1998年3月7日

富田倫生の問い

もし聞かせていただけるものなら、どう心が動いて「公開」と決められたのかうかがいたいです。
とても難しい記述になると思うけれど、お聞かせ願えませんか?

長谷川集平の答え

難しいけど複雑ではありません。

第一に、とにかく読んでほしいという理由です。品切れになって十年以上経ちますが、読みたいという人に手持ちの本を分けて手元に一冊しか残らなくなり、最後は編集者の持っていたものまで提供してもらいました(編集者も編集者だ)。それが五年ぐらい前です。理論社は灰谷健次郎や倉本聡の本は、体裁を変えながら増刷し続けますが、看板以外はわりあい見切りが早いです。
児童書出版の世界では他社(他編集者)の仕事を拾う、品切れ絶版本をすぐに別口から出すのはタブーみたいになっていて、よほど金になりそうなもの以外は見切られたところで終わってしまいます。
編集者がやめたあと、その編集者のやった本が品切れになることも多いのです。偕成社の赤羽末吉さんの絵本がそうだ、と聞きました。編集者が亡くなったのです。

『はせがわくんきらいや』は、今回を入れて三回絶版の憂き目に合いましたが、そのたびに、ぼくがかけずり廻っても、なかなか受け皿になってくれるところはなかった。一回目の時は、結局前と同じ「すばる書房」と名乗るイカサマ出版社から出さざるを得ませんでした。ここがつぶれることは、だいたいわかっていました。二回目、いっそ自分らで出版しようということで作ったのがつぶれた温羅書房だったのです。

第二にフリーウェアにすることについて、これが一番悩んだのですが、この本では(いや、ほとんどの本では)数十万円しかもらっていません。実のところ、児童書の増刷が極端に減り、去年などはぼくは著作による収入は過去最低でした。
ですから「出版社以外お金をくれる人がいません」とは、ちょっと言えなくなってきてます。
ライブ、講演会、HPでの通信販売(!)そんなことで食ってます。音楽が「仕事」になるなんて、思ってもみませんでした。しんどいですが、経済的には悲観的ではありません。ぼくは表現ができればいいのです。表現の道が閉ざされるのが、きつい。 『夜の三角形』は、出版社には数十万円に見積もられたわけですが、ぼくにとっては何百万円、何千万円の価値があります。ちょっと高慢な言い方になりますが、ぼくはいつも出版社にプレゼントしているつもりなのです。その意味では、数十万円も無料も大差ありません。この作品でわずかな収入を得るわずかな可能性にしがみついて、結局読みたい人に届かず、金にもならないまま時が過ぎていくより、公開した方がいいと思いました。

第三に、青空文庫に関わってからの、ぼく自身の感想なのですが、電子本で持っている本でも「紙の本」も買ったり、欲しくなったりするのです。案外早い段階で、ユーザー側が両者の使い分けをし出すんじゃないでしょうか。電子本で公開したから本が売れなくなる、という恐れは次第になくなりました。今回のは挿絵が入っていない、テキストだけです。これも「紙の本」との差になるでしょう。
それに、自分の本がエキスパンドブックになった姿に、なんだか惚れ惚れするのです。このソフトを作った素敵な人たちと、ぼくの合作だからなんでしょう。

第四に、うちの掲示板へのアクセスが三ヶ月でもう一万を超えている、これは子どもの本の発行部数の、すでに倍です。『夜の三角形』が、ぼくの他の作品への呼び水になってくれないか、という考えもあります。とにかく書店にぼくの本はないし、図書館のはボロになってきてますから、ぼくの作品の露出度が極端に低い。少し前の子どもの本の講演会で『はせがわくん…』を読んだ後、話しかけてきた人に「あの絵本、感動しました。ところで、絵はだれが描いたんですか?」と聞かれた時には、マジに何とかしなきゃと思ったもんです。

オマケですが、なんかね、男気を見せたいというのもあるんですよ。著作権だのなんとか権だので、自分の作品にもったいをつける書き手たち。それが正当な権利の主張なら大事にしなけりゃいけませんし、闘いに加わりたいこともあるし、闘いを助けてほしいこともありますが、ケチな土地持ちか不動産屋みたいな印象を受けることが多い。作品は、自分だけのためじゃなくて人のために書いているので、オレはこういうこともできるぜ、というのをやっておきたかった。

読んでくださるとわかってもらえるでしょうが、この二十代に書いた未熟な作品の中で、すでにぼくは青空文庫に関わる理由をも用意しているみたいなんです。著作権についても考え始めていたようです。子どもたちに、お金よりも大事なものがあるんじゃないか、と問いかけています。こういう形で読んでもらうのを、作品が望んでいたのかもしれません。きょうHPにアップします。

LUNA CATからのメッセージ

集平さん、「勇気ある決断」ありがとうございます。公開に踏み切られた理由を読んで、ずっと「そうだよね」とうなずき通しでした。

青空文庫で出会うまで、私にとって「長谷川集平」という名前は、単にひとりの絵本作家の名前にすぎませんでした。子どもにも子どもの本にもあまり縁のない生活を送っている身としては、ここで出会うことがなければ、そのまま一生、単なる名前で終わってしまったでしょう。
ここでの出会いが、その名前を、私にとって大切なものに変えてくれました。富田さんとの出会いは紙の本だったけれど、集平さんとの出会いはネットを通じたものだったのです。
ネットでの出会いの大きな意味を、改めて感じます。作家と読者が、ネットを通じて出会う時代が、もうそこまで来ている、と思います。

「第三の理由」で書いておられる通り、紙の本との棲み分けも、あまり悲観的にならなくていいんじゃないかな、と、私も思います。特に絵本などは、紙の本の判型や手触りも、大きな要素だと思いますから。広島でも、書店で児童書はあまり優遇されていません。専門店でない限り、どの書店でも、似たような品揃えです。作家と読者との出会いの場は、極端に狭い。子どもに本を買い与える大人たちは、いったいどうやって本を探しているのだろうと不思議に思えるほどです。
そんな中で、ネットで読める、というのは、書店の代わりにネットで立ち読みできる、ということでもあります。ネットで読んで、欲しくなったら紙の本を買う、という行動も充分考えられます。紙の本を買うのも、ネットでもできますし。通常、ネット書店では買う前に立ち読みできないのが不便、といわれていますが、この場合は立場が逆転しますね。電子本活用法のひとつとして、それもまた面白いな、と思います。

私は、「子どもの本」については、まるっきりの部外者です。でも、本を愛する者として、今の子どもの本の現状は悲しい。集平さんの勇気が、その現状に風穴をあけるきっかけとなればいいなと思っています。

私には権力も資本力もありませんから、出版界の現状に対して、できることはほとんどありません。でも、本を愛する心だけは、人並み以上に持っているつもりです。集平さんの闘いは、決して孤独な闘いじゃないですよ。数は少ないかも知れないけれど、本を愛する人たちが応援していますから。私も、応援し続けます。

富田倫生の読後感

集平さん

『夜の三角形』を読みました。

みずたまりからブックのダウンロードをはじめ、確認したいことがあって背中側の参考図書を開きました。
数分して振り返ると、あの本が薄明の夜空に浮かび上がっていました。
美しい本です。
この表紙に出合えば、誰もが作品の世界に引きずり込まれてしまうでしょう。

ある意味で、児童文学的におさまりのいいブロックを、1と14、15が挟んでいる。この構成が、きわめて不思議な感覚と、幻想の世界にまで上り詰めざるを得ない、問いの深さを際だたせているように思いました。

自分の肉から素直に発する、確かで、正直で、そして排他的な愛。そうした隠れ、閉じこもる感覚と、開く事への願い。
私は集平さんが入信される経緯を詳しく知りませんが、神の愛に向き合う前段において、作者はこの物語りを書かざるを得なかったような気がします。

上野瞭さんは、希望を語るために児童文学を必要とした。けれど、現代には希望の置き場所を見出せなくて、仮想的な〈江戸〉を借りた。絶望を語りつくしたあと、ここではないどこかに向かえば、そこに希望を置きうるかも知れない、そんな場所を、上野さんは求めた。

一方『夜の三角形』の作者にとって、少年期少女期とは、初めて物事が問われる場であるのでしょう。
そこで彼らが突き当たるものは、高みにいたって神に直接訊ねるまで、おそらくは神に訊ねてもなお、解きようのない問いであるように思いました。
あらためてはじまりのその時に立ち返り、そこから問いをつくすための児童文学とでもいうのでしょうか。


『夜の三角形』の公開は、現世に生きて物も食べながら作品を生み出している人の暮らしに、読み手がどう向き合うかという問題を、もう一度私に突きつけます。作品から何かを受け取った人は、「長谷川集平を生かしておくこと」に思いを及ぼして欲しい。
そしてその思いが読み手のうちから発するなら、それを書き手にストレートに届ける道を付けて行くべきだろう。

例えば小口決済の仕組みを調べ、新しい提案にも目を配っておいて、「読んで良かったと思ったら、500円」をネットから送金するといった受け皿を、シューへー・ガレージに設けられないか?

青空文庫が〈集金〉に関与することの可能性を昨日からずっと考えていましたが、文庫自体は手を出さずにおくほうが賢明であるような気がしてなりません。
けれど、集平さんの根城に、「彼の暮らしを支えよう」という意思の受け皿を用意することは、なんら問題ないような気がするのです。

私が出しゃばるような事ではないかも知れないけれど、『夜の三角形』を読みながら、そんな気持ちがわいてくるのを抑え切れませんでした。

LUNA CATの読後感

集平さま

富田さんが気合いの入った感想を述べておられたので、この上私が付け加えることも何もないのですが、でも一言。(私の一言は、長文になるので、ごめんなさい)
子供時代の私は、現実に目を向けるのが嫌いな子供でした。本の中でまで日本の現実の生活に向き合うのは嫌だった。今でも、多少その頃の名残があって、読んでいる本は、フィクションなら翻訳物が中心です。もちろん今では、昔に比べると選択の幅はずいぶん拡がりましたから、日本の作家も結構読みますけど。そんなわけで、『夜の三角形』を、子供の頃の私が読んだら、おそらく拒絶反応を示していたでしょう。でも、あとから付け加えられたという1、14、15の切なさは、きっといつまでも心に残っただろうと思います。そして、今の私の年齢くらいになって、時々ふと思い出すのではないか、と思うのです。そして、また読み返したくなるのではないか、と。
いつまでも心の奥のどこかで生き続けて、大人になって読み返したとき、改めて心の奥に入り込んでくる。
この本は、そういう本だと、私は思います。子供の頃に一度読んで、それで終わり、というのではなく。だから、この本を読んだ子供たちが大人になって、読み返す日まで、ちゃんと手の届くところにあり続けて欲しい。
その意味でも、エキスパンドブックとしてよみがえったことには、大きな意義があると思います。これからも、この本が生き続けていくために。

富田さんが言っておられた「集金」の件を、私もふと思ってみたことはありました。ソフトにシェアウェアがあるんだから、電子本にもあってもいいんじゃないかと。そのソフトを使う人たちが、制作者に感謝を込めて「使用料」を支払うのなら、本を読んだ人たちが、作者に「購読料」を支払ってもおかしくないですよね。「シェア」という感覚は、ネット時代にふさわしいと思います。それがソフトであれ、本であれ、良いものを分かちあって、作者には正当な報酬を支払う、というのはほんとに自然な行動ですから。
ただ、私は、現実の出版界に対するプロテストとして電子本を出しておられる集平さんに対して、シェアウェアにしてみてはどうですか、とは言えなかった。私、まだまだ甘いんでしょうね。いまだに現実に向き合っていないのかもしれない。

……ほんとに長くなっちゃいました。すみません。私は、選りすぐった短い言葉で全てを語る絵本作家にはなれそうにないですね。

長谷川集平の受けとめ

富田倫生さま

ありがとうございました。
女房以外の人から、この作品についてのこんなに真摯な読みと感想を聞いたのは初めてのことです。これだけでも公開してよかったと思いました。

この作品を書いたころのぼくは、精神的にバランスを崩しかけていました。
書いた後にバランスが崩れました。そこからの立ち直りの中で、絶対的な存在に出会わざるを得なかった、ということだったように思います。

>自分の肉から素直に発する、確かで、正直で、そして排他的な愛。そうした隠
>れ、閉じこもる感覚と、開く事への願い。
>私は集平さんが入信される経緯を詳しく知りませんが、神の愛に向き合う前段
>において、作者はこの物語りを書かざるを得なかったような気がします。

>一方『夜の三角形』の作者にとって、少年期少女期とは、初めて物事が問われ
>る場であるのでしょう。
>そこで彼らが突き当たるものは、高みにいたって神に直接訊ねるまで、おそら
>くは神に訊ねてもなお、解きようのない問いであるように思いました。
>あらためてはじまりのその時に立ち返り、そこから問いをつくすための児童文
>学とでもいうのでしょうか。

まったく、その通りだと思います。
この後の、思考と感覚の変化もありますが、ここが出発点だったと言えます。

提案してくださった金銭的なことは、考えてみます。



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