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ドウモ皆様コンニチハ……
「この『文豪ストレイドッグス』っていうの頗る気になるけど今更漫画雑誌買うのもなあ」「それに付録とか表紙とかが買いづらくて相困ったな」「ポスターならまだしもフィギュアに枕カバー、いったいどうしてよいものやら手に余る」「買うか買わざるかウームウーム」
などとお悩みの方に朗報デス! マンガ雑誌「月刊ヤングエース」(角川書店刊)に連載中『文豪ストレイドッグス』(原作:朝霧カフカ/作画:春河35)が4月4日、ついに単行本として発売になりました! オメデトウゴザイマス!
そしてこのようなインタビューも!(コミックナタリー「太宰、芥川らをイケメン化、文豪バトルアクション誕生秘話」)
どういうお話であるかは、上記ページやこれまでの応援(#1・#2・#3・#4)、さらに公式サイトをご参照いただくとしまして、今回はもしかすると多くの方が気になるかもしれないことについて触れたいと思います。
つまるところ、近代の文豪、近代文芸などとよく申しますが、その「近代」とはいったい何なのか、ということです。
簡単に言えば、今わたくしたちが生きている「現代」のひとつ前の時代、ということになりますが、聞かれたら何と言ってよいやら、「中世」と言えば外国では騎士なり城なり、日本なら平安なり戦国なりがすぐに思い浮かびましょうが……
もちろん説明や定義自体、政治で見るか経済で切り取るか、様々ありましょうが、ここで個人的な見解を述べてよろしければ、一言「思春期」のようなもの、と呼んでおきましょう。
何かに妄想したり、やたら元気で活動的で上向きであったり、背伸びしたり、反抗したい盛りだったり、そういう心象を社会全体が抱いているような、そういうものが流行ったり、人の心を動かしたり、共感されたり造られたりするような、そんな時代。
であるからして、近代の文豪たるものに早死にが多いように見えるのは、その方が近代の思春期イメージが作家・作品にとどめられやすく、あるいは若死にそのものが「近代らしさ」の範疇にあり、そこであとに残った人たちが「あれが我らの時代(近代)」だ、と名指ししやすいからだ、という戯言を吐いてもいいのかもしれません。
そういう世界では、作品も人物も含めて、いちばん「思春期っぽい」やつが勝つのであって、だからこそ近代文芸が思春期の(もしくは思春期を延長した)人たちにいまだ好まれるのかもしれませんし、思春期の妄想を「中二病」と呼ぶならば、まさに中二病な奴らであった近代の文豪を今風に解釈してキャラ化して何が悪い、という話にもなりましょう。
さて、単行本が出ると同時に月刊ヤングエースの最新号も同時発売されたわけなのですが、今回のお話をわたくしは「近代文豪としての格」の問題だと捉えました。
どういうことかと申しますと、このマンガは、文豪たちがおのれの作品と人物に由来する「特殊能力」で闘う物語なのですが、その「勝ち負け」はいったい何で決まるのか? 同格の相手なら様々な頭脳戦や肉弾戦がありえるでしょう。しかし文豪としての格が違ったら?
そ ん な の そ も そ も 勝 負 に な ら な い の で す っ !
なんて恐ろしい! 非情な世界! 文豪力の足りない奴は有るやつにあっさりやられてしまう! ああ! 太宰の思春期力に誰が勝てるっていうんですかもう!
そうすると、わたくしの好きなマイナーな近代作家たちはみんな弱いってことになりますし、その世界ではみんな無能力で非力でうじうじして悩みながらもがいてるってことなんでしょうか! ……それは…………それは…………とっても楽しいデスネ!
文豪キャラたちが異能力で活躍するヨコハマの裏に、きっと無能力のマイナー作家たちがやさぐれるヨコハマ(郊外)なんかがあるのです。『文豪ストレイドッグス』ならぬ『三文文士コピーキャッツ』的な、たとえば素木しづと瀬沼夏葉とアンナ・キャサリン・グリーンの無能力女子高生3人組が鬱屈した学園生活を送りながら能力者の起こした怪奇事件に非力ながら挑んでいくような何かスピンオフ風のアレが(妄想)。
いや本当にありませんかね、アッハイわたくしが頭のなかで二次創作すればよろしいですね、そうですよね。大変失礼をばいたしました。。。