているからだ。こう言い残した。
「あのベルに
ニックがパットから離れ、部屋にある唯一の扉を通って消えた。パットはじっと見ていたが、見えなくなった途端、妙に恐ろしい感情に襲われた。無力感や疲労感をかなぐり捨て、あとを追いかけ、玄関の暗闇へ突進した。
「ニック」
とパットが呼んだ。どこか先の方で明かりが点いた。吹き抜け階段が見えて、降りる靴音が聞こえる。大急ぎで後を追い、階段の上へ着いたちょうどそのとき、階下のベル音が止まった。
扉の開く音がして、馴染みの声が聞こえ、ぎょっと固まった。
「パットはどこだ?」
という声が、低くうなるように不気味に聞こえてきた。
「カール先生」
とパットが金切り声を上げた。階段を駆け下りてニックのそばに行くと、ニックは先生の巨体と向かい合っている。パットが訊いた。
「カール先生、どうやって見つけたのですか」
先生は眼を細めて、長いこと考え込んで見ていたが、ついに吠えた。
「ほとんど一晩中キミを探していた。数時間かけて私服刑事のミューラーを探し、ここの住所を聞き出した」
前に踏み出し、パットの手を握り“さあ”とぶっきらぼうに言って、そばで黙って突っ立っているニックには目もくれず、
「連れて帰るぞ」
パットが後ずさりして、
「なぜ?」
「なぜって? 君の連れが嫌いだからだ。それで十分じゃないか」
パットはなお執拗な綱引きに抵抗した。
「ニックは何もしていません」
と
「何もしていないだと。自分をよく見ろ、パット。服を見ろ、額を見ろ。もっと言えば、自宅窓からたっぷり見させてもらった。奴が君を車に押し込んでいたぞ」
目が怒りで光り、腕をつかむ力が増す一方、
「あれはニックじゃありません」
「そうだ、あれは悪魔だ。とにかくパット、一緒に戻るんだ、私が悪魔に暴力を振るわないうちに」
ニックは先生が入館してから初めて口を利いた。
「行きなさい、パット。先生と行きなさい」
「行かない」
とパットが断言。突然状況が変わり、長い恐ろしい夜を過ごしたので、腹が立ってきた。余りにも急激に、恐怖と希望と絶望の間を行き来するものだから、すり減った神経には実質、怒りがあった。
パットの神経は余りに長い間、痛めつけられていたので、いまや恐怖地獄から毒死寸前へ戻ることをすっかり忘れている。先生をなじった。
「英雄のように助けに参上だ。間一髪のカール先生」
「この馬鹿者が。眠らず来た挙句、結構な歓迎だな。必要なら引きずってでも帰るぞ」
と言って、ずんずん扉の方へ引っ張った。パットが激しく身をよじると、腕が離れた。
「やれるものなら、やってみなさい」
とパットが小馬鹿にした。いらだつ先生の顔を見て、にわかに気分が変わり、軟化して
「カール先生。ごめんなさい。先生はとても優しくて、たいへん感謝しますが、いまニックを置き去りにできません、いまは、今はできません」
パットの眼が困っている。
「なぜだ、パット」
先生はパットの態度が変わったので気持ちがなだめられ、声が同情的になった。
「置き去りにできません。いっそう悪くなります」
「ふん」
「ふんですか。そんなに軽蔑するなら、なぜ治さないのですか。精神分析が何になりますか。病名も知らないくせに」
「何を期待しておる? 診察せず診断できるか。まだ症状を見ていないんだぞ」
「わかりました。先生とニックがここに居ます。診察して、けりを付けて、結果を見ましょう。せめて症状ぐらいは言えるはずです。米国中西部の神経精神病理学で著名な大家なのですから」
ずいぶんな皮肉だ。先生はぐっとこらえて、馬鹿な子供を
「いいか、パット。前にも説明したけど、ここに居る君の恋人のように、被験者が正常に見えるときには、精神異常の原因は突き止められない。精神分析は被験者が冷静、沈着、安心している場合、うまくいかない。分るか」
「少しはわかります。別な方法もあるでしょ、高名な大家どの」
「黙れ。もちろんほかの方法を知っているし、君たちを私の診察室へ連れて行けばだが……。そこには設備があるし、でも今晩はやらない」
「じゃあ、ここでやりなさいよ」
「必要なものがないだろ」
「2階に何でもあります。全部あります。すべてニックの父の設備です」
「今夜は駄目だ。以上だ」
パットの態度が再び変わった。先生に哀願するように困惑した目を向けて、悲しげに言った。
「カール先生、いまニックを置き去りにできません。本当にできません。もう会える気がしないからです。お願い、カール先生」
ニックの手をつかむと、ニックはしょげかえり、押し黙り、おとなしく突っ立っている。
「もし君の精神錯乱が余りに暴力的で、悪意があれば、監禁すべきだ。分るか、若いの」
「はい」
「それをずっと考えていたんだぞ、ずっと」
パットが懇願するように
「おねがい、診察していただけませんか、カール先生」
「ちくしょう。分った、それじゃ」
先生がパットの後について階段を上がり、一方のニックはやるせなく跡を追った。パットが先生を案内した部屋は、ついさっき立ち退いた所であり、桃の種のような奇妙な香りが空中に漂っていた。
先生が疑わしげに鼻をクンクンさせ、放置されたビーカをつかんで、慎重に持ち上げて鼻孔に当てた。
「しまった。青酸、いや青酸カリだ。なんてことを……」
パットの悲しそうな目を見て、サッと容器を戻し、
「パット、パット、お嬢ちゃん」
と叫びパットを大きな腕の中に引き寄せた。
「助けてあげよう。私のできる全てを。君にとって重大だ。おお、なんてことだ」
先生が一瞬パットを抱いて、乱れた黒髪の頭を、大きくて繊細な指で、軽く叩いた。それからパットを解放して、ニックの方を向いた。
「これが備品か」
と先生がぶっきらぼうに訊いて、指差したキャビネット瓶棚は正面ガラスが割れている。ニックがうなずいた。
パットがテーブル横の椅子に座り、先生を見れば、並んだ容器を調べている。小さな木製容器を引っ張り出し、ぱかんと開けると、多数の注射針が現れ、黄色い明かりにきらり光った。満足げにうなり、調査を続けた。箱のラベルを読んで、つぶやいた。
「アトロピン、コカイン、ダチュリン、ヒヨスチン、ヒヨスチアミン、これらは使えないな」
「何が必要なのですか」
とパットが小声で訊いた。
依然として探しながら、上の空で言った。
「穏やかな催眠薬だ。精神分析に取って代わる良い薬だ。意識を鈍らせるが、完全に無意識にはしない。潜在意識状態にする良い薬だ。分るか」
「少しはわかります。効果があればいいのですが」
「見つかればうまくいく。おっと。スコポラミンだ。これでうまくいく」
と言いながら小箱をつまみ、ほかの箱から何か小さなガラスのようなものを取り出して、厳しい顔になった。水差しをつかみ、尖って光る針を水差しに突っ込んだ。
「消毒する」
と思案してつぶやいた。箱から茶色の瓶を取り出して、光へかざし、振った。
「過酸化物が溶けた水だよ」
銀製のシガーライタをポケットから取り出し、黄色い炎を点けた。皮下注射針の先端を前後に通し、小さな火炎で焼いた。最後にニックに向き直った。
「上着を脱いで、シャツの袖をまくり上げろ。左腕だ。そこに座れ」
と壁際の長椅子を指差した。ニックは黙って従った。唯一の感情表現は長く惨めに
先生がニックに近づき、てきぱき言った。
「さて、これで君はだるくなり、眠くなる。そんな作用がある。逆らっちゃいかん。気を楽にして身を任せろ、そうすれば何か引き出せるだろう」
パットは息を呑み、ニックは腕に針が刺さると、びくっとした。
「そうだ。リラックスして。後ろに寄りかかって、目を閉じろ」
先生は扉を出て、使い古した椅子をホールから引っ張ってきて、それに座った。パットの横に陣取り、ニックの青ざめた顔を眺めれば、ニックは静かに座り、目を閉じて、呼吸はゆっくり、深い。
「もう十分だ」
と先生がつぶやいた。それから声を大きくして、
「聞こえるか」
と長椅子で動かないニックに呼びかけた。返事はなかったが、パットにはニックの表情がわずかに変わった気がした。
「聞こえるか」
と先生が大声で繰り返した。
「はい、聞こえます」
とニックから冷たい返事が返ってきた。パットはその声に、とても驚いた。目が開くと、真っ赤な悪魔の眼球が見えて、突然の恐怖に襲われた。
第30章 怪物出現
パットがびっくりして金切り声を小さくあげると、カール先生も驚いてうなり声を出して、つぶやいた。
「変だな。この
「あっ、あの怪物です」
とパットがあえぐ一方、椅子に座る怪物はニタニタあざ笑っている。先生が首を激しく振って、
「えっ、効いたのか、有り得ない」
「ニックじゃない。あなた、ニックじゃないでしょう」
とパットが取り乱し、不気味な怪物に尋ねた。怪物が小馬鹿にしたような横目を使って、
「ヒヒヒ、恋人じゃないってか。数時間前はほとんど素っ裸でここに横たわり、あなたのものだと言っていたくせに。忘れたのか」
その言葉に震えて、パットが椅子に縮こまった。悪魔があざ笑っているのが聞こえ、先生が怒って不機嫌に文句を言っている。
「病気だろうがなかろうが、君の意見には憤慨する。何回も考えたが、処方
と言って椅子から立ち上がり、ドスドス怪物の方へ歩いた。
「ちょっと待て。自分のやったことが分っているのか。処方箋の知識があるのか」
と怪物が、あざけるような冷たい赤目を先生に向けた。
「はあ? 何をしたかって? どういう意味だ」
怪物がサチュロス風にニヤケて、
「ヒヒヒ、知らないのか。ばかだな。手がかりを与えたのに、知性が無いからついて来れない。俺が何だか分るか」
と前のめりになって、横目で先生を意地悪く見ながら、
「言おう。俺は神経軸索異常だ。それがすべてだ。単なる神経軸索異常だ。ヒヒヒ。これでも分からないのじゃないか、先生」
先生が大きな
「どういうことか見せてやる」
と言いながら怪物の方へ向かうと、怪物は
「戻れ」
先生は硬直したかのように止まり、ボクサーが拳闘姿勢で殴るかのように、
「戻れ」
と怪物が立ち上がって繰り返した。パットは絶望的な恐怖に襲われ、べそをかいていたが、先生が驚いてうなり声を上げ、ゆっくり後退し、ついに椅子に座り込むのが見えた。先生はうろたえて、ニコラス・ディバインの眼をじっと見つめている。
「ヒヒヒ、先生がやったことを教えよう。俺を解放してくれた。スコポラミンは何も悪くない。効いた。薬で俺を解放してくれた」
先生が、うなり声で何とか反論した。怪物が狂喜して、
「俺は自由だ。初めてニックと戦わずに済む。ニックはここに居るが、俺の邪魔はできない。奴は弱い、軟弱だ、ヒヒヒ。俺の圧倒的な力に対して、お前らは何と弱いことか。弱虫は俺の快楽の
怪物が強欲な赤眼をパットに向けて言った。
「今回は邪魔が入らない。実験をやれば、密かな楽しみが……」
ここで先生が素早く動いたので、怪物が中断した。先生はポケットから青光りする拳銃を取り出して、性欲ギラギラの悪魔に向けた。先生が勝ち誇って、うなった。
「ふん。狂人をつけるのに、丸腰だと思うか。特にお前のようなひどい奴には」
怪物が先生に視点を向けた。長いこと、しつこくねめつけた。遂に命令した。
「捨てろ」
拳銃が床に落ちた時、パットが一気に底知れぬ恐怖を感じた。カール先生の顔を恐る恐るのぞき、恐怖が倍増したのは、先生のアゴが引きつり、額に玉の汗が浮き、両目が泳いでいるのを見てしまったからだ。悪魔が拳銃を無造作に横に蹴り出した。
「幼稚だな」
と怪物が軽蔑して言い、後ずさりして、元の椅子に座り直した。二人を上機嫌でねめ回した。先生がしゃがれ声でつぶやいた。
「パット。ここから出ろ。奴は何か悪魔仕掛けで、私を麻痺させて、惑わした。ここを出て、助けを呼べ」
パットが立ち上がるかのような動作をした。ニコラス・ディバインがパットの眼を一瞬射貫いた。パットは体から力が抜けるのを感じ、椅子にへなへなと座り込んでつぶやいた。
「ダメです。あれが、あれが先生に話した悪魔にほかなりません」
「君が正しかった」
と先生がぼうっとして、もごもご。長椅子の悪魔が上機嫌で
「俺は単なる神経軸索異常だ。先生をただの野次馬にしたあとでたっぷり楽しもう。ストッキングを脱げ。それで先生の両手を、椅子の後ろにくくりつけろ」
と、あたかも考えるかのように赤目を
「いやだ」
とパットが言った。怪物がパットの顔をじろり。
「やらない」
とパットがまたびくびく言いながら、かわいい靴を脱いだ。悪魔の眼が光った。真っ白な
靴に素足を突っ込み、カール先生の椅子の背後に渋々移動した。先生の
「ゆる結びだ」
と不意に怒鳴った。パットの
油汗をかいている先生からニコラス・ディバインが離れた。パットは壊れキャビネットを背に縮こまっている。怪物が耳障りな声でつぶやいた。
「さあて、実験だ。なんとも落ちぶれるのは痛ましい。恋人と守護天使の両人とも、無力な傍観者だ。最高だ、ああ、最高だ」
怪物がパットの手首をつかんで、部屋の中央に引っ張り出し、恐怖で目を見開いている先生に、全身を
「以前は、いつもこの手で儀式の準備をした。その儀式は二回とも実行し損なった。もしお前が自分で服を脱いだら、拷問の痛みが増すか。あるいは見ている俺が苦しむか。どっちだと思うか」
パットは目を閉じ、運命に絶望して
「ニック、ああ、ニック、あなた」
「今回は駄目だ、ヒヒヒ。お前の友人であり、保護者である先生は、お前の恋人ニックを完全に無視している。お前の恋人ニックは弱すぎて、俺にも感じない」
「ニック、カール先生」
だが先生は、今や絹帯に痛々しく縛られ、取り乱してうめき、絹帯が予想外に強いことを呪うばかり。惨めに身もだえすれば、手首がすり切れる。奇妙な麻痺状態は消えたが、体の自由が利かず、パットを助けられない。
ニコラス・ディバインが冷たい口調で、
「思うに、もっと上品な拷問をすれば、お前は乗り気になる。見ものだ」
怪物がパットを引き寄せて腕に抱いた。髪の毛に手を突っ込み、頭を激しく後ろへ反らし、淫乱な唇を押しつけてきた。
パットは少し抵抗したが、絶望して、成り行きに任せた。とうとうされるがまま、全く動かず、腕に抱かれて、怪物のキスに全く反応しなかった。怪物が唇を離し、厳しく尋問した。
「俺のものか。いま俺のものか」
パットは首を振り、目を閉じ、だるそうに、
「いまはちがう、いや永遠にちがう」
またしても怪物が襲いかかった。一方、先生の目は力なく、困惑し、無言、怒りに満ちている。
今度のキスは痛くて、焼けるようで、焦げるようだ。またしてもあの不浄な魅惑と、不自然な喜びが痛みの中にわき上がり、何ら抵抗なく、返事せざるをえなくなった。長いことかかって、怪物が再び唇を離した。
「俺のものか」
と怪物が繰り返した。パットは返事しなかった。息を切らしており、閉じた瞼の下で涙が光ったのは、唇が裂けて痛かったからだ。
またもキスされ、またも悪魔に対して、投げやりな気持ちに襲われた。思わず痛い愛撫に反応する始末。ねぶる悪魔の唇に激しくしがみつき、背中に食い込む指先の苦痛に、不覚にもうっとり感じてしまった。
「あなたのものです」
と悪魔の問いかけにつぶやいた。狂おしく繰り返す自分の声が聞こえる。
「あなたのもの、あなたのもの、あなたのもの」
「喜んで服従するか」
と悪魔の冷たい声がした。
「ええ、ええ、ええ、よろこんで」
「服を脱げ」
という恐ろしい威圧する声が響いた。悪魔が突き放したので、パットは後ろによろめき、ふらふら突っ立った。悪魔が命令を繰り返した。
パットの目が大きく広がった。恍惚状態、宗教的陶酔状態だ。ぎくしゃくと衝動的な動きで、たくし上げた上着の首部分は、今夜応急修理のピン留めのままだ。
奇妙な邪魔がはいった。無力な傍観者の先生が、
ニコラス・ディバインが
「黙れ、さもないと覆いを掛けるぞ」
先生は目を閉じて、大声でわめき散らしている。悪魔が長椅子から毛布をつかみ、先生に放り投げると、先生は茶色の羊毛山となって、もぞもぞ。
パットに目を転じれば、立ち上がろうとしている。悪魔が今にもつかみかからんばかり。
とつぜん悪魔が立ち止まった。パットが、床に転がった拳銃を取り戻し、狂気の目で
「捨てろ」
と悪魔が命令。パットはまたしても魅惑された気がして、命令に従う衝動を覚えた。横目で見れば、先生が毛布を振り落とし、頭を出している。
「捨てろ」
と繰り返すニコラス・ディバイン。パットは目を閉じて、誘惑する映像を遮断した。思わず恐怖に襲われて、引き金を引いた。轟音と反動でよろっと後ずさり。
目を開けた。ニコラス・ディバインが床の中央で仰向けに倒れている。赤い血痕が後頭部の髪の毛についている。
先生が自由になった片手を上げているのが見えた。結び目をほどいている。パットの青ざめて弱った顔を見て、優しく言った。
「パットお嬢ちゃん、私が動けるまで座っていなさい。座りなさい、パット。倒れそうだよ」
「倒れません」
とパットがつぶやき、後ろ向きで長椅子へ下がる有様は、片足に靴を履き、もう片足は裸足で奇妙にびっこを引いており、気がふれたか。
第31章 超絶人間
パットが疲れた目を開けて、
そばで動く音がして、気を引かれた。頭を回して分ったのは、カール先生が床の人物にひざまずき、白い包帯を巻いている。記憶が瞬間に戻った。
思い出したのは夜の惨劇、たしか昨夜だ。だってぼんやり夜明けが窓に光っている。ニックを撃ってしまった。小声でうめき、体を起こして座った。
先生がパットをちらと見て、悲しげに引きつり笑いした。
「やあ。歩けるか、すまん、看病できなくて。こっちの仕事は気が進まん。手当てせず放置したほうがずっといい」
意識がはっきりしてきて、いま分ったが、包帯は先生のシャツを裂いたものだ。恐る恐る動かないニコラス・ディバインの様子をのぞいた。見れば、頬が青く、目を閉じているが、明らかに厳しい悪魔顔じゃない。
「カール先生、ニックは、ニックは……」
「まだだ」
「でも、ニックは……」
「分らん。当たり所が悪い。傷は脳の基底部だ。そういうことだ。でもパット、君に責任は全くない。確約する」
「私にですか。それがどうだっていうの? ニックを助けたいのです」
「最善を尽くすよ、お嬢ちゃん。ブリッグス院長に電話して救急車を要請した。君は15分間、気絶していた」
「救急隊には何というのですか」
「何も言うな、パット。私が責任を持つ」
先生が立ち上がり、窓をのぞき、静かな夜明けを見た。
「妙な隣人だな。叫んだり、銃声がしたりしたのに、隣人は何ら関心を示さない。これがシカゴだけど、我々には好都合だ、パット。これで内緒に扱える」
だがパットは、床に倒れたニックをぼんやり見ている。
「ああ神様。ニックを助けてください、先生」
「最善を尽くすよ。むかし私は腕のいい外科医だった。そのあと精神医学を専門にした。脳手術も現状で正確に行える」
パットは何も言わず、あご
「君にとっても、奴にとっても、私が失敗したほうがいいんじゃないか」
「どうか失敗しないでください」
「気が進まないから、怖いな。まだ医学倫理に少しは敬意を払うけど、こんな事例は……」
先生の声が消えたのは夜明けのどこからか、サイレンの音が聞こえたからだ。
「救急車が来たな」
パットが静かに座っていると、屋外から音が聞こえて、家の前に車が止まった。先生が階段を降りる音がして、玄関扉のきしみ音が聞こえた。
以前にも
ニックの死を考えると、なぜ心がこんなに乱れるのか。
床には拳銃が転がり、テーブルには微光の未使用致死性液体がある。こっちの方が良いか、と考えながら、光る瓶をじっと眺めた。
でも、もしニックが死ななかったら……。ニックを恐ろしい運命に
「さあ、パット」
と先生が優しく言った。パットが立ち上がり、先生について階段を降りて、朝日の中に出た。
救急車の運転手がパットのぐしゃぐしゃに乱れた姿を不審げに見たが、パットは気持ちが余りにも弱り、惨めだったので、くすんだ黒目にかかる黒髪を払いのける余裕すらなかった。
先生の車にどさっと腰を下ろし、疲労困憊してため息をついた。カール先生が救急車の運転手に、
「急げ、私はあとを追う」
車が動き出すと、朝の冷風が解放窓から顔に当たり、いくらか心がはっきりしてきた。目を救急車の後部に凝らし、追いかけた。
「ともかく少しは希望がありますか」
「分らんよ、パット。まだ言えない。君が目を閉じて撃ったとき、ニックは頭をちょっと回して避けたけど、銃弾が小脳近くの基部付近にはいった。もし小脳を射貫けば、心臓と呼吸が一瞬で止まったに違いない。だが止まっていないので、かすかな希望がある。でも、とてもわずかな希望だ」
「ところで、あの悪魔は何ですか。何が攻撃したのですか」
「分らんよ、パット。分らん。悪魔とでも呼べ。それよりいい名前は付けられん」
先生の声が驚いた口調に変わり、
「パット、分らないのは、怪物がかけたあのしびれるような魅惑だ。どの医者も言うだろうが、あの種の精神支配は有り得ない」
「催眠術です」
「ふん。どの精神科医も商売で催眠術を使っている。治療の一部だ。催眠術に興味は全く無い。一方の支配が、他方を快復させることはないよ、世間の見方と違うけどな。それが自然で無理のない見解だ。あれはそうだなあ、動物磁気催眠術という宣伝文句が爆発したようだったな。人間では不可能だが……。私はそう感じた」
「人間で不可能ですって。じゃあ、それが答えですね、先生。もしかして私の言う悪魔を信じますか」
「その気になってきた」
「信じるべきです。わかりませんか、先生。そもそもニックという名前も、悪魔のくだけた呼び名じゃないですか」
「それにディバインという姓は、天使の血統じゃないか。悪魔はただの堕落天使じゃないかな」
「わかっています。からかっているでしょう。そうでしょう」
「君の考えをからかうつもりはないよ、お嬢ちゃん。もっと良い考えは思いつかない。こんなことは見たり聞いたりしたことがないし、私はどんな考えも馬鹿にする立場にない」
「でも、先生は私の言うことを信じない」
「当然だ、信じない、パット。君が作り上げた複雑なおとぎ話は、病的な症状であり、偶然つけた病名だ。症状がどうあれ、私は理解できないけど、なにか合理的に説明のつくものとして扱われるべきだ」
「悪魔払いで治療できます。これが唯一の方法であり、今までみんな悪魔を追い払いました」
先生は返事しなかった。けたたましくわめく先頭車が急に視界から消えて、横道に入り、先生が車を止めたのは、老ブリッグス院長の正面だった。院長がパットの降車を手伝いながら、
「こちらへどうぞ。あなたは待機して戴けませんか」
「わかるまで、どれくらいかかりますか」
「たぶんすぐです。助かるチャンスは直ちに弾を取り出すことです。まだその時間があればですが」
院長のあとについて建物にはいり、通過した事務所では白衣の女性がじろっと見ており、それからエレベータで上がった。小さな部屋に案内された。
「ここにお座りなさい」
と院長が優しく言って、消えた。
パットは指示された椅子に大儀そうに座り、数分が過ぎた。考える気力が無い。激動の長い夜に、力を使い果たし、ただ座って耐えていた。
深い
でもこんな痛みは些細なことだし、単なる肉体的なものだが、悪魔から受けた心の痛みはどんな身体的傷よりもはるかに深い。心の傷は遙かに痛い。精神を麻痺させ、考えをにぶらせ、ただぼんやり座って、無地の壁を眺めていた。
全く時間感覚がなくなったとき、カール先生が戻ってきた。静かに入室し、隅の洗面器で両手を洗い始めた。
「おわりましたか」
とパットが力なく訊いた。
「始まってもいない。でも手遅れじゃない。一瞬かそこらで準備できる」
「いずれにしても終わって欲しかったです」
「私もだ。心底終わって欲しい。近くに手術できる人がいれば、喜んでゆずるよ。でもいない」
先生はまた扉の所へ行き、身を乗り出し、ホールを見下ろした。
「君はここにいなさい。私らを探してはいけない。中断されたくない、たとえ君がどんな気持ちになってもだ」
「心配しないでください。そんなにバカじゃありませんから」
パットはだるそうに椅子に寄りかかり、目を閉じた。長い時間が過ぎた。ちょっと驚いたのは、目を開けたとき、まだ先生が戸口に突っ立っていたからだ。すでに手術の真っ最中だと思っていた。
「何をなさるおつもりですか」
「何のことだ」
「つまりどんな手術が必要なのですか。
「ああ。
「なんですか、
先生がホールを見おろして
「準備できたな」
と言い、
「
先生の靴音が小さくなってホールに消えた。
第32章 天啓
「いま終わったのですか」
とパットがびくびくしながら
「20分前だ」
先生の顔にも張りつめた跡があった。さらに目には何となく困惑した様子があり、怖くなった。
不安すぎて結果を尋ねることができず、ただ目を見開き、
「君の家に電話しておいた。君と早朝出かけたと告げた。お母さんはまだ寝ている、午前10時過ぎだけど……。誰にも見られないように家に
「鍵を無くしてしまいました」
「郵便受けにあるよ。炊事婦のマグダが、けさ玄関の
パットはこれ以上不安に耐えられなかった。
「おしえてください」
「大丈夫だと思う」
「つまり、いきている?」
先生がうなずき、困惑した目をパットに向けた。
「ありがとうございます」
「ニックを取り戻したかったのじゃないか、お嬢ちゃん」
「ええ、そうです」
「悪魔ごとか」
「はい、悪魔ごとです」
その時、先生の態度に何か奇妙なものを感じた。顔に不安な表情があり、パットに恐怖がこみ上げてきた。心配そうに尋ねた。
「どうしたのですか。全て話していませんね。先生、おしえてください」
「ほかに何か、ある。確信はないが、パット、
「治ったのですか」
と訊くパットの声は疑わしげだ。先生の意見を認めようとしない。
「そう願うよ。少なくとも原因は突き止めた」
パットの疲れた体に思わず活力が蘇り、問い詰めた。
「何が原因ですか。あの悪魔は何だったのですか。おしえて、知りたいのです、先生」
「一番ふさわしい名前は
「腫瘍ですって。理解できません」
「私もだ、パット、完全にはな。何か医学知識の境界、いや境界を越えている。正確に分類できる現役の大家はいないと思う」
「でもおしえて、おしえてください」
「それじゃ、お嬢ちゃん、説明しよう。
「いいえ、残念ですが、わかりません」
「つまり、時々、器官に育つように見える。私も見たことがあり、外科医も見るけど、骨が成長する。私が見たのは完璧なあご骨や、小さな歯や髪の毛だ。仮説だが、あたかも人間になろうとしている。原始的で未分化な状態だ。さあ、私の言わんとしていることが分ったか」
「ええ先生、こわいです」
「生命は時々そうだ。さあて患者の頭蓋骨にX線蛍光透視装置を当てて、弾のありかに穴を開けた。
「取り除いたのですか」
「もちろんだ。でも自然な脳腫瘍じゃなかったよ、お嬢ちゃん。小さな脳みたいで、どうやら脊髄のY型分岐につながっていた。小さな脳だ。ちょうど君の小さな
「前頭ローランド野とはなんですか」
とパットが震えながら尋ねた。
「運動神経
「残りもおしえてください」
「以上だよ、お嬢ちゃん。取り除いた。私はこの世で唯一の外科医かもな、患者を殺さずに人間の頭蓋骨から脳を取り出したんだから。幸運なことに、ニックは脳が二つあったんだ」
「ああ、神さま。でも、ニックは生きるのでしょうか」
「そう思う。君の射撃で悪魔を殺したようだ。それが腫瘍だ。皆にも腫瘍だと告げたが、確信はない。おそらくだが、たまに6本の手指や足指を持って生まれてくる者がいるように、ニックは二つの脳を持って生まれたのだろう。これは可能だ。一方は正常に人間らしく成長するが、他方はあの怪物、我々がゆうべ遭遇したものになる、知らんけど」
「私が言ったとおりです。あれは悪魔です、そしていま腫瘍について先生がおっしゃったことはそれを証明しています。あれが悪魔です、あれがすべてです、そしていつの日か、研究者が一つを切り出して、体外で成熟させて、悪魔の正体がどんなものか解明するでしょう。どうぞ、私を笑ってください」
「最初は君の考えに笑わざるを得なかったけど、あの怪物に昨夜出会ったあとなら、笑わないよ、パット。あれには悪魔的な力がある。確かに麻痺させるような魅惑だった。君も感じた。私も単なる精神喪失じゃなかったよ」
「私も感じました。あれ以前にも感じていました。怪物の前にはいつも無力でした」
「もしかして、怪物が君の脳に働きかけたのか。つまり、君に実際やらせたのは、あそこで怪物が最後に要求したことか。ちょうど私が意識を取り戻して、怒鳴る直前のことだが」
「衣装を脱いだことですか。分りません。とてもこわいです。なぜあんなに服従したのかしら。どうしてあんなに喜んだのかしら。悪魔にキスされ、激しくぶたれ、引っ掻かれ、痛かったのに。なぜですか」
「やくざの女や、ならず者の女は男らの仕打ちを楽しんでいるじゃないか。大抵の女にはちょっと
「まったくの悪魔です。あらゆる中でも究極の邪悪です」
「常軌を逸した脳だな。人間の物差しで判断できない。実際ヒトじゃないのだから。あれは思うに、君が言うように悪魔だ。そんなものは手元に置けない。だから殺してやった」
「神経
「異常だということじゃ。その意味することは、怪物そのものが本能を知っているということだ。どうやって? おそらく正常な脳は怪物の脳が分らない」
「それが神経軸索異常ですか」
「ある意味そうだ。競合する二つの脳からの信号は神経軸索の合流点で出会うに違いない。異常脳が指揮権を握れば握るほど、行程がより簡単に繰り返され、神経軸索が言わばすり切れてしまう。そういう理由で、攻撃は最後のほうが怖さを増す。慣れてくるからだ」
「ゆうべは最悪でした」
「当然だ。怪物の指示に従い、私も正常な脳を麻痺させて、怪物に体の全支配権を与えてしまった。普段は常にどっちが支配権を握って、勢力争いがある」
「それはつまり、今はニックの性格が変わったということですか」
「そう思う。少なくなっていると思うよ、控え目とか、優しさが以前に比べて……。今はもっと意欲的だと思う、だって精力が定期的な争いに費やされないから」
「かまいません。その方がいいし、とにかく大して違いはありません、私のニックである限り」
先生が優しく微笑みながら、家に帰ろうと言い、大きな手でパットの
「ニックを放っておけますか」
「あとで私が戻るよ、お嬢ちゃん。放っていい」
と言いながら、パットの手をとり、引っ張って、
「見られずに家にはいるようにしなさい、パット、そしてベッドに潜り込みなさい」
「潜り込んで、寝ます」
「その調子。ちょっと、やつれて見えるぞ、お嬢ちゃん。いま具合が悪くなったら困るし、昨夜のように突然倒れたらいやだ」
「たおれません」
「たぶんな。おそらく、疲れ果てて長椅子に倒れ込んで仮眠するだろう。うっとうしい夜だった」
完