クリスマスの夜の話
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カテゴリー:未分類 | 投稿者:ten | 投稿日:2013年12月24日 |

 今朝ネットニュースを読んでいたら、面白い記事に当たった。「天使に翼はない カトリック天使学者の話 」

ラバトーリ神父は天使の「再流行」のためには一般的に広まった天使のイメージは必要だったと認めるものの、クリスマスシーズンに天使のイメージがちまたにあふれかえることには否定的だ。「ある程度は容認できるとしても、あれは真の天使の姿ではないことを知っておくべきだ。天使は翼をもっていないし子どもでもない」

 フランク・キャプラという往年の名監督の作品に「素晴しき哉 人生」というのがある。そこにでてくる二級天使は、200才超えで、しかも「おじさん」の姿をしている。確かに子どもの姿ではない。問題は、一級になると翼がもらえるのだという。翼が欲しいために、ジェームズ・スチュワート扮する主人公を救おうとするのだが。英語検定やそろばんじゃあるまいし、天使に「級」があるとは知らなかった。確かにあっても不思議ではなく、天使とて、なにか目標があれば働き甲斐もあるというものだ。その天使に翼がないとなれば、目標を失うことになりはしないかと余計な心配をする。
 ハッピーエンドの物語。ところが映画はすんなりとハッピーエンドにしてはくれない。ハッピーエンドになるために、キャプラは、主人公に「生きていなければよかった」とクリスマスの夜に言わせる。それを聞いた二級天使は、はたと名案を浮かべる。彼のいない人生を彼に見せることにする。彼は、自分の墓を見つけ、死を自覚させられる。それでも確信できない彼は、馴染みの行く先々で自分が存在しないことを知る。これ以上残酷なことがあろうか。残酷に打ちのめされた彼は、本当に大切なものは何かに気づき、ラストの感動へと一気に進む。

 感動の話の後で申し訳ないのだが、キリスト教に縁のない私は、友達とケーキを食べて、おしゃべりを楽しむという典型的な日本式クリスマスの夜のすごし方をしてきた。
 小学生のころ、一度だけ寝る前に自分の靴下を枕元において寝たことがある。サンタがやってきて、何か入れてくれるのではなかろうかと。当時煙突もなかったし、仏壇の部屋ではサンタも遠慮したと見えて、朝、飛び起きてみても靴下は、膨らんではいなかった。がっかりしていると母は、何も言わず下を向いて台所へ立った。
 夜遅くまで働いている母には、プレゼントを買ってやる金銭的余裕も時間もなかったのだ。
 ところで人間、誰でも「自分は生きていないほうがよかった」と一度でも思ったことがあるのではないだろうか?私は、何度も思った。映画の主人公のように、橋の欄干にもたれるようなことをしなかったのは、「もし私がいなかったら母は?」という思いがわいてきたからだ。母は、どうなるのだろう。絶望の母を思うと私は、人生を捨てることはできなかった。
 母は私と違い、強い人なので、子を失った悲しみを乗り越えていい伴侶をみつけ再婚するか、それとも全く違った人生を送っていたのではないかと最近では思ったりする。
 その母が亡くなって三回目のクリスマス。昨日から遺影は、サンタの赤い帽子を被ってにこやかな笑みを湛えている母だ。
 今晩は靴下を枕元において寝てみようと思う。
 


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