1998年1月26日
『増殖する俳句歳時記』でまず面白いと思うのは、複数の人がかかわりながら育てる〈場〉として、この作品が提示されている点だ。しかも、かかわる人たちがこの〈場〉をどう育てていくかを、同時進行で見守ることができる。
 この歳時記には、一日に一つ、新しい句が解説付きで加えられる。ミソとなっている署名入りの解説は、主に清水さんが書いているが、お仲間の手になるものもある。
 複数の選評者が注ぐ水を受けて、日々伸びていく若木の生長過程こそが、作品になっている。

 この歳時記でもう一つ目を引かれるのは、編纂にあたっての基本方針を示したページで、それぞれの句の作者に対しての「掲載許可願いは特にいたしません」と、はっきり宣言している点だ。

 他人が生み出した作品に対してやって良いこと、いけないことについては、著作権法が定める規範がある。法律が明言していないことに関しても、ある種のマナーが育っている。
 だが、規範や礼儀の大本には、私たちが表現の世界をどんなものにしていこうとするのかという、意思があるはずだ。
 いったん決めた規範は文章として定着されるし、礼儀に対する感覚は神経細胞の配線に固定される。紙でつくった冊子が唯一の文章をおさめる器だった時代から、ネットワークされたコンピューターが本に代わる文書交換の選択肢として急浮上してくる転換期に差し掛かったとしても、書き落とされた文章や凝り固まった頭はすぐには変わらない。新しく見えてきた可能性に、これまでの秩序意識はしばしばブレーキをかけようとする。
 その時、私たち一人一人は、新しい可能性を見極めた上で、どんな表現の世界を作りたいのかを、自分自身に問いかけるべきだと思う。そして、よくよく考えた上で心が決まったら、自分は何を選ぶのか、山に上って高く告げるべきだろう。
 出版産業にかかわる人が、儲けようとする意思。紙の上での出版を成り立たせようとする志。表現する者が、成果物で生活を支える権利。そして、一つの表現が次の表現の誕生を盛んに促すような、新しい〈場〉を求める願い。人にとって普遍性の高い大切なものこそ、無料で提供されるべきだとする価値観−。
 それら、それぞれに切実なものの中から、何を優先するかを決め、さまざまな要素との折り合いを付けて、どう表現の世界を再構成していくのか、実践的に態度を示すべきなのだ。
 あれも大切、これも大切と指摘して、誰かが枠組みを決めてくれるのを待つ人ばかりでは、本の未来の扉は開かない。

 現行の著作権法に対しては、「批評のための引用」という構えを示した上で、清水さんは〈原作者には掲載許可を求めない〉と告げる。その言葉を私は、「囲い込みにではなく、より広い公開の側に、ネットワーク上の表現を律するマナーを向けよう」とする宣言として読む。

 清水哲男さんの『スピーチ・バルーン』という詩集を、鈴木志郎康さんはHTML化して、ご自身のウェッブページに載せている。「スピーチ・バルーン」はマンガの吹き出しの意味で、思潮社から刊行されたもとの本には、それぞれの詩に出てくるキャラクターが載っている。HTML版の『スピーチ・バルーン』にも、引用という解釈で、イラストが使われている。

 この点に関して、『本とコンピュータ』創刊号の座談会(「詩人がインターネットにハマるとき」)で、鈴木さんはこんなふうに言っている。
「鈴木 著作権の問題は大きいね。ぼくのホームページには、清水さんの『スピーチ・バルーン』という詩集を一冊まるごと入れているんだけど、そこにマンガの絵がでてくるんですよ。これを入れるか入れないかで問題になった。
 最初はマンガを入れて公開して、装丁の和田誠さんに許可を求めたら、「ぼくはいいけれど、原作のマンガ家たちはダメなんじゃないの」といわれて、一度、マンガを外したんです。
 そのとき弁護士に相談したら、インターネットの著作権は非常に複雑だといわれた。でも結局、いまはマンガも全部入れているんです。警告がきたら、喧嘩しないですぐにやめようと。(笑)」
「一旦緩急あればすぐに引く」ということでフットワークは軽そうだが、鈴木さんは明らかに山に上って告げている。
 インターネット上の表現のマナーを、より柔軟な方向に導こうと旗を揚げている。

 著作権切れの作品に関しては、書き手本人が電子化していることはあり得ない。誰かがテキストに起こしたものを、青空文庫では使わせてもらっている。呼び掛け人自身が、電子翻刻にあたることもある。
 入力の作業には、まとまった時間がかかる。ボランティアとして行うには、かなりの大仕事だ。その役割を誰が担当してくれたのか、私たちは覚えていたいと思う。できることなら、私たちの名前も忘れないでいて欲しい。底本や校訂の流れを示すという意味からも、テキストの履歴を明記しておくことは大切だと考える。
 ただし同時に、電子翻刻者に与えられるべきものは、自らの心の充足と、利用する人の感謝以上のものであってはならないとも思う。
 誰かがテキスト化してくれた作品に対して、どのようなマナーで接するべきか、私たちはこれから常識を育んで行かなければいけない。今のところは、入力者の努力を尊重しようとする気持ちが、転載や再利用の腰を引かせる場合がある。翻刻にあたった側が、複数の本を参照して異同を確かめたり、作業にあたって若干の表記の修正を行ったりしたことを指して、「その部分に関しては我々に著作権がある。だから勝手に使ってもらっては困る」などと主張している例もある。
 だが「電子翻刻者は、自負と感謝以外、なにものも求めてはならない」と、私自身は考える。



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