引き算レシピ9 山葵
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カテゴリー:青空文庫 | 投稿者:八巻 美恵 | 投稿日:2012年10月25日 |

好きなものは、と訊かれたら、些の躊躇なしに、旅と酒と本、と私は答える。
種田山頭火「雑記」

あまりにもそのものずばりな、好きなもの。どう考えても反論はできません。


旅はこの身を遠くにはこぶ。本はここで静かに読んでいるのに知らない間にどこか遠くにはこばれてしまう。その間にある酒は、飲むほどに別世界にはこばれることがあれば、ここにはないかあってもかけらだけの、この世のあるべき姿を見せてくれることもある。三つの順番が山頭火らしいと思うけれど、泥酔して死んだ山頭火にとっては、この三つは別々に存在している好きなものというより、旅と酒、酒と本、と酒は旅と本とにぴったりとはりついていると感じる。よく考えるとおそろしいことだ。おいしく飲んで、ある量に達するとそれ以上は飲めなくなる体質でよかった。おかげでアルコールのおそろしさとは無縁でいられる。

寒いときにはお燗した酒がよい。あたたかい日本酒はすぐに吸収されるからグビグビとは飲めないし、かならず肴が必要なのもいいことだ。食べながら飲むと、酒も肴も、よりおいしくなる不思議は、足し算ではなくかけ算だと思う。

味と酒がよいかけ算になるように、肴は引き算でいきたい。たとえば、こんなふうに。
 

酒の良いのを二升、そら豆の塩茄(しおゆで)に胡瓜(きゅうり)の香物(こうのもの)を酒の肴(さかな)に、干瓢(かんぴょう)の代りに山葵(わさび)を入れた海苔巻(のりまき)を出した。
「深川の散歩」永井荷風

東森下町の二畳と四畳半の二間きりの裏長屋に深川夜烏という俳人が元芸者の妻とその母と姉の四人で暮らしていた。そしてある日その家に友だち十人ほどを招いた酒宴のメニューがこれ。四畳半に毛布を敷き真ん中に食卓を置いて宴会場としたらしい。

永井荷風によれば、深川夜烏は「山の手の町に居住している人たちが、意義なき体面に累(わずら)わされ、虚名のために齷齪(あくせく)しているのに比して、裏長屋に棲息している貧民の生活が遥に廉潔(れんけつ)で、また自由である事をよろこ」んだ人であり、「この湯灌場大久保の裏長屋に潜(ひそ)みかくれて、交りを文壇にもまた世間にも求めず、超然として独りその好む所の俳諧の道に遊んでいたのを見て、江戸固有の俳人気質(かたぎ)を伝承した真の俳人として心から尊敬していた」。

そら豆と胡瓜だから、きっとこの酒宴は夏だったのだろう。野菜を季節のものに変えて、山葵だけの海苔巻きがあれば、どの季節でも完璧にいけそうだ。わが家では海苔の袋を開けたら一帖ぜんぶを四半分にして密封容器に入れかえる。だから各自海苔にごはんとすりおろした山葵を好きなように好きなだけ乗せて、くるりと巻けばいい。あえてすし飯にしなくてもよさそうだ。

山葵が残るようだったら、梅干しひとつの実と同じ量のすりおろした山葵とを叩いてあえる。鶯宿梅という美しい名前がつけられていて、これ以上はありえないほどに日本酒と合う。もちろんごはんにも合う。かけ算の結果が最高値を記録すること間違いなしです。


1件のコメント »

  1. 山葵もいいですが、唐辛子味噌はいかがでしょうか。ゆがいたごぼうを手巻きにして、添えるとよろしいかと。
    ご存じとは思いますが、作り方は以下のごとし。
    ●材料
    青唐辛子10本/大葉10枚/ごま油大さじ1/酒小さじ2/三温糖大さじ1/味噌大さじ3
    ●作り方
    1:青唐辛子と大葉を細かく刻む(辛すぎるのが嫌な人は唐辛子を縦半分に切って、種を取り除く)/2:ごま油で青唐辛子を炒める(中火)/3:酒、砂糖を加え、泡だったら味噌を加えて混ぜ、弱火に落として練る/4:最後に大葉を加えて混ぜ、火を止める

    Comment by 酩酊 — 2012年10月25日 @ 5:04 PM

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