引き算レシピ10 お茶
65

カテゴリー:青空文庫 | 投稿者:八巻 美恵 | 投稿日:2012年11月4日 |

小学校に入ったばかりの私を父が撮影した写真が何枚かある。そのなかの一枚に固定された私は茶の間のこたつに入り、自分専用の湯呑みでお茶を飲んでいる。祖母から母へと伝わったお茶好きをすんなりと受け継いでいるのだ。子供たちにも年に何度か、ふだんのものとは根本的に違うおいしさのお茶をいれてもらえることがあった。新茶だったのか、玉露だったのか、玉露の新茶だったこともありうる。

普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違だ。舌頭《ぜっとう》へぽたりと載《の》せて、清いものが四方へ散れば咽喉《のど》へ下《くだ》るべき液はほとんどない。ただ馥郁《ふくいく》たる匂《におい》が食道から胃のなかへ沁《し》み渡るのみである。歯を用いるは卑《いや》しい。水はあまりに軽い。玉露《ぎょくろ》に至っては濃《こまや》かなる事、淡水《たんすい》の境《きょう》を脱して、顎《あご》を疲らすほどの硬《かた》さを知らず。結構な飲料である。眠られぬと訴うるものあらば、眠らぬも、茶を用いよと勧めたい。
「草枕」夏目漱石

「草枕」の老人が六歳の私に直接こう話してくれたなら、きっときちんと理解できたと思う。あのころから、お茶のせいで眠れないことはない。

抹茶の味を知ったのはおとなになってから。茶道の心得はなくたって、点ててもらったお茶は文句なくおいしい。お菓子も付いているものね。自宅でひとりのときには、抹茶にすることが増えた。それらしい碗に抹茶を入れ、お湯をそそいで茶筅でささっと混ぜる。お茶の味のために茶筅だけは欠かせないと思う。一口飲めば、千利休の「茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて飲むばかりなる本を知るべし」というお言葉をもっとも単純に実現しているような気持ちになる。一杯で満足できなければもう一杯。抹茶や粉茶は飲んでしまうとあとに何も残らない。引き算は成立しないいさぎよさです。インスタントというわけではないのに、お湯さえあればすぐに飲める。旅に抹茶を持っていくのはいい考えだと思う。

そして、お茶に似合う花といえば、だんぜん侘助椿だ。

侘助椿は実際その名のやうに侘びてゐる。同じ椿のなかでも、厚ぽつたい青葉を焼き焦がすやうに、火焔の花びらを高々と持ち上げないではゐられない獅子咲(ししざき)のそれに比べて、侘助はまた何といふつつましさだらう。黒緑の葉蔭から隠者のやうにその小ぶりな清浄身(しやうじやうしん)をちらと見せてゐるに過ぎない。そして冷酒のやうに冷えきつた春先の日の光に酔つて、小鳥のやうにかすかに唇を顫(ふる)はしてゐる。侘助のもつ小形の杯では、波々(なみなみ)と掬(く)んだところで、それに盛られる日の雫(しずく)はほんの僅かなものに過ぎなからうが、それでも侘助は心(しん)から酔ひ足(た)つてゐる。
「侘助椿」薄田泣菫

お茶の木が椿の一種だと判明したのは一八一八年らしい。八世紀には「茶経」が書かれてずっと飲まれ続けていたのに、正体がわかるまで長い時間がかかっている。そんな人間界の事情とは関係なく、お茶と侘助とは同じ椿として呼び合っていたにちがいない。侘助が「心から酔ひ足つてゐる椿」なら、お茶は「飲むばかりなる椿」だろうか。ふたつの椿の取り合わせは茶室の中もいいけれど春先の日の光の下でもよく似合う感じがする。


0 Comments »

No comments yet.

RSS feed for comments on this post. TrackBack URI

Leave a comment

This work is licensed under a Creative Commons Attribution-Noncommercial-Share Alike 3.0 Unported License.
(c) 2024 aozorablog | powered by WordPress with Barecity