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本が青空の棚から消えてなくなる、という事態は、単に図書が閉架になることでも、禁帯出になることでもない。
著作権法上、データベース上にアップロードしてアクセスだけ禁じる、という形で残すこともできない。また青空であることは館内がないということだから、まさに本を棚から消すことしかできないわけだ。
それは青空の棚の実務に携わる者からすれば、その図書を禁書とすること、あるいはその本を公の場で火にくべることと、ほとんど変わりがない。紙の本ではなく、電子であるがゆえに、もしその日がやってくれば、私は青空の書架から本を消去しなければならないのだ。
そして次の日、その本を読もうと思ってやってきた人に、
「昨日まであった(あるいは、今日からPDになるはずの)本を読みたいのですが、見つかりません。どうすればいいでしょうか。」と、私は聞かれるだろう。
そうすれば、もちろん「もうここにはありません。買って読んでください。」と私は言うだろう。
それにどういう言葉が返ってくるだろうか。
「よかった、お金は持っていますから、買えます」と、相手は言ってくれるだろうか。
それとも、「買うお金がありません。」「そもそも市場に売っていません。」と言われるだろうか。
そこで私はさらに言うかもしれない、「お金がなければ、調達してください。たとえば、働くとか。」と。
そこで「わかりました、がんばって働きます。」と返ってくればよいが、「入手する費用は、とても働いてどうにかなる額ではありません。」と言われるかもしれない。
「ごめんなさい、ぼくは働けないのです。」もしくは「お小遣いが足りないのです。」と言われることもあるだろう。
あるいはこう私は言うだろうか。
「お金がなければ、図書館に行ってください。」
そうすれば「わかりました、行ってみます」となるのか、それとも「近くに図書館がありません。」
「図書館はあるけど、日本語の本がありません。」
「そもそも図書館は、いえ書店も、蔵書もみんな流されてしまいました。」となるだろうか。
それとも、私はこう問いつめられてしまうだろうか。
「そもそもお金が問題ではないのです。その本が、誰でもどこでも自由に読んだり、描いたり、朗読したり、配ったり、変換したり、創作したりできることが重要だったのです。そうでなければ、ぼくには意味がないのです。」
想像してみるべきなのは、将来・現在のパブリック・ドメインを減らすことで、私たちがいったい「誰」から本を奪ってしまうことになるのか、ということだ。
あるいは、本から「誰」を奪ってしまうのか、と言い換えてもいい。青空文庫で作業した人は、本に感情移入することがある。埋もれている今ではほとんど誰も読まない本を、少なくとも私は好きで、それを誰でもいいから誰か読んでほしい、と、まるで自分が本そのものであるかのような気持ちになって、入力・校正することがある。
そういった本も、受け入れることができなくなってしまうのだろうか。
「ぼくが先日お渡しした、あの面白い本、今、棚にはないんですけど、どうなったのですか。」
「あの本、いろんな人に読まれてますか。」
そう尋ねられても、返事ができそうにない。
本が「ここで誰かに会えるかな」と、青空の下で読者を待っている光景を、私は想像する。その本たちを、ある日を境に棚から消さなくてはならなくなる、陽の当たらないところへと返さなければいけなくなる、そんな現場を心に思い描いてみたとき、とても穏やかな気持ちではいられない。
もちろん明日にすぐそうなるという危機ではないのかもしれない。杞憂に過ぎなければ、それで構わない。しかし、何も言わず静かに本を消すことだけは、避けたいと思っている。
そのときまでに、私は青空文庫にあるパブリック・ドメインを、できる限りたくさんコピーしたい。ローカルなPCに、スマホに、タブレットに。あるいは声に、記憶に、舞台上の身体に、マンガに。DVDに、ウェブサービスに、図書館に。
そしてたくさんのパブリック・ドメインに、できるだけ多くの人が出会えるようにしたい。棚にあるデータがなくなったとしても、どこか電脳空間の片隅に残っていてほしい。
海外のアーカイヴにも、もっと青空文庫のコレクションがコピーされないだろうか。著作権保護期間が依然として死後50年の国で、避難民を受け入れるかのように、アーカイヴされたりしないだろうか。
私はときどき、生物としての人類の絶えてしまった地球上で、生き延びたロボットたちが散逸した本をひたすらにアーカイヴしている光景を夢想することがある。ロボットたちは、瓦礫のなかから遺物を発掘し、文字情報を復元する。そのときに記されているのは、紙だろうか電子だろうか、それとも石だろうか皮だろうか。
いや、きっとどれかひとつでも残れば、何でもいいのだろう。焚書の憂き目にあったというティンダル聖書は3冊しか完本が残らなかったというが、それだけあれば、今私の手元にあるような複製版が作れるというわけだ。コピーして、コピーして、コピーして、生き残らせよう。
電子の本が燃やされるかもしれないときのために――曇り空、いや、雷が轟き炎の渦巻く空から、パブリック・ドメインを守るために。
そう言えば、青空文庫のデータを全国の学校図書館に届けようということでCDに焼いた時、同じようなことを考えて、富田さんと「本にして納本してしまえ!」とCDなのに本の体裁を整えたときのことを思い出した。
青空文庫は形のない図書館だから、サイトの消滅とともになくなってしまうかもしれない。
青空文庫の始まった当初、似たような試みは結構たくさんあったように記憶している。その中の一つ消え、二つ消えして、今では青空文庫くらいしか残っていない。
そんな状況を顧みて、自分たちもいなくなる未来を考えて、どこかに証を残したいとデータを扱う青空文庫が本の形を借りて、日本で一番厳重に本の管理をしている国会図書館に自分たちの分身を残そうとした。
文章を書く人間、本を書く人間にとって、書くという行為は生活手段、表現手段と言う以上に、自分の生きた証を残す作業に近いのかもしれない。生死の境を何回もさまよった富田さん故に、その思いは強かったのではないか?と想像している。
70年に延びることと、その他に存在する著作権がある故の問題は独立している。
著作者の中には、自分の生きた証を残すために、自らの意思で著作権の講師を選ばないという道を選ぶものもいる。
著作権の狭間に落ちて、埋もれる著作物を何らかの手段を講じて浮き上がらせることはできないのか?
これらは、著作権の延長とは別の、利用の道だ。
私には道は一つしかないようには思えない。いくつかある選択肢の一つが延長しないことだと思う。
たとえば、青空文庫がもう一歩踏み出すことで、著作権者の了解を得て、「公開する」という権利を行使するための著作権管理団体になるというのもそのひとつだろう。
いま、多くの著作者の生きた証の残したいという権利は、出版不況によって大きく狭められ、歪められている。
そのための一助として、青空文庫が機能するというのもひとつの道なのではないか?
と、私は思います。
[…] 2014年5月22日(木) Checkaozorablog » 電子の本が燃やされるとき本が青空の棚から消えてなくなる、という事態は、単に図書が閉架になることでも、禁帯出になることでもない。 著作権法上、データベース上にアップロードしてアクセスだけ禁じる、という形で残すこともできない。また青空であることは館内がないということだから、まさに本を棚から消すことしかできないわけだ。 それは青空の棚の実務に携わる者からすれば、その図書を禁書とすること、あるいはその本を公の場で火にくべることと…続きを読む みんなのコメント […]
青空文庫さんの存在はずっと前から知っていましたが、ここに書き込むのは初めてです。
TPPの著作権問題は、著作権期間の問題だけではなく、ネット情報全体の規制に関わるとても危険なものだと感じています。
この問題にはっきりと声をあげている個人、団体には大変共感していますし、応援しています。
成果物としての著作は多くの愛する人にとって、いや一人にとっても後世への最大遺物だろう。
空っぽの書棚ほど寂しいものはない。
私の青空の棚には大好きな寺田寅彦で一杯だ。
青空文庫を支持する。