だれもが知っている「カチカチ山」のお話では、狸は人をだます悪者である。心やさしいおばあさんを殺して婆汁を作り、自分は殺したおばあさんに化けて、おじいさんには婆汁を狸汁だといつわって食べさせる。いっぽう兎はその悪者狸の背中に火をつけ、焼かれた背中にはよく効く薬だといって芥子を塗り、さらには泥の舟に乗せて漁に誘い出して溺死させる、人間の味方の知恵ある者だ。
太宰治の「お伽草子」(一九四五)は戦争中の防空壕のなかで五歳の娘に昔話の絵本を読んでやりながら、それらのお話からまったく別個の物語を描き出すという趣向だ。そこでは「カチカチ山」の兎は少女であり「さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男」となる。しかも「狸仲間でも風采あがらず、ただ団々として、愚鈍大食の野暮天」なのだ。狸はいつも空腹らしく、蜘蛛や小虫を拾って食べている。兎にとっては臭いおじさんだろう。狸のお弁当箱は石油缶の大きさであり、兎が「あっ」と言って顔を覆うようなものが入っているらしい。泥の舟で鮒を釣りに行くときにも石油缶大のお弁当箱をまず積み込む。そして舟が溶けて沈みそうになったときにはこう叫ぶのだ。「やあ、沈む。おい、お前どうしてくれるんだ。お弁当がむだになるぢやないか。このお弁当箱には鼬の糞でまぶした蚯蚓のマカロニなんか入つてゐるのだ。惜しいぢやないか。あつぷ!」
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