1997年12月30日
 横光利一は、50年前の今日、他界している。
 つまり、本日をもって、彼の作品は著作権が切れる。

 どんなものがあるのか、確認しておこうと、新潮文庫の『機械・春は馬車に乗って 』を買ってきた。
 書店の棚から抜き取ってすぐに、「昔、持っていた」と気づいた。
 帰ってきて本棚を探すと、確かに同じものがある。
 文庫の初版は1969年8月20日で、棚で眠っていたものは、1971年11月30日付けの五 刷りだった。私が、東京の私立大学に入って、上京してきた年だ。
 その時140円だったものが、二十五年余を経た三十五刷りでは、438円になっている 。
 長く読み継がれてきたんだなと、あらためて実感させられた。

 表題作の「機械」と「春は馬車に乗って」は、今回も、はじめての作品のように読 んでしまった。だが「ナポレオンと田虫」は、はっきり記憶に残っていた。

 文庫の解説で、篠田一士は次のように書いている。
「横光利一の文学的出発点には、志賀直哉の文学があった。これをいい直せば、一切 の観念をふりはらって、対象をズバリそのままえがくという写生文の文体と、それと ほとんど表裏一体をなすかと思われるほど、きわめてフィジカルな倫理的潔癖感の文 学が横光文学の醗酵素になったということである。だがもちろん横光は志賀の衣鉢を つぐことを潔しとしない偉大な反逆者であった。
 現に『ナポレオンと田虫』や『春は馬車に乗って』の二作を読めば、ここには横光 の文壇進出をかざった、いわゆる「新感覚派」運動のめざましい成果を知ることがで きるが、それは、ほかならぬ、志賀文学を中核とする大正文学の支配勢力に対する懸 命の反抗だったのである。絢爛たる修辞にみちあふれた文章、フィクシャストという にはあまりにも奇想に富んだ筋立て、あるいは観念のモザイクに隈どられた小説構成 −−そういったものだけで、すでに志賀風の小説手法とは正反対のものを読者は認め ることができるが、さらに『機械』の複合した心理世界にいたると、もはや、「私小 説」的な、単彩の、直線的な描写の世界とはひどくかけ離れた文体構成が確乎たる足 どりで行われている。」

「ナポレオンと田虫」に関しては、篠田の言う「奇想」という指摘が当たっているよ うに思う。そこを新鮮に感じて、私も覚えていたのだろう。
 だが「春は馬車に乗って」には、修辞の切れのようなものは感じても、「奇想」や 「観念のモザイクに隈どられた小説構成」といったものは、まったく感じなかった。
 この作品を読み返してあらためて意識したのは、結核という都市の病が、近代を形 成していく時期の日本でいかに重くて暗い、頭上の蓋のような位置を占めていたかと いう点である。
 正岡子規の『病牀六尺』から続けて読んだせいで、なおさらそこを強く感じたのか も知れない。

 今回著作権切れを迎えた横光利一はもちろん、正岡子規の作品もまだ、テキスト化 できていない。
 工作員としての時間を作れそうになったときには、皆さん、よろしくご検討のほど お願いいたします。

 私自身は年明けから、ぼちぼちと織田作之助の短編を入力していこうと思っていま す。
 野口さんから、「『夫婦善哉』を入力している」と聞かされていたのをころっと忘 れ、「現在テキスト入力中の作品」に登録してもらおうと思った段階で、「私が進め ています」とはねつけられてしまった。織田作のこの作品をやっておけば、末永く入 力者として名前が残るだろうと、もくろんでいたものだから、「譲ってくれない?」 と交渉したが、「そんなことを考えているんですか」と呆れられた上に断られた。
 そこで「競馬」あたりから入れていこうと考えています。(倫)

1997年12月19日
 古典的な作品のほとんどは、校訂(古書などの本文を、いろいろな伝本や資料などと比べ合わせ、手を入れて正すこと)の作業を経て、出版されている。
 古い時代のものだから、著者の著作権を考慮する必要はない。
 だが、校訂者の権利は、どう扱うべきだろう?

 世阿弥の『風姿花伝』を入力したいという提案があり、私たちは校訂者の権利に関して判断を迫られた。
 著作権法を吟味し、関係者への問い合わせを行った上で、今回、底本としようとしたものに関しては、「校訂者に著作権と同等の権利があるだろう」と結論付け、テキスト化と収録を控えることにした。

 この経験を広く分かち合うために、報告の文書をまとめた。
 関心を持たれる方には、一読をお願いしたい。
 我々の判断に対して、コメント、批判を加えていただければ、今回の経験をより前向きのものとして生かせるのではないかと考える。

 検討の過程で、メーリングリスト〈netpub〉の皆さんから、ご意見と情報を賜った。法政大学能楽研究所、西野春雄先生と岩波書店編集総務部には、質問に詳しくお答えいただいた。
 ご協力を、感謝いたします。(倫)

1997年12月16日
 「青空文庫工作員マニュアル」完成に伴い、「図書カード」のデザインを一新する。また、その「青空文庫工作員マニュアル」に合わせて入力した夏目漱石の『夢十夜』を登録する。(AG)

1997年12月15日
 TBSブリタニカと交わしていた『パソコン創世記』に関する出版契約が、昨日をもって切れた。
 書面を取り交わしたのは、3年前の今日だ。
 期間満了の3か月前までに文書で通告すれば、契約を終了できるという条項を利用して、今年の夏に私の方から打ち切りを申し入れておいた。

 この契約に関しては、本が出る前の段階ですでに、「できるだけ早く解除しよう」と腹を固めていた。
 見捨てていたのは、出版者側も同じだったろう。
 ともかく市場に出して、かけたコストのなにがしかでも回収する以上の気持ちは、彼らにはなかった思う。
 そんな不幸な本の話は、青空文庫には直接関係ない。
 だが私自身が、こうした試みに傾いていく要因の一つには、間違いなくなっている。
 小さな荷物だが、3年間黙ったまま背負ってきて、少しは肩も凝った。
 ここで放さなければ、きっとこのまま抱え込んだまま終わることになる。
 皆さんの目に触れるところにさらすわがままを、どうぞ許していただきたいと思う。

 いろいろなところで繰り返し書いてきたとおり、同書に盛った内容は、ボイジャーから出すエキスパンドブック版のために書いた。
 かつて同じタイトルの小さな文庫本を出したとき、励ましを与えて下さった魚岸勝治さん(現・PC WAVE 編集人兼発行人)には、書き起こしたものを初稿段階で読んでいただいた。魚岸さんは、「PC WAVE」誌への掲載を申し出るとともに、「紙の本も出すべきだ」と勧めて下さった。かつて籍を置いていたTBSブリタニカに話を持ち込み、話をまとめて下さったのは魚岸さんだった。

 口幅ったい言い方になるが、魚岸さんの力添えは、内容に対する多少なりともの評価によって頂戴できたのだと思う。コンピュータ業界で、「これは」と思わせる雑誌を作り続けてきた魚岸さんの強い勧めがあって、TBSブリタニカも出版を受け入れてくれた。だが後から振り返ってみれば、商品としての可能性は多少認めてはくれても、内容に対する関心や共感は、彼らにはほとんどなかったのだろう。
 原稿用紙に換算すれば、1200枚程度ある原稿を半分くらいまで減らすようにという申し入れを、編集部からは繰り返し受けた。書き終えた段階では、1600枚あったものを、自分で削りに削って渡した原稿だ。首を縦に振らないでいると、編集を担当してくれたプロダクションの社長からは、ほとんど恫喝に近い罵声も浴びせられた。索引作りのために、あらかじめ繰り返し相談し、お願いしていたことも、直前で「無理」と言い渡され、まったく時間のなくなったところで、自力で作業するか否かの決断を迫られた。
 ただし、その程度のことは、売れない書き手にとって特別なことではないだろう。
 こっちも先方の要求を入れず、我を貫き通しているのだから、文句を言えた義理ではない。
 だが、書名に関する一件に際しては、突き上げてくる憤怒を抑えることができなかった。

 新たに書き足した1200枚は、当初文庫版『パソコン創世記』の後書きとして準備したものだった。結果的には、後書きとはとても呼べそうもない分量になったが、位置づけは変わらない。ボイジャーのエキスパンドブック版も、雑誌掲載分も、『パソコン創世記』で通した。そこでこの間の経緯を説明し、書籍版でもこのタイトルを認めて下さるようお願いした。
 担当者、担当部門の責任者からは、それで異論が出なかった。
 途中何度か目にした書類でも、(仮題)の二文字はついていたものの、『パソコン創世記』で通っていた。

 デザイナーへの挨拶をさりげなく拒まれた時点で、今から振り返ってみると話は始まっていたのかも知れない。
 表紙をデザインしてくれる方には、ぜひゲラを持って挨拶に上がりたかった。こんな長いものを、「読んで下さい」とは言えないが、読める形は整えた上で、どんな気持ちでどんなことを書いたのかは、伝えておきたかった。
 だが、繰り返し申し入れたにもかかわらず、「デザイナーとの交渉は、編集部で行いますから」と、私がしゃしゃり出ることは拒まれた。
 表紙ができたら、台紙のコピーをファックスして欲しいというお願いも、繰り返し担当編集者に差し上げていた。
 だが、いつまでたっても送ってはもらえない。
「なぜだか表紙を見せてくれないんだよな」と友人の小説家にこぼすと、「知らない内に『マルチメディアとインターネット』なんていう流行りものを繋ぎ合わせたようなタイトルに変えられてるんじゃないの」と軽口を叩かれ、笑い合った。
 配本予定日は、12月15日。そんな冗談を交わした日は11月も29日になっていて、もうカバーを入稿していないわけはない。「是非とも見せて欲しい」というメッセージを残しておくと、ようやく夜になってファックスが届いた。
「カバーは先週入稿済み。きれいにできると思う。スケジュールが厳しいので、明日色校正が出て即日戻す」とカバーシートにあり、続いて台紙のコピーが送られてきた。
『パソコン30年戦争』という見たこともないタイトルが、目に飛び込んできた。
 1994年12月に出す本だ。ここから30年引くと、1964年。そこに、「パソコン戦争」の始まりとなるような、どんな事件があったろう?

 その場で担当者に電話を入れた。「書名の決定に関しては、著者に同意を求めたり連絡したりする必要はないと思う」との返答。だが、心底そう信じ切っている口調ではないように思った。そう言わざるを得ないのではないか。ただ、担当者に同情して矛をおさめられるほど、私の側の怒りも生やさしくはなかった。「タイトルを変更しない限り、絶対に出版には同意しない」と告げた。「奥付に書名を入れて、すでに印刷にかかっている。カバーも今から直したのでは、間に合わない」と泣きつかれたが、このまま出すくらいなら、出版自体を取りやめた方がよほどましと、『30年戦争』というタイトルを見た途端、腹はすでに固まっていた。

 彼らは意図的に、私をだましていたのだ。

 翌日、組み合ったまま水中に深く沈み込んでいくようなやり取りが続いた。
『パソコン30年戦争』いうタイトルは出版局長から言い渡されたもので、担当者、担当部門の責任者とも、私に言い出せないままに時間が過ぎ、最後は事後承諾で行こうと腹をくくったらしい。
 彼らにしてみれば、異様な熱意、暑苦しいほどの思い入れを持って本作りに当たろうとする私への対応に、すでに辟易していたというのが実態に近いのだろう。

 交渉の結果は、あらかじめ決まっていたように思う。
 こちらが失うものは、印税分の金銭だけだ。
 一方彼らは、組版や印刷、デザインにすでにかなりの額をかけている。資金計画にも、この本の売上げは入っていただろう。
 かくして沈み行く船に体をくくりつけたような著者を前にしてなす術なく、ついに彼らは書名の変更を受け入れた。
 だが、この間のやり取りで、私ももちろん、失うべきものはしっかり失った。

 TBSブリタニカ版『パソコン創世記』は、いろいろと可哀想な本になった。

 青空文庫の活動を続けていけば、いずれ出版社と軋轢が生じることもあるのではないかと考えている。
 内輪の相談を行う際、私と長谷川集平さんは、たいてい出版社に対して懐疑的、敵対的で警戒心過剰な意見を述べる。
 一方、野口英司さんは一貫して善意が通じることを信じて疑わない。
 野口さんに強く反論されると、まずその意見の発するところの清らかさにたじろいでしまうことがある。
 だが野口さんにも、私がこんな嫌な野郎になるには、それ相応の理由と経緯とがあったのだということは分かっていて欲しい。(倫)

1997年12月7日
 新聞や雑誌に何度も取り上げてもらうような事態は、青空文庫をはじめる時点では心に浮かびませんでした。
 今日、12月7日付けの日本経済新聞でも、読書欄にある「ブックマーク」のコーナーで青空文庫を紹介してもらっています。

「理想の電子図書館」と題した記事は、要点を押さえてうまくまとめていただていると感じました。ただ電子化の提案を寄せて下さる方の中には「著作権の意味も知らない」人もいると書かれている点は、私自身の(そしておそらくは、すべての呼びかけ人に共通するだろう)心情とは、遠い表現だなと思います。

「私も電子化に取り組みたい」と言って下さった方の中からは、確かに、「存命の作家のものを青空文庫に収録したい」という提案が寄せられました。そのことを私が記者の方にお話ししたのも事実です。

 ただそれを、我々がどう受けとめたかと言えば、「著作権の概念や現行法の規定から縁遠い大半の人(ここにはもちろん、ほんの少し前の我々も入っています)が、そうしたアイディアを抱くことは当然だろうな」と感じたのです。

「青空文庫工作員マニュアル」の0.9版をようやく公開できた後、野口さんと電話で話す機会がありました。
「本当ならこのマニュアルは、スタートの時点で用意しておくべきでしたね」という野口さんの指摘に対して、私は「すぐに協力を申し出てくれる人が出てくるなんて、想像できなかった。その時点で気づいたことを一歩一歩やっていこう」と答えました。
その気持ちに嘘はないけれど、今日の記事を読んであらためて、「事前に用意できていればな」と私も悔やみました。

 マニュアル作りは、結構大変な作業です。現状のものはほんのたたき台で、これから前進させていかなければなりません。けれど、実感としては、ここまでくるのにもずいぶん苦労しました。
 この書き込みで皆さんに是非伝えたかったのは、このマニュアル整備のために必要なエネルギーを、私たちがどこから得たかという点です。

 声をかけてくれる人の「無知」への苛立ちから、誰が前向きのエネルギーを得られるでしょう。
 私たちに力を与えてくれているのは、「著作権のことはよくわからない」、「実際に何をしたらいいかは分からないが、ともかく手伝いたい」と言われる方も含めて、協力を申し出てくれた皆さん全員の共感の波動です。

 掲示板の「みずたまり」に米田利己さんから新しい提案をいただきました。(「野口さん、ご苦労様でした!」12月7日付)
 米田さんの胸にある思いと共通する心情を糧としながら、私たちはこれからも一歩一歩前進していきます。
 いや、私たちとして前進していきましょう。(倫)

1997年12月6日
「短く語る『本の未来』」を登録する。
 讀賣新聞大阪本社文化部の井上英司さんに機会を与えてもらい、同社版夕刊の「潮音風声」欄に連載したコラムをまとめた。

 晴れた冬の日は、仕事場の窓から富士山がくっきり見える。
 痛いほど晴れた空の向こうを望む日々が続いている。(倫)

1997年12月4日  テキスト入力を手伝っていただける方へ向けて、『青空文庫工作員マニュアル バージョン0.9』を完成。作ろうと決めてから、本当に長い年月(年月とはちょっといいすぎですね)がたってしまいました。その間、メールで協力を申し出ていただいた方々、本当に申し訳ございませんでした。(AG)

1997年12月2日  いろいろな法律をホームページに公開している田川諭さんのご協力により、「著作権法」を図書カードに登録させていただく。いずれエキスパンドブック化いたします。(AG)

1997年11月25日
 藤井貞和『日本の詩はどこにあるか・続』を登録。藤井さんと書肆山田の理解を得 て、このブックを公開できることを、とてもうれしく思います。

 藤井さんは青空文庫のことをお話ししたそのときから、協力を約束してくれました 。このブックは『ピューリファイ、ピューリファイ!』(書肆山田発行、1990)から の抜粋ではありますが、もともと連作としてつくられたものですし、青空文庫の一冊 として独立させるにあたって、手入れもなされています。ちがった読みかたができる でしょう。

 藤井さんは12月20、21日に「世田谷美術館コンサート」に登場します。両日とも午 後3時開演。「『うた』の現在はどこにあるのか――世界を前にして、「うた」はど うして、声をとりもどせるのか。作曲家・高橋悠治と、詩人・藤井貞和のコラボレー ションと対話。」という内容です。藤井さんの詩の朗読が聞けます。問い合わせは、 世田谷美術館コンサート係 TEL 03-3415-6011。(八巻)

1997年11月17日
 掲示板「みずたまり」公開。

 集平のご近所、長崎のプロバイダー「EDO長崎」(江戸の敵を長崎で、ですね。通称エドナガ)では、最近掲示板ラッシュである。スタッフののりーさんが、使いやすく美しいフォーマットを作った。たぶんシステム管理をしている米田さんのインターネットに対する考え方が、こうして着実に具体化されていくのだろう。
 実際始めてみると、これまで、ちょっとスタティックに見えていたHPが、いきな りダイナミックなやりとりの場になる。シューヘー・ガレージHPの掲示板は、当初心配していた内輪のこそこ そ話ではなく、これまで沈黙していた人たちの実に陽気な交流の場になった。書き込 みのペースがものすごく、ちょっと見てないと話題が先の方に行ってしまっている。 なかば掲示板ジャンキーと化した集平は、「これはいい。青空文庫でもできないかな 」と考えた。
 14日に青空文庫とEDO長崎に相談を持ちかけ、今掲示板を見返したら15日には 出来上がっている。EDO長崎の対応が早い。彼らの積極的なボランティア精神には圧 倒される。そして、これもスタッフ専用の掲示板で矢継ぎ早のやりとりができたから だ。掲示板は、なるほど実戦的でもある。長崎に置いといて、青空文庫からリンクし てもらって結構、その方がメインテナンスもしやすい、というエドナガのボス山本さ ん。お言葉に甘えさせてもらうことにする。感謝、感謝。いくつか修整をし、3日後 に公開の運びとなった。
 さて、「みずたまり」が、青空文庫にどんなアクセントをつけ加えるか。すくなくとも、他のメンバーとの距離感(空間的にも心理的にも)を感じていたぼくにとっては、とても気楽な窓口ができた感じがして、うれしい。……でも水曜日からドサ廻りなので、しばらく覗けないなあ。帰崎してまたモニターの前に座るのを励みにして、長い旅に出よう。(集平)

1997年11月17日
 新たに自分で入力した芥川龍之介の『或日の大石蔵内助』中島敦の『文字禍』を登録する。『文字禍』は文字の精霊のはなしです。このサイバースペースにもいるんだろうか。いつかはそれに押しつぶされてしまうんだろうか。(AG)

1997年11月10日

 病んで失うものはなんだろう。

 美しいもの、好ましいものをふっと追いかける、心の揺らぎ、
 アナモルフォーズの鏡筒となり、混沌の中心に立って〈意味〉を生じさせようとする気力、
 夜が明ければまた昇る陽のように、繰り返し日一日分よみがえってくれる体力か。

 それらがともに損なわれることを、疑いはしない。
 だが、失ってみてもっとも痛切に惜しまれるのは、人がやがて死ぬものだと意識しない一瞬、
 そう、実にとりとめもない、ごくごく普通の〈時〉だ。

 長谷川集平さんの新しい絵本、『あしたは月よう日』を読んだ。
 淡路、神戸を大きな地震が襲う前々日、神戸に住むある一家が過ごした、宝物のような一日が描かれている。
 揺れも、倒壊も、火も、悲鳴も、この本にはない。
 聞こえてくるのは、透き通った、知らない国の天使の歌だ。
 だが、美しい調べはやがて水晶の剣となって、深く深く胸に突き刺さる。

 合掌。(倫)

1997年11月10日
 X68000のディスクマガジン『電脳倶楽部』(満開製作所発行)のPDD(パブリック・ドキュメント・データ)より、芥川龍之介『蜘蛛の糸』芥川龍之介『黄梁夢』芥川龍之介『藪の中』を登録する。(AG)

1997年11月4日
 X68000のディスクマガジン『電脳倶楽部』(満開製作所発行)のPDD(パブリック・ドキュメント・データ)より、芥川龍之介『鼻』を登録する。(AG)

1997年10月29日
 X68000のディスクマガジン『電脳倶楽部』(満開製作所発行)のPDD(パブリック・ドキュメント・データ)より、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』芥川龍之介『羅生門』を、そして新たに自分で入力した宮沢賢治の『双子の星』を登録する。
 しかし今回はずいぶん悩んだことがある。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のことだ。『銀河鉄道の夜』には異稿(ちくま文庫「宮沢賢治全集7巻」にくわしい記述がある)がいくつかあり、それをどう編集するかでその作品の形が変わってしまう。『電脳倶楽部』に投稿した中村隆生さんのテキスト(講談社文庫をベースにしている)と新潮文庫をくらべると部分的に違う所が多数出てくる。それはその編集方法が微妙に違っていたからではないか。
 そこで悩んだのは編集という行為に法律的な権利はないのだろうかということ。編集という行為も著作行為になるのではないだろうかということ。でも法律にはその辺のことは明記されていない。
 今回、悩んだ末に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をアップしました。法律的には問題がないと判断したことと、このようなテキストがいろいろな人々の役に立っている、ということが主な判断理由。「みんなの幸のためなら、自分の体が百ぺん灼かれてもかまわない」と宮沢賢治が書いているように、多くの人の幸を考えて『銀河鉄道の夜』をアップしました。(AG)

1997年10月28日
 久森謙二さんの俳句集『山上冬芽』を青空文庫に登録させていただく。
 先日、ボイジャーの社長である萩野さん(私の上司なのだが)が、ネットに美しいエキスパンドブックがあると私に言って来た。実際に見てみると、確かに美しい。「冬」のブックは、バックグラウンドにうっすらと冬景色の写真がひかれてあり、その上に俳句が並んでいる。まるで雪の上に文字が書かれてあるようだ。私は俳句に詳しいわけではないので、そこに書かれてある情感というものをはっきりと理解することができない。しかし、西洋育ちのコンピュータの画面の上でも、このように日本独自の文化が美しく表示されるのにはとてもやすらぎを覚える。
 久森謙二さん、エー・アンド・アイ システム(株)の野澤香織さん、ありがとうございました。(AG)

1997年10月27日
 鴨長明『方丈記』紀貫之『土佐日記』菅原孝標女『更科日記』を登録する。 はじめて古典のテキストをエキスパンドブックにしてみた。もとのテキストデータに 忠実に、縦書きのブックに置き換えてみただけだが、純粋に「読み物」であることが わかるし、意外に新鮮な感じで読めると思う。古典の本というと、本文の下や脇にた くさんの注釈があるのがふつうなので、それなしには理解することができないと錯覚 してしまいがちだが、そんなことはない。中世をゆっくり味わってみてください。( 八巻)

1997年10月24日
 視覚障碍者の読書支援に関わる活動をしている堀之内修さんから「青空文庫にリンクさせていただきました」とのメールをいただく。
 青空文庫は単純な動機で始まりました。埋もれたテキストを発掘すること、それと権利の切れたテキストを共有すること、です。ところが堀之内のメールを読むと、このような電子テキストが視覚障碍者の方々のお役に立つそうなんです。そんなことは夢にも思っていませんでした。世間知らずなのかもしれません。今度視覚障碍者読書支援協会が行っている勉強会にでも参加して、青空文庫がどのようにお役にたてるか勉強でもしてみようかと思います。(AG)

1997年10月22日
 青空文庫を訪ねて下さった、福田芽久美さんからのメールが届く。
 テキスト化する際の注意点、できたものをどんなふうに送ればいいのか、現在どんな作品の電子化が進んでいるのか。
 こうした点を、はっきり分かるようにしておいて欲しいとの指摘を受ける。

 福田さん、おっしゃるとおりです。
 実はこれまでにも、木久仁(きく・ひとし)さんと宮代祐子さんから、同様の問い合わせを頂戴していました。
 その際も、「青空文庫・開拓員マニュアル」のようなものを用意し、どんな作品がすでに電子化されているのか、どれが作業中かのリストとあわせて掲載しようと相談しました。
 ところが調べていく過程で、我々の仲間である野口・AG・英司さんが、満開製作所発行の『電脳倶楽部』というフロッピーディスク雑誌を見つけました。詳しくは野口さんが書いてくれる予定ですが、シャープが出していたx68000というマシン向けのこの雑誌では、祝一平さんが呼びかけて、ボランティアによるテキストの電子化が進められていたのです。
 我々が引き継ぐべき宝の山を、先人たちはここにも残してくれていました。
 ところが、かなり号数を重ねていた『電脳倶楽部』を全部入手し、x68000の5インチ・ディスクからファイルを吸い取る手はずを整え、リスト化し、他のリストと突き合わせ…などと言っているうちに、今日まで時間が過ぎてしまいました。
 そこに頂戴したのが、福田さんのメールです。

 福田さん、ありがとう。
 これでようやく、覚悟が決まりました(^^;)。

1「開拓員マニュアル」の作成。
2 電子化済み及び作業中のテキストのリスト化。

 以上二点を、まず優先的に(といっても、私たちのペースの〈優先〉にはなってしまうのですが)片づけるようにします。
 ここを整理しておかないと、いつまでたっても私たち呼びかけ人以上に、文庫開拓員が広がっていきませんものね。

 あわせて、手伝いたい気持ちはあるけれど、マシンがない、周辺機器がない、ツールがないといった方のためにどんな体制が作れるかも、考えてみようと思います。(倫)

1997年10月20日
 菊池美範さんの『Macintoshとデザインの周辺』を登録する。
「MacUser」のアートディレクションを担当されている菊池さんには、津野さんの『小さなメディアの必要』を登録した際に、はじめてメールを差し上げた。
 ご自身のウェッブページで公開されている『Macintoshとデザインの周辺』にあった一節(『小さなメディアの必要』は15年も前に発行された本だが、私の人生に大きな影響を与えた一冊である)を「そらもよう」で紹介したいと思い、該当の記述へのリンクをお願いしてみたのだ。

 ご快諾の返事に、菊池さんは「『水牛通信』も文庫に加わることを期待しております」と、(大変だけれど)魅力的な提案を書き添えて下さった。
「うん、ありがたや」と思った途端、たちまち目覚めるブックハンティング根性。「MacUser」連載中に拝見していた同書のカード化をお願いし、本日の登録に至った。
 二つのサーバーに分散していたファイルを、今回の登録にあたって、菊池さんはご自身の会社であるエイアールのページにまとめ、整理して下さった。
 菊池さん、重ね重ね、ありがとうございます。

 同書に番外編として収録された「片貝の花火」を読んでから、繰り返し勇壮な花火祭りの場景を思い浮かべた。
 青空文庫を始めなければ出会わなかっただろう人たちと出会い、知らなかっただろう物事に触れる日々が続いている。
 いつか花火祭りの日に、片貝の夜空を仰いでみたい。(倫)

1997年10月18日
「MacPower」誌の最新号が届く。
 ウェッブブラウザーのページから文章のみを横取りし、一瞬にエキスパンドブックに仕立てるための設定は、今、本屋に並んでいる同誌の226ページに掲載されている。
 10月10日付けの「そらもよう」では、この記事が「12月号」に載ると書いたが、正しくは「11月号」でした。

 少ししつこいのだけれど、エキスパンドブックの技術を応用したこのテクニックを是非試してみられるよう、再度強くお勧めしておきます。
 HTML版、ネットエキスパンドブック版、加えてテキストの三種類を用意すると謳っている青空文庫だけれど、現実にはHTML版のみのものが多くなっている。ところがこの〈魔法〉を用いれば、HTMLファイルが一瞬に電子本に化ける。
 この技はもちろん、WWWのすべてのページで使える。眼精疲労の防止効果は絶大。いちいち紙に打ち出すのではなく、画面上で文章を読みきってしまう気にさせてくれること請け合いだ。

 これの説明を「いずれ遅くならないうちに、青空文庫にも用意する」などと先延ばしにしていたら、長谷川集平さんがとっとと自分のページで書いてくれた。「SHUHEI'S BLACKBOX」の下の方に説明があるので、読んでみて欲しい。
 ただし、集平さんが勧めている、BookBrowserにファイルをドラッグ&ドロップする技は、今のところMacintoshでしか利用できない。ここでは軽く触れられている「3」の方法と、Windowsユーザー向けの説明を合わせて、やはり解説ページは作りましょう。(予告を繰り返すくらいなら、とっとと作れってか)

 送られてきた「MacPower」11月号は、Mac OSのライセンス問題を特集していた。これに連動した、西和彦さんによる新連載「もしぼくがアップル・コンピュータのCEOだったら」の中に、ぞっとするような一言があった。
 先日、編集者への文句をこの欄に書いて「世間への不満を『そらもよう』にぶつけられても困ります」と野口さんにたしなめられた。また不評を買うかも知れないが、他に場所もないので、またここに感じたことを書いてしまう。

 アップルがMac OSのライセンスを打ち切り、せっかく育ってきた互換機の抹殺にかかった経緯には、ほとほと愛想が尽きた。
 IBM PC互換機の世界が、当初はWindowsも欠いたような貧弱なソフトウエア環境にとどまりながらそれでも栄えたのは、ハードウエアの〈種の多様性〉を保証し得たからだ。
 いろいろなメーカーが、ある基盤に沿いながらも様々な発想を持ち込んで自由に勝負に出られる。この自由競争原理が、PC互換機の勝因のすべてだ。
 360互換機による富士通、アムダール連合の大成功から、ビル・ゲイツは、標準に沿った競争の活力を学んだ。設立間もない時期から「We set the standard」を謳ったマイクロソフトは、メインフレームがついに到達し得た、実り多い競争のあり方を意図的に継承しようと試みた。
 実に賢明な選択だ。
 だからこそ、CP/Mまがいの古くさいOSや、周回遅れでようやく準備できたMac OSの歪んだそっくりさんで、気の遠くなるような成功をおさめることができた。

 この自由競争原理を、限定的ながらMacintoshもようやく取り入れようとしている。これでMac文化圏にも、種の多様性が育ち始めるだろう。と思ったところでの、ライセンス打ち切りだった。

 私には、アップルという会社に対しても、スティーブ・ジョブズという人間に対しても、思い入れはない。
 だが、Mac OSに対する愛着はある。
 それゆえ、互換機抹殺という選択にはほとほと心がなえたが、それでもジョブズの判断の中から、合理的な筋を見つけだしたいという気持ちには傾いた。
 Mac OS文化圏がこれ以上衰えていくことは、我慢がなかったからだ。

 その時、でっち上げたシナリオはこうだ。

1 パーソナルコンピューターの分野では、もはやオープンアーキテクチャを回避して生き延びる道はない。
2 それも中途半端なオープンでは、生き残れない。今後、オープンの基盤を目指すもの、つまりCHRPでもだめだ。もっとも広範でもっとも公開性の高い、すでに存在する基盤、つまりPC互換機しか残らない。
3 とすればMac OSの生き残りの場所も、PC互換機の上にしかない。
4 ゆえにMac OSをx86に移植し、純粋なOSの提供者となってマイクロソフトとの決戦に臨む。そこにしか、アップル生き残りの道はない。

 ジョブズはこう考えているのではないか。
 それゆえ、最後の決戦の準備(x86へのMac OSの移植)が整うまでは、Mac OSを自社のハードウエアに囲い込んで、ユーザーから可能な限りの金を搾り取る。
 アップルには、速いマシンを安く作る技術も、小さくて気の利いた装置をまとめる腕もない。そんな自分たちが、OS企業への転身を図る資金を可能な限りたくさん集めようとすれば、互換機メーカーは抹殺するしかない。
 そう、彼らは抹殺して構わない。将来長く付き合うべきMac OSのライセンス先は、コンパック以下のPC互換機メーカーであるのだから。

 とこうした戦略が、ジョブズの頭にはあるのかなと考えた。

 だがそう考えてみても、腑に落ちないところは数々残った。
 PowerPCを作り、CHRPをともに構想してきた相手は、パーソナルコンピューターの未来を切り開こうとしてきたアップルの仲間だろう。そんな連中に対する裏切りを、コンピュータ産業の構成員とユーザーは、許し、忘れるだろうか。
 互換機メーカーの中核には、間違いなくMac OSの信奉者がいたはずだ。そうした連中の寝首をかいたつけは、後々どんな形で回ってくるだろう。第一、ライセンス問題で訴えられて、勝てるような契約内容なのか(こんな卑劣なことが許される内容で契約していたとすれば、それもまた不思議だ)。
 そして最大の疑問は、ユーザーの気持ちをジョブズがどう読んでいるのかという点だ。
 自己保身のために、ユーザーが素晴らしいマシンを手にする機会をあからさまに潰したとき、いったいどれほどの大きな失望を、自分たちのOS技術の支持者に与えることになるのか。どれほどの軽蔑を、アップルは浴びることになるのか。

 そうした点を踏まえれば、ここはやはりOSのライセンス料を引き上げながらMacintoshの製造部門を縮小し、ソフトウエア企業として、段階的に生まれ変わっていくのが正解ではないか。
 その上で、x86へのMac OSの移植という最重要課題に取り組んでいくのが筋ではないかと思わざるを得なかった。
 なのになぜジョブズは、自分たちに近い者から裏切っていくような道を選ぶのか。

 西さんの原稿に、「スティーブは独裁者として、まるで復讐をするようにアップルの方向をどんどん変えていこうとしている」とあった。
 導入部に、何気なく置かれた一節だ。
 西さん自身、ここに力は込めて書いていないように思う。

 だが私にとって、この一言は恐ろしかった。
 Mac OSという、大げさに言えば人類の共通資産となったものを左右する立場に、スティーブ・ジョブズはついている。
 そうしたポジションに立つ人間も、憎悪や怨恨という人の弱みからは自由でいられない。
 他の誰が書いてもリアリティを欠く、しかし西さんが書けば、胸に深く深く染み渡ってくる言葉だ。

 要するにジョブズは、自分がアップルを追われてからMacintoshに手を染めた有象無象の試みをすべて、憎悪している。
 PowerPCを憎み、CHRPを憎み、Mac OS互換機を憎んでいる。
 Mac OS互換機に喝采を上げたユーザーもまた、嫌悪しているのだろう。
 そしてそれらすべてに復讐しながら、マイクロソフトとの決戦に臨もうとしている。

 そう考えてはじめて、私には今回の一連の出来事が理解できた。
 ますます気は滅入ってくるが、筋書きはつかめた。
 できることならこんなシナリオには、グローブ座の舞台以外では、お目にかかりたくない。
 だがやはり「この世は舞台、人はみな俳優」が正解なのだろう。(倫)

1997年10月16日
 山本光夫さんのウェッブページを見て、タイルをキャンバス代わりにした美術の世界があることを、はじめて知った。タイルに描き、絵柄を焼き込んだ作品はそのまま、タイルアートと呼ぶらしい。
 映画の「失楽園」では、役所公司演じる主人公の奥さんを、タイル作家としているのだそうだ。別れを決意した彼女は、家を出る際、テーブルの上に離婚届けといっしょに作品を残す。そのタイルが、山本さんの作品だ。(以上、山本さんによる記述の受け売り)
「漆黒の闇に流れる双筋の滝をイメージした」という作品を見て、「あっ、死だ」と思った。右手の絵柄が、なんだか骸骨のように見える。
 横浜に移る前に私たちが暮らしていた荻窪で、山本さんは GARAGE ART STUDIO というお店を開いておられる。一度おたずねして、滝か骸骨か、実物に向き合って確かめてみたい。

 三年前に開かれた個展をきっかけに、山本さんは『ヘミングバードの囁き』という小さな本を作られた。主人公のへミングバードは、同名の鳥の一族がすむ、へミング村の哲学者だ。人生(正しくは鳥生か)の深淵をのぞき込んだような警句が、都合四十編の短い物語の中で語られる。
 この作品は、去る9月30日に登録させていただいた。
 今年五月にコンピューターを始められたばかりという山本さんは、ゆっくり一編ずつ物語をページに上げている。今日、七番目の「相対評価」を載せたと、メールをいただいた。
 読む者が存分に思いを遊ばせられるよう、広く隙間をとった作品を味わってきた。

 昨日までの三日間、「青空文庫の本はなぜタダなのか」をテーマにした、ほんの短いコラムに苦しんだ。論理でねじ伏せようとする原稿を4パターン書いて、どうしても納得がいかず、これまでも書いてきたような自分の体験を淡々と綴ってみて、ようやく渡す気になった。
 なんでもかでも説明したがる暑苦しい私の原稿にも、屁理屈を捨ててようやく少し隙間があいたのかも知れない。(倫)

1997年10月15日
 作家のひこ・田中さんから、趣旨に感銘してリンクしました、とのメールが届く。ひこ・田中さんは、何年か前に相米慎二が撮った映画「お引越し」の原作者だ。私はこの映画の主人公レンコを演じた田畑智子に感動して、当時回りの人に映画を見ろ、見ろとふれ回ったものだった。相米慎二は女の子を描くのがうまい。「翔んだカップル」の薬師丸ひろ子、「台風クラブ」の工藤夕貴、「東京上空いらっしゃいませ」の牧瀬里穂。そういえば河合"オーロラ輝子"美智子は「ションベン・ライダー」でデビューしたんだっけ。それでもちろん「お引越し」の原作本も読んだのです。原作は相米慎二の映画とは微妙にタッチが違うんですけど(本来は逆ですね、映画は原作と微妙にタッチが違うんですけど)、それでもやはり主人公のレンコは原作の中でも輝いていた。
 映画の中でレンコは絶えず走っている。相米慎二お得意の長回しでず〜と、ず〜と走っている。青空文庫もず〜とず〜と走ります。(AG)

1997年10月12日
 X68000のディスクマガジン『電脳倶楽部』(満開製作所発行)のPDD(パブリック・ドキュメント・データ)より宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」を青空文庫化。(AG)

1997年10月10日
 気持ちよく晴れた休日。「MacPower」誌の連載の件で、担当してくれている森恒三さんにメールしておくと、ほどなく返事が届く。こんないい日に、私は「そらもよう」で、森さんは仕事か。
 昨日は編集者への文句を書き連ねたが、森さんの手綱さばきは対照的に、「こんなの見たことがない」というほど、合理的で鋭い。取り立てはすさまじく早く、ゲラのキャッチボールを繰り返す中で、分かりにくいところを容赦なく突いてくる。若いのに、どこで覚えたそんな技。

 青空文庫では、作品ごとにHTML版とネットエキスパンドブック版、加えてテキストを用意したいと目標を立ている。ところが現実には、HTML版のみのものが多い。
 実はエキスパンドブックのBookBrowserをうまく使い回すことで、我々の約束不履行にはかなりの補いがつく。コマンドの選択一つで、HTMLファイルからテキストを横取りし、BookBrowserで読んでしまうトリックがあるのだ。
 これで、すべてのHTMLが一瞬にエキスパンドブックに化ける。Windowsではまだ、一部で文字化けを生じるが、Macintoshでは完璧に動作する。

 実はこの使い方を、12月号の「MacPower」誌で説明している。アスキーの宣伝になって恐縮ですが、あと1週間くらいで書店に並ぶので、興味のある方は立ち読みして下さい。「電脳天国 目玉温泉」がシリーズ・タイトル。いずれ遅くならないうちに、青空文庫にも解説のページを用意しますので、その点も頭においといてね。

 森さんへのメールは、すでにこれももう取り立てられた12月号分に関して、伝えておきたいことがあって書いた。「年末進行があるので、先のものも準備した方があとが楽だと愚考するのですが…」。そんなふうにそそのかされて、こりゃ5回目と最終回の6回目まで、すぐに書かされそうだな〜。(倫)

1997年10月9日
「PCing」という雑誌が届いた。11月号にエキスパンドブックを紹介する記事を書いたので、掲載誌を送ってくれたのだ。
 エキスパンドブックは、Macintoshの世界で生まれ、育ってきたソフトウエアだ。けれど今では、Mac同様の感覚でWindowsでも使える。なじみのないWindowsユーザーに、この道具について話せるいい機会と思い、喜んで書いた。
 雑誌を開き、自分の記事を探した。頭の方に使ってくれている。だが、読み始めると、なんだかしっくりこない。訴えかけのポイントにしようとしているらしい「ここぞ」という言葉を支える文脈が、どこにも見つからないのだ。
 手許に残っているファイルを引っぱり出してみて、納得がいった。導入部を大幅にカットした上でつぎはぎしてある。予定していなかった図版が一点、一番大きな場所をとっている。これを追加したくて、「原稿を切ろう」と決めたのだろう。
 だがこれでは、書いた当の本人にも「ここぞ」のニュアンスがつかめない。

 この記事は、締め切りまじかで引き受けた。原稿自体はすぐに書いたが、どのような形で送ればよいかたずねたメールの返事がなかなかもらえず、その後も送ったファイルが届かない、圧縮したファイルが開けないと混乱を繰り返した。
 普段なら、雑誌に書く際は必ずゲラを見せてもらう。けれどちょうど同じタイミングで、もう一つのもめ事を抱えていた。雑誌に渡したコラム原稿のゲラを、お願いして送ってもらうと、ちょこちょこちょこちょこ、直しまくってある。今数え直してみたら、ほんの2500字ほどの原稿で、50箇所(くれぐれも50文字ではありません)近くいじってあった。内容上の変更ではない。私の文章の呼吸が、編集者の感覚に合わないのだろう。その合わない箇所を、みんな自分流に変えてくれている。

 編集者から手直しを求められることそのものを、拒否しようとは思わない。原稿を渡した段階では、一応自分なりの推敲をすませているわけだから、指摘に納得がいかなければ抵抗するだろう。だが、読んでくれた人から、目を開かれるような示唆を与えられることはある(そうそうあることじゃないのも事実だが)。渋々直しにとりかかり、OKとなった後、やはり書き換えて良かったと思うことも経験している。
『本の未来』は、プリントアウトで読んでくれた同居人の指摘を受けて、コンピューターとインターネットに踏み込んだ部分をあらかた全部カットした。「青空文庫の提案」は、八巻さんに一言のもとに「長い」と切って捨てられ、力点の置き換え指令も加わって、泣く泣く全面的に書き換えた。
 けれど、仕上がったものを見ると、やはり今のものの方が簡潔でよい。
 とはいえ、指摘を受けて直すにしても、私はやはり自分で直したい。知らないうちに署名原稿がいじくられ、そのまま印刷されるのはたまらない。
 こうした事態を避けようと、普段はゲラを見せてもらう。ところが今回は、もう一つのトラブルで頭に血が上っていたところに、ファイルやり取りの混乱が加わって、頼み忘れた(まあ、頼まないと見せないのが常態というのも、ずいぶん手抜きだと思うが)。

 9月9日にいただいた多村えーてるさんのメールには、自分たち(アマチュアの)作品を「ドカドカと放り込むと、かえって青空文庫の趣旨が見えにくくなってしまうのではないか…」との指摘があった。
 誤解だったかも知れないが、私はそう読んだ。(このメールをもらって考えたことは、ようやく昨日、同日付けのそらもように書いた。過去を掘り返しての穴埋めは、私の場合でまだ一か月分たまっている。トップの項目は同じでも、古いところに新しい原稿が入っている場合がある。気が向いたらスクロールしてみて欲しい)
 プロの編集者による選別は、玉と石の中から価値ある作品を選り分ける機能を果たしている。書籍となってた原稿はやはり、選ばれた、〈優れた〉作品なのだ−。
 そうした思いが、えーてるさんに強いのかなと考えた。

 出版という社会システムを大きく一まとまりでとらえたとき、層としての編集者は、光ることころのある作品をすくいあげる機能を果たしているだろうか?
 そう問われれば、私もひとまず「果たしているだろう」と答える。だが続けて、「どの程度果たしているかを確かめない限り、本質的な姿は見えてこないのではないか」と、付け加えるはずだ。
 インターネットは玉石混淆、一方操觚界では選別の機能が働いているとする二元論には与したくない。白黒二値で表現するには、書き言葉にまつわる状況は余りにも複雑で色合いに富んでいる。うつろいもまた、急だろう。

 編集者という職業に就いている人たちのごく一部は、時に、優れた書き手を広く紹介する役割を果たす。だがこうした肩書きを名乗る人の大半が日常的に行うのは、編集事務の処理作業だ。
 こうした仕事が修練を求める一つの役割であることを、否定するつもりはない。ただ指摘しておきたいのは、「編集者」という言葉の響きに、過大な幻想を抱くことはないという点だ。

 電子出版という新しい道具立てを得て、自分たち自身で作品を器に収め、社会に提示しようとする人たちにとって、編集者の不在という問題は、確かに気にかかると思う。
 一つは、テクニックとしての編集技能という点。そしてもう一つは、誰が筆者を鍛えるかという問題だろう。

 編集処理の水準に関しては、私自身腹の底ではどうでもいいとなめてかかっている。確かにデザインも、読みやすく美しいものにしたいし、誤植もあるよりはないほうがいい。けれど優先すべきは、たまってきた言いたいことを、まずは口から出すことだ。出してみて誤字の多さやデザインのまずさに気づくくらい気分が落ち着いたら、そこから多少はそうした点にも気を回せばよい。
 例えばエキスパンドブックに関する疑問なら、ニフティでgo smss1とタイプし、3の電子会議室にある14の「ボイジャー・サロン」でたずねることができる。ボイジャーの人はなかなか答えてくれないかもしれないが、きっと常連の誰かが導きを与えてくれる。私自身、HTMLについて多少の知識を得たのは、青空文庫が動き出してからだ。勉強に出かけた先は、初心者向けのHTML講座を用意してくれているウェッブページだった。
 自分の身近なところ、さらにはネットワーク上で、力を合わせる仲間もできるはずだ。
 器に盛った作品に磨きをかけたくなったのなら、その段階で、体制ごと自前で作っていけばいい。

 定期的に商品としての雑誌を出すとなると、時間に追われ、気を許すとついつい力技をふるうはめになる。企画が遅れ、原稿依頼が送れ、入稿が送れれば、最後はゲラなんぞ筆者に見せて入られなくなる。
 書いた原稿を自由気ままに改竄される危険性は、コンピューター雑誌が圧倒的に高い。きっと、書き手も共犯なのだ。署名原稿を手渡すことは、描き終えたタブローを人に委ねるに近いと言った気分は、この分野のライターには希薄なのだろう。
 こうした持たれ合いの構図の中で発揮される編集の手並みに、電子出版でものを言おうと考える人間が学ぶ点はない。

 では残された、書き手の導師としての役割は、誰が担うのだろう。
 私自身、ごく少数だが、編集者という肩書きを持つ人に忘れることのできない示唆を与えられたことがある。だが、奇妙なことに彼らはいずれも、私を担当してくれた人たちではなかった。
 なにかその人に引っかかるものを感じて本を送り、読んでくれた彼らが、算盤感情抜きで稽古を付けてくれた。
 書き手を育てる導師の言葉は、きっと大きなものだ。ちまちまとしたいじくり回しは、書き手を腐らせることがあっても、鍛えることはない。そして導きの星となってくれる大きな言葉は、職業的な修練とは必ずしも結び付かないのではないかと思う。
 私の同居人は、編集者ではない。この道で経験を積んだ八巻さんも、私にとってはただの(そしてとても大切な)仲間だ。だが、自分なりに深く読んでくれた人が与えてくれる大きな言葉は、十分に私の表現を叩いてくれる。
 導師はきっと、誰のそばにもいてくれる。(倫)

1997年10月8日
 ひつじ書房の松本功さんは、「読書人向けのオンライン書評誌&ナビゲーター」を謳って「書評ホームページ」を開いている。その狙うところは、「書評ホームページ宣言」で読める。
 昨日登録できた津野海太郎さんの『小さなメディアの必要』について、松本さんが書いた書評を見つけた。エキスパンドブックで復刻された同書を読んで、「この本を復刻するためにこのソフトは生まれたのではないか」と松本さんは感じたという。
 デザイナーの菊池美範さんは、ウェッブで公開している「Macintoshとデザインの周辺」で、「『小さなメディアの必要』(晶文社刊/津野海太郎著)は15年も前に発行された本だが、私の人生に大きな影響を与えた一冊である」と述べている。
 紙の本で大きな役割を果たし、電子本となってまた、今日的な意味を備えて蘇った同書を迎えられたことに感謝します。津野さん、復刻にあたられた萩野さん、八巻さん、ありがとう。

 徳永真一さんの『最後の、そして始まりのエデン』を登録する。
 徳永さんからはまず、始められたばかりのウェッブページから「リンクをはらせてもらいました」とメールをいただいた。さっそくページを訪ねてみると、「創作の部屋」を用意してご自身の作品を公開されている。相談の結果、その中から上記の作品を登録することになった。
 徳永さん、ありがとうございます。

 夜、長谷川集平さんから電話。ネットワーク上で再会してから、メールは繰り返しやり取りしてきたが、声を聞くのは15年ぶりくらいだろう。「しゅうへいです」の声が、懐かしく、そして少しくすぐったくもあった。
「本とコンピュータ」の二号に、集平さんが「新しい革袋 エキスパンドブック」と題した記事を書いている。集平さんのイラストが活躍して、〈らしさ〉が醸し出されている。あのイラストは、Painterというソフトウエアで描いたのだそうだ。(倫)

1997年10月7日
 樋口一葉「たけくらべ」津野海太郎「小さなメディアの必要」を登録する。

 本屋でNHKラジオテキスト「樋口一葉を読む」というのを見つけた。タ イムリー!と思ったが、時期は同じでも、ラジオで聞いて、青空文庫も読むという人 はいるんだろうか。ちょっとギモンだ。
 津野さんいわく「思いがけない復刊で、ちょっとあわてた。でもエキスパンド ブックという復刻版で読んでくれている人がけっこういるようでありがたい」(八巻 )

1997年10月某日
 昔「水牛通信」というミニコミを出していた。一度自前のメディアを持つと、またやってみたくなる。しばらくホームページを開くことを考えていて、それが「電子版水牛通信」になるはずだった。でもそういうホームページこそ、開くは易く持続は難 いものはない。なかなかふんぎりがつかなかった。
 青空文庫は私にとってはまっすぐ「水牛通信」とつながっている。なぜならこれは私たち呼びかけ人だけでは決して成立しないものだから。もっともっと拡張していきたい! そういえば、お金は一銭も入ってこないというのも同じでした。(八巻)

1997年10月5日
 清水哲男さんの『きみとは往けない。』『スピーチ・バルーン』『RETURN』 、鈴木志郎康さんの『口に入れてうれしい』『メディア対「私」』 を登録する。
 清水さん、鈴木さん、加えて「f451 text factory」所収の「すみれ文庫」から、四冊の登録を許して下さった渡辺洋さんに感謝いたします。(倫)

1997年10月2日
 前々から富田さんより言われていたこのコーナーを作成する。名称は「本日の空模様」はどうかと言われたが、作っていくうちにどうもしっくりこない。そのことを富田さんに話したところ「観天望気」(かんてんぼうき)はどうかとの返事。しかし長谷川さんより「空模様」のほうが奥行きがあってすばらしいとの反論。確かに、しっくりこなかったのは「本日の」の部分だけだったので「空模様」という名称にする。でも何か漢字だといかめしいので、ひらがなにする。(AG)

1997年9月19日
 PC-VANのフォーラム「ことば・翻訳・そして文化」(KOTOBA)の担当者、吉田典吉さんよりメールをいただく。いろいろやりとりを行った後、森鴎外と樋口一葉のテキストをエキスパンドブックする許可を得る。(AG)

1997年9月17日
 福井大学、岡島さんのホームページのリストの中にある、松阪大学の電子テキストを使用させてもらうべくメールを書く。担当の奥村さんからすぐにメールの返事が来る。そのテキストはPC-VANのフォーラム「ことば・翻訳・そして文化」(KOTOBA)より持ってきたとのこと。親切にも、ホームページのアドレスも教えていただく。さっそく、ホームページの管理をされている方にメールを書く。(AG)

1997年9月11日
 やっとホームページをアップする。驚くべきことに最初の考案から半年もたっている!(AG)

1997年9月9日
 ニフティサーブ「ほらふき国の逆襲」(fjamea/3/18)編集長にして、エキスパンドブック越しに本の未来を見通す論客、多村えーてるさんからメールが届く。前日のサロンへの書き込みを読んで下さった様子。青空文庫の告知に、力をふるって下さるという。

 体力がない上に、かなり頭が回らなくなってきている私から見ると、えーてるさんの「読み、考え、書く」パワーには、黄金の蒸気機関車が、銀色の煙をモクモク吐きながら突進してくるような迫力を感じる。
 これも早急に青空文庫で紹介したいのだが、エキスパンドブックを読む際に使う、BookBrowserという小道具は、ウェッブページの文章を読む際にも利用できる。例えば図書カードにHTML版しか記載されていない場合でも、一瞬に文章をエキスパンドブックのひながたに流し込んで、縦書きでページをめくりながら読めるのだ。
 こうした使い方に関する情報が、爪のかけらほど公開された時点で、えーてるさんは即座に「ブック作成ツールのお試し版を使えば、ひながたを各自が自由に作れる」と見破った。無料のBookBrowserに付いているひな形は、縦組み横組みがそれぞれ一パターンずつ。ところがお試し版を手に入れれば、これをいくらでもいじれてしまう。
 ボイジャーがただで公開している道具が素晴らしいのは、我々にとってはありがたい。ただし現世に生きる彼らとしては、どこかで儲けることが大切だ。「ひながたをいっぱい用意しますよ」などというのも、商品版のポイントとしてアピールできたろうに、そこには早々と鍵を掛けられた(でもないか)。

 そんなえーてるさんは、発行元として〈美しい暦〉を名乗り、エキスパンドブックでまとめた作品を刊行している。多村さん自身の短編を集めた『夜明けの薄氷』も、その一つだ。
 この短編集で強く印象に残ったのは、それぞれの作品が、しっかりと自らの世界を確立してしまっている点だ。この書き手には、最初の一語をタイプした時点で、締めくくりの言葉が見えている。なんとなくはじまって、揺れながらだらだら続くためらいに付き合わされる不快がない。
 後書きには、「小心者の悪あがきでラストを変更してしまったモノもある」などと書かれているが、印象は変わらない。筋が確かで、落が効いている。
 ただ骨組みがあんまりしっかりしているので、大きな建坪の作品には、「もったいない」という思いを禁じ得なかったのも事実だ。冒頭の「最初の思い出」など、この構成、この仕立てがひねり出せたのなら、もっともっとエピソードを書き込めるだろう。読者としては、この物語にうんと長く付き合っていたいのだから。
「えむ子の場合」なら、名前を決めた時点ですでに、作者は主人公の像をつかみ取っていただろう。ならばそんなに急がずに、あなたがつかまえてきた主人公の細部にゆっくり光を当てて、少しずつ良く見せて欲しいと思った。
 一方、「風の子」のように、あらかじめ小さな敷地を前提に設計した作品は、お節介な老婆心なしに楽しめる。
 要するに印象に残るのは、この作者の構想力、骨格を固める力量の確かさだ。

 えーてるさんからのメールには、青空文庫との距離の取り方に関する言及があった。自分たちの作品を「ドカドカと放り込むと、かえって青空文庫の趣旨が見えにくくなってしまうのではないか…」。そんな懸念が、短く記されていた。
 著作権切れの作品には、時の流れという試験をパスした〈古典〉が並ぶだろう。ならば、書き手自身が公開を望む若い作品の側にも、プロの物書きのものをそろえた方が、少なくとも当面は良いのではないか。自分たちアマチュアの作品がどんどん集まると、文庫は〈石の山〉との印象を与えてしまうのではないか―。
 そんな懸念が、えーてるさんにはあるのかなと考え込んだ。
「お気持ちが固まってくるのを待ちましょう」
 返事にはそう書いて出した。

 美しい暦の『発想する紙』 は、実に良く売れているという。
 置くべきところに置けば、電子本は売れるという手応えが、えーてるさんにはあるだろう。ここを追いかけるのなら、その気持ちは良く分かる。
 だが、もしも編集者や書籍市場に試されていないという引け目のようなものが、えーてるさんをためらわせているのなら残念でたまらない。

 その点が大きいのであれば、勝手にここで反論を始めるので、耳を貸して欲しい。論拠は、大きく二つある。

 まず指摘しておきたいのは、美しい暦の作品が示してきた、質の高さだ。キーボードに向かったとき、えーてるさんの思考エンジンが発揮するパワー。しびるさんの超人的馬力。そして『なんでも知ってるよ』で、無造作に夥しい宝石を放り投げたように描き出される、〈しびるワールド〉の空間の歪み、時間の裂け目のクールな手触りだ。
 確かに、名はないかも知れない。だが、自分たちに力があることを、えーてるさんたちは知っている。
 そこが、第一。

 加えて、もしも私自身が美しい暦の作品に輝きを見いだせなかったにしても、あなたたちがドカドカと乗り込んでくれることは、やはり歓迎したいと思うのだ。
 青空文庫を名乗ってから、短期間にたくさんの人と出会っている。日本列島から、人のつながりの網がくっきりと浮き上がってくるような印象を受ける。顔も知らない。声も聞いたことがない。だが、糸のような細い線を通して、一瞬に共感の光子が塊となって行き交う。
 えーてるさん、プロもアマもそんなことはどうだっていいのではないか。
 評価はこのネットワークに委ねようよ。
 公開の場にさらせば、引力の強い作品は共感のシナップスを引き寄せる。繋がりは繋がりを呼ぶ。時間をかけて、それぞれの作品がかなう限りのシナップスを生み出すだろう。どの作品も、それで成仏できるはずだ。どんな編集者が選ぶのでもない。どんな評論家が決めるでもない。我々が総体となって、個々の作品との関係を築けばいい。
 ある作品が、心の糧として誰に何を与えたか。その一瞬のスパークを草の根で共有する有効な手段は、これまで私たちの手の内にはなかった。ほんのちょっとした会話や、メディアへの投稿、自分たちの作るミニコミの中といった限られた空間に、きらめきは閉じこめられた。共感の連鎖が臨界を越えるような事態は、とても想定できなかった。
 だがネットワークに連なるとき、私たちはどこかで誰かが心の糧に与えられた衝撃を、時を置かず感知できる。スパークはそこで、いつまでも輝きを失わない。輝きが連なれば、私たちはその轍をたどることができる。

 浮ついた夢見人のたわごとだろうか。だが私には、どうにも自分がひとりぼっちとは思えない。
 I hope some day you'll join us.

 えーてるさん、またメールを書きます。(倫)

1997年9月9日
 前々からネットエキスパンドブックを使用してもらっている脚本家の小中千昭さんに、リンクを張らしてほしいとのメールを何日か前に書き、その返事がこの日に来る。できれば直接ブックをダウンロードさせていただきたいとお願いしたのだが、トップページにある前書きをなるべくなら読んでもらいたいとのことで、リンクは直接ブックではなくトップページに張る。少し残念な気がしたが、ホームページはみなさんそれぞれ自己主張をしている場なので、それもしょうがないかなと思う。ということで、『Alice6』『くまちゃん』、『喰人獣』を登録する。(AG)

1997年9月8日
 長谷川集平さんが作ってくれた、リンクボタンが届く。白地にポンと置いてみると、きれいに映える。「左にある本の表紙にかすかに確認できるのが、マグリットの、曇り空の中に鳥の姿に抜けた青空の絵。右が満月」とのこと。
 人の輪が広がって、力が合わさったはじめてのしるし。

 ニフティのボイジャーサロン(smss1/3/14)に、青空文庫の近況を報告する。一連の事務連絡に加えて、小澤真理子さんと長谷川集平さんの作品を登録できたこと、たくさんのエキスパンドブック制作者の中からなぜ、まずお二人にお願いを差し上げたかという点にも触れておく。

「以下は富田の個人的なコメントですが、小澤さん、長谷川さんにまず声をかけた気持ちをお話ししておきます。
 小澤さんの二冊に、私はとても惹かれました。エキスパンドブックを仲立ちとして小澤さんという書き手に巡り会えたことは、幸せな体験です。
 長谷川さんの『はせがわくんきらいや』という絵本には、十数年前、うちのめされました。長谷川さんの絵本を続けて読み、この人の本を作りたいと思いました。
 長谷川さんがエキスパンドブックを発見された顛末には、なにか因縁のようなものを感じました。
 お二人は私にとって、魅力的な書き手です。
 けれどエキスパンドブックを使っておられる書き手で、収録のお願いをしたいと頭に浮かぶ方は、お二人以外にもいらっしゃる。
 その中でまずお二人に先に声をかけたのは、ブックの無料公開を小澤さんと長谷川さんが、旗幟鮮明に進めておられたからです。
 他の方にも御相談していきたいと思いますが、ブックを公開されていない方に連絡しようと思うと、少し身構えてしまいます。
 なにしろ小心な男がやっておりますので、その気になった方は是非声をかけて下さると助かります」

 あわせてこの青空文庫を、ボイジャーのサーバーに置かせてもらっていることへの、私自身の小さな疑問についても触れた。
 私たちには、たくさん分からないことがある。物事を進めていく中で、今後深く迷うこともあるだろう。あらいざらい内情をさらす必要はないかもしれないが、直面した困難の核心を示すことは大切だ。ここに引き写すことも一瞬ためらったが、そうしたクセをつけておくためにもと思い直し、転載してしまう。

「個人的なつぶやき
 私自身は、電子出版の可能性をエキスパンドブックを通して発見していきました。
 だから、この形式に対する信頼は心からの、ごく素直なものです。
 けれど青空文庫をすすめるにあたっては、エキスパンドブックを知らない人たちに、繰り返しこの道具立てのメリットを説明していかなければならない。時にはボイジャーのセールスマンのように、受けとめられることもあるだろう。それでも自分がこの形式を、『現状ではベスト』と考えるなら、やらなければならない。
 ただこれはやはり、大変な作業だなと思います。
 ボイジャーが同社のサーバーに青空文庫をおいて下さることも、これまでは『ありがたい』としか思いませんでしたが、たくさんの方の協力を仰ぐ上では、どこか独立したところに用意した方がいいのかなとも思い始めました。
 けれどそうすると、これまではまったく無視してかかっていた予算の問題を、すぐに取り込まなければいけない。
 どのくらいの規模、どのくらいのペースで仕事を進めていくかも合わせて、おいおい考えていかなければいけない要素でしょう」

 登録のお願いを差し上げた大半の方からは、理解と励ましを得ている。だが、例外もある。甘やかされて育ったものだから、ちょっと苦労するととたんにしょげてぼやきが出る。前向きのたくさんの声にあおられて、その後すぐに元気は取り戻した。けれど、ボイジャーのサーバーで良いのかという点は、検討課題として残る。お世話になっている身でありながら、勝手なことを申し上げて、ボイジャーの皆さんには申し訳ないのだけれど。(倫)

1997年9月5日
 暫定的に使ってきたURL(ニョロ・ノグチ)から、http://www.voyager.co.jp/aozora/に移行する。(倫)

1997年9月3日
 絵本作家の長谷川集平さんに、シューへー・ガレージで公開されているブックを収録させていただけないか、メールを書く。4時間後、「待ってました!」と返事が届く。
 あの時以来、胸の奥にささったままの刺が抜けたわけではない。長谷川さんへの負い目、「申し訳ないことをした」という後ろめたさは、最後まで消えないだろう。それでも、ここでこうして再び出会えたことには感謝したい。
 讀賣新聞の関西版に、この春、電子出版をテーマに短いコラムを10本書いた。その二回目で、長谷川さんとの再会について触れた。

リターンマッチ
 絵本作家の長谷川集平さんから、突然メールが届いた。電子本について書いた、『本の未来』を読んでくれたという。
 紙の本を作ろうとすれば、印刷所の世話になるしかない。金がかかるし、まとめないと一冊が割高になる。それが電子本なら、自前のコンピューターで作れる。じゃんじゃんコピーして配れる。通信なら、どこにでもすぐに送れる。読むのにもマシンがいるが、なかなか面白い。
 七年ほど前、病気をして、活字の仕事を続けられなくなった。その時、電子本を知り、これなら自分一人で出せるとひらめいた。書くことに、もう一度手がかりができた気がした。以来、実際に作っていく中で、考えたことをまとめたのがその本だ。
 読後感に長谷川さんは、「この手がある。目の覚めるような思い」と書いてくれた。メールにあった住所を頼りに、長谷川さんのホームページをのぞいた。『音楽未満』という著書が品切れになった。読みたいという人はいる。けれど出版社は「二千部注文が集まらないと増刷できない」とはねつける。書き手の願いと読み手の思いを、算盤勘定が阻む。そうした仕組みに依拠しなければ、本が作れない現状への悲しみと怒りが綴られていた。
 メールには「あの富田さん?」ともあった。十五年前、私は小さな出版社を起こす話に加わった。『はせがわくんきらいや』という絵本に魂の奧をつかまれ、この作家の本を出したいと願った。だが、原稿を用意してもらいながら、取次店の口座を開けずに、私たちは空中分解した。本を作っても、取次に扱ってもらえなければ書店には流せない。この敷居がとても高い。あの時も私は仕組みに負けて、不義理だけを残した。
 だがリターンマッチのリングはここにある。私と集平さんが、そこにもう一度立っている。」

 長谷川さんのページを訪ねて感心したのは、自分の作品を売るための体制を整えておられる点だ。川崎和男さんデザインのメガネ、アンチグラビティを手に入れるまでの顛末を語る文章で、小林剛さんは「今回この買い物をして、物の良し悪しを自分で判断することの難しさと、そう言う商品を手に入れる環境が今の日本には足りないのだと痛感しました」と書いている。こうした状況に立ち向かう構えを、長谷川さんは具体的に用意している。 ロック・バンド、〈シューヘー〉にも、ここで出会える。
 相談の結果、『こんちりさんのりやく』、『長崎絵本セミナリヨ七ヶ条』、『サブの馬鹿』、『易經』と、つごう四冊の図書カードを作らせてもらうことにする。小澤さんの場合と同様、ファイルは青空文庫にはおかず、長谷川さんのページに飛んで引き落とす方式をとる。
 加えて、長谷川さんには青空文庫の呼びかけ人に加わっていただくことになった。本を作るのは、人だ。人と人が出会って、互いにさしのべる手だ。長谷川さんという新しい核を得て、そこから水面を走る波紋のように、青空の本作りが広がれば素晴らしい。先人たちがすでに立ててくれた波に、我々のそれが共振する。さらに新しい呼びかけ人を得て、各所から青空の本作りの波が広がっていく夢を見る。(倫)

1997年9月3日
 まだ正式にホームページをアップしていないのに、岐阜大学の佐藤貴裕さんよりリンクしたいとのうれしいメールが届く。(AG)

1997年8月某日
 イリノイ大学で日本文学を教えているデイヴィッド・グッドマンに青空文庫のことを知らせたら、「アメリカで日本文学を研究している人たちのインターネット・リストがあるから、みなに知らせます。」という返事がきた。もちろん日本語で。日本語は日本人だけのものではありません。(八巻)

1997年8月26日
 小澤真理子さん、小林剛さんに『ロン吉百まで、わしゃ九十九まで』、『犬と釣り』の二作を青空文庫に収録させていただけないか、お願いのメールを書く。
 シリーズ一作目の『ロン吉…』は、初代のエキスパンドブックで刊行されている。自分で電子本が作れるとなった時、すぐにあらわれた本だ。私自身は、祝田さんの新生エキスパンドブックを使った縦書きのもので読んだ。ぐいぐい、すいすい読んで、小澤家の一員となったシーズー犬〈小澤・ハワード・ロン〉の物語を楽しんだ。きめ細かな本作りに感心し、楽しい物語を書きながら、透明な鉱物の結晶を思わせる、触ると少しひんやりしそうな筆者の視線に引き付けられた。そのまま二作目の『犬と釣り』を読み、もっともっと続きを読みたいと思ったのを覚えている。
 エキスパンドブックは、読める。そして、読むに足る作品をこの環境で産み落とした人が、すでにいる。そのことをきわめて早い時期に教えてくれたのが、小澤さんの作品だ。

 1時間もたたないうちに、「大賛成」とのお返事をもらう。
 二作のエキスパンドブック版はすでに、小林さんと小澤さんがやっておられるofficeTANTOのウェッブページで公開されている。青空文庫側ではブックのファイルは持たず、TANTOにあるダウンロード場所にリンクすることにする。こうすれば、訂正が必要になった際も簡単にすむ。小澤さんはただ、TANTOのページにある物を直せばよい。青空文庫側で読者がリクエストすれば、TANTOにジャンプして更新済みのものが開ける。
 あのサイトにある小林さんのページでは、デザイナーの川崎和男さんについて知った。アスキーから出た、川崎さんの『プラトンのオルゴール』を買い逃さなかったのも、そのおかげだ。(私はMacPower誌を読んでいなかった)僕のメガネも、いずれ崩れ落ちるのではと思う状態にあるので、是非アンチグラビティを手に入れようと思う。
 朝、マシンを立ち上げるとまず、るじるしさんのおべんとうを覗いてから、そのまま 小澤さんの晩ご飯をチェックする。通り過ぎる時に差し込む小澤さんの視線につかまって、朝一番からそのまま考え込んでしまうことがある。(倫)

1997年7月7日
 「青空文庫の提案」がやっとまとまる。(AG)

1997年6月上旬
 「青空文庫の提案」などの文章を考えるが、すったもんだでなかなかまとまらない。(AG)

1997年5月末日
 なんだかんだと言って月日が流れてしまったが、やっと5つのブック(中島敦『山月記』二葉亭四迷『余が言文一致の由來』森鴎外『高瀬舟』與謝野晶子『みだれ髪』明治34年版昭和8年版)を完成する。(AG)

1997年3月17日
 横浜にて最初の「青空文庫」の会合を持つ。ギリシャ料理の「サロニコス」でするつもりだったが、なんと運悪く閉まっている。しょうがないので中華街方面に流れる。(AG)

1997年2月21日
 さっそく福井大学の岡島さんよりメールが届く。「自由に使ってもらってかまわない」との快い返事をいただく。(AG)

1997年2月20日
 福井大学の岡島さんのページを見て、こんなにいろんな人々がテキストを電子化しようとしているんだ、と驚く。そして、岡島さんにエキストをエキスパンドブック化させていただきたいとメールを書く。(AG)
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