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僕の友人に映画が大好きな人物がいる。僕も映画は好きだが、彼ほどではない。実際に映画を撮り続けている映画作家でも、彼ほど映画を愛している人物はいないのではないかと思うほどである。
それほど映画を愛しているのだが、「映画の方はもしかしたらオレを愛してはいないのではないかと思うんだ」と彼が僕に言ったことがある。映画を見すぎて、おつむにきたのか?と思ったが、そうではないならしい。どうやら、二三日に一度は、映画にいじめられているという印象をもつことがあるという。
例えば、青空。空が真っ青に晴れ渡り、そこに真っ白な雲が浮かんでいる。そんな時、彼は必ず「ジョン・フォードの青空だ」とつぶやく。が、真っ青に晴れ渡り、真っ白な雲が浮かんでいても、ジョン・フォードの青空にならないこともある。そんな時、彼は思うのだそうだ。「あと、雲の数が1割ほど少なければ、ジョン・フォードの青空になるのに!」と。
同じように、風でカーテンが揺れているのを見て、「ああ、もう少し風が弱ければ、ヴィスコンティの『山猫』と同じ感じなんだけどなあ」と思い、地元兵庫県芦屋の海を眺めては「『気狂いピエロ』の地中海の色にはほど遠い」と思ってしまうのだそうだ。
最近、とみにこの感覚が鋭くなってしまい、メシを食っていても、女の子と飲んでいても、映画と少し違うことばかりが目についてしまって、毎日が苦痛だと言い出したのである。
さて、どうしたものか。どうすればいいのか。と彼は僕に悩ましい顔をするのだが、考えていても妙案は浮かばず、「とりあえず」と声を発すると、「今日で終わってしまう映画があるから、見てくるよ」と力なく笑いながら立ち上がるのだった。
虫明亜呂無さんに「シャガールの馬」という作品がありました。
ラジオ中継の解説から、温泉に流れ、競馬新聞に連載したエッセーの手直しをという趣向でお供した時、一度きりとなった競馬場を体験。教えられてはじめて、100円券の1枚が万馬券となっていたと知ったことなど、思い出します。
夕暮れの奇妙な美しい雲が、シャガールの馬のようだという締めだったか。確かめたくも、あの本もまた手許にはなし。
流されながら、本のそばにいたいと、闇雲にあがいていた頃。
ルキノビスコンティはよく見ましたけど、時間が大切になった今もう一度観る余裕がなくなりました。元々映画好きだった自分が映画も観る余裕がなくなったことに悲しさを感じます。
私は写真を撮ります。
写真の世界もあと少しは多いのですが、裏側を知っていると少し楽です。
写真はそこにあるものを写し取るとよく知らないと思いがちですが、実はちょくちょくウソを付きます。
そこにあって欲しいものを写すからです。
実際にはフレームの外や数秒前に違う姿があるのかもしれなおのだけれども、「そこにあって欲しいもの」を表現するために様々な表現手法を駆使します。
百聞は一見にしかずといいますが、一見すら信じてはいけないのかもしれませんね。
そうか、だからマスコミはウソをつくんだ。